ヒロミの思い出
この作品のお題は【こんぺいとう】です。
思い出はいつも自分に寄り添っていると思います。良い物でも悪い物でも。
小学校五年生からしばらくの間、金平糖をガラス瓶に入れて飾っていた。母の持っていた少女マンガの主人公がやっていたのを真似たのだ。私と同じくピアノを習うその子は、それを〈魔法のくすり〉と呼び、落ち込んだり、緊張したり、悲しんだりした時に一粒取り出し、口に入れることで落ち着きを得ていた。
私はその子のことはそれほど好きではなかった。プロを目指すその子は泣き虫で、我儘で、人使いが荒くて、そのくせ結果だけきっちりもっていくことに理不尽すら感じていた──私が好きなのは、その子が慕っている、チェロを弾く先輩のキャラだった──し、なぜただの甘いおかしが薬になるのかもさっぱりわからなかったが、その組み合わせには得難い魅力を感じて、お小遣いで瓶と金平糖を揃えた。窓際に置いたそれは、透明なガラス越しに不思議でカラフルな形を煌かせ、マンガ以上に私をときめかせた。
六年生になり、私は学習塾に通うようになった。中学受験をするわけではなかったし、勉強に不安があったわけでもなかったが、その塾には、同じ中学に進学する別の小学校の子たちがたくさんいたのだ。今のうちに仲良くなっておいた方がいいわよ、という母親の言に私も納得し、毎週金曜日は塾の日となった。
通い始めてしばらく経ち、塾の子全員と友達になった後のことだ。六年生のクラスに誰も知らない新たな入塾者が入ってきた。名前はリコといった。リコは話すのが苦手で、声が小さく、すぐに顔が赤くなるような控えめな性格をしていた。ただ、勉強が抜群にできたことと、儚げで可愛い容姿だったこともあって、多くの子が良く彼女に話しかける、もとい、教えを乞うようになっていった。彼女は初めの頃、そんな状況にだいぶ戸惑っている様子だったが、一人一人、丁寧に関わっていく中でみんなと打ち解け、少しずつ、赤面せずに、朗らかに笑うようになっていった。
夏休み前のある日、私はたまたまリコの席の横に座り、授業を受けていた。夕方の、天気が良くて程よく涼しくなってきた時間帯だ。私は先生の言葉に耳を背け、ぼんやりと教室中を眺めていた。そこで、彼女が机の脇にかけていた手提げカバンの中に目がとまった。そこには、金平糖らしきものがつまった小さな瓶があった。
授業が終わったあと、タイミングを見計らい、私は教室の外の廊下でこっそりとリコに話しかけた。
「リコ」
「なあに、ヒロちゃん」
「ちらっと見えちゃったんだけど、カバンの中の瓶、もしかして、金平糖?」
「え」と言って、リコは顔を真っ赤にさせ、言葉を詰まらせた。私はすぐに、勝手に見てしまったことを謝り、責めているわけではなく、もしかしてあのマンガが好きなのかと思ったということと、実は私も家に金平糖を置いていることを伝えた。リコはなおも顔を赤らめていたが、意を決したようにこくりと頷いた。
それがきっかけで、私たちはより親密に話をするようになった。
リコは本当に可愛らしい女の子だった。容姿はもちろんだが、人に優しく、悪く言うこともせず、冗談を受け流せず真に受けたり、間違いに気付いて慌てたりする姿を愛おしいとさえ思った。
「私もピアノ習ってるの。発表会があったときにどうしても緊張が取れなくて、そのときに、『そうだ』って、お母さんにお願いして、金平糖を買ってきたもらったのね。そうして一粒食べたら、本当に心が落ちついてきて。良い演奏ができたわ。だからこれ、私にとって本当に〈魔法のくすり〉なの」
リコはそう言った。初めてこの塾に来るときも、一粒、口にいれてドアをくぐったそうだ。その姿が容易に想像できて、私は彼女に微笑みかけた。
自分にはない、ある意味での弱弱しさに、私は庇護欲を感じていたのかもしれない。
しかし、それは間違いだった。
夏休みが過ぎ、学校が始まり、季節が秋へと向かう十月の末。リコが塾を辞めることを知らされた。母親の実家がある地方へ引越すことになり、来週土曜に出発するとのことだった。中途半端な時期の、本人からの急な話に、友達はみんな驚き、悲しがった。リコも悲しい表情をしていたし、私も悲しかった。ただ、私には少し気になることがあった。
夏休みが明けた最初の塾の日からしばらくの間、リコはこれまでと同じように振舞ってはいたが、ふとしたときに苦しげな表情を見せるようになっていたのだ。そしてそんなときはいつも、カバンから金平糖を取り出し、こっそりと口に入れていた。しかし、その効き目はあまりないように見えた。
