ごまかしと約束
この作品のお題は【ごま団子】です。
思い出は美味しさのスパイスであり、劇薬でもあるのかなと思います。
「はい、たくさん食べてね」
そう言われて食べた泥団子で、お腹を壊して病院に担ぎ込まれたのは、幼稚園の頃だった。私にそれを差し出した女の子は、大騒ぎの幼稚園で、実際何が起こっていたのかもわからず、その慌ただしさに泣きじゃくっていた。私は病院に連れ出される寸前、倒れそうなくらい痛いお腹を抱えながら、彼女が不安にならないよう、おどけて「ちょっと行ってくるね」と告げた。例え幼稚園生でも、それくらいのことはできるのだ。ただ、そのあとの記憶はあまりない。
一週間ほど休んで幼稚園に行くと、彼女は変わらぬ笑顔で私を迎えてくれて、また、園庭でのおままごとに誘ってくれた。次に出たハンバーグは、さすがに食べなかった。
私たちはそのまま成長し、親の転勤の関係で中学は別々だったが、今、高校は同じところに通っている。再び会った彼女は、大人びて綺麗になっていた。私のことは覚えていてくれたが、あの日のことはもう覚えていないだろう。不安を思い出すような記憶を、子どもは多分、忘れるようにできている。私にとっても苦い記憶だが、帰るまで持ちこたえられなかった不甲斐なさで、忘れることはできない。
また家が近くなったから、私たちは一緒に帰ることもあった。クラスや部活での出来事、会えなかった中学時代の話、それより前の思い出。知ってる話をすり合わせ、知らない話を縒りあい、お互いが過ごした日々を補完する帰り道。クラスも部活も違うから、あまり多くはなかったが、それは何より貴重な日常となった。
何かのときに、お互いの好きな食べ物の話になった。私はハンバーグ。彼女はごま団子。
「ごま団子? なんか、渋いね」
「そう? 普通のも、中華のも好きよ。ごまの風味が利いてて、丸くて可愛らしくて美味しいよね」
「そっか」
「依子のは、らしいというか、子どもっぽいというか」
「子どもだよ、私たちは」
「あはは。うん、でも、そうだね。陸上部だし、お肉もたくさん食べなくちゃね」
「そうそう。身体も作らないと」
「よーし、じゃあ今度作ってあげよう」
「料理部で? 好きな物作って良いの?」
「良いの良いの。次は自由調理だから。それだって修行よ」
「じゃあ、楽しみにしてる」
約束をして、私たちは別れた。
私の好きな物はハンバーグで、嫌いな物は団子だ。嫌いというか、冷や汗が出てしまって食べられない。特に、ごまは、あのときの泥の様子を思い出してしまう。トラウマというやつだ。
彼女はごま団子が好きだという。少しどきりとした。やはりあのときのことは覚えていないのだろう。でも、それで良い。
数日後、私は彼女に呼び出され、放課後の家庭科室へと急いだ。横開きのドアを開けると、食欲をそそる様々な良い香りがする。他の部員たちも、思い思いの料理を作って、友達を呼んで、食べさせているようだった。「こっちこっち」と呼ぶ彼女の調理スペースに近づくと、そこには、見事に美味しそうなハンバーグと、ごま団子が二つあった。
「じゃーん」
「おー、すごい。美味しそう」
「〈そう〉じゃないよ。美味しいの」
内心の焦りを表に出さないよう、私は笑って、賞賛の拍手をした。得意満面な顔で、彼女は腰に手を当てている。二つ並んだ思い出の料理は、もう、おままごとではない。
「じゃあ、遠慮なく」
促されて、兎にも角にも、ハンバーグを口に運んだ。見るからに濃厚なデミグラスソースが、断面の肉汁とあいまって溶け、厚みのあるハンバーグを包み込んでいる。噛むと、弾力のある肉と、芳しい香りが、熱々に広がって鼻と喉を潤していった。
「ほひひい」
お世辞でもなんでもなく、声がもれた。あのとき食べなかったハンバーグが、今、最高の形で私の血肉となっていくのだ。「でしょう」と言う彼女の笑顔が、それに拍車をかけている。私は、思いがけずぺろりと平らげてしまった。
「ごちそうさま」
「はや」
「本当に、マジで、ものすごく、美味しかった」
「ふふん。あのときから頑張って練習したもの。美味しくなかったら困るのよ。さ、次はこっち。デザート」
彼女は、ごま団子の皿を手に取り、「はい」と私に差し出した。
身体は正直だ。ハンバーグの余韻が残っていても、途端、笑顔が張り付いていくのがわかる。手を延ばそうとしたが、上手く持ち上がらない。鼓動も速くなっている。しかし、早くしないと彼女にばれてしまう。
意志が乱高下する中、どうにか、団子を手に取ろうとした。震えていた。
ふい、と皿が引っ込められた。
手が空を掴もうとする。その先の彼女は、直前の私のように、笑っていた。
忘れていた呼吸が、私の肺を大きく膨らませて、逃げて行った。
一度、二度。
お互いがしばらく、沈黙を見ていた。もはや誤魔化すこともできない。
「……ハンバーグ」そう呟いて、彼女は皿をテーブルに置き、その先を続けた。「食べてくれなかったじゃない? 幼稚園の頃。覚えてる?」
「え……、っと、うん」
「私、泣いたのよ。『なんで食べてくれないの? この前はお団子食べてくれたのに』って。それは?」
「……覚えて、ない」
全く覚えていなかった。確かにハンバーグは食べなかった。私の中では、その記憶は、そこで閉じられていた。
「私ね、そのときはまだ、依子が私の泥団子を食べて病院に運ばれたって、ちゃんとわかってなかったの。ただ、一週間依子がいなくて、寂しくて、戻ってきたら今度は美味しいハンバーグをあげるんだって思ってた。だから、食べてくれなくて、泣いたんだ」
彼女の目が少し潤んでいるように見えた。
人間は、多分、子ども時代の嫌なことを忘れるようにできている。でも、私だってそうだ。悔しいことは忘れられない。
「小学校のとき、春頃とか、給食でお団子が出ると、依子、いつも残してたでしょ?」
「……そうだっけ?」
「うん。食べられなくて、昼休み中、にらめっこしてた。高学年になったら、先生に隠れて、同じ班の子にあげてたよね。そのくせ、ハンバーグは男子よりも先におかわりしてた」
それもあまり覚えていない。
「私、家でお母さんに愚痴ったの。『依子ちゃん、学校のハンバーグは美味しそうに食べるの。でもお団子は食べないんだー。昔とあべこべ』って。そしたら、お母さん、呆れて怒った顔で言ったわ。『あなた、覚えてないの?』」
親は、それは、覚えているだろう。家が近くて、ずっと同じ所に通っていたのだ。うちではすでに笑い話と化しているが、彼女の家では、そうではなかったに違いない。私の現状も聞いていただろうし、いくら母が笑っても、彼女のお母さんが笑える話ではないのだ。
「だから、依子が今でもハンバーグが好きなのは嬉しかったけど、じゃあ、お団子はどうなんだろうって。今はもう、食べれるのかな。克服したのかなって思った。でも、話しただけじゃわからなかったから、こうやって──」
彼女は料理に目をやり、もう一度息を吐いて、「ごめんね」と呟いた。
家庭科室は、わいわいと賑やかだった。至る所で、「おいしい」や「失敗したー」や「次はこれに挑戦しよう」という声があがっている。私たちの周りだけが、幕を張ったように静かだった。ただ、そんな光景を、私は知っている気がした。
──なんで食べてくれないの?
──今日は、まだ、おなかがいたいの。
──うそ。だってさっき、おやつ食べてたじゃない。
──それは……。
──この前はおだんご食べてくれたのに……、がんばって作ったのに……。
──……ごめん。
──作ったのに……。
──こんど。こんど作ってくれたら、食べるから。
──……いいもん。もう、おままごと、しない。
──……ごめん、ななちゃん。
──……っく……いいもん……、作らないもん……。
私は意を決した。今が、こんどだ。
「あ……」
彼女が止める前に、私は片手でごま団子を掴み、口の中に放り込んだ。
冷汗が止まらない。噛みしめる口がざりざりとして、細かい粒と、どろりとした餡があのときを思い出させて、気持ち悪い。
それでも、吐き出すわけにはいかない。
彼女は、両手を口にあてて、固唾を飲んで私を見ている。一瞬、咀嚼が止まりそうになったが、その顔が押しとどめてくれた。
私は笑った。あのときと一緒だ。彼女を不安にさせたくなかった。
ふと、口の中の気持ち悪さが薄らいだように思えた。癖のある臭いが香ばしさに変わり、少しずつ、少しずつ、団子の触感が活きてくる。ざりざりとどろりが、ほのかで柔らかい甘さになって、じんわりと広がっていく。
「あ……」
「だ、大丈夫? 吐いてもいいのよ?」
私はまた、思い出していた。自分に差し出された団子を。
『はい、たくさん食べてね』
それは、ちゃんと美味しそうな、ごま団子だった。
「おいしい……」
「え?」
「ななちゃん、これ、美味しいよ」
「ほんと? 大丈夫? 無理してない?」
「全然。無理してない。美味しい。すっごい美味しい」
すぐに、もう一個を手にして、半分ほど齧った。
「……なんだ、ごま団子って、美味しいんだ」
今度は最初から、馥郁とした香りが鼻を抜けていった。残った半分も、程良い甘さとともに、気付けば喉を通り過ぎていた。名残すら飲み込んでしまった。
「知らなかったの? もったいないなあ」
彼女は、泣き笑いのような顔で私の手を握って、そう言った。
「だって、すっごい不味かったんだもん」
私は彼女の手を握り返し、今度こそ本当に、おどけてみせた。
変わらず賑やかな家庭科室の中で、私たちの時間だけが、あの日の園庭の続きにあった。
ごまかしと約束