花に夢見る
その花に名前は無かった。名を付けようとも考えなかった、たまたま出来た花でしかない。
偶然の産物である花は、面白いほどよく売れた。
そんなものかもしれない、と思う。自分はただ花を作り、売るだけだ。
花を買いに来る者は様々だ。老人から若者まで。仲買人に卸すことはせず、自分が気に入った者だけに売っている。
店先には色とりどりの美しい花々が飾られ、花をかたどった小さな看板が揺れていた。花籠には値段の書かれた札が差してあり、かすれた文字が白く浮き上がっている。
青年は店の中を怖々と覗き、思い切って声をかけてみる。
しばらくして、店主が奥から姿を見せた。
「いらっしゃいませ」
気怠げな声で応対されて、青年は少々戸惑った。店主はいかにも遣る気がない様子で、のらくらと出てきた。
ここが本当に目的の店なのだろうかと青年はためらったが、意を決して商品の名を口にした。
「ゆ、ゆ、夢を、ください」
思わず声が上ずってしまったが、それを恥ずかしいと思うほどの余裕はなかった。
店主は、値踏みするように青年を眺めてから、かすかに微笑した。
「何故ですか」
ふいに質問をされ、青年は驚いて眼を見張った。返事に窮して視線をさまよわせる青年を、店主は無表情に見つめている。
「そ、そんなことは、あんたに関係ない」
「いいえ。私が花を売るか否か判断するためには、とても重要なことです。近頃、安易にあれを買いに来る者が多いですから」
淡々と返す店主に気圧されて、青年は言葉に詰まった。どうするか迷ったあげく、青年は渋々と話し始めた。
「好きな女がいるんだが、彼女は俺など眼もくれなくて。お、俺は、ならばせめて夢の中だけでもと……」
「あなたは、あれを何だと思って来たのですか」
「え、ああ、思うままの夢が見られると聞いて」
店主は青年を哀れむように微笑んで、やんわりと告げた。
「あれは、そんな可愛らしいものではありません」
その声の暗い響きに、青年は一瞬たじろんだ。店主は何を考えているのか分からない顔で、青年を見ている。
「あなたには売れません。あきらめて、大人しく帰りなさい」
そう言い残して、店主は奥へ引っ込んでしまった。
夜半、庭の片隅に立てられた小屋に、ひそやかな明かりが灯る。この一室で栽培される花だけは、店主が夜中に手入れをしていた。
偶然出来たこの花は、普通の花と違って色々と手間がかかった。紅い花びらを誇らしげに広げ、名のない花は今日も美しい。
昼間のお客のようにどこからか噂を聞いて、この花を買い求めに来る者は後を絶たない。名前を持たない花は、売る際の合言葉として「夢」と呼ばれる。
それは的を射た言葉かもしれない。花の存在自体が在るのか無いのか分からない、夢のようにあやふやな存在だからだ。
背後に不穏な気配を感じて、店主は振り返った。頭部に鈍い痛みを受け、地面に片膝をつく。見上げると、昼間の青年が棒を持って立っていた。
「乱暴ですね」
あきれて苦笑すると、青年の頬に朱が差した。青年がさらに殴りかかり、店主は身を縮めて呻いた。
店主が弱って動けないのを見て取ると、青年は咲き乱れる花々を無造作にむしり取って逃げ出した。
足音が遠ざかるのを聞き、店主は痛みに顔をしかめながら起き上がった。
無惨に手折られた花の残骸を眼にして、店主は悲しげに顔を曇らせる。茎だけ残った花が痛々しかった。
使い物にならない花を片付けながら、店主は呟く。
「あれに夢を見過ぎている」
青年は掴んだ花を見つめ、興奮のあまり呼吸が荒くなっていた。手にしっかりと握られた花が、盗みを働いた確かな証拠としてある。
自分がやってしまったことに後ろめたさを感じたが、すぐに思いなおした。売ってくれなかった店主が悪いのだと、己に言い訳をした。
花は強く甘い香りを放ち、明かりに浮かぶ紅い色が何とも艶やかだ。これが例の物かと思い、青年はうっとりと花に魅せられた。
空き瓶に水を入れて花を飾ると、青年はそれを枕元に置いて眠った。先日、情報を買った者の話によれば、そうして眠れば夢が見られるとのことだ。
青年は浮き浮きとはずむ気持ちで眼を閉じた。
翌朝、青年はすっきりしない気持ちで目覚めた。思い通りの夢が見られると思っていたのに、期待が外れた。昨晩の夢は確かに良い夢だったが、恋しい彼女の夢ではなかったのだ。
青年は盗みをしたことも忘れて、騙されたと悪態を吐いた。この怒りをどこへ持っていけばいいのか分からない。情報を買った男に文句を言おうにも、居場所を定めず、どこにいるのか分からない奴だ。
生き生きと咲く紅い花を恨めしげに睨んで、青年は考え込んだ。もしかしたら、何か別のコツがあるのかもしれない。その可能性を考えると、青年は居ても立ってもいられない。どうにかして知りたいと思った。
青年が再び店へ顔を出すと、店主は半ば予測していたように平然と出迎えた。
「あなたのせいで、大切な花が台無しですよ」
店主の非難にちらりと怯えを見せたが、青年は精一杯強がって声を荒げた。
「う、うるさい。お、俺は聞きたいことがあるんだ。あ、あの花の使い方だ」
青年は店主の胸ぐらを掴み、手に持った小刀を相手の腹に向ける。
青年は必死だった。店主の眼に、あきれと哀れみが浮かぶ。
「その様子ですと、夢はお気に召しませんでしたか」
