鬼娘
1
火曜日の夜。
あたしは愛車のドゥカティ・モンスター796で第三京浜をぶっ飛ばしているところだった。突然、腰の携帯のバイブが鳴り出したんだ。
携帯はフルフェイスのメットからインカムで通話が出来る。しかし残念ながらデスプレイは視えないので、誰からの電話かは分からない。もしも事前に分かっていたら、あたしは断然シカトを決めつけただろう。
「おう、あたしだ、あたし。お前いまどこにいるんだ?」
イヤホンから響くハスキーボイス。いや、ハスキーなんてもんじゃない。完全に酒焼けしきって潰れまくったガラガラ声だ。
ゲッ。クレハのババアじゃねえか。
メチャクチャ嫌な予感がする。
「いや、あたし、今日非番なんで」
「そんなこたぁどうでもいいんだよ、クソアマ。どこにいるか聴いてるんだ」
「はあ、横浜っすけど」
「等々力の尾山台だ。15分で来い」
「何言ってんかわかんないっすけど」
「いいから15分で来い。遅れたらぶっ飛ばすぞ、コラァ」
そう言って一方的に切れた。ババアからの電話は大体がそうだ。いまさら驚くには値しないが、それにしてもいちいち腹が立つ。
呉羽かすみ。通り名は「エンピのクレハ」。
エンピとは「猿臂」と書く。猿のように長い腕の意味だ。一般的には空手の肘打ちを差していうが、彼女のエンピはアルマジェロの鍵爪のように尖っていてほとんど凶器に近い。多分ヤンキー時代のアダ名と思われるが、あたしは詳しくは知らない。
そう。呉羽かすみはあたしの上司だ。
警視庁捜査一課長。階級は警視である。なんでこんな女が一課長なのかまるで理解が出来ない。
もっともあたしだって人のことは言えないが。
とにかくこの女にとっては昼も夜もない。非番も休みも関係ない。行けと言われりゃどこでも行かなくてはならない。宮仕えの辛いところだ。
京浜高速を引き返して、指定通り15分で現場についた。宇佐神社近くの高級住宅街だ。隣は田園調布。10階建のマンションのエントランスが黄色と黒の規制テープで仕切られている。
「ちす」
制服の張り番に挨拶して通り過ぎようとしたら、おいおいどこに行くんだと止められた。
漆黒のライダースーツにショッキングピンクのフルメットじゃ仕方がない。あたしはスーツのポケットからバッチを取り出した。
警視庁捜査一課第八強行犯捜査係の二階堂真樹乃巡査。それがあたしの身分だ。
現場は7階のはずだった。エレベーターから降りると、廊下の突き当たりに制服の警官が立番をしてるから、現場であるガイシャ(被害者)の部屋はすぐに分かった。
部屋の前には数人の鑑識課員が器具の後片付けをしている。現場検証は終わったらしい。
玄関を入ったすぐの所に川浪警部補が難しい顔をして立っていた。とはいえ別に怒っている訳ではない。元々がこんな顔なのだ。
鑑識員の報告を待っているらしい。
「お疲れっす」
「早かったな」
相変わらずの仏頂面だ。
川浪琢朗警部補。うちの係では吾妻係長に継ぐNo.2だ。もっとも吾妻係長は滅多に現場に出てこないので、実質上はこの人が現場の責任者ということになる。
きっちり七三に分けた髪型。気障ったらしい縁なしのメガネ。ここだけの話だが、はっきり言ってあたしはこの人が苦手だ。
「課長から15分で来いと言われたもんで。・・・コロシっすかね」
「いや」
警部補は渋顔を崩さないまま言った。
「状況は完全に自殺だ」
「自殺?」
「寝室のドアノブに紐を括りつけて首を吊ったんだ。縊死だな」
状況が自殺の場合は、滅多なことでは本庁に応援の要請は来ない。帳場(捜査本部)が立たないからだ。
「んじゃ、なんであたしらが呼ばれたんす?」
「先程、二子玉のライブバーでコロシがあったんだ。玉川署の捜査員はそちらに取られて人手が足りない」
「そうなんですか?」
「マルB(暴力団)の関与も疑われるというので、組犯(組織犯罪対策課)の連中も駆り出されてるそうだ。うちからは捜4(強行犯捜査第4係)が出ている」
「捜4? 新堂係長のところすか」
新堂武士警部は川浪主任とは真逆。ガッシリとしたスポーツマンタイプの男で、柔道4段、剣道5段の実力者だときく。7人いる係長の中ではまあ、マシなほうだ。
「そうだ」
「つまりこちらは、うちらだけってことすか?」
後片付けを終えた鑑識員が警部補に報告を始めた。それを横目で眺めながら部屋の中へと足を運ぶ。
やれやれ、どうにもつまらない仕事になりそうだ。
玄関を入ると右手がバスルームとトイレ。左は洗濯機置き場付きのウォークイン・クローゼットだ。ガラス張りのドアを潜った先は、12畳程のリビングダイニング。その左側が8畳程の寝室になっているらしい。
みたところ若い女の子の部屋のようだ。となると自殺者は女ということか。
部屋の中に足を踏み入れるとムッとする異臭が鼻をつく。糞便の臭いだ。
首を括ると嫌でも小便や糞便を撒き散らかす。女の子は決してしてはいけない自殺の方法だ。
玄関脇にかなり大きなウォークイン・クローゼットがあるくせに、リビングにも大きめのハンガーラックに多数の洋服がかかっている。よほど洋服好きなのか。それが必要な職業なのか?
部屋の中では高藤准二郎巡査部長と大丸庄司巡査長が、キャビネットやチェストの引き出しを漁っている。もちろんスケベ心でやってるわけではない。ナシ割、つまり証拠調べをしているわけだ。
室内は特別荒らされた様子はない。ごく普通の、女の子っぽいインテリアだ。
「ねえ、ガイシ・・・いや、ホトケは?」
思わず被害者と言いかけて、あわてて取り消した。そうそう、あくまで自殺であるなら、被害者という言葉は使うべきではない。
大丸が顎先で隣の寝室を指した。
でっぷりと太った二重顎の口元には特大のハンバーガーが似合いそうだ。
リビングとベットルームの境には、上半分がガラス仕立てのお洒落な扉が向こう側に開いている。遺体はその扉の取っ手にロープを引っ掛けて首を吊っていたらしい。
すでに遺体は運び出されていた。ただ扉の下には遺体の存在を示す赤いテープが標されているだけだ。
あたしはテープの端を踏まないように注意しながら部屋の中に入った。
「先輩、早いすね」
突然声をかけられて、思わず飛び上がりそうになった。
振り向くと扉の反対側に、神宮匠巡査がしゃがみこんでいる。
「ああ、びっくりした。おめ、何してんだ」
匠はあたしの一年後輩で、うちのチームでは最年少の刑事だ。皮肉屋で生意気。正直超ムカツク野郎だが、捜査能力はまあ認めてやってもいい。
見ると床にしゃがみこんでビニールにパッケージされたレターらしきものを覗き込んでいる。
「なんだそれは?」
「ん? 遺書っす」
4枚ほどの便箋は扉脇の床に散らばっていたらしい。寝室に入ると異臭は更にキツくなった。扉の下のフローリングにはドス黒いシミが広がっている。きれいに掃除したのであろうが、臭いまではどうしようもない。
あたしは匠から便箋を受け取った。
それは遺書にしては長文のものだった。自分の生まれから香川の片田舎で育った少女時代。都会に憧れ故郷を飛び出し大学進学と共にひとり暮らしを始め、男に騙されて何度も自殺を考えた。そして今回ストーカー被害に悩まされ、警察にも相手にされず、精神的にも追い詰められて自ら生命を絶つ。
そのような事柄が延々と綴られていた。
「これは床に落ちていたのか?」
あたしは便箋を返しながら聞いた。
「はい。もとはこのドレッサーの上に置いてあったようなんすが、ホトケさんが苦しがってもがいたときにドレッサーから落ちたようすね」
見ると扉の横には大型のドレッサーが少し傾いている。首を吊った女が苦しがって暴れたときに、身体の一部がドレッサーに触れたのだろう。それで上に乗っていた遺書が床に落ちたということか。
ドレッサーの上にはまだレターケースやボールペンなどが落ずに乗っている。
「ホトケはおミズみてえだな。キャバ嬢か?」
あたしは部屋の中を見回しながら訊いた。
8畳ほどの洋風な寝室は、一人暮らしにはやや大きめなセミダブルのベットに、真っ白な少女趣味風なチェスト。そして大きな姿見を備えたドレッサーとお洒落好きな女の生態を表した家具が揃っている。
それよりあたしが注目したのは部屋の片隅に置かれたハンガーラックだ。そういえばリビングにも同じようなパイプハンガーが置かれていたし、玄関脇のクローゼットも洋服でいっぱいだった。どんだけ洋服好きなんだよて話だ。
寝室のパイプハンガーには赤や紫や黄色といった派手な色使いのナイトドレスが複数吊り下げられている。
それであたしは判断したのだ。この部屋の主は水商売系だと。
「いえ、キャバ嬢ではなく、ホステスですねえ。クラブの。今ではキャストとか言うんすか? まあ、おミズには違いないすけど」
ちッ。とあたしは舌打ちする。キャバもクラブも似たようなもんじゃねえか。
「銀座のクラブ「KAGEROU」のキャスト。駒草というのが源氏名っす」
「本名はわかってんだろ」
「市井真由香。22歳。緑丘経済大学の学生っす」
「大学に通いながらホステス稼業かよ。豪勢なもんじゃねえか」
匠は証拠品ボックスの中から、同じくビニール袋に包まれた名刺と学生証を取り出した。
「銀座か」
ここから銀座はかなり離れている。車で40分ほどというところか。一方、緑丘経済大学は大井町線で一本だ。
「遺書によるとストーカーに悩まされてるようだけど、本当に自殺なのか?」
「それなんすけどね」
何故か匠は嬉しそうな顔をした。
「所見的には自殺で間違いありません。これは疑いようがないんす。しかしっすね・・・」
匠がこんなツラをするときはロクな事を言い出さない。
「問題はこの遺書が落ちていたってことなんすが」
「うん? このドレッサーにぶつかって落ちたんだろ?」
「そうなんす。首を括って苦しがって、それでドレッサーに身体が触れて、上に乗せてあった遺書が落ちたんすね。それはいいんすけど、すべての遺書が落ちたんじゃなくて、1枚だけはドレッサーに残っていたんす」
「だから何なんだよ。1枚くらい残っていても不思議はねえだろ」
「残っていたのが4枚目ならね。でも、残っていたのは、最初の1枚目なんす」
「はあ?」
どういうこと?
