『チベット高原を旅する』~三人の兄妹の悲劇~

なおち

  1. 「寝てる間にどうしてこんなところへ?」
  2. 「ラサの街中は賑やかなもんだ」
  3. 「兄が私を裏切るわけないもの」
  4. 「大きな湖ね。海なのかと思ってしまったわ」
  5. 「私は姉妹の中で一番下でしたから、お姉ちゃんって呼ばれたことなくて」
  6. 「妹と結婚したのは間違いだったのかもしれない」
  7. 「僕は二人とも愛することができる」
  8. 「オーケストラ?」
  9. 再開①
  10. 再開➁
  11. 再開③
  12. 再開④
  13. 再開⑤
  14. 再開⑥
  15. 悪魔はよく嘘をつく①
  16. 悪魔はよく嘘をつく➁
  17. 悪魔はよく嘘をつく③
  18. 悪魔はよく嘘をつく④

前作『令和の大不況。無職になった若者たちの行く末は……』の続編。

   ~~~高倉兄妹をめぐる物語~~~~

『ナツキ』と『ユウナ』は紆余曲折を経て夫婦となる。
         敵対勢力である自民党により近親婚を大々的に非難され、
    次第にソビエト共産党内で不穏な空気が漂う。

         ナツキは栃木ソビエトから離れるため『チベット』へ旅立つ。
  愛するユウナと共に。そこに何かの答えがあることを信じて。

「寝てる間にどうしてこんなところへ?」

    
        チベットの高原地帯は 標高が3000メートルを優に超える。
  チベットの国土は高原地帯と同等の広さであり チベットとは高原である。

        国土面積は 日本の6倍を超える。
      高原の南東部には ヒマラヤ山脈がある。
         ヒマラヤには 世界一の標高を誇る極地エベレストがある。


※ 

「うーん。頭痛い。兄さん、ここはどこ?」

今作のメインヒロイン高倉ユウナである。

バスの揺れ激しく油断すると舌を噛む。
眠い目をこすり窓の外を見る。異国の景色が広がる。
無限に続く山々を見下ろすこと容易。

空が落ちてきたのかと錯覚するほど雲が近い。一面に広がる雲海である。
平地とは程遠い場所にいることを悟り言葉を無くす。

「よく眠っていたねユウナ。ここはね。外国だよ」

兄が言う。名は高倉ナツキ。今作の主人公。頭痛がするためか顔色悪し。
高原地帯は天空に近いため酸素が薄く容易に高山病を発病する。

高所の山肌を縫い作られた道を走るバス。右を見ても左を見ても山が続く。
天空のバスと呼び変えても違和感を感じず。
気の利いたガードレールなどなく、道路の横は山の急斜面が続く。
運転手がカーブを曲がり損ねたら命はないと思うと血の気が引く。

「ナツキお兄ちゃん。今日は観光日和だね」

と妹のアユミ。長男のナツキ、長女ユウナと次女アユミの三人の兄妹。
いずれも20代の若者。年長のナツキの年齢が
翌月(11月)にようやく29に達する。

チベット有数の観光名所、ヤムドク湖を目指してバスが行く。


※ユウナ

いったい私の周りで何が起きてるのか。目の奥がずきずき痛む。
口を開けないとちゃんと息を吸えない。もう何から何まで意味が分からないことだらけ。

ここが栃木県じゃないのは分かった。那須高原なんて目じゃないほど
でっかい景色が広がっている。一目見て日本の山とは違う。
どこの辺境の地に飛ばされたんだろう。

私は兄さんとワインを浴びるほど飲んでからベッドで愛し合った。
それから記憶が飛んでしまい今こうしてバスの中にいる。
たった一晩で日本から外国へ?

ナツキに限ってそんなことはないと思うけど、夕飯に睡眠薬でも盛られたんだろうか。
それもかなり強めので三日くらいは目を覚まさないくらいの。

「私が代わりに説明してあげるよ」

偉そうな妹、アユミの態度は異国に来ても変わらない。

「兄さんは気分転換に旅行に来たのよ」

「旅行? これが?」

どうやらここは観光バスのようで、
バスの車内から中国語特有の声域の広い言葉が聞こえてくる。
私は北京語や広東語の知識もあるけど、頭痛のためか全く聞き取れない。

「中国の山奥……にしては標高が随分と高い。
 大きな山がひしめきあってるけど、山肌が変ね……。
 山なのに木が一本も生えてないから荒野がそびえ立ってるみたいじゃない」

「ここはチベットだよ」

もし冗談を言ってるんだったら、引っぱたいてやったかも知れない。
私はチベットに興味ないから地理も知らない。
なんとなく高原地帯があると聞いたことがあるから、
間違いなくここがチベットなのだろう。納得した。

納得はした。でも納得できない。何に?
私がここにいることについてよ!!

「たまには気分転換も必要だ」

現地で買ったのか、エキゾチックなデザインの
マフラーをした兄が言う。

「僕らは今まで栃木で生まれ育った。栃木から一歩も外に
 出てないようなものだ。たまにはソビエトの仕事を忘れて異国の地を旅し、
 見聞を広めることは意義のあることだと思わないか?」

外国に来た高揚感からか、兄にアユミが子猫のように甘える。
兄は抱き着く妹の頭を優しくなでては私の頭をイライラと沸騰させる。
私は孤独にも二人とは通路を挟んで向こう側の席に寝かされていたのだ。
私だって兄さんの隣の席でイチャイチャしたいのに。

「ここは職場じゃないだから退屈な言い方をしなくていいんだよ。
 ユウナがかわいそうだから本当のことを言ってあげなよ」

「しかし……タイミングが必要だろ」

「家族なんだから隠し事するべきじゃないって言ってたのはお兄ちゃんじゃん。
 お兄ちゃんが言わないなら私が代わりに説明しちゃおうかな」

アユミがリュックの奥にしまっていた新聞を取り出した。
「プラウダ」
北関東ソ連で発行されている機関紙だ。

社会欄に高倉夫妻を暗に非難する内容が書かれていた。
近親婚による障害児や奇形児の生まれるリスクについて指摘している。
余計なお世話と言いたいところだけど、可能性はゼロじゃない。

兄さんとする時は挿入を避けるようにしている。
避妊具を使っても絶対とは言えないし、
万が一のことを考えたらって思うと恐怖心がある。

ナツキは私を愛撫してイせてくれるから、それで今は十分満足している。
ナツキには私が口でしてあげる。最初はぎこちなかったけど、
最近は上手になったと褒められた。

何時の時代も近親者の恋は否定される。結婚なら尚更だ。
茨城の鹿嶋ソビエトで行われた結婚披露宴であれだけ
多くの同志が拍手をしてくれたのが嘘のよう。

今では板倉の遊水地に本部を置く中央委員達も
プラウダの記事を検閲せずスルーする始末。
私と兄の関係は、党本部から否定されてしまったのだ。

「僕が一番許せないのは自民党の広報部の奴らだ」

私も同感。我々ソビエトに軍事的に完全に敗北した自民党は、
せめてもの抵抗なのか高倉夫妻をあらゆる方法で非難した。
資本主義お得意の電通を利用した宣伝(ネガティブキャンペーン)
で国民感情を大いに煽る。

悪のソビエト帝国、中央委員幹部に近親婚をする者あり。
禁断の恋愛。盛大なスキャンダル。朝日新聞には毎日不愉快な見出しが躍る。
週刊誌ではもっとひどいことを書かれているらしい。

それだけじゃない。資本主義日本では、私達を題材にした
テレビドラマ(テレビ朝日)が高視聴率を記録している。

内容は陳腐だ。高校生の兄妹が真剣に愛し合っているけど、
両親の強い反対にあって家出をするというもの。その後ホテルで
何日も過ごす間に金欠になった兄がコンビニ強盗をして
警察に逮捕される。兄を引き裂かれた妹は嘆き悲しむも、
兄の出所を待つ間に学校で新しい恋に目覚めて真人間に戻る。

私達に対する当てつけなのか、主人公の名前とヒロインの名前は
私達の名前がそのまま使われている。なぜ偽名を使わないのかと
ソ連側から非難するべきだが、なぜか中央委員会(内閣に相当)は静観。

私の職場でも微妙な変化があった。ミウ校長は気にしないようだったけど、
女子生徒の私(教頭)を見る目が明らかに変わった。汚いものでも
見るような目で見てくる。そのくせ悪口でも言おうものなら
拷問されるのが分かっているから態度を隠そうとする。
あいにく私は諜報部でも基礎訓練を受けてる。全部バレてるよ。

「だからって、どうしてチベットを選んだのですか」

「高原地帯は酪農が盛んらしいな。
 我々栃木ソビエトの一次産業の発展のためにも
 各地を回って見聞を広めるべきかと思ってね」

兄さんは嘘をつくときは目が泳ぐ。
きっと日本の国土から逃げられるならどこでもよかったんだ。
ここは標高が高くて航空機でさえ上空を飛べない地域だと聞いた。
なら追手が来る心配もないのだろう。

「逃げたわけじゃないよ。表向きは観光だ。
 観光許可証は本部に提出済みだよ。
 アユミも食糧配給所の仕事にしばらく暇をもらって同行したんだ」

「アユミも連れてきたのはなぜ?」

「私がいたら悪いの?」

兄のひざに頭を乗せるアユミ。
こいつの前世は猫だったんだろうか。
私をにらみつけるので、こっちからもにらんでやった。

「さっきから距離近すぎない!? 私の旦那から離れなさいよ!!」

「ユウナ。ちょっと声がでかいぞ」

兄が唇に人差し指を当てる。

……ものすごく注目されてる。逆にこっちが驚いた。
ここは外国なのだ。車内のおじさんやおばさんが
日本語の音がめずらしいのか、席からちょこちょこと立ち上がり
私達を指さしてくる。外国語で何か言ってるようだ。

「はぁ……。兄さんの言うとおりだよ。
 みっともないことをするのは止めてくれるかな」

鼻を鳴らしたアユミが席を立ち、英語で謝罪をした。
『アイムそうりぃ イトワズナシンぐ エブリバディ』

「兄さんはユウナに別れ話がしたいんだよ」
「えっ」
「目的地に着いたみたいだよ。降りてから話をしようか」

駐車場はそれなりに広かった。観光バスが5台も並ぶ。
こんなにバスがいたんだ。私達の他にもたくさんの観光客が降りてくる。

日差しが強すぎるっ!!
お肌の大敵、紫外線!!
9月の末でこんなに暑いとは。
私は厚手のヤッケ(ウインドブレーカー)のファスナーを全開にした。
すると乾ききった冷たい空気が入り込んで震えてしまう。
体温の調節が難しい。空気が薄すぎて頭がぼーっとするから冷静でいられない。

ここは山の頂上にある展望台。
万里の長城みたいにレンガ造りの壁で囲まれている。
立派な石板には、チベットの言葉で何か書いてある。
観光地の名前なんだろうか。
兄がここは標高5000メートルなんだよと教えてくれる。
あはは……。どおりで空の塊が真上に見えるわけだ。
でっかいワタアメなのかと思ったよ。

露天商が待ってましたとばかりに声をかけてくる。
長机に広げた真っ赤なシート(じゅうたん?)の上に、
金銀で装飾された美しいアクセサリー、食器、民族衣装が並ぶ。
本当に珍しい物ばかりだ。ヤクや牛のぬいぐるみまで値札が付いている。

私は外国のものは何でも興味があるので、ここが地上だったら物欲がわいたことだろう。
他の観光客はどんどん品物に触れては値段の交渉をしていく。
香港系、韓国系、タイ系と思われる雑多な言語が飛び交う。
商売なら当然英語は通じるだろうから私も加わろうかなと思ってしまう。

この人たちは私達と同じ東アジアの人種なのか、見た目では
日本人とそんなに変わらない。着ているジャケットやズボンも
赤や黄色の原色が目立つ。栃木の日光にいるアジア系の観光客とほぼ同じだ。

私達の近くいる中国系と思われる中年の夫婦は、
デジカメとスマホで湖の写真を撮りまくる。
興奮しているようで早口で何か言っている。声が大きい。

兄とアユミも肩を並べて眼下の湖を眺めている。

「壮観だな。山と山に挟まれた場所に湖があるとはね」
「ここから見ると小さく感じられるね。標高5000メートルの湖か」
「これが天空の湖。ラピュタみたいな世界だね」
「ああ、そうだね。あんまり身を乗り出すと危ないからこっちにおいで」
「うん」

          ・ヤムドク湖

   中華人民共和国、チベット自治区、山南市ナンカルツェ県にある湖。
   ナムツォ(納木錯)、マーナサローヴァル湖と共にチベット三大聖湖と呼ばれる。
                                ウィキより。

二人は仲良く壁部分のレンガに肘を乗せている。兄さんったら、
アユミの肩を抱き寄せちゃって。一体何を考えているんだろう。

「ユウナもこっちに来いよ」
「その前に訊いてもいいかしら」
「うん」
「兄さんはアユミと浮気するためにチベットに来たの?」

兄さんはそっぽを向いた。なによ。その態度は!! 

腹が立ったので兄につかみかかった。
アユミが邪魔してきたけど軽く払いのける。

「私達は正式に夫婦にな…」

「この景色を見ろ。僕たち人間はこんなにも小さな存在なんだって
 思わせてくれる。数万年前から存在する大自然からしたら、
 人間は蟻みたいな存在なんだろうな」

「ふざけるのもいい加減にして。こういうの大っ嫌い。
 はっきり言って。アユミに弱みでも握られてるのね?」

「みっともないからやめなよ!!」

アユミが間に割り込んで私を払いのけてきた。

「全部言わないとわからないの?
 ナツキ兄さんはユウナ姉さんのことを初めから愛してなかった。
 ユウナと結婚したのはその場の流れに乗っただけ。あの時は
 栃木ソ連と日本が戦争していたから正常な判断ができなかった。
 ただそれだけのことだよ。今兄さんは本当に自分が好きな人が
 誰なのかをよく理解しているはずだよ」

「その相手があんただって言いたいの?」

「文句ある?」

「妹のくせに実の姉から旦那を奪おうだなんて正気とは思えない。
 どんだけ私を怒らせたら気が済むんだよ。いっそぶっ殺してやろうか!!」

アユミの襟(えり)をつかんで山の斜面へ落としてやろうとした。
必死に抵抗するアユミが私のジャケットを引っ張って体重を支える。
兄が仲裁に入って事なきを得たけど、本当にこいつを殺してやりたいくらいに憎かった。

つーんと肩に痛みが走ると急に頭が重くなり、意識が一瞬飛んだ。
アユミと喧嘩したせいで酸素を吐きすぎたのか、
今度は胸がムカムカしてもどしそうになる。息が苦しい……。

「高原地帯は酸素が薄いから怒鳴ったりしたらだめだ。
 優菜の分もたくさん買ってあるから、これを使え」

兄さんのふくらんだリュックの中から携帯式酸素が出てきた。
スプレー缶で口に含んで使うタイプだ。チベット旅の必需品なのだという。
まるで過呼吸で苦しむ一昔前のアイドルだ。酸素を吸うと、体がふっと軽くなる。

面白いことにアユミも同じことをしていた。
兄さんがアユミをひざに乗せて介抱してるのが悲しかったけど。

バズはラサに続く街道を走る。街道と言っても山肌を縫うように
ぐるぐる回りながら進むわけで遠慮のない揺れと戦う。
日本の舗装道路なら山道でも快適だった。ここは全然違う。

森林限界の標高では山の斜面は木が生えないのがすごい。
地面がそのまま数千メートル盛り上がっているみたいだ。
漫画やゲームでもないのに草木が一本も生えない世界がここにある。

兄さんが日本から持ってきたポッキーの袋は限界まで膨らんでいる。
高所は気圧が低いためこうなるらしい。
ああ……改めて私たちは極地に来てしまったのだ。

「ユウナ。具合は大丈夫か? 
 もうすぐホテルに着くから辛いなら寝てなさい」

寝られたら苦労しないよ。バスが走れば走るほど吐き気が強くなるし、
なぜか肩こりもするんだけど。すすめられたポッキーも断った。
全然食欲がない。真剣に日本に帰りたい。

チベットって、いるだけで修行みたいなもんじゃない。
食事だって日本とは全然違うのが出されるんだろうし、
もう何から何まで最低。昨日まで文明社会で生きていた人間が
いきなり世界の果てまで来させられて愉快なわけがない。

あと後ろの席のおばさんたち、うるさい。
シナ・チベット語族のアクセントが騒がしくて不愉快。

やば……まじで吐き気が収まらない。
きっと鏡で見たら青白い顔になってると思う。
そういえばお化粧をしてないんだった。
だって化粧する暇なんてなかったもの。

「まじやべー景色……っげえ」「……君は、高山病にならないんだね」

え……?
私の聞き間違えじゃなければ日本語が聞こえる?
間違いない。これは完全に日本語だ。
同乗者の中に日本の人が混じっている?

私は席を立ち見回したかったけど、具合が悪くて諦めた。


ラサの市街地は、中国の地方都市と言った感じだった。
石造りの真っ白な家や商店が連なり、道路には街路樹も植えてある。
町の一番目立つ山にポタラ宮って名前のお城があるようだけど、
今の私にはどうでもいい。

吐きそうなのを我慢していてもう駄目だと思っていたけど、バスから降りたら収まった。
駐車場には英語の看板があり「標高4200メートル」と書かれている。
こんなのバカみたいだと思わない?
わざわざ旅費まで払って高山病にかかるなんて。

「ユウナは自分で歩けるか? アユミの具合が悪いんだ。
 僕はアユミに肩を貸して歩くから着いてきてくれ」

へー。アユミの具合が悪いんだ?
その割には私の旦那の腕をしっかり組んでるし、
心なしか足取りが踊るように見えるのは気のせいかな。

こいつはどんな時でもナツキと一緒じゃないとダメなのか。
ナツキ専用の磁石になってしまったのか。
彼に密着しないと死んでしまう信仰上の理由でもあるのか。
妹のくせに。後ろからぶん殴ってやりたい。
私は自分が年長者だからっていばるつもりはないけど、昔から生意気で
働きもせず家で遊んでいるこいつを面白く思っていなかった。

ホテルでのチェックインを英語で済ませる兄。
我が旦那ながら惚れ惚れするくらいのクイーンズ・イングリッシュの発音。
兄は幼少時代はカイロ英国学校で育った。
日本人でこの発音ができる人に私は出会ったことがない。

「ここが僕たちの部屋だ」

名前はタシタゲホテル。ありふれた西洋風デザインの部屋だ。
部屋の中央にベッドが鎮座する。テレビと調度品の置かれた棚、
洗面台とトイレがある。壁や天井は白い。
床にはペルシアじゅうたんが敷かれている。

ベッドは二つしかない。兄とアユミが同じベッドを使うという。
なんで? もう死ねよ。

「もうすぐ夕食の時間だが、ユウナは食欲はあるか?」
「あるわけないでしょ。頭痛いし疲れたから眠りたいんだけど」
「わかった。邪魔はしないよ」

兄は私に布団をかけてくれた。そしてアユミと手を繋ぎ廊下へ出てしまう。
こらこら。何勝手に二人きりになってんのよ。まだ時間があるので
夕方まで町中を歩き回る? ふざけるな!!

私は気力を振り絞って兄に文句を言おうとしたが、バタンと扉が閉められてしまう。
ナツキったら、よりにもよって実の妹と浮気してるのね……。私もあなたの
妹の一人ではあるけど。私はこんな屈辱を味わうためにチベットに来たのだろうか。

イライラするけど、ようやく眠くなってきた。寝よう。

「ラサの街中は賑やかなもんだ」

        ・チベットのラサ

  吐蕃(とばん)時代の7世紀に成立した、チベットの古都。
       古くからダライラマの時代まで政治的、文化的な中枢。

  チベット、モンゴル、満州などの諸民族から構成される
      『チベット仏教文化圏』の中枢でもある。
  
   チベット語
   「ラ(lha)」は 神(デーヴァ、仏、王)を
   「サ(sa)」は 土地を意味し、すなわち「神の地」を意味する。

  吐蕃(とばん)時代の中国の文献には「邏娑」あるい「邏些」の名で記される。
  一年を通じ晴天が多い事から『太陽のラサ (nyi ma lha sa)』とも呼ばれる。

                           wiki より抜粋

※ナツキ

下の妹のアユミは本当に磁石みたいだ。
ラサの街にいても僕から決して離れない。
あそこに服屋さんがある、靴が売ってるなど指をさして僕を同行させる。
僕のヤッケにはアユミの髪の匂いが完全に染み付いてとれないほどだ。

僕は高校生の時からアユミのことが好きだった。性的な意味でだ。
変態なのは自覚しているが、好きなのだから仕方ない。根拠はないが高倉家は
代々こんな家系だったのかもしれない。親戚にはなぜか障害児が多い傾向にあるからね。

「顔暗いよ。私と一緒にいるのはつまらないの?」
「……そんなことないよ。少し疲れていたからそう見えたんだろ」
「ユウナのこと心配だね?」
「ああ」
「見て見て。この民族衣装、派手な色で結構かわいい。
 子供用かもしれないけど、私でもまだ着れるかな」
「アユミなら何を着ても似合うんじゃないか」

適当な返事だったからか、アユミの頬がふくれる。
ここが日本だったら、微笑ましく感じられたことだろう。
誰が好き好んで標高4000メートルの大地に腰を下ろすものか。

「ユウナとは別れてくれるんだよね?」

またこの話題だ。答えようがなく沈黙する。

「離婚するのに抵抗ある? 今時好きでもない相手と我慢して暮らすなんて
 ナンセンスだよ。お兄ちゃん、難しく考えすぎ。ユウナは怒るかもしれないけど、
 時間がたてば忘れてくれる。きっと大丈夫。何も心配ない」

簡単に言うんじゃないよ。
そもそも大問題なのは僕がユウナを嫌っていないことだ。むしろ愛している。
アユミは何度否定しても好きでもない相手と言い張りたいようだが、
好きでもないのにプロポーズを受け入れるわけないだろ。
実の妹から求婚されたなんて今思い出すと気恥ずかしくもあるが。

「……またその顔。全然納得してないじゃん」

アユミのほっぺたが再び膨れる。
24歳の女には見えないくらい可愛らしくあるのだが、
実はこの仕草はアユミが本気で怒っている証拠だ。

「ほらこれ。見て」
「うっ……ここは往来があるんだぞ。そんなのも見せるんじゃない」
「でもナツキお兄ちゃんには見て欲しいから。全部お兄ちゃんのせいだから」

アユミの左の手首には無数の刃物の傷跡がある。
いわゆるリスカ(リストカット)だ。カッターナイフで繰り返し手首を
切りつけ実際に出血もしたらしい。きっかけは僕とユウナが夫婦になったことだ。

この子はそこまで僕のことが好きなようには見えなかったから油断していた。
どちらかというと、僕の方からアユミに夜な夜なセクハラをして困らせてる側だと
思っていたのだが、まさか全く嫌がっていなかったとは。
結婚後、僕がアユミの相手をしてやれなくなる。当然のことだが。
アユミはそのことでさみしさを感じていたようで、自分で自分を慰めるだけでは
満足できなくなり、何を思ったかリスカを始めてしまった。

恐怖のリスカ写メが僕の携帯に送られるようになると、
その思いの強さに鳥肌が止まらなくなる。無数の切り傷から
真っ赤な血が浮かぶ。これが本当に人間の腕なのかと思った。

『治療費はお兄ちゃんが出してくれるんだよね?』

美容外科に同行させられる。5センチの切り傷を治すために5万円……。
傷は一つや二つではないのだ。しかもソ連の医療保険制度が適用されない。
なぜなら建国間もないソ連内には美容整形なる医院が存在しないため、
(独立前は存在したが医者が全員日本へ逃亡した)わざわざ資本主義日本から
医師を招集したのだ。そのため保険の適用外で全額支払わされた。総額は43万だった……。

そもそも人に自傷行為を見せつける意味は?
自己顕示の一種か。自分の不幸さをアピールすることで同情を誘いたい。
自分を肯定されたいと思う。小6病の一種なのだろうかと思ったが、少し違うようだ。

「ここなら人目がないから、目を閉じて」
「うん」

路地裏に誘い込み、キスをする。
ここだって人目が全くないわけじゃないだろう。十分に周囲を警戒する。

夕方の町は今日の最後の賑わいを見せる。
主夫は買い物に行く。学生は勉強や遊びを終えて家に帰る。
こういう雰囲気は日本と同じなんだなと和んでしまう。

「もっとして」
「わかった」

アユミは僕に正面から密着し、顔を真上に向けている。
ずっと目を閉じたままで僕にされるのを待っている。いつもこうだ。
僕は結婚後にアユミのことが心配になり実家に帰ると、
アユミは一人で夜寝るのがさみしいからと僕におねだりをする。

妹は僕からされるのを好むようで、僕に愛撫されるのを
期待してずっと待っているのだ。受け身タイプ?という奴なのだろう。

ジーンズ越しに尻のふくらみをなでて、ぎゅっと握った。小ぶりで形がいい。
身長が低いので足は決して長くはないが、細身で太ももが引き締まっている。
昔はこの子のお尻が大好きだった。だがチベットの首都に来てこんなことは
したくはない。僕がしているのは完全に浮気なのだから。

「お兄ちゃんは、私のものだよ」

僕は口を閉じ、ホテルへの道を歩いた。


※寺沢アツト

やべえぞ……。なんで同志閣下達がラサの街にいるんだ?
俺と内縁の妻のルナ(正式に婚姻届けは出してねえ)は、モンゴルでの
遊牧生活にも飽きちまったんで、中国の西南から空の便でチベットに来たんだが、
まさかヤムドク湖行きのバスで一緒になるとは。

俺らは高山病よりボリシェビキの方が怖いんで、バスから降りて
目立たねえところで待機していた。その後のバスの行き先も全く同じで
ホテルまで着いた時には鉢合わせしねえように細心の注意を払ったぜ。

俺らはすぐに別のホテル(ポタラ宮があるマルポリの丘、すなわちメインストリート
から外れた場所)にチェックインした。安い宿なんで夕飯がでねえ。
仕方なくこうして三重の環状礼拝道路になっているメインストリートへ
来ているわけだが、ナツキさんとアユミちゃんが路地裏でキスしてる現場を目撃。

ルナが大きな声を上げちまったもんで、アユミさんと目が合ってしまう。
俺はルナをわきに抱えて遁走する。

奴らがここにいる理由なんて知ったこっちゃねえ。
俺らは孤島事件の秘密を水谷の姉に知らせちまい、
その旨を親切にもユウナさんに送ってしまった(前作参照)

調子に乗り散々ふざけた文章にしちまったから殺されても文句は言えねえ。
良くて拷問の末、埼玉の強制収容所送りか。
(埼玉ソビエトには炉を使う製鉄工場の絶滅収容所あり)

「同志よ。逃げるなんてつれないじゃないか」
「あががが……いてえ……ぎぶ……まじギブっす……」

同志ナツキ閣下は運動神経に優れる。俺に5秒もしないうちに追いつき
足払いをした。顔面から倒れて鼻血を流す俺を路地裏に引き込み、警察のように
腕を取って押さえている。妻のルナは、アユミさんに取り押さえられた。
ルナは戦いとは無縁のおとなしい女だ。アユミさんに腕を握られただけで涙目。

おいおい。どうなるんだこれ!?

「かつての同志、寺沢アツト。貴様は寺沢アツトだ。間違いないな?」
「はいっ……」
「ここがソ連の領土内なら、君は収容所送りだ」
「う……」
「しかし運が良いな同志。ここはチベットである。そして私は一観光客として
 ここに来ている。貴様はなぜここにいる? 理由を述べよ」

嘘でもつこうものなら銃殺されることは確実だ。
この人は裏切り者を殺すことにためらいがねえ。
海外に逃亡した俺様は晴れて反革命業者ってわけか。

「お、俺も観光っすよ。妻のルナも世界各地を回りたいって言ってるんで、
 とりあえずアジア全域を制覇しようかなとここへ」

「そうなのか? 同志飛鳥ルナ」

「はいっ!! 間違いありません。同志っ!!」

ルナの奴、子犬のように震えてやがる。

「異国の地で日本語が通じる人間がいるのは貴重だ。
 僕たちはチベットに不案内だ。貴様ら二人は僕たちに旅の案内をしろ」

「な……なんて言ったんですか? 旅の案内っすか?」

「そうだ。拒否権はないぞ同志よ!!」

俺が言うよりも早く、ルナが「喜んで案内させていただきます」と涙声で叫ぶ。

そうは言うがな、そもそも俺らだってチベットに来たのは初めてだっての。
確かにモンゴルではウランバートル周辺をさまよい、その辺の遊牧民に頼んで
二週間の酪農体験をしたり、中国の成都で寺院やら宮殿やら巡ったがな。
ルナは歴史のある建物には目がねえからよ。
俺が一番驚いたのは、本場四川ラーメンの店で狗(いぬ)味のスープが
存在したことだ。可愛いワンちゃんのダシを使うとは鬼畜すぎんだろ!!

おっと話が脱線したな。

「さささっ、さっそく計画を立てさせていただきますっ!!
 明日からでよろしいでしょうかっ!! 同志閣下達はどこか
 行かれたい場所などありますでしょうか!!」

「ないから頼んでいるのだ。コースは君たちが考えたまえ」

俺の妻は観光案内をまじめにやってくれて助かるぜ。
ルナは上下ともに軍人みたいにカーキ色で統一された
色気のない服を着ている。腰にまで垂れていた長髪をセミロングまで
切ってから、邪魔にならねえよう右の肩にまとめて垂らしてる。

海外の生活の刺激がそうさせるのか、ルナは毎日綺麗になっていく。
クリスタルをはめたような大きな瞳、長いまつ毛が綺麗だ。
妻は突けまつげとしなくても素でまつ毛が長い。
背丈も結構あって160は超えている。少し太り気味で
腹は出ているようだが、日本人の基準なら十分美人だろうよ。

ルナはスマホで必死に観光名所を調べている。

「同志閣下っ。ここラサから西へ鉄道で3時間。チベット第二の都市
 シガツェがございます。こちらはダライラマとゆかりのある寺院が
 並び、歴史と教養を身に着ける意味でも大変におすすめのスポットでございますっ!!」

「鉄道の旅か……。悪くはないが、高山病のユウナに3時間は長くないか?
「ユウナ閣下がご病気だったのですねっ!! 配慮が足らず申し訳ありません!!」

ユウナちゃんの具合なんて俺らが知るわけねえがな。

「でしたらラサ市内でも有数の観光地がございます。
 メインストリートにそびえ立つあそこの宮殿が…」

「ポタラ宮殿だろう? 
 雄大で素晴らしい建造物だとは思うが、ずいぶんと高さがあるようだ。
 あそこを登るのは相当難儀するのではないか?」

「ええ。それはもうっ。なにせ山を切り抜いて作られた宮殿ですから。
 石造りの道路が弧を描くように長々と続き、そこを昇って宮殿を目指します。
 スマホの情報によると、現地の人ですらゆっくりと昇らないと酸欠で
 倒れるとのことで……」

「君は僕を馬鹿にしているのかね!!
 そんな登山みたいな観光地にユウナを連れて行けるか!!
 我々日本人はただでさえ高所が苦手で高山病にかかりやすいんだぞ!!」

「すみませんっ。すみませんっ。同志閣下。直ちに他の案を考えますっ」

ラサだって標高4200メートル。チベット高原はどこへ行っても
こんなもんだ。上手に呼吸しねえと顔が真っ赤になってぼーっとしちまう。
マラソンを走り切ってはぁはぁするだろ? あれに吐き気が加わる感じだ。
つまり地獄だよ。一度病気になったらベッドで休むしかねえ。

だいたい外を歩こうにも日光がやべえぞ。
現地で酪農やってる連中なんて肌がガビガビに乾燥しまくって、
14歳の女の子が老婆みたいに見えちまうんだからよ。
肌が真っ黒に焼けちまってて恐ろしかったぜ。

俺とルナはモンゴルでの経験から、つばのある帽子と
サングラス、日焼け止めクリームは必需品としている。
目もしっかりと守らねえと将来病気が怖えからな。

俺のリクエストが通るなら、
天空の鏡チャカ塩湖(茶卡盐湖)ってとこに行きたいんだが。

チャカ湖は、中国青海省の省都西寧市ってとこにある。
ラサから青蔵鉄道に乗って22時間くらい走る。つまり丸1日だ。
鉄道だからって楽な旅じゃねえ。世界一標高の高い場所を走る鉄道だ。
ちなみに寝台列車な。飯のサービスもあるぞ。

西寧はチベット高原(チベット自治区)と
黄土高原(中国)に挟まれている。チベット族を中心に
異民族が行き交う街なので逃亡するのに役立つぜ。

「結局明日はホテルで1日休んでいるのが最善だとは!!
 君はまともな観光の提案すらできないのかね!!
 まったく君と話してる時間は無意味だったというわけだ!!」

「すみませんっ。申し訳ありませんっ同志っ……うう……」

マジ泣きしてる妻をそっと抱きしめてやりてえ。
つーか高山病の人間が身内にいるなら初めから観光は諦めろよ。
ナツキ殿は馬鹿なのか? 短気なようには見えねえが。
ただ単に旅のストレスを発散したかったんだろう。
人の妻をサンドバッグの代わりにするのはやめていただきたい。

アユミさんは首を垂れ「はぁ」と深い溜息を吐いた。

「ナツキお兄様。もうその辺でいいでしょ」
「う、うむ。少し熱くなりすぎたのかもしれん」

アユミさんは、ぽんぽんと俺の妻の肩を叩いて励ましてくれた。
良い人じゃねえか。なんでさっきはナツキ殿と隠れてキスしてたんだ?
「孤島作戦」の時は俺らの前で盛大なファックシーンを披露してくれたってのによ。

「ところで君たちはどこのホテルに泊まるんだね?」
「俺らは郊外の安ホテルっすよ」
「それはいかん。僕たちと同じホテルにしなさい」

それが嫌なんでわざわざ別のホテルに料金を払ったわけですが。
ルナがかわいそうなくらいに脅えてるんで従うしかない。
飛び入り参加になるわけだが、部屋空いてるのか?

「ちょうど僕らの隣の部屋が空いてるようだぞ。すぐに手続きしろ」
「うっす。わかりましたよ……」

「飛鳥ルナ君は妹達の愚痴を聞いてあげるように」
「はい……? 愚痴でございますか?」 

「女性には女性同士でしか相談できないことも多々あろう。
 妹達もいろいろと悩みを抱えてこの旅をしているのだ。
 あの子達の悩みを聞いてあげなさい。これは命令だぞ同志よ!!」

なんで俺の妻がそんなことしなきゃならねえんだ。
友達じゃねえんだぞ。

「わかったなら返事をしなさい同志よ。
 まさか不服ではあるまいな?」

「めっそうもございませんっ!! 
 喜んで妹様の相談相手とならせていただきますっ!!」

なんとなくだが……相談内容が読めてきたぞ。
心配なんで俺も一緒に行くか。

「兄が私を裏切るわけないもの」

         『ラマ教』 チベット仏教に対する俗称。

  インド仏教の正統を継承するものであるが,この俗称のために異端もしくは
     変容のはなはだしい仏教であるかのように誤解されている。
 
       ラマbla maは〈師〉を意味する。
             〈ラ〉は〈生命の根元〉をいう名称。
             〈マ〉はそれを託された人の意味。

         密教ではとくに師と弟子の密接な関係を重視するところから,
         チベット仏教の特徴と誤解され,また,中国でチベット仏教の僧を
        〈剌麻(喇嘛)〉と呼び慣わしたところから,日本でもこの呼称が一般化した。               
                                 世界大百科事典より

第二次大戦前、ナチスの高官ハインリヒ・ヒムラーや
地質学者カール・ハウスフォーファーはラマ僧に深い感銘を受けた。
その思想的影響はヒトラーにまで及ぶ。チベット仏教を初めとした
アジア各国の仏教の影響で逆向きの卍で有名な鍵十字のマークを作るに至る。

ナチスは古くからチベットに注目して探検隊を派遣していた。
チベットには幻の理想郷シャンバラが存在するとされ、
ナチスが優越民族としていたアーリア人の起源であり、
祖先がシャンバラに住んでいると信じられていたのだ


※飛鳥ルナ

なんか上の方にナチスの話と書いてあるけど興味のない人はスルーしてください。
私は純粋にチベットの歴史に興味があって寺院巡りをしたいのであって、
ナチスのオカルト趣味に興味ありません。そもそもドイツに興味ない。

私はホテルのチェックインを済ませて部屋に荷物を置いた。

1階の食堂で提供された夕食のメニューは、「モモ」 チベット風の餃子。
これは日本のインド料理店でも提供されるので知ってる人は多いはず。
チベット風の回鍋肉「シャプタ」 水をきって固くなるまで炒めた豚肉に、
トマトと玉ねぎをパリパリに焼いて添える。味付けは辛めだけど、四川料理に比べたら余裕。

あっちの料理は辛すぎて涙が出てしまうから慣れるまで大変だった。
他にはキクラゲを入れたサラダとか、中華風のメニューが多かった。

ご飯も食べられた。日本のコシヒカリと違って硬いけど普通に食べられる。
飲み物はチャイ(濃いミルクティー)でお替り自由だった。

モンゴルの食事に比べたら楽勝。モンゴルで遊牧民に出された白い食事
(乳製品中心で乾燥チーズや馬乳酒など)に比べたら普通に噛めるだけでも満足かな。
アーロールは固すぎて歯が折れるかと思った。保存に適した乾燥チーズとはいえ、
あそこまで硬くする意味があるんだろうか。馬乳酒も独特の臭みがあって苦手だ。

今夜はボリシェビキご姉妹の皆さんとご一緒させていただいたものだから、
ゆっくり味わう暇もなかったのだけど。

食事を済ませた後は部屋に戻る。ここからが私の仕事だ。

「改めて挨拶させてもらうわ。ごきげんよう。ルナさん」
「は、はい。同志閣下っ……」

ユウナさんは高山病が治ったのか、元気そうだ。
そして私を怖い顔でにらんでいる。私とアツトさんはボリシェビキを
裏切ってモンゴルへ逃亡した。ソ連なら極刑のところを、ユウナさんが許すわけがない。

私達はテラスで夜の風(寒暖の差が激しく9月でも寒い)を浴びながら話をしていた。

「兄さんから聞いたわ。あなたは私の悩み相談役なんですってね。
 私の言い分をたっぷりと訊いてもらうからね」

ユウナ閣下は別人のようにやさぐれている。
永遠と続いたお話は、最初から最後まで妹様の悪口で占められていた。
同じ話を何度も繰り返すので暗記できてしまうほどだ。

一番根に持ったのは、新婚旅行の時。
優菜さんたちは海なし県の出身のため、栃木ソ連領内の茨城の沿岸にしようと、
大洗にあるリゾートホテルに予約を入れる。するとなぜか三人分の料金を払うことになった。
アユミさんが参加することになっていたのだ。

新婚旅行なのに……なぜアユミさんも。わけを兄上に訊くと
「アユミも一緒に行きたいって言ってたから」とのこと。ユウナさんは激怒した。
その後こっそりと旅行先を変更してもアユミさんは瞬時に察知して妨害する。

休みの日もアユミさんは夫婦のマンションに顔を出して食事を一緒にとる。
そして夜遅くまで帰らない。SNSのやり取りにも顔を出した。
夫婦二人だけのラインは、兄妹三人のグループトークとなり、アユミさんが
参加しない状態での会話を禁止された。これにも当然ユウナさんがブチ切れるが、

「アユミがそうしたいって言うから」と兄は言う。何かを諦めたような顔だったという。

ユウナさんの怒りは、妹を図に乗らせる兄に向けられていたが、次第に妹本人へと移る。
ある祝日、お昼をお邪魔しようと玄関のチャイムを鳴らすアユミさんに対し、
バケツの冷水を浴びせてやった。アユミさんは買ったばかりのワンピースを台無しにされた怒りで、
キッチンから包丁を持ち出して姉に襲い掛かった。

今まで幾度も喧嘩を繰り返してきた高倉姉妹でも、今回ばかりはシャレにならない。
優菜さんは腕に軽い切り傷を負うが、お返しにゴキジェットをアユミさんの顔面に噴射。
あやうく失明しかけたとう。ユウナさんが床をのたうち回る妹にとどめを刺そうと、
包丁で背中を刺そうとした時、ナツキさんがユウナさんの顔を力強く叩き、床へ突き飛ばした。

急いでアユミさんを病院に運ぶ。真水で目を洗い流す以外に治療法はなく、激痛と戦うことになる。
傷が癒えてからは、「やっぱりお兄ちゃんは私を助けてくれた。大好き。愛してる」とアユミさんは
ますます兄に甘えるようになってしまう。ナツキさんの、アユミさんを救おうとする意志の強さといったら。

「ひどいと思わない? 妻の私だって腕に傷を負ったのよ。
 もう治ってるけどさ、当時は血だって出ていたんだから」

「ナツキさんの言動は、妻であるユウナさんに冷たいですよね。
 アユミさんに弱みでも握られてるかのようにも感じられますけど」

「兄は昔からあんな感じよ。アユミばっかり甘やかして。
 認めたくないけど今でもアユミのことが好きなんでしょ。
 でも今は関係ないわ。ナツキは私を妻として選んだのだから」

この人の主張はソ連の法律的(私は知らないけど)にも間違ってないそうだ。
別に日本の法律だとしても間違ってはいないと思う。でも夫婦には子供がいるわけでもないし、
離婚しようと思えば簡単だ。ナツキさんが二番目の妹を選べばいいだけなんだから。

お二人はご夫婦になって1年足らず。私とアツトさんと時期は同じだ。
私も今では夫と世界を旅する生活を送っている。愛する夫に裏切られた
ユウナ様の話には同情してしまうけど、実は私も結構ストレスが溜まっている。

私がこの話を聞いてずっと思っていたことは、どうしてチベットの宿にいて
日本のつまらない話を聞かされているかということ。しかも昼ドラの安っぽい脚本。
こっちは日本のことを忘れたいから海外に来ているのに。
バカらしいけど粛清されないだけでも感謝しないといけないから、話を聞いてるふりはしないと。

私は夜遅くに自室に戻り、ビールを飲もうとしたけど、
明日の観光に支障が出るからとギリギリで思いとどまった。



※ アツト

「で、君はどう思うんだ?」
「いや、どう思うって言われてもっすね」
「アユミの件をどうすればよいのかと聞いているのだよ!!」

テーブルを拳で叩くナツキ。この野郎は酒が入ると粗暴になる。
「ヒラヤマンレッド」って名前のビールを浴びるように飲んでやがる。
つまみも食べねえし、水も飲まないときたもんだ。
体に悪そうだが、止めるわけにもいかねえしな。

俺はナツキの部屋に呼ばれて酒盛りに付き合わされている。
アユミの件をどうするかって話なのに、ナツキの隣には当たり前のように
アユミ本人がいるから吹くぜ。このお嬢さんもそろそろお兄ちゃん離れしたらどうだい?
自分の話をされてるのに、まるで関係ねえって顔で、ナツキの膝の上で甘えてやがる。
猫属性なのか? 何度見てもとんでもねえ美少女だ。まず成人してるように見えねえ。

「仮に離婚話をしたところでユウナさんは認めねえでしょうね。
 かといって夫婦生活を続けてもアユミさんが自傷行為しちゃうから心配っすよね……。
 うーん。いっそ二人まとめて結婚するっていうのは?」

「ダメに決まってる!! 妻が二人もいるなんてけしからん!!
 実にけしからん!! それは女の子の気持ちを踏みにじる最低の行為ではないかね!!
 僕はハーレムラノベの主人公じゃないんだぞ!!」

実際にハーレムだろうが。俺だったら日替わりで抱いてやるぜ。
でもよぉ。妹相手に欲情できるもんなのか? 
俺も妹が一人いるけど妹の裸なんて母親と変わらねえぞ。
下着なんて触りたくもねえ。

「私は、お兄ちゃんがいないと生きていけないのです」

あん?

「同志アツト。聞いてください。兄は幼い頃の私をお風呂場で無理やり襲ったの」

今の話を要約するぜ。ナツキ殿は、
当時中学に上がったばかりのアユミにセクハラを繰り返していたそうだ。

そのためアユミは本格的に性に目覚め、兄を異性として意識するようになった。
自分の方は好きなだけ妹にイタズラしておいて、飽きたら捨ててユウナさんと結婚する。
だから最低野郎って理屈らしいが……。なんか釈然としねえんだよな。

いや解決法はあるぞ。アユミがすっぱり諦めればいいだけだ。少なくとも兄は
優菜を選んだし、結婚式にもアユミは呼ばれたわけで、公の場で姉の婚姻を
祝っているわけだぞ。むしろこの問題は、元凶は諦めの悪いアユミじゃねえのか?

「お兄ちゃんが私を捨てるなんてことは絶対にないよ」

狂気に満ちた目で言うアユミ。やはり泥沼か。
こいつの目つきはまじでイっちまってる。ナツキが困るのも納得の理由だ。
どうやっても解決しねえ物事のことを、悩み事って言うのかね。

俺も運のない奴だぜ。妻との楽しいチベット観光になるはずが、
リアル昼ドラに付き合わされるなんてよ。
そーゆーつまんねえドラマは日本のテレビ局でやってろよ。月9とかな。

あっ……そうだ。いっそ互いの奥さんを交換するのはどうだww? 
俺が代わりに妹二人をかわいがってやるよww
もちろん冗談だがww

ナツキの愚痴は夜遅くまで続いた。


※三人称

二日後。高倉兄妹に寺沢夫妻を加えた計5名。
好天に恵まれ早朝からホテルを出発する。

初日にユウナが体調不良を起こしたこともあり遠出は危険と判断。
チベットの気候に体を慣らす意味もあり、目的地はラサ市内のポタラ宮とする。


            ・ポタラ宮

  1642年、チベット政府「ガンデンポタン」の成立後、その本拠地として
  チベットの中心地ラサのマルポリの丘の上に十数年をかけて建設された宮殿。

    13階建て、基部からの総高117m、全長約400m、建築面積にして1万3000㎡という、
           単体としては世界でも最大級の建築物。

        チベット仏教及びチベット在来政権の中心であり、
       内部に数多くの壁画、霊塔、彫刻、塑像を持つチベット芸術の宝庫でもある。
        ポタラの名は観音菩薩の住むとされる補陀落の
       サンスクリット語名「ポータラカ」に由来する。

                         wiki より抜粋。

※ アユミ

ポタラ級はそびえ立つ白い巨人。出窓につけられた無数のノレンが風になびく。
寺院のてっぺんには中華人民共和国の国旗がある。あれってよく見ると、中国とか日本の
お寺とそんなに変わらないんだよね。屋根の形とかテラス?の形とか同じ文化を感じずにはいられない。

私達は歩いて登らないといけない。びっしりと石が敷き詰められた、幅の広い坂道は、
くねくねしながら永遠と続いている。ここから見るとポタラ級の壁面の壮大さに
圧倒される。どうやったら頂上まで着くんだろうってレベル。階段にして300段分もあるのだ。
石造りの斜面を10メートル歩き、階段を三段登る。また斜面を登り、階段を三段登る。この繰り返し。

階段の両脇にある真っ白な壁も、私より背が高いんですけど。
レンガ造りなのか石造りなのか知らないけど、どうやって標高4000メートルで
人類がこれを作ったのか。登るだけでもこのありさまなのに肉体労働とか。

日ごろの運動不足のせいで足腰が大変なことになっている。
まだ歩き始めてたったの5分。

   うそっ 私の足腰、弱すぎっ!?
   ポタラ宮の坂道を少し登っただけで、体力のなさが判明してしまう!!
   今なら最短5分で無料診断!! 世界各国から観光者多数!!
   誰もが亀の歩みをしないと高山病にかかると評判です!!


「はぁはぁ……実にしんどいな。空気が薄いと体の動きが鈍る」
「やーねぇ。お空には屋根がないのよ。やーねぇ」

苦し紛れに絶望的に寒い冗談を言う姉を蹴っ飛ばしてやりたいが、そんな余裕などない。
むかつくことに兄の隣がユウナに奪われてしまっている。
私はどんどん先を進んでいく寺沢夫妻と、その後ろを歩く兄と姉を前方に見据えている。

寺沢夫妻が速すぎて笑う。あいつら高山病にもかからないし、
坂道を歩いても全然息が切れてない。無理してるってわけじゃなくて普通の顔をしてる。

「にしぃしぇへあぁ」「はお? だーちてぇんざいはぁ」「わぁしょお」

中国語らしき言語を話す観光客が多い。チベット語なんだろうか?
今日は金髪の白人も多い。この人たちはグループごとに固まり、老人のような
足取りで坂を上っていく。私と同じペースだ。多分これが普通だと思う。
世界各国の観光客に交じって坂を上るのは新鮮な気分だ。

階段の途中で座り込んで休憩している、二人組の若い女性がいた。
つやつやの黒髪で美人だ。私達と同じアジア系なんだろうけど話してる言語が違う。
疲れてるかと思ったら早口で楽しげに会話してる。元気だね。

私を追い越していった、金髪の白人おばさんは、暑いためか、脱いだパーカーを
腰に巻いている。隣を歩く旦那らしき人とサングラスでペアルックだ。
白人はサングラス率高いよね。理由は瞳の色素が薄いから光に弱いからだそうです。

やれやれ。
人のことなんて冷静に観察してたら歩くのが遅くなってしまう。

「お兄ちゃん。進むの速いよ!!」
「アユミ……ごめんな」

なぜか兄は私を置いてどんどん先へ進んでしまう。
坂道の角を曲がってしまうと二人の姿はもう見えない。
視界から消える瞬間にユウナと手を繋ないでたのを確認…!! 
兄者殿!! なにゆえ、そのやうなことをなさるのか(涙)!!


※ ナツキ

デヤン・シャルの広場と呼ばれる場所に着いた。ようやく平地だ。
しかし喉が渇いた。この観光地は国際的に有名なため、テロ対策と称して
入口で念入りに持ち物検査が実施される。水の入った飲み物は没収されてしまう。
よって水分補給なしで坂を上るのだ。

坂道で汗ばんだので上着は脱いで半袖一枚の状態だ。
ユウナも薄着になっているんだが……胸が大きいな。薄手のロンT越しに
ブラの形がはっきりと見えてしまう。歴史的建造物の前で何を考えているんだ僕は!!

「あそこに売店があるわよ。飲み物が売られているのかしら」

ミネラルウォーターは売り切れだと……?
乾季のためか水不足らしい。
そこで割高の緑茶を購入。砂糖が入ってるのには驚いた。

広場の一角には給湯器があり、そこに人々が列を作っている。
「空の水筒を持っていれば、水やお湯が無料でもらえるんすよ」
と寺沢アツト君が言う。寺沢夫妻は空のマイボトル持参だ。いかにも旅慣れしてるな。
空のボトルなら入口の検査に引っかからないのか。なんてことだ。
僕は緑茶を買った(日本円換算で240円)のが馬鹿らしくなり腹を立てる。

「君!! そんな便利なものがあるなら初めから教えたまえ!!」
「あの、同志閣下。私の分でよければどうぞ」
「ルナ君。いいのかね。君の分がなくなってしまうぞ」
「私は夫のボトルを半分ずつ飲みますから。遠慮なくどうぞ」

実は二重の意味でうれしかった。
ルナは美人さんだ。孤島作戦の時とは違い口調も洗練されている。
モンゴルへの旅がそうさせたのか、引きこもりがちで自分に自信のなかった
頃の彼女は過去のものとなりイキイキとしている。髪はつやつや、血色もよく
大きな瞳は輝いているようだ。なお渡されたボトルは彼女が口をつけたものである。

「では遠慮なく」「あなたっ、なにしてるの!!」

妹に怒られる。妹であるが、妻でもある。

「ルナちゃんは私の旦那に手を出したいの?」
「は……? いえいえ!! そんなつもりはありませんっ!!」
「さっきナツキがあなたのことをいやらしい目で見ていたわ!!」
「そ、そんなこと私に言われても……困りますっ」
「人の旦那を誘惑したわね!!」
「ですからっ、そんなつもりはありませんっ!!」

アツト君が腹を抱えて笑っているのが気になるが……。
君の妻の危機なのに助けなくていいのかね?
僕もユウナがヒスってるので関わりたくないのだが。


※アユミ

途中で何度か休憩を入れながらも、なんとか広場に到着。
汗やばいんですけど。空気が冷たいのに、こんなに汗かくとは思わなかった。
やっぱ運動不足やばいっしょ。

「アユミ様。助けてくださいっ!!」

ルナちゃんが助けを求めてる。メスブタ(姉)にそでをつかまれて
ギャアギャア言われてる。よしよし。かわいそうに。今助けてあげよう。

「あのー。そこの更年期障害のおばさん」
「ああ!?」
「私が代わりに話を聞いてやろうではないか。分かりやすく説明してみなさい」
「妹のくせにその口調っ!! 生意気っ!!」

ほっぺたを引っぱたかれた。こちとら坂道で疲れてるのに……。
殺してやりたいけど観光中だから我慢しないと。
ユウナはまだルナちゃんに文句を言っている。
お腹がすいて機嫌が悪いんだろうか。デブだから。

私はルナちゃんを救うためにブタ女のお尻を蹴った。
前のめりになるが、なんとか耐えるユウナ。

「なにすんのよ!!!!!」

つばが飛んだ……汚い。ビンタされたのでこっちもやり返すと、
今度は互いの髪の毛を引っぱりあう。私達の周囲に人だかりができている。
外国語でわいわいしてるけど何を言ってることやら。
ちなみに異国の地だと日本語で喧嘩しても内容は知られない。少しだけ便利。

中華人民解放軍っぽい警備の人が走ってやってくる。
いよいよやばい事態となり、兄が英語で謝罪を始める。
周りの人に迷惑なだけでなく、宗教的に意義のある遺産の前でふざけるなら
逮捕するとまで言われてしまい、私達はウサギのように来た道を引き返す。

下り坂はこんなに楽なんて……。

一行はその後、市内のレストランで伝統料理・寄せ鍋を食べた。
季節外れだと思いユウナが嫌な顔をするが、
食べてみるとスープに辛みが効いてなんとも美味。
肉もたくさん入っていた。疲れた体には人肌に暖められた緑茶が染みる。

昼下がりになる。午後の予定は特になく、明日の予定はどうするかと
ナツキと寺沢夫妻が盛り上がる。チベットは広大なり。天空の台地なり。
やはり天空の鉄道の旅こそ男のロマンと、アツトが熱く主張しナツキも折れる。

これにてチャド湖を目指すことが決定しつつあったが、

「遊牧民の生活を見て見たい」とユウナが手を上げると、
「めんどくさいからラサ観光でいいじゃん。買い物とか」アユミが反対する。

「あんたにしてはグッドアイディアね。買い物なら一人で行くんでしょ?」
「あんたも一人で遊牧民のところに行けば? いっそ帰ってこなくていいよ」
「……なんか言った?」
「いやだから帰ってくるなって」
「黙れ」
「はいはい。黙りますよ。ブタに日本語は通じないもんね」
「おい。それ以上しゃべるな。ぶち殺してやろうか?」
「やれるならやってみろよ。鼻息荒いんだよ」

お決まりの取っ組み合いを始める。何をするにしても考えの合わぬ姉妹。

妹の相手をするのが疲れてきたナツキは、権力を行使して
寺沢夫妻に事態の鎮静化を命じる。これには夫妻が困り果てる。

レストランのすぐ外での喧嘩。町の通りの中央には警備兵がおり見つかるのは時間の問題なり。
ポタラ宮に続いて二度目の粗相となれば、当局に拘束される可能性すらある。
ここはチベットであるが正式名称をチベット自治区と呼び、中華人民共和国の一部なのである。
中国とは共産党一党独裁が行われている地域であり、日本人に対しては歴史的に敵対的である。

奥から店主とその妻が出てきて不快な顔をする。
彼らからしたら見知らぬ外人が営業妨害をしていると映るだろう。
通報されたらどうなるか。ユウナとアユミの茶番は茶番でなくなる可能性がある。

「ち……しょうがねえな。おーいお二方、その辺でやめときましょうや。
 ささっ。どっちも悪かったことで喧嘩両成敗にさせていただきますよ」

アツトが二人をなだめてその場から立ち去る。

アツトがアユミの、ルナがユウナの付き人になり、互いの距離を無理やり離した。
しかし両者の殺気は尚も健在であり殺伐とした会話を続けていた。

「今は我慢してやる。次ふざけたらどうなるか分かってるんだろうね?」
「それはこっちのセリフだよ。不愉快なら話しかてこない努力をしたら?」

まさにいつ弾道ミサイルの発射ボタンが押されるかもわからぬ状況であり、
ルナはストレスで口内炎ができそうだった。
ナツキの提案でその日はお開きになり、
誰もが暗い表情のままホテルへ戻り一夜を明かした。

「大きな湖ね。海なのかと思ってしまったわ」

   ~~~天空の鏡・チャカ湖を目指して一行が行く~~

