文芸人のフロンティア

霧島

イントロダクション

 北海道有数の進学校、豊橋。
 文芸部のなかったこの高校で、五人の生徒が立ち上がった。中でも「先生」と呼ばれた女子生徒は、二年目にして全国大会への進出を果たし、新聞で紹介されるほどの業績を残した。後輩にもその精神は引き継がれ、文芸部の存在は校内から地域へ、徐々に受け入れられていった。
 しかし、高校を去らない生徒はいない。
 今、「先生」は長く創作を共にした初代部長と共に、大学の門前に立った。
 この物語は、大学へ進学した二人の「文芸人」が――

「文章はここで途切れている。先生、また気合の入ったプロローグですね」
「そうだろう」
「でも、今回はわたしが主人公です」
「何故だ」
「先生は内向的すぎて、面白くならないからですよ。作品の面白さだけではダメです」
「では……このプロローグはどうするのだ」
「ギリギリわたしが主人公でも行けそうなので、最後の部分をこうして完成です!」

 この物語は、大学へ進学した二人の「文芸人」が、多くの出会いと別れ、綺麗事ばかりでない経験もしながら、さらに深く文芸のある人生と向き合う青春グラフィティなのだ!

「ほう。続編らしいな」
「続編ですし、確かにこれまでとは地続きですけど、新たな物語として考えてもらっても……というか、考えてもらった方が良いかもしれませんね」
「前作を未読でも楽しめます、とかいう決まり文句だな」
「高校までのことは、もはや過去のお話です。過去にばかり縋っていては、新たな世界で生き残っていけませんよ」
「もっともらしいことを言う。その実、また『日常系』なのではないか?」
「それも過去のお話です。その様子では、やや不安になりますが……始まりますよ。目まぐるしくも貴重な機会に満ちた大学生活が。乗り遅れないでくださいね?」
「……」
「急に黙らないでください!」

一 水芭蕉

 わたしたちは今、花木園に来ています。すぐ脇には有名なポプラ並木もあるのですが、観光が目的というわけではありません。きっと、先生の中では。
「こんな場所があるんですね。先生ってば入学一週間にして穴場発掘して、道理で空きコマに見かけないわけですよ」
 その名の通りちょっとした林になっていて、花の咲きそうな気配もあるのですが、まだ四月の半ば。ようやく最高気温が十度を上回るようになってきたばかりです。地面は一面の茶色で、雪も残っています。
「学生も観光客も、ここまではあまり入ってこない。表の銅像を見たら、並木に流れて終わりだ。いい場所だろう」
「まだシーズン前の、うすら寒い林ですよ? こんなところで世捨て人ごっこなんて、断じて健全な大学生のすることじゃないです。一刻も早く考え直して、サークル見つけましょうよ。食堂二階のフリースペースにたくさんの団体が集まってますよ?」
「……わたしは、急激な環境の変化にまだ、適応できていないのだ」
 そうです。この先生(わたしはこう呼ばせてもらっています)、とても人見知りで、尊大で、世が世なら虎になってもおかしくないような人なのです。しかしながら、高校時代に全国区の大会で表彰されたこともある、誇り高き「文芸人」でもあります。その点でのみ、わたしの自慢の先生です。
「ここには公認団体として、文芸部がありますよ。あとは短歌会ですね。それから、推理小説研究会みたいなところもありましたね」
「いや、知っているぞ。今日も今日とて、あの眩暈を起こすほどの群衆に、勧誘のチラシを押し付けられたのだ……一枚一枚、目を通している」
「完全に呑まれちゃってますね。あんなの、目線を合わせないようにすっと通り過ぎればいいんですよ。で、律義にもチラシは見てるわけですか」
 高校時代にはそれなりに後輩にも慕われていて、溢れる自信と覇気を持っていた先生ですが、それはいわゆる内弁慶というものだったようです。高校まではクラスに自分の席があって、そこが無条件の居場所になったりするわけですが、大学にはそんなものありません。居場所を見つけられなかった人は、こんなところにまで追いやられてしまうのです。
 先生は顔立ちこそ凛々しく、髪型と服装を整えれば立派な大学生にも見えそうなのに、今は半端に伸びた髪と全身灰色ルックで諦めた雰囲気しかありません。お洒落に関しては、わたしもあまり言えたことではないのですが……。
「とりあえず……先生、次のコマも空いてますよね? わたしと一緒に、文芸部の見学行きましょう? さもなくばわたしは、いよいよ先生を見捨てる覚悟をします」
「なっ……」
 厳しいようですが、わたしはもうクラスに友達もいますし、いつも先生の付き人ではいられないのです。自立してもらわなければなりません。割と本気でショックを受けたようですが、それなら頑張ってほしいです。
「……わかった。行こう」
 この花木園とわたしたちの通う教養棟って、歩いて往復するとそこそこ大変なんです。

 道中、ヒアリングを行いました。わたしたちの高校には元々文芸部がなかったので、先生は文芸部を立ち上げようという気にだけはなったのですが、ここでは大学公認の文芸部の存在を知って、どのように対応すれば良いか悩んでしまったそうです。とにかく文芸を続ける意思はあるわけですが、それをどこで、誰と、どのように続けるのかは、先生にとって(無論わたしにとっても)重要な問題です。
「で、すんなり文芸部に入るという選択肢はなかったんですね?」
「ホームページを見てみたのだが、まず人数が多い。八十人ほどいるらしい。それでいて、雰囲気がわからない。どのくらいの人が書いているのか、どのような作品が発表されて、部誌はどのように編集されているのか……」
「そこまで気になるなら、直接、聞きに行けばいいじゃないですか!」
 もう、「直接」をこれでもかと強調してやりました。何をそこまで尻込みする必要があるのでしょう? もう少し問い詰めると、苦し紛れのようにこんなことを言いました。
「ほら、明後日、説明会があると書いてあった。それには、出るつもりだったのだ」
「つもり……ですか。まあ良いでしょう」
 切り札のつもりなら、最初からそう言えば良かったのです。恐らくそれにすら迷いがあったのでしょう。部員が八十人もいると知って、怖気づいてしまったのかもしれません。
 とりあえず、先生のそんな迷いばかりの心境が見えてきたところで、食堂の二階に着きました。購買と本屋もここです。
「というか先生、ここに教科書買いに来ますよね? このフリースペースのことも、知っていたのではありませんか?」
「……視界に入れなかったのだ」
 三限の半ばで、昼休みのピークほどではありませんがなかなか賑やかです。先生の声がよく聞こえません。フリースペースにはたくさんの低い長机が並んでいて、それぞれに三人掛けのソファーが二台、対面で備え付けられています。そのボックス一つ一つが、団体の場所として割り当てられているのでした。どこも熱心に勧誘活動をしています。
 文芸部のボックスは、入って奥の通路に面しています。既に三人くらい人がいました。各々スマホを眺めたりノートを開いたりしているところを見るに、先客はいないようです。
「わたしが話を進めるので、先生は死なない程度に立ち回ってください」
 先生には適当に指示を出して、文芸部のボックスへ向かいます。
「失礼します。文芸部の見学に来ました」
 ちなみに、わたしもボックスを訪問するのは初めてです。ファーストコンタクトは先生と一緒に行きたいと思っていました。わたしなりの操というものです。
「おお、いらっしゃい!」
 男性の方が三人いたのですが、一人が向かい側に席を移って、わたしたちにソファーを空けてくれました。そして席に着くなり、『文芸部へようこそ!』というタイトルのリーフレットが配られます。
「まず、僕はここで部長をやっております、文学部三年の下野です。こっちの二人は、二年生です」
 幸運なことに、部長に会うことができました。わたしは三人と会釈を交わします。
「文学部一年の中津といいます。よろしくお願いします。こっちは浦川です」
 先生は緊張なのか何なのか、頭を下げる動きもぎこちないです。
「中津さんに、浦川さん。じゃあ、軽く説明するから、その紙を見ながら聞いてね」
 下野部長は気さくな人でした。活動内容や、毎週の部会のこと、レギュラー企画のこと、部費のことなど、リーフレットに沿って淡々と説明してくれます。
「というわけで、何か気になることはある?」
 三分くらいで説明は終わり、質疑応答です。先生は少し緊張に慣れてきたようですが、まだ喋るほどの余裕はなさそうでした。そこでまずは、わたし自身の疑問をぶつけます。
「あの、ホームページには部員八十人ってありますよね。この活動人数が四十人っていうのは、どういう数字なんですか?」
 下野部長はやや目を丸くしましたが、すぐに答えてくれました。
「ホームページも見てくれたのか。実は、幽霊部員が結構多くてね。部会とか、合評とかにちゃんと参加してくれる人が、このくらい。部員数は気にしなくても大丈夫だよ」
 幽霊部員が四十人いるというのも想像しにくい話ではありますが、逆に四十人は参加している人がいるわけで、部が衰退しているとかいう話ではないそうです。
「わかりました。下野部長は、作品を書かれるんですか?」
「毎回ではないけど、今回は書いてるね」
 次の質問に対して、下野部長は部誌を見せてくれました。『開拓』というタイトルで、B五サイズ無線綴じ、二百ページくらいの本です。奥付を見ると、印刷から製本まで大学でされているようでした。内容は単純な作品集という感じで、それぞれの作品の扉絵が目を引きます。
「夏部誌はこれから作るんだけど、一年生は大体、冬部誌から参加することになるかな。まずは、一年誌で部誌制作の流れを理解してもらうところからだね」
 これは人数の多い大学ならではのシステムだと思います。一年生を中心に編集部を組織して、作者を集って冊子を作るという企画があるのだそうです。これは面白そうだと思いました。先生も少し表情を和らげて、興味を持っているような雰囲気です。
「ちなみにだけど、二人は文芸の経験はある? 中津さんは詳しそうだけど」
 すると今度は、下野部長から質問されました。隠すこともないので、普通に答えます。
「はい。わたしたち、豊橋高校文芸部から来ました。わたしは編集専門で、この人がいろいろ書きます」
「豊橋高校! 頭いいんだね。あそこ文芸部できたんだ」
「この人が発起人で、わたしが初代部長です」
「へえ、すごいな」
 下野部長も実は、地元の出身だそうです。文芸は大学から始めたとのことでした。そこにいた二年生の二人も地元の出身と聞きましたが、やはりわたしたちの部のことは知らないようでした。文芸部でなかったのなら、仕方がないと思います。
「うちは本当に、未経験者もいるし、中学くらいからずっとやってる人もいるけど、みんなそれぞれ自由にやってる感じだね。どちらかと言えば、仲間同士で楽しむことが優先って感じで。大学のサークルも色々あるから、これまでやってきたことにこだわらないで、雰囲気の良さそうなところとかで選べばいいんじゃないかな」
 その辺りで、下野部長はアドバイスと一緒に、入部届を一枚ずつ渡してくれました。ここまでの印象をまとめると、やはり多くの点で高校文芸部よりもルーズだと感じます。良くも悪くも強制力とか使命感のようなものが薄くて、交流の場としての意味合いが強いのでしょう。サークルを三つや四つ掛け持ちすることも珍しくはないと聞きました。
「それでは、説明会にも参加してみようと思います。ありがとうございました」
 結局、先生はほとんど喋ることができませんでしたが、それなりに情報は手に入ったので、連絡先を交換して切り上げることにします。ちなみに二人いた二年生ですが、一人は話に参加するでもなくずっと膝に手を置いて静観しており、もう一人は、終始スマホを眺めていたのでした。

 翌日の昼休み、教養棟の比較的人気のないリフレッシュスペースで、今後のことについて話すことにしました。わたしも先生も、お昼は購買のサンドイッチです。
「さて。一夜明けて、考えはまとまりましたか?」
「そうだな……実はさっきの時間に、あのボックスへ行ってみたのだ。また違う二年生が二人いた。デザイン班だという話だったが……結局、あの部が、部員たちが、どのような理念で、どのような文芸をしようとしているのか、まだ見えてこない。部誌を読んでも、作品のジャンルも質もバラバラだ。システムは見えても、心が見えない」
「それはまあ四十人もいれば、仕方ないんじゃないですかね? 合評も一作品に二回やるらしいんですけど、それぞれ参加者は四、五人ずつなんですって。高校のときみたいに、全員の作品を全員が読むというシステムは、立ち行かないですよ」
 高校時代は部員が多くても七人で、しかし結束をもって活動していました。先生は内弁慶なので、信頼できる人に囲まれていなければ、本来のパフォーマンスを発揮できないのです。それなのに他人を信頼することについてひどく消極的という、困った人です。
「やはり、サークルを立ち上げるか……」
「大丈夫なんですか? 前だって、一年何の成果もなくて、挙句わたしが全部やることになりましたよね。先生だけでは、まず無理です」
 大学の文芸部がルーズであることについて、わたしは一つの推察をしました。大学生はそこまで暇ではないのです。学業や研究、アルバイト、自炊、飲み会などなど、大学生のやりたいこと、やるべきことの量は高校生までの比ではありません。体育会系ならまだ、チームの方針次第で拘束力を持って活動するかもしれませんが、文芸部にはそんな束縛を好まない人が、気軽に集まっているのでしょう。
「それでも先生は、対面で文芸をしたいんですよね? わたしとの間だけで完結していた頃には、もう戻れないんですよね?」
 青春の過ごし方が、ぐっと多様化したのです。ただ看板を出して待ち構えているだけでは、同じ青春を過ごす仲間が得られるはずもありません。飛び込んで、コミュニケーションをして、関係を築いていくほかないのです。それが先生にとって初めての試練となっているのは明らかでした。これでなんと、結構な寂しがりなのです。
「……そうだな。できればまた、互いに作品を書き、共に部誌を作り、文芸の極みに近づく仲間が欲しいのだ。何の兆しもないままに、燻っている時間がもったいないとも思う。しかし……」
「どうしても雰囲気の違いに戸惑う気持ちのほうが、先に来てしまう?」
「ああ」
 それでも、現状から脱却したいという気持ちも同じくらい強いはずです。調べたところ、高校文芸部のようにオールジャンルの創作を扱うサークルは、やはりあの文芸部しかないようでした。他はジャンルが固まっているか、読むこと専門のどちらかです。あのサークルに入って慣れてしまえば問題はなくなると思いますが、まずそれだけの思い切りが必要でした。
「まあでも、わたしはあの文芸部に入りますよ。これ書いてきました」
 刺激を与えてみようと思って、書いてきた入部届を見せつけます。
「編集っていう制度があるみたいなんですよね。部誌制作期間中、作者さんに一人ずつ、アシスタントの編集が付くんです。楽しそうだと思いませんか?」
「わたしの作品を預ける人は……選びたいものだが」
「部内で大会もやるみたいですよ?」
「それは、まあ……」
「九月には合宿もあるんですって!」
「うむ……」
 わたしのほうがもう、勧誘する人のようになってしまいました。先生の表情が、もごもごと動きます。興味は明らかに示しているのです。
「まあ、後は明日の説明会を聞いてから考えましょうか。先生は焦りすぎですよ。その気になれば、二年生からでもサークルを始める人はいるみたいですし、大丈夫ですって」
 互いに違う授業を取っていたので、わたしたちはそこで別れました。実際、わたしたちの共通の空きコマは三つくらいしかありません。授業でグループワークがあって、空きコマが潰れたりもするので、スケジュール管理はなかなか大変です。

 わたしには姉がいて、この春文学部を卒業しました。その姉から大学生活について聞いていたので、基本的な場面での振る舞い方はなんとなくわかります。例えば今日のような、部活の説明会に参加するときには。
「六時半からか……食べていく時間がないな」
「先生、新入生はお腹を空かせて行くのが礼儀だそうですよ。聞いてませんか? 大抵の説明会では、終わった後に先輩方のおごりで食事会があるんです。参加しましょうよ」
「そうだったのか……まあ、行ってみるか」
 もちろん食事会に参加しないという選択もできますが、説明会の内容自体は、ボックスで聞いた話の繰り返しだそうです。それだけではあまりにもったいないでしょう。
 会場の教室へ行ってみると、早かったので、まだ女性が一人しかいませんでした。首からネームカードを提げています。
「こちら、文芸部の説明会です」
「はい。わたしたち二人、参加します」
「ようこそ。名札に、所属と名前を書いてお待ちください。私は文学部二年の黒沢です」
 黒沢さんはやや緊張を見せながらも、丁寧に応対してくれました。やはり文芸部だからか、文学部の人によく出会います。大学全体では七割以上が理系なので、その点では文系に偏った集団なのかもしれません。
「資料と、部誌をどうぞ」
「あっ、ボックスで頂いたので、大丈夫です。ありがとうございます」
「失礼しました。では、もう少しお待ちください」
 前方窓側の席で待っていると、次々と人が入ってきます。窓から外を見ると、玄関前に祭りのような人だかりができているのが見えました。放課後は毎日こんな感じです。建物に入っても、一階は身動きが取れないほど混みあっています。
「おっ、来てくれたね。お疲れ様」
 やがて下野部長が来て、わたしたちに声を掛けてきました。
「お疲れ様です」
「今日はいろんな上年目が来てるから、話してみるといいよ。資料は持ってるね?」
「はい、持ってきました」
 三十人くらいは入ったでしょうか。一年生がどのくらいいるのかは、よくわかりません。ちなみに「上年目」というのは、ざっくり先輩のことです。このサークルでは入ってからの年数で管理されるので、学年よりも何年目なのかで呼ばれることのほうが多いそうです。
 わたしたちも、何人かの上年目と挨拶を交わしました。来ている上年目は十人くらいで、二年目と三年目の人が半々のようです。先生はというと、たどたどしくも頑張って、部誌に作品が載っているかどうかを確かめていました。
「誰か気になる方でもいましたか?」
「二つ、目を引いた作品があったのだ。作者がいたら、話をしたいと思ったのだが」
「まだいないんですね」
 やがて、部長の説明が始まります。内容には特に新しいことはありませんでした。それにしても、副部長に編集長など、たくさんの人が登場します。ゆくゆくは全員と関わっていくことになると思いますが、顔と名前を憶えるのは大変そうです。部会は週に一回とのことでしたが、活動に参加する機会が少ないと、ほとんど把握することができないのではないかと想像します。
 そんな感じで説明が終わって、食事会へ移動するまで自由時間になりました。そこでも先ほどからいる人を含め、何人かの上年目の人と話しましたが、その中に、先生が目を付けた作品を書いたという人がいました。
「お疲れ。君たちは寮生じゃないね。僕は八戸瑛太です。好きな作家は誰ですか」
 八戸さんは早口でぐいぐい来る人で、先生は最初少し身構えていました。
「わたしは、特に作家の好みがあるわけではありませんが……」
 そう前置きして、わたしが最近読んだ数冊の本を挙げると、八戸さんはだいたい知っているというふうに頷きました。この人も文学部の二年生です。
「君は? 浦川さんか」
「わたしは……こういう本を読んでいる」
「それ、前に芥川賞獲ったやつだね。なるほど」
 先生にも遠慮なしです。その質問はある意味、わたしたちを試しているようなニュアンスでした。八戸さんに好きな作家を聞き返すと、古今東西、様々な作家の名前を十人くらい挙げたのです。本当に、文学そのものが好きな人なのでしょう。そしてそのイメージに違わず、部誌の作品は現代的で強烈な風刺を含んだ、非常にまとまりの良いものでした。
「君たち、ちょっと文学わかりそうだから、文芸部入ってよ。文学の話できる人、あんまりいないんだ」
「わたしは入部しようと思います。よろしくお願いしますね」
「うん、入ってよ。うん」
 どうやらわたしたちは気に入られたようです。しかしその辺りで八戸さんは、他の上年目の人に「ちょっと絡みすぎじゃないの」と注意され、別な一年生のところへ行ってしまいました。代わりに来た人によると、八戸さんは寮生らしくはちゃめちゃな気質を持っていて、新入生にはあんまり近づけたくない……という評判なのだそうです。バンカラの生き残りとも言われていました。わたしは面白いと思いますが、先生は苦手そうです。
 食事会では他の一年生とも話したりして、わたしたちはそれなりに楽しい夜を過ごしました。文芸部の新歓なのに全く文芸要素はありませんでしたが、それでも入ってみたいと感じた人もいたようです。その点は先生も、仕方のないことだと理解しています。やっぱり文芸部の活動の本質は、家での執筆と、集まっての合評なのです。

 週が明けてわたしはまた先生の隠れ場所こと、花木園に来ていました。教養棟の裏から農場に抜けて南下すると近いこともわかりました。この間よりは雪解けも進み、草花も生えてきていますが、まだ少し肌寒いです。
「あそこに、立ち枯れした植物があるだろう。頭に開いた実を付けているやつだ。あれはオオウバユリと言って、先住民族が食料として利用していた植物らしい」
「実がはじけて、種が飛んだあとなんですね」
 先生は農学部に進むことが決まっています。高校時代に賞を獲った作品も、花の命がテーマになっていました。植物にはかなり興味があるようですが、やっぱり、人にはあまり興味がなさそうです。
「それで、今週もここに来てしまったわけですが……」
「植物園が連休からなのでな。北の原始林の辺りも、散策にはちょうどいい」
「結局、文芸部はどうするつもりですか?」
「まあ、入っても良いかもしれないと思った。今週もう一度説明会に行ってみようと思う」
 意外にも、やや前進しています。八戸さんと話したことや、食事会で同期の人と交流したことで、先生の心が少し開かれたのでしょう。
「今週、明日ですよね? わたしは用事があるので行けないんです」
「……それなら、来週はどうだ」
「来週ならいいですけど……そういう問題ではないですよね?」
 前言撤回です。何も変わっていません。わたしに全部頼りっきりです。
「あれはまだ一面に過ぎない。もう少し、慎重に考えたいのだ」
「慎重に考えてどうするんですか? というか、わたしはもう入部届を出してきたので、敢えて説明会に行く必要はないんですよね。来てもいいとは言われましたけど」
 ここまで来たらもう、先生には文芸部に入部する以外の選択がないはずなのです。
「あの場で、わたしは成長できるのか……特に、文芸を究める助けとなるのか。そこがまだ確信できないのだ。それ以外の選択肢がこれと言ってあるわけではないが、文芸をする環境は大切なのだ。ある意味、わたしの作品を預けることになるのだから」
「それはわかりますけど……じゃあ、入らないですか?」
「……」
 選択肢がないというのは、入らないことも含めてなのです。とにかく先生はこのまま、成り行きだけで文芸部に入ることだけは気に入らないようなのでした。そういうわけで、先生が納得しそうな動機を探ります。
「ところで、あの部には大学から文芸を始めた人が割とたくさんいるみたいですね。わたしたちには、もう二年以上の経験があるわけじゃないですか。入部したときには、どちらかと言えば文芸に慣れている側になるわけですよ」
「そうだな」
「あの部では、未経験の人に対して最低限のガイダンスはしているみたいですけど、そこからはもう放任、良く言えば自主性に任せているそうなんですね。そのとき先生は、経験者として、全体のレベルを高めることに貢献する……というのはいかがですか?」
「確かに……次の段階としては、悪くない」
 先生は自分の経験や知識を披露するのが好きです。その相手が得られることは少ないですが、それだけに嬉しいことだろうと思います。
「だが、あの部は見たところ、全員が目指す目標というものがないようだ。向上心がどれだけあるかもわからない。わたしは、うまくやっていけるだろうか」
「まあそうですね……そこは若干、わたしも気にしている点ではありますが」
 八戸さんのように本気で打ち込んでいる人もいましたが、それでも全体としてのモチベーションは、まだ見えないところがありました。というか、合評など作品に関わる部分を何も見ていないので、入部しないとわかりません。入ってみて、やっぱり精神的に向上心のない人たちが多かったりしたら、それはとても困るのです。
「それにしても、まずは仲間としての関係を築くところからだと思いますよ。部長から聞いたように、大学のサークルって楽しいことが第一なんです。それぞれ目指すものが違っていても、その点が一致すれば仲間として集まれるんですね」
「……仲間、か」
「お友達から始めましょう、ですね」
「それは何か違う」
 ちなみに、説明会では先生のことを知っている人には出会いませんでした。そもそも、地元の高校から来た人がわたしたちしかいなかったのです。一つ上の学年にも、地元の文芸部から来た人はまだ確認できていません。理由はいくつか考えられますが、ともかく本当にまっさらな環境です。
「じゃあ、来週また見学に行きますか?」
「いや、わかった。明日、一人で行ってくる。わたしもそろそろ、この憂鬱な春に決着を付けなければいけない」
「おっ、良いですね! 頑張ってください、応援していますよ」
 果たして、先生は大学デビューを果たすことができるのでしょうか。応援はしますが、実のところ、わたしはあまり期待していません。これはいつもの流れです。

 一方で、わたしには最初のサークル友達ができました。工学部の和泉恭子さんです。入部届を出しにボックスへ行ったとき、彼女はそこにいた上年目の人と談笑していたのでした。あまりに打ち解けていたので、わたしは最初同期だと思わなかったのです。
「入部ありがとう、ってなんとなく言ってみる。あたしも同期だけどね」
「そうだったんですか?」
 見た目の雰囲気も、髪をワンポイントだけ赤く染めていたりして、一年生にしては既に結構あか抜けた人だと思いました。
「工学部一年の和泉恭子です。どうぞよろしく」
「中津文子です。文学部一年です。和泉さん、『婦系図』とかって言われません?」
「それ三回目だわ……鏡花さんは男性だし、あたしの和泉は和の字が入るからね。間違えないように」
 名前を文芸的にいじることができる、わたしにとっては羨ましいタイプの人です。ちなみに大分県の中津市は、福沢諭吉の出身地だそうです。わかりにくいですね。
 和泉さんの興味は音楽のほうが強いらしく、そのときも音楽の話で盛り上がっていたようです。その類のサークルにも入ったと話していました。
「それでは、どうして和泉さんは文芸部に?」
「え? 面白そうだったから。そんなもんでしょ。高校のとき文芸部やってて、編集とか本を作るのが好きだったの」
「なんと。わたしも実は編集や校閲に興味があって、文芸部を続けてきたんです」
 共通の興味があるとわかったのは一つのきっかけに過ぎないと思いますが、そこでもうしばらく話すうちに、わたしたちは意気投合していました。木曜には二限に同じ授業を取っているということが判明して、その場の流れから二人で近所のラーメン屋に行くことになりました。和泉さんは九州の出身で一人暮らしですが、あまり自炊はしていないそうです。
「フミ、二回目の説明会来てなかったよね?」
「はい。もう入部したので、特に行く意味もないと思って」
「実家だからか。でもこの時期はさ、いろんな新歓に行った方がいいよ。タダ飯目当てで」
「いるらしいですね、食事目当ての人」
 入学して二週間になりますが、和泉さんは毎日のようにどこかのサークルの新歓に参加し、良質なディナーにタダでありついたとのことでした。
「スキー部は豪華だったよ。海鮮鍋。ありがたかったねえ」
 勧誘に必死な体育会系のサークルほど、遠慮なくおごってくれるとのことです。その分囲い込みが激しいところもあるので、上手な世渡りが重要なのだとか。
「単位もみんな、歓迎のつもりで気前良くおごってくれればいいのにね」
「切実な願いですか」
 表ではそれぞれ時間割も固まってきて、大学生活がいよいよ動き出した頃です。外部の試験が成績の半分を決める英語や、課題が面倒かつ多いと悪名高い情報学など、フレッシュマンを苦しめる授業の話も聞こえるようになりました。
「文系はまだいいでしょ、理系は毎週実験のレポートもあるし、化学わけわからんし、一限の線形代数とか起きる気しないし」
「気を確かに持ってください、出席は大切ですよ」
 文系特有の授業はというと、歴史や文化、芸術、哲学、経済学など、教授の話を聞いて憶えたり、考えたりするようなものばかりです。理系と共通の授業のほうがバラエティに富んでいて、空きコマがある限りは気の向くまま取ることができるので楽しいです。その点は先生も、「作品のネタになるかもしれない」と嬉しそうに話していました。
 わたしと和泉さんの会話では、基本的にこんな感じで和泉さんが先導してくれるのですが、文芸のことに話が向くことはほとんどありませんでした。先生とは高校の頃からいつも文芸の話ばかりしていたので、やや新鮮な感覚を味わっています。

 先生から文芸部に入ったという報告を受けたのは、翌週のことでした。それでもなお、先生はいつもの花木園に入り浸っているのですが。
「これを見てほしい。ミズバショウだ。ここに自生しているのだ」
 奥にある小さな池の周りに、数えるほどではありますが、ミズバショウが咲いていました。葉はまだ小さく、白い花をはっきりと見ることができます。三回目ともなるとやや徒労感がありましたが、悪くない歓迎だと思います。
「これはいいですね。ようやく春が来たということでしょうか」
「この白い部分は花びらではなく、葉に分類されるらしい。緑の葉がこれから大きく育って花の部分を隠してしまうから、今が一番の見頃なのだ」
「……先生、もしかして文芸部よりも、植物サークルのほうが向いているのでは?」
「いやいや。わたしはあくまで、文芸的な観察眼を持ってこの世界を見ている。この花木園の景色が移り変わることも、学術的な興味より、この大学での物語が始まる予感、そしてここで生きていくのだという感慨を喚起させるのだ」
「スタートを切った後だから、調子のいいこと言いますね」
 そんな感じで、先生はとても上機嫌でした。次はクロユリが咲くのを楽しみにしているそうです。しかし、わたしたちにとって本題はやはり文芸のことです。
「それで、二回目の説明会はいかがでしたか?」
「ああ。もう一つ、気になっていた作品の作者に会うことができた。三年生だったが、文学の他に哲学の心得もあり、文学で表現するべきことや、様々な表現の手法について、常に考え、工夫を重ねながら書いているという。わたしはその真摯な姿勢に感銘を受けた」
「なるほど」
 それほどモチベーションの高い人と出会ったことで、先生はいよいよ入部する決心をしたのでした。めでたしめでたしです。
「そういうわけだ。これからもよろしく頼むぞ」
「はい! 新しい環境ですが、これからも頑張りましょうね」
 ミズバショウの花言葉には、「美しい思い出」というものがあるそうです。これから先のことは、必ずしも美しいことばかりではないかもしれません。文芸部にはまだ、わたしたちの知らない部分も多くあります。それでもできるだけ多くの思い出を残すこと、そして、先生が一つでも多くの素晴らしい作品を書いてくれることを、わたしは願いました。
「ところで先生、今週も良かったら、文芸部の新歓に行きませんか? 紹介したい人がいるんですよ。わたしたちの同期です」
「そうか。予定は空いているぞ」
 ポプラ並木も、新しい生命の緑に燃え始めています。わたしたちは、次の空きコマをボックスで過ごそうと歩き出しました。

