アンタレス

柏木熊介

この作品のお題は【川】です。
いかようにも想像力を掻き立ててくれるとともに、これ以上はないとも思わせる名作に捧ぐ。

 夜半に一人、私は静かな川の流れを見ていた。大きくもないが小さくはなく、私の住む町の中ほどを南進して、ずっと先の海まで続いている。さすがに、気まぐれな風に乗っても、潮の香が届くことはない。
 昔、海を追って川沿いの道を下って行ったことがあった。友達と遊んでいたときに思いついた大冒険だ。何もない学校終わり、わくわくと、棒切れなんかを持って、私たちは歩いた。海についたら何をしよう、なんて話しながら。しかし、子どもの足と考えだ。歩き始めて少しも経てば、すでに茜だった空の向こう、太陽はその日の役目を終えようとしている。東を見れば、黄昏が追い付こうとしている。言い出しっぺは私だったが、その私が、遠い我が家と夜の訪れにすっかり怖くなり、帰ろうと、友達の返事も待たず踵を返した。一緒に冒険した優しい友人は、文句も言わず、泣きそうになっている私の手を引いてくれた。彼は、励まし、小さく替え歌を歌ってくれた。
「夏の小川は、さらさら流る。岸のすみれや、れんげの花に──」
 漏れ出た歌詞は、ささやきとなって消えて行った。
 川は静かに流れている。
 水面に零れた星々が煌き、地上の川は天にまで続いていた。電灯の少ないこの地域では、星空がはっきりと見える。それは確かに、昔先生が言っていたように、真っ白な乳の中に細かに浮かぶ脂油のようだった。
 あの日──あの祭りの夜、私は彼と一緒に、星の海を旅した。昔途中で終わった冒険を、少し大人になった私たちは、未来の軽便鉄道に乗って再開したのだ。それは永遠の一瞬に訪れた素晴らしい体験だった。
 銀河に波立つ空のすすき。様々に色づく三角標。白い北十字。水晶の河原。鳥捕りの雁。二重星の観測所。黄金紅の果実に、鵲と孔雀。新世界。赤く透きとおる蠍の火。煌びやかな南十字。そして石炭袋。
 消えてしまった彼だけが、その体験に影を落とす。
 いや、わかっている。彼は消えたわけではない。優しい彼は、命を救い、天へと召された。悔しくて泣きたくて受け入れられないことでも、十年経てば、いくらかは飲み込むこともできる。例え腹の中でぐるぐる、ぐるぐると動き回り続けようと。
 星が一つ、流れた。
 私は川を離れ、いくらか歩いたところにある、黒い丘の頂へと向かった。苦く懐かしい記憶を思い起こしながら、小さな林の小道を上っていく。
 林を抜けると、一面の宇宙が目の前に広がっていた。夜露に濡れた草に構わず、身体を投げ出し、両腕を枕にそれを見上げる。先ほどよりも空気が澄んで、吸い込まれそうな感覚を得た。
 もしかしたらこのまま、夜を駆けるあの電気機関車に乗ることができるかもしれない。
 私はしっかりと目をつむった。
 遠くから列車の音が近づいてくる。
 ごとごと、ごとごと、ごとごと、ごとごと。
 青い天蚕絨の腰掛けや、鼠色のワニスを塗った壁、真鍮の二つのボタンが瞼の裏に現れる。
 ごとごと、ごとごと、ごとごと、ごとごと。
 目を開けても、私の目の前に背の高い男の子はいない。
 そんなこと、十年、毎年、わかっている。
 列車は東へと遠ざかって行く。
 私は身体を起こし、両手で顔を覆った。
 彼のおかげで私は成長することができた。でも、彼がいないから、私の心はこうやって時折、過去に揺蕩っている。
「やあ」
 声を掛けられた。良く知っている声で、昔よりも大分低くなった、友人の声。驚きはなかった。
「……やあ。変なところで会うね」
「そうでもないさ。今日は特別な日だから」
 友人は私の隣に座り、先ほどの私のように草に寝転んだ。身体は逞しく、手足は長く、私よりも格段に大きい。これも昔とは違う。
 私たちは三人で良く遊んでいた。それが成長するに従い、なんとはなしの溝を感じるようになり、私はなんだか癪に触って、つい意地悪をするようになった。標的は、私よりも背の小さかった、隣の友人だ。懐かしくて、本当に、恥ずかしい。何かする度にもうやめようと思うのだが、振り下ろした拳の仕舞いどころに自分で戸惑って、やめることができなかった。
 彼はいつも友人をかばった。でも、私を諫めることもなかった。もしかしたら、すでに大人のようだった彼は、全て事情をわかっていたのかもしれない。
 友人に素直に謝ることができたのは、彼がいなくなってからだった。
「また、あそこを旅してみたいと思うんだ」
 顔を向けると、友人が空を見上げていた。
「天の川はきれいだったなあ。ガラスよりも、水素よりも透明で、河原の砂は水晶で」
「大きさも色も形も違う、美しい三角標がたくさん立っていたり」
「そうだね。……何度も言うけど、あのときは驚いたよ。まさか君も、って」
「私もだよ。まさか二人とも、別々に、彼と旅をしていたなんて」
 ぽつぽつと、再び昔のように話すようになってしばらく経ってから、私たちは二人とも、あの夜に不思議な冒険をしたことを知った。それぞれが彼と旅をし、様々な物を見聞きして、彼と別れたのだ。そこに一体どんな意味があったのかは、二律背反する思い出故、語り合ったことはない。
 私にとって、それは特に、罰でもある。
「なんで別々だったんだろうね」
「一緒だと、僕たちが上手くいかないと思ったのかも」
 笑いながら、平然と言う。友人の月日はしっかりと前に進んでいる。
「……ごめんね」
 自分の声は、思った以上に消え入りそうだった。もう謝らなくて良いからと何度言われても、気付けば口をついて出ている。何故なら、私のせいだから。
「私が、烏瓜のあかりを押そうとなんて思わなかったら──」
「もう気にするなって言われただろう?」
「私が、舟の上ではしゃぐことがなければ──」
「みんな、はしゃいでいたって聞いたよ」
「私が、彼の手を引く力もない、女の子じゃなかったら──」
「ザネリ」
 友人は短く、しかし意思を持った言葉で私の名を呼んだ。私はのろのろと友人の顔を見た。星明りに照らされた友人は、怒っているように見えた。
「ザネリ。カムパネルラは蠍の火になったんだ。本当の幸いになったんだよ。君がそんなに悲しんでいたら、カムパネルラは、安心できないよ」
 最後にふっと顔を緩めて、友人は再び空を見上げた。つられて視線を移すと、稜線の近く、ひときわ輝く赤い星があった。
「僕らがカムパネルラを見るように、カムパネルラも僕らを見ているんだ」
 そう言って、励ますように、私の手を握ってくれた。その大きなぬくもりは、夕闇の中、私の手を引いてくれたあの小さな手と、変わりがなかった。
「夏の小川は、さらさら流る。岸のすみれや、れんげの花に、匂いめでたく色うつくしく、咲けよ咲けよとささやく如く」
 歌が口をついて出てくる。多分、歌っているのは彼だろう。
あのときと同じだ。
 友人がくすくすと笑った。
「その歌、替わってるの最初だけだよね」
「うん。花がね」
 私も、探るように、くすくすと笑った。
 腹の中のぐるぐるが、少しだけ、夜に溶け出したように思えた。
 遠い空で火が瞬いている。きっと彼も、恥ずかしそうに、笑っているのだろう。
 私たちは手を握り合ったまま、ずっと、その火を眺めていた。

アンタレス

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いかようにも想像力を掻き立ててくれるとともに、これ以上はないとも思わせる名作に捧ぐ。

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