ゆきみち

浜村麻里

ゆきみち

真っ白に踏み固められた道路が後方へ流れていく様を、酒で鈍った五感の中静かな気持ちで眺める。
ガンガンに暖房が焚かれているタクシー内。
窓ガラスに頭部を預ければ、氷点下であろう外気との差が肌を通して認識できた。

「ご存じありませんでしたか」

意識をしないでいると、自動的にさっきまで居た飲み屋での出来事がフラッシュバックを起こすのが分かった。
目をつむり必死で意識の外へ、外へと押し出す。
しかし一度漏れ出てきてしまった記憶の波は容赦なく押し寄せ、帯状に姿を変えて喉のあたりを絞めつけてくるのを感じた。
およそ20年ぶりに出会った、当時私が助手をしていた教授の教え子の表情がみるみる内に凍る様が繰り返しちらつく。
思い出話に花を咲かせた延長だった。
ふと、当時彼女と連れ立って研究室へやってきていた友人の一人である国後という人物とは今も親交があるのか、そういった話題を振ったのだ。

「2年前に事故で」

その瞬間、私の周りだけ喧騒が遠のいた気がした。

――――

電気の消えた居間へと入ると乱雑に上着を脱ぎ、ベルトを外した。
照明はなくても薄いカーテン越しに差し込む街灯の明かりだけで十分に感じた。
水道の凍結防止のために稼働している暖房のおかげで、とっくに妻が就寝した今でも部屋は暖かかった。
心地のいい酔いが去った今、残っているのはただただ苦しいまでの虚無感だった。
生唾を飲み、キッチンへと足を運ぶ。
水道からグラスへ水をくみ、一息にあおった。
きっちりと磨きこまれた蛇口にうつる自分の顔は青白く、ずっとこんな顔色をしていたのかもしれないという事実に思い至った。

「国後が亡くなった」

シンクへ吐き出した声は思いの外静かに響いた。
ブウンと唸る冷蔵庫の音がやけに大きく聞こえる。
右手に握ったままだったグラスを洗い物用のたらいの中につけた。
水に沈んだガラスは周囲に紛れ、溶けたかのように姿を隠した。
身体の中で記憶が膨れ上がり、内臓を圧迫する。
何とも表現できない呻き声が身体から漏れ、思わずその場にしゃがみこんだ。
今自分を襲っている感情が何なのかまったく分からない。
何がここまで思考をかき乱すのか。

「特に接点があったわけじゃないのに」

顔を両手で覆い、洗う時と同じ動作で強くゆっくりと擦った。
彼女が卒業してから公私ともに顔を合わせる機会はなかった。
だから、彼女と共有した時間というのは本当に限られたものだった。

「国後が死んだ」

涙は出なかった。
代わりにため息をついて、立ち上がり窓辺に置いてあるソファへと向かった。
合皮の張られた馴染みのあるこのソファに寝転がり身をゆだねる。
風邪をひくことになると分かっていても二階にある自室まで上がる気力が湧かなかった。
背もたれのある方へ身体ごと頭を傾け目を閉じた。

――――

大きなぼた雪がどんどんと降りつもる中、外を歩いているのは私だけだ。
学校から駅までの道を、足を滑らせないようにしっかりと踏みしめて歩く。
その間も静かに、しかし確実に積もっていく雪に辟易として思わず天を仰いだ。
眼前に広がるのは灰色の空で、確認するまでもなく目に雪の塊が落ちてくるためすぐに足元へと目線を戻した。

どんよりと鈍い色をしていた空から明るさが去り、道に沿って建つ街灯がオレンジに灯る頃には雪で全身が真っ白になっていた。
雪の勢いは止まることを知らないようで視界は最悪だ。
足場の悪さに比例して息遣いが荒くなる。
口から吐き出された蒸気は氷点下の世界で、水から氷へと姿を変え私のまつげに溜まっていった。
ずいぶんと歩いた。
しかし一向に駅が現れずやきもきとする。
思わず目の前のカーテンのような雪の連なりを手でかき分けた。
手に当たってぱらぱらと地面に落ちた白い塊はその分、目線の高さに空間を作り見通しを良くしてくれた。