 
         ・青蔵鉄道(せいぞうてつどう)
   
  中国の青海省の省都「西寧」とチベットの首府「ラサ(拉薩)」を結ぶ高原鉄道。
            全長約2000キロ。

         貴重な動植物の宝庫「ココシリ自然保護区」、崑崙山脈、タングラ山脈、
                     ニェンチェンタンラ山脈という3大山脈、
          『平均標高4,000m以上』の青蔵高原を駆け抜ける高原鉄道。

            チベットの空飛ぶ鉄道。現代によみがえる銀河鉄道999である。


※ アツト

今日は雲が多いな……。
乗車券は学生が使う定期券みたいな大きさのものだ。
近代的な駅の中でチェックを済ませて、さあ乗り込むぞ。
駅の改札でもお二人のお嬢さん方は言い争いをしてるが、かまってられねえ。

しかし騒がしいな。日本語だから余計に注目の的だ。
そろそろ普通に観光させてくれよ!!
俺たちはこれから世界一標高の高い場所を走る鉄道に乗るんだぞ!!

『アテンション アテンショん プリーズ
 デスイズ メディカル・サポートセンター』

今のは館内放送だ。英語のあとにチベット語も聞こえてきたぞ。
何が起きたんだと思うと、駅のホームからタンカが運ばれてきやがった。
どうやら白人の夫婦が高山病でくたばりそうになってるそうだ。
夫婦は帰りの便に乗っていて、ラサに着くまでに病気になったそうだ。
マジでやばい状態のようで救急車が駅から発進した。

「列車の旅でも高山病にかかるのか……。
 これは姉妹喧嘩なんかしてる場合じゃないぞ」

ナツキ閣下は真顔だ。自慢じゃねえが俺は外国生活で
鍛えてるんで高山病にかかったことが一度もねえ。
ボリシェビキ訓練兵時代の成果も少しは出てるんだろうな。
ふ……雨の日は学校の体育館で訓練を受けてたな。なつかしいね。
いつか水谷のおっさんの墓参りに行きたいもんだ。

ホームに立つ。さあこれから乗車だぞ。乗車番号を間違えねえようにしないとな。
中は寝台列車だ。上部分がベッド、下部分がテーブル付きの座席となっている。
二人ペアで一つの部屋が割り当てられてる。ここでユウナちゃんとアユミちゃんが
兄の隣を巡って言い争いを始める。小学生のお子様かよ。番号通り座ればいいだろ。

うおっ。ペットボトルがこっちに飛んできた。そろそろ俺も我慢の限界だ。
俺がチベットに来た一番の目的がこれなんだぞ。
楽しみにしてた列車の旅が早くも台無しにされつつあることもあり、
さすがの俺も嫌味の一つでも言ってやろうかと思う。

「あの、私はアユミさんは死んだほうがいいと思います」

!?
 
全員が( ゚д゚)ポカーン とした。

「ご夫婦なんですからそこはユウナさんに席を譲るべきでしょ。
 アユミさんはお兄さんの妹なのに何様のつもりなんです?
 こっちは見ててイライラするし自分でも不毛だって思いませんか?」

おいっルナ……!?
おめーってやつは……

「さっすがルナちゃん!! 話が分かるわ!! 
 さあ兄さんも同意してくれるわよね!! 嫌とは言わせないわよ!!」

バナナを得たマウンテンゴリラみたいに元気なユウナ。その流れで
兄の隣を強引に奪う。本来の番号順だとアユミのはずだったようだが。

アユミは、怒りに震えながらおとなしく違う席に座る。
相方は知的なメガネのおじいさん(オランダ人?)だ。
大学教授みたいな雰囲気で厳めしい。アユミちゃんが英語で挨拶をすると
普通に英語で返してくる。どこから来たのかなど軽い会話をしていた。

このアホ姉妹はどうでもいい。
景色を堪能しねえとな。ラサ市街を抜けると、広大な雪原地帯が広がる。
10月になったばかりだが、雪降ってんだな。すっげえ遠くに何かの施設みたいな
建物が見える。きっと寺院なんだろう。

景色はゆっくりと変化していって、ここは山岳なので山は当然として
荒野地帯、草原地帯、湿地帯(正確には湖沼)と、地球の自然の全てを
堪能できるんじゃねえかってくらい車窓からの景色は最高だぜ!!
幸運なことに高山病の心配もないときた。

俺の妻はニコンのミラーレス一眼レフを出窓にセットして、
せっせと写真を撮る。たぶん動画の方が効率良いぞとアドバイスした。
動画だと電池の残量が心配らしい。そりゃそうだ。

さて。鉄道の揺れもいい加減激しくなってきたんでむしろ眠くなってきた。
チャド湖に到着するまで所要時間はおよそ22時間だ。
たっぷり時間があることだし、少しくらい眠っておいた方がいいか。

「ねえねえ。さっきのことだけど」
「なんだよ? 眠いんだが」
「かなり失礼なこと言っちゃったから、アユミさんに謝った方がいいかな? 」
「逆に謝ったら火に油になるかもしれねえぞ。ほっとけよ」
「でも」
「心配性なんだな。どのみちナツキ殿の正妻はユウナさんなんだから問題ねえだろ」

いいから寝かせろと言うが、妻が本気で青白くなってので心配してしまう。
だったら初めから言うなっつの。

「私がどうかした?」 アユミさんが座席の横から顔を出した。

ルナが委縮する。盗み聞きかよ。

「別に謝られても一度言った言葉が消えるわけじゃないから、いいよ」
「私は、乗車中に喧嘩されたら他のお客様にご迷惑かと」
「だからいいって。ルナちゃんに嫌われてたのはショックだけどね」

景色は一面の雲海に代わる。俺らはまじで空と同じ高度を旅してるんだな。
列車の真上に雲があるんだぜ。この大自然の中で喧嘩とか有りえねえわ。

「俺からも言わせてもらいますぜ。人生諦めた方がいいこともあるっすよ。
 アユミさんがユウナさんより早くプロポーズしてればチャンスがあったかも
 しれねえすけど、現実はユウナさんが結婚しちまったんだ。それが事実っすよ」

「確かにそうだけど」

「それでもナツキさんのことが諦められねえってんなら、回教徒(ムスリム)にでも
 改宗して重婚するとかどうっすか。いや冗談じゃねえっすよ。ラサにもムスリムの女
 けっこういたでしょ。まじでそれくらいの発想がねえと、この三角関係の修羅場
 無限に続くっすよ。俺らも結構ストレスやばいっす。ルナが切れたのもそのせいですよ」

アユミさんは唇をアヒルみたいにトンがらせる。可愛いな。
この人は姉には反発するが、根っから聞き分けが悪いわけじゃなさそうだな。
俺22なんだが、24の女性に説教垂れてていいんだろうかと思いつつ。

「失礼なこと聞いていいっすか? 実の兄ってことは血がつながってますよね。
 血のつながりがあるのにお兄さんとベッドを共にしてもオッケーな感じなんすか?」

「うん。自分でも不思議だけどなんとも思わない。
 体触られても気持ちいだけで全然嫌じゃない」

俺らは明らかに時と時間を選ばねえ会話をしているが、
鉄道内に日本語の分かる奴はいねえだろ。外国は便利だぜ。

ちなみに近親相関を防ぐためのメカニズムとして「匂い」があるらしい。
こいつらで例えると兄と妹の間では遺伝子が近いため「フェロモン」が
似ているため、性的な感情を抱かないとされている。もっとも高倉家には関係なさそうだが。

「お、お兄さんとは小さい頃からずっと仲良しだったんですか?
 いつもべったりですけど喧嘩とかされないんですか?」

「小さい頃? 私が小さい頃は兄を知らなかったよ。兄は日本にいなかったから」

え? とルナに続いて俺も驚く。

「兄はブリティッシュ・スクールに通ってたんだよ。エジプトのカイロにある学校。
 父は若い時は総合商社で石油の担当だったの。それで中東によく出向いていた。
 石油専門の部署に配属になって数年間。ついでだからと長男に英才教育を施したいと、
 父と兄だけで海外暮らしをしていたんだ。

 兄さんがあっちにいたのは小学校を卒業するまで。私とは5歳違いだから
 私が初めて話をしたのが7歳の時。親戚のお兄ちゃんなのかと思ったら
 これがあなたの兄なんだよって言われて驚いた。兄も私をかわいがってくれた。
 ユウナよりもずっとだよ。ユウナは兄と年子だからそこまで新鮮じゃないのかも」

すげえな。安いドラマの設定かと思ったぜ。ナツキさんがエリートなのは
親父さんのおかげなんだな。親父さんの職歴もすげえんだな。

BP(英)ロイヤル・ダッチシェル(蘭)、アラムコ(サウジ)
ガスプロム(ロシア)など世界の石油市場を代表する企業と取引していたそうだ。
親父さんの会社は日本の商社の中では比較的規模の小さい日照って会社なんだが、
当時は原油部門に少数精鋭のエリートを有していたそうだ。

親父さんの会社はペルシャ湾とサハリンの油田開発の共同出資計画に参加し、
見事プロジェクトを成功させた。22年にも及ぶ計画だったそうだ。
計画自体は成功だったが、英蘭の奴らが巨額の利益を分捕り、
親父さんの会社の取り分は少なかった。
後年、海洋環境への悪影響で漁業問題から起訴される始末。

その後は英国での勤務を経てエジプトのカイロにも栄転。
原油、石炭、天然ガスの先物取引にも関わっていたんだと。
一度大もうけしたんで自分が天才とレーダーだと勘違いしたが、
30代の終わりに会社に150億もの損害を出して自主退社に追い込まれたそうだ。

それから親父さんは退職金を酒に溶かしてしまう。
妻のパートのわずかな収入を当てに、家で飲んだくれの生活を送る。
たまに派遣で働いては飽きたら辞め、家にいることが多くなった。

巨大なお金を動かしてきた人にとって、まともな転職先を見つけるのは難しいそうだ。
まず給料に納得がいかねえ。ライバルにあたる総合商社にはプライドが
許さないんで転職をしなかった。証券会社の道もあったが、二度と金融資産の取引を
したくねえってんで、こっちも断っちまった。

アユミさんが小学生の時は妻の実家から支援金があって
なんとか食ってる状態だったらしい。まじでドラマだな。
かっこいいけど、俺の親みたいに平凡なのが一番だと思うぜ。

「お兄ちゃんはすごくカッコよかったんだよ。
 中学生の時から成績は学年でトップ3に入っていたんだから。
 家でも父親代わりでキリっとしてて、母もすごく頼りにしてた。
 お兄ちゃんの言うことに何も間違いはなく。お兄ちゃんの言うことに
 従っていればみんな幸せになれたんだよ。それからね。私のことは…」

「さーせん、長くなりそうなんでその辺で止めてもらっていいっすか?
 アユミさんのブラコンは今さらなんですけど、兄以外の人を
 好きになったことはないんすか? 学校とかで良い人いたでしょ」

「いるわけないじゃん。学校の男子なんてガキじゃん」

「確かに男子は女子より幼稚なのばっかですがね。
 じゃあ職場はどうだったんすか?」

「働いたことないから分かんない」

「働いたことねえんすか!? 俺より年上なのに?」

「全くないわけじゃないよ。ソ連の食糧配給所なら働いたけど
 まだ一年もたたないから職歴には入らないと思うし、
 配給所はおばさんばかりだから若い男の人いないもん」

「たぶん今までの人生で出会いがなかったんじゃないっすか?
 大学時代にサークルとか入ってましたか?」

「あんなチャらい奴らの集まりなんて入るわけないでしょ」

「そうっすよね……。俺はゼミの飲み会とか常連でしたが」

鉄道がどこかの駅に着いたようだ。
当たり前だが途中でどこかに止まるよな。

外を見てみるか。
駅のホームは無駄に広くて、人の往来が激しい。
石造りの床がピカピカに輝いてやがる。
なんかまたタンカで男が運ばれていったのは気のせいか?

改めて俺らの鉄道を外から見てみる。
色もシンプルでどこにでもありそうな形だが、
正面から見ると人の顔に見えなくもない。

鉄道はすぐに発進するから急がねえとな。
俺が再び座席に戻ろうと通路を歩いていたら、
ユウナさんとその旦那が口論していてうるさかった。

「ユウナは話の分からない女だな!!
「ええそうよ!! 悪い!? 兄さんがいけないんじゃない」
「声がでかい」
「兄さんこそっ。兄さんが私を怒らせるからこうなるのよ」
「……分かった。謝るよ。目的地に着くまでは口を利かない」
「それって逃げてない? 都合が悪いから黙るの?」
「すぐそうやって喧嘩腰になる!!」
「黙りなさいよっ!! また係の人に怒られるわよっ」

係の人に怒られていたのかよ。まあ当然だろうな。
俺らはアユミちゃんの相手をしてたから、この人たちの
ことなんてかまってる余裕はなかった。

仕方ないんで仲裁に入る。

「はぁ……さて。今度は何が起きたんすか?」
「ちょうどいいところに来たね君!! 
  ユウナがバカなことを言い始めたのだ」

幼稚園児の発想かと思ったぞ。
ユウナさんは車窓から景色を見ていたら、
なぜかアユミさんへの積年の恨みが募ってしまい、悪口を言い始めた。
永遠と悪口を言われるのが不愉快なのでナツキ閣下が怒る。

たったそれだけだ……。
おい。これって喧嘩の理由になんのか……?

確かにユウナさんの愚痴は長いそうだが、だからって
楽しい旅の途中で怒鳴り合いに発展するほどなのか……?
ふざけんじゃねえぞ。完全に頭に来ちまった。

「あのねえ!! 俺やルナにとってはあんたらの恋の行方がどうなろうと
 知ったこっちゃないんすよ!! なんでおとなしく旅行ができないんすか!! 
 旅行ができないほどギスギスしてんならチベットに来ないでくださいよ!!
 もうほんとマジで迷惑なんすよ!! 二人の相手するの疲れました!!」

やべえ……。言っちまった。
車掌ににらまれてるので片言の英語で謝罪する。他の客共も白けてやがる。
バッカ野郎。俺だって好きで怒鳴ってるわけじゃねえんだぞ。
言い訳したいが日本語で何言っても通じねえだろうしな。

「ごめんなさい。アツト君達には迷惑をかけてばかりいるわ」
「すまなかったね同志アツトよ。我々は今日の行いを自己批判させてもらうよ」

おとがめ……なし……だと?
             ざわざわ。 ざわざわ。

まあいい。あと19時間くらいそのままにしてろよアホども。

席に戻ると、ルナとアユミはお菓子を片手に談笑してやがる。
そんなに気が合うんかね。邪魔しちゃ悪いと思い、俺は本来ならアユミさんの
座る席にお邪魔して昼寝することにした。隣の爺さんはずっと本を読んでやがる。
揺れの激しい状態で読むと視力が落ちるぞ。あと高山病も怖いからやめとけ。


※  ルナ

夕食の時間になりました。夕食は専用の食事列車が設けられている。
対面式の豪華な座席で、テーブルをはさむ。食事は粗食過ぎて驚いた。

丸皿が六つ並んでいて、野菜の煮物、豚肉の炒め物、海藻の入ったサラダなどが並ぶ。
ナンみたいな形のパン。どうみてもこれナンでしょ。
メニューは家庭料理の域を出ない。少し辛いけど、不味くもなければ美味しくもなく。

私は旦那のアツト君と同じテーブル。
背中越しに反対側のテーブルには高倉兄妹が座る。また喧嘩するのかな……。


※三人称

ルナの心配は杞憂に終わる。ユウナとアユミは隣同士で座り、仲良く皿を分ける。
ナツキもこれといって話題を振らずモクモクと食事を続ける。

他の観光客も騒ぐものはなく、静かに談笑している。当たり前のことだ。
皿を空にするのにたったの10分。大した量ではなかった。
ナツキは食後の茶を飲みほし、さあ戻ろうかと席を立つのだが。

「ルナちゃんって可愛いよな」

爆弾を投下する。

「は?」「今なんて?」

二人の妹の表情が強張る。

「お前たちも海外を旅すれば少しは変わるかなって期待していたんだ。
 ルナちゃんは月のように美しい女の子だ。あの子がなぜ魅力的なのかわかるか?
 海外での過酷な生活をしてきたから生きる知恵があるんだ。生きる知恵の
 ある女は素敵なんだぞ。あの子はまだ子供を産んでないが母親の貫禄がある」

「兄さん。ちょっとなにをい…」

「むしろお姉ちゃんと言っても過言ではない。彼女からはあふれんばかりの
 母性を感じるんだよ。宮古の広場で僕に水入りのボトルを渡してくれたことがあった。
 あの時も僕は何かを感じたんだよ。こうキュピーンとね。やはり旅はいいもんだ。
 今まで知らなかった自分に出会うことができる」

荒ぶるユウナを「まあまあ」と制し、反対側のテーブルに回る。
寺沢夫妻が楽し気に語り合っているところだった。

「はい。なんでしょうか同志?」(ち……また喧嘩でもしたのかな)

ルナの笑顔の裏を読みとめるほどナツキは冷静じゃなかった。

「お姉さん」
「!?」

奴は一体誰に話しかけたのかと、寺沢夫妻がキョロキョロするが、
ここは外国の列車内である。日本人は他にはいない。

よってお姉さんに該当するのは、ルナだと思われた。

「またまた。ご冗談を」
「僕は君のことが好きだ」

また爆弾が投下された。

まず状況を確認しよう。彼ら一行は列車内の食堂にいる。
ナツキは妹二人と食事を済ませたのか、こちらに来たのだろう。
なぜルナをお姉さんと呼び、さらに告白までしたのか。

まずルナはナツキより7歳も若年である。あのアユミより2歳も下である。
よってお姉さんと呼ぶ道理がない。さらに告白の件はどう解釈するべきか。
ルナは夫のアツトと食事をしていた最中だ。さらに困ったことにナツキも
既婚者であり、妻のユウナも後ろの席からにらんでいる状況だ。

「ルナさん。好きだ」
「ご冗談は困りますよ同志閣下」
「アツト君と別れて僕と結婚してくれ」
「あの、ほんとにやめてください」

何が彼をこのような奇行に走らせてしまったのか?

「ボリシェビキってジョークとか言うんすね。
 マジつまんないし笑えないんで、やめた方がいいっすよ」

寺沢アツト。真顔である。
訓練兵時代もヘラヘラしていた彼がついに真顔である。
ブチ切れてるのは言うまでもない。
今度は一人の女性を巡って男性二人の修羅場が発生したのか。

「なにバカなこと言ってるのよ兄さんっ!!!!!!」

ユウナの拳でテーブルの皿が浮く。あまりの迫力に列車内が騒然となった。
またこいつらかと、あきれてる人達もいる。
係の人に通報しに行くおばさんの姿もあり。

「私の見てる前で別の女に告白するなんて頭は大丈夫なの!?」
「黙れ。我は聞かぬ。媚びぬ。顧みぬ。おまえのことなど知らん」
「浮気は許さないわよ!! なんでルナちゃんが好きになったの!!」
「黙れと言っている。ふん。これだから小娘は困るのだ」

ナチキはチベット仏教にでも目覚めたのか、耳元でつばが飛ぶほど
怒鳴られても平然とし、その瞳はいつまでもルナの美しい姿をとらえていた。
当のルナはドン引きしていたのだが。

係の人(車掌さん?)が二人掛かりで仲裁に入るまで喧嘩は続いた。
一方的にユウナが声を荒げるだけであったが。

「私は姉妹の中で一番下でしたから、お姉ちゃんって呼ばれたことなくて」

     ・チャカ塩湖

     青海省海西、モンゴル族チベット族自治州、烏蘭県チャカ鎮にあり、
      「チャカ」はチベット語で「塩湖(えんこ)」を意味する。

     塩湖にできた塩の結晶の層に反射し、青空と白い雲、遠くの山が引き立て合い、
     チャカ塩湖は鏡のような効果を発揮し「天空の鏡」となる。

       秋のチャカ塩湖は水と空が一色になり、多くの観光客が絶景を眺めに訪れる。

         「中国網日本語版(チャイナネット)」


※ アツト

現地に着いたのは正午過ぎだ。雲が多くて絶好の観光日和ってわけにはいかねえが、
素晴らしい景色だぜ。俺らの地元には渡良瀬遊水地って名前の、日本では五番目に入るほどの
広大な湿地帯があるんだが、チャカに比べたら鳥かごみたいなもんだな。スケールが違う。

観光客共が靴下を脱ぎ、潮の上を歩いてやがる。潮はまじで鏡そのもの。
地平線の彼方まで続いてるぜ。しかも全周にわたってだ。湖のレベルじゃねえ。海だぞこれ。

「わーい、お姉ちゃん。一緒に写真撮ろうよー」
「はいはい。今行きますから」

残念なことに上は俺の妻とナツキの会話だ。
やっこさんは幼児退行現象でもしたのか、俺のルナを自分の
お姉ちゃんだと勘違いしてるみたいですっかり甘えてやがる。

深夜の列車内でも大変だった。野郎が突然妻のベッドに侵入しようとしたんで
さすがにぶん殴ってやった。水筒でな。そしたら鼻血が出たんで大泣きしてやがる。
29の男がだぞ? また係の人が来てさんざん説教された。悲しいのが
日本語で説教してくれないので何を言ってるのかさっぱり分からねえってことだ。

ユウナちゃんが中国語で会話をしてくれたんだが、
どうも次にふざけたら途中の駅で強制降車させられるらしい。
俺らは恥をかくためにチベットに来たんじゃねえんだがな。
ユウナちゃんらと真剣に話し合った結果、
この野郎の世話をルナにまかせることにした。


それにしても波乱万丈の旅だ。さすがの俺様も胃袋の服用を始めたいレベルだ。
いや薬に頼るのはよくねえ。何か憂さ晴らしでもしねえとな……。

「アツト君。私たちはあっちで遊びましょうか」
「そうっすね」

ユウナとアユミは俺と行動してくれる。
素足で真っ白な砂浜に立ち、ポーズを決めるのでスマホで撮ってやる。
今さらだがこの姉妹、美人過ぎてチベットでも目立つな。
あたりにいる若いアジア人と比べても余裕でこっちの方が美人だ。

アジア人どもは自撮り棒が好きなのか、老若男女問わず持っている。
塩湖周辺ではそこいら中から自撮り棒がにょきにょき伸びてやがる。
どいつもこいつも景色を見ることよりも撮影に専念しちまってるな。
俺も人のこと言えねえが。

せっかくなので俺も撮影してもらった。写真を見せてもらったらやはり俺はブサイクだ。
緊張したためか、アゴがとがってるからどう見てもカイジじゃねえか。

俺の写真写りがあまりにも悪かったもんで、二人の姉妹は笑ってやがる。
まったく……こういうのも悪くねえな。旅に来て初めて笑った顔を見たぜ。

しかし大自然とは言い換えれば壮大な田舎なわけで、これといってやることもない。
赤い立て看板に、黄色い字で「火器注意、ゴミ捨て禁止」など中国語と英語で書かれている。
珍しいので撮影しておこう。俺は現地語で書かれて看板や石碑は必ず撮る。

何の意味があるんだって思われるだろうが、こういう何気ない場面を
撮影しておくと、10年ぶりに写真を見返したときにここの風景が
ふと思い浮かぶもんなんだ。駅の時計とか時刻表とかもおすすめだぞ。
他には匂いか。ここの風とか潮の匂いとかな。

「あんなところに車道があるんだ」

アユミは双眼鏡を手にしている。ニコンの小型双眼鏡だ。
たぶん数キロ先に車でも走っていたんだろうな。試しに借りていいかと
聞いたら快く貸してくれたので覗いてみる。ほほう。
何もない山の景色かと思ったが、山肌には車道があって確かに車の往来があるぞ。
別の方角には鉄道もある。ポタラ級を小さくした感じの真っ白な寺院も見える。

観光客共の楽しげな様子も、これでもかというくらい鮮明に映る。

「アユミさんはカメラは持たねえ主義なんすか?」

「うん。だって双眼鏡の方が今この瞬間を楽しめるじゃない。
 カメラは撮影したものを後で楽しめるけど、双眼鏡は今を楽しめる」

「なるほど。確かにすげえ綺麗に見えるっすね。視界は広いし景色が光り輝いて
 見えるっつーか、カメラ越しに見るより百倍くらい高解像度っすよ。
 筐体も高級ラバー素材で作られているような。まさかとは思いますけどこれって」

「アマゾンで14万円だったかな?」

「そんなに高級品だったんすか!! サーセンすぐ返します」

「いいっていって。使ってていいよ。
 私の誕生日にお兄ちゃんに買ってもらったものだから」

最近の双眼鏡ってこんなにすげえのかよ。妻のカメラもそれなりに
高級品なんだが、妻のカメラで撮影した写真よりこっちのほうが
綺麗に見えるのは気のせいか?