二 綿毛

 連休の最後の土曜日、わたしたちはキャンパスの南側にある、学生交流会館に集められました。かなり古い建物らしく、この集会室も廊下側の壁が板張りで、外の音があまり遮られません。今日は両隣の集会室をアウトドア系のサークルが利用しているようで、要するにあまり執筆向きではない環境でした。
「今日はしゃぶしゃぶだって! 楽しみだねえ」
「和泉さん、気が早いですよ」
 というのも、今日の名目は新入生向けのガイダンスです。わたしは先生と和泉さんの間の席に着きました。時間になると下野部長が、資料の束を抱えて入ってきました。
「皆さん、こんにちは。まずは資料をお配りしますね」
 待機していた上年目の人たちが、わたしたち一年生に資料を配ります。上年目はなんとなく見覚えのある人ばかりでした。まだ学年や名前を全て把握するまではいきませんが、副部長や編集長など、役職のある人の顔はわかるようになりました。
「それでは、皆さん改めまして、入部ありがとうございます! 僕は文学部三年、部長の下野貴弘といいます。これからどうぞよろしくお願いします。今日は、文芸部のいろいろなシステムや、班のこと、執筆のことについて説明して、それからちょっとした企画で楽しんでいこうと思います」
 一年生は十人くらいいましたが、全員ではないようです。男性は三人だけで、女性がかなり多い印象でした。最初のリーフレットに書いてあった男女比から見ても多いようです。
 最初の部長からの説明は、作品の提出や、部員同士の連絡方法についてでした。作品の提出が少し変わっていて、部員全員で共有するフリーメールのアカウントを使って、そのアカウント自身に作品のファイルを添付したメールを送ることで提出するのだそうです。隣の和泉さんがノートパソコンを持っていたので見せてもらうと、フォルダ分けや検索にも対応していて、なかなか便利なシステムだということがわかりました。上年目の間では、「メールドライブ」と呼ばれています。
「それでは次に、班の紹介です。各班長の皆さん、お願いします」
 部長が説明を終えると、三人の班長が前に並びました。順に編集長、企画班長、デザイン班長だそうです。部員は任意でこれらの班に所属することができ、運営や部誌制作に様々な形で関わることができるということです。
「編集長の樋田です。教育学部の三年生です。重要人物なので、早めに憶えてくださいね。編集班では、部誌制作のスケジュール管理や印刷に関わる裏方仕事など、たくさんのお仕事があります。しかしながら、班員はいつも不足しているので、皆さん是非編集班に入ってください! それから、これは大切なことですが、締め切りは、必ず守ってください!」
 樋田さんはやや大柄な女性で、いつも白い服を着ているイメージがあります。優しそうではありますが、締め切りについてアナウンスするとき、やや声のトーンを落として威厳を出そうとしていました。普段の苦労が伺えます。
「理学部三年の明石です。企画班長と、副部長を兼任しています。みんな入部ありがとう! 企画班では、この後やるような創作企画とか、普段の放課後にやるレギュラー企画とか、みんなで書いたり読んだりして楽しむことを考えています。興味があれば私に声を掛けてください!」
 明石さんは説明会のとき、進行を手伝ったり食事会の会場への誘導をしていたのを憶えています。とにかく元気で献身的な女性だと思います。
「僕は、文学部三年の山根です。デザイン班長をしています。主に部誌の表紙や扉絵を担当しています。忙しい期間は短く会議もほぼないので、絵の描ける方、気軽に入ってください」
 山根さんの自己紹介を聞いたとき、先生が手元の資料を二度見しました。なんと、先生が入部を決めるきっかけとなった二つの作品のうち、もう一方の作者だそうです。山根さんのことは先生も「真摯だ」と評していましたが、デザイン班長をしていたのは意外だったようでした。わたしの印象では、普通にとても利口そうな男性です。
 そんな山根さんですが、次のパートでは執筆の基礎的な心得を説明する役でした。資料にもプロットの作り方や表現の注意点などある程度のことは書かれていましたが、かなりの補足を入れて話してくれました。どうやら相当な凝り性のようですが、残念ながら、説明は冗長になってしまっています。和泉さんも居眠りをしています。
「山根、巻きで」
「おっと、これは失礼」
 最後には部長からストップが入り、執筆ガイダンスは終幕を迎えたのでした。期せずして気だるい雰囲気になってしまいましたが、そこで次に立ったのは、企画班の明石さんです。
「はい、ちょっと退屈だったかもしれないけど、ここからは切り替えて楽しくやっていきましょう!」
 大きな身振りで、空気を変えようとしているのが見て取れます。それを察知したのか、和泉さんは目を覚ましました。
「まずは、今日来てくれた一年目の皆さんに、自己紹介をお願いしたいと思います!」
 ようやく、と言うべきか、わたしたちの自己紹介です。今日初めて会う人も多いですが、とりあえずわたしはこのためにメモ帳を持ってきました。ちなみにわたしたちの席は、先生の希望もあって最前列です。これの意味するところは……。
「それでは、えっと……前の、あなたからお願いします!」
 先生は危険を感じて目をそらしていたようですが、そのかいなく、あっさりと指名されてしまいました。挙動不審になりながら、渋々と立ち上がります。
「わ、わたしは、浦川秋。本名は季節の秋。ペンネームは、旧国名の安芸だ。文芸は中学から続けていて、ここでさらに、その道を究めたいと思っている。どうかよろしく頼む」
 あまりに緊張しすぎて、敬語という概念も消失してしまったようです。その分、拍手の始まりが一瞬遅れるほどのインパクトを発揮しました。さすがです。
「先生、よく頑張りました」
「はい。じゃあ、順番にお願いします」
 次はわたしで、その次が和泉さんです。経験があると言った人はわたしを最後にしばらくいませんでした。地元の出身の人でも、文芸部だったとは誰も言いませんでした。
 そんな中で、先生ほどではありませんが、若干注目を集めた男性がいました。
「えっと、皆さん初めまして。理系一年生の、新井竣と申します。私は、文芸を初めて五年になります。その経験を活かして、この文芸部でも活動していければと思います。好きな作家は宮沢賢治です。よろしくお願いします」
 やや関西訛りの入った口調で、新井くんは淡々と述べました。なんだか、先生と同じようなにおいのする人です。経験がどうというよりは、やや自信過剰な雰囲気が。これはお話しておくほかはないと思いました。今日のターゲットは決まりです。
「新井くん、ありがとうございました。もう最後ですね。それでは、組み合わせ三題噺の企画に入っていこうと思います!」
 全員の自己紹介が終わり、いよいよ企画が始まりました。時刻は三時を回り、残り二時間です。明石さんから、「組み合わせ三題噺」のルールが説明されます。提示された十一個のキーワードの中から、三個以上を選択して作品に織り込むという創作ゲームです。キーワードは犬、墓場、陸上競技などわかりやすいものから、ジョーカー、サングラス、子泣き爺といった意表を突くチョイスまで様々ありました。
「原稿用紙はまだあるので、足りなくなったら言ってください。最初は無理に完成させようとしなくても大丈夫です。プロットだけでも、できたら是非周囲の上年目に見せてください」
 自由な雰囲気の企画タイムが始まります。さっきまではいなかった上年目も、二年目を中心に何人か来ていました。
「先生、今日はどのような作品を書かれますか?」
「そうだな……あまりモチーフを指示されるのは、得意ではないが」
 先生は、この手の縛りがある創作をあまり好みません。リレー小説の類も苦手だそうです。徹頭徹尾自分の意思で書きたい、我の強い書き手です。
「ところでさ、フミってアキのこと先生って呼ぶけど、どういう経緯で?」
 背中側から、和泉さんが質問してきました。話そうと思えばいくらでも長くできますが、今回は手短に答えます。
「元々先生は、一人で文芸をされていたんですね。それをわたしがたまたま知って、先生の作品に心を打たれたので、以来リスペクトを込めて先生と呼ばせてもらっています」
「なるほど。じゃあ、アキは結構ちゃんと文芸やってるのね」
「それはもう。去年は全国区で、どこの新聞社の賞でしたっけ? 獲ったんですよ」
「へえ」
 実感がわかないというような、淡白なリアクションでした。先生は遠慮がちに口をつぐんでいますが、物足りなさを感じたのは、わたしだけだったのでしょうか。
「まあでも、今度作品書いたら読ませてよ」
「はい、そうですね」
 いかなる過去の栄光も、言葉だけでは説得力を持ちません。わたしは思い当たりました。物語でも現実でも、顕現しないものは相手にされないのです。大切なのはこれから。考えを改めましょう。
 最初の作品を出すまでは、横一線の一年目です。作品を書いたら、自由なタイミングで提出しても良いそうです。それでも上年目は読んでくれると言います。しかし、やはりターゲットは一年誌です。そこで良好なスタートを切るために、わたしはできることを考え始めました。犬やら墓場やらのモチーフは、忠犬のドキュメンタリー的な話に仕立てておきましょう。

 最初はほとんどの人が集中して取り組んでいた三題噺でしたが、一時間も経つと結局、散漫な雰囲気になってしまいました。完全にコンパまでの待ち時間と化しています。上年目も互いに雑談していたり、たまに一年目を見回したりで、あまり場をまとめるつもりはないようです。そんな中、先生は原稿用紙の四枚目に突入し、周囲など気にしないモードに入っていました。和泉さんはイヤホンで何かを聞きながら、キーボードに伏せていました。間に挟まれたわたしは……身動きが取れません。
 先のことも大切ですが、そろそろ気分転換をしたい頃でした。左右がダメなら後ろ、ということで振り返ると、かわいらしい同期の女性がいました。名前を思い出し、手の止まったタイミングを見計らい、さあ、ナンパしましょう。
「朝倉さん。調子はいかがですか?」
「あっ、えっと……まあまあ、かな」
 少し驚かせてしまったようです。彼女はわたしと同じ文学部の、朝倉香奈実さんです。見かけたことはありますが、話すのは初めてでした。自己紹介ではあまり情報をくれなかったので、無難なところからアプローチします。
「三題噺って、結構悩んじゃいますよね。どのキーワードを選んだんですか?」
「犬と、墓場と、子泣き爺かな。ありきたりだけど」
「いえいえ。三題噺は、キーワードの味付けが要と言いますからね。というか、わたしも墓犬、選んだんでした」
「そうだったんだ……」
 正直、煙たがられているような気がします。朝倉さんが悪いわけではありませんが、コミュニケーションは全然円滑に進みません。アプローチを変えます。
「自己紹介がまだでしたね。わたしは中津です。こっちの浦川ともども、地元の豊橋という高校の出身です。朝倉さんは、どちらから?」
「豊橋高なんだ。私も地元だけど……」
 恥ずかしそうに朝倉さんが教えてくれた出身校は、あまり耳馴染みのない中堅の進学校でした。というのも、文芸部の地区大会には出場していなかったのです。しかし文芸部は存在していて、朝倉さんは部員だったと言います。
「あそこ、文芸部あったんですね。知りませんでした。実はわたしたちのところも、二年前までなかったんです。わたしと先生が発起人になって、部を作ったんですよ」
「そうなんだ。すごいね」
 自己紹介をしたのが功を奏したか、朝倉さんが少し心を開いてくれたような気がします。同じ人見知りでも、他人を寄せ付けないわけではない、付き合いやすいタイプのようです。
「わたしは編集専門だったので、編集班に入ろうと思うんですけど、朝倉さんはどこか興味ありましたか?」
「私は、編集とかやったことないし、絵も上手じゃないから……企画班だったら、何か役に立てるかなと思って」
「企画班、いいと思いますよ」
 そんな感じで少し話して、朝倉さんと打ち解けることができました。本当はどんな作品を書くのかとか、趣味とか、気になるところもありましたが、あまり執筆の邪魔をするのも申し訳ないので、適度に切り上げます。
 さて、いよいよ新歓コンパが近づいています。遠慮せず話すことができる機会に、誰と過ごすかはとても大切です。しかしわたしには、気になる人がとてもたくさんいます。もはや先生の相手をしている場合ではありません。和泉さんや朝倉さんと親睦を深めるか、新井くんをはじめ、まだ話していない一年目や上年目へ手を伸ばすか……組み合わせは、ちょうど十一人から三人くらいになりそうでした。
「そろそろ時間ですね。今日書いてもらった作品は、完成したら自由に投稿してくれて大丈夫です。もちろん一年誌に出してもOKです。それではこの部屋を片付けて、お待ちかねの新歓コンパへ出発しましょう!」
 明石さんのアナウンスが始まった瞬間から、明石さん本人を含め、ほぼ全員の意識が新歓コンパへと向いたのは、すぐに片付けが始まったことからも明らかでした。先生は惜しくも大詰めの部分で書き切ることができず、切り替わる流れに若干の抵抗を見せましたが、和泉さんに促されて諦めざるを得ないようでした。

 大学からコンパの会場までは歩いて三十分ほどでした。途中までは変わらず先生や和泉さんと歩いていましたが、建物に入るときのどさくさに紛れて、お目当ての人に近づく作戦なのでした。
「初めての新歓コンパ、楽しみですね」
「肉食うぞ!」
「……しゃぶしゃぶ、だったか。かように豪勢なもの、本当に食べて良いのだろうか」
「どゆこと? 肉はおかわり自由みたいだし、限界まで食えってことでしょ」
 おごられ慣れていない先生は、まだ抵抗があるようです。しかし新入生の分際でそれを気にするのは野暮というものでしょう。目を離すことに心配はありましたが、和泉さんが先生の近くに座るつもりのようなので、押し付け……任せてしまうことにします。
「先生、わたしは今回、違う方と一緒に座ろうと思うので、和泉さんとよろしくやってくださいね」
「フミそうなの? まあいいけど」
「……わかった」
 朝倉さんへのアプローチといい、今日のわたしは出会い目的かのような振る舞いをしていますが、これは業務上必要なことであり、下心があるわけではありません。ターゲットをとっかえひっかえするのも浮気なものですが、やはり早いうちのコミュニケーションが大切です。全く話さないまま一週間、二週間と経ってしまったら、その後の声の掛けにくさは爆発的に上昇します。
 そんな打算があり、今回のターゲットは新井くんに決めました。このような機会でなければ、自然と会話になる場面が想像できなかったのです。わたしにとっては幸いなことに、三人の一年目男性陣の中で、新井くんは浮いていました。道中は山根さんや八戸さんと話していたようです。
 建物に入り、エレベータに乗るタイミングで、すっと新井くんの隣に位置取ります。案の定、店では四人ずつのテーブルに分けられることになりました。なるべく一年目が二人、上年目が二人になるように座っていきます。わたしは首尾よく、彼の隣に座ることができました。向かいに座ったのは山根さんと、編集長の樋田さんです。樋田さんは、わたしがこの席で紅一点になることに気を遣って来てくれたのでした。
「山根くんは烏龍茶ですね。お二人は飲み物いかがなさいますか?」
「わたしも烏龍茶でお願いします」
「では、それで」
 席に着くなり、樋田さんは手早くドリンクの注文を取ります。飲み会慣れしているのでしょう。店員さんが巡ってくると、わたしたちの注文を伝えた後に、ワンテンポ置いて自分の注文を宣言しました。
「では、私はビールで。お先に失礼します」
 優しく清楚なふうに見えて、割と大胆な人だと思いました。仕事をそつなくこなすところは、編集長として鍛え上げられたのでしょう。三年目の中でもかなりのパワーを持っていそうな感じがあります。
 ちらりと他のテーブルを見て先生を探すと、男性二人と対面していました。一人は八戸さんでしたが、もう一人はなんと、学ランに学帽、丸眼鏡というコスプレを疑うようないで立ちでした。説明会で似たような人を見かけた気もしますが、正体不明です。
 向こうのことも気になりましたが、今は自分のテーブルに集中しましょう。とりあえず、新井くんに声を掛けることにします。
「新井くんでしたよね。はじめまして。わたしは文学部の中津です」
「新井です。よろしく」
「関西の方ですか?」
「一応、中学と高校は兵庫だったので。でも、出身は北海道です。十三までいました」
 彼の微妙に違和感のある関西訛りは、後から影響を受けたためにそうなっているようです。北海道では札幌の近郊に住んでいて、親の転勤で兵庫へ移ったとのことでした。
「すると、北海道に思い入れがあって、この大学を選んだとか?」
「ああ、そうです。作品のロケーションとして、いい場所がたくさんあって。この間も、取材に行ってきたんです」
「例えば、どういう場所がお気に入りですか?」
「えっと……」
 まず挙げられたのは、北海道の二つの湖でした。それぞれ引っ越す前に巡った記憶があり、そこを舞台にして作品を書いたことがあるそうです。取材に行ったのも、また別の湖でした。
「湖が好きなんですね?」
「書きやすくて。湖の化身の女の子と、交流する話なんです」
「ほうほう。湖の擬人化とは、変わったご趣味をお持ちですね」
「まあ……」
 本人はそれを、現代的な民間伝承のイメージで書いているそうですが、割り切って萌え萌えにした方が受けそうだと思ったのはわたしだけでしょうか? 新井くんはそういう点で若干堅苦しく、生真面目なところがありそうです。
 そこでドリンクが運ばれてきて、間もなくお肉と野菜が続きます。盛り上げ担当の明石さんの音頭で乾杯をして、野菜を入れた鍋が温まるまで暫しの待ち時間です。
「中津さん、だったよね? 編集に興味があるって言ったの」
 ジョッキ半分のビールの入った樋田さんが、早速前のめりになってきました。
「はい。高校時代も部誌の編集をしていて、それから将来も、編集や校閲の仕事がしたいと思っています」
「じゃあもう、編集班に入るしかないね! 今日から君は編集班員だ!」
「はい、喜んでお引き受けします」
「いやあ、これで我が編集班は安泰ですよ。ねえ、山根くん」
 この勢いは、わたしでもなかなか手応えがあります。山根さんも思わず苦笑いでした。
「樋田さんは、飲むとこんな感じなんだよね……新井くんは、興味のある班はあった?」
 地味ながら冷静なナイスプレーです。わたしもその話題には興味があります。
「えっと……もう少し考えたいですけど、企画班に興味があります。楽しく文芸をしていきたいと思っているので」
「なるほど、ちょっと意外です」
 てっきり真面目な彼のことなので、どこにも属さず文芸に専念するか、編集班で全体をまとめるかのどちらかだと踏んでいました。
「明石さん目当てでは、ありませんよね?」
「そんなことないです」
「ふふふ、無駄だよ。明石ちゃんには松戸さんという、素敵な彼氏さんがいるからね」
 それは戯れに言ったつもりでしたが、樋田さんから重要そうな事実を引き出すことに成功しました。たなぼたです。松戸さんというのは、六年目の方だそうです。大学院に進んでもなおこまめに参加してくれて、それでいて老害っぽさのない、偉大な存在とのことでした。山根さんも否定しなかったので、誇張抜きでそうなのだと思います。
 その辺りからお肉も食べ始めて、話題は樋田さんの主導でどんどん切り替わっていきました。樋田さんも旅行が好きで旅行サークルにも属しているそうですが、特に電車が好きということで、春休みに道東へ行ったときに見たSLについて熱く語ったりしていました。
 わたしはもう、流れに任せるだけになってしまいましたが、お肉の美味しさの前には当初の目的などどうでもよくなります。実際、新井くんとそれなりのひと時を過ごすことができましたし、きっと大丈夫です。
 そんな感じで新歓コンパは終わりました。二次会もあったそうですが、帰りが遅くなるといけないのと、お酒を飲むわけでもないので、わたしや先生、新井くんを含む一年目の半数はそこで帰りました。一年目で参加したのは和泉さんと朝倉さんほか二名だそうです。
 帰り道、先生はとてもお疲れの様子でした。上年目の絡みがきつかったとのこと。それ以上は話したがらなかったので、また後日聞くことにします。

 定例ミーティング、通称部会は毎週火曜日の放課後です。わたしは五限が空いていましたが、先生は実験があるとのことでした。
 その日は特別に、例会だというアナウンスが全体のメーリングリストで流れていて、部員は原則として参加しなければならないという旨が強調されていました。つまり、多くの人と出会うチャンスです。しかし幽霊部員が四十人もいるのは、大丈夫なのでしょうか?
 食堂の二階を訪ねてみると、半分くらいのサークルは新歓が終わって撤退したのか、やや静かに感じました。文芸部のボックスは、六人いて満員です。
「お疲れ様です」
「中津さん、お疲れ。ゲームする?」
 声を掛けると、下野部長が応じてくれました。他には既に和泉さんや新井くんの姿もあります。机には数字の書かれた見慣れないカードが広げられており、六人で遊んでいたのがわかります。
「ゲームですか?」
「そう。賭けとかじゃなくて、ただ例会まで暇だからね」
「わかりました。参加します」
 隣のボックスが空いていたので、座らせてもらいました。部長がルールを説明してくれます。このゲームも部長が持ってきたとのことでした。残りの三人は、初めて出会う一年目が一人、二年目が二人でした。挨拶をしてから、ゲームを始めます。
 ルールは手札の数字が書かれたカードから一枚を選んで全員一斉に場に出し、それらを並べた結果によってマイナス点がついたりつかなかったりするという、単純かつ運の要素が強いものでした。誰かを意図的に攻撃するようなことはできず、その場その場の結果にそれぞれ一喜一憂したり熱くなったりしながら、平和に進みました。
「ところでフミ、今日はアキと一緒じゃないの?」
 あるところで、和泉さんが先生のことを尋ねてきました。
「先生は実験だそうですよ。生物と、地学だとか」
「うわ、あいつ勝ち組か」
 理系の必修科目であるその実験は、四つのコースから二つを履修するのですが、それが抽選で振り分けられるそうです。地学は特に楽でありながら定員が少なく、壮絶な倍率になるのだとか。抽選で負けた和泉さんをはじめ多くの人は、物理と化学の組み合わせになるそうです。
「先生って、浦川さんのこと?」
 そして、ほかの誰もが抱いたであろう質問を、部長が代表でしてきました。
「はい。わたしが勝手に呼んでいるだけですが、一応、浦川はわたしの自慢の先生です」
「今年の一年目、濃いなあ。だって新井くんは師匠なんでしょ?」
「師匠、とは?」
 いつの間にか、新井くんが「師匠」と呼ばれるようになっていました。てっきり文芸の経験から、そう呼ばれていると思ったのですが。
「こいつさ、入学して三日目に、クラスの女子と二人でデートしてんの! 取材旅行とか言ってさ!」
 和泉さんがずばっと説明してくれました。その英雄的行動を称えて……言わずもがな、半分はからかいで……師匠と呼ぶことが決まったそうです。本人はそれについて黙秘していました。口が巧いわけでも、風貌が優れているわけでもなさそうな彼ですが、そういうところの行動力はあるようです。
「なるほど、取材旅行デートですか……参考にさせてもらいます!」
 わたしは思い付きで喋って、適当に場を盛り上げました。しかしわたしは、先生と出かけたことはあまり多くありません。実際、先生の作品には取材が必要というわけでもないので、わたしと先生ならただの旅行かデートになってしまいます。下心ばっかりです。
 何ゲームかすると、だんだん部員が集まってきました。ソファーに詰めて四人で座ったりして、ゲームの参加人数も十人になりました。そんなときです。
「あ、高本さんだ」
 席替えをしてわたしの隣になった和泉さんが、ボックスを遠巻きに眺める上年目の姿を認めました。ストライプのYシャツを着て丸眼鏡を掛けたその男性は、コンパで見かけた学ラン姿の人物とほぼ一致します。
「この間のコンパで、和泉さんの向かいに座っていた方ですか?」
「そうだね。二年目の高本さん。文学部で、八戸さんとは悪友って感じ」
 そう紹介された高本さんですが、何故かボックスに近づいて来ようとしません。それどころか、こちらの様子を睨みつけるように窺っているようです。
「高本さん、何かあったのでしょうか」
「さあ。見た目通りちょっと変わった人だからね」
 少し目を離した間に、高本さんはどこかへ行ってしまいました。上年目の人たちは、それがあまり不思議ではないという様子でした。
「例会には来るでしょ」
 下野部長に言わせても、そんな感じです。わたしもあまり気にしないことにしました。
「ところで、今日の例会はどんなことをする予定ですか?」
「一つ、マニュアルの承認があるけど、夏部誌の編集を決めるのが一番だね。それから、一年誌の編集長も決めるよ」
「部誌制作が始まるんですね」
「メールドライブは見た? この後一年生にも合評には参加してもらうから、ちょっとでも目を通しておくといいかもね」
「一応、覗いてみました。下野さんも出されてましたね」
「そうだね。これから忙しくなるよ」
 部誌に作品を出すのは任意で、初稿を締め切りまでに提出することでそのラインに乗ることになります。そして、この例会で作者のパートナーとなる、編集が割り当てられるということです。その作者である下野部長の表情は、やや悩ましいものでした。これから部誌に作品を載せようという人がそのような顔をするところを、わたしは見たことがありません。
 ちょうどゲームが終わり、五限の終わりの時間になっていました。周囲にはもう、二十人くらいの部員が集まっています。ゲームは楽しいものでしたが、初めての例会を控えた今になると、わたしはにわかに不安めいた緊張を覚えるのでした。それは楽しいばかりではない、組織としての文芸部が見えてくることへの感情です。何より集まった上年目の雰囲気がどこか気だるく、面倒事の起こる予感をしているかのようで、わたしはそれが思い違いであることを願うしかありませんでした。

 それがまさか、このようなことになるとは……。
 現在七時を回って、例会は始まってもいません。なんと、規約により例会は部員の三分の二を集めなければならないそうなのです。入部、退部を差し引いて、あらゆる部員に連絡をして、それでも数名届かない状況でした。
「連絡来ました! 部長に委任です」
「よし、これであと……」
「こっちも来ました! 棄権するそうです」
「行ったかな?」
 実際、一年目にも連絡をせず欠席している人がいるそうですが、いずれにせよかなり理不尽な待たされ方だと思いました。規約がメールドライブに上がっていたので和泉さんに見せてもらうと、この例会、年三回は開かれるそうです。この部の最高議決機関だそうですが、今回の例会としての議案は、「部誌掲載要項改正案の承認」一つでした。その要項は、作者が部誌に作品を掲載するための条件を定めたものですが、それに編集の役割と権限を明記しようという話でした。
「はい! 皆さん、たいへん長らくお待たせいたしました。部員七十七名に対して、出席、委任、棄権が五十名に達しましたので、本例会を成立と見做します」
 定刻から四十分は遅れているでしょうか。しかし、本当に大変なのはここからでした。まず本題となるその議案の審議から始まったのですが、「編集は作品が合評を行うレベルに達していないと判断した場合、取り下げを編集班に申請することができる」という一文が賛否両論で大炎上して、わたしたち一年目はわけがわからないまま、感情入り混じる紛糾の様子をただ傍観するほかありませんでした。もはや拷問です。
 下野部長や樋田編集長も、これほどの反発を受けることは想定外だったらしく、疲弊しているのがはっきりとわかりました。この議案は三年目中心の会議で作成されたようなのですが、そのさらに上の人たちが、「編集に判断を任せてよいのか」とか「取り下げの是非は」とか「そうならない対策が先」とか、徹底的に叩いている構図のようです。それらの主張ももっともではありますが、判断できるほどこの部を知らない一年目にとっては、巻き込まれてたまったものではありません。
 すったもんだの末、その一文が一部否認という形で、一応の決着がつきました。そして、そこからの編集決めが、また手間取ったこと……。教養棟の教室を使用できるのは九時までで、そのタイムリミットのギリギリで、無理やりに決まったという感じでした。もう一つの予定だった一年誌の編集長と副編集長は、わたしと和泉さんにすんなりと決まりました。
 正直、その例会のことは、思い出しても疲れてしまうほどです。翌朝何事もなかったかのように、メーリングリストに議事録が流れたのを、なんだか恨めしく感じました。よく見ると、その議事録を作成した書記はあの高本さんだったのですが、それはまた別の話として。

 二年目にも一年誌を監督する立場の人がいて、上年目編集長と呼ばれています。次の日わたしと和泉さんはその人に呼ばれて、ボックスに来ていました。
「えっと……中津さんと、和泉さんでいいかな」
「はい」
「よろしくお願いします」
 上年目編集長は、文学部二年生の大藤さんでした。寡黙な男性という印象です。実は昨日、ゲームにも参加していたのですが、あまり一年目と直接コミュニケーションを取っていなかったので、どのような人なのかまだよくわかりません。
「じゃあ、一年誌のこれからの流れと、編集長の仕事について説明します。紙にまとめてきました」
 早速大藤さん手作りのマニュアルに沿って、説明が進みます。言葉での説明は得意ではない様子でしたが、マニュアルのまとめ方は上手く、そこは文芸部員という感じです。
「あ、お疲れ」
 その途中、高本さんがボックスにやって来ました。昨日と同じような服装で、何か書類の束を脇に抱えています。大藤さんは、何気なく挨拶をしただけなのですが……。
「大藤さん、お疲れ様です」
 丁寧な言葉に似つかわしくない、険しい顔で高本さんは応じました。
「お二方は、一年誌編集長の中津さんと和泉さんですか」
「はい。中津です。よろしくお願いします」
「お疲れ様です」
「中津さんは、初めてですね。文学部、表現文化論講座二年の高本健一です」
 わたしたちには不気味なほど不自然な笑顔で、ご丁寧に所属まで名乗ってくれました。八戸さんよりも得体の知れない、変わった人だと思いました。机に広げられた書類を見ると、作品のようです。高本さんは、自身の作品の編集との打ち合わせのために来たとのことでした。
 一年誌について説明を聞きながら待っていると、高本さんのパートナーに当たる男性が見えました。同じく文学部二年の江本さんです。わたしたちは同じように挨拶を交わしましたが、江本さんは幾分クールで、フラットな方という印象を受けました。二人は対照的、というか江本さんのほうが、高本さんの一方的な歯止め役なのでしょう。しかし仲はとても良いように見えました。
 全体の流れの説明はすぐに終わり、一年誌に作品を出す意思がある人を取りまとめる仕事が与えられました。
「メーリングリストに連絡を流して、わたしのメールアドレスで返信を受けるようにすれば大丈夫ですね」
「そうだね」
 待つだけの簡単なお仕事です。そもそも初稿の締め切りは六月の第一週にある学校祭が終わった後なので、まだ余裕があるのでした。このタイミングで掲載希望者を募るのは、来週の部会でそれぞれに上年目をサポーターとして一人ずつつけることになっているからです。
「あたしは何かやることある?」
「特になさそうですね。活動が本格化してきたら、お願いしますよ」
「そっか。じゃあいいや。忙しいし」
 そこで、わたしと和泉さんは、目で合図を交わします。
「それでは、今日はここで失礼します。大藤さん、ありがとうございました」
「失礼します」
 和泉さんが先に席を立って、わたしも続きました。実は、終わり次第適度に切り上げて、二人で話そうという打ち合わせをしていたのです。わたしたちは、一階の食堂に場所を移しました。四限の比較的空いている時間帯です。
「あのさ、この部実際どうよ? 昨日の例会とか、少し嫌な感じじゃなかった?」
「そうですね……運営の下野部長や、周囲の人たちと、一般の部員との意思疎通があまり取れていないのだと思います」
「さすがにちょっと、空気の悪いところ見せちゃったよね。この忙しい時期にあれは、控えめに言ってあんまり印象良くないよ」
 和泉さんはやや疲れの見えるトーンで、不満を漏らしました。わたしもほとんどそれに共感できました。
「これで、他の一年目の皆さんが、離れていかなければ良いですが……」
「それも仕方ないだろうね。あたしらはせめて、少しでも互いに居心地の良いようにしたいね」
「はい。頑張りましょう」
 スマホを確認すると、先ほどのメールに一年目からの返信が四通届いていました。その中には、新井くんや朝倉さんの名前もあります。ひとまずこの人たちは離れていかないのだと思うと、疲弊した心の中に少しだけ安堵の感情が生まれました。