時間が止まっている。

世界を埋め尽くしていた雪が、私の体にぶつかる度に地面に落ち新しい空間を作り出していく。
真っ白になっていたコートもいつの間にか元の黒に戻っており、刺すような気温も凪いだものになっていた。
白に埋め尽くされた世界を進むと小さな背中が見えた。

国後。

黒い彼女の背を見つけたとたんに空中に留まっていた雪が落ち始め時間が動き出したことに気づいた。

声をかけないと。

そう思ったのは何も不自然なことではない。
街灯が灯っているとは言え、夜の雪道。
女の子が一人で立止まっていて安全とは言い切れない状況だった。

「国後」

まだまだ離れた場所にいたが思わず声をかけた。
しかし彼女には届かなかったようで尚も佇んでいる。

「国後」

雪の落ちるスピードが速まり、彼女の背がより一層見えなくなっていく。
視界を遮られる中、かろうじて姿を捉えつづけている状態だった。
しかしとうとう、雪が膝の上まで積もってしまいこれ以上彼女に近づくことが出来なくなってしまった。

「国後」

最後にもう一度声をかけてみるも、彼女が振り向くことは無かった。
そしてはたと、この雪のカーテンは彼女を隠しているのではないかと思い至った。

――――

除雪車の働く音で目が覚めた。
カーテンの隙間から見える空はまだまだ暗い。
乾燥した空気で喉がガサついていた。
ソファに腰かけ、頭を抱えた。
少し熱もあるようで頭痛がし、重たく感じた。

夢の中で見た国後の背中がまぶたの裏に張り付いていた。
夢らしく色々と脚色されてはいたが、何年も前にあの光景を私は見ている。
ただあの時は立ちすくむ彼女に声をかけることが出来なかった。

「そういえば手紙をもらった」

ふいに漏らした乾いた声が喉をひっかき、咳き込みながら台所へ駆け込んだ。
シンクに水を流しながら大きくえずいた。
蛇口から勢いよく出る水で一度口をゆすぎ馴染ませた後、近くにあったグラスに水を満たした。
その水をゆっくりと取り込んでいきやっと一息ついた。

「どこにやった」

次いで声に出した言葉は変に喉に絡むことなく外に出すことができた。

国後との最後の記憶は彼女の卒業式だ。
その時に私の研究室にも顔を出し、手紙を渡してくれたのだった。

『時間のある時に良ければ読んで下さい』

晴れ着を纏った彼女は耳の縁を赤くしながらさわやかな笑顔と共に真っ白な封筒を差し出した。
記憶の中の私も笑顔で祝いの言葉を伝えながら受け取ったのを覚えている。
ただ、そのあとはどうした?
おそらく家に持ち帰ったはずだ。
あのまま研究室に置いたままにしていたのであれば、もう行方は分からない。

「とりあえず部屋に……」

小声でつぶやきながら廊下へと出ると、足早に階段を上った。
真っ暗な自室はずいぶん冷え込んでおり熱を持った瞳に空気が沁みた。
ずきずきする頭を無視しながら乱雑に放ったままになっている様々な書類の束を片っ端からひっくり返した。

「どこだ。……まだ前だ。もっとずっと昔の方に」

紙の山をかき分け、日に焼けて茶色く、字の薄くなったものが混じる最深部ともいえる場所までたどり着いたころにはカーテンの隙間から太陽の光が差し込んできていた。
鼻水で鼻が詰まり、体調もすこぶる悪い。
何度えずいたか分からなくなった頃、涙の溜まる眼の端に薄く黄ばんだ真っ新の便箋が引っ掛かった。

