はい、ピース

この作品のお題は【カメラ】です。
その掛け声に彩られた写真は、何を切り取っているのでしょうか。

 これから地元に帰るという旅行客に写真を撮ってくれるようお願いをされた。肌を露出した気楽な格好の、ぽわぽわとした口調の女性同士のペアで、一人が近く結婚し、遠出の機会も減ってしまうからと、独身最後の仲良し旅行に来ていたそうだ。掛け声をかけると、彼女らは歯を見せて笑った。ちなみに、相手の男性の方も、友人と最後の独身旅行をしているらしい。似たもの夫婦ですよね、とはもう一人の言葉だ。私は曖昧に笑って、それを別れとした。すぐそこのテレビモニターでは、この国が数十年ぶりに直接戦争を開始するというニュースが流れているというのに、全く、呑気なものだ。
 空港で働いていると、そういう、平和な人たちに出会うことが多い。人生を謳歌しているというか、自分たちの世界しか見えていないというか。その幸せが一体何の上に成り立っているのか、彼らはちゃんと知っているのだろうか。人が行動を制限されず自由に移動し、かかるサービスに法外な金銭を要求されないことも、騙され脅され身体的な不能を科されないことも、この国を含む数カ国でしか得られないものだ。世界はそうなってしまった。私たちは、たまたま、この国で暮らしている。私たちの大多数は、外の情勢に目を背けている。
「すいません、これ、ください」
 写真を撮った後、つらつらとそんなことを考えながら店頭に立っていると、一人の男がチーズを持って現れ、私にそう言った。そのチーズは、空港限定の、この地域で作られるブランドチーズで、質の良さと味の良さで評判の土産物だった。
「ありがとうございます」
「あ、そのままでいいです」
 代金を受け取って袋に入れようとすると、男はそれを拒んだ。
「今お召し上がりでしょうか」
「あー、まあ、そんなものです」
「もし切るものが必要であれば、ナイフもご用意できますよ?」
 私はそう伝えた。この場で食べていく人は珍しくはない。限定品ということもあるし、これから行く、もしくは帰る場所が持ち込み不可の地域という可能性もある。これも世界の格差による制限だ。食品だからというわけではない。それならまだ理解の範疇に収めることができる。地域によっては、思い出すら検疫の対象になる。そんな理不尽がまかり通る世界なのだ。
「いや、そのままで大丈夫ですんで」
「そうですか? 承知いたしました」
「ご丁寧にありがとう」
 男はにこりと微笑み、冷蔵棚に並んでいたままの、パッケージングされたチーズを持って店を出て行った。どうするのかと思えば、ジャケットのポケットに仕舞うものだから、右側がこんもりと盛り上がっている。そのときはじめて、男がカメラを持っていることに気が付いた。肩掛け紐から伸びた本体が背中に回っていたのだ。
 その様が気になって、何とはなしにその男を目で追っていた。
 男はどうも旅行者ではないようだった。カメラしか持っていないし、飛行機に乗る気配もなく、港内を行ったり来たりしている。誰かを待っていたり、探していたりという感じでもない。ただそのうろつきの途中にカメラを構え、写真を撮るばかりである。趣味かアマかプロかはわからないが、恐らくカメラマンなのだろう。こんな空港をとって何が面白いのかわからないが、見る限り、男は嬉々としてシャッターボタンを押していた。人を対象としているわけでもないのに、「はい、チーズ」と言っているようにも見えた。
 訝しく思いながら、私はそこで、ある現象に気が付いた。男が写真を撮ると同時に、右ポケットが少しずつしぼんでいくように見えるのだ。はじめは男がチーズをつまんでいるのかと思ったが、男の手はカメラから離れないし、そもそもポケットに入れる素振りすらない。男は気にせず写真を撮り続け、その間にも、ふくらみの嵩は減っていく。
 ただ、私がいよいよ見つめていると、ファインダーを覗き込んでいた男はついに自らのポケットに手をやった。あるべきものがなくなっていることに驚くかと思えば、男は二、三度ぽんぽんとポケットの感触を確かめ、苦笑すると同時に振り向き、私を見たのだ。そのままこちらへと近づいてくる。
 私は努めて冷静を装い、「いらっしゃいませ」と営業スマイルで声をかけた。男も口角と、軽く手をあげ、再び冷蔵棚に向かい、今度は別のチーズと代金を持って私の前に立った。
「これ、ください」
「ありがとうございます。……そのままで良いですか?」
「はい」
 男は頭をかきながら、「お恥ずかしい」と笑った。
「チーズがお好きなんですね」
「ええ。まあ私というか、こいつがですが」
「こいつ?」
「はい、こいつです」
 男はそう言って、自らが肩からかけているカメラを寄せて、私に見せた。変な予感はしていたが、私の顔は少し引き攣ったと思う。まさか、そんなことがあるわけない。
