彼女のいる風景

この作品のお題は【いないいないばあ】です。
少し不思議な、現代のお話です。そこに、そんなモノがいるかもしれません。
日常系怖くないホラー。

 自宅最寄り駅の西側出口、高架下の通路にある自動販売機とベンチの小さな隙間に、彼女はいる。白いワンピースに、同じくらい白い肌を通し、つばの長い白いハットをかぶって、雑踏に顔を向けている。ただ、それを見ているかどうかは、わからない。何故なら彼女は常に、その両手で顔を隠しているから。
 僕は小学生の頃からその姿に気付いていた。毎日、毎日、晴れの日も雨の日も雪の日も、登下校の日も休みの日も、変わらずずっと同じ場所にいるのだから、気付かない方がおかしい。もちろん、他の人には見えていない。誰もが彼女の前を素通りしていく。僕の両親も、友達も、近所のおじさんやおばさん、見知らぬ住人たちも、彼女のことは知らずに生きている。それで良いし、それが良いと思う。見えていたら、きっと大問題だろう。彼女は何もしないのに、ただいるというだけで、色々と面倒事が起きるのだ。そんな些事はないに越したことはない。
 僕の目には、彼女はじっと、静かに佇むだけのヒトに見えていた。
 ただ正確に言えば、彼女はごくたまにアクションを起こすことがあった。それはごくたまに、僕以外の人にも彼女が見えているということに繋がるのだが──赤ん坊は、彼女の姿に気付くことが、稀にある。

 僕がそれに最初に気付いたのは、中学二年生の夏休みのことだった。友達と遊びに出かけるため、駅前の抽象的なモニュメントの前で待ち合わせをしていた僕は、わくわくとしながら、暑さを付き添いとして、あたりを眺めていた。
 平日昼前の駅は人通りがあまりなく、充満するセミの声に、通過する電車の音がアクセントをつけていく。空は真っ青で、燦々とした太陽と、遠く向こうには入道雲が浮かんでいる。
 当然、自動販売機の横には彼女がいた。両手で顔を覆い、その顔は駅出口を向いている。彼女がいるいつも通りの風景だが、その日は横のベンチに、赤ん坊を抱いたお母さんが座っていた。日陰になっているそこは、風も通り、比較的涼しい休憩ポイントになっている。お母さんは赤ん坊の背中を優しく叩いたり、ゆすったりしながら、隣で買ったであろうペットボトルを飲んでいた。
 何の気なしにその光景を見ていて、僕はあることに気が付いた。お母さんが抱いている赤ん坊が、じっと彼女の方を見ているのだ。まるで中空を見つめる猫のように──実際、誰か別の人が見たらそう見えるのだろうが──視線を外さない。赤ん坊にとって、彼女が実在の人かどうかはともかく、ずっとそこにいて動かないヒトが、気になって仕方がなかったのだと思う。それを見ている僕も人のことは言えないが、赤ん坊はとにかく数分間飽きもせず、抱かれあやされながら、彼女に視線を固定していた。
 するとどうだろう、彼女の首がゆっくりと赤ん坊の方を向いたのだ。
 僕はぎょっとした。少なくとも僕が彼女を知ってから、彼女が動くところを初めて見たからだ。同時に、一体これから何が起こるのだろうと不安にもなった。彼女が無害であるとは、僕の、彼女はただ見ているヒト、という観察から来る予想だが、他のアクションを取るならまた別である。もしかしたら、とんでもないことが起こるかもしれない。人の行動によって反応が変わるヒトは、けっこういる。
 僕の側からは、彼女については後姿しか見えないが、赤ん坊がびっくりして目を見開いている様子は見て取れた。
 ドキドキしながら、またしばらく成り行きを見守っていた。二人は両手越しに対面したまま、動かない。何も知らないお母さんだけが、駅出口を見つめながら、赤ん坊の背中を優しく叩いている。
「あ」と僕は声をあげた。無意識に漏れていた。彼女が、その両の手を、開いたのだ。まるで何百年も開けられなかった鋼鉄製のドアのように、ゆっくりと手が動き、彼女の顔が外気にさらされていく。もちろん僕からは、彼女の顔は見えない。それが見えているのは、決して視線を逸らすことのない赤ん坊だけだった。
 不安はいよいよ最高潮に達しようとしていた。彼女がもし良くないヒトになるなら、これから目の前で、よくないことが起こる。でも僕自身、ただ見えるだけで何もできないから、気持ちがあせるだけで、飛び出していくこともできない。どうしよう、どうしよう、とそればかり思いながら、対面する二人を見ていた。
 そして、次に起こったのは、僕にとって予想外のことだった。
「きゃっきゃっきゃ」
 何が起こったかわからないといった様子だった赤ん坊が、声をあげて笑い出したのだ。見るからに楽しそうに、彼女に指もさして、可愛らしい笑い声を響かせている。お母さんはびっくりした様子で、「どうしたの?」という感じで口を動かした。視線は赤ん坊の指さす方に向いている。もちろん、その目に彼女は映っていないだろう。赤ん坊と彼女が、いまだ見つめ合っていることは、僕しか知らない。
「……いないいない、ばあ?」
 呆気に取られていた僕は、我知らず、彼女の行為の意味するところを呟いていた。
 結局彼女は、その後もう一度いないいないばあをして、赤ん坊を楽しませた。彼女の両手が閉じられたのは、楽し気な赤ん坊を慈しむように抱いたお母さんが、ベンチを立って去って、しばらく経ってからだった。僕はその一部始終を見ていたが、丁度そのとき友達がやってきて、彼女がいつもの方向に顔を向けたところだけは、見なかった。
 そんなことがあって、僕は彼女への認識をニュートラルからプラスに改めた。赤ん坊に優しいヒトに悪いヒトはいない。それが、僕がそこまでの短い人生で得ていた経験則──いずれ覆されることになるのだが──だった。そして、決して回数は多くないが、同様の場面を見ることができたとき、僕は彼女と赤ん坊のやり取りに、ほっこりと顔をほころばせるのだった。
 ただ、僕自身は絶対彼女の顔を見たりはしなかった。気にならなかったと言えば嘘になるが、それはなんだか、彼女のありようを尊重していないし、失礼だと思った。僕は外から彼女を見ている。その彼女は優しい。それで良いのだ。