「これだ」

古いものを散々ひっくり返したせいで舞ったほこりが朝日に照らされ、セピア色の光が一筋伸びた先に手紙は落ちていた。
光に溶け込んだ縁へ震える手を伸ばす。
柔らかな日差しの中に浮かぶ自分の手にはしみとしわが刻みこまれており、なんといっても乾燥して見えた。

――――

太陽が天高く昇ったころ、私は研究室にいた。
学生たちの実験も一段落した日曜のため珍しく人気のない部屋は、検体を保存するための冷凍庫やインキュベーター等の機器が唸る他はひっそりとしていた。
誰かが作業台の上に出しっぱなしにして帰ってしまったマイクロピペットとチップを片付けていると入口が軋みながら開いた。

「あ、乾燥器が新しくなってる」

明るいヒールの音を響かせながら入ってきた石川は学生時代、ここで研究をしていた時と全く変わらなく感じた。

「その辺に掛けてて。コーヒー持ってくるから」
「風邪を引いたんですか?酷い鼻声」

後ろから投げかけられる石川の声に、「ああ」とも「いや」ともつかない返事をしながら比較的新しいカップと自分の物にインスタントコーヒーを開け、常時稼働させているポットからお湯を注いだ。

「すまんね。急に。こんなものしか出せないのに呼び出して」
「いえ。久しぶりに研究室を見学できて私はとても楽しいです。あの遠心機、まだ使っているんですね」
「使えるものはギリギリまでね。節約、節制は変わらんのさ」

私の答えにからりとした笑いを発した石川は柔らかい目だけは保ったまま、真面目な表情になった。

「それでお話というのは」

こちらを見つめる石川の顔から目をそらし掌にあるマグカップへ視線を落とした。
茶色い液体から立ち上る白い湯気がゆらゆらと踊るのを幾分か観察し、重い口を開いた。

「いや、国後のことで。わざわざ呼んで聞くことでもないかとも思ったけれど、機会でもないともう触れることがないと感じてね。昨日は聞けなかった詳細について教えてほしいんだ」

そう伝えた私の顔を一瞬泣きそうな表情で見つめた後、石川は静かな声で話し始めた。

「二年前の冬に亡くなったんです。凍死でした。記録的寒波に震えたあの時です。自宅から程近い道の雪だまりの中から見つかったんです」

吹雪の去った翌朝、雲一つない真っ青な空の下まぶしく光る真っ白な雪の塊の中から出てきた彼女は体に付着した氷の欠片が乱反射しきらきらと輝いていたという。

「前日の夜から行方不明で。その時彼女と同棲していた彼からの要請で警察が捜索して見つかったんです」
「それは、事故だったの?」
「公には遭難事故だってことになっています」
「公には?」
「……彼は、自殺だと思っているみたいで」

石川が少し口ごもった後に吐き出した言葉には苦い響きが含まれていた。

「先生はご存じないでしょうけれど、彼女、長いこと男性を恐れていたんです」

石川の告白に、私はなぜかうろたえた。
自分でも分からないが、うろたえる、という言葉が一番ふさわしい感情が私を支配した。

「……本当に?いつから?」

私の疑うような口調に気づかなかったのか石川は特に表情を変えることもなく返事をしてくれた。

「大学二年の時にです。当時、そんな気がなかった人から迫られて怖い思いをしたようなんです。詳しくは話してくれたことはなかったんですけれど、今思い起こすと、男の人とは二人きりで話をすることも出来なくなっていたので、想像しうる限りで最低のことが起こったんだと思います」

ここで言葉を切った石川はもてなされたコーヒーカップまで手を伸ばしかけたが、取らずに膝の上へと戻した。

「学科が違ったのでしばらく大学に来てもいなかったことにすら気づきませんでした。何気なく部屋へ遊びに行った時の彼女の表情が不自然で。自分の家なのに目が泳いでいるんです。玄関から見える部屋は普段通りで、彼女だけが異質に見えました」