 雪はすっかり解け、道端にはフキノトウのなれの果てが目立つ季節です。ミズバショウも、葉が育ってきて見頃は終わったという感じです。代わりに花木園では、クロユリが見られるようになりました。非常に珍しく、殖やすのも難しい植物なのだとか。
「最近、綿毛が飛んでますよね。どこから来てるんでしょう?」
「知らないのか? これはポプラの綿毛だ。すぐそこから来ているんだ」
「そうだったんですね」
 少し暖かくなったせいか、ポプラの種が飛んでいるのでした。そこらを白い綿毛が常に漂っているのは、不思議な感じがします。初冬の雪虫のような風物詩です。たまに吹き溜まりがあって、緑の芝生の中に羊毛のような綿毛の山ができているのは、この都会の真ん中にあっても牧歌的で、ややメルヘンな雰囲気があります。
「ところで先生は、一年誌に出されますよね?」
「そうだな。会うだろうと思っていて、言ってなかったが」
「まあ、今まとめるのは上年目サポーターを付けるためなので、初稿の締め切りまではいつでも飛び入りできるんですけど」
 ちなみに今日もここまで来ているのは、天気が良かったからです。半分嘘です。本当は、先生がなんとなく、ボックスに近づきがたいと言い出したからなのでした。
「執筆は進んでいますか?」
「最近、忙しかったからな。少ししか進んでいない。書くことを忘れはしないのだが、長く時間が取れず、なかなか進まないのだ」
「難しいお悩みですね。和泉さんも、忙しいって言ってました」
 結果として、あの部が先生の本当の居場所となるには、もう少し時間が掛かりそうでした。そんなときは来ないかもわかりません。わたしとしてはせめて、一年誌を完成させるまでは辛抱していようと思うのですが、その先のことはまるで見えません。
「……七月になったら、取材旅行でも行きませんか」
「取材か。特に行きたいと思うようなところはないが……」
 先の楽しみになるかと思って、先生にデート、もとい取材旅行を持ちかけてみましたが、渋られてしまいました。それはそうなのです。新井くんがどのような手を使ったのか、わたしには想像がつかないのでした。
「ところで先生、高本さんの作品読みましたか?」
「ああ。明日、合評だったな」
 裏では夏部誌の合評が始まります。一年目はまだ参加者に含まれていませんが、どこかで見学に行くことを勧められています。そこでわたしと先生は、互いに都合の合う土曜日の合評に参加することを決めました。それが高本さんの合評だったのです。
「締め切りが早めなのはありがたいですね。高校では、前日に原稿配布とか普通でしたし」
「互いに忙しいのだ。そのくらいでないと困るのだろうな」
 合評稿の締め切りは合評の三日前必着になっていて、合評が土曜日なら締め切りは水曜日中です。それはちょうど、ボックスで高本さんに会った日でした。
「そういえば先生、新歓コンパで高本さんと同じテーブルでしたよね?」
「ああ……」
 なんとなくの興味で、地雷を踏んでしまったことがわかります。先生は苦い顔をしながらそのときの様子を聞かせてくれました。
「あの高本という男は、女に飢えているのだそうだ。『お目出たき人』のようにそう言っていた。そのことについて、酒を呷りながら八戸とずっと話していた。意中の人がどこかの体育会系サークルにいて、しかしその人に付きまとう男がいるとかどうとか……」
「『お目出たき人』って、武者小路実篤ですか」
「ああ。近代かぶれだ」
「それであのような格好を……」
 八戸さんとはまた別のベクトルで、文学にのめり込んでいる人のようです。寮生ではないとのことでした。
「というか、それって今回の高本さんの作品の話じゃないですか? 旧字旧かなの私小説だったんですね、あれは」
「そうだな」
 作品まで近代風という徹底ぶりは、それ単体なら尊敬に値すると思います。前の部誌にも高本さんの作品は載っていましたが、作品と作者が一致した今、深い納得に至りました。
「先生は、高本さんには目を付けていなかったんですね?」
「内容はそこまで、興味を持つほどのものではなかったからな」
「そうでしたか」
 変わり者の多い二年目の全貌が明らかになってきます。他にも二年目は十人近く確認できていますが、この辺りが主要人物とみて間違いないでしょう。ほぼ確実にこの中から、次代の部長や編集長が……。
 まだ入部したばかりなのに、文芸部のことを考えると気分は重くなります。綿毛の舞うこの穏やかな春に溶け込んで、まっさらな気持ちで過ごす未来はあったのか……ということも、思わず考えてしまうのです。

 場合によっては合評でも、例会のときのような炎上が巻き起こるのではないか……そんな不安を抱えて見学しましたが、編集の江本さんが上手に作者と参加者の間を取り持って進行をしてくれたため、概ね順当に成果の多い合評となりました。
 しかし、参加者は三年目や四年目が中心で、既に高本さんの人格や傾向についてよく知っていたこともあり、「私小説だから」と主人公の行動や考えについて、あまり批判的に検討されていなかった面があるようにも感じました。先生はその点にも意見していましたが、高本さんや江本さんに受け入れられたかどうかはわかりません。
 それにしても実際、最初に見学する合評としては難しすぎたのか、他に見学の一年目はいませんでした。合評稿は次々と上がっていて、月曜日の今日は樋田さんの詩の合評でした。
 三限の時間に一人でボックスを訪れると、人が五人いました。まず下野部長と大藤さんの姿が目に入ります。
「お疲れ様です」
「フミ。ちょうどいいところに」
 和泉さんと新井くんも一緒に、五人でカードゲームをしていたのです。もう一人は、二年目で文学部の黒沢さんです。挨拶を交わしたのは、最初の説明会以来でした。
「このゲームは何ですか?」
「サムライ。なんか、人狼みたいに自分の役職を隠しながら、敵を見つけて倒すゲームね」
 大藤さんが持ってきたゲームのようです。こんなふうに、ボックスに暇な人が集ってゲームをしている光景を、わたしはごく当たり前のように感じ始めていました。
「人数多いほうが楽しいから、フミもやろうよ」
「わかりました。よろしくお願いします」
 先日のゲームと異なり、プレイヤー同士で殴り合うゲームです。草薙の剣で将軍を刺しに行くような展開もある、とてもエキサイティングな世界観でした。自分のアバターとなる武人にもそれぞれ個性があり、作り込まれたゲームだと感じます。
「そういえば中津さん、高本の合評に行ったんだね?」
 つい真剣になってしまい、あまり雑談をしている余裕はなかったのですが、あるとき下野部長がそんな話題を持ってきました。
「はい。まあ、思ったより平和な合評でした。江本さんのおかげだと思います」
「そっか。それは良かった」
 下野部長の興味はそれで満たされたようでしたが、そこで和泉さんの口が動きました。
「高本さん、この間の二次会で部長になるって宣言してましたけど、あれ本気なんですか?」
「いや、それは……今は触れないでいて」
 黒沢さんがそう言って顔をしかめ、大藤さんは黙ったまま目をそらします。それはもう、誰の目に見てもタブーだったのだとわかる反応でした。
「……わかりました、すみません。続けましょう」
 部の予定表には、七月に役員選挙があると書いてありました。つまりあと二か月です。これから運営の中心を担う二年目の中では、そういう話がされていてもおかしくない時期でしょう。それが今、まさにタブーとなっているのです。和泉さんもあっさりと引き下がりましたが、空気の重さを感じたのか、すぐさま話題転換に動きます。
「えっと……ところで師匠は、この間デートした子とはどうしてるの?」
 話題の変え方は雑でしたが、急場をしのぐには十分でしょう。新井くんの近況は、わたしも気になります。
「ああ……まあ、たまに話す程度かな。というか、デートやないって。取材旅行。今度、一年誌にその作品出すから見とき」
「新井くん、それはそれで女誑しではありませんか?」
「浮かれてたんやって。あれはあれで、楽しかったけどな」
 反省の色があるのかないのか、よくわからない反応です。それにしてもこの人、いつの間にかかなりフランクに話すようになりました。この場にそれだけ居ついているようです。わたしたちのやり取りを見て、大藤さんや黒沢さんは緊張が解けたのか、元のようにゲームに興じていました。すると和泉さんは何かスイッチが入ったようで、新井くんへの詰問をエスカレートさせます。
「じゃあさ、新井的には、この部にかわいいと思う人とかいるわけ?」
「は?」
 これもこれで、危ない質問ではあるわけですが……わたしは見守ります。わたしや先生が指名される可能性は考えないようにしました。ないとは言い切れません。
「いや……答えないって。和泉は違う」
「文芸の経験あるって言ってたじゃん。アキとか気にならない? 浦川ね」
「浦川さん……まあ、話してみたい気はするな」
「じゃあ、フミは?」
「いや、本人の前やぞ」
 そうです。勘弁してください。と、和泉さんに目で抗議しますが、無視されました。その後も和泉さんのお節介は続きます。この二人、思ったよりボックスに足繁く通っているらしく、部員の顔と名前がかなり一致しているのがわかりました。そしてとりあえず、新井くんは今、取材旅行の人も含め、誰かと付き合っているとか、誰かが好きだとか、そういう話はないという結論が出ました。和泉さんはとても不満げで、その後のゲームで意図的に新井くんばかり攻撃していました。

 その週から、一年生は六限期間に入りました。足りないコマ数を補うために、特定のコマの講義が六限にも行われるのです。該当する科目を取っていなければ何もありませんが、五週間で実に十五コマがカバーされるので、全てを回避するのは不可能です。
 わたしはその日、六限の講義はありませんでしたが、放課後の部会にはしっかりと影響がありました。六限が終わる八時頃までは、部会を行うための教室も空いていないのです。そういうわけでボックスに行ってみると、ゲーム大会の様相を呈していました。中には合評を控えて編集との打ち合わせなどをしている人もいましたが、多くの人は、大藤さんや下野部長が持ってきたゲームで時間を潰していたのでした。
 そして、その様子を少し離れたボックスから、冷ややかに見ている三人の集団に気付きました。高本さん、八戸さん、そして江本さんです。特に高本さんは、それはそれは怨恨の込められていそうな目でこちらを睨んでいました。わたしは意を決して、三人との接触を試みます。
「お疲れ様です。皆さんは、ゲームはお嫌いですか?」
「あなたも! 彼らの味方をするんですね!」
 友好的に話しかけたつもりでしたが、高本さんはいきなり頑固親父のように激高しました。すかさず江本さんがなだめます。
「ああ、僕らのことは気にしないで。ごめんね」
「高本は、自分が入っていけないから、みんながゲームで楽しんでるのが気に食わないんだよ」
 八戸さんが、その高本さんの心境を端的に説明してくれます。推測はしていましたが、概ねその通りでした。高本さんがあの場で一緒にゲームをしているところを、わたしは想像することができません。かるた遊びくらいなら、ありうるかもしれませんが……。
「当然ですよ。ここは文芸部です。何故、文学に真剣に取り組んでいる私たちが、こうして肩身の狭い思いをしなければならないのですか!」
「まあまあ、落ち着いて」
 それで、自分たちにとって居心地の良い環境を作るために、部長になろうとしている。高本さんの主張は確かに正当なものだと思います。しかし、正当さだけで人を動かすことができないということは、大人ならば知っておかなければいけない暗黙知です。わたしは瞬間的に、この人たちの味方をしたくはないと思いました。
「失礼しました。高本さん、合評を経て作品は良くなりましたか?」
 逆に敵視されるわけにもいかないので、あくまで友好的に話題を探ります。
「それは、まあ、悪くはないですね」
「中津さん、合評に来てくれたよね。ありがとう。貴重な意見をもらったと思ってるよ」
「それはきっともう一人の、浦川だと思います」
 とりあえず、高本さんは落ち着きを取り戻したようです。
「中津って文学部だっけ。有島武郎って知ってる?」
 横から八戸さんが、いつもの試すような調子で質問してきました。
「はい。札幌農学校の卒業生で、校歌の詞の作者でもあるそうですね。入学式で聞きました」
「作品は読んだことある?」
「はい、多少は」
「それでこそだよなあ」
 わたしも文芸人であり文学部に進む者として、文学に関するトピックスにはしっかりアンテナを張っているつもりです。だからと言って、文学が絶対で至上であると思っているわけではないと、(口にはしませんが)ここで断っておきます。
「そこらの奴なんてさ、有島武郎の名前すら知らないでやんの。それなのに自分は素晴らしい文芸をやってますみたいな顔しちゃって、嘆かわしいね」
 ですから、わたしは八戸さんの味方もするつもりもありません。こんなことでは、せっかく真面目に文学を学んで文芸に取り組んでいるのに、悪い印象が足を引っ張るばかりです。八戸さんに関しては、見下すだけで特に何か働きかけをしようという気もないようですが、いずれにせよ厄介者扱いされてもおかしくはないと思いました。
 江本さんはともかくとして、あまり気分の良い人たちではありません。適度に腹の内を探ることができたので、わたしはその場を離れることにしました。六限が終わるまで、図書館で時間を潰していました。

 その日の部会は出席者が二十五人くらいで、一年目も、一年誌に出したいと連絡をくれた人以外は来ていませんでした。連絡をくれた人も、遅い時間のためか何人かは来られないと聞いています。
 それにしてもこの間の例会とは正反対の落ち着いた雰囲気で、一年誌のサポーターもすんなりと決まりました。詩を出したいと言った和泉さんには樋田さんが、先生には三年目の上尾さんという男性がつきました。
 後から確認してみたのですが、上尾さんは文学部で、編集班の方でした。今回の部誌に作品を出されていますが、本人は山根さんに近いタイプで、作風はとても真面目なリアリティ重視の書き手でした。先生との相性はまずまずだと思います。
 その日の部会は他に学校祭の話や部費の話などもしたのですが、それはともかくとして、本題は終わった後にありました。
「アフター行きたい人!」
 部会が終わり帰ろうとする部員に向けて、明石さんが人差し指を高く掲げて見せます。アフターとは、要するに食事会です。一年目もおごりではないとのことでしたが、興味があったので、今日は先生と一緒に参加することを決めていたのです。昼から何も食べていないので、いい加減お腹が空いています。部会中も若干鳴りました。
 その会場は、近所の中華料理屋でした。鳳華苑というその店は、文芸部員が代々アフターでよく行く店の一つだそうです。
 参加者はわたしたちを含めて八人で、一年目では朝倉さんが参加していました。道中、声を掛けてみます。
「朝倉さん、お疲れ様です」
「あ、うん。お疲れ。中津ちゃんも浦川ちゃんも、実家だから参加しないのかと思ってたよ」
 アフターは前回の例会のときからあったわけですが、そのときは家で食事の用意がありましたし、疲れていたので参加しなかったのです。
「そう言いますけど、朝倉さんも実家から通ってますよね?」
「そうだね。私はコンパとかも、いろんな人と話すのが楽しいから、なるべく参加したくて」
 朝倉さんらしいまっすぐな動機が伺えました。人間関係を探るとか、そういうことばかり考えていた自分が少し恥ずかしくなります。楽しむことは忘れずにいたいものです。
「一年誌、出されるんですよね。えっと、上年目サポーターはどなたでしたっけ」
「私? 明石さんだよ。あんまり、サポートしてもらうって言っても、自分の遅筆さがいちばん不安だから仕方がないと思うけど……」
「最近、忙しいですからね。ガイダンスのときの作品ですか?」
「そうだね。今はそれしか、書いてないから」
 店に着いたわたしたちは、個室のボックス席に案内されました。ちょうど八人で席が埋まります。わたしたちは一年目三人で、明石さんを囲む形になりました。明石さんはとても嬉しそうです。
「一年目に囲まれちゃったなあ。朝倉ちゃん、一年誌のことで困ったら何でも言ってね! ゴーストライター以外なら何でもするよ!」
「ありがとうございます……よろしくお願いします」
 注文を待つ間、話題の中心は朝倉さんのことでした。主に明石さんの主導です。
「朝倉ちゃんは、何か好きなジャンルとかあるの?」
「あの……軽いミステリーとか、ホラー系が好きです」
「その辺りか。私もミステリーは好きだよ。じゃあ、書くのもそういうやつ?」
「書くのは、上手くないので……ホラーを書こうとしても、ジャンルがよくわからない作品になってしまったり」
 ホラーの近辺が好きだという人は、これまであまり出会ってきませんでした。ましてその書き手となると、実際に作品を読むのが楽しみになります。
「朝倉は、地元出身だと言っていたよな。文芸部だったのか?」
 先生も興味を持ったらしく、ややぶっきらぼうに質問をしました。許してあげてください。悪気はないのです。
「文芸部には入ってたんだけど、大会には出てなかったんだよね。部員も多くないし、当番校が回ってきたりして大変だから……」
「それで見かけなかったのか。そういう文芸部もあるのだな」
 先生は物足りなさそうな反応をしましたが、これも悪気はないのでしょう。
「先生、大会を目指すばかりが全てではなかったということですよ。同じ文芸の世界でも」
「……そうか」
「でも、浦川さんって全国大会で賞を獲ったんだよね。そこまで実力があるなら、やっぱり大会で上を目指して良かったんじゃないかな」
 朝倉さんがフォローを入れてくれます。先生の不躾な質問にも嫌な顔一つせず、全てを受け入れてくれる包容力を感じます。わたしも見習いたいほどです。
「そうだ。気になっていたのだが、この部には大会などはないと聞いている。しかし、文学賞などに応募したり、個人的に動いている人はいないのだろうか?」
 その流れで、先生は明石さんにも尋ねました。
「いるよ。私の四つくらい上なんだけど、この部から二人、立て続けにプロが出たんだよね。メールボックスのアドレスが、『ユナのガレージ』になってるでしょ。ユナっていうのがその片方のあだ名なんだ」
「大先輩のお名前だったとは。驚きです」
 補足情報として、そのユナさんはデビューしたばかりで、先日単行本が出たとのことでした。あだ名の由来は、本人が部内に作品を投稿する際に使っていた偽名からだそうです。
「偽名か。何者とも判らぬ者、アンノウンだな」
「知ってる? 『そして誰もいなくなった』」
 ぼちぼち料理が来て、わたしたちはそれぞれ食べながら、明石さんによる先輩の武勇伝を聞いていました。ある意味、その頃が文芸のレベルや部の盛り上がりとして一つのピークだったようです。それを知っている世代の人にとっては、やはり現状は衰退したように映るのでしょうか。
 それでも、わたしたちと話す明石さんはとても晴れ晴れとした雰囲気で、わたしが見立てたような憂いは少しも感じません。
 なまじ「文芸部はこうあるべき」なんて思い込みがあるから、それに向かっているか離れているかの価値判断も生まれるのです。良くも悪くも様々な人が、それぞれのベクトルを持っている部です。副部長でもある明石さんの眼差しには、柔らかな光が宿っていました。

 五月も下旬となり、ポプラの綿毛も日に日にその数を増しているのがわかりました。風向きによっては、キャンパスの外でも見かけることができます。
 そういう時候の挨拶を書けば、オリジナリティ溢れる手紙になるかもしれないと勝手な想像をしてみますが、メールには全く不要なことです。わたしは小樽へ行った高校時代の部活仲間に、久しぶりのメールを送ったのでした。
『染谷さん、お久しぶりです。お元気ですか? 六月の最初の週末に大学祭があります。良かったら遊びに来ませんか? 先生も会いたがっていると思います』
 返信はすぐに来ました。
『中津さん、久しぶりだね。誘ってくれてありがとう。日曜日なら行けそうです。もし良かったら、一緒にお食事もと考えているのですが、いかがでしょう?』
 当時の染谷さんの姿を思い出して、どんな顔をしながらメールを打っていただろうと想像します。それはとても楽しいことでした。その日曜日まで前向きに生きる理由ができたのです。荒涼とした気分になることの多い近頃ですが、これで大学祭までは乗り切れそうだと思いました。
 そんな大学祭ですが、基本的にはサークルや一年生のクラスなどの団体が、メインストリートに出店を出すというものです。一部の文化系サークルは教養棟で教室を借りて、上映会や展示会などの催しを行うそうですが、文芸部では毎年出店を出しているようです。
 その理由の一つは、傑作選の販売のためです。傑作選とは、毎年部員が互選で優れた作品を選抜して本にするものと聞きました。ラインナップを見ると、しっかり八戸さんや山根さんの作品もあるのですが、知らない作者さんが大半でした。何年目なのかの手掛かりも、本の中にはないようです。
 話を戻しますが、大学祭に参加するうえで見逃せないのはお金のことでしょう。大学祭にはたくさんの観光客が訪れるため、出店が儲かるのは言うまでもありません。その利益を目当てに参加する意味合いも多分にあると思います。しかしそれは部費に還元するものではなく、営業に必要な資本、つまり出資金を出した人に配当として分配されるのです(もちろん、赤字のリスクもありますが)。
 そういうわけで、自分のクラスの手伝いがあるわたしたちでも、出資金によって部に貢献することができるのでした。とはいえわたしは大学祭が開かれる四日間、染谷さんに会うことを除いては暇だったので、クラスと文芸部を同じだけ手伝うことにしました。
 会計を手伝ってわかったのですが、一年生にとってこのイベントは新歓の利益還元的な意味合いがあるらしく、体育会系のサークルに属している人には何万円もの「つけ」が蓄積していたのです。当然ながらこれは当局にも禁止されている行為なのですが、少なくとも文芸部にそういう慣習がなくて良かったと思いました。
 さて、先生はというと、前日と最初の日に若干自分のクラスを手伝った後、二日間は家でじっくりと創作に打ち込んだそうです。贅沢ですね。そうは言っても、一年誌の初稿締め切りも実は週明けすぐなのでした。この時期の忙しなさは高校時代を思い出します。高校でも夏部誌をこの時期に作っていて、中間考査の後すぐに締め切りを設けたこともありました。書いた経験の少ないわたしには、そこまで身に染みた感覚でもありませんが……。

 日曜日は最終日なので、営業は夕方まででした。その後は片付けです。染谷さんには六時半まで待ってもらい、それから再度駅で合流しました。そしてわたしが選んでおいたブックカフェに来ました。パスタやピザも出してくれるところです。
「というわけで、再会を祝していただきましょう」
「こうして三人で話すのは、とても懐かしい思いだ」
「そうだね。いただきます」
 そこでわたしは、先生の笑顔をとても久しぶりに見たような気がしました。そんな感慨ばかりです。懐かしんで、振り返って、まるで今は希望がほとんどないかのようです。
「二人は、文芸部に入ったんだよね。もう作品は書いてるの?」
「明後日が締め切りだな。昨日書き上げた」
「わたしは相変わらず、編集専門です」
「そうなんだ。締め切り……レポートでしか聞かなくなっちゃったなあ」
 染谷さんも少し、あの頃を懐かしむように目を細めていました。
「もう、文芸は何も続けていないんですか?」
「小説は書かなくなっちゃった。やっぱり、私はあの部でみんなといたから書けたんだなって思う。でもね、俳句は続けてるんだ。何か印象的なことがあったら、寝る前、日記みたいに俳句を一句詠むの」
「いいですね。素敵な文芸だと思います」
 誰に読んでもらうということがなくても、日々の片隅に文芸がある。わたしたちは、それでは満足できなかったのだなあ、と思います。様々な人や作品に触れ、自分の作品を磨いていくような文芸をするのが当たり前になっていました。しかしあの頃は部員同士でその感覚を共有し、集団として高いモチベーションがありました。一度は成しえた理想を、人はなかなか捨てることができません。
「文芸のある日々……か。わたしはもう、自分のためだけに完結する文芸では、物足りなくなってしまった。持たざるを得ない向上心だ。同じ場所に、変わらず長くとどまることに耐えられなくなってしまった」
 先生の感傷的な言葉に共感します。文芸は趣味なのです。本来はそれぞれ、自分の満足を突き詰めれば良いのです。しかし先生はもはや、趣味と果てしない文芸の道を究めることが重なってしまったのでした。わたしもそんな先生に、ついて行こうとしています。
「……浦川さん、大学の文芸部って、どんなところなの?」
 いつの間にか考え込んでしまって、わたしも先生も、この場にあるまじき暗澹としたオーラを出してしまいました。染谷さんは戸惑っています。ここでわたしが、気の利いたことを言って持ち直せばいいのに、その言葉はすぐには浮かびません。その間にも先生は、真剣な面持ちで答えました。
「どうだろうな。まだ言い切れない。全体としての方向性があるわけでもなく、文芸に対するモチベーションもまちまちだ。だが……作品を出す前に終わるわけにはいかない。世代交代は必ず来る。わたしたちがこれから、変えていける部分もあるだろう。それを思えば、今はじれったいことも多いが、捨てたものではない」
 わたしははっとさせられて、後ろ向きになっていたのが自分だけだったと気付きます。先生は冷静に先を見据えていました。
「そっか。大変そうだけど、浦川さんならきっと、文芸の力でなんとかできるよ。中津さんもついてるし」
「そうですね、はい」
 こんなことで前向きになっても、気休めにしかならないのかもしれません。しかし、わたしたちでもこれから、できることが少しずつ増えていくはずなのです。
「今はまだ、先の見えない部分もありますが……今日はせっかくなので、あの頃のように語り明かそうではありませんか。『日々の文芸』ってテーマはどうですか?」
「懐かしいね。ずっとそんな感じで話してたっけ。でも帰りが遅くなるとあれだから、九時半くらいまでね」
 懐かしむのは、できれば今日で最後にしましょう。こんな姿は高校の後輩たちにも見せられません。次に会うときには胸を張って未来のことを語れるように。わたしたち、文芸人のスキットが始まります。

   ***

「染谷さんは、日記みたいに俳句を詠んでいるという話でしたけど、例えばどんな感じなんですか?」
「例えば、小樽駅のすぐ近くに、船見坂っていう坂があるんだよね。そこは線路を越えて、山のほうに上っていく坂なんだけど、下のほうは市場があって、海産物の匂いがするんだよね。そこで迎えた春のイメージで……『魚の香桜の香せり船見坂』みたいな」
「なるほど……海と山のコラボレーションですか。なんだかシュールですね」
「あまり実際に嗅ぎたいものではないな」
「まあね……自分でもそう思ってる」
「シュールレアリスムならぬ、シュールストレミングですね」
「それは何?」
「世界一臭いという、魚の缶詰だな」
「やめて!」
「いやはや、愉快ですね」
「だから、まあそんな感じで、俳句を詠むの。二人だって、キャンパスとか探検してみたりしないの? かなり広いんだよね」
「半分以上は森と農場ですけどね。先生は探検したみたいですよ。それで、入学一週間にして花木園に引きこもり……」
「それは文芸的な視点で、自然を観察しているのだと言っただろう。わたしは日々、意識的に文芸をしているわけではないが、何気ない場面で作品のことを考えている。先の展開、書きたい場面、テーマのことなど……それは文芸活動の大切な糧だ」
「浦川さんはそうだよね。中津さんは普段、文芸のことは考えるの?」
「わたしは……自分で作品を書くわけではないので、読書がそれにあたるんですかね。部長だった頃は、部の盛り上げ方とか、染谷さんのいじり方とか考えてましたよ」
「私のいじり方なんて考える暇があったら、文芸できたんじゃ……」
「いえいえ。わたしはこうして、先生や染谷さんたちと文芸的な日々を送ることが、自分にできる一番の文芸だと思っていますので」
「編集は、あの部でも重要のようだからな」
「なんだか、あんまり納得できない……でも真面目な話、日常的に文芸をしようとしたら、俳句とか随筆とかになるのかな。小説とか、作品のサイズが大きくなるほど、続けるのも大変だし」
「毎日続けることにこだわる必要はないと思うんですよね。ただ、小刻みに作品を完成させることで得られる満足感は、続ける動機になると思うんです。そうなると、連載風の掌編小説とか、そういうものでも良いのではないでしょうか?」
「そうだな。必ずしも、短いものが書きやすいというわけでもないが」
「それから日記って、その日のことを思い返して書くという点では、あんまり創作性がないですよね。わたしの場合、淡々とした内容になりがちで、得意ではありません」
「なるほどね。じゃあ逆に、すごく脚色して創作みたいな日記を書いたら、文芸的で面白いんじゃないかな?」
「ほうほう。ちょっとやってみたいような気がします」
「現実からいかに発想を飛ばせるかが問われるだろうな。創作の訓練になるかもしれない」
「それにしても、時間がなくて、隙間の時間にできるようなものと考えると……文芸は時間が掛かりますね」
「ノートの落書きにも、絵を描くことこそあれ、小説を書くことはないからな」
「えっ、浦川さんならそういうことやるのかなって思ってた」
「いや、そもそもわたしは落書きなどしない」
「でも、そのレベルのことが自然にできる人は、意識して文芸をしようとしなくても大丈夫そうですね」
「結局は、文芸が好きで、何か日々続けようとする……その自然な心の動きから、何気ない文芸的な行動が生まれるのだろう」
「私の俳句も、その範疇に入れてもいいよね?」

三 梅雨

 大学祭が終わると、天気予報に傘のマークがずらりと並ぶようになりました。ライラックの咲く頃です。先生は植物園に行く機会をすっかり逸してしまったようですが、もうしばらくその日和はなさそうです。
 その日、わたしは六限があった後の部会でした。今日のメインは、一年誌の編集決めという極めて重要な議題です。しかしもう一つ、下野部長からさらに重大な宣告がなされました。
「早いもので、僕ら役員の任期は残り二か月、前期最後の部会までとなりました。つきましては来月、役員選挙を執り行いますので、立候補される方は今月中に、僕に連絡してください」
 この部の役員は、部長と副部長の他に会計が一名、書記と庶務が各二名います。会計以下の五名については現在の一年生から選出したいとのことで、わたしたちにとっても他人事ではありません。ちなみに編集班などの班長も、同じタイミングで選挙をせずに代替わりがされるようです。
 選挙に関して、二年目の中で緊張が高まっていることは傍目にもわかりました。下野部長の話が終わった後、黒沢さんが真剣な表情で前に出ます。
「この場をお借りして、二年目二年生の皆さんに連絡します。近いうちに、部の今後の運営について会議をしたいと思います。後ほど詳細をメールでお伝えしますが、日程調整等、ご協力ください。よろしくお願いします」
 人間関係については後で整理することとしても、黒沢さんが立候補するつもりなのかどうかはよくわかりません。しかしそれは明らかに、立候補を考えているらしい高本さんへのアプローチだったと思います。
 とりあえず、わたしたちにとっての本題から片付けてしまいましょう。一年誌編集長になったわたしと和泉さんが、ここからは司会を務めます。
「それでは、これから一年誌の各作品について、編集を決めていこうと思います。まずは作者の皆さんに、簡単な作品の紹介と、編集の希望をお願いします。お手本はこちら、和泉さんが見せてくれます。どうぞ」
 というより、メインの司会はわたしで、和泉さんには書記の役割があります。
「フミ、無茶振りだな。和泉恭子、詩を出します。編集はこの機会にいろんな人と仲良くなりたいと思うので、まだあまり絡んだことのない人にお願いしたいです!」
「はい。ありがとうございました」
「これ、あたし黒板書くんでしょ?」
「お願いします」
 出された作品は意外と多く、九作品を数えていました。一年目は、名簿上では二十人くらいいるらしいのですが、今日の出席者はざっと数えて十三人です。作者でない人は、なにかしらの編集についてもらうことにするつもりです。わたしは最初ということで、先生の編集になると決めていました。
「浦川、ジャンルは自然と冒険だ。編集は既に手配している」
「はい。わたしが編集をします。よろしくお願いします」
 そんなやり取りをしたとき、傍にいた新井くんが少しもの言いたげにしていました。気になる反応でしたが、一旦流して進めます。
「それでは次、新井くんどうぞ」
「新井、ジャンルは……自然と幻想です。編集は、表現の都合上、女性の方にお願いしたいと思います」
 場がざわつきます。かなり大胆な希望でした。『みなみハミング』と題された新井くんの作品は、聞いていた通り、「みなみちゃん」という湖の化身の女の子と交流する物語でした。その主人公に当たるのが女性だったので、女性目線の意見が欲しいというのも納得はできるのですが。
 そんな感じで作者側からの希望が出揃い、編集についても半分はすんなりと決まりました。新井くんも、本人が望んだ結果かどうかはわかりませんが、和泉さんが編集を名乗り出ました。一方、ここまでのマッチングで漏れてしまった作品はなかなか決まらず、進行が停滞します。
「えっと……もう作者でも編集でもない方は、いないですね。作者の方で、やってもいいという方いませんか?」
 そうしてわたしが促すと、残った数名については、空き時間などのすり合わせをしたうえでマッチングができました。いよいよ、残りは二作品となります。その一つは、和泉さんの詩でした。
「和泉さんから、何かありますか?」
「誰かいない? そんなに経験とかいらないから、楽しくやろうよ」
 それは主に、一年生の女性陣へ向けたメッセージでした。すると、奥のほうで小さく手が挙がります。農学部一年生の武藤さんでした。
「じゃあ、私でよければ」
「いいよ! 頑張ろう!」
 最後に残った小説の作者は、文学部二年生で、この春に入部した飯綱さんです。四分の一くらい欧米の血が入っていそうな、美しい顔立ちが目を引く女性です。八戸さんらと知り合いで、ふと興味を持って文芸部に入ったようです。そして、初めてながらも書き上げた初稿を提出したまでは良かったのですが……。
 端的に言うと、その作品はとても編集しがいのある出来でした。気を病んだ少年と少女の出会いを描いたようなのですが、鬼気迫る描写と短時間に跳躍を繰り返す展開により、非常にユニークな作品になってしまっているのです。先生は「実に挑戦的な作品だ」と面白がっていましたが、この場でマッチングできずにいるのを見るとやや不憫です。
 飯綱さんの希望は「経験のある人に教えてもらいたい」という順当なものだったので、わたしはそろそろ、先生を甘やかさず編集になってもらおうと思い始めます。
「私がやりますよ。飯綱さんが、よろしければ」
 そんなとき、新井くんの手が挙がりました。
「ありがとう! 新井くん? よろしくお願いします!」
 わたしにもありがたい申し出ではありましたが、その気があるならもう少し早く動いてくれてもよかったのに、と思いました。時刻は九時に近づき、そろそろ教室を追い出される頃合いです。

