幕間

この作品のお題は【煙】です。
人はいつまで自分の記憶を保持できるのか。知りたいような、知りたくないような。

 大学を休学中、おんぼろの車で、行く先を何も決めない放浪のような旅をしている。
 季節は夏。低く垂れこめた雲か、あるいは霧かわからないが、峠を覆う白煙を抜けた先、とある村に行き当たった。時間はそろそろ夕を迎える。日は長い季節だが、運転の疲れもあり、そこをその日の終着点とした。
 ネットの調子が悪く手持ちのガイド本で調べると、村には電車は通っておらず、日に三本のバスか、車でしか来ることができない秘境、らしい。一応温泉が出るため、それでも往来があり、宿もあるが、人口は少なく、近々周囲の村との合併がなされるとのこと。
 ほとんど個人宅のような宿の一室、畳に寝そべってそんな情報を眺めていると、トントンと階段を上ってくる音がする。「お客さん」と声をかけ、返事も待たずに入ってきたのは、受付にいた年配の女性だった。
「本日はようこそおいでなさいました」
「こちらこそ、予約もせず突然すいません」
「お気になさらず。温泉でしょう?」
「はい。色々な地域を周っていたところ、こちらの温泉が良いという話を聞きまして」
 先ほど仕入れたばかりの知識でお茶を濁す。わざわざ本当のことを言う必要などない。
 老女は笑みを浮かべながら頷き、「ではこちらをどうぞ」と、一枚のチラシを手渡してくれた。見ると『名湯地図』と題されている。
「ありがとうございます」
「いえいえ。どうぞゆっくりなさってください。ああ、お夕飯はいかがしますか? ご用意もできますが」
「ああ……、そうですね、お願いします」
「かしこまりました。では後ほど。……ああ、そうだ。今日はちょうど良くこの村の夏祭りです。湯元の近くに神社がありますので、お帰りにでもぜひ寄られては」
「へえ、良いですね。ありがとうございます」
「きっと、お里が懐かしくなると思いますよ。旅の思い出になさってください」
 そう言って、老女は階下へ降りて行った。何気なく言ったのだと思うが、現在、郷里を離れ、さらに放浪をしている身には沁みる言葉だった。地元の夏祭りなど、ここ数年、行っていない。
 四角い窓から夕陽が差し始める。どうやら雲は晴れたようで、目の前に広がる田畑の風景が、大変にのどかだった。郷里は比較的都会のため、この風景とは似ても似つかないが、それでも懐かしさを感じる。日本人に刷り込まれたノスタルジーというやつかもしれない。寝転んで感じる畳の香りが、なおそれをくすぐる。
 やはり疲れていたのか、そのまま転寝をしてしまった。
 夕飯に呼ばれ目を覚ますと、日はもはや山に隠れ、濃紫に近い闇が空を覆っていた。
 名物だという牡丹鍋を堪能し、もらった地図を頼りに温泉へと向かう途中、家々の軒先に提灯が垂れ下がっているのを見た。太鼓や笛の音、そして人のざわめきも微かに聞こえてくる。調子が良いもので、胸がわくわくとしてくる。
 開けた曲がり角を、左遠くの、灯の方に向かいたい気持ちは一端抑え、名湯と言われる温泉を目指した。夜はまだ長く、祭りは逃げない。
 次第に近づく硫黄の香りを胸にため込み、着いた先には、質素な木造の平屋があった。趣があると言えばそうだし、襤褸と言えばそうとも言える。期待値によって使う言葉も見え方も変わるのが人間というものだろう。
 いずれにせよ、大変良い湯だった。
 戸の外は、もう真っ暗だ。
 外灯と提灯を頼りに、来た道を戻る。乾かしが足りなかったのか、濡れ髪に吹く風がちょうど良く涼しい。
 曲がり角を、今度は真っすぐに、神社へと向かった。足に少しだけ傾斜を感じる。社自体は山肌に立っているのだろう。平地に溜まった灯りが、ぽつぽつと、恐らく階段にそって、上に伸びていた。様々な音も、どんどん近づいてくる。どこにいたのかというくらい、人の流れも増えた。いや、ハレの日なのだ。むしろ今日だからこそ、多いに違いない。
 鳥居を抜けた先、境内には多くの出店があった。お面に金魚、ヨーヨー、輪投げ、射的、型抜き、焼きそば、りんご飴、わたあめ、ラムネ、かき氷。突飛なものはないが、これで良い、これが良いという顔ぶれだ。どの店にも人が立ち止まり、気心の知れたやり取りと笑顔がある。あまりの楽しさに、泣きながら笑っている人もいた。
 人波をかきわけ、飲み物を買ったり、店を冷やかしたりしながら、奥へと進んだ。歩みはゆっくりだが、祭りは急いて見るものでもないだろう。また、参道が意外に長いこともあった。社へ向かう石階段の手前にたどり着いた頃には、数十分が経っていた。
 赤い立派な鳥居をくぐり、階段を上っていく。人の数は少なかった。
 中頃にある踊り場に達したとき、後ろで、大きな破裂音とともに、歓声があがった。
 花火だ。
 小さな村の祭りとは思えないほど、大輪の花が幾度も夜空に咲く。地上付近でも、仕掛花火が長い滝を作っている。祭りの灯りと相俟って、在りし日の情緒が思い起こされた。
 階段に腰掛け、そのまま花火を見ていた。眼下の人々も、屋台のテキ屋も、手を止め足を止め、同じ光景を眺めている。
 何故だか泣きそうな自分に大変驚いた。が、何のことはない、花火の煙が風でこちらに流され、目に沁みたのだ。気付けば、あたり一面が真っ白になっている。良くあることなのか、気にしていないのか、誰も騒いだりはしていない。
 煙は、しばらくして、どこかへ行ってしまった。
 おや、と思った。
 さて、と立ち上がった視界の先は、先ほどまでの人波がだいぶ穏やかになっていた。屋台に立ち寄る人はまばらで、屋台自体がぽっかりなくなっている場所もある。まるで風景を切り取る手品のようで、誰か仕掛け人がいないかあたりを見回してしまった。
 宿の老女が、そこにいた。
「祭りは堪能しましたか?」老女は、にこにこと語りかけてきた。「そろそろ、お時間ですよ」
「時間、ですか?」
「はい。年に一度の祭りが終わりました。もう、旅立つ時間です」
「旅?」
 どういうことかと首をひねる。旅を再開するのは明日で、今日はもう、宿に戻り寝ようと考えていた。
「お客さん、いくら温泉が良くても、ここに留まることはできません」
「いや、一晩くらいは良いでしょう? 宿に荷物も置いてありますし、車も──」
「荷物? 持っていけませんよ。あれはただの名残です。車もですよ。お客さん、もしかして気付いてないのですか?」
 老女は笑みを浮かべたまま小首をかしげた。その瞬間、得体の知れない震えが、ぶるりと、背中を通り抜けていった。
「……気付く、とは?」
「それは、もちろん──ああ、どうぞ良い旅を」
 ちょうど、階段を上って来る一団があり、彼らへの一礼で答えは途切れた。一団も会釈を返し、さらに上へと進んでいく。提灯のわずかな光に照らされたその一団は、社前の鳥居を抜けたとき、姿が消えたように見えた。
「今日が何の日か、ご存知ですか?」と、老女は問う。
「村の夏祭り、と聞きました。あなたに」
「ええ、そうです。ただ、何の夏祭りかと言えば、彼岸と此岸が重なることを祝う祭りです」
「彼岸、と……?」
「此岸。つまり、あの世とこの世です。今日は一年で唯一、死んだ者が現世に帰り、親類縁者と言葉を交わせる日なのですよ」
「何を、そんなことが、まさか」
「花火の後、煙が、人を連れ去っていったでしょう? あなたも見たでしょう」
「それは……」
「あれが、繋がりが終わる合図なのです」
「では、消えた人は、幽霊だったというのですか?」
「違いますよ。こちらが、彼岸です」
 老女の笑みは絶えず、震えも止まらなかった。
 が、言われて、急に、映像が思い起こされた。
 旅を続ける自分。霧の濃くなる山道。濡れた斜面。スリップする車。ガードレールの衝撃。突き抜ける車体。重力の気持ち悪さ。嫌な音と、暗転。
 記録映画のようなそれは、暗闇を抜けた先、村の入口へと続いた。
「ああ」
 溜息と、身体中の力が、留まれずに抜けていった。
 そうだ、あの峠を抜けるとき、ハンドルを切り損なって、そのまま──
「ご理解されましたか?」
 老女の声は優しかった。
 また、一団が階段を上ってきた。楽しそうな、悲しそうな顔をして、老女に礼をし、さらに上へと進んでいく。「ありがとう」「また来年お願いします」という声が聞こえ、鳥居を抜けて、消えて行った。
「……僕も、行かなければいけないんですね?」
「はい。いくら現世が恋しく懐かしかろうが、それが定めです故」
「郷里にも、このような場所はあるでしょうか」
「お里がどちらかは存じませんが、おそらく。何処かしらにはあるものです。むしろ、そのようなお話は聞いたことは?」
「……ずっと、地元の夏祭りにも行っていないので」
 母と、父の顔が思い起こされた。
 振り仰いだ夜空に、花火の煙が香って、目に沁みていく。
「準備はよろしいですか?」
 老女は、柔和に、微笑んだ。
「はい」
 丁寧な礼に見送られ、社への階段を上る。一段、二段と、来し方に後ろ髪を引かれながら、それでも止まらず、鳥居まで。
 最後に振り返った風景に、両親の声が聞こえた気がした。
「さようなら」
 その呟きが届くことを願い、一歩を、踏み出した。


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 ある病院の一室。
 意識不明のまま事切れた若者に、すがりつく女と、立ち尽くす男。
 慟哭とともに繰り返される若者の名。
 若者の顔は、安らかだった。

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人はいつまで自分の記憶を保持できるのか。知りたいような、知りたくないような。 ノスタルジックホラー。

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-10-11

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