その時の異様さに内心混乱したが、ここで引き返せば彼女が危ないと感じ半ば無理やり部屋にあがったという。

「体調を崩していた。なんでもない。しょうもないことだから。そんなことしか言ってくれませんでした。なにもないはずがないんですよ。彼女の腕にひっかき傷のようなものがみえましたし。でもこの時は乱暴されたかもしれないことまで考えが及びませんでした」

石川はその日は何も聞き出せなかったが、翌日も尋ねる約束を取り次ぎ帰宅した。

「それからほとんど毎日通いました。だんだん不審さはなくなっていきましたが、それでもどこか緊張しているのが伝わって。……その時は彼女自身が何か犯罪を起こしたんじゃないかって、むしろ疑っていたんですけれど。しばらくして半ば無理やり外に連れ出した時にその考えが違ったことを知ったんです。……アパートの廊下で男性とすれ違った時、小さな悲鳴をあげた後、目をつむってうつむいてしまって。その相手と何かあったのかと咄嗟に考えたのですが、当の男性は少し不思議そうな顔をしただけで去って行って。そこで初めて彼女が、男性が怖くて外に出れない現状を泣きながら話してくれたんです」

結局最後までなぜそうなったかは教えてくれなかったんですけれど、と石川は言葉を結んだ。

「迫られて怖い思いをしたってのは、彼女から聞いたんじゃないのか?」
「ええ。亡くなるまで同棲していた彼から、お宅へ訪問した時に。私も彼女が死んでから彼女の苦しみをやっと知ったんです」

手の中にあるマグはとっくに冷めており、苦い香りだけが鼻をついた。

「先生。一度でいいので彼女に向き合ってあげてください」

石川からかけられた思いもよらない一言に私は頭をかしげ、彼女を見やる。
すると、少し居心地が悪そうに座りなおした彼女が改まった態度で更に言葉を紡いだ。

「彼女の住んでいた家で、今も彼は暮らしています。一度訪ねてみてください。自殺かもしれない理由、先生にならお話になって下さるかもしれません」
「なぜ、私に」

卒業後は接点も何もなかった、とつなげる私をまたも泣きそうな表情で石川は黙って見つめていた。

「……彼女がまた大学に通い出した前日に、私は彼女をこの研究室に連れてきたんです」

石川の声が耳を打った瞬間、何とも形容しがたい感情が私の喉を締め付けた。

「彼女の友人としての頼みです。彼女をゆるしてあげてください」
「ゆるすもなにも」

静かに頭を下げる石川を前に私はただ呆然とした。

――――

やや低い位置から射す容赦のない日光とそれを反射する雪道の明るさに目を細めながら私は一軒の家の前に立っていた。
石川から教えられた住所は、こんなところで遭難事故が起こるはずがないと思われるような平凡な住宅街の端にあった。
意を決しインターホンへ指を伸ばしたところで、自分がアポイントを取っていないことに思い至った。
晴れてはいてもキンと冷えた空気を深く吸い込むも、熱をもった脳にまでその心地よい温度がいたることはなかった。
どれだけの時間を古ぼけた手紙を握りしめ、突っ立ていたのだろうか。
右肩に重みを感じ振り向けば石川と同年代と思われるダウンに身を包んだ長身の男性が、私の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫ですか?ご体調が優れないようですが」

眼鏡の奥の穏やかな目と対峙した瞬間、彼が国後と同棲していた彼だと確信した。

「……根室さんですか?昨日、国後さんの訃報を石川さんから伺いまして。わたくし、国後さんの通われていた大学で、教鞭をとっている、」
「ああ、先生ですか。その節は直接ご連絡をせず申し訳ありません。生前の彼女からの話だけではどれだけの間柄だったのか測り兼ねまして。また家族葬でしたから、かえって気まずい思いをさせてしまうのではないかと……。わざわざこちらまで足を運んでいただきまして大変恐縮です」