「普通、こういう書類って書き始めを上に、書き終わりを一番下に揃えるもんじゃないすか。ドレッサーが揺れて書類が落ちたなら、上から順番に落ちるから、最初の一枚目だけが残るというのは異常なんす。これが4枚目が残っているなら話は分かるんすけどね」
なんか嫌な予感がする。
「・・・・、つまりどういうことだよ」
「だから誰かが居たんすよ。ホトケが自殺したとき、傍に誰かが。その人物が落ちていた遺書の一枚目を、ドレッサーの上に戻したんす」
2
よく、絞め殺した後で死体を吊るして、自殺に見せかける工作をする奴らがいるが、そんなものは首吊りの死体を見たことのない奴らの妄想だ。
そもそも首を絞めて殺すことは絞殺。首を吊って死ぬことは縊死。全然違う。
絞殺の場合の死因は頚動脈の圧迫により、脳内の血管に酸素が行かなくなることによる虚血性脳機能傷害。縊死の場合は自分の体重で頚椎が脱臼を起こし、呼吸中枢の破壊によ心肺機能不全。素人にだって一目見りゃ区別はつく。
まず縊死の場合は頚椎が脱臼するわけだから、ろくろ首のようにデロンと首が伸びる。舌も目玉も外に飛び出し、ふた目とは見られない。糞や小便も垂れ流しだ。
絞殺の場合はそんなことはない。まあ、ションベンくらいは垂れ流すだろうが、首に絞殺痕が残る程度で首が延びるなんてことはない。つまり絞殺からの自殺工作はまったくの無意味だ。
今回の場合もホトケさんが本当に自殺したということは誰の目にも明らかだった。
にも関わらず、遺書の最初の一枚を拾った人物が居た。これは一体どういうことか?
案の定、それを報告したとき川浪主任はあからさまに嫌な顔をした。
無理もない。あたしだってこんな面倒はゴメンだ。第一あたしは今日は非番なんだ。
それでも主任はとりあえず吾妻係長に連絡を取った。その時の係長の反応は、まあ想像通りだった。
「面倒臭いなあ、そういうことは呉羽君に報告してくれないか?」
やる気がまるで感じられない。下っ端のあたしが言うのもなんだが、うちの係長はまるで使えないのだ。定年間際の窓際族というのもあるのだろうが、この人の使えなさは筋金入りみたいだ。
得意技は眠ったふり。通称「狸眠りの吾妻」。上司も部下も皆そう陰口を叩いている。
ところが何故か、クレハのババアだけは別だった。普通あのオニババアの前でそんな態度をとったら、例え警視総監でも無事には済まないところだが、係長の前では借りて来たネコのように大人しい。とんでもない弱みを握られているんだろうと、あたしは密かにニラんでいる。
確かに匠の指摘は不可解だが、かといってそれが他殺を示す証拠というわけにはいかない。法医学的には、完全に自殺で疑いのないところなのだ。殺人ともなれば捜査本部を設置する必要もあるし、それにはある程度の人員も必要だ。前にもいったように玉川署は現在、別な殺人事件の捜査で人員を省く余裕はない。
「まあ、そういうことであれば引き続き捜査を続行しろ。ただしあくまで自殺の付随捜査であって、これ以上の人員は避けない。お前らだけでなんとかしろ」
ということらしい。
ちくしょう。係長の言う通り、面倒くさいことになりやがった。これも全ては匠の野郎が余計なことに気づきやがったせいだ。
その匠とは遺体の第一発見者の職鑑(事情聴取)を行うことになった。第一発見者はマンションの管理人で1階の管理人室に常駐している。
「はい。住人の様子がおかしいとのことで、わたしがマスターキーでドアを開けました」
管理人は宮本という初老の男で、女房と1階の管理人室に住んでいる。マンションの管理人を引き受ける条件で家賃は免除されているらしい。
「なんで様子がおかしいと思ったの?」
「それは会社の方が定時に出勤しないとのことで、様子を観に来たからです」
「会社?」
「まあ、会社というか・・・」
「そっち関係ね。で、来たのは女? 男?」
「はあ、女性です」
「ホステス風?」
「はい、そうですね。派手な感じのきれいな方でした」
店のホステスが同僚が出勤しないので様子を観に来たというところか。
「で、それは何時頃の話?」
「夜の9時半・・・10時前のことでした」
「ふうん」
10時前というのは銀座のクラブの出勤時間としてはどうなのだろう。夜の商売だから、だいたいそのくらいの時間に出勤するのだろうが、だとしたらその時間に出勤しないからって様子を観に来るといのは気が早すぎる。同伴とかで遅くなることもあるだろうし、だいたい一日くらい欠勤してもすぐに自宅まで押し掛けるというのは異常だ。数日間無断欠勤が続いているとなれば話は別だが。今回のケースはそれにあたるのだろうか。
「で、そのホステスと一緒に部屋に入って遺体を見つけた、と」
「いえ、わたしは中には入ってません。玄関のドアを開けただけです。わたしがドアを開けると、そのホステスさんが名前を呼びながらつかつかと中へ入っていき、すぐに「大変だおじさん、警察に電話して」というので・・・」
「通報したのね?」
「はい。人が死んでるというので」
「あのう、つまり宮本さんは直接ご遺体を観てはいないっすね?」
横から匠が口を挟んだ。
「はい。臭いがきつかったので、ドアの所にいただけです」
「警察が来るまでそのままで居たんすか?」
「はい。5分くらいでパトカーが到着しました」
到着したのは初動の機捜(機動捜査隊)だろう。自殺ということで、彼らはうちの捜査官と交代で引き上げている。
「で、そのホステスさんは、どうしました?」
「警察に事情を聴かれていましたが、どうも自殺みたいなんで帰りました。お店に出勤するんだとか言ってました」
これ以上はその同僚のホステス、いやキャストというのに話を聴かなければラチがあきそうにない。
時計をみると午前1時前。一般人の感覚ではもはや就寝という時間だが、クラブのキャストにしてみればこれからが稼ぎどころといったところだろう。後輩の匠をケツに乗せたあたしは、途中桜新町の自宅に寄って着替えてから銀座に向かった。いくらあたしでもライダースーツにフルフェイスでは銀座の1流クラブには行かれない。
クラブ「KAGEROU」は銀座6丁目にある。中央通りの銀座6丁目から、日比谷方面に数ブロックいった路地先の大きな貸ビルの2階だ。
1階は洒落た雰囲気のブテックになっているが、もちろん今は閉まっている。ブティックの横に豪勢な造りの螺旋階段があって、登りきったところがクラブのエントランスだ。
螺旋階段の下にドゥカティを置いて階段を上がる。
案内を乞うた黒服はさも胡散気にあたしたちを値踏みした。まあ、無理もない。着替えたとはいえ、あたしの格好は濃いグレーのリクルートスーツ。相方の後輩はというとTシャツにくたびれたジャケット、ズボンはダメージというか中坊の頃から履いていたんじゃないかというジーンズだから舐められても仕方がない。
それでも目の前に警察手帳の身分証を突きつけてやると、訝りながらも取り次いでくれた。
通された部屋は出番のないキャスト達がたむろう控え室のような場所だ。ひと区間をカーテンで仕切って、テーブルと椅子が用意されている。彼女たちが食事をとるスペースなのか。
ややあって豪華そうな着物を着飾った艶やかな女性が現れた。この店のママなのだろう。年の頃は40代前半、いやこの世界の女は年齢不詳だ。40代の後半か、もしかしたら50の声をきいているのかも知れない。
「あらまあ、ずいぶんと可愛らしい刑事さんね」
女は席一番そんなことを言った。ちょっとムッとしたが、確かに美魔女の彼女からすれば、あたしたちなんか中坊のカップル程度にしか見えないのだろう。
女は春日と名乗った。春日ママということだ。
「ここのホステスさんが亡くなったという話は知ってますよね」
「はい。出勤していないというので、同僚のキャストが様子見に行きましたので、それで・・・電話で聴きました。駒草ちゃんには可哀想なことをしましたが。・・・あのう、自殺というのは本当なのでしょうか」
「それが、まだわかんないんす」
匠が横から口を挟んだ。
ハァ? お前、何言ってんの? あんなの誰が見ても自殺に決まってんじゃん。
こいつ、何を考えてやがんだ?
