毒蛇御前

香月 鐘二郎

 銀幕のような雨が銀座の夜を覆っている。
 アスファルトの大地を濡らす雨は、路地裏の流れを集めてしっとりとした天水の絨毯をひいている。夏の終わりの火照った大地を潤しているかのようだ。雑居ビルの壊れた樋からは、滝のように雨水が溢れかえる。
 銀座6丁目裏銀座。
 ごうごうと叩きつけるゲリラ豪雨を身に受けて、その男はじっと一点を見詰めている。
 若い男だ。まだ、20を幾つも越えていないとみえる。
 エンジのTシャツに黒いブルゾン。ズボンはジャージだ。使い古したスニーカーが雨に濡れてボロ布のようになっている。どうみても、華やかな夜の銀座を歩く姿とは思えない。
 男が辛抱強くにらんでいたのは、大きな貸ビルの2階を間借りしている高級クラブの一角だ。車庫へと続くエントランスの前から、外階段が緩やかな曲線を描いて2階へと登っている。クラブの入り口は、この階段を登りきったうえにある。
 クラブ「KAGEROU」
 それが店の名前であった。
 目的の男たちが、この階段を登って店に入ってから、もう2時間が経とうとしている。その間若い男は、クラブの入ったビルとは対面の雑居ビルの陰に隠れて、じっと店の動向を探っているのだ。「男たち」といったが、若い男の目標はそのすべてにあるのではない。あくまでもその中のひとり、他の連中はその男の取り巻き連中で、どうでもいい存在だった。
 若い男は懐に切り出しナイフを呑んでいた。ナイフの柄にはボロ切れを巻いて滑らないようにしているが、あいにくの雨に濡れてあまり役にはたっていないようにもみえる。
 もっとも雨は2時間前から降っていたわけではない。その頃は厚い雨雲の間から、ポツリポツリと星々も見えたのだが、30分ほど前から小雨が降り出し、あっという間にこのような状態になった。
 時折、2階を見詰める彼の横顔を、横道を横切る車のヘットライトが淡くなめて通り過ぎる。その度に彼のズボンを跳水が濡らしていくのだ。
 しかし男はそんなことにも気を取られず、一心に階段のうえを見つめている。
 ふと、彼の表情が変わった。
 2階の出入り口にざわめきが起こった。同時に車庫から一台のベンツが滑るように出てくる。2時間前に目標の男が乗ってきた車だ。
 若い男は掌の色が変わるくらいに強くナイフを握り締めた。
 女たちの嬌声のなか、何人かの男たちが吐き出されるように階段のうえに現れる。派手なドレスに身を包んだ女たちに囲まれて、最後に現れたのが目標だった。
 周囲の男たちとは明らかに貫禄が違う。でっぷりと太った太鼓腹を揺すって、上機嫌で女たちに冗談をとばしている。
 彼らの間をまた一台の車が通り過ぎ、彼の横顔を照らした。
 男が階段を降りて、車に乗り込むまでが勝負である。
 彼は雨水を蹴って走った。
 と。
 先に階段を降りていたブルーのスパンコールを散らしたドレスの女が、真っ赤な傘をかざしてふらふらと彼のほうに寄ってきた。
 よけられない。
 彼は傘の女を突き飛ばして先に進んだ。
 女が悲鳴を挙げたので、取り巻きの男たちが振り向いた。彼は無言でその間をすり抜けようとしたが、そのうちのひとりに肩を掴まれた。
 ナイフで切り抜けて・・・
 夢中で腕を振ったが、あれほど強く握り締めていたナイフが消えていた。
 いつ、ナイフを落としたのか?
 腹に衝撃が走った。
「なんじゃい。われ?」
 怒号が響いた。めちゃくちゃに殴られた。
 届かない。
 腹の痛みより、目標に届かなかったことが悔しかった。
「やめて!」
 薄れゆく意識の中で、若い男はきれいな女の声を聴いた気がした。
「このひと、わたしの元カレなの」
 濡れたアスファルトに横たわり、薄目を開けた彼の目に、ブルーのスパンコールが目に入った。さっきの女だった。
 どういうことだ? 元カレって、なんだ。
 いつの間にか女に抱きつかれていた。
「カレ、地元の同級なの。わたしが東京に出てから、心配して何度か連絡もらったんだけど。まさかここまで来るなんて・・・」
 なおも蹴ろうとしている男の腕を押さえて、目標の男がジロリと睨みつけてくる。
「もういいだろう。道具を持ってないようだし、見たところ鉄砲玉でもないだろう。おい、静香」
 スパンコールの女の名を呼んで、
「お前の彼氏だって?」
「はい」
 静香と呼ばれた女が神妙に応えた。
「坊主、諦めろ。この女はもう、お前なんかの手には届かない世界にいるんだ。ここに住んでいる女たちは、みんなそうだ。女に逢うには金を積むしかねえ。それも目ん玉が飛び出るような金だ。お前なんかとは住む世界が違うんだよ。わかったら、さっさと田舎へ帰るんだな」
 そういって男たちは車に乗り込んで去っていった。
 女たちも地面に倒れた彼を無視して、散々2階にあがっていった。彼を「元カレ」と呼んだあの女もだ。
 なんだったんだ?
 惨めだった。必死の覚悟を決め、人生のすべてを賭けた勝負だったのに。肝心のナイフを取りこぼし、訳のわからない女に助けられるなんて。
 彼は地面にしゃがみこんで動けなかった。
 激しい雨はいつの間にか成りをひそめ、いまでは煙るような小雨が降り続いている。
 その雨が、不意に削り取ったかのように消え失せた。振り仰ぐと赤い傘が差しかけられている。
「風邪引くよ」
 花のような笑顔がそこにあった。いままで見たことのないような綺麗な女の子がそこに立っていた。
 年齢は自分と同じか少し下?
「君は?」
「うふふ。覚えてない? あなたを「元カレ」と呼んだ女よ」
「ああ」
 あの時は夢中で顔までは見ていなかった。いまは仕事用のドレスを脱いで、私服のブラウスに着替えている。上着はカシミヤのニットコートだ。パンツはぴったりフィットしたボトムスが美脚をきわださせている。
「へへ。早びきしちゃった。ママに言ったら元カレが来たんじゃ仕方ないわね、って」
 彼はふらふらと立ち上がった。
「ねえ、どこ行くの?」
「・・・・」
 黙って立ち去ろうと思った。こんな得体の知れない女にかまっている場合ではない。
「待ってよ。忘れ物」
 女がそれをかざした。それは彼の持っていたナイフだった。
 いつの間に?
 あのぶつかった瞬間、俺の手から奪い去ったというのか? そんなのまるで気づかなかった。
 ちょっと待てよ。俺はナイフの柄の部分を握っていたぞ。ということはナイフを奪うには、必然的に刃の方を掴まなければならない。そんなことをしたら、自分の掌が切れてしまう。
 彼は改めて女の顔を見つめた。女は無邪気な笑顔を浮かべて、軽く首を傾げている。
「ん、どうしたの?」
「い、いや。なんでも・・・」
 となると彼女は、人差し指と親指とで挟み込むようにしてナイフを奪ったというのか、あの短い間に。・・・そんな事が出来るのか。
「こんなモンもってたら危ないよ。あいつら、誰だか知ってんの?」
「梶賀組の大島剛造」、
「へえ、知ってて狙ったのか。そりゃまあ、そうだよね。でもキミ、殺されちゃうよ」
 それが分かっていて俺からナイフを奪ったのか? 俺の生命を守るために?
 あの時彼女は、横切った車の灯りで、彼と持っていたナイフを視たのだった。そして一瞬で判断した。
 このままでは危ない、と。
「知るか。関係ないだろ」
 歩き出そうとしたが、急に込み上げるものがあって吐き出した。胃液の中に血が混じっている。
「あいつら痛めつけるときは腹を狙うの。顔を傷つけて、警察にねじ込まれたら厄介だからね」
 背中をさすっている女の前で何度も吐いた。
「これじゃ、ちょっと無理ね。・・・ちょっと待って、車停めるから」
 そして彼女はタクシーを停めて、嫌も応もなく、彼を車に押し込んだ。
 ふたりを乗せたタクシーは、薄霧と化した雨の中を海を目指してひた走る。
 白墨の空にほのかな明かりが射してきた。レインボーブリッジの向こうの空が茜色に染まっている。

