隠れ家の台風

霧島

 膝の上にワークを広げる。ようやくコートとブランケットがいらなくなった。手元は少し暗いけど、もう少しすると日射しが入ってきて、今度は明るすぎる。だから、ここでは最初に宿題をすると決めていた。
 ここは私のただ一つの隠れ家だ。学校から裏の坂を上って、雑木林の中に入って、丸太の階段をまた上って、道を逸れて坂をちょっと下ったところに見える赤黒い屋根。この冷たい石の箱の中には、観覧車のように向かい合って、ベンチが二つ置かれているだけ。
 景色はとてもいい。河原の小石のようにカラフルで平坦な町並みを見下ろして、遠くには海も見える。そして、沈んでいく夕日も見える。暗くなると危ないから、その下の端が水平線に着いてしまうまでには帰らないといけない。
 私がここにいることは、きっと誰も知らない。クラスの人も、先生も、お母さんもお父さんも。もしここで何かあったら、誰にも見つけられず……なんてことを、たまに考える。そうなるのはちょっと怖い。でも、そうなってからでないと、私なんかは誰にも心配されないんだ。だから、逆に絶対心配なんかさせてやるもんか。
 誰も知らない場所。誰も知らない時間。いつからか、それが当たり前だった。春も、夏も、秋も冬も、十歳、十一歳、十二歳になったときも。
 ずっと、放課後は一人でここにいた。そして多分、中学生になった今も、これからも。

 でも、たまに、本当に本当のたまに、人が寄ってくる。こんな田舎の小さな町の、静かな住宅街の奥に隠れたこんな林の、案内板もなくて捨てられたようなこんな場所に、物好きにも近寄ろうとする人がいる。
 ここに来る道は一本しかないし、あとは崖と坂に囲まれていて逃げ場もない。だから、その人と二人きりになる状況は絶対に嫌だ。人の気配がしたら、すぐに荷物をカバンに詰めて、駆け足で帰るしかない。坂のところで顔を合わせずにすれ違って、その日はもう戻らない。私はそれを、「台風からの避難」と呼んでいる。
 手元に日差しが入り始めた頃。運の悪いことに、今日もその「台風」が来てしまった。
「この山はいいな! しっかしさみーのなんの!」
 やたらに響く女子の声。多分一人。「台風」にしては変わっている。普通はもっとお年寄りの人しか来ない。でも、もし同じ学校だったりしたら大変なことになる。やりかけのワークを閉じて、すぐに避難を始めた。
 いつも通り、坂のところですれ違う。やっぱり一人。さっき「寒い」と騒いでいたのが聞こえたけれど、大袈裟にも真冬のようなジャケットを着ている。下は学校のジャージ。多分中学生だけど、私とは違うところのような気がした。それならもう関係ない。二度と会わない。とにかく走って、分かれ道まで来た。
「なあ、ちょっと!」
 もしかして、話し掛けられてる? 急に心臓がバクバク言い始めた。私は無視して階段を駆け下りる。
「どうして逃げるんだよう。あんたも中学生だろ?」
 だから何なのよ! というか追いかけられてるし、多分向こうのほうが速い。でも、振り返ってる余裕なんてない。
 夢中で走って、林から出る頃には、向こうも諦めたみたいだった。ふらふらするくらい息が上がっている。こんなに緊張した避難は初めてだった。誰だったんだろう。
 私が中学生なのは、制服を着ているからバレて当たり前だ。でも、「あんたも」って言った気がする。あんなジャケットを着てくるような女子は、私の学年にはいない。私は風紀委員だから、違う学年でも、素行の悪いやつはチェックしている。でも、やっぱり記憶にない。隣の中学なのかもしれない。
 あれこれ考えるけれど、一番思うことは、やっぱりこれだ。
 絶対に、もう二度と会いたくない。

 ところが私の願いは叶わなかった。日頃の行いは悪くないはずなのに。次の日の放課後、家で着替えてからそこに行くと、入口から伸びる影が一つ見えて絶望した。ギリギリのところから様子を探ると、昨日と同じ黒のジャケットを着た女子が窓から身を乗り出していた。
 でも、このまま引き下がりたくはない。こんなことで大切な隠れ家を手放したくない。同じように引きこもっているなら、誰もいない家の中より、この場所のほうが絶対にいいんだ。
「あなたは、何なの」
「おっ?」
 声を掛けると、そいつは振り返るなり、私の姿をまじまじと見てきた。短い髪に、肌は心なしか色黒で、やっぱりこの辺の中学生とは少し雰囲気が違う。
「昨日、ここにいたやつだな」
「そうよ。私はこの場所で、静かに過ごしたいの。協力をお願いできないかしら」
 粗暴そうではあるけれど、話が通じないわけではなさそうだった。私は何とか話をして、離れてもらうか、帰ってもらうかしてもらおうとした。
「ここは、あんたのお気に入りの場所ってわけだな。邪魔しちゃったのは悪かった。でもよ、別にここは、あんたのものってわけじゃない。あたしも結構、ここからの眺めが気に入っちゃったんでさ。だから、仲良くできないか?」
「仲良くって……」
 そんな、いきなり。そいつはやっぱり寒そうに、時折鼻をこすっている。悪気はなさそうだけど、距離の詰め方が乱暴だ。
「じゃあ、もう少し話しましょう」
「おう」
 とりあえず、二人で向かい合って座った。昨日まであり得ないと思っていた状況で、まだ落ち着かない。
「あなた、名前は?」
「イブキ。あんたは?」
「愛」
 名前は教えたくなかったけれど、名乗らせてしまったから仕方がない。やっぱり聞いたことのない名前だった。漢字もわからない。
「アイか。覚えやすいし、いい名前だな」
 いきなり名前を褒められた。こんなことは生まれてからあったかどうかもわからない。くすぐったくてたまらない。
「……ありがと」
「あたしさ、引っ越してきたばっかりなんだよ。島には中学がなくてさ。せっかくだからって、親父とお袋がこの町を選んだわけ。でもまあ、よくこんな寒いところで暮らせるな?」
 一体、どんな異国の島から引っ越してきたんだろう。外国人やハーフというわけではなさそうだけど、日本にそんな場所があるのが、なんだか信じられない。
「別に、普通だから。冬は寒いけど、もうだいぶあったかくなってきたし」
「ふうん。アイはどこのクラスだ? クラスなんて初めてだからさ、学校中探したけどいなかっただろ。学校サボってたのか?」
 これではっきりした。イブキは違う中学だ。ちょっと安心する。
「違う中学でしょ。私は学校、サボったことないし」
「マジ? 島には中学なんてひとっつもなかったのに、ここだとこんな距離でも中学が何個もあるわけ? はあ……」
 世間知らずにもほどがある。この調子では、学校でもきっと浮いていて、それでいづらくなってこんな場所まで来てしまったんだろう。まあ、それは私もなんだけど。
「親父は冒険家でさ。よく、島の外の話を聞かせてくれたんだ。あたしは島を駆け回って遊んでるのが楽しかったから、真剣には聞いてなかったけど……なるほどねえ」
 イブキは窓の外を見て、何かに感心したように言った。その辺りから、もう一つ様子が変わった。さっきまでは、はしたなく脚を広げて座っていたけれど、今はなんだかもじもじとしている。これは、もしかして?