デジタル技術で撮影したものと、肉眼で直接レンズ越しに見る世界は
全然違うみたいだ。アナログとデジタルの違いだ。ちなみにオーディオの世界でも
アナログ(レコード)の方がデジタル(CD)より音が良いのは常識とされている。

駅の線路沿いにワゴンがある。ハンバーガーやケバブが売っているようだ。
俺は特に腹は減ってなかったのでペットボトルの紅茶を買った。
アユミはミネラルウォーターを二つも買い、リュックにしまう。
ユウナは興味ないのか何も買わず難しい顔をしている。

ベンチに座りたいところだが、先客がいたので仕方なく
三人でコンクリの上に座る。アユミがお菓子を分けてくれた。
おっ、駅で売っていたポテチか。なぜかチベットではポテチが
たくさん売られてるんだよな。しかも袋が気圧のせいではち切れんばかりにパンパンだ。

パンパンと言えば……。ユウナの胸もやばい。
結婚してからあきらかに巨乳になってるよな? ヤッケ越しにも伝わる大きさ……。
禁断の果実……。ちっ……人の奥さんをエロい目で見ちまった。

「そいつのはただの脂肪の塊だよ」
「うるさいわねアユミ」
「はは……ばれてたんすか」
「やらしい視線はすぐわかるよ」

これじゃ奥さんを交換したようなものだ。
雲が流れていき、日差しがこぼれる。
チャカの反射がまぶしすぎて、俺達はしばらく言葉を失う。

ここ……地球なんだよな? 潮のすぐ上に雲があるし空が近い。
遠方に見える山々。遠くを走る鉄道。すべてを湖が反射する。
地平線を境に、そこから上と下で二重の世界を描いてるんだ。
そしてこの鼻を突く匂い。モンゴルでもこんな景色観たことねえわ。

カメラにお金をかける奴の気持ちがよくわかる。
ここにいると、小さいことなんてどうでもよくなるぞ。
今まで資本主義がどうとか、どんだけくだらねえこと
気にして生きてたのよ。ここに来れば人生変わるぞ。俺が保障する。

「僕ねー、お姉ちゃんのこと、すきー」
「はいはい。ナツキ君は元気いっぱいね」
「のど乾いたー」
「どこかに自販機でもないかしらね」
「お姉ちゃん何ってるのー。自販機は日本にしかないんだよ」
「そうだったわね」

確かに外国では自販機ってみねえな。ところで俺の隣で
ユウナちゃんが力強く握りしめた拳で地面を叩いてるんだが。
一度自分の顔を潮の上で確認するといい。般若の顔が映っているぞ。

ユウナは俺から高級双眼鏡を奪い取り、兄貴の監視し始めた。
せっかくの高解像度がもったいねえ。素直に景色を見ればいいものを。

「アツトさんはどう思うの?」
「というと?」
「兄のことだよ」

アユミさんと俺の会話だ。

「こういうのは同じ男性の方が分かるもんだと思ってさ」
「妹の相手をするのに疲れて姉萌えに目覚めた……ってとこすか」
「ルナちゃん年下の22歳なのに姉萌え?」
「たぶん誰でも良かったとか」
「どうしたら元に戻るのかな?」
「時間が解決してくれると思いますよ。多分今の同志閣下は
 いろいろやばい状態です。仕事の疲れとかも相当溜まってるんじゃないすか」

仕事の疲れは当然あるだろう。去年は栃木ソビエト誕生元年だ。
悪の自民党との三度にわたる戦争を経て建国宣言をしたのだ。
その後、妹と結婚するも末の妹が自殺未遂のリストカット。
むしろ自殺してえのはナツキさんの方かもな。

どうでもいいが、ここ最近俺のモノローグの割合多くねえか?
この作品は高倉兄妹の話のはずなのに俺がメインになりつつあるぞ。

「ルナのやつ、殺す。殺してやる。絶対に許さない。殺す」

もう黙ってろよユウナ。人の妻相手に物騒なこと言ってんじゃねえ。
俺だってむかついてるけど我慢してるんだぞ。

「頭では理解していても心は別よ。もう我慢できないのよ!! 
 兄が私以外の女とイチャついてるの見せられると正気でいられない。
 ムカムカして頭が沸騰してしまうわ!!」

カップラーメンみたいっすね。
俺は日清と明星が好きなんすよ。

「ユウナさんは結婚してからもそんな感じだったんですか?
 だったらナツキさんも窮屈な思いをしたんでしょうね。
 少しは夫のことを信用してあげたらどうっすか。
 ナツキさんは今幼児代行現象を起こしていて、
 ルナは仕方なく幼稚園児の相手をしてるだけなんすよ」

「あの背丈の人が幼稚園児なんて無理があるわ。
 ほら見てよ。手なんか繋いじゃってあんなに笑って……。
 どうみても浮気現場にしか見えないのよ」

やっこさんもあんな顔で笑うんだな。
ボリシェビキモードの時は政治家っぽい雰囲気を醸し出す癖に。
この旅行に参加して初めてだぜ。高倉家の人間があんなに
楽しそうにしてるのを見るのはよ。

ルナの奴もなぜか頬を赤らめてエスコートしてるのは目の錯覚か?
美形で長身のナツキ相手だと女は誰でもああなるのか?

「ルナ、今俺の瞳に映っているのは君だけだ」
「そんな……困ります」

おい。巣に戻ってんじゃねえよ!!

「大丈夫。今なら誰も見てないよ」
「そんなぁ……だめですぅ……」

いや見てるよ。ここは世界有数の観光地だ。
少なく見積もっても100人以上いるんだぞ。

「目を閉じるんだ。あとはすべてを僕に任せてくれ」
「だめですってばぁ……」

その時、ユウナが全速力で駆けてナツキの顔をぶん殴った。
ぶっとんだ野郎は潮の中に体全身を突っ込んでやがる……。
あれ洗濯しても匂いが簡単には落ちねえと思うぞ。

「ただいまの暴行は容赦がない。いかに妹といえど許せず。
 なにゆえ我を殴るのか。理由を述べよ」

「堂々と浮気しておいてよく言うわ!!」

「何を言うか。お主こそ我とルナのひと時を邪魔する権利などない」

「権利あるわよ!! ありまくりよ!!
 夫の浮気現場をみて黙って見過ごせっての!?」

「あのっ!!」

ルナが叫んだ。でかい声だったんでユウナがひるむ。

「もういいじゃないですか。そんなにナツキさんを怒鳴らないで上げてください」

「何言ってんの? あんたもキスされそうになったら止めなさいよ!!
 普通に受け入れようとしてんじゃないわよこのアバズレ!!」

「アバズレ……って何ですか?」

「ふむ。昨今の若者はアバズレの意を知らぬと申すか。ならば我が説明しよう」

・阿婆擦れ
      品行が悪い女性、不貞な女性を罵る語。
      エゲレス語にてビッチを指す言葉成り。
                       
「勉強になりました。ビッチの語源だったんですか」
「そなたのことを指す言葉ではない。安心せい」
「その口調!! なにそれ!! 変だよ!!」

「やかましいと申しておるのだ。娘よ。いな妹よ。
 我はナツキにしてナツキにあらず。深い瞑想によって
 古代を生きたラマ僧の魂を宿すものなり」

「ラマ僧……?」

           ・ラマ僧
 チベット仏教における僧侶の敬称の1つ。「上師」と訳されることがある。

  チベット語で上人(しょうにん)あるいは聖人という意味で、
  サンスクリット語のグル(師匠)に相当する。
  異説として、バラモン(brāhmaṇa)から来ているのではないかという推察があり、
  実際吐蕃(とばん)王国初期の時代にはバラモン教の学僧に対して用いられた語でもあった
                      
                                wiki より


「我は深き瞑想より真の断りに目覚めたのだ。
 ユウナが列車内で永遠と妹の恨み言を並べ、大変に不快に
 思い安らかに目を閉じていた我はついに心理に達する」

「目を閉じてたっけ? ずっと私と言い争っていたと思うけど」

「やかしましいぞ。今の我は心理を述べるのみ。
 そなたに重大なる報告がある。我との婚姻を解消せよ」

「なんですって!?」

「我とそなたは近親者の関係にて婚姻を結ぶことは不適切なり。
 これ人類の古き理から導き出すこと。すなわち宇宙の真理成り」

「意味わかんないこと言ってんじゃないわよ!!
 普通に話しなさいよ!! どうせルナちゃんと浮気したいだけなんでしょ!!」

「愚かな。語るに値せず。ルナは既婚の身なり。我が手を出すと不貞となる」

「あのさ。自分で何言ってるかわかってんの? 列車の中でルナに告白してなかった?」

「そのような記憶は一切ございませぬ」

※ ルナ

政治家か!! とユウナさんが全力でお兄さんに蹴りを入れる。
私は全力でその蹴りをかばってしまう。文字通り体を張って。

「なんと!!」「ちょっとルナちゃん!?」

私は回し蹴りをもろにお腹に食らった。
ナツキさんを巻き込んで倒れこんでしまう。

「実に狼藉を好む妹だ。これ、そなたよ。無事なら返事をせんか」
「そんなに痛くないから大丈夫ですよ。ナツキさんが無事でよかった」

手と手を取り合い、起き上がる私達。

般若の顔をしたユウナさんが
拳を振って迫ってくるので逃げることにした。

なぜ私はこんなことをしてるのか分からない。
でも無性に逃げたくてしょうがなかった。

「妹と結婚したのは間違いだったのかもしれない」

※ルナ

私たちは距離にして3キロくらい走り続けました。
ユウナさんの脂肪のついた体では持久力が足りないみたいです。
悔し涙を流しながら道中でぶっ倒れてました。

私は蒙古で鍛えたから持久力には自信があるけどナツキさんもすごい。
追手が来ないので線路の横を道なりにひたすら歩く。歩く。
観光地を抜けて見知らぬ町中へたどり着いた。

「喉が渇かないルナちゃん? ちょっとそこの喫茶店に入ろうか」
「いいですけど、さっきの口調はやめちゃったんですか?」
「あんなの演技に決まってるじゃないか。さあ早く行こう」

ナツキさんは半身に潮をかぶっているので匂いがすごい。
この人とお店に入るとナンパされて着いていったみたいに感じる。

おしゃれな西洋風の喫茶店で、特に変わったところはない。
ナツキさんはメニュー表を指さして注文する。
二人分のモンブランとチャイ(紅茶)が運ばれてきた。

「僕がこの国に来た理由をまだ君に話していなかったね」
「ユウナさんに離婚話をするためではないんですか?」
「僕はユウナのことが好きだ。嫌いになったことなんてないよ」
「では列車の中で私に告白したのは?」
「その場のノリだ」

つっこみにくい……。ノリで告白する男性って……。

「辺境の地に来て、自然の雄大さを肌で感じれば
 妹達も君みたいに変わってくれると思っていたんだが、
 そう簡単にはいかないね」

「私だって、いろいろあったんですよ」

「そうなのかい?」

私がアツト君とウランバートル国際空港に降り立った時(前作参照)
水谷さんのお姉さんから受け取ったお金(200万のワイロ)を元手に
まず宿を探した。事前に準備をしてない、いちからのスタートだったから
苦労した。適当な宿にチェックインすると水道の水は汚れてる。
お風呂の水がいつまでたっても温まらない。

しかも冬の時期だったので翌日は一面の雪景色。吹雪きの日もあった。
日本から持ってきた安物のダウンジャケットじゃ全然役に立たない。
町へ行って服屋を探そうにも、日本円しか持ってないことに気づいた。
急いで町の一番大きな銀行に行って国際通貨のUSドルへ両替する。
煩雑な手続きでしかも日本語は全く通用しない。

私達は外国での生活を舐め切っていた。町の人に英語で話しかけても
99パーセント通じない。言葉の壁を感じモンゴル語の会話ブックを買う。
アツト君が市電の中に大切なお財布を置いてきてしまった時、
私は散々怒鳴った。私達が喧嘩したのは一度や二度じゃない。

不便な外国暮らしで些細なことがあるとすぐ口論になった。
それでも私達は日本に帰ることはできない。
帰ったらボリシェビキにつかまって粛清されるからだ

私たちは喧嘩するたびにそれを乗り越えてたくましく成長していった。

なんど故郷の足利市を夢に見たことだろう。
ホームシックも我慢し続けると何も感じなくなってくる。
懐かしい「しょうゆ」や味噌汁の誘惑にも打ち勝てる。
必要なのは忍耐力と覚悟なのだ。
中国国内を旅した今は味覚がすっかり変わって辛い物ばかり食べている。

試しにモンゴルで遊牧生活を体験してみた。ここならお金がなくても家畜さえあれば
食べるものには困らない。そう考えたからだ。しかし若者の安易な考えにすぎなかった。
遊牧民族の生活は朝起きてから夜寝るまで家畜の世話とテントの設置、補修に追われて
休む暇などない。しかも大自然と戦いながらの体力仕事。私は炊事と裁縫を手伝った。

日本のブラック企業の労働とは全然違う過酷さがあった。真冬の時期は
零下30度まで気温が下がることもある。ゲルの中で最大の火力でペトゥカを
燃やしても隙間風に震えて一睡もできず。朝起きてもトイレなんて気の利いたものはない。
生理用品もないのには困った。朝テントの外に出る時は、完全防寒でないと
凍傷になる恐れがある。およそ日本の女性が生活できる環境じゃない。

町ならお金を稼ぐことができる。日雇いのバイトでお店の皿洗いをしたことがある。
現地は物価が安くて日本から持ってきたお金が減らないのは助かる。
でも稼げるお金の数も少ない。時間がたつほど長期の逃亡生活に不安を感じていた。

そこで私たちは旅の最後にチベットの天空の大地を訪れ、頃合いを見て
西安から上海まで行き、成田空港に帰ろうと思っていた。
その途中で高倉兄弟と出会ったのは運命の導きとしか考えられない。

「って聞いてないし」

ナツキさんは途中で居眠りをしていた。
頬づえをついた顔には、不思議とあどけなさが残る。
栃木ソビエトの中央委員に属するエリートの顔はそこにはなかった。

「うん? もちろん聞いていたよ。モンゴルの冬についてだね」
「ふふふ。ナツキさんったら子供っぽいところもあるんですね」

「……僕もいろいろ背負うものがある身でね。逃げたいと思うことは
 何度もあった。それでここで逃亡生活をしてるのさ。旅行ってのは嘘だ」

「ユウナさんから聞きましたけど、栃木ソ連内では近親婚には否定的なようですね」

「我が国の世論は敵国の自民党によって操作されたようなものだからね。
 全く腹立たしい。委員会のメンバーでさえ僕らの離婚を望んでいる」

「ナツキさんはどうしてユウナさんを選んだんですか?
 アユミさんを選ばなかったのは理由があるんでしょうか」

「……実は政治的な打算があった。ユウナは学園の教頭だ。
 あの子は僕の愛情が不足すると仕事を休むことも珍しくない。
 生徒へ八つ当たりまでするらしい。
 その点、アユミは家で養われている身だから社会的な害がない」

「でもアユミさんはリスカをしてしまった」

「そうだ……。それが問題なんだ。結局ユウナを選んだのは間違いだった。
 いや間違いではないかもしれないが、どっちを選んでも泥沼になる運命だったんだ」

ナツキさんは頭を乱暴にかく。
ふぅーと息を吐いてから紅茶を全部飲み干した。

「僕は昔好きだった女性が一人だけいる。高野ミウだ」

今から10年以上も前のお話。ナツキさんが高校2年生の時。
橘アキラ生徒会長の時代に、組織委員部の管理者だったナツキさん。
ミウさんを強引に勧誘してボリシェビキの幹部にまで仕立て上げる。

同じ職場ということで親しくなり、ミウさんと一時期恋仲になるもすぐに破局。
ミウさんには太盛さんという絶対の恋愛対象がいて、初めからナツキさんの
入り込む隙間はなかった。あれほど勝ち目のない戦いをしたのは生まれて初めてだと
ナツキさんは皮肉っぽく言う。

「高1の時同じクラスに井上マリカって子がいてね。
 成績が良くて頭の回転が速い子だった。僕とも気が合った。
 あの子は……どれだけ勧誘してもボリシェビキにはなってくれなかったな」

「その人は今どうしてるんですか?」

「資本主義日本の東京で暮らしているよ。
 連絡とってないから知らないけど、結婚してるんじゃないかな。
 弁護士事務所で働いてるそうだよ」

すごくクールで知的な感じの女性をイメージした。
なぜだかその人に親近感がわいてしまう。

「マリカの時もミウの時も、ユウナは怒ったものだ。僕がメールしてるのを
 めざとく発見しては、彼女たちの悪口を言いまくる。
 あの子は僕が他所の女の子と仲良くするのが我慢できなかったんだ」

「学生の頃から嫉妬深い奥さんみたいなことを……。ちょっと異常ですよね。
 血のつながったお兄さんをそこまで愛してしまうなんて」

「気が付いたら僕のことを愛してしまったそうだ。
 女の子が男を好きになる理由なんて実はないんじゃないのかな。
 気が付いたら恋に落ちていたなんてよく聞く話だよ」

「今後はどうなさるおつもりなんですか? ユウナさんとの婚姻関係を
 続けるにしてもソ連に帰ったら生活しにくいと思いますが」

「ヤムドク湖を見学した時、いっそバスが崖から転落して死んで
 しまえばいいとさえ思っていた。嘘じゃなく本当に」

「……そこまで追い詰められていたんですか」

「死は逃げだ。僕は自分の意志で死ぬことはない。だが事故なら
 その限りじゃないだろ? 僕は路肩のない山道の下をずっと見降ろしていたんだ。
 そしたら本当に落下した乗用車の残骸があったんで笑ったよ」

「ナツキさん。死んだらいけません」

「分かっているよ。僕には大切な家族がいるのだ。
 自分の命よりも大切な家族がね」

ナツキさんは、また昔話を始めた。

ナツキさんが高校一年生の時、ボリシェビキの試験に合格して
組織委員部(現在は廃止)に加入した。会長橘の双子の妹、
アナスタシアの推薦により初めから合格は決まっていたそうだ。
組織委員部の長になるにも彼女のポートが大きかった。

『おうナツキ。おまえ、学校で責任のある仕事を任されたんだってな』

ナツキさんのお父様は、40を過ぎると仕事への情熱をすっかり失っていた。
毎日昼過ぎに起きては、日本酒を開けてテレビを見て過ごす。
求人活動はすっかりしなくなり、妻のパート代と実家からの仕送りだけで生活してる状態。
若い時には信じられないほど多くの貯金を持っていたが、それも切り崩していよいよ
限界に達しそうになった時。

『うちの家は子供を大学に出す余裕はねえから大学には奨学金で行ってもらう。
 俺の金じゃユウナの高校の学費を出すので精いっぱいだ。お前もユウナも
 金持ち私立に入れてやったからな。学費が飛ぶようにとられるんで困ったもんだぜ。
 ははは。子供の教養のために金に糸目をつけるつもりはねえがな』

夕食の席での話だ。いつものお父様は酔っぱらって目が座っていた。
だが真面目な話をする時はエリート商社マンだった頃の輝きが瞳に戻る。

『父さん。僕がアルバイトをして家計を助けるべきじゃないのか』

『ばっかやろう。学生のうちは勉強に専念しろってんだ。うちだって無理すれば
 ちょこっと金を都合することはできんだぞ。おまえは少しでも稼げる仕事について、
 そこからお金を稼いでも遅くはねえはずだ。収入をな、目先の小金じゃなくて
 将来の視点で考えるんだ。人生設計だ。お前みたいに優秀な奴は絶対に大学を
 卒業して大卒の収入を得た方がいい。高卒とは生涯で2億以上の差が出るんだぞ』

『でも大学に入ったら少しはアルバイトをさせてくれよ。
 アユミはどうするんだ。最悪アユミは高校にすら行けなくなってしまうだろ』

『アユミは……気の毒だね。末っ子だから一番学費が回してやれねえからなぁ。
 近場の学費のかからねえ公立でも受験してもらうしかねえだろ。
 そうなると……高卒で働くんだな。あいつは器量が良いからどっかに
 嫁ぐことになるのかね。いい相手でも見つかれば幸せになれるんだろうが』

『あの子は父さんが働かないせいで大学にも行けないのか。
 アユミは決して成績の悪い方じゃない。
 うちの家系はそれなりに勉強のできる方だと思っているだけに残念だ』

『俺も悪いとは思ってるがな。どうしても会社に所属して働きたくねえ。
 俺は会社に属するタイプの人間じゃないからな。だがな。俺は馬鹿じゃないんだ。
 家にいても金を稼ぐ方法がある。今まで一度も試さなかったが』

お父様は毎日PCの前でかじりつくようになる。
なけなしの貯金を元手に、最後の賭けに出たのだ。

『外国為替証拠金取引』いわゆるFXトレーディング。

お父様はかつて原油をはじめとしたエネルギー系の先物取引で
大きな利益を得たことがある。それは商社マンだった頃の時代の話。
今は大きなブランクがある上に、会社単位と違って個人でやるのは規模が小さくなる。
周りに専門家や仲間もいないので情報収集力にも不安が残る。

お父様は200万円の元手を両替した。
USドル、香港ドル、AUD(オーストラリア・ドル)
この3種類の通貨で為替の利益を狙う。

いずれの国も通貨の信用性は高く、地政学的、政治的リスクが異なる。
しかしお父様の投資額は実は「5700万」に膨れ上がっていた。
彼が使ったのはイギリスの証券サイトで、投資元本に対し最大で500倍の
レバレッジを駆けられる。信用取引は証券会社からお金を借りてする取引のこと。
証券会社に「証拠金」というお金を預ければ、その何倍ものお金を借りられる。 
倍数をレバレッジと呼ぶ。

「外国為替」「証拠金」「取引」

リスクの大きさは最大。決済には時間の定めがある。
含み損がある状態で期日まで持っていると強制決済される。
損失分は借金として証券会社に返済しないといけない。
※「追証」のこと。

香港ドルがいきなり暴落してマイナス1400万の評価損。
しかし米ドルとAUDがどんどん上がる。
最終的にはプラス500万円の儲けで決済をする。

お父様はたったのニか月で500万もの利益を出した。
しかし為替の世界は紙一重。決済するのがあとひと月遅かったら、
1200万以上の借金を背負っていた。

この事実を聞いたユウナさんは激怒した。

『こんな無謀すぎる取引してバッカじゃないの!!
 こんなの10回やれば9回は負けるギャンブルよ!!
 今回はたまたまラッキーだったようだけど!! 
 もう二度とこんなことしないでよ!! したら本気で殺すわよ!!』

『お前に言われなくても百も承知だっつの。
 心臓に毛が生えてる奴じゃなけれりゃ、こんな取引二度とするもんかよ。
 これでも原油の先物取引に比べたら可愛いもんだがな』

かつてエネルギー担当部門のトレーダー室で勤務した経験のあるお父様。
実際に中東の支部に転勤し、ドバイの原油価格と北海ブレント石油に
影響する商品の取引をしていたそうです。

石油は市場の供給量、サウジやロシアの政治不安、戦争のリスクなど
様々な不安要因で価格が決まっていく。スプレッド(変動)は為替より
もっと過酷で、神様でもなければ利益を出し続けるのは不可能だとか。

『いいか。おまえらも原油にだけは手を出すんじゃねえぞ。 
 素人の手に負えるもんじゃねえ』

『するわけないでしょ。先物取引とかバッカみたい。
 どうして男の人たちは一発逆転みたいな賭けに出たがるのよ。
 これだから資本主義の世界は嫌なのよ。堕落しきっているわ。
 市場は常に一握りの勝者と多数の敗者により形成される。
 中世の封建社会から全然進化してない。むしろ退化してるわ』

ユウナさんは市場経済の原理を憎んだ。
マーケット(市場)とは、あらゆる国のあらゆる人の思惑が交差し、
よくわからない動きをする。だから多くの人を混乱させる。
市場の動き一つで多くの労働者が職を失い、経営者まで自殺に追い込まれる。

FXトレードに代表される危険な取引で問題なのは、取引に参加する人よりも
この仕組みを作り出した人間たちだ。だから粛清する。高校生の時から
ユウナさんが熱烈なボリシェビキだったことが良く伝わるエピソードだ。

とにかくお父様はアユミさんの学費が稼げた。アユミさんはのちに
私立の大学に通うことになるけど、実は社会人になったナツキさんが
学費の半分以上を負担してくれた。

アユミさんはナツキさんに惚れこんでしまった。
もともと大好きだったのに、お金の援助までしてくれたのだ。
彼の健気さに妹のユウナさんも惚れこんでしまい、妹ハーレムが形成され現在に至る。

「働かない父に腹を立てたことは何度もあった。男同士で殴り合ったこともあった。
 僕の父はろくでなし野郎だったが、口だけは達者でね。
 こんな言葉を残してくれた。妹達に関することだ」

 ―男は女を守ってやらないといけない。
 ―年長者は年下を守るべきだ。
 ―女を守ってやれるだけの優しさを持て。

「だから僕はユウナとアユミに対して兄じゃなくて父のように振舞った。
 高2の秋に生徒会長に就任すると伯が付いたのか父も母も僕の言うことに
 従うようになる。たった17歳の少年が、家では家長のように振舞うことを
 許されたんだ。不思議な気分だったよ」

ナツキ会長時代の学園では、相次ぐ収容所からの脱走。
そして行政執行の最前線である保安委員部の離反事件があった。
カリスマ副会長のミウの力を借りて事態を鎮静化し、
生徒会の絶対的な権力を誇示した。
ミウの作り上げた数々の校則が、今でも学園で使用されている。

高倉ナツキ会長は、個人としては冷酷でもないし、温和な人物のため
ボリシェビキとしてふさわしくないとする評価さえあった。

彼の最も優れているところはマネジメントの才能であった。
組織を効率的に動かす役割を担うものである。

彼が最初に所属した組織委員部とは主に人事を担う組織だった。
そこを起点に経歴をスタートしたことも大きい。

ナツキは会長として特別に指示を出したことはほとんどなく、
中央委員会の総会で各員の意見をよく聞き判断を下したに過ぎない。
また能力不十分なものはすぐに入れ替えた。これがいちいち的確であった。
特に反乱の鎮圧と恐怖政治の強化のために
ミウの頭脳と発想力を最大限に使用したため、実際には副会長の政権ともいえた。

そのミウを生徒会に抜擢したのも彼である。人事の天才だった。

「そのナツキさんでさえ、妹さんの件で答えが出ないのですね」

「これが政治の問題だったら中央委員会で話し合えるんだがね。
 兄と妹の関係は極めて個人的な話なってしまうのが困りものだ」

「もうどちらを選ぶもないと思いますよ。私もアツト君と同意見です。
 やはりお二人をできるだけ平等に愛するべきでしょう」

「そうか。君もそう思うのか」

「はい。あくまで私の意見ですよ?」

「ならその意見を採用する」

これで話がまとまってしまった。
私は会議をしてるつもりはなかったんだけど、
大真面目に採用するって言われたので少し怖かった。

同志よ……。本当にそれでいいのですか?

「僕は二人とも愛することができる」

※ナツキ

チャカ塩湖までゆっくりと歩いて戻った。
道中でユウナを拾い「ふたりでなにしてたの!?」と暴れるのを制する。
後で話すからと言いくるめ駅前まで戻る。
清蔵鉄道はすでに発車しており観光客の数が激減していた。

「これからどうするんすか? 西寧市内でも観光するんすか?」

アツト君は、僕が自分の妻とふたりきりで逃走したことについては
華麗にスルーする。神経の細かいユウナと違い彼は大物だと思う。

「いや、バスに乗って空港を目指そう。もう旅は終わりだ」
「終わりっすか!? むしろ終わりでよろしいので?」
「むう、どういう意味だね?」
「だって、結論が……」

彼は言いよどむが、意を決して続ける。

「どっちを選ぶのか結論が出てねえじゃねえっすか!!
 お兄ちゃんが急にいなくなるもんだから、
 アユミちゃんは心配して泣いてたんすよ。途中でリスカを
 始めようとしたんで刃物を取り上げてやりましたよ!!」

「刃物ですって!? アユミ、あんたまさか……」

ユウナがアユミの袖をつかんで、一気にまくり上げる。
そこには傷跡が残されていた。美容整形の跡があるのでなんとも不自然な傷跡だ。
赤身はほとんど消えているが、線だけがすっと肌の上に残されている。

「あんた、どんだけバカなのよ。両親にもらった自分の体を
 粗末に扱うなんて、自分が何したか分かってるの?」

「姉ちゃんが悪いんだよ。姉ちゃんが私からナツキを奪ってしまったから」

「そんな……」

ユウナがこれほどショックを受けるとは、逆にこっちが驚いた。

「アユミに伝えておくよ。僕はユウナと別れない。ユウナとこれからも一緒に暮らすよ」

まずユウナが目を見開いて僕を振り向いた。アユミも同じだ。
寺沢アツトも言葉を失い立ち尽くしていた。ルナだけが涼しい顔をしている。

「だが僕はね、アユミのことも愛してる。
 ユウナのことも好きだけど、アユミのことも好きなんだ。
 だから三人一緒に暮らすことにするよ。これが僕の結論だ」

よく言ったと、アツト君が力強くうなずいた。僕もうなずき返す。
ユウナとアユミの反応は正反対だった。
ユウナは怒るでもなく悲しむわけでもなく、ただ立ち尽くしていた。
氷のような無表情で。アユミは口元がわずかににやけている。
可愛らしい目元が三日月型に細められている。

我々五名は時が止まったようにいつまでも無言で立っていた。

太陽は雲に隠れた。潮の混じった風を全身に浴び、
寒さで足元から冷え込んでいるというのに、そこから動こうとしない。
ユウナは忙しく視線を動かし、僕とアユミを交互に見比べる。
何が言いたいのか、話してくれない限りは分からない。

「で、バスに乗ればいいんすね?」
「ああ」

アツト君はマイペースで助かる。

「まず西寧曹家堡空港に行く。西寧から日本への直行便はない。
 よって西寧から上海経由で成田空港を目指す。あいにく僕は
 最低限の旅費しか持ってきてないのでこれ以上の観光は不可能だ。
 よってチャカ塩湖を最後の観光とし、この旅は終了する」

ルナちゃんが、大きなため息をついた。少し不快に感じるほどだった。
そんなに安心したのだろうか。彼女は両手を胸の前で組みながら言う。

「同志にお願いがあるのです。私たち夫婦も栃木ソ連へ帰らせていただきたいのです。 
 私達も外国で暮らしていくのは何かと不便でして。
 同志のお許しさえいただければ再び市民権を獲得することができます」

彼らの市民権は一年前にはく奪されたばかりだ。市民権のはく奪とは、
正式には人民の権利のはく奪を指す。国家の構成員でなくなることだ。

我が北関東ソビエト社会主義共和国は、国家の構成員たる人民以外は、
「反社会主義者」「反共産主義者」「日本のスパイ」「その他の国のスパイ」
として摘発される。
そのような者は潜在的な敵であり、存在自体が許されないからだ。

僕は当然許可しようと思った。
寺沢夫妻はこの旅で僕ら兄妹のサポートを十分にしてくれた。僕が最終的に
アユミも含めて同居しようという結論に至ったのはルナちゃんのおかげだ。

僕は学園の生徒会長の時代からそうだった。重要な案件は人に決めてもらう癖がある。
僕は人の上に立ち、人を任命し、会議の進行をしても、実は自分で決めていることなど
何もない。自分の一番の欠点は優柔不断なことになると思っている。

「いやよ」

と冷たい口調でユウナが言う。

「アツト君とルナちゃん。あなたたちは一度ソ連から逃げたのよ。
 今さらどの面を下げて国に帰るっていうの? そんなの認めない」

寺沢夫妻の顔が真っ青になる。まさかユウナから拒否されるとは。
ユウナは孤島組の生き残りには特に甘かったのに。寺沢夫妻の人権はく奪は
中央委員会の会議で決定したことだが、ユウナは最後まで否定していた。
アツト君からふざけた内容の手紙を渡された時も(前作参照)怒るどころか、
悲しんでいたというのに。

「だってルナちゃんは、ナツキに気があるんでしょ?」

「な……ユウナ閣下……私は今日閣下からご相談を」

「いえ、いいわ。言い訳なんて聞きたくないし。勝手に私の方で
 そう判断させてもらったのよ。今の私はあんたのことが憎たらしくて
 しょうがないのよ。もう、なんて言ったらいいのかな……」

ユウナの話は永遠と続いた。
今回の旅で溜まったうっぷんを全て吐き出しているのだ。
一人で話すうちにエスカレートし口調が荒くなっていく。

「アユミはまだいいわ!! むかつくけど家族だから!! 本当にむかつくけどね!! 
 兄さんが考えて考えた末の結論で同居するなら、むしろ指示してあげたいわ!! 
 でもあなたはなんなの!? なんでさっき私の兄と走って逃げたの!! 
 私の見てる前であんなことするなんて失礼じゃない!? ねえどうなのか言ってみなさいよ!!
 孤島の時からあんなに優しくしてあげたのに恩を仇で返すなんて!!」

最後はアユミが止めてくれた。
ユウナもさすがに言い過ぎたと思ったのか、バツの悪そうな顔をしている。

ルナちゃんは嗚咽していた。旦那のアツト君が彼女の肩を優しく抱き、
「もういいんだ」と諦めた顔で言う。「今までお世話になりました」
と頭を下げて僕らのもとを去って行く夫婦。

アユミは引き留めたそうな顔をしていたが、姉の鬼の形相を見てためらった。
アユミがユウナを怖がる姿も珍しい。

「兄さん。駅から空港まではどうやって行くの?」
「バスが出ているんだよ。バス停はすぐそこだ」

ユウナは僕の横にぴったりくっつく。腕をしっかりとられた。
ユウナの髪はこの地形のため乾燥しきっていて、触り心地は最悪だった。

「アユミも来なさい。もう兄さんの隣にいてもいいのよ?」
「う、うん? わかった……」

アユミも僕の腕にしがみつく。はは……。妹ハーレムか。
異国の地でも気恥ずかしいものだ。もっとも口で説明しなければ
兄妹とばれないかもしれないが。5歳下のアユミの顔立ちはユウナとは全然違うから。

「アユミ、これからはつまらないことで言い争うのは卒業しましょう。
 この旅は意味のある旅だった。そう思って未来へ向けて出発しましょう。
 ソ連に帰ったら三人で新しい生活が始まるのよ」

「ありがとう。ユウナお姉ちゃん」

僕とユウナはびっくりして、アユミの顔を見た。アユミの顔からすっかり
毒が消えていた。たぶんユウナも同じことを思っていたんだろう。
今のアユミの顔は、小学生の時のものだ。この子は小学生の時は
おとなしすぎる美少女で、クラスの女子に目をつけられて
からかわれることが多かった。実際にいじめられたこともあった。

アユミはきっと、僕たちと一緒に暮らすことになったうれしかったのだ。
僕を独占できないことは不満だろうが、それは姉も同じ。お姉ちゃん、
お姉ちゃんと、ユウナにあこがれて勉強を頑張っていた昔の姿を僕は
今でも覚えている。この二人は幼い時は決して険悪な仲ではなかったのだ。

「ふふ。なつかしいわね。その言い方」

ユウナは鼻歌を歌い始めた。これで本当に、旅が終わるのか。
僕は今日寺沢夫妻の背中を無言で見送ったことが、一生の心残りになると思う。

彼らは決して悪人ではない。国家に仇をなす資本主義者でもない。
ただの善良な一市民に過ぎない。そんな彼らを辺境の地に残してしまっていいのか?
ユウナ。おまえが孤島組に選抜しておまえが作戦に巻き込んだ人たちなんだぞ。

川村アヤちゃんの件もある。これ以上罪を重ねるんじゃない。
そう言いたくて喉元まで言葉が出かかった。だが言えない。
高倉兄妹は三人でハッピーエンドを迎えつつあるんだ。

バスを待っている間も三人で手を繋いでいたから、異様だった。
手のひらが汗むので、離していいかとアユミに訊いたら即断られた。
ユウナも同じだった。また二人で火花を散らすのかとヒヤヒヤするが終始穏やかだ。
バスを降りて西寧曹家堡(そうかほ)空港で上海行きの便を探す。

中国東方空港の飛行機で15時15分発の便が開いている。
上海までは片道1時間半だが、そのあと乗り継ぎもある。
旅の疲れもあるので今日は一泊してから朝一で出発したいとユウナが言う。
アユミも賛成したので空港前のホテルを探す。

アユミがやってみたいと言うので、ホテルでのチェックインを任せる。
決して上手な英語ではないが、パンフレットに乗っている内容の
質疑をすればいいだけだ。造作もなく手続きが終わり304号室のカギを渡される。

アユミは本当に疲れがたまっているようでベッドにダイブして寝息を立てている。
速すぎてびっくりだ。

「兄さん、こっちに来て」

手狭なバスルームに呼ばれてキスされた。
息継ぎをしながらもどんどんキスをしてくる。
ユウナは自分の大きな胸を僕に押し付けるようにして密着してくる。
彼女が少し動くたびに胸の柔らかい感触をしっかりと味わえる。

「大好き」
「僕もだよ」
「兄さんの家族思いで優しいところも大好き」
「アユミのことを言ってるのか?」
「うん」
「僕は反対されるって思ってた」

「アユミはまだいいのよ。家族だから。
 あの子のリスカの跡を見た時、どうしようもないくらい悲しくなったわ。
 私だって自分だけナツキと結ばれて後ろめたく思うこともあった。
 あの子のこと覚えている? 川村アヤちゃんのこと」

「忘れるものか。結婚式の時に幽霊になって表れたものな」

「どうしてアユミのリスカのこと教えてくれなかったのよ。
 もっと早く知っていたら私の方からアユミを救ってあげる
 相談ができたかもしれないのに」

「アユミにお願いされていたんだよ。ユウナには言わないようにってな。
 自分でみっともないことをしている自覚はあったそうだ。僕の気を
 少しでも自分に向けさせられたらそれで良かったんじゃないのか」

「兄さんがアユミのことも大切に思っているのなら、
 アユミを抱くことは許してあげるわ。ただし私の見てないところにして。
 今は私の時間。私だけを見て頂戴」

「もちろんだよ。ユウナ」

僕はユウナの上着をまくり上げ、ブラを触る。
ブラ越しでもすごい弾力だ。紺色のシックなデザインで
少し老けて見えるが、学園でお堅い仕事をしているユウナにはむしろお似合いだ。

「乳首が硬くなってるぞ?」
「あんっ。きもちっ……」

ユウナは直立不動の姿勢。ユウナの手首をしっかりと握りながら、
おっぱいにむしゃぶりつく。乳首を舐め、甘く歯で挟み、また舐める。

「あっ、あっ。あんっ。あっ……」

ユウナは赤面し小刻みに震える。体温がどんどん上がっていくからか、
熱いと言い出した。バスルームのエアコンの温度を少し下げてあげた。

「こっちはどんな感じだ?」

ベルト付きの清楚なロングスカートをまくりあげ、
パンツの上からアソコをさする。
すぐに濡れてきたようで、下着に染みができる。
股部分のパンツを横にずらして、
指で入口を探ると、すんなり奥まで入ってしまう。

「ああんっ!!」

ユウナは力なく床に座り込んでしまう。
女の子座りしているところが可愛くて興奮させる。
僕の指はまだ入ったままだ。一気に引き抜くと

「んん!!」

とユウナが大げさにあえぐ。切れ長の瞳が潤んでいるので
たまらなくなり、唇を塞ぐ。ユウナも僕にしがみついてくる。

「大好きぃ」
「可愛いよユウナ」

キスしながらも僕はユウナの秘所をなで続け、
ユウナは僕のいきり立ったイチモツを握って上下に動かしている。
結婚して一年もたつのでユウナも僕の感じるツボを心得ている。
僕好みの力加減と速さで愛撫してくれる。

「ああん。きもちぃ。もっと触って」

ユウナの股は洪水状態となっていた。まだイってないのに
僕の手のひらをびっしょり濡らしていた。ユウナの吐息と髪の匂いが
甘ったるくて、ますます気持ちが盛り上がる。
気持ちよくてたまらない。
ユウナに握られた僕のアソコはついに限界を迎える。

「うっ……」
「あっ、先にイっちゃったのね」

ユウナの下腹部と胸のあたりまで精液が飛び散った。
ユウナは白い液体を指でぬぐっては愛おしそうになめる。

「すごく濃厚な味がするよ」

魔性の女の顔だった。へにゃへにゃになった僕のアソコを
指で優しくなでてくれる。ぐりぐりと、手のひらで先端部を押し当てるように。
すると、僕のアソコはまた元気を取り戻す。ユウナのふくよかな乳房と
肉のついた太ももに目が釘付けになる。改めてこの子は綺麗な体をしている。
白い肌が汗で湿り、光り輝いている。

「ユウナ、扉に手をついて立ってくれ」
「こうかしら?」

ユウナは僕に大きなお尻を向けている。
尻に顔をうずめ、秘所に舌を這わせるとピチャピチャと怪しい音がした。
少し苦くて塩の味がする。お尻の穴まで丸見えだ。
ユウナは顔を下に向け、されるがままだ。

「今度は指を入れてみるぞ」
「ああー!? あ……あぁ……やだ……恥ずかしい……」

人差し指を大げさに膣の中に出し入れした。じらすようにゆっくりと。
ユウナは震えながらも扉にしがみつき、倒れないように頑張っていた。

ユウナの中は暖かくてドロドロしている。
膣から流れ出した愛液は、ついに太ももまで濡らしていく。

「ユウナはお兄ちゃんにこうされるの好きだもんな?」
「な……何言ってんの……」
「言ってみなさい。ユウナはもっと気持ちよくないたいって」
「あっ……あっ……お兄ちゃんの意地悪……ユウナをもっと……
 気持ちよくぅ……あっ……させてっ……くださいっ……。」

ギンギンに立ったアソコを、ユウナに挿入した。

「あああああ!! ああああっ ああああんっ……!!」
「どうだっ……奥まで入れてるぞっ……!!」
「あんああんああんっ!! ああんっ……もっとおっ!!」

激しく上下に揺れる乳房を手で握る。本当にこの感触は最高だ。
さらに激しくピストンすると、ユウナが激しく髪を振り乱しながらあえいだ。

今気づいたが、ゴムをつけるのを忘れた。
ここは一般のホテルだから探してもないだろう。

僕はタラまず二回目の射精をした。
ユウナのそこをシャワーで洗ってあげる。
ユウナがまだイってなかったので、
クリトリスを指でつまんで気持ちよくさせてあげた。
ユウナのクリは信じられないくらいに敏感になっていて、
2分くらい触っただけで全身を大きく震わせ達してしまった。

僕に触れられると全身を包み込まれるような快感になるらしい。
二人でシャワーで洗い流してからベッドに戻る。食事はまだしてないが、
疲れたのかユウナは枕に顔を押し当てて眠りについた。

そしてアユミが起きた。

「ナツキお兄ちゃん。私にもさっきのと同じことして」

そう。実は見られていたのだ。
バスルームの扉越しに人の気配がするとは思っていた。
アユミがホテルに着いてから狸寝入りをしていた理由は、
ユウナに遠慮してのことだったのだろう。

正直僕は二度も達したので満足している。
だが愛する妹の頼みを聞かないわけにはいかない。

「こっちに来なさい」
「うん!!」

またバスルームの冷たい床の上で交じり合うことにした。
全く同じプレイではつまらない。
アユミの片足を持ち上げた状態で立たせてやり、股の間に
顔を突っ込んだ。割れ目を縦になぞり舐めていくと、
アユミが「んっ……」と切なそうに声を上げるのだった。

「バスタブの上で足を置いて片足立ちになってくれ」
「うん。これでいいの? でも恥ずかしいよ」
「アユミのここをもっとじっくり見てみたくてね」
「いやん……」

割れ目を押し開いてみると、中は綺麗なピンク色をしていた。
エッチな液体がテカテカしている。そのまま舌で味わう。

「んもう……エッチ……」

アユミは顔を真っ赤にしながらも抵抗はしない。
アユミの味はユウナとは全然違う。きつい匂いもしないし、
味がうすくてほとんど何も感じない。胸は平らで色気はないが、
引き締まった太ももと小ぶりなお尻は十分に魅力的だ。

たっぷりと時間をかけて舐めてあげると、アユミの吐く息が
どんどん荒くなっていく。次第にふらつくようになった。

「お、お兄ちゃん。もう座りたいんだけど」
「だめだ。しばらくそのままでいなさい」

アユミの手をしっかり握り、倒れないようにした。
クリトリスを皮をむき、キスしたり舐めたりしてると、
愛液の量が増えてきた。吸うこともできるほどに。

「んーーーっ。かんじちゃうぅ………」
「こら。動いちゃダメだろ?」
「はぁはぁ……ああんっ……まだダメなのぉ?」
「だめだ。おとなしくしてなさい」

アユミが太ももで僕の顔をはさんでくるが、まだやめない。
すでに脱力して立っているのもやっとの状態だが、たんたんと舐め続ける。
クリトリスは敏感なので軽く舌で触れるだけでも大きな刺激となる。

「ああっ……ああっ……お願い……座らせてぇ……」
「ダメだと言ってるだろ。我慢しなさい」

アユミは体をくの字に曲げて大きな声であえぐ。本気で感じているようだ。
女性は大きな刺激を一度に与えるよりも小さな刺激を続けた方が感じる傾向にある。
膣に口をつけて、わざとらしく吸ってやると、おおげさな水温が鳴る。
口の中がアユミのエッチな味でいっぱいになる。

「もうイきたいか?」
「うん……早くしてぇ……」
「ならこれでどうだ?」
「ちょっ……あぁああああっ!! ああああああああっ!!」

二本指を下から突き上げるように挿入してやった。
そしたらアユミの絶叫してホテル中に響くんじゃないかというほどだ。

指を入れたままで、ぐりぐりと壁の内側をいじめてあげた。
するとアユミは急に静かになり、目を閉じて顔を横に向けた。

「はうっ……んっ……うんんんんぅ!!」

潮を吹いたのだ。股から大量に拭いた。一瞬のことだった。
床がびしょ濡れだ。僕はアユミの割れ目をもてあそび、開いたり閉じたりした。

「うっ……や、やだぁ……みないでぇ……」

「アユミは可愛いよ」

僕は絶倫なのか、本日三度目の勃起状態である。
アユミを今度こそ座らせて、僕のソコを握らせる。
アユミは従順にフェラをしてれたので彼女の顔が
真っ白に染まるほど射精してやった。

アユミは嫌そうにしてなかったのが不思議だ。
そんなものなんだろうか。

僕もアユミもつかれていたのでそのまま寝た。
朝になるまで目覚めることはなかった。

「オーケストラ?」

  音楽とは、目に見えない芸術である。
   絶対音感の世界になると、耳で聴いた音から色を連想するという。
    コントラバスのような地を這う低音は黒く、
    またバイオリンやフルートの高音は白や黄色が思い浮かぶ。
 
    クラシックの世界では、楽器の音色から、
    そこにあるはずのない情景が頭に浮かぶことがよくある。
      
   それは文字のメディアである小説と似たところがある。
   小説では視覚情報を頼りに、登場人物の言葉を脳内で再生する。
   モノローグも読んでいるようで実のところ、音を再生している。
   音を再生するから、情景が浮かぶ。読んだ人によって映像は異なる。



※アユミ

翌朝、西寧から上海まで空の旅をした。到着したのは正午だった。
さっそく成田空港行きの便を探すのかと思ったら、お兄ちゃんが
市内を観光したいと言いだす。

「上海にはオーケストラがある。上海交響楽団。
 日本に帰る前にぜひ聞いておこう」

※上海交響楽団。上海は古くから外国との交流が盛んで近代においては
西洋列強国の租借地とされた。そのため西洋の文化が大いに取り込まれ、
当時はユダヤ人やロシア人、イタリア人を主とした管弦楽団を設置。
第二次大戦中は日本軍の占領下による文化的支援を受けながら発展し今日に至る。

「私はディズニーに…」
「ん? 何か言ったかアユミ?」
「いえ、なんでもないです」

私だって遠慮する時はある。ユウナと和解してから、気持ちがほっとしたからか、
お兄ちゃんにこれ以上迷惑をかけたくないと思った。今ではリスカしたことも
反省している。どうして私はあんなことをしてしまったんだろう。
恥ずかしくて死んでしまいたくなる。

「上海ディズニーランド、いいわよね。アジア最大規模のテーマパーク。
 音楽を聴いた後はそっちも回ってみましょうか」

お姉ちゃんが気を利かせてくれるけど、お金はあるの?

