柔らかい骨
この作品のお題は【やわらかい】です。
自分にあるものを他人と共有できるかというと、本当に本当のところは難しいんじゃないかと思います。
僕がそれに気付いたのは、小学校の六年生のときだった。
昼休みに友達とサッカーをして遊んでいて、ヘディングをしたとき、何だかぐにょりとした変な感触を得た。ボールの空気が抜けているのだと思って、触って確かめてみたが、特段変なところはなく、再度ヘディングをしても、同じ感触はない。不思議に思いながらも、そのままサッカーを続けて、確かその日は負けた。
次の日も同じようにサッカーをしていて、またヘディングをしたとき、その、ぐにょりとした感覚があった。そしてボールには同じくおかしなところはない。僕は少しだけ注意深くなって、ボールが当たったあたりの部位を手で確かめてみた。そして、ほんの一部分、右側の耳と頭頂部の中間よりやや後ろ側の骨が、ものすごく柔らかいことに気が付いたのだ。その日も僕のチームは負けた。
気が付いてから、僕はそこを良く触るようになった。とにかく、一円玉より小さいくらいのその部分だけ、絶妙な具合にへこむのだ。ずっと固まらない、半分だけ固まった張りのある木工用ボンドみたいな感触である。そして強く押しても、しばらくしたらへこみは元に戻る。音はならないが、ぽっぴんのように。自分の頭にそんなおもちゃがあることが、怖いというより、楽しかった。
六年生と言う、だいぶ分別のつく年齢だったのが良かったのだろう。僕はその〈穴〉を自分だけの秘密にした。秘密にして、家族や、友達の頭を適当な理由をつけて触ったときに──その頃の友達には、おかげで、マッサージ好きなやつだと思われている──同じ部位を確認した。もしかしたら自分が知らないだけで、誰しもにあるものかもしれない、と考えたのだ。下手に聞いて「え、お前そんなことも知らないの?」とでも言われたら恥ずかしい。僕は割と見栄を張るタイプでもある。
そして結果、誰も、そこに〈穴〉がある人はいないことがわかった。ついでに、人の頭の形は千差万別ということもわかった。
ただ、僕はそれなりに賢かったので、だからと言って何かが変わるわけではない、ということもわかっていた。これくらいの変なことは、誰しも持っているものだろう。関節が柔らかくて指が曲がりすぎる人もいれば、自由自在に骨を外せる人もいる。頭のネジが飛んでいる人もいる。そこらへんから見れば、頭の一部分に〈穴〉が開いているくらい、どうってことないだろう。
僕は頭の〈穴〉をぽこぽこさせながら、日常へと戻っていった。
出会いがあったのは、高校一年生だ。
学校祭の準備で、クラスをお化け屋敷に改造しているときのことである。どうやら仕切り壁の建付けが甘かったようで、作業中、ふざけた友達がぶつかった拍子に倒れてしまったのだ。そして運悪く、僕はその倒れた側にいて、壁の下敷きになった。壁は軽いベニヤ板だったし痛くもなかったので、大事にはならなかったのだが、僕は念のためと保健委員の友達に付き添われ、保健室へと向かった。
その、保健の先生である。
まだ若く見える、背が高く髪が短い、眼鏡をかけた彼女は、ショコ先生と呼ばれていた。顔立ちがシャープで、目が鋭く、一見すると厳しい人のように思われるのだが、とても生徒思いで優しく、病気やケガ以外に、困りごとにも親身になって話を聞いてくれる、そんな先生だ。噂には聞いていたが、僕は入学してから保健室の世話になったことはなかったので、そのときにはじめて、ちゃんと相対したことになる。
友達から事情を聞いたショコ先生は、イスに座る僕に二、三の質問をした後、「何の問題もないと思うけど……、うん、念のため、少しここにいてもらおうかな。あとは私が見るから、あなたは戻って大丈夫よ。作業、頑張ってらっしゃい」と友達を送り出した。
「あの、僕も大丈夫です」
「うん。そう思うけど、頭ってけっこうデリケートでね。ぶつけてしばらく経って、急にばたりってこともあるのよ。まあ、ちょっとした休憩だと思って休んでいって」
「そうですか。わかりました」
「あ、こぶになってないか、一応見ておこうか。座っててね」
ショコ先生は、自分は立ち上がって僕の後ろに回り、頭を手で触り始めた。
「あら……?」
そして、その指が、〈穴〉に触れたのだ。道路に空いた小さな裂け目に躓くように、指が〈穴〉に引っ掛かって、その勢いのまま皮膚を押し、へこませた。もちろん、痛くはなかった。ただ、自分でへこませるのとはまた違う奇妙な感覚に、僕は背筋を震わせることになった。
「これ……、もしかして……」
ショコ先生は、言いながら、もう一度〈穴〉を押した。僕は思わず立ち上がって、先生の手を振り払ってしまった。
「ご、ごめんなさい」
「あ……、いえ、先生、すいません。人に頭を触られるのになれてなくて」
「ううん、ごめんなさいね。配慮するべきだったわ。でも、その〈穴〉は……」
「……これ、昔からあって。痛いとかじゃないんです。ただあるだけで、何の問題もなくて、生活に支障もなくて。暇なときにぽこぽこ触ってると落ち着いて、その……、僕の一部みたいなもので」
誰かに説明するのは初めてだったので、うまく言葉にできなかった。ただ、自分の一部であるとは、ずっと思っていたことだ。何故だか、これがあるから自分がある、不可分である、という気持ちが強い。アイデンティティ、と言えるかもしれない。
「そう……」と呟いて、ショコ先生は僕がいたイスに座った。
このことが、先生にどういう思いを抱かせるのか、僕には全く想像できなかった。実は何かの病気だったり、不具合だったりしたらどうしよう、ということは全く思わず、どういう影響を与えるのか、という点ばかりを考えていた。
しかし、口を開いた先生の言葉は、予想外だった。
「吉田君、先生の頭のここ、触ってみて」
「え……?」
「ちょっとマッサージすると思って、ほら」
「え、えっと、はい……?」
「うん、そこより、もう少し斜め下」
「ここで──あ」
先生は振り返り、僕を見てにっこりと笑った。
「私、仲間をはじめて見つけたわ」
先生の頭にも、〈穴〉があったのだ。
そのことがあってから、僕は時々、保健室を訪れるようになった。誰もいないときを見計らって、ショコ先生とおしゃべりをして、お互いの〈穴〉に触れる。たったそれだけのことが、僕の毎日を豊かにしてくれた。秘密の共有による背徳感というよりも、同じであるという安心感が強かったように思う。〈穴〉によって、僕と先生は繋がっていた。
「先生はこれ、何だと思いますか?」
ある日、僕は先生に聞いてみた。放課後、窓から差す夕陽が保健室を陰らせる中、先生は僕の〈穴〉を、なでるようにぽこりとへこませている最中だった。
「何、か……」と先生は、僕の頭に手を置いたまま答えた。「何だろうね。考えたこともあったけど、結局、どうでも良くなって、そのまま。吉田君はどう思うの?」
「僕は……、僕も、わかりません。あるものは、あるし、それで困ったこともないし、むしろ落ち着くくらいで」
「うん。それでいいんじゃないかな」
「そうでしょうか?」
「私たちには〈穴〉がある。それで得られる充足もあるし、あるいはもしかしたら、失っているものもあるのかもしれない。けれど、もし無いものがあるとしても、私たちは最初から持っていないのだから、有ることを考えても仕方がない。と言うより、有ることを思い描くことができない。元々無いのだから」
「……良くわかりません」
「だから、いいのよ、それで。私たちには、あるから、無いのだもの」
ショコ先生は、〈穴〉ではなく、僕の頭をなでた。ふわふわと気持ちよくて、僕は考えることをやめて、手のぬくもりに身を委ねた。
結局、その逢瀬は二年生の終わりまで続いた。
先生は、別の学校へと異動することが決まった。
終業式の翌日、僕は初めて、学校の外でショコ先生と待ち合わせをした。
お昼過ぎ、学校から離れた場所にある静かな喫茶店のカウンター。
僕と先生は隣合って座った。先生の髪は出会ったときよりも伸びていて、目元も柔らかくなっていた。会話はあまりしなかった。時々、先生の手が僕の頭の〈穴〉をぽこんとへこませて、戻っていった。店主や、他のお客さんの視線があるような気がしたが、そんなことはどうでも良くて、僕はただ、先生の優しい手の感触を記憶しようと、じっと珈琲を飲むばかりだった。
「じゃあ、そろそろ、かな」
一時間が過ぎた頃、先生はぽつりとそう言った。
「はい」僕は、空になったカップをいじるのをやめて、答えた。「二年間、楽しかったです」
「私もよ」
「また、会えるでしょうか」
「どうかな。わからない。けど、私たちは〈穴〉で繋がっているから」
「はい」
「うん。ねえ、私の〈穴〉を触ってくれる?」
「わかりました」
僕は、先生の頭に手をやって、〈穴〉に触れた。一部分だけ柔らかいそこを押すと、ぽこんと皮膚がへこんで、しばらくのちに、ぷくりと元に戻った。
「ありがとう」
おそらく、これが最後になるだろう。そんな予感があった。
そして先生は、知らない遠くの街へ、行ってしまった。
それから、僕は自分の頭に手をやることが少なくなった。自分で〈穴〉に触れて楽しむ感覚が、気付けば消えかかっていた。
きっと、無いものが有るものへと変わり、それが普通となってしまったのだろう。僕の〈穴〉は、ショコ先生の温度で塞がれてしまった。
先生はどうだろう、と時々考える。僕が触ったことによって、彼女は何かを得たのだろうか。それとも、失っただろうか。
僕にはもう、それはわからなくなっていた。
柔らかい骨