ただいま

この作品のお題は【靴】です。
人生を語るには経験が足りず、ただ黙して眺めるには人ができていない。

 彼は働き者な男だった。親を早くに亡くし、海辺の故郷を離れ苦労して大学を卒業してから、決して大きくはないが実績のある地方の商社に入り、コツコツと仕事に努め、時に褒められ、たまに怒られしつつ、着実に業績を伸ばしていった。同期の中で格段に出来た、というわけでもないが、その実直さと人当たりの良さが上司に認められ、入社四年目には、創業七十周年記念案件のサブリーダーという立場に抜擢されたほどだ。
 プライベートも順調だった。決して顔が良いというわけではないが、誠実で優しい彼は、会社の先輩である女性に猛アタックされ、入社六年目に結婚をした。その先輩は、七十周年記念のリーダーだった女性だ。きびきび、はきはきと要領良く動くことができる彼女は、彼の憧れでもあった。彼は少し自己評価が低い人間だったので、そんな彼女が自分のような者を愛してくれるということが何よりも嬉しく、大切に思い、妻となってからも常に感謝を忘れたことはなかった。
 七年目には子どもができ、妻は産休と育休を取ることになった。彼は、自分も育休を取ると伝えたが、彼女は「格好良く働いている姿を子どもに見せてあげて。それに、あなたは会社に必要な人だから」と笑った。彼は期待に応えるべく、より一層実直に、誠実に、仕事をこなしていった。そしてそうは言っても、彼は子育てに積極的に関わり、愛娘の成長の喜びを妻とともに得ていた。
 妻は仕事に復帰する気持ちでいたが、彼の活躍に自分の達成感も満たされ、また子どもと共にありたいとも思い、持ち前の決断の早さで会社を退職した。時期がずれた寿退社となり、残念がる声もあった。彼自身も、仕事という面で彼女と共に働けないのはほんの少しだけ残念に感じていたが、彼女が一日だけ出社した最後の日は、同僚たちと共に盛大にお祝いをした。
 その後、帰宅すると必ずある、温かい「おかえり」の言葉に、彼女と娘への想いをより一層募らせ、より仕事に励むようになった。
 彼が四十歳の若さで部長に昇進したとき、娘は小学五年生になっていた。そろそろ反抗期という時期ではあったが、娘はそんな素振りも見せず、彼のことが大好きで、二人で休日に遊びに行くこともあった。ただ、唯一あるとすれば、「お父さん、古いものは捨てれば?」という文句だった。それは妻と出かけたときにも良く言われていたことで、それがうつった形だ。ちなみに彼女自身はすでに諦めていて、苦笑交じりの口癖になっていた。物持ちが良いのは悪いことではないが、見栄えが良くない場合も確かにある。彼は娘に言われ始めてようやく、古いものを捨てるようになった。ただ、その大元であるものに関しては、何を言われても捨てることはなかった。
 四十六歳になったとき、悲劇が起こった。彼の誕生日を祝うため、妻と高校生の娘が買い物に出かけた際、自動車事故にあい、帰らぬ人となってしまった。酒気帯び運転者による信号無視が原因だった。彼は立てなくなるほどの喪失感を再び覚えながらも、言い逃れを繰り返す加害者の責任を強く追及し、弁護士と共に裁判へ通い、根気良く活動を続けた。会社も、彼をサポートしてくれた。それくらいの貢献はしてきたし、それが彼と彼の家族の人徳だった。
 加害者に懲役十年の有罪判決がつき、妻と娘の無念に一応の区切りをつけたのは、事故から二年が過ぎた頃だった。
 全てが終わった後、彼は人が変わってしまっていた。これまで通り実直ではあったが、優しさがそぎ落とされてしまっていた。優しさだけでなく、怒りも、悲しみも、思いやりも、何もかもが、消えていた。まるで働く機械のように、人間味が薄れていた。
 最初の内は、彼の変節は一過性のものとみなが考えていた。仕方ないことだ。いつか悲しみを乗り越え、元の彼に戻ってくれるだろうと。しかし一年が過ぎ、部下たちはもちろん取引先からも不満と不安の声が大きくなっていった。彼と話していると、温かみというものが感じられない。労いも労りもない。本当に仕事を任せるに足るのかわからない。等々。
 いよいよ彼は呼び出された。そして、彼は会社を退職することになった。会社は、これまでの功績もあり、まだ彼のことを信じていたので、注意勧告に留めるつもりだったが、自ら退職を願い出たのだ。もちろん遺留されたが、彼は淡々と、頑なに、辞めるという言葉を繰り返した。
 彼が最後に会社の玄関をくぐるとき、そこに人波はなかった。
 会社を辞め、一人になり、彼は家の整理を始めた。使わないものはどんどん捨て、妻と娘の遺品も、いくつかは妻の実家に送ったが、ほとんど捨てた。物持ちが良い彼が大切にしていたものすらも捨てた。家の中は、今の彼のように、空っぽになった。最終的に彼は、家と土地の権利すらも捨てた。
 何もかもがなくなった彼に残っていたのは、虚しさと、着古しのスーツ、そして、学生時代から履き続けてきた大事な革靴だった。それは元々、彼の母が父に送ったものだ。いつも仕事で忙しくしていた父を象徴するもので、母との絆を得られるものでもあった。輪禍で亡くなった両親を感じるよすがだった。結婚してからは、父のようにと、妻と娘への誓いを示すものになった。それを彼は、何度も何度も修理しながら使っていたのだ。彼にとってこれが──私が、いわば家族のシンボルだった。
 私は彼をずっと見てきた。大切に使ってもらい、陰日向となって付き添い、彼の人生を支えてきた。就職活動も、初めての出勤も、取引先への営業も、結婚の報告も、妻との旅行も、娘とのお出かけも、裁判への出廷も、楽しい日々も、虚しい日々も、全て知っている。励ましたくても声も出せない身だが、彼にはとても感謝をしている。だから、彼の意思を、私は尊重したいと思う。
 彼は私を履き、戻れない家を振り返らず、旅に出た。妻と娘と、私とで赴いた場所を全て歩き、久しぶりに幾ばくかの微笑みをたたえもした。思い出は優しい。しかし、だからこそ鈍い痛みを伴う。そんな苦みも含まれていた。
 一か月ほどで、彼は最後の目的地へとたどり着いた。
 そこは、彼の故郷だった。
 遥か遠方を望む海辺の崖に立ち、彼はいっそ清々しい気持ちになっていた。そして、私を脱ぎ、家でそうしていたように、きれいに揃え、並べた。無意識の習慣か、私は陸地の方へ向けられた。
 しばらくして、後ろから彼の気配が消えた。
 私は、彼の意思を尊重する。これまで頑張って生きてきた彼への、それが、餞になるのだと思うから。
 ただ、そんなことはないと知りつつも、もし彼がここに、どんな形でも戻ってくることがあるのなら──伝わらなくても良い。私はこう言ってあげたいと思う。

「おかえり」

ただいま

ただいま

人生を語るには経験が足りず、ただ黙して眺めるには人ができていない。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-10-09

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