 俺はこんなところで何をしているのだろう?
 若者は窓の外を見詰めて思う。
 お台場の高層マンション。38階の窓際からは、東京湾に掛かるレインボーブリッジが、群青の海に浮かんでまるで映画の中の出来事のように観える。
 雨は完全に上がっていた。
 午前5時。レインボーブリッジの向こうには、ほの明るい陽の子供が生まれつつあった。
 あの「静香」とかいう娘の部屋だ。
 雨のナイトクラブで、大島とかいうヤクザの親分を襲った彼は、彼女に助けられて今ここにいる。シャワーを浴び、タオルを首にかけてお台場の日の出を眺めている。着替えのシャツを貸すと彼女は言ったが、背こそ170センチ以上ある彼に近い上背だが、ほっそりした身体に出ているところといえば胸とお尻のみという体型では、到底彼に合う着替えがあるとは思えない。見たところ男の気配もないようだ。
 結局彼は半乾きのジャージを身につけるしかなかった。
 それにしても・・・と、彼は考える。あの女、自分とあまり変わらない年齢なのに、なんでこんな部屋に住めるんだ。
 東中野の片隅に借りた、うらぶれた自分のアパートと比較すると嫌になる。
 クラブのホステスという商売はそんなに身入りがいいものなのか。それとも彼女が特別なのか。
「なに観てるの?」
 振り向くと彼女がコーヒーカップをふたつ、両手にもって現れた。ショッキングピンクのボア系の部屋着に、パンツは同じくボアショートのパンツ。スラリと伸びた美脚が見るも眩しい。
「温かいコーヒー入れたわ。あたたまるわよ」
「なあ、あんた」
 彼は息を飲むような目の前の光景から眼を逸らした。
「なんで俺のことを助けた?」
「何故って・・・」
 彼女はひとつのカップを窓際のテーブルに置いて、自分のコーヒーを口に含んだ。
「ビショ濡れの仔犬が、路肩に倒れて泣いてたら、誰だって手を差し伸べるでしょ」
「俺は捨てられた仔犬か」
 あはは。と彼女は笑った。
「私は鈴音、姫崎鈴音。お店では「静香」で通っているけどね。キミは?」
「・・・」
「名前くらい教えてくれてもいいんじゃない?」
「真島拓海」
 拓海はぶっきらぼうに言った。
「拓海クンか。いい名前じゃないの」
 大きな瞳で見つめられ、拓海は思わず顔が赤らむのがわかった。
「ところで拓海クンさあ、なんであいつ狙ったの? あいつ見た目通りのスケベ親父で、イケ好かない奴だけど、キミがどうのこうのする相手じゃないわ」
「・・・・」
 拓海は言葉に詰まった。反射的に憎いあいつの顔が浮かんだ。
 ちくしょう、許さねえ。・・・
「ま、話したくなきゃいいけどさ。あんな真似、もう止めときなよ」
「うるさいな。あんたには関係ないだろ」
 思わず、大きな声がでた。そして驚いている鈴音をみて、済まなさそうに顔を伏せた。
「すまん。あんたのせいじゃないのに・・・」
「ううん。別に、いいけど」
「俺、行くわ」
 自分を見詰めるきれいな瞳に耐え切れないというように、拓海はまだ乾ききってないTシャツに手を延ばした。
「待って。行くってキミ、アテはあるの?」
「さあな。でも、これ以上あんたに迷惑をかけるわけにはいかない」
 そう言いながら、拓海はフワリと視界が揺れるのを感じた。ここ暫く、ほとんど眠ってはいないのだ。
 倒れかけた彼の身体を、咄嗟に鈴音が抱きとめる。彼女の柔らかい感触と甘い香りが、薄れかけた意識を覆っている。
「大丈夫? キミ、寝てないんでしょ? 少しは休んだほうがいいわよ」
「大丈夫だ・・・」
「てか、わたしも眠くなっちゃったし」
 鈴音も眠そうな眼をしてる。彼女だって朝方までクラブで接客をしていたのだ。フワッと可愛いい欠伸をした。
「それとも、一緒に寝る?」
 なにを言ってるんだ。一瞬で眠気が消え失せた。冗談を言うには可愛いすぎる。
 こんな美少女にそんなことを言われたら、大抵の男はその気になってしまうぞ。
「あはは。やっぱ無理か。じゃ、わたし隣のベットで寝るから。キミはそこのソファー使っていいよ」
 そう言いながら、隣のベットルームに入っていく。熱くなりかけていた拓海は、呆気にとられて立ちすくんだ。
 な、なんだっていうんだ、あの女。俺が男だと意識してないのか。寝入りばなを襲われたらどうするつもりだ。
 そう思うと急にドキドキし始めた。
 彼女を襲う? どう贔屓目にみても鈴音はヒナにも希な美少女だ。それにスタイルもいい。さすがに銀座の一流店のキャストといったところか。もしも寝ている彼女を襲ってしまったらどうなるのだろう?
 そう思った瞬間、寝室のドアが開いて、鈴音が顔を出した。
「ねえねえ、キミって寝ている女の子を襲っちゃうタイプ?」
「はあ?」
 図星を刺されて動揺した。
「ふ、ふざけるな。誰があんたなんか・・・」
「ふーん。なんだ、ちょっと残念かも」
 鈴音はニヤリと笑って顔を引っ込めた。
 拓海は顔を赤くして、長いこと胸のドキドキが停まらなかった。

