悟りについて

 師走の夜だった。私は禅堂になど行かず、自らを超克できないかを模索した。鬱で苦しんでいた。自らの無力と、乱れた心身と、やるせなさと倦怠と、永続する脱力感から逃れる手はないかともがいていた。もがくことも苦しみであった。苦しみから逃れようとして、苦しみは生まれていた。信頼する人々にも、迷惑をかけ、愛想を尽かされていた。自分は一人ですべて背負うしかないのだと悲嘆した。その中で、再び宇宙への合一を図ったのである。いや、図るときすでにそれは失敗している。私は、「べき」から「である」へ、つまり、存在の側へ降りて行ったのだ。
 私は坐った。ただ、坐った。空気を冬のものにした。生まれたままの姿となった。一糸まとわぬ素の裸男が、窓を解放した真冬の一室で、その暗闇の底に坐った。容赦ない寒気が骨身にしみた。しかし、それが私と世界の境界を曖昧にした。坐るとき、常に感じていたことが、より一層、心身の髄まで浸透する気分であった。
 自らを責め立てていた、生活という名の大きな何かが退いた。そして、坐り、ただ無へと降りるはずのなかで、なぜだかむしろ、あらゆる感覚が鋭くなっていった。肌は毛穴の一つ一つから寒さがしみこむように、耳は木々の梢の軋みすら聞こえるように、鼻は冬と夜の香りをかぎ分けるほどに、口は今までの自らの過去のすべてを味わうように、目はほぼ閉じていたが、世界のすべてを見通せているかのように、そして心は、今ここにある自己というものへ凝縮した。放散の前に起こる、凝縮であった。
 世界は無限であった。無限とは、限度が無いということである。限度とは、物の区別である。限ることは、なにかを区画することに等しい。限定という言葉は、すなわちそれである。無限というのは、限りを知らない。ゆえに永遠の連続のことを、無限という。そこに断絶はない。断絶は終わりであり、始まりであるからだ。古代インドの哲人たちは、この無限、すなわち、世界そのものの仕組みである、無限のことを、輪廻という概念で指し表した。輪廻とは、すなわち諸行の無常を説き示したものである。あらゆるものは、移り変わる。それが無限であると、私は閃いた。無限の中を、移ろいゆくのが、すべての事物現象の定めである。その変化は、留まることを知らない。変わらないものなどない、それだけが、変わることのない掟である。何者も、変化を避けて生きることはできない。生老病死の苦をしることは、変わりゆく生命の理を知ることであった。
 そのような世界において、今を生きるしかない自我において、坐るという行為は、何を意味するのか。私は坐る間に、思ったことがある。坐るとは、まずその移ろいゆく世界に感覚を解放することであり、次に、その移ろいの中で、あえてとどまるということである。水流の中に留まるとき、我々は水の流れに乗るより、はるかに強く、水を感じる。座禅とは、無常の流れに乗るよりもはるかに強く、世界を感じることである。ゆえに座禅の間、しばしば誰しもが味わうことであるが、もはや時間というものは意味を持たない。一秒が無限であり、無限が一秒であるからだ。ゆえに座禅の間、我々は千年の時をも経ていると思えば、同時に終わってしまえば、すべてが一瞬の出来事のようにも思えてしまう。まるで座禅とは人生の凝縮であるかのようで、それはつまり、生命の凝縮であり、時間の凝縮であり、変遷の凝縮であり、無常の凝縮なのである。
 道元は、坐る姿がすなわち仏の姿であれと述べた。仏を悟りの姿であるとすれば、坐ることとは悟ることである。坐ることは、時空に留まることであることは先ほど述べた。であるならば、悟ることもまた、ただ、そこに留まるということなのではないか。輪廻はしばし、永劫の円運動と解釈することがあるが、その流れに乗り続けることが、輪廻に乗ることであるならば、留まることが悟りといっても過言ではあるまい。それは、数学上において、円が点の集合であり、それが線に見えてしまうという錯覚と、点それ自体は面積を持たないという矛盾に似ている。点とはゼロである。すなわち、悟りとは、ゼロになるということなのである。さらに言ってしまえば、元から輪廻とは錯覚に過ぎないのであるから、初めからゼロである自己を看過することが、悟りなのである。点が運動をやめ、その一か所にあるとき、自らがただの点に過ぎず、そこに面積はないことを知る。透明であることを知る。無色である。鋭くなっていく感覚は、悟りへの過程である。そこを超えたとき、実は世界のすべてが一つであり、すべてが無限という結論へと導かれる。
 禅の厳しさとは、留まることの苦しみである。禅の喜びとは、全てを統一して、それが同時に無であるという快感である。禅とは終わることである。自己を終わらせることである。悟りとは、この世界で最も大きな矛盾を引き受けることである。そしてその矛盾から脱することである。あるのに、ない。近づけば、遠ざかる。見えるけれど、見えない。遠き遠き、ふるさとへと帰っていくことである。
 しかしながら、私には悟ることの意義がつかめずにいる。なぜなら、見ればすでに万物は悟りの中にいるのだから。ゆえに悟ること識ることでしかない。ただ、あえてここで私なりの回答を示すならば、悟るとは救うことである。何をか。万物をである。すべての存在が、無常という激流に痛めつけられている。その激流にあえて留まることで、万物の苦しみを一心に感じることができる。骨身に染みる寒さの中で、私は同じようにこの寒空の下凍える数えきれない生命のことを思った。涙する人々のことを思った。痛みを知ることは、痛む人々を救うことである。苦しみは無駄ではない。それは必然なのだ。しかし必然ゆえに、最も過酷なのだ。
 ならば愛をもって、万物を赦そう。憎しみに心が飲まれる日もある、後悔に眠れぬ夜もある、不安に押しつぶされる時もある、そういったすべての無常を赦そう。自己を赦し、他者を赦そう。それは綺麗言でしかないが、それしかないのだ。輪廻も悟りも、大したことではない。その軽さこそ、最後にたどり着く境地であるような気がする。
 そうは言いつつも、私は日常にまた戻ってしまう。そしてまた、苦しみに身を浸しながら、その苦しみに悩まされ、他者を想うことすら忘れてしまう。苦は必定であることを、忘れてしまう。そのたびに、禅をする。そこにただ、存在することで、苦を識る。そしてその苦というものが、存外に、とるに足らないものであることを、識るのである。

悟りについて

悟りについて

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-07

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