キが合う二人
この作品のお題は【日食】です。
互いに影響し合う二人の女の子のお話。
玉野桂と陽乃かりんは幼馴染だ。小学校からの付き合いでとても仲が良く、中学はもちろん、高校、そして大学も同じ学校に進学をしている。しかも、大学入学前にあの大地震が発生したこともあり、元々互いに一人暮らしをする予定だったのを取り止め、心細いからとルームシェアもしていた。
桂はおっとりのんびりとしているが、言うことははっきり言う背の低い女の子で、かりんは淑やかで思慮深いが、熟考しすぎて黙ってしまうことも多い背の高い女の子だ。物腰や所作は似ている二人だが、物怖じしない桂と引っ込み思案なかりんは正反対の性格で、だからこそ、お互いのひびを埋めるように手を繋ぎ、付き合いを続けている。
大学二年目の、ある日の授業後、二人がいつものように大学の食堂へ向かっているとき、一人の男子学生が声をかけてきた。彼は二人と同じ語学クラスの寺田という男で、華美ではないが清潔な服装に身を包み、爽やかだがどこか強張った笑顔で二人の前に立った。
「玉野さん。と、陽乃さん」
「あら、寺田君。何かご用ですか?」
もちろん、対面して話すのは桂で、かりんは一歩引いている。
「ちょっと……、玉野さんに話があるんだけど、お昼一緒にどうかな? あ、陽乃さんといつも一緒なのはわかってるんだけど、その……、大事な話だから、二人で」
桂を見つめながら、ちらちらとかりんに目配せする寺田は、その表情以上に緊張をしているようだった。察しの良いかりんは、いつもの熟考をなんとか短縮し、小さく頷いて、桂に耳打ちした。
「桂ちゃん、私、今日は一人で、お昼食べても良いけど、どうする?」
「そうだねえ。じゃあ今日は、別々にしようか」
「わかった。じゃあ、次の授業で、ね」
「ん。……寺田君、お誘いお受けします。行きましょうか」
「ありがとう! 陽乃さん、ごめんね。ありがとう」
こうして二人は食堂へ向かった。残ったかりんはしばし腕を組んで考え、踵を返し、キャンパス内にあるコンビニへと向かうことにした。その日は快晴で、初夏の風もさやさやと心地良く、一人ピクニックと洒落込むにはうってつけの日だった。
さて、かりんと別れた桂と寺田は、食堂へ入り、思い思いの料理を注文して、席に着いた。書き入れ時だが、ちょうど食べ終わった組と入れ替わりになることができたのは運が良かったと寺田は思った。これから話すことを考えれば、わずかでも、幸先としては上等だ。
「それで、話ってなあに?」
ただ、先に本題に触れたのは桂だった。寺田が緊張していたのは確かだが、それにしたって思い切りが良い。まだ食べ始めてから二分と経ってない。寺田は、ある程度箸を進め、関係のない些細な話題で気持ちをなんとなく落ち着けてから切り出そうと思っていたのだ。
真正面にいる桂は、いつものようにおっとりと微笑んでいる。しかし、料理の油が唇を濡らしたのか、その表情は艶っぽく見えた。
「何か、楽しいことかしら?」
「えっと、そうだね、楽しいかはわからないけど……、楽しくなれば良いなとは思ってる」
「ふうん」
寺田は急に顔が赤くなるのを感じた。これから想いを告げようとしている相手に対しては普通の反応ではあるが、彼にとっては予想外だった。寺田は、朗らかで可愛らしくもずばりと言い切るその姿に、言い知れぬギャップを感じ、桂を気にするようになった。垣間見える育ちの良さと、ピュアな率直さを好ましいと思い、やがてそれが恋へと変わったのだ。しかし今目の前にいる桂は、寺田が知っているよりも〈大人な〉顔をして──いや、いつの間にかそういう顔になり、まん丸の目を潤ませ、熱っぽく視線を送っている。見たことのない桂が、彼にどぎまぎとした火照りを与えたのだった。
