すぅー
この作品のお題は【ストロー】です。
子どもの頃のことを覚えているかと問われると、けっこう曖昧で、なんだか不思議なこともたくさんあったような気がします。
結花ちゃんと言う名の友達がいた。幼稚園からの幼馴染で、もちろん同じ小学校に進学し、クラスまで同じとはならなかったがほぼ毎日、一緒に登下校をしていた。結花ちゃんは目がくりっと丸く、薄い髪色のおかっぱ頭が特徴で、運動神経が良いというよりははしっこく、無口というよりは言葉足らずだが、不思議と人を引き付ける魅力を持った女の子だった。
確か小学校低学年のときだ。彼女のお父さんが亡くなり、お母さんが働きに出るようになった。おじいちゃんは亡くなっており、おばあちゃんは足が悪く、また遠方に住んでいるとかで、だから、下校後そのままうちに来て夜まで預かることが多くなった。彼女のお母さんが迎えに来たとき、玄関先で何度も頭を下げていた姿を──覚えている。当時の私はその大変さについてちゃんとわかっておらず、結花ちゃんと遅くまで遊べることを単純に喜んでいたものだが、自分が親の立場になって初めて、預ける方の申し訳なさと、無意識の寄る辺なさを知るようになった。うちの両親は、気を遣わせないように気を遣っていたと思うが、本心では、少しげんなりしていたのではないかと思う。そういうことも、預ける方はわかってしまうのだ。
ともあれ、私たち子どもはそんな親の心の内も知らず、長い時間を共にし、より仲良く遊ぶようになっていった。
小学校四年生になった年のある日のこと。私と結花ちゃんは一緒に家に帰り、おやつを食べジュースを飲んでから、なわとびを持って近所の公園に遊びに出た。当時学校ではなわとびが流行っていて、みんなが難しい技を跳ぶことに挑戦していたのだが、私にもどうしてもできない技があったので、その練習も兼ねていた。結花ちゃんはなわとびが大得意だった──ので、コツを教えてもらいながら、疲れるまで跳んだ。
「少し休もっか」
私がそう言ってベンチに座ると、こくんと頷き、結花ちゃんも隣に座った。私は少し息が切れていたが、同じくらい跳んでいた彼女はまだ全然平気そうな顔をしていた。
「あれ、それ?」
少しして息が整った頃、隣を見ると、彼女はその手にストローを持っていた。ピンクと白のストライプに、一部が蛇腹になっているどこにでもあるストローで、さっきジュースを飲むときに使っていたやつだった。
「なんで持ってきたの?」
「使おうと思って」
「使う?」
結花ちゃんはにこりと笑い、吸い口を咥え、中空に向けてストローを突き出した。そして、すぅー、すぅーと音を立てながら、何もない空間を吸い出したのだ。彼女のそうした独特の振る舞いは、実は良くある──あったと思うのだが、さすがに一瞬呆気に取られて、言葉を失ってしまった。さらに言えば、なおも空気を吸っている結花ちゃんに話しかけるきっかけも失ってしまい、私は彼女のその様をぼーっと眺めながら時間を過ごしていたのだった。
夕方間近の空は少しオレンジがかり、太陽はまだ燦々として、いくつかの大きな雲がぽっかりと散らばっていた。風はわずかにそよぐほどで、大きなキャンバスの景色は変わらない。珍しく公園には他に子どもはおらず、時折鳴く虫の声や、遠くの車の音が耳に届いてきた。
そこに違う音が飛び込んできたのが、時間が経った後なのか、それとも休憩に入ってからそれほど経っていなかったのか──それは本当に覚えていない。とにかく、ごく、ごく、という何かを飲み込むような音が急に聞こえてきたのだ。
私は、視界に入っているはずの結花ちゃんに焦点を当てた。音は、間違いなく私の目の前から、彼女の喉から、聞こえていた。
「え? な、何やってるの?」
最初の段階で問うべき言葉が、やっと口から出てきた。
結花ちゃんはこちらを見て小首をかしげ、さも当然と言わんばかりにきょとんとした顔で「飲んでるの」と答えた。そしてまた、ストローを何もないところに向け、すぅー、すぅーと吸い始めたのだ。音は途中から、ごく、ごく、に変わっていった。
私はその答えと一連の流れにまた一瞬呆けたが、今度はすぐに気を取り直し、「そうじゃなくて──」と言い募ろうとした。
そこで、信じられないものを見た。