「うう……なあ、この辺便所ある?」
「ええっ」
 やっぱり! もちろん、そんなものこの近くにはない。坂を下りたら公園くらいはあるけれど、十分くらいは掛かる。でも、そうなると……。
「ううん……お袋にはするなって言われてるけど……しゃーないな?」
 あれこれ迷っているうちに、イブキは外へ飛び出して、坂を上っていった。
「ちょっと」
 さすがにまずいと思って、とっさに後を追う。坂を上ると、イブキは低い茂みの合間に分け入って、木の陰に入るところだった。ダメだ。止めなきゃ。
「待って!」
「……ふーっ」
 茂みに入るのを一瞬ためらったところで、手遅れになってしまった。見つけたときにはもう、イブキは気持ちよさそうに息をこぼして、しゃがんだ足の間に泡立った流れを作っていた。私は見ていられなくなって、両手で目を覆いながら回れ右した。
「なんだ、アイも小便か? 変わってるよなあ、女が連れ立って小便したがるなんて初めて知ったよ」
「私はしないし! 恥ずかしいから、あんまり大声で言わないで」
 それにしても長いというか、悠長なお花摘みだ。本当に信じられない。
「しないなら、向こうで待ってりゃ良かったのに。あたしの小便なんか見にきて面白いのか?」
「違う! お、終わるまで、誰か来ないか見張ってるから!」
 誰も来ないからいいというわけではないけど、誰か来るよりは百倍もいい。こんなことを考えると、私のほうがみじめになってくる。やっぱりこいつもういやだ。
「あっ、でもさ。犬の小便は面白いよな。島にでっかいオス犬がいたんだけどさ、そいつが片足上げたら、水鉄砲みたいに出てくるわけよ。ぴゅ、ぴゅってさ。あれは最初見たとき笑ったな」
 さっきから話の内容が下品すぎて、関わりたくもない。というか、イブキはもう終わったはずなのに、多分そのままの格好で何の話をしてるの?
「終わったなら、私は戻るからね!」
「おう。わりいな」
 まあ当然、拭きもしなかったんだろう。私まで考えたくもないことを考えてしまう。戻ってきたら、きつく言ってやらないと。
「スッキリしたあ」
「……トイレくらい、してから来てよね」
「そうだな。うっかり島の頃の感覚でさ」
 今の時代にありえない野生児っぷりだ。ただ、それならむしろ、島育ちのことを納得しても良かった。ただ島で育ったからと言って、絶対にこんなふうにはならないと思うけど。
「だって、イブキは島に友達とかいなかったの?」
「あたし一人だよ。お袋の実家が山持っててさ、そこで駆け回って遊んでたんだ」
「だからって……今なんて、私もいたのに、恥ずかしくないの?」
「んまあ、別にな。磯んとこでしてて、近所の漁師のおっちゃんに見られたとかなら、ちょっと恥ずかしいけど」
 こんなに常識外れだけど、まだ多少は人間らしい心も備えているみたいだ。
「とにかく、もうやめてよね。今の時代なんて、通りで我慢してるそぶりを見せることだって危ないんだから」
「どうしてだ?」
「そういう子を狙ってる変な人がいるの!」
「ふうん。アイが言うなら、気を付けるか」
 というか、こんな話をしてる場合じゃない。私は一刻も早くイブキとの関わりを断ち切って、この場所での静かな時間を取り戻さなきゃいけないんだ。
「今日はもう帰って。私は一人になりたいの」
「まあいいか。じゃああたし行くわ」
 思ったより強い言葉になって、嫌がられるかと思ったけれど、イブキはあっさりと立ち上がった。
「アイ。良かったら、また遊んでくれよ。いろいろ教えてほしいんだ」
「えっ、あ……うん」
 去り際、そんなことを言われるとは思ってなくて、私は思わず頷いてしまった。どうして、「もう来ないで」とはっきり言えなかったんだろう! どうして……。

 このままだと、イブキは毎日来る。私が行く限り毎日会わなきゃいけない。だから私は、少し長い避難と思って、一週間くらい行かなかった。
 雨でもないのに部屋に籠っていると、宿題をする気も起きない。自分の部屋だけど、うちには贅沢をする余裕なんてないから、楽しみはほとんどない。その空間は広すぎて持て余してしまう。
 みんなが持ってるようなスマホやゲームだって、親の前で「欲しい」と口に出すことさえ悪い気がする。ただ、誕生日とクリスマスのときだけは好きな本を買ってもらえた。それを順番に、何度も繰り返し読んでいる。
 ……こんな場所には、友達だって呼べない。
 でも、全部が今の私の当たり前だから、不満はあんまりない。劇的に良くなることなんて期待しないから、これ以上悪くもならないでほしい。ずっとこんな暮らしが続いて、自然に私は働ける歳になって、あとは自分で生きていくから。
 また少しあったかくなって、林に入ると小さな花たちが点々と寄り集まって咲いていた。この季節は虫も少ないし、一番好きだ。さすがにもう誰もいないと思って、今日は学校からまっすぐ来ている。ラッキーで宿題もないから、まずは恋しかった眺めをゆっくり楽しむことにした。
 穏やかな日。海には和紙のように小さな皺が遠くまで続いていた。将来何をするかは決めてないけど、多分、特別な名前のない仕事をして、この町か、同じくらいの田舎で暮らしていく。
 ときどき将来のことをぼんやりと考えるのは嫌いじゃない。毎回同じようなことを考えて、それでどこか安心する。
「いたーっ!」
 もう聞かないと思っていた声が真後ろから聞こえて、バランスを崩した私は窓の外に落ちてしまいそうになった。振り返ると、イブキがもう目の前に来て、ずいっと顔を近づけてくる。逃げられない!