 先生の最新作は、先日の組み合わせ三題噺企画で書いたものではなく、入学前からこつこつと書き進めていた作品でした。極北の氷河に不時着したパイロットの主人公が、消息を絶った仲間の機体の破片らしきものを見つけ、付近を捜索するところから始まる物語です。翌日わたしたちは、食堂の一階で打ち合わせをしました。
「ところで先生、上年目サポーターってありましたよね。ほとんど使わなかったという報告が何件か届いているのですが、先生はどうでしたか?」
「ああ……そんなものもあったな。忘れていた」
「まあ実際使った人も、メールドライブの使い方を教えてもらったとか、あまり本質的な利用ではなかったみたいなんですけど」
 それでも一応、先生のサポーターだった上尾さんからは、初稿の添削を頂きました。かなりの部分で褒めている一方、鋭い指摘もあり、さすがは先輩という感じです。
「そうそう、実は新井くん、先生の作品の編集をしたかったみたいなんですよ。合評にも出てくれるそうです」
 これは部会の後で本人から聞いた話でした。わたしとしては、新井くんが先生の作品に興味を持つのは納得できるところです。その思いが先生に受け入れられるとは、どうにも思えないわけですが。
「新井が? 編集は遠慮したいところだな。胡散臭い男だ。合評に来るくらいは構わないが」
 案の定、先生は新井くんを拒むように言いました。彼の『みなみハミング』も読んだそうですが、先生の琴線には触れなかったようです。
「あれで先鋭的なことをしているつもりなのだろうが、出来は凡庸。あの自信ありげな態度といい、独りよがりなところは……唐澤を思い出すな」
「そうですね……確かに、新井くんは自分が経験者であることから、増長しているような雰囲気を感じます。悪いようにならなければ良いのですが」
 唐澤くんというのは、わたしたちの高校の後輩です。自分の才能のなさと戦い続けていましたが、あるところで折れてしまい、それ以来書くのを辞めてしまったと聞いています。それはわたしたちにとって、苦い思い出の一つです。
「それにしても、一年誌の合評は一回なのだな?」
「そうですね。最低一回です。二回目も、希望すればできますけど……参加者の母数が多くないので、同じようなメンバーで二回することになるかもしれませんね」
 ちょうどその頃、上年目は夏部誌の二回目の合評をしていました。編集との予定が合わなければ合評ができないという都合上、一回目と同じ曜日にセッティングされることが多く、必然的に参加者も似通うと大藤さんから聞きました。そうなると、同じような議論が繰り返されたり、あるいは極端に意見が出なかったりして良くないのだそうです。
「実際、順当に修正が行われれば、同じメンバーで二回行うのは確認の意味合いが強くなるからな。これだけ部員がいるのだから、メンバーを変えて二回というのが本来の想定なのだろう」
「そうですね。まあ、それはそれで、場合によっては大変らしいんですけど……」
 その大藤さんも先日、二回目の合評に臨んだそうです。しかし、メンバーが異なることにより全く別のベクトルから意見が来て、一回目の合評をもとに直した部分についても反対方向へ動かされそうになった……と小さな声で話していました。
「船頭多くして船山に上る、か」
「良くも悪くも、いろんな人が集まる部ですからね」
「まあ、それを互いに許容できるのなら、良いのかもしれないが」
「ほう。先生から許容なんて言葉が出るとは」
 先生は相変わらず、あまりボックスには近づきません。引き続きゲームは流行していて、特にはまった新井くんは、自らもカードゲームを持参して暇さえあればボックスに入り浸っているようです。そのおかげか、これまであまり見かけなかった一年目もボックスに来るようになっていました。朝倉さんや、武藤さんもそうです。
「先生は、一年目の人とどのくらい話しましたか?」
「皮肉か」
「単なる興味ですよ。一年誌の作品を読んでも、誰が書いたかわからないのではないかと」
「新井と、朝倉、和泉……そのくらいは、わかる」
「半分行ってないですよ」
 一年目同士のつながりができてくる中で、先生にもあまり孤立しないよう、もう少し自分から輪の中へ入っていってもらいたい……と、常に思っていることではありますが、最近は改めてそう思います。

 レポートの提出があるという先生と別れて、わたしはボックスへ移動しました。すると、新井くんがあまり見かけない上年目の男性と話しています。
「お疲れ様です。何かの打ち合わせですか?」
「ああ……飯綱さんの作品について、ちょっと」
 対する男性は、三年目の桜木さんです。わたしは部会で一度挨拶したきりですが、明石さんからは「こだわりが強すぎてなかなか書けないタイプ」だと聞いています。飯綱さんが個人的に桜木さんにも助言を仰いでいるらしく、今回編集についた新井くんと今後の方針について話していたところのようです。
「あの作品ですか……」
「まあとにかく、これはもうボツにするつもりで掛からないとヤバいよ。支離滅裂だもん。それでさ、新井は飯綱がどういう話を書きたいのか聞き取って、プロットをまとめてあげるくらいのことはしないと、収拾つかなくなるから」
「なんとか、やってみます」
「まあ原形をとどめなくなると思うけど、こんな意味不明な状態で載せたら最悪だからね。これから修正していく中でも、新井は常に、どういう面白さを目指すのか、しっかり見据えてないといけないよ。編集だからね」
 新井くん自身は、飯綱さんの初稿をそこまでひどいものとは思っていなかったようです。この辺りは感性の違いというか、敏感さの違いでしょうか。桜木さんは上年目の中でも、かなり頭の回転が速い人という印象を受けました。文芸に関してもとりわけ明瞭な考えを持っていることが見て取れます。
「本当は、もっとこういう初めての人にもちゃんと教えるような場があればいいんだけどねえ。まあ、こんなところだよ。俺はそろそろ行くから、頑張って」
 ひとしきり話して、桜木さんは去っていきました。新井くんは真っ赤に添削された飯綱さんの原稿を前に、やや興奮しているようです。
「おう、中津さん。あの人知ってる? 三年目の桜木さん」
「部会で挨拶はしましたよ。その添削は、二人でしたんですか?」
「いや、ほとんど桜木さんの意見のメモ。桜木さんはすごいよ。あの人は……文芸的に、信頼できると思った。今度話してみるといいよ」
「文芸的に、ですか。そういえば、新井くんの上年目サポーターって誰でしたっけ?」
「ああ、サポーターねえ……誰だったか。というのは冗談だけど」
 私の記憶でも、新井くんのサポーターは別の方でした。しかし例に漏れず、何かの支援を受けた事実はないようです。
「まあ、上年目サポーターがそこまで役に立ったという話は聞かないな。朝倉さんとかは、作品の提出の仕方を教えてもらったみたいだけど」
「放任的な方が多いんですかね」
 二限の半ばで、まだあまり人のいない時間帯でした。文芸部のボックスにも、私たち以外は来ていません。
「ところで新井くん、和泉さんとはどうですか?」
「和泉さん、まあ仲良くやってるよ。今日の午後に打ち合わせをするんだ」
「じゃあ、どうしてこんなに早くからボックスに? 一限とかですか」
「授業は午後からなんだが、ここに来たら誰かがいるかと思ってな。そうしたら桜木さんに会った。それ以外はずっと一人だったけど」
「入り浸ってますねえ」
 英語の試験などの大きな課題は去ったわけですが、それにしても暇そうです。
「理系はそこまで暇な印象もないですけど、新井くんは成績大丈夫そうですか?」
「課題とかは家でまとめてやるから。まあ、情報科はそこまでハードル高くないし、そこそこやってるから大丈夫やろ」
「そうなんですね」
 時間の使い方はそれぞれとしても、新井くんは日常のかなりの時間を文芸部に割いているようです。ここが居場所ということなのでしょう。
「ここにいればたくさんの上年目と話せるし、お互い、顔を憶えられるしな」
「それはとても良いことですね」
「この間は、六年目の人とも話したよ。松戸さんっていう」
「ほう。件の、樋田さんが話していた方ですか?」
「そうだな」
 この部の六年目で活動状態なのは二人と認識しています。その一人が松戸さんです。樋田さんの話では、後輩思いの偉大な方なのだとか。
「松戸さんは、夏休みに向けて作品を準備してるって言ってた。何でも、マスカレードがあるのだとか」
「マスカレード……仮面舞踏会ですか」
「匿名で作品を提出して、匿名で評価しあってその点数で順位を付ける、コンペみたいなものらしいんだ」
「そういえば、新井くんは企画班に行くって言ってましたね」
「それなんだが……今はあんまり企画班員である必要も感じなかったし、結局入らなかったんだ。朝倉さんと、武藤さんが入ってると思う」
「それで、暇を持て余しているんですか?」
 これです。自分の時間を、極力他人のために使おうとしないタイプ。先生も近い部分はありますし、一年目の今ならまだ許されるのかもしれませんが。
「企画だ行事だと言っても、それで書く時間がなくなったら本末転倒だからな。まあ、それもマネジメントってやつだ」
「そうですか」
「そういう意味では、二年目は今時期随分大変そうだねえ。大学祭もあったし、夏部誌に出してる人も多いし、選挙もあるし……学部の授業は、どうかわからないけど」
「他人事のように……」
 とはいえ、二年目の抱える問題は今のところかなりデリケートなもののようです。わたしたちが出しゃばって、どうにかできる性質のものでもありません。
「四年目の西島さんから聞いたんだがさ。高本さん、前に結構なことやらかしたらしいんだよね。今もああいう態度だし、それでみんな、高本さんが部長になることに抵抗があるんだな」
「ほう。それは、文芸的な問題ですか? 作品を取り下げようとしたとか」
「まあ……人間関係の問題だな。大藤さんっているでしょ。高本さんと大藤さんは、あんまり仲が良くないみたいなんだけどさ。それは、高本さんが一方的に因縁を付けてるからなんだって」
 確かに、二人が一緒にいるところはあまり見かけません。以前ここで鉢合わせたときも、ぎくしゃくした雰囲気がありました。
「そんなことが……ちなみにそれは、何か理由があるんですか?」
「大藤さんが上年目から好かれていることを妬んでいるそうだ。それで、高本さんは去年、この部に好きな人がいたらしいのだが……その人が大藤さんと仲が良かったので、その嫉妬をこじらせて……一度、部会の後に口論になったらしいんだな」
「確かにそれは不安ですね……」
 役員、特に部長は、部の空気やイメージを作る立場です。内部では部員のモチベーションに影響しますし、外部でも、例えば新歓で入部を考えている人に、悪い印象を与えるようなことがあってはいけません。
「でも、二年目に他の部長候補っているんですかね?」
「いないかもな。中津さんは知ってるかもしれないけど、大藤さんは二年目で唯一の編集班員だ。さすがに編集長と部長の兼任は大変だし、仕事や責務が集中しすぎる。八戸さんは絶対やりたがらないだろうし、後は江本さんか……」
 いずれにしても、高本さんに近い立場の人しか名前が挙がりません。サイレントマジョリティという言葉もありますが、このままでは結局、高本さんが部長になるのは避けられないでしょう。高本さんが善政を施してくれることを、ただ期待するばかりです。
「高校までの部長とはわけが違うでしょうし、誰でもなれるものではないとは思いますが……それならせめて、高本さんには誠意ある対応をお願いしたいですね」
「一年目としては、入って数か月にしてサークルが分裂する様を見たくはないわな」
 方針の違いから分裂したサークルがあるとは聞いていますが、人間関係がもとで分裂したとなれば、それはたいそう不名誉な風評になるでしょう。とはいえ既に、このような心配をしなければならないことも、不本意なことではあるのですが……。

 それにしても、わたしたち一年目は着々と横のつながりを築きつつあります。
『今度の土曜空いてる? 同期飲み行こうよ』
 夕方になって、和泉さんからこんなメッセージが届きました。ちょうど新井くんとの打ち合わせを終えた頃なのだろうと想像します。
『お疲れ様です。楽しそうですね。わたしは行きますが、先生にも声を掛けましょうか?』
 わたしは少し気を遣ってそう返しました。和泉さんの誘い方と参加メンバーによっては、先生が参加を敬遠する可能性があったのです。
『助かる。じゃあアキのことは任せた』
 しかし特別な誘い方をするわけではなく、先生にはわたしから誘うことが重要なのです。わたしが参加して、メンバーが一年目だけなら、まず先生は断らないだろうと思います。
 そんな感じでセッティングされた同期飲みでした。会場は大学からほど近いイタリアンバルです。来てみると、参加者はわたしたちを含め六人いましたが、男性陣は新井くんを含め誰もいませんでした。
「微妙な人数ですね。大学祭の打ち上げと重なる時期だったからでしょうか?」
「ああ、そうかもね。うちのクラスも明日だよ」
 大学祭から一週間に当たる今日は、打ち上げの開かれる時期でもあります。文芸部では来週に予定されていますが、一年生はそれぞれのクラスでも打ち上げがあるはずです。ちなみに先生のクラスも今日だったそうですが、断って内緒で来たというわけです。
「実質の女子会ですね?」
「新井のやつ、土日は忙しいとか言って断りやがったのよ。一応、知ってる一年目にはだいたい声かけたんだけど。まあ、いないほうが却って良かったかもしれないけどね」
 こうして集まったのは、部会やボックスでもよく見かける、いつものメンバーというわけです。席次など気にしたことではありませんが、先生はちゃっかりと奥に入り、わたしがその隣に座りました。
「飲み放題のコースだから。あたしカシオレにする」
 同期で集まるという名目なのに、和泉さんは遠慮なくお酒を注文しました。わたしも若干の圧を掛けられましたが、笑顔で誤魔化しておきます。
 飲み物に続いてピザやサラダなどの料理が出され、いよいよ女子会が始まります。
「じゃあフミ、真ん中にいるし頼むわ」
「わたしですか」
 主催者の和泉さんがやっても変わらないことだと思いますが、ここで開始を遅らせる理由もありません。わたしはジンジャーエールのグラスを掲げました。
「今日はお集まりいただきありがとうございます。これから一年誌も始まりますが、皆さんここで親睦を深め、楽しくやっていきましょう。乾杯!」
 というわけで女子会が始まったわけですが、もはや当然のように、先生はしばらく誰とも話さず、黙々と食べているばかりでした。もったいないことです。向かい側で先生に近い席の二人が、まだあまり話したことのない人だからなのでしょう。ちなみに残りの下座側に、和泉さんと朝倉さんが座っています。
「先生、少しは喋りましょうよ」
「話は聞いている」
「参加しないで聞いているだけって、居心地悪くありませんか?」
「……わたしに何を話せと」
 基本的に他人に興味を持たず、コミュニケーションも下手な先生ですが、話の流れに乗ることができれば饒舌にもなれます。幸いにも向かいの二人は、それぞれ一年誌に小説を出しているのです。わたしの助け舟プランが出来上がりました。
「そういえば武藤さん、一年誌の作品って、この間の三題噺企画で書いたものですよね?」
「そうだね。犬と墓場と、桜」
 適度にタイミングを見計らって、流れを引き寄せます。まずは先生の向かいの、武藤千晶さんです。先生と同じく農学部ですが、互いに面識はないそうです。出身は奈良の東の方だそうで、言葉には新井くんよりも明確なイントネーションの違いを感じます。
「うち、来週の水曜日が合評なんやけど、締め切りって明日で合ってる?」
「そうですね。明日、日曜日のうちに出してくれれば大丈夫です」
 そんな武藤さんの合評ですが、参加者には先生が入っています。というか、わたしがその調整を担当して、意図的に先生を入れたのです。
「先生、武藤さんの合評に参加されますよね?」
「そうだったな。合評稿が上がったら読もう。よろしく頼む」
 意図と言っても当然、文芸の実力を考えたうえでの采配が最初にあるわけですが、一度合評に出たくらいで仲良くなるほど先生は緩くありません。こうして話を振っても、極めてビジネスライクな返答しかしてくれないのです。
「武藤さんは小説を初めて書くんですよね。初稿、とても良かったですよ。ややうわべだけで、さらっと書きすぎている部分はありますが、そこはこれから深掘りしていけば良い話です。コンセプトも話の筋もしっかりありますし、完成が楽しみです」
「それは、なんだか……ありがとう。頑張るよ」
 対して、武藤さんを褒めたときの初々しい反応と来たら! 嬉しさをこらえきれず、綻んだ表情にわたしはうっとりします。先生なんて、いくら褒めてももう、当たり前みたいな顔しかしないのです。割と最初からそうだったのですが。
「先生も、武藤さんの初稿読んでますよね?」
「あの作品か。そうだな。素直に書けていると思うぞ。書きたいことや、作品を通してやりたいことが伝わった。新井のような、妙に捻った作品よりも好感が持てる」
「先生は、新井くんの合評にも飛び入りしてあげてくださいね……」
 わたしの感想には素直な反応を見せてくれた武藤さんも、先生の上から目線な感想にはやや戸惑っているようでした。
「先生……浦川さんと中津さんって、高校同じだっけ?」
「そうですね。文芸部で、わたしはずっと先生の編集をしていたんです」
「じゃあ二人とも、結構長くやってるんだね」
 しかしながら、武藤さんは先生にも若干の興味を持ってくれたと見えます。一方的にでも先生を仲間として認識してもらえれば、最低限はクリアです。
「まあでも、先生は見ての通りの人見知りで、この文芸部に入るにも葛藤があったみたいなんですよね。武藤さんは、どうして文芸部に入ろうと思ったんですか?」
「なんとなくかな。新歓で上年目の人と話して、楽しかったから。でもせっかくなら書いてみようと思って。文学とかはあんまりわからないけど、この間の企画みたいな感じで気軽にできるなら大丈夫かなと思ったの」
「それで企画班なんですね」
 話しているうちにフライドポテトやアヒージョも来て、和泉さんはかなりお酒が進んだようでした。そろそろもう一人のターゲットに移ろうと思います。
「和泉さん、飲みすぎないでくださいね?」
「大丈夫だって。えっ、顔赤くなってないでしょ?」
「若干来てるように見えますよ。明日も飲むんですよね?」
「ああ……そろそろ控えめにするかな」
 そんな和泉さんに肩を抱かれたりして絡まれつつ、付き合ってレモンサワーを飲んでいるのが星井美柑さんです。彼女は文学部で、朝倉さんと同じクラスなのだそうです。五月まではあまり見かけなかったのですが、一年誌にも出しているので、最近はボックスにもよく来ています。スタイルが良く、綺麗な額がチャームポイントの美人さんです。上年目の中でも若干の噂になるほどだと聞いています。
「それはさておき和泉さん、ちょっと星井さんお借りしてもよろしいですか? 一年誌の作品についてお話したいと思ってたんですよ」
「何か業務的な話?」
「いいえ、文芸的なお喋りです」
「じゃああたしも交ぜて」
 そんな星井さんの作品ですが、これもまた部員たちを若干ざわつかせたのでした。先日の編集決めのとき、本人は「日常系」と紹介したのですが、それが実際の内容とかけ離れたものだったのです。
「というか……星井さん、大丈夫ですか?」
 その話をしようとしたところで気付きました。星井さんの目が虚ろです。和泉さん以上にお酒が回っていそうな雰囲気です。
「……大丈夫、ちょっと眠いだけ」
「おい、何かあったらヤバいからさ、本当に具合悪かったら早く言いなよ」
 眠いのと酔っているのは、なかなか判別の難しいところです。しかし実際、こんなところで事案があれば、わたしたちが部をめちゃくちゃにしてしまいます。心配した朝倉さんが、すかさず水を注文してくれました。
「星井ちゃん……無理しないでね」
「うん」
「今日はアレだな、ちょっと早めにお開きにするか。星井が落ち着いたら帰ろう」
 さすがに和泉さんも酔いが醒めてしまったようです。隣で一緒に飲んでいたにも関わらず星井さんの異変に気が付かなかったことに、若干の負い目もありそうでした。
 料理はほとんど片付いていたので、飲み放題の終了時間を待たずに店を出ました。思わぬトラブルもあり、予定とは違う結果になりましたが、それにしても互いへの理解とか信頼は深まったような気がします。星井さんは、武藤さんと和泉さんが家まで送っていくことになりました。わたしと先生と朝倉さんは、地下鉄の駅まで一緒に行くことにします。
「星井ちゃん、大丈夫かな」
「和泉さんもいますし、大丈夫ですよ。あれで責任感は強い人ですから」
 ちなみに朝倉さんはずっと素面で和泉さんの話を聞いていたそうですが、それで少し眠くなってきたところで、星井さんの異変には気付かなかったとのことです。
「最近、情報学の課題がきつくて……私もちょっと寝不足なんだ。星井ちゃんは他の授業もたくさん取ってるし、忙しいみたい」
「そうだったんですね。確かにあの課題は大変というか、時間が掛かりますよね」
 必修の情報学では、何やらグループで討論をさせたり、任意のテーマでプレゼンテーションを作らせたり、データベースやプログラミングを使わせたりと、慣れない人にとっては困難な課題が畳みかけられるのです。実際、わたしも先生に入れ知恵をしてもらいつつこなしています。
「でもね、最近は新井くんが教えてくれるから、ちょっと楽になったんだ。というか、新井くんに聞かなかったら本当にわからないのもあるし……」
「新井くんですか。確かに彼は、情報科志望だと言ってましたね」
「そうだね。毎週助かってるよ」
 勉強を教え合うというのも、オーソドックスながら非常に友情の深まる機会だと思います。先生も、成績は良いのだから、そういう機会を持てるはずなのに……と、わたしは叶わぬ期待をしたのでした。ちなみに星井さんは、月曜日からボックスに姿を見せていました。何事もなかったとのことですが、授業や課題はやはり忙しそうでした。

 翌週の金曜日、いよいよ先生の合評が回ってきました。ちなみに文芸部の合評は、放課後に付属図書館のグループ学習室を借りて行っています。というのも、部室らしい部室がなく、教養棟の教室も週に一度の部会でしか借りられないため、集まって合評などを開ける環境がここしかないのだそうです。サークルでの利用は認められていない場所なのですが、二年目くらいにもなれば罪悪感もなくなるのだとか。
 先生の合評は平穏無事に進み、前向きに無難な結論を出して終わりました。先生の編集を希望していた新井くんが飛び入り参加してくれたのですが、彼に誘われてわたしたちは、合評のアフターへ行くことになりました。場所は教養棟からほど近い、「フリータイム」というレストランです。
「新井くんは、アフターにもよく参加しているんですね?」
「ああ。でも一年目は、朝倉さん以外あんまり来てくれないんだよなあ」
 わたしと先生も実家から通っているのと、先生が帰りの遅くなるのを嫌うので、あまりアフターには参加していませんでした。このレストランも鳳華苑と並んで定番のお店のようですが、来るのは初めてです。
 ひとまず注文をして、一息つきます。
「先生、今日の合評はいかがでしたか?」
「感触は悪くなかったな。一年目からは、あまり意見が出なかったような気がしたが」
「そうでしたね。べた褒めという感じでした」
「それは、浦川さんの作品の完成度がそれだけ高かったっていうことなんじゃないの?」
 やや不満げに首を傾げる先生に、新井くんは軽薄な調子で言います。
「実際、八戸さんも褒めてくれたしな」
「はい……あれは若干意外でした」
 八戸さんは合評の見守り役として参加してくれたのですが、先生の作品に関して開口一番「よく書けている」と発した後、「今年の一年目の中で、一番良いんじゃないか」とまで言いました。加えて、他の作品や一年目に対する嫌味が入るわけですが……。
「まあでも、浦川さんの作品は、文学的に見てもセンスがあるんじゃないかな。俺は理系だし、あんまりでたらめ言うと怒られるかもしれんが」
「それにしても、わたしたちはあんまり、文学のことを意識しているわけではないんですよね」
「そうだな。あの場では、文学というものに対する遠慮があったような気がした」
 一年目から出た感想も、「文学的なテーマ性だった」とか「人間について考えさせられた」とか、確かにそういう物語だったにせよ、やはり文学を意識したものが多くありました。「面白かった」とか「わくわくした」といった、どちらかと言えば感情的な感想をあまり引き出せなかったのが、わたしたちの心残りなのです。
「文学に対する遠慮って?」
「確かに文学には文学の面白さがありますし、人文科学の主要な分野の一つとして、古くから敬われてきた事実もあると思います。でも、わたしたちのする文芸は、文学とイコールではないと思うんですよ。ですから、文学が絶対的な権威であるかのような振る舞いには、違和感を覚えます」
「文芸は、文学とイコールではない……なるほどな」
 八戸さんや高本さんのように、自ら深く文学に近づこうとして文芸をする人もいます。ともすれば大学では、そういったモチベーションの人が正しく見えることもあるでしょう。だからと言って、文学的でない振る舞いを否定したり、糾弾したりすることが許されはしないのです。文学的でないことを罪とするならば、文学もまた罪なのです。
「まあ、これはわたしたちの考え方なので、上年目の人たちとは、相容れないかもしれませんが……」
「でもなあ。確かに八戸さんが、『今年の一年目はへなちょこだ』とか言ってるのを聞いて、俺も同じようなことを思うよ。ボックスで遊んだりすることにも、プレッシャーを掛ける動きがあるし……俺は今、こうして楽しく気ままに過ごす時間を、なるべく長く持ちたいだけなんだがね」
 途中から、先生はカレーライスを食べながら、黙ってわたしと新井くんの話を聞いていました。だんだんと、新井くんの言葉に対しても頷くようになったのが印象に残っています。
「新井くんは、文芸を始めて五年くらいでしたっけ。これまでにどんな作品を書いてきたんですか?」
「話したかもしれないけど、『みなみハミング』は、湖シリーズの三作目なんだよな。でも、そればっかり書いてるわけじゃなくて、恋愛とか、友情みたいな話も書いてきた。今回で十三作目になるな」
「なかなか書いてますね」
 ちなみに先生は、今回で通算十作目になります。新井くんの文芸歴は先生より一年ほど長いようなので、だいたい同じくらいのペースで作品を書いていることになるでしょう。
「北海道を離れるときに、仲の良かった女の子たちがいて、寂しさからそういう妄想を小説に書き始めたんだ。心理学的には昇華って言うんだよな」
「そうですか……」
 何気に「女の子たち」という複数形になっていたことを、わたしは聞き逃しませんでした。今も似たような環境で、「師匠」とすら呼ばれているわけですが、果たしてその心境はいかがなものなのでしょう。和泉さんではありませんが、若干気になります。興味というよりは、ある種の恐怖です。これには先生も、訝しげな表情を浮かべています。
「わたしたちの中に、気になる人とかいないですよね?」
「和泉みたいなこと聞くな……今はいないよ。というか、師匠だなんだと呼ばれているけど、俺はそこまで恋愛がわかってるわけでもないしな」
「少し安心しました」
「どういう意味やの」
 新井くん以外の男性陣は、部会でもあまり見かけなくなってきました。それぞれ癖のありそうな人たちだったので、わたしは少し残念です。新井くんについてはむしろ、同性との付き合いが苦手そうなこともあり、少なくともこの状況を嫌がってはいないのだろうと感じました。一方、先生の彼に対する印象は、あまり良くはならなかったようです。

 日曜日には学校祭の打ち上げが予定されていましたが、その前に企画班の会議が開かれました。わたしは班員ではありませんが、夏の企画や合宿について話すということで、気になったので単独で潜入することにしました。雨が降っていたからか、やはり新井くんの姿はありません。
「それでは、企画班会議を始めます。議題は、第九回マスカレードについて、合宿について、レギュラー企画についてです」
 班長の明石さんも来ていますが、企画班では代替わりが始まっているらしく、司会は二年目の平塚さんが務めています。自らホワイトボードに書く文字はあまり綺麗ではありませんが、二年目の中ではマイルドな印象を与える男性です。
「まずマスカレードについてですが、基本的には匿名で作品を提出して、匿名で評価をしあう会になっています。詳しいルールについては、要項を作ってきたので見てください」
 配られた要項に沿って、マスカレードの説明が進みます。どちらも匿名なのに、提出する側には作品数の上限が設けられていたり、評価する側にはなるべくすべての作品を評価するという目標が設けられていたり、なかなか難しいことが説明されました。
「作品の提出締め切りは九月上旬、夏休み明けには表彰式と、打ち上げを行います。ここまでで、何か質問意見等はありますか?」
 朝倉さんと武藤さんが顔を見合わせます。班員である二人に対して遠慮がちな気持ちにもなりますが、わたしには気になることがありました。
「この企画で作品を出す人と評価する人が匿名になることの意図は、どういうところにあるのでしょうか?」
「意図は……匿名にすることで、作者による先入観を取り払って読んでもらったり、あとは上年目の作品に対しても、忌憚のない評価をしてもらったり、というところですかね?」
 平塚さんは、明石さんに確認するような調子になってしまいます。回答は想像していたような内容でしたが、それが第九回になる今回まで意識的に継がれてきたわけではなさそうです。
「そうだね。普段部員の作品を読んでる人なら、匿名にしてもだいたい誰の作品かわかるんだけど……一年目から六年目まで、いろんな部員の作品が並べて評価される企画って他にないから、そういうところも楽しいと思うよ」
 明石さんの見解はそのようなものでした。以前、新井くんから六年目の方の参加意思を聞いたことを思い出します。上年目にとっては、概ね楽しいイベントとして認知されているようです。
「あの、表彰式をするということは、最終的に誰が受賞した作品を書いたか、知らされるということですか?」
 そこで、武藤さんの手が挙がりました。今度は平塚さんが普通に答えます。
「基本的には誰がどの作品を出したか、最後まで企画班でもわかりません。受賞した作品だけ、名乗り出てもらうことになります。優勝者には、例年図書カードを贈呈することになっています」
「わかりました。ありがとうございます」
 加えて明石さんによると、結果発表の時期になれば、八割くらいの作品は作者が自ら名乗り出て、それが打ち上げの話のネタになるそうです。
 細かい管理の方法など気になる点はありましたが、とりあえずは先に進むことにします。マスカレードについては、もう二つ項目がありました。
「それで、今年も例年通り個人賞の募集をしたいと思います。七月いっぱい募集して、あまりに少なければ、企画班賞を設ける予定でいます」
 個人賞は、その名の通り部員の有志が自費でパトロンとなって設ける賞です。これもまた、マスカレードを盛り上げる要素の一つなのだとか。問題は次の項目でした。
「最後に、評価と順位についてですが、例年通り総合点を十点満点として、その平均点で順位を付けることとします。また、アンケートサイトを使うのですが、総合点の他にキャラ、ストーリー、構成力、アイディア、文章力の観点でそれぞれ点数を付けられるようにしたいと思います。これは、総合点と直接関係しない、任意のものとします。あとは、自由記述欄を設けます」
 やや複雑そうな仕組みですが、評価においては総合点だけが必須ということらしいです。他の観点の点数は、ある意味飾りです。
「それで、総合点について、基準を設けるべきという話が前回出てきました。もし設けるならば、六点を基準に考えてもらうよう、周知したいと思います」
 その経緯は、前回まで自由に総合点を付けさせたところ、いたずらに高い点あるいは低い点ばかり付ける人がいたように見えたからなのだとか。最後は平均化されるので、その人がすべての作品に同じ基準で点を付けていれば平等なのですが、匿名なのでそれも保証できません。実際、作品ごとの評価数にはばらつきがあるのだそうです。
「なんだか、それも含めて、匿名だから管理に限界があるのは仕方ないのでは? 基準をこっちから言ったとしても、守ってもらえるかどうか、わからないですよね」
 武藤さんからそんな疑問が出てくるのも、頷けることでした。平塚さんの側には、どうにか健全な企画にしたいという思いがありそうですが、構造上の欠陥は否定できません。
「まあ……だからなるべく、全部の作品に評価を入れるようにお願いしていったり、そういうことが企画班としてできる一番の対策ですね。最後は、部員の良心に任せることになります」
 ある意味、この部の最大の企画ということで、少額とはいえ金品も動くので、舞台裏はなかなか重苦しい雰囲気でした。他にも夏に向けての議題はありましたが、わたしはこのマスカレードで、この部の文芸的な側面が見通せそうだとわかったので満足です。