自己紹介も半ばに、深々と頭を下げる根室を前に私はただ呆然としてしまった。

「もしよろしければ、あがってください。中はまだ温かいですし、何より先生の顔色が悪いのが気になります」
「先生だなんておこがましい。どうぞ名前で」
「彼女が先生、先生と申しておりましたから。私も先生、と呼ばせてください」

口調や仕草は柔らかながらも、私の背に手を当てながら家に引き込む彼は意外と強引であれよという間に、リビングのソファに座らされていた。

「外は冷えたでしょう。よろしければ」

根室から差し出された湯飲みには湯気をたてる緑茶が入れられていた。
急に訪問した私にも丁寧に接する彼は国後にとっても良いひとであったのだろう。

「彼女が亡くなったのはただの事故によるものではないと、石川さんから伺いまして」
「ただの私の邪推です」

私の正面にローテーブルを挟んで腰かけた根室は普段から使用していると見られる湯飲みを両手で包み、自分の膝を見つめていた。

「彼女、たまに立ち止まることがありまして」

しばしの沈黙の後、ポツリと落とされた言葉は昨晩夢に見た振り返ることのない黒い背中を思い起こさせた。

「自分自身を責めていたようなんです。ついに口にすることはありませんでしたが。特に寒い日に外で立ち尽くす姿は許しを乞うているように見えました」

石川さんから彼女の酷い過去について聞きましたか?と話を続ける彼は私と目を合わせない。

「彼女、男性に乱暴されてから恐怖心を抱くようになったようで。それなのに私と交際を続けるという行為は彼女にとって負担になっていたようです」
「別れるという選択は出来なかったのですか」
「そういう問題ではないんですよ」

悲しい笑みを口元に浮かべた根室はここでようやく顔を上げて私の目をみつめてきた。

「彼女、先生のことが好きだったそうです」

カチコチと規則正しい時計の刻む音だけがこの場に響いた。

「その好きがどのような性質のものか私は正しく図ることは出来ませんでしたが。ただ、あなたのことを話してくれる彼女はいつだって先生としか口にしませんでした。あなたとの境界線を明確なる役割で区分するかのように。立場を意識するかのように。一度だけ手紙を渡したと彼女は話してくれましたが、それをとても後悔しているようでした」

目の前に居るはずの根室の言葉が遠くから聞こえてくるような、嫌な心地がした。
しばらく忘れていた呼吸のし辛さが私を責める。

「先生は、国後にとって清廉潔白な人物だったようです。その様な人に出過ぎた真似をしてしまったと、枠組みを超える行いをしてしまったと。そのように露骨に口にすることはありませんでしたが、彼女の語る貴方と、そのエピソードを語る表情からそう推察することは簡単でした」

手に握られたままになっている色あせた手紙を意識する。
未だに未開封のままのこの手紙は。

「事故だったのでしょう。警察の調べが正しく。ただ、異性を恐れながら私と暮らすことを選んでしまう自身の矛盾を責める彼女が立ちすくむ姿を知る私からすればあれは自殺と形容する他ありません」

苦し気な表情を見せる根室は石川と同じ言葉を吐き出した。

「彼女を、国後を許してやってください」
「ゆるすもなにも」
「あの時から、先生には奥さんがいらっしゃったのでしょう?」
「だからといって」
「彼女もまた廉直な人物だったんです」

発露されることのなかった感情は清らかな思想を持つ彼女を蝕んでいったようだが、それはそれだけで罪なのだろうか。

『潔癖すぎるんですよ』

いつだったか誰かに言われた言葉がふと蘇った。

『伴侶が居ようが他の人に恋愛感情を抱くことは生物としてありえることです。そこから行動に移すかで人間という動物としての差が出てくるわけですが。しかしその好意というのは本能に基づいた感情ですから、そこまでも徹底的に抑制するのは少々不健全だと私は感じますがね』

いつどこで誰が発した言葉か一向に思い出すことはできないが、この話を聞いているときの自分の表情が渋い物であったことは容易に想像ができた。

「人の感情ってのが分からない人間の屁理屈だ」

無性に腹が立ってその日妻に話したことも覚えている。
彼女は薄く笑いながらもそうね、と同意してくれたのだった。

「お疲れのようですね。私は少し席を外しますが、どうぞごゆっくりなさってください」

気遣いの言葉を残して席を立った根室は、その実自身の方が疲弊しているように見えた。
一人残された私は乾燥した手の中に納まる手紙を見下ろした。
どうにも責め立てる形容しがたい感情は今更気づいた、一人の女性の想いを顧みることで解決出来るのだろうか。
ようやく向き合い、手紙の封を切るとき、自身の手が老いていることがやけに目についた。

――――

先生

拙い文ですがどうぞお許し下さい。
先生へは感謝してもしきれない思いがあります。
先生自身は何のことやら、と思われているのでしょうが。

初めて研究室へ顔を出した日のことを私は忘れることがないでしょう。
あの日、石川さんに半ば無理やり連れだされたことにも感謝しなければなりません。
あの時の私はあらゆることに興味を持てずにいました。
その理由は少々気分の悪いことですのでここには書かないでいたいと思います。
そんな中、足を踏み入れた教室であなたを見かけたとき、自身の頭に一気に血が廻ったのを覚えています。
色んな物が雑多に置かれた部屋の中で習慣に伴った先生の身のこなしに目が奪われたのです。
先生がいつからこの場に従事されているのか、その時分には知る由もなかったわけですが、静かにそれでもって確かに物事を進めるというのはこのことなんだろう、とうすぼんやり感じたのです。
そこからです、私が先生に、ひいては学問に興味を持てる様になったのは。

私の中には、他にも色んな思い出が渦巻いていますが手紙ではこれくらいでよしておきます。

先生から教わったこととは全く関係のない分野に従事することになりましたが、かつて憧れた先生と同じ目を自身の仕事に向けることが出来ように精進していきたいと思います。

敬愛の念を込めて 国後

――――

わずか便箋二枚におさまった国後の文章を読んで初めに感じたのは、もっと早くに開けなければいけなかったのだ、というものだった。
耳を赤くしてまで渡してくれたのだから、それなりの想いを持って接してくれていたのだろう。
根室からの話を聞いた今でははっきりと彼女の真意を酌むことができた。

「いや、気づいていた」

部屋の中で言葉がポツリとこぼれた。
彼女の瞳の奥の気持ちにはとっくに気づいていた。
だからすぐに開けず、そして今まで記憶から取り出すこともなかったのだ。

「それでも対峙して、返事を、区切りをつけるべきだった」

自身の年甲斐のない意気地のなさが、自分に向く一生懸命な一つの感情を締め出して、見向きすらしなかった事実を今さらに突き付けてきた。
異性に嫌悪を抱き、それでも尚私に憧れを持ってしまった矛盾は、その憧れの対象が拒絶するという選択を取ってしまったが故に潔癖な彼女を押しつぶしてしまったのだった。

「石川や彼はあなたを許してやってくれと言うが、この私があなたに許しを乞うべきだった」

国後に対してだけではなかっただろう。
ようやっと気づいたのが彼女の死によるものであっただけで、私が知らずのうちに拒絶しその陰で消えていった様々な感情は数えきれないほどあるのだろう。
国後のおかげで知りえた自身の罪は、自身の抱く想いを永遠に彼女に伝えることのできない罰を背負うことでようやく自覚させられた。

すまなかった、とつぶやいた言葉は宙に溶けて誰にも届くことはなかった。

ゆきみち

ゆきみち

好きになってはいけない人は存在するのだろうか。 数十年ぶりに出会った私が当時助手をしていた教授の教え子から、学生だった頃の彼女の友人の訃報を聞く。 彼女の在学時、卒業後共に特別な交流はなかったが自身を苦しめる感情から、私が見捨てた想いについてようやく考えが及ぶ。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-01-26

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