「あなた、じっと僕の方を見ていましたよね。僕が写真を撮っているところを」
「え、ええ……」
「自分が売った物だ。ポケットのチーズに注目していた?」
「えっと……、まあ、途中からは……」
「ご覧の通りです」
 男は自分の右ポケットを開け、チーズを取り出して見せてくれた。そこには、中身のないパッケージだけが存在していた。
 ぎこちなく笑いながら「あなたが食べたんでしょう?」と、思ってもいないことを言った。自分の目が信じられなかったからではない。口が勝手に動いたのだ。すぐさまに受け入れるわけにはいかなかった。
 男は首を横に振った。そして徐にカメラを私に向け、「はい、チーズ」とボタンを押した。カシャという小気味良い音とともにシャッターが切れる。あまりに自然な流れなので、止めることができなかった。
「……いきなり、やめてください!」
「すいません。でも実際に見てもらった方が早いと思って。ほら」
 視線の先──まだカウンターの上に置いてあるチーズは、透明なパッケージの中で、まるで一齧りされたかのように一部が削れていた。手に取って調べてみたが、真空のパッケージは開けられていなかった。
「本当に……?」
「本当です。そしてほら、これを見て下さい」
 男は撮った写真を見せてくれた。背面の小さなモニターに映し出されたそれは、急ごしらえにも関わらず、何故か私の心を打った。何が良いとはうまく言えない。ただ、いつも見ている店内の様子も、見切れている商品も、そして驚いた私の顔も、輝いて見えるのだ。
「こいつは、チーズをやると、とても良い画に仕上げてくれるんです。もう一枚良いですか?」
 私は無言で頷いた。掛け声なく撮られた同じ構図の写真は、何の変哲もない、飽き飽きした風景だった。
「ほらね。全然違うでしょう?」
「……これは、一体どういうことなんですか?」
「さあ、実は僕にも詳しいことはさっぱり。僕は一応プロのカメラマンをやってるんですが、趣味で古いカメラを集めてるんですよ。こいつはその中の一台です。でも、どこで買ったかは覚えていない。案外勝手に潜り込んできたのかもしれない。ともかく、あるとき、このカメラを使って写真を撮っていたんです。『はい、チーズ』なんて普段使うこともないんですが、僕はそのとき、ちょっとした間食にとチーズを持っていた。恐らく無意識に、その言葉が出たのでしょう。後で出来上がりを確認したら、一枚だけ段違いに素晴らしい写真がありました。頭を抱えましたよ。それは確実に私が撮った写真のはずなのに、明らかに私の技量を遥かに超えていたのですから」
 男はお手上げのジェスチャーをして、大袈裟にため息をついて見せた。
「ただ、頭を抱えても目の前の現実は変わらない。だから、できるだけそのときの状況を思い出して、撮るまでの動きを再現しました。何度も。何度も。もう一度それを撮るために。それでやっと、この仕組みがわかったんです」
「チーズを持ってその掛け声を発して写真を撮ると、良いものになる、と」
「その通り」
 私も頭を抱えた。矢庭には信じがたいが、しかしそれこそ目の前に現実がある。騙されたような気分だが、今はひとまず飲み込もう。
「……それで、良い写真を撮って、どうするつもりです」
「どうするって? どうするも何も、あなたが言う通り良い写真を撮るのみです。実は最近さる賞を受賞することができて、仕事も増えてきました。今日の撮影もそうですよ」
「そうですか」
「はい。そう、あとは……、この国の多くの人に、僕の知る世界の素晴らしさを知って欲しい。今の時代、残念ながらひどいことに目を背けている人が多い。自分たちだけが平和な世界で暮らせれば良いと思っている。その平和が何によって成り立っているか、考えもしない。僕は職業柄、外の世界に行くことも多いです。そこで切り取った風景は、悲惨であることがほとんどだ。だけど、目を見張るような、活力に満ちた生を感じることもある。我々が多分もう決して得ることができない、生きることへの執着とも言える、強烈なエネルギー。僕はそれをこのカメラで撮って、一番良い画でもって、みんなに見せたい。そして外の世界に目を向けて欲しい。微力かもしれないけど、それをより広い意味での世界平和に繋げたいと思っています」
 男は話しているうちにより饒舌になり、熱っぽく、そう言い切った。自分の仕事に誇りを持ち、自分にしかできない方法で世界と戦おうとしている。真摯に輝く男の目が、私を捉えた。
「この国に、あなたの見る世界に共感してくれる人なんていますか? そんな価値のある人が増えると、本当に思っていますか?」
 私は思わず問うていた。そんな方法で人は変わるだろうか。このろくでもない世界が修正されていくというのだろうか。