 ということで雨の中でしたが、大学祭の打ち上げはススキノの焼き肉屋で開かれました。わたしは先生や和泉さんと一緒に、大学祭プロジェクトの責任者もしていた大藤さんを囲みました。
 夏部誌は二回目の合評が終わり、最終稿に向けて忙しい時期です。未成年だという大藤さんは烏龍茶を飲んでいましたが、雰囲気からか、多少の愚痴もこぼしていました。というのも、前回の部会で行われた大学祭の反省会が、例によって面倒な流れになっていたのです。
「今回、二年目も三年目も、頑張ってくれたんだけどなあ……」
 ちなみに文芸部の出店では、お好み焼きを作って売っていました。一月から試作会をして準備したそうですが、本番になるとシフトの人数が少なくて調理が間に合わなかったり、材料の不足で売れない時間帯があったり、騒ぎがあったとのことでした。利益は出たのですが、特に四年目の方などから、「行きあたりばったり」と評されていたのです。
「まあまあ、そういうこともありますよ。大藤さん飲まないんですか?」
「いや、僕は飲まないけど……」
 そんな大藤さんの隣で、和泉さんはライチサワーを呷っていました。疑わしくなりますが、年下は間違いなく和泉さんです。
「そもそもは傑作選を売るためなのに、みたいな声もありましたけど、実際はどうなんですか?」
 寡黙な大藤さんから本音を聞き出すことができそうだったので、わたしも積極的に聞き役に回ります。
「それはそうなんだけどね。去年までは、同じ日に同人誌即売会みたいなイベントがあって、それに参加してたの。でも、今年なくなっちゃったから、一緒に売ることになってさ。お好み焼きはその前から準備してたし、やっぱり、お客さんも大半はお好み焼きが目当てだから」
 傑作選を売るのは三回目で、ある程度売れることを見込んで発行部数を増やしたとのことですが、今年はそれが裏目になってしまったのでした。
「結果的に黒字だったんだから、良いじゃないですか。飲みましょうよ」
「まあ、うん……」
 和泉さんはひたすら陽気に、大藤さんにお酒を勧めています。いつの間にか、二人の距離がかなり縮まっているような気がします。どちらかと言えば、和泉さんが一方的に大藤さんを巻き込んでいるのですが。
 そしてわたしは、そんな二人の様子を、遠くから睨みつける人の存在に気付いてしまいました。言わずもがな、高本さんです。同じテーブルには、八戸さんや江本さんもいます。また、文学の話とも女性の話ともつかない談義をしているのでしょう。そこに何故か、樋田さんも同席しています。わたしは見なかったことにしました。
 ちなみに今日、一年目は先日の女子会メンバーが来ているだけでした。残りの三人は、それぞれ別のテーブルに散らばっています。
「今日も新井くんは来ませんでしたね」
「飲み会にあんまり興味ないんじゃない? 別にいいよ。それより、フミも飲む?」
「わたしは遠慮しておきます」
 和泉さんにはさすがに前回の反省があるのか、わたしや先生にはほとんどお酒の話を持ち出しませんでした。
 大藤さんからは、流れで先日あったという二年目会議の話が聞ければと思っていましたが、この場では全くそれに触れられることはありませんでした。

 その雨はしばらく止まず、火曜日の夜にようやく晴れ間が見えました。そして水曜日の午後、わたしは先生に誘われて、大学の植物園に来たのです。
「随分広そうですね。道順は先生にお任せしますよ」
「ああ。気の向くまま巡ってみよう」
 重ね着もいらないほど暖かくなり、ライラックの花は終わりごろです。その並木から続く灌木園には、ツツジやウツギの花などが見られました。園内は一周一時間ほどとのことですが、先生は全身を植物園の空気に浸しながら、ゆったりと歩いています。
「意外と咲いていますね」
「種類が多いからな。この時期だから、もうオオバナノエンレイソウや、クロユリなども終わってしまったが」
 散策には良い天気でしたが、すれ違う人はほとんどありませんでした。ここは市街の中心部からはやや外れていますが、それでもビル街に面した立地です。柵の外には、交通量の多い通りが見えます。
「先生は相変わらず、こういうところで癒しを感じられるんですね。羨ましいです」
「気苦労が多いようだな?」
「気苦労というか、取り越し苦労というか……気になるじゃないですか。二年目が、今後部についてどういう選択をしていくのか。わたしたちだって、無関係ではいられないですよ」
「まあ確かに、運営の方針は重要かもしれない。だがそれは、この部が文芸部でありながら、文芸のためだけに存在するわけにはいかない……そんなジレンマがあるから、余計に複雑な話になってしまうのだろうな」
 先生も、部の先行きについて憂慮していないわけではなさそうです。高本さんのことというよりは、部会での上年目の振る舞いを見て、思うところがあるということでした。
「先生は、高本さんのようにと言ったら大袈裟ですけど、この部が文芸を第一に考えるべきだと思いますか?」
「そうだな。文芸の力を互いに高められるような環境であるのが最低限だ。しかしそういう環境は、ただ文芸をする者が集まっただけでできるわけではない。場合によっては、互いの持つモチベーションを否定し合い、打ち消し合うような環境にもなるだろう。部長がその形成にどこまで関わるかはわからないが……少なくともあの高本という男は、文学以外にはあまり理解がないようだな」
「そうですね」
「恐らく、今の三年目とか、四年目よりも上の時代には、もっと部員相互の信頼と、適度な距離感と、精神の共有があったのだろう。規則やマニュアルのように明文化されない、以心伝心的な関係だ。しかしそれが通用しなくなり、コミュニケーションの断絶が起きてきている……社会の縮図だ」
「先生が見ても、わかりますか?」
「どういう意味だ」
「いえ……」
 サークルは絶対に人が入れ替わるものです。四年を超えて在籍する部員が例外的に数名いるだけで、新しい部員はどんどん入ってきます。だからと言ってわたしには、年月を掛けて醸成される部の風土や伝統、精神を蔑ろにすることはできません。しかし、そういうものが新しい人にとって邪魔である場合も、相応に多いのです。
「先生はあまり興味がないかもしれませんが、わたしはまあ、部員がゲームで親交を深めているとか、文学にあまり興味がないとか、そういう趣味の問題は本質的でないと思うんですよ。文芸と、それに関わる仕事を怠けなければ、この部はなるようになると思うんです」
 実は今週の部会で、樋田さんが鬼の形相を見せたのでした。それは来週に迫った、夏部誌の最終締め切りの件です。
『締め切りは、絶対に、絶対に遅れないでくださいね! いいですね!』
 噂には、締め切りに遅れる人が出ると、決まってろくでもない騒動に発展するのだそうです。そのためこの時期、編集班員は目に見えてピリピリするのでした。
 もう一人、三年目の山根さんも、控えめな態度でこんなことを言っていました。
『最近、ボックスでゲームをして盛り上がっていたり、それは部員として喜ばしいことだと思うのですが、合評の参加者が少なかったり、仕事が一部の人に集中したり、そういう状況になっているのはあまり良くないと思います』
 というのも、この部の合評は原則参加という建前ですが、実際は予定を組む際に、入ることのできる日程を担当者に送らなければ、参加せずに済んでしまうのです。確認してみると、確かに部会で見かける二年目や三年目でも、合評の参加者として名前がないことがありました。それぞれの事情もあるとは思いますが、これが続けば望ましくはないでしょう。
「まあ、仕事という言い方自体が、あまり良くない雰囲気を醸し出すのかもしれませんが」
「サークルは、会員のためのサービス業ではないだろうに」
「部誌制作の構造はもう、編集班のサービスですからね」
 こういうとき、まだ老成しきらない心を持ち合わせるわたしなどは、誰かがドラッカーでも読んで素晴らしい方向へ文芸部を導いてくれはしないかと空想するのです。しかしそれは、信頼できるリーダーの登場が前提にあるのでした。
「人手不足なら、倒産もやむなしか」
「まずは規模縮小ですよ。作者さんを切り捨てるんです。それか、対価を要求します」
「そんな殺伐とした文芸部も、逆に面白いかもしれないな」
 投げやりなジョークと、初夏の花の取り合わせです。カキツバタも盛りを過ぎたこの頃、バラの花やハスの花は輝かしすぎて、郷愁を寄せるには向きません。

 その裏では、朝倉さんの合評が延期になるというハプニングがありました。編集の方の都合でなかなか日程が合わず、六月最後のこの土曜日までずれ込んでしまったということです。その代わり天気は晴れて、穏やかな午後にたくさんの一年目が集まりました。新井くんも含めて、いつものメンバーが揃っています。
「今日は、飛び入りでもたくさん来てくれて、本当にありがとうございました」
 朝倉さんは最初少しの間戸惑っていましたが、見守り役に平塚さんを交えた合評は緩やかに進み、また無難すぎるということもなく、楽しく終わりました。
 そして、なんとなく全員で固まって、会場の図書館を出た後のことです。
「今日、星井の家に行こうって話してたのよ。フミとアキも来る?」
 和泉さんがそんな誘いをしてきました。元々は今日、二人で遊ぶ予定だったそうです。
「わたしはいいですけど、星井さんは?」
「問題ないよ。ねっ」
 目配せをされた星井さんは、そのまま頷きました。
「先生は、どうします?」
「わたしは……今日は帰るとしよう」
「そうですか」
 そうしているうちに、和泉さんは武藤さんや朝倉さんにも声を掛けていました。朝倉さんは興味を示しているようです。しかしその流れは、思わぬ方向へ向きました。
「えっ、新井も来たいの?」
「いや、その……朝倉さんも、行くのね?」
「うん、行こうかな」
 何故か新井くんが、朝倉さんと何かの相談をしています。そして、一人で帰ることをためらっている様子。
「来たいなら来れば? いいよね、星井」
「まあ……片づければ、大丈夫」
「じゃあ、行く。行かせてほしい」
 それがなんと、和泉さんの一言で、あっさりと新井くんの参加も決まってしまったのでした。普段の飲み会ならまだしも、今日は場所が一人暮らしの女性の部屋です。気にしすぎと言われればそれまでですが、かなり奇妙な状況になったと思いました。
 そういうわけで、わたしと和泉さん、朝倉さんと新井くんの四人で、星井さんの部屋にお邪魔することになりました。
「新井くん、本当に大丈夫ですか?」
「まあ、星井さんもいいって言ってるし……気は遣うけどな」
 道中、そう言いながらも新井くんは平気そうな顔をしていました。そこまで抵抗があるわけではないのでしょう。師匠と呼ばれるだけあり、女性に関しては随分と図太い神経をお持ちのようです。
 部屋の前で五分くらい待った後、わたしたちは入室を許されました。
「今日は、二人で何をする予定だったのですか?」
「本当はホラー映画でも見せて、星井を怖がらせようと思ってたんだけど……借りてくるの忘れちゃったからさ。ホラーゲーム持ってきた」
「そうですか……」
 ホラーと聞いて、星井さんが無言で抗議の姿勢を見せます。しかし和泉さんはそれを完全に無視して、ノートパソコンを立ち上げ始めました。これは二人だったら、また別の意味で荒れそうだと思います。
 和泉さんは操作も星井さんにさせる気でいましたが、星井さんが全力で拒否したので、ゲームに慣れていそうだという理由で新井くんが抜擢されることになりました。
「ほら、星井はもっと近くで見て」
「いやもう、おかしいでしょ、それはダメ」
「ちょっと驚かすだけだって、ちゃんと目開けて」
「無理無理、驚かすって言ってるし」
 ゲームには謎解きやアクションの要素もありましたが、新井くんは躓くことなく、すらすらとクリアしていきます。ちなみにそこまで血生臭いホラーではなく、映像や音響で驚かせる、お化け屋敷的な脱出ゲームでした。朝倉さんは一度攻略したことがあるようです。
「あ、ちょっと新井、そこの右の部屋入って」
「こっちか? でも……」
「いいから」
 途中から、すんなり進んで罰ゲーム的な場所も飛ばし始めたので、和泉さんがわざと間違った道を選ぶよう誘導し始めました。実際、和泉さんのワンマンショーで、新井くんは助手という感じです。そして星井さんは、望まざるVIP待遇なのでした。
 ゲームは一時間半ほどで終わり、夕方になりました。会はそこでお開きです。わたしはほとんど見ていただけでしたが、久しぶりに嫌なことを考えずに過ごせた日だと思いました。和泉さんと散々じゃれて、ぐったりとしていた星井さんには少し申し訳ない気もしますが、わたしは楽しかったです。

 七月になり、最初の部会で役員選挙の立候補者が発表されました。大方の予想通り、部長は高本さん、副部長は江本さんです。信任投票ということで、一週間後に例会が開かれることになりました。
 ちなみに、一年目が持つべき役職もそれぞれ埋まりました。朝倉さんが書記、和泉さんが会計、わたしと新井くんが庶務に立候補しています。これも例会の日に承認される予定です。
 その日のアフターには、樋田さんと大藤さんが参加していました。わたしは編集班員として、二人の近くに座らせていただくことにしました。場所は鳳華苑です。
「大藤くん、おつかれビール飲みます? 私の奢りですよ」
「いえ、お気持ちだけ頂戴します」
「じゃあ、私は頂きます」
 あまり気にしていませんでしたが、ここには「おつかれビール」というメニューがあるのでした。小さなグラスのビールが、格安で出てくるというものです。樋田さんなどは普段の様子からすると、本当に申し訳程度の量だと思いますが、それでも気分は良さそうです。というのも、夏部誌は最終稿締め切りが無事に終わったのでした。
「夏部誌、全部の作品が予定通り提出されたみたいで、良かったです」
「毎回一人くらいはいるんだけどね。今回はラッキーだったよ。でも、編集長はこれからマスターを印刷して、印刷に備えなければならないのだ。あっ、印刷講習会も告知しないと」
「講習会は、僕が担当しますよ」
「さすがは未来の編集長」
 部誌の印刷は、まず提出された原稿をもとに編集長がマスター原稿を作り、それをもとに輪転機で一ページずつ、必要な枚数印刷し、最後に丁合を行うという流れだそうです。その丁合の作業は、七月最後の部会に予定されています。
 ともかくも、ここからは事件に発展する要素が少ないということで、樋田さんは特に陽気でした。しかし、片や大藤さんはあまり表情を緩めません。平時に近い姿ではあるのですが、喜ばしい気分ではなさそうです。
「大藤さん、何かお悩みですか? 例えば、来週の選挙のこととか」
「いや、まあ……僕は、高本がちゃんとやってくれるって言うなら、お願いしようって立場だから」
「私まだ所信表明ちゃんと読んでないんだけど、そこまで変な内容ではないでしょう?」
「はい。それは、僕ら二年目の意見が反映されたものだと思って読んでくださればと思います」
 そこでわたしは、大藤さんの表情が覚悟の表現なのだということを悟りました。先日開かれたという会議の内容はわかりませんが、それを経た今になって、高本さんへの不満をこぼすのは二年目としてフェアではありません。
 その所信表明ですが、やはり「文芸活動を疎かにしない」こと、「部員の参加意識を向上させる」ことが謳われていました。一方で「多様な部員が満足できる地盤の確保」も内容として盛り込まれていて、二年目としての議論の成果が伺えます。それらの具体策については、もう一つ足りないという印象でしたが……。
「最悪の場合は、江本くんがなんとかしてくれるよね」
「いや、そうならないように僕らも頑張ります」
 江本さんは普通に上年目からの信頼もあり、所信表明の内容も「インターネットでの作品公開など、活動の場を広げたい」など現実的なものだったので、特に問題はないと思います。そして実際、和泉さんもそうだと聞きましたが、「江本さんが副部長なら高本さんが部長でも良い」という立場もあるようです。さすがにそんな政権はまずいのでは?

 六限期間も終わり、授業ではそろそろ最終レポートや試験などの話が出てくる頃です。七月に入ってからは夏らしい好天に恵まれることも増えましたが、その日は狙いすましたかのように、じっとりとした雨が降っていました。北海道の珍しい長雨は、梅雨と宣言されることがなければ、永遠に梅雨明けを迎えることもないのです。
 例会は普段と異なり、学生交流会館で開かれます。わたしは放課後に先生と一緒に向かう約束をしたので、五限の時間をボックスで過ごそうとしましたが、そこには新井くんしかいませんでした。
「今日は、誰も来ていないんですね?」
「まあ、こんな雨の中、わざわざ向こうの学部から来ないよ」
 この食堂や教養棟はメインストリートの北の端にあり、会館の反対側です。さすがにこの重大な日に、ここで遊ぼうと考える人もいなかったのでしょう。
「新井くんは今日の選挙、どうするつもりですか?」
「どうするって? まあ、高本さんは話を聞いてみて……かな。投票はする」
「そうですか」
 現実的なことを言えば、こうして信任投票に持ち込まれた以上、わたしたちに選択の余地はありません。それはもう、この部の上年目のことなので、厳しい質問が飛び交うことも予想されますが、どれだけ言葉での乱闘を繰り広げてもなお、最後には高本さんが信任されて幕を閉じることを望んでいる人が大半であるはずなのです。まかり間違って不信任になれば、想像のできないレベルの混乱が起こってしまいます。
「二年目はもう、腹をくくったというか……自分たちはこれで行きたいっていう姿勢を見せ始めたから、後はそれがどう判断されるかだ。中津さんはどう思う?」
「わたしは……正直なところ、こうして決まっていくことを変えようとは思わないですね。高本さんの作るこの部で、上手く共存していけるかがポイントだと思います」
「共存、ねえ」
 新井くんはクリアファイルを抱え、その中を見つめていました。高本さんの所信表明です。その表情には、迷いや苦しみが見え隠れしています。
「この部は、そこまでガツガツしていないところが良かったのにな……ゆったり書いていたい。文学がどうとか、知らない」
 こういうとき、新井くんはとても話したがりです。どこまでが本心かは断定できませんが、話すことが考えの整理につながるようなのです。まるで独り言のように続けます。
「俺はさ、もう五年くらいやってるけど……正直、高校のときも大会とか全然ダメでさ。要するに上手くはないんだな。でも、ここでならプロを目指すとか、そういうことばっかり意識しなくても、自分のペースで文芸ができると思ってたよ。それで、一年目の同期とさ、お互い文芸を楽しめるような仲間になって……な」
「それは今、実現していないのですか? わたしには、新井くんも楽しんでいるように見えていますよ」
「まあ……仲は良いかもしれないけど。文芸を楽しむ関係とは、違う気がするんだよな。部活仲間というより、ただの友達」
「なるほど……」
 先生と似たような考え方です。先生は恐らく、ただの友達をほぼ必要としていないので、こうした関係の形について悩む必要もないのでしょう。
「ちょっと最近、俺も文芸のモチベーションが下がっててさ。それは多分、高本さんの言う通りなんだよ。この部が、出会いと、遊びの場になっている……そんな感じだ」
「そうだったんですね」
「俺も最近、気になる人ができたし……楽しく過ごせるなら、そういうのも悪くないと思うんだ。でも、やっぱり文芸を続けてきたから、ちゃんとやりたい自分もいる。俺はどちらかに決めかねているけど、先に部の空気が決まっちゃったら、流されてしまうと思う」
「結局、その空気に強いられて文芸を続けることになる、と?」
「そうだな」
 こう見えて、新井くんは周囲の目をかなり気にするタイプです。その点で先生とは決定的に違うとわたしは判断しています。その一方で、彼自身はそんな性格をあまり受け入れていないようなのです。誰も見ていないところでも、手を抜きたいと思いつつ、誰かに見られる可能性を気にして手を抜けない、そんな哀しい葛藤が感じられます。
「ちなみに、気になる人とは?」
 そして、この質問はあまりするべきではなかったと思いました。これまでのように答えずに終わるのかと思いきや、新井くんは思い切りわざとらしく勿体つけて、彼女の名前を口にしたのです。
「……わかった、言うよ。俺は朝倉さんが好きだ」
 これはその場で思いついた異説ですが、本質的に目立ちたがりである彼は、「ちゃんとやっている自分」を周囲に誇示したくて仕方がない……という解釈も成り立つと思いました。そのほうがしっくり来て、かつ厄介なものです。

 例会はいつものように、定刻から三十分遅れて始まりました。いつかは改善したいものです。最低限の連絡事項を消化した後、いよいよ下野部長に紹介されて、高本さんが前に立ちます。
「それでは、部長に立候補した高本くんに、所信表明演説をお願いします」
「はい。私はこの部を、真剣に文芸をする部にしていきたいと考えています」
 そう切り出した高本さんは、事前に発表された原稿と同じ内容を、力強く語りました。
「文芸はもちろんのこと、文芸に関連した合評や編集、印刷等の仕事においても、一部の人に負担が偏ることなく、全員が協力し、部の活動としての意識を持って取り組むことを目指します」
 実現性はともかく、ここまでが当初の内容だったのでしょう。高本さんはここから、やや態度を軟化させ、わたしたちに語り掛けます。
「しかしながら、この部には作品を書いたり、読んだりするばかりではなく、例えば、デザイン班の皆さんのような、様々な目的を持って入部された方がいると思います。私はそういった方々にも、できれば、合評や編集などを通して、文芸活動に参加していただきたいのです。そして、この部がより質の高い文芸活動を行える場であるよう、私たちで、研鑽を積んでいこうではありませんか。何卒、信任をよろしくお願いいたします」
 演説は十分に満たないくらいでした。高本さんが礼をすると、拍手が起こります。しかしそれは、必ずしも歓迎や称賛の意を秘めたものではありませんでした。
「それでは、質疑応答に移ります」
 下野部長が発言者を募ると、一斉に数名の手が挙がりました。最初の発言者は、デザイン班長の山根さんです。
「あの、これはデザイン班の名誉もあるので言わせて頂きたいのですが、高本さんはデザイン班に参加する部員のことを、どのようにお考えですか? あたかも、絵を描くことばかりで、文芸にはまるで興味のない、そのような集団だと仄めかしているように聞こえたのですが、その点についてお聞かせください」
 最初から容赦のない質問です。実際、この部は新歓で、デザイン専門の部員も分け隔てなく募集していました。もちろん、デザインで部に貢献するというありかたは正当なはずです。しかも現在のデザイン班員は、ほとんど全員が夏部誌にも作者あるいは編集として参加していました。高本さんのデザイン班への言及の仕方は、やや乱暴であったと言わざるを得ません。
「はい。私には、デザイン班の皆さんを、デザイン班であるからと言って、文芸をしない集団であると決めつけるような意図はございません」
 高本さんは毅然と言い切ります。既に、かなり表情が険しいです。
「しかしながら、この部は現在、デザインのみを目的とした入部も認めています。私はそうした、文芸以外を目的とする部員であっても、文芸部なのだから、文芸活動に参加して頂きたいということを申し上げています」
「……わかりました。僕からはひとまず切り上げます」
 山根さんは不服そうな表情をしていましたが、次の発言者に配慮したのか引き下がりました。代わりに発言するのは、三年目の上尾さんです。一年誌のとき、先生のサポーターになってくださった方でした。
「高本くんが話してくれたように、合評をはじめとする仕事への積極性がなくなってきているというのは、本当だと思います。ただ、お聞きしたいのは、何をもって文芸をしているとか、仕事に参加しているかを判断するつもりなのかということと、それを部員一人一人について管理するつもりなのかということです。例えば、仮に積極的でない部員の存在が明らかになったとして、どうするつもりなのかということを聞きたいです」
 これももっともな疑問だと思いました。万一そのような管理システムが実現してしまったら、ディストピアまっしぐらだと思います。部員は離れ、しめやかに廃部を迎えることでしょう。
「はい。私には、活動に積極的でない部員を、直ちに糾弾する意図はございません」
 高本さんは先ほどと全く同じように答えます。どのような印象を与えようと、誤解だという一点張りで押し通すつもりのようです。コミュニケーションの方策として、あまり褒められた姿勢ではないと思います。
「しかしながら、この部の規約には、何らかの形で活動に参加していることを部員の要件として定めております。また、各マニュアルにおいても、合評や印刷、丁合等の作業には原則として全員参加することを求めています。私は皆さんへの呼びかけを通して、また自らも積極的に活動を行うことで、それらの規定を厳格に運用することを目指します」
 そしてもう一つ気になるのは、高本さんが部長という立場を、全能的な唯一神か何かだと考えてはいないかということです。部長になれば直ちに部員を従えて理想とする部を実現できるという、誤った認識を持っているように感じられるのです。確かに、カリスマ的な影響力で部員を導くような部長がいても悪くはないと思いますが、高本さんは現状それとは縁遠いのです。まず信頼が足りません。
「あの、僕からこのような話をするのは、心苦しいですが」
 高本さんを見かねたのか、大藤さんが手を挙げました。
「僕自身は、もう過去のことは気にしていません。高本に目指すものがあって、この部をしっかりと守ってくれるなら、それで良いと思います。ただ、中には高本がこれまで起こしてきた問題について、まだ不安に思っている人もいると思います。それについて、改めて考えを聞かせてもらいたいです」
 今、このやり取りの中でも息遣いが荒くなっている高本さんです。見た目に反して気性の激しい部分があるのは、上年目にとっての大きな不安要素です。一度は大藤さんと喧嘩になりかけたとも聞いています。
「私も、過去のままではありません。男子三日会わざれば刮目して見よ、ということです」
 本人は気の利いた答弁をしたつもりなのだと思いますが、これには場が一気にどよめきました。失笑すら聞こえます。
 予想以上の泥沼ぶりに、質疑応答は長引きました。もはや上年目も二年目も、なんとか前向きな結論を引き出そうとする動きが見えてきます。しかし質問を一つ受けるたびに、高本さんの顔には深い皺が浮かび、目は赤くなり、余裕のなさをにじませます。
 そんな時間が、一時間くらい続きました。今回ばかりはわたしたち一年目も他人事ではありませんが、それにしても永いです。
「それでは、質問が出尽くしたようなので、高本くんについてはこれで終わりたいと思います。ありがとうございました」
 八時半を回り、ようやく江本さんの番です。それはもう、驚くほど安定感のある、平穏な時間だったと思います。やはりインターネットに展開することについては、その具体的な方法、部誌や傑作選など他の媒体とのバランスの問題など議論の余地はありそうでしたが、江本さんは冷静に、誠意ある答弁をしていました。

 例会は九時ちょうどに終わりました。学生交流会館も消灯時間です。わたしは雨が降っていたことすら忘れていました。アフターに行く気も起きず、ただ、先生と疲れた心を寄せ合い、駅まで歩いていきました。
「結局、信任されたな」
「それはまあ、不信任になったら、この部はもう終わりですよ」
 投票を終えて、妙に長い集計の後、下野部長から二人の信任が告げられました。実際のところ例会が成立する要件が部員の三分の二で、さらにその過半数が信任すれば良いので、見かけよりそのハードルは低かったと思います。それでもどのくらいの不信任があったのか、想像すると恐ろしいです。
「しかし、結果的に信任されると言ってもだ。あのように全方面から叩かれることを考えれば、生半可な覚悟ではなれないだろうな」
「それだけは、高本さんにも感心しますよ」
 高校と大学の部長は性質の異なるものですが、いずれにしても、新たな方向性で集団を動かそうとするのはとても大変なことです。ある日突然誰かが言い出したくらいでは、動きようがありません。地道なコミュニケーションと共感があって、少しずつ人の行動は変わっていくのです。わたしは部長の経験から、そう考えています。
「あれでは来年、部長になりたがる者も少ないだろうな」
「いいですよ。そのときは、わたしがなりますから」
「ふふ、その気があったら、独立したサークルを立てるほうが早いかもしれないぞ」
「フェアではありません。それに、曲がりなりにもわたしは、高本さんのようにしっかりと文学がわかっている人も、この部にとっては大切な人材だと思っているんです。だから、互いに気持ち良く過ごせるあり方を探っていきたいと思います」
「そうか。まだまだ大変だな」
 先生もまた、口では独立と言いながらも、やはりこの部に思い入れが出てきているのです。わたしが離れると言わなければ、この部を離れようとはしないでしょう。
 夏に向けて、次第に天気が良くなることを願うように……今は曇天のような部だったとしても、円満で晴れやかな雰囲気になるように。わたしはそれを、部長任せにはしません。大学生として初めての夏休みには、楽しみなイベントもたくさん待っています。どのような環境でも、楽しむことを見失わなければ乗り越えられると思います。できれば先生や、一年目の仲間たち、そして上年目の皆さんと、これからも楽しく過ごしたい。わたしの願うことは、つまるところそこに集約されるのです。

四 流風(上)