「ちょ、ちょっと、近い……」
「これがかくれんぼか。見つけるのに一週間も掛かっちまったよ」
「違う……は、離れて」
「おう」
 いつの間に私とかくれんぼをしているつもりだったのか、イブキは満足そうに笑っている。
「ほんと、アイっておもしれーな。ショッピング?だのゲーム?だの、こっちのやつの遊びって全然体が動かねえ。やっぱこう、森とか山ん中走り回って、いろんなもの見つけるのが楽しいんだよ」
 なんだか同類みたいにされているけど、私だってイブキの言うことには半分くらいしか賛成できない。これだけは絶対に正しておかないと。
「これは、かくれんぼじゃないし! 私は、あなたと遊びたいわけじゃ、ないから。いなかったのは、あなたに会いたくなかった、だけ……だから」
 もっとはっきり言わなきゃ。でも、心の底から楽しそうなイブキを前にすると、語尾がどんどん弱くなる。なんだか、自分が悪者のような気がして。
「アイ、具合でも悪かったのか?」
 結局、私の言葉はちゃんと伝わらなかった。でも、伝わらなくてちょっと安心してしまった。
「……うん。だから、今日も走り回ったりはできない」
「ちゃんと休んだ方がいいぞ? 野菜たっぷり入れた味噌汁でも食ってさ」
 イブキは私を疑う様子も全く見せない。心配までさせてしまって、気まずいばかり。でも、こうなったらしばらく付き合ってあげるしかないと思った。我慢していれば、落ち着きのないイブキはそのうち私に飽きてくれるに違いない。だから、それでいい。
「いろいろ教えてほしいって言ってたでしょ。話なら、できるから」
「そっか。サンキューな!」
 そこで私が先にベンチに腰を下ろすと、イブキは当たり前のように、ぐいっと同じベンチに座ってきた。私は置いてあったカバンを抱えて、反対側に逃げる。
「ちょっと、どうしてこっちなの。向こうも空いてるのに」
「あたしはこっちがいいな。寄ったほうがあったかいだろ」
 そういえば、イブキは今日も同じジャケットだ。まあ、冷えると言うのなら仕方がない。なるべく満足してもらおう。
「それで、何が聞きたいの」
 私はカバンを床に置いて話を切り出した。
「そうだなあ。いろいろだ。何でも聞くからさ、話せることぜーんぶ話してくれるか?」
 何でも、というのは一番困るけど、全部というのもちょっと困る。そこまで話すことをあれこれ考えてきたわけじゃない。
「じゃあ、質問を変える。何の話から聞きたいの?」
「おお!」
 その質問で、イブキは何かを思い出したみたいだった。上手くいった……と思ったら。
「気になってたんだよ、アイはここが気に入ってるって言ったけどさ、一人のときは、ここで何してんの?」
 聞きたいことって、この町の暮らしのこととか、もっと一般常識的な話かと思ってたのに。あんまり話したくないけど、仕方ない。
「景色見たり、勉強したり、本読んだり。ただ、一人でゆっくり過ごしてるだけ」
「ふうん……あたしはわざわざこんなところで勉強したくはないなあ。学校で勉強すんのは嫌いじゃないけど。アイは勉強好きなのか?」
「勉強は……」
 思いのほか難しい質問。私の場合、宿題とテスト勉強以外はほとんどしない。でも、成績は上のほうだ。だから他の人と比べれば、勉強は好きなのかもしれない。
「わからないけど、他の人よりは好きかも」
「へえ。島の小学校で、先生が言ってたんだよ。好きなら勉強しろ、好きじゃなくても、教わったことは憶えておけって。勉強って、そんな感じで気が向いたらやるものなんだなって思ってたけど、ここに来たらさ。なんか、嫌いだけどめちゃくちゃ勉強させられてるやつがいるんだよな。ここでは勉強、嫌でもやらされるのかって、ちょっと参ったね」
「それは、一応義務教育だし、みんな受験とか、将来のこともあるから……」
 というか、勉強する理由なんて、深く考えてやってる人はほとんどいない。そういうものだと思って、疑ったところでどうしようもないだけ。
「受験かあ。そういや、あったな。そんなに大事なものなのか?」
 受験が大事じゃないなんて、言えるものなら言ってみたいくらいだ。イブキは興味がなさそうに、あくびまでしているけれど。
「それはもう、どんな高校に行くかで、全然違うし……受験のときは、一年生からの成績もそのまま点数になるんだって。だから、本気でやるなら、今から気が抜けないの」
 つい力を込めて説明したけど、私も風紀委員の先輩からちょっと聞いただけで、詳しくはわからない。まして、本気で上のほうの高校を狙っているわけでもない。あくまで通いやすいところを選ぶと思う。
「なるほどねえ。勉強の話はもういいや。じゃあ、アイは学校だと、どんなことしてるんだ?」
 話しにくい話題が終わったと思ったら、もっと困る話題が来た。
「どんなことって?」
「なんか、部活とか。あたしはそれこそ、気の向いたときにやればいいんじゃないかと思うんだけどさ。まあ、だるいだの眠いだの言いながら、よくやってるよな」
 全体的に、イブキには私たちが普通に当たり前のことだと思ってやっていることが不思議に見えるらしい。
「それもやっぱり、途中で辞めたりしたら先生に良く思われないし……でもだいたいの人は、勉強よりも部活のほうが好きだと思う」
「先生に良く思われないって、どういうことだ? そんなこと気にするのか?」
「気にするよ。受験のときには、そういうこと一つ一つ、内申書みたいなものに書かれて、受ける高校の人に見られるんだって」
「へえ……」
 イブキは腕を組んで、ぐるりと首を回した。
「つまり、勉強だの部活だのって嫌でもやるのは、先生たちのご機嫌取って、上手く受験をやるためだってことか? アイの説明だと、そうだよな?」
 確かにそうも見えるかもしれない。でも私は頷けなかった。
「そこまでみんな、消極的じゃないと思う。私は部活はやってないけど、風紀委員として働いてる。それは先生のためじゃなくて、みんなで気持ち良く学校生活を送るためだし、そうなれば自分のためにもなるからだよ」
 心から全部、そう思っているわけじゃないけれど。
「なーんか、面倒くさいんだな……いろいろやらなきゃいけないことがあってさ、さらに自分のためだとか、他人のためだとか考えてさ」
「そのくらいは、みんなやってるんだよ。当たり前の……常識みたいなものだから」
 イブキはなおも首をかしげて、何かを考えている。もしかしたら、知りたくなかった話だったかもしれない。でもそれは逆に、私がイブキの育ちを信じられなかったことに似ていると思う。
