ケセラセラ

ケセラセラ

第一章 『Shall we MANZAI?』

 おかっぱ頭にティアドロップサングラス、素肌にレザージャケット、短パン裸足といういで立ちの僕は、ステージ前を埋め尽くす観客を眺めた。僕が所属するお笑いサークル「笑う門にはカマラック」、通称「笑門」のライブステージは学園祭の目玉の一つだ。「これから面白いものを見るぞ」という期待と熱気を感じる。
 バックモニターに映し出された「山本スペシャル」の文字が、出囃子に合わせてビートを刻んでいた。出囃子がフェードアウトしていき、拍手が鳴りやんだ。
 心地よい緊張感が僕を取り巻く。毎月行っている定例お笑いライブとは比べものにならない規模に、下腹部がひゅんとした。
 僕はこころの中で「なんとかなるさ」と言い聞かせ、ネタに入る。
「どうも、山本スペシャルです」
 フリップをめくる。
 一回生の秋、僕は学園祭のメインステージの真ん中にいた。学内最大のイベントである学園祭では、大学敷地内の各所にさまざまなステージが設置されている。どのステージでも催しが時間を空けずひっきりなしに行われていた。メインステージはとりわけ、けた違いの賑わいがある。
 僕は一枚、また一枚とフリップをめくっていった。ネタの持ち時間は三分。三十秒たっても一分たっても、大した笑いは起きない。場の空気は最悪。脇で次に控える同回生のサークル仲間の顔がこわばるのも見えた。パラパラと観客が離れていく。
 ネタの途中ながら、僕は僕なりに状況を考えた。自分はトップバッターで、会場が温まっていないからウケていないのだと。さらに、僕のネタがシュールでわからない人にはわからないのだと自分に言い聞かせた。
 二分が過ぎた。ここまでのネタを回収して最後の大オチへ向かっていく。ようやく、少しの笑いや声が聞こえ始めた。それでも観客の流出が止まらない。別ステージで行われている軽音楽部の音ばかりが耳に届く。
 観客の中によく知った顔を見つけた。僕の恋人、アンだ。彼女は僕と目が合うと、手を振った。彼女はこの場にいる誰よりも大きな笑い声を出しているのが見て分かったが、ギターサウンドのほうが大きくて僕の耳までは届かない。
 最後のフリップを捲った。ささやかな笑い声が届いた。
「どうもありがとうございました」
 僕は深く頭を下げてステージを降りた。
 ステージ裏の控え室へ戻り、スポーツドリンクを喉に流し込んだ。十月だというのに日差しがきつく、額には汗も滲む。裸の上から着たレザージャケットが背中に張り付いて不快だった。控え室のテントの中のこもった熱気も最悪だ。
 控え室では、上回生たちがネタ合わせをしたり、スペシャルゲストの漫才コンビのお世話をしたりと騒々しかった。僕がネタを終えて戻ったところで、労いの言葉をかける者は一人もいない。
 落ち着かないので、控え室の外へ出た。中とは異なる騒々しさがある。学内ラジオや広報誌の取材が来ていたり、次のジャグリング同好会との最終調整をする学園祭実行委員会の姿があったりと、学園祭らしい活気に溢れていた。
 そのうちに、僕の次にステージに立ったコンビがステージを降りてきた。二人は僕に気付いていない。
「場の空気最悪。山本のせいで会場冷え切ってたわ」
「ほんま、それ。あいつのせいでウケるモンもウケへんかったし」
 自分の名前が聞こえて、僕は咄嗟に物陰に身を隠した。そうとも気付かない二人は、口々に僕を侮辱する言葉を並べていく。
「山本、ほんと面白くない」
「ほんま。あれでお笑いやってますとか、よう言えるわ」
「あれのせいで笑門の全員がレベル低いなんて思われるのは勘弁」
 僕の陰口で笑いながら、二人は控室のテントの中へ消えていった。
 ステージ上にいた時よりも強く自分のこころへ訴えた。あの二人にも僕の面白さがわからないのだと、あいつらの感度が弱いのだと。そうやって自分がスベっていたことを認めたくなかった。しかし、自分で自分を慰めることで情けなさが込み上げてくる。僕は人目を憚るようにステージを離れた。
 どこへともなく歩いているところに、後ろから声をかけられた。
「おつかれさま」
「ああ、アンか。見に来てくれていたんだ」
「見に来てほしいって言ったの誰だったっけ?」
 僕は肩をすくめて見せた。できるだけ、おどけてみせる。
「今日もきみが一番面白かったよ」
「ほかの連中のネタ見てないくせに」
 アンはてへっと笑って見せる。彼女が僕をからかう時にする表情だ。
 彼女はいつだって僕のネタを褒める。僕が誰よりも面白いと讃える。「きみはプロになれる」と言葉をかける。
 そして、「なんとかなるよ」と安心をくれた。
 それは僕がネタを作ってステージに立つための活力にもなっていた。それと同時に、年下だからって甘やかされているんじゃないかとも思っていた。
「今夜はどうする? ウチくる?」
「うん、アンの手料理食いたいし」
「わかった。それじゃ、わたしこれから店番だから、またあとでね」
 そうしてアンは来た道を戻っていった。彼女が所属するサークルの露店もなかなか忙しいのだそうだ。彼女を見送り、再び無意味に歩みを進めた。
 さまよった挙句に一つの校舎へ流れ着いた。校舎内へ足を踏み入れる。外とは違って、ひんやりとした空気が頭を冷やす。廊下を歩くだけで、次々にビラが手渡される。どの団体も、自分たちの催しに人を呼ぶのに必死だった。本当に面白いものならわざわざ呼び込まなくても人目にとまると思うと同時に、どんなに面白いものでも人目に晒されなければ意味がないとも思った。
 本当に面白いものとは何だろう。
 ふらふらと階段を上り、廊下を歩き、また階段を上り廊下を歩く。
 いつの間にか辿り着いた場所は、大講義室だった。ここも外のステージと同様に、数多のサークルの催しがある。
 講義室の外では、和装をまとった集団が呼び込みをしている。
 僕には行く当てがなかったので、何のステージが行われているのかも見ずに大講義室へ入った。
 講義室内の明かりは落とされていて、講壇にだけ照明が当たっている。照明のもとにあるのは、舞台中央の座布団とめくりだけだった。
 僕が隅の席に腰を下ろしたところで、笛や鼓、三味線の音楽が流れ始め、舞台袖から藍色の和装に身を包んだ男が現れる。
 ひまわりのような明るい黄色の和装を纏った女性がめくりを一枚、めくった。
――軟鉄断亭藍弗
 読めない。
 藍色の男は座布団に腰を下ろし、深々と頭を下げた。
「どうも、ナンテッタッテイアイドルです。本日は我々、落語研究会の寄席に起こし頂きましてありがとうございます。早速ですが、小噺を一つ」
 僕は、なるほど、と顎を撫でた。ここは落研のステージらしく、彼の名前は軟鉄断亭藍弗と言うらしいことに気が付いたのだ。
 なんて邪道な名前なんだ!
 こころではそう思いながらも、僕は初めて見る落語に若干の興奮を覚えた。藍弗氏は一人二役を器用にこなし、話しているだけで情景が浮かんだ。日本に古くから伝わるお笑いの一つで、由緒ある芸能だ。僕がやっているお笑いのルーツとも言える。
――それで、メスはどうしたんだ。
――黙って飛んできた。
 彼はまた深々と頭を下げた。
「ええ、これは鶴という演目です。うっかりものですね。さて、次はこんなお噺を」
 彼は普通の口調から一転、まったく違う人物が乗り移ったかのように噺を始めた。今度は男女の会話らしい。役が切り替わるごとに、藍弗氏は口調や声色だけでなく、仕草も変わった。それだけじゃない。目つきまでも変えて演じてみせた。
 僕はそれに見入った。誰もが一度は耳にしたことがありそうな演目を、藍弗氏は学生とは思えないほど演じきっていた。僕は本物の噺家の落語を見たことはないけれど、それに匹敵するのではないかと思うほどだった。
――また夢になるといけねえや。
 彼は再三の深い礼をし、舞台から去っていった。
 それを見るや、僕の行動は早かった。

   ◇

――また夢になるといけねえや。
 俺は深々と頭を下げた。それから学園祭の高座を降りて、ほっと一息ついた。観客の前に出て噺すのは初めてのことだったので、緊張から昨夜はよく眠れなかった。ようやく少し、気が楽になった。
 高座へ上がる前の緊張感や降りてからの充足感もさることながら、高座から見える観客の反応に快感を覚えていた。まるで自分が自分でなくなるような、演目中の登場人物が俺の身体に憑依したような、あの感覚を表現できないことにもどかしさを感じる。要するに、落語をすることで、気持ちよくなった。
 俺は一回生の中では唯一、学園祭の舞台に立つことができた。サークル創設以来、異例の事態であるそうだ。
 舞台袖から控え室へ入ると、同回生の三波彩香から声をかけられた。
「下村くん、今夜の打ち上げどうする?」
 彼女は中学生の頃からの友人で、高校も同じだった。高校時代は俺の所属する部活でマネージャーも務めていた。昔は下の名前で呼び合っていたが、今では「下村くん」「三波」と呼ぶ。
「俺は……行かない」
「わかった」
 答えを聞くや否や、彼女は他の部員との会話に高じ始めた。新歓コンパ、懇親会、定例寄席の打ち上げ、それら飲み会の類に参加したことは一度もなかった。
 慣れ合うつもりがなかった。大学で学ぶ、アルバイトで学費を稼ぐ、その合間の息抜き程度に考えていた落語にハマってしまった。メキメキと技術を身に着け、その実力は上回生から一目置かれていた。
 それだけ落語に熱中していた俺は、サークル内のなんとなくだらっとした空気、なあなあと慣れ合う雰囲気が馴染まなかった。
 自分が周りから「人付き合いが悪い」「ノリが悪い」と言われていることくらい知っていた。「技術はある」と褒めてくれる人がいたことも知っている。ゆえに「技術があるから天狗になってスカしている」という声も耳に入った。着々と居場所を失っていっていた。
 二回生になれば今以上に実習が増える。落語に費やす時間はさほどない。
 学園祭のステージを最後に落研をやめようとも考えるようになってからは、なおさらサークル内でのコミュニケーションが減った。
 俺はそそくさと帰り支度をして、控え室を去った。

   ◇

 僕は大講義室から出て、呼び込みをしている落研部員を捕まえた。
「すみません、藍弗氏に、軟鉄断亭藍弗くんに会わせてくれませんか」
「なんてつ……嗚呼、一回生の下村くんのことか」
 僕は初めて彼の本名を知った。下村というらしい。
「そう、下村くんに。彼の友人の山本です」
「友人ってことは君も一回生かな。終わってすぐだからちょっと厳しいと思うよ」
「そこをなんとか」
 僕は食い下がった。急ぎの要件があるという体を装って押し通そうとしたところで、件の下村が現れた。今終えたばかりだというのに、すでに着替えを済ませている。
 僕は彼の前に立ちはだかった。
「待ってくれ、アンダーソン」
「アンダー? なんやって?」
「アンダーソン、僕は笑門の山本スペシャルだ」
「なんや、だだスベり芸人か。見てたで、お前のステージ。で、なんなん、アンダーソンって」
 僕はぐいっと胸を張ってみせた。開け放たれたレザージャケットからあばらの浮いた貧相な胸板が露になり、汗が冷えた。
「僕のステージを見て頂けて光栄だよ、アンダーソンくん」
「その変なあだ名やめろや」
「下村だから、アンダーソンだ」
「わかった、俺はアンダーウェアでもアンダーヘアでもなんでもええわ。で、スベリの山本が何の用?」
 彼は面倒くさそうな顔をする。担当直入に切り込もうと、僕は用意していた言葉を言うために深呼吸をした。
「僕とコンビを組まないか」
「組まない。じゃ、そういうことやし」
 あっさり。軽く手を上げ、下村は山本の脇をすり抜けて立ち去る。僕はくるりと転回し、負けじと下村を追った。
「頼むアンダーソン。僕とコンビを組んで、お笑いのてっぺん目指そう」
「俺、そういうんとちゃうし」
「アンダーソンだって落語やっているくらいだ、お笑いには興味はあるんだろ?」
「だから、俺はそういうんとちゃう」
「なぜだ、アンダーソン」
 それまで大股で歩いていた下村が急に立ち止まって振り返った。突然のことだったので、僕は下村に衝突した。そのまま押し倒してしまいそうなところを、僕は手を回して下村を抱き寄せた。
 そばを通った女子学生が悲鳴とも歓喜ともとれる声を発する。
 見つめ合うかたちになった。下村はごくりと唾を飲んだ。みるみるうちに下村の額の汗が量を増して流れる。
 僕はそっと目を閉じた。下唇をちょこんと突き出して、じわりじわりと下村に接近する。耐えかねた下村が、「何してんねん」の怒声とともに僕を背負い投げにした。
 背中から地面に叩きつけられた僕は、痛みを堪えて言った。
「いい技持っているな、アンダーソン。いいツッコミだ」
 僕の台詞を聞き終える前に下村はスタスタとそのまま歩き去る。砂を払って立ち上がった僕も意固地になって追いすがる。
「なあ、アンダーソン。そのキレッキレの背負い投げをステージの上でやってみないか」
「いやや」
「それなら、きみのやっている落語と僕のフリップ芸を融合させてみよう」
「いやや」
「ならば、アンダーソン」
「アンダーソンアンダーソンうっさいな。俺はアンダーソンじゃない、下村だ。タイチだ。太いに一で太一だ」
「ファットワン=アンダーソンよ」
「いい加減にせえ。いてこましたろか」
 下村は僕の胸倉を掴み、今にも殴りかかりそうに拳を振り上げた。悪鬼の形相に、さすがに僕もひるんだ。
「わかった、わかったよ下村。下村って呼ぶから、少しだけ僕の話を聞いてくれ」
 下村は僕を開放した。首元がすうっとした。
 彼は僕と目も合わせず、再び速足で歩き始める。
「お前が話すのは勝手やし、俺は何があってもお前とコンビは組まへん。勝手にせえ。ただな、俺はこれからバイトがあるし、急いでいる」
「それはありがたいお言葉、まことに僥倖。僕と下村の持つものを融合させたら、絶対に面白いと思うんだ」
 下村はうんともすんとも言わずに歩いた。時折、時間を気にし、何か独り言を呟いていた。
 正門から東山通に出た。行き交う市バスに反射した夕日が眩しい。
「ちょっと急ぐ」
 僕に目もくれず、下村はさらにピッチを速めた。下村より背の低い僕は、ほとんど小走りでそれを追った。
 市バスに乗り落ち着いたところで、僕は下村へネタのプランを語る。
「きみが落語をしている横で、その情景を僕がフリップにしていくんだけど、そのフリップの絵っていうのが、ちょっとずつおかしなところがある。どう?」
「それ、おもろいか?」
 ずばり、だった。僕は返答できない。今までも周りから僕のネタについて疑問や批判は耳にしてきた。それとは違うダメージを負ったように感じた。好きな人に彼氏がいるとわかったときのような感情に近かった。
 ここで負けてしまっては下村とコンビが組めない。反論材料を探したが、「なんとかなる」と言うのが精いっぱいだった。
「なんとかならんことも、あんねん」
 それもずばりだった。
 上終町でバスを降りて、北白川にあるマンションのエントランスへ着いたところで、下村が「じゃ、ここまでだから」と言った。僕には意味が分からなったが、それを汲んだ下村の「俺、家庭教師」の一言で理解した。家庭教師界隈では京大生というだけで時給が上がったり、もてはやされたりするのだとか。
 ガラス扉の向こうへ消える下村を見送った僕は、手持ちが無沙汰になってしまった。
 このまま諦めて下宿に帰ろうとも思ったが、帰って一人になるとどうしても自分の悪評を思い出してしまいそうだ。そんな時は、いつもアンが僕を励ましてくれていた。彼女が「なんとかなる」と言ってくれるだけで、本当に「なんとかなる」という気が沸き起こる。
 今から彼女の家へ行こうかと思ったが、まだ早すぎる。彼女も自身のサークルの後片付けなんかで遅くなるに違いない。
 夕日が西山へ沈んで行くのを眺めながら、僕は何をしようか決め切れずにいた。

   ◇

 俺が北白川の女子高生へ英語を教え終えてマンションから出ると、カーブミラーに寄りかかっている山本の姿が目に入った。うげっ、と口から洩れた。あいつまだ居やがる、というのが最初の感想だった。
 昼間かけていたダサいサングラスはなく、思っていたよりも堀の浅い目元が見える。京都水族館で見たオオサンショウウオのような顔。
 あいつは手にした手帳を般若のような形相でにらみながら、しきりに何かを書いていた。
 俺はできるだけ気付かれないようにその場を去ろうとしたが、運の悪いことに、般若が顔を上げた。
「待っていたよ、アンダーソン」
「だから、それやめろや。なに、お前はずっとここで待っていたんか」
「違うと言ったら嘘になる」
「めんどくさい言い方すな。なんやねん、ストーカーやん」
 山本は不敵な笑みを見せながら「そうかも知れない」と言う。街灯に照らされた彼の顔が甚だ気持ちが悪かった。オオサンショウウオが環境破壊や乱獲を恨んでいるのなら、こうやって化けて出てくるに違いない。
 帰路に就く俺のあとを、山本は当たり前のようについて歩いた。
「俺、もう帰るし」
「それならちょっとお邪魔させるのも辞さない」
「実家やし」
「お姉さんにご挨拶を」
「一人っ子」
 山本は、負けた、という顔をする。俺は、してやったりという気持ちになったが、このやりとりを楽しんでいるように感じるので不服だった。俺はそうじゃない、と脳内で繰り返して言い聞かせる。
 自宅へ向かっている間も、山本は自分の考えたネタを話しては「コンビを組もう」と言う。バカの一つ覚えに、俺は「いやや」と、こちらも馬鹿馬鹿しいくらい同じ言葉で返した。
「お前はどこに住んでんの?」
「僕は寮だ。熊野」
「逆方向やん。俺んちこの辺りやし、熊野寮からはけっこう遠いからもう帰れよ」
「バスがある」
 こころの中で舌打ちをした。さっさと帰れと毒づくが、どうせ実家を前にしたら勝手に帰るだろうと考えていた。
 その予想は裏切られることになる。
 「コンビを組もう」と「いやや」の一歩も引かぬ攻防の末、なんだかんだで自宅へ着いてしまった。俺は、ここで山本が諦めて帰ると高をくくっていた。俺は、断り切れない自分の性格を恨んだ。先ほどは胸倉を掴んで暴力的手段を講じたが、自分らしくなかった。
 山本はなおも「コンビを組もう」と懇願した。実家の玄関先で大声を出すなと言ったが、遅かった。突然開かれた扉からは、俺の母が顔を出していた。「おかん」や「母ちゃん」よりも「ママ」が似合う風貌だとよく言われる。それでも俺にとっては「おかん」がしっくりくる。
 十八歳の息子がいるとは思えないとも言われた俺の母親に、山本は見惚れた。
「タイチ帰ったんか。あら、お友達?」
「はい、山本と言います。タイチくんには大学でいろいろお世話になっています」
 俺はすかさず「嘘をつくな」と糾弾したが、会話は完全に二人のペースになっていた。俺の叫びは届かない。
「山本くん、どうも、タイチの姉です」
「おかん、余計なこと言うなや。それと、その外向けの高い声やめろって。山本も、ほんまにもう帰れって」
「タイチ、山本くんせっかく来たんやし、上がって行ってもらったらええやん」
 母は玄関扉を大きく開き、手招きをして山本を家に上げようとする。
「こんなやつ、部屋に入れたないわ」
「お母さま、ありがとうございます。それではお邪魔します」
「勝手に入るな」
 結局、山本はなし崩し的に俺の部屋へ転がり込んでしまった。やつは図々しくでんとあぐらをかき、部屋を見回した。俺の部屋にあるものと言えば、昔飼っていたゴールデンレトリバーの写真、医学の専門書、バスケットボール、トロフィーや賞状の数々。
「アンダーソン、学部どこだっけ」
「もうええわアンダーソンで。医学部。お前は?」
「僕は、ノースキャンパスだ」
「すっと言えや。農学部ってことな」
「そういうこと」
 山本は腕を組んで、うむと頷いた。山本の言動、行動の一つ一つを面倒に感じながらも楽しんでいように思えて、俺は悔しかった。こいつの見え見えなツッコミ待ちの言動にツッコミを入れていくことが、心地よくも感じていた。まるで、ジグソーパズルの最期のピースのように、ピタとはまるような感覚がある。俺はそれを認めたくない。
「アンダーソン、バスケやっていたのか」
「せやで。インターハイで準優勝」
「すごいじゃないか」
「まあ、過去のことやし」
 過去のこと、というのは事実だった。高校二年のインターハイを最後に、俺はボールには触れていない。
 俺がバスケの話をどう逸らそうかと考えていたところで、タイミングよく部屋の扉を誰かが叩いた。返事をする間もなく、母が顔を出した。
「タイチ、邪魔するで」
「邪魔するなら出て行ってや」
「じゃあ、出て行くわ」
「おいおい、おかん、ちょっと待ってや。何用や」
「山本くんにジュース持ってきたから、二人で飲んでや」
 もう子供じゃないんだから友達が来たくらいで構わないで欲しい。まるで小学生じゃないか。
 お盆に乗った飲み物とお菓子を受け取り、おせっかいな母を部屋から追い出した。
「アンダーソンファミリーって、なんだか新喜劇みたいだな」
「恥ずかしいからやめろ」
「アンダーソンには、根っからのお笑いの血が流れているんだなあ。さすがカンサイジン」
「関西をひとくくりにするな」
「アンダーソンはずっと京都に住んでいるのか」
「もともとは大阪」
 山本は「本物のカンサイジンだ」と喜ぶ。こいつの中では、大阪人と関西人がイコールになっているらしい。関西出身ではなさそうな山本は、京都、大阪、兵庫、その他の県に古来から存在する関西カーストなど知らないのだ。
「カンサイジンって、みんな面白いんだな」
「関西人って言うな」
「オヤジさんも面白いのか」
「おとんは、いない」
 山本が「やらかした」という顔をするのを、俺は見逃さなかった。事実を告げただけだけど、相手に変な気を遣わせてしまった。俺は、別に気にしてなんかいない。
 再び扉をノックされた。返事をしなくても母が入って来る。
「なに」
「山本くん、夕飯食べてく?」
 山本はすっと立ち上がり、ホテルマンのように綺麗に背筋を伸ばした。
「はい、頂きます。お母さまの手料理を食べて、面白いネタ考えます」
「ネタ? あら、なに、二人でお笑いコンビ組んでんの?」
「はい、彼がツッコミで僕がボケです」
「そうなんや、ネタ楽しみにしてるわ」
 俺が口をはさむ間がないくらい、二人は勝手に会話を進めた。山本は夕飯食べていくらしいし、勝手にコンビを組んだことにされてしまった。拒むのも面倒になり始めていた。
「わかったよ、山本。俺と組もう」
「よくぞ言ってくれたよ、アンダーソン」
 ここでは折れるが、一つ条件がある。
 引き受けてしまった以上、中途半端にはできない。それが俺の性分だった。ぐだぐだとした「漫才ごっこ」にしないためにも、山本と取り決めをする必要がある。
 それを、ここでしっかりと伝えなければならない。
「ただし」
「ただし?」
「来年の学園祭までの期間限定だ」
「ちょうど一年か」
「俺、実習とかあるし、あんま時間ないけどな」
「大丈夫だ、なんとかなる」
 山本はそう即答した。なんの根拠も見えない「なんとかなる」という言葉。
 俺は「なんとかなるのか」と、疑問が拭えなかった。