結花ちゃんのストローの先には、空に浮かぶ大きな雲があった。その雲が、ごく、ごく、という音に合わせ、少しずつ小さくなっていくのだ。結花ちゃんは満面の笑みを浮かべながら喉を鳴らしている。雲はあっという間になくなってしまった。
「美味しいよ?」
また不思議そうな顔で、彼女は私を見た。そして、その手にあるストローを私へ差し出した。
私は訳が分からないまま、それでも多分無意識に、首を横に振っていた。
「そう」と結花ちゃんは、さらに勧めるでも落胆するでもなく、三度雲を吸い始め、結局帰る頃には、その周辺の雲は全て彼女に吸い込まれてしまったのだった。私はそれをずっと見ていた。
「雲、……どうしたの?」
知らぬ間に漏れた言葉に答えてくれた、彼女の言葉を覚えている。
「お腹の中で、糸になるの」
結花ちゃんの笑顔に「そう」と呟いた。背筋に言いようのない冷たさが走ったが、それが何を意味するのかわからず、私は無理やり笑顔を返した。
その日どうやって帰ったのかは覚えていない。
結花ちゃんとは次の日からも、何事もなかったように仲良くしていた。子どもとは特異なもので、寝て起きれば、昨日の不思議も夢となり、活力となる。結花ちゃんは変わらず結花ちゃんだったし、なわとびは今日も面白い。技も上達している。一日は、息するように過ぎ去っていく。そういうものだった。
ただしばらくして、結花ちゃんはお母さんの実家へと引越していった。向こうが来れないならこちらが行けばよい、ということになった──はずだったと思う。私たちに対する申し訳なさもあったんじゃないかとも、母は言っていた──気がする。
別れの日、私は泣いて、結花ちゃんも泣いていた。「また会おうね」と約束をして、私は彼女になわとびをプレゼントし、車の中で飲んでと紙パックのジュースを渡した。もちろん、ストローもついている。彼女は頷き、それらを受け取りながら、私に身を寄せてきた。小さな呼吸が、すぅー、と一度、二度、繰り返された。
「全部、忘れてね」
ごく
そして耳元で囁かれて、私は全てを忘れた。
これらを思い出したのは、実は最近のことだった。小学三年生にあがった子どもが、クラス替えで新しく友達となったユカちゃんの話をしているときに、ふと、水泡がはじけるように湧き上がってきたのだ。曖昧な箇所もあるが、ほとんど間違いのない記憶だと思う。
「もう、お母さん、ちゃんと聞いてる?」
「え? う、うん。聞いてるよ。ユカちゃんって子が面白いのね」
「そうなの! 目がくりっくりで可愛くて、お話するのは苦手っぽいんだけど、スポーツがすごいできて。鬼ごっこも強いし、なわとびとか、マジで上手いんだから」
「そうなんだ。すごいね。あなた苦手なんだから、教えてもらったらいいんじゃない?」
「うん、そのつもり。もう約束したんだー。それで、今度うちに来るから。いいでしょ?」
「え! いいけど……、もう、急なんだから! ちゃんとお片付け手伝いなさいね?」
「やったー! はーい」
子どもの様子に微笑みながらも、私はどこか、自分の思い出に茫然としていたと思う。
今日、ユカちゃんが家に来る。冷静に考えればあり得ないことだが、私はどうしても同じ顔を思い浮かべてしまうのだ。
子どもの話を聞いた後、私は母親に連絡をし、思い出話の一つとして当時のことを聞いてみた。
「昔、良くうちで預かってた女の子いたじゃない? 結花ちゃんって、幼馴染の。お父さんが亡くなって、お母さんが働かないといけないからって。急に思い出してさ。あのときって、やっぱり大変だった? 自分が母親になってわかるけど、人の子どもを預かるのって気を遣うからさ、お母さんもそうだったのかなって思って」
しばらく考えた母の答えは、「そんな子いた?」だった。
「あんたの友達、大体覚えてるけど……、それに幼馴染だったら、お母さんもあわせて忘れようがないと思うんだけど……、その子、名字は? 名字聞いたら思い出せるかも」
私も、結花ちゃんの名字を知らなかった。
ピンポーン
インターホンと同時に、「ただいま!」「お邪魔します」という声が玄関から聞こえてきた。賑やかなやりとりがこちらへと近づいてくる。
私は、勝手な懐かしさと、得体の知れない震えを笑顔の裏にはりつけ、「いらっしゃい」とにこやかに向かい入れた。机の上にはもちろん、二人分のお菓子とジュース、そしてストローが用意してあった。
すぅー