The Birth of Venus

柏木熊介

この作品のお題は【金星】です。
良くも悪くも、人の目は自らを映す鏡であるような気がしている。

 目が覚めると、当然のように全てが麗しく輝いている。部屋も、窓の外の景色も、空も、道行く人も、風も、空気も、全てが美しい。
 私はため息をついた。
 ベッドを降り、脱いだパジャマとタオルだけを持ってバスルームへと向かった。パジャマは洗濯機に直行させる。手に掲げたそれが、鏡を隠してくれる。そこに映っているはずの、絶世と言っていい見目と抜群のプロポーションを。
 このようになってから皆が喜んだが、浮かれることができたのも最初だけだ。ほとんどの人が現実を軽く見ていた、もしくは何も考えていなかったのだと思う。今は、今を呪っている人の方が多い。そうしないのは本物だけだろう。
 シャワーを終え、着替えと支度を済ませ、固形タイプの栄養食を口にし、私は仕事に向かった。玄関を開けた先は眩しく、幻想的な絵画のように煌いている。街並み、通勤路、街路樹、道路と車、駅と電車、足早に歩く大人も、転がるようにかける子供も、全てが美しい。大人は陰鬱な表情をしているように見えるが、それすらも。
 誰も顔をあげようとしない。私を見ようともしない。
 それだけを確認して、私は反するように空を見上げた。この時間帯でも微かに瞬く、至上のウェヌス。私にはもう、妖しい輝きにしか見えない。
 地球を除く七つの惑星の魔力が世界を支配するようになったのは、六年前からだ。それ以来、五十日程度の各優勢期間に、それぞれの惑星の力が絶えず降り注ぎ、私たちの生活を侵食している。
 何故そのようなことになったのか、いまだわかっていない。宇宙を旅する探査船が、太陽系辺縁で何かを見つけ発動させた。現代に残る強力な魔術師による呪い。グランドクロスによる影響。これらは私が聞いたことのある巷間の類だ。多分、全人類のほとんどが不確定な情報に踊らされている。いずれにせよ、それがわかったところで、この状況は変わらない。ウェヌスの期間は全世界がバラ色なのだ。その名の通り、〈美〉が何もかもを埋め尽くす。人も自然も人工物も、その人が思い描く最上の美に塗り替えられるのだ。〈認識阻害フィルター〉。ウェヌスの魔力はそう呼ばれている。
 気分が上がらないまま職場に着いた。同僚たちと気の乗らない挨拶を交わし、デスクの上を一応片して──意識的に乱雑にしているはずなのに、配置がまるで黄金比のようにしっくりくる──仕事を始めた。カタカタとなるパソコンのキーボードや、時折かかってくる電話の音、対応する声、様々な雑音も極上の音楽のように耳に届く。わかっていてもいちいち体が震えることに、舌打ちをしたくなる。
 そぞろのまま午前中を耐え、やっと昼休みになった。昼休みだからと言って気が休まるものでもないが、わかりやすい一日の区切りではある。私は部署のフロアを出て、自社ビルの屋上に上がった。置いてあるベンチに、距離を開けてまばらに人が座っている。空いているベンチに私も腰を掛け、昨日のうちに用意しておいた弁当を食べ始めた。
「横、良い?」
 半分ほど食べ終わった頃、声をかけられた。顔をあげると、前にいるべき人がすでに横に座っている。彼女は同期のエリで、社内では一番仲の良い友人でもあった。手には素敵な巾着袋を提げている。
「お弁当? 珍しい」
「そうでもないよ。この期間はたまに作ってる。美味しそうに見えるから」
「お味は?」
 エリは肩をすくめ、どうせなら味も錯覚させてくれれば良いのにね、と鈴を転がすような声で笑った。
 同い年だが童顔の彼女は、清楚な美少女のような姿になっている。ただ、元の姿もとても可愛らしいので、そこまでの変化はなく、ある意味では、ウェヌスの恩恵をあまり受けていない人だ。そして、私が思う本物でもある。
「ウェヌスももう少しだねー」
「そうだね。毎年思うけど、早く終わって欲しい」
「息が詰まるんだっけ?」
「うん。世界が綺麗過ぎて、つく──現実味がなくて。それに終わった後が地獄」
「ああ、それはまあ、ね。リアルは厳しい。まあでも仕方ないんじゃない? そういうものなんだし。私らがどう思おうがこうなっちゃうんだから、今存分に目の保養をしとけばいいのよ。それにミカはそんなに変わらないんだから、少なくとも自分の姿に嘆くことはないんじゃないの? 会社一──ううん、日本一の美人社員さん」