 四か月振りに見る校舎は記憶と何も変わるところがなく、安心感を与えてくれます。ここはわたしたちの原点なのです。
「先生……戻ってきましたね」
「ああ。展示の場所は、去年と変わらないのだろう?」
「先生ってば、本当に他のものには目もくれず、文芸部だけ見て帰るつもりですか?」
「それが目的なのだ、何も悪いことではない」
 人混みの苦手な先生は、足早に校舎の中へ入ろうとします。わたしは玄関の受付でパンフレットをもらいました。
「先生、今年も社会科教室とは限りませんよ。行った先で演劇部の公演に巻き込まれたり、将棋部の対局に放り込まれたりしても怒らないでくださいね」
「ん? 天海から聞いていないのか?」
「はい。実は今日、サプライズ訪問なんです」
 天海さんは三年生で、わたしの次の部長です。卒業以来連絡を取らなくなってしまい、そのまま今日を迎えてしまいました。なかなか連絡を取る口実がなかったということも、単純に忙しかったということも、今となってはただの言い訳です。
「それなら、行った先で誰がシフトに入っているかもわからないのか」
「そうですね。もしかしたら、一年生に会えるかもしれませんよ」
「会うのは良いが、わたしたちのことを知らない代だぞ。大丈夫か」
「先輩なんですから、堂々としていればいいんです。あっ、場所は去年と同じでした。行きましょう」
 もしも文芸部に一年生が入部していなかったらとても気まずいことになってしまいますが、そこは後輩に対する信頼の表現ということにしておきましょう。わたしたちはまっすぐに文芸部のブースへ向かいました。すると、幸運なことに知っている後輩が二人いました。
「天海さん、小池さん」
「フミ先輩、アキ先輩!」
「来てくださったんですね!」
 天海さんと、もう一人は二年生の小池さんです。二人はわたしたちを見つけると、長く留守番させた犬のように飛びついてきました。先生も照れながら、小池さんと抱擁を交わしています。
「お久しぶりです。皆さんお元気でしたか?」
「はい。一年生が一人入って、四人で楽しくやってます。先輩方のために第三号の部誌も取り置きしてあるので、今持ってきますね」
「最新の第四号はこちらです! 私が編集したんですよ!」
 小池さんが指した机には、わたしたちの名付けた部誌『逍遥』の第四号が積まれていました。早速手に取り、中をめくってみます。聞いた通り、初めて見かけるペンネームが一つありました。
「桜井志織さんというのが、今年の新入部員の方ですか」
「はい。本名は、波田佳乃ちゃんっていうんです。詩が書けるんですよ! 大人しい子なんですけど、直ちゃんと違ってとげとげしいところもないので、とってもかわいいです」
「小池さんも、すっかり先輩ですね」
 高校生にしてはやや小さい体で、小池さんは今の充実ぶりをめいっぱい表現していました。ちなみに、「小さい」というのは本人の前では禁句です。
「今日はどのくらい居られますか?」
「終日空いてますよ。せっかくですから鳴滝さんや、波田さんにも会っていきたいですね」
「それは良かったです。二人とも喜びますよ」
「部誌、持ってきましたよ!」
 そこで、天海さんが第三号の部誌を持って戻ってきました。シフトの交代までは一時間ほどあったので、わたしたちはそこで待たせてもらうことにしました。
「さて。天海さん、文芸部はどうでしたか?」
 既に代替わりはしていますが、まずは天海さんに報告を聞かせてもらうことにしました。抜き打ちテストのような不意の質問でしたが、天海さんは臆する様子も見せず、堂々とした表情を保っています。
「はい。困ったり、悩んだりすることもありますけど、私たちはみんな、自分の文芸に自信を持ってやっています。私はこの文芸部が好きですし、後輩たちもそう思ってると感じてます。それは私の力というより、それぞれが部のために行動してくれたからですけどね」
「いいえ、素晴らしいと思いますよ。部誌の編集もちゃんとできていますね。小池さんが編集をしているのは、少し意外でしたが」
「去年の大会で部誌部門の分科会に参加して、興味が出たみたいです。部誌の編集はそろそろやり方が固まってきたので、マニュアルを作ろうと思っています」
「いいですね。しっかり引き継いであげてください」
 そうです。この感じです。部員がそれぞれ高いモチベーションを持って、誰からともなくまとまって、さらに成長していく。わたしたちの成しえた理想です。あの大学の文芸部では、全体としてこのレベルに達するのがもはや、限りなく困難に思われます。それでもなおわたしは、今の仲間たちと少しでも良い関係を築いていきたいという思いを新たにしました。
「唐澤は、まだ戻らないか」
 一方で、先生は唐澤くんのことが気になっているようでした。わたしたちが手を尽くしても、最後まで救えなかった後輩です。彼が休部となってしまってから一年になります。
「なんだか私、あいつに避けられてるみたいで。状況はよくわかりません。でも、私からは絶対に迎えに行かないって決めているんです。あいつ次第です」
「そうか」
 そのとき天海さんが初めて表情を暗くしました。握られた手からもどかしさが伝わります。当時の部長としての責任感なのか、同期としての別の感情なのかはわかりませんが、唐澤くんのことを今も心配しているのでしょう。わたしは何やら、眩いものすら感じます。
「先輩方、やっぱり心配ですよね。すみません」
「なに、天海は自信を持って良いと思うぞ」
 先生も、同じようなことを感じたのでしょうか。励ます言葉も、差し出す右手もぶっきらぼうで、こういう場面に慣れていないのが明らかですが、それでも心は天海さんにしっかりと届いたようです。
「ありがとうございます。あの……大会が終わったらまた、報告するので。今度は、大学の話も聞かせてください」
「ああ。楽しみにしているぞ」
 わたしたちは天海さんと、それぞれ握手を交わしました。小池さんはブースの番をしていましたが、そわそわしながらしきりにこちらを見てくるので、そろそろ交代させてあげることにします。
「次は小池さんですね」
「そうですね。代わります」
 天海さんが声を掛けると、小池さんは再び最初のように飛んできました。本当に元気な人です。元バレーボール部のエースだっただけあり、動きが全体的に機敏です。
「小池さん、文芸部は楽しいですか?」
「もちろんですよ! というか先輩、聞いてください。今私たちは、強大な敵と戦っているんです」
「敵……ですか?」
 有り余る元気によって、話も大袈裟になってしまうことがあるようです。わたしと先生は顔を見合わせ、揃って首を傾げました。
「はい。実は、さっき話した佳乃ちゃんのお兄さんなんですけど、文芸が大嫌いなんだそうなんです。それで、佳乃ちゃんに文芸部を辞めさせようとしたり、ひどいことを言ったりするんですけど、なんとか見返してやろうと思って頑張ってます!」
「複雑な兄弟事情ですね……」
「ふふ、楽しそうだな」
 当人にとっては間違いなく真剣な話だと思いますが、先生はこらえきれず笑っていました。小池さんが元々コミカルな作品の書き手なので、その印象から余計に誇張した話に聞こえてしまうのでしょう。
「笑わないでください、これは文芸部の危機なんですよ。佳乃ちゃんが辞めさせられてしまったら、一年生が居なくなって、大変なことになるんです!」
「では、勝つ見込みはありそうですか?」
「一緒にお兄さんを説得して、とりあえず大会までは続けられることになったんですけど、それまでに成果を出せなかったら、辞めさせられてしまうんです。でも、佳乃ちゃんも頑張っていますし、きっと大丈夫です!」
「それは結構ですね。これからも頑張ってください」
 後に、現在の部長である鳴滝さんや、注目の波田さんからも話を聞かせてもらいましたが、それぞれの代にそれぞれのドラマがあるのだということを実感しました。わたしたちは見守る立場として、詳しくは言及しないことにします。
 終わってみると、もう少し懐かしくなるかと想像していましたが、思いのほか前向きな心持ちです。先生も、別れ際には名残惜しそうにしていましたが、校舎を出れば普段の表情に戻っていました。
「皆さん楽しくやっているようで良かったですね。先生、もう少し居たかったんじゃないですか?」
「言うな。入る風があれば、抜ける風もある。だから、帰るぞ」
「本音は?」
「天海がこっちに来ればいい」
「先生、そういうところは変わりませんね」
 そんな想像は、わたしもしなかったわけではありません。ただ、先生のようにはどうにも思いきれなかったのです。たとえ天海さんが同じ大学に来たとしても、今の文芸部に誘うのが、本当に良いことなのか、と。
「先生は、今の文芸部でも……天海さんを誘いますか?」
「わたしたちもいるのだ、誘う以外にないだろう。今の環境が、天海を満足させられないと思うなら、わたしたちは変えていくこともできる。わたしたちの、フロンティアだ」
「フロンティア、ですか」
 乱暴に見えて、後輩への最大級の思慮を込めた答えだったと思います。そういうところなのです。わたしはそんな先生に、これからも幾度となく励まされることになるのだろうなと思いました。
 将来の話はこのくらいにしましょう。わたしたちの、夏が始まります。

 一年誌は、第二回目の合評が始まりました。開催は任意ですが、先生はもちろん、新井くんや和泉さん、飯綱さんなど半数くらいが希望しています。
 一方で、夏部誌の印刷も行われています。輪転機がサークル会館という場所にあるのですが、これが教養棟の裏の林を抜けたところにあり、なかなかの僻地です。メーリングリストには、誰が来ないとか、忘れ物をしたとかの連絡が飛び交っていました。
 そんな期間だからか、ボックスは一時期と比較してかなり閑散としていました。一人か二人しか来ていないのは当たり前で、しかも来るのは限られた人だけです。具体的には、一年目のメンバーや、大藤さん、平塚さん以外は見かけなくなりました。
 ある日、わたしがボックスを訪れたとき、珍しく四人も集まっていました。新井くんに朝倉さん、星井さんと平塚さんです。どうやら四人で、トランプのハーツに興じていたようです。
「お疲れ様です。トランプとは、珍しいですね」
「ロッカーに、トランプが備え付けてあるんだよな」
 そのトランプは、誰のものというわけでもないのでした。以前だったら、新井くんが何か変わったカードゲームを持参していて、それで遊んでいたところだと思います。
「新井くん、最近ゲームを持って来なくなりましたね?」
「あんまりそういう空気じゃないしな。大藤さんも自粛し始めたし」
「ああ……」
 大藤さんのことは、わたしも本人から聞いています。曰く、「高本が部長になったし、僕はなるべく協力したい」とのこと。
「私、結局高本さんが何をしたいのか、よくわからないんだけど」
 そう言いだしたのは星井さんです。平塚さんが頷きました。
「今だから言うけどさ。二年目会議から大変だったんだよ。何をしたいかじゃなくて、高本には文芸部がどうなってほしいかしか見えてないんだよね」
「そうですよね? 部長になっただけでそれが実現するなら、誰も苦労しないですよ」
 高本さんが部長になるのはもはや決まったことですが、それを素直に受け入れる人と、そうでない人がいるのは当然のことです。そして中には、面従腹背の人もいるでしょう。新井くんなどはそのタイプに見えました。
「まあ、遊びすぎたというのはその通りかもしれないが……どうにも好きになれないんだよな、あの人。仮に俺たちが今から思い思いに文芸をし始めたとして、あの人を満足させられる保証もないし。平塚さんは、次期企画班長としてどう思いますか?」
 変わりつつある空気の中で、葛藤があるのでしょう。手持ちのカードを睨むその目が、本当に睨むものは何なのか気になります。
「俺は企画班も、文芸をさせるための班だとは思ってないよ。逆に、みんながこの部でやりたいことを実現させるための班だと思ってる」
 平塚さんの答えに、新井くんはすぐさま頷きました。
「サークル活動なのに自発性がなくなったら、何が残るんだって話ですよね」
 こうして話していても、状況が何か変わるということはありません。仮にこの会話が高本さんや江本さんの耳に入ったとしても、決して良い結果にはならないと思います。要するに愚痴なのです。そんな中、新井くんの隣で聞き役に徹している朝倉さんの姿に、わたしはは確かな癒しを感じました。
 それから、先日の新井くんの告白を思い出しました。振り返ってみると、確かに新井くんは、大抵朝倉さんの近くにいたような気がします。しかしながら、現状はまだ片思いなのでしょう。朝倉さんからは、普段の分け隔てのない慈愛以上のものを感じません。
「ところで平塚さん。マスカレードの個人賞、やっていいですか?」
 ややあって話題が変わりました。マスカレードについては、今月初めにアナウンスが行われていて、個人賞の募集締め切りが来週の部会になっています。
「いいけど、どんな感じ?」
「今のところ、青春を感じられる物語で、気に入ったものを選びたいと思ってます」
「じゃあ大丈夫かな」
 平塚さんはすんなりと了承しましたが、隣で星井さんが首を傾げます。
「そんな基準で大丈夫なの?」
「まあ……俺はこの機会に、近い創作観の人が見つかればいいかなと思って」
 詳しいことはまだ知りませんが、平塚さんの反応を見るに、個人賞が緩い雰囲気の企画であることは間違いないでしょう。新井くんのような動機で個人賞を開く人も、過去にいたのではないかと推測します。わたしは関連して、一つ尋ねてみることにしました。
「他にはどんな個人賞が出されているんですか?」
「今回はもう二つ出てるね。一つは樋田さんの韻文賞。もう一つは六年目賞。どっちも対象の違いはあるけど、基本的には気に入った作品って感じ」
「そういえば、韻文部門もあるんでしたね」
 実際、個人賞の運営はパトロンに任されていますし、賞品なども自費なので、企画班がそこまで干渉する必要もないのでしょう。
 しかしながら、仮に特定のジャンルを対象にした賞を設けたとして、該当する作品が全くないということも、可能性としてはあるわけです。いきなり個人賞に乗り出した新井くんは、やはり行動力があるのだと思いました。妙に、行動力だけは。

 ちょうどその日は、新井くんが編集をしている飯綱さんの合評がありました。先生が参加したので、翌日わたしは、打ち合わせのついでに様子を聞いてみることにしました。
「先生の作品については、ほぼ問題ないと思いますよ。あとは合評で、感想を聞いてみることにしましょう」
「そうか。では提出しておこう」
「よろしくお願いします。ところで、飯綱さんの合評はいかがでしたか?」
「あの合評か。面白かったぞ。妙に上年目が多かったようだが」
 合評そのものに関しては納得しているようです。上年目の飛び入りがたくさん来ていて、一年誌の合評らしくはなかったとのことでした。飯綱さんが個人的に呼び集めたのだそうです。
「あの作品、初稿からもう別物になってしまいましたね」
「そうだな。しかし、軟着陸に向かっているのは間違いない。書きたいテーマが定まり、それを形にする感覚がつかめてきたのだろう。新井も苦労しただろうな」
「そうですね。三年目の桜木さんにも、アドバイスをもらっていたようですが」
 飯綱さんの作品は結局、兄に生理的嫌悪感を持つ少女が、儚く発狂を迎えるまでの話になりました。作者の持ち味と思われる、美しくも異質な世界観がわたしも少し気になっています。飯綱さん自身は、大正期の少女小説に興味があるようです。
「三年目の桜木……知らないな」
「部会にはあまり来ていないので、仕方ないですよ。樋田さんと同じ、教育学部の三年生ですね。実はわたしも、あまりお話したことはないんです」
 新井くんによれば相当な切れ者ですが、残念ながら姿を見かけたのは数回しかありません。例会のときも、明石さんか誰かに投票を委任していたような記憶があります。
「話したい部員がいても、すぐには話す機会を持てないのだな」
「そうですね。ボックスや部会で自然に会える方ならまだしも、そうでない方は……」
 忙しいことがわかっている相手に、同じサークルとはいえあまり親しくもない自分が時間を取らせるわけにいかないと、つい躊躇ってしまうのです。それではコミュニケーションが進むはずがないと言われれば耳の痛い話ですが、やはりそこまでの行動力を持つ人は稀です。
「三年目以上になると、次第に忙しくなるのだろう。次々入ってくる後輩とも、互いに互いの作品を知らず、話したとしても世間話に終始し、関係は深まらない。必然の成り行きとはいえ、もどかしいものだな」
「その点、飯綱さんはかなり積極性と行動力がありますね」
「あまり参考にできる人物ではないようだが……」
 この頃、飯綱さんに関してはある噂が飛び交っています。それは、ある学部の教授の息子と交際しているというものです。しかもきっぱり「お試し」として、肉体関係を持たずにいるのだとか。わたしはそれを新井くんから聞きましたが、新井くん自身は本人から聞いたと話していました。
「そういえば、メールドライブに高本さんのゲリラ投稿が上がっていましたよね。読まれました?」
「ああ。あれは、飯綱のことなのか?」
 その噂と同じ内容のことが、先日投稿された高本さんの私小説にも描写されていたのです。作中の飯綱さんをモデルにしていると思しき女性は、堂々とした態度で弱気な主人公をたしなめる人物として描かれています。
「高本さんのことですし、半分以上は実際に起きたことだと思います」
「そうか。飯綱と高本は、なかなか相性が良さそうだな」
「わかります。でも、高本さんは飯綱さんに対してそういう感情はないみたいですね」
 他人の恋の噂など、期せず先生とガールズトークのようなものをしてしまいました。ともかく、わたしも飯綱さんの上達を楽しみにしているのは事実です。そのうち、本人と直接お話したいと思っています。

 代替わりは目前ですが、下野部長や明石副部長は普段と変わらない振る舞いを見せています。翌週の部会でも、淡々とできることをこなしている様子でした。
 その部会では高本部長の初仕事に当たる後期新歓の役職決めがあり、わたしは朝倉さんと一緒にポスターの掲示と点検を行う係になりました。そのポスターは、星井さんがデザインしてくれることになりました。こうした役割が与えられることで、わたしなどはいよいよ運営への関心が高まるような思いがするのですが、役割を免れた先生には、その感覚はわからないようです。
 それにしても、後期は九月の下旬からです。八月の上旬からそれまでの間は、聞きしに勝る長さの夏休みなのです。半分くらいの部員は帰省先で過ごすらしいですが、札幌に残るメンバーは、存分に企画を催して過ごす準備を進めています。
「合宿幹事の小宮です。副幹事は、新井くんにやってもらうことになりました。よろしくお願いします」
 二年目の小宮さんは、企画班員ではありませんが、去年の副幹事だったことから幹事に選出されたそうです。二年目の中では緩い雰囲気の女性であり、普段はマイペースに小説を書き、デザインを担当しているイメージです。
「それで、日程が決まりました。参加者の確定をするので、後でまた連絡ください。それから、八月の最初の日曜に合宿会議をしますので、一緒に企画を考えてくれる方は参加してください」
 小宮さんは低いトーンで、手元のメモ帳を見ながら連絡をしました。こういった場面はあまり得意ではないのでしょう。彼女の声を聴こうと、教室は静まります。
「場所は去年と同じ大雪山です。費用はおよそ八千円です。しおりは参加者と企画が確定したら作ります。何か質問ありますか」
 特に質問もなく、合宿の連絡は終わりました。小宮さんはゆっくりと席に戻ります。次に前に出たのは平塚さんでした。
「はい。続きまして、お待ちかねのマスカレードに関する連絡です。合宿の日程が決まったので、前日の二十四時を締め切りとします。作品数の上限は、小説部門は一篇です。詩部門は二篇ですが、詩集を出す場合一篇のみとします。守ってください。ルールなどまとめたものをメールドライブに上げておくので、しっかり読んで投稿してください。特に、匿名投稿の方法については、わからない方は確認するようにしてください」
 マスカレードでも、普段と同じようにワープロファイルで作品を提出するのですが、然るべき処理をしないと、ファイルに残ったユーザー名の情報から作者が特定されてしまうとのことです。
「個人賞に関しても一緒に上げてあるので、興味のある方は確認してください。今年は三つ出されたので、企画班賞は設けません」
 こうして事務的な連絡が続きましたが、企画はまだまだ予定されているようです。例えば二年目の黒沢さんは、夏部誌の作品からワードを抽出した三題噺の企画を告知していました。また、高本さんも企画を考えたらしく、せかせかと立ち上がりました。
「私からは、花火大会企画のお知らせです。来週の金曜日、花火大会がありますが、それを見物しつつ、文学について語り合おうという企画です」
 そこまでは文芸部員として至極真っ当な内容でしたが、次に提示した条件がわたしたちを困惑させました。
「ただし、参加者は、誰とも交際していない方に限ります」
 笑い声も聞こえます。高本さんは相変わらずなのでした。良くも悪くも姿勢がぶれません。せめて、参加者がいるようにと願います。
 こうして、その日は覚えきれないほどの企画が発表されました。上年目が夏部誌から解放されたので、そのエネルギーが企画に巡ってきたのでしょう。わたしも大学で最初の夏休みは、まだ予定の決まらない期間もたくさんありますが、充実したものにしたいと思いました。

 先生の二回目の合評も、一回目と同じようにすんなりと通りました。それが先生には、やや物足りなく思われたようですが、最終締め切りが来週である以上、今から大きなことを言われても仕方がありません。編集には、そういうジレンマがありました。
 参加者の中に和泉さんがいたので、終了後に三人でアフターへ行くことにしました。場所は和泉さんが気になっていたというインドカレーのお店です。最近は和泉さんも試験やレポートが続いて忙しかったらしく、こうしてゆっくりと話すのは久しぶりです。
「和泉さんは、作品の修正進んでいますか?」
「まだ何もやってないよ? 合評は先週だったけど、そこまで意見も出なかったし。武藤もこれで良いんじゃないかって言うんだよね」
 和泉さんの作品は詩なので、小説よりも意見が出にくいようです。合評の流れが参加者に左右される度合いは、さらに大きくなるでしょう。
「わたしも、詩の編集はそこまで経験があるわけではありませんが……よろしければ、感想を送りましょうか?」
「いいよ、早く片付いちゃうなら、それはそれでいいし。一年誌だからね。扉絵とか、自己紹介ページの取りまとめもしなきゃいけないし」
「それはまあ、そうですね」
 ちなみに一年誌では、デザイン班が働きません。扉絵は作者が準備するか、個人的に星井さんなど絵の描ける方にお願いするかのどちらかです。
「表紙のデザインも、星井さんにお願いしたんですか?」
「いや、あれはあたしがやる。最近ちょっといいフォント見つけたから、使ってみたいの」
「では、わたしの仕事はマスターの準備くらいですね」
「うん、頼むわ」
 その辺りで、注文したカレーとナンが出てきました。和泉さんは姿勢を正してから、楽しみにしていたカレーを食べ始めます。普段からこんなふうに、近所のラーメン屋やカレー屋などを巡っているそうです。大抵は一人で、たまに星井さんや武藤さんを連れていくこともあるのだとか。
「ところで和泉は、新井の編集だったな。新井の作品は、和泉から見てどうだ?」
 しばらくは食べることで忙しくなっていたわたしたちですが、あるとき珍しく、先生が話を切り出しました。新井くんの二回目の合評は、月曜日に終わっています。
「新井? あいつ本当は、編集なんていらないって思ってるんじゃないかな」
 新井くんの名前を聞いて、和泉さんが眉をひそめました。
「何かあったんですか?」
「第二次合評稿でさ、なんか資料が上がってたじゃん。ご丁寧に、写真付きの解説。あいつ、あたしに黙ってああいうの上げるんだよ。あたしの知らない情報とか遠慮なく入ってるし、もうどうしろって」
 件の資料は、新井くんが取材旅行で作品の舞台となった湖を訪れたときの様子を紹介するものでした。作中の描写が現実の風景とリンクしており、そこに表現したい情趣があるということを伝えるためのものだったのでしょう。それにしては、目立ちたがりの新井くんらしい、やや回りくどい文章でしたが……。
「あの資料か。わたしは新井が何をしたかったのか、よくわからなかったが」
 先生もその資料には目を通していたようです。しかし、内容は決して効果的なものではなかったのでしょう。
「あの作品、まあそこまでつまらなくはないし、文章も慣れてるんだろうなとは思うけど……あたしはなんだか、ずっと違和感があるんだよね。作品というか、新井の態度に原因があるのかもしれない」
「資料にも書いてありましたが、あの作品を書こうとした動機は、内容の割に私的なものでしたね。自分で自分の作品の舞台に、聖地巡礼をしたい……とか」
 一応、他にも「土地の魅力を伝えたい」とか、「自然環境との距離感がテーマ」などとは書いてあるのですが、根本が旅行自慢であるという印象は拭えません。
「旅行先で刺激を受けて、作品を書きたくなることはあるだろう。しかし、新井はそれを自己完結的な楽しみにとどめて、大衆に読ませる作品として昇華しきれていない……それがわたしの見方だ」
「アキいいこと言った。本当にそれな」
 ちなみに、わたしも一つだけ、どうしても見過ごせない部分があるのでした。それは、新井くんが「師匠」と呼ばれるきっかけとなった、取材旅行に同行した女性のことです。
 作中で、主人公の女性が首に提げていた双眼鏡を、湖の化身である女の子に引っ張られ、不意にその紐の距離まで接近してしまうという描写があります。なんとその資料では、このような出来事が、実際に起こったと仄めかされているのでした。不潔です!
 ……とまあ、そこまで潔癖ぶるわけではありませんが、それにしても新井くんは少し、調子に乗りすぎているようです。誰のように、とは言わないとしても、彼がわたしたちにとっての悩みの種とならないことを祈ります。カレーはとても美味しく頂きました。

 ここ最近は天気も良く、冷房の整っていないボックスはとても暑くなります。そのせいで、わたし自身もボックスから足が遠のいています。特に勉強をするような気分でなくても、涼しい図書館で過ごすようになってしまいました。先生もまた、最近はパソコン室で専らマスカレードに出す作品を書いているようです。
 そんな中で七月最後の火曜日になりました。来週は丁合作業の日なので、前期最後の部会です。最後の部会では、本紹介という企画が恒例になっているとのことです。
 わたしは何も本を持ってきませんでしたが、せっかくなので本を紹介できればと思い、図書館を探してみることにしました。すると、国内文学の全集の棚の辺りで、高本さんと鉢合わせたのです。
「おや、中津さん。こんにちは」
「こんにちは。偶然ですね」
 高本さんはワイシャツに学帽という格好で、既に厚い本を何冊か抱えていました。もはや見慣れた学徒スタイルです。
「お勉強ですか」
「いいえ、今日の本紹介のネタを探しに来ました」
「そうでしたか、これは失礼しました」
 イメージと異なる腰の低い態度に違和感を覚えました。しかしよく考えてみると、わたしはこれまで、高本さんと一対一で会話したことがほとんどないのです。
「高本さんは、レポートですか?」
「私もこれは、紹介する本です。有島武郎全集」
「本当にお好きなんですね」
「いえ、私などまだまだです」
 よくわからない謙遜をして、高本さんは静かに笑いました。
「もっと勉強して、まともな議論ができるようにならなければ……ああ、すみません。私はこれで失礼します。お疲れ様です」
「お疲れ様です……」
 どうやら、わたしが「勉強熱心ですね」と言ったかのように受け取られてしまったようです。それにしても、過ぎた謙虚さだと思いました。確かに学問の道を見上げれば、学部の二年生など一般人と変わらないのかもしれません。しかし少なくとも、自ら文学を体現しようとするほどの熱意や、将来の研究テーマになるかもしれない有島武郎への愛は、充分誇っても良いものだと思います。
 高本さんに関しては、思いのほかわからない部分が多くありそうです。後期から部長となるこの人のことを、わたしはもう少し知らなければならないと思いました。
 ひとまず本探しに戻ります。そこでわたしは、筒井康隆の『残像に口紅を』を見つけました。世界から五十音の音が徐々に消えていくという、唯一性の高いコンセプトの作品です。かつてわたしと先生の間で、これを真似した『残像に口紅を』ごっこが一瞬流行したのでした。
 例えば「あ」の音が消えたなら、それに伴う概念も消滅して言及できなくなるので、他の表現で代替しなければいけません。そこそこ知的な遊戯だと思いますが、残念ながら原作の知名度自体が高くないのです。
 ということで、紹介する本が容易く決まりました。残りの余分な時間は、一度読んだきりのその本を読み返して過ごすことにしました。

 そうして万全の準備で迎えた本紹介でしたが、実体は拍子抜けするくらい緩い雰囲気の企画でした。何人か消えたことになってしまう人がいるので、「あ」の音はここで戻しておきます。
 ミステリーが好きだと話していた明石さんが、実際に好きなミステリーを紹介していたり。新井くんは、意外にも普通の学園ものを紹介していたり。先生は、最近読んだというSFを紹介していたり。部員それぞれの個性が垣間見えて、純粋に楽しい企画だと思いました。
 中でもわたしが気になったのは、飯綱さんの発表です。紹介されたのは文庫版の少女漫画でした。山岸凉子という、北海道出身の女性作家の作品とのことです。
「これは、私の一番好きな漫画です。私は元々、小説よりは漫画のほうが好きでよく読んでて、この本は、こっちに来てから古本屋で見かけたので、買っちゃいました。ちょっと中身を紹介しますね」
 収録されたいくつかの短編のうち、飯綱さんが紹介したのは女性の価値観について描いたものでした。父親に厳しく旧時代的な躾を施された主人公が、自らを律するあまり他人とまともなコミュニケーションもできないほどになり、成人しても報われることはなく、果ては父親にも裏切られ、ついに狂気の中で解放される……と、そんなあらすじを飯綱さんは熱く語ってくれました。
 最後の交流タイムに少し読ませてもらったのですが、現代風に言えば「病み」とか「闇」を鮮烈に描写した作品が多く、またそれが飯綱さんの作風に影響を与えているのは明らかでした。
 それにしても、飯綱さんに関しては得られる情報のほとんどが、作品のイメージと重なります。話をまとめるのが上手ではなく、とにかく手当たり次第に語り尽くそうとするところも、なんとなく一年誌の初稿を想起させます。良くも悪くも非常に率直で、パワフルな方なのだと思います。
 企画が一通り終わった後、先生にも考えを聞いてみることにしました。
「飯綱さんのバッググラウンドには、ああいう作品があったんですね」
「そうだな。わたしもよく知らないジャンルだが、飯綱は好きな作品のエッセンスを過剰なほどに吸収していると見える。それをしっかり制御して、自分の作品に還元できるようになったなら、すぐに化けるだろうな」
「そうですね。飯綱さんの今後の成長がとても楽しみです」
「飯綱さんの話か?」
 わたしたちの話を聞きつけて、新井くんが寄ってきました。
「編集お疲れ様です。飯綱さんの作品は、二次合評でかなり読めるものになりましたし、このまま行けば、もっと才能を発揮できるのではないかと思いますよ」
「中津さんもそう思う? まあ、桜木さんにも随分入れ知恵してもらったけどさ。ここまで大変だったよ。飯綱さんは、持ってるものは悪くないんだけど、表現に関しては好き放題暴れがちだから。あれをコメディタッチにされたときにはさすがに焦った」
「されたんですね……」
 曲がりなりにも短期間でこれだけ質が上がったので、編集の新井くんもそれなりの苦労はしたはずです。それはわたしも認めたいと思いました。
「でも、飯綱さんは絶対に諦めないし、言ったことはどんどん吸収してやってくれるし、編集のし甲斐はあるというものだな」
「そうかもしれませんね」
「初心者が成長するところを見るのが最も楽しい、か」
 珍しく、わたしたち三人の見解が一致しました。しかし新井くんに関しては、今それと対極の苦労を和泉さんに掛けているということを忘れてはなりません。他人に厳しく、自分に甘いタイプです。
「ところで新井くん、和泉さんがお怒りでしたよ?」
「それは……中津さんまで。良かれと思ってやったんだ、反省はしている」
「度が過ぎたらわたし、朝倉さんのこと和泉さんに話しますからね」
「わかった、わかったって。和泉とは仲良くするから」
 きまりが悪くなったのか、新井くんはそそくさと自分の席へ戻っていきました。その隣にはやはり朝倉さんがいるのです。その様子を、先生は訝しげに見つめます。
「新井と朝倉に、何かあったのか?」
「興味があるならお話しますが……先生、どうせあまり気にしていないのでは?」
「まあな。別にどうでも良いが」
 ちなみに先生の作品には、恋愛が絡んだことはありません。よく知らない、考えの及ばないことを小説に書かないというのが、先生の信条の一つだからです。要するに、見た目通り恋愛には奥手なのです。わたしもあまり他人のことは言えませんが。

