それで
「足首の腱を切ろうかな」
「それで?」
「次に手首。いや、そっちは現状維持」
「それで?」
「きれいな服を着せて、いつでも笑顔でいるようにお願いする」
「それで?」
「僕を愛してもらう」
「それで?」
「……欲しがりだなあ君は。考えればいくらでも出てくるけどさ、ちょっと待ってくれよ。そうだなあ、あとは──」
私は、目の前で繰り広げられる会話を、目覚めてすぐの朦朧とした意識の中で聞いていた。自分が誰で、ここがどこかも、すぐには思い出せない。ずきずきと痛む頭が、記憶という記憶をぐちゃぐちゃに攪拌していた。
「誰にも見られてないから、安心してよ」
「それで?」
「うん、だからさ、邪魔されない。誰にも。君との暮らしは」
「それで?」
「……だから、わかってよ。愛してるんだ」
会話は止まらない。興奮した男の声と、聞いたことがあるような女の声。まるでバカの一つ覚えのように、猫撫で声で「それで」と繰り返してる。
少し、目が焦点を結ぶようになった。声の主の男が見えた。中肉中背で、眼鏡をかけているようだ。女の姿は見えなかった。男は、意識を取り戻した私に気が付いた。
「カレンちゃん! やっと起きてくれたんだね」
「……あ……っ……」
言葉が喉に絡みつき、私は激しく咳き込んだ。しかし、それも上手くできない。口に違和感がある。涙が出てくる。苦しくて違和感を取り除きたかったが、手を動かすことができなかった。
「だ、大丈夫? 急にしゃべらない方が良いよ。あと大きな声も出さない方が良い。いや、出せない、かな」
「うう……う……」
「ねえ、どうしよう? 彼女の枷、外してみようか」
「それで?」
「とりあえず、理解してもらおう」
男はどうやら部屋の奥にいる女と、私の処遇を決めたようだった。私はのろのろと目を動かしたが、衝立に隠れていて、姿を見ることはできなかった。
男は近づいてきて、震える手で、私の猿ぐつわを外した。浅い息遣いが耳元を掠めて、嫌な匂いが鼻をついた。
十分に男が離れてから、息を整えて、ゆっくりと、問いかけた。
「ここは……? あなたは誰、なの?」
「ここは僕の家だよ。僕は、君のファンだ。いや、ファンなんてもんじゃない。ほとんど君のフィアンセだ。だってずっと君を見てきたからね。高校二年の、デビューの時に君を見つけて、僕は確信したんだ。君を僕のモノにする、君は僕のモノになるって。ねえ覚えてないかい? 一番最初のインストアライブ。僕、最前で、全力で応援したんだよ。それなのに、あれはスタッフ? いきなり出てきて、暴力的に連れ出してさ。一体どんな権利があって僕とカレンちゃんの貴重な逢瀬を邪魔するんだって。そのあとのライブハウスでのワンマンもさ、こっちはわざわざ金出して会いに行ってるのに、『騒いだらつまみ出すよ』なんて、居丈高に──」
男は一人、壊れた目覚まし時計のように、興奮の度合いを強めながらがなり続けている。
記憶が戻ってきた。そうだ、私はこの男を何度か見たことがある。マネージャーからは要注意人物と言われていて、早々に出禁になり、久しく顔を見ていなかった男だ。そして、そうだ。家に帰る途中、急に現れたこの男に何かされ、私は意識を保つことができなくなったのだ。目覚めて見れば、イスに座らされ、手を後ろに縛られ、足も固定されている。拉致監禁という言葉が現実に重たい鎖となり、今また新たに私の身を竦ませた。
男はひとしきりわめいて留飲を下げたのか、袖で額の汗をぬぐいながら、また私に話しかけてきた。
「ねえ、だから、わかった?」
「……え?」
「わかった? って聞いてるんだ」
「な、なにを……?」
「もー、聞いてないんだもんなー。だから、君は僕のフィアンセだって、言ったじゃん」
「そんな……知らないよ、そんなの。ねえ、こんなこと止めて? お願い、帰して」
「え? なんだって?」
「お願い。帰りたいの。帰して! ねえ!」
「変なことを言うなあ。帰りたいって、君は僕のフィアンセなんだ。今日からここが君の家なんだよ。一緒に幸せな家庭を作っていこうよ」
男はニタニタと笑って、大切なものを愛でるように、慎重に、気味悪いほど優しく私の腕をなでた。
耐えることができず、私は悲鳴をあげ、がむしゃらに身体を動かした。男は悦に浸ったような顔でさらににじり寄ってきたが、縛りが緩かったのか、固定されていた足が自由になり、私ははずみでそのまま男の腹を蹴り上げた。
「ぐえ」
変な声をあげ、男は転げ回る。
私は必死に立ち上がろうとした。今が好機だと、本能が「逃げろ」と、叫んでいた。
しかし、足が自由になっただけで、手と身体は全く動かなかった。イスごと固定されているのだ。もがけばもがくだけ、ロープか何かが身体に食い込んでいった。
「も……もう、カレンちゃんはお転婆だなあ。そういうとこも、これから僕がしっかりと、教育してあげないとダメだね」
男は余裕ぶって立ち上がったが、目はぎらぎらと怒りに燃えているようだった。
「ねえ」男は衝立の向こうの女に呼び掛けた。「お仕置きだよね」
「それで?」
「誰がご主人様か、ちゃんと教えなきゃ」
「それで?」
「それで? って? そりゃ、ねえ」
嗜虐的な、下卑た笑い声が響いた。