「そうなんですか? 静香ちゃんの話では自殺に間違いないだろうということでしたが」
「その静香さんというのが、様子を見に行ったのですね?」
あたしは匠の方をチラリと睨んで聴取を続けた。
「そうです」
「もう戻られているとか聞きましたが、良かったら話を聴きたいのですが」
「もちろん。いま呼びに行かせています。直ぐに来るはずですわ」
「あのう、ちょっといいすか?」
再び匠が割って入った。
「亡くなった駒草さんすが、ストーカーに遭っていたということすが、そのことについては知ってましたか?」
「いえ、個人的な話はあまりしない娘でしたから、でも静香ちゃんには相談していたかも知れないですわ」
「ふたりは仲が良かったということすね」
「はい、とても」
「駒草さんが入店したのはいつごろですか?」
「もう、2年になるでしょうか。・・・ああ、来ましたわ。詳しくは彼女に聴いてください。妹のように可愛がっていましたから」
春日ママが声をあげたので振り返ると、栗色の髪の毛をゴージャスに盛った長身の女が優雅な身のこなしで入ってきた。
3
その女を観たとき、あたしは一瞬背筋が凍りつくような異様な感覚に囚われた。
悪寒。
と、いってしまってもいいのかも知れない。
それはそう、人間以外の存在。いわいる妖怪とか悪魔とか、もちろんそんなものは信じてはいないが、もしもそのような存在が居たとして、それが目の前に現れたとしたら、あるいはこんな感覚に囚われるのかもしれない。
しかしそれも一瞬のこと、瞬きをする間もなく違和感は霧散され、そこに立っていたのはひとりの美しい女性であった。
整った色白の小顔。栗色に染めた美しい髪。スラリとした肢体は、裾に向かってグラデーションの入った紫のナイトドレスに包まれている。
ピンク真珠のネックレスを巻いたうなじの襟足はなんともいえない色気がある。
年齢は20歳半ば。いや若く観えるのはこういう場所と化粧のせいで、本当は30の大台を越えているとあたしは踏んだ。
「静香です。よろしくお願いします」
彼女は優雅な微笑を浮かべて頭を下げた。動作に少しの隙もない。まるで華麗な舞いのようだ。訓練が行き届いているのか、彼女の本質がそうなのかは判断がつかない。
それにしても美人だ。美人すぎる。この美しさは異常だ。
先程感じたあの異様な感覚はこの怪しい美しさからくるものなのか。いずれにしてもこの女は危険だ。
あたしの中では警報が鳴り響いていた。
しかしそんな危機感を感じるのはあたしが女だからなのか、隣の匠は彼女の美しさに、ただ呆けたように見とれているだけだった。
あたしはムッとして肘で脇腹を突いてやった。
「それじゃ静香ちゃん、あとはよろしくね」
春日ママはそう言うと席を若いキャストに譲った。
静香は透明感のある瞳で、じっと匠の顔を見詰めている。匠は真っ赤な顔をして小さくなった。
おいおい、あたしは無視かい。やっぱりこの女、天性の男たらしだ。
「本庁の二階堂です。少しお話を伺いたいのですが」
ふたりの間に割り込むように、警察手帳を突き出してやった。それで静香はようやくあたしのほうに微笑を浮かべたままの顔を向けた。
「はい。なんでも」
なんだこの余裕は。いちいちムカつく女だ。こういう女は美人であることを鼻にかけて、男はみんな自分の思い通りになると思い込んでいるのに違いない。
「あなたが、駒草さん・・・市井真由香さんの遺体を発見されたのですね」
「はい。そうです」
「出勤時間になっても出勤しないので、心配になって様子を見に行ったということですが、こういうことはよくあることなんですか?」
「いえ、初めてです。駒ちゃんは真面目な娘で、無断欠席したり遅刻したりすることは1度もありません。だからこそ心配になって様子を見に行ったのです」
「それにしても、来ないといっても2時間も3時間も遅れたわけではないでしょう。それで家まで様子を見に行くというのは、少し早急すぎはしませんか?」
「そうかも知れませんが、少し気になることがあったもので」
「ストーカーの件ですね」
気勢を制するつもりで放った情報だったが、彼女は平然と受け止めた。
「はい。そうです」
「つまりあなたは、市井さんがストーカーに付きまとわれていることを知っていたということですね?」
「はい。彼女から相談を受けていましたから」
「ストーカーが誰かは訊きましたか?」
「いえ、知らない男だそうです」
「彼女から相談を受けて、あなたはどのような助言をしたのですか」
「とりあえず警察に被害届けをだすことと、行き帰りにはタクシーを使うなどして、なるべく一人にはならないようにすることでしょうか」
「玉川署には被害届けを出したのですね?」
「はい。そう言ってました」
「それで警察はなんと?」
「一応は手をうってくれるとのことでしたが、その後なにもないままこのようなことになってしまって」
「その件に関しては申し訳ないと思っています。もう少し早く手をうっておけば、あのようなことはなかったかも知れません」
「本庁の刑事さんが謝る事ではありませんわ」
微笑を浮かべたまま彼女は言った。再び背筋に悪寒が走る。
なんだ? この女。本物の魔物じゃないのか。
「あのう、市井さんのご遺体を発見した時のことを伺いたいんすが」
匠が遠慮がちに声をかける。
「はい。なんでも」
ニコリと笑って匠のほうに顔を向ける。そんな笑顔を向けられたら、匠でなくともハートを打ち抜かれてしまう。
「あなたが彼女の遺体を確認したんすよね」
「はい」
「それで管理人さんに警察を呼ぶよう指示した」
「はい。そうです」
「救急車ではなく警察を。つまりその時点であなたは、彼女が死んでいることが分かっていたんすね」
静香は微笑を崩さない。
「はい。あの状況はどう見ても手遅れと思ったものですから」
「すごいっすね、あなた」
匠は言った。
「はい?」
「だって。見ていたなら知っていると思うすが、首吊りの死体って見るに耐えないもの凄さなんすよ。ろくろっ首みたいに首が延びて、目も舌も飛び出して・・・自分、刑事になって何回かそういう死体を目にしたっすが、未だに気持ちが悪くて仕方がないす。中々あなたみたいににこやかに仕事に戻るというわけにはいかないす」
匠の言葉を聴いて、この女を見たときに感じた違和感に納得がいった。そうか、あの死体を見てこんな微笑を浮かべていられること自体が異常なんだ。
それでも彼女は微笑を崩さない。
「そうですわね。何故でしょう」
「こういうことに慣れていらっしゃるんすかね?」
「慣れているといえば、慣れているのかも知れません。ところで少し伺いたいのですが」
突然、静香が反撃に転じた。
「なんすか?」
「駒草ちゃんは自殺と伺ったのですが、そうではないのですか?」
「先ほどの話が聴こえちゃいましたか?」
匠は苦笑を浮かべて、頭をかいた。
「はい、すみません」
「いえいえ。まだ捜査の途中ということっすよ。死因については何ともいえません」
「他殺ということは考えられないのですか?」
驚くことを言い出した。
「何故そう思うっすか?」
「駒草ちゃん、ストーカーに狙われていたから」
「ああ、そうすね。でも、遺書がありましたから。ストーカーの件はそれに書かれていたんす」
おいおい。いいのかよ、そんなこと言って。
「遺書・・・ですか?」
「知りません? 床に落ちていたんすが」
「さあ、見てはおりません。でも、遺書があったということは、やはり自殺なんでしょうか?」
「そうっすね」
あっさり認めやがった。
匠はあたしの方を視る。あたしは肩をすくめてやった。
「んじゃ、この辺で。また何かあったら訊きに来ます」
「はい。ご苦労様でした」
あたし達は席を立った。静香は隙のない動作で頭を下げる。
その頭が上がるタイミングで匠は声をかけた。
「そうそう、忘れていたっす。彼女、市井さんすが、ストーカーの他に親しくしていた男の方はおりませんでしたか?」
「男の方ですか?」
「はい。付き合っていた人がいたはずなんすけど」
「さあ、そのような話は伺ってません」
静香は可愛らしく小首を傾けてみせた。
4
結局、帳場(捜査本部)は立たなかった。上層部が自殺と判断したからだ。
解剖所見では明らかな縊死症状を呈しているし、遺体に抵抗したような痕跡が見られないというのが主な理由だった。現場から発見された長文の遺書の筆跡も本人のものに間違いはなかった。遺書からは本人以外の指紋は発見されなかった。
しかし遺書にあったストーカーの件もあったので、捜査は引き続きダイハチのチームが行うことになった。
翌日午前11時過ぎ、あたしと匠は本庁の強行犯の刑事部屋で、昨日いやもう今日の早朝のことかクラブ「KAGEROU」での調書を作っていた。とはいえディスクワークをするのはもっぱら匠の仕事で、あたしは横でスマホをいじりながらアンパンを頬張っていた。
ストーカーの捜査のほうは、高藤デカチョウ(巡査部長)と大丸パイセンの担当で朝早くから出掛けている。川浪のオッサンは、管理官からの呼び出しを食って席を外している。他のチームのメンバー達はそれぞれの帳場に派遣されていて、部屋に残されたのはあたしらと陽のあたる特等席でうたた寝をしている吾妻係長のみだ。
「なあ、後輩よお。うちのアタマ、あんなんでよく首になんねえな」
あたしは手持ち無沙汰だったので、係長と匠の両方をいじりにかかった。
匠はクスクスと笑って、
「ああ見えて吾妻さんは鶴田刑事部長の秘密兵器っすからね」
「はあ? 秘密兵器?」
「もっとも秘密のまま終わってしまうかも知れないっすけど」
「違げえねえ」
あたし達はアハアハと笑いあった。
そうして他愛ない冗談を言ってると、ふと思い出すのはあの静香という娘のしたたかな態度だ。同僚が自殺したというのに、少しも取り乱す様子もなく平然と質問に答えるあの姿勢。背筋を逆なでするような妖しい微笑。
そういえば春日というママさんも、だ。夜の商売をしている女たちというのはみんなあんなものなのか? それともあの二人が特別なのか。
男の目線ではどう感じるのだろう。あたしはふと気になって訊いてみた。
「ところでよぉ、おめえ。どう思うよ?」
「は? 係長のことすか?」
「バぁカ、違げえよ。あの女のことだよ」
「あの女?」
わかってるくせにトボける気か?
「ほら、静香とかいうクラブのキャスト」
「すごく綺麗な人っすね」
やっぱりそっちに目がいくか。まったく男という生き物はどいつもこいつも・・・。
どうせあたしはチンチクリンですよ。背だって警官の応募要項ギリギリだったし、目玉ばかり大きくてトトロに出てくるネコバスみたいだって言われるし。まあ、もっともそんなことを言う野郎どもは全員ブチのめして、二度とそんな口が叩けないようにしてやったがな。
「そうじゃねえよ。あの女、どうにも気に食わねえ。同僚が自殺したってのに、少しも悲しんでいるようには見えねえ」
「やっぱしムカつきますか。女の敵は女っていいますからね」
すまし顔でそんなことを言う。まるであたしが妬んでいるみたいじゃないか。
「男とか女とか関係ないだろ。あいつの証言が信用できるかって話だ」
「かなり正直な方のようすね」
ホラホラ。もう騙されている。
「なんで嘘をついてないってわかるんだよ」
あたしが膨ら面になって口を尖らすと、匠は書類を書く手を休めて、面白そうにこちらに向き直った。
「理由はふたつっす。彼女、ふたつのことで嘘をつきませんでした。嘘をつこうと思えばできたはずなんすが、彼女はそうはしなかった。正確に言えば、こちらが勝手に勘違いをするように誘導しながら、それでも嘘はついていなかったんす。かなり頭のいい人みたいすね」
何を言っているのかわからない。
「どういうことだよ。あの時の会話のどこにそんな事柄が混じっていたんだ?」
「ひとつめは、自分が「遺書を知らないか」と訊いたときっす。実をいうと自分、あの遺書を拾ったのは彼女じゃないかと思っていたんす。だってそうでしょ。あの部屋は内側から鍵が掛かっていて、いわいる密室の状態だったんすから。誰かがあの現場にいて遺書を拾ったとしても、そのひとは部屋から出て、外から鍵をかけることは出来ません。鍵は部屋の中にあったんすからね」
「まあ、合鍵でも持ってりゃ別だがな」
おめえの推理には穴があるよ。
「そうすね。でも最も簡単なのは第一発見者である彼女が拾ったと考えることっす。だから自分、訊いてみたんす「遺書を知らないか」と。それに対する彼女の答えが「見ていません」でした。ねえ、変でしょ」
「はあ? どっちも同じじゃんか」
「そう。「知らない」ということと「見ていない」ということは、一見同じ答えのように聴こえますが、この見ていないというのは「遺書が落ちているのを見ていない」と言ったのか、「遺書の中身を見ていない」といったのか判然としないんす」
「・・・・そんなの、言い掛かりだろう」
「そうすかね。彼女の言葉を、遺書が落ちているのを見ていないと解釈したのはこちらの勝手で、彼女はそう言ったわけではないのかも知れないっす。だいたい「知らないか」と訊いたのだから、素直に「知らない」と答えればいいんす。なんでわざわざあんな面倒くさい答えをしたのか」
「面倒くさいのはお前だろ」
「自分、やっぱり遺書の1枚目を元に戻したのは彼女だと思うんす。なんでそんな事をしたのかは、わからないっすけど」
こいつの言うことは荒唐無稽にみえて、意外と的を射ていることが多い。確かに遺書を戻したのは静香かも知れない。しかし何でそんなことをしたかというと、まるで想像がつかない。
「同じようなことがもう一度ありました。自分が「付き合っていた人がいたか?」と訊いたときなんすが」
匠の言葉でハッと思い出した。
「ああ、そうそう、それだよ。それを聞こうと思ってたんだ。お前、なんで死んだ市井真由香に男がいるってわかった。あの部屋に男の気配はなかったはずだが」
「そのことなら、彼女の寝室に微かに煙草の臭いがしたからっす。あの部屋に灰皿はなかったすからね、彼女は煙草を吸わないんす」
「だけどそれが男とは限らないだろ。女の友達、例えばあの静香が煙草を吸うのかも知れない。第一、あの糞まみれの部屋でよく煙草の臭いなんか気がついたな。犬か、おまえ」
「いや、それが匂ったのは彼女の枕からなんす。多分、枕に臭いが染み込んだんでしょうね」
「おい、ちょっと待て」
あたしは言葉を遮った。
「お前、枕の匂いを嗅いだのか?」
「はい。趣味なもんで」
ヘンタイか、きさま。気持ち悪いわ。
「煙草の臭いが枕についていたというなら、吸ったのが女の線は消えます。彼女が同性愛者なら別っすが。それでもまあ一応、男がいたのか聴いてみたんすが、それに対する答えが「聞いてはいません」でした。ね、素直に知らないといえばいいのに、聞いてませんですよ。どう思います? これ」
「まあ、お前の理屈から言えば「聞いていないが、知ってはいる」とも取れるということだな」
「そういうことっす。彼女の特徴なんす。素直に知ってるとは言わないが、知らないと嘘をつくこともしない。どちらとも取れる微妙な表現で、巧みに誤魔化しているんす」
「なんでそんなことをすんだ?」
あたしは首を傾げた。頭のいい女の考えることは理解が出来ない。
「多分、自分らを試しているんだと思うんす」
「試す?」
「遺書を戻したのも同じ理由だと思うんす。この事件は単なる自殺ではない。少なくとも彼女が遺書に書いたような理由からではない。静香さんはそのことを伝えたかったんじゃないですかね」
「だったら最初からそう言えばいいだろ」
「だからこちらを試したんすよ。その情報を与えるのに相応しい人間かどうか」
「バッカじゃねえの」
あたしは吐き捨てた。その上から目線がどうにも腹が立つ。そしてそれを得意そうに解説するクソ後輩も。
「てことは、あんたはめでたく静香様の御眼鏡にかなったってわけだ」
あたしは嫌味たらしく言ってやった。
「いずれにしても彼女が何かを知っていることは確かすね」
「しかし、単なる自殺じゃないとしたら何なんだよ。コロシの線はもちろんないわけだしな」
「一度膝を交えてゆっくり話し合う必要がありそうっすね」
「お前、下心見え見えだぞ」
あたしは眉をしかめて言った。
「わかります?」
「あの女、ケツが軽そうだから、アワよくばとか思ってんじゃなかろうな」
「そう願えれば有難いっす」
「ケッ、気おつけろよ。ありゃお前、マジ魔物だぜ。うっかり手を出せばケツの毛までむしられるぜ」
「頭ではわかってるんすけど、下半身がいうことをきかないっす」
男ってホント、馬鹿。
5
進展があったのは夕方になってからだ。
その前に午後になってから、玉川署に出向いていた高藤デカチョウが帰ってきた。ストーカーの線を洗っていたのだ。
玉川署の生活安全課では、確かに市井真由香の被害届は受理されていた。
ストーカーの名前は峰岸高文。34歳。
「ところがこいつ、指定暴力団金竜会の元構成員だということがわかった」
と、デカチョウは言った。
金竜会は六条委員会のひとつ大原興行の孫組織だ。六条委員会とはひがし東京の有力暴力団らが、対極城会用に立ち上げたいわいる共同体である。特定の組織ではない。
極城会というのは東日本最大の暴力組織で東京進出を狙っている。
大原興行は前身を大神興行といった。その昔、関東地区の芸能界を陰から支配していたという伝説のヤクザ組織だ。いまはそのようなことはないが、昭和の昔はそういう芸能やスポーツイベントの地方興行は、地元の顔役いわいるヤクザ者たちが興行主としてプロデュースしたものだった。
金竜会は大原興行系の反社組織としては末端の組織にあたる。
「もっとも一昨年に破門処分になって、いまでは半グレ連中を集めて探偵のマネ事をしているらしい」
「探偵?」
「そこから仕入れた情報をもとに恐喝をする。まあ、タチの悪いカツアゲ屋といったところかな」
「そんな野郎がなんで銀座ホステスのストーカーなんか」
「さあな。恐喝のネタを捜しているのかも。銀座の一流クラブともなれば、政財界の偉いさんも来たりするんだろ、そいつらの弱みを握ればカツアゲ屋としては美味しいんじゃないか」
「彼女からその情報を仕入れようとしているということね」
「可能性があるってことだ。まだ、わからん」
「そのストーカーさん、いまは何処っすか?」
匠が口を開いたので、デカチョウはそちらを向いた。
「和泉多摩川の自宅アパートには誰も居なかった。いま大丸に張らせている」
「しかしそうなると、人員的には厳しいっすね」
通常、刑事の行動は2人ひと組が基本だ。現在のダイハチのチーム5人、吾妻係長を加えての6人だけでは絶対的に人員が足りない。
3人は申し合わせたように吾妻係長のほうを見たが、「狸寝入り」は素知らぬ顔をしてそっぽを向いている。
しかし、その日の夕方には思わぬ形でその問題は解決した。高藤デカチョウと入れ替わりに、玉川署に向かった川浪主任から連絡が入ったのだ。
「えっ、マジっすか?」
電話を受けた高藤さんは思わず声をあげた。
何事が起きたのか、とあたしらはその周囲に集合した。
「はい、はい。分かりました。すぐに対処します」
興奮したように電話を切ると吾妻係長のほうに向き直った。
「なんと一昨日、二子玉のライブバーで起こったコロシのガイシャが、市井さんの交際相手であることがわかりました」
「はあ?」
一瞬、何を言ってるのかわからなかった。
「ガイシャのヤサ(自宅)から複数の写真が見つかってな、それに市井さんが写っているのを、偶然川浪さんが目に留めたらしい。かなり親密な様子で写っているので、ふたりが付き合っていただろうことはまず間違いないとのことらしい」
「ちょ、ちょっと待って下さい。二子玉のヤマのガイシャが、うちのホトケさんの知り合いとなれば」
「当然、捜査は合同ということになるな。・・・係長!」
眠った振りをしていた吾妻が微かに頷いた気がした。
デカチョウは直ぐに決断した。
「よし、全員すぐに玉川署の帳場に合流するぞ。匠、大丸にもその旨を知らせろ」
そうしてあたしたちは玉川署に向かうことになったんだ。
玉川警察署の強行犯組織犯罪捜査係に通報があったのは昨日の午後8時頃だった。
玉川2丁目のライブハウス跡地で物が壊れる音がする。人の叫び声のようなものも聴こえる。と、いう通報が110番にあったのだ。
早速もよりの駐在所から宿直の捜査員が駆けつけてみると、いまはすでに廃業が決まり人気の失せた店内に暴行を受けたのであろう若い男の遺体があった。
連絡を受けた機捜隊員が現着し、現場を確保すると共にナシ割(証拠調べ)にかかった。やがて玉川署の鑑識課と強行犯係が集まってきて、幾台ものパンダ(パトカー)や覆面車が周囲を覆い、現場は騒然としはじめた。
ガイシャは若い男だった。後に判明した身元は、沼田晃司さん24歳だった。死因は暴行による傷害死。直接の死因は頭部への打撃による頭蓋骨の陥没、それに付随する脳挫傷。肋骨の骨折による肺挫傷。肝破裂。右上腕部及び左下腿部の外傷性骨折。その他、多数の打撃痕あり。
凶器は遺体付近に散らばっていた金属バット、鉄パイプ類と思われる。
ようするに複数の人間、少なくともふたり以上の人間による集団暴行を受けたものと思われる。
発見時ガイシャはすでに事切れていた。検死の結果では死亡時刻は、通報のあった午後8時頃とみられる。
玉川署員の初動地取り(付近の聞き取り捜査)では、その時間に現場から逃走する人間の目撃者が複数存在することがわかった。やがて応援に駆けつけた本庁の強行犯捜査第4係との合同捜査で、翌朝に開かれた捜査会議までには実行犯たちの人着(人物確定)はかなりはっきりしてきた。
現場から逃げ出した実行犯は三人。いずれも20代から30代の若者。彼らは現場からバラバラに別方向に逃げている。
ひとりはニット帽に革ジャンを着た、身長170センチくらいの男性。これは二子玉川駅方面へ。二人目は坊主頭の身長185センチくらいの大柄な男で、多摩川堤通りから川崎方面へ。
最後のひとりはバンダナを巻いた長髪の男で、東急大井線の野毛駅方面に逃走している。付近の防犯カメラの映像ではこれが市井真由香のストーカーであった峰岸高文であることがわかった。
「つまりこのふたりは主犯格の峰岸高文の仲間であり、峰岸のカツアゲ屋を手伝っていたということだな」
その日の夜に行われた3回目の捜査会議では、議長役の鮫島管理官が腕を組んで言った。
あたしたちは会場である玉川署の会議室の片隅に腰掛けて、自分たちの捜査結果を報告したところである。
斜め向かいの席では、捜4の連中がこれみよがしなガン付けをかましてくる。あいつら、というか他の強行犯捜査係の連中は、あたしらダイハチのことをナメているのだ。
そもそも警視庁捜査一課強行犯捜査係には、以前は第7までしかなかった。それが鶴田刑事部長の肝入りで第8係が出来たのだが、他の捜査係と違って、要請があれば順番に捜査に向かうという通常勤務ではなく、鶴田刑事部長もしくは呉羽捜査一課長の判断により任意の現場に投入される、いわば遊軍的な扱いなのだ。
だから他の係のように常に出動するわけではなく、刑事部屋に待機していることのほうが多い。他の連中にナメられるのはそれもあるのだろう。
もっともナメられてビビるようなあたしではない。思い切りガンを飛ばして中指を立ててみせた。
配属早々あたしに対してふざけた口を利いた野郎を3人ほど病院送りにしたことがある。あたしは自分からは滅多なことじゃ喧嘩は売らないが、売られた喧嘩は喜んで買う。それはガキの頃から変わらない。
管理官には死ぬほど叱られ3日間の謹慎をくらったが、クレアのババアは苦笑しただけだった。恐らくあいつも過去に似たようなことをしたのだろう。いずれにしても悪いのは向こうだし、あたしはまったく反省はしていない。
そうこうしているうちのも会議はまだ続いている。
逃げた3人の行方はいまだに分からないが、緊急配備を終えているので見つかるのは時間の問題だろうということだった。
ただ、わからないのは犯行の動機だ。
それまでは被害者の沼田さんと襲撃した3人には繋がりはないと思われたが、ストーキングされていた市井真由香の交際相手となれば話は別だった。
「峰岸は市井さんからカツアゲの情報を得ようと企んでいたフシがあります。彼女にまとわり付いたのはそれが目的でしょう。それを交際相手である沼田さんに責められ、面倒になって殺害したというところでしょうか」
報告の最後に川浪班長がそう私見を述べた。
「まあ、そんなところだな。あとは逃げた実行犯の確保が最優先だ。みんな、全力を尽くしてくれ」
鮫島管理官はそう言って会議を締めたが、それではどうにも説明のつかないことがある。市井真由香はどうして自殺を図ったかということだ。
峯岸のストーキングが彼女からの情報にあるのなら、それが理由で自殺にまで追い込まれたとは考えにくい。市井さんの死亡時刻は午後6時前後、時間的には沼田さんの殺害される前である。
市井真由香の自殺にはまだ謎がある。そしてそれは、沼田晃司殺害事件にしても同様である。
甘い。甘いぞ、管理官。
6
それから4日ほどたったが、逃走中の三人の行方は要として知られなかった。
それでも必死の地取りの結果いくつかの情報は上がってきた。
まず二子玉川駅の方面に逃走したニット帽の男だが、駅構内の防犯カメラから田園都市線で渋谷方面に向かたことが分かった。また三軒茶屋近辺で同人着の目撃情報もあがっている。
一方、多摩川方面に逃走した坊主頭は、多摩川堤で複数の目撃証言があがっている。おそらく二子橋を渡って川崎方面に向かったと思われる。
最後に主犯格の峰岸高文だが東急大井線の上野毛駅、ならびに尾屋台駅の防犯カメラに写っていた。尾屋台駅で下車したことはわかっているが、その後の足取りは依然不明である。
それと前後して残りのふたりの身元もハッキリとした。
ニット帽の男は藤原朔矢23歳。元暴走族「関東連隊」OB、いわいる半グレというやつである。坊主頭のほうは木嶋敬之。やはり関東連隊のOBで半グレ仲間である。このふたりは主犯格の峰岸高文の暴走族時代の後輩であり、彼が金竜会の構成員である頃から手足として使っているようだった。
あたしはこの日の午後、再びクラブ「KAGRROU」の静香の聴取を予定していた。本当はもっと早くしたかったのだが、捜査本部の方針としては逃走中の三人の足跡を追うことを第一としていたので仕方がなかった。
午後5時に有楽町マルイ近くの喫茶店で、出勤まえの静香と待ち合わせた。
彼女は時間通りにやってきた。私服の彼女は薄いクリーム色のサマーコート。ブラウスもロングのスカートも淡い感じの配色だった。栗色に染めた長髪もいまは肩にゆるやかに流している。薄化粧の彼女は、夜に店で観た時よりずっと幼くみえる。
「こんにちわ、刑事さん。あら、今日はこないだの若い刑事さんはいらっしゃらないのね」
あたしの正面に座った静香は、微笑を浮かべたまま相方のほうに目をやりながら言った。
帳場が立って所轄との合同捜査が始まると、基本的に本庁の捜査員と所轄の捜査員とでペアを組むことになる。前回はダイハチ単独の捜査だったので、匠と組んで捜査にあたったが、今回は玉川署の中村巡査部長があたしのパートナーだ。
この中村さんとは面識がない。今回はじめましてだ。赤ら顔のみるからに人の良さそうなオッサンで、まだ40になったばかりだというのに頭髪は早くも後退しはじめている。赤ら顔なのは無類の酒好きなのだろう。
こんなオヤジがあの魔性の静香にあったらどうなるだろうと思っていると、案の定口を半開きにしたまま固まってしまった。あたしが肘で突っつくと、あわてて頭を下げた。
「は、はじめまして・・・玉川署の中村です」
「匠のやつは他の捜査に行ってるよ」
ダメだな、こいつ。あたしはチラリと中村さんの顔を見てから言った。
「そう残念ね」
もはや静香は中村さんの方を見向きもしない。ブラックパールのような瞳をあたしに向けて動かない。口元には微笑を浮かべているが、その瞳は決して笑ってはいない。背筋がゾクリとするほど美しい瞳だった。まるでその中に吸い込まれるようだ。
この女、あたしに色仕掛けをしかけるつもりか。ふざけるな、こうみえてもあたしだって女だ。あたしに色仕掛けは利かねえ。
「もう知ってるでしょうが、市井さん、・・・店の呼び名では駒草さんですか、彼女の交際相手が殺されました」
「はい。ニュースで知りました」
「あんたは知っていたんでしょ? 彼女に交際相手がいたことを」
静香は優雅な仕草で頷いた。
「はい。でも駒草ちゃんからそれを聴いたわけではありません。彼が直接訪ねてきたんです」
「訪ねて来た? どこへ」
「クラブKAGEROUへです。あれは3週間ほど前のことでしたでしょうか、沼田くんがうちのクラブに訪ねて来たのです。生憎その日、駒草ちゃんは休みだったのでわたしがお相手をしたのです」
なるほどね。と、あたしは思った。それで「聴いてはいないが、知ってはいる」か。匠の言うとおり嘘はついてないということか。
「で、どんな話をしたんです?」
「沼田くんは駒草ちゃんがクラブで働いていることは知らなかったそうです。彼女は大学の後輩で1年前くらいから付き合っていたそうですが、最近様子がおかしくなった。誰かに付けられているようだというのです。どうにもストーカーに狙われているんじゃないかと心配して、彼女の持ち物を捜したところここの名刺が出てきたというのです」
「つまり沼田さんはストーカーの存在を知っていたということか」
「はい。そうです」
「で、それを聴いてあなたはどうしたんです?」
「とりあえず彼女に話を聴きました。わたしなんかが話を聴いてもどうとなるわけではないのですが、それでも少しはアドバイスできるかも知れないし、何より一人で悩んでいるよりは誰かに話したほうが少しは気が休まるかと思って」
「彼女は悩みを打ち明けたというわけか」
「はい。マンションの前にいつもあの男がいて、部屋を監視しているようだと言ってました」
「彼女はその男を見たのですね」
「ええ、元々の原因がドラックストアだと言ってましたから」
「ドラックストア?」
「彼女、うちに入店して3ヶ月なんですけど、頭のいい娘でお客さんの受けも悪くはないのですが、何分慣れない仕事でストレスも貯まるのでしょう、ついついやってしまったらしいのです」
「やってしまった? なにをですか?」
いきなり中村デカチョウが割り込んできた。
彼としては美人の静香と言葉を交わしたいところなのだろうが、自分だけ会話に加われないのでイライラしているのみたいだ。
「万引きですわ。彼女のいうには意識はしていなかったそうなんですが、気づいたらバックの中に入れていたらしくて、店をでたところで男の人に指摘され初めて気づいたというのです」
ところが肝心の静香は彼のほうを一瞥もしない。相変わらずあたしの目だけを見詰めて話を続ける。可哀想な彼はすっかり萎れてしまった。
「それが峰岸高文ということか」
「そうです」
「峰岸はカツアゲのプロだ。それをネタに彼女は脅されたというわけね」
ようやく話が繋がってきた。
「彼女が銀座のクラブに勤めていることを知って、彼女からもっと大きな脅迫のネタを探るように指示していたんですわ。もちろん彼女は断ったのですけれど、そうすると今度はストーカーのように付きまとって、嫌なら万引きの件をお店にバラすぞって」
「なるほどな。まあ、連中の考えそうなことだ」
「ほんと、ひどいですよね。たかがヘヤクリームひとつで」
「ヘヤクリーム?」
「あ、駒草ちゃんが万引きしたものです。男性用のヘヤクリーム。黒い瓶型のタイプで、蓋のところにピンクのうさぎが印刷されているんだそうです」
「なんで男性物のヘヤクリームなんか盗んだんでしょうね?」
中村クン、懲りもせず話に加わろうとするが、またしても無視されてしまった。
「それが本人には記憶がないみたいなの。イライラしていて手当たり次第にバックに入れたのが、たまたまヘアクリームだったということでしょう」
「なるほど。で、警察にストーカーの被害届けを出すようアドバイスしたということね?」
「はい。でも結局はあんなことになってしまって・・・残念です」
「その点については我々も十分に反省しています。これからは、そのようなことがないよう・・・」
ここぞとばかりに中村デカチョウが、反省の弁を尽くした。こいつ、点数稼ぎか? まあ、お陰であたしが謝る必要がなくなったからいいけど。
「それで事件当日、彼女が出勤してこないので不信に思ったわけか」
「はい。またストーカーが現れたんじゃないかと思って胸騒ぎがしたんです。それで駆けつけてみると・・・」
そこで静香は目を閉じた。知らない人が、例えば中村さんなんかが見たら、それこそ悲しみにうち塞がれているように見えるかも知れないが、あたしはそんなものに騙されない。この女はひとの死を毛ほどにも感じていないに違いない。
「ところで、つかぬことを聞きますが、遺体のあった寝室の床に遺書の束が落ちていたんですが、それをドレッサーに戻したのはあなたですよね?」
万を持して、あたしは取って置きの爆弾を放った。もっともそのことを言いだしたのは匠だが、この際そんなことはどうでもいい。なんとしてもこの女ギツネの化けの皮を剥がしてやらねば腹の虫が治まらない。
「なんのことですか?」
案の定、とぼけやがった。
「ドレッサーの上に置かれた遺書は、市井さんが苦しがって暴れたはずみで床に落ちました。でも、そのうちの一枚だけが元に戻っていたの。それをしたのはあなたなんでしょう?」
「さあ、どうでしょう」
「否定はしないんだ」
あたしはニヤリと笑った。やはりこの女、嘘は付かないつもりらしい。
「もしもわたしが拾ったとしたら、どうなるんです?」
「それって公務執行妨害ですよ。現場の保存なんて今時、子供でも知ってるわけだし」
「無意識にしてしまったかも知れません。故意でなければ罪には問われないんでしょ」
「そうだけど、故意かどうかは判断がつかないからね」
あたしはポリポリと頭を掻いた。
「まあ、あんたが嘘をついてないことが確認出来ただけでもよしとしますか」
「お話はそれだけですか?」
静香は腕時計を見ながら言った。
「そろそろ美容院に行かないと、開店の時間に間に合わないのです」
「ああ。手間を取らせて申し訳ない。また、何かあったらお邪魔するかも知れません」
「いつでもどうぞ」
そう言って彼女は来た時と同じように優雅な仕草でお辞儀をして席をたった。
その美しい後ろ姿を眺めながら、中村デカチョウが仕切りとため息をついている。すっかり彼女の毒に侵されたようだ。
やはりあの女、相当な毒婦だぜ。
あたしは改めて思った。
7
その日の夜、あたしが玉川署の捜査本部に戻ると、神宮匠はひとりでパソコンに向かっていた。どうやらまた報告書の作成を押し付けられたらしい。
「精が出るな」
あたしは壁際のコーヒーメーカーから紙コップにコーヒーを移しながら言った。
「真樹乃先輩、お疲れっす。相方さんはどうしたっす」
「ああ、あいつなら駅で別れたよ。なんでも子供が熱を出しているって言ってた」
その癖自分は静香に熱を上げているのだから世話はない。コーヒーはすっかり煮詰まっていた。
「で、どうでした。あっちのほうは?」
静香への聴取を言っているんだろ。どいつもこいつも静香静香って、まったく美人は得である。
「ああ、お前の言う通り嘘はついていなかった」
そしてあたしは、昼間の静香との会話を話して聴かせた。
「なるほど。非常に興味深いっすね」
「何が?」
「彼女、結局認めたんしょ、自分が遺書を拾ったこと」
「認めたというか認めてないというか」
「はっきり認めてしまえば公務執行妨害の恐れがあるっす。だから曖昧な言い回しでハッキリと認めたわけではないすが、その口ぶりでは認めたも一緒すよね。そこが非常に面白い」
「どういうことだよ。公執に取られないように肝心なところは曖昧にしたってだけのことだろ。誰だってやるよ、それくらい」
「だったら最初からやってないといえばいいんす。誰も見てはいないんすから、いくらだってしらばっくれるっしょ」
「つまり彼女は自分がやったってことを認めたかったってわけだ。だけどそれをストレートに認めてしまえば罪に問われる可能性がある。だからあんな曖昧な言い回しになったってことか?」
匠は頷いた。
「なんでわざわざあんな事をしたんでしょう?」
「それは前にお前がいっただろ。あたしたちを試したって」
「まあ、そうかも知れないすが、それだけではないような気がするんす。普通に考えれば、自分らを試してどうするんだって話っすから」
「そりゃそうだな」
あたしは馬鹿馬鹿しくなった。そもそも遺書がドレッサーの上にあろうが、下に落ちていようが、そんなことはどうでもいい話だ。彼女がそれを拾って元に戻したのは、単純に彼女のイタズラ心からだろう。あの女ならやりそうなことだ。
遺書が偽造されたというのならまた話は別だが、今のところそんな形跡もない。
「さてと。じゃあ、行きましょうか」
報告書を書き終えた匠はノートパソコンを閉じて、ジャケットを羽織った。
「えー、今から?」
「今じゃないと先輩とは一緒に行動出来いないっしょ」
「で、何処行くんだよ」
「ストーカーさんの家っす」
匠はあっさり言った。今更、峰岸のヤサに行ってどうするつもりだ?
「あそこは玉川署の連中が根こそぎ持って行っちまって、今じゃなにも残ってねえぞ」
「そうっすよね。だからそれを確かめに行くっす。もしも何か残っていたら、それはそれで面白いんじゃないすか?」
そう言って、匠は口笛を吹かんばかりに上機嫌で部屋を出て行った。あたしは何がなにやら分からないまま、彼の後を追うしかなかった。
峰岸高文のヤサは狛江市の和泉多摩川だ。
小田急線の和泉多摩川から、多摩川沿いにしばらく行った先の、住宅街にある2階建てのアパートがそれだ。築10年は下らないと見られる古いタイプのアパートで、鉄骨製の外階段が建物の横を斜めに横切っている。峰岸の部屋は2階の階段脇だ。
あたしはドゥカをアパートの横に停めた。
月はない。暖かくなった夜風の中に、微かに梅の香りが鼻をくすぐる。近くに梅畑があるのだろうか。
アパートの1階部分が大家の家になっている。午後10時過ぎ、あらかじめ連絡してあるとはいえ、出てきた大家は少し不満そうだ。
「部屋の中といっても何もありませんよ。警察があらかた持っていってしまいましたからね」
アパートの部屋には黄色の規制線が貼ってあるが立番の制服はいない。
ブツブツいいながら大家が玄関の鍵を開けていると、明かりの点いている隣の部屋から男が顔を覗かせた。見覚えのある玉川署の捜査員だ。隣室の住人に協力してもらって隣を張っているのだろう。
「あ、すみません。昼間に没収し残したものがあるので」
訳の分からない言い訳をするが、玉川署の刑事は胡散臭い顔を残したまま中に引っ込んだ。
「ああ、びっくりした。下手に騒がれたら面倒なことになるとこだった」
大家を返したあと匠の耳に囁く。
「でお前、一体なにを探したいんだ?」
匠は黙って部屋に上がり込む。
部屋はやや小狭なワンルーム。部屋の中もトイレと一体型のユニットバスの中も、ビニール袋に包まれたゴミの山だった。そのほかにはビールの空き缶やら潰れたペットボトルやカップラーメンのカップなどが散乱している。
ゴミ以外の生活物資は驚くほど少ない。めぼしい物は玉川署のほうで押収したのだろうが、それにしても生活感はまるで感じられない。
匠は迷わずにユニットバスの中に足を向けた。
通路にまではみ出すゴミの山を掻き分け洗面台に向かう。洗面鏡の後ろには申し訳程度の棚が造り付けられている。鏡の蓋を開いて匠はニンマリした。
「ほら、やっぱりあったでしょ」
見るとそこには黒い化粧瓶がポツリと取り残されていた。
それを観たあたしは、あっと声をあげた。
それは男性物のヘアクリームの瓶だった。色は黒。そしてその蓋には桃色のウサギのマークが印刷されている。
「これってまさか、市川真由香の万引きした?」
「そう。そのヘアクリームみたいっすね」
「みたいって、あんた」
あたしは匠の首根っこ掴んで声を荒らげた。
「なんでこれがここにあるってわかったのよ」
「何故って、峰岸はこれで市川さんを脅迫したんでしょ。だったらそのネタモトはここにあるに決まってるじゃないすか。それに・・・」
「それに?」
匠は笑いながら、
「静香さんがそう教えてくれたっすよ」
「静香が教えた? いつ? いつよ」
「静香さんと真樹乃先輩の会話で一番気になったのがそこなんすよね。静香さんはなんで市川さんの万引きした物のことを、あんなにも詳しく説明したんでしょうね。ただヘアクリームとだけ言えばいいものを、色だとか形だとか、印刷してあるウサギの色までもっすよ。普通、そんなことまで覚えてます?」
「・・・・」
「大体っすね、万引きした本人が何を盗んだか覚えてないって話なんしょ。それなのに何で第3者の彼女が盗んだ物のことを詳しく知っているんすか?」
「あ」
あたしは気づいてしまった。
「つまりこれは静香のブラフか」
「その可能性はあるっす。市川さんが万引きをして、それをネタに峯岸に脅迫されたというのは、おそらく事実でしょう。でも、そのとき万引きした物がこのヘアクリームとは限らないっすね」
「つまりこれはあの女が仕込んだものだということか。あのクソ女、まんまと騙しやがって」
あたしは近くのゴミ袋を思い切り蹴飛ばした。
「だけどあいつ、何でそんなことをしたんだ?」
匠はいつも着けている布製の白い手袋ではなく、薄いプラスチック製の手袋をはめている。彼はその手袋をした指を、いきなりクリームの中に突っ込んだ。おいおい、何をしてるんだ。
「なるほど。そういうことすね」
匠は嬉しそうにクリームの中からそれを取り出した。クリーム塗れのそれは、銀色に光る小さな鍵のようだった。
「なんだ、それは?」
「コインロッカーの鍵みたいすね」
「コインロッカー? どこのだよ?」
「さあ?」
洗面所の水で洗い流したそれをビニール袋に入れながらあたしの方を見る。
「真樹乃先輩、大丸パイセンに電話して、すぐに来るよう言って下さい」
「大丸に?」
「大至急調べてほしいことがあるって」
8
大丸庄司はあたしより4年先輩の巡査長だ。もっともあたしや匠は愛情を込めて「パイセン」としかいわないが。
身長180センチ、体重110キロの巨体の持ち主だ。坊主頭で、一重瞼の目つきは人一倍悪い。どうみても悪人顔である。
しかしこの大丸パイセン、見た目の厳つさに反して性格は至って気弱だ。暴力沙汰とか血を見ることがとにかく怖い。殺人の現場にすら怖くて満足に踏み込めない有様だ。
まったく何でこんな男が刑事になんかになろうと思ったのかは理解に苦しむ。
趣味はアニメのフィギュア。いわいるアキバ系だ。
外観と体格で評価されたのだろうか、卒配先は品川署の組織犯罪捜査課、いわいるマルボーだった。寄りにも寄って品川署管内には、ひがし東京最凶最悪ともいわれる赤沼組の本部がある。彼としてはもっとも行きたくない赴任先だったろう。
結局、使い物にならないという理由でそこを追い出され、更にはあちらこちらの転属先で散々邪魔者扱いにされて、最終的に引き取ったのがうちの鶴田刑事部長だったわけだ。
鶴田の大将がこの男の何をかって引き抜いたのかはわからない。
だけどこんな男にも取り柄がないわけじゃない。それはパソコンにメチャクチャ詳しいってことだ。
アキバ系のオタクだから、まあパソコンに強いのはある程度わかるが、この男ハッカーとしての才能もあるみたいで、だったらサイバー犯罪対策課に行けばいいんじゃないかとあたしなんかは思うんだけど、なかなかそう上手くはいかないみたいだ。
登戸駅前のファミレスで待ってると、20分ほどで大丸パイセンはやってきた。彼のヤサは川崎市の百合ケ丘にある。
「なんだよ、もう。せっかく新しいゲームにハマっていたとこなのに」
「悪リぃ、悪リぃ。匠の奴がどうしてもというんでよ」
あたしは責任を匠に押し付けた。
「で、何?」
「これっす。この鍵、コインロッカーのものだと思うんすけど、どこのか分かります?」
「この手のシリンダーキーには注文コードと品版ナンバーが付いてるから直ぐにわかるよ」
そういって大丸は自前のノートパソコンを広げた。彼はモバイル・ルーターを持ち歩いているので、それを介せばどこでもインターネットが使えるのだ。
大きな身体をパソコンに被せるようにしてインターネットエクスプローラを立ち上げ、何かを検索しているかと思えば、いきなり黒いウィンドウが開いた。中には数字とかなんだか分からない記号のようなものがズラリと並ぶ。
そこにもまた何かを書き込んでいるようだ、更に同じようなウィンドウが3つばかり開く。キーボードがカタカタと鳴ると、画面が消えて元のエクスプローラーに戻った。エクスプローラーのウィンドウには、何らかのリストが表示されていた。
ここまでで僅かに10分足らず。彼の頼んだスペシャルジャンボパフェのダブルが来る前に仕事は終了してしまった。
このひと絶対、配属先を間違えているよ。
「ほら、もうわかった。これは登戸駅のコインロッカーの鍵だね」
なんだ、すぐ近くじゃないか。
「で、これどうしたの? まさかまた黙って独行(単独行動)してんじゃないでしょうね」
「いやいやいや。それは、まあ・・・」
「まったく。この前もその件で、散々管理官に叱られたの忘れたの」
警察の捜査というのは捜査本部を基点としたチーム捜査が基本で、個人の判断で動く独断捜査はもっとも嫌われる。
「本部の方には明日報告します。取り合えずロッカーの中身を確認したいっす」
匠はこれまでの事情を説明した。大丸はやれやれという顔をした。
「仕方ないな、今回だけだよ。君らが勝手にやる分には構わないけど、僕を巻き込まないでね」
ということで、でお礼替わりのパフェをパクついているパイセンを残して、あたしらは登戸駅に向かった。
駅前のロッカーを調べると、はたして中からは紙袋に包まれた携帯電話が出てきた。このごろ流行のスマートホンではない。従来のふたつ折りの携帯電話だ。
匠は手袋をした手でそれを取り出した。
「誰の携帯だ、それ?」
「どうやら峰岸のものみたいすね」
匠は携帯のプロフィールの画面を見ながらいった。
「なんで奴の携帯がこんなところに?」
「つまり、こういうことっす」
携帯の画面にはメモリーに記録されている画像が写し出されていた。
翌日捜査会議が始まる前に、あたしたちは川浪主任と吾妻係長に昨夜の出来事を報告した。もちろん大丸の関わった部分はゴッソリ外してだ。仁義を欠くわけにはいかないからな。
当然というかなんというか、川浪さんには目から火が出るほど怒られた。
この川浪琢朗という人はキャリアだ。
分かりやすくいうと、東大卒の第一種国家公務員試験合格者である。地域署の署長まで務めた本物のエリートだった。だった、というのは5年程前に致命的な大ポカを仕出かして、2階級降格処分を受け事実上出世コースからは外れているからだ。
降格前の階級は警視、つまり呉羽捜査一課長と同格だった。
元キャリアというだけあって規則にはひと一倍厳しい。ある意味、鮫島管理官以上である。
とはいえどんな叱責も匠の野郎にはまるで響かない。
各警察署をたらい回しにされ、「警視庁の鬼娘」と嫌われたあたしが言うのもなんだが、この神宮匠という男は非常識が洋服を着て歩いているような人間だ。入庁直後には捜査本部を無視して殺人の容疑者とおぼしき男とずっと行動を共にしたこともある。
それに比べれば、今回のこれなんて可愛いものだ。
それでも大した処分を受けないのは、上司の吾妻係長や呉羽課長が黙認しているからだ。面倒臭がりでいい加減な吾妻係長はともかく、あの鬼ババアみたいな呉羽課長が黙っているというのは如何なものだろう。
案の定、今回も吾妻係長が仲裁に入った。
「まあ、まあ、川浪さん。それくらいで・・・、ところで神宮くん、君はこの件をどうするつもりですか?」
「どうするといいますと?」
匠は眠たそうな顔で答えた。
「市井さんの自殺の原因はこれだと、君はそう考えているのですね」
携帯の画像には市井真由香の全裸の写真が写っていた。彼女は峰岸に暴行され、その写真を撮られたのだ。
「そのことを恋人である沼田さんに知られてしまったんす。偶然知ったのか、あるいは峯岸に画像を観せられたのかはわかりません。多分後者でしょう。恐らくそれで言い争いになったと思うす。それで絶望した市井さんは自殺を選び、一方の沼田さんは峯岸に攻め寄って逆に殺害されてしまった。市井さんはそのことを遺書には書かなかった。というか書けなかったんしでしょうね」
だから、静香はこんな形であたしらに真実を知らせようとしたのか。
まてよ・・・
そこであたしは考える。なんで彼女はそんなことを知っていたのだ?
「まあ、そんなところでしょうね。ところで、ええと、静香さんでしたか、彼女がこの携帯の場所を知っていたとすると、少なくとも彼女は峰岸と接触したことがあるということですね」
おいおい、係長。珍しくまともなことを言ってるじゃん。どういう風の吹き回しだよ。
「そう思うっす」
「で、君はどうするつもりですか?」
「決まってるじゃん。静香の野郎を任意で引っ張ってドロを吐かせる。これって完全に証拠隠匿だろ、公執じゃねえか。それに野郎、峰岸の居場所を知ってるかも知んねえ」
あたしは息せき切って言った。あのクソアマにひと泡吹かせてやる。
係長はニコリと笑ってあたしの頭に手を置いた。こらあ、セクハラだぞ。エロオヤジ。
「それは無理っすね。たぶん」
匠は鼻をほじりながら言った。
「なんでだよ。あのバカは知っていてあたしらを誘導したんだろ。ちくしょう、なめやがって」
「でも彼女は白状しませんよ。だいたい彼女は、このヘアクリームの瓶が峯岸の部屋にあるなんて、一言もいってないんすからね。彼女が言ったのは、市井さんが同じような形態の化粧品を万引きしたってこと。そこから峰岸の携帯にたどり着いたのはこちらの勝手。彼女の知ったことじゃないでしょ」
「だからそれは、あいつがそうなるように仕組んだってことだろ」
「たとえそうでも証拠はないすから。まあ、市井さんか峰岸が証言をすれば話は別すが。市井さんは亡くなっているし、峰岸は逃亡中すからね」
「あとは指紋か」
川浪さんがポツリと言った。
「そうすね。ヘアクリームの瓶かロッカーの鍵に彼女の指紋が付いていれば話は簡単なんすが、そんなミスは犯さないでしょうしね」
「ちくしょう。ちょームカツク。じゃあ、どうすんだよ。このままにしておくのか?」
あたしは近くのパイプ椅子を蹴飛ばした。
「まあ、しばらくは泳がせますか。どうにもイマイチ彼女の目的が読めないんで。それにこちらがノーアクションとなれば、また何やら動き始めるかも知れないす。ねえ、係長」
話の途中から、吾妻係長はまた船を漕ぎ出した。
こら、寝てんじゃねえ。
「ん、ああ、・・・まあ、それでいいんじゃない。そうね、課長のほうには僕から報告しておくから」
どういう神経してんだ、まったく。
その日の捜査会議では、峯岸の携帯が発見されたことも、昨夜のあたしらの行動も報告されることはなかった。どうやら敵を欺くには味方からということで、情報を隠して静香の動きを見守る方針らしい。
まあ、お陰であたしらの単独捜査の件はうやむやになって助かったけど。
9
それから2週間経っても、逃げた3人の行方は一向に知れなかった。
文字通り海に潜ったか地に隠れたか、緊急配備の網をくぐってたくみに姿を消していた。だいたい、3人も別々に逃げれば誰かひとりくらいは尻尾をだしそうなものだが、都内から川崎方面に捜査の編みを広げても何も引っかからない。
元所属先の金竜会が匿っている線もあったが、向こうは向こうで行方を追っているらしい。面子を潰されたとのことで落とし前をつけるつもりらしい。彼らより先に探し出さねば消される恐れもある。
「もしかしたら、もう都内にはいないんじゃないか」
そう言い出すものも出てきた。
峰岸高文の実家は鳥取県である。一方の藤原朔矢と木嶋敬之は同郷で、新潟県長岡の出身であった。当然のように捜査員を向かわせたが、いまのところ何の情報もない。
「もしかしたら、もう金竜会に消されたのかも」
「いまのところそういう動きもない。玉川署の組犯が張っているから、動きがあればわかるはずだ」
そして3週間目、なんも進展もないまま捜査本部は解散。捜査は縮小され玉川署内で継続されることになった。捜4の連中もあたしらダイハチも捜査から外され本部に戻っていた。
丁度その頃だ、あの静香が再び姿を現したのは。
その日あたしらは出動するべく事件もなく、ただ広い刑事部屋でゴロゴロしていた。そこへ庶務課の婦警が顔を出したんだ。
「あのう、二階堂刑事と神宮刑事にお客さまです」
「はあ、誰?」
「クラブKAGEROUの静香さまとおっしゃってましたが」
ようやく来たか。あたしらは思わず顔を見合わせた。
3週間経っても静香は動き出さなかった。そこであたしと匠は、再び話を聞きたいということで彼女を呼び出したのだ。
「第2面談室にお通しして置きました」
部屋に入ると小さなテーブルを挟んで、フランス人形のような女の子が座っていた。栗色に染めた髪を縦ロールにして、ピンクのリボンを巻いている。服装はチェック模様の入った真紅のワンピース。襟元には白いレースのフリル。唇にはオレンジのルージュ。目には不思議な色のカラコンまで入れている。
よく見るとやはりあの静香だ。元来の美貌に加え、まるで絵本から抜け出たような完璧な美少女だ。
「お久しぶりです」
彼女はにこやかに挨拶した。匠のやつも目を白黒している。
「驚いたす。そういう趣味があるんすか?」
「はい。今日はお休みなので、これからパーティなんですよ」
彼女はニコリとした。アキバ系の大丸あたりが観たら気絶もんだ。匠はわざと恐縮したていで頭を下げる。
「わざわざお出で頂いて恐縮です」
「いえ、捜査のお役にたてるなら。わたし、駒草ちゃんの亡骸を見てしまったんです。あの可愛らしかった駒草ちゃんが、あんな酷い姿になって。しかも恋人も殺されたんでしょう、あんまりですわ」
静香はそこで声を詰まらせた。確かに縊死の死に様は見られたものじゃない。普通の人間は見るに堪えないだろう。もっとも、あくまで普通の人間にとっては、という話だ。
「申し訳ないです。進展はまだないです。逃げた男たちの行方もわかりません」
「そうなんですか・・・残念です」
匠は辛勝に捜査の進展がないことを誤ったが、あたしはそうはいかない。丁度いい、この女の正体を暴いてやる。
「それで、わたしに聞きたい事とは何でしょう」
「あんたさー、あんた駒草、いや市井さんの本当の自殺の理由、知ってんだろ?」
あたしは直球勝負にでた。こういう強かな女相手に下手に出るのは愚策なのだ。
「本当の理由?」
「とぼけんじゃねえよ。携帯をコインロッカーに入れたの、あんただろ?」
「何をいわれているのか、わからないんですけど」
「お前、峯岸の行方、知ってんじゃねえか?」
「さあ、知りませんけど。その峰岸さんというのが、駒草ちゃんのストーカーなんですか?」
静香は困ったような視線を匠の送る。そんな目で見詰められたら、大抵の男はイチコロだろう。
匠は嬉しそうに説明をはじめた。
「駒草さんのストーカーだった峰岸って男が、彼の携帯電話の入ったコインロッカーの鍵を隠していたんすが、それがどこにあったと思います?」
「さあ?」
「駒草さんの万引きしたヘアクリームの中ですよ。でも、それって変だと思いません?」
「変? ですか」
「そりゃ変でしょ。なんだって自分の携帯をコインロッカーに入れて、その鍵を隠さなきゃならないんです?」
「誰かがその携帯を探している、とか」
「ああ、そうすね。駒草さんとか、あるいは恋人の沼田さんとかが探していたのかも」
「その携帯には何が入っているんですか?」
静香は無邪気っぽく小首を傾げてみせる。
「知ってるくせに」
ニコリと笑う匠に、静香は鮮やかな笑顔で応える。
すげえ。
と、あたしは思った。キツネとタヌキの化かし合い。どちらがキツネで、どちらがタヌキかは分からないが。
「ところで静香さん。あなたが拾ったという市川さんの遺書なんすがね。あれ、無意識に拾っちゃったというのは本当っすか?」
「ええ、わたしが拾ったのだとしたら、そうなのでしょうね。記憶がないから」
「もしも分かっていてやったのなら、証拠の偽装ということになるっすからね。公務執行妨害っすよ」
「どういうことでしょう?」
「指紋がついてなかったんすよ」
匠は笑顔のまま言った。
「あの遺書には駒草さん本人の指紋以外は誰の指紋も付いていなかった。もしも無意識に拾ったのだとしたら、あなたの指紋が付いているはずでしょ」
ああ、そうか。その指紋を彼女が拭き取ったのだとしたら、彼女は意識してそれを拾ったのだということになる。
さすがは匠だ。さあ、どう出る静香?
と、思ったら向こうのほうが上手だった。
「あら、わたし、普段は手袋を付けてますのよ。ほら、今日もそうですけど」
静香はレースのついた手袋をした手を広げて見せた。
「春とはいえ、まだ夜とか寒いですからね」
「なるほど、そうすか。静香さん、やはりあなたは嘘をつかないみたいですね。最初からそんなもん知らないと言い切っちゃえばいいものの、あなたは頑なに嘘をつかなかった。何故だろうって、ちょっと考えてみたんすが」
「なんで、わたしは嘘をつかなければならないんですか?」
「木の葉を隠すなら森の中ということわざ知ってます?」
「は?」
「木の葉を隠すなら森の中、嘘を隠すなら真実の中。あなたは最も重要な嘘を隠すために、頑なに嘘をつかなかったんじゃないかと、そう考えたんすがね」
「わたしがどんな嘘をついたと言うのです?」
「じゃ、もう一度聞くっす。あなた、峯岸さんの居場所、知っていますね?」
静香はクスリと笑った。
「さあ、知りません」
「と、いうことですよ」
ふたりはしばらくお互いを見合っていた。
「ねえ、静香さん。ちょっといい?」
万を持してあたしは話に割り込んだ。
「あたしさあ、捜査本部解散になっちゃってヒマを持て余してんだよね。それで少し、あんたのこと調べさせてもらったんだけど、あんたある反社会的勢力の養女なんだって」
「はい」
彼女は涼しい顔で答えた。
「暴力団一心会の桜木はわたしの養父ですわ。確かに養父には育てて頂いた恩があります。だけど、彼とわたしはもう関係はありませんわ。あのひとが何を考え、何をしているのかは興味がありません」
「それはまあ、どうでもいいんだけどね。ところで例のストーカーの峰岸なんだけど、金竜会って暴力団を破門されているんだ。金竜会ってのは指定暴力団大原興行の孫組織なんだ。知ってるかい?」
「さあ」
「あんたの養父の一心会と大原興行は、六条委員会という同盟を結んでいる。いわば腐れ縁だ。そこで問題は、なんで峰岸は金竜会を破門されたのかってことなんだ」
「それとわたしとどういう関係があると言うのです?」
「それなんだけどよ、あんたの所属しているKAGEROUってクラブって、親父さんの息がかかってる店なんだろ。春日ママって、あんたの養父とねんごろな関係だというじゃないか。あんた知ってるわけ?」
「さあ、わたしには関係のないことですわ」
「ふ~ん、ドライなんだね。いずれにしたってそこが一心会の店であるなら、当然組の関係者が出入りしているわけで、そこそこヤバイ話だってしているわけなんだろう?」
そこまで言ってから静香の様子を伺う、相変わらずのポーカーフェイスだ。
「まあ、ここから先はあたし、というかこの後輩の想像の話だから眉唾モンで聴いてもらっていいんだが、峯岸は駒草つまりは市井真由香を通してそのネタを掴んでいた可能性がある。峯岸はそのネタを元に、よりにもよって一心会をユスったんじゃないかって話だ。そうなると金竜会としては立つ瀬がない。そこで慌てて峯岸を破門にしたと、まあ、そんなわけだわね」
「すごい想像力ですわね、作家になれますわ」
静香は平然と言い切った。
「そうなると当然、あんたの親父さんの一心会としては峯岸のことが邪魔になるよな」
「そうなります? よくは分からないですけど」
顔色一つ変えない。たいした女だ。
「ねえ、静香さん」
バトンタッチ。ここからは後輩の匠が喋りだした。
「半年前にあなたのKAGEROUの客だった、別の指定暴力団の組長が行方不明になっているんす。三代目梶賀組の大島剛造組長。知ってますよね? 当時一心会と梶賀組は縄張りのことでもめていた」
「はい。確かわたしがアフターしたお客様です。アフターというのは・・・」
「知ってます。店外デートのことでしょ。彼が行方不明になったのは、その直後なんすよ」
「その件ではわたしも警察に事情を聴かれましたが、その方はわたしと別れた後、別の場所に移動中に行方不明になったんでしょう。わたしはその時間、クラブに戻っていましたわ」
「そうすね。その組長はあんたと別れた後、子分の運転する車で杉並の荻窪に向かってます。そこに愛人のマンションがあるんすけど、その手前で車を降りたところまでは分かっているっす。マンションから数百メートル離れた地点です。人目につくのを嫌ったのでしょうが、そこから彼は歩いてマンションの方向に向かったけど、彼は愛人の部屋にはたどり着けなかった。わずか数百メートルの間に、彼は煙のように消え失せてしまったんす。不思議な話っすよね」
「ええ、不思議な話ですわね」
静香は女のあたしでさえ、ドキリとするような色っぽい瞳で匠を見詰める。
「でも、それとわたしは何の関係ありませんわ」
「もちろんそうですよ。平和にみえてもこの日本には、一年に何万人もの行方不明者がいるんすから」
そして強い視線で静香を睨む。
「ところで静香さん。ナイトランダーというのをご存知ありませんか?」
「はあ、ナイトランダー、ですか?」
「殺し屋っすよ。まあ、都市伝説なんすけどね。正体不明、性別年齢不詳。姿を見せずにターゲットを始末し、誰にも気づかれずに去っていく。ネットでその筋の間では、結構話題になっているんすけどね」
「さあ、聞いたことないわ」
静香はクスクス笑いだした。
「だって誰も見たことがないのなら、どうしてそのことを知っている人間がいるんです?」
「まあ、それが都市伝説ってやつなんすけどね。でも何となくすけど、今回逃走した3人はもう見つからないんじゃないかって、そんな気がするんすよね。刑事である自分が、こんなこと言うのもなんすけど」
静香は穏やかな笑みを浮かべたままだ。
「もう一度訊くっす。あなた、峯岸の行方を知りませんか?」
「はい。知りません」
彼女はハッキリと言った。それが嘘だとは分かっていたが、もう、あたしたちには彼女を追い込む材料がなかった。あたしたちの惨敗だった。
「あら、いやだ。もうこんな時間」
しばらくして静香は腕時計を見ながら言った。
「ごめんなさい。もう、いいかしら。お友達と約束があるの」
「はい。時間を取らせて申し訳ないす」
「いえ、とても楽しかったですわ。捜査、頑張って下さい」
そういって静香は席を立ったが、ドアのところで立ち止まってこちらを振り向いた。
「神宮刑事さん、二階堂刑事さん。わたし、あなた達のこと大好きですよ」
「はあ?」
「また、遊びましょうね」
そう言って帰っていった。
なんだ? あいつ。どういうことだ。
「おい、後輩。あれ、どういうことだよ」
呆然と見送りながらも、あたしは匠の腹を肘で突っついた。匠はクスリと笑って、
「さあ、喧嘩を売ってんじゃないすか?」
そういうことか。
おう、上等じゃねえか。
あたしは売られた喧嘩は喜んで買う女、二階堂真樹乃だ。
なめんなよ、コラァ。
完
鬼娘