 鈴音は窓際のソファーに腰掛けて携帯電話をかけている。
 彼女が眼を覚ましたとき、拓海の姿は消えていた。ただ、ソファー前のテーブルに「世話になった」という、たった一言の走り書きが置いてあるだけだった。
 午前11時過ぎのことである。昨夜とはうって変わった青空が覗いている。
 それを見た彼女は、
「まったく男の子って、何でもかんでもひとりで解決出来ると思ってんだから」
 ムッとして、電話を一本かけたのだ。
「あ、パパ? わたし。例の大島会長、刺されそうになったの」
 携帯の向こうではバリトンボイスの声が聴こえる。壮年の男性の声である。
(相手は誰だ?)
「それがねえ、ちょっと意外。真島拓海クン。行方の分からなかった真島社長の息子」
(なるほど。やはりそうなったか)
「パパは知ってたの? 彼が大島を狙うって」
(まあな。予想してなかったわけじゃない)
「なるほど。わたしに大島の周囲から眼を離すなと指示したのは、それが目的ね」
(お前に真島の息子を確保してもらうつもりだったのだがな)
「だったら最初からそう言ってよ」
(で、そいつ、どうした?)
「逃げられた。ちょっと眼を離したスキに」
(・・・まずいな。今度動けば殺されるぞ)
「あら、パパ。珍しく本気じゃない? 彼ってそんなに大事なの?」
(どちらにしても、奴の確保が第一だ。こちらも動いてみる。見つかったらお前が保護しろ。連絡係としてヒロミを送る)
「わかった」
 そう答えてから、鈴音はフッと笑った。
(どうした?)
「彼、そばにわたしが寝てるのに、襲ってもくれないんだよ。これって失礼じゃない?」
(そりゃ残念だったな)
「最初からいってくれればわたし、無理矢理にでも彼と寝たのに」
(彼もついてないな)
「彼って、ちょっと可愛いからさ、わたし手を出しちゃうかも」
(そう願えれば有難いな。古来から男の雄飛をいさめるものは、美女の慰めと相場は決まっている)
「美女の愛でしょ?」
(愛なんて耳障りのいい言葉を使っても、所詮は欲望に過ぎない。征服欲と独占欲。それが「愛」と呼ばれるもの正体だ。お前だってそのことは、身にしみて知っているだろう?)
「パパってさ」
 鈴音はうっとりとした声で言った。
「前々から思ってたけど、やっぱクズ中のクズよね」
(褒め言葉として受け取っておくよ)
 そう言って電話は切れた。
 
 それから暫くして鈴音が朝食を採り、外出の準備をしていると、インターホンのチャイムが鳴った。
 ドアを開けると、黒い巨体が出入り口をいっぱいに塞いでいた。女性としては上背のある鈴音より、確実に頭ひとつは高い。180センチ近くはあるだろう。全身を黒いライダースーツに身を固めたその身体は、鍛え抜かれた男性アスリートのようにガッシリしている。
 部屋の中でもフルフェイスのヘルメットを外さない。黒いサンバイザー越しにはその表情を伺えなかった。
 背中には「即配エクスプレス」のマークが入ったリュックを背負っている。某有名バイク便の配達員だ。
「ヒロミ。早かったな」
 というか早すぎる。オヤジの奴、最初からこうなることを予測して準備をしていたな。まったく抜け目のない男だ。
「オヤジさんから、これを」
 ヒロミと呼ばれた配達員はリュックの中から、ひと束の書類を渡した。それは何かの設計図のようだった。
「これは?」
「ジャイロコントローラとかいう機械の設計図。私はよくは知らないが、何でも方向センサーの自動調整装置のようなものらしい。車の自動運転なんかに利用できるらしいです」
「それがなんで?」
「栃木県の小さな機械工場でこれが開発された。真島工業。真島拓海の父親の会社です」
「なるほど」
 鈴音の脳裏にある光景が浮かんだ。郊外の小さな工場に乗り付けた黒塗りの豪華なベンツのシルエット。
「そのセンサー、ミサイルの誘導装置とかに応用が利きそうね。つまり梶賀組、いや極城会はそこに眼をつけたってわけか」
 極城会とは梶賀組の上位組織で、東日本一帯を支配する巨大暴力組織である。
「どういうことですか?」
「武器の密輸だな」
 鈴音は思案気に言った。
「日本は武器はおろか、それに成り代わる部品の供給も禁止している。連中はアジアの超大国を通して、第三国にそれを密輸するつもりだろう。連中には前科があるからな」
 鈴音は以前、渋谷の道玄坂で起こった「お香」の事件を思い出していた。思えばあれが「渋谷抗争」の遠因になったのだ。
「ところが、この機械。設計図通りに造ってもうまく作動しないそうです。この設計図には重大な何かが欠損しているという話です」
「それを知ってるのは機械を設計した真島社長。しかし社長は事故死している。・・・なるほど、そこでひとり息子の拓海に狙いをつけたという訳か」
「彼が何かを知ってる、と?」
「さあ、それはどうかな。しかし連中にとっては、たったひとり残された関係者だ、黙って見過ごす訳にも行くまい」
 フルフェイスのヘルメットが大きく頷いた。
「わかりました。全力を尽くします」
「頼む」
 室内に戻ろうとした鈴音の背中に声を掛ける。
「あの、姫姐」
「なんだ?」
 怪訝な顔で鈴音が振り向いた。
「オヤジさんとのこと、大丈夫ですか?」
「ふふ。まあ、クソ親父には変わりはないがな。親娘にはかわりはないのだから、まあそれなりにやっているさ。それよりお前、その「姫姐」というのは何とかならないのか?」
 彼女のことを「姫姐」と呼ぶ昔の仲間は、もうこのヒロミしか残ってはいなかった。

 姫崎鈴音。
 かってその名を知られたヤンキー娘が居た。その頃の名称で呼べば「スケバン」ということになる。
 彼女は渋谷のセンター街を根城とし、30人程の女子高生を集めて、「渋谷クィーンズ」というチームを組んでいた。クィーンズはケツ持ちである、渋谷最大の暴力団・一心会の後ろ盾もあり、周辺の組織を次々と掌握して、いつしか渋谷最強のレディースと呼ばれるようになった。
 もともとクィーンズは男共に虐げられる女の子を救済する目的で作られたチームであった。
 道玄坂にその頃あった「マリンフォース」というナイトクラブを拠点に、「お香」という非合法ドラッグを売りさばいていた池袋の金村組との抗争の結果、クィーンズは解散。鈴音もその姿を消した。
 その後鈴音は高校を中退し、飛び級でアメリカのスタンフォード大学に入学した。そこで彼女は経済学を納め、わずか3年で学位を習得した。
 スタンフォード最高の才女と称された彼女だったが、もちろんその学力だけで学位を習得したわけではない。彼女はその魅力で複数の教授たちを
誘惑し、その結果として現在の地位を手に入れたのだと噂するものも居る。
 その後帰国した彼女は、養父である一心会統括本部長・桜木晃一郎の勧めもあって、銀座の高級クラブ「KAGEROU」に身を寄せることになった。もちろん身元を隠してである。「KAGEROU」のママ・春日は、桜木の愛人のひとりでもあった。
 クラブ「KAGEROU」は、一心会の息のかかったクラブであった。一流のクラブであるから、入店する客も一流である。政財界の大物から著名な芸能人、オリンピッククラスのスポーツ選手まで種々多々の人間たちが一夜の快楽を求めてやってくる。
 そういう連中から様々な情報を引き出すことが彼女の役目だ。
 とはいえその程度のことなら、春日ママにも十分出来るし、事実やっている。ただしそれは表に出ている情報である。早いか遅いかの違いはあれ、その気になれば誰にでも手に入れられる情報であった。
 静香である鈴音が手に入れるのは、決して表には出ない裏の情報である。それは例えば、法律に触れるようなこともあるだろう。他人を落とし込み、自殺に追いやるような情報もあるやも知れない。
 そういう情報は決してまともな方法では手に入れられない。そういう情報を時には脅迫まがいの方法で、時にはその身体を投げ出して手に入れるのが、彼女の仕事なのだ。そのために彼女は、幼少の頃からデリヘルという汚濁の中にどっぷりと漬けられ、女性としての貞操と誇りをコナゴナに打ち砕かれてきたのだ。
 また、今回のように表には出せないトラブルを、人知れず解決するのも彼女の仕事であった。