私は身を震わせ、絶望しながらも、あの女は一体何者なのだ、と考えることを辞めなかった。あの女は一言を繰り返すだけだが、男とはコミュニケーションをとっている。もしかしたら、そこに何か光明があるかもしれない、と。ほとんど願望のような賭けだが、私は声を張り上げた。
「ねえ! あなたは誰なの? この人の家族? 恋人? ねえ、お願い助けて!」
「……」
女は答えない。代わりに、男が笑う。
私はなおも言い募った。
「ねえ、こんなことおかしいって思わないの? ひどいとか、かわいそうって思わないの? 一緒になってこんなことして、もしばれたら、あなたも捕まっちゃうのよ?!」
「……」
女はそれでも答えない。男は心底おかしそうに笑う。
もう一度と息を吸い込んだ時、急に大きな声を出したせいか、涙目になるほどむせた。それで、男はなおも笑った。
「カレンちゃん、ダメだよ。ここには君と僕しかいないんだから」
「何を……言ってるの。そっちにもう一人、いるん、でしょう?」
「いないよ! 二人しかいない。まったく、思ったより鈍感なんだね。この声、わからない? ねえ? わかるよね?」
そう言って、男は女の方を見た。
「それで?」
女の声が聞こえた。媚を売るような声だ。狙って甘えを振りまき、愛されようとする、優しくて気持ち悪い声だ。
「それで?」
「ほら、ちゃんと聞いて? この声を、ちゃんと、聞いてみなよ」
「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」「それで?」
「止めて!」
心臓を凍り付かせながら、私は叫んでいた。理解できない。理解したくない。
「そう、これは君の声だよ。君が、君の自宅で、マネージャーに返していた声だ」
女の声は──私の声はずっと止まらない。
「君がファンに対して愛嬌を振りまくのは良いんだ。それは君の仕事だからね。でも、ファンを裏切りながら、何より僕という者がありながら、恋人を作るというのはさすがにどうかと思うんだよ」
男はもう笑っていなかった。冷たい目で、口角だけをあげて、少しずつ、私に近づいてくる。
「さすがにどうかと思うから、君をここに連れてきた。大丈夫、わかってくれればそれで良いから。あとは僕が上手くやるから」
私には、男の手を逃れる術はなかった。
「ね? だから、ちゃんと反省するまで」
目の前が真っ暗になる。私の声が響いている。
「もうしばらく寝てるんだよ」
目が覚めた時、私はまた、違う場所にいるようだった。
眩しさに目を傷めながら開くと、ぼやけた視界の中に誰かがいて、ほっとしたような声で「先生、目を覚ましました」と移動していくのがわかった。身体はだるいが、背中を柔らかく受け止めてくれる感触に安心を覚える。嫌な匂いも、気味の悪い圧もない。「助かったの……?」という掠れた言葉が口に出て、覚束ない意識が内側に沈み込んでいった。
次に目を覚ました時、ここが病院だということがわかった。ベッドの周りには、医者と看護師、それに事務所のマネージャーがいた。勢い込んで話しかけようとするマネージャーに、「急には話せないので、落ち着いて。あと、お静かな声で」と医者が注意する。無理に微笑んで見せると、マネージャーは安心したようにうんうんと頷き、「何も心配するな。俺にまかせとけ」と涙声で言ってくれた。私は「ありがとう」と口だけ動かして、目をつむり、再び真っ白な安堵の中に落ちていった。
普通に起き上がれるようになって、退院するまでの間に、色々なことを聞いた。
警察が男の家に突入したとき、男は刃物を持ち、意識のない私の足首を今正に切りつけようとしていたらしい。間一髪のところだったが、響き渡る女の声がカモフラージュになったおかげで、気付かれず近付き、取り押さえることができたとのことだった。
男の家には、ありとあらゆる私の情報があったそうだ。自宅はもちろん実家の住所、過去の学歴や成績、本当の生年月日、交友関係、仕事中はもちろん、プライベートの写真、動画。情報だけではなく、自宅からいつの間にかなくなっていた、化粧品や下着などの私物もあった。そして、普通では絶対録り得ない、私の音声データもあった。男は、私の音声データから一部を抽出し、日常的に繰り返し再生させ、私と会話をして楽しんでいたと供述したそうだ。
改めて、震えが止まらなかった。こんな活動をしていればそういうこともあるだろう、とは覚悟していたが、これほどまでの想い──悪意に身をさらされるとは考えていなかった。
『それで?』
自分の声が頭に響く。
それは確かに裏切りだったのかもしれない。けれど、こんな仕事、誰かに甘えられなければ続けることはできない。辛いことも、嫌なことも、数えきれないほどある。
「カレン。仕事、続けられるか?」
退院の間際、マネージャーが気遣うように聞いてきた。彼は、こんな目にあった私にもずっと優しい。何をされたのかも、深くは聞いてこない。本当は気が気じゃないのだろうけど、ぐっと飲み込んでいる。だから、私は彼に甘えられる。
「大丈夫。続けられるよ」
「本当か? 本当に?」
「もう、本当に心配症。……ありがとう。大丈夫。だけど──」
「だけど?」
「ダメになったら、ね?」
「……わかった。俺も男だ」
「……それで?」
「覚悟はできてる」
「それで?」
「いや、今はそれ以上はまずいだろ!」
小声で怒る彼に、私はクスクスと笑い返した。
たった一つの言葉で、人を操れる快感を覚えながら。
それで