嘘八百

どうもお久しぶりです。いろいろ迷走してて、なかなか活字書けませんでした。
久しぶりすぎていろいろあれですが、よければごひいきにしてやってください。

それにしても珍しい。見ての通りのこんな辺鄙な場所ですから、お客様なんて滅多にないので。ああどうぞ、遠慮なさらず。楽な姿勢でお掛けになって、よければこれもお上がりください。頂き物ですが。ミルクとお砂糖もお出ししますから、ご自分で調整なさってくださいね。
 ご連絡いただけていれば、主人を呼び止めておきましたのに。一体なんの用事があるのか、急に思い立ったかのように出て行く方なんですよ。まったく子供のようですが、あれが良いところでもあるんですよね。困りますけど。
 この立地ですので、電波が非常に弱いことは、もうご存知でしょうね。屋敷内なら特定の場所だとそれなりに通りが良いのですが、いくらお客様とは言え、主人の許可なくご案内してしまえば、私の今日の食事と寝床がなくなりかねません。どうかご了承を。
 代わりと言ってはなんですが、私の出生でもお話ししましょうか。ああそんな、興味がないなんてつれないことを仰らずに。だってここには、他に時間を潰せる手段がないのですよ。客室で眠って待つほどに主人が遅いわけでもないですし、それに珍しくないですか? 見たところ、私は貴方よりも年下のようですし――ああ、そうは見えなかった? 褒め言葉ですね。ありがとうございます。そんな子供がどうしてこんな町から離れた森の奥の屋敷で使用人なんてしているのか、少しくらいは疑問でしょう。来られた方は、だいたいそう仰います。それとも私がそう言うから、社交辞令的に頷いていただけるのですかね? それはそれで愉快ではありませんか。道化人の独り言と思って聞き流してくださいよ。……あ、アロマは大丈夫ですか? すみません、今更ですが。これも主人の趣味でして、私は結構気に入ってます。
 今はこんな身の上ですが、それなりの良家の出身でして。私はそこの7人兄弟の六男坊です。皆さんまずその兄弟の多さに驚かれますが、貴方は平然としておられますね。貴方もビッグダディの下の育ちですか? ああ失礼しました、私の独り言のはずでしたね。
 良家の出身というのは間違いではないのですが、私、実は妾腹なんです。弟扱いになっているひとりがもともとの六男で、同い年で誕生日が早かった私が割り込んだ形です。母親とふたりで暮らしていたのですが、事故に遭いまして。私だけが助かり、身寄りがないので施設に入れられそうになったのですが、父が名乗りを挙げてくれました。ということで、名目上は双子の兄となったわけです。これだけなら荒んだ背景の荒んだお話ですが、興味深いのはこの後です。私と弟は誕生日がほんの一日違いで、しかも並べてみると本物の双子に見えるという、神の悪戯とも悪ふざけとも取れるような瓜二つぶりだったのです。それまで私は父と会ったことがなかったのですが、最初に会ったとき、まあ、相当気まずそうにしていましたよ。そんなこんなで母と暮らしていた片田舎を離れ、私は実の父と、私にとっては他人のその家族と、都会のお屋敷に住まうことになりました。
 食べることでぎりぎりだったというのは、子供心にわかっていました。なので見渡せば必ずどこかで家族連れが歩いているような巨大な街で、その中でも一際目立つお屋敷に住むなんて。正直、最初はちょっとわくわくしました。私を庇って死んだ母には悪いと思いながらも、なにかと期待が溢れてきたのです。それまでの学校の勉強は面白くなかったし、この大きな街なら、楽しいことがあるかもしれない――。母の喪が明けないうちから不謹慎ですが、ここは逆に考えることにしました。母がいなくなって辛かった分、これからは楽しいことがあるのだと。この理論は母も肯定してくれる気がしました。
 今思うと無邪気でした。だって、一家の大黒柱が家族を裏切っていた象徴ですから。しかもなんの冗談なのか、その象徴が、そこの末っ子とそっくりそのままの外見をしているのです。家族からすれば、気分が良いはずがありません。案の定私は邪魔者として階段下の物置に閉じ込められ、わざわざその入り口に小さな窓を取り付け、残飯紛いの食事が載ったトレイを乱雑に挿しこまれるという家畜のような生活を強いられる有様でした。さすがにトイレだけは許可を得ていましたが、これもなるべく音を立てないように爪先立ちで歩いて、できる限り存在感を消し続けろというお達しの下でした。
 学校が夢のまた夢だと気付いた後は、狭い物置で、ただ本を読んで過ごしました。この本は身体の弱い3番目の兄が家族の目を盗んで差し入れてくれるもので、他にも子供が好きそうな妙ちくりんな玩具やお菓子をくれたり、私を除いた家族での外出の際、不調を嘯いては戻ってきて、自室に招いてピアノを教えてくれたり、古い映画を観たりしました。そうそう、捨てずに取っておいた使い古しの教科書で、勉強も教えてくれました。そのふたりだけの学校は、以前のものよりずっとずっと楽しかったです。
 その兄がよく言っていました。父が本当に愛しているのはお前だけだと。どうも父は四兄弟の末っ子で、一族の後継者になる気などさらさらなかったようです。しかし事情が変わり、いろいろな不運が重なり、いろいろなものを守るために、親の言う通り政略結婚せざるを得なくなってしまった。子供が多いのも一族の血を少しでも多く残しておく教えとその強制の結果で、母のほうは父を愛していたかもしれないけれど、父は決して母を愛していたわけではないのだとね。ああ、そういえば、兄も言っていました。これは独り言だと。そんなふうに茶化しながら、いつだったか、私の頭を撫でてくれました。