 夕方から2~3の情報屋と打ち合わせをした後、午後9時過ぎに同伴の実業家と会食を済ませ、午後10時には店に出勤した。ナイトドレスに着替えたあと携帯を確認するが着信はない。
 拓海はまだ見つからないらしい。
 一通りの接待を済ませてヘルプ席に座っていると、春日ママがやってきた。
「静香ちゃん。お客様」
「えっ?」
「可愛いい女の子よ」
 そう言ってウィンクをして行った。
 女の子って?
 首を捻りながら入口に行ってみると、20くらいの女の子が座っている。ママの言うとおり頬が真っ赤な可愛い女の子だ。
「あなたが静香さんですか?」
 彼女は鈴音の顔を見るなり、栃木なまりの残る言葉で言った。少し怒っているようだ。
 それで鈴音は納得した。
「もしかしてあなた、拓海クンの?」
「彼女です」
 挑戦するように胸を張ったので、鈴音は吹き出してしまうところだった。
「なに笑うとです? 馬鹿にしてるんですか」
「いや、ゴメン。そんなんじゃないから」
「どうせ、わたしは田舎者です。あんたみたいな都会の美人さんじゃないから」
 そう言い残して店を出ようとするので、鈴音は慌てて引き止めた。
「だから、わたしたちそんなんじゃないから。とりあず中で話そう。ね」
 なんとか言いくるめて店の中に押し込んだ。拓海に手をださなくて良かった、と心の底から思った。
「拓海クンは彼女さん一筋だから、わたしなんかの入る隙間はないわ」
「本当ですか? 彼、浮気者だから、静香さんみたいなきれいな人と一緒に居たら」
 少し泣きそうになっている。鈴音と自分とを比べてみて、到底かなわないと覚悟を決めたようだ。
「いや、ない。ない。それに彼は浮気者じゃないから。わたしが保証する」
 もう、必死である。それもあって、ようやく納得したのか少し笑顔をみせた。
 彼女は名前を詩織といった。
 本庄詩織。
 真島拓海の幼なじみであり、彼女であった。それまでは仲良くしていたのだが、先月末に彼の両親が死んでから様子がおかしくなった。
「両親を事故でいっぺんになくしたものだから、ショックだというのは分かるんです。でも、あれから急に思い詰めたような顔をして、俺が死んだらどうする、なんて言うんです」
「拓海クンのご両親、事故で亡くなったんだ」
「自動車事故だそうです。夜中に山道を走っていて、崖から落ちたんだって」
「なんで、夜中に山道なんか走ったんだろ?」
「さあ、わたしは詳しいこと、知りませんから」
 本当に事故なのかな。と、鈴音は思う。
 彼女から得たわずかな情報でも、単純な事故とみるのは危険すぎる。もちろん警察でも詳しく調べはするだろうが。
「それで拓海クンは、いまどこ?」
 一番聴きたいのはそれだ。
「それが分からないのです。東中野ってところにある、彼のアパートに行ってみたんですけど、誰も居なくて机の上にこんなものが」
 そこには、

 俺に何かあったら銀座のクラブ「KAGEROU」の静香という女性を訪ねろ。

 と、書かれてあった。
「それでここに来たって訳ね」
「はい。わたし、どうしていいか分からなくて」
「わかったわ。彼のことは任せて、とりあえずあなたは帰りなさい。東京は、特にこの街は、あなたのような可愛い女の子に危険な街よ」
 可愛いといわれ、詩織ははにかんだように頬を染めた。
「はい。わかりました」
 詩織は素直に頷いた。優しい鈴音の笑顔に実の姉のような安らぎを感じたせいだろう。

 大久保にあるネットカフェである。山手線新大久保駅から新宿方面へ少し行った先にある、小さな雑居ビルの地下にある店だった。薄暗い室内にはすえた匂いが立ち込めている。
 どこにも行く宛のない、いわいるネット難民と呼ばれる連中の集まる店だった。薄っぺらなベニヤ板に囲まれた、わずかのスペースが彼らの居場所である。
 真島拓海はもう3日あまりもこの店の一角に閉じこもって居る。
 静香のマンションをでて、東中野のアパートに戻ったものの何やら違和感を感じた。部屋の感じが出掛ける前と何となく違う。どこがどうとはいえないが、直感でわかるのだ。
 留守中に、何者かがここへ入った?
 ぞくりと背筋に悪寒が走った。
 そいつはここで、何かを探したのだ。その何かがなにかは分からないが、このままここに居ることは危険だ。
 拓海は手早く荷物をまとめて逃げる用意をしたのだが、地元に残してきた詩織がこちらへ向かっているという連絡があった事を思い出した。そこで彼女への伝言を残してここへ避難したという訳である。
 どうして鈴音を選んだのかは自分でもはっきりしない。一度逢って少し言葉を交わした程度の相手だが、それでも彼女の頭の良さと回転の速さは、十分に確認が出来た。得体の知れない女であることは間違いないが他に頼る人間もいない。
 それに少しだけ彼女に惹かれている自覚もあった。
 それには鈴音の人並み外れた美貌があったかも知れない。もしも彼女が十人並みの顔立ちをしていたら、これほど彼女に惹かれることはなかったろうし、彼女を頼ろうとは思わなかったかも知れない。
 無意識の内にこの美少女との関係を断ちたくなかったのかも知れない。こんな非常事態に際してまで、ひとは見た目で判断してしまうのか。
 男という生物はかくも愚かな生き物なのだ。
 拓海はいま、テーブルの上のパソコンに向かっている。
 梶賀組のことを調べていたのだ。
 指定暴力団梶賀組は、栃木県の宇都宮市に本拠を構える極城会傘下の暴力組織だ。会長大島剛造を筆頭に、組員は約300名を数える。
 宇都宮市内に「東亜台商会」という輸入代理店の関連企業を備え、そこを通じて東南アジアから麻薬や覚せい剤の密輸を主なシノギとしている。その東亜台商会の代理人という男が真島工業を訪れたのは、一昨年の春のことだった。
「わたくし、東亜台商会の折部という者です」
 と言って、その男は名刺を出したのだった。
 その男がいうのには、今度東亜台商会が出資して、小型電気自動車開発のベンチャー企業を立ち上げることになった。それを東亜台商会を通してアメリカやヨーロッパに大体的に販売するという。
「これからの時代は電気自動車ですよ」
 と男は力説するのだ。それだけではなく、その電気自動車は自動運転を目指すという。
「そこで貴社の開発したジャイルコントロールが必要となってくるのです」
 真島社長は大いに喜んだ。自分の開発した装置が世界中に広がっていく夢を見たのだ。
 しかし夢はすぐに破れてしまった。
 小型電気自動車開発のベンチャー企業などというものは存在せず。彼は二束三文でコントローラーの特許をゆずり渡してしまうだけだった。
 怒りに燃えて抗議に向かった父は帰らず。翌日、母親と一緒に鬼怒川沿いの山林の中で死体で発見された。
 警察の捜査によると、道を踏み外して崖下に墜落したという。
 ふざけるな。と、拓海は叫び出したかった。
 宇都宮の東亜台商会に抗議に行った父が、なんで鬼怒川の山林なんかで事故に遭わねばならないのか。
 東亜台商会が梶賀組という暴力団の舎弟企業であることを知ったのはそのすぐ後だった。
 殺されたのだ、と思った。
 だから拓海は大島剛造を狙ったのだった。