私はさりげなく、そのことについて水を向けてみたが、リコは朗らかに「私、大人になったのかなあ」と笑った。それは、最終編に入る前、自分の弱さから一歩踏み出したマンガの主人公が、〈魔法のくすり〉を卒業するきっかけとするセリフだった。
結局、リコの変化についてはわからないまま、彼女は行ってしまった。
出発前の最後の塾で、ささやかなお別れ会をしたとき、リコは私にこっそりと一通の手紙をくれた。「明日の夜、私が引越してから読んでね。恥ずかしいから」と言って。
彼女の願い通り、土曜日の夜、私は淡い色合いの封筒を開け、丁寧に折りたたまれた便箋を開いた。そこには、こんなことが書かれていた。
仲良くしてくれて嬉しかったこと。
塾に入って良かったということ。
マンガや、好きな物について話せて本当に楽しかったということ。
実はずっと不登校で、原因はいじめだったこと。
学校へ行く替わりに、塾へ通うようにしたこと。
学校はみんなの学区とは違う遠いところだということ。
塾が、みんなといるのが楽しかったから、学校へ行くことも頑張れそうと思ったこと。
夏休み明けから登校を始めたこと。
でも、やっぱりダメだったこと。
中学校はみんなの学区へ通うことを希望していたけど、住む場所は変わらないこと。それすらも辛く感じるようになっていったこと。
向こうへ行くのは自分とお母さんだけで、住むのはおばあちゃんの家だということ。
耐えられなくて、同じ学校へ行けなくて、私は弱い人間で、逃げてしまって、ごめんということ。
そして最後に──
〈引越し先で上手くやれるかはまだわかりません。また、閉じこもってしまうかもしれなくて、それが不安で、こわいです。
また同じことになったらどうしよう。もう逃げたくないです。でも、魔法のくすりも効かなくなっちゃたから。
大人になったんじゃないの。「こんなもの」って思っちゃったの。
こわいです。
おばあちゃんもお母さんも優しいです。みんなとの思い出も、とても優しいです。
がんばりたいと思っています。がんばれるかな。
またいつか、みんなに会いたいです。ヒロちゃんに会いたいです。
ヒロちゃんは美人で、お話も楽しくて、私のあこがれです。
会えるといいな。そのときは一緒に曲を弾きましょう。
さようなら。ありがとう。
ありがとう。 リコ〉
手紙はそう閉じられていた。
私はしばらく動くことができずにいた。リコがそこまで辛いことを抱えていたなんて、少なくとも夏休みが明けるまでは、何となくでも気付かなかった。彼女は胸に痛みを抱えたままそれを隠し、朗らかに笑っていたのだ。仲良くなった私たちに、学校でのことを吐き出して、いじめっ子を悪く言うことだってできたのに。
それのどこが弱いというのか。
あなたは強いと言いたかった。どんなきっかけがあってそんなことになったのか、それは手紙からは伺い知れなかったが、彼女をいじめた奴らにも、「おまえらなんかより彼女はずっと強いんだ」と大声で言いたかった。
しかし、それももう、叶わないのだ。
少し落ち着いた後、私は彼女と同じ学区じゃなくて良かったと思った。
もし同じ学区で同じ中学校に通っていたとしたら、私はリコと同じ小学校のやつらに、誰彼構わず怒りを持って対したと思うから。
私は深呼吸をし、手紙を丁寧に折り戻して、机の中に大切に仕舞った。
それから少しの時が過ぎ、私は中学校へ入学した。クラスには小学校の友達も、塾の友達もいて、私は最初から何の不安もなく、これまでと変わらず、新たな生活を始めることができた。
ただ、私の部屋から、小さなガラスの瓶はなくなっていた。
教室での日々を過ごしながら、良くリコのことを思い出した。
もしここに彼女がいたらと思い、彼女の笑顔を思い浮かべ、彼女の心安らかな暮らしを思った。元気でいてくれればと、心の底から祈った。
その後、彼女からの連絡はない。私は彼女の実家も、引越し先の住所も知らなかったし、彼女もうちの住所は知らない。
それでも、いつか会えることを信じて、私は音楽を続けている。ピアノはやめてしまったが、今はチェロを習っている。私が好きな、あの主人公が慕っていた先輩が弾いていた楽器だ。丁度マンガが実写ドラマ化され、チェロの音色をちゃんと聞いて──それに母にも勧められて──転向を決意した。
彼女はマンガの主人公ではないし、私も先輩ではない。けれど、憧れと言ってくれた友達に相応しくあれるように、私はいたいと思う。いつかどこかで、一緒に曲を演奏できることを願って。
ヒロミの思い出