「その──」ごくりと喉を鳴らし、寺田は意を決した。「僕、玉野さんのことが気になっていて……、つまり、好きなんだ」
「あら、ありがとう。そんなこと、言われることないから。私、可愛くないし」
「そんなことないよ! すごく可愛いよ!」
「まあ……、ふふ、ちょっと声が大きくない?」
「あ、いや、あー……」
周りの席から、何事かという視線が注がれていた。寺田は自分の顔がもっと熱を帯びるのを感じた。逆に桂は、恥ずかしがることもなく微笑んでいる。
「それで、寺田君は、どうしたいのかしら?」
「ど、どう、とは」
「好きって言ってくれて、すごく嬉しい。私、ドキドキしてるのよ? 前から、寺田君って誠実そうで素敵だなって思ってたから……。ね、寺田君はどうしたい? 私、どうしたらいい?」
顔を近づけ、囁くように、桂は問いかけた。琥珀のように射すくめる目と、からめとるような吐息が、寺田の鼓動を早鐘のように鳴らしている。恋をするのが初めてでも、誰かと付き合ったことがないわけでもないが、寺田は、この年の男子学生にしては珍しく、女性に対して純朴な憧れを──それが原因で最終的に振られているわけだが──抱いていた。だからこそ、桂に対して恋愛感情を持つにいたったわけだが、しかし今の桂は、そんな寺田の初心をなぎ倒す勢いで妖しさを醸し出している。
「僕は……、玉野さんは……、僕と、つ、つ、つき──」
ブブブブブブブ
耳障りな振動音がテーブルに響いた。今まさに寺田の口から発されようとしてた言葉は、出所を失った水のように、細い息となって唇の隙間からぴゅうと漏れていく。桂はそれを見届けてから、自分のスマホを手に取った。
「……寺田君、ごめん。私、今日のお昼休みまでに出さないといけない課題があったの、忘れてた。行かないと」
「あ、うん……、ご、ごめん。忙しいところ付き合ってもらって」
言い淀んだ一言が、こういう文脈ならすらりと言えることに、寺田は内心ため息をついた。しかしそれ以上に心臓はまだ鼓動強く、同時に、失敗だ……、という落胆が胸を埋めていた。のだが──
「ううん。ごめんね。大事なお話だったのに……。また今度、お誘いしてくれるかしら?」
桂のその言葉によって、寺田の心臓はひときわ強く跳ねた。まだ終わりではない。少し、いやだいぶ、思っていた玉野さんとは違うけど、あの蠱惑的な表情をもっと見ていたいと、それが口から出そうなほどの勢いだった。
「も、もちろん! また誘うよ!」
「ふふ、ありがと。じゃあ、行くね。今日はありがとう」
「こちらこそありがとう」
「あ、寺田君て良く食べる人?」
「え? ま、まあ、それなりには」
「こっちはまだ口つけてないから……、もしお腹に余裕あるなら食べて。それとこれ。飲みかけだけど、いる?」
琥珀の目が、いたずらそうに光った。
それで、寺田の跳ねた心臓は、奈落の沼へと落ちて行った。
時は少し戻り、桂と別れたかりんはコンビニで買った昼食を手に、キャンパス北側にある大きな広場の木陰のベンチに座っていた。そこは一面に芝が敷かれ、学生はもちろん近隣住人も足を運び憩うような場所で、その日も、陽光の下、多くの人が思い思いに初夏を楽しんでいた。
かりんがサンドウィッチをぱくつき、そろそろ食べ終わろうかという頃、近くというには離れ、遠くというには声が届きそうな場所を、一人の男子学生が通り過ぎようとしていた。髪には寝癖がついたままで、上は白Tシャツに無地の灰色パーカー、下はジーンズという全く飾り気のない恰好だ。しかもこんな爽やかな天気の中、背を丸め、不機嫌そうなしかめっ面で歩いている。
「おーい! あすまくーん!」
かりんが大声で叫んだ。
遊馬と呼ばれた学生は一瞬びくりと身体を震わせ、迷惑そうにあちこちを見回し、最終的にかりんの方へ視線を向けた。最初、かりんを捉えたその目は細められ、首は傾げられたのだが、もう一度かりんが遊馬を呼び、両手を振ってアピールしたので、彼はようやくそれをかりんと認めることができたのだった。
にこにこと笑いながらおいでおいでするかりんと、狐につままれたような表情の遊馬。
数十秒後、彼女らはベンチに隣り合って座っていた。
「……陽乃って、そんな声出せるんだな」
「そんな声って?」
「そんな、大きな声」
「そうかな?」
不思議そうな顔で、今度はかりんが小首を傾げた。
遊馬が良く知っているのは、教室でいつも桂のそばにいて、控えめに丁寧に、あまり大きくはない声で話すかりんだった。活舌が良いから聞き取りやすいが、周りの音が大きくなると聞こえなくなる程度には、それは小さい。そんな声が遠くから聞こえてきたのだから、遊馬が疑問に思うのはもっともだった。
二人が知り合ったのは、これも語学クラスだった。
「あの、その小説、面白いですか?」
遊馬が教室の後ろの方でとある小説を読んでいたら、かりんがそう話しかけてきたのだ。かりんは、長机のイスを一つ挟んだ隣の席にいて、その前の席には桂がいた。
「ああ……、まあ、面白いと思うけど」
「…………私も、面白くて、好きです。その人のお話」
「……この作家、好きなのか?」
「……はい」
座っていてもわかる背の高さと、整っているのにどこか精彩を欠く表情をした女性が、平成初期の一時期にだけ作品を発表し、行方をくらましたアングラ作家を好きだと言う。見た目通りとも違うともとれないぎりぎりの雰囲気に、遊馬は興味を示した。二人は授業が始まるまでぽつぽつと会話を続け、それをきっかけとして、現在は、互いに面白いと思う本を貸し借りするような関係になっている。
今隣にいるかりんは、遊馬がこれまで感じたことがないような華やかさをまとっているように見えた。整ってきれいな顔の、本来のパワーを十二分に発揮するように、正に太陽のような輝きを放っている。木漏れ日の隙間に、遊馬の目は再び細められた。
「今日は玉野と別なんだな」背もたれに身を預け、切り替えるように遊馬は言った。咎められたわけでもないのに、バツが悪く感じていた。「珍しいこともあるもんだ」
「桂ちゃんは……、ふふふ、デート中だよ」
「デート?」
「そ。さっき、同じクラスの寺田君にお誘いを受けてね。二人にしてあげようと思って、私は別行動」
「ふーん」
「……へへへ」
「どうした?」
「私も、あすま君とミニデート」
「……」
これが他の女性であれば遊馬ももう少し浮かれる──いや、警戒するのだが、これはある程度は良く知っているかりんの、全く知らない明るさで発された言葉である。普段は冷静な遊馬もさすがに言葉を失い、目を見開いた。
「どうしたの?」
「……陽乃、お前、本当に大丈夫か? なんかあったか?」
「やだなあ、なんもないよ。なんかあるのは桂ちゃんの方──あ、そういえばあすま君」
「な、なんだよ」
「さっき、なんであんな不機嫌そうな顔で歩いてたの? いつにも増して?」
「へ? ……あ、そうだ、忘れてた。課題の提出だ」
「課題?」
「ああ。教養の、心理学の」
「あれ? 前に出したって言ってなかったっけ? あれでしょ? 手書きの」
「そう、いまどきまさかの手書き提出。出したんだよ。けど、講師が手違いでシュレッダーにかけちまったから、再提出になったんだ。また手書きで。データで提出させろって」
「あー、それはねえ。こんな良い天気の下で、不機嫌な顔にもなるよねえ……、って、あー! そうだ!」
遊馬の心臓が跳ねた。純粋に驚いて。聞き慣れた聞き慣れない大きな声の破壊力は、遊馬の動悸を加速させた。
「な、どう、した」
「今日、二十一日だよね?!」
「そうだが……」
「課題、課題の提出! お昼まで! 私も忘れてた! 桂ちゃんも多分忘れてる!」
「お、おう」
「出来上がってはいるのに……、連絡しないと! そして行かないと間に合わない!」
言う間に、スマホに文字を打ちながら、立ち上がっている。
「ごめんねあすま君。また今度! 新しい本、待ってるねー」
そして、遊馬の返事も待たずに走り去ってしまった。
まるで火山のようなエネルギーの噴出に、遊馬はもう、閉じる口を見つけることができなかった。
「間に合って良かったねえ」
「ほんと、良かった」
「すっかり忘れてたよー」
「私も。遊馬君に、感謝しないと」
昼休みの終わり近く、課題の提出を終えた桂とかりんは、午後一の授業がある教室の席に腰を落ち着けていた。二人とも走ったからか、うっすらと額に汗がにじんでいる。桂はゆったりと、かりんは静かに丁寧にハンカチを取り出し、それを拭った。
「……それで、寺田君、どうだった?」
「好きって言われちゃった」
「まあ……、良かったね。桂ちゃんも、気になってたものね」
「うふふ。嬉しかったなあ」
「お付き合い、するの?」
「そのお話は途切れちゃったの。もう、課題のせいね」
「変なときに連絡して、ごめんね」
「いいのいいの。また今度、お昼をご一緒しようって話になったから。楽しみだなあ」
「応援、してる」
「ありがと。それで、かりんはどうなの? 遊馬君とご一緒したんでしょう?」
「本当に、偶然にね。いつも通りの、不機嫌な顔で、歩いてるから。……思わずはしたない声で、呼び掛けてしまって」
「あらあらまあまあ。どうなの? 脈はありそうなの?」
「……わからない。けど、いつもと違う顔、見せてくれたから、それだけでも、嬉しい」
「奥ゆかしいねえ、かりんは。そこが良いとこよね。きっと遊馬君も気付いてくれるわよ」
「ふふ……、ありがとう」
寺田と遊馬が見たら、これこそいつもの彼女、と呼べる二人がそこにはいた。
二人は、二人でいるときは、昔からこうだった。桂はおおらかに包み込むように優しくかまえ、かりんは落ち着きをもって物静かに指針を示す。ただ、二人が離れると、桂は夜空に浮かぶ琥珀の月のように妖しく、かりんは燦々と輝く太陽のように明朗快活になってしまう。〈しまう〉というか、どちらも後者が元の性格なのだが。だから二人が互いの家に遊びに行ったとき、その変わりよう──豹変と言っていいだろう──にそれぞれの家族が驚いたのは言うまでもない。ちなみに、親が問い質してみても、本人たちに自覚はなかった。
「桂ちゃん」
「なあに」
「もし桂ちゃんが、寺田君と上手くいったら、みんなでご飯を、食べに行きましょう」
「みんなって言うのは、遊馬君も?」
「そう。……私、頑張って、誘ってみる」
「かりんったら、随分積極的じゃない?」
「そうかしら。……わからない、けど……」
「いいのいいの、わからなくて。恋は乙女を変えるのね」
「……恥ずかしい」
「うふふ。あ、講師の先生が来たわ。続きはまたあとでね」
「うん」
いつかは気付くのか、それとも永久に気付かないのか。二人は互いのもう一面と出会わないまま、決して短くはない時を歩んでいる。
しかしいずれにせよ、桂とかりんは仲良しだ。きっとそれが全てなのだろう。見合わせた顔には微笑みが浮かんでいる。
授業が始まりざわめきが収まりつつある中、何も知らない薫る風が、さあっと教室を吹き抜けていった。
キが合う二人