   ◇

 俺たち母子、山本の三人という妙な組み合わせで夕飯を食べたのち、二人の打ち合わせが始まった。
「グルコサミンブラザーズ」
「ない」
「乳と尻」
「却下。俺は脚派やし」
「おお、なんか変態っぽい。本能寺らへん、どう?」
「なんか違う」
 山本は頭を掻きむしる。おかっぱ頭が乱れて、呪いの人形のようでもあった。一度は外していたサングラスをいつの間にかかけていたし、相変わらず裸体にレザージャケットと短パン裸足のままだった。俺にはむしろこの姿がしっくり来ていて、外を歩いている時に山本が靴を履いていた姿が逆に滑稽に見えたほどだった。
「なんだよ、アンダーソンがコンビ名は何でもいいって言ったんじゃないか」
「なんでもええとは言うたけど、なんかもっとマシなんあるやろ」
「硝子の少年」
「なんか恥ずかしい」
 ビシッ。山本が勢いよく俺を指さす。探偵ドラマなどで見る「犯人はあなたです」のシーンのようだった。眉間に向けられた指先に、俺はゾクッとした。どうやら、俺は先端があんまり得意ではないらしい。
「逆に、アンダーソンは何かあるのか」
 そうだな、と辺りを見回して考える素振りをする。俺としては、本当に何でもよいと思う反面、これだ、と思える決まり手が欲しかった。
 部屋の中にあるものといえば、バスケットボール関係、十五歳の頃に死んだ愛犬の写真、医学書や教科書類、その中にもピンとくる単語は見つからなかった。
 山本もコンビ名に使えそうな単語を探していた。ここまで山本が一方的に話し続けるような状況だったので、山本はひどく喉が渇いたらしい。飲み物を注ごうと手を伸ばす。
 その手の先に、俺の目が留まった。
「これにしよや」
「これ?」
 俺は山本が手にしたボトルを指さす。パッケージには、みずみずしいオレンジのイラストが描かれていた。
――すっきり絞ったオレンジ
 語呂がよかったとか、カッコイイとか、覚えてもらいやすいとか、そういう根拠となるものはなかった。ただ、なんとなくと言うのも憚られたので、それっぽい理由をつけてみる。
「俺らの持っているものを、全部絞り出してやろうぜ」
「よし、じゃあコンビ名はこれにしよう。ネタはやっぱり、きみの落語と僕のフリップでさ」
「フリップだなんだっていう、こざかしい小道具は要らん。ビシッとスーツ着て、マイクスタンドの前に立とうや」
「つまり」
「俺らはべしゃりでいこうやないか」

   ◇

「だよねー、だよねー」
「そやなー、そやなー」
「言うっきゃないかもね」
「言わなしゃあないな」
 下村と僕は、歌詞の異なる同じ曲をぶつけ合った。標準語で歌われる「だよねー」と関西弁にアレンジされた「そやなー」が同じメロディーで凌ぎを削る。サビ以外のところは歌えないので、延々と同じところを繰り返した。僕がボリュームを上げれば、下村も大声で応戦し、下村の声が裏返れば、僕はバカにするように真似した。
 いよいよ息も上がって疲れた。しだいに二人の声は弱まり、途切れた。
「これじゃいつまで経っても出囃子が決まらないじゃないか」
「そやなー。どちらかが諦めなあかん」
「だよねー」
「そこは、そやなー、やろ」
「いや、だよねー、でしょ」
 なにくそ、という顔をして、下村が再び歌い始める。「そやねー、そやねー」と繰り返すが、僕はふと思いついた。手のひらを向けて下村を制止する。
「間を取ろう」
「なんやねん、間って」
 僕は携帯電話をぱちぱちと操作した。
――だべさー、だべさー。言えばいっしょやさ、そんな時ならさ。
「なにこれ」
「DA.BE.SA」
「なんやねんそれ」
「間を取って北海道バージョン」
「東京と大阪の間はせめて名古屋やろ」
 僕は「だべさ」の響きの垢抜けなさや芋っぽさが自分たちに合いそうだと思ったのだ。
「そもそも、出囃子なんて今じゃなくてもええやろ」
「こういうのは形から入るのが大事なんだよ、アンダーソン」
「いい加減、ネタの打ち合わせしよや」
 いよいよ、と二人とも前傾になったところで、僕の携帯電話が鳴った。
 画面に、アンと表示されていた。僕はアンの家へ行くことを思い出した。時刻はすでに夜の十一時を回っていた。
「もしもし?」
――もしもし、今日来ないの? わたし先に食べちゃったよ?
「ごめん、アン。今日はネタ作りに集中したいから行けないや」
 沈黙。そばにいる下村にはアンの声までは聞こえないだろうが、何やら不穏な空気に居心地が悪そうにして視線を泳がせていた。
――わかった。ネタ作り頑張ってね。
 ぷつり、と通話は終わった。僕のこころの中に、何か取り返しのつかないことを言ってしまったのではないかという不安が押し寄せた。自分のネタを面白いと言ってくれるアンのためにも、下村と面白いネタを作ってアンに見せてやりたい、とも思った。
「良かったんか?」
「ああ、大丈夫だ。さあ、ネタを考えよう」
 僕ら二人は真っ白な紙を机に広げ、ペンを片手に頭を寄せ合った。
「俺が今考えているネタはこうや……」
 こうして、僕と下村の二人は出会ったその日のうちに「すっきり絞ったオレンジ」としてコンビを組んだ。

第二章 『Laugh & Peace』

俺ら二人は二回生になった。
 ほぼ毎日、ネタの打ち合わせや練習をした。医学部の俺は授業や実習が忙しくなり、アルバイトもあったので、ネタ合わせはその合間に行われることがほとんどだった。
 午後の実習終わりからアルバイトまで、一時間ほど余裕があった。実習が終わるや否や、山本と合流して哲学の道の道中にあるベンチでネタ合わせをした。雨の日は白川通沿いのカニ料理屋の駐車場で特訓した。そうして、バスで上終町へ向かい、ギリギリでアルバイト先に滑り込む。
 縁起が悪いので、言い直させてもらう。
 ギリギリでアルバイト先に間に合わせた。
 山本は山本で、ボケとして使えそうな小ネタを拾ってはメモしていき、打ち合わせに持ち込んだ。
 俺のアルバイト終わりにも、再び山本と合流する。正確には、俺は自宅に帰るだけ。帰宅すると、自室には図々しく山本が鎮座していた。
 俺の自宅でネタ合わせをすると、必ず母がネタを見て「山本くん、ちょっと今のおもんないわ」と厳しい評価もした。
 そうやってバタバタと大学とアルバイト先と自宅の間を忙しなく行き来しているうちに期末テストを迎え、あっという間に夏休みに入ったと思えば、瞬く間に過ぎていった。
 夏休み明け、学園祭のタイムテーブルが決定された。細かな変更があるものの、おおよそはそのままでいく、ということらしい。
 俺らは学生食堂の席で紙面に目を落とす。『十月祭タイムテーブル』の文字がでかでかと記された表紙を、山本がめくった。
 まずは、当日までの予定が表にしてまとめられていた。二週に一度行われる代表者集会、学園祭直前の前日集会、設備申請書類提出期限日、などが並ぶ。
 もう一枚めくる。
 ようやく、三日間行われる学園祭の、一日目のタイムテーブルが現れた。
 そこにいきなり、自分たちのコンビ名が書き記されている。
「一日目日や」
 俺は呟く。山本は「金曜日かあ」とため息をついた。一応、二日目、三日目も見てみる。学園祭が盛り上がる土日の欄には、自分たちのコンビ名はなかった。
それだけではなかった。
「なあ、アンダーソン。これは昼飯時じゃないか」
 俺は左わきに並んだ数字を目で追う。十二時十分。それが俺らの出番の時刻だった。
「最悪や。客はみんな、食べ物の露店に並んでる時間やろ、これ」
 二人の間にどんよりとした空気が漂う。嫌な沈黙があった。
 山本はがたがたと大きな音を立てて席を立った。
「ちょっと、実行委員室行ってくる」
「行ってどうするつもりや」
「何か理由があってのことなら理由を聞く、そうでなければ、変更を懇願する。なんとかなるさ」
 俺は、山本の行動力に感心した。彼が俺をコンビに誘った時の行動力もさることながら、俺にはない何かを持っているようだった。
「俺も行く」
 俺らは連れ立って、実行委員室へ向かった。
 扉には「定例会議中」と書かれた札が下がっていた。俺らの「実行委員会室襲撃作戦」はいきなり壁にぶち当たった。
「定例会議中やて。御用の方はどうしたらええと思う?」
「正面突破じゃなかろうか」
 思わず「おお」と漏れた。俺には到底できないことを、山本はさらりと行動に移すのだ。
「段取りは、どうするんだ」
「安心しろアンダーソン、なんとかなるさ」
 なんとかなるとは思えなかったが、彼は勢いよく扉に手をかけた。
「いざ」
 山本は勢いよく扉を押した。開かなかった。へへへと笑って見せる。俺も、へへへと気味悪い笑顔を見せる。今度は強く引いてみる。開かない。山本は再び、へへへと笑う。俺も一応、へへへとする。
「こうかな」
 山本はシャッターを開くように下から持ち上げてみた。
「開店ガラガラなわけあるか」
 俺のきつめのツッコミが飛んだところで、扉が横にスライドして中から女性の顔がひょっこり出てきた。扉は引き戸だったらしい。
「すみません、会議中なのでお静かにしてもらえませんか」
「ちょうどいい。そちらさんに用があったところです」
「すみません、会議中で」
「お邪魔します」
 お構いなしに足を踏み入れる山本に対して、俺は驚きの色が隠せなかった。隠そうともしなかったし、隠すことも忘れていたというのが本当のところだ。俺は山本のあとに、それとなく続いた。
「邪魔するで」
 山本は腕を組み、仁王立ちで実行委員に向かい合った。今にも物申す威勢を感じた。
 威勢のない俺は、丸めて持ってきていたタイムテーブルを広げ、自分たちの出番を指さす。
「実行委員さんたちにお伺いする。僕らの出番が昼食時の三分間とは、これ一体、どういうことだろうか」
 山本が高らかと声をあげた。隣で俺はもじもじとしてしまう。もう、山本に合わせるしかなかった。
「せや、どうなっとんじゃ」
 声が裏返った恥じらいがあったが、威勢を保つために睨みを利かせる。これじゃあ、恐怖や不安で吠える小型犬じゃないか。チワワか、俺は。
 幸い、山本がすぐに続けてくれた。
「昼飯時は最もステージが閑散とする時間じゃなかろうか」
「せやせや、もっと言うたれや」
「しかも、三分後には次の前衛舞踏研究会のステージが始まる。こんな短い時間で僕らのネタが」
「せや、前衛舞踏ってなんやねんコラ」
「アンダーソン、ちょっとうるさい」
「おう山本、もっと言うたれや」
「いや、アンダーソン」
「なんやねん」
「きみがうるさいんだ」
「俺か。俺がうるさいことあるか。こんなタイムテーブルで黙っていられるか」
 俺らのやりとりを刺すように実行委員たちの白けた視線が取り巻いた。さすがに俺も視線に気が付いて、萎縮してしまう。
「すみません。お二人は一体、何をしに来たのでしょうか」
「僕らは、一日目に出演予定の『すっきり絞ったオレンジ』という漫才コンビです」
「はあ」
 はっきりしない相槌だった。俺らの知名度が低く、タイムテーブル作成時にもよっぽど印象に残らなかったらしい。この場にいる実行委員全員が手元にあったタイムテーブルをパラパラめくって、俺らの名前を探した。それから、「ああ」とか「見つけた」といった声が聞こえてきた。
「つまり、俺らの出番を伸ばして欲しい、アンド、もっと客入りが良い時間に変えてもらいたいんや」
 奥の席で責任者と思しき女性が立ち上がった。上回生らしい落ち着きがある。笑っていないのに片側の頬にエクボを浮かばせていた。
「どうも、実行委員長の中村華と申します。お二人のお話はわかりました」
「それなら、持ち時間延ばしてください」
「それはできません」
 山本は「なんでですか」と言いながら彼女ににじり寄る。あんまり近づくとセクハラになってしまわないか、俺は少しひやひやしていた。
「今年もたくさんの方がステージに立ちます。一組一組の持ち時間が少なくなってしまうのは仕方ないことなのです。それに」
 それに、と聞き返す俺らの声が重なった。気持ちが悪いなあという感想が浮かんできたが、何も言わずに中村氏の言葉を待つ。
「お笑い枠としてはすでに笑門がありますし、他にもお笑いサークルはいくつもあります。それぞれの団体の人数や集客力、注目度などに応じて、適正に時間を決めたつもりです」
 彼女は「適正に」の部分を強めた。要するに、俺らには知名度がないので時間を割けないということを言いたかったのだ。
「なんやねん、二人だけじゃダメなのか、無名のコンビじゃダメなのか」
 彼女は静かに頷き、これ以上言うことはないとばかりに「お引き取りください」と告げた。
 その冷ややかな圧力によって、俺らは逃げるように学園祭実行委員室を出るしかなかった。
 扉の前で立ち尽くす。
 俺は山本の顔を伺った。山本ならきっと、すぐに次の行動を起こすだろうと思った。先ほどのように「なんとかなるさ」と根拠のない自信を見せると期待していた。
 ところが、意外にも山本は「どうしよう」と呟くだけで、どこか遠くを眺めている。
「とりあえず、ネタ合わせしよや」
「そうだな」
 俺らはとぼとぼと歩き、俺の家へ向かった。
 結局、タイムテーブルに変更がなされることなく、学園祭の当日へと時間が過ぎて行った。

   ◇

 学園祭の前日。在校生たちは授業中には見せない活き活きとした面持ちで、溌溂と準備に励んだ。グランドにはメインステージが設置され、各講義室には装飾が施され、正門から溢れるほどに露店のテントが立ち並ぶ。ホームセンターで購入してきたベニヤにペンキで看板をこしらえる者、展示物を大人数で運ぶ者、ただそれを眺める者。飲食物の露店では、だいたいトラブルが起きる。味見と称して食べ過ぎてしまい、材料が足りなくなる。
 そんな連中を傍目で見ながら、僕ら二人はメインステージの設営状況を見ていた。照明やバックモニターはまだ設置されていないが、おおよその広さはわかる。
「イメージトレーニングをしよう」
「せやな」
 メインステージの前に並ぶ。僕の左には下村。つまり、観客から向かって右に下村、左に僕。
「はいどうも~」
「すっきり絞った!」
「オレンジです!」
「俺が下村で」
「僕が山本です」
「二回生の二人でやらせてもろてます」
「今日は、そんな僕たちの顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と気持ちが落ち込んだ時のリフレッシュ法だけでも覚えて帰ってください」
「多いな。なんやねん、最後の落ち込んだ時のリフレッシュ法って。勝手に落ち込んで勝手にリフレッシュしてろや」
「いや、僕ね、最近落ち込んだことがあるんですよ」
「なんやねん、急に」
 僕の気持ちがノッってきた。室内で練習している以上に解放感があった。スコーンっと声が突き抜けて行くように心地よい。ネタ合わせに通っていた哲学の道とも異なる、果て無く高い秋空だった。
 明日は背後にあるステージの上から、ここを全部眺めてネタができる。隣にいる下村も胸の中では高揚していることが、声を聞けばわかった。
 いつも以上に声が出る。心地よい汗が出る。台本を頭の中で読むように喋っていた今までとは違う。自然と、口から流れ出た。それぞれが思い付きでアドリブを入れても、うまく対応できる。
 いよいよ大オチ。ここでビシッと決まれば、明日も怖いものなんてない。
「はい、すみません、どいてください。メインステージの設営しているので、離れてください」
 急に水を差されてしまった。学園祭実行委員会とステージ設営業者に追いやられてしまった。
 突然、夢から覚まされたような、四コマ漫画の四コマ目が破れて読めない時のような、プロ野球のテレビ中継が放送時間の都合で終わってしまったような、そんな感情だった。明日に向けた自信は、掴みかけて手元をすり抜けていった。
「仕方ない。なんとかなるさ」
「せやな。ビラの印刷いこか」
 僕らは大学生協のコピー機を独占してビラを印刷した。一人五百枚。カラー印刷で目立たせた。痛い出費だった。
 学内の掲示板や廊下にビラを貼って歩いた。学外へ飛び出し、近隣の定食屋、吉田神社、バス停のベンチにも貼って貼って貼りまくった。
「じゃ、俺は配り終わったらそのままバイト行くし。終わったら連絡するけれど、先に店に入っててくれや」
「わかった。本日もお勤めご苦労。じゃあ、また後ほど」
 僕らは、今夜二人で行う決起集会の予定を確認して、二手に分かれた。
 隙間があればビラをねじ込むように、僕はビラを貼っていく。壁だろうが並木だろうが放置自転車だろうが、関係なく貼っていった。
 僕がいそいそと農学部校舎に隙間なくビラを貼り尽くしていると、アンが現れた。
「おや、アン、明日の準備?」
「私たち院生はもう引退しているから、後輩たちの様子見に来たの。ビラ貼りしてるんだね」
「うん。僕のネタを見てもらうためには、これが効果的だと思ってね」
「そうなんだ」
「実は、すでに少し緊張をしているんだ。お客さん、来るかな」
「きっと、たくさん見に来てくれるよ。私もサークルの子たちに宣伝しておくね」
 そう言ってアンは僕の手からビラを少し取った。ふむふむと眺めて、満足そうな顔をして頷く。
「これならきっとみんな気になって見に来てくれるね。じゃあ、わたしはこれをもって後輩たちのところに行ってきます」
「ありがとう。また連絡するよ」
 アンは可愛らしく手を振った。年上なのに年上っぽくない無垢さが、僕は好きなのだ。
 アンの短い髪からは、ほのかにシャンプーの匂いが香った。いつもの甘い香りではなく、僕が自室で使っているものと同じ爽やかな匂いだった。彼女はシャンプーを変えたらしい。
 彼女が髪を揺らして駆けていく後姿を愛おしく思いながら眺めている。その時、確かにそこにあった違和に、僕は気付きもしなかった。

   ◇

 山本と別れたのち、俺は残る百枚をどこに貼るか悩んでいた。おおよそ、目につくところには俺らのビラがある。他に貼るべき場所はあるだろうかと逡巡していると、声をかけられた。
「下村くん、久しぶり」
「おう、三波か。久しぶりやな」
 落研メンバーと会話するのは久しぶりだった。
 これまでも、落研メンバーと学内ですれ違うことはあったが、誰も俺に話しかけてはこなかった。
「一年ぶりくらいだね。去年の学園祭が最後だったから」
「せやな」
 昨年の学園祭翌日の後片付け時に、俺は部長に退部の意向を伝えた。理由は「学業との兼ね合いが難しい」と伝えていた。部長はそれ以上、何も聞かず、俺の退部が受理された。
「下村くん、落研に戻る気はない?」
「ない」
 俺はできるだけきっぱりと伝えた。部員と迎合せずにやめていった俺を、他の部員が認めるだなんて思えなかったのだ。
「夏にやった定例寄席にね、下村くんのファンだってお客さんが来てたんだよ。去年の学園祭で見てから、気に入ったんだって」
 それは、そのお客さんに申し訳ない、と思っても落研に戻ろうなんて気持ちにはなれない。あそこに、俺の居場所なんてない。こちらの事情や想いも知らずに陰口を叩いて、くだらない仲間意識で慣れ合う連中と、俺は混ざり合うことなんてできない。
「わたしは、下村くんの落語が好きだったなあ」
「それは、ありがとう」
 これには少しだけこころが揺らぐ。俺も男なのだとこころの中で苦笑する。落研に戻らずに三波と接触する方法はないか、とまで考えてしまった俺は手の施しようがなく単純だった。
「ちょっと、吉田神社、いかない?」
「いや、あそこは落研の連中おるやろ」
「大丈夫。今日の声出しはもう終わったから」
 落研の一回生は、吉田神社で声出しをするのが日課になっている。厳しい上回生の指導のもと、「キャンパスに声を届かせるイメージで」発声練習をさせられる。
 断り切れず、歩き始めた三波の隣を並んで歩いた。
 歩き始めてほんの数分で吉田神社に到着した。落研を辞めて以来、実に一年ぶりの吉田神社の石段を登る。
「三波は、名前もろたんか」
「うん、わたしは吉村家の真中先輩から『八代目面堅』をもらったよ」
「軟鉄断亭は、どうなった」
 彼女は少し言いにくそうにして、下を向く。
「軟鉄断亭は、なくなっちゃった」
「そうか」
 俺はそれしか答えられなかった。
「下村くん、辞める時って、いつも急なんだもん。バスケ部だってそうだったし」
「特に理由なんてないけどな」
「そんなの嘘」
 彼女は俺の顔を見た。俺のこころを見透かす、というよりも、俺のことを知っている目だった。
「二年生でインターハイメンバーに選ばれたのに、大会が終わってすぐ辞めちゃったでしょ。やっぱり、お父さんのこと?」
 かつては下村家と三波家では家族ぐるみでの付き合いもあった。隠すほうが難しい。それでも俺は、本当のことを言うつもりはない。
「そんなんじゃねえよ。バスケに飽きただけ」
「また嘘言ったね」
「嘘ちゃうし」
 彼女は少し微笑んだ。笑顔の意味なんてわからなかった。
「おう、三波、こんなとこおったんか」
 俺ら二人の前に落研の先輩方が現れた。
「なんや、下村か。落研辞めたお前がここで何してるんや」
「別に。神社でお参りをしていただけです」
 先輩方が鼻で笑う。
「お前、落研部員の前ではかっこつけてスカしてたくせに、いっちょ前に女には会ってたんやな」
 下品な笑い声が聞こえた。怒りが込み上げてくる。拳を固く握るくせに、言い返すことも力で言い伏せることもできなかった。
「ほら、三波、部会始まるし、行くで」
 そのまま、彼女は強引に連れて行かれてしまった。
 去り際、彼女の口が「ごめんね」と動いていたが、それがなぜだか俺を惨めにさせた。

   ◇

 夜の木屋町には多くの学生の姿があった。皆、それぞれで学園祭前日の決起集会や前夜祭をしていたのだろう。
 そんな連中をわき目に見ながら、酔いが回った僕らも木屋町の歓楽街を歩いた。一軒だけのつもりが、初めて下村と二人で酒を酌み交わすのが楽しくなって、ついついハシゴしてしまった。
「ふははは、アンダーソン、意外と飲むんやなあ」
「おいおい、山本。似非関西弁やめや、全然イントネーションちゃうし。飲むんやなあ、な。お前のは、飲むんやなあってなってるし」
 ネタ中とは違う柔らかめな表情で下村はツッコミを入れていく。ふわふわとした頭で、バス停を目指した。明日の本番に向けて、そろそろ帰って英気を養わなければならない。
「山本、すまねえ、お前に払ってもらった分、コンビニで下ろしてくる」
「そんなもの、いつだっていい。なんなら、僕のおごりでもいい」
「そういうわけにはいかん。こういうのは、しっかりさせたいんや」
「おお、わざわざすまない。ここで待っているよ」
 高瀬川沿いのベンチに腰掛け、コンビニへ駆けて行った下村を見送る。
 そこに、別の見慣れた顔が現れた。その女は、傍らの男と親密そうに身を寄せて歩いている。その女と目が合い、「あ」と声が漏れた。僕は思わず立ち上がった。それまでの、ふわふわとした心地よい酔いは、一瞬にして覚醒した。
「アン、じゃないか」
「え、なんで」
「どういうことなんだ」
 アンは連れ添っていた男から少し距離を取った。居心地悪そうにうつむいて、髪を耳にかける。初めて見る顔をしていた。男と並んで歩いている時も、今も、僕が知らないアンの姿だった。
「アン。これは、どういう」
「きみじゃなかったみたい」
 アンは小さな声でぽつぽつと喋った。傍らの男も気まずそうに僕らの顔を行ったり来たりしている。
 意味が理解できず、僕はオウムのように聞き返す。
「僕じゃなかった?」
「だって、きみ、わたしのことなんてどうでも良さそうなんだもん。全然連絡くれないし、うちに来るって言ったのに来なかったり。最後に二人で過ごせたの、いつだったか覚えてる? それに、進級も危ういって言ってたでしょ。そんな自己管理がちゃんとできない人と一緒にいたら、この先のことが不安になるに決まってるじゃん」
「それは、面白くなるために……。アンが面白いって言ってくれるネタを作ろうと……」
 僕はアンの肩を掴んだ。アンにわかってほしかった。アンが面白いって言ってくれるから、プロになれるって言ってくれるから、それを叶えるのが自分たちの幸せだと思っていた。
 そして、今からでも僕ら二人の関係が「なんとかなる」ということを信じていた。
「他人の気持ちがわからない人が、面白くなれるわけないんだよ!」
 アンは僕の手を振り払った。力強い拒絶。
 頭は酔いから醒めていても、身体は充分に酔っていた。僕は振り払われたままよろめき、高瀬川へ転げ落ちた。冷たい秋の流水に、尻餅をついた。どれほど酔っていても、冷たいものは冷たかった。
「行こう」
「え、彼のことはいいのか?」
「彼とわたしはもう終わったの」
 足早に立ち去る二人の背中を、僕は高瀬川に尻餅をついたまま眺めていることしかできなかった。その姿が雑踏に消えてもなお、立ち上がる力も入らない。
「待たせたな。って、おい山本、お前大丈夫か。俺の手に掴まれ」
 下村が手を差し伸べる。その手を掴む前に、頭の中を整理したかった。思考が追い付かなかった。どうすればよいのかもわからない。どうすればよかったのかも、わからない。頭の中では彼女の叫びだけがこだまする。
「なあ、アンダーソン」
「なんや、はよ掴まれや」
「僕たちって面白いのか」
 僕は、一番の疑問を下村にぶつけた。僕はアンの気持ちがわかっていなかった。他人の気持ちがわからない僕は面白くない。僕が面白くなければ、僕らコンビも面白くないのか。下村は、どう思っているのか、それが知りたかった。
「何を今さら。自分たちが自分たちを面白いって思わな、人様にネタ見せられへんやろ」
 下村の言葉は、すっと僕のこころに沁み込んだ。自分たちが信じていることを貫けば良いと背中を押されているようだった。きっと、下村にはそこまでの考えはなかっただろうが、僕にはこの言葉がささやかな救いになる。
「そうだよな」
「どうした、転んで頭打ったか」
「酔いが醒めたよ」
「それは良かった」
 僕は勢いよく立ち上がり、下村の差し出した手を掴んで一気に引き込んだ。
「うわ、どアホ」
 下村はわき腹から高瀬川に転落した。
「なにすんねん」
 下村が立ち上がって掴みかかる。僕はびしっと衣服を正して声を張った。
「はい、どうも! すっきり絞ったオレンジです」
「おい、急になに始めてんねん」
「僕ら京大の二回生二人で漫才やっています。僕が山本スペシャルで」
「え、あ、俺が下村アンダーソンです」
 僕の勢いに飲まれた下村が頭を下げた。木屋町を行き交う酔漢たちが、何事かと僕ら二人を遠巻きに眺めた。
「今日は僕たちの、顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と、元カノにされて嬉しかったことだけでも覚えて帰ってください」
 漫才が始まると理解した酔漢たちが盛り上がって、拍手する。指笛。喝采。その全てが僕には心地よかった。下村のツッコミがありがたかった。
 今負った傷を癒すにはずいぶんと物足りないけれど、何も無いよりマシだった。

   ◇

 学園祭当日を迎えた。
 俺らは束になったビラを抱えて、時計台前で来場者を待ち構えた。正門前では実行委員が学園祭案内を配布している。案内を受け取ったその手に、次々にビラを乗せていった。案内を眺める目が突然遮られても、案外受け入れられているようで、反応は良かった。
 しかし。
「ほんまに来てくれるんやろうか」
「安心したまえ、世の中は空前のお笑いブームだ」
「それ、どこ情報?」
「僕情報だ」
 俺は呆れた。いつも山本は、ずっしりと構えているところがある。特に根拠がなくても、彼は物事を信じることができる。不安に駆られやすい俺とは雲泥の差だった。そして山本は、すぐさま行動に移すことができる。不安で一歩踏み出さない俺は、この一年で山本に対して憧憬や嫉妬が入り混じった感情を覚えていた。大概のコンビ不仲というものはこういう所から生まれるのだろうが、そもそも仲が良いとは思っていなかった。
「ほな、そろそろ控え室行こか」
「もうそんな時間か」
 俺らは、初のステージへ向かっていった。

   ◇

 俺らの初のステージが終わった。ビラ配りも空しく、観客はまばらだった。来た人の反応は良く、心地よい笑いが聞こえていたが、数が少なかった。
「手ごたえはあった、あったんやけど」
「人が少なかったな」
 ステージを降りて、ずっしりと重くなった心身を癒すように炭酸飲料を流し込んだ。今年もすっきりと晴れた十月の日差しは、心地よさを通り過ぎたほど暑く、冷たい炭酸飲料もすぐにぬるくなる。
 山本はぬるくなる前に飲み干した。俺はぬるくなった飲料を持て余した。
 べたっ、とステージ裏の地面に腰を下ろす。日差しの強さに反して、アスファルトはひんやりしていた。
「俺らのステージ、終わったな。これでお前とはコンビ解消や」
「そうだな。今までありがとう」
 山本が何か言いたそうにうつむいた。山本らしくない表情をしている。何かを、言うか言わぬか悩んでいることが顔を見て分かった。
「なんやねん。なんかあるなら言え」
 なんか言いたい顔するなら言え、と俺は念を押す。
「見て欲しい人に見てもらえなかった」
 その顔はずいぶんと思い詰めたように見えていて、いつもの山本らしさが微塵もない。いつもの山本なら「見せたい人が来ていないから、見せに行こう」とでも言い出しそうなものなのに。
 山本の昨夜の様子も気になっていた。俺がコンビニから戻った時に山本が見せた、あの悲しそうな表情。今朝の集合時はケロっとしていたけれど、どこか空元気のようにも見える。
 会ってから今日まで、ほとんど山本のペースで進んできた。俺がネタを書いているものの、山本からしつこく迫られてコンビを組んだし、山本の勢いに乗せられて学園祭実行委員へ突撃もした。
 今日がコンビ最後の日なのだから、最後くらい俺が山本を引きずってやろう。引きずりまわしてやる、それが俺の見つけた結論だった。
「おい、山本、行くで、その人んとこ」
「待ってくれ、下村」
「そこはアンダーソン、やろ。ほら、どこ行ったらええねん」
「本当にいいんだ。これで僕らは解散なんだから」
 いつも根拠の見えない自信に胸を張って、中身のないことばかり口にしてきた山本が、いつもより小さく見えた。そんな姿の彼を、俺はどうしてだか見ていられなかった。
「学園祭のステージとは言ったけど、ステージは一つちゃう」
 山本が顔を上げた。言葉の意味を知りたくて続きを待つ顔だった。
「家に帰るまでが学園祭や。ほら、行くで。その人に見てもらいに」
 俺は強引に山本を立ち上がらせた。がっしりと腕を掴み、ぐんぐんと進んだ。力のこもっていない山本はひどく重く感じた。
 メインステージの脇を通って、来場者が行き交う中を突き進む。
 徐々にメインステージの管弦楽は遠のき、飲食店の露店が密集するエリアに出た。
「さあ、マウンテンブックよ、その人がどこにいるか言わんとな、俺はここで漫才するで」
「ここでって、ただの道の真ん中じゃないか」
「せや。ほな、行くで」
 俺は人の往来の中で、びたっと止まった。後ろから来た人が慌てて避けるが、肩がぶつかる。正面から来る人は迷惑そうに避けていった。
「はいどうも! すっきり絞った」
 山本を小突いた。困惑、驚き、また困惑して、全てを諦めた顔をし、ジャケットを正した。
「オレンジです」
「俺が下村アンダーソンで」
「僕が山本スペシャルです」
「二回生のコンビで漫才やらせてもろてます」
「今日は僕たちの、顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と、下村が思う僕のいいところだけでも覚えて帰ってください」
「なんやねん、俺が思うお前のええとこって。そんなん楽屋でやれや」
 そこで一組の来場者が足を止めた。笑ってくれている。往来が滞り始める。また一組、また一組と足を止めた。俺らの漫才を見ようと止まる人もあれば、渋滞に飲まれているだけの人もあるが、誰もが少しずつ笑い始めていた。
 ステージとは違う。目の前に観客がいる。俺がやろうと思えば、観客にツッコみを入れられるくらいの至近距離で見られている。そんな新しい感覚に、俺たちは痺れ始めていた。
 台本通りに進む。お客さんの反応も良い。熱が入り始める。山本の、先ほどまでの落ち込みようを感じさせない見事な切り替えに、俺は感心していた。
 メインステージでやっている時ほどの観客数ではないものの、その近さゆえに笑いが大きく感じた。反応が、手の取るようにわかった。手の届く範囲に全てがあった。
 山本がアドリブを入れても、俺は気持ちよく返せる。俺がノリツッコミをすれば山本がそれを躱して、新たなツッコミが生まれる。
「もうええわ」
「どうもありがとうございました」
 ネタを終えると、俺はそそくさと歩き始めた。路上漫才をした理由さえも忘れかけて、次のステージを探していた。
「ここ、どうや」
「やろう」
「はいどうも! すっきり絞った」
「オレンジです」
 次から次へと、場所を変え、ネタを変え、ゲリラ漫才を慣行していく。次第に観客は増え、中には俺ら二人を追って即席ステージのハシゴをする者の姿もあった。
 それから俺らは無数の「はいどうも!」と「もうええわ」を繰り返して構内を練り歩いた。学内新聞がいつの間にか密着取材をしていたし、即席のファンクラブもでき始めていた。ここだ、と決めて立ち止まれば、歓喜の声が湧いた。
「山本、ここでやろか」
 ケバブの露店の真ん前で俺は立ち止まったが、山本は先を行く。後ろに並んだファンたちも、おや、という空気になった。俺は山本の腕を掴んで、引き戻した。
「ほれ、山本、ここでやるで」
 俺が身だしなみを整えていると、山本は言いづらそうに耳打ちをした。
「アンダーソン、ここはやめよう」
「なんでや、ここにお前が見せたがっていた人がおるかもしれんから、俺はやるで」
「いるんだ、ここに」
 山本はちらちらと辺りを見回しながら、用心深く俺に告げた。
 いるなら、ここでやったらいい。俺はそれしか考えていなかった。
「なんや、それならここでやったらええわ。はいどうも!」
「待ってくれ、アンダーソン!」
 これまでにない山本の強い拒否。うつむきながら、ちらちらとケバブ屋を見ているのがわかった。何人かの店員や客がいるので、どれが件の人物なのかわからない。
「ケバブ屋におんのか」
「ああ。僕たちは終わった」
 なるほど、と俺は合点する。聞きたいことは、山ほど出てくる。
「なに、彼女となんかあったんか、昨日の夜に高瀬川でなんかあったんか、お前の彼女ケバブ屋なんか」
 俺の質問マシンガンに、山本は小さく頷く。
 それで、あの「自分たちが面白いのか」という質問だったのかと納得する。山本と彼女のやり取りまではわからないが、彼女の言葉で山本のこころが乱れ揺れ動いているということだけわかった。それだけわかれば、充分だった。
 そして、俺は山本を抱いた。
 山本を強引に抱き寄せ、耳元で、小さな声で、それでも強さと熱を帯びた声で伝えた。
「お前いつも言うてるやん、なんとかなるって」
 山本の身体がこわばっているのがわかる。俺は、山本を抱く手に、さらに力を込めた。
「それなら、お前の面白さ、見せつけてやれ」
 そうして、ふっ、と山本を離した。俺はケバブ屋を向くようにまっすぐ立ち、スーツの裾を正す。
「いったれ、山本」
 山本は、数多の感情に満ちた顔で俺を見る。
「お前は一番面白い、それでええねん。なんとかなんねん」
 俺の言葉に、山本は覚悟を決めた。隣に立ってネクタイをキュっと絞った。
「いくで。はいどうも! お待たせしました、すっきり絞った」
「オレンジです」
「俺たち二回生の二人で漫才やらせてもらいますね」
「今日は僕たちの、顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と、元カノへの未練だけでも覚えて帰ってください」
 よりによってそのネタ選んだか、と俺は心の中で苦笑した。山本なりの悪あがきにも見えたし、これで彼女への想いを昇華しようともがいているようにも見えていた。

   ◇

「お前は一番面白い、それでええねん。なんとかなんねん」
 それを聞いた時、僕は言葉が出なかった。下村から面白いと言われたのは初めてだった。
 下村の言葉で「なんとかなる」と言われた。僕がアンから言われて、信じてきたことだ。その言葉をずっと言い続けていたアンは、もう僕のそばにはいない。それでも自分を面白いと思ってくれている人が、こんなに近くにいた。彼は僕の隣に、ずっといたのだ。
 ケバブ屋で後輩たちの面倒を見ていたアンが僕らの漫才に気付いた。その目には、驚きだけがあった。アンの視線に気づいても、僕はできるだけ表情を崩さずに続ける。僕なりの見栄だった。
 ネタを書いたのは下村なのに、僕とアンの関係に妙にリンクする部分がある。アンはそれが実話をモチーフにしているように思えたらしく、いささか不快そうな顔をしたが、下村の軽快なツッコミに、ついに笑っていた。彼女の笑顔を見ると、こころの閊えが溶けていく。これで良かったのだと思える。
「お前、未練タラタラやないか、もうええわ」
「どうもありがとうございました」
 深々と頭を下げる。拍手喝采が僕らを包んだ。たった一組の観客から始まった路上漫才は、回を追うごとに膨れ上がり、メインステージで行われていた「笑門」の観客さえも奪っていった。メインステージでネタを披露したときよりも圧倒的に多い観客を見回し、もう一度深々と頭を下げる。
 僕が頭を上げた時には、すでにアンの姿はなかった。
「アンダーソン、ありがとう」
「これで気が済んだか」
 下村は照れ臭そうに空を見上げた。青春ドラマのクサい役者のようだった。
「それはこっちのセリフじゃないか。ゲリラ漫才をするって言い出したのはそっちだし」
「なに言うてんねん、俺は今日が最後だから全てを出し切ったろうと思ってやな」
「とにかく、ありがとう」
 ちょうど、五時のチャイムが鳴る。どこかで今日は終わりだと叫んでいる声がする。僕たちはもう一度、集まった観客を見て頭を下げた。
 今日で解散、というしみったれた言葉など口にせず、面白かったとだけを思って帰ってもらおうと考えていた。
「学園祭一日目はこれで終了です。みなさん、明日も学園祭に足を運んでみてください」
「では、またどこかでお会いしましょう、さいなら」
 丁寧に謝辞を述べて立ち去ろうとする僕らは、観客の一人に呼び止められた。
 これまでも「売れる前にサインください」とか「今のうちに、一緒に写真撮ってください」という声があり、それに応えてきた。今度のそれも、きっとそういったお願いをされると思っていたが、下村にはこのあとのアルバイトがある。割と時間ギリギリだったので、断らなければならない。
「良かったら、これ、出てみてください」
 僕らの予想に反して、手渡されたのは一枚のビラだった。ビラを渡してきた人物は、それだけでどこかへ駆けて行ってしまった。
 でかでかと記されたタイトル。
「京都学生お笑い祭典」
「初めて聞くイベントやな、知ってるか?」
「知らないぜ」
「目指せ優勝賞金三十万&京都出身の人気お笑いコンビ『ホントリアル』との共演権、やて」
 下村は、ふんと鼻を鳴らして、ビラをスーツのポケットに入れた。くしゃっと音がして、ポケットがいびつに膨れた。彼は時計を確認する。アルバイトまでの時間猶予はないらしく、険しい顔をする。すぐに、携帯電話でアルバイト先の親御さんに連絡を入れた。
「すみません、講師の下村ですけども、十分ほど遅れます。すみません、ええ、はい、そうですね、テキストの課題を少し進めておくようにお伝えください。はい、では、失礼します」
「アンダーソンって、ヒョウジュンゴも話せるんだな」
「なんやねん、悪いか」
「新鮮だ」
「どうでもええわ。俺、バイト急いでいるし、またな」
 下村は少しかしこまって僕に向かい合った。僕も自然と、背筋が伸びた。
「俺、お前とコンビ組めて楽しかったわ。今日で終わりやけどな、なんつうか、ありがとうな」
「ああ、こちらこそ、無理言ってすまなかった」
「ほな、俺行くわ」
 下村は片手を挙げて、小走りで去っていった。

最終章 『Que Sera, Sera』

 僕らは三回生になった。下村は医学部の実習も忙しさを増し、彼は学校とアルバイト先と自宅の細長い三角形のみを行き来する生活。僕はこの一年で一つの単位たりとも取りこぼしができない状況になり、顔を合わせる機会はなくなっていた。アンに言われた言葉もどこかで引っ掛かっており、今年一年こそは堅実に過ごそうと思っていた。
 へまが許されない前期の期末試験が翌日に迫り、僕の頭から「お笑い」や「漫才」は消えていた。
 そんな折に、下村家に一つの封筒が届いた。差出人は「京都学生お笑い祭典実行委員会」だった。
 僕は下村に呼び出され、彼の家へ急行した。
「これ、いつ届いたんだ?」
「昨日」
「中身は何て書いてある」
「まだ見てへん」
 なんだって。それは聞き捨てならなかった。試験勉強の疲れと暑さで頭に血が上っていたこともあって、僕は下村に悪態をついた。
「開けろ、開けてから僕を呼べ。僕だって忙しいんだ。明日からテストだぞ。単位だって苦しいんだ」
「まあ、そう言うなって」
「とにかく、開けようじゃないか」
 僕は下村から奪い取った封筒に手をかけた。隙間から小指を入れて、びりびりと雑に開封していく。下村からは「ああ、あああ」と呆れた声が出ていた。
 中から現れたものに、僕らは唖然とした。
「一次選考通過のお知らせと、二次選考のご案内。どういうことやねん」
「いつの間に一次選考を受けていたんだ」
「しらん」
 三つに折りたたまれていた紙を広げてみる。おめでとうございます、という文言から始まり、厳正なる選考の末にすっきり絞ったオレンジが一次選考を通過したこと、および二次選考の選考内容や日取りが記されていた。
「お前、いつの間に応募したんや」
 下村が僕を睨む。今回こそ、僕には覚えがない。そもそも、京都学生お笑い祭典の案内を観客から受け取って持ち帰ったのは、下村だったと記憶している。
「え、ええ、え、僕ではない、僕ではない、僕ではないよ」
「じゃあ、誰やねん」
 下村は僕ににじり寄った。夏じみてきた空気に、さらに彼の体温がまじわる。
 そこで部屋の扉が開いた。僕ら二人がコンビだったころと同じように、下村の母が飲み物やおやつを持ってきた。こうしておやつを持って来てくれる美人の母親の存在は羨ましいが、ネタ合わせ中のダメ出しで僕は幾度となく傷を負わされてきたトラウマがある。関西の「おかん」はそういう生き物なのだ。
「お笑いイベントの結果、届いてたんやろ? どうやった?」
「おかん、なんで知ってんの」
 彼女はキョトン、と僕らの顔を見回した。
「なんでって、それ応募したったん、誰やと思ってんの? あんたのスーツをクリーニングに出すときにポケットに申し込み用紙入ってたし」
 示し合わせたように、僕らの口から驚きの声が挙がった。
「おいおいおい、おかん、なんやねん、それ。男性アイドルがよう言ってる『お母さんが勝手に応募してデビューしました』のやつやん」
 母親は悪びれる様子もなく、ケロっとしている。本人は良かれと思ってやったことで、それに対する批判は一切受け付けないのだ。
「で、結果はどうやった?」
「一次選考通過」
「そら、良かったわ。いっちばんええ動画送り付けたったわ」
 僕らが知らないことがどんどん出てくる。驚くのも追い付かない。僕は急に気持ちが穏やかになった。驚きを追い越すと、逆に冷静になれるという発見をした。
「動画ってどういうことですか」
「一次選考は書類と動画。あんたらが学園祭でやってたやつ撮って」
「おかん、学園祭来るな言うたやろ」
「あ、バレた」
 おお、怖い怖い、と言ってそそくさと部屋から出て行く。残されたのはコンビを解消した僕ら二人と、一次選考の合格通知だけだった。
 無言で書類を眺める俺ら。お互いに相手の出方を伺っていた。本心では、すぐにでも二次選考やその先の決勝ステージを見据えたネタ合わせをしたかった。
 しかし、下村は医者になりたいと言っていた。そのためには日々の講義や実習をおろそかにできない。
 アルバイトだって以前より忙しそうだった。何がそんなに彼を掻き立てているのかを僕に語ることはなかったが、漫才が入る余地はなさそうだった。
 僕だって、低空飛行の成績のままでは進級ができない。これまで棒に振った学生生活を取り戻すための一年だ。それが、明日に迫った前期の期末試験を目前に、揺らぐ。
「本音で話そう、アンダーソン」
「気持ち悪い言い方やな」
「自分たちが置かれている状況、僕ときみがコンビを解消したことなどはこの際、頭から消してくれ。ファーストコンタクトだけで答えてほしい」
「ファーストインプレッションって言いたいんやろ」
「そうだ。それで、きみはやりたいか、やりたくないか」

   ◇

「きみはやりたいか、やりたくないか」
 俺は咄嗟に応えられなかった。山本から考えるなと言われた事柄が頭の中を埋め尽くす。「やりたい」を飲み込む「でも」と「だけど」の群れ。それらが俺の本音を完全に覆ってしまった。
「俺は、やりたくない。そもそも、俺は昨年の学園祭までって決めて」
「その決め事も考えるな、アンダーソン。きみは、どうなんだ、やりたいのか、やりたくないのか」
 山本が正座でまっすぐに俺の目を見る。きっと山本は俺が本音で喋っていないことくらいお見通しだろう。わずか一年間でもあれば、相手が何を考えているのか、何にひっかかっているのか、なんとなくわかるようになる。それがコンビであり、相方なのだ。
 俺だって、譲れないものがあった。母にできるだけ迷惑をかけたくない。学費を払ってもらって、夕飯も作ってくれて、洗濯もしてくれて、昼間は花屋の仕事を頑張っていて。そんな母を少しでも安心させたい。医学の道を踏み外すことなく歩むことが、自分にできる母親孝行だと信じて疑わなかった。

   ◇

 僕にはわかっている。なぜ下村が学業とアルバイトに必死になっているかなんて、聞いたことはない。でも、ここの家に来ればすぐにわかる。下村が母親に対して抱いている想い、母親が下村に望んでいること。この二つのすれ違いを解消したいと思う。僕のおせっかいかもしれないけれど、下村母子をすれ違わせたままでは、気が済まない。
 だから、僕は、ここで下村の手を放すわけにはいかないのだ。
「言え、アンダーソン。お前の本気を、僕にぶつけてみろ。言いにくいなら、小さい声でも、耳元でささやくでも構わない。だから、言え」
 僕は下村に、思っていたことを全てぶつけてやろうと声を荒げた。
「僕のことを一番面白いって言ってくれたのは誰だ。アンダーソン、きみだろ。誰のおかげで僕が面白いんだ。きみが面白いから、僕だって面白いんだ」
 黙っている下村に、僕は大声で追い打ちをかける。
「アンダーソン、きみこそ一番面白いんだよ! 僕たちは、なんとかなるんだよ」
 静寂。
 居間にいる母親にだって聞こえていたはずだけれど、誰も、何の音も発することなく、そこには静寂だけが横たわっていた。
 ぷつん。
 その静寂を破ったのは、ほかでもない。下村だった。叫びは新たなる、さらに大きな叫びを生む。下村の怒号にも似たこころの叫びが響き渡った。
「山本! お前が面白いんは、俺のおかげや、お前は俺がいないとダメなんや! お前が失恋した時になんとかなるって言うてやったん誰や! 俺や! 俺とコンビ組めや!」
 二人で抱き合った。
 僕はこころの中で誓う。こいつを、下村を絶対に離さない。

   ◇

 二次選考が終わった。
 会場となったロームシアターの小規模ホールをあとにする俺らには、確かな手応えがあった。同じように参加していた他の学生芸人たちの笑いも大きかったし、審査員席からも笑いが聞こえていた。
 夏休み始まってすぐの京都は酷く暑くて、俺はすぐさまジャケットを脱ぎ去り、ネクタイを外し、袖をまくって、警察沙汰にならないギリギリまでワイシャツのボタンを外した。山本は警察沙汰のボーダーを超えていた。ニュースタイルの攻めたクールビズだ。それでも汗は止まらずに背中を伝う。開け放ったワイシャツから注ぎ込まれるのは湿り気の多い暑い風だけだった。
「アンダーソン、なんとかなったな」
「当たり前やろ、俺らが一番面白いねん」
 二人で向かい合って、ニッと笑い合った。

   ◇

 二次選考からほんの一週間で実行委員から選考結果の通知が届いた。
 例によって、下村家にて結果を見る。
 僕は下村家へ突撃さながらにお邪魔した。
「いくで」
「頼む。開けてくれ」
 下村はペーパーナイフを用いて、丁寧に上端を裂いた。中から三つ折りのコピー用紙が現れる。「二次選考の結果および、京都学生お笑い祭典の開催案内の送付」という文字が透けて見える。
「アンダーソン、広げるんだ」
「おう」
 二人が同時に唾を飲みこむ。ごきゅ、とお互いの音が聞こえるほどに頭を突き合わせていた。
 一思いに下村が折りたたまれた通知を広げた。
――厳正なる審査の結果、不合格となりました。貴殿の今後の活躍をお祈り申し上げます。
「なんでや」
「そんな。何かの間違いじゃないか」
 下村の声は震えている。それほど、彼はこの大会に賭けていた。賞金が欲しいんじゃない、ホントリアルと共演したいんじゃない。下村が目指すものがそこにあったのだ。僕には話してくれない、下村家の事情が。
 僕は危惧した。ここで終われば、今度こそ下村を繋ぎ留めておくことができない。下村は自分の気持ちに素直になっていないし、お母さまの気持ちに気付いていない。今ここで全てを終わらせるわけにはいかないのだ。
 何か。何か無いものか。
 通知書類を上から下まで、隅から隅まで見た。
 あった。
「アンダーソン、まだあきらめるな」
「諦めるしかないやろ、不合格なんやから」
「ここを見ろ」
 僕は、通知書類の一点を指さして下村の目の前に突き出した。
「敗者復活枠のご案内」
「そうだ。僕らには敗者復活枠に参加する権利が与えられているんだ。敗者復活枠に参加するには、ここへ連絡をすれば良いらしい」
 まだ希望はあった。まだ終わっちゃいなかった。
「なんとかなるんだよ、アンダーソン」

   ◇

 ついに件の催しが明日に差し迫り、俺たちは明日に向けた最後の打ち合わせをした。
 二次選考で落選した三十組のうち、実行委員会が選定した十組に敗者復活枠への参加権が与えられる。
 岡崎公園で行われる京都学生お笑い祭典では、夕方からメインステージで決勝ステージが行われる。二次選考を勝ち上がった五組と、敗者復活を勝ち抜いた一組の、合計六組で決勝ステージを戦うことになる。
 当日の昼間はゲスト芸人のトークイベントと、敗者復活ステージが開催される。つまり、敗者復活戦に出場する俺らは、ネタを二つ持って行く必要がある。
「ほな、敗者復活戦は『俺らの誕生日』で、決勝残ったら『京都の街を人間の身体に例える』でええな」
「残ったら、じゃない。残るんだよ、僕たちは」
「そうやな」
「じゃあ、明日、朝八時に大鳥居前で」
「近代美術館側でええねんな?」
 うん、とうなずいて、山本は帰っていった。

   ◇

 僕は下村家をあとにした。ささやかな充足感と、適度な緊張感で満たされながら歩く。明日の今頃は、祝賀会だろうか、それとも残念会だろうか。どちらにしても、明日、という一日が自分たちを変えるに違いないという予感がある。勝っても負けても、自分たちには変化がある。大きな変化かもしれないし、目に見えない小さな変化かもしれない。変化の予感というものは、楽しみであり、ちょっと怖かったりもする。
 バスも乗らずに上終町の下村家から熊野の寮に帰るには、白川通をまっすぐ下がって行けば良いのだけれど、今日はちょっと寄り道をしたい気分になった。僕は、白川疎水に差し掛かったところで、左折した。
 哲学の道を一人、歩いた。
 春に満開の桜を咲かせていた桜は、青々とした葉を広げ、街灯に照らされている。満開の夜桜も良いけれど、夏の緑もいいもんだと初めて思った。
 入学以来、何度も歩いた哲学の道を歩く。夜に歩くと、まるで世界から切り取られたような静けさがある。時折、ジョギングしている人とすれ違って現実世界であることを確認するけれど、足音が遠のくにつれてまた異世界感が漂う。
 そして、哲学の道には、他にも思い出があった。僕と下村が夕方にネタ合わせをする時は、決まってここだった。疎水に面したベンチに台本を置き、道行く人に向かってネタを披露していた。
 あの頃は声を張らないと雑踏にかき消されてしまっていた僕の声も、今ならきっと声を張る必要なんてない。静寂だった。
 今夜はベンチに座って、夜風に吹かれながら物思いに耽るのもいいなあ、なんて思っていると、少し先のベンチに人影があった。僕らがいつもネタ合わせに使っていたベンチだ。
 近づいてみれば、それは僕のかつての恋人、アンだった。
「おや、アンじゃないか」
「あれ、こんな時間になにしてるの?」
 アンは少し鼻声だった。目元は赤く腫れている。
「僕は、散歩だ。散歩」
 きみは? と聞きかけて、やめた。どうせ、痴話げんかだろうし、そんなものは犬も食わない。僕は人間だけども、人間だってそんなものは食わない。下村のおかげで昇華したアンへの想いだって、こころの奥底にないこともない。小さな燃えカスのような、ほのかな想いがある。
「聞いてこないんだね」
「うん、僕は聞かない」
「やさしさ?」
「僕はもう、きみに優しくなんてしないよ」
「わたしが泣いていても?」
「泣いていても、僕がきみにできることはないんだ。なに、なんとかなるさ」
「そっか」
 僕はアンに背を向けて歩き始めた。それが僕なりのけじめで、彼女への想いを断ち切るために必要なことだった。
 しかし、僕だって男である。アンの元恋人である。このまま帰るのも、後ろ髪が引かれるようだった。それが男心なのだ。
 彼女の方を向かずに告げた。
「でも、もしどうしても今日の悲しみが長引きそうなら、明日、岡崎公園へ来てくれ」
「なにかあるの?」
「来ればわかるよ」
「わかった」
 僕は振り返った。アンの両目をしっかりと見て、胸を張る。
「僕は……僕らは面白くなる。日本一面白くなって、垢抜けないままテレビでゴールデンを飾ってみせるよ。それ見たらアンが笑っていられるように、僕らは面白くなる」
 それが僕なりの最後の見栄だった。

   ◇

――敗者復活戦を勝ち上がったのは……すっきり絞ったオレンジです!
 俺らはステージ上で小さくガッツポーズをした。ここで喜んでいる場合ではない。決勝のステージまで、そんなに時間がない。決勝用に用意してきたネタを確認して、あっという間に出番だろう。
 俺は「このまま優勝したらどうなるのだろうか」と考えていた。京都で一番面白い、という小さな世界だけど、立派な肩書だ。母親のために医学の道へ進みたい。学費調達や家計の負担を減らすためにアルバイトもしなくてはならない。
 山本の言葉が蘇る。「お前はやりたいのか、やりたくないのか」の答えは、一体なんだろう。俺はどうしたいのだろう。
 そんなの、もう答えが出ている。気持ちだけなら、やりたい。山本となら、もっと面白くなれる。
 だけど。
 そんなもやもやとした気持ちで控え室へ向かった。

   ◇

 俺らが決勝戦の出番待ちをしていると、控え室の入口がにわかに騒がしくなった。警備のボランティアをしている学生たちが慌ただしく動き回る。
「すみません、ここは関係者以外立ち入り禁止です」
「関係者の親は関係者みたいなもんやねん」
 聞き覚えのある声に、俺らは入口に走った。
「お母さま」
「おかん」
 間に合った、と母は呟く。
「あんたらにこれ、やってなかったやろ」
 彼女はカバンから火打石を取り出した。俺らを並ばせて、ネクタイを直して、裾についた埃を摘まんで、それから火打石を打った。
 カチン、カチン。
「これで大丈夫やわ、二人の優勝決定」
「やめや、他の参加者もおるんやし」
「ほな、楽しみにしてるわ。山本くんも、頑張ってね」
「はい、お母さま。ありがとうございます」
 母は小さく手を振って、去っていく。
 行ってしまう。今、このまま母が去っていくのを黙って見ていてはならないという焦燥感が押し寄せた。
 今がその時なのかわからなかったけれど、今しかないということはわかった。
 そして、俺は意を決した。
「おかん」
「なにタイチ」
 息が上がった。鼓動が早くなる。本音を話すのが、こんなに怖いなんて。でも、この思いを抱えたまま決勝のステージに立つことなんてできなかった。そんな状態では、俺を面白いと言ってくれる山本にも申し訳なかった。
「おかん、俺、優勝したら、いや優勝せんでも、いや優勝すんのは俺らやねんけど」
 うまく言葉が出てこない。それでも、言わなきゃと自分を鼓舞する。
「アンダーソン」
 山本が勢いよく俺の背中を叩いた。荒くなった呼吸と合わさって、一瞬、窒息するかと思った。余計なことをしやがって、とこころの中で毒づく余裕もなかった。
「おかん、俺、お笑いの道に進みたい。こいつと、もっと面白くなりたい」
 母は小さく、ゆっくりと頷いた。表情に、息子の全てを包み込む優しさを持っている。
「やったらええよ。あんた、高校生の頃にお父さん亡くなってから、好きなバスケットもせんと勉強とアルバイトしてたやろ。三波さんとこの彩香ちゃん、心配してたで。あんたの好きなものやらせてあげられなくってごめんね。これからは、あんたの好きなことをしなさい。応援してるから」
「ありがとう、おかん」
 自然と涙がこぼれた。止まらなかった。今まで言えなかったことが言えた喜び、山本とお笑いを続けられる嬉しさ、母親を楽にできるレールから外れるうしろめたさ、その他の感情が激流となって押し寄せる。
 そして、母親の偉大さがこころに沁みた。
 山本までもらい泣きをしていた。母親は俺を抱き寄せ「今までいろいろ我慢させてごめんよ」と言う。
「おかん、今日の俺たちをちゃんと見ていてくれ。絶対に面白くなって、おかんを楽させるから」
「自分たちの信じる道を進みなさい。医者じゃなくてもええねんで。あんたが好きなことやって幸せそうにしてたら、それで満足やねん。ねえ、山本くん、タイチはこんなだけど、よろしくね」
 もう一度、俺の涙腺に強い刺激が走った。俺は、この人の息子でよかったと、こころの底から思えた。
 母親が学生警備隊に摘まみ出されたところで、俺らのコンビ名がコールされた。
「アンダーソン、僕らはなんとかなる、なんとだってできる。今だって、これからだって」
「ありがとうな」
 俺らは、ステージの袖に並び、深呼吸をした。お互いの肩がぶつかる。俺は、ちょっと強めに肩をぶつけた。もっと強いのが返ってきた。
「ほな、行こか」
「ああ、見せつけてやろう、僕らの面白さを」

   ◇

 垢抜けない芋っぽさが漂う出囃子が流れた。会場のボルテージは最高潮に達し、「だべさ」を合唱する声が響く。
 袖から観客席を覗くと、よく見知ったワンピースが見えていた。彼女の口も「だべさ」と小さく動いていた。本当に来ているとは思わなかった。僕らの渾身の掛け合いを見せつけてやろうとこころに決めた。
 それともう一つ。下村親子を見てから、僕には決めたことがあった。そのための小道具になりそうなものは、ハンカチくらいしかない。なに、なんとかなるさ。
 僕は最後にもう一度、下村を小突いた。
「アンダーソン」
「なんや」
「決勝のネタ、『京都の街を人間の身体に例える』じゃなくて、全部アドリブでいくから」
「え、なんやって、よう聞こえへん」
「行こう」
「おい」
 僕らはステージ脇から飛び出した。

「はいどうも!」
「すっきり絞った」
「オレンジです」
「京大の三回生二人で漫才やらせてもろてます」
「僕が山本スペシャルで」
「俺が下村アンダーソンです」
「今日は僕たちの、顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と、最近されて嬉しかったことだけでも覚えて帰ってください」
「なんやねん、最近されて嬉しかったことって。ラジオのトークテーマかいな」
「最近、いいことがあったんですよ」
「まあ、せっかくやから聞くけど、何?」
「ベルマークをね、もらったんですよ」
「ささやか過ぎるわ。それでどうやって漫才膨らませろって言うねん」
「せっかくだから、アンダーソンくんの嬉しかったこと教えてよ」
「いきなり聞かれても難しいな」
「ほら、なんか、ファンレターもらってたでしょ」
「せやな、強いて選べば、ファンレターもろたことかな」
「誰から?」
「おかん」
「……」
「なんか言えや。俺の恥じらい返せ。お客さんも、その顔で見るのやめて」
「そのアンダーソンくんのファンレターをね」
「なんやねん」
「音読します」
「おい、なんでお前持ってんねん。開くな開くな。匂い嗅ぐな」
「おばあちゃん家の匂い」
「どついたろうか」
「あ、お母さま」
「手え振るな。おかんも振り返すな。すみませんね、本物のおかんが会場に来てますもんで。お客さんも、うちのおかん探さなくてええねん」
「あの、授業参観に来た母親っぽい人がアンダーソンのお母さまです」
「指さすなや。その手紙を読むならさっさと読め」
「読みます。下村へ」
「おかんも下村やわ、旧姓は小林。今は下村トモコ。って、おかんの名前言わすなや」
「いつも楽しく漫才見せてもらっています」
「せやな、いつもおかんが俺らの漫才見て、いろいろ言うてくれてるしな」
「手に汗握る展開、迫真の演技、そして二人を包み込む壮大な音楽」
「ちょっと待って、おかん、それ俺らの漫才ちゃうやろ。だべさが壮大なわけあらへん」
「最後の独白」
「独白言うてるし、絶対に俺らの漫才ちゃう」
「あっという間の二時間です」
「二時間サスペンスや。おかん、何と間違えてんねん」
「特に山本くんの『僕がやりました』という熱のこもった演技に感服しました」
「そんな熱演ないから、俺らの漫才に」
「山本くんの纏う空気感、たたずまい」
「おう、山本めっちゃ褒めてもらってるやん」
「山本くんのボケの絶妙な間の取り方」
「おかん、山本ほめ過ぎやし、俺やなくて山本のファンレターやないか」
「ねえタイチ」
「そうなんです、俺、タイチっていうんです」
「あんたも少しは山本くんを見習ったらどうなの?」
「なんで自分のファンレターで説教されなあかんねん」
「あんたらコンビは山本くんで成り立ってるってことを忘れないように」
「言い過ぎちゃう?」
「もういっそ、コンビ名を『さっぱり絞ったヤマモト』にしなさい」
「そんなん山本が一人でやれ。一人でやって、思い切りスベってしまえ」
「おい、さっぱり絞ったヤマモトじゃない方」
「じゃない方ってなんやねん。俺がネタ書いてんねんぞ」
「さっぱり絞ってない方」
「その呼び方やめろ」
「あんたが書いたネタ、全部下ネタです」
「何を言い出すんや。下ネタなんて一個もあらへん」
「下村が書いたネタ、略して下ネタです」
「しょうもない略し方すな」
「ふふふ、あははははは」
「山本、お前、急に笑い出して気持ち悪いで」
「『俺、タイチって言うんです』って、面白すぎるでしょ」
「今さらどこで笑てくれてんのや。人の名前でツボって。ええから続き読め」
「そういえば最近、あんたの同級生から結婚式の案内が来てましたよ」
「そういう大事なことはファンレターやなくて電話でくれって」
「同級生のサキちゃんが結婚したそうです」
「え、あのクラスのアイドルのサキちゃんが?」
「サキちゃんの苗字も変わっていましたよ」
「なんて苗字になったんやろ。昔は下村サキ、なんて妄想してたこともあるけど」
「どうせあんたのことだから、下村サキ、なんて思っていたんでしょうね」
「バレてる。恥ずかしい、思春期の想い出がただただ恥ずかしい」
「サキちゃんは結婚して、佐々木さんになっていました」
「ササキサキ? めっちゃ言いづらくない? それでええんか、サキちゃん」
「しかもサキちゃんのおにゃか、ふふ」
「ナチュラルに噛むなよ。お前、勝手にアドリブ入れるからこうなんねん」
「ふふふふ」
「笑てる場合か、はよ続きやり」
「サキちゃんのお腹のナカには、新しい命が宿っているそうです」
「それはおめでたいな」
「しかも、なんと双子」
「それはすごい、どっちに似るんやろうな」
「どっちがサキに生まれて、どっちがアトに生まれるのか楽しみですね。あと、サキちゃんたちのこころのナカには、すでに子供たちの名前の案があって」
「アトやらサキやらうるさいなあ」
「アトに生まれた子はサキちゃんが、サキに生まれた子はアット、いや失礼、オットが名前を決めるらしいです」
「しょうもない小ボケかますなや」
「では、これから東尋坊のシーンなので、これで失礼します」
「二時間サスペンスでよう見る犯人の独白シーンやないか。何見ながらファンレター書いてくれてんのや。なんやねん、この手紙、めちゃくちゃや。誰やこんなめちゃくちゃにしてくれたやつ」
「僕がやりました」
「もうええわ」
「どうもありがとうございました。」

   ◇

 今となっては、テレビですっきり絞ったオレンジの二人を見ない日はない。京大出身の若手頭脳派コンビとして、ネタ見せ番組からクイズバラエティまで出ている。身体を張った企画に挑戦することも多く、佐多岬から宗谷岬までヒッチハイクで旅をしたり、淀川で捕獲した生物だけを食べて一週間を過ごしたり、と視聴者が思わず悲鳴を挙げるような泥臭い仕事もこなしてきた。
 どれだけゴールデンタイムでお茶の間を沸かせようと、二人はいつまでも変わらない垢抜けなさがあった。それが、二人らしさとしてお茶の間に浸透しつつある。
 どんなに大変な仕事でも、二人は夢に向かって突き進む。母親や元恋人に話した夢から先に叶えようと、今年も日本最大規模のお笑い賞レースへ挑んでいく。日本一面白いコンビになる、それが二人の夢だった。
 日本一への道は、山だって谷だってある。壁にぶち当たることだってある。そんな時は、どちらともなく、こう言うのだ。

 ケセラセラ<なんとかなるさ>

ケセラセラ

ケセラセラ

それぞれの想いのために学生時代を漫才に捧げた大学生二人。 彼ら渾身のステージを、どうぞご覧ください!

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 『Shall we MANZAI?』
  2. 第二章 『Laugh & Peace』
  3. 最終章 『Que Sera, Sera』