「そんなの……やめてよ。苦労の方が多いんだから。それに私は、エリの方が素敵だって思ってるんだから」
「あら、ありがとう。嫌味にも聞こえるけど」
「本気よ」
 真面目に言うと、エリはうふふと笑った。
 見た目と反してさっぱりした性格の彼女は、物事にも人の目にも頓着せず、常に自分というものを持っている。少々マイペース過ぎるきらいはあれども、私はそこも彼女の美徳だと思っている。心根はウェヌスにも阻害されないのだ。
 偽物の私とは違う。
「苦労してるの?」
 お弁当を食べ終わった後、午後の開始まであと少しというところで、エリがそう聞いてきた。興味半分、心配半分、と言った可愛らしい表情だ。私はちらりと彼女を見て、視線を真正面に戻した。ごみごみしているはずの街並みが煌いている。
「まあ、ね」
「話くらい聞いてあげるけど」
「……ん、ありがと。でも大丈夫」
「そう?」
「自分の問題だもの。自分にしか解決できないから」
「さすが、できる女は違う」
「それ嫌味?」
「うふふ。お返し」
「もう。……でも、ほんとにダメな時は、告白するね」
「……OK、まかされた」
「ありがと」
 私は少しだけ笑った。きっと彼女からは、極上の笑顔に見えているのだろう。
「やっぱウェヌスでも、そうじゃなくても、ミカはきれいね。女神様みたい」
 屈託なく笑うエリは、天使のようだった。私はそれが遣る瀬無くて、すごく、羨ましかった。
「そろそろ行こっか」
「うん」
 時計に促され、私たちは屋上を後にした。エレベーターは使わず、階段を降りる。エリは二階分、私は三階分。
「じゃ、またね。なんかあったら無理せず言ってね」
 別れ際、天使の彼女はそう言って手を振った。私も同様に手を振って、笑って、再び階段を下りた。すぐには部署に戻らず、もう一階下の倉庫フロアまで行き、トイレへと向かう。ここは人気が無く、静かで、誰かに邪魔されることが少ない。
 私は用を足した後、軽く化粧を直し、鏡の中の自分を凝視した。
 いつだかの飲みの席で、傾城、と誉めそやされたほどの美貌がそこにあった。
 私が、手術で手に入れた顔だ。
 過去は思い出したくない。でも、今が過去の自分を思い出させようとする。
『ウェヌスじゃないのに、ウェヌスみたい』
『いいな。羨ましい。ウェヌスから戻った後って、自分の顔にげんなりするもの』
『現実は非情よね。悲しいから夢を見せないで欲しいわ』
『あの人だけ、何かの間違いでずっとフィルターかかってるんじゃない?』
『本当はものすごい顔だったり?』
『あはは。そんなことないでしょ』
『だよねえ。でも、ほんと、作り物みたいにきれいな顔だからさ』
『それこそ、美の女神の似姿、みたいな?』
『そうそう。女神の作り物』
 似たようなことを何度も言われた。
 作り物。フィクション。名工の彫像。
 それは、知らずとはいえ、私への究極の皮肉だ。そして私は、絶望するほどに思い詰めて決心した自分の決断を、まるで咎の様に感じてしまう。罪だと思ってしまう。
 ウェヌスが、私に、いらない罪悪感を植え付けたのだ。
 この期間が終われば、またたくさんの称賛(ひにく)が聞こえ始めるだろう。
 怖い。
 何かのきっかけで、本当の私が暴かれるかもしれない。それがとてつもなく怖い。
 ウェヌスがなかったら、少なくともこんなに憂鬱になるほどには、心配することはなかったはずなのに。
 何が認識阻害フィルターだ。私はそのために、どれだけ血を吐くような思いをしたと思っているのか。
「……ちくしょう」
 知らずに声が出ていた。
 美しい声が、まるで呪詛のようだった。
 私はため息を吐き、振り返った。それでも、私はもう、自分の顔とともに生きていかねばならない。相談なんて、できるはずもない。怯え震えながら、死ぬまで隠し続けるしかないのだ。
 
 ドアを開け、トイレから出ようとする瞬間、目の端に鏡が映った。
 知らない醜い顔の女が泣いているのが見えた。

The Birth of Venus

The Birth of Venus

良くも悪くも、人の目は自らを映す鏡であるような気がしている。

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