挿話
この作品のお題は【アイデンティティ】です。
自分という存在がちっぽけでも生きているだけで何某かには影響を与えているものです。
ある男がいた。その男は文字を書くことが大好きで、年がら年中、四六時中、生理現象以外の時間を全てそれに費やすような、非常に変わった男だった。ほとんど気が狂っていると言って良かったかもしれない。……いや、正確に、間違いなく、狂っていた。
彼は、初めからそうだったわけではない。少なくとも小学校までは、他の一般的な子ども同様、様々な物に気を取られ、友達と遊び、勉強はさほどせず、淡い恋の目覚めにドキドキし、時々ワルイことをしては怒られ、しかし懲りもせず繰り返し、毎日を面白おかしく過ごしていた。両親もそんな彼の成長を温かく見守っていた。
きっかけはもうわからない。なかったのかもしれない。中学に入ってややしばらく経ってから、彼はふと、自分の毎日を日記に書き始めた。それまで、決して文字に親しんでいたわけではない。彼の読書経験は国語の教科書くらいで、漫画も流行りのものを読むくらいだった。テレビゲームやボードゲームなどを友達とやることもあったが、どちらかと言えば外を駆けまわって遊ぶことが好きだった。その彼が、何の気まぐれか、はたまた神の啓示か──その後を思えば、後者である確率は高い──、夏休みの宿題でもないのに、日記を書こうと思い、実際書き始めたのだ。
彼の両親は、「日記帳が欲しい」という彼の願いを驚きながらも、書き記すことを日課としようとする彼の決意を蔑ろにすることはなかった。むしろ、大多数の親と同じく、その新たな自我の萌芽を歓迎しさえもしていた。
彼は書き始めた。自らの日常を。その日何が起こり、何を思い、何をしたか。慣れてくると、過去を思い返し、その時の行動の良し悪しを評価したり、こうしていればああなっていたと妄想を巡らせたり、未来への展望や願望、夢想、妄想の類を書き連ねたりもした。
日記ではなく、自らが作り出した物語──それは概ね妄想から発展していった創造である──を書き始めるのに、そう時間はかからなかった。
中三になる頃には、彼はもう書くことが大好きになっていて、書きたいという欲求にまみれていた。鉛筆とノートがあれば、とにかく、あらゆることを、ありうることを、ありうべからざることを、カリカリと記していた。彼自身にも、身の内から来るその衝動の源泉がどこにあるのかわかっていなかったが、そんなことはどうでも良かった。
ただ、まだ彼には、日常生活を疎かにしないだけの理性は残っていた。そろそろ両親や、友達にも、「あいつはちょっと書き過ぎじゃないか?」と思われ始めていたが、人間関係は正常にあったし、書くこと以外への興味もそれなりにあった。誰かを恋しく思う心もあったし、春からの高校生活を待ち遠しく感じる気持ちもあった。
しかし、通常通りであれば高校を卒業する頃には、彼はもう終わってしまっていた。そもそも、高校を卒業することはできなかった。かろうじて繋がっていた出席日数という名の蜘蛛の糸は、釈迦の手を煩わせることなく、あっさりと切れてしまったのだ。もちろん彼は、切れた糸に頓着することなく、紙面を前に手を動かし続けていた。茫然としていたのは彼の両親だった。
両親は、すっかり変質してしまった彼を説得しようとした。なだめ、怒り、泣き、諭し、飴を与え檄を飛ばし、喝を加え活を入れ、必死に彼を引き戻そうとした。
無駄だった。
彼にはもう何も聞こえていなかった。死なないために必要なエネルギー摂取と、不快さをやり過ごすための排泄以外、彼の行動原理は〈書く〉という一色に染まっていた。
そして、両手では数えきれないほどの年数が経った。
彼はもうずっと、自らの二階の部屋から出なくなっていた。小学校の時に贈られた学習机に居を構え、ただひたすらに書いていた。年齢よりも老いて見える両親はもう、書き狂いになってしまった彼に感情を動かすことはやめ、まるで遺影に供えをするように、食事と、時々ノートと鉛筆をドアの前にひっそり置くだけの存在となっていた。「そんなもの渡さなければ良い」と人は言うかもしれない。何もなければ出てくるしかないのだから、と。仕方がないのだ。彼は書くものがなければ延々と物語を、まるで空中に刻み付けるかのように話し続け、食事がなければ何でも──どんなものでも食うのだから。いつだったか、一日中、呪詛のように漏れ聞こえ続ける物語と、階下に沁みだした赤に、両親は泣きながら許しを乞うた。必要な物を与えれば、少なくとも静かな暮らしは、得ることができた。
しかし長く続いたそんな生活は、突然、あるいは必然として、終わりを迎えた。両親が死を選んだのだ。むしろ良くもったというべきかもしれない。二人は、頭上から聞こえる筆音を葬送曲にして、首を吊った。
もちろん彼は、それを知らぬまま、書き続けた。腹が減っては何かを食い、紙と鉛筆がなくなればしゃべり続けた。しかし次第に喉は枯れ、潰れ、話すことができなくなってしまった。食べる物もなくなってしまった。それでも、彼は書きたくて書きたくて、ついには自分の血で書き始めた。紙の変わりは部屋だった。自分の部屋に書く場所がなくなれば、自然とドアの外が次の〝紙〟となった。あれほど望まれていた開扉は、そのようにして果たされた。階下で揺れる骸に、彼が注意を払うことはなかった。
家中が文字で埋め尽くされる頃、それは起こった。いや、その前からもう予兆はあったのかもしれない。赤黒く染まった彼の指はすでに九指が根元まで削れ、身体は正に鉛筆のように細く、芯のように脆くなっていた。その身体が、文字を書きつけるたびに、少しずつなくなっていくのだ。まるで彼自身が文字の中に溶け出すように、というより、彼自体が文字となって刻印されるかのように、彼の存在は自らが書く文章の中に消えて行った。
彼はそのとき、得も言われぬ幸福を感じていた。長らく自身を突き動かしていた書かなければいけないという欲求が、文字通り心血を注いでも癒えなかった渇きが、初めて満たされたように思えていた。
そしてついに、そこには、何もなくなった。
異変を察した近隣住人の通報により警察が突入した時、その家はもぬけの殻だった。家中に書かれた文字も、腐乱した彼の両親も、床を濡らしたどす黒い血も、彼の残した数千冊のノートも、何もかもが、きれいさっぱりとなくなっていた。ある程度家探しをした警察官は、何故自分たちが突入したのかを、異変を感じた近隣住人は、何故自分は通報したのかを、そもそもそこに誰が住んでいてどんな事情があったのかを、思い出すことができなくなっていた。
そればかりか、世界中の誰もが、その家族を忘れた。
さて、彼はどうなってしまったのか。
彼は、文字となり、物語となり、〈書く〉という概念そのものとなってしまった。
彼は今も書き続けている。彼が〈書く〉事柄は、一つの世界として成立している。いわば彼は神として、世界と、世界の読者すらも、生み出しているのだ。そこでは、どんな突拍子のないことも起こり得る。彼が〈書く〉ことは、全て、現実として産み落とされる。
人も、事件も、戦争も、歴史も、民族も、宗教も、世界も、宇宙も、何もかも。
もちろん、あなたも。
挿話