「常識……親父が言ってたんだ。自分が常識を知ってるとか、常識があるみたいなことを、絶対に思っちゃダメだって。アイは、自分に常識があると思うか?」
「それは……」
 それはそうだ。私はイブキなんかよりずっと常識的だし、ちゃんとわきまえて生きてる。言い切りたかったけど、言えなかった。イブキのお父さんの言葉が、胸に刺さってしまったから。
「でもね、多分……常識って、私はやっぱりあると思う。何かを考えるとき、絶対に常識が頭の中にあって、ヒントをくれるの。世の中には、正しい考えっていくつもあるかもしれないけど、自分がその中の一つをちゃんとなぞってるって思うために……それが、私にとっての常識かな。だから、イブキにも私と違う常識がある」
 それまで漠然と当たり前だと思っていたことに、ここまで考えが進んだのは初めてだった。少なくとも私はもう、イブキのことを非常識だとは言えなくなっていた。イブキのことが、だんだんとわかってきたから。
「あたしにも……ひとに言われるのは、悪いことじゃねえな」
「うん」
 気が付くと、辺りは暗くなっていた。夕日は灰色の雲に隠れてしまっている。
「いけない、そろそろ帰らないと」
「そうだな。明日は天気じゃないかもしれないけど、晴れたらまた来ていいか?」
「いいよ。私も、イブキともう少し話したい」
 そんなことだけは、素直に言えた。

 私にはやっぱり、授業を聞かないでお喋りばかりしているやつとか、教室でボールを投げたり、走り回ったりするやつとか、どうしても許せない存在がたくさんいる。でも、そんなやつらに立ち向かうような勇気も、力もない。だから、心の中で「許さないだけ」をずっと続けてきた。
 もっと幼い頃には、無謀にも割り込んで注意したり、帰りの会で堂々と先生に報告したりしていた。でも、その結果は望んでいた平和とは真逆だった。私に味方した人、反発した人がひとりでに争い合って、いつの間にか片側の大将になってしまった私は、その真ん中で好き放題にいじめられ、からかわれ、守られもしたけれど、自分の無力をこれでもかと思い知ることになった。
 おびただしい数の罵声。誰かの泣く声にも、耳を傾ける人はいない。
 そんな夢で目が覚めて、思い出したんだ。消え去り切らない心の傷跡。そして最初に思ったことは、「イブキに聞いてもらいたい」ということだった。私が隠れ家を求めた、本当のきっかけだから。
 でも、その日のイブキはあまりにも上機嫌で、とても暗い話なんてできる雰囲気じゃなかった。ジャケットを脱いでも平気なほどに熱を帯びていた。
「聞いてくれよ、あたし今日、友達が三人できたんだ! 流行ってるゲームだかの話聞かせてもらってさ、今度やらせてくれるって。アイの話、参考になったよ」
「それは良かった」
 口ではそう言いながら、私はもやもやした気持ちを抱えていた。こんなとき、どんな顔をすれば良いかも忘れてしまったのに。というか、昨日の話のどこを参考にしたら友達ができるんだろう? それは単に、イブキの行動力じゃないの?
「最初は全然話合わなくてつまらねえって思ってたけど、食わず嫌いするもんじゃないな。って、アイどうした? 面白くなさそうだな」
 こういうとき、人はやきもちを焼くの……なんて、さすがに自分のこととして言うのは恥ずかしかった。それにしても、どうして私はこんなに動揺しているんだろう。別にこのままイブキがその友達のところへ行ってしまったって、平和な時間が戻ってくるだけなのに。
「なんでもない」
「そういや、アイもやっぱり、友達いるんだろ? なんか、一緒に話せる話題ってないかねえ。互いに自分のこと喋るのはいいんだけどさ、それだけじゃどうにも続かねえ」
 その矢先にこれだ。イブキの常識についてはもう言わないけど、デリカシーはないと思う。平気で地雷を踏みぬいてくる。
「……してあげればいいじゃん。面白い犬の話とか」
「そうか! こっちにも犬好きなやつはいるもんな」
 あんまり思い出したくはないけど、この前聞かされたような話だったら、まず変な空気になることだろう。失敗すればいい。
「アイは普段、友達とどんな話するんだ?」
 まだ言うか。しかしイブキのことだ、黙っていたら察してなんてくれない。
「やめて! 友達なんて、いないんだから!」
 思わず大きな声が出た。イブキはきょとんとして固まる。ちょっときつすぎたか。
「……ごめんなさい」
「いや、あたしも調子に乗りすぎたな。でも、アイに友達がいないなんて、思わなかったんだよ。ごめんな」
 イブキのクラスでは風紀委員の男子は人気があって、私もそうだと思ったらしい。それは多分、元から人気のある人だからだ。
「風紀委員にも、いろいろいるから」
「難しいもんだな。あるときは同じ、あるときはそれぞれ……憶えてられねえ」
「私だって、そこまではわかってないよ」
 多分本当にわかっている人なら、相手が自分と同じだなんて考えを、そう簡単に持たないんだと思う。今の私もちょうど、そんな見当違いを起こしている。
 都合の良すぎる考えだ。あれだけ自分とイブキは違うと思っていたのに、本当ははぐれ者としてこの場所に迷い込んでしまった近しい仲間だという考えを捨てきれなかった。結局はどうしようもない違いを見せられて、間違いを思い知る。
「でもさ。あたしはもう、アイの友達じゃないか?」
 ほら来た。私だって、その言葉が欲しかったんだ。でも、それは一番聞きたくなかった言葉でもある。
「……私は、自分がイブキの友達だとは思ってない。私に友達はいない。それが当たり前で、それでいいの。だから私はここにいるの!」
 嫌な酸味を帯びた感情が、せき止める間もなく言葉になった。
「お、おい……泣くことないだろ、大丈夫かよ」
「泣いてなんか、ないっ! だから嫌なの、一人でも、何も起こらなくても、穏やかに過ごせればそれで、いいって思ってたのに……自分以外、誰も信じられない。全部、平和をぶち壊す台風でしかないんだから!」
 本当は言いたくなかった。でも、ここまで全部言ってやらないと、わかってもらえないから。
 こんなことを、わかってもらいたいわけじゃないのに……。
 それから私はめちゃくちゃにまくし立てて、問答無用にイブキを追い出してしまった。そして平和が戻った。清々しかった。楽しくはなかった。でも、私はようやく自分に戻れた気がした。

 次の日から、イブキは来なくなった。一人でゆっくりと勉強して、本を読んで、夕日を眺めて過ごす日々が戻ってきた。これで良かったと思う。相手が誰でも喋るのは疲れるし、一緒にいるだけで気を遣わないといけない。