「あ、いた。いた」
 不意に後方から声が聴こえ、拓海は振り向いた。姫崎鈴音がにこやかな笑みを浮かべてそこに立っていた。
「うふふ。探したよ」
「なんであんたが、こんなところへ」
 拓海は驚いて眼を白黒させた。
「キミの彼女に聴いたんだよ。キミの自宅がこの近くだということ」
「詩織に会ったのか?」
「キミが私に会うよう言ったんでしょ」
 詩織の口から拓海の家が東中野にあることを知り、一心会の組員を使ってその周辺をローラー作戦で調べまくったのだ。
「ダメだよ、可愛い彼女に心配かけちゃ」
「彼女はどうした?」
「地元に帰った。わたしの友達が駅まで送ったから大丈夫」
 友達というのはヒロミのことだ。
「ところで詩織ちゃんに聴いたんだけど、キミのご両親自動車事故で亡くなったんだって」
「・・・・」
「でも、それっておかしいよね。キミの両親は宇都宮に向かっていたんでしょ。それが鬼怒川で事故るなんて」
「なんで、そんなことを・・・」
「知ってるかって? 調べたからね。いろいろと」
「あんた、一体?」
 さすがに拓海も気味が悪くなった。この女、一体何者だ?
「心配しないで。わたしはキミの敵じゃないわ。わたしはあるひとの指示で梶賀組と大島を追ってるの。つまり梶賀組の敵。敵の敵は味方だから、わたしはキミの味方。わかる?」
「梶賀組を探っている・・・? 探偵か?」
「まあ、そんなとこね」
 鈴音はニコリとした。
「梶賀組は第三国に軍事機密を密輸しようとした。そのひとつがキミのお父さんの開発したジャイロコントローラだった」
「ああ。親父はそのことに気付いて激しく抗議した。警察に訴えると言ったんだ。武器の輸出は法律違反だからな。だから親父は・・・」
「殺されたってこと?」
「そうだ。証拠はないが、そうに決まってる。俺は絶対に奴らを許さない」
 鈴音はふるふると頭を振った。
「前にも言ったけどね、馬鹿な考えは止めな。それより、あの設計図通りに造っても、装置は作動しないそうじゃない。何か理由があるの?」
「それは機械の異常じゃなくて、ソフトウェアの問題だろ。あのソフトには重大なバグがある」
「なるほど。でも奴らはそれを知らない。単純に装置の中の何かが足りないんじゃないかと考える。そして多分、ひとり息子のキミがそれを知っているんじゃないかと考えた・・・」
「あ、だから俺の部屋が探されたのか」
「キミが大島を襲ったことで、連中はキミの存在を知った。次に狙われるのはキミだよ」
「上等じゃないか。決着をつけてやる」
 拓海がそう言った時、手元のパソコンがポロンと音をたてた。
「メール? 一体誰から・・・」
 添付付きのメールを開くと、一枚の画像が表示された。
「詩織!」
「詩織ちゃん!!」
 ふたりが同時に声を発した。
 そこには猿ぐつわを噛まされ、手錠をはめられた詩織が写っていた。

 それからの拓海の取り乱しようは只事ではなかった。
 彼女を助けにいく。
 といって暴れるので、鈴音は彼を表に連れ出して頬を叩いた。
「いい加減にして。キミの気持ちもわかるけど相手も分からない、場所も分からないでどうするの?」
「うるさい。知るか!!」
 髪を振り乱した。目が座っている。
 仕方がない。
 鈴音は拓海の首を抱いて唇を押し付けた。
「うっ、ぐっ?」
 一瞬、彼の動きが停まった。何が起きたのか、しばらく判断がつき兼ねたのだろう。
 すぐに鈴音にキスされていることを知るとめちゃくちゃに暴れだした。しかし彼女は唇を離さない。強く固く口を押し付ける。
 彼女の舌が彼の舌を絡めとり、しっとりとした唾液の交換を繰り返す。
 いつも間にか拓海の動きが変っていた。それまで鈴音を突き放そうとする動きが、逆に抱きしめるような動きに変化したのだ。
 両手を彼女の腰に巻きつけ、ギュッと抱きしめる。口腔内に突き出された甘い舌先を、自らの唇で挟み込む。
 路上でのディープキス。
 行き過ぎる人たちは、あるものは好奇の視線を向け、あるものは不快そうに顔をしかめた。そんな外野の様子は気づかない。もはやふたりは恋人同士のように、その行為に没頭していた。
 ややあって、ようやく離れたふたりの唇の間からは、ひとすじの唾液が糸を引いて光っていた。
「エヘヘ」
 恥ずかしそうに鈴音が笑った。
「キス、しちゃったね」
「う、うるさい」
 拓海は真っ赤な頬を横に向けた。
 キスをしてしまった。あの美少女・姫崎鈴音と。・・・
 横目で鈴音の方を盗み見る。彼女は携帯でどこかに電話を掛けている。
 やはり可愛い。美人だ。
 こんな娘とディープキス? いまだに胸がドキドキする。
 あれから彼女の姿を思い浮かべなかった時はない。俺だって男だ、妄想の中で何度も彼女を抱きしめた。自慰のオカズにしたこともある。だけど一度でも本気で、彼女とそんなことをしようとは思わなかった。何故なら俺には詩織が居るからだ。
 詩織?
 愕然とした。
 うかつな事に俺は鈴音と口づけをしている間中、詩織のことを忘れていたのだ。
「落ち着いた?」
 鈴音がにこやかに笑いかけた。
「あんた、なんで俺に・・・」
「キスしたかって? うふふ、スキだからって言ったら困るかな?」
「ふざけるな。俺を諌めるためだろう。そのくらい分かっているよ」
「そう。じゃ、良かった。・・・あ、来た来た」
 見ると数台のバイクが集まっている。どれもこれも真っ黒のライダースーツにフルフェイスのメットという出で立ちだ。
 彼女が携帯で呼び集めたのか。
「姫姐」
 その中でも郡を抜いて巨大な影が言った。声の質からすると若い女のようだ。
「申し訳ありません。駅まで送って安心してしまいました。彼女が列車に乗るまで確認するべきでした」
「もういい。済んだことを悔やんでも仕方がない」
 地元に帰るという詩織を、上野駅まで送ったのはヒロミだった。詩織は特急に乗ると見せかけてヒロミの目を誤魔化し、山手線で新大久保まで戻った。そこから東中野は目と鼻の先だ。
 詩織はああは言ったものの、やはり拓海のことが心配だったのだろう。そこで再び彼のアパートに戻って、そこで張っていた連中に拉致されたのだと想像される。
 ヒロミが連れてきた少女たちは、もちろんかってのクィーンズのメンバーではない。かといって一心会の関係者というわけでもなかった。
 彼女が渋谷や新宿あたりで、くすぶっていた女の子たちに声をかけ集めた者たちなのだ。彼女たちの大部分は家庭に問題を抱え、家出して東京に出てきたものの行くあてもなく、悪い大人たちには騙されてひどい目にあってきたものたちだった。
 ヒロミはそういう女の子たちに声をかけ、話を聞いて幾ばくかの金を与えて信頼を得ていたのだ。解散したとはいえ、伝説のチーム「渋谷クィーンズ」の戦闘班隊長という肩書きは今でも絶大であった。
 つまり彼女たちはヒロミの私設軍団という位置づけであった。
「お前らは、拓海クンを私の部屋まで送ってくれ。拓海クン、キミはくれぐれも動かないように」
 鈴音は黒い軍団に言った。ライダースーツに包まれてはいるが、その胸の膨らみ具合から、彼女たちと同様若い女の子だということが想像される。
「鈴音」
 拓海は初めて鈴音の名を呼んだ。
「あんたが、どこの何者なのかはわからない。けど、俺はあんたを信用する。詩織を・・・頼む」
「わかった」
 鈴音はニッと笑った。
「彼女は必ず取り戻す」
 拓海が黒い連中に囲まれるように去っていくと、姫崎鈴音はヒロミに向き直った。
「ヒロミ、詩織ちゃんの監禁場所は把握しているのか?」
「はい。オヤジさんの手の者が補足していました」
 オヤジもまた拓海のアパートを監視していたということか。
「新宿の百人町にある、古い病院の廃墟です」
「わかった。行くぞ」
「それから、オヤジさんからの伝言です。俺は立場上動けない、今回はお前の好きにしろ。です」
「ふん。好きにしろか。相変わらずの責任逃れだな」
 苦々しいものを吐き出すように言った。
「よし。じゃあ、ひと暴れするか」
 そうしてヒロミの肩をポンと叩いた。