「日本円だけど多少はポケットマネーがあるわ。問題はどこで両替するかなんだけど、
 空港でやったほうが為替レートの関係でお得なのよ。さあまずは両替しに行きましょうか」

   ※余談ですが、中国の都市部ではキャッシュレスが相当に普及しています。

ついこの間までは、ディズニーならひとりで行けとか言われたのに。
お互い気を遣う関係にまで修復した。奇跡に近いと思う。

ユウナはお兄ちゃんにチベットまで無理やり拉致されてたのに、よくお金を持ってるね。
空港まではホテルから歩いて行ける距離だった。ユウナは道中、
鼻歌なんか歌っちゃって、すごく楽しげな様子だった。私たち姉妹は兄にぴったり
くっついて歩いた。周りから見れば両手に花だったと思う。

オーケストラの品目は、
ショスタコーヴィチ第五番革命の全曲。
バッハのオルガン曲を数曲
ブラームスのバイオリンソナタ第一番。などなど。

1200名が座れるメインホールでの壮大な演奏だった。
クラシックは、とにかく長い。そして空気が張り詰めていて、咳やくしゃみを
したら目立ってしまう。トイレに行きたくなっても席を立つのは気まずい。
誰もが楽章の合間に、咳をしたり溜息を吐いたりする。

私は真剣に聴いているお兄ちゃんたちには悪いけど、はっきり言って興味ない。
家でも音楽はあんまり聴かない。学生時代はJPOPとかにはまったけど、大人になると
飽きてしまう。オーケストラは、音が激しくてガガーン!!と鳴る部分と、
木管楽器がささやくように歌う場面の繰り返しで、私には退屈に感じられた。

照明に照らされた演奏者たちが汗ばみながらも、譜面から目を離さず、演奏を続けている。
華麗にドレスアップした東アジア人を中心としたヴァイオリン、ヴィオラ隊の女性たちが、
この世のものとは思えないほどに美しく感じられた。蝶ネクタイの男性たちは額に汗をにじませてる。
演奏前に、兄から第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの配置だけ説明されたから、
あの人たちの位置だけは覚えている。だけど、明日には忘れてると思う。

私はうとうととしてしまい、本当に寝てしまった。


※ユウナ

アユミったら、そんなにも疲れていたのね。もう演奏は終わって、
場内は拍手の渦に包まれているのに。コンダクター(指揮者)が壇上で礼をし、
コンサートマスター(ヴァイオリン首席奏者)の手を握る。

今日はアンコールがあるみたいね。立ち上がっていた演奏者たちが再び席に着く。
最後くらい真面目に聞きなさいと、アユミの肩を叩こうとした時、ふいに衝動に襲われた。

それは、頭を何かで小突かれたような、錯覚にも似た感覚。きっと気のせいね。
最初はそう思ったけど、変化が生じたのは次の瞬間だった。


私は、夜の道を歩いていた。
すぐ隣には兄がいて、私に腰に手を回して一緒に歩いている。

私は信じられないくらい薄着だった。キャミソールにホットパンツ。
そして夏物のヒールが浮いたサンダル。

ここは……どこ?
夢? にしては意識がはっきりしている。

それに暑い。蒸し暑い。背中にびっしょりと汗がにじんでいる。
私の腰に触れる兄の手が、うっとおしいくらいに感じられる。
本当だったら彼に触れてもらうだけでもうれしいはずなのに。
同じ空気を吸えるだけでも喜ばしいことだったはずなのに、今は……怖い。

「ね、ねえお兄ちゃん? ここはどこなのよ」

兄は返事をしてくれなかった。怒ってるわけでもない。ごく普通の顔だ。
恐ろしかったのは、兄が高校生に戻っていたことだった。兄は高校三年の時、
学内にファンクラブがあるくらいの人気者だった。学園の生徒会長だったこともある。

兄は安物のTシャツにハーフパンツという、ボリシェビキらしい質素なファッションだ。
髪の毛がサラサラで肌が若い。やっぱり十代の男性は若いんだなと感じられた。
大人になった兄は貫禄があって素敵だけど、こっちの兄もこれはこれで魅力があった。

私の視界に映る手足も、自分でもはっきりわかるほど若返っている。肌がきめ細かいのだ。
どんなに美容に気を使っても10代の人には勝てないんだと、この状況で悟ってしまった。

「ユウナ。怖いのか?」
「お兄ちゃん。やっとしゃべってくれた。ええ怖いわよ。ここはどこ?」
「実は僕にも分からなくてね、さっきまで考え事をしていた。ユウナを無視するつもりはなかった」
「そうだったのね。それにしても変ね。まるで二人一緒に同じ夢を見てるような感じがする」

「夢か……夢だったらよかったんだが」
「どういう意味?」
「僕にはカンで分かるんだよ。これはたぶん夢じゃないんだってね」

背後から足音が聞こえてきた。ゾッとしてしまう。
見知らぬ若い女性だった。買い物帰りなのか、レジ袋を持って速足に歩いている。
はたから見たら恋人にしか見えないであろう、
私たち兄妹の横を通り過ぎて行った。一瞬の出来事だった。

彼女の背中が闇の中に消えてから、兄がぼそっと言った。

「ここはおそらく日本だ」

「えっ。日本?」

「ここは舗装された歩道だ。すぐ横に一車線の車道がある。車は走ってないことから
 今は深夜なんだろう。電信柱に街灯がある。どう見ても日本国のインフラ設備だ。
 外国とは違う。民家を見てみろ。瓦(かわら)屋根のごく普通の家だ」

兄の言うとおりだ。古い感じの家が並んでいる。
どこも田舎だからか庭が広くて、家の玄関から道路まですごく距離がある。
周りには山がなくてどこまでも平地が続いている印象だ。

どこに進んだらいいのか分からない。民家のある場所を過ぎてしまったら、
あたりは田んぼしかない。そして街灯の明かりもここまでは続いてないので、
いよいよ闇に支配されてしまう。私は怖くて震えてしまう。兄はスマホを取り出して
ライトアップした。これで足元だけは照らすことができる。

「ユウナ。キスしようか」
「えっ、こんな時に?」
「こんな時だからこそだ。どうせ誰も見てないんだ」

唇ごと吸われてしまった。あまりにも暴力的なキス。
いつもの兄なら、こんなに強引には迫ってこない。
息が苦しくて、私は途中で顔を横にそむけてしまった。

「ごめんなユウナ。もうしないよ。僕も実は気がおかしくなりそうでね。
 怖くなって君にキスしたくなったんだ」

「怖いのは……私だって同じよ」
「ああ、だから謝ったんだ。ユウナは僕を嫌いになったかい?」
「何言ってるのよ。こんなことで嫌いになるわけがないでしょ」
「そうだよな」

また、私の腰に手を回して、歩き出した。兄は私を外敵から守るかのように、
寄り添ってくれていた。私も彼のたくましい体に密着させてもらった。
怖いけど、兄がいてくれるから安心する。兄はしっかりとスマホを握りしていた。
この暗闇の中ではスマホのライトだけが頼りなのだ。

「あっ、兄さん。今思いついたんだけど」
「なんだ?」
「スマホの位置情報で場所を確認してみたらどうかしら?」

兄は大きな声で「なるほど!!」と答え、私の頬にキスをしてからスマホを操作した。
考えてみれば当たり前のことが、すぐに思いつかないのが緊急事態なのだ。

「埼玉県……?」

「えっ」

「ここは埼玉県の北東部だ……。もちろん僕はこの町の名前を知らない。
 来たこともない。ユウナはこの町の名前を知っているか?」

「聞いたともないわよ。北東部ってことは、
 地図で見ると茨城県や群馬県都の県境なのね。
 私たちの足利市ともそんなに離れてない」

兄は髪の毛を乱暴にかく。明らかに動揺を隠せてない。暗闇越しでも
兄が不機嫌になっていくのが伝わって来た。空気がピリピリしてくる。

「兄さん、どうするの?」

「前に進むしかないさ。ここで立ち止まっていても時間の無駄だろう」

兄は今度は私の肩を強く抱き寄せて歩き出した。そのまま田舎道を歩いていくと、
T字路に突き当たった。私達は歩道を歩いているから、右か左のどちらかに曲がればいい。
おかしかったのは、Tの先端は、車道になっているんだけど、
私たちの目の前を戦車が通過したことだった。

車体に日の丸のマーク。自衛隊の戦車だ。戦車はゆっくりと二両通過した。
埼玉には自衛隊の基地があるんだろうか。彼らは私達には全く関心を示すことはなかった。
車道には往来があって、普通の自動車も走っている。乗用車の中に軽トラも含まれていた。

私達はT字路を右へ曲がった。その先にコンビニの明かりがあることが分かったからだ。
反対側はガソリンスタンドらしきものが見えたので、そっちには進まなかった。

500メートルほど進んでコンビニの駐車場に着いた。
外観は普通のファミマだったけど、それは外観だけで、田んぼの中に立っていた。
そう。私達が駐車場と思っていたのも、それは田んぼの真ん中に建物が立っていたのを
勘違いしていただけ。私のサンダルにはたくさんの雑草らしきものがついている。

舗装された道路を歩いていたのも気のせいだった。
私と兄は最初から、けもの道を歩かされていたのだ。
この世界を作り出した、何者かの意志によって。

「へい。いらっしゃい」

店員は、若い男だった。黒髪をワックスでがちがちにオールバックに固めて、
無精ひげを生やしている。なぜかスーツ姿。革靴。どう見ても小売店の店員の姿ではなかった。

コンビニだと思われた店は、謎の雑貨屋だった。貴金属のアクセサリー類や、
動物人形や食器類などの生活雑貨が並んでいる。どれも外国製なのか、アフリカチックな感じの
派手な色のデザインだ。兄は試しにと、金色のネックレスを手に取る。
値札には34万と書いてある。こんな田舎町の物価を考えると、有りえないほどの高価な品物だ。

お店の時計を見ると、深夜の2時なのが分かった。
こんな時間なのに店の中はにぎわっていて、自衛隊の服を着たお兄さん。
麦わら帽を首の後ろにかけた、農家のおじいさん、濃い茶髪で品のあるおばあさんがいた。
皆狭い店の中を行ったり来たりして、品定めをしている。

店員はなぜか三人もいて、レジの前で来月のシフトの相談をしていた。

「ところでお客さん」

馴れ馴れしくも、オールバックの店員が話しかけてきた。

「こちらの店で扱ってる品物は、主にイランから仕入れたものです。高価なことに
 驚いたでしょう。なにせペルシア帝国の時代から受け継がれた金銀財宝を
 扱っている店なものでして。実際の価値を考えると、この値札の10倍はしても
 おかしくはない。つまり格安ってわけでさ」

私たちが夫婦に見えたからだろうか。ダイヤの指輪を進めてき。値段は240万らしい。
私は拒否した。まずこの世界の私はお金を持ってない。仮にお金があったとしても、
ボリシェビキは資本主義者と違って派手なものを身に着けて優越感に浸る文化はない。

「ならコインはいかがです? コインはゴールドの他にもシルバーやプラチナがあります。
 若い方はシルバーに興味を持つ方もいるもんでさ、だがお客さんたちは、ぜひともゴールドを
 すすめたいね。嫁入り道具には、なんといってもゴールドがおすすめさ」

中東だけでなく、スイスを中心とした西洋諸国でも結婚する娘にゴールドを
持たせることはよくあるらしい。今後、世界にどんな経済危機が訪れても安心。
例えば急激なインフレが起きたり、政府が債務不履行になって通貨の価値が下がっても、
金ならば価値が失われることはない。むしろ金の価格は主に米英の先物価格によって保護されていて、
金融危機が起きた時こそ、値が上がる仕組みになっている。なによりその見た目の美しさに目を奪われる。

「綺麗ね……」
「ああ、綺麗だな」

そのゴールドは、手のひらサイズのコインなんだけど、これだけで50万の価値があるという。
純金の輝きは、実際に手に取ったものにしか分からない。
古代ペルシア、古代エジプト、メソポタミア、中国四千年の歴史、
その歴史をさらにモーセの時代までさかのぼっても
金の価値が失われたことは一度もなかったことだろう。

なるほど。私は株とか不動産とか、資本主義者がお金儲けの道具にするものは
大嫌いだけど、自国の通貨の暴落に対する保険として、金を持つのは悪くないと思えてきた。
ふざけた夢の中なのに勉強させられてしまった気分だ。

店員は、私を指さした。

「そのゴールドは、お客さんのものだね」
「私のものって……お金は払えませんよ」
「いいんだよ。それはお客さんのものだ」
「ですから、お金が払えませんが」
「いいんだよ」

さすがに悪いと思ったので、兄も真摯に断ろうとするが、
「いいんだよ、気にするな」と店員は引かない。まさか偽物をよこしたのか。
仮に本物だとしても、高価なものと自分で説明しておきながら、
お客に無償で手渡すメリットがあるのだろうか。

私と兄は最後まで納得がいかなかったが、くれるものなら断ることもないとして
受け取ることにした。ゴールドは重い。
せめてバッグでもあればと思ったが、ないものは仕方ない。
私は手に持ったままお店を出ることにした。

お店の外は、やはり田んぼの真ん中だった。稲刈り前で、ぼうぼうに伸びている。
足や腕に稲がちくちく刺さる。今になって気づいた。こんなにもカエルの大合唱が響いているんだ。
腕が妙にかゆいので蚊に刺されているんだろう。

ふたりで田んぼのど真ん中から脱出して歩道まで出た。
田んぼの土は柔らかくて、何度も足をすくわれそうになった。

兄は私を包み込むように抱きしめてくれた。こんなにも蒸し暑いのに、彼は震えていた。

「ユウナはあの男の正体に気づいていたか? あれは僕たちの父親だよ。
 若い頃のな。僕がカイロの学校に通っていた頃の、エリートだった時の父だ」

「うそでしょ……あれがお父さん? 兄さんのことお客さん扱いしてたじゃない。
 見間違いじゃないの?」

「間違いないよ。僕が父の姿を忘れるわけがない。あっちは僕を息子として
 認識してなかったようだったから、僕も知らないふりをした。どうして
 父が中東の商人の真似事をしていたのかは、考えるだけ無駄だろうが」

それからどうするか、ふたりで悩んだ。実家に帰るべきだと兄は言う。
だけどここは不思議な田舎町。駅がどこにあるのか。バス停も見当たらない。
しかも深夜ときたものだ。せめてどこかで一夜を明かせればいいんだけど、
ホテルなんて気の利いた場所があるわけもなく。

「タクシーでも呼ぶか」
「どうやって呼ぶのよ? 今は深夜なのよ」
「大丈夫だ。たぶんそんなに難しいことじゃない」

兄の願いが通じたのか、車のヘッドライトがこちらに近づいてくる。
それは黒塗りのタクシーだった。どこにでもいるような普通のおじさんが
運転手をしている。「乗るのか、乗らねえのか」と乱暴に聞いてくるので乗らせてもらった。

ここでハッとした。私たちはお金を持ってないのだ。ゴールドならあるけど、
これは現金ではない資産。円に換金しない限りは決済手段(支払い)として使えない。
つまり現状は一円も持っていない状況なのだ。

それ以上に不思議なのは、私達が行き先を告げてないのにタクシーがさっそうと
走り出したことだ。普通に考えて有りえない。
兄が鼻息を荒くしてどこまで行くつもりですかと訊くと
「そりゃもちろん足利だろう? 兄ちゃんたちの生まれ故郷の」との返事。

私も興奮して頭に血が上りそうになるが、「考えるだけ無駄だ」と兄に諭される。
兄は一転して涼しい顔をしている。昔からこうなのだ。熱くなるのは一瞬だけで、
どうせ解決できない問題だと判断すると、すぐにクールになる。こういう時、兄は
なんでも人任せにしてしまう悪い癖があるのも知っていた。
人の上に立つ立場の人間のくせに責任を取りたくないからだ。

「少し疲れた。寝かせてくれ」
「兄さん……」

兄は私の膝の上に頭を乗せた。子供のように安心しきった顔で、すやすやと寝息を立てる。
寝つきが良いのはこの人の美徳だ。家でもいっつもこうだから。
眠りが深すぎて夢を見るのは半年に一度だとも言っていた。

タクシーはインターに入る。ETCレーンを通過して、東北自動車道へ入る。
どんどん速度を上げていく。街灯に照らされた景色が飛ぶように過ぎ去っていく。
夜の高速道路の雰囲気は、いかにも非日常的で素敵だった。

「ところでね、お客さん」

「はい?」

「こんな話を知ってるかい? スペインのハプスブルク家では、代々近親相関が続いてね。
 生まれてくる子供は、病弱だったり知的障害だったりでね、乳幼児の死亡率も異常に高かった。
 フィリペ四世の時代では八人の子供は全員死んでしまい、度重なる出産の果てに妻も死んでしまった。
 ついには世継ぎを残すために自分の姪、つまり自分の妹が産んだ子供と結婚した。
 そして世継ぎを産むことに成功した」

運転手の声は、淡々としてやはり怖かった。一体何を言いだすのか。
お客に対して失礼じゃないのか。ミラー越しになぜ近親相関のことを……。

「だったら、他所から王妃をもらえばよかったんでしょ」

「そうもいかねえんですよ。スペイン王室は、高貴な血筋の維持と、カトリックの維持、
 そして財産分与を巡る問題で、どうしても近親婚に頼らざるを得ない状況にあった。
 これは苦渋の決断ってやつでさ、当時のローマ教皇も面白くは思ってなかったが黙認した。
 なぜだと思う? 当時のスペイン王国は世界最大の植民地を持っていた。
 太陽の沈まぬ国、大スペイン王国にはローマ教皇でさえ抑え込むほどの力があった」

「あなた、普通の運転手じゃないわね。さっきから何が言いたいの?
 私に喧嘩を売っているのなら喜んで買うわよ」

「俺が言いてえのはよ、人生はやり直すこともできるってことだ。ユウナ」

おじさんだと思われた運転手は、父だった。いや、急に運転手の正体が
明らかになったんじゃない。初めからそこにいたのは父だったのだ。
この世界では、全ての現象は実は気のせいだった、で片づけられるのだろう。

雑貨店にいた父の姿じゃない。こっちは老けている。それにしても老けすぎている。
私の知っている父はこんな白髪頭じゃなかった。むしろ運転さえおぼつかないほどの
年齢だ。たぶん70は過ぎていると思う。

「おめえらが結婚するって聞いたときは、アユミは荒れてたもんだぜ。
 家中にあるものをなんでもぶん投げて壊しちまってよ。しまいには
 俺や母さんにまで八つ当たりしやがって、手が付けられねえ状況だった。
 みょうに風呂が長いんで気になって母さんが見に行ったら、バスタブが血で染まっててよ。
 おまえ想像できるか? アユミが無表情で自分の手首にカミソリを……」

「もうやめてよ!! 聞きたくない!! そんなこと今聞いてどうなるのよ!!
 お父さんは私達に別れて欲しいからスペイン王族の話なんてしてきたのね!!」

「人生はやり直せる。よーく考えてみろ」

「私と兄さんは真剣に愛し合った末に結婚したのよ。たとえ実の父に反対されても
 どうにかなるものじゃないの。ねえお父さん、どうしてそんなことを言うの?」

「はて。なんのことでしょうか」

「は?」

「ですから、なんのことでしょうか。お客さん」

運転手は、見知らぬ赤の他人に戻っていた。
私がひとりでわめいても、話が全く通じない。
この運転手は壮年の男性で、言葉遣いは丁寧だし、私に喧嘩を売ってくることもない。
私はもう何もかも訳が分からなくて、座席シートに拳をぶつけた。

兄はこんな時でも眠ってるんだから大物だ。いっそ私も寝てしまおう。
寝てしまえばこの悪夢も冷めてくれるかもしれない。そう願ってまぶたを閉じた。

再開①

ユウナは目が覚めたら自宅のベッドにいることに驚き、急いで鏡で自分の顔を確認した。
髪が長い。前髪が長くて目元が隠れるほどだ。顔立ちも幼い。
そして自室の壁にハンガーでかけられた学校の制服。
この状況からして自分が高校生に戻っていることを認めるしかなかった。

「あはは……まだ夢が覚めないんだ」

感情が爆発する。奥歯がカタカタと揺れ、熱い涙がこぼれる。テッシュを三枚とって
鼻水をふき取った。充電が完了したスマホを見る。朝の7時半だが、西暦を確認すると、
ユウナが高校二年生の時空に飛んでいた。また涙が出る。意識したわけではないのだが。

「お姉ちゃん、まだ起きないの。早くしなさいってお母さんがうるさいんだよ」

中学2年生のアユミだ。髪型はボブカットで24歳の時と変わらない。
顔つきもほとんど変化してない。奇跡のような童顔だ。
大きなひまわりの髪留めをしている。

「アユミ、あんたはなんともないの?」
「何が?」
「タイムスリップしたとか、そういう記憶はないのってこと」
「タイムスリップ……?」

アユミは少し沈黙してから真剣な表情になる。

「変な夢でも見た? 寝起きにしてもひどい顔をしてるよ。唇が紫色をしてる」

きっとひどい顔をしていたんだろうなと、ユウナは他人事のように思った。

「私は先に学校に行くから。具合が悪いならお母さんに伝えておくよ」

「うん……。わかった」

「本当に変だよ。風邪でも引いたの?」

「違う。本当に大丈夫だから。あんたこそ遅刻しないように行きなさい」

アユミは時間がないため、駆け足で玄関を出て行った。

この状態で学校なんて行けるわけがない。そう判断したユウナは仮病を使って休むことにした。
とはいえ、両親を心配させるわけにいかず、病院には行くことにした。
むしろ自分の体に異常でも見つかってくれた方が、休学する口実になって便利だとさえ思っていた。

クローゼットの私服は、まさしく高校生時代に着ていたものだった。
大人のユウナは少々肥満体系だったが、今はウエストが細い。
絶対に履けないはずのスカートのファスナーが余裕で閉まる。

生足を出すことに抵抗を感じない。露出が多い服は品がないので好みではないが、
兄とお出かけ用に買った。残念なことに高校三年の兄は夏休みの間も
生徒会の仕事に忙殺されていて、近所の買い物くらいにしか付き合ってくれなかった。

そんなわけで出番がない服は、文字通りタンスの肥やしにしていたのだ。
だが今日は皮肉な意味も込めてこの服を選んだ。
ミニスカートにノンスリーブのシャツだ。

外は夏の日差しが強烈だったため、一度家に戻ってから日傘を持ってきた。
たった50メートル歩くだけでも汗ばむ。ジリジリと、アスファルトを
焼き尽くすように日差しが注ぐ。オーブンの上を歩いている気分だった。

病院では夏風邪と診断されたが、あまりにも無理のある診断内容だった。
優菜は35.9℃と低めの平熱である。食欲もあるし頭痛も倦怠感もない。
飲むつもりのない薬代を払い終え、再び外を歩いた。

(ナツキに会いたい)

とユウナは思った。今朝、愛するあの人の部屋は空だった。
今頃学校に行っているのだろうか。ナツキは学園で生徒会長をやっている。
毎朝会議があるため家を出るのは6時半だ。朝寝坊が多いユウナとは同じ時間には通えない。

風邪で休んでいるのに、学校に行くのはさすがに気が引けたが、
我慢できずに下校時間に校門の前で彼を待った。

お昼に携帯で連絡はしたが、何時ものように返事がないので、ここで待つしかなかった。
生徒会の仕事は夜までかかることもある。だから夕方の下校時間にここで
待ったところで、はたして何時に会えるかわかったものではない。

下校中の生徒たちが、ユウナの横を過ぎていく。
みんなが私服姿のユウナを奇異な目で見ていた。だがそれも一瞬のこと。
ユウナが生徒会長の妹であることは周知の事実。
最後はユウナを見ないふりをして通り過ぎていく。

生徒は学生らしく楽しげに会話をしながら歩いていた。
諜報部からささいなことでスパイ容疑をかけられないために、
わざと明るく振舞っているのかもしれない。
ユウナには学生たちの話声が、外国語の会話のように遠く感じられた。


「そこのお嬢さん」
「はい?」

振り返ると、そこには背の高い男が立っていた。

「これはお嬢さんのものですよ」

黒いスーツで身を包んだ男は、ユウナにゴールドのコインを渡した。
そのコインは、夢の中でユウナが定員に渡されたものと同じものだった。

「お嬢さんがコインを落とされたのに気づいてないようでしたから、
 私が拾って差し上げたのです」

「落とした? 私は初めからコインなんて持ち歩いてないわ。
 見て。私はこの通り手ぶらよ。あなたはどうして私がコインを落としたと思ったの?」

「記憶にないのですか。それも無理はありませんが。
 あなたは昨夜、タクシーの窓からコインを投げ捨てたのです」

(そんなことしたっけ?) 優菜には本当に記憶がない。

「ちょっと待ってくれる? タクシーのことをあなたが知ってるのは……」

「それは重要ではありません。とにかくあなたはコインを捨てたのです。
 実にいけませんな。お父上が大事なものだからと持たせてくれたものを、
 そう軽々と捨ててしまってはなりませんよ」

口調こそ丁寧だが、その男から発せられる殺気は武闘派のそれだった。
男の身長が三倍にも伸びたようにも感じられた。
ユウナがこれ以上文句でも言おうものなら、何をされるか分からない。

(こいつ……なにもの?)

「コインは、大事に持っていてください。よろしいですね?」
「は、はい」

男はそれだけ言って去って行った。あまりにも一方的な物言い。
ユウナは何一つ意味のある情報を得られなかったことに腹を立てた。
奴のことは気味が悪いが、それ以上に腹が立つのだ。だがとりあえずは
気持ちを押し殺す。ユウナは日本人に特有な几帳面なA型であり、
怒りをため込んで次第に爆発させていくタイプだった。

「こんにちわ。ユウナちゃんだよね? 人違いだったらごめん」
「ミウさん……人違いなんかじゃないですよ」

生徒会の副会長の高野ミウが通りかかったのだ。隣には不機嫌そうな顔の太盛もいる。
のちに結婚することになる二人も、この時点ではまだ恋人の関係だ。

「やっぱりユウナちゃんか。なんだか別人みたいな顔してたから、勘違いしちゃったよ。
 今日は学校をお休みしてたんじゃないの? ナツキ君が心配してたよ」

「その……失望されるかもしれませんけど、
 どうしても兄に会いたくて学校に来てしまったんです。
 兄に話したいことがあって」

「ん?」 ミウが目を細める。

「えっと、その。ごめんなさい。
 ちょっと家庭の事情だから細かいことは話せないんです」

「違う違う。もともと私は人のプライベートにはノウタッチだから。
 そっちじゃなくてさ。私が気になったのは、優菜ちゃんが金を持ってることだよ」

「金……? あっ、これのことですか」

ユウナがコインをミウに手渡した。ミウは感心し、隣にいる太盛にも見てもらい、
本物であることを確認した。太盛も家が大臣だから、父の秘蔵のインゴットを
幼い時に見せてもらった経験がある。

「この大きさだと50万円くらいの価値がありそうだね。
 ユウナちゃんったら、こんなものを学校に持ってきちゃだめだよ」

「私も無防備だってわかっているんですけど、
 これは私のお守りみたいなものなんです。
 私は常に金を持ってないといけないルールがあると言うか、
 ああ、何言ってんだろう私。あはは。
 別に風邪のせいでこんなこと言ってるわけじゃないんですよ?」

「ほう。金がお守りか……」

と太盛があごに手を当てる。何か思いついたようだ。

「いくら金が好きでも、むき出しなのはまずい。俺のポーチをあげるよ。
 肩から下げられるタイプだからちょうどいいだろ?」

「いいんですか?」

「どうせ使ってないものだから、遠慮しなくていいよ。
 それにナツキ殿にはいろいろと世話になっている身だからね」

太盛から地味なデザインの肩かけポーチを渡された。カラン、と中で
何かとぶつかる音がする。太盛は美容に気を遣うのか、古風な手鏡が入っていた。
普通に考えて高校生の男子が手鏡など持つわけがない。賢いユウナはミウの私物だろうと察した。

せめて手鏡は返そうとユウナが思うが、太盛はミウの手を引き、強引に去ってしまう。
まるで鏡を返す必要はないと言わんばかりに。
ユウナはしばらく立ち尽くしていた。生徒の数は少なくなり、
傾いた夕日が校庭をオレンジに染めていた。鮮やかな色だった。
地面を燃やし尽くしているかのようにも感じられた。

気休め程度の風が引き、ユウナの汗をぬぐってくれる。
そういえばハンカチはなかったかと、ポケットをまさぐるが、
急いで外出したので用意する暇がなかった。

「ユウナっ!!」

兄が駆け寄って来た。学生服に身を包んだ兄。
利発そうな顔をしながらも、その顔には学生らしいあどけなさが残る。

兄がユウナの肩にぽんと触れた瞬間、ユウナの瞳から一滴の涙がこぼれるのだった。
理由はユウナにもわからない。どうして学校に来たんだと問われ、あなたに
会いたかったからと答えると呆れられた。

「風邪で休んだってメールが入ってたのに、返信してやれなくて済まなかったな」

「兄さんはいつだって仕事が恋人なんですから。
 私の心配なんてしてくれなくてもいいのよ」

「……いつになくとげのある言い方だな。
 僕は妹のことは大切に思ってるんだよ。嘘じゃない」

「ねえ兄さん。記憶のことだけど、チベットを旅した記憶は残ってる?」

「もちろん残っているよ。僕たちは夫婦だったもんな」

「えっ、気づいてたのね!! ならどうして私を置いて学校に行ったのよ!!」

「落ち着け。僕の記憶が戻ったのは一週間ほど前だ。それまでおまえには
 何の変化もなかった。だから記憶が戻ったのは僕だけだと思っていたんだよ」

夏樹は一週間前、やはり朝布団で目を覚ました時に、この世界に転生を果たした。
すぐにユウナに事情を話すが、当時まだ記憶の戻らぬユウナには変人扱いされてしまう。
ショックだったのはアユミにまでドン引きされたことだった。

「そうだったの……」

「お腹が減ったし家に帰ろう。その様子だと仮病のようだから安心した」

その日の夕飯は、食卓を家族五人で囲った。あの時と何も変わらない日常がそこにある。
だが全てが同じわけではなく、父は定職について収入を得ていた。
無職期間が長くてまともな就職先が見つけられなかったが、
友人のコネで中学校の用務員をしていた。

母は16時までのシフトで近所のスーパーでパートをしている。
食事はいつも母が作ってくれる。
それはユウナが就職してからも同じ日常ではあったが。

「話がある」とお風呂に入ってから兄の部屋に誘われた。
兄の部屋は質素で余計なものが何も置かれてない。

「状況を整理しよう。僕たちはどういうわけかこの世界に生まれ変わってしまったようだ。
 チベットにいた時の僕たちから見て10年か11年前の時空になるのか。
 タイムトラベルというわけだな」

「どうすれば元の世界に戻れるのかしら」

「それは考えるだけ無駄だな」

「あの世界にはアユミが……。アユミはどうしてるのかしら。
 上海に一人で残されているの? それとも私達はアユミと一緒に日本へ帰ったの?
 あっ、そもそもこの時空に私達がこうやって存在しているのに、あっちの世界の
 私達は存在するわけないか……。兄さんはどう思うの?」

「考えるだけ無駄だ」

兄は何を言ってもその一点張りだ。ユウナはいい加減腹が立ってきた。

「私は真剣に悩んでいるのよ!! ナツキも真面目に考えてよ!!」
「考えてるよ。考えてるからこそ、無駄なことを考えるべきじゃないと判断したんだ」
「ああ、もう!! 頭がおかしくなりそう!!」
「落ち着け。あんまり騒ぐとアユミ達が心配するぞ」

件のアユミが部屋の扉の前にいた。
いつのまに扉を開けたのか、二人は全く気付いてなかった。

「お姉ちゃん、風邪の割には元気だね。仮病だったの?」
「ち、違うのよこれは……」
「どうして泣いてるの?」
「今は……説明してる余裕がないの。お願い。静かにするから今は構わないで」

アユミは不機嫌そうに「あっそ」と言いながら出て行った。
(ユウナも変になっちゃった。お兄ちゃんも先週はおかしかったし、何かあったんだろうね)
アユミは変に勘ぐってしまう。ユウナのアピールがしつこいから兄が毎日
変な夢にでもうなされているんだろうと思った。

なにせ兄は先週、妹のユウナと結婚してチベットを旅していたと言っていたのだ。
冗談にしてもほどがある。アユミが何のこと?と訊いた時、ナツキは大声で叫んで
家具に当たり散らした。あの時のナツキの様子はちょっと異常だった。

「漫画読む気なくした。寝よう」

夜の11時前。アユミは蛍光灯を消して二段ベッドの上に乗った。
団地なので部屋割りに余裕がなく、姉のユウナとは同じ部屋を使っている。
兄はさすがに男性なので別の部屋が割り当てられているが。

アユミはなかなか寝付けなかった。隣の兄の部屋からまだ話し声が聞こえるからだ。
ユウナは意気地がないのか、メソメソと泣き言を言い続けている。
鼻水をすする音が不快だった。アユミは少しだけ冷房を弱くしてから、
寝返りを何度も打ち、まぶたを強く閉じたが、やはり寝付けない。

その時、ガラッと引き戸を開けて、ユウナが戻って来た。
テッシュで鼻水をすすり、髪の毛をくしでとかしてからベッドの一段目に乗る。
ギシ……ときしむ音がした。ものすごく重いオーラが漂っている。

まさかと思い、アユミが覗き込むと、ユウナはベッドに腰かけていた。
寝るつもりなどないのだろう。

「姉ちゃん、さっきお兄ちゃんと何を話してたの?」

「おとぎ話みたいな話よ。今の世界から見たら未来に話になるのかしらね」

「未来……? そういえば、お兄ちゃんも同じようなことを言ってた気がする。
 詳しく話を聞かせてよ。今ならバカにしないから」

ユウナは「はぁー」と深くため息をついた。アユミが興味を無くしてくれたら
楽だったのだが、暗がりでもアユミの目がキラキラ輝いているような気がした。

「本当に馬鹿にしないのね?」

「うん」

「本当に本当ね? 途中でからかったりしたら本気で怒るわよ」

「大丈夫だって」

ユウナは一時間近くも話し続けた。語学能力に秀でたユウナの説明は
まさしく物語と呼ぶにふさわしいほど、分かりやすいものだった。
肝心の内容は、やはり馬鹿にしたくなる内容に過ぎなかったが、
どういうわけか兄が先週話してくれた内容と一致している。

これが仮に小説の話だとしても、二人の作者が完全に同一の内容を空想するなど
常識的に考えたら有りえない。ならばこれは常識が通用しない何かが
起きているのではないかとアユミは思い始めた。

「さっき兄さんに別れて欲しいって言われた」
「はい?」
「やっぱり兄妹で結婚するのは間違ってるんだってさ」

チベットの旅は一種の逃避行だった。
ソ連では近親婚をタブー視する。日本のマスコミからも非難されている。
仮にあの旅を無事に終えて日本列島に帰国しても、おそらく最終的には離婚する流れになっていた。

もちろんアユミも一緒に幸せになるなど夢物語だ。それこそ、本気で三人で
幸せに暮らすのであれば、政治権力の及ばない辺境の地にでも移住するしかないが、
ナツキは市議会のメンバーに名を連ねる熱烈なボリシェビキだ。ユウナも学園で教頭をやっている。
党と同志レーニンに忠誠を誓った身分では反革命容疑で逮捕されるのは確実だ。


「兄さんは、元の世界に戻ることはできないけれど、
 時を前に進めることはできると言ってた。もう一度高校生からやり直して
 新しい人生を歩めば、それが私達にとっての正しい未来になる」

「でも姉ちゃんはナツキお兄ちゃんのこと諦められないんでしょ?」

「ええ、そうよ」

「これを今の姉ちゃんに伝えるのは酷かもしれないんだけど」

「なによ。もったいぶってないで話しなさい」

「お兄ちゃんには新しい恋人ができてしまったんだよ」

「なんですって!? 誰よ!! 恋人って誰!!」

「くるし……胸元掴むのやめて。あと声でかい」

「早く答えないと殺すわよ!!」

「井上さんって人。三年生の女子だよ。聞いたことない?」

「井上……? 下の名前は?」

「マミだっけ? マリカ? マリン? 
 ごめん、よく覚えてないけど、たぶんマリカだったと思う」

「思い出した!! あの女ね!! 兄さんと一年生の時に
 同じクラスだったチビ!! 兄さんのラインに名前が登録してあった!!」

「ちょっと待ちなよ。どこに行こうとしてるの」

「兄さんの部屋に行って問い詰めてやるのよ!!」

パシン、とユウナの頬が叩かれた。まさか妹に
はたかれるとは思ってなかったことと、兄に裏切られたショックで涙目になる。

「そんなことするから嫌われるんだよ。もう深夜の1時過ぎなんだから、
 寝かせてあげなよ。お兄ちゃんだって生徒会の仕事で明日も早いんだから」

「でもっ!! これは浮気よ!!」

「この世界では二人とも高校だよ。浮気じゃないでしょ?」

「それは……まあそうだけど」

「問い詰めるのは明日になってからでも遅くないはずだよ。
 今夜はおとなしく寝なさい、ユウナ」

「な、なによ怖い顔して。しかも呼び捨てにして」

「寝るんだよ、ユウナ」

この子は、本当に自分の妹なのかと思ってしまう。
アユミは普段はとぼけた顔をしているが、真剣な顔をすると妙な凄味がある。

この家はボリシェビキの幹部を輩出する家系だからか、皆何かしら
常人離れした冷徹さを持っているものだが、末っ子のアユミにもその血が
受け継がれているのだとユウナは思った。ベッドに横になるとすぐに眠気に襲われた。

再開➁

その翌日、ユウナが学校に行ってみると、昨夜妹から聞かされた情報は
フェイクだったことが明らかになった。というのも、どうも三学年では
先週から変な噂が流れているからだ。

高倉ナツキが、井上マリカに告白したが振られた、とのことで
学内では大変なスキャンダルとして広がっている。

なるほど。振られたのは分かるが、その何が問題なのか。
生徒会長の高倉ナツキは、公的には高野ミウと交際していることになっている。
この学園では代々恋愛が推奨されており、「カップル許可証」なる書類を
生徒会に提出し、受理されたら正式にカップルとしてふるまうことを許される。

交際中は誠意ある恋愛をすること。他人が邪魔をしないこと。
仮に破局する場合は生徒会に申し入れて正式に別れることになっている。
これは、学内での秩序を保つためのもである。一般的に言う風紀ともまた違う。

ボリシェビキが支配する学園では、自由な恋愛の果てに意中の相手と結ばれ、
将来子孫を残すことが大変に重要なこととされている。ソ連では職場での恋愛も
推奨されていた。逆に資本主義的な、親同士が決めた婚約関係は忌み嫌われた。
王族や貴族など特権階級を思わせる風習だからだ。

秩序を保つためには、「不誠実」「浮気」「不貞行為」が罪とされる。

高倉ナツキは、高校二年生の秋に高野ミウを生徒会の組織委員部に勧誘した。
その時に二人は交際を始めた。のちに副会長に就任したミウは、
意中の彼である堀太盛を強制収容所三号室から解放して、新しい交際を始めた。

この時点でナツキは事実上ふられているのだが「カップル許可証」は破棄してない。
つまり、公的にはナツキとミウはカップルのままだった。理由は特にない。
ナツキもミウも、仕事に忙しくて、そんなちっぽけな書類のことなど頭の片隅にもなかったのだ。

ミウは太盛に、ナツキは実妹のアユミに夢中になり、
お互い仕事の関係以上の仲には発展しようもない状態が続いていた。

井上マリカに対する告白は、「浮気」と定義され、中央委員会の生徒たちの間で
悪いうわさが広がっていく。だが相手は生徒会長のすることだからと、表立って
糾弾する勢力が現れることもない。少なくともこの時点までは。

それからさらに二週間の時が過ぎ、学園は夏休みのシーズンを迎えようとしていた。
また悪いうわさがユウナの耳に入る。

ナツキが、諜報部の二年生の女子を、放課後無理やりホテルに連れ込もうとした。
結局は女子が本気で抵抗したので事なきを経たが、中央委員部に通報されてしまう。
役員が集まる会議の席で、ナツキは強烈な自己批判を迫られ、謝罪した。

ナツキは、その後も懲りることなくボリシェビキの女の子を口説いて回った。
異常すぎる彼の行動に脅え、誰も良い返事をしてくれない。
ナツキはついに閣僚会議の賛成多数により会長職を罷免されてしまう。
盟友の保安委員部のイワノフ、皮肉屋だがナツキと親しい校長ですら、
採決の際に右手をはっきり挙げたのはショックだった。

夏休みが始まるころには、保安委員部で雑用を任された。
強制収容所7号室の管理の仕事だ。管理と言っても屋内ではなく、
収容所の周辺の機械設備の保守点検や、清掃作業などだ。

暑い時期には雑草がよく生える。裏には林があるのでも虫も多い。
除草、消毒作業、校庭の芝や土の整備など、とても学園ボリシェビキの
最高権力者だった人間がやるべき仕事ではなかった。

ナツキは夏休み中も7号室に泊まり込みで働くように指示された。
これは一連の不貞行為に対する罰とされており、強制労働であった。
彼の監視には保安委員部が直接つくことになり、7号室の敷地の
どこを歩いても、二人の人間が後ろから着いてくるありさまだった。

「はぁはぁ……暑いためか息が切れるな。軽くめまいもする。
 指先にも力が入らなくなってきた」

ナツキは生け垣の剪定をやっていた。体はそれなりに鍛えているつもりだったが、
酷暑の中、重量のある電動バリカンを使っての作業は、腕と足に負担がかかりすぎた。

太陽は天頂付近にある。せめて15時過ぎから作業を始めても
文句は言われないのだが、ナツキは進んで過酷な環境で働いた。

「同志閣下、おそらく熱中症の初期症状と思われます。お飲み物をどうぞ」

「すまないね。君、名前は?」

「ウリヤーノフでございます。昨年の秋にこの学園に編入してきました」

「日本語がうまいな。ネイティブ並みだ。それに良い目つきをしてる……。
 君なら立派なボリシェビキになれるさ」

「光栄でありますっ」

背筋を正すウリヤーノフ。長身の欧州系ロシア人だ。180は優に超えていた。
彼のように左遷されたナツキを慕う人は少なくなかった。
組織委員部の長である二学年時から、直近の会長時代まで、
一貫してナツキは穏健派として知られていた。

ボリシェビキの内部闘争が(過去作・斎藤マリー・ストーリーの保安委員部の
脱走事件を参照)発生しても、反逆者を一様に粛清することはしなかった。
有罪が明らかな者に対しても、言い分を最後まで聞いてから総合的に判断する。
公平な人物として定評があった。

逆に評判の悪いのは副会長のミウで、その容赦のない残酷さは一般生徒はだけでなく、
ボリシェビキからも嫌われていた。なんと当時は中央委員会の全メンバーが反ミウ派だったのだ。

「うまいな。アクエリアスの入ったボトルなんだろうが、
 こんなにもうまく感じるとは。
 さすがにもう力が入らないから、しばらく休憩にするか」

「本日は朝の7時から作業をされてますから、
 もう終わりにしてよろしいのではないのですか」

と女子の監視委員が言う。彼女も保安委員部の所属で、こちらは日本人の女子だ。
フチなしの眼鏡から、知性を宿した瞳がのぞく。

「この生け垣は、おひとりで剪定をするには広大すぎます。夏休みはまだ
 始まったばかりですし、中央委員部もさすがに全てを同志おひとりに
 お任せるする意図はないかと思われます。今回の件を……少々反省していただく
 つもりで、同志一人に当分の間、作業させるおつもりなのでしょう」

7号室の校庭(敷地)は、野球部が練習ができるほどの広さがある。脱走防止用の
鉄条網が周囲に張り巡らされている。四隅の鉄塔は高さが4メートルもあって、
機関銃が地上を見下ろしている。もともとは野 球部の寮だったこともあり、
足利市の山を中心とした美しい自然に囲まれてはいる。
グラウンドを囲う生け垣は、本来なら保安委員部と教員が20名以上で取り込むものだ。
(ボリシェビキの管理する特殊な学園のため、外部の業者は入れない決まりになっている)

広大な庭の管理を任されて思うのは、孤独感と絶望感である。誰の助けも借りられない。
いつまでやっても終わりそうにない。滝のように流れる汗のせいで、
首に巻いたスポーツタオルは重くなり用を足さない。

それでも彼は、

(ユウナのことを忘れたい)

そう思う一心で早朝から作業を続けていた。
ナツキは監視員たちの助言に従い、今日の作業はこれで終わりにすることにした。
電動バリカン(チェーンソー)のコンセントを抜き、コードリール(延長コードを円形に巻き取る装置)
をぐるぐると回しているところで、ついに体温が上がりすぎて倒れた。

女子の柔らかい手つきで脇を持たれ、タンカに乗せられたまでは覚えている。
目を覚ましたのは、7号室のベッドの上だった。

「ナツキ君……」
「兄さん……」

最初に目に入ったのは、高校生時代の高野ミウだ。シャープな目鼻立ちの美女である。
当たり前だが高校生なので若い。この子が大人になると、
女子アナ顔負けの美貌を手にすることになるのだが。

ミウの隣の椅子には、妹のユウナも座っていた。おでこに乗せられた濡れタオルを交換してくれる。

「ミウにユウナ、二人とも心配をかけたね」

「まだ寝てた方がいいよ」

とミウが起き上がろうとしたナツキを、無理にでも寝かせてしまう。
この部屋は、管理人に用意された部屋だ。
ベッドとソファーだけが置かれた6畳間ほどの広さ。
エコ運転モードになったエアコンがごおごお、と音を鳴らしている。
わずかに開いたカーテンから、日差しが漏れている。

「ナツキ君、落ち着いて聞いてほしいんだけど。今意識ははっきりしてる?」

「ああ大丈夫だ。これでも家で高熱を出した時でも頭だけは働く方でね。
 それでなんだ?」

「実はユウナちゃんからはナツキ君に話さない方がいいって言われたんだけど、
 私は全部聞いちゃったから。あなたに私の秘密も伝えておこうかと思って。
 実は私はね、この世界の人間じゃ……」

「ちょっと待ってくれ。いたっ、転んだ時に手首をひねったか。
 全部聞いたってことは、まさか僕とユウナの未来を知っているのか?」

「ふたりは夫婦だったって聞いているよ。しかもチベットを旅してたんでしょ?
 私が一番驚いたのは、私と太盛君の間に男の子が生まれていたことかな。
 てっきり女の子が生まれてくるのを想像してたんだけど。
 私の家系は代々女の子しか生まれなかったってママから聞いてるから」

「待て待て。そう一度に話さないでくれないか。頭が混乱してきた。
 ここからは一問一答にしよう。僕が質問する。ミウは、どうして
 僕とユウナの未来の件をそんな簡単に受け入れてくれるんだ?」

「私も、未来から来た人間だから」

「な……? それは嘘だろ」

「嘘じゃないよ」

ミウが声を低めた。本気で怒っている証拠だ。
ミウは自分がかつて、太盛の家に使えるメイドだと説明した。
ここまで不機嫌だといつ英語が出ることやらとヒヤヒヤしたが、最後まで
日本語で説明したのは、まだ理性的が残っていたということだ。

「仮にナツキ君達の示した未来があるとして、その時空での私は正しい道を
 歩んだみたいだね。私は太盛様と結婚して子まで宿しているってことなんでしょ?」

「太盛様か……。まさか君と彼にそんな因縁があるとは知らなかったよ。
 君はあそこまで彼を慕っていた理由が今わかった」

ミウは他にも、7号室の囚人に
太盛の娘(未来の可能性)が収容されていることを教えてあげた。
同級生のエリカが、将来の妻になることも。
そのエリカから生まれた娘が、上述の囚人の斎藤マリエであることも。

「ミウ。教えてくれ。僕はどうすればいいんだ?
 どうすれば歴史を変えられるんだ?」

「それは……ナツキ君が決めることだよ。ただ一つ言えることはある。
 ユウナちゃんには悪いけど、ナツキ君がユウナちゃんと結ばれることで
 幸せになることは、絶対にないと思うよ」

ユウナが、制服のスカートの上でぎゅっと手を握った。
ぽろぽろと、大粒の涙が零れ落ちてスカートに染みを作る。
いつもだったら、赤の他人に自分の恋を否定されて怒るところだが、
今回は反論できそうにない。
ユウナは本気で悔しがっている時は泣いてしまう。女の涙だ。

そんな妹の様子を横目で見ながらナツキは続けた。

「ミウ、一番の問題はね、僕がユウナのことを諦められないことなんだ。
 他の女の子と付き合ってみたら忘れられるのかと思ったけど、こんな軽い気持ちで
 女子を口説いてもうまくいくわけない。僕は今でもユウナのことを愛しているんだ」

ミウはごくりとつばを飲み込んだ。彼があまりにも真剣な顔で言うものだら、
自分が言われたわけでもないのにキュンと来てしまった。恋人の太盛には
こんなにも熱っぽい言葉を、こんなにも真剣に言われたことは一度もなかった。

「兄さんっ」

兄にしがみついたユウナは、わんわん泣いた。ミウは何も言わず、静かにその場を去った。
この部屋の監視カメラは部下に指示して止めてある。廊下の警備にも、中の二人の邪魔を
しないように伝えておいた。

かつてミウがナツキと一か月だけの交際をした時、ユウナは小姑のようにミウの
近くを嗅ぎまわったものだ。ミウは嫌われている自覚はあったが、一方でミウからしたら
優菜は一学年下の生真面目なボリシェビキであり、決して嫌いではなかった。
未来では校長と教頭の関係になっていると聞いて、ますます運命的なものを感じた。

何か二人を救ってあげる方法はないものかと、ミウはその日から頭を悩ませることになる。

再開③

夏休みのとある午後、アユミは自転車をこいで街へ出掛けた。
発売したばかりの少女漫画を買うためだが、話題沸騰の人気作のため
本屋を三軒回っても売り切れだった。

がっかりして、通販サイトの中古品でもいいから買おうかと悩んでいると、
自転車の後輪が「ぎったん、ばっこん」と揺れだす。

「タイヤに穴が開いちゃった……。なんかクギっぽいのが刺さってる。
 ここ(駅前)から家まで7キロも離れてるのにどうしよう。
 運悪いなぁ。朝のテレビの占いはやっぱりあてにならない」

ぶつぶつ言いながら、こんな時に兄が迎えに来てくれたらなと思ってしまう。
兄は学園の雑用係を泊まり込みでやっているのだ。家にも当然帰ってこない。

「ほんとについてないなぁ」

アユミは口をアヒルにしながら、自転車を押した。歩きの場合は家までどれだけかかるのか。
途中で自転車を捨ててタクシーで帰ってしまおうかとさえ思う。
近所に友達の家があれば置かせてもらえそうな気もするが、そもそも友達が一人もいない。

「おーい」
「ん?」
「おーい、そこの女の子。君だよ君。タイヤがパンクしちゃったのかい?」

軒先から声をかけてきたのは、そば屋のおじさんだった。個人で経営しているお店だ。
16時過ぎで暇な時間のためか、アユミの自転車を軽トラの荷台に乗せてくれた。
助手席の歩美が細かく道を案内しながら、軽トラが進んでいく。アユミは車に詳しくないが、
40過ぎのガタイのいいおじさんが、マニュアルギアを軽やかに操作する姿が格好良く映った。

「お嬢さんはどこの人なの?」
「足利市の○○町です」
「ほう。あそこは例の学園で有名なところだよね」
「私の兄があそこで生徒会長をやってるんですよ」
「え……」

恐怖政治がはびこる学園の悪評は全栃木県内に知れ渡っている。
足利市民にとっては当然周知の事実だ。それからそば屋のおじさんは
急に静かになり、アユミが道先を案内する声だけがむなしく響いた。

家に帰ると、姉がベッドで横になっていた。
寝ていたわけではなく、スマホをいじっていた。

「帰ってきてたのね。今日はどこで遊んできたの」
「例の新作を探しに町中を探し回ってたの。結局見つからなかったけど」
「私は続きを知ってるんだけどね。その10巻先まで」
「言っておくけど、ネタバレしなくていいよ。マジ迷惑だから」
「ちなみに作者は今から六年後に体調不良を理由に打ち切りにするのよ」
「だから言わなくていいって!! 姉ちゃんが未来人なのは信じてあげるから!!」

ユウナはくすくすと笑った。屈託のない笑みだった。
アユミは、姉の机に見慣れないポーチがあるのに気づいたので指摘した。

「ああ、これ? 太盛さんにもらったのよ」
「せまるさんって、誰だっけ?」
「私の一つ上の先輩の方よ。あんたはまだ会ったことないもんね」
「兄さんよりイケメンだったら会ってみたいな」
「そうねぇ。顔だけなら、たぶんあっちの方が美形かな」
「そんなにかっこいいんだ!!」

「でも背は低い方だし、去年まで収容所生活を送ってたから、
 精神的にやばい人らしいよ。ポーチもらっておいて
 こんなこと言ったら、罰が当たるかもしれないけど」

「本当に罰当たりだよ。その中には何が入ってるの?」

「ふふ。見て驚きなさい。これを見たら嫌でも私が未来から来たって信じてくれるはずよ」

「だーかーら。何度も信じてるって言ってるのに、ユウナは疑り深いな」

アユミは、生まれて初めて純金を手にした。思わず見入る。そしてその輝きに目を奪われる。
初めて見た人は大体こんな感じだ。女の子は誰だって光物が好きなものだが、その辺の
アクセサリー店で売られている品物とは「歴史の重み」が違う。はるか古代から人類が
永遠の価値として認めてきた金は、たとえ小さなコインの形でも、一度見たものを
とりこにしてしまうほどの、圧倒的な魅力があった。

「これ、高いんでしょ?」
「50万くらいかな」
「そんなに!! どうやって買ったの!! まさか盗んだの?」
「盗むか!! 親切な人にもらったのよ。夢の中の世界でね」
「どんな親切な人がこんなものくれるの。偽物の可能性は?」

「太盛さんやミウさんにも見てもらったけど、どう見ても本物だって言われたよ。
 そこに純度99.99パーセントって彫ってあるでしょ」

「これどうするの。銀行とかで売って現金にしないと使えないんでしょ?」
「売ったりはしないわ。しばらくの間このままにしておくつもりよ」
「でも危ないんじゃないの?」
「どうして?」

「金を持っている家って7割の確率で泥棒に入られるらしいよ。
 この前テレビで言っていた。金のある家には金の匂いがするんだって」

泥棒に狙われる可能性を考えると、ゾッとした。でもここは貧しい団地だ。
そうそう入られることはないだろうとユウナは思った。そもそも謎の男に
絶対に手放すなと言われているのだ。実は学校のカバンにもこっそり入れて持ち歩いていた。
学校で盗難にあえばそれこそ終わりだが、両親も共働きなので家に置いておくよりは、
外部の人間の侵入を許さない学園に置いた方が、むしろ安産かと思ってしまう。

「姉ちゃんのポーチ、まだ何か入ってるよ」

「太盛さんの私物かしらね。返さなくていいって感じで
 渡されたから、ずっとしまっておいたんだけど」

「手鏡……? こんな古臭いの今時の高校生が使うのかな」

取っ手のついた木製の手鏡だった。和風な感じの、歴史を感じさせるデザインだ。
こんなものを普段から持ち歩いているとしたら、
堀太盛は相当にジジ臭い趣味をしていることになる。

「ん……? このひと、だれ……?」

歩美は、その鏡が自分自身を映してないことに驚愕した。
いや、自分であることに変わりはないのだ。だがそこにいるのは
今の自分ではない。未来の自分だった。髪型に変化はないが、
顔つきがキリッとして、大人の顔になっている。

今彼女が着ているのは夏物のブラウスだが、鏡の中のアユミはコートを着ている。
まず季節があってない。そもそも、この鏡は何を映し出しているのか。
怖くなった歩美は、思わず鏡を落としてしまうが、床に振れる直前で姉がキャッチする。

「そういうこと……なのね」

優菜も鏡を見て納得した。鏡の中にいるのは未来の自分で間違いなかった。
堀太盛がユウナに鏡を渡した意味はこれだ。校門で会った時、ユウナは
太盛に事情を話したわけではなかった。だが、なぜ彼はユウナにこの鏡を渡そうと思ったのか。

なるほど。おそらくこの超常現象を解決する方法を太盛が知っている可能性は高い。
太盛の家系は、足利市に古くから伝わる神社の家系。そこの次男が家を出てから
実業家として成功し、子の太盛をもうけた。
太盛は祖父の家系から続く、神通力のある鏡を自分に渡したのだと、ここまで彼女は推察した。
その間、たったの1分。ユウナの頭の切れは転生してからも衰えることはなかった。

その内容を端的に妹にも伝えてあげた。

「ユウナが太盛さんに会いに行くなら、私もついていくよ」
「えー、あんたも来るの」
「だめなの? 私も太盛さんに会ってみたい」
「てか私のこと呼び捨てにしてる」
「姉妹なんだから別にいいじゃん」

「太盛さんはミウさんがガードが死ぬほど堅いよ」
「ミウさんに頼んでみればいいじゃん。四人で会うことにすればいいのでは?」
「ちょっと頼みづらいんだよね。あの人、嫉妬の鬼だから、最悪殺されるよ」
「おおげさだなぁ」
「マジなんだけどなぁ。あんたにはあの人の怖さが分からないか」

その日の夜、ダメもとでミウにラインを送ったら、快諾してくれた。
アユミは小躍りしながら喜んでいた。行くのは三日後だ。
前日の夜は、クローゼットを開いて一人でファッションショーを初め、
高そうな色付きリップを塗ったりして、はしゃいでいた。
そんな妹の様子を優菜は微笑ましく思っていた。結婚までして心が
大人になってしまったユウナには、そんな無邪気さは残っていないのだ。

「太盛さんの家にお菓子でも持って行った方がいいかな?」
「安物のスナック菓子なんて鼻で笑われるだけよ。やめときなさい」
「じゃあ手ぶらでいいの?」
「今日のために贈答品のクッキーを買ってきてあるのよ」

当日、二人はバスに揺られていた。太盛の家は足利市の南東部、町から相当に
外れた場所にある。最寄りのバス停から降りて、さらに30分歩いた場所にある。

「いらっしゃいませ。お嬢様方。お待ちしておりました」

黒髪をオールバックにした男性の執事の人と、太盛本人が玄関で待っていてくれた。
事前にラインでバスの時間を送っておいたから、ジャストタイムで出迎えてくれたのだ。

「まだミウ様がお越しになっておりませんので」とのことで、大食堂に案内された。
 冷たいレモネードが振舞われた。立派な長テーブルの席に座らされ、
 貧乏な団地暮らしに慣れた姉妹は落ち着かなかった。

太盛はニコニコしながら、テーブルの上で軽く手の平を組んだ。

「君が妹さんの歩美さん?」
「は、はい。高倉アユミです」
「ユウナさんもそうだけど。君も美人さんだね。絶対に将来今以上に美人になるよ」
「ありがとうございますっ」
「そんな硬くならなくて大丈夫だよ。自分の家だと思ってくつろいでね」

(無理でしょ。どうやったらくつろげるのよ)とユウナは思った。

門から玄関までがすごく長く、迷子になるほどだった。なにせ道中の
林は、茂っている場所は薄暗くて夜はお化けが出そうな感じだった。
玄関の先には赤じゅうたんが敷かれており、この大食堂もシャンデリアは
当然として、見るからに年代物の振り子時計が規則正しい音を鳴らしては、
余計に緊張感をあおる。自分とは住んでいる世界が違うのだと思い知らされた気がした。

太盛はしきりにスマホを気にする。ミウからの連絡を待っているようだった。
電話が鳴ったので、「ちょっと失礼」と言って席を外す。
奥の厨房の方へと消えていった。

「姉ちゃん。太盛さんって本当にかっこいいね」

「お坊ちゃんだけあって仕草とか洗練されてるわね。
 家だと余裕があって素敵ね。学校で見せる顔とは全然違う」

「肌が焼けてるし、筋肉質だよ。確かにお兄ちゃんよりカッコいいかもね。
 声も低くてかっこいい」

「わかるわ。声すごく素敵なのよねー。顔も綺麗で目の保養になるわ。
 あの人、結婚してからもっとワイルドな感じになるのよ。それはもう素敵だったわ」

姉妹とは不思議なもので、同じ男を好きになる傾向にあるのだ。
太盛が戻って来たので、二人はおしゃべりをやめた。二人ともキラキラした瞳で
太盛を見つめていたものだから、太盛は訳が分からず身構えてしまった。

「ええっと……なにかな? 俺の顔に何かついてるの?」

「そんなことはありませんっ。ちょっと見惚れてました」←アユミ

「へ……? まあいいや。残念なことにミウが来れなくなっちゃったんだよ。
 学園の急な仕事ができたらしくてね。あーそれでね。大変に申し上げにくいんだが……」

高倉姉妹は耳を疑った。なんと、二人とも今すぐ帰ってくれとのこと。

もちろん太盛の意志ではない。ミウの嫉妬だ。
ミウは、自分のいない場所で太盛が他の女と会うのが許せない。

しかも相手は高倉姉妹。自己評価の低さでは学内で定評のあるミウは、
まず彼女自身がユウナの容姿に全面的に見劣りしていると思っていた。
以前ナツキに、下の妹のアユミの写真を見せてもらったことがあった。

アユミの中学1年の入学式の時の写真だった。これにもミウは絶望させられた。
自分の顔は、中学生にすら劣るブスだと知ってしまったからだ。
さらにミウは、姉のユウナよりも妹のアユミの方が将来美人になると確信していた。

ちなみに恋人の太盛から見ても、ミウがこの二人に容姿で見劣りするとは
少しも思ってない。彼だけでなく学内の人間の大半が同じように思っていた。
ミウはとにかく自分がブスだと言い続ける癖があり、本当に顔立ちに劣る女子たちからは
むしろ嫌われる原因にもなっていた。学内では「謎の自意識の低さ。謎の謙遜」
と呼ばれているのを知らないのは本人だけだった。

「そんなぁ。せっかくバスに乗ってここまで来たのに。
 帰らないといけないんですか?」

「ごめんねアユミちゃん。ミウに逆らったら拷問されちゃうんだよ」

アユミは学園の内部事情まで知らないから、太盛が言っていることは
比喩表現なんだろうと思っていた。彼のようなイケメンなら束縛の強い彼女が
いるのも仕方ない。わがままを言うのを諦めようとした時、ユウナが口を開いた。

「なら太盛さんの家じゃない場所で会えばいいのでは?」

「うーん、それも難しいと思うけどね。ちなみに行きたい場所とかある?」

「あえて人ごみの中はいかがでしょうか。ファミレスやモールなど。
 人目のある場所なら浮気してるとは思われないでしょう?」

「なるほど。一理あるね。少し怖いけど、ミウに連絡してみるよ」

と鳴らし始める前に、向こうから着信があった。
太盛が目を細め、舌打ちしてから電話に出る。

「あ、うん。もちろん、そのつもりだけどさ。二人は真剣な話をしに来てるんだよ。
 確かにそうだけどさ。ミウだってユウナさんの悩みは真剣に聴いてあげたいって
 言ってたじゃないか。だからさ。うん。うん。だけど……。そうだ。俺もそう思ってるけどさ、
 ちょっと俺にも話させてくれよ。ああ。ああ。だからさ……ちっ、何度も同じこと言うな!!
 え? 俺の方がイライラするよ!! ああ? それはお互い様だろうが!!」

太盛は、美しい姉妹が呆然としてるのにも構わず、テーブルクロスに
拳を振り下ろした。ジュースのグラスが揺れるが、なんとか耐えている。
太盛は席を立ち、広い食堂の端から端まで歩き回る。

太盛の電話は異常に長く、なんと20分以上もその調子で喧嘩を続けていた。
ミウを恐れていると口では言いながらも、普通に怒鳴ってるのが不思議に感じられた。

最後は太盛の巧みな話術で丸め込むことに成功した。
電話の最後には愛してると互いに言い合うほどには丸め込んだ。

「みっともない姿を見せてしまってごめんね。実はミウとはいっつもあんな感じなんだ。
 最後は仲直りした風にして終わりにしてあげてるんだけどね。
 見ての通り僕はあいつのことが大っ嫌いなんだ。憎んでいると言ってもいい」

「嫌いなのに付き合ってるんですか?」

「そうだよアユミちゃん。僕らには色々ふかーい事情があってだね。
 もし興味があるなら教えてあげてもいいけど」

「聞きたいです!! すごく聞きたいですっ!!」

「おーけー。それじゃあ移動しようか」

「どこにですか」とユウナが問う。

「学園の近くのショッピングモールだよ。」

「学園の近くにそんなとこありましたっけ?」

「ああ、ごめん。正確にはこっちからバスで街まで出て一番近くのモールって意味。
 俺らは田舎者だから、学園の周りって山と田んぼしかないものな。あはは」

そのモール内にあるレストランで、のちにミウと落ち合うことになったと言う。
今は昼下がりで、夕方までたっぷりと時間がある。太盛のスマホには、ミウが
仕掛けた監視用のGPSによって居場所は特定されてしまう。

直ちに移動を始めた方が得策だとして、太盛は執事の人に頼んで自家用車を出してもらった。
ここから街中まで行くのに40分はかかる。高級車の対面式の席に座る。
太盛と姉妹が向き合う形だ。太盛は何を思ったか、ミウへの恨み言を並べ始めた。

「ミウはしつこいんだよ」

どうやら痴話げんかの類ではなかった。彼の瞳の奥底には怒りが宿っており、
アユミは初対面で感じた穏やかそうな人という印象とは全く違っているものだから、
面食らってしまう。

「俺とミウは複雑な運命のめぐりあわせがあってね、
 俺はその運命に縛られ、こうしてミウとの交際を続けているんだ。
 さっきも言ったが、誰が好き好んであんな奴と恋人ごっこなんかするもんか。
 俺はあいつの機嫌を損ねて拷問されるのが怖いだけなんだよ」

「そんなにミウさんのこと悪く言って大丈夫なんですか」

「たまには愚痴でも言わないと頭が狂っちまう」

「あの、そろそろ本題を」

「そうだったね。ごめん。俺とミウのことなんて重要じゃ……ってわけでもないな。
 君が俺に訊きたいのは鏡の謎の件だと思うんだが、その前にミウのことを
 話させてくれ。これも鏡の件に関係することなんだ」

半分くらいは、ユウナも知っていることだった。太盛も未来の世界から
タイムスリップしてここにいる。太盛はエリカとの間に子供を作ったし、
ミウは堀家の使用人として仕えていた。ここまではいい。

問題なのは……。

「ミウもその鏡の力に導かれてこの世界に存在しているってことだ」

「ミウさんも鏡に選ばれた人なんですか?」

「そうだ。その鏡には神の力が宿っている。
 鏡は人の意志を吸い取り、その願いをかなえてあげる力がある。ミウは当時使用人だった
 わけだけど、モンゴルを旅して死んでしまった俺を哀れみ、俺と再会できる方法はないかと考えた。
 そして願った。結果的にミウの願いはかなったんだ。俺と同い年の人間として生まれ変わり、
 俺とエリカの結婚を阻止して自分の好きな男を横取りした」

自動車は田園部を抜け街中に入りかかり、車の往来が激しくなっていた。
外は刺すような日差しの強さだが、レースのカーテンと
少し強めのエアコンによって快適に保たれている。

「私が選ばれた理由が分かりません。私は兄と結婚していました。
 もう願いはかなっていたってことです。 旅は無事に終わり、
 あとは成田空港に替えるだけだったんですから、おかしいと思いませんか?」

「これはあくまで俺の見解だけど、君たちはたぶん国に帰ったら殺されていたんだよ」

「えっ」

「君たちの世界の栃木ソ連では、近親婚はタブーになっているじゃないか。
 資本主義日本からもプロパガンダに利用されてるくらいだからね、党の本部の
 奴らは、たぶん君たちのことをほおっておかない。アユミさんと三人で
 ハッピーエンドってのは、ちょっと無理がある話だと思う。
 はっきり言わせてもらうけど、ナツキ君が党内部で粛清される可能性が高い」

利発なユウナならすぐに反論が飛んでくるものだと太盛は思っていたが、
ユウナは押し黙ってしまう。太盛は別に意見を押し付けるつもりはないので、
さすがにバツが悪くなる。考え事をしている姉に代わり、アユミが口を開いた。

「私は太盛さんが正しいと思います。だって兄は学園中の女の人を
 口説きまわって会長を首になったんですから。これってユウナのことを
 忘れるための奇行だったんでしょ。なら兄はチベットの旅がバッドエンドで
 終わることを知っていたから、未来を変えるためにそんなことを
 していたってことになると思います」

「うん、確かに筋は通っているね」

「血のつながった兄と妹で結婚なんてするのは間違ってるって、
 神様が言いたかったんじゃないですか」

重い沈黙が流れた。

自分と兄はしょせん、結ばれない運命。そう思うとまた涙を流しそうになるが、
太盛の前なので必死に耐えるユウナ。太盛はそんな彼女を自分のことのように哀れんだ。

「でも、君たちはうらやましいよ」

「え?」

「君たち兄妹は真剣に愛し合っている。
 互いに好きすぎて結婚までしたんだから、それは幸せなことだったと思う。
 俺はね、結婚では二度も失敗したようなものだ。特にミウとは結婚前から
 大嫌いなのに式まで挙げたんだ。思い出したくもない。俺がこの世で
一番滑稽(こっけい)に感じるのはね、一方通行の愛だよ。そんなものに価値なんてない」

彼は自分の結婚の話になると、人が変わってしまったように陰鬱になる。
彼の苦悩の結婚生活は、高倉姉妹には想像もできない世界だった。

モールの中に入った。ミウと落ち合う時間まで、まだ2時間以上も余裕がある。
不思議なことに三人でデートするような形でアーケードを歩き回っている。

人ごみならばと提案したのはユウナの方だが、夏休みのショッピングモールは
子連れの客が多く、一階から三階までイモ洗い状態だった。山に囲まれた田舎なのに
よくここまで人が密集できるものだとユウナは思った。

「落ち着いた感じの喫茶店でも入ろうか」

太盛が誘ったのは、有名なコーヒーショップだった。
太盛が払うからと、乙女たちに一番値段の高いスイーツを振舞った。

ここなら小さな子供はいない。スーツを着たビジネスマンや、
暇な若者たちが読書をしたり持ち込んだノートPCで作業している。
アイパッドにヘッドホンをつなげて真剣に音楽を聴いている人もいた。
ペアより一人でいる人の方が多い。太盛たちは、窓際のソファの席に座っていた。

「ユウナさんって呼んでもいいかな? というか、こう呼ぶしかないんだけど」
「お好きなように呼んでくださって結構ですわ」
「ありがと。君が持っていたコインを見せてもらいたいんだけど。
 たぶん今日も持ち歩いてると思うんだ」

「はいどうぞ。よく持ち歩いてることが分かりましたね」
「まあ、なんとなくなんだけど……ね……。あーなるほど」

太盛は恐るべきことを話し始めた。
このコインには父親の怨念が込められている。父とはもちろん
高倉家の父親のことだ。しかもこのコインはこの世のものではないと言う。

「どういうことなんですか太盛さんっ!!」
「まあまあ落ち着て。ちゃんと全部話すからさ。ここ店先だからね」
「すみませっ……」
「いいっていいって。ミウのヒスに比べたら可愛いもんだよ。あははっ」

太盛は、集まっていた店中の視線が落ち着くのを待ってから話をつづけた。

「君が風邪を引いた日のことだ。
 校門前にいたユウナさんが、ミウにコインを見せてくれただろ? 
 俺もついでに見せてもらったわけだけど、一目見てこれは……って思ったよ。
 これは単なる物だけど、異世界から借りてきたものだ。だからこの世に存在する物じゃない」

太盛は周囲の目があるから、コインをポーチにしまうように言った。
ユウナはその通りにした。

「このコインをどこで誰にもらったか覚えているか?」
「実は夢の中……なんですけど」
「どんな夢なのか具体的に」

ユウナは覚えている限りのことをしゃべった。

「もっと具体的に。コインをくれた男はどんな人? 君の父親と全く同じ人だった?」

「全く同じかどうかは、ちょっと自信ないです。記憶があいまいで。兄は間違いなく
 若い時の父親だったと言ってました。けど私は7歳になるまで父とは別居してましたから、
 当時の父がどんなだったのか知らないんです。写真では見たことありますけどね」

「ナツキ君が間違いないって言ってたなら、信じていいと思うよ」

それから太盛差はさらに詳しい事情を聴きだした。彼は洞察力が鋭く
知的好奇心が強い。質問の仕方も鋭く、短い言葉のやり取りで多くの情報を
聞きだしては分析をしていた。分析力の高さも見事なものだった。
彼が生徒会で諜報委員部に推薦されたのも偶然ではないのだ。

「君の父親は、結婚には反対していたんじゃないのか?」

「そうだったと思います。あの家では私が家長だったから
 直接文句を言ってきませんでしたけど、すごく納得のいかないって
 感じの顔をしてました。母もそうでした。まあ普通の反応……ですよね」

再開④

「親なら子の心配をするなら当然だ。親にとって子供は何歳になっても子供だ。
 君が家の経済を支えていたとしても、お父さんにとっては君はあくまで娘なんだ。
 誰だって娘に幸せになってもらいたいと願うだろうよ。たぶんね、
 そのコインはもともとはお父さんが君のために買ったものなんだろう。
 君だけじゃなくて、アユミさんの分も買ってあったんだと思う」

「あり得る話ですね。実際に父は中東でも勤務してましたから、
 その時に買っておいたのかもしれません」

「中東か……」

「何か気になります?」

「お父さんは宗教はやってる人?」

「それが全然ですよ。学生の頃から科学万能主義者だったみたいで
 神様どころか、家の仏様ですら信じていませんよ」

「そっか。なら違うか」

「何がですか?」

「中東にはイスラム教が7世紀に普及する前に、ユダヤ教が一部広がった地域もあったんだ。
 でもユダヤ教が広まるもっと昔の時代……、そうだな、今から4千年くらい前になるのか。
 その時代からたくさんの神様と悪魔が住んでいるとされていたんだ」

「つまり、父が悪魔の力を借りた可能性があると?」

「可能性はある。無意識のうちにそうした可能性もあるけど。
 あるいは悪魔じゃなくて神様の力かもしれない」

「太盛さんはさっき、父が中東でコインを買ったと言いましたよね?
 コインを悪魔か神様から買ったってことなんですか?」

「いや。普通に貴金属販売店とかで買ったものだと思うよ。
 国の認可を経た本物の純金だったと思う。だった、というのは、
 それを何者かと交換した可能性があるからだ」

「交換した相手は、人ではない者ってことですか?」

「そういうことになるな。今後はそのコインをみだりに人に見せてはいけないよ。
 かといって手放してもいけない。きっと君の身に災いが降りかかるから」

ユウナは身震いした。一口も口をつけなかったコーヒーはすっかり冷めてしまっている。
アユミは我関せずと言った様子でワッフルをもぐもぐと食べていたが、
咀嚼してから太盛に話しかけた。

「お父さんに事情を聴くのが一番の近道だと思います」

「そうだね。家に帰ってからゆっくり話を聞いてるといい。
 俺の推測通りだとすると、簡単には口を割らないと思うがね」

ユウナはすっかり考え込んでしまい、何を話しかけても上の空だ。
まもなくミウが来る時間だった。太盛がスマホを確認したタイミングで
待ってましたとばかりにミウからの着信が鳴る。

「ミウか。予定より少し早いな」

太盛は携帯を耳に当てる。最初は穏やかだったが、次第に彼の声が荒々しくなる。
また喧嘩かと、アユミは呆れていたが、どうやら違うようだ。

「結論を言おう。君たちのお父さんが足利市内から脱走したらしい」

「は……?」

「今日の昼、ミウが緊急の用事で学校に呼ばれたのはそのためだ。
 学園関係者の親が脱走した場合は、諜報広報委員部が総出で取り締まる
 決まりになっている。君のお父さんは現在も脱走中で行方をくらましているらしい」

「どうして父が脱走なんて!!」

「落ち着くんだユウナさん。いったんモールから外に出よう」

外は、むわっとした暑さに支配されている。
日は傾いているが湿度が消えるわけではない。
太盛は持参したペットボトルの緑茶を一口飲んだ。

「ミウがユウナさんのラインに詳しい内容を送ってくれたそうだ。読んでみてくれ」

まさかとユウナは思っていたが本当に登録されていた。
学生時代のユウナはずっとミウのことを嫌っていたから連絡先を
交換するなどありえないことだった。
いつの間に登録したのかなんて細かいことはどうでもいい。

「すまないが、俺はミウに学園に呼ばれてしまった。ここでお別れだ」

「待ってくださいよ太盛さん。もっと聞きたいことがあったのに」

「諜報部の奴らが、どうしても俺の力が必要らしいんだ。俺なんて大して力にならないのにな。
 正直行きたくないし俺だってユウナさんと話していたいけど、命令なんだ。許してくれ」