 日射しを浴びていると暑くなる。もう夏が近い。これからはもう、記憶に残らないような夏でもいいから、何も起こらないでほしい。
 そして数日は、本当に何も起こらずに終わった。その後しばらく雨が続いて隠れ家には近づけなかったけれど、無事に六月がやってきた。
 虫の増える季節だけど、もう慣れた。この場所が好きなことは変わらない。夏服が始まって最初は少し涼しかったけれど、何日か経つと、もう冬服には戻れなくなった。
 そんなある日。最初の定期テストを控えて、勉強をしていたときだった。私は英語の教科書を音読していて、自分の声で重大な音を聞き逃してしまった。
「佳村さん」
「はいっ」
 急に名前を呼ばれる。聞き覚えのある声で、反射的に返事をした。入口に風紀委員の菰野先輩が立っている。私は焦ったけれど、もう手遅れだ。
「こんなところで、何をしているの?」
 風紀委員の中では、一番よく話す二年生。普段は優しくて、私の話にもちゃんと耳を傾けてくれるけれど、今日はとてもそんな雰囲気じゃない。ただ、冷たく問いただす声だった。
「勉強……です」
 先輩こそ、どうしてここに……なんて、聞き返せはしなかった。今も答えたのに表情は変わらず、納得していない様子だ。
「学校から、まっすぐ来たんじゃない?」
「はい」
 それで、いくらか予想がついた。林に入るところを誰かに見られて、それが先輩の耳に入ったのだと思う。
「こんな人気のないところに一人で寄り道なんて、危ないことくらいわかるでしょう」
 寄り道。危ない。そんな言葉が出てくるとは思った。だけど、今更だ。
「私は、何年も前からこうしているんです。今まで危ない目に遭ったことはありません。だから大丈夫です」
 主張する声が震えた。でも、菰野先輩ならわかってくれると思った。
「認められない」
 根拠のない信頼は、一瞬で砕かれる。
「この地域にも、不審者はたびたび出ている。こんなところで鉢合わせたら、逃げ場もないし、誰も助けに来ない。もしものことがあったら、あなたの代わりに、学校や親御さんが責任を取ることになるの。あなたも一生癒されない傷を負うかもしれない。わかる?」
 先輩の言うことはほとんど正しい。私のことを心配しているのもわかる。最悪のことだって、考えたことくらいある。でも、そのうえでやっぱり私には、ここしか居場所がないんだ。
「これ以上、どこに行けって言うんですか。人目につかないところを探し回って、ようやくこの場所を見つけたんです。家に帰っても誰もいないし、何もありません。危ないのなんてわかっています。身を守る方法も考えています。私は、ここじゃなきゃダメなんです。私の事情も、何も聞いてくれないんですか」
 精一杯まくし立てると、目頭が熱くなった。すると、先輩の厳しかった表情が、少し緩んだ気がした。不意に、肩に手を置かれる。
「事情はここでは聞いてあげられない。ごめんね。でも、本当に悩んでいるなら、学校で聞いてあげる。とにかく、あなたはここにいてはいけない。今日のことは報告しないけど、次は見逃さないから。さあ、一緒に帰りましょう」
 優しい言葉。多分、最後の慈悲なんだと思う。これを拒んでしまったら、菰野先輩も敵でしかなくなる。でも、すぐには従えない。
「帰ります。今日は帰りますから、一人にさせてください。一人で、考えさせてください」
「……わかった。気を付けて帰ってね。それから、よく考えて」
 踵を返した先輩を、見えなくなるまでじっと見ていた。どこかから見張られているわけではなさそうだったけど、私はすぐに教科書を片付けて帰った。先輩には会わなかった。
 定期テストが終わっても、隠れ家には戻れなかった。どこで誰が見ているかわからない。自分が見られていると感じるのが、とても怖かった。これまで見向きもしなかったくせに。理不尽さに泣きたくなった。こんなことになるのなら、イブキに絡まれているほうが絶対に良かった。でも、手遅れだ。私の行きつくところは、何もない部屋。硬いベッドの上で、横になっているだけ。
 学校での過ごし方は、あまり変わらなかった。もう変わる余地もなかっただけかもしれない。ただ、委員会があっても、菰野先輩とは話せなくなった。
 だいたい、『考えて』なんてほとんどが、考えさせる気のない言葉だ。こうやって言う人は九割九分、自分と同じ考えを持つことを期待している。まず結果として反対の考えを持つことを認めない。反対の考えが許せるなら、初めから考え直させる必要なんてない。
 ごく稀にいるらしいのは、自分よりも良い考えで言い負かされることを期待している人だ。でも、仮に菰野先輩がそうだったとして、私にはそこまでの力がない。
 だから結局諦めるしかなくて、そのまま夏休みになってしまった。

 私は提出物の遅れが増えてしまって、夏休み前の三者面談でも、そのことが話題になった。お母さんや先生にも、何か悩みがあるのかと聞かれた。二人とも、何も知らない。私が隠れて生きていることも。隠れざるを得なかった過去のことも。当然、私も話しはしない。そんなことで解決する悩みなら、とっくにしている。
 夏休みの間は、隠れ家に行くことも寄り道にはならない。だから、そこでじっくりと身の振り方を考えるというのが、私の思惑だった。
 お母さんにもらったお金でおにぎりを買って、午前中から隠れ家に向かった。夏休みは大抵こんな感じだ。もちろん宿題も持って、午後までしっかりと勉強もできる。部屋にいるより風通しが良くて涼しい。
 しかし、そこは私の期待していたような、一人の空間ではなかった。隠れ家に向かう下り坂の途中で気付く。
 イブキだ。
 髪は伸びたし、服も半袖を着ているけれど、間違いない。まだ向こうは、景色に夢中になっている。しかし私はそこで、足が動かなくなってしまった。
 このまま逃げ帰るのは絶対に嫌だ。でも、イブキと話すのは怖い。この間、怒って追い出してしまったきりなのに。ないとは思うけれど、反撃しようと待ち構えている可能性も拭いきれない。
「……イブキっ」
 最大限に頑張って、私はそこからイブキに声を掛けた。何かあったら、とりあえず逃げられるように。私に気付いたイブキは、嬉しそうに手を振りながら駆け寄ってくる。
「おお、アイ! 会いたかったよ」
 逃げる必要はなさそうだった。でも、いきなり近づかれるのは緊張する。
「止まって!」
「ん、どうした?」
 私は互いに手を伸ばしても届かないところにイブキを止めた。
「この間のこと、怒ってないの?」
「アイこそ、もういいのか? 心配してたんだよ。あたし結構よくここに来てたのに、アイ全然いないんだもん。夏休みなら来ると思って、待ってたんだ」