 百人町の町外れにあるその廃墟についた時にはもう夕方になっていた。
 絵の具を塗りたぐったような夕焼けが、西の空を染めている。
 周囲を見回すと、何人かの男たちが電信柱の陰やら塀の裏とかに潜んでいる。オヤジの部下、一心会の若いものだろう。そのうちの一人が、鈴音の顔をみて小さく頷いた。その顔を彼女は見知っていた。
 詩織はまだ中に居るということだろう。
 崩れかけた門柱をくぐると、玄関までは少し距離がある。玄関の両脇に見るからにという男がふたり、所なさげにタバコを吹かしている。
 その男たちが正面から堂々と入ってくるふたりを見留めた。
「なんだ、お前ら?」
 この時の鈴音の出で立ちは、萌黄色のTシャツに薄紫のブルゾン。パンツは裾の広いワイドパンツだ。
 男たちの前に進み出た鈴音はにこにこしながら、ワイドパンツの裾をまくりあげた。
 スラリとした美脚がかおをだす。
「ハッ!!」
 彼らがその脚に釘付けになった隙に、ヒロミの巨体が宙を跳び右側の男を蹴り倒した。そちらに視線を移したもうひとりの男の股間を、鈴音の掌がスラリと撫で上げた。
「あん」
 奇妙な嬌声をあげて、男は悶絶した。
「潰れました? 姫姐」
「さあな」
 鈴音は汚い物を払い落とすように手を振りながら応えた。
 玄関を入ると、奥から複数のひとの声が聴こえた。受付ホールの奥、患者待合室のスペースに数人の男たちがたむろっている。
 中を覗き込んで、ハッとふたりは足を止めた。
 部屋の真ん中に、両手を高く上げさせられた詩織が、仰向けに倒されている。その背後には金髪の男が張り付いて、彼女の両手を抑えている。むき出しの彼女の両脚は大きく開かれ、その間には坊主頭のむさくるしい男の腰が入り込み、半分ズボンを降ろした汚いケツを押し付けている。
 残りの4人程の男たちはその周囲に集まり、酒をあおっては口々に汚い言葉ではやし立てている。
 詩織は表情をなくし、呆けたように天井をみている。彼女の身体が男の動きに合わせて卑猥に揺れていた。
 そこで行われていることは、誰が見ても明らかだった。
 坊主頭は侵入者に気づき一瞬動きを止めたが、それが女であることを知ると不敵な笑みを浮かべて行為を続行した。
 鈴音が先頭で歩いてくる。
 長い黒髪をなびかせて、美しい顔からは表情が消えている。ヒロミの黒い巨体はやや離れて彼女の後に従っている。
 取り巻きの男たちは下婢た薄笑いを浮かべた。近寄ってくる鈴音の美貌に心を奪われたのだ。
「えへへ、お嬢ちゃん。どうした? お前も可愛がってもらいたいのか?」
 なんでこの女たちがここに居るのか? 見張りの男たちはどうしたのか? そんな基本的な疑問も頭に浮かばない。たった今まで目にしてきた光景もあるだろうが、彼らの脳裏にはこの黒髪の美少女を力褥する光景しか写ってはいなかった。 
「容赦はしない」
 鈴音が乾いた声で呟いた。その瞬間、詩織の股の間に鞍がっていた坊主頭が後方にフッっ飛んだ。視るとその腹からは、一本の銀色に輝くナイフが生えていた。
 坊主頭が悲鳴をあげて、腹のナイフを抜こうとする。
「やめとけ。ナイフを抜くと、出血で死ぬぞ」
 鈴音が落ち着いた声で言った。ナイフを抜こうとしていた手がそれで停まった。
 彼女は両手をポケットに入れている。
「やろう!」
「ふざけやがって!」
 駆け寄ろうとした男がふたり、やはり大きな声をあげて後方に倒れた。ひとりは左肩、ひとりは右足にナイフが刺さっている。
 いつナイフを出したのか、いつそれを投げたのか、誰ひとりわからなかった。もっとも鈴音の技を知っているヒロミにさえ、それを目にすることは困難だったのだから無理はない。
 彼女はポケットの中でナイフを握り、それを引き抜いた瞬間、手首のスナップのみで放ったのだ。予備動作は一切なし。ナイフの軌道は確認することも、予測することも不可能だった。
 早撃ちのガンマン。いや剣術の居合抜きに近いのかも知れない。
 中学生の頃より鍛え抜いた投剣術の精度は百発百中。射程距離は約5メートル。鈴音のナイフを止めるには、5メートル以上の距離から拳銃で狙うしかない。つまり5メートル以内の戦闘では、姫崎鈴音はほぼ無敵であった。
「ヒロミ、いけ」
 ヒロミが吠えた。漆黒の巨体が踊った。長い手足が次々と男たちをなぎ倒していく。
 黒いサンシールドで覆われた表情は伺い知れない。しかし彼女の全身はあからさまな怒りに燃えていた。力なき者に対する理不尽な暴力。それが彼女の怒りの源泉でもある。
 ヒロミは男たちを殴り、蹴り、投げ落とした。ほとんどそれは、一方的な戦闘だった。何故なら彼女に反撃を加えようとした男たちは、後方支援のナイフの餌食になったからだ。
 すべての男たちが血の海に沈んだ時、ただひとり残された詩織はぼんやりと天井を見上げていた。
「詩織ちゃん」
 駆け寄った鈴音をみた詩織は、ワッと彼女に抱きついた。後から後から涙が溢れて停まらなくなった。
「大丈夫。もう、大丈夫だからね」
 鈴音はその背中をやさしく撫でるのだった。

 事件のあった1週間後、拓海と詩織は失意のうちに故郷である栃木に帰っていった。
 事件直後、常軌を逸した詩織はそのまま病院に収容された。拓海の献身的な介護もあって1週間後、ようやく退院することが出来るようになったのだ。ふたりはそのまま地元に帰るという。
「俺のせいだ」
 と、拓海は言った。
「俺が馬鹿なことを考えたせいで、彼女をこんな姿にしてしまった」
 退院したといっても、もちろん元に戻ったわけではない。複数の男たちに暴行を受け、碌褥された精神的ダメージは一生消えることはない。
 わたしだったら・・・
 と、鈴音は思う。
 わたしだったら、強姦されようが輪姦されようが、どうというダメージも受けはしない。
 だがしかし、それは自分が幼少の頃よりそういう教育をされてきた結果であって、普通の人間はそうではない。それだけで人生が変わってしまうほどの衝撃を受けてしまう。
 それはわかる。
 わかるだけに、上野駅まで見送りにきた鈴音にはかけてやる言葉もなかった。
「それに・・・俺には」
 拓海は眩しそうに静香の顔をみて言葉を続けた。
「俺には彼女を愛する資格がない。俺はあんたに・・・」
「それはない」
 鈴音は拓海の瞳をみて強い口調で言った。
「私がキミにキスしたのは、キミの暴走を停めるため。そんなことは、キミだって分かっているはずでしょ」
「そうだ。でも、あの一瞬、俺は詩織を忘れた。あの時だけ、俺はお前のことを・・・」
 鈴音は苦笑を浮かべた。
「そんなの男の子なら誰だってそうよ。いわば男子の生理みたいなもんだわ。お腹が空いたとか、眠くなったとかと同じもの。別に彼女を裏切った訳じゃないわ」
 詩織はふたりの会話を聴いているのかいないのか、ただぼおっと宙を眺めているだけだった。
「ヒロミ」
 ふたりを乗せた列車がホームを離れるのを見送って、鈴音は後方のヒロミに声をかけた。
「私は連中を許せない」
「はい」
 ヒロミは、はっきりと答えた。
「私も同じです」

 お台場の海に面したシティホテルのスィートルーム。窓際からは東京湾の暗い海辺と、そこに明滅する船の明かりとがみえる。
 防音設備の整った室内でも、耳をすませば遠く船の汽笛が聴こえるようだ。
 薄暗く灯りを絞ったダブルベッドの上に、ふたりの男女が仲むつまじく寄り添っている。
 女のほうは肩までかかる長い黒髪に、白面小顔の美少女、姫崎鈴音。いまはクラブ「KAGEROU」の静香である。
 そして男のほうは、あばたの渋顔に冷酷そうな小さな瞳のブ男、大島剛造であった。
 ふたりはそれぞれシャワーを済ませ、バスローブを羽織り、こうしてベットに寄り添って居るのだった。ふたりは枕のクッションに身を沈め、ピタリとくっついている。
 大島の左腕は鈴音の腰を抱き、右手はバスローブの裾から覗いたのびやかな太ももを撫でている。
「静香。お前は本当にいい女だ」
 大島は下婢た笑みを浮かべていた。
 拓海と詩織が故郷である栃木に帰ってから4日後のことである。
 その夜、銀座の店にやってきた大島剛造は、妙に上機嫌であった。
 彼が手掛けているジャイロコントローラが作動しないのは、装置の欠如ではなくソフトウェアの欠陥だということが分かったからだ。それならば問題なく海外輸出が出来る。上機嫌になるのも無理はなかった。
「おい、静香。今日こそは承知してもらうぜ」
 そう言ってグラスの中に車のキーを投げ入れた。キーには跳ね馬のキーホルダーがついている。
 大島は静香にしつこく店外同伴を求めていた。もちろん彼のいう「同伴」とは、普通に食事を共にするということではない。
 要するに一夜を共にしろということだ。
 静香はヌラリクラリとそれを交わしていたのだが、最後に彼女が持ち出した条件というのが、
「私、フェラーリが欲しいの」
 というものだった。まさかそこまではするまいと思ったのだが、なんと彼は数千万円もする車を交渉の場に持ち出してきたのだ。
 あら、あら。
 静香は可笑しくて笑いそうになった。
 そんなモン持ち出さなくとも、今夜のわたしはOKよ。
 もちろん目的を達するためだ。
 そしてふたりはホテルの客になったという状況であったのだ。
 ふたりはいま、ベットの上で抱き合い、激しく唇を重ねている。
 きれいに塗ったルージュはすっかり剥がれ、その残骸は鈴音の顔のあちらこちらにこびり着いている。ケダモノのような男が、汚い舌で彼女の顔中を舐め回すからだ。そんなことをされても、彼女にはなんの感情の動きもない。汚いとも思わないし、嫌だとも思わない。
「なあ、静香」
 大島がブチュと音を立てて鈴音の唇を吸ったあと、顔を離して覗き込んだ。
「噂を聴いたんだよ。毒蛇御前の噂を、な」
「毒蛇御前?」
「その女はアソコに毒ヘビを飼っていて、入れようとする男のモノを噛み砕いてしまうという。まあ、都市伝説だな」
「まあ、怖い」
「フフ、「毒蛇御前のしずか」とは、お前のことじゃないのか?」
 あはは。と鈴音は笑った。
「まさか毒ヘビなんか飼うわけないじゃない」
「別の噂も聴いた。静香、お前は男を腹上死させたことがあるそうじゃないか」
「あら、いやだ」
「毒蛇御前の伝説は、大方そのあたりから来たものじゃないか?」
「うふふ」
 鈴音はニコリとして、男の前に腿をM字に開いて魅せた。開かれた股の中心には、透明な液が溢れている。
「本当かどうか、おじさまの身体で試してみたら?」
「・・・おお、いわれんでも試してやるわ」
 絵に描いたような挑発だった。どのような罠が仕掛けられていたとしても、もはや彼を押し留めることは不可能だったろう。
 大島はうめき声を漏らして開かれた股の間に腰を突っ込んだ。
 次の瞬間、高い悲鳴をあげて仰け反った。彼の下半身が、真っ赤な血潮に染まっている。
「まあいやだ。本当に毒蛇ちゃんに噛まれちゃったの? 可哀想」
「しずか、貴様」!
 鈴音は股間からそれをひねり出した。血に塗れたそれは、手術に使うメスを細く短くしたようなナイフだった。通常は膣に傷を付けないようにポリプロピレンのキャップを被せているが、異物が挿入されれば簡単に破れて対象物を傷つける。
「わたしは静香ではないわ。私の名前は姫崎鈴音」
「姫崎?・・・まさか、お前・・・」
 大島は信じられないという顔で鈴音を観た。
 確か渋谷の一心会のアタマに、そういう名前の養女がいた事を聴いたことがある。
「そうよ。私は桜木の養女。だとしたら、どうする?」
 渋谷の一心会といえば、上位組織住吉連合会の仇敵とも呼べる組織である。一心会の桜木が何かを仕掛けてきたであろうことは明白だった。
 だとしたらこのままにしておく訳にはいかない。
「こ、殺してやる」
 丸太のような腕を突き出して喉を掴みにきた。鈴音の白い腕が翻ると、その喉元に一筋の赤いラインが引かれた。ラインはパクリと割れ、そこにふたつめの口が開くと、ドバっと大量の血液を吐き出した。
 ゴボゴボゴボ。
 何かを叫ぶたびに血泡を吹きながら、大島の太った身体は、自己が吐き出した血の海の中に倒れ込んだ。
 その時はもう、鈴音の身体はそこにはいない。素早く抜け出すと、ベットの後方に身を寄せていた。それでもその胸から腹にかけては、赤い血色に染まっていた。彼女の右手には自分の中から捻り出したナイフが握られている。
 大島は2度3度ピクついた後、動かなくなった。
 血の海に沈んだ男の死体をみても、鈴音はなにも感じない。事務的に電話の受話器を取った。
「もしもし、ルームサービスをお願いします」
 それからゆっくりシャワーを浴び、化粧を直した。丁度、化粧が済んだ頃、部屋のチャイムが鳴った。
「ルームサービスです」
「はあい」
 ドアが空き、ホテルのボーイと清掃員らしい男が入ってきた。ボーイは身長の高い男で、軽食をワゴンに乗せている。清掃員は初老の小柄な男で、ベットの上の死体を一瞥すると、やれやれという表情をした。
「これはまた、派手にやったものですな」
「でも、ベット以外は汚してはいないわ。シデムシさん」
「相変わらず、見事な腕前で」
「じゃ、よろしく」
 そういうと鈴音はダイニングでゆうゆうと食事を採り始めた。シデムシと呼ばれた男と、長身のボーイは大島の死体をシーツに包んで、バスルームに運んだ。シーツの下にはあらかじめ防水マットが引かれており、それ以上のベットへの浸水を防いでいた。
 男たちはバスルームで死体の解体を始めていた。シデムシの指示で腕や脚の関節が外されていく。関節を継なぐ靭帯を切断し、幾つかのパーツに分断するのだ。
 次に腹を引き裂き、内蔵を掻き出して厚手のビニール袋に詰める。胸部はペンチで肋骨を外し、肺野や心臓をまとめてこれも別のビニール袋に詰めた。そして全ての部品を持ってきた保冷箱に納めるのだ。
 シデムシの手際は掃除夫というよりは牛肉の解体屋のようであった。死体の解体が終わると、バスルームを入念に清掃して終了だった。
 彼らはこれらの作業をわずか2時間半という時間で成し遂げたのだ。
 その頃には鈴音の食事も終わっている。デザートを楽しみ、ゆっくりコーヒーを飲み終えた。
 その横では先ほどのボーイが大島の服に着替え、腹の下に詰め物をしている。そうして見ると、大島本人とまったく区別がつかなくなった。
 大島に変装したボーイはヒロミであった。
 鈴音はヒロミの腕を取り、年の離れたカップルを装って部屋をでた。そしてシデムシは、男の死体を詰めた保冷箱を、清掃道具を入れるワゴンに載せて、何食わぬ顔で廊下を歩き去っていった。
 こうしてこの夜ひとりの男が、この世界から永遠に消え去ったのである。

 時は少しだけ遡る。
 鈴音が詩織を救い出し病院に送り届けた後。・・・午後8時くらいだ。
 一心会本部の執務室では統括本部長桜木晃一郎と、副部長時任重光が額を揃えて何やら相談の真っ最中であった。前室の向こうが急に騒がしくなった。何人かの怒鳴る声が聴こえる。そして誰かをいさめるような声。
「やかましいぞ、てめえら!」
 時任がドスの利いた声をあげた。
 部屋のドアがドンドンと唯ならない音をたてる。
「なんだ?」
 と思う間もなくドアが外側から蹴破られた。文字通り足で蹴って、ブチ破られたのだ。
 姫崎鈴音がもの凄い顔で入ってきた。
 腕を取っている舎弟頭の立浪睦夫を引きずるように引き連れている。
「鈴音?」
「お嬢」
 ふたりが同時に声をあげた。
「申し訳ありません。会議中とは申したのですが」
 立浪が困ったような顔で言った。
 桜木が手を振ると、彼は頭を下げてドアを閉じた。ドアが閉じると鈴音はその場で腕を組んだ。
「おい、クソオヤジ。てめえ、知っていたんだろ?」
 鈴音は本気で怒っているらしい。時任は肩を潜めて少し距離をとった。
 いつもの親娘ケンカに巻き込まれてはたまらない。
「何をだ?」
 桜木はあくまで冷静であった。
「とぼけるな。詩織ちゃんがあそこで、どんな目に合っているかだよ」
「ああ、気の毒だったな」
 ドン。
 桜木の座っている椅子のヘットレストにナイフが突き刺さった。彼の側頭部と外耳の間のわずかな隙間だ。横から見ると、耳に鉛筆を差したようにナイフが刺さっている。
 しかし桜木は目もつぶらないし、微動だもしない。唇に微かな笑みさえ浮かべている。
「いい面してんじゃねえか、鈴音。惚れ惚れするぜ」
「お嬢・・・」
 流石に耐えかねて時任が口を挟もうとしたのを、桜木が軽く手をあげて制した。
「で、何が言いたい?」
「あんたは連中の動きを見張っていた。詩織ちゃんが連れ込まれたことも知っていた。助けようと思えば、助けられたはずだ」
「そうだな」
「何故助けない?」
「何故ってお前・・・」
 桜木は呆れたように、
「俺は動けないと伝言したはずだが」
「あんたが動けば梶賀組と戦争になる。そういうことか?」
「まあ、そうだな。ようやく金村組との抗争も終結し、六条委員会も軌道に乗ったところだ。あまり面倒を起こしたくない」
「しかし、そのせいで詩織ちゃんは壊れてしまった」
「だから気の毒だと言ったろう。まあ、他人の人生を狂わせるのが俺らの仕事だからな。それがヤクザというものさ。なあ、時任」
 いきなり振られた時任は曖昧な笑みを返した。
 ふう。
 鈴音はひとつ息を吐いて、近くのソファーに腰を降ろした。養父のほうを向いてスラリとした脚を組む。ミニスカートが腿まで捲り上がって、ムッチリとした太ももが露わになった。
 肉付きのいい太ももは、単に脂肪が付いているだけではない。鍛え抜かれた筋肉の束のうえに、薄く脂肪の層が覆っているのだ。それが鈴音の美脚をより美しく、神々しく魅せるのだ。
「パパってさあ」
 急に静香モードの甘えた声をだす。
「どうしてわたしを抱こうとしないの? わたしの脚、そんなに魅力ないかな。ねえ、時任さん」
「い、いや・・・」
 時任は額の汗を拭った。百戦錬磨の彼も、どうにもこのふたりとの会話は苦手である。
 桜木は苦笑を漏らした。
「時任が困っているじゃないか。はて、その昔、お前を抱いたことがあったような・・・」
「わたしの処女を奪ったのが、パパ。あれからわたし、ずっとパパを殺すことばかり考えていた。ナイフを覚えたのもそのため」
「お前に殺されれば本望というものかな」
「そんなに怖い? わたしを抱くの」
「はあ?」
 桜木は小首を傾げた。
「わたしを抱いて、わたしに夢中になるのが怖いんでしょ?」
「面白いことをいう」
「まあ、いいわ」
 鈴音はスクッと立ち上がった。
「ようやくわかったわ、パパの思惑が。パパの本当の目的は大島の生命。だけどパパは自ら手を下せない。さっきいったように戦争になっちゃうからね。そこでわたしを怒らせて、大島を殺させようと謀ったのね」
 桜木はクックと笑った。
「あいつは少々目障りだったからな。今回のことだけではなく色々とな。まあ、出来れば退場願えればと思っただけさ」
「ほ~んと、クズ!」
 吐き捨てるように言った。
「いいわ。今回ばかりはパパの思惑に乗ってあげる。大島はわたしが始末するわ」
「それはそれは」
 鈴音は魂も凍るような冷たい目で養父を観た。
「その代わり、覚えていて。いつか必ずあなたを夢中にさせる。あなたがわたしを支配するのではなく、わたしがあなたを支配するの」
 そう言い捨てて部屋を出ようとする背中に声をかけた。
「おい、待てよ。いいかい鈴音、俺は何も指示はしていない。あくまでお前が勝手にすることだ」
「わかってるわ。あんたがどうしようもないクズだってこと」
 鈴音は振り返りもせずに言った。
「そうそう。礼といっちゃあなんだが、シデムシをつけてやるよ」
「それは、どうも、ご親切に。お、と、う、さ、ま」
 そう言って鈴音は部屋を出て行った。
 その後ろ姿を見送って、桜木は腹を抱えて笑いだした。そして傍らの時任に言った。
「いい娘に育ったろう。なあ、時任よう」
 時任は困った顔のまま頷いた。

 
 
                                                                    完

毒蛇御前

毒蛇御前

  • 小説
  • 短編
  • アクション
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 青年向け
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