「か、彼女の夢じゃなかった。お、俺は、彼女の夢が見たいんだ」
店主は侮蔑を含んだ微笑を見せたが、一瞬のことだったので青年は気付かなかった。あくまで穏やかに店主は話しかける。
「あなたは、実際に彼女と過ごした楽しい日々をお持ちではない」
「う……それが何だ」
「あの花は、楽しかった過去の夢を見せるのです。ですから、あなたが彼女の夢を見ることはできません」
青年の顔が一瞬呆けたが、すぐに怒鳴る。
「そ、そんなことで騙されないぞ。何か方法があるはずだ」
人間は思い込むと、その考えからなかなか抜け出せないものだ。青年はまさに今その状態である。納得のいく答えを聞くまで、手を離さないつもりだ。
店主は溜息を吐く。
「仕方ありません。特別にお教えしますよ」
青年の顔色は明るくなり、締め上げていた手元を緩めた。
反対に、店主の顔は暗かった。
「花を飾るのではなく、煮るのです。あなたの見たい夢を思いながら、じっくりと煮込んでください」
「煮込むのか」
「水でも、スープでもいいです。煮込んで飲む」
「そ、それだけでいいのか」
「ええ。しっかりと、あなたの夢を注がないといけません。夢を思い浮かべながら、ゆっくりとかき混ぜなさい」
「よ、よし」
用事が済むと、青年は嬉々として店から出ていく。
最後に店主が「ですが、入れ込みすぎると夢に溺れますよ」と言った言葉を、青年は聞いていなかった。
小舟が岸に着くと、ふらふらと現れた青年が何も言わず舟に乗り込んだ。ぎしり、と不快な音を立てて舟が傾ぐ。
船頭は舟を漕ぎ始め、舳先に座る男は無言で灯りを掲げている。静かな川面を渡りながら、舟は緩やかに進んでいく。
青年は初めから様子がおかしかった。心ここに在らずというふうに落ち着きがない。青年は腰を下ろさず、危なげな足取りで舟の上を歩き始めた。だが、それを不審に思う者も、注意する者もいない。
青年は酔っぱらっているのか、正体をなくした様子でふらついている。
灯りを持った男が視線を上げ、何か話しかけようとした。
声をかける前に、水音と共に青年の姿は消えた。水面の波紋を見つめながら、灯りを持った男は微かな息を吐いた。
何事もなかったように小舟は岸辺に着き、渡し場にたたずむ客を迎え入れた。お客は慣れた様子で、何も言わずに舟へ腰を下ろす。舟は静かに岸を離れて、暗い川にゆるやかな波を立てていく。
舟の上に、一枚の花びらが落ちているのに気付いて、お客はそれを手に取って眺めた。灯りに照らされ、花びらが紅く艶やかに見える。
お客はしばし黙って花を見つめ、花びらをくるくる回して遊んでいた。ふと何気ない様子で、灯りを掲げる男に眼をやる。
「ここに、花を持った青年が来ましたか」
尋ねても返事がない。男の無反応を見て、お客は質問を変えて聞いた。
「では、酔っぱらいの客が来ませんでしたか」
男が無言で頷くと、お客は悲しげに顔を曇らせて笑った。それは微笑とも苦笑ともつかない笑いだった。
お客は花びらをかざして見つめ、ふうっと息を吹きかける。花びらはくるくると宙を踊り、川面に落ちて見えなくなった。
「だから、可愛らしいものじゃないと言ったでしょう」
彼が呟いた声を、あの青年が聞くことはない。
ほどなく小舟が岸に着くと、お客は無表情で渡し場に降りた。灯りを掲げて、男がお客に初めて声をかけた。
「それではまた、お帰りの際に」
お客は振り返り、人形のように張りついた顔を歪めた。それは自嘲的な笑みに見えた。
「また、帰りに」
そう繰り返して、お客は舟に背を向け、霧のかかった陸地へと進んでいく。その背後を、ぽろぽろと紅い花が落ちていく。それは一瞬輝いたかと思うと、すぐに消えてなくなった。そのうち、お客の姿は見えなくなった。
辺りは濃い霧と深い闇に覆われ、微かな水音と舟の灯りだけが優しさを感じさせた。
*
店に現れた馴染みの客に対して、店主は珍しく顔をしかめた。見慣れた顔の青年は、人懐こい笑みで会釈した。
「いつものやつ、お願いしますよ」
「ああ」
店主は面倒くさそうに動いて、棚から袋を取り出して渡した。袋の中には、乾燥させた香草がいくつか入っている。
青年は袋の中身を確認して、満足げに笑う。ふと、店主の顔をまじまじと眺めて不思議そうに尋ねた。
「旦那、顔の怪我はどうしたんです」
憮然とした様子で店主は事の経緯を説明した。その話を聞いて、ばつが悪そうに笑う青年を睨みながら、店主はぼやいた。
「守、客は選んでくれないと困りますよ」
「へへ、すいません」
「ああいうお客は、鳥飼いが専門でしょう」
「ははは。鳥の旦那が寄り付かないようなら駄目ですよ」
「それもそうですね」
守は猫背を丸め、眼を細めて香草を噛んでいる。独特の香りが、ふわりと店主の方へも漂ってきた。
夢の花から取った葉を、好んで噛む輩は彼だけだ。他に、葉を煙草に使う物好きもいる。守は香りと味を十分楽しんでから、ぺっと吐き出した。
「お代を」
店主が手を差し出すと、守は服のポケットから金を出して握らせた。
店主は金額を数えず、無造作に懐へ金をしまう。代金を求めるのは形だけで、実際は面倒くさいとでもいう素振りだ。
その様子を見て、守は笑った。
「旦那、本当に商売やる気があるんですか」
店主は仏頂面で、面白くなさそうに呟く。
「さあ、どうでしょうね」
花に夢見る