アトム
この作品のお題は【明日】です。
舞台設定は札幌。札幌駅という巨木を想像すると、その年月に気が遠くなりそう。
正面には真っすぐな道が続いている。道の中央には二メートルほどの緩衝帯があり、街灯とともに木が植わって、わずかながらも目に優しい。両脇の歩道は広くとられ、人通りの多さを予感させる。その道に沿って中心部を構成する碁盤の区画は、一杯のビルで埋まっていた。街角に佇む抽象的なモニュメントが、ちょっとした微笑みを運んでくれる。振り返ると、この街の巨大な玄関口である駅が威容を放っている。それ自体が大きな商業施設でもある駅は、陽光を受けて輝いているようだ。
駅の南広場に立っている僕は、もう一度正面を向いた。この道は約二キロの直線で、途中、古い商店街や大きな歓楽街にあたり、それを抜けるとコンサートホールのある公園にぶつかって終わる。
「リターン」
途端、目の前には活気が広がる。駅の出口からは矢継ぎ早に人が現れ、急いだり、騒いだり、笑ったり、立ち止まったりしながら、誰ともぶつかることなく、僕の横をすり抜けていく。道を行く車のエンジン音は引っ切り無しで、途切れることはない。何台もが連なって、隙あらば猛スピードで走り去っていく。そのくせ、青赤を照らす信号には従順に従うのだ。人というものはルールに縛られている。
「デリート」
また、静かになる。人はいない。寂しく取り残された街の風景だけが広がっている。否、寂しいと感じるのはこちらの主観で、ビルや街灯、駅やその他諸々のものは、せいせいしているのかもしれない。ああやっと平穏に暮らせる。慌ただしい世界が涼やかだ、と。
まあ、それも主観だ。
ルールに縛られた人は、そのルールと、モラルすら破って、人同士で諍い、争い、滅亡の危機に瀕している。残ったのは、形骸化した国という制度と、扱う者がいなくなったテクノロジー、そして平穏だ。かつて日本と呼ばれたこの地域には、一体今どれくらいの人が住んでいるのだろうか。少なくとも僕は会ったことがない。もしかしたら、もういないのかもしれない。
僕が生まれたのは、人が斜陽を迎えた頃だった。人の記憶を残すため、作られたらしい。もう同族には頼れないと思ったのだろうし、実際、そう言っていた。ただ、父さんたちはすぐにいなくなってしまった。わずかばかりの授業すらなかった。病気なのか、老衰なのか、殺されたのか、わからない。敢えて言うなら、天命だったのだろう。僕が彼らに残されたのは、立派だという名前くらいだ。
僕は旅に出た。人の記憶の補完という使命があるにはあったが、本当の理由は暇だったからだ。遊び相手すらいない。父さんたちはなぜ僕だけを作ったのだろう。自分たちは一人では生きられないくせに、僕が一人で寂しいという想像さえできない。きっとそのあたりが、人が駄目になった原因なのだろう。
ともかく、僕は旅に出て、方々歩き回り、今はここにいる。
かつての街の中心部、その庁舎の地下に、この施設があった。大規模なプロジェクタ。一所にいながら、演算と記録によりあらゆる風景を投影できる。さすがのセキュリティの高さと、深層部からの熱エネルギーにより、まだ現役だ。蓄えた情報があるから、かつての人の世を覗くこともできる。名目上は記憶の補完だが、僕の知らない人の時代を見せてもらうのが、案外と楽しかった。
「リターン」
過去、この地を歩いた人々は、自分たちがいなくなる未来を思ったことがあるのだろうか。自分の子孫たちが、常にこの星を闊歩すると、本当にずっと信じていたのだろうか。だとしたら、何と滑稽なことだろう。人に作られた僕でさえ、いつかは壊れ、記憶が飛び、活動停止すると知っているのに。
「オフ」
世界を映し出す光が陰った。
地上に出て、先ほど投影で見ていた場所へ向かった。距離にしてはわずかだが、建物や地面の崩落がひどくて、多少難儀する。最悪の争いがあって、すでに三百年が経とうとしているのだ。使う者がいなくなれば、全ての物は自然に還っていく。例え塵芥にならずとも、それ自体が、自然となるのだ。多分僕も、そういうモノになるだろう。
かつての駅前広場に出た。正面には、荒廃を緑に覆われた都市が広がっている。土地の隆起と木々により複雑に水が流れ、地下への大穴に滝となって落ちている。人や車に代わって鳥と獣の息遣いが響き、むせ返るような草いきれが充満している。振り返った駅は、すでに巨大な木となっていた。
人はいなくても、明日は来るのだ。
さて、これからどこへ行こうか。南に向かっても良いし、北の大崩れを周って大陸に入っても良い。遅いか早いかの違いでしかない。
僕はしばし考え、天頂から傾き始めた太陽が伸ばした影の方へ、歩みを進めた。
アトム