メタモルフォーゼ

柏木熊介

この作品のお題は【虹】です。
子どもの頃、覚えていないとき、誰もが誰かに会っている、ような気がしています。
もちろん、覚えていても良いのですが。

 中学生の頃の話だ。
 午後に一雨あった学校終わり、濡れて黒くなった家路を友人と歩いていると、道端の切り株に腰掛けている老人の姿を見つけた。地元はどちらかと言えば農業地域寄りの住宅地で、長閑で退屈な田園風景の後ろには開墾を免れた手つかずの自然がたくさん残っており、また同様に、町中にも昔から生えている木が──整備されてはいるものの、たくさんあった。その切り株も、つい最近までは大きく屹立する立派な木だった。しかし、すぐ近くの廃屋を取り壊すついでに、刈り取られてしまっていた。
 老人は小さな背負い鞄と杖を切り株の横に置き、両手を前で組んで、目をつむって空を見上げていた。上下とも黒の服装に身を包み、対比のように頭は見事な白髪で、肩よりも下に髪先がある。老人の見る方向へは風が吹いており、役目を終えた雨雲が、白雲となって流れていた。太陽が、丁度、老人の影をその方向に伸ばしていた。
 あれは一体誰だろう?
 私と友人は顔を見合わせた。閉ざされているわけではないが、基本的には顔見知りの方が多い、狭い地域だ。こんなに目立つ人をこれまで見たことがないのであれば、それは確実に余所者ということになる。加えて、旅人というにも荷が少なく、かつ、この近くには宿があるわけでも、バス停や駅があるわけでもない。
 私は強い好奇心とともに、嫌な緊張感を覚えた。
「もし」
 何気ないふうを装って二人ともに老人を観察しながら、口だけは他愛もない話をしつつ通り過ぎようとすると、そう、老人から声をかけられた。嗄れているが良く通る声で、びくりと思わず顔を向けてしまう。
「ほほほ。そう驚かなくても」
 老人はやわらかに笑いながら、「いや申し訳ない」と言葉を続けた。私たちはその笑顔に少し緊張を解いて、「なんでしょう?」と、改めて老人の目前に立った。
「おぬしらに一つ、聞きたいことがあってな。教えてくれると嬉しいのだが」
「ええと、僕たちにわかることであれば」
 友人が答えて、私の顔を見る。私も、無言で頷いた。
「かたじけない。それでは教えて欲しいのだが、今、虹は出ているかな?」
「虹?」と私たちは口をそろえ、同じくして空を見上げた。雨上がりの空は澄み渡り、雲は遠くにあるばかりで、虹は欠片も見えない。友人と頷き合い、それを伝えようというところで、一つ、疑問が沸き上がった。
「何故僕たちに聞いたんですか?」
 言葉が口をついて出てくる。聞かずとも見えるのではないか、と。
「儂は目が見えんのでな。足音と話声が近づいてきたから、おぬしらに声をかけた」
 老人は地面から杖を持ち上げ、顔の前に掲げながら返答した。同時に開いた双眸は、鈍った黒曜石のように暗く、まるで虚空だった。
 恐ろしくもあったが、中学生ながらに、変なことを聞いてしまったと申し訳なく思った。誰かの弱い部分を、知らずと言っても話題に出すことは、なかなかに気まずい。
 しかし私はそう思いながら、少し、何かに違和感も覚えていた。腕に止まったはずの蚊を見つけられないような、妙で、些細な感覚。ただ、老人が気を悪くした様子もなく話し出したので、私はそれについて長く考えることはできなかった。
「何、気にすることはないよ。これは身から出た錆。いや、儂の定めだ。ささ、ともかく、虹はどうかね?」
「虹は──」
「虹は出てますよ。おじいさんの正面の空に」
 私が答える前に、友人がそう言った。驚いて見ると、友人はにやりと笑っている。友人はなかなかにお調子者で、クラスメートや先輩、先生方にも、平気で冗談を言ったり、他愛もない嘘を吐いたり、嘯いたり、良くしていた。私自身も何度かしてやられたことがある。友人にとって、それらは全て騙すというよりは笑わせるための言葉であるため、陰湿さを感じることはない。今の嘘も、善意十割とは思わないが、盲目の老人のために虹を作ってやろう、という魂胆を感じた。
「ほう、正面かね?」
 老人は楽し気に言って、開かれたままだったその虚空を空に向けた。瞬間、吸い込まれそうなほどの引力を感じた。実際、一瞬気が遠くなったと思う。私は両の足に力を込め、ふらつこうとする身体を支えた。隣を見れば友人もよろめいている。
 老人はしばらく、見えない眼で虹があるだろう空を見ていたが、ふっと息を吐き、ほほほと笑って、ゆっくりと瞼を閉じた。それで、引力も消えた。
「いやありがとう。良い気を得たよ」
 老人はそう言ったが、私は何故か、それを額面通りに受け取ることができなかった。友人も感じるところがあったのか、いつものおちゃらけた様子が鳴りを潜めていた。
「それは、どういたしまして」
 普段ならもう二言、三言重ねる舌も、鈍い。
「それでは、さようなら」
「ああ、さようなら」
 私たちは老人を残し、そそくさとその場を後にした。
 少し遠くの曲がり角を折れるとき、振り返ってみると、老人は再び、何もない空を見上げていた。