「今はまだ多くはないですが、心変わりしてくれた人は、少しはいます。最初から大きな変化があるとは思っていませんよ。小さな歪みがひだのように重なって今の世界になったのだから、私の挑戦も同じです。ただ、やらなければ、始まらない。そうじゃないですか?」
 男はにこりと微笑んだ。爽やかな笑顔だった。信じてしまいたいほどに。
「おっと、少々長居しすぎた。お仕事中にお邪魔してすいません」
「いえ、こちらこそお邪魔してしまって。……あの、最後に一つ、良いですか?」
「ええ。なんでしょう」
「どうして私に、お話を……?」
「ああ……、それは、あまりにも熱心に見られているなあと感じたので」
「すいません」
「あはは、冗談ですよ。いや、きっかけがそれではあるんですが、ポケットのチーズを見られたのもあるし、あとは、単に僕が話したかった。誰かに聞いて欲しかったんです。理由はありません。強いて言えば、僕なりの自己顕示欲の表れかな。ふふ。では」
 冗談めかして言って、男は去っていった。私は「ご来店ありがとうございました」と笑顔で礼をし、ほっと安堵の吐息をもらした。良かった。別に私が私だから話しかけたわけではなかったのだ。
 私は男の姿が見えなくなってから、カウンターの下にある写真サービス用のカメラを取り出した。起動させ、モードを撮影からメモリーに変えると、先ほど撮った二人連れの女性が画面に現れる。実際の彼女ら以上に美しく、そして空港の風景も、きらきらと眩しいほどに映し出されている。
 このカメラは、私の故郷の偏執狂な発明家が──この現代に、自分は偉大な魔術師でもあると嘯いていた──死ぬ前に作り上げた逸品だ。カメラが欲するものを与えるとそれに応えて素晴らしい写真を撮るという、聞くだに吹き出すような眉唾物だが、事実、本物である。
 発明家の死の原因は、この国で作られ他国によって使われた細菌兵器だった。即死はせず、まるで自然の流行り病のように罹患し、じわじわと命が削られていく。それは、発明家の身のみならず、私の故郷を滅ぼした悪魔だった。死に至る途上、発明家はその事実に気付き、関係国を呪い、まさに心血を注いでこのカメラを作り上げたのだ。
『このカメラをお前に送る。使い方は難しくない。人を対象として、撮るときに規定の掛け声を言うだけで良い。それでこのカメラは十二分に作用する。奴らの平穏はいずれ破られる。必ず、我らの無念を晴らしてくれ。掛け声は──』
 どうやってか検閲をすり抜けた手紙にはそう書いてあった。この国に留学し、安穏とした平和な生活を送っていた私は、自国のあり様を手紙を読むまで知らなかった。この国で取り上げられるニュースは統制され、あろうことか改変されていた。
『頼む』
 最後に記された文字は、血で歪に滲んでいた。
 私は発明家の──嫌いだったはずの父の、そして故郷の復讐を果たすことを決意した。
 もう、このカメラで、何万枚もの写真を撮っている。供物を得た写真は、いっそ不自然に鮮やかだ。旅の思い出として店から送られた写真を、被写体たちは喜んでいるのだろう。自分たちが何によってその素晴らしい写真を得ているかも知らずに。
 あの男が持っていたのは、恐らく父の習作だろう。私が子どもで、父がまだ普通の発明家だった頃、チーズを食べてご機嫌になるカメラのアイデアを聞いたことを思い出した。
 それにしても、まさか全くの偶然で、父のカメラの所有者と出会うとは。男の憂いや、思いには共感できる部分もあり、その熱に少なからず感銘を受けた。この国にもああいう人はいるのだと、嬉しくも思った。ただ、もう遅い。
「いらっしゃいませ」
「すんません、この写真サービスっての、お願いできます?」
「かしこまりました。サイズはいかがなさいますか?」
「えーと、どうする?」
「せっかくだし、一番おっきいので撮ってもらおうよー」
「でもちょっと高くない?」
「いいじゃんいいじゃん。初めての二人旅の思い出だもん。奮発してよー」
「しょうがないなー。えと、じゃあ、この大サイズで」
「かしこまりました。では、そちらにお並びください」
「はーい。……なんか緊張するねー」
「なんで緊張すんだよ」
「うそー、冗談ですー」
「おいこら。良いからこっち来いって。ほら、お姉さんも呆れてんじゃん」
「ぶー」
「いえいえ、楽しそうな雰囲気は何よりです。じゃあこっちを見て、お二人とも笑顔で……、良いですよ。じゃあ、掛け声をかけますね。ポーズも取っちゃいましょうか」
「はーい」
「ではいきます。はい、ピース」

もう、遅いのだ。

はい、ピース

はい、ピース

その掛け声に彩られた写真は、何を切り取っているのでしょうか。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-10-24

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