まにまに
この作品のお題は【水滴】です。
雨よりは晴れていた方が好きですが、カフェの窓から雨を見るのは好きです。
雨音響く薄暗い店内は、別世界に迷い込んだような心持ちになります。
高台にある小さなカフェの二階の窓からは、濡れそぼつ町の光景が見えた。家もビルも、道路も車も公園も、何もかもが灰色に染まっていく。来るのが一歩遅れていたら、自分もその仲間になっていた。どうせなら私も濡れたかった。
外を眺めていると、注文していた珈琲が給仕された。見慣れない店員だ。きっと今日が平日だからだろう。客もまばらだし、流れる音楽も、店内を覆う雰囲気も、どこか違うように感じる。急に降り出した雨のせいも、あるのかもしれない。
ただ、丁寧に置かれたカップから漂う香りは、いつもと変わらなかった。一口飲み込むと、苦さと温かさがゆっくりと染み渡っていった。
取り出した読みかけの文庫本は、テーブルの上に置いたままになっていた。何度か手を伸ばし、表紙の肌触りを確かめはしたが、やはり読む気にはなれなかった。思い出の場所に来てみても、変化が訪れるわけではない。その程度で起きる変化を、本当に期待していたわけでもない。静かな拒絶が、まだ、深い霧のようにまとわりつき、煙っている。
窓に音を立てる雫たちが、モザイクとなって町をにじませていく。照明は暗く、その変化を邪魔することはない。じっと見つめていると、まるで拙い出来の万華鏡のようだ。ざらざらと波打ち、不規則に揺らめいて、視界をぐるぐると惑わしていく。いつしか水滴はたゆたい白い靄のように広がって、私の目から身体の中に入り込み、不明で荒んだ心持ちをそれとなく包み込んだ。
得体の知れない優しさに、私は瞬間身を震わせた。
「お客様」
先ほどの店員が、いつの間にか私の横に立っていた。「はい」と応えて眉間をもんだ。茫としていたのかもしれない。最近はあまり眠れていなかった。
店員の横には、少女が立っていた。はっとする。十歳くらいだろうか。シンプルな生成りのワンピースに、紺色のカーディガンを羽織り、髪は肩下で切り揃えられている。薄暗い店内に似つかわしくなく、にこにこと笑い顔だ。
「こちらのお客様と、相席をお願いしてもよろしいでしょうか」
「相席……、ですか?」
フロアを振り返った。いつの間にか、席は埋まっていた。カップを傾けながら、本を読んだり、雨の町を眺めたり、あるいは目をつむるなどして、みな静かに過ごしている。確かに、新しく座る席はない。
「もし、お客様がよろしければ、ですが」
もう一度少女を見た。少女は変わらずあどけない、楽しそうな笑顔で、ぺこりと、頭を下げた。
私は胸の微かな疼きを悟られないよう、顔を緩ませて、「いいですよ」と答えた。
「ココアをください」
私の前に座った少女は、去り際の店員にそう注文し、ふうと息を吐いて、私に「ありがとう」と告げた。見た目と違って落ち着いた声だ。ただ、わくわくとした音色は隠しきれていない。私は頷くことで返事をした。
単純なもので、心がほんのり柔らかくなった気がした。いつのときも、背伸びをしている女の子は可愛らしいものだ。今度は自然と顔がほころぶ。同時に、在りし日の自分たちのことも思い出した。随分な大冒険だったと、後になって語ったものだった。
少女は、広くとられた窓台に手提げのバックを置き、覗き込んで、一冊の文庫本を取り出した。大人への憧れを見せつけられたようで、さらに微笑ましい気持ちになる。ただ、一旦テーブルに置かれたその本を見て、思わず目を見開いてしまった。今、テーブルの上には、同じ本が二冊、並んでいる。
「同じ本?」
少女も気付いたようで、本を見て、私を見て、苦笑するようにそう言った。
それは、ある作家のエッセイだった。現実と非現実の境界をぼやかし、それらが地続きであることを違和感なく描くのが得意な作家で、彼女の書くエッセイも同様に、日常のそこらにある異界への扉に気付かせてくれる。そして物語ではなく、エッセイだからこそ、作者の思考がより色濃く反映されていた。昔、二人でそんな評価をした。
「この本、好きなの?」
私は少女に問いかけた。少しだけ声が高くなっていたかもしれない。
「うん。昔からね」
少女は答えた。年相応の気軽さだった。
「昔から?」
「うん。あなたは? この本好き?」
「私? 私は、そうね、好きよ」
「そっか。そうよね。素敵な雰囲気だもんね」
ふふふ、と笑って、少女は自らの本を引き寄せた。ぱらぱらとページを繰り、目当てのページにたどり着いたようで、一度私を見て頷いてから、読み始める。
私はしばらくの間、窓の水滴を眺め、手元の珈琲を弄りながら、ちらちらと少女を気にした。少女は、私の視線にも、給仕されたココアにも気づかず、熱心に文字を追っている。その姿に、胸の疼きが戻ってくる。
「あなたは読まないの?」
ようやく少女がカップを手にしたとき、私のカップはもうほとんど空になっていた。
「……読みたいんだけど、気持ちの整理がつかなくて、読む気になれなくて」
手すさびにしていたカップをソーサーに置き、何と答えようか迷った結果、出てきたのは素直な言葉だった。もう一か月半も経つ。いや、まだ一か月半しか経っていない。彼女がいない世界に、私は慣れるのだろうか。
「何かあったの?」
「ちょっとね……、ううん、ちょっとじゃないか。すごく、悲しいこと」
「そう……」
少女は困った顔をしている。それはそうだろう、たまたま相席になった大人に、急にそんな告白をされても、どうやって反応すれば良いかわかるはずもない。私は、子どもに向かって何を言っているのだ。
「ごめんね。気にしないで」
微笑んで、私は自分の文庫本を片付けた。しばらくは持ち歩きするのは止めようと、そう思いながら。
タイミングも良かったので、私は店を出ることにした。
結局、珈琲も、浸る思い出も、まだ私には苦かった。
「私がこの本を好きなのはね、世界が繋がってるって教えてくれるから」
席を立とうかというところで、そんな声が聞こえた。同じ言葉を以前に聞いたことがあるような気がして、私は浮かせかけた腰をそのままに、少女の顔を見た。少女は、困った顔のまま、笑っていた。
「現実も、フィクションも、消えた歴史や、仮想の未来、宇宙の果てや身近な不思議、死後の世界も何もかも、繋がっているって。それは、怖いことかもしれないけど、同じくらい、素敵なことだって思うんだ。あなたはそう思わない?」
私は再び腰をおろした。問いかける少女に応えたくて、口角をあげてみたけど、まだ言葉は出てこなかった。それはとても素敵なことだ。そんな繋がりに憧れはある。けれど、私はもう大人だ。世界の真実もわかっている。
「……素敵だって思うわ」
結局、でも、そう答えた。そうであれば良いと願いながら。
少女は満足そうに頷き、しかめ面しながらココアを飲み干して、立ち上がった。私は機会を逸してしまって、少女が帰り支度する様子を座って眺めていた。気にして見るほど、どんな動きも似ていて、胸が苦しくなる。
少女はバックと、自分の伝票を持ち、私の方を向きなおした。「じゃあ、お邪魔しました」そう言って礼儀正しく頭を下げた。私も、「全然」と頷き返した。
「相席できて楽しかったわ」
「良かった」
「……ここには良く来るの?」
「うん」
「じゃあ、また、会えたら」
「そうね。そうできたら良いんだけど……」
「できないの?」
「ううん。わからないの。……残念」
「そっか……、私も残念だな」
えへへ、と少女は笑った。笑って、はにかんで、意を決したように言葉を続けた。
「……ねえ、私は、嬉しかったよ」
「うん? 何が?」
「まだ、悲しんでくれてるんだって。……寂しがってくれてるんだって」
「え?」
「ありがとう。どこでもない、ここで会えて、良かった」
「えっと、なんのこと?」
「次からはココアを頼んでね。昔から珈琲、飲めないんだから。あなたはあなたの好きな物を選んで? ね? 私はちゃんと珈琲を頼むから」
「なんで……、あなたは──」
「ほら、空が見えてきた。太陽も出てる。水滴が輝いてる」
「……ほんとだ」
「ふふ。ねえ、世界は繋がってるよ。こんなにもきれいに、何気ない場所で」
「……」
「ありがとう。大丈夫よ。私も、あなたも。ね? いつかまたきっと──ここじゃないかもしれないけど、どこかの空の下で、会えるから。……じゃあ、本当に行かなくちゃ」
少女は、私の言葉は待たずに、「またね」と、階段を降りて行った。
カウンターに挨拶をする声と、ドアを開ける音が、順番に聞こえる。
私は窓から店の入口を見下ろした。水滴のモザイクが、少女の姿をその一粒一粒ににじませている。振り向いた笑顔は眩しく、あの頃と何も変わらない。やがてその眩しさは、陽の光と重なり白い塊となって、私の目に飛び込んできた。
私は耐えられなくなり、片手を翳して、目をぎゅっとつむった。
静かに時を刻む雨音と、落ち着いた音楽が耳に流れてきて、私はゆっくりと目を開けた。
フロアは薄暗く、窓から陽は差していない。
翳した手でそのまま顔を拭い、眉間をもみながらゆるゆると振り返ると、まばらにいた客はすでにいなかった。
私はイスに背をもたれ、大きく二度、深呼吸をした。うたた寝から目覚めた直後に感じるような、朦朧とした倦怠が身体にのしかかる。少し汗もかいているようだ。先ほどまで見ていたものが、夢なのか、現実なのかも、わからない。
もう一度目をつむり、今度は確かめるようにゆっくりと息を吸い、吐き、目を開けて、私はイスに座り直した。テーブルには、文庫本と、カップが一つ、置かれている。
目の前にいた彼女は、初めて二人でこの店に来たときの、小学生の姿だった。服装は大人になってからの好みだったが、それ以外は全て、当時のまま。どうしてそんな姿だったのか、わからないが、あの頃に戻りたいと言っていた彼女らしいと言えば、らしい。
私はカップに手をのばした。すっかり冷たくなっている。
底に残された珈琲は苦くて、やっぱり美味しくなかった。彼女の言う通り、次からはまた、ココアを頼むことにしよう。
カップを空にして、私は再び、窓の外を眺めた。灰色に染まった町の遠くが、少しずつ、光を反射し始めている。もうしばらくすれば雨は止むだろう。
テーブルに頬杖をつき、私はそのときを待つことにした。
もう片方の手は、知らず、文庫本の上にあった。まだ読む気にはなれないが、その手触りは、来る前よりも身近で、温かかった。
まにまに