 そう言いながら、イブキはまた近づいてくる。相変わらず強引だ。
「……ごめんなさい」
 でも、『待ってた』と言われたのに悪い気はしなくて、その強引さもなんだか恋しくて、自然と私は謝っていた。
「あたしこそ、ごめんな。でさ、もう一つ聞きたいことがあるんだ」
「何?」
「ワカっていう女は、何者なんだ? この間ここに来たらさ、急にあたしのこと、不良呼ばわりして睨みつけてきて……アイと同じ制服だったけど、知らないか?」
 背筋に冷たいものが走った。和香というのは、間違いなく菰野先輩のことだ。
「その人は、私の風紀委員の先輩なの」
 起きてはいけない出会いだったと思う。この件に関係のないイブキにまで、嫌な思いをさせてしまった。
「それで、どうしてここに?」
 できれば忘れていたかったけれど、私は素直に全部を話すことに決めた。
「私が来ないか、見回りに来たんだと思う。私が放課後にここに来てたのは寄り道になるし、危ないからって、注意されたの」
「危ない、ねえ……そんなことあるか?」
「やっぱり、危ないものは危ないよ。一人きりでこんな人目につかないところにいて、怪しい人に襲われたり、誘拐されたりしても、誰も助けてくれないもの。私は何年もここに通ってたから慣れてたけど、私の考えは、普通じゃないから」
「そうか……」
 イブキは少し首を傾げた後、ぽんと手を叩いた。
「いや、ダメか……」
 私のために、何かを考えてくれている。それはとても申し訳なくて、でもこれまでに感じたことのない頼もしさがあった。
「何が?」
「あたしがアイと一緒にいれば二人だし、大丈夫だと思ったけど……アイはやっぱり、一人でいたいんだよな?」
 その言葉には、完全に不意を打たれた。イブキに、こんな気遣いができたなんて。そして、私のためにそこまでしてくれようとしていたなんて。でも、私には贅沢すぎる。
「あのときはごめん。今は、イブキとなら一緒にいてもいいかなって思ってる。でも、イブキには他にも友達がいるでしょ。私だけのために、ここにいてほしいなんて言えない」
「そうか。体が五つくらいあればいいのにな」
「気持ちだけで充分だよ」
 ずっと立ち話になってしまいそうだったので、私はイブキと一緒に屋根の下に入った。同じベンチに二人で隣り合って座る。今なら先輩が来ても大丈夫……なんて、ずるい考えも起こしてしまう。
「それにしても、意地悪だよな。アイはただ、ここからの景色が好きで通ってるだけなのに」
 だから、イブキがそんな決定的な勘違いをしているのを、そのままにしておけなかった。本当のことを話すチャンスは、今しかない。
「ねえ、イブキ。私がどうしてここに通ってたのか、本当のことを聞いてほしいの」
「ここが好きだから……じゃないのか?」
「確かにここは好き。でも、それだけじゃない。私がここから、離れられない理由」
 万が一聞いてくれなかったらという不安が、頭の中にうるさくちらついた。でも、イブキはそれを吹き飛ばすように、気持ちよく答えてくれた。
「じゃあ聞いてみるか。聞かせてくれよ」
「ありがとう」
 この話を他人にするのはもちろん初めてだし、上手く言葉にできるかどうかもわからない。でも、私はとにかくイブキに聞いてほしいことを、一つ一つ口に出していった。
「私は、ずっと一人だったの。悩んでいても、泣いていても、本当の最後まで助けてくれるような友達は、誰もいなかった。そんなとき唯一の居場所として見つけたのが、この場所だったの。
 誰もいない。誰も知らない。本当の一人になれるこの場所でなら、私は嘘のない自分でいられた。家にいてもそんなふうには感じなかったの。だから、この場所が好きになったというか、特別な場所だと思うようになったのは、一瞬だった」
 イブキは何も言わず、たまに頷きながら聞いてくれている。私はだんだんと、安心して話せるようになっていった。
「本当は、この山の頂上にも行ったことがないの。この場所に来て、景色を眺めて、宿題をしたり、本を読んだりする。ただそれだけ。いつの間にか、そうして生きるのが私だって、当たり前に思うようになった。だから、本当に離れるときが来るまでは、ずっとここにいたいと思ってた。今もそう思ってる。まだ、私はこの場所を離れたくない。自分を失くしたくないから。
 他人が来ると居場所がなくなるから、一番嫌だったの。最初にイブキが来たときに逃げたのも、本当に嫌だったから。でも、いつの間にか逃げられなくなって、諦めて話すようになって……そこからはね、不思議と、完全に嫌ではなかったの。
 友達がいなくて、ずっとここにいて、何も起こらない私の当たり前を、イブキはどんどん吹き飛ばしていった。まるで台風のように。最初はそれがすごく怖かったの。やっぱり、自分が自分じゃなくなる気がした。だから一度は、怒鳴ってイブキを追い出しもしちゃった。そうしたら全部過ぎ去って、元に戻れると思った。
 でも、本当はイブキに離れてほしくなかったの。イブキとなら、新しい当たり前を見つけられると思ったから。勝手だけど、私だけと一緒にいてほしかった。
 あのときは、それが叶わなくて、乱暴な気持ちになったんだと思う。本当にごめんなさい。今は、はっきりと思う。私はイブキの友達になりたい。まだ、イブキが私のことを友達だと思ってくれていたら……嬉しい」
 なんだかとても長くて、遠回りな告白だったと思う。思いの伝え方は、もう少し上手くなりたいと思った。
「話は、それで終わりか?」
 でも、聞き終わった後のイブキは、優しい声で話の終わりを確かめながら、私の両手を包むように取り上げてくれた。
「うん。聞いてくれてありがとう」
「あたしのほうこそ、話してくれて嬉しかった。同じかどうかはわからないけど、アイの気持ちって、あたしに似てる気がする」
「そうなの?」
 今度は私が聞く番だ。手をつないだまま、イブキは島のことを話してくれた。
「島には、歳の近い子供がいなかった。島の大人たちは、あたしのことを本当に大切にしてくれたわけだけど……結局さ、学校に行ってても、同じくらいの子供がどんな感じで、何を考えて、何をしているのかみたいなことは、ほとんどわからなかったんだ。
 友達っていうのはその代表でさ。物語の中だけの話だったんだよな。興味はあったけど、いなくても困らないのはわかってたから、そこまで欲しいとは思ってなかった。
 でも、親父とお袋の間で、それじゃ良くないって話になった。だからこの町に引っ越してきたけどさ、いきなり四十人近いクラスに放り込まれて、目まぐるしくてうるさくて、まるで自分のペースにはなれねえ。あたしが当たり前みたいに思ってたことも、ほとんどがそうじゃないって思い知らされた。めちゃくちゃだよ。
 でさ、こういう山で遊んでるときは、島のこととか、自分のことを思い出して、見つめなおせるわけ。そういう意味では、特別だったんだよ。そして、アイに出会った」
 つないだ手が、だんだんと熱く、湿ってくる。そんな感覚は久しぶりすぎて、緊張すらしてきた。イブキは話を続ける。
「お袋をがっかりさせたくないって気持ちはあってさ。ここでなら、アイとなら、友達になれるんじゃないかって思ったんだ。
 それで話しかけてみて、アイの話はちょっと難しかったけど、あたしは話してるうちになんとなく自信がついてさ、こうすればいいんだって。学校で友達もできたし、大変なのはあんまり変わらないけど、こっちでの暮らしが、だんだん楽しくなったんだ。
 でも……アイのことは、勘違いしてたんだな。いろいろ。気付かないで、嫌な思いもさせてた。だから、追い出されたときは、本当に失敗したと思ったよ。それ以来会えなくなって、ずっと気にしてた。今日は、会えて本当に良かったよ」
 そして、最後の言葉。
「あたしも、アイとは友達になりたい。それは、同じなんだな?」
 涙が出そうになった。たまらず手を放してもらって、目を拭った。
 ようやくわかり合うことができた。こんなふうに友達を作ることも、できなくて当たり前だと思っていた。
「ありがとう、イブキ」
 その後イブキは、私を山の頂上へ連れ出してくれた。隠れ家よりも高くから、開けた視界で町を眺める。見ているものは同じでも、見え方は全然違う気がした。
 こんな眺めも、私は知らなかったんだ。高く昇った太陽に向かって思い切り手を伸ばす。真新しい夏が始まると思った。

 夏休みの間は、ほとんど毎日イブキと会って遊んだ。それで少しずつ、駅前の商店街にも行くようになった。寂れてきてはいるけれど、地元の中高生が気軽に遊びに来るような場所だ。怖さもあったけれど、楽しみのほうが大きかった。
 気分次第で、隠れ家にも行った。そこでは喋ったり、宿題をしたり。イブキは案外、勉強もできた。というより、興味のある教科は余裕そうだった。興味のない教科はほとんど頭に入っていなくて、私が教えてあげることになった。でも、飲み込みは早かった。
 そんなある日のこと。商店街に最近できたらしいお店でタピオカミルクティーなるものを買って、私たちは近くの公園にいた。ベンチに二人で並んで座って、ちょっと乾杯もしてみる。
「タピオカって、何なんだろうな。よくわからないけど、また飲みたくなるんだよ」
「私には、ちょっと甘すぎるかも……」
 普段お菓子もあまり食べない私は、ミルクティーの甘さにも驚いてしまう。でも、これが流行っているとは聞いたことがあるし、イブキとあれこれ言いながら試してみるのは楽しかった。
 それですっかり、気が緩んでしまって。
「佳村さん」
 声と同時に、嫌な寒気が背中を撫でる。私たちの目の前に、私服姿の菰野先輩が立っていた。突然のことに、私は思わず、悪い予感ばかりをしてしまう。
「菰野先輩……こんにちは」
 挨拶をしても声が震えた。菰野先輩の表情は、全然フレンドリーではない。隠れ家で見つかったときと同じだ。
「アイの先輩だな。何か用か?」
 代わりに前に出てくれたイブキに対して、菰野先輩は不快感を露わにする。
「あなたは、この間の……佳村さんのことを知らないって言ったのは、嘘だったのね」
「嘘は言ってない。佳村ってのが誰か、ほんとに知らなかったんだ。アイのことだったんだな」
 やっぱり、二人の間にも何かあったらしい。まずはともかく、菰野先輩に私とイブキの関係をちゃんとわかってもらわないといけない。
「先輩。イブキは、不良なんかじゃありません。今年、どこか遠くの島から引っ越してきたばかりで、こんな町で、たくさんの人の中で暮らすのが初めてなだけなんです」
「ああ。それは、本当だ」
「なるほど……イブキさん? 今日は学生証、持ち歩いているんでしょうね」
「ある。この間は、見せられなくて悪かったな」
 イブキはウエストポーチから学生証を取り出した。菰野先輩はそれが意外だったのか、少し拍子抜けしたように表情を緩める。
「小潮、衣吹……本当に、中学生みたいね。じゃあ改めて、あの林で何をしていたのか説明して貰えるかしら」
「話すことなんてないよ。あたしはアイと、あの山で遊んでただけだ。それをどうして、あんたはいきなりあたしを不良呼ばわりしたり、アイをあそこに行かせなくしようとしたりしたんだ?」
 イブキも一方的に悪者扱いされて、さすがに怒っている。菰野先輩の言い分はこうだった。
「放課後にあんなところに来るのに、学生証も持っていない。敬語もなし。反抗的な態度。それにあなたの中学は、この辺りでは一番、問題を起こす生徒が多いことで有名なの。深夜徘徊、暴力沙汰、お金のトラブル……よく聞く話よ」
 イブキの中学に関する話が本当でも、第一印象だけで不良と決めつけてしまうのは違う気がした。イブキ自身も、そこには強く反論した。
「だからって、あたしまでそうとは限らないだろ。確かにそんなやつは、いるかもしれないけどさ。話も聞かずに最初から決めつけるなんて、ひどくないか? あたしはあんたの方が、真っ当じゃないと思う」
「先輩。イブキは悪くありません。私があの林で寄り道をしていたのは悪くても、イブキが私を悪いことに誘ったとか、そんなことは全くありません。だから、イブキには謝ってほしいです」
 私も怖かったけれど、イブキを助けたい気持ちはぶつけるしかなかった。菰野先輩は一瞬、むきになったように唇を尖らせた。
「佳村さん。悪い交友関係っていうのは、簡単に人生をめちゃくちゃにしてしまうの。私が信頼してた先輩も、できの悪いやつと関わったばかりに……チャンスを失ってしまった」
 私を説得するためなのか、先輩の先輩の話が始まる。その語り口には、悔しさや憎しみが一瞬でわかるくらい、はっきりと込められていた。
「先輩は、良くも悪くも、分け隔てなく他人と接する人だった。その中に、隣の中学とか、向こうの高校の不良グループと関わりを持ってるやつがいてね。そいつは弱い立場だったらしいけど、万引きとかもしてたって言うし、明らかに先輩が関わるべきやつじゃなかった。先輩は成績も良くて、一番良い私立の推薦入試を受ける予定だったし、先生からの期待もあった。
