かえりみち
かえりみち
大阪の本社から東京の営業所へ異動になった。
住まいは実家のすぐ近くの中古物件を購入した。二人の娘たちは祖父母の家が近くなったことを喜んでいたが、まだ東京の空気感や学校には馴染んでいないらしい。
この物件は、俺の高校への通学路沿いに建っているから、以前ここに住んでいた人の顔くらいは知っている。それくらい正真正銘の地元に移り住んだことで、近隣の景色にリンクして高校時代が思い出される。
いや、あの頃が思い出されてしまったのは、地元のせいなんかではない。
間違いなく、今日の職場でのことだ。
◇
異動から間もなくして、こちらの営業所の取引先を先任者から引き継ぐことになった。そのうちの一つへ挨拶へ行ったのが、今日のこと。
先任者から受け継いだ資料をもとに、地元で射出成型を行っている工場へ足を運んだ。
なんてことない。ここも昔からよく知った企業だ。同級生の一人くらい、働いているかもしれないと思いながら応接間で担当者を待つ。
静かに開かれた扉から顔を出した彼女に驚いた。
「荒瀬くん?」
その声に、その表情に、俺は言葉を失う。何かを言いたいのにうまく声にならず、
「赤石?」
そう聞くのがやっとだった。
俺の心情も感情も知らずに彼女は子供っぽく笑う。「久しぶりだね」と。
あの頃と変わらない。変わらな過ぎて、俺の中にあった彼女の記憶が動き出した。
高校時代。
帰る方向が一緒ということ、お互いに帰宅部ということ、たったのその共通点だけで何となく一緒に帰るようになった。
高校から自宅まで、この工場のそばも通った。工場を通り過ぎてすぐに土手に上がる階段がある。二人で自転車を担いで階段を昇った。もう少し先には自転車用のスロープがあるのに、毎日のように自転車を担いでいた。「見てよ荒瀬くん、毎日自転車担いでいたから力こぶできたよ」と白い腕に力を入れて見せた彼女の笑顔が、目の前にいる彼女に重なる。
そうやって川沿いを歩きながらラプソディを口ずさみ、あっという間に三年が過ぎた。
例年よりかなり開花が早い桜並木を歩きながら、将来のことをぽつりぽつりと話した。俺は関西の大学へ。彼女は東京の大学へ。それぞれの道へ、互いの道へ進んだ。
あれからもう二十年。
俺たちはもう三十代の終わりに差し掛かっている。
それなのに、目の前にいる彼女はとても魅力的で、あの桜並木の下で言えなかった言葉が、今になって込み上げる。
ずっと好きだった。初めて教室で君と出会った時からずっと。三年間ずっと同じクラスになれて、嬉しかった。春のクラス替えのたびに、ハラハラしながら学校へいった。「今年も同じだね」と笑う君が愛おしかった。俺が体調崩して寝込むと、親の目を気にしながらゼリーとエナジードリンクを差し入れしてくれるのが嬉しかった。「次に体調崩した時は、おかゆを作ってあげるよ」と言われて、熱が上がった。実現なんてしなかった。
でも、ついに言い出すことができなかった。関係が崩れることが怖かった。他に好きな人がいるんじゃないかとか、帰り道が一緒なだけで恋愛感情はないんじゃないかとか、ネガティブな感情が俺を抑え込んでいた。突き付けられるくらいなら、そのままでいたかった。
目の前にいる君は、あの頃と変わらず綺麗だ。ううん、あの頃よりもずっと綺麗だ。もしもあの日、俺が想いを打ち明けていたら。もしかしたら、こんなに綺麗になるまでの時間を一緒に過ごせたかもしれない。それなのに俺は、行動なんてできなかった。そのまま大学の同級生となんとなく付き合って、いつしか別れて、サークルの後輩と付き合って、また別れて。気が付いたら職場の先輩と結婚して子供までいる。そうやって、月並みな幸せを掴んだって、ずっと君のことがこころの隅にいて、妻と君を重ねてしまったことだってある。
本当に好きだったんだ。
でも、俺は気付いている。
君が胸につけている名札の苗字が「赤石」じゃなくて「森村」になっていること。左手薬指の結婚指輪。手帳の内側に挟んだ子供の写真。
彼女の苗字に気付いていなかったら、俺は今ここであの頃のことが告げられただろうか。
誰にも言えないこの気持ち、どうすればいいんだろう。想い出話もほどほどに納期の話に移ったって、目の前にいる彼女とあの頃の彼女が重なってしまって、今と過去がわからなくなって、自分だけ取り残されているようで。
事務的なやり取りを済ませ、帰路に就く。
直帰する旨を会社に連絡した。本当は会社に戻って、気持ちを現実に、現在に戻す必要があるのかもしれない。
でも、今日だけは。今だけはあの頃に浸らせてほしい。
だから、歩いて帰ろう。この土手を上がって、川を上流に上がっていけばあの並木道があって、そこから土手を降りれば妻子が待つ我が家。
あの日、桜並木で「好きな人いるの?」と聞かれた。俺はあの時、なんて答えたっけ。きっと嘘でごまかして、過ごしてきたに違いない。
あの日のことを想い出そうと満開の桜を見上げれば、あの日と同じような風が頬を撫でた。
かえりみち