 結婚前、父には恋人がいました。ですが、先述の通り、家系が芳しくない事態に陥ってしまいました。既に家柄とはほとんど関係ないところで生活を立てていた父は、急遽故郷に呼び戻され、そのまま恋人と別れさせられ、息つく間もなく親の見立てた良家の女性と縁談を組むことになります。
 可哀想なことに、この女性、つまり私の義母ですが、父と同じような事情だったそうです。見かけ上夫婦となりましたが、その彼女も毎日泣き暮らしていたようです。でも、いつまでもこれではいけないと割り切ったのでしょう。ある日、いつものように赤く腫れた目をした彼女が父を観劇に誘ったのです。父は泣いている女性に慣れていなかったので――慣れている男性というのも嫌ですが――それまで最低限の接触しかしなかったのでとても驚きましたが、彼女の気持ちを汲み取りました。父もこんな生活を続けていてはダメだと思っていたのですね。女性のほうにきっかけをもたらされたのは、父として同じ男として少々残念な気もしますが、とにかくここから徐々に仲を深めていったそうです。それから何度か劇場に通い、その数回目で、観劇の途中でようやく初めて手を繋いだとか。これも父からではなかったとか。もうチャームポイントですよね。
 子供が産まれるに至り、しばらくは順調でした。事件が起こったのは、もともとの六男坊がまだ誕生していなかったときです。仕事柄各地を飛び回っていた父は、とある町でかつて将来を約束していた女性と再会してしまったのです。時を経て、彼女も生活拠点を変えていたのですね。お互い目が合ったが話すつもりはなかったとのことですが、偶然の連続でなんとなく会話して、そのうちに彼女が独り身だとわかってあとは流れ弾的に……という感じですかね。
 こう話すと母が最低の下女のような気がしますが、そんなことはないんですよ。なんというか、魔が差すってあるじゃないですか。父に既に5人の息子がいるんですから、それなりの年でしょう。それに、母にはもともと身寄りがなかったんです。ええ、先程私がお話ししたことですね。施設に入れられそうになったのだと。未来の、という頭文句は必須ですが、母の家族は父だけでした。ふたりともそのつもりでいたのに、相手側の一方的な都合で、ぽんと投げ出された。その後これと思う男性に出会うこともなく、寂しく年を重ね続けた。こんな言いわけをつけてみると、ちょっと同情しませんか? これがかつての、しかも酷い別れ方をした恋人の立場なら尚更。
 下衆な話はやめましょう。ともかくそういうわけで、父には内緒で、私がこの世に産声をあげたわけです。
 父の話に戻ります。実は父も丈夫なほうではなく、持病がありましてね。末息子なことと相俟って一族の後継候補から外されていたのでしょうが、突然遠い実家に連れて来られたり、突然親分に仕立て上げられたりとプレッシャーをかけられ、ストレスを溜め込んでしまったのでしょう。本気で自分を愛してくれるようになった義母への申し訳なさも、もちろんあったと思いますよ。結局本当に愛することなんてできなかったから、私がいるのですし。父は入退院を繰り返すようになり、やがてあっけなく亡くなってしまいました。一族の長を示す指輪は、この時点で前後継である祖父の手に戻っています。
 父が屋敷にいるときでさえ、私は物置から出られませんでした。ああ、恨んではいませんよ。父の性格もわかっていましたし、3番目の兄と同様、こっそり遊んでくれましたから。過程はどうあれ不貞の結末であることもその通りですし、断片的にではありますが、永遠に知らないと思っていた父の愛情を受けられました。私にとっては、思いがけないプラスなことでしたから。
 でもやはり、義母にとっては、私はどうしようもない憎い存在だったのでしょう。父というタガを失い、義母の性格はヒステリックなものへと変貌しました。そこにね、最大の事件が起きたのですよ。ここまでの話で、かつての私の家族たちが、なかなかに大きな組織をまとめる血族だということはお察しのことと思います。一応伏せておきますが、貴方も過去に名前を聞いたとくらいはあったでしょう。主人に御用なんですよね。
 ああ、さっきからつい話しかけてしまっていますね。申し訳ございません。小説の朗読でも聞いているつもりでいてください。
 結論を先に述べますと、弟が殺されたんです。ええ、私と瓜二つの、半分の血の繋がりの弟がね。セレブ一家の息子が誘拐され、莫大な身代金が要求されていると、新聞の一面を飾る程度にはニュースになっていました。おや、記憶にございますか。そうそう、結局お金は奪われたけど、人質は帰って来なかった事件です。ありがとうございます、というのも変ですけど。
 義母は鬼のような形相で私を物置から引きずり出し、どうしてお前じゃないのかと、何度も何度も私を叩きました。あのときは、さすがに居合わせた兄たちが止めに入ってくれました。3番目の兄なんて、もうどこかに電話をかける寸前でした。
 それからは陰惨な日々でした。短い期間のうちに義母の髪の毛は白くなり、肌から生気が抜けていきました。兄たちは、祖父の手回しによって、留学や研修の名目で次々と屋敷を出ていきました。あのときは何故ここで義母をひとり残すような真似をするのかわかりませんでしたが、きっと祖父なりの配慮だったのでしょう。子供にこれ以上親の痛々しい姿を見せないための。時間が経って落ち着いたら、整理がついたら、また一緒に暮らせばいい。そんな邪気のない考えだった可能性もありますね。
 でも、私は別でした。私は死んだ弟そっくりなのですから、そのほうがいいのかもしれませんが。学校にも行っていなかった身分の私は、遠く離れた地の別のお屋敷に献上されたというわけです。――売られたかどうか? さあ。知りません。考えないようにしています。まあそういうわけで、あれから12年経ちますが、家族とは一度も会っていません。ひとりを除いて。
 そう、あの優しい、病弱な父の遺伝子を濃く受け継いでしまった3番目の兄です。もうとっくにおわかりですね。この屋敷の主人というのが、私の兄です。驚かないでしょう。バレてますものね。とぼけないで大丈夫ですよ、お互い様ですし。兄の帰宅まで遠慮せずくつろいでいてください。取って食ったりしませんから。
 なにやら疑わしそうなお顔ですが。もしかしてこの喋り方でしょうか。ふふ、そうですよ。兄ですが主人ですので、こんな感じでやらせていただいてます。というのも、これが私にとっては一番楽なので。なんせ物置を追い出された後は、こうした言葉遣いと人に仕えることにしか馴染みがないもので。兄は最初こそ戸惑っていましたが、理解してくれました。今では家主然としていますし、たまに迷い込んで来た人を泊めることがありますが、兄弟とは気付かれませんよ。今聞いてもまさかと思うのではないでしょうか。
 そろそろ暴露しましょうか。まさにこの屋敷が、私が連れて来られた場所です。予想されていたのに無表情ですね。クイズは当たると楽しいでしょう? だって楽しくないなら意味ないですし。おすし。
 ……滑りましたね。よろしい。質問があればお答えしましょう。
 兄がいつからここにいたのか? 聞く意味ありますか、と言う返しは野暮ですね。7年前です。捜索願を出されていたことは知っているか? 知りませんが、そんなところとは思っていました。でも、ちょうど学校を出て社会人になるタイミングでしょうか。在校のうちに失踪しなかったところは兄らしいです。学生は過剰なまでに保護されますから。
 それにしても、捜索願ですか。私がいなくなったとしても、誰も出してくれないでしょうね。兄のほうから警察のお世話になることはなさそうですし。
 さて、話を続けましょうか。弟の誘拐を焚きつけたのがあの優しい兄だったのではと最初に疑ったのは、私がこの屋敷に来てからいくらか経った頃でした。自分で言うのもなんですが、当時の主人……ややこしいので、お館様とでもしましょうか。お館様に、なかなか気に入っていただきまして。ドール、なんて呼ばれてました。私が使用人たちの中で一番幼かったからでしょうね。で、ご用命を受けてお部屋にお邪魔することがよくありました。
 あるときお客様が来られまして、お茶とお菓子を持ってくるようにと、使用人頭を伝って命じられました。銀のトレイにシェフの用意した紅茶と焼き菓子を載せ、お部屋に通していただいたのですが、好きで運ばせる割にはお館様は私などそっちのけです。私が失礼してお皿とカップを並べている間もお客様とお話していて、仕事の相談話から、過去の思い出話にシフトしていったようでした。
 俗な言い方をしますが、お館様がやばい仕事で資産を築いていることは知っていました。そういうことって、なんとなくわかるじゃないですか。他の使用人たちも知っているようでしたが、みんな私と似たような境遇だったのでしょうね。告発しようと思えばなんとかできたのでしょうが、したとしてその後に頼れる家族もいなければ、まともな職に就けるほどの学や技能があるわけでもない。戸籍すらない者も、識字できない者もいたと聞きます。それなら三食とベッドと屋根があるお屋敷に留まったほうが賢い。私も例に漏れずその考えでしたし、もしこの場所からの脱出に失敗しようものなら、それこそお館様の得意分野ですからね。
 お館様たちは、過去、とある富裕層の屋敷に電話をかけました。ただそれだけのことで、信じられないような大金をせしめました。私が聞いた話はそれだけでしたが、弟がいなくなったあの事件を連想しました。おふたりは私を背景とでも認識しているような状態なので、私がお茶を引っくり返しそうになることにも、必死にそれを防いで気丈を装っていることにも気付かずに楽しい思い出話を続け、また別の話題へと流れていきました。
 なんのリスクも労力もなく、電話一本だけであんなに金が入るなんて。またそういう上手い仕事がないだろうか。あるわけがない、あれは特例中の特例だろう。2人の会話は、なんとか不手際なく退室した後も私の頭の中で繰り返し廻っていました。同時に、自分も引いているその血のことも考えていました。
 これもすべて3番目の兄から聞いたことですが、後継者候補の序列最下層に位置していた父は知らなかったようですが、もともとこの家系は、人を騙したり弱味につけこんだり力で押し伏せることでのし上がってきたそうです。その手法を受け入れられなかった父は、被害者に謝りに行くとか警察に行くとか、それはもう真っ黒な血筋のトップにはあまりにも相応しくない有体で、父自身も、両親からなかなかの折檻を受けたのだとか。それでもせめて自分の代からはと、内情を調整していたらしいです。要するに手切れ金ですね。これを握らせて、やばい人間とは永遠におさらばしたと――少なくとも父はそのつもりだったのでしょう。適当なチンピラ集団ではなく、一応筋の通った悪党たちのボスが父だったということで、納得のいく金額が提示されればそれ以上の関わりを強要されなかったのだけが救いでした。
 裏を返せば、納得のいく金額を提示すれば、また依頼をこなしてくれるということですよね。その一度だけぽっきりと。
 ……どうしてこれで弟殺しが兄だと思うのか? 変なことを疑問に思われるのですね。当然ではありませんか。
 例えば兄なら、電話の依頼くらいできるなと。よくお出かけの最中にひとりで帰宅していたので、機会はいくらでもありそうですし。それに、お館様たちは本当に電話をかけただけで誘拐なんてしていないというのなら、弟はどこに行ったのです? 実際に消えてしまっているんですよ。そこに電話をかけただけだなんて話があったら、まさかと思えませんか? まあでも、それこそまさかあの優しい兄が黒幕だなんて考えたくなかったので、あのときは、それ以上考えていません。次のお仕事も盛りだくさんで、頭を使うことはいっぱいあったので。なにせやばいことをしている人たちなのだ。特例中の特例だからと言って、うちの屋敷とは限るまい。そう思い込むことにしてお仕事に没頭しているうちに、その嫌なことは頭から消え去っていました。
 ある冬の日の早朝、私は指を真っ赤にしながら、薄いコートを羽織ってお屋敷の壁を拭いていました。もうあまり覚えていませんが、誰かになにかをこじつけて酷く叱られて、罰としてきつい水仕事を言いつけられたのでしょうね。そうでないならわざわざ朝からやらせることではないので。今では小ぶりに見えるこのお屋敷も、子供の私には巨大に見えました。いくらやっても永遠に終わらないのでは、もうすぐお昼なのでは、でも終わってないのに休憩なんかしていたらまた怒られる――そんなふうに思いながら濡れた雑巾を滑らせていると、不意に誰かに手を止められました。さすがに驚いて変な声が出ましたね。足音になんて全然気づきませんでした。
「お仕事中かい? ご苦労さま」
 ああ、その一言のなんと温かいこと。その一言で、どれだけ救われたか知れません。貴方はとてもお察しが良いようですから、とっくにお気づきかと思いますが敢えて白状しましょう。当時、私の居場所はどこにもありませんでした。毎日誰にも怒られないように、怒られてもなるべく軽く済むように必死でした。お館様には大層気に入っていただきましたが、それと良くしていただいたというのは別です。でも、どうなんでしょうね。寝床と食事があるだけ贅沢だったのかもしれませんが、それも今だから思うことで、無知な子供だった私に判断できることではありませんし。
 そう言えばご存じです? 人が死ぬ間際、一番最後まで残っている感覚は聴覚なんですってね。これだけ聞くと、人にとって音というのは最も強固で鋭い信号なのだと思っちゃいますよね。でも、生きている人が亡くなってしまった人のどの部分を一番最初に忘れるのかというと、これは声なんだそうですよ。なんだか不思議ですよね。ああ、はい、余談です。思い出したので言ってみました。
 懐かしくて優しい兄の声だとすぐにわかりましたが、私はなかなか振り向くことができませんでした。やっとここを出ていけるんだ。今度こそ学校に行けるんだ。そうだ、母のお墓にも行きたい。一瞬で次々と都合のいいことを考え、身ひとつでお屋敷を離れる気持ちでいっぱいだったのに、です。ええ、そう。兄が弟を殺したのではと疑ったことを思い出したのです。
 簡潔に結論を申し上げましょう。怖くなったのです。まさかそんなことあるはずがないと言い聞かせようとしましたが、何分そう主張できる材料がありません。しかも私はその弟と瓜二つ。なにがどう関与して、同じことが起こるか知れません。物置で暮らしていた頃は兄が心の拠り所だったのに、今はその兄を信じることができないのです。こうなると、救われたと感じた気持ちはどこへやら。唯一縋っていられた思い出さえ遠のいてしまって、なんだか更に独りぼっちになってしまったような、そんな悲しい気持ちがどっと押し寄せてきました。
「そんな格好じゃ寒いだろうに。これでよければ」
 肩にコートをかけられると、ほんのりと甘く、懐かしい兄の匂いが鼻先で広がりました。そして私は、はたと現実に立ち返ることになります。

「あの」
 兄とどんなふうにお喋りしていたのか、もちろんちゃんと覚えていました。でも、私はもうその砕けた口調の使い方がわからなくなっていました。ああ、自分は優しくしてもらった兄に対してさえも、こんな態度しか取れないのだ。泣きたくなりましたが、泣いている場合ではありません。潤む視界をどうにか誤魔化しながら、私は兄を見上げました。いつの間にか白い細かい雪が舞い始めており、雪とともに構図の主として収まるか細い影を持つ兄の姿は、まるで額縁に閉じられた絵画のようでした。
「失礼ですが、お約束されているのでしょうか」
 兄は目を丸くして、まじまじと私を見ていました。いたたまれず私は俯きましたが、形式を守らなければどんな懲罰が待っているかわかりません。実際、本当にお館様と約束があるとすれば、私たち使用人どもがそれを知らないはずはなかったのです。いくらお屋敷の誰かの機嫌が悪かったとしても、陽の昇りきらない朝から屋外での水掃除を子供に言いつけるなんて暴挙もないでしょう。兄が完全にイレギュラーであることは明白でした。
「ごめんよ、急用なんだ。連絡する間がなくてね」
 顔すら上げない私に、兄は昔のままでした。柔らかい物腰で、身体が弱いのに膝を折って、私としっかり頭の高さを合わせてくれる。その優しさに応える術を持たない私はじくじくと胸を痛めながらも、他人行儀な距離間をどうすることもできませんでした。
「少しで済むことなんだ。ご主人を呼んで来てはもらえないかな」
「私では判断できかねます」
「なら、偉い人を呼んで来てもらえない? 急に迷惑だとは思うけど、お願いしてみたいんだ」
 実際、突然の訪問にならざるを得ないという案件は、状況の違いはあれども起こることだと思います。不測の事態の際は、とりあえず使用人頭に伝えるように。そう教えられていましたので、私は兄にお辞儀をして背を向けました。向けましたが、二歩だけ進んで、また振り返りました。
「あの、大変失礼なんですが」
 兄はにこやかに私に笑いかけてくれます。その笑顔に卑屈な私はまたもや絶望したのですが、なんとか堪えました。ただ、辛うじて兄の襟元を見るのがやっとで、やっぱり目を合わせることはできませんでした。
「これ、お返しします。お客様のものですので」
「寒いだろ? 着ておけばいい」
 お前はどれほど人間味を失っているのかと、心底自分を呪いました。それでも兄は、そんな私に間髪を入れませんでした。この時点でもう、私にとって、本当に兄が弟を殺したかどうかなんて些末な問題に成り果てていました。お屋敷の使用人仲間は私に高熱があろうと容赦なく聖堂の掃除や庭の手入れを言いつけ、それで倒れたからと言って、翌日非番にしてくれたりしません。それに引きかえ、寒いだろ、の一言のどれだけ温かったことか。冷たい雑巾なんて放り捨てて、兄に泣きつきたかったくらいです。
 ですが、ダメです。兄とは言え、当時の私はお屋敷サイド。お客様のお荷物を預かるならまだしも、防寒具を借りているなんてとんでもないことです。お客様にとっては善意なのでしょうが、優しくされた私を見た他の使用人たちは面白くないでしょう。きっとまた捌ききれない量の仕事を押し付けられ、新しいタネを撒くだけです。私はコートを取り去り、呆然とする兄に押しつけました。
「すぐ戻りますからお待ちください」
 そして私は再び兄に背を向け、お屋敷の扉を開けました。そのすぐ先に、お館様の給仕を終えたばかりの少し年上の使用人がいました。
 しまったと思いました。焦って正面から入ってしまいましたが、落ち着いていれば、目の前に誰もいないことをちゃんと確認していたところです。当時の私の毎日においては、いかに誰とも接触しないかということが最重要課題。突然の兄の訪問に驚いたこともそうですが、それよりも、弟として接することができなかったのがショックのあまり、通常では考えがたい大失態を犯してしまいました。
 動揺が動揺を煽り、私は声を発することができませんでした。冷たく見下ろすその視線から逃げることもできず、一歩二歩と、後ずさりました。少し上にある顔が一層不機嫌そうに歪み、もの言いたげに唇が捻じ曲がったとき、不意に視線が動きました。つられて私も背後を窺いました。するとなんと、穏やかな表情の兄が歩み寄ってくるではありませんか。お客様とは言え、お館様の許可なく屋敷内に立ち入ることは許されません。様々な想像が瞬時に膨れ上がり、それはいずれも兄が無事では済まないことばかりで、発狂紛いに叫びそうになりました。息を吸ったその一瞬、私は思い切り肩を突き飛ばされました。使用人の中で最も年下で、目を避けるあまり食事を抜きがちだった私は踏ん張ることができず、両手と両膝を床についてしまいました。
「申し訳ありません、お客様」
 兄が私を見ていることに気付いたのでしょうね。失笑するような声が聞こえました。反論できるわけもなく、私はただ、派手な赤い絨毯を引っ掻きました。ますます惨めになるだけでした。
 限界まで張っていた風船が急速に萎んでいくような、そんな気の抜けた心地になってきました。なんだか疲れた。楽しい映画を観て、ご飯を食べて、デザートに大きなイチゴが載ったチョコレートのケーキを食べて、シャワーを浴びてふかふかのベッドで眠りたい。でも実現するためには、あまりにも障害が多すぎる。どうしたらいいだろう。どうしたら――。恐ろしい考えが頭の中で膨れ上がってきた、とだけ申しておきましょう。
 丁重な言葉と愛想のいい笑顔で、兄は説明されていました。申し訳ないが許可を得るまではお通しできないこと、確認してくるので少しだけ待っていて欲しいこと。私も遂行したマニュアル通りの対応でしたが、お客様をきちんと留めておけなかったと、後で難癖をつけられることでしょう。もうどうしようもない、すべては仕方のないことです。解放されるために考えたことは、考えることそのものに意味があり、娯楽であり、逃避でもあるのです。短い時間に一頻り妄想したことで、ほんの少しだけ気が楽になっていました。あとはなるべく叱られる時間を少なくするために、少しでも早くお言いつけのお掃除を終わらせよう。さすがに夜はご飯を食べたかったので、重たい身体を引っ張り上げて、私は兄とは反対方向に足を向けました。すれ違いざまに短く呼びかけられましたが、気付かないふりをしました。
 異変があったとのはそのときです。無許可とは言え、お屋敷内に立ち入ったお客様を再び追い出すことはなりません。お客様にはとりあえずその場でお待ちいただいて、この後は先程ご説明申し上げた通りですね。こういうときのために設置された長椅子に兄は案内されていたところだったのですが、靴音がしませんでした。その代わりに、小さなものが素早く動かされて風を凪ぐような、そんな音が聞こえました。今度はある程度の重さのものが落下するような音が響きました。何事かと私は振り返りました。憎たらしいその使用人が、声もなく倒れていました。
 なにが起きたのかわからないまま、動かない使用人を視界の中心に立ち尽くしていました。その手の知識などありませんでしたが、目の前の人から生気が完全に消滅してしまい、それが兄の手によりもたらされた壊滅であるという事実が、とてつもない勢いを以って全身を突き刺しました。弟の死が頭をよぎり、一度は些末に思えたそれが、再び大きく張り裂けそうなほどに密度を増して肥大化しました。私の心臓は、今にも皮膚を突き破って飛び出してきそうなほどに波打っていました。
 蹲った身体から円形に流れ出た血が、絨毯を染めていました。赤い絨毯を汚すそれは黒く見え、まるで墨を滲ませているようでした。
墨を身体から零すそれは、人間ではないように思えました。人間ではないならこれは事故のひとつで、兄は悪くないのではないかという支離滅裂な考えさえ浮かんできました。
「悪いけど、ちょっと見せてくれる?」
 はっと息を呑みました。気づけば兄がすぐ隣にいます。その手には粘ついた赤黒い液体が生々しく光沢するナイフと、右手の親指に染み込んだ同じ色が細かい筋を浮き立たせている様が、敢然と私の視界に飛び込んできました。
 自分でも気付いてませんでしたが、反射で襟元を押さえていました。兄はそれをしっかりと見ていて、温かい手で優しく私の手を下ろし、シャツのボタンを3つほど開きました。そこに灯されたいくつもの醜い痣を、兄は無言で見つめていました。お館様が年端行かない使用人たちを呼びつけるのは間々ありましたが、中でも段違いに私をお気に召しでした。最初はわからなかったのですが、先輩たちの態度や、書庫の本を隠れて読んでいるうちに、お館様のそれが普通ではなく私への愛情でもないことがわかりました。耐え忍んでいた私に、兄はすぐに気付いたのです。というよりも、最初から普通ではないところに乗り込む気積もりだったので、それくらいはあるのではと予想していたのかもしれません。
「ごめんね」
 心底申し訳なさそうに、同時に私を慰めるように、兄はそう言ってボタンを閉めてくれました。不意に猛烈に目と鼻が熱くなってきて、止めどなく涙が溢れてきました。兄は私の頭を撫でると、一度は着ていたコートを再び貸してくれました。大きすぎる袖で涙を拭いながら、兄の前に出て歩きました。兄は私の歩幅に合わせて、少し後ろをついてきてくれました。
 非番の使用人たちも、全員お屋敷にいます。行く場所などありませんからね。順番に案内して、私が酷い扱いを受けていることを知っていた使用人頭のところにも行って、お館様の書斎にお邪魔するためにマスターキーを拝借しました。
 兄は書斎の鍵穴にマスターキーを挿し込み、ゆっくりと回しました。この音で飛び出してくるだろう、そこを一突きしようと算段をつけていましたが、扉の向こうの気配に変化がありません。
「寝てるんだね」
 日常の1コマの内のように、兄は自然に言いました。お館様には一応表向きの仕事があり、それをいつも書斎でこなしていて、ときどき時間に関係なく仮眠していることは既に話してありました。兄の振るうナイフはあまりにも正確でした。狙いをつけられた者に逃げる間も叫ぶ間も与えなかったので、騒ぎにはなっていません。却ってお館様の様子が窺えなかったのです。
 自分の城で大惨劇が起きているなんてちっとも知らず、お館様はベッドで眠っていました。机の上にはペンや紙が散らばっていました。お館様の表向きの職業は小説家でした。小説家なんてきっと大変な変わり者に違いないから、だからこの変な場所にお屋敷を構えたことにも誰も突っ込まなかったのでしょう。これだけは子供の頃からの変わらない夢で、大人になってから叶えたそうです。これだけは、の部分に妙に力が入っていて、意識が薄れてくたくただった私の耳にも残っていました。
「どうしようか」
 急に質問され、私はたじろぎました。私と目線を合わせてくれる兄の表情は、実に穏やかでした。表情と問いかけていることがまったく噛み合っていませんでした。私は自分の右手と眠っているお館様を数度見比べ、首を横に振りました。
「お前は本当に優しい子だね」
 兄はそう言うと、三度私の頭を撫でた後、お館様の胸にナイフを突きたてました。心なしか、前の数人よりも荒いやり方に見えました。
 お顔の色が優れないようです。お水でもお持ちしましょうか。構いませんか。まあ私も、こんなことを喋っていてなんですが、分別くらいはつきますのでね。内容を少し省きます。
 私たち兄弟は平穏に暮らしました。兄は意外にも料理上手で、庶民的な家庭料理はもちろんのこと、私がいつも夢想していたチョコレートのケーキも作ってくれました。結局私は板についた喋り方を矯正することはできなかったのですが、それでも幸せでした。やっと家族と普通に――いいえ、普通とは言いかねますが、一緒に暮らしていいのだと。家主となった兄は件の書斎を自分の個室として、私が望めばいつでも中に入れてくださいました。兄は昔よりももっと博識になっていて、私は毎日その知識を分け与えられ、行ったことのない大学やその学習分野、顔も知らない教諭たちに詳しくなっていきました。
 言うまでもなく、弟を殺したのは兄だと確信しきっていました。いつかの来客時にお館様とお客様が話していたのはやはりうちの家系のことで、彼らは本当に電話をしただけなのでしょう。すべては兄の画策なのです。電話がかかってきた時点で、弟はもう処分済みだったわけです。理由なんて知りませんよ。でも、よく考えてみてください。頼まれたからと言って誘拐なんてしますか? 誘拐そのものを疑わなかったのは、いつそれが起こってもおかしくない家柄だったとしたら? そこに電話を一本かけるだけで大金を出すなんて条件を提示されたら、悪事に慣れた不良どもなら喜んで乗ってくるのでは? 誘拐なんて最初から起こっていない、誘拐犯なんて最初からいなかったと仮定するほうが、よっぽど腑に落ちるではありませんか。
 ……腑に落ちない? どの部分が? 兄が弟を殺した理由については、知らないと申し上げたはずですが。一応申しておきますが、兄が丈夫ではないことは本当ですよ。今でも定期的に医師にかかっておりますし、それは貴方もご存じなのでは? 兄を探してここに来たのですよね?
 煽るのはよしましょう。貴方にとってはわからないことだらけというのもわかりますから。半分とは言え、同じ血を引く弟を殺した兄を容認している私の心理とかもね。それについては、それなりの理由をつけることは可能です。生き地獄から私を救ってくれたから、というのがベターですかね。
 ふふ。ああ、すみません。だって貴方、さっきからやたらと知りたがるものですから。もちろん私だって兄のことがどうでもいいわけではないです。でも、なんと申しましょうか。追及する気はないんですよね。それに、わからないから教えてくれの一点張りとは、あまり関心できたものとも思えません。
 使用人風情が偉そうにとお思いかもしれませんが、まあもう暫くお付き合いください。直に兄が戻りますから。
 繰り返しますが、追及する気はございません。戯言として聞き流してください。もしかしたら、兄は私と同じ腹だったのではないかと思うのですよ。そうでもないとしたら、父が私の出自をこの兄にだけ打ち明ける説明がつかないのです。酒を酌み交わすような世代の親友でもない、自分の子供に、世間一般で言う不倫先でできた子供のことなんかをね。父は過ちを犯しましたが、ここまでお話ししてきた通り、別に軟弱だったわけではないので。
 とすれば、疑問が出てきます。まさにその不倫先で誕生した私をあれほど疎ましく扱ってきた義母なのに、何故兄に対しては我が子のように接していたのか。例えば父の連れ子の長男だったとすれば説明しやすいことですが、実際は三男坊ですからね。明らかに自分の子供ではないとしたら、私と同じような境遇に至らなかったことの合点がいかないではありませんか。
 これも真実は不明ですが、憶測することはできます。望んではいなかったにしろ、父の権力は町では絶大でした。兄が義母の実子ではないとして、それに気付かないように工作するほどの手段があったとしたらどうでしょう。
 ぶっ飛んでいますよねえ。甚だ承知しております次第です。母親が自分の子供を間違えるだろうか? そんな道理が通るなら、赤子の取り違えなんてニュースはないでしょう。故意に入れ替えるなら、産院の内部に協力者が必要では? それは問題にならないことは、ここまでのお話で理解できるでしょう。成長して顔つきや体格がはっきりしてくればわかるのでは? それくらいは想像したかもしれませんね。でも信じたくないでしょう? それに実際自分の子ではないとして、赤の他人の子というわけでもないのなら、上手く自分の心の中で誤魔化すとか。そういう例ってたくさんありそうですよね。
 ああ、ますます父が卑劣な下衆、実母が泥棒猫みたいな話になってしまいました。息子として心外ではありますが、これが一番納得できるのだから仕方ありません。些細な偶然から私が生まれたと思っていれば、それより前から、父は母と逢瀬を繰り返していたと。つける薬はなさそうですね。あっても死んでいるのでつけられませんが。そう言えば、実母から聞いたことがありました。私には兄がいたそうなんですよ。死産したらしいですけれど。
 さて、なぜだかとってもご機嫌斜めなご様子ですが、もうそろそろの辛抱です。まだひとつ疑問が残っていますね。義母が産んだ本当の子供はどこにいったのかということです。まあこれはでも、話題にするようなことでもないですか。それこそ父の権力の下です。貴方、ご両親は? 里親だったりしますか? ……ああ、失礼しました。そのご機嫌斜めそうなご様子が、どうも義母に似ていたものでして。
 ふむ。兄の帰宅までもう少しかと思いますが、その前にひとつお聞きします。兄を連れて戻るなんて計画はここで打ち止めにして、この屋敷で一緒に暮らしませんか? 部屋はたくさん余っていますし、私もサポートしますから。不便な生活とお思いかもしませんが、案外そうでもないですよ。週に一度は買い出しに街に出ていますし、おそらく兄ならインターネット環境だって整えてくれます。お仕事なんてしなくてもお金はあり余っていますし、ここでできることなんて他にもあるじゃないですか。そうだ、兄は孤児院の設立と援助をしているので、そんな感じでやられてみては。もちろん念のために偽名での名義になるかとは思いますが、気にならないのなら。とんでもない、冗談ではありませんよ。私はいつだって真面目です。
 ところで、兄は外でなにをしでかしたのです? 捜索願なんて嘘でしょう? わかりますよ、そのくらいは。だいたい7年経てば失踪者は死亡認定されますし、貴方に話を合わせていただけです。兄がここに来た7年前、誰かいなくなったのですか。そして頃合いを見て、兄もいなくなったということでしょうか。ああでも、そうだとしたら、ちょっと悲しいですね。私を助けることを目的に、ここに来たわけではないのかもしれないと思うと。いや、前向きに考えましょう。私を探していて、なにかの弾みで誰かを死なせて、逃げる必要があったのでここに来た。よし、これでいきましょう。これなら逃げることも私を助けることも可能なので、一石二鳥というのもの。兄が選択しそうです。
 で、どうされますか。考えてみる気はありませんか。このお屋敷での暮らし。貴方は兄を探して、居場所を突き止めて、こんなところまで来てくださった。恐ろしいくらいの時間と労力を割いてくださったのでしょう。兄のためにそこまで身を砕いてくださったこと、心から感謝致します。本当ですよ。兄の友人なら私の友人でもあるのです。友人は大切にしなければ。
 おやおや、そんなに怒らないでください。別に煽っていませんよ。ただ、貴方がどうしても兄をここから連れ出したいご様子ですので、こちらも少々躍起になってしまいまして。だいたい貴方は兄を連れ出してどうなさるおつもりなのです? 警察に突き出すのですか? それが兄のためだと? 兄が失踪するに至った何某かの事件と、今ここで訊いた話を合わせて。自首しないならそうするしかない、と仰るわけですね。まあ倫理的にはそうでしょうね。でも、なぜそこまで? ――友人は大切しなければ? これは上手く返されましたね。少し貴方を見くびっていました。さすが私と兄の友人です。
 悪いことは申しません。ここで暮らす気がないのなら、何も見なかったことにして、聞かなかったことにして、どこにも行かなかったことにして、町に戻られてはいかがでしょうか。だってね、先程から再三申し上げている通り、兄が直に帰宅するのです。兄が貴方にどんな姿を見せていたのかは存じ上げませんが、すべて嘘八百というのもの。兄のことは忘れて自分の日常に戻ってください。
 まあ、それでもね。強情な方は嫌いではありませんよ。
 お帰りなさいませ、ご主人様。お客様をお迎えしております。美しいお方ではありませんか、嫉妬しちゃいますね。では、ひとまずお茶に……え? ああ、左様でございますか。なんとお忙しいこと。いってらっしゃいませ。
 そう乱雑に席を立たれてはいけません。どうぞお掛けになって。心配せずとも、兄は追加の用事を思い出したので、遅くなるので一度戻って来ただけとのことです。待っていれば戻ります。貴方に待つ気があればですが。
 ふふ。冷たい態度でしたね。我が主人が失礼致しました。でもこれでおわかりでしょう。所謂最後通牒というあれです。再度お訊ねしますが、どうされますか。ここで暮らすか、なにも見なかったことにして引き返すか。私はどちらでも構いません。主人がちょこちょこいなくなるので、話し相手になっていただければ嬉しいですが。
 私の兄だろうが姉だろうが、果ては兄の友人だろうが恋人だろうが、最初からそんなことはどうでも良いのです。私も兄も、やっと干渉されない静かな暮らしを手に入れたのですよ。やっと家族として、私は名前を呼んでもらえる人間として生きているのです。それを邪魔立てしようというなら容赦しません。倫理など知ったことではありません。私たちは生まれたときから倫理の外にいたのです。今更内側になど行けないし、行く気もありません。
 お茶もお菓子も減っていませんね。仮にも人殺しを追ってきたのなら、それくらい警戒して然り。ただしお探しの毒は、ずっと漂っているこの香りのほうですけど。
 嘘だと思うならそれで構いませんよ。実際今は平気なんですから。でも、それならどうして、こうして長々と私のくだらない出自など話して聞かせられたのです? 兄がタイミングよく外出しているなんて、本当に思いましたか? 普通の家でも裏口や勝手口や窓といった外への扉があるものですが、貴方は人格も詰めもお甘いようだ。だからこんなところまで来たのでしょうが、それもすべて水の泡。
 外に出るならどうぞ。貴方が単身なことはわかりきっていますから。散々時間稼ぎさせていただきましたので、もうすぐ動けなくなりますよ。私は――もう隠す必要もないですね。兄も、慣れているので平気です。気に入っているくらいです。あとは貴方が動けなくなったところで、私たちはどうとでもできます。私たちがなにもしなくても、路から外れていけば野生動物だっていますよ。その子たちに喰わせてみましょうか。できれば意識が消えきる前に。そして私は耳元で、今どんなお気持ちかと訊ねるのです。聴覚は最後まで残っていますから、よく聞こえることでしょう。でも貴方は答えることができない。私は貴方の声なんてすぐに忘れてしまう。面白いではないですか。
 私もね、娯楽がないのですよ。主人の世話やお仕事のお手伝い、お屋敷の雑務でだいたい時間は潰れますが、たまには息抜きしたくなるでしょ。映画や小説では足りないときもあるので。
 え? ああ、今更気付かれましても。貴方がここに一歩踏み込んだ当初から、無事に帰す気なんてありませんでした。どうしてもというなら、ここで暮らすことを条件に、解毒剤を差し上げても良いですよ。私と仲良くしてくださいよ。貴方はどんな暮らしをしていたのです? 兄とは学生時代からの付き合いですか? いろいろ聞かせて欲しいです。
 ……嘘八百。貴方もそうではありませんか。判断するのは貴方です。でも、そうと言うなら、ここは嘘八百でも頷けばよろしいのに。そして脱出と摘発の機会を窺うほうが、よっぽど現実的ですよ。
 もしかしたら今この件に関しては嘘など吐いておらず、私は本当に、解毒剤を差し上げたかもしれない。毒に慣れているなら解毒剤なんて不要かとお思いかもしれませんが、どうか冷静になってくださいね。7年前、兄は学生上がりの、しかもやれ金持ちと優遇されてきた無知な若者。身体には不自由があり、医師の定期健診が必須。私は気ままに愛でられるためだけの愛玩品。使用人のお繕いとして与えられていた仕事は、せいぜい掃除と食事の配膳程度のもの。こーんな小さな子供でしたし。暮らしていけるわけがないでしょう。
 ここまで言っても気が変わらないなら、もう私にできることはありませんね。残念なことです。残念なことですが、強情な方は嫌いではないので。
 では、お気をつけてお帰りください。またのお越しをお待ちしております。幸運を祈っていますよ。

嘘八百

お疲れさまでした。なにが嘘でなにが本当なんでしょうね。
ありがとうございました。目を休めてね。

嘘八百

それにしても珍しい。見ての通りのこんな辺鄙な場所ですから。 という始まり方の、実によくある物語です。 ミステリーというほどのものでもないですが、失踪した友人を探し回って辿り着いた場所が……という。 世界観は曖昧。 ちょっと長いので休憩しながらどうぞ。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-01

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