 でもね、先輩は、そいつがそれ以上道を誤らないようにって、不良グループから抜けるように説得し始めた。ついには、グループの集まりに直接出向いたの。でも、そこで喧嘩になって、怪我をして……先輩は完全に被害者で、正義のために動いたのに! そういう事件に関わったことで心証を悪くして、推薦入試を受けられなくなったの。先輩がいくら主張してもダメ。理不尽だけど、大人の理解なんて、そんなものだったのよ」
 後でわかったことだけど、菰野先輩の話に出てきた先輩は前の風紀委員長で、優しそうな男の人だった。多分、菰野先輩はその人のことが好きだったんだと思う。
「二度と、先輩のように苦しんで報われない人を見たくない。私も、先輩と同じ轍を踏むわけにはいかない。どうすればいいかわかる? それはね、何も起こさないこと。危険には近寄らず、怪しまれるようなこともせず。ほどほど無難な成績を残して、褒められこそしても、絶対に大人の機嫌を損ねるような真似はしない。そのためには、余計な友情なんて、判断を狂わせるリスクになるだけよ。佳村さん。小潮さんとの関係が、本当に健全で、必要なものなのか……よく見つめなおしてご覧なさい」
 そうして早口に語る菰野先輩はとても辛そうで、私は怖さよりも、同情してしまう気持ちが優った。イブキも先輩の様子がかなり不思議な様子で、怒っていたのは忘れてしまったみたいだった。
「先輩の当たり前は、よくわかりました。先輩の気持ちもよく知らずに反発してしまって、すみません」
「アイ、別に謝る必要、ないんじゃないか?」
「イブキ。こういうときは、お互いに謝ってわかり合うんだよ」
「そうか。じゃあ、なんだ。あたしもいろいろ、悪いことしたかもな。ごめんなさい」
 二人で頭を下げて謝ると、息巻いていた菰野先輩にも、そのうち落ち着きが戻ってきた。
「それで、これからどうするの?」
 でも、先輩の言うことをそのまま全部呑み込むことはできない。イブキとの関係は、私にとって絶対に必要なものだった。
「私はイブキと出会わなかったら、あの林に隠れたまま、出てこられませんでした。それが当たり前だと思ったまま、変わりませんでした。今では、とても寂しいことだったと思います。
 イブキと出会って、私の人生も、少し変わったのかもしれません。でも、それは悪いことではないと思います。私には、何が良くて何が悪いか、まだよくわかりません。子供です。でも、その答えはきっと、人によって違うんです。だから教えられたままじゃなくて、自分で見つけないといけないんです。これもイブキと出会って、わかったことです」
 ここまではすらすらと出てきた。でも、まだ菰野先輩への答えには足りない。私がどうするのか。どうしたいのか。しっかりと伝えたい。
「だから……先輩には従えません。私はこれからも、イブキと友達でいます。もっと、二人でいろいろなことを知って、楽しく過ごしていきたいんです。私たちのことは、心配しないでください」
 先輩はまだ表情を変えない。私を試すように、一言。
「嘘はない?」
 先輩の目を見つめて、返す言葉は一つだけだ。
「はい。これが、私の答えです」
 すると先輩は、一瞬の間を置いて、私たちに微笑んで見せた。どうやら思いが伝わったらしい。
「……そうね。認める。私が押し付けて押さえつけても、あなたたちを幸せにはできない。ひどいことを言って、本当にごめんなさい」
「ありがとうございます!」
 私はイブキと手を取り合って喜んだ。それから、先輩とも握手をした。これで和解だ。
「後輩の中で一番素直で、よく考える佳村さんを、私は信じるから。頑張って」
「はい」
 先輩は、そう言い残して去っていった。その背中を見送ったあと、イブキが呟いた。
「わかり合うって、こういうことなんだな。ワカのこと、最初はちょっと嫌なやつに思えたのに、今はそうじゃない。こんなに気持ちが変わるのは、初めてだ」
「うん。私もだよ」


 夏休みが終わって、秋になった。学校が始まってからは、一週間に一度くらい、隠れ家でイブキと会っていた。もう「隠れ家」と呼ぶのは、相応しくないのかもしれないけれど。
「もうすぐ、学校祭があって……クラスの子と、グループで展示を作ることになったの」
「そうか。仲良くなったか?」
「うん。少しずつだけど、話せるようにはなってきた。テレビとか、おしゃれとか、食べ物とか、私はまだまだ疎いけど、夏休みにイブキと遊んだからかな。聞いた話は共感できるようになってきた」
「いいじゃん」
 お互い、ここには着替えてから来るようにしている。学校の荷物も持って来なくなった。宿題は、家でやるようになった。
「あとは……今、お母さんに教わって、夕飯を作るのを手伝えるように練習してるの」
「へえ。アイの料理、食べてみたいな」
「そのうち、ね。まだ下手だから」
 変わる。私は、まだ変わることができる。隠れ家に籠って立ち止まっていた分まで、変わっていくのが楽しかった。
 イブキも、だんだんとこっちでの暮らしに適応してきている。寒さにも慣れてきたらしい。
「あたしはさ、今ちょっと、上品な言葉遣いっていうのを勉強してるんだ。うるせー男子がいるんだよ。あたしのことオスだとか言いやがるから、見返してやるんだ」
「へえ。私とは、そのままでもいいけど……できるのは大事だよね、言葉遣い」
「例えば……そうだ」
 イブキの動きが、ちょっと固まった。何を言い出すかと思ったら。
「えっと……お手洗いに、いきたいです」
「それは、間違ってないけど……えっ、本当に?」
 最初にあった頃の記憶が瞬時に浮かんでくる。あれだけはやっぱり、イブキらしかったとは思いながらも、もうやめてほしい。
 それで狼狽えていると、今度はイブキが不意に笑いだした。
「なーんてな。ちゃんと家で済ませてきたよ。これはさ、夏休みに友達にも言われたんだよ。汚いって」
「うん……そうだね。いいと思うよ」
 平和だと思った。今、隣にいるイブキは、元台風。振り回されることもあったけれど、今は心強い追い風のように、私を支えて、前に進ませてくれる。
 放課後は、すっかり一人でいることが少なくなった。多分、これからも。また別の台風に遭っても、私は強く立って、歩いて行けると思う。

隠れ家の台風

隠れ家の台風

林の中にある、石造りの休憩所。誰も知らない場所。誰も知らない時間。 いつからか、それが当たり前だった。 あの日、私の前に「台風」が現れるまでは。 *この作品は諸々の配慮のため、「青年向け」指定としております

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-01-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted