鍋底の歌
なべ、なべ、底ぬけ~。
底がぬけたら……
その続きは何だったろう。
遠子は鍋の底を磨きながら、ふと口ずさむのをやめた。ステンレスの鍋底はところどころ黒い焦げが残ったままだ。どんなに磨いてもなかなか取れない。
ふう、と息を吐く。長年しみついた焦げつきを見る。買った当初はぴかぴか光っていたはずだが、そんな頃はもう忘れてしまった。今は、これがありのままの鍋底の姿だ。
鍋を水ですすぎ、シンクの端に立てかける。遠子は壁の時計を見た。夫は今日も帰りが遅い。
ぽたり。と、鍋から水滴が落ちる。シンクに小さな水たまりを作るさまをぼうっと見つめた。
明日のご飯は何を作ろう。毎日おなじことを考えている。
テーブルの上には、夫の帰りを待つおかずが鎮座している。
底がぬけたら……
「帰ってこない」
夫は今日も帰ってこない。零時を過ぎた。もう今日ではない明日になった。晩飯はもう食べたからいらないと言うだろう。
ああ、帰りましょう、だ。底がぬけたら帰りましょう。
ひとり、口ずさんだところで、それがどうしたというのだ。
鍋底がぬけたところで、どこへ帰るというのだろう。
ステンレスの鍋は多少の焦げをこびりつかせただけで、底に穴があく気配はない。鍋底は水にぬれて、ぬめりと光っている。水滴がぼたりと落ちる。深夜、ひとりの部屋には音がよく響く。
かちゃり、と玄関の鍵の音が聞こえた。夫が帰宅したときの音だ。
遠子ははっと顔をあげた。テーブルでうたた寝をしていたようだ。腕に押しつけていた頬が熱い。頬にふれると跡がついていた。どれくらい寝ていたのだろう。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「ご飯は?」
「食べてきた」
もうこんな時間なのだから当然だろうという憮然とした声が返った。
夫はスーツを脱ぐとすぐに寝てしまう。時間が一秒でも惜しく、睡眠時間を確保したいのだ。明日、といってもすでに今日だが、朝は毎日八時に出勤しなければならない。
遠子はテーブルの上を片づける。
歌は口ずさまなかった。
鍋底の歌