 その週には件の花火大会などもありましたが、実はその日がまさに、一年誌の締め切りだったのです。ただでさえ学期末で試験やレポートに追われている一年目には、遊ぶという発想がなかったのでした。
 だんだん夜も暑くなり、気付けばもう八月です。一週間などあっという間で、丁合の日がやって来ました。
「あとは、連絡をお持ちの方はいませんね」
 下野部長による最後の進行です。いつもの教養棟の教室で、既に机は二列に連ねられ、印刷された部誌のページが並べられています。その中で、最低限の連絡を済ませる時間でした。
「後期最初の部会に関しては、マスカレードの発表会の前に行われる予定です。そこからは、高本くんが部長として頑張ってくれると思います。よろしくお願いします」
「はい。全力を尽くす所存です」
 その言葉が実質的に、部長の継承を象徴していました。高本さんが返事をすると、誰からともなく拍手が起こります。それと同時に、任期を終える下野部長に対する労いの言葉も聞こえてきました。
「ありがとうございます。それでは、丁合を始めましょう。樋田さん、説明をお願いします」
 下野部長が降壇すると、こちらも間もなく編集長の役割を終える樋田さんが立ちました。
「既にページは並べられていますが、皆さん順路に沿って、一枚ずつ組んでください。今回は予備も含めて、百八十部作る予定です。ある程度組みましたら、その辺の机でチェック作業をして、輪ゴムで束ねてください」
 わたしたちが回転寿司の皿のごとくひたすら順路を周回しながら、ページを組み合わせるという仕事です。この日も例会と同じく部員は原則参加になっていて、四十人くらいの人手があります。
 しかしこの作業は、人によって得意不得意がはっきりと分かれます。全員が綺麗に整列してスムーズに進むなどということはなく、すぐに列は途切れ途切れになりました。詰まったり追い抜いたりして、やや渋滞した道路のような流れです。それにしても前後の人と会話をするなど、作業はゆったりとした雰囲気で進んでいきました。
 丁合を五週くらいしてから、わたしはチェック作業に入りました。小さなグループがいくつもできている中で、適度に仕事のありそうなところを見つけて入ったのですが、そこは高本さんが星井さんや朝倉さんと作業をしているグループだったのでした。
「わたしも入りますよ」
「おや、中津さんではありませんか」
 高本さんは物珍しそうに、わたしをじろじろと見てきます。やや嬉しそうです。何故に嬉しそうなのかを想像するのはやめておきます。
「中津ちゃんも、文学部の話聞く?」
「それは、興味がありますね」
 三人で何の話をしていたかと思えば、意外にも高本さんに、文学部の話を聞いていたのでした。わたしたちは文学部に属することこそ決まっていますが、肝心の講座が決まっていません。それぞれで研究内容が全く異なるので、希望を出す一月までに情報を集めなければならないのです。
「高本さんは表現文化論でしたよね。どのような分野があるのでしょうか?」
「表現文化論講座はですね、散文や韻文のみならず、漫画や、映像等も幅広く扱っています。近代以降の表現に関することなら、概ねできると思いますよ。興味がおありですか?」
「はい。あります」
「ああ、それでは、ぜひ」
 編集や校閲に興味のあるわたしとしては、それが最初の候補に挙がる講座でした。高本さんは勉強熱心な方なので、学問に関する話では信頼できます。
「ところで、八戸さんや江本さんも同じ講座ですか?」
「いいえ、二人とも違います。私と同じなのは、小宮さんですね」
 確認してみると、八戸さんが国文学、大藤さんが西洋史、江本さんと黒沢さんが社会学系と、思いのほかバラバラでした。三年目を含めてもあまり固まっているわけではないようです。それだけ文学部の分野の幅が広いというのもあるのでしょう。そうなると、星井さんや朝倉さんの興味も気になります。
「星井さんと朝倉さんは、何に興味があるんですか?」
「私は漢詩」
 星井さんは即答でした。第二外国語も中国語だったり、別に広東語の講義を取っていたりという話も聞いています。中国そのものへの興味が強いようです。
「朝倉さんは?」
「私は……今のところ、日本史かな」
 朝倉さんは考えている途中のようです。ちなみに成績などが影響することはないということなので、興味さえ定まれば望む講座に属することができます。まだ半年もある時間で、じっくりと考えるのも良いでしょう。
 話しながらの作業でしたが、終わりが近づいてきました。こうして、単に先輩から学業のアドバイスをもらう場としても、サークルは機能しているということを思い出します。この試験期間、他のサークルでは過去問の継承が行われていたり、レポートすら先輩のを写したりといったことがあると聞きました。良くも悪くも様々な情報を共有できる場なのです。
「ところで高本さん、花火大会の企画はいかがでしたか?」
 最後に、少し気になっていたことを聞いてみます。参加者に「誰とも交際していない」という条件を課した企画だったので、参加者数がどちらへ転ぶか、興味があったのです。
「参加者は、私を含めて三名でした」
「いつもの面々ですか」
「そうです」
 高本さんはきっぱりと答えます。自ら作品にするほど女性関係には苦心しているようですが、それなりの根性もあるように思いました。
「しかしですね、また次の企画もありますので。中津さんや星井さん、朝倉さんもよろしければ、ぜひ」
 そして実は、この高本さんと遊ぶ企画に、第二弾があったのです。それは八月の中旬に、小樽の水族館へ行こうというかなり本格的なものでした。今日の連絡のときにも告知がなされていたのですが、誰もが「懲りないな」と思ったことでしょう。今回も参加者には、しっかりと条件付きです。
「遠慮しておきます」
 わたしの言葉に、星井さんや朝倉さんも頷きました。罷り間違って高本さんと二人きりになろうものなら、それは珍妙なことになると思います。
 しかしながら、高本さんはこうして堂々と下心を見せるところが逆に潔い印象を与えます。新井くんのように、取材旅行に扮したデートをしようとするなど、とても浮ついた根性が感じられるではありませんか。
「星井さんは合宿にも参加されないようですが、帰省ですか?」
「はい。来週からずっと」
 高本さんは諦めずに、わたしたちの予定を聞き始めます。そろそろナンパの域です。
「朝倉さんはいかがですか。再来週ですね」
「えっと……出掛ける用事があるので」
 朝倉さんはすっかり縮こまっています。これはもう、止めなければなりません。
「高本さん。そろそろチェックも終わるみたいですよ」
「おや、そうですね。失礼いたしました」
 最後はチェックしたページの束を箱に詰めて、明日以降、大学の印刷サービスへ持っていく段階になります。いつの間にか長い時間が流れていて、作業が終了したのは八時半過ぎでした。それでも、これまでの遅くなった部会や例会よりは、気楽な時間を過ごせたと思います。

 その日はアフターもあり、そちらもたくさんの方が参加して賑やかそうでしたが、わたしは先生と二人で帰ることに決めていました。そうでもないと、しばらく先生とお話をする機会もなくなってしまいます。
「さて……前期も終わりですね。先生は楽しかったですか?」
「思っていたより退屈はしなかった。だが、あれだけの人数がいても、わたしの作品を読んでいるのはごく一部だと思うと、もどかしいものだな」
 わたしたちはメインストリートを、駅に向けて歩きました。程よく涼しい夜です。前期を振り返る先生の表情は街灯にぼんやりと照らされ、普段よりも柔らかく見えました。
「まあ、一年誌もまだ完成していないことですし……完成して皆さんに行き届けば、読んでもらえますよ」
 なるべくなら、もう少し明るく微笑んでほしい……そう思って励ましたつもりでしたが、先生はあくまで冷静でした。
「完成したら読む、か。それも文芸部の、一つの価値観なのだろうか」
「確かにわたしたちがこれまでやってきたこととは、少し違う考え方ですよね」
 作品が段階的に完成度を増し、洗練されていくのを見届けるのが、わたしたちの楽しみでした。それに伴う作者の成長も含めた、過程を大切にして文芸を続けてきました。
 一方で、ここには完成した作品について考えたり、批評したりすることが好きな人もいます。完結していない作品は議論の俎上に載せられることもありませんし、作品にとって作者の意思だとか、成長などはどうでもよいという立場もあります。わたしたちの考えとは対極です。
「しかしこの人数だ。全員が全員の面倒を見ることなどできないだろう。継続的に見ることを初めから諦めて、その場その場の対応にならざるを得ないというのも理解できる」
「でも……わたしは、例えば同じ一年目の仲間となら、互いに見届ける関係になれると思っていますよ。例えば武藤さんや星井さんも、今回の初めての作品、最終稿でかなり良くなりましたよね」
「そうだな。このまま、書き続けてほしいものだ」
 何はともあれ、わたしも先生も、仲間を求めて文芸部に入ったことには違いないのです。そしてこの前期だけでも、たくさんの出会いがありました。それだけでも、文芸部に入って良かったと思うことができます。
「ところで先生、今週の土曜日、新井くんが短歌や俳句の練習企画をすると言っていましたが……参加されますか?」
 この夏休み、まだまだ楽しむことはできるでしょう。とりあえず予定を確認していくことにします。
「新井は、短歌や俳句もできるのか」
「そうみたいですね。今回は、合宿でも短歌俳句企画があるそうで、その練習なのだとか」
「そうか。まあ、あまり興味はないが」
 新井くんの短歌俳句練習企画は、先生の気が乗らないようでした。次の予定は、興味を持ってもらえる見込みもありませんが、話してみることにします。
「一年誌の印刷と製本を挟んで、次は再来週の、高本さんの企画ですね。小樽の水族館を見に行くようです」
「……行きたいのか?」
 案の定、先生には容赦なく疑問の眼差しを向けられてしまいました。
「それならわたしは、個人的に行きたいですね」
「小樽か。あまり行っていないな。染谷を誘って行ってみるか?」
「それは楽しそうですね。では、染谷さんにお話してみましょう」
 せっかくの夏の海です。わたしたちにも、一緒に行く人を選ぶ権利はあるでしょう。
「その次は、マスカレードの締め切りですね。今回は、わたしも下読みはしないほうが良いでしょうか?」
「それも面白いな。今回の作品は、また少し挑戦をするつもりだ。楽しみにするといい」
「はい。匿名だろうと、先生の作品は絶対に言い当てて見せますよ」
 マスカレードの一つの楽しみであるという作者当ては、一年目のわたしたちには分の悪いゲームですが、挑戦してみたいものです。
「そして合宿です。わたしはこれが一番楽しみですよ」
「ああ。美瑛の山の中など、なかなか普段行かないところだ。新鮮な気分で作品が書けるだろうな」
 既に参加者も確定したようで、一年目はわたしたちの他に、新井くんと朝倉さんが参加することになっています。なんともセンセーショナルな組み合わせですが、今は気にしないで置きましょう。
「合宿が終わったら、九月はマスカレードの作品を読んで過ごすという感じですね」
「そうだな」
 今の段階でもたくさんの予定があります。北海道の夏はもはや折り返しですが、わたしたちの夏はまだまだこれからなのです。

五 流風(下)

 夏休み最初の月曜日から、一年誌の印刷が始まりました。わたしは編集長の責務として、スタートアップを任されていたのです。朝に弱い和泉さんには、日中のトラブル対応などを請け負ってもらうことになりました。
 印刷は授業と同じく一コマ九十分として、それぞれのコマに二人ずつ割り当てる形でシフトを作っています。今回のわたしのパートナーは朝倉さんでした。
「中津ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
 食堂二階のロッカーに集合して、コピー用紙を一箱、サークル会館まで運びます。サークル会館には収納スペースを持っていないので、自転車を持っていないわたしたちは、台車で運ぶことにします。
 サークル会館は林を抜けた先の、大学構内ではかなりの僻地にあります。既に日は高く、歩いていてもすぐに汗ばむような暑さでした。
「中津ちゃん、交代するよ?」
「では、半分まで行ったらお願いします」
 こんな日にもラクロス部や陸上部といった体育会系の人たちは、集まって練習をしています。実際わたしは運動が得意ではないので、想像するだけで恐ろしいことです。
 このままでは気持ちから疲れてしまうので、朝倉さんに近況を聞いてみることにしました。もちろん、新井くんのことです。行動力のある彼のことなら、何らかのアプローチをしていておかしくない頃です。
「ところで朝倉さん。最近新井くんと、仲がよろしいようですね」
「あ、いやその……」
 探りを入れただけでしたが、朝倉さんの顔色はたちまち変わりました。とても初々しい、照れの表情です。その時点で、もはや二人が交際することになったというのは疑いようがありませんでした。
「もしかして、付き合っていたり?」
「……丁合の帰りに、好きだって言われて」
 朝倉さんはとても恥ずかしそうに打ち明けます。それでも、嫌ではない様子でした。なんというか、わたしまで変に緊張してしまうほど純真無垢な「初恋」を目の当たりにしています。
「すみません。実はわたし、新井くんから聞いてたんですよ」
「そう、だったんだ……」
 このままもう少しいじってみるのも、それはそれで愛らしい朝倉さんが見られそうですが、ひとまず種明かしをしました。
「この間まで恋愛なんてまだわからないみたいなこと言ってたのに、変わり身の早い人です。朝倉さんは、新井くんと取材旅行デートとか行くんですか?」
「取材旅行なら……湖に行こうって」
「あの人、本当に湖好きですね」
 よくよく聞いていると、その取材旅行に行く約束は先月の初めくらいからあったようです。ちょうどわたしが、新井くんから朝倉さんの話を聞いた頃だと思います。告白が丁合の日だと、デートの約束をしたうえで告白をしたことになります。順番が逆ではないでしょうか?
「でも、やっぱり朝倉さんも、新井くんのことが好きなんですね?」
「私は……正直、まだ自分でよくわかってないんだけど……新井くんと一緒にいると、そうなのかなって、思う」
「ああもう、ベタ甘じゃないですか。お幸せに」
「ありがと」
 暑さも台車の交代も忘れて、サークル会館まで来てしまいました。印刷中はこんな話をしていると全く集中できなさそうなので、打ち止めです。
 代わりに聞いた話では、朝倉さんもマスカレードに参加したいと考えているそうです。作品が間に合うかどうかはわからないとのことですが、一つ楽しみが増えたのでした。

 こうして印刷が進む裏で、わたしは先生や染谷さんと、ビデオ通話を開通させました。夜の自室で早速、三人でのグループ通話に臨みます。
「こんばんは。先生、染谷さん、聞こえますか?」
「わたしは問題ない」
「大丈夫だよ」
「良さそうですね。やはり顔が見えるというのは、安心感があります」
 それぞれの背景にプライベートが垣間見えて、悪くない感覚です。染谷さんの後ろには、大きなぬいぐるみが二つありました。しかし部屋は片付いているように見えます。
「そっちはもう夏休み?」
「はい。先週からですね。でも今は、一年誌の印刷で大学に通っています」
「一年誌?」
 染谷さんは首を傾げます。そういえば大学祭のときには、一年誌のことをあまりお話していないのでした。
「今年入部した一年目が、部誌制作を体験するために作る部誌みたいなものですね」
「いきなり冊子作るんだ。すごい」
「合評とか、編集とかも、一年目が中心になって回したんです」
「楽しそうだね」
 実際、一年誌は様々な交流のきっかけになりましたし、わたしも楽しかったです。驚きに手を合わせる染谷さんを見て、それを改めて感じたのでした。
「染谷は、俳句を続けているのか?」
「続けてるよ。最近詠んだのは……『陽炎を踏みわけ駆けぬ地獄坂』みたいな」
「夏の小樽の体感ですね」
「やはりそちらも暑いのか?」
「暑いよ。大学は、坂の上にあるし……でも、その坂を海に向かって一気に駆け下りたら、気持ちいいだろうなと思って」
 しかし札幌には海がありません。自然の豊かな北海道の中でも最大級のコンクリートジャングルです。ヒートアイランド現象も起きると言います。暑苦しい限りなのです。
「あの、染谷さん。わたしたち、夏休みに小樽に行きたいって話してたんですよ。良かったら水族館でも、一緒に行きませんか?」
「いいね。私は平日なら、割と空いてるよ」
 期待通り、染谷さんも話に乗ってくれました。日程は染谷さんの希望通り、お盆過ぎの平日に決めました。朝から行って、午後は市街を見る計画です。
「楽しみにしてます」
 その後は、染谷さんの近況を聞きました。サークルなどには入っていないとのことでしたが、アルバイトを始めたり、友達もできたりして、楽しく過ごしているとのことです。それから、高校の部誌も送ってもらったようです。
「私は珠枝ちゃんにお願いして部誌を送ってもらったんだけど、二人は学校祭行ったんだよね?」
「行きましたよ。新人さんにも会ってきました。詩が得意な方でしたね」
「そうだな。部誌に載っていた詩も、しっかりと自分なりの芯を持って書かれたものだと感じられる。期待の新人だ」
「桜井さん……だね。一人しか入らなかったって聞いて心配だったんだけど、部誌もちゃんと作れてるし、大丈夫かな」
「心配はないと思いますよ。まあ、勧誘はもう少し頑張ってもらう必要がありそうですが」
「もとより、文芸部は目立たないからな……」
 そんな高校の文芸部は、八月の下旬に地区大会を控えています。もちろん後にも大会は続くのですが、三年生は地区大会で引退です。
「一花ちゃんや直美ちゃんにも、また会いたいな。来年の学校祭は、見に行けたらいいんだけど」
「忙しかったんですか?」
「アルバイトがあったし、まだちょっと、お金の余裕がなくて。でも、今度水族館に行くのは大丈夫だよ。ちゃんと一日空けておくから」
「無理しないでくださいね」
 染谷さんにもやはり、様々な苦労があるのです。それに比べれば、わたしたちはとても自由奔放に、享楽的な大学生活を送っていると思います。
「さて、そろそろ一時間か」
「たくさん話したね」
 先生の言葉で、わたしたちは時間の経過に気付きました。楽しい話は早瀬のように進み、悩ましい話は淀んで進まないものなのです。それはきっと、小説でも同じです。

 一年誌の印刷は予定より早く、一週間掛からずに終わりました。残すは丁合と製本です。これは上年目の皆さんにも協力してもらって、一日で終わらせる予定です。
 そういうわけで、札幌にいるはずの一年目メンバーは全員揃って……はいませんでした。なんと新井くんが欠席だというのです。せっかく朝倉さんも来ているというのに! とりあえず、朝倉さんに尋ねてみます。
「新井くんは今日、何か用事があったんですかね?」
「家族が来てて、稚内に行ってるんだって」
「稚内! 北緯四十五度まで高飛びとは」
 一家揃って旅行好きのようです。もう少し探ってみると、新井くんはまめなことに、朝倉さんに写真付きで旅行の報告メールを送っていました。『羽幌で見たバス会社の萌えキャラ』とか、『サロベツ湿原の浚渫船』とか、目の付け所がいちいちマニアックです。それにしても、文面は意外と普通の友達のような雰囲気でした。
「フミ、始めようぜ」
「はい。失礼しました」
 和泉さんに呼ばれて、予定の時間を過ぎたことに気付きます。とりあえず、新井くんは当面好きなようにさせておこうと思いました。
「今日は夏休みですが、お集まりいただきありがとうございます。それでは、一年誌の製本を始めましょう」
 一年誌は部内でしか配布されないので、紙は安物、製本はテープです。それにしても、和泉さんが担当した表紙は様々なフォントで『Map』というタイトルを散りばめたもので、チープさを感じさせないお洒落な仕上がりでした。二年目でデザイン班長になったばかりの小宮さんも興味を示していました。
「この表紙は、誰が作ったの?」
「はい! それあたしです!」
「和泉ちゃんか。こういうデザインは新鮮な感じだね」
 小宮さんの他に、明石さんや黒沢さんも表紙を褒めてくれました。そのたびに得意になっていた和泉さんは、実際、本当に報われたことだと思います。
 そこでわたしは、現在製本中の夏部誌の表紙を思い出しました。季節感のある壮麗なイラストだったのです。制服の少女がバスの中に立っているのですが、そのバスが水中を進んでいて、車窓には魚の群れなどが見えるというものです。
「小宮さん。夏部誌の表紙は、どなたが描かれたのですか?」
「あれは川内ちゃんにお願いしてるんだ」
「川内さん……確か、二年目の?」
 出てきた名前は、あまり面識のない二年目の女性でした。デザイン班に所属しているそうですが、部会でもあまり見かけません。
「うん。法学部で忙しいんだけど、描きたいって言ってくれて」
「そうだったんですね。素晴らしい表紙でした」
「フミ、もしかしてあたしのこと?」
「今のは違いますよ」
「なんだあ」
 こうして見ると、やはりデザイン班は確かにこの部を華やかにしているのだと感じます。わたしたちの忘れがちな、大きな貢献です。一年誌でも星井さんが三作品の扉絵を担当していました。
「ところで今日は、星井ちゃんもいないね」
「今週から帰省だそうです」
「早いな」
 一年目の中で実家から通っているのはわたしと先生、朝倉さんの三人だけです。他は当然と言うべきか、ほぼ全員帰省するということでした。和泉さんや武藤さんも八月中には発つそうです。こうなると、むしろ遠隔地から活動に参加できる機会がもっと多くあるべきで、合宿など対面の企画はどうしても物足りなく思えてしまいます。
「和泉さんは、マスカレード参加されますか?」
「それさ、仮に作品出すとしても、今言っちゃったらつまらなくない?」
「確かにそうですね」
「まあでも、評価はしようと思ってるよ。読むくらいならできそうだし」
 マスカレードについては、実は昨日、最初の作品が提出されていました。詩部門の作品だったのですが、提出メールの本文が『一番乗りを目指しました』というもので、すごい気合を感じました。
「もう、最初の作品が上がっていましたね」
「気付かなかったわ。帰省したら読もっと」
 そうこうしているうちに、部誌の製本は終わりました。上年目がたくさん集まって下さったおかげです。実際、一年目は少ないですが、上年目には帰省しない方も多く、それで様々なことが回っているという事実もありそうです。合宿の参加者も十八人を数えていたのでした。

 さて、完成した一年誌を引っ提げ、わたしと先生は小樽へ繰り出しました。天候は快晴、波は静穏、肌には温風……といった感じで、話に聞く分には夏らしい日和ですが、現実は朝から容赦のない暑さです。電車に乗っているときから汗が流れます。
「これはちょっと……先生、最初はイルカショーに行きましょう。最前列で、水を被るんです!」
「落ち着け。まだ水族館は遠いぞ」
 札幌で買ったペットボトルの麦茶が、半分もありません。水族館はここからバスで三十分です。着く頃には飲み干してしまうでしょう。そこからは水族館の水が頼り……などという冗談を口にしつつ、改札をくぐります。染谷さんは待合室にいました。
「おはようございます」
「おはよう。今日は暑いね。二人とも大丈夫?」
 今日の染谷さんは清涼感のある半袖のトップスにロングスカートといういで立ちで、抱きかかえた麦わら帽子が印象的でした。大学祭のときは心の余裕がなく気付きませんでしたが、軽いメイクを始めたようです。高校時代から全く進歩のないわたしたちと比較して、格別のお洒落さんです。わたしたちがいかに、文芸以外のことに無頓着なのかを思い知ります。
「わたしは染谷さんを見た途端、暑さの吹き飛ぶ思いをしましたよ。ねえ、先生?」
「何故同意を求めるのだ。あまり強がらないほうがいいぞ」
「元気そうで良かった」
 それでも、慎ましやかな笑い方は記憶のままでした。
「さて、バスに乗りましょうか」
「そうだね。もうすぐ来るはずだよ」
 わたしたちは首尾よく、最後列の席に並んで座りました。平日だからか、バスには若干の空席があります。
「一年誌を持ってきたので、後でお渡ししますね」
「ありがとう。中津さんは今回、何も書いてないの?」
「わたしは先生の編集専門でしたので、自分で書くという発想がありませんでしたね」
「相変わらずだね。編集お疲れ様」
 バスの車内はいくらか冷房が効いていて快適でした。市街地を抜け、博物館を過ぎると、いよいよ海が近くに見えます。道中は話が弾みました。
「染谷さんは、小樽をどのくらい観光しましたか?」
「運河とか、ガラス工房は見に行ったよ。こんなの買ったりして」
 そこで染谷さんは髪をかき上げ、片耳を見せました。なんとトンボ玉のピアスがつけられています。
「先生、染谷さんがピアスを……」
「穴は自分で空けたのか?」
「あっ、これはね、穴を空けなくてもつけられるの。こんな感じ」
 ピアスを外したところを見ると、確かに穴はありませんでした。それにしても、染谷さんの大学デビューは思いのほか進んでいるようで驚きを隠せません。裏を返せば、こんなことにその都度驚いているわたしたちは、いつまで経っても奥手です。
「染谷さん、もしかして彼氏さんとか……」
「いない、いないよ。私の周り、もっとかわいい子も多いし……」
 比較的普通の大学生である染谷さんの話は、わたしにも刺激があります。やはりというか、周囲からそういう話が聞こえてくると意識してしまうのです。全くの無関心を貫ける先生が羨ましいくらいです。
「先生、染谷さんよりかわいい子ですって。想像できますか?」
「それは皮肉か。できないとは言わないが、興味はない」
「浦川さんはぶれないね」
 羨ましいのと同時に、安心してもいます。先生がある日突然恋愛を知って、本格的なラブロマンスなんかを書き始めた日には、まともな編集ができなくなってしまいます。わたしにとっては死活問題です。実際、その可能性が一番、わたしを恋愛に対して敏感にさせているように思います。

 バスを降りると、心地よい海風が迎えてくれます。水族館はここから長い階段を上らなければいけませんが、それもまた楽しみの一部です。開館して間もない時間帯で、まだあまり混んでいるわけではありませんでした。
 館内は比較的涼しく、外に出る気を失わせます。各種のショーまでは時間がありそうだったので、まずはじっくりと館内を見ることにしました。最初はウミガメです。
「ウミガメって、意外と見ないですよね」
「そうだな。モチーフとしては出てくるが」
「沖縄とか、南の海にいるイメージ」
 ゆったりと泳ぐウミガメは、数ある長寿のモチーフの中でも、際立ってよく出現します。それはやはり、現実に長寿だからという理由があるでしょう。しかしながら、ウミガメはカメの中では短命だそうです。
「他にカメのモチーフと言えば、産卵ですかね」
「涙を流して卵を産むって言うよね」
 ウミガメは絶滅が危惧される一方で、陸のカメは増えすぎる……という、あまり笑えない背景もポイントだと思います。
「先生、この間大学の農場でカメを見たんですよね?」
「ああ。畦道を移動していた。二十センチはあったぞ」
「棲みついてるんだね……」
 そんなふうに他愛のない話をしながら、ゆっくりと館内を巡っていきました。そのうち、話題が先生のことになります。
「浦川さんは、海と山どっちが好き?」
「遊びに行くなら山だな。観光するなら海もいい」
「じゃあ、暮らすなら?」
「そうだな……どちらでもいいが、街だ」
「まあ、わからなくもないけど」
 回遊魚の水槽をバックにしながらこんなことを言っている先生ですが、農学部に進むことが決まっています。
「先生、農学部なのにそんなことで、大丈夫ですか?」
「農学部だからと言って、農業ばかりではない。生物化学や、食品、環境なども範疇だ。それに、わたしが興味を持っているのは花卉園芸学だから問題ない」
「はあ……」
 先生の『問題ない』は経験上、あまり当てになりません。それにしても、植物のあるところに入り浸っていたくらいなので、園芸に興味を持っているのは本当のようです。
「水産学部もあるんだよね?」
「ありますよ」
 染谷さんの言う水産学部ですが、札幌には建物がありません。そのためか、文芸部にも属している方はいないようです。
「函館キャンパスだな。調査船を持っていると聞いたが」
「そうですね。集中講義に申し込めば、実習に参加することができるとか」
「そうなんだ。でも、水産学部の人は入学したときから函館なの?」
「確か、最初の二年くらいは札幌だと聞きましたよ」
「引っ越しが大変そう……」
 文芸部ならあるいは、函館からも活動に参加することができるかもしれませんが、合評や部誌制作に関わりにくい時点で厳しいものがあります。仮に入部しても、函館に行くときにはお別れすることになるでしょう。そんなメンバーは一年目にいないので、少し安心します。
「函館で、独自にサークルを立ち上げているのではないか? 札幌にある医学系の学部でさえ、独自のサークルを持っているのだ。考えられないこともない」
「そうかもしれないね。サークルって言っても、公認じゃなきゃいけないわけじゃないし」
「染谷さんのところには、文芸サークルとかありませんか?」
「えっと……白菊高校の文芸部だった子が、OG中心に集まってるっていうのは聞いたことある」
 白菊高校の文芸部は、地元では和綴じの部誌で有名なところです。作品のレベルも高く、全国大会にもたびたび進出していると聞いていました。その精神とメンバーの結びつきは、卒業しても絶えるものではないのでしょう。
「なるほど。なんというか、周辺の文芸サークルとの交流もしたいですよね」
「今のところ、交流する機会は全くないからな」
 一応、部長だったわたしには、コネクションがないわけではありません。外の世界も気になります。それはこの水槽の魚たちが、本当はもっと広大な海に生息しているということに似ています。

 やがてショーの時間になりました。目当てのイルカショーは、一頭しかいなかったためやや迫力に欠けるものでしたが、算数をするオタリアは楽しい演出だと思いました。海水を被ることはなくても、涼しかったので満足です。
 その後は、ペンギンのショーを見に行きました。朝よりは気温も上がっていましたが、風も出てきたので過ごしやすく感じます。
「ここのペンギンは、働かないことで有名なんだって」
「聞いたことがあります」
 プールには二十羽くらいのフンボルトペンギンがいて、それぞれ思い思いに佇んだり、泳いだりしています。飼育員さんが魚の入ったバケツを持って出てきても、興味を示すのは一部だけでした。
 シーソーや滑り台、ハードルなど、いくつかの種目が用意されています。飼育員さんは手近なペンギンを魚で釣りつつ、なんとか芸を見せるよう促すのですが、ペンギンは食べるだけ食べて、働いてはくれません。カモメが闖入して魚を横取りするなど、ハプニングには事欠かないのですが、用意された種目はなかなか成功しませんでした。
 それでも、会場には笑いが溢れ、ペンギンが気まぐれにハードルを跳んだときには歓声が上がりました。飼育員さんも生態の解説で巧みに間を繋いだり、ペンギンの機嫌に合わせて柔軟に進行したりと、全てが想定されているようです。
 トドやオットセイなども含めて、高度に訓練された生き物のショーが並び立つ中で、ありのままを見せるペンギンショーはひときわ印象的でした。
「先生はペンギンショー、いかがでしたか?」
「わたしは訓練されたペンギンを見たことがないぞ。あれが自然なのではないか?」
 全てをアクティブに考えすぎると、見えなくなってしまうものがあるようです。力の限り芸を磨くことと同じくらい、脱力した自分と向き合うことも大切なのかもしれない。わたしはそんなことを考えました。
「そろそろお昼にしようか」
「そうですね」
 今日くらいは、文芸のことも忘れて。わたしたちは水族館のレストランで昼食を取った後、市街に戻りました。
 お土産は、オルゴールの工房で見つけたガムランボールです。耳元で振ると、とてもきめ細かく、不思議な波長のうなりを含んだ音色を聞くことができます。暇な昼下がり、マイクロビーズのクッションを抱きながら、風鈴の代わりにガムランボールを鳴らすと、心地よいうたた寝にいざなわれるのです。

 九月に入り、わたしはあまりの平穏さに、やや堕落しかけていました。「明日は合宿だ」という連絡のメールを受け取り、慌てて荷物をまとめたのです。
 札幌から高速バスに乗り、旭川からは施設のバスで、合計四時間という道のりでした。そこはもう山の中です。少し下ると小さな温泉街があるそうですが、車の通りも少なく、鳥や虫の声しか聞こえないような場所です。
 そんな山の中に現れた施設は意外なほど巨大で、いくつもの建物がほぼ直線上に連なった構造をしているようでした。その中央の建物に入ります。
「これは……聞きしに勝る広さだな。こんな山の中に施設があると聞いて、もっと山小屋のような建物を想像していたが」
「はい。わたしも、こんなに立派な施設だとは思っていませんでした」
 わたしたちはそこそこ盛り上がっていましたが、上年目は初めて来るという明石さんがはしゃいでいたくらいで、あまり目に見える反応をしていません。それから、今日久しぶりに会った新井くんは、さらに遠慮なく朝倉さんの近くをキープして、二人で仲睦まじく話しています。
 ともかくも、わたしたちは中央棟の研修室に通されました。施設の方によるオリエンテーションを終えて、昼食を済ませた後、幹事の小宮さんが前に立ちます。
「はい。それでは今日から二泊三日、合宿を楽しんでいきましょう。今日はまず、最初の企画を発表します」
 この合宿については、いくつかの企画が用意されているようですが、内容の全ては明らかになっていません。最初の企画は、その秘密になっていた一つでした。小宮さんは淡々と説明します。
「最初の企画は、題して『種育て式創作』です」
 そこで、新井くんが前に出ました。黒板にあまり鮮明ではない字で、有名な一文を書きます。
「『メロスは激怒した』という文から始めて、作品を書いてください。長さや形式は自由です。今日はこの後、五時まで創作時間を取りますが、明日の夜までには完成させるようにしてください」
 少し捻った名前がついていますが、要するに有名作品から冒頭を拝借するという、よくある類の企画です。合宿ならではという感じではありません。各々持参したノートパソコンや原稿用紙を用意して、特に盛り上がりもなく執筆は始まりました。当然ながらわたしも今回は、編集専門というわけにはいきません。
 外はよく晴れていて気温も高いですが、窓を開ければ涼しい風が吹き込みます。虫もある程度は網戸で防ぐことができます。しかしわたしは既に道中、脚を蚊に刺されてしまいました。痒みに耐えています。
「先生はこの企画、どのように攻めますか?」
「そうだな……まあ時間はある。ゆっくり考えるとしよう。しかし、インターネットも使えないとは不便だ」
 先日は「街に暮らしたい」と言っていた先生です。環境が変わることで刺激になる部分もありますが、慣れるまでは不便さが勝ってしまいそうです。
「先生は、この手の創作って苦手なんですよね。リレー形式とか」
「まあ、今回は冒頭だけだ。ここからどうにでも持ち込めるだろうし、あまり問題はない」
 企画開始から二十分くらい経つと、いよいよ行動が別々になってきました。上年目も、黙々と創作に打ち込む方や、気楽に談笑する方、研修室を抜け出して施設を探検しようとする方などバラバラです。
 新井くんと朝倉さんは隣り合って、それぞれ執筆をしていました。わたしはなかなか満足の行く流れが思いつかないので、息抜きに話し掛けてみることにしました。
「お二人とも、進んでますか?」
「中津さん。それはまだ……今は言えない」
 わたしとしては、もちろん執筆の調子を尋ねたつもりですが、誤解を招いてしまったようです。新井くんはちらちらと朝倉さんを見ながら、勿体つけたことを言いました。
「新井くん、作品の話だと思うよ」
「おっと。それならそうと言うてや」
「……見せつけてくれますね」
 ちなみにこの二人は道中のバスで、寄り添って寝ていました。新井くんのほうは恐らく狸寝入りだったと思います。その様子に高本さんは始終歯ぎしりをしていたとか。
「まあでも、俺はプロットができたから、後は書くだけだよ。中津さんは?」
「わたしは普段自分では書かないので、ゆっくりとやります」
「そうなんだ。私もあんまり進んでないよ」
 朝倉さんも、考えながら少しずつ書き進めているとのことでした。この二人に関しては実際、今まさに熱すぎて侵しがたい領域を持っているような気がします。
「中津さん。こちらを向いていただけますか」
 そんなとき、後ろから高本さんに声を掛けられました。振り向いたときにはわたしたち三人、ポーズを取る間もなく写真に納まります。
「合宿の、カメラ係です。よろしくお願いします」
 悪気はないのだと思いますが、撮り方が不親切でした。それにしても、その両手に構えた銀色の角張ったカメラに目が行きます。
「あまり見かけないカメラですが、フィルムカメラですか?」
「いいえ、デジタルですよ」
 カメラまで古風……という期待を一瞬しましたが、あっさりと否定されてしまいました。
「それでは、合宿お楽しみください」
「はい。ありがとうございます」
 高本さんはそのままカメラを持って、研修室を出ていきました。高本さんの席には、原稿用紙が残されています。一目見ただけでも、万年筆で殴り書きをしたその文字の迫力に、執念めいたものを感じました。それはある意味で、期待通りです。

 少しだけ文芸的な話をすると、『メロスは激怒した』という一文には、様々な解釈が考えられます。実際にメロスが激怒したという描写とするのがオーソドックスだと思いますが、あまりに有名な一文なので、引用として扱っても良いでしょう。あるいは、先入観を捨てて『メロスは激怒した』という言葉を解体していくような物語も面白そうです。
 わたしはこれでも長く編集をしてきたので、触れてきた作品を思い返してパターンを見つけることができます。しかしそれは自分でも書けるということを、直ちに意味するものではありません。
 個人的な感覚ですが、編集が作品の改善に寄与するときに発揮される創造性は、作者の持っているそれと微妙に質が異なります。編集の創造性は、あくまで既存の作品に喚起されて働くものなのです。だからわたしは、何もないところから作品を生み出す作者の皆さんに敬意を持つのです。
 たまに、編集に対して「執筆は難しいのに、言うだけ言う。お前も書いてみろ」などと言う方もいますが、大抵の場合その要求は通りません。必然的に上手には書けない編集を見て、その方は胸がすくのかもしれませんが、結局は不毛なことです。
 そんなことを考えながら、わたしは施設を探検していました。今日は他の団体も宿泊する予定ですが、日中は野外活動なのか、まだ来ていません。わたしたちしかいないのに、この巨大な施設です。不思議な気分になります。
 中央棟から北側は、体育館や武道場、プールなどが連なっています。長い廊下にはわたしの足音だけが響きます。若干、何が出てくるかわからない怖さがあります。これで前後から別の足音が聞こえたら、わたしはどこかに隠れるでしょう。そんなことも起こらないほど、本当に誰もいないのですが。
 研修室を出た上年目は、中央棟に何か所かあるラウンジでそれぞれくつろいでいました。今回、二年目の中では八戸さんや江本さんが来ていません。一方、二年目で文学部の四年生だという瀬田さんが参加されていて、高本さんと文学について語り合っています。瀬田さんだけではなく、今回の参加者は年齢層が高めです。単純に考えれば、夏休みだからなのでしょう。
 中央棟の階段の踊り場には、ヒグマの剥製が飾られています。メロスの世界観には、ヒグマはいないかもしれません。そもそも、せっかくこの雄大な北海道の真ん中にいて、どうして古代ギリシアに思いをはせることができるでしょうか?
 まとまらない構想にじれったい感情が芽生えてきたので、わたしは研修室に戻りました。執筆をする人たちは、一概に捗っているとは言えないかもしれませんが、室内を静まり返らせ作業に没頭していました。さっきよりも人数が減っています。
「何か面白いものはあったか?」
 席に着いたわたしに、先生が声を掛けてくれました。
「この空間、一歩間違えばクローズドサークルですね」
「冬は本当にそうなるかもしれないな」
 路線バスが入口まで来るので、夏場は余程の大雨でもなければ孤立することはありません。この立地ですが、安全性はそこそこです。それにしても、急病人などが出ればとんでもないことになりそうです。
 そんな不穏な想像をするのも、敢えて非日常への扉を開くためです。わたしはいい加減に古代ギリシアを諦めて、こちらの世界観にメロスを誘い込むことにしました。例えば、『走れメロス』の筋書き通りに、人が消えていくとか……。
 メロスが十八人、村で暮らしていたら、一人が激怒して、残りは十七人。
 おっと、これは違う作品も混ざっていますね。どうも。パロディが好きな編集者です。

 活動終了時間である五時は、あっという間に来てしまいました。わたしはもはや、十八人のメロスを一人一人と消していく快感に溺れて、それで時間を使い果たしてしまったのです。ちなみに最後のメロスは、緋のマントを捧げられたらひどく赤面して、誰もいなくなりました。我ながら意味がわかりません。途中から、ノベルゲームでバッドエンドの選択肢を回収しているかのような気分になりました。
 それにしてもわたしには、もう一つの思惑があったのです。実は今日の夜に、また一つの企画が予定されています。その名も百物語ならぬ、『十八(仮)』。命名者の意図はわかりかねますが、要するに部屋で怪談を持ち寄って披露するという企画です。これもわたしは、あれかこれかと一つを選ぶことができずに、今日まで保留していたのでした。こうなれば、今しがた仕上がったメロスの詩を読み上げてやるのです。
 施設には他大学の一学科だという大きな団体が入って、クローズドサークルという雰囲気ではなくなりました。研修施設ならではの簡素なバイキングで夕食を取り、わたしたちは宿舎棟へと移りました。
 宿舎は二階建てで、各階に六人分の寝室が三つと、リーダー室と呼ばれる個室が一つ、それから大きな和室が一つずつありました。わたしたち女性陣は二階の寝室に荷物を置いて、まずはお楽しみの入浴時間です。
 参加者が十八人いると言っても、女性はそのうち六人です。寝室は贅沢に二つ使えますし、浴室も貸切で広々としています。
「ねえ、朝倉ちゃん。新井くんと付き合ってるの?」
 そんなところで始まるのは、やはり恋愛話なのでした。小宮さんと、同じく二年目の佐々木さんが、朝倉さんを囲んでいます。明石さんも興味を示しているようでした。
「えっと……新井くんは、いつも仲良くしてくれます」
 否定しきれないところが、何ともいじらしいものです。本人の羞恥心も相当にありそうですが、それ以上に、新井くんに口止めでもされているのでしょう。あの姑息な人のやりそうなことです。
「えっ、告白はどっちから? 新井くんのどういうところが好きなの?」
「私は、その……」
「やっぱり新井くんから? 言われて好きだって気付いた感じ?」
 小宮さんと佐々木さんによる質問攻めは凄まじく、朝倉さんの曖昧な答えからもどんどん真実を暴いてしまいます。そうして鉱脈を掘り尽くすと、「新井くんは朝倉さんのどこを好きになったのか」という話になりました。それはわたしも聞いていないということに気付きます。
「やっぱり、朝倉ちゃんがかわいいから?」
「胸だったりして」
「意外と体目当て?」
 いよいよ際どい話題になり、朝倉さんはメロスのようにひどく赤面していました。その心は、どちらも丸裸です。のぼせているのと区別がつかなくて、いずれにしてもそろそろ解放してあげたいところでした。
「あっ、あの……そろそろ、上がります」
 しかしわたしが声を掛けるまでもなく、朝倉さんは自分から浴室を出ていきました。さりげなく明石さんも続きますが、小宮さんと佐々木さんは、二人でも盛り上がっていました。
 ちなみに先生は、いつの間にか音も立てずに上がってしまったらしく、そのときには脱衣所にすらいませんでした。

 宿泊棟に戻ると、二階のリーダー室から風雅な笛の音が聞こえます。例えば、夜の楼閣からこんな調べが聞こえたら、誘われ出でてしまいそうな。奏者は高本さんでした。
「おや、中津さん。戻られましたか」
「はい。それは横笛ですか」
「横笛の一種で、篠笛といいます」
 高本さんは邦楽もたしなまれるようです。わたしは篠笛の現物を初めて見ました。
「何か演奏してもらえませんか」
「拙い演奏ですが、よろしければ」
 謙遜しながらも、高本さんは一冊の楽譜を開き、笛を吹き始めました。演奏の良し悪しがわかるわけではありませんが、その曲は初秋の夜風を感じさせるような、どこか寂しい落ち着きのある調べでした。
「ここにいたのか」
 曲が終わった頃、ルームウェア姿の先生が顔を出しました。クリアファイルを抱えています。そしてわたしたちを見るなり、眉をひそめました。
「浦川さん、お疲れ様です」
「……ここでも密会か?」
「先生、誤解ですよ。わたしはただ、高本さんの演奏を聴いていただけです」
 先生は静かな場所を探していたようです。怪談を読む練習をしたかったそうですが、一階には良い場所が見つからなかったのだとか。
「ここでも、というのは?」
 高本さんも、先生の言葉に何かを察知したようです。それは一階のリーダー室にも、誰かがいたということを意味していました。
「もしかして、新井くんですか」
「そうだ。朝倉を連れ込んで、何かしていたらしい」
「また彼ですか!」
 耐えかねた高本さんが声を上げます。今日は宥めてくれる八戸さんや江本さんもいません。こんなとき、その感情のはけ口は……。
 原稿です。高本さんは原稿用紙と万年筆を鞄から出すと、ひたすらに何かを書き殴りました。おおよそ文字とは認識できないその字画の一つ一つが、呪詛に縁どられた魔物の姿を浮かび上がらせます。そういえば、高本さんは絵画もたしなまれるのだそうです。部誌では自分で作品の扉絵を描いていました。これだけ趣味があって、それぞれ人の心を掴む要素があるのに、不思議なほど報われない人です。それはもう、卑屈にもなるのだと思います。
 そこにいても仕方がないので、わたしと先生は寝室に入りました。ここはもう、二段ベッドが三台入って一杯の空間なので、あまり執筆向きではありません。企画が始まるまでは三十分ほど。やや長く感じる時間です。
「疲れた……これではあまり、こんな山奥に出向いた意味がない」
「メロスのやつ、先生は終わりました?」
「一応な。だが、見るに堪えない出来だから、書き直すつもりだ」
「締め切りは明日の夜でしたね」
 先生は自分のベッドに横たわり、そのまま眠ってしまいそうなほど脱力していました。こんなときメロスは寝過ごしたり、悪い夢を見たりするものですが、それは重大な使命を負って疲労困憊しているからで、先生の場合とは質が違います。仮にこのまま寝落ちして企画をすっぽかすことになっても、「南無三」などとは言わないでしょう。
「先生、ここで寝たらせっかく用意された怪談が無駄になりますよ?」
「代読してくれないか? 知っているだろう、わたしは朗読が苦手だ」
「知ってますけど……」
 案外、まともな原稿が用意できなかったわたしにも利益のある提案です。だからと言って、素直に引き受けるのは抵抗があります。
「あまり知らない上年目ばかりで、合宿とはいえ距離も近い。そんな中で……」
 それは、先生が普段から交流して来なかったからなのでは……と、つい言ってしまいそうになりましたが、ともあれ相当参ってしまったようです。なんだかんだで、わたしはそんな先生に甘いのです。
「わかりましたよ。原稿はそれですか」
「ああ。短いから、すぐ読めるだろう」
 クリアファイルから出てきたのは、『秘湯で生き返る』という題の、三分くらいで目を通せる長さの怪談でした。ある山奥の秘湯の噂を聞いた旅人が、実際にそれを探し当てるのですが、その温泉は落ちた虫をも生き返らせてしまうという話です。ブユやムカデなどが必要以上の滋養を得て蘇り、人間に襲い掛かる様子をグロテスクに描いた迫真の原稿はさすがという感じですが、相当に力を入れて読まなければ原稿に負けてしまいそうです。
「なるほど……これをわたしに読めと」
「それはな、こんな山の中にある温泉に行くと、露天風呂で虫が鬱陶しくて仕方がないという情景を描写した話だ」
 怪談は単に怖がらせるというよりは、「本当にあるかもしれない」と感じさせるところにエッセンスがあると言う人もいます。そういう意味ではポイントを押さえた原稿です。わたしの投げやりなメロス数え歌が恥ずかしくなります。
「……では、企画の趣旨には反するかもしれませんが、原稿担当が先生で、朗読担当がわたしという形式にしたいと思います。それでよろしければ、わたしが先生の代理で企画に出ます」
「ん? 何もそこまでする必要はないぞ」
「わたし今日、怪談を用意できなかったんですよ。それで、こんな原稿を読もうとしてたんです」
 メロス数え歌の原稿を渡すと、先生はくすくすと笑いました。先生が笑ってくれたので、この原稿の役割は終了としても良いでしょう。
「確かにこれは、怪談ではないな。いくら猟奇的なミステリでも、ホラーと同一視されるわけではないだろう」
「そうですね。そんなものを書いていたので、今日の企画は一文字も進んでいないのです」
「なるほどな。そういうことなら、後は好きにしてくれ」
 こうして結局わたしたちも「密会」を終えたわけですが、先生はそのまま布団に入ってしまいました。とりあえず企画の時間まで原稿を読んで待とうと動き出したところで、部屋のドアが開きます。
「あれ、中津ちゃん」
 相部屋の朝倉さんが戻ってきました。こちらはジャージ姿で、パソコンを抱えています。
「お疲れ様です。ずっと下にいたんですか?」
「ちょっと、メロスの企画の作品書いてて。浦川ちゃんもいるんだ」
「疲れたとかで、寝てしまいましたけどね……企画も参加しないそうです」
「そっか。疲れたなら仕方ないね」
 朝倉さんは持ってきたバッグの中に怪談の原稿があるので、それを取りに来たようです。
「もうみんな下の和室に集まってるけど、中津ちゃんも来ない?」
「そうですか。では行きます」
 誘われたならば、もはや先生にばかり構ってもいられないでしょう。わたしは人が集まって賑やかな場所も嫌いではありません。
「先生、電気は消していきますよ」
「……ああ」
 そうして迎えた『十八(仮)』もとい、『十七(仮)』でしたが、先生のように真面目な怪談を準備してきた人もいれば、ダジャレやホラー以外のオチなどのネタに走った人も少なくありませんでした。新井くんなどは、『揺籠唄』というタイトルで、実は登場する夫婦の名前が「ユリカ」と「ゴウタ」だったというオチの話でした。内容は先日サロベツ原野で仕入れた河童伝説をもとにしていたそうですが、それをわざわざ脈絡のないダジャレでラッピングするところが非常に新井くんらしいです。
 上年目では、明石さんが樋田さんにゴーストライターを頼んでいたのが、怪談の内容から即座に看破されてしまうという珍事がありました。一方、同じく三年目の上尾さんや山根さんはとても完成度の高い原稿と語りを用意してきていて、注目を集めました。特にそれで順位を付けるというわけではありませんが、やはり本当の意味で場を盛り上げるのは、真面目に企画の趣旨に沿った人なのだと感じます。わたしは先生からこの原稿を預かって、本当に良かったと思うのです。
 ちなみにこの企画名を考えたのは、平塚さんだという話でした。元ネタから「八」を拝借したとのことで、期せず企画名が変わってしまったことにはやや不満げでした。

 その夜は企画が終わってからも長かったと、朝倉さんから聞きました。明石さんが人狼をやろうと言い出したり、持ち寄ったゲームで遊んだりと、とても盛り上がったそうです。意外なことに、そのときは高本さんも、ノリノリで参加していたという話でした。これは今日、自分の目で確かめねばなるまいと思いました。
 施設の朝は早く、六時半になると目覚ましの放送が流れます。七時から前庭で、宿泊団体全員参加の集いが催されるのです。周囲は誰も彼もが眠そうでした。
 しかしながら、気温がやや低いことを除けば、とても清々しい朝です。周囲に力強くそびえる山々を望み、思い切り深呼吸をしたなら、朝露に濡れた芝生にも飛び込みたくなるくらいの開放感があります。
 もう少し散歩でもしてから戻りたいところでしたが、直後から朝食の時間なので、仕方なく施設に入ります。これだけ早くに起きて、今日は午前から気合の入った企画がある……と思いきや、朝食の後は十時まで自由時間です。仕方なくわたしは、激怒したメロスを料理する作業に入りました。二階の和室には、静かな場所を求めて上年目も何人か集まっています。わたしと先生もその一角にお邪魔して、黙々と作業をしました。
 メロスは激怒した。激怒した激怒した激怒した激怒した。そもそも、メロスとは誰? 何故激怒した? わからない。わたしが一人一人、レミングの行進のごとく失踪させていったメロスとは? 失踪と言えば、疾走と音は同じ。つまりメロスは走っている。『走れメロス』ここにあり。
 ――そうです。原稿を前にして一文も進まない人の頭の中は、こんなに混沌としているのです。これは、誰でもそうなるのです。
 厳密には、わたしの原稿にはその、梃子でも動かぬ一文目が刻まれているのですが、この頑固で断定的な一文は、自分の手には余ってしまいます。原作のアイデンティティとも呼べる、画竜点睛に相当するこの一文を、安易には料理できません。
「……先生、わたしはダメです。風に当たってきます」
「大丈夫か?」
「創作の苦しみですので、お気になさらず」
 わたしは二階のリーダー室の窓を開け放ち、風に当たりました。空には何やら重い陰を帯びた雲が流れていきます。気圧が下がっているようです。しかし実は、次の企画はハイキングだと聞いています。そのために動きやすい靴を履いて、雨具を持って来るようにとアナウンスがされていたのです。
 各方面からあの雲のような不安が流れ込んでくるわけですが、ひとまずわたしは、窓際の机に向かって瞑想をしました。こんなときは小樽で買ったガムランボールの音色が恋しくなりますが、残念ながら持ってきていませんでした。
 そんな未練も雑念も、今だけは、心から追い払って……。
「中津さん。下に弁当届いたから、受け取って。そろそろ出発の準備もしてや」
 と、そんな時間は十数秒で打ち破られました。新井くんです。しかも、要件を早口で言うだけ言って、わたしが振り返ったときにはもういないのです。本当に、この怪しい雲行きの中で、昼をまたぐようなハイキングを決行するつもりなのでしょうか?
 それにしても、ハイキングがなくなればそのときは、またこの施設から一歩も出ずに不便で閉鎖的な創作に終始することになるので、まだ外に出て雨に降られた方が良いような気もしてきます。わたしはそちらの方が楽しいです。
 そんな思いが通じたのかはわかりませんが、ハイキングは決行する運びとなりました。行き先は、道をまっすぐ下った先にある、青い池というスポットです。道中、バスから入口の駐車場だけは見ていました。テレビでも取り上げられており、わたしも名前だけは知っています。
 まだ眠いのか、一部の上年目は億劫そうにしていましたが、このハイキングも、ただ歩くだけではありません。実は午後から、このハイキングを題材に短歌または俳句を詠むという企画が待ち構えているのです。要するに吟行です。
 施設を出て、わたしたちはまばらな列をなして往きます。天気はこのまま持つ気がしません。湿度が上がっていて、雨の匂いもし始めています。そんな中で、深い渓谷に架かった橋を渡った頃、わたしたちを出迎えるものがありました。
 蛾です。道内の各地でしばしば大発生する、マイマイガという種類です。山の中なので仕方のない部分もありますが、無視できない程度には辺りを飛び交っています。足元には死骸も散らばっていたりして、苦手な人には十分な恐怖を与える光景です。わたしはともかく、朝倉さんなどはかわいそうになるほど怯えながら歩いています。
「これは聞いてないですよ……」
「運が悪かったな」
 先生はさすがに農学部だけあり、虫には耐性があるようです。
「ではここで一句、または一首」
「そうだな……『台風の眼や群れ踊る舞舞蛾』というのはどうだ」
「なるほど、この不穏さを率直に詠んだ句ですね」
 温泉街に来ると、ホテルの花壇にコスモスが咲いています。それにしてもこの辺りは森林だからか、自然の花があまり多くありません。実はこの企画に備えて、新井くんが事前に秋の季語をある程度まとめた資料を作ってくれたのですが、そこに載っていたような秋の花やら果実やらは、ほとんど見かけられないのでした。
 それでも池に着けば、何か詩になるような情景というものを見つけられると思った矢先でした。ついに、雨が強く降り始めたのです。そのときわたしたちは既に温泉街を抜けていて、雨宿りには道路脇の林に身を隠すしかありませんでした。施設から二十分くらいですが、まだ池までの道のりのおよそ半分です。
 さすがに副幹事である新井くんも焦って、小宮さんや上年目の方々とあれこれ相談をしていました。それにしても雨が止む見込みはなく、引き返すことを前提に話はすんなりと進んだようです。
「はい。皆さん、すみませんが、引き返しましょう。戻ったら、宿泊棟の一階和室に集合してください」
 小宮さんの号令で、わたしたちは散り散りに施設へと動き始めました。ある人は全力疾走で。ある人は、悠長に濡れながら歩いて。またある人は傘を持っていて、場合によっては誰かと入っていました。わたしは先生の折りたたみ傘に入れてもらいました。
「先生、ここで一句」
「驟雨は……夏の季語か。秋雨とするか?」
「ありますよね、そういうこと……じゃあ、わたしから。『秋の蝉今ひと時の雨に消ゆ』」
「なるほど。敢えて蝉を主題にしたのか」
「はい。わたしたちもある意味、一度きりの機会を雨で失ったわけですが、蝉の命と比べると大したこともないように思えますね」
 当然ながら、傘は二人を守り切るほど大きくはありません。肩が濡れます。スニーカーはとうの昔に浸水しています。それでも、わたしたちはマイペースに帰りました。「ゆっくり」という表現をしないのは、基本的に先生の歩きが速いからです。
 あるところで、少し先にいた新井くんと朝倉さんに追いつきました。二人の姿と、一本の傘。しかし、実際に見えるものはわたしたちの期待に全く背いたものでした。なんと新井くんだけが傘に入っているのです。朝倉さんがレインコートを着ているとはいえ、ただでは見過ごせない状況です。
「新井くん、これはどういうことですか!」
「いや、違うねん」
「私が、いいって言ったの」
 わたしは反射的に声を掛けましたが、朝倉さんが新井くんを庇います。その反応もまた、一見意外なものでした。
「朝倉さんが?」
「その……私は、レインコートあるし」
 新井くんはそれ以上何も語りませんでしたが、二人で話し合った末に、このような形になったということです。確かに新井くんは比較的薄着で、傘以外の装備はありません。朝倉さんに十分な雨具があるなら、新井くんだけが傘を使うのも、合理的ではあります。
「でも……相合傘とか、されないんですか?」
「……まあな」
 今度は朝倉さんが顔を伏せてしまって、新井くんは諦めたように答えました。この様子から察するに、新井くんのほうにはその気があったのでしょう。とりあえず、この場はそれで許してあげることにします。
「では、お先に」
「ああ」
 わたしは先生の歩調に合わせて、二人と距離を置きました。それでも二人はそのままです。
「今更だが、相合傘より、一定時間で傘を回して使った方が効率的な気がするな」
「そうですね」
 そんなことを言う先生にはわからないかもしれませんが、一見非効率的な相合傘は、二人の間柄を効率的に誇示してくれるのです。朝倉さんはそれを恥ずかしがったのでしょう。
「それにしても、あの二人はこの合宿中、常に一緒にいるような気がする」
「それ、気のせいではないですよ」
 考えがまとまってくると、逆にわたしは、アプローチの過剰な新井くんに少し自重するよう言ってあげるべきだったと思います。それはほとんどの意味で、朝倉さんのためです。

 施設に戻った後、短歌俳句企画は午後から予定通り開催されることになりました。この企画の進行は新井くんに任されているとのことでした。夏休みの最初に練習企画をしていただけあり、気合が入っているように見受けられます。
「まずは、先日の練習企画に参加してくださった皆さん、ありがとうございました。私はこの文芸部で、短歌や俳句があまり盛んでないと聞いたので、活動の多角化戦略の助けになればと思い、今回こういった企画を提案させて頂きました」
 後から本人に確認したのですが、この部がより幅広い活動の場を得て、活動内容も豊富になれば、その「多角化戦略」というものが達成されるようです。なんとも意識の高そうな導入です。
「まずは皆さんに、紙をお配りします。一人一句または一首、作品を書いて提出してください。二十分くらいでお願いします」
 わたしと先生は、ハイキングで詠んだ俳句をそのまま提出しました。時間に余裕があったので、少し新井くんに企画のことを聞いてみることにします。
「新井くん。今回、短歌と俳句を同列に扱っているのは何故ですか?」
「それはな、慣れていない人からすれば、どっちも似たようなものだからやね。今回は最初のお試し企画だから、好きな方を選んでもらうことにしたんよ」
「なるほど」
「この後も継続的に句会や歌会をやろうと思うけど、そのときは別々にやる」
 さすがに自分で「戦略」と言うだけあり、計画性もあるようです。短歌や俳句を作る人が劇的に増えなくても、鑑賞できる人が増えるだけでも有益です。
「でも、俳句はともかくとして、短歌は競合する団体があるのでは?」
「確かにな。でも、短歌会は専門性の高い団体だから、今更うちの団体が短歌を始めたところで競合とかの騒ぎにはならんでしょ。むしろ、これをきっかけに短歌会との交流の道が開けるかもしれない」
「まあ確かに、この文芸部は周辺の文芸サークルとの交流、ほとんどないみたいですね」
「本当はそれも実現して、多角化戦略が達成されるのよ」
 サークルは企業ではありませんし、必ずしも規模の拡大が利益ではありません。ただ、それによって魅力的な活動が実現できて、かつ部員の満足度が高まるならば、わたしも応援したいと思いました。
「わたしも短歌や俳句はわかるので、何か手伝えることがあれば言ってくださいね」
「そうか。ありがとう」
 さて、企画の後半では、提出された作品が一筆箋に清書され、黒板に貼り出されます。匿名で、作者がわからないようになっているというわけです。
「それではここから、皆さんの作品を鑑賞していきます。まずは皆さんに、投票をしてもらいたいと思います。一人当たり特選を一票と、選を二票投じてください。特選は二点分になります。念のため言いますが、自分の作品には投票なさらぬよう」
 並んだ作品を見ると、短歌がやや多くなっています。全てひらがなで表記してみたり、韻を踏んでみたり、中には折句と思しき歌もあったりと、各々の挑戦が見て取れます。一方、俳句は音数や季語などの制約のためか、相対的に表現力を発揮できない傾向にありました。
 それにしてもハイキングがあのような状況だったため、蛾や雨の様子を率直に詠んだ作品ばかりです。その点ではあまり差がついていないように感じます。
 開票されると、わたしの感じた傾向はそのまま得点の偏りとして表出しました。上位三作品を短歌が独占し、わたしと先生は五位タイとなりました。
「はい。それではここから、講評に入りたいと思います。上位の作品から読み上げますので、作者の方は名乗り出てください」
 講評は、新井くんが各作品について、感想やアドバイス等を述べるというものでした。そこで、道路上で傷ついて蠢く蛾の姿を詠んだ二位の短歌が、朝倉さんの作品であることが明らかになります。
「この短歌は、とても鮮烈な印象を与えますね。死にかけた蛾が寄り集まって、動くか、動かないかのところがある意味、生命を感じさせるところでありますし、一方、最も気持ちの悪いところではないかと思います」
 こんな感じで新井くんは講評をしてくれるのですが、そのときばかりはとても嬉しそうでした。ちなみに、先生の詠んだ蛾の俳句に対する講評はこんな感じです。
「台風の眼が季語で、舞舞蛾を取り合わせたんですね。『群れ踊る』という部分は、『舞舞蛾』という漢字の持つ印象と重なってしまうので、もう少し違う表現をする余地があると思います。でも今回、蛾の躍動感というか、動きのある様子を詠んだ作品は少なかったですね。そこに目を付けたのは、さすがに浦川さんという感じです」
 比較的上位の作品にはこのようにすらすらと感想を出していた新井くんでしたが、後半になるとだんだん、コメントに困る様子が見えてきます。それでも全ての作品について講評をしようとするので、あまり票の集まらなかった人にとっては、気まずい名乗りとなったことでしょう。新井くんはこれでも頑張ったのだと思いますが、やや不器用な面があるのかもしれません。

 二日目の企画はそれで終了となり、夕食と入浴の後は飲み会がありました。中央棟の防音室にお菓子や飲み物を持ち込んで、立食形式で自由に交流するというものです。環境としては、消灯時間まで自由に騒げるような場所でした。
 しかしながらわたしも含め、締め切りの迫った人にとってはとても遊んでいられるような時間ではありませんでした。最