 やや時は流れ、僕が高校生の頃のこと。
 高校生になって電車通学をしていた僕は、その日、日暮れまで部活に勤しんでいて、へとへとになりながら電車に乗り、揺られ、うとうとしている間に最寄り駅へと着いていた。半分寝ている頭に発車音が響き、我に返った僕は、慌てて電車を降り、そのままの勢いで改札も出たところで、力尽きた。あと少しの家まで戻るため、わずかでも体力回復しようと腰を落ち着けたのが、彼女の横のベンチだった。座ってからそれに気付いた僕は、そっと横を見上げて、彼女が変わらずそこにいることを確認した。
 実はそれまでそのベンチに座ったことはなかった。他の人には見えていなくても、僕には見えているのだ。彼女に何の反応もないにしても、積極的に横に座るのは、なんというか、憚られた。うまい例えが思いつかないが、しいて言えば、気になる女の子の隣の席に、その子がいると知っているのに知らないフリで偶然を装って座りに行く、という行為に近いかもしれない。要するに、ヒト相手とは言え、敢えてそれをすることが恥ずかしかったのだ。
 しかし僕は座ってしまった。座ってしまえば、やはり気になる。
 僕はぐったりしていたことも忘れて、ちらちらと彼女を見上げることを繰り返した。
「てめえ、さっきからなんだ?」
 それが思わぬ不幸を運んできたのは、すぐのことだった。僕は自分の視界とドキドキで気付いていなかったが、自動販売機の前に、いつの間にかガラの悪い男が立っていたのだ。
「ちろちろとこっちを見やがって。俺になんか用でもあんのか? ああ?」
 つまり、僕が見ていたのは彼女だったが、彼女が見えない男にとっては、僕が見ている相手は自分、ということになる。いかにも気の短そうな男にとって、その行為は噴飯ものだったのだろう。今すぐにでも詰め寄ってきそうな雰囲気で、男は僕の前に立ち、なおも悪態を続けていた。
 僕はしどろもどろで曖昧な弁明を繰り返した。男を見ていたわけではないが、さりとてそれを証明する手段はない。上手に嘘をつこうにも、そういう乱暴な絡みに無縁だったため、動揺で頭が働かない。最終的に「すいません」を連呼するしかできなくなったのだが、怯える僕を良い獲物と思ったのか、男は一向に立ち去らず、ついには「詫びようと思うならジュース代をよこせよ」と狡い要求をしてきた。
 体力が底をついていた僕は逃げることもできず、二進も三進もいかなくて、仕方なく自分の鞄から財布を取り出そうとした、そのとき──
「な?! なんだてめえ。ど、ど、どこから出てきやがった!」
 男が突然そんなことを言い出したのだ。鞄の中を見ていた僕が何事かと顔をあげると、男は「驚かすんじゃねえ」だの、「何の用だよ」だの、喚いている。その視線は、確実に彼女を向いていた。
 彼女は、その喚きを聞いているのか聞いていないのか、彼女が彼女自身である通り、いつものように両手で顔を覆っていた。しかし、ある程度我を取り戻した男の怒りの矛先がいよいよ彼女に向かっていこうというとき、その両手は、ゆっくりと、開かれていった。
「ひゃっ」
 男が息を飲む音が聞こえた。まん丸に見開かれた目が、次第に恐怖の色を濃くしていく。ぽかんとだらしなく開けられた口が、小刻みに震え、ほとんど意味をなさない呟きを漏らしている。鼻腔も広がり、顔は耳まで真っ青になっていた。
 僕は何が起こっているかわからず、彼女と男の顔に視線を行ったり来たりさせていた。僕からは、彼女の左手に隠れて、彼女の顔は見えない。
 男は、僕には見えない何かに対して幾ばくか虚勢を張る様子も見せたが、結局「ぎゃあああぁぁ」と盛大な悲鳴をあげて、走り去ってしまった。
 あとに残されたのは、ぽかんとした僕と、両手を開いている彼女、遠巻きに僕たちの様子を眺めていただろう通行人、そしてただならぬ様子を聞きつけ駅の窓口から出てきてくれた、顔見知りの駅員さんだった。
「どうした? すごい声だったけど、何かあった? 何かされたかい?」
 駅員のおじさんは、ものすごい勢いで男が走り去っていく方を気にしながら、心配そうに僕に尋ねてきた。
「あ、いえ……大丈夫です」
「本当?」
「はい。お金を取られそうになったけど、あの人、その前に行っちゃったんで」
「そうか……。あの男、最近この辺りに越してきたみたいでなあ」
「知ってるんですか?」
「ああ。他のお客さんから苦情を聞くことがあってね。壁を蹴ってただとか、言い掛かりをつけられただとか。今回は未遂ではあるけど、やっぱり警察にもちゃんと連絡しておかなくちゃならんな……。いや、ともかく、無事で良かったよ。それにしてもあいつ、どうしてあんなふうに行っちまったんだ?」
 おじさんは訝し気な顔で僕を見た。僕は、さあ、と首を傾げながら、横目でそっと彼女に目を向けた。彼女はもう、顔を隠してた。
「僕にもわかりません」
 おじさんは腕を組み、ふむと、考えるように何度か頷き、鼻から大きく息を吐いた。
「……まあ、いいや。良くわからん相手のことを考えても仕方ない。さあ、君ももう帰りなさい。帰って、ゆっくり休むと良い」
「はい、ありがとうございます」
 じゃあねと、おじさんは駅の窓口へ戻っていった。
 一人になって、僕は改めて身体中に疲れを感じていた。さらに言えば、今の騒動で元の疲れが倍にもなったようだった。僕は、本当に最後の力を振り絞って立ち上がった。あの男が戻ってくるとは思わないが、おじさんの言う通り、早急に帰宅し、家で休むのが賢明で最善な判断であることは間違いなかった。
 去り際、僕は姿勢を正し彼女の前に立った。いつものスタイルで立ち続ける彼女に、言い知れない安心感を覚える。もしかしたら彼女にとっても、この場所は、安心で平穏な場所であるのかもしれない。それを乱されるのを嫌ったから、男に対して働きかけをしたのかもしれない。もしくは単に、赤ん坊のそれとは違う、無遠慮な視線で見つめてくる男に腹が立ったのかもしれない。全ては〈かもしれない〉でしかないが、いずれにせよ、僕はそれで助かった。
「ありがとうございます」
 僕は彼女に向かって頭を下げ、礼を言った。直ろうとしたとき、彼女の両手が腰の横にあることに気が付いたが、僕はその瞬間だけ目をつむって身体を起こし、彼女の顔は見ることなく、家路への一歩を踏みしめた。
 こちらこそ、ありがとう──
 微かに背中に届いたそれは、風のいたずらだったのかもしれない。
 
 あれからさらに数年。今も僕は彼女のいる風景を通って、電車に乗っている。目的地が高校から大学、勤め先の会社に変わっても、それはまだ変わらない。そろそろ一人暮らしをする資金も貯まってきたのだが、僕はこの街が好きなのだ。
 彼女も、相変わらずずっと顔を隠している。たまに赤ん坊を喜ばせたり、酔漢や狼藉者を脅したりはしているようだが──妹から駅の幽霊の噂話を何度か聞いた──、基本的にはただじっと駅出口の方を向くばかりだ。
 ただ、そんな彼女にも少し変化があったようで──僕がふと彼女に目を向けるとき、彼女の両手が少し、上にずれていることがあるようになった。一体何故彼女がそんなことをしだしたのかはわからないが、僕はそれを見るといつも、ほっと安心した気持ちになるのだ。
 隠された顔の下に見える彼女の口元は、優しくにっこりと笑っているのである。

彼女のいる風景

彼女のいる風景

少し不思議な、現代のお話です。そこに、そんなモノがいるかもしれません。 日常系怖くないホラー。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted