楽園

この作品のお題は【アクアリウム】です。
このご時世になり始めた頃に書いたもの。なんだかすっかり日常に入り込まれた気がしている。

「なあ。これな? これが地球だったとするじゃん?」
「ん? なん? どれが何だって?」
「だから、これ」
「金魚鉢? が?」
「地球だったとしたらよ?」
「地球」
「水を足したらどうなるんだろう?」
 良く晴れた日の午前中のこと。引越しの手伝いに来ていた慎司が、空の金魚鉢をじっと見てそんなことを言い出した。その金魚鉢は、つい最近まで実際金魚の住処として使われ、僕の毎日のちょっとした潤いになっていたものだ。不幸な事故により、今はもう透明な丸い思い出である。慎司も何度か餌をやったことがあったから、思い入れがあったのかもしれない。
 しかし、金魚鉢が地球で水を足すとは随分と飛躍したものだ。色々思うところがあるにせよ、折角呼んだのだから、座ってないでちゃんと手伝って欲しい。何のために昨日昼飯をおごったというのか。
 まあ、そう言って僕自身、すでにやる気が迷子で、閉じた窓から空を眺めている。本当に天気が良く、抜けるような青空がどこまでも広がっているのだ。都会の空とは違って遮るものがない。そんなものを前にしたら、思わずぼんやりと眺めてしまうものだろう。窓際のソファも、陽の匂いで気持ちが良い。
 慎司は、僕に返答を求めるでもなく、金魚鉢をいじりながら、腕を組んで自分自身の問いについて考えているようだった。
 つけっぱなしのテレビからは、良く見るアナウンサーと、良く知らないコメンテーターの声が聞こえている。ずっと同じことしか言わないから、もう消してしまっても良いかもしれない。
 仕方ないので、僕も金魚鉢に水を足すことを考えてみた。
 金魚鉢は金魚鉢だ。水を入れるものである。より正確に言えば、金魚、もしくはそれに類する魚類を飼育するために水を入れるもので、石や植物を入れ込み、装飾も可能だ。大袈裟に表現すれば、魚の生活域を模したミニチュアの箱庭と言える。……なるほどそういう意味では、金魚鉢を地球に例えるのも、まあ、無しではないかもしれない。言ってみれば、地球は大きなアクアリウムだ。
 では、それに水を足すとは?
 金魚鉢に水を足せば、魚は喜ぶ。……基本的にはそうだ。ただ、もっと生命に関わる話であるとも言える。人間で言えば、呼吸ができるか否か、環境が合うかどうかだ。水は天の恵みにも等しいものだろう。しかし、魚が生きているのであれば、そもそもが潤沢にあるはずのものである。増えたからといって、殊更騒ぎたてることではないのかもしれない。
 地球に水を足すことは、やはり生命に関わる話だろう。人に限らず生物全般にとって、恵みともなれば脅威ともなる。ただ、足りないところに足すのであれば、利が大きいのではないか。例えば砂漠とか……、砂漠とか。あと、水の星である地球が、より地球たり得る、とか。
 良くわからなくなってきた。
「慎司」
「……ん?」
「さっきの質問って、何?」
 慎司は、今度は金魚鉢を転がす手を止めた。
 床は傷ついていないだろうかと、振り向いた慎司を見て別のことを思った。
「ああ……、ちょっと考えてたんだけどさ」
「うん」
「金魚がいる金魚鉢に水を足したら、金魚は喜ぶじゃん?」
「そうだな」
「でもさ、その水を誰が足してるとか、金魚って気にしないと思うんだよな。こっちが善意で、『お、水なくなってきてるじゃん』って思って水を足しても、金魚は『俺が生きてるんだから水があるのが当たり前』みたいな感じで」
「あー、餌とかも、なんか上から降ってくる、くらいに思ってたり」
「そうそう。そんな感じ。でさ、これって地球もそうなんかなーって思って」
「ほう?」
「雨とか、空気とか、必要なものって当たり前にあんじゃん? 俺、詳しくないから知らんけど、自然のなんたら? ってやつ?」
「……摂理?」
「そうそう、そんな感じのやつ。その摂理? ってのがさ、金魚で言うところの俺らってわけ」
「……つまり、金魚鉢に水を足す誰かがいるように、地球に水、とかなんか色んなものを足してるやつがいるんじゃね? ってこと? 神様みたいな?」
「神様かどうかはわかんないけど。俺らだって神様じゃないし」
 そう言って慎司は、結局まだついたままになっているテレビを見た。相変わらず画面は変わらない。不確かだけど確かな情報を、必死になって報道している。
 慎司の言いたいことは、何となくわかった。金魚が見えざる手でもって金魚鉢で快適に暮らすように、人間も、何者かによる善意の手助けによって、地球というアクアリウムで暮らしていると。
 ただ、その善意が、必ずしもプラスに働くとは限らない。
「んでさ、神様じゃないから、失敗もするじゃん?」まさしく、慎司はそう続けた。「何も考えずに水道水をいれて、金魚がショックで死んだり、とか」
「……ほんとにな。出店のおっちゃんがそんなこと言ってたの、忘れてた」
 僕の金魚は、良かれと思ってやった水の大量の継ぎ足しが原因で、ショックで死んでしまった。急な水質の変化や、温度差についていけなかったのだ。魚を新しい水に慣らすことを、水合わせ、というらしい。後で調べて知った。
「ああ、ごめん。責めてるわけじゃなくてさ。知らなかったんだからしょうがないよ。気にすんなって。……そうじゃなくてさ、今の、このテレビでやってるのもさ、そういうことなんかなーって思って。誰かがさ、『この世界にこれを入れたら、もっと素晴らしいものになる』って、継ぎ足したわけよ。水感覚で」
「あー……」
 そういうことかと、僕もテレビを見た。
 ずっと、世界中で謎の昏睡事件が起こっているというニュースが流れている。
 始まりは昨日の夕方で、昨晩には死者が出ていたし、今朝の段階でもう、その数が笑えないレベルになっていた。原因不明ということだったが、先ほどのニュースで、その原因が空気中にある菌だかウイルスだか物質だかにあるということをしゃべっていた。それが元々あったものなのか、突然発生したものなのかは、調査中とのことだった。
 ニュースは、念のためということで外出を控えるよう呼び掛けている。
「大袈裟だなあ」と思わなくないが、窓から見える町は、なんだか人が少ない。いくら地方都市とは言え、休日のこの時間なら、もっと外を歩いている人がいてもいいはずなのに。
「どうなることを期待したんだろうなあ。今、『うわ、やっちまった』って思ってるのかなあ。わっかんねえなあ」
 慎司は、ようやく引越しの片付けに取り掛かりながらも、ぶつぶつと呟いていた。そしてその声は、考えるのに飽きたのか、考えても仕方ないと思ったのか、次第に小さくなっていった。
 僕もそれに倣い、片付けを再開した。
「さっさと終わらせて、昼飯食べに行くか」
「今日もおごってくれんの?」
「自分で払え」
「えー」
「ほら、手を動かす」
 所詮、身近になるまでは対岸の火事なのだ。日常はまだ近くにある。わからないことはわからない。楽天的な不安が世界には充満している。
 ただ、最後に。
 今の話で一つだけ言わなかったことがあるとすれば、それは、地球の何のために良かれと思ってやったのかは、少なくとも人間にはわからない、ということだった。

 引越し作業ははかどったが、結局僕らは、昼飯を食べに外には出なかった。

楽園

楽園

このご時世になり始めた頃に書いたもの。なんだかすっかり日常に入り込まれた気がしている。

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-10-16

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