太盛はタクシー乗り場まで、すごい速さで駆けて行った。
残されたユウナは、いったいどうしたらいいのか分からず、オロオロする。
ユウナは生真面目な優等生タイプで、普段は冷静で頭の回転が速いが
緊急事態に弱いのが難点だった。その一方で冷静なのは勉強が苦手なアユミだった。

「まず、家に帰ろう。
 お父さんのことならお母さんが何か知ってるかもしれない。
 ここにいたって何も始まらないよ」

「そうね……急いでも仕方ないから、バスでゆっくり帰ろうか」

車内は込み合っていて座る場所などない。ユウナは手すりにつかまりながら、
うなだれ、自宅の最寄りのバス停に到着するまで、ずっとそうしていた。
アユミは気を使って話しかけなかった。姉はどんなことでも悩みすぎて
しまう癖があるから、一度こうなったら自分で立ちなるのを待つしかない。

アユミは、父の脱走したタイミングが妙だと思っていた。
父の脱走するタイミングは、まるでユウナが今回の事件を太盛に
相談することが事前に分かっていたかのようなタイミングだ。
犯人が犯行がばれる前に逃げ出したかのように思えてしまうのだ。

優菜もきっと同じようなことを考えているんだろうなと、
青ざめた横顔を眺めていた。ひたいの汗で髪の毛が張り付いてる。
バス停で降りて、団地まで歩いて5分。
歩くのが遅すぎる姉の手を引っ張るようにして進む。

「ただいまぁ」
「おう。今日は遅かったじゃねえかアユミ」

ドクン、と鼓動が波を打った。

家には当たり前のように父がいて、お酒を飲んでいた。

「お父さん!! こんなところにいて大丈夫なの!?」
「な、なんだよ。でけえ声だすな」

ユウナが父につかみかかり、根掘り葉掘り聞く。
それによると、父は今日もいつものように用務員の仕事を済ませてから
帰宅して、晩酌をしていた。母に訊いてもおかしなことなど
何もなく、ごく普通の生活をしていた。

足利市を脱走しようなどと無謀なことを考えるほど父は馬鹿じゃない。
ユウナもアユミも父が政治権力に逆らわない人なのは知っている。

「うそ……うそよ。じゃあ、何を信じたらいいの……?
 太盛さんの言っていたことは嘘……?
 でもミウさんのメールにも脱走者を捜索中だと……。
 ボリシェビキの報告文章で虚偽は許されないわよ……。
 粛清されるもの……それにあの人は副会長……。
 虚偽の文章だったなんて絶対にありえないわ」

「姉ちゃん。ねえってば。姉ちゃん」

「落ち着け……冷静になって考えないとますます混乱する……。
 状況をよく確認して……ひとつひとつ、かみ砕いてから……」

「姉ちゃん!!」

「うわっ、なにアユミ。心臓が止まるかと思った」

「今から部屋に入って二人だけで話をしよう」

ユウナが落ち着くようにと、コップ一杯の水を飲ませてから
部屋の扉を閉じた。

「今から私の考えを言うから、最後までちゃんと聞いてね。
 ぶっちゃけ根拠なんかないし、ほとんどカンなんだけど。
 あそこにいたのは……お父さんじゃない」

「お父さんじゃないですって!? じゃあ他人のそら似だって言いたいの!?」

「だから最後まで聞いてよ。うるさいな。
 私はミウさんや太盛さんが嘘の報告をするってことはないと思う。
 だって嘘をつく理由がないじゃん。太盛さんは正直な人だよ。
 相談には真摯に乗ってくれるし、私たちの前でミウさんが嫌いだって
 堂々と言ってくれるんだもの。初対面なのにずいぶんとオープンな人だよね。
 そんな人が、わざわざ嘘をつくメリットがあると思う?」

「確かに……」

「この世界は、よくわからないことが起きてしまう世界なんだよ。
 ユウナだってこの世界に転生したように、お酒を飲んでいたお父さんも、
 もしかしたら全くの別人が転生した姿なのかもしれない。
 もしくは偽物なのかもしれない」

「見た目は完全に本人だったと思うけど。肉親なんだから
 見間違えようがないと思うわ。……今は自信なくなってきたけど」

「私も最初は本人だと思ったよ。だけど、ここに違和感がある。
 私たちの目には本人としか映らなかった。
 そう。私たちの目には……ね」

アユミは、姉がまだ身に着けたままのポーチから、手鏡を取り出した。

「真実を映す鏡だったら、目が曇ることもない。
 この鏡でお父さんの正体を暴いてみてよ」

「い、いやよ。あんたがやりなさいよ」

「私だって怖いよ。でもやらなきゃ。
 ユウナがどうしてもいやだって言うなら、私がやるけど」

「……なら二人でやりましょう。それなら文句ないでしょ」

「いいよ。今すぐやろうか」

「今すぐ!?」

「だって気になるじゃん。モンモンとした状態で過ごすよりは
 早く解決した方がいいと思うけど」

恐る恐る、キッチンに戻る。父は飲んだくれてソファで寝ていた。
昔からアルコール中毒で、酒なら和洋問わず、どんなものでも飲む。
今夜は日本酒の瓶を二つも空にしていた。完全に病気だ。

母はお風呂に入ってしまっているから都合が良い。時刻は9時過ぎ。
ユウナは実の父の正体を疑うことに罪悪感を感じてしまうが、アユミが
絶対に今やると言うので決意を固める。

アユミは、父の寝顔を鏡越しに見た。そこに映っていたのは、やはり父ではない。
皮膚の色が青ざめていてガサガサだ。耳たぶがエルフのように異常に長い。
まつ毛は長く、寝息を立てる唇は厚みがある。よく見ると、背中から
黒い翼が生えていた。これが、いわゆる「悪魔」なのだと思った。

ユウナは腰を抜かした。アユミも恐怖のあまり歯のかみ合わせが合わない。
完全に血の気が引いた二人は、しばらくの間、そこから動くことさえできなかった。

やがて目を覚ました父は「あーちくしょっ、もうこんな時間かよ。だりーな、くそがっ」
と言いながら、お風呂場へと消えた。狭い団地の中に、父がシャワーを浴びる音が響く。
鼻歌を歌っている。いつもの父と何も変わらない。

二人は、父がお風呂から出てくるまでリビングのソファの前で座っていた。

「おまえら、そこで何やってんだ? 風呂空いたぞ」
「うん……分かった。すぐ入るから」

とアユミが返事をするのが精いっぱいだった。
父は水道水をコップに注ぎ、夫婦の寝室へと消えていった。
娘達から見ても父の姿に異常はない。いったい、何が目的で
この家に悪魔が住み着いているのか。

いくら考えても結論は出ない。今日も一日過ごしたので汗を流さなくては。
ユウナは怖いからと、アユミと一緒にお風呂に入ることにした。
アユミも同じ気持ちだったので快く賛同してくれた。
この年の姉妹が一緒にお風呂に入るのは気恥ずかしいものだが、
今はそれどころではない。

アユミが湯船につかっている間、ユウナは髪の毛を洗っていた。
蒸し暑いので換気扇を全開に回している。

「姉ちゃんは、悪魔と人が共存する話って聞いたことある?」

「なにそれ?」

「古代の砂漠の地方ではね、人間世界に溶け込んで生活する魔人がいた。
 ジンとかジンニーニャって呼ばれることもある。
 そいつらは普通の人間の姿をしていて、人間と同じ生活を送っていた。
 ただ人とは違う不思議な力を持っていて、神様の許す範囲内で
 その力を行使することができた」

「それってモンゴルの話っぽいけど」

「そうかもね。さっきのお父さんの態度を見てる限りでは
 私達に害意はなさそうだったね。お昼は普通に働いているようだったし」

「そうね。悪魔のイメージとはだいぶ違うわ。ん?……お昼は働いている」

「どうしたの?」

「なるほどっ。そこに気が付くべきだったのね。実は私のいた世界の
 お父さんは、この時は無職だったのよ。全然仕事してくれなくて
 最後はFXトレーディングに手を出して……ってそこは重要じゃないわね。
 お父さんが用務員として働いているのは、悪魔が乗り移っているからじゃない?」

「私も今思い出したんだけど、足利市から脱走したお父さんはどうなったんだろうね。
 今この家に本人がいるのに、どうやって脱走した人を見つけるつもりなんだろう」

「そうね……」

「もし見つからなかったとしたら、
 ボリシェビキの人たちが家宅捜索に来るのかな?」

「このまま捜索が難航すれば、当然あり得るわね」

「そしたらヤバくない? お父さん、捕まっちゃうじゃん」

「うん……冷静に考えると相当にまずいわよ。
 ボリシェビキの規則では身内にも連帯責任が適用される。
 私達も父を自宅でかくまった罪で強制収容所送りに……」

「うそっ!! まじでヤバいじゃん!!」

「すぐお風呂から上がってミウさんに連絡するわよっ!!」

二人は大急ぎで体を拭いてから自室へ飛び込む。
姉妹だから肌着とパンツだけの姿だ。こんな時間にどうせ誰も見てない。

夜遅い時間だから、まずメールで送ろうとユウナがラインを開く。
そこで驚くべき事実に気が付いた。ミウから送られてたメール(父の捜索について)
が全文削除されていた。重要文章だったから、向こうから削除したのかと思った。
こちらからメールを送る。父は家で普通に過ごしていて、脱走する気配はないと。

ミウは2分後に返事をくれた。
「ごめん(;^ω^) 何言ってるのか分からない。メールを送る相手を間違えてない?」

とのことだった。ユウナとアユミはしばらく固まった。

太盛ならどうかとメールを送るが、ミウと同様の返事。高倉家の父のことを
何も知らなかった。では今日の出来事はどうなったのか。ユウナたちとは
モールでおしゃべりしてから普通に別れたと答えられた。そんなはずはない。
太盛の記憶は何者かの力によって改ざんされているのか。

頭を押さえうずくまるユウナ。アユミが安心させるように肩に手を置いた。

「考えすぎても余計にパニックを起こすだけだよ。まずは落ち着いて」
「落ち着くのは……無理。私はこういう性格だから」
「いったん寝よう。明日になれば分かることがあるかもしれない」
「アユミは冷静なのね」
「私だってパニックを起こせるなら起こしたいよ。
 でも私まで冷静さを失ったら、問題は永遠に解決しないでしょ」

本当にこの子は自分より年下なんだろうかと、ユウナは思った。
ユウナの記憶してる限りアユミの性格は、典型的なワガママに
育てられた末っ子タイプで、言動も同年代の子より幼かった。

まさかアユミの正体も人間じゃないのだろうかと思ってしまうが、
さすがにそこまで疑い深くては生きていけない。
アユミは大切な肉親であり、今のユウナにとって一番頼れる存在だった。
昨年小学校を卒業したばかりの、このちんちくりんの妹が。

「ありがとアユミ。寝れる自信がないけど布団に入ってみる」
「うん。おやすみ」

不思議とよく眠れた。いつ眠りについたのか二人はよく覚えてない。
昼過ぎまで寝てから、ふたりでフルーツの缶詰、ケロッグ、バナナを
食べてからお出かけした。目的地は学園の強制収容所7号室だ。

これだけの事態となってしまったのだ。兄のナツキに相談しないことには
先に進みようがない。ユウナはミウに連絡してナツキとの面会は
許可されているから何も遠慮することがない。

ちなみに、昨日の父の件のメールに関しては、
「私は仕事で忙しいから、変なジョークは送ってこないでね」
と言われた。改めて父の無実を確認できたことで安心した。

再開⑤

強制収容所に着いたのは、13時過ぎだった。校庭の一角にトラックが
三台駐車している。収容所の搬入口と、トラックの荷台を行き来しているナツキの姿があった。
兄は作業服を着て、食糧が満載された段ボールの仕分けをしている。
中身は肉や魚の缶詰、野菜を中心とした冷凍食品である。酷暑の中で力仕事である。

ユウナは、兄が大汗を流し働く姿を見て悲しくなった。
7号室で仕事をやらされているのは、もとはといえば兄のせいではないのに。
それに荷物の搬入も前回の生垣の選定と同じで、大人数をかけて、できるだけ
短時間で終わらせる作業だ。それをたったの一人でやらされている。

よく見ると、飲料水の満載した箱を持ち上げる時、軍手が震えている。
デスクワーク出身の兄には相当な苦痛なのだろう。あごの下から汗がこぼれている。

「ねえユウナ。お兄ちゃん大変そうだね」
「うん」
「今お兄ちゃんに話しかけたら迷惑かな?」
「そうね。急ぎの仕事みたいだし、終わるまで待った方がいいのかしら」

兄のそばには監視係がついている。長身の保安委員の人に、ユウナが訳を説明した。
そうしたら「事情は分かりました。ご家庭の事情でしたら大変に結構ですよ同志ユウナ。
ナツキ閣下のお仕事は直ちに終わりにしていただきましょう」とのこと。

「それはありがたいけど、途中で仕事を終わりにしても大丈夫なの?」

「彼のノルマは午前中に終了しております。ただいまやられているのは、
 保安委員部の仕事なのです。我々も丁寧に遠慮しているのですが、
 彼は全部一人でやると言ってきかないのです」

「なんですって!! どうしてそこまで働きたがるのよ!!
 あんなに汗かいてるのに!! 熱中症になるじゃないの!!」

長身の露系監視員ウリヤーノフは、会長閣下の妹君が激情家なのを
知っていたから、ナツキが本当に熱中症になったことは絶対に秘密にしようと思った。

ウリヤーノフは、ユウナの怒鳴り声を何とかやりすごしていた。
そこへ件のナツキが来てくれた。

「何を騒いでるんだユウナ。彼に何かされたのか?」

「兄さんのことで騒いでいたのよ!!
 ノルマが終わってるのにどうして働き続けてるのよ!!」

「……特に理由はない。なんとなく働いてみたい気分だった」

「なによそれ!! わけわかんない!!」

「うるさいぞユウナ。ここは強制収容所なんだ。他の囚人の目もある」

「兄さん、バッカじゃないの。ノルマが終わっても仕事を続ける人なんて
 全ソ連を探しても兄さんだけよ。囚人だってそこまで自分を犠牲にして
 働いたりしないわ。熱中症になって倒れたらどうするのよ!!」

「熱中症なら何度もなってるよ。そのたびに点滴を受けてるんだけどな」

「な……それ、本当なの!? なんで途中で止めなかったのよ!!」

とユウナがウリヤーノフにつかみかかり、さらにわめく。
隣にいた女子の監視員が慌ててユウナをなだめる。
監視員たちも保安委員部の中から志願してこの仕事をしているわけだから、
ナツキのことを嫌うわけがない。むしろ慕っている。

彼に酷暑の中の労働を止めてもらいたいのは、優菜だけではないのに皮肉なものである。
アユミはそんな姉の様子を横目でにらみながら、兄の顔をハンカチで拭いてあげる。

「お出かけ用の綺麗なハンカチが汗臭くなっちゃうぞ」
「お兄ちゃんの汗だったら私は全然気にしない。飲み物も飲んで」
「ありがとう」

アユミは自分の飲みかけのアクエリアスのペットボトルを渡した。
口をつけた時、ふとナツキの瞳から涙がこぼれる。なぜ泣いたのか
自分でもわからなかった。アユミが優しいからだろうか。それとも
自分がバカなことをしている自覚があるからだろうか。

彼のそんな様子を見て、ウリヤーノフと相方の女子は顔を見合わせ、うなずいた。

「さあさあっ。同志閣下はお疲れのようですから、本日の仕事はもう結構です!!
 休憩所までどうぞっ。さあさあっ!! 遠慮は無用ですぞっ!!」

監視員の男女は、ナツキの背中を押すような形で、
クーラーを利かせた休憩所に連れて行った。彼に気を利かせて
冷えたアクエリアスやポカリ、アイスクリーム、塩飴などを置いてある。

6畳間程度のそこは、昼の間は休憩所として使うため長テーブルが一台置いてあるが、
夜はナツキが寝床に使う。壁から引き下ろすタイプのベッドがあるのだ。
ここの廊下の並びにはシャワールームもある。ナツキはまずシャワーを浴びて
着替えてから休憩室に戻って来た。

パイプ椅子をきしませるように座り込み、タオルで髪の毛を乱暴に拭く。
アユミがすぐに後ろに回ってタオルを受け取った。ナツキは目を細めながら
アユミに髪を拭いてもらっていた。疲労のためか、今にも寝てしまいそうだ。

長テーブルの反対側に座るユウナが声をかける。

「兄さんに聞いてほしい話があるの」
「悪いが眠いんだ。少し寝てからでも出構わないか?」
「今日は何時から働いてたのよ」
「朝の5時半だ」
「5時半!? なんでそんな時間から働いてるのよ!!」

おまけに朝ご飯は塩にぎりを一つ食べただけで、おかずはない。
収容所の食事係の集合時間が5時45分と決められているものだから、
用意してくれる人がいないのだ。おにぎりは厨房を借りて自分で作ったのだ。

かつて学園ボリシェビキのトップにまで君臨した自慢の兄が、なんで
こんなみじめな真似をしてるのかと、ユウナの怒りが込み上げる。
鬼気迫る勢いの怒声が、廊下の見張り達にも丸聞こえ。
心配した彼らは、たびたび窓越しに室内を見守っていた。

アユミは無言でベッドを設置して、枕を用意した。兄に指で合図して
ここで寝るように言った。ナツキはアユミの頭をなでてからベッドに横になった。
こうなるとさすがに過保護なユウナも何も言えなくなる。

ユウナは兄のことを愛しているが、愛しすぎてしまったゆえに、
まるで自分の息子を心配する母のような側面もあるのだ。

アユミはさらに気を利かせて電気まで消してしまう。こうなると
エアコンの動作音だけが響くだけで、文字通り話にならない。
ユウナはアユミに続いて無言で部屋を後にした。

兄の昼寝が終わるまで待つしかないかと考えていると、廊下の奥から
多くの護衛を引き連れた大物が歩いてきた。副会長の高野ミウだった。
両手にスーパーの袋らしきものを下げている。

「同志ミウ、こんにちわ。ご無沙汰しております」

「うん。あなた達もナツキ君に会いに来たんでしょ?
 さっき監視カメラで中の様子を見てたから知ってるよ」

「では同志も?」

「私は毎日ここに来てナツキ君に差し入れを持ってきてるの。
 部下に頼んでもいいんだけど、それじゃ悪いし。
 それにナツキ君の無事も確認したいからね。
 最近の彼、狂ったように働き続けてるから心配しちゃうよね」

ミウの袋には、カロリーメイトやソイジョイ、ウイダーインゼリーなど、
軽食が満載されていた。食欲がない人でも食べられる食品に絞っているのだ。

「そっちにいる子がアユミちゃんなんでしょ?」

「は、はい。初めまして高野ミウ閣下!!」

「あはは。閣下、だなんてつけなくていいのに。
 アユミちゃんはボリシェビキじゃなくて一般人なんだからさ」

と笑いながらも、内心は穏やかではなかった。
ナツキが溺愛する高倉アユミを始めて目にしたミウ。

アユミは写真写りが良い方だったが、本物は別格だった。
この可愛さで中学一年生……。
背はチビだし髪型は黒髪で地味なおかっぱ。
なのに……

(年下でこんなに可愛い女の子初めて見た……。
 肌が白い……眼元が綺麗……13歳なのにこんなに整っててうらやましい。
 ユウナも超美人だけど、この子の方がもっと整ってる。すごいよ本当に)

そして自分がどうしてブスに生まれたのかと、
意味不明な劣等感が生じてしまい、拳を強く握る。

その剣幕に高倉姉妹がひるむ。護衛達にも緊張が走る。

アユミが泣きそうな顔で
「すみませんでした。もう二度と閣下だなんて呼びませんから!!」
と意味のない言い訳をしてしまう。

「いや別に怒ってるわけじゃないから」

「え?」

「アユミちゃんがあんまりにも綺麗な子だったから、嫉妬してたの」

「嫉妬って……私に嫉妬ですか? またまた。ご冗談を」

「本当だって。私は嘘言わない性格だから」

「いえいえっ。私なんて全然可愛くないですよ。ミウさんの方が
 かわいいじゃないですか。その容姿なら男子にもてるでしょ?」

そんなことを言ってもミウの表情が険しくなるだけだ。
ミウは本気で自分をブスだと思っているので、
アユミが皮肉を言っているようにしか聞こえないのだ。

「もしかしてバカにしてる?」

「してませんよ!! ミウさんってお人形さんみたいな顔立ちで、
 目鼻立ちも整っていてすごく素敵ですよ。サイドにまとめた髪型も
 大人っぽい感じがして素敵です。それに英語もペラペラだから
 エキゾチックな感じがして、魅力的な女子ですよね!!」

「ふぅん。確かに嘘は言ってないようだね。
 私の顔は人並み以下だけど、そこまで悪くはないってことかな」

「人並み以下!? ミウさんが人並み以下だとしたら、この世界の女性の
 八割はブスってことになっちゃいますよ。恋人の太盛さんからも
 綺麗だねってよく言われるんじゃないですか」

「毎日のように言ってくれるね。彼は優しいからお世辞で言ってくれるんだよ。
 彼ったら私と一緒にいる時、いつも不機嫌そうな顔してるから。
 本人は隠してるつもりなんだろうけど、バレバレなんだよ」

ユウナは思った(それはミウさんの性格を嫌ってるんであって、
外見を嫌ってるわけじゃないよ。あんたがブスだったら
うちの兄が一時的な気の迷いにしても、付き合うわけないでしょうが)

アユミはその後もミウに自信を持ってもらうために、ミウをほめちぎった。
美少女のアユミに真剣に褒められたのが効いたのか、
ミウはだんだんと舞い上がってしまい、ナツキに用意したはずのお菓子を
全部アユミにあげてしまった。今度暇なときに遊びに行こうと言い、連絡先も交換した。

ミウの護衛の女子が近づき、ミウに耳打ちした。また仕事が入ったとのことで、
ミウは速足で立ち去った。ユウナは深くため息をついた。

「結局父のこと全然話せなかった」
「まあまあ。焦っても仕方ないよ。お兄ちゃんが起きるまで待ってようよ」
「そうね」

二人は夕方まで待ったが、兄はよほど疲れているのか、熟睡したまま
起きる気配がない。ついに夕方となる。収容所7号室の関係者以外の人間は帰る時間だ。
ユウナも一応はボリシェビキの一員なのだが、収容所の管理にはかかわっていない。
せめて今夜だけでも兄の面倒を見させてくれと、ユウナがウリヤーノフ達監視員ともめる。
ならば、あと一時間だけ面会時間を延ばしてあげると、特例で認めてくれた。ウリヤーノフ達は優しかった。

ユウナがまた騒いだせいで、ナツキは目を覚ました。
見るからに具合が悪く、顔面蒼白であった。

「うーん、頭がぼーっとする。寒気もする……」

ユウナが大慌てで兄を救護室へと運び、診察を受けさせた。
貧血気で微熱があった。酷暑での肉体労働を続け、
何度も熱中症になったためではないかと医師は判断した。

「今日を持って、もう兄への罰は終わりにしてくれませんか!!
 この通り兄は一生懸命働いたじゃないですか!! 兄を家に帰してください!!」

「いや、そう言われてもね君。彼の7号室での強制労働は、委員会のみんなで
 決めたことなんだ。私の一存ではどうにもならんのだよ」

と答えるのは、校長だった。この看護室での医師は彼だ。
校長は医大出身で、若い時は国立医大で医師をしていた経験があるのだ。
校長は中央委員会の長であり、職員で唯一のボリシェビキである。
ボリシェビキ歴の長さと、親父特有の頭の固さから、仲間内からは皮肉も込めて
「オールド・ボリシェビキ」と呼ばれる。

「校長閣下から案を出して中央委員会で話し合ってくださいよ」

「うーむ、同志ミウもナツキ君の処遇には心を痛めているのは確かだ。
 党内にもナツキ同情論が多数を占めているのが現状だが、
 セクハラ関係で会長職を辞任させられた人物は彼が初だ。
 我々の沽券(こけん)にかかわることだから、ことは慎重に運ばねばならんのだよ」

「ボリシェビキの女子から苦情が出てる事を言ってるんですか?
 そんなの気にする必要ありませんよ。そんなザコども。
 兄さんが今までの功績を考えれば、そいつらを首にしてしまえば……」

「こらこら。口を慎みたまえ。収容所内はくまなく盗聴器が仕掛けられているのだ。
 君と話していてもラチが明かんよ。私はこれでも忙しい身でね。
 今日はこのあと、ナツキ君の面会に来てくれる生徒がいるのだよ」

「兄に面会ですって? 誰なんですかそれは?」

「ふっ。君にとっては不愉快な人物になるかもしれん。井上マリカだよ」

「井上ってまさかあの……」

「そう。そのまさかだ。うわさによると、1学年時にナツキ君と恋仲になっていたという、
 学年を代表する秀才だ。彼女は生まれきってのリーダーとしての素養を持ち、
 クラス内で大きな影響力を持っていた。その優秀さをかられ、
 ボリシェビキの全委員部から推薦を受けたが拒否した。
 そのことで学園内では伝説的な有名人となった」

「そんな有名人さんが、兄に何の用なんですか?」

「精神カウンセリングだ」

「カウンセリング……?」

「今回の件でナツキ君は会長を罷免されたが、これに納得がいかなかった井上さんが、
 自分自身でこの謎を解き明かしたいと諜報委員部に申し出たのだ。
 それで今日の18時にナツキ君のところへ直接やってくる。
 カウンセリングとは方便に過ぎない。井上さんは普通にナツキ君と
 おしゃべりするだけだろうな。かつての恋人に未練があるのかもしれない」

「私もカウンセリングに参加します!!」

「当然そう言いたいのだろうが、許可はできない。
 表向きが精神カウンセリングなのに部外者が入ることは許されるわけがない」

ここでアユミが口を開く。

「なら逆に私たちが井上さんとお話しさせてもらうことはできますか?」

「まあそのくらいなら、井上さんが許可すれば構わないだろう」

「ありがとうございます。それと兄のカウンセリングが終わるまで
 待たせてもらっても構いませんか?」

「7号室で待つつもりなのかね? カウンセリングは相当遅くまでかかると思うが」

「かまいません」

校長は、アユミには甘かった。顔が好みだったからかもしれない。
そもそも兄は体調を崩して休んでいるのに、カウンセリングを
させるつもりなのかと文句を言いたいがアユミは我慢した。
ユウナは、兄のかつての恋人がここに来ることで気が気でなかった。

18時過ぎに、廊下から歩いてくる背の低い女子がいた。
件の井上マリカに違いなかった。
肩口で切りそろえられたショートカットでフチなしの眼鏡をしていた。
生真面目そうだが、一見すると文科系の地味な子で、
とてもリーダーには見えない人物だった。

「ごきげんよう校長先生」
「うむ。さすが時間通りだね」
「ナツキはそっちの部屋ですか」
「ああそうだ。今日はたまたま体調を崩しているが、
 話をすることは可能だ。入ってくれたまえ」

マリカはドアノブを握ったが、横目で高倉姉妹を見ながら言った。

「壁際にいる女の子たちは誰ですか?」
「ナツキ君の妹さんたちだよ」
「妹……ああ、思い出した。確か、妹が二人いるって言ってた」

マリカはまずユウナに握手を求めた。
ユウナは複雑な心境だが一応は応じた。

「あなた、二年生の子なんでしょ? 
 学年が違うから、学園で顔を合わせるのはこれが初めてね。
 へえ、あなたがナツキの妹ちゃんなんだ。なんだか不思議な気分だ」

「よ、よろしくお願います」

妹ちゃんと馴れ馴れしく呼ばれたことを不快に思うが、井上マリカは
妙に威圧感があって逆らう気にはなれない。校長の評判は正しくて
マリカは何か人の上に立つ人の貫禄がある感じがした。理屈ではないのだ。

「兄は具合が悪いので話はできません。帰ってくれますか?」

驚いたマリカがそちらを見つめる。下の妹のアユミが言い放ったのだ。
馬鹿っ、とユウナが叱ろうとするが、もう遅い。

「具合が悪いなら看病って名目でもいいくらいなんだけど。
 あなたもナツキの妹ちゃんね?」

「お願います。帰ってください」

「まあまあ、そう言わずに。私だって遠距離通学でここまで来てるんだからさ。
 あなたの名前を教えてくれない?」

「私はあなたと話したくないんです。帰ってください!!」

「……初対面なのにすんごい嫌われてるんですけど。校長先生、
 ちょっと訳を説明してもらってもいいですか?」

校長は禿げ上がった頭をかき乱し、どうしたものかと考える。

「あー、その……嫉妬かね」
「?」
「それだけ兄上殿を慕っているということなのだろう。
 私の口から言えるのはここまでだ」

マリカの優秀な頭脳は、すぐに結論を導いてしまう。

「あなた、ブラコンちゃんなんだ」

アユミが鬼の形相で食いつく。

「悪いですか?」

「別に悪くはないよ。
 あんな奴でも好いてくれる妹ちゃんがいるってことに驚いてるだけ」

「あんな奴って何ですか。その言い方、失礼じゃないですか。
 井上さんはお兄ちゃんの何を知ってるんですか」

「ちょっとアユミ、やめなさいよ」

「止めなくていいよユウナちゃん。言いたいことは隠さない方が
 人間関係がかえってうまくいくものだから。私はあなた達と違って
 ナツキのことなんて好きでも何でもないの。一年の時にあっちから 
 告白してきたけど一度断ってるからね? なのにあいつがいつまでも
 私の近くにいたがるから、自然と付き合ってるってうわさが広まって迷惑だった」

「だったらなんで今日はお兄ちゃんに会いに来たんですか!!
 兄が嫌いでしたら、どうぞ帰ってください!!」

アユミのつばが飛んできたが、マリカは涼しい顔をして続ける。

「でも人の気持ちなんて分からないものよね。私はナツキのことを
 完全に嫌いにはなれなかった。テストの成績では二人でクラスのトップを争っていたし、
 話も合う方だった。私があいつの告白を断ったのは、あいつが高1の秋にボリシェビキの
 思想に染まっていくのが気持ち悪くて、生理的に受け付けられなかったの」

校長は、念のため盗聴器のスイッチを切るように部下に指示しておいた。
マリカクラスの人間なら、公にボリシェビキ批判をしても直ちに
逮捕されることにはならないのだが。

「私が今日ナツキに会いに来たのはね、純粋に心配だったからよ。
 だってあいつ、普通じゃなかった。今月の頭に私のクラスに来て
 寄りを戻そうとか、わけわかんないこと言い出してさ。
 表向きには高野さんとカップル許可証を提出していたくせに。おっかしいでしょ。
 腑に落ちないでしょ? だから、どうしてもあいつが狂った理由が知りたいの」

「それってお兄ちゃんに気があるってことじゃないですか!!
 絶対に合わせてあげないから!!」

「あっそう。ボリシェビキから正式に面会許可をもらってるんだけど。
 あと顔近いよ。つば飛ばすのもやめてね」

「それでもダメなものはダメです!!」

「なんでそんなに偉そうなの? 容姿からして中学生なんだろうけど、
 その年でもまだお兄ちゃんラブなんだ。変わった子だね」

「なんであなたにそんなこと言われなくちゃいけないんだ!!
 いいから帰れよ!! 地味メガネ!!」

「……年上に対してその口の聞き方はなんなの?
 あんたこそ、取るに足らないクソガキのくせに。あんたがドアの前を
 どかないなら、警備の人に頼んでどかしてもらうこともできるんだけど」

「やれるならやってみろ!!」

「まあまあ。その辺で止めないか!! 
 ここは私が許可を出すから、三人で一緒にカウンセリングをしたまえ!! 
 その方がことが平和に運ぶ!! 井上さんも、どうかこれで納得してくれないか!!」

「校長先生がそう言うなら、もちろん納得しますよ。そこのガキはどうか知りませんけど」

「私も構いません」

こうして三人がナツキの寝床へ入る。

再開⑥

ナツキは、ベッドから半身を起こして気恥ずかしそうな顔をしていた。

「マリカ……お前たちが騒ぐから目が覚めちゃったじゃないか」

「それよりあんたの妹、躾がなってなさすぎじゃないの?」

「……悪かったよ。アユミにはあとで言っておく。
 で、今日は何の用なんだ?
 この通り僕は体調不良で休んでいるんだが」

「起きてなくて良いから、横になってなさい。
 あんたの様子が心配になって身に来たのよ。
 そろそろ体壊してぶっ倒れるんじゃないかと思ったら、案の定って感じね」

マリカは、校長から渡された冷えピタをナツキのおでこに貼ってあげた。
ナツキのお腹にはタオルケットをかける。

「悪いな」

「いいのよ。あんたは病人だから」

「君が僕の心配をしてくれるとは思わなかった。どいういう風の吹き回しなんだ?」

「手短に用件を伝えたいんだけど、あんたの妹たちがいるからちょっと……」

「妹たちのことは気にするな。夏休み中なのに、
 わざわざ時間をかけて学校まで来てくれたんだろ?」

「別に。今日は夏期講習のついでだから、ブラっと収容所まで寄っただけ」

「それで君の用件は?」

マリカは、壁際に立って敵意をむき出しにするアユミを見て
短くため息をつき、もう一度ナツキの顔を見た。

「ナツキさぁ。そろそろボリシェビキやめなよ」

「なんだって? 君はそんなことを言いに来たのか?」

「経緯はどうであれ、今回あんたは生徒会の会長の座を降りた。
 落ち込むことなんてないわ。ここは前向きにさ、
 会長を辞める良いきっかけになったと思えばいいじゃない。
 いっそこんなところで働くくらいなら、ボリシェビキ自体を
 辞めて一般生徒に戻ったらどうかな」

「それは規則で許されないことだ。一度党とレーニンに忠誠を誓った者は
 卒業するまでボリシェビキでいるのが規則だ。途中で離党したものは
 反革命容疑で逮捕される。君がこんな簡単なことを知らないわけがないと思うが……」

「そうじゃないの。規則とかじゃないのよ。
 私は……あんたに一般生徒に戻ってほしい」

「マリカ……」
 
マリカは、ベッドの上に投げ出された、ナツキの左手を優しく握りながら言った。
マリカの手は小さいが、暖かい。彼女の真摯な思いが伝わる気がした。

ナツキは鈍感な男ではないから、マリカが自分に対して思いを寄せていることを
ここで正しく認識した。女の子は、男からのアプローチを受けてもすぐにオーケーは
しない人もいる。きっとマリカは、一年生の時からナツキのことが好きだったのだ。

2週間前のセクハラ事件で、ナツキが自暴自棄になってマリカに告白したことも、
彼女にとってはまんざらでもなかったのかもしれない。

「ナツキの顔赤いよ。熱すごいんじゃないの」
「そ、そうでもないさ」
「熱測ってあげるよ。ほら。もっと顔近づけて」
「ちょ……今日は大胆だな」

なんというか、普通にいちゃついていた。
二人の妹に殺意を向けられながらも、ナツキのおでこに手を当ている。
マリカはもちろんわざとやっていた。廊下でアユミに嫌味を言われたことに
対する仕返しもある。それに妹たちの反応も気になる。
重度のブラコンだとしたら、おそらく……。

「ちょっと井上さん!! さっきから兄に近すぎませんか!! 
 兄の具合が悪くなっちゃいますから離れてください!!」

意外なことに邪魔してきたのは、ユウナだった。
マリカを壁まで突き飛ばす勢いで無理やり引き離した。

「ふふ。やっぱりね」

マリカはよれよれになった夏物Tシャツの胸元を正した。

「なんで笑ってるんですか?」
「なんとなく、ナツキが苦しんでる理由が分かっちゃったから」
「……まさか私のせいだって言いたいんですか?」

「ご名答。だってそうでしょ? あなたは兄のことが好きすぎて、兄に近づく
 女は誰だって許せないんだ。あなたは知らないでしょうけど、
 一年生の時にナツキがこんなことを言ってた。うちの妹が中学生になっても
 兄離れしてくれなくて、どう接したらいいかわからなくて困ってる」

「そっちこそ知らないでしょうけど、兄は私のことを愛してくれてるんですよ。
 ミウさんの見てる前ではっきり言ってくれました。ユウナのこと愛してるって!!
 ほんのニ、三日前にね。嘘だと思うならミウさんに聞いてみてください」

「あなたがしつこいから、ナツキも気が動転してたのかもしれないよ」

「そんな訳ないじゃないですか!! 私とナツキのこと何も知らないくせに、
 知ったような口を聞いて、すっごく腹立ちます!! 
 あなたは何様のつもりなんですか!!
 彼女でもないのにナツキのそばに近寄らないでくださいよ!!」

「じゃあ彼女になったら近づいてもいいの?」

「そ、そういうわけじゃ」

「血のつながった妹なのに本気で兄に恋してるあなたは、おかしいよ。変だよ。
 そんなの普通じゃない。まさか兄と結婚したいとか思ってるんじゃないでしょ?
 もしそうだとしたら、気持ち悪いからやめた方がいいよ。どこの国の法律でも
 近親婚を否定されてるの知ってる? たぶん人類の歴史が始まってから今日まで
 兄と妹の結婚を肯定した社会なんて存在しない。だって種の保存という、
 人類の根源的な欲求からしても、遺伝的にも間違っている行為だもの」

目の前の小柄な上級生が、自分からナツキを奪おうとしていることをユウナは知った。
そして怒りに震えた。もしできるなら、それ以上得意げに話される前に
頭をカチ割ってやりたかった。アユミもユウナと同じように考えていた。
二人の姉妹にとって、井上マリカは明確に敵だった。

何よりも悔しいのが、マリカが言ってることは全くの正論であり、
一言も言い返せないことだった。それは、ユウナとアユミが今まで何度も
思ってきたが、絶対に口にしないことでもあった。

「もうよしてくれマリカ。ユウナが悪いわけじゃないんだ」
「ナツキはどうしたいのよ。まさかと思うけど妹と本気で恋愛したいの?」
「いや、僕は一度ユウナと……」
「一度、なに?」

ナツキが口ごもった。失言だと思った。
ナツキが目をそらしながら言ったので、
洞察力に優れるマリカは、なんとしてもその訳を追及してくる。

「結婚してるんだ。ここじゃない、未来の世界で」

その時であった。井上マリカの脳内に、大波が押し寄せてきたかのように、
ある映像が浮かんだ。それはチベットの大地を旅する、五人の男女の姿だった。
マリカは当然、寺沢夫妻を知らないが、問題なのはその中に成人した
高倉兄弟が含まれていることだ。中国の都市、西寧の街を、三人で並んで歩いていた。

その姿は兄妹ではなく、恋人でもなく夫婦。三人なのに夫婦。一夫多妻制なのか。
空港周辺の雑踏の中に、自然と三人組の姿が溶け込んでいる。
帽子を深くかぶり、周囲を見渡すアユミ。幸せそうな顔でナツキの腕に密着するユウナ。
スマホの地図アプリを見ながら、交差点の先を指すナツキ。そこで映像は終わった。

「おいマリカ。さっきから動きが止まってるぞ。どうした? 何があった?」
「チベット……」
「え?」
「あんたらチベットに行ってたんだ。新婚旅行なのかな? みんな楽しそうだった」
「おいマリカ!! なんで君がチベットのことを知ってるんだ!! 答えろ!!」

マリカは不気味な夢を見てしまったと言って、逃げるように立ち去ってしまう。
ナツキもさすがに混乱して取り乱す。そこでアユミは、ユウナのポーチが光
輝いていることに気づいた。ユウナがコインを取り出すと、異常なくらいに光り輝いていた。

異常な光だった。金が光を反射させているのではなく、金そのものが輝きを発している。
ナツキにはその光景が悪夢のように感じられた。一目見てそのコインが尋常ではないことを
悟ってしまうからだ。マリカがチベットのことを知っているのも、そのコインのせいだと思った。
ユウナは「熱い」と言って、コインをポーチの中にしまった。オーブンで加熱したほどの熱を発していたのだ。

光はやがて収まり、熱も発しなくなった。時を同じくして、ナツキの具合も良くなった。
発熱もないし、めまいがすることもない。指先が震えることもない。

「ナツキに話したいことがたくさんあるの。
 このコインのこととか、お父さんのこととか」

「わかったよユウナ。今日だけでも家に帰らせてもらうように校長に頼んでみよう。
 正直、7号室での労働は今日限りにしたいもんだな。僕は馬鹿だったと素直に認める。
 本当にボリシェビキを辞めてしまいたいくらいだ」

元気な足取りでドアノブに手をかけるナツキ。廊下はがらん、としていて、
人の気配がない。隣の部屋に待機しているはずの校長はいなかった。

まだ消灯時間前だ。各廊下には見張りの保安委員が立っているはずなのだが、
廊下を歩き回っても人の姿が見られなかった。だが廊下の明かりはしっかりついてる。
男性用のトイレに入っても誰もいない。
妹たちが女子トイレや管理人用更衣室を空けても同じ結果だった。

ユウナは下唇をかんだ。

「兄さん、何か変じゃない?」
「そうかもな。人気がなさすぎる。まさかここは……」

ナツキが最初に気づいた。なんと、彼らは四角い廊下をぐるぐると
歩き回っているだけだった。本来なら廊下の先の階段やエレベーターに
突きあたるはずなのだが、どこにもない。ここは人間の住む世界ではなかった。

「おいアユミはどこに行った?」
「あれアユミ? うそ……アユミ!! どこにいるの!!」

廊下にあるのは、休憩室、予備の部屋、トイレ、更衣室だ。そのどこを
探してもアユミの姿が見つからない。さっきまで一緒に行動していたはずの
大切な妹が、どこにもいない。ユウナより先にナツキが大いに取り乱し、
何度も声を張り上げ、同じ廊下を駆けまわるが、ついに見つからず、壁を殴る。

それにしても異常な空間だ。この世界にはユウナとナツキしか存在しないのか。
人の気配はしないはずなのに、常に後ろから何者かの視線を感じてしまう。
その何者かは、おそらく人ではない何かなのだろうと思った。
怖くなったナツキは、妹の手を強く握る。ユウナも握り返す。
ナツキのそばにぴったりと体を寄せる。ユウナの手は汗ばんでいた。

「おいあれ!!」

ナツキが指した先に、謎の浮遊物体があった。
幽霊でも出たのかと、ユウナが悲鳴を上げる。

すーっと、赤い色をした蝶が、廊下の先からこちらへと近づいていく。
蝶は、一度ナツキの人差し指の上に止まる。ナツキを愛しむかのように、
指の上を歩き、体をくねらせる蝶。それから、ゆらゆらと揺れて
ナツキの目の前を横切りながら、廊下の曲がり角の先へ消えていく。

「な、なんだったんだ……」
「昔、蝶占いの話を聞いたことがある」
「なんだそれ?」
「夢に出てくる蝶の色や行動によって、その人の未来が分かるの」
「今の蝶はどうなんだ?」

「赤い色で、兄さんの指に止まった……。
 よく覚えてないけど、エネルギーに満ち溢れた人生を送れるって感じだったかな。
 ここが人生の転換期になるから前向きに行きなさいよって感じの」

それは好意的に解釈していい内容だったが、ナツキは恐ろしさのあまり震えた。
彼らは今現実を生きているつもりだが、もしかしたらこの世界は夢の中の
出来事に過ぎないのかと思った。蝶が出てきたのはその暗示なのか。

バタン、とどこかの扉が閉まる音がした。
ここからでは確認できない。

ナツキとユウナは震えあがる。きっとアユミだろうと、廊下の角を曲がって
探しに行く。休憩室の前にいたのは一人の男だった。

「ごきげんよう高倉ユウナさん。私の顔を覚えているかな?」
「あ、あなた……あの時、私にコインを捨てるなって言った人ね」

男は中肉中世で、黒い服に身を包んでいた。風変わりな男だ。
隣にいるナツキには目もくれず、ユウナだけに語り掛けている。

「今から私の言うことをよく聞け。大切なことだが二度は言わない。
 一言も聞き漏らすな。人の生は長い時間のように感じるだろうが、
 宇宙の歴史からしたら瞬きする程度の間でしかない。
 一度運命にとらわれたら、しかれた道を歩むだけ。やり直すことはできない。
 だが選ばれた人間はその限りではない。人生はやり直せるのだ。
 その者が望むのであれば何度でもだ。君にはやり直す力がある」

ユウナは言葉の続きを待ったが、男は何も言わない。
これで言いたいことが終わったとは思えない状況なのに妙だ。
仕方ないのでユウナから問う。

「人生をやり直すなら、どうやり直せばいいんですか?」
「それを考えるのは私ではない。君だろう」
「あなたは私と兄が結婚した未来を否定したいと思っている」
「さあな。あるいはあれが正しい選択だったのかもしれん。
 君がそう強く望むのだとしたらな」

「じゃあ私を未来に帰してください」

「本当にそれでいいのか? 兄との結婚は、君の父上の望んだことでは
 なかったのではないか。父を悲しませる結果になっても良いのか?」

「こんな世界にいて何になるんですか。私はたとえ千回高校生活を
 やり直したとしても、ずっと兄のことを愛し続けます。
 結果なんて変わらないんですよ。私には兄がいない人生なんて
 考えられないんです。チベットにいた時の私は、今よりもずっと幸せでした。
 私は、もうボリシェビキでなくてもいいの。
 兄と一緒にいられるなら、後進国で暮らしてもいい」

「そうか……。君の意志は固いようだな。
 ならば、私から言うことはもう何もあるまい。
 チベットの大地に帰るがいい。扉はそこに用意されている」

男が指さした先には、階段があった。先ほどまで何もない場所だった。
その階段を登れば、未来の世界へ戻れると言う。ユウナは兄の手を取って
先に進もうとした。だが兄はガタガタと震えていて、顔が真っ青だった。

(ユウナはどうしてあんな化け物と普通に話しているんだ?)