 そのことがあってしばらくして、同じような時間帯、似たような空模様、私が家路を歩いていると、同じ場所で再び老人を見つけた。老人は以前と何もかも変わらぬ容姿と服装で切り株に座っていた。違うのは、その日の私は一人であったことと、老人の見る方向にはまだ雨を降らせた雲があり、その下の風景をけぶらせるとともに、手前に虹を作っていたことだった。
 緊張感がまたぞろ首をもたげる。私は話しかけるべきか、それとも無視をすべきか迷った。一つ聞きたいことがあったが、踏み込むべきではないようにも思うし、好奇心は猫を殺すとも言う。しかしそんな大層なことでもないとも思う。考える間にも、その場所は近づいてくる。
 結局私は、なるべく足音を忍ばせて、老人の前を素通りすると決めた。向こうが話しかけてきたとしたら、それが答えだ。
「もし」
 老人の声は、やはり良く通った。
「……何でしょうか」
「一つ聞きたいことがあるのだが……、ふむ、その声。おぬしは先日の少年の一人だな?」
「そうです──」と、私は意を決した。「が、おじいさんは、最初から僕が僕だとわかっていて声をかけたのではないですか?」
「ほほう。何故そう思うのかね?」
 老人はやわらかに、そして面白そうに笑って、正確に私に顔を向けた。私は閉じられた瞼の裏の眼を、じっと見つめた。
「……この前おじいさんは僕たちに、『そう驚かなくても』と言いました。僕たちが近づいてることは、話声や足音でわかったと思います。でも、僕たちが驚いたかどうかは、声を出さない限り、おじいさんが本当に目が見えないなら、わからないはずです」
 あのとき感じた違和感の正体に気付いたのは、帰宅して風呂に入っているときだった。目が見えないとはどういう感じなのかと目をつむっていて、耳に様々な音を感じていると、ふとそのことに思い至った。あのとき、私たちは驚いたが、声を出してはいないし、倒れたりよろめいたり、大きな音をたててもいない。それなのに老人は、私たちが驚いたことを指摘した。つまり老人は、見えていたのではないか、と。
 老人は私の推理を聞いて、数度小さく頷き、なるほどと呟いた。笑みは消え、何やら考え込んだような顔で、腕を組んでいる。
 私は黙ってしまった老人の前で、じっと息をひそめ、答えを待った。改めて、別に指摘しなくても良い話だし、だからなんだと言われればそれまでの話のようにも思う。私たちに盲目のふりをしたって、良いことが起こるわけもない。私だって、それを暴いて老人を糾弾しようと思っていたわけでもない。ただ、それはやはり、どうしたって、単に猫を殺すものだった。
「ほほほ」と、老人が口を開いた。その顔には笑みが戻っている。口の端がにやりと上がった。「ところで、今、虹は出ているかね?」
「……は?」
 想定していたどの答えとも違う返しに、呆けた声が出た。
「虹、ですか?」
「左様」
「あの、僕の質問は──」
「質問というのであれば、先に『聞きたいことがある』と声をかけたのは儂だ。であれば、まず儂の質問に答えるのが筋と言うものではないかね?」
 妙な説得力のある言葉に、私は言葉を詰まらせた。多少分別があるとは言っても、当時の私はまだ中学生だ。老人の物言いに従う理由はないが、理屈としては確かにそれが正しい流れのように感じてしまった。
 私は空を見上げた。虹はまだ、そこにあった。
「出ていますよ。おじいさんの正面に」
「今度は本当に?」
「……本当です」
 やはり見えていたんじゃないか、と思った瞬間、老人の目が開いた。先日と変わらぬ、暗い穴のような、その双眸。
「え?」
 しかしその眼は、私から虹へ向けられた途端、七色に輝き始めた。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。全ての色が、さながら授業で見たアメーバのように蠢き、渦巻き、老人の両眼をせわしく彩っている。その眼のまま笑っている老人は、余りにも異質で、異様で、私は呆気に取られて立ち尽くすことしかできなかった。
 そんな、数瞬の出来事だった。
「また一つ。もう少しだな」
 気付けば、老人の眼は元の虚空に戻っていた。混在していた七色の面影はどこにもなく、黒い静寂がそこにあるばかり。そしてゆっくりと目は閉じられ、大きな息が吐かれた。
 私は無意識に、老人の見ていた方向に顔を向けていた。
 虹は、消えていた。
「ほほほ。確かに、今度は本当だったようだ。礼を言うよ」
 老人は莞爾と笑った。
「あれは……、おじいさんは……」
 逃げ出すこともせず、私は足りない言葉を投げかけていた。不思議に思ったわけではない。むしろ恐ろしさを感じていた。しかしもう、途方に暮れて、そうするしかできなかった。
「ふむ。では答えてやろう。儂は虹を集めている。いや、正確に言えば食っている。あれは蛇や竜の類でな、食うことで、自らもまたそのものに成れるのだよ。そういう修行だ。もう何百年になるかな。師匠の下を離れ大陸を出て、方々を旅して、様々な場所で食ってきた。師匠からの縛で、人に聞かねば食うことはできん。方法が方法だから、おかげで視覚は失った。が、耳は良くてな。大概のことには困らん。おぬしらの様子がわかったのも、わずかな呼吸や鼓動の変化を聞き取ったからだ。まあ、同じような反応は幾度となく受けてきたから、聞かずとも予測はできたがな。あとは、虹が出ていたか否かの真偽については、おぬしが今見た通りだよ」
 老人の声は、心なしか、嗄れが薄くなっているように思えた。
 竜? 修行? 何百年? と、私はいよいよもって混乱をし始めていた。全ての答えが、腑に落ちる前にさらさらと透り抜けて行って、理解ができない。しかし、自分が今見たものを幻だと言うには、現実が強烈過ぎた。
 結局私は、はあ、と間抜けた声を返した。
 老人はそれを聞いて目を丸くし、呵々大笑して、「ではな」と行ってしまった。
 
 ▼

 この話には続きがある。
 あのときの話を誰にも言わなくなって久しい頃。世界がだいぶ狭くなり、地球の真裏の出来事が一瞬のうちに日本に届くようになったとき。
 とあるネットニュースを見た。
 真も偽もわからないほど混沌としたその電子世界のニュースは、〈The Chinese Dragon emerged from the Ground〉の見出しとともに、七色に輝く竜が空に昇っていく動画を掲載していた。
 ニュースのコメント欄には、『良くできたCGだ』や、『フェイクというには稚拙すぎる』『この世の終わりだ。本当なら』などの言葉が散見されたが、私はそのニュースを信じることにした。不明瞭だが、わずかに映る竜の眼が、真黒な虚空に見えたのだ。確証はないが、不思議な確信があった。老人は成ったのだ、と。
 それと同時に、私はとあることに気が付いた。今更と言えば今更だが、あのときの感覚が正しかったことを、数十年越しに理解したのだ。
 老人に感じた嫌な緊張感。
 私は蛇が嫌いなのだ。

メタモルフォーゼ

メタモルフォーゼ

子どもの頃、覚えていないとき、誰もが誰かに会っている、ような気がしています。 もちろん、覚えていても良いのですが。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-01-08

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