ユウナの目には、その男が普通の人間に見えていたのだが、
ナツキはそうではなかった。むしろ正常なのはナツキの方だった。

男の正体は人ではなかった。
異常に長い手足を持ち、体は薄い布で覆われている。
体全体が焦げた色をしていて、皮膚が異常に乾燥している。

背中には折りたたんだ黒い羽根がついている。ナツキもかつては
キリスト教徒だったから、目の前にいる男の正体が悪魔なのだろうと思った。
悪魔は白目と黒目のバランスが逆で、常に眼球が左右に震えている。

悪魔は会話の最中、笑うでもなく微笑むわけでもなく、無表情だった。
声色は普通の成人男性よりやや低めな程度だ。

なぜこの超常現象に等しい存在が、妹のユウナと言葉を交わすのか、
なぜユウナの未来を案じるのか、ナツキが一番気になったのはそこだった。

「兄さん、しっかりして。未来に帰るのよ」
「ユウナ。おまえにはあの男が普通に見えているのか?」
「……人じゃないことは分かるよ。でも考えても無駄だと思うから」

二人は手を繋いで悪魔の横を通り過ぎて、階段へ向かう。
その際、悪魔が爪を伸ばした長い指先を、ちょんと、ナツキの肩に振れる。
ナツキは全身の毛が逆立ち、悲鳴を上げるのを何とかこらえた。

「小僧。貴様には荷が重いぞ」

小声だったため、優菜には聞こえなかった。
階段を三段ほど登ると、急に二人の意識が飛んでチベットへと戻っていた。

悪魔はよく嘘をつく①

そこには不思議な田舎の風景が広がっていた。
土の上で目覚めたナツキとユウナは、冷たい風に吹かれて身震いした。
二人の目に最初に飛び込んできたのは、黄金色をしたイチョウの大木だった。
月明かりに照らされた葉が、風に揺れて輝いて見える。

季節は秋口なのか、底冷えがする。イチョウの前には鳥居がある。
日本ならどこにでもありそうな、変哲のない鳥居だ。

鳥居のてっぺんの右の端に、器用にもしゃがみこんでいる人がいた。
ナツキは、すぐにそいつが普通の人間じゃないことを見抜いた。
そいつは全身黒ずくめで服をまとっていない。いたずらっぽく
幼い顔が微笑んでいる。収容所7号室で見たのとは違う悪魔だ。
背中には黒くてカラスの羽のようなものが生えている。

「に、兄さん。ここはどこなのかしら」
「ユウナ。お前は鳥居に座っている奴が何に見える?」
「鳥居ですって……? 男の子かしら。小さいわね。たぶん小学生くらいだと思う」

やはりそうか、とナツキは思った。ユウナには悪魔が人の姿に見えているのだ。
紫色の唇から、黄ばんだ歯がのぞく。あれをどう見たら「男の子」と呼べるのか。
悪魔は鳥居から飛び、地面へ着地してから、ニコニコと愛想よく二人へ近づいてくる。

「やあやあ、おふたりさん。はじめまして、と言った方がいいか」

「お前は……誰だ?」

「名乗るほどのものでもないさ。俺はここで農業をしているものだ。
 すぐそこに俺の家があるんだ。話ならそこでもできるゾ。
 おまえら、今夜は泊るところがないんだろ? ならツイテコイよ」

ふたりがどうするべきか、悩んでいると、
悪魔は片手を自分の方に振り「早く来い」と呼ぶ。
英語圏の白人を思わせるジェスチャアだった。

「どうするの?」
「ついて行こう。根拠はないが、たぶん最残の選択だ」

ナツキは油断なく悪魔の後姿を観察した。

悪魔は全身がタイツで覆われているかのようで、外観上服は着ていないはずなのに、
生殖器らしきものは見られない。腕も足もすごい筋肉質で短距離の陸上選手並みの体つきだった。
爪が長い。指の半分の長さほどもある。髪の毛は一切生えていない。
収容所7号室で見た悪魔の特徴によく似ていた。肌はガサガサで乾燥しきっている。

この地域は田舎なのか、周囲を山に囲まれた田園地帯だった。
道中で大きな川が流れている。川の橋を渡り、林の方に入る。
林の中は深く漆黒の闇であり、今にも悪魔の背中を見失いそうになる。

悪魔はそんな二人を振り返り、「ふっ」と指に吐息を吐きかけると、炎が燃えた。
魔法のような現象だった。爪の先だけが燃え続けている。

「マッチをつけてくれたのかしら?」
「あれのどこがマッチなんだよ」
「兄さん。もしかして怒ってる?」
「別に。さあ行くぞ」

林の道は、大きな枝がいくつも置いていて、足を踏み外しそうになる。
どこからか、フクロウの鳴き声がする。ユウナは不気味に感じたものだが、
フクロウは人間には害がないとナツキが説明して落ち着かせた。

10分ほど歩いただろうか。悪魔の家に着いた。
悪魔は、かやぶき屋根の家に住んでいた。
あるいは秘密の隠れ家か。うっそうとした森林に囲まれた一角である。
家の前には小さな畑があり、収穫前の小松菜やニンジンが目についた。

「狭いところだけどよ、遠慮せずに入れよ」

悪魔が玄関の引き戸を開ける。中はなんとも古風な作りだった。
居間の中央に囲炉裏があり、他にはこれといって何もない。
衣服用のタンス、調理用の器具が部屋の隅に置いてあるだけだ。
天井付近には、格子型の出窓がついている。構造的に閉めることはできないようだ。

悪魔は座布団を二枚持ってきて、二人を囲炉裏の前に座らせた。
悪魔が囲炉裏の炭に指の先で触れると「ぼっ」と爆ぜる。
勢いが良すぎて火の粉がユウナの髪に飛んできて慌てた。

「へへ。すまねえな。いまだに慣れねえもんで、調整が難しいんだ」
「い、いえ」

悪魔はあぐらをかきながら、「くくくっ」と笑う。不快な笑い方だとナツキは思った。

「久々に客人が来たもんでうれしくてよ。腹が減ってるだろ?
 今野菜で鍋を作ってやるよ。大したもんじゃねえが、
 なにも食わねえよりはましだろ」

悪魔は、大鍋の中でお玉をかき回しながら野菜を煮込んでいく。
白菜、ネギ、ダイコンなど、野菜を中心としたシンプルなメニューで
決して栄養価は高くない。

「実は今朝釣ったばかりの川魚があったんだが、俺が昼に食っちまった。
 コメも全部食った。俺は夜は何も食わず寝る。だが今日はおまえらが来たから特別だ」

お椀に、たっぷりの味噌で煮込んだスープを持ってくれた。
これはただの味噌汁だろとナツキは突っ込みたくなるのを我慢していただく。
暖かくて染み渡るように美味しかった。それに囲炉裏の明かりが部屋中を
照らしているのが新鮮だった。この部屋にはランプはあるが蛍光灯はない。
明治の日本へとタイムスリップしたのかと疑いたくなる。実際にありえることだから困った。

「チげえよ。ここは令和の日本だ。過去の世界じゃねえ」
「……なぜ僕の考えていることが分かった? 僕は口にしてなかったはずだ」
「俺はよ……人間の考えてることが分かっちまうんだ。まっ、特技みたいなもんダよ」

ナツキはスープを飲み干してから「ごちそうさま」と言った。
ユウナはまだちびちびと飲んでいる。おかわりもあるぞ? と言うので
遠慮なくナツキはいただいた。それも飲み干してから、本題に映る。

「君は僕たちに何の用があるんだ? なぜ僕たちを家に案内した?」
「おう。説明すると長くなるんだがよ。俺はおまえらの監視係みたいなもんだ」
「監視だと? どういう意味だ!!」
「まあ待てよ。俺はお前らに敵意はねえんだ。この通り鍋だってご馳走しただろ」

悪魔は本当に慌てていて、荒ぶるナツキに対して、両手を顔の前で左右に振る。

「その監視係ってのはどういう意味なのですか?
 私たちを前から知ってるような口ぶりでしたけど」

「ユウナちゃんは話が分かりそうだな。助かる。
 具体的に言うとな。おまえたちがチベットを旅する少し前から、
 監視を命じられていたんだ」

「誰に命じられていたんですか?」

「俺の上司にあたる人からだよ。正確には少し違うんだがな。
 いきなりこんなことを言われても信じちゃくれないだろうがな、
 俺はお前らを救ってやろうと思ってるんだ」

「救うって、何から救うんですか?
 もしかして私たちは殺される運命だってことですか?」

「あちゃー……」

「はい?」

悪魔は、囲炉裏の炎をじっと見つめて口ごもる。
ユウナが先を早くと急かすので、仕方なく続きを言った。

「ぴんぽーんってとこか。ユウナちゃんの言う通りの結果になるんだよ。
 おまえらは、あのまま上海から成田空港に帰ったら殺されていた」

「なんですって!?」

「ボリシェビキの当局から高倉兄妹の逮捕状が出てる。反革命容疑としてな。
 おまえらはチベットに旅立ったころには、もう逮捕状が出てたんだぞ。
 お前らが何も知らないだけでな」

悪魔はちょっと待ってろと言い、タンスの中にしまっていた一枚の紙を
持ってきた。栃木ボリシェビキ中央委員会が作成した逮捕状の原文だった。
確かに高倉ナツキとユウナの二人の名前が記されている。

まずナツキはおかしいと思った。逮捕状は実際に存在するにしても、
組織の上層部の人間じゃないと、手にすることも目にすることもできない。
発行の母体となる政府と、保安委員会が厳重に管理するはずだ。
目の前の男が衣装タンスにしまっておけるような物じゃない。

「おい貴様。どうやって逮捕状を手に入れた?」
「盗んだ」
「は?」
「栃木ボリシェビキの中枢から盗み出した。俺じゃなくて俺の上司がな」
「バカな……」
「俺は人じゃねえ。人の子にはできないことも可能にする」

まず、この男を信用できるかどうかが問題だった。
確かにこいつは人じゃない。それは見た目でわかる。
逮捕状の件が事実で、こいつが盗み出したのもあり得る話ではある。
百歩譲ればだが。しかし、こいつが自分たち兄妹を救いたいと思う動機は?

「あの」

「なんだいユウナちゃん?」

「私にとって一番疑問なのは、なぜ私たちに逮捕状が出たてたかってことなんです。
 私たちはチベットを旅行しただけなんですけど、それで逮捕って。
 外国への逃亡を図ったことによるスパイ容疑とかですか?」

「残念だが、その通りなんだよ。君たちはスパイ容疑がかかっている。
 書面上では反革命容疑ってことで言葉を濁しているが、正確には
 中国共産党のスパイってことで、当局が結論を出しちまった。
 逮捕できる口実なら何でも良かったんじゃねえの」

党本部は、近親婚をした高倉夫妻が資本主義日本のプロパガンダに
利用されていることに難色を示し、ついには彼らを取り締まって地下に幽閉しようと
考えていた。建国したばかりで日本から多くの難民を受け入れている栃木ソ連は、
今でも茨城や埼玉の一部地域を併合して勢力を拡大中だ。そのため、
イメージダウンとなる要素は何でも排除しようとする動きがあったのだ。

「それであなたが私たちの味方をしてくれる理由は?
 私たちは、言っちゃ悪いですけど、
 出会ったばかりのあなたを信用できません」

「まーそうだよな。それが普通の反応だ。お嬢さんには
 目くらましがきいてるから、それをちょっと解いてやるよ。おら」

悪魔が、ユウナの目の前で「パン」と手を叩くと、ユウナは腰を抜かしてしまう。
ユウナの目にも、はっきりと見えてしまったのだ。
先ほどまでの少年の姿ではなく、おぞましい悪魔が目の前にいるのが。

「俺は見ての通りの存在だ。俺も今では落ちぶれちまったが、かつては
 神のそばで使える存在だった。だが色々あってよ、天界から追放されてからは
 こうして人里で暮らしているんだ。他の人には俺はただの小僧に見えることだろうさ」

「いつからここで暮らしているんですか?」

「んーそうだな。いつからだったか。
 今から数えると……たぶん120年くらい前だ」

通りで古い建物のわけだと、ユウナは思った。
この家は時間が止まっている。歴史の流れから取り残されている。
この悪魔は林の奥にある家の中で、
周囲の農民とは極力関わらないようにして暮らしてきたのだ。

「おい悪魔。妹のアユミはどうしてるんだ?
 僕たちはあの子を上海に残したままなんだぞ」

「なんだその呼び方。俺の名前、勝手に考えんなよ。
 アユミちゃんなら死んだよ」

「は……!? なんて言った?」

「だから、死んだ。反革命容疑の連帯責任だ。おめーらは
 逮捕されなかったが、あの子は上海にいたボリシェビキの刺客に捕まって、日本に強制帰国。
 そんで政治犯が送られる収容所に幽閉されて、獄中死した。最後は自殺だったらしい」

「おいおまえっ!! 適当なことを言ってるんじゃないだろうな!!
 アユミが死んだって、そんなの口で言われただけで認められるか!! 
 証拠があるわけでもないのに!!
 お前の言ってることが本当だとしたら、証拠を今すぐ見せろ!!」

「証拠は、残念だが、今すぐは用意できねえよ。死体は本部で火葬されたそうだからな。
 一応おまえらの遺族ってわけで、それなりに丁寧に扱われたらしいぜ。
 収容所でも特別な部屋に幽閉されて扱いは良かった。拷問はされなかったそうだぞ」

「おいおい待てよ!! 何勝手なことをペラペラ話してるんだ!! 
 このくっそ野郎が!! アユミが死んだ!? なあ!! おまえは
 アユミが死んだって言うのか!! うおおおおおおおおおおおおおっ!!」

ナツキは悪魔に馬乗りになり、拳を振るうが、悪魔は抵抗もせず
殴られるままだった。振り下ろされた拳で、悪魔の顔が右へ左へと揺れる。

ユウナが兄を羽交い絞めにして止めた。

「この人の目を見ればわかる。きっと本当のことなのよ」

ナツキも本心では分かっていた。だからこそ、八つ当たりをしなければ
感情が抑えきれなかった。悪魔は「いてえなクソッ」と言いながら起き上がる。
切れてしまった唇から、緑色の血が流れる。腕でぐっとぬぐった。

「取り乱してるところ悪いんだが、もう一つ悪い知らせがあるんだ。
 あとで話すより一度に話しちまった方が傷は救ねえと思う」

「なんだ? まだ何かあるのか?」

「おめーらの両親なんだが……」

「両親がどうした!? まさか死んだんじゃないだろうな!?」

「母親は死んだそうだ。秘密警察が深夜自宅に押し掛けた時、将来を悲観して
 自分の頭を拳銃で撃ちぬいた。父親は生きてるよ。ただし群馬県の収容所でな。
 こいつもアユミと同じような待遇だ。ボリシェビキ市議会の幹部、高倉ナツキの
 肉親ってことで、清潔な部屋に幽閉されている。今のところ自殺する様子もないし、
 脱走する気もないらしい。ただし精神をやられて廃人と化してしまっているが」

ユウナは最後まで聞く前に泣き崩れた。
両手を顔に当て、そのまま床に押し付けながら大声で泣いた。

「うわあああっ……う……うそよぉ……うちの両親がどうしてぇ……。
 お母さんが自殺したなんてぇ……あのアユミまで……うわあああっ!!」

「バカな……そんなバカな……こんな現実がありえるのか……。
 両親がこんな目にあってるとも知らずに……僕たちは
 のんきにチベットを旅していたのか……」

ナツキの瞳から大粒の涙がこぼれて止まらなかった。口惜しさと
やるせなさで、握った拳で何度も床を叩く。しかし力強さはない。

ユウナは兄の膝の上でうずくまって、気が済むまで泣き続けた。
兄も震える手で妹の髪をなでてあげる。本当だったら自分の方こそ
誰かに慰めてもらいたい気分だった。悪魔はあぐらをかきながら、
神妙な顔でうなだれている。気の毒には思ってくれているようだ。

「おふたりさんよぉ。おめーらは一度別の世界に飛ばされただろう。
 あそこはそんなに悪い世界じゃなかったはずだ。
 こんな世界に戻ってきちまうから、残念な結果を見る羽目になったんだぜ」

「待て。状況を整理させろ。
 僕とユウナは、上海のコンサートホールにいた時から記憶が飛んだ。
 つまり、あの時に別の世界にワープしていた。そしてアユミだけが逮捕された。
 以上が僕が思いついた結論だ」

「んー、ワープとは少し違うんだが、まあだいたいあってるよ。
 アユミちゃんだけが結果的に逮捕されたってのも、その理屈なら納得できるだろうしな。
 俺が言いたいのはよ、おふたりさんは、学園生活を送ってれば良かったんだよ。
 こんな世界に戻ったところで何になる? 令和の日本にはなにもねえんだ。
 政治への諦め、経済の停滞、人間不信、貧乏からの自殺。救いはねえよ」

「だからこそ、僕たちは日本を救うために共産主義革命を起こしたんだ!!
 令和の日本が腐りきってることを誰よりも知ってるのはこの僕だぞ!!」

「おう。おまえらの政治思想までは否定しねえよ。俺は政治とは無縁の人生を
 送ってるからな。ぶっちゃけ、どうでもいいんだ。俺はここで野菜を作り、
 川で魚を釣り、薪を割り、たまに手工業品を町まで売りに行けばそれで満足なんだ」

悪魔は、四段もある壁棚にびっしりと置かれている陶器を指さした。
皿、壺、湯呑など。素人が作ったにしてはそれなりの完成度だ。
人里離れたこの田舎の村では、手工業品には一定の需要があるらしい。

「おめーらの失敗した理由は、血縁者同士で結婚しちまったことだ。
 公の場で結婚式を挙げたのも、後々のことを考えるとマイナスだったな。
 あれで世間が納得してくれるわけがねえ。新郎が行政府の中枢の人間なんだからな。
 結婚はよ、そんなに難しいことじゃねえんだ。自分の身近にいる女を見つければいいんだよ。
 ちなみに俺も結婚してるんだぜ」

「そうなのか!? おまえ悪魔のくせに結婚なんてできるのか?」

「俺の名前は悪魔なのか? そんな名前を名乗った覚えはねえが。
 俺の妻なら町まで働きに行ってるぞ。さすがに野菜作りと、手作り陶器のちっぽけな収入じゃ
 生活するのが苦しくてな。妻は町で店の売り子をやってるんだ。ここからじゃ
 歩いて6時間もかかる場所なんで泊まり込みだ。月末にならなえと帰ってこないんだ」

そういえば、そろそろ10月の末だな、と悪魔が言う。

「早ければ明日にでも帰ってくるんじゃねえのかな」

「お前の奥さんと聞くと悪魔を想像してしまうが……」

「あれは間違いなく人間の娘だよ。少しばかり霊感が強いんで、
 川で魚釣りをしている俺とばったり会ってしまってな。
 それから町でも何度か顔を見かけるうちに親しくなったんだ」

「その人はよくお前と結婚する気になったな。人間だったら
 悪魔と結婚するなんて普通は考えないはずだぞ」

「それがよ。俺みたいなやつでも良いって言う女が本当にいるんだから、
 人間ってやつは面白れえよな。あいつは美人だから、他にも男は選べたはずなんだが、
 俺だったら絶対に浮気しないし、生真面目だから仕事もサボらないしってことで
 結婚することになっちまった。式は挙げてねえから形だけの夫婦だ。
 子供もいねえし普段は別居してるから、遠距離恋愛中の恋人状態なんだが」

「言っちゃ悪いが、相当な変わり者なんだな。お前の奥さんの顔を見て見たいよ」

「嫌でも来週中には帰るから、会わせてやるよ。お前らの話もしてやりたいしな」

「それで僕たちは今後どうすればいいんだ?」

「しばらくここで暮らせよ。ここは田舎だからボリシェビキの追跡からは逃れるはずだ」

「ふむ……。確かにそうするしかないのだろうが。ところでここはどこだ?」

「関東甲信越地方。長野県のとある村だよ。お隣の山梨県との県境に位置している。
 大きな山のふもとでな、人里からは相当に距離が離れているぜ。
 一時間半も山道を歩かねえと車道までたどり着けねえから、
 ここまで車が入ってくることもない。隠れて暮らすにはぴったりだろ?」

「そうだな。ではお言葉に甘えよう。さっきは殴ったりしてすまなかったな」

「いいってことよ。その代わり、明日から山菜取りを手伝ってもらうからな」

「わかった」

こうして、悪魔と不思議な共同生活が始まるのだった。

悪魔はよく嘘をつく➁

朝四時過ぎ。鶏の鳴き声で目を覚ます。ナツキとユウナは、居間の隣にある
4畳間で寝ていた。妻のために用意された布団があったので、それを二人で使わせてもらった。
文字通り寄り添いながら寝たものだから、どちらともなくキスを初め、夜遅くまで愛し合った。

「おっす。おはようさん。ふたりとも目覚めは良くなさそうだが、
 ここでの暮らしは早寝早起きが基本だ。俺は鶏のエサやりと
 畑の世話があるんだ。眠いなら6時まで寝ても構わねえぞ。
 できるなら、部屋の掃除くらいはしておいてほしいもんだがな」

悪魔は、衣服が乱れたままのユウナをできるだけ見ないようにしながら言った。
ナツキとユウナはチベットを旅した時と同じ私服姿だった。
着替えなどあるわけないから、毎日同じ服を着なくてはならないのかとユウナは思った。

「替えの服なら着物があるぜ。
 妻のだからサイズが合うか分からねえが、今持ってきてやるよ」

時代劇の撮影で使えそうな着物だった。明治時代の農婦の格好だ。
頭にかぶりる手ぬぐいもある。ユウナは兄に手伝ってもらって着てみた。
鏡がないので自分の姿が見えない。庭に溜め池があるので、
そこで自分の姿を映してみた。おばあさんになった気分だった。

前の世界では高校生で学生服を着ていたのが嘘のようだ。
悪魔が井戸水をくんできて、木彫りの湯桶(おけ)に入れてくれた。
ユウナは顔を洗い、手ぬぐいでふいた。

ナツキも男性用の着物を借りてきてみた。
彼は手足が長いためか、意外と似合っている。
知らない人が見たら農夫を演じている俳優と勘違いするだろう。

「悪魔。僕たちは何を手伝えばいいんだ?」

「山菜取りをしてくれると助かるな。ヤマグリやアケビを取ってきてほしいが、
 素人には見分けがつかねえだろうから俺も着いて行ってやる。その前に鶏の世話だ」

彼は悪魔と呼ぶのはやめろよと悪態をつきながら庭に出る。
鶏の小屋を開け放ち、餌を撒くと足元に一斉に集まってくる。
田舎で自由に育った鶏は人を怖がらないようだ。

鶏は放し飼いだ。餌を食べた後は、わさわさと雑木林の方へ走っていく。
のびのびとしていて楽しそうだ。彼らは散歩したり日光浴をしたりして遊ぶのだ。
喉が渇く頃にはまた小屋に戻ってくる。

悪魔はのんびりとした動作で小屋の中の清掃を終えてから畑へ。
バケツの中に葉物野菜を収穫してからいったん家に戻る。
ナツキの腹が鳴る。昨夜の野菜鍋だけでは全然足りなかったのだ。

「腹すかせちまって悪いな。今米炊いてやるよ。少し早いが朝飯にするか」
「いや、こちらこそ悪いな。だが昨日米は全部食べたって…」
「昨日炊いた分を全部食ったって意味だよ。ちゃんと備蓄分はある」

悪魔は、一人が食う分には困らない程度の田んぼを持っていた。
広さは一反。一人で稲を植えて収穫するにはこれで十分だ。

井戸水で米をとぎ、かまどに木切れを入れて、火を起こす。
かまどのそばには火吹竹がある。
悪魔が火吹竹で息を吹くと、ごおっと火の勢いが強まる。

ナツキに火吹竹を手渡し、同じようにやらせた。しばらく火の世話は
ナツキに任せ、米が炊けるまでの間、悪魔は近くの渓流でイワナを五匹も釣って来た。
小鍋にすっぽり入るくらいの大きさのを選んだ。

器用にもイワナを三枚におろして刺身にしてくれた。
生け作り風である。顔に似合わず職人芸を持っている。
薬味にと、山わさびを魚の下に添えてくれる。

自家製のしょうゆをつけてみると、美味だった。
川魚特有の土臭さが鼻につくが、食べていくうちに慣れる。
肉厚で歯ごたえのある感触にご飯が進んだ。

「ご馳走様。美味しかったわよ」
「おそまつさん。そろそろ五時過ぎだな」
「ここには時計がないのに時間が分かるの?」
「太陽の明るさで大体わかる。俺はそういう生活をしてきたからな」

食べ終えた食器は、外の井戸で悪魔が洗ってくれた。ユウナが悪いと思って
手伝おうとしても丁寧に断ってくれた。まだ初日だから甘えてくれて
構わないとのこと。ユウナは恐縮して頭を下げた。

「あなたって本当に悪魔なの? 普通の人間と同じ暮らしをしているけど」

「その悪魔って呼び方、まだ続くのかい。
 俺は普通の人間じゃないのは確かだが、悪魔になった覚えはねえよ」

スズメが何匹か木の枝から降りてきて、悪魔の足元でじゃれていた。
悪魔の肩の上に乗るスズメもいる。鳥は彼を家族のように慕っていた。

「悪魔じゃないなら、何者なのよ」
「んー、これも説明が難しいんだが、精霊ってとこかな」
「精霊なの? それって悪魔と何が違うのかしら」
「神に近い存在だ。神と精霊は同一だってキリストの奴らは言うじゃねえか」

「イエスも神と同等の存在とされているのよね」
「あんなのは神でも何でもねえ。ただの人間だ。ただの預言者だ。バカバカしい」
「あなたは自分を精霊と名乗っておきながら、イエスは否定するのね」

「当たり前だろうが。あんなうさんくせえ奴を神様と同等なんて
 考えるのはキリストの民だけだよ。俺はどっちかというとユダヤ寄りの
 考えを持ってる。ムスリムも正しいと思ってる。だがキリストの奴らはダメだ」

「私と兄は無神論者だから安心してちょうだい」

「そうだったな。ボリシェビキには信じる神がいねえんだよな」

「宗教は麻薬と同じよ」

「そこまで言うのもどうかと思うがな。信じる神もいねえのに人生に希望を
 見出せる奴は、それこそ嘘つきなんだと俺は思うがね。まあいい」

悪魔は山菜取りの仕方を丁寧に教えてくれた。背中に大きなかごを背負い、
頑丈な長靴を履いて山道を歩いて、食べられるものを探していく。
秋は様々な果物、木の実、植物がある。一見すると素通りしてしまうものも
実は食用だとわかって感動することもあった。

あんまり山に深く入りすぎると、野生のイノシシやクマに遭遇することもあるから
気をつけろと悪魔は言った。奴らと会う時は強烈な匂いがするから、それで気づける。
まっすぐ来た道を引き返せと教わった。

慣れない田舎での自給自足生活に身を置くこと三日。ついに悪魔の妻が帰って来た。
夕暮れ時で、悪魔が囲炉裏の前に腰かけ、夕飯の支度をしている時だった。

「あらまあ。三人分のゲタ(靴)がある。お客さんでも来てるのかい?」
「俺の大切な客人なんだ。お前が帰ってきたら紹介しようと思っててよ」

玄関からやって来たその人は、ナツキのよく知っている人物とうり二つだった。
初めは本人かと思ったが、さすがにありえないだろうと思った。

悪魔はその女性を「カマール」と紹介した。もしくは「カマル」だったのかもしれない。
アラビア語で月を意味する言葉らしい。ちなみに偽名だ。本名は決して名乗ろうとしないので
悪魔も知らないらしい。普段は街へ出て、観光案内所近くの食堂で住み込みで働いてる。

「あなた、ルナちゃんよね……?」
「私はカマルですけど」

優菜だけでなく、ナツキも始めカマルを見た時、ルナを思い出した。
目鼻立ちはもちろん、綺麗な髪の毛と、はかなげな表情が彼女にそっくりだ。
違いは年齢だ。ルナは二十歳過ぎだったが、このカマルは30代の半ばくらいだ。
化粧は薄く、だいぶ生活にくたびれた感がある。背が高く170近くもある。

カマルは大きな風呂敷を床におろした。悪魔が欲しがっていた生活雑貨が満載されている。
建物の補修に使う釘、ドライバー、ばんそうこう、ガーゼ、風邪薬、軟膏、チョコチップクッキー。
ナツキたちからしたら何時でも買えるものだが、山奥での自給自足生活者にとっては
貴重な品物だ。ポケットラジオも入っていた。ここではNHKだけが受信できる。

「おい。このラジオは電池が入ってねえぞ」
「うっかりしてたよ。最近のは電池は別売りになってるんだね」
「ちっ。腹減ったから先に飯にしよう。食いながらこいつらのことを説明する」

夕ご飯には山菜の味噌汁と、アユの塩焼きが振舞われた。
ユウナとナツキには気を利かせてご飯を大盛りにしてくれる。
悪魔がニコニコしながらよそってくれるので、遠慮なく頂戴した。

「ふーん。あんたら、ボリシェビキなんだ」
「そんなに珍しそうな目で見ないでください」
「だってボリシェビキなんでしょ? 私は初めて見たからさ、ボリシェビキの人間」

カマルは淡泊な女性で、高倉家の人間が殺された件に関心を示さない。
所詮は他人事といった感じだ。また彼らが党本部から逮捕状が出されていることも
普通に聞き流した。共産主義者とは極悪非道人の集まりと聞いている。
だからそいつらがひどい目に合うのは当然だとカマルは思っていた。

「うちらの住む長崎県も、一部の地域がボリシェビキに賛同して
 北関東ソ連の一部に編入されたんだってね」

「そんな酔狂な奴らが長野県にもいたんだな」

「あんたは新聞読まないから、世の中の事なんにも知らないんだね」

「うるせえな。俺はここで小さな暮らしができればそれで満足なんだよ」

夫の悪魔は政治に興味がない。一方でカマルは街で仕事をしているから、
テレビや新聞からボリシェビキのニュースは嫌でも耳に入る。
またつまらないカマルの政治の話が始まると思ったので、
悪魔は奥の寝室へ消えてしまった。

「これで邪魔者が消えたから、ゆっくり話ができるね。
 これは道端で落ちてたものなんだけど、あんたらの私物かい?」

「そのポーチは!!」

「やっぱりそうか。ユウナさんだっけ? ほらよ」

ユウナは自らのうかつさと忘れっぽさに、自らの頭を叩きたい衝動に駆られる。
大切な大切な金のコインを入れていたはずのポーチを、雑木林の中に
落としていたのだ。チベットに戻る流れだったのに、なぜか現代日本に
タイムスリップしてしまい気が動転したが、それにしても大切なコインを落としていたとは。

「よほど大切なものなんだね。一応中身を見させてもらったが、貴金属のようだったね」
「実は本物のゴールドなんです。父の形見みたいなものです」
「へえ。そりゃすごいね。本物の黄金なんて見るのは初めてだよ」
「ええ」
「ちょいと見せてくれよ」
「どうぞ」

カマルは、受け取ってすぐ返してくれた。見たのは一瞬だけだった。

「もういいんですか?」
「見てても気持ちのいいものじゃなかった」
「どういう意味ですか?」
「触れるなって言われたんだよ。そのコインにね。そいつには人の強い意志が
 込められているから、あんた以外の人が触ると災いが降りかかるみたいだ」

ナツキが口をはさむ。

「カマルさん。あなたも普通の人間じゃなさそうですね」
「普通ってのが最近よく分からなくなってきたけど、そうかもしれないね」
「どうしてあの悪魔と結婚したんですか?」

「悪魔って、私の夫のことか? 理由を聞かれても困るね。その場の勢いだよ。
 私は田舎に暮らしているからね。結婚なんてその場の勢いでするもんだよ。
 最低限の容姿で、まじめに働いて、それなりの生活力さえあれば別に誰でも。
 誰でもってのは言いすぎだが、あいつとは話が合うんだ」

「あなたには、彼の姿が人間の姿に見えているんですか?」

「肌の色とか普通じゃないし、物の怪(もののけ)に近いかもしれないね」

「ならなぜ!!」

「私は人じゃない者に惹かれちまうんだろうね。
 私の家系では、祖母のもっと前からずっとそうだったらしい。
 私の夫は人の姿を借りた精霊だって言い張るんだけど、あいつが
 そう言うなら信じてあげてもいいと思った。夫は人と関わるのが嫌で、
 こんな不便な場所で暮らしているけど、どこかさびしそうなんだ。
 きっと自分と同じように、世間から取り残されて孤独に暮らすしか
 生きる術を持たない存在を知った時、助けてやりたいと思ったんじゃないか」

「あなたは、彼がさびしそうだったから一緒にいようと思ったと?」

「同情したつもりはないんだが、結果的にはそうなっちまったかな」

熱々の茶をすするカマル。猫舌のため慎重に湯呑を口に運ぶ。
ふぅーっと息を吐く。

「あんたらも普通の人間じゃないね。神と精霊の力に守られている」

何を言ってるんだと、顔を見合わせる兄妹。

「私は占いが趣味でね。多少の霊感も持っている。あんたらは運命の
 時空を飛び交い、その果てにこの世界に迷い込んだそうだね。
 この村での生活は、あんたらにとって最後まで安息の地となるだろう。
 私の夫は寿命が長い。あと700年はこの世界に生き続けるそうだ。
 だからあんたらは、夫に嫌われない限り、何時までもここで暮らしていけるよ」

「ずっとこの村で……ですか」

ユウナが悲しげな顔をする。

「そうさ。楽なもんだろう。ボリシェビキとは縁を切ってしまえばいい。
 村人として、政治とも世の中とも無縁な世界で暮らせばいいんだ。
 三人分の畑を耕して、田植えをして、川に釣りに行けばいい。
 ここは食料が豊富なんだよ。冬は豪雪でちと辛いが、ニ、三年もすれば慣れる」

「ありがたいことだとは思っています。
 しばらくはここで暮らさせていただきます。他に行くところもありませんから。
 けど少しの間考えさせてください。母が死んで、妹のアユミが死んで、私とナツキだけ
 生き残っていいだろうかって思うんです。まだ気持ちの整理がつかなくて」

カマルは「そうかい。考える時間はたっぷりあるから、せいぜい悩むといいさ」
と言って、食べ終わった食器と湯呑をまとめてから夫婦の寝室へと消えていった。
ユウナとナツキも寝ることにした。

もう二度と生まれ故郷に帰れないと思うと、ユウナは悲しくて泣いた。
ナツキも死んだ肉親のことを思って泣いた。
来る日も来る日も、彼らは布団の中で泣き続けた。
やがて涙も枯れる頃になると、秋が過ぎて雪の降る季節になる。

悪魔はよく嘘をつく③

足利市の出身の高倉兄弟にとって雪はめずらしい。

足利市は広大な関東平野の北部にある。平野部の気候は、
一日の間の寒暖の差が激しい。足利市とて積雪がないわけではないが、
近年は暖冬傾向にあり、降らない年があるほどだった。

「ナツキよ。足を滑らせねえように気をつけろよ」
「分かってるよ。この不安定な姿勢だと踏ん張りがきかなくて大変だ」

雪がどっさり積もる季節になった。12月の末。足利市なら防寒着を着れば
外を余裕で歩き回れる季節だった。ここでは、そもそも外を歩くこと自体が困難だ。
まず朝起きれば、玄関先の雪かき。井戸まで歩く場所を確保するため足を踏み固める。
ナツキと悪魔は、かやぶき屋根の上に乗っかり、雪下ろし。
温暖な地方で生まれ育ったナツキには、これが何よりも辛い。
足を滑らせ転落したこともあったが、奇跡的に腰を軽く打っただけで済んだ。

鶏小屋は冬用装備で板を張り巡らせて、風を通さないようになっている。
氷点下の気温でも寒さに強い鶏は、餌をあげると元気に小屋を走り回る。
小屋の中を清掃しているユウナは、
鶏の羽はそんなに暖かいのかしらと感心した。鶏の世話は彼女の日課だ。

庭から井戸までの雪を足踏みして固め、飲み水を確保するのもユウナの仕事だ。
大きなバケツに水をすくう。玄関と何度も往復すると、強烈な寒さの中でも多少は汗ばむ。
朝の寒さは、それこそ寒いのが苦手なユウナにはこたえた。朝一番で外に出て
空気を吸い込むと、肺まで凍ってしまいそうだった。
厚手の布をマフラー代わりにして口の周りに巻くと楽になる。

かまどの使い方もすっかり手慣れたもので、火吹竹で火力を自在に操り米を炊く。
朝ご飯は、いつも決まったメニューで、ご飯とみそ汁(具材はジャガイモや大根、白菜など)
ウサギの肉の干物が悪魔の好みのため、毎日のように食卓に出してくれた。なんとも
歯ごたえのある肉で、嚙み切るのに相当な力が必要だ。栄養価は高く、貴重な動物性タンパク質である。

生きるために、生きている。
文明社会から隔離された山奥では、大昔の人と同じ生活を送っていた。

ここには悪魔の妻のカマル以外の人が訪れることはない。

悪魔は行政機関で戸籍登録をしていないため、税金の徴収の対象にならない。
ここは山のふもとで平地のため、井戸水で生活している。山から水道管を引いてない。
電力はない。ろうそくか、囲炉裏の炎で照らす。
夜はすぐ寝る生活をしていたから、明かりはそれほど重要ではなかった。
ガスも当然ない。税金だけでなく、公共料金の支払いもないのだ。

その日食べるものがあれば、とりあえずは暮らしていける。
だが病気になったらどうする? 近くに医者もいない。
常備薬はあるが、もっと重病の場合は役に立たない。

山を一つ越えれば町があるが、そこまで行けるかどうか。
少なくとも真冬の間は自殺行為だ。
ナツキは生真面目な性格のため、いちいち考えなくてもいいことまで考えた。

また、最初はここでの暮らしも自らを救うためだと納得はしていたが、
次第に不満の方が大きくなってくる。ここでの生活は、娯楽が何もない。
毎日がその日の糧を得るために生活して、目的が達成されたら
あとは家に帰るだけ。寒さに震えながら渓流で魚を釣る生活はもうごめんだ。

悪魔が作ってれた、わらを編み込んだブーツを履いて、黒いマントを羽織り、
男二人で獣を狩りに行く。罠を張り、一時間も待ちながら
野生のキツネを狩るのは大変だった。スーパーなら豚肉が簡単に買えるのにと、
思わない日はなかった。凍傷にはまだなっていないが、
それも時間の問題なんじゃないだろうかと思った。

ナツキは、こんな生活を続けていける自信がなかった。
悪魔は良い奴だし、本当に世話になっている。だがナツキはもう限界だった。

吹雪く日は、隙間風に震えながら、三人で囲炉裏を囲んで過ごす。
囲炉裏の日は明るくて、部屋全体を淡い光で照らしてくれた。

特にやることなどない。三人だけの生活なので世間話もなく、退屈な時間が流れる。
だいたい、情報源も少なすぎる。スマホもテレビもパソコンもない。
悪魔の奥さんが買ってきてくれたポケットラジオだけが唯一の文明との接点。
しかも電波状態が悪いためNHKしか受信できない。

ナツキは少しでも外の情報が知りたくて、NHKを聞いた。薄暗い場所だと
音声にがっつり集中できる。北関東ソ連は、ますます勢力を増長しながらも、
資本主義の日本国と対立を深めている。日本は結局は自民党が支配し、
今も多くの国民を賃金奴隷にしながら脱走者は銃殺するなどて支配を強めている。

北関東ソ連も、建国当時は一枚岩だったが、今では経済政策の失策から
貧富の格差が増大し、各ソ連(地域)ごとに不安定な政治情勢が続く。
ソ連から逆に資本主義日本へ脱出する人まで存在しているようだ。

そんな時だからこそ、ナツキにはやるべきことがあったはずだ。
彼も立派な足利市議会のメンバーだ。妹のユウナは学園の教頭をしている。
今となっては関東地域に普及した共産主義革命は、足利市から始まった。
日本で最も洗練されたボリシェビキ教育を
実施する足利市の『学園』は、ソ連の未来を作り出す希望でもあった。

ナツキは自分だけでなくユウナもここにいるべきではないと思った。
だから寝床に着くたびに、ユウナと口論になった。

「今さらソ連に戻ってどうするつもりなの? 私たちはもうは国から捨てられたのよ」
「僕はボリシェビキの一員なんだぞ。負け犬なんかじゃない!!」
「誰も負け犬だなんて言ってないじゃない」
「メディアの連中が言ってるじゃないかよっ」

資本主義日本のマスメディアは、国外逃亡した末にチベットで死んだことになっている高倉夫婦を、
散々にこき下ろした。「近親婚の慣れ果て」「ソ連最大のスキャンダル夫婦」「精神異常者」
週刊文春が得に容赦がなかった。ナツキの中学生時代の同級生たちに徹底的な取材をし、
ナツキが実は妹のアユミに性的なイタズラをしていた事実まで明らかにしてしまった。
その情報を漏らした同級生が誰なのかは不明だが、高倉家の事情に相当詳しい人物だったと思われる。
週刊文春の恐るべき情報収集力は、もはや旧ソ連の国家保安委員会の諜報部に匹敵していた。

こんな人物が今さら実は生きてましたと、ソ連に戻ったところで粛清されるのは確実。
資本主義日本に戻っても死刑が妥当だが、現実的には徹底的に拷問された後、
終身刑が適用されるだろう。

「今の北関東ソビエト連邦は軟弱だ。まだまだ僕の力を必要としているはずなんだ」

「夢みたいなことを言ってるのね。現実を見て。
 国がどうなろうと、私たちには関係ないことでしょ。
 もう私たちはボリシェビキじゃないのよ。名乗る資格さえないわ」

「ふざけるな!! そんな現実など認められるものか!!」

「いい加減にしなさいって言ってんでしょ!!」

ふすまの先で、悪魔は(またか)と思い、溜息を吐いた。
時刻はとっくに深夜を回っている。ご飯を食べた後、特製の蒸し風呂(寝そべりながら入る)で
体の汗を流した後は、寝るしかない。他にやることなどないはずだが、
今夜の高倉夫婦の喧嘩は長く、下手をしたら朝方まで続くかもしれなかった。

「私たちが夜遅くまで騒いだら悪魔さんだって眠れないでしょうに。
 ナツキはいつまで子供みたいなことを言ってんのよ。ほら、寝なさいよ」

「……寝たら怖いんだよ。寝るとアユミが」

「は? なに? もっと大きな声で言ってよ」

「アユミが枕元に立つんだよ!!」

「え。アユミが……?」

「夢の中になぁ……小さい頃のアユミが出てくるんだよ。まだ小学生低学年くらいの時のな。
 朝、僕が中学校に行こうと支度をすると、アユミが面白がってかくれんぼを始めるんだ。
 僕は時間がないからもう行くぞというが、アユミが面白がって玄関の周りを
 行ったり来たりして隠れるんだ。さあお兄ちゃんの番だよ。早く見つけてって。
 あぁ……アユミの顔を最近は毎日見るようになったんだ!! 
 目覚めたらアユミがそこの壁に立っているんだ!!」

「アユミは幽霊になっても兄さんの事を想っているのかしら。
 かわいそうに。成仏できなかったのね」

「僕はもうここにいるのは限界だ!! 自給自足の生活をするのも嫌だ!!
 アユミの霊におびえるのも嫌だ!! 足利市議会に帰らせてくれ!! 
 あそこだけが僕のふるさとなんだ!! 母は死に、妹は死に、父は逮捕された!! 
 でもソ連はもう……あぁ、そうだ。僕にはにすがる対象がないんだったな……」

だんだんと支離滅裂なことを言い始める兄に、優菜も本気でどうしたものかと考えてしまう。
兄はおそらく「うつ」になっているのだろうと思った。精神的な負担のせいで
思考力まで落ちてきてしまっている。兄のためを思うなら、他に住む場所を
探すべきなのかもしれないが、上述の理由でそれは不可能に近い。

ユウナは住む場所と生きるすべを教えてくれた悪魔に感謝している。
自給自足の生活も最初は抵抗があったが、自然と共に生きるわけだから
人間らしくて悪くないとさえ思っていた。普通、文明社会で生きた経験のある女性は、
この手の暮らしが次第に嫌いになり結局は途中でリタイヤするものだが、
ユウナは逆のパターンだった。

「落ち着きなさい。ナツキ」

ユウナは兄を優しく抱きしめてあげた。

「私はあなたの妻よ。あなたはこれから私を頼りに生きていけばいい。
 私は今後何があってもあなたのそばを離れたりしない。約束するわ。
 だから、あなたはもう余計なことを考えなくていいの」

「ユ……ユウナぁ……僕は……今まで何を言ってたのか自分でも分からないんだ……」

「いいのよ。ナツキ。いいのよ」

ナツキは一通り叫び倒した後は、急に弱気になり泣きじゃくる癖があった。
幼児退行現象の一種なのか、口調は幼く、妹であるユウナの胸の中で甘えてさえいる。

むき出しになったユウナの乳首に愛しそうに吸い付く。
出るはずのない母乳を求める赤ん坊のように。
ユウナはそっと彼の頭をなでてあげた。

さらに兄の大きくなった男の部分をいじり始めると、ますます硬さを増していく。
ユウナがギュッと力を込めて握り、早いペースで上下にしごき始めると、
ナツキはどんどん気持ちよくなり、すぐに発射してしまった。
ユウナの寝巻にすこしかかる。

「今度は私のを舐めて」

ナツキを布団に優しく押し倒し、下半身を露出したユウナが彼の顔の上に
またがるようにしてしゃがみこんだ。目の前にユウナの露になった女性器があって、
唇に密着する。ナツキは窒息しそうなほどだった。十分に湿っているそこに
舌を突き当てる様にしながら、愛撫する。トロトロと液がこぼれてきた。
濃くて塩気のある味。むわっとする女の匂いがして、
ナツキのアソコがまた元気になる。

ユウナは今度は後ろを向いて、シックスナインの姿勢になる。互いの性器を
口でもてあそんでいるうちに、ナツキがまた発射してしまう。ユウナの顔全体に
白濁液が飛び散った。ユウナはまだイッてないので、二人のペースがまったく合わない。

ナツキはユウナを壁際に手をついて立たせ、自分はしゃがんで後ろから
膣に指を挿入した。下から突き上げるように。

「あっ……キモちぃっ……力入んなくなっちゃう……」
「太ももまでびしょ濡れになってるぞ。もっと触っていいか?」
「あっ……あんっ……ユウナをっ……もっと気持ちよくしてっ……」

ナツキは我慢できなくなり、ゴムもないのに挿入を始めてしまう。
ユウナの大きな胸をつかみながら、腰を激しく揺らせる。

「あっ……ああっ……そんなにっ……だめよっ……赤ちゃんできちゃうっ……」
「好きだっ……ユウナっ……好きだっ……」

さすがに抵抗しようとするユウナの手を、ナツキは乱暴につかみながら
挿入を止めるつもりはなかった。ナツキの性欲は異常に強く、一日に三回も
射精してもなんともなかった。ユウナの白い肌を見れば即充電。
まさに疲れ知らずといった風であった。

「うっ……!!」
「あ、ああっ……ダメだって言ったのに……」

ドクドクと、暖かい液体がユウナの中に流れ込んできた。力なく床にしゃがみこんだユウナの
股の間から、液体がこぼれてくる。ナツキはその様子が見たくて、ユウナの足を開かせた。
秘所を押し開き、膣口を直接ながめた。

「やだっ、恥ずかしい」
「ちゃんと見せてくれ」

股を隠そうとしたユウナの手をどかし、じっとそこを観察していた。
兄によって開かれた膣から精液がこぼれてくる。
ユウナには何が楽しいのか理解できず、嫌な瞬間だった。
AVの撮影をしている人はこんな気分なんだろうかと、
トンチンカンなことを思ったりもした。

ナツキはまたユウナを押し倒し、今度は唇を強く押し当ててきた。
飽きることなく乳房を乱暴にもみながら。

「ユウナ。愛してる」
「私もよ」

血を分けた兄妹が、一枚の布団の上で折り重なる。
この家では布団は二人分しかないので、高倉夫妻の分はひとつだけだ。
何時だって二人は身を寄せ合って寝るので、これで十分だ。

寝相の悪いユウナが寝返りを打つと、ナツキが布団から追い出されて
しまうこともあるが。現代建築と違い密閉性に欠け、隙間風があるので、
布団をはいだ状態では即風邪を引いてしまうほどだ。

ナツキの駄々は、その後も定期的に続いた。ユウナは兄がうつ病なら
自分が根気強く支えるだけだと自らを奮い立たせる。自暴自棄に会った兄が時に暴力を
ふるうこともあったが、耐えた。正気に戻った兄は泣いて謝る。

ユウナは許す。そして抱き合いながら寝る。そんなことを繰り返していくと、
ナツキはユウナへの依存がどんどん強くなっていった。
ナツキが自我を何とか保っていられるのはユウナがいるからだった。

(自分でも知らなかった……。俺はどうしようもないくらいユウナのことが好きなんだ)

この地方では永遠に雪が降り続けるのか。朝起きて外の雪景色を見る度に絶望する。
凍傷の恐れがあるため、外出が極端に制限されると陰鬱になる。
日光に照らされた雪の白さに憎しみがわく。子供の頃は、あんなに雪が降るのを
楽しみにしていたのに。吹雪の日はもっと最悪だ。川釣りに行くことさえできない。

毎日、同じようなものを食べた。イモ類、白菜、キャベツ。
ウサギやキツネの肉。それと白米。
雪をかまくらにして作り上げた天然の冷蔵庫。
上から「かやぶき」をかけてある。そこへ釣った魚を凍らせたまま保存できる。
肉や野菜も入れておける。知恵さえあれば豪雪でも普通に食べていける。

高倉夫妻が悪魔から学んだことは多かった。彼らは賢いから、
悪魔からどんどん知識を吸収して、自分からどんどん経験して覚えた。

きっとここで一生暮らしていくこともできるのだと、信じていた。春が訪れる前は。


「ちょっと悪いニュースがあるみたいなんだが」

悪魔が朝食のお米を咀嚼しながら言った。

外はすっかり新緑が芽吹いている。渓流には草木が生い茂ってきて、
小鳥や蝶が華麗に舞う。足元にタンポポやレンゲが咲いているのを見ると、
ユウナはそれはもう楽しそうにはしゃいだものだ。
人の手が全くかかっていない自然の姿が、こんなにも美しいものだと知らなかった。

「悪いニュースってなんだよ?」

「俺の口からはちょっとな……NHKを聞いてみてくれ」

悪魔のくせに歯切れの悪い奴だと、ナツキは思いながらラジオに耳を傾ける。
あんまりよく聞こえないので、もっと音量を上げてもらう。

『では、これから専門家の田中さんに詳しく話を伺います。田中さん。
 リモートでのご出演となりますが、よろしくお願い増します。
 一時期話題になった高倉夫妻の行方なんですが、まだ日本の地方の村で
 生きているのを目撃した人がいると……』

『そうなんです。チベットで死んだと思われた夫妻ですが、とある情報提供者の女性によると、
 長野県の山中に隠れ住んでいるらしいです。これはかなり有力な情報であると……』

血の気が引く内容だった。ユウナは箸が止まっている。ナツキもだ。
頭の回転の速いユウナ方が、状況を正確に把握しようと分析を始める。

まず、NHKの朝のニュースで話題になっているのは、高倉夫妻の生存情報だ。
情報提供者の女性……。思い当たるのは、一人しかいない。悪魔の妻、カマルだ。
彼らは悪魔の隠れ家に住んでから、カマル以外の女性と会ったことがない。

カマルはボリシェビキを恨んでいる風だった。彼らのチベットでの逃避行の話や、
母親やアユミが死んだことにもまるで同情してくれなかった。動機は十分にあるだろう。

「待てユウナ。カマルさんが町で誰かに言いふらした可能性もある。
 その場合、情報提供者はカマルさん以外の誰か、という線もある」

確かに、と思った。ならば、情報提供者を特定するのは困難。これこそ
考えるだけ無駄なことだ。まもなく追手がここまでやってくるかもしれないことが問題なのだ。
日本の公共放送の内容は、当然ソ連側も知っているから、ソ連の保安委員部が
ここまで足を運ぶことは時間の問題と言えた。

「すまねえな。俺の妻がベラベラ話してしまったのかもしれねえ。
 いや、本当にすまん。おまえらに迷惑をかけるつもりはなかった。
 嘘じゃねえ。この通りだ」

悪魔はどこまでも人間臭い奴だった。床に手をついて頭を下げてくれた。

ユウナもナツキも、彼自身に対して悪意など全くない。寒い冬を乗り越えて
彼ら三人の絆は深まるばかりであり、むしろふたりは悪魔に深く感謝している。
ここを去るのは仕方ないにしても、何かお礼をするべきだと考えていた。

「逃げる必要はねえよ。むしろどこへ逃げるんだ?
 ここは俺の結界が張られている。人除けのまじないみたいなもんでな、
 おまえらがここに来る前に、イチョウの大木と鳥居があっただろう?
 あれにちょっとした[まじない]をかけてある。普通の人間じゃあ
 ここまでたどり着くことはまず不可能だ。特に神様を信じてねえボリシェビキの
 連中には100年かかっても無理だぜ。保証する」

「そうか。もちろん信じてるよ。心から感謝する。前から聞きたかったんだが、
 君はどうして僕たちをここまで世話してくれるんだ? 君を疑ってるわけじゃなく、
 純粋な好奇心から訊いてみたいんだ。ユウナもずっと気になっていたみたいだぞ」

「前も言ったかもしれねえが、俺の上司がな。どうしてもおまえらの
 身の安全を保障しろって命令してくるからよ。俺はその指示に従ったまで。
 お前らにはここまで一緒に暮らしたから愛着もあるし、もちろん嫌いじゃねえけどな」

「その上司の正体は? 僕たちが学園に戻った時にいた、あの黒づくめの悪魔の事か?」

「あの人も悪魔呼ばわりかよ。とにかく正解だ。ちなみに俺はあの人の命令に
 逆らったら殺される。嘘じゃなくてマジで殺される。俺には逆らう権利はねえんだ」

「そんな厳しい関係なのか。悪魔の世界にも上下関係があるんだな」

「あのなぁ……もう何か月も悪魔呼ばわりされて少し傷ついてるんだぜ。
 しょうがねえな。そろそろ俺の正体を明かしてやるよ」

この男は自らを精霊と称した。または「ジン」である。

   ※イスラム教の悪魔、魔人について

    イフリートは、イスラム教によると、
    人間よりも2000年も前に創造主によって「火」と「風」から創られた魔神だとされる。
    また「ジン」(魔人、悪魔、精霊)の一種であるとも言われている。
    ジンの存在はクルアーンも認めており、ジンという題目のスーラ(章)があるほど有名である

  姿はあらず、目に見えぬとされる。姿を現す時は煙・雲の如く渦巻く気体となって現れるほか、
  人間、蛇、ジャッカルなどの姿など。知力や体力、魔力と全てにおいて人間より優れていたとされている。
  色々な魔法を操る事が出来たとされ、中でも、炎を自在に操り、炎に関る特別な力を持つ強力な悪魔だとされる。

  イフリートを召喚した者には、魔法の力によって様々な恩恵を授かったと伝えられているが、
  その一方で、性格は獰猛・短気であるがゆえ、非常に気性が荒く、
  自分の気に入らない相手であった場合は即座に命を奪うという一面も併せ持っているとされている。

  イフリートはジンの一種であるが、ジンの最高位がイブリースであるとされている。
  
  イブリースの下には階級があり、上から、
  マリード・イフリート・シャイターン・ジン・ジャーンの5階級となっている。
   

ナツキは非科学的な話は好きではないが、
現に目の前に悪魔の姿をした男がいるのだから疑う余地などない。

「お前の上司は、イブリースなのか?」
「そんなところだ。みだりにその名前を呼ばない方がいいと思うがね」
「なぜだ?」

「あの方は神に近い場所にいたお方だ。プライドも高い。
 名前を着やすく呼ばれるのを好まないからな。
 人の子には、あの方の名前を呼ぶ資格はねえんだ」

悪魔は、ついでだからとゴールドコインの秘密も教えてくれた。

そのコインは、高倉家の父親が中東で勤務していた時、ユウナのために買っておいたものだ。
彼は全くの偶然なのだが、悪魔によって呪われたコインを買ってしまった。
そうとも知らずに日本に持ち帰ってしまい、ついに深夜の三時ちょうどに悪魔が召喚されてしまう。

その悪魔は、さっそく幼いユウナに目をつけ、食べてしまおうかと思った。
だがユウナがあまりにも可愛らしく、無邪気な顔で寝ているものだったから
殺意がそがれてしまう。悪魔の正体はイブリースだった。


    ※イブリース(Iblis)はイスラム教において、アル・シャイターンと
     呼ばれる悪魔の王。ユダヤ教やキリスト教のサタンに相当する。

   クルアーンによると、アッラーフ(神)が土からアーダム(アダム)を創り天使たちに
   彼の前にひれ伏すことを命じたが、彼は黒泥を捏ねて作った人間などにひれ伏すことは
   できないとしてそれに応じずにアッラーフを怒らせた。
   
   アッラーフは彼を罰しようとしたが、イブリースはアッラーフに猶予を請うた。
   それが聞き入れられると、いずれ最後の審判の後、地獄の業火によって
   焼かれるまで地上の人々を惑わせてやろう、と誓った。


イブリースは、時に父親の体を借りて、家族と食卓を囲んだ時もあった。
彼の受け答えは、父と全く同じものだったため、家族は父親が偽物と気づかなかった。

かつて父親が、アユミの学費を稼ぐために外国為替の証拠金取引をしたことがあった。
レバレッジを利かせたFXである。
その際に、イブリースは、人の生にして200年分の幸運を高倉家に授けた。
その結果、たった数か月で500万円ほどの儲けが出た。
これは父の力ではなくイブリースの力だった。

やがて栃木県足利市で革命が生気。イブリースは、日本の行く末を案じた。

彼が長い時を過ごしたシャーム地方(bilād al-Shām)と日本国では
大きな違いがあった。日本の民は、神道や仏教が存在しながらも、
日常的に信じる神などおらず無宗教に近い。古来より八百万の神に守られながらも、
神に感謝することもなく生きてきた稀有な民族である。

民は神への忠誠心はないが、不思議と道徳心は高く、高度な文明を持ち、
治安は保たれ、勤勉であり死ぬまで働く。かつてエジプトを追放された、
ヤコブ・イスラエルの民との共通点を見出す。生真面目で勤勉な点である。
目に見える上級者(会社の上司など)に対する服従心も高い。
だが目に見えない者には敬意を示さず、そろどころか存在を信じることもない愚か者だった。

イスラム以前のシャーム地方の民は、もっと愚かだった。
商売を好み、詐欺をし、人を裏切り、女児は生き埋めにし、いとも簡単に姦淫の罪を犯す。
金銀細工で作った神をあがめ、本当の神アッラーフをないがしろにした。

    ※シャーム地方(別名、大シリア地方)
      現在の現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、
      ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域。


人の子は、いつだって愚かな存在であった。

イブリースが極東の国、日本に来て初めて見た女性がユウナだった。
当時のユウナはまだ11歳の娘だったが、満月を二つに割ったような
愛らしい顔立ちをしていて、イブリースは胸の中が温まった気がした。

彼は成熟した女性よりも幼い子を好む傾向にある。
肉付きの良い東洋人の顔立ちは新鮮であり、ユウナの肌が雪のように白いこと、
瞳が漆黒の色をしていること、髪の毛の艶が良いことなど、これからの
成長が実に楽しみな少女であった。むしろ今のままでも十分なくらいなのだが。

イブリースの寿命は長い。
人の世で数えるなら、もう6000年は生きている。
彼はユウナを陰から見守ることを好んだ。ユウナのすることならば、
どんなことでも知りたいのだ。だがユウナの邪魔はしない。
彼女が兄との結婚を望むなら、その通りにしてやる。恋敵がいたら消してやる。
実はアユミを収容所で自殺に追い込んだのは彼だった。

栃木ソ連から迫害されたら逃げ場を提供してやる。
彼の望みはユウナが寿命を迎えるまでの間、ただ見守ることだった。

悪魔はよく嘘をつく④

イブリースはユウナが好きだから、ユウナにはどこまでも甘い。
ユウナの夫のナツキにもよくしてやった。逆にユウナを悲しませる奴は容赦なく殺す。
体を串刺しにして、足元から炎で焼き、舌を引きちぎってから殺す。

「よお」

そのイブリースが、ついにナツキたちの前に現れた。
突然そこに現れたわけではなく、ごく普通に玄関を開けて入って来た。

悪魔は、その場で片膝をついて首を垂れた。
ナツキとユウナは、そこにいるのが自分の父親だったので驚愕のあまり言葉もない。
しかし冷静に考えれば父がいるわけがない。父は収容所にいるはずなのだから。

Yシャツにスーツ姿の父親は、間違いなく偽物なのだ。

「しばらくだったな、優菜。夏樹。ここでの生活にもすっかり慣れたろう」

「なぜ父の姿をしているんだ?」

「好きでやってるわけじゃない。俺は自分の姿をこの世界で表すことができない。
 そういう決まりになっていてな。俺の実態は砂や煙みたいなもんだ。
 だから誰かの体を借りないと体現できない」

「おまえはいつから父のふりをしていたんだ?
 本物の父は今どうしてるんだ?」

「この体なら、気が向いた時に借りた。そう頻繁ではない。
 本物の父親は収容所にいる。脱走はしてない。それより貴様。質問が多いぞ。
 俺がいいと言うまで黙ってろ。勝手に口を開いたら殺す。火であぶって殺す」

悪魔はユウナに話しかけた。

「俺はお前の夢の中でタクシーの運転手をしていた。
 お前に近親婚をやめて欲しいと言った。おまえがどうしてもと
 望むから好きにさせた。それでも今回ばかりは止めに来た。
 おまえは、まもなく兄の子を身ごもろうとしている」

「なんですって!? 私が兄さんの子を?」

「生まれてくる子供は怪物だ。罪の塊だ。
 俺の可愛いユウナが、罪で汚れる姿は見てられない。
 だから新しい忠告をするために、ここにやって来た。この世界は終わりだ。
 もう一度人生をやり直せ。おまえならきっと正しくやり直せる。
 できることなら、おまえの記憶から兄のことをすべて消し去ってやりたい。
 兄のいない人生を歩みせてやりたい。だがそれはお前の望むところではない」

「これ以上のやり直しは、もうごめんよ。私は兄さんと先の未来へ
 進むって決めたんだから。ここでの暮らしは不自由なことが多いけど、
 今日まで何とか生きてきた。これからも、きっと暮らしていけるわ」

「子供はどうする? おまえは早ければ今年中に出産する」

「兄さんの子供だったら、かまわない!! 生むわ!!」

「近親者同士で生まれた子は、生まれながらにして神から見放された子となる。
 もはや人ではない。人の姿をした出来損ないだ。あとで必ずお前を
 悲しませる存在となる。その時になって後悔しても遅いのだぞ。
 お前をはあとで必ずこう思うはずだ。あの時、あの男の忠告を聞いていればよかったと」

「で……でも」

「なんだ?」

「いえ、なんでもないわ」

この時、ユウナは別の可能性を考えていた。兄とは確かに血の繋がりがある。
もし世界が変わって兄が赤の他人として生まれ変わってくれたらどうだろう。
他人同士なら恋愛も結婚も出産も、誰にも非難されることはない。

いっそこの願いを目の前の男に言おうかと思った。
だが、それでナツキをナツキとして認識できるかどうか。
ユウナはきっと、赤の他人となったナツキがどんなに素敵な男だったとしても
好きにはならなかった。ナツキが自分の兄で、いつだって家族を
守ってくれる存在だったから好きになった。

「俺の妻となるのはどうだ?」

とイブリースがまじめな顔で言った。

「俺の妻となれば、おまえは小さなことで悩み苦しむことはなくなる。
 寿命がぐんと伸びる。神から授かった力の一部も貸してあげられる。
 おまえが何度兄を慕ったところで結果はすべて同じ。地獄に行くのと変わらない。
 俺を見ろ。お前を救ってあげられる男がここにいる。俺はお前の味方だ」

イブリースが人間の娘に求婚するのはこれが初めてのことだった。
人間は下等な存在だと今でも思っている。それに妻など初めから欲しくない。
ユウナはそばに置く必要はなく、遠くから見てることが好ましい。

だがユウナを負の連鎖から救うためなら、こう言うしかなかった。

「嫌だって言ってるのよ。私は兄のことを愛してる。
 兄の妻なのだから、別の男と浮気することは決してないのよ」

「そうか。だめか……」

ぐにゃり、とユウナの視界がゆがむ。

何か攻撃をされたのかと、体を調べるが、困ったことに手足がないことに気づいた。
首はある。だが、手と足が根元から消えていたのだ。「ダルマ」の状態だ。
畳の上に仰向けに寝ていた。

「やはり貴様は消えろ」
「ぐっ……」

イブリースは、太い右腕を伸ばし、ナツキの首を絞める。
小刻みに震える夏樹のつま先が、わずかに宙へ浮く。

イブリースが瞳に力を込めると、ナツキの靴下から先が焦げ始める。
悪魔の力を使い、文字通りつま先から燃やし尽くすのだろう。
それも時間をかけてたっぷりと。

ユウナを苦しめる存在であるナツキ。
だが、ユウナが誰よりも愛してしまったナツキ。

もうイブリースにとって遠慮などいらない。
ただナツキの存在をこの世から消し去ってしまいたかった。

ユウナが金切り声をあげる。力いっぱい叫んだが、イブリースは
ユウナの方を見もしない。いよいよナツキのズボンに火が付いた、その時であった。

「うおおっ」

悪魔(ジン)が、その姿を獅子に変身させて、イブリースに襲い掛かった。
ふたりはそのまま壺のある棚に突っ込み、しばらくもみ合いをしていたが、
やがてイブリースの魔力によって悪魔は火だるまにされる。

悪魔は絶叫しながら、ふらふらと玄関の前に飛び出て、
そこで舞を踊るように動いていたが、ついに地面に伏せて絶命した。

イブリースが、再びナツキを殺そうとした。ナツキは恐れおののいて、
できるだけ距離を取り、壁際に追い詰められた。
妹は手足がちぎられてしまい、床に寝かされている。もう、何もかもダメに決まっている。
未来はない。過去に戻ることもない。リセットなどできない。

この世界で、この瞬間に殺されることが、自分の人生の終着点なのだと、正しく理解した。

「ま、待て。殺される前に教えてくれ。なぜユウナの手足をなくした?」
「答える必要があるのか?」

また、ナツキの首が締め上げられる。
首の骨をへし折るほどの力である。
ナツキの口からよだれが垂れる。

力比べでは絶対に勝てない上に、魔力まで使う相手に抗う術はない。
ここでのナツキはただの農民。ボリシェビキでもなく、ソビエトの権力に
守られているわけでもない。ただの、ちっぽけな人間に過ぎなかった。


今度こそ終わりだ。そう思った時に奇跡は起きた。

「ぐぅぅ……か、体の自由が利かない……なんだ……この症状は……」

悪魔は体がよほどかゆいのか、全身が血だらけになるほど、かきむしっている。
寒くもないのに凍えるように縮こまっており、異常な光景だった。

ナツキは部屋の一角から、光り輝く何かを見つけた。ポーチの中にある、
金のコインが光を放っていたのだ。夏樹が中身を取り出してみると、灼熱のように
熱くて持っていられなかった。どうやらイブリースを苦しめているのは、このコインのようだった。

コインはさらに光を増し、やがて部屋全体を真っ白に照らして視界を奪う。
その光が一分もすると消えてしまい、先ほどまで苦しんでいたイブリースにとどめを刺した。
イブリースは、手足をだらんとして、鬱向けに倒れて死んでいた。
確認しなくても死んでいるのが分かった。なぜなら、首が綺麗に切断されていたからだ。

「おい、ユウナ。ユウナ!! 寝ているのか? 返事をしてくれ!!」

どうやら、ユウナも息をしていなかった。
瞳を開いたままの状態で、微動だにしていない。
首で脈を図ったところ、死んでいるのは間違いなさそうだった。

肌は氷のように冷たく、ついさっき死んだというよりも、ずっと前から
死体がそこに放置されていのだと錯覚するほどだった。

「ああ……なんてことだっ。僕は家族をみんな失ってしまったのか。
 母も、アユミも、大切なユウナまで……なぜだ……なぜ僕を
 こんな目に合わせるのだ……僕が何をしたって言うんだ……」

こんな時に、懐かしい同級生の言葉が脳裏に浮かぶ。

『ナツキさぁ、いい加減、ボリシェビキ辞めなよ』

マリカは本気で心配してくれていた。ボリシェビキとは、民主主義者や
資本主義者にとっての悪魔である。ナツキが生徒会長だった時代にも、
間接的にとはいえ、多くの生徒を収容所に送り、拷問して殺した。

自分が大罪を犯している自覚はあったが、正義のためだと割り切っていた。
しかしながら、その結果がこれだ。今の彼は哀れな負け犬だ。
誰から見ても、どう解釈しても、人生の敗北者だった。

ナツキは声が枯れるまで泣き叫んで、好きなだけ近くの物に当たり散らした。
玄関の外に出ると、悪魔の焼死体があるが、埋葬してやる気にすらならない。

さあ、今度は自分が死ぬ番だと、自殺に使えそうな道具を探す。
せめて死ぬ前にと、鶏小屋の鶏をすべて逃がしてやった。

納屋に、農薬(消毒液)があった気がすると思い、現役のまま
飲み干してしまおうと思った。化学薬品で消化器が焼かれる
苦しみは想像を絶するだろうが、今の自分にはちょうどいいと思い、ためらいはなかった。

「まだ死ぬのは早いのではないですか?」

ナツキは声のする方を振り返った。

なんと、そこには、白くて大きな羽を生やした天使がいた。
背丈は高く、二メートル以上もありそうだった。
筋骨たくましく、声や体つきからしても男性だった。

「あなたは誰かに死ねと言われたんですか?」
「いや、自分で死のうと思った。それよりおま…」
「ならば、死ぬ必要はありません。神は、あなたの死を望んでおりません」

天使は、林の方に向けて、何者かに手招きをした。こっちへ来なさいと。

「な……」ナツキは、絶句した。

林の奥から出てきたのは、学園の制服に身を包んだ、妹のユウナだった。
ユウナは怖いくらいに無表情だった。天使の横に並んでナツキを見ている。

「この娘は、私と一緒に来てくれるそうです」
「なにを……言っているんだ」
「ここにいる娘は、もうあなたの親族ではない、ということを伝えに来たのですよ」
「待てよ!! ユウナをどうするつもりなんだ!! この野郎!!」

天使は、同じことを繰り返すだけで会話にならない。
ナツキがどれだけ吠えても、ユウナには反応がない。
ユウナは言葉を忘れてしまったのか、一言も発しないのが不気味だった。

ナツキは直感で、天使の横にいるユウナが偽物だと思った。

「そうだ!!」

ナツキは家の中に入り、もう一人のユウナを確認した。
そこにいたのは、人ではなく「石」だった。ちょうど、お地蔵さんほどの
大きさの石が、ただ転がっているだけだった。

これはどういうことなのか。ナツキは、今まで幻を見ていたのか。
ユウナだと思っていた存在は石だったのか。そんなわけはない。
ナツキは夜のたびにユウナと肌を重ね合った。あの肌の柔らかさ、
熱い吐息、そして彼女の優しさ、間違いなく本物の人間だ。幻想なわけがない。

再び玄関先に出ると、天使とユウナが並んで歩いており、林の奥へと消えそうになっていた。

ナツキは、不思議と引き留める気にならなかった。
たぶん、もう何を願っても、無駄なのだと悟ってしまったから。
優菜と結婚する選択肢をしたあの瞬間から、運命の歯車は狂ってしまったのだ。

ナツキは、地面の上に大往生した。

生きる気力を失い、かといって死ぬ勇気もないまま、ただそうしていた。
太陽が天頂へ上る頃になると、林の中へ遊びに行っていた鶏が帰って来た。
エサをくれと、ナツキの周りを駆けまわる。小鳥も一緒になって、ナツキの近くでじゃれていた。

数メートル先に、悪魔の焼死体がある。黒焦げになっても、
くすんだ紫の色をしていて、なんとも不気味だった。

日が傾き始めた。鶏は頼んでもないのに、自分から小屋の中に入って楽しそうに騒いでいた。
どこからか野犬がやって来て、悪魔の死体に鼻を近づけている。
レモン色の羽をした蝶々が、草木の上を華麗に舞う。

「あの」

まさか声を掛けられるとは思わなかったナツキ。だるい体を何とか起こす。
お腹がぐーっと鳴った。昼ご飯を抜いたせいだろう。

「私のこと、覚えていますか?」
「川村……アヤ。なぜ……君がここにいるんだい?」
「背中に羽の生えた人に、ナツキさんのお世話をするように頼まれました」

あの天使の正体は、位の高い大天使だった。
死者蘇生の力を行使し、川村アヤを現生に呼び戻した。
この力を使うには条件が必要である。
大天使がアヤと取引し、アヤが一生涯をかけてナツキの
伴侶として過ごすことが、その条件とされた。

川村アヤは、孤島作戦で死んだあの日の姿のままだった。
15歳の高校一年生。ナツキからしたら子供すぎるが、
もうそんなことはどうでもよかった。

その日から、アヤがナツキの妻となった。
アヤは慣れない長野県奥地での生活に不平不満を言わず、
ユウナと同じように働いてくれた。ナツキの身の回りの世話は、全部彼女がやってくれる。
ナツキは外で働く。山菜を取り、畑の野菜を世話し、時期が来れば田植えをする。

農作業では分からないことばかりで、とても素人の手には負えない。
きちんと消毒をしないと虫が湧き、肥料を上げすぎれば、いびつな形に育つ。
そもそも種を植える時期、収穫のタイミングも彼は知らない。
生活指導者の悪魔がいない生活は、あまりにも不便だ。

アヤも手伝うが、やはり正しいやり方が分からず困り果てる。
そんな時は空から子供の天使が降りてきて、丁寧に指導をしてくれる。
天使が来るのは週に一度なので、たびたび分からないことが発生して困る。
ナツキがそんな不満を漏らすと、今度は悪魔の妻のカマルがやって来て、指導してくれた。

カマルは夏の間、ずっと一緒にいてくれた。
彼女の夫の悪魔が、焼死体になったことをナツキは正直に伝えたのだが、
「そうなんだ……まっ、死んじまったもんは、しょうがないね」と軽く流した。
なんて冷たい女なんだと、ナツキは憤慨したが、夜中には部屋からすすり泣く声がして安心した。

ある日、カマルは、自分の正体が「ルナ」だと伝えた。かつて寺沢アツトの妻で、
高倉兄弟と共にチベットを旅した仲間である。ルナはチベットを脱出した後、
四川省でボリシェビキの手先に捕まり、拷問されて死んだ。
だが天使によって救われ、この長野県の奥地で新しい人生をやり直すことになった。

いまさらそんなことがどうしたのだと、ナツキは関心を示さなかった。
妻のアヤは、ルナには全く関心がなく、夕食の席でさえ言葉も交わさないほどだった。

ナツキは、朝起きると必ず悪魔の墓に水をあげ、新しい花を添える。
アヤも一緒に手を合わせてくれた。

アヤはどこまでもナツキに従順で良い妻だった。
口げんかすることもなく、平穏な日々が続いた。

秋が迫り、冬の豪雪を乗り越え、春になり新緑が芽吹く。
そんな生活を何年も続けると、若い二人は、
もう指導がいなくても二人だけで生活ができるようになっていた。

若く、美しい妻をナツキは飽きることもなく抱いた。
陽光を体全身に浴び、健康的な生活をして体を鍛えたナツキの
性欲は強まるばかりで、時にはアヤに無茶な行為までお願いしたのだが、
アヤは断ることは一度もない。

「私はナツキ様のことを、心よりお慕いしてます」
「はは……。君はいつもそればっかりだな。たまには文句でも言ってくれていいのに」
「文句なんて、なにありませんよ。私はナツキ様のお近くにいられたら、それだけで」

たまに、アヤの枕元にアユミの霊が立つことがあった。
仁王立ちしてアヤをにらむのだ。その形相は悪鬼のごとしだった。

「ナツキ様……ナツキ様……」
「ん……? どうしたアヤ」

そんな時は、決まってアヤはナツキを揺り起こす。ナツキは、もういい加減にしなさいと
アユミを優しく諭してやると、アユミの霊はふすまの先へと消えてしまう。

「怖いです。ナツキ様」
「よしよし。もう大丈夫だからね」

妻の小さな頭を布団の中で抱きしめ、なでているとナツキの支配欲がいっそう強まる。
アヤの唇を乱暴に奪い、服を脱がしてしまう。

「あ……そんな、こんな時に……」
「ご、ごめんっ。さすがにムードがなさ過ぎたね」
「いえ、いいんです。ナツキさんがしたいなら、好きなようにしてください」

ナツキは避妊する気など全くなく、気のすむまで妻の体を堪能した。
感度が良いのか、アヤの喘ぎ声が家中に響き渡る。行為が終わると、
女の秘所から男性の精液がこぼれる。どれだけ行為を繰り返しても、
不思議とアヤが妊娠することはなかった。きっとこういう運命なのだろうとナツキは思った。

ナツキは普段の生活の中で、妹たちのことを
ふと忘れそうな自分がいることに気が付いた。
そして恥じた。同時に罪悪感もあった。

「終わったことを気にしても仕方ありませんよ」
「……僕も、死ねばよかったのかなって思う時もある」
「どうしてそんなこと言うんですか。ナツキさんは死ぬ必要ないじゃないですか」

ナツキが死を口にするたびに、若い妻はキスをしてくれた。
生きる希望を与えてくれているのだ。
年月を重ねるごとに美しさを増していくアヤに、ナツキは完全に惚れていた。

「ナツキさん。お願いです。死にたいなんて言わないでください」
「分かったよ。君がそう言うなら、僕は二度と言わない。約束するよ」

それからさらに年月が経ち、二人は老人になり寿命を迎えた。
先に亡くなったのはナツキだが、アヤもすぐに後を追った。

彼らは死ぬまで政治のことに関心を示すことはなく、
人として生き、人として死んだ。終生、仲睦まじい夫婦として過ごした。

以上が、神様が高倉ナツキに与えた人生の物語であった。


                          おわり

『チベット高原を旅する』~三人の兄妹の悲劇~

『チベット高原を旅する』~三人の兄妹の悲劇~

チベット高原とは天空の民が住む地球の果てである。 高山病、慣れない食事、言語、ホームシックと 戦いながら、たくましくも兄妹が愛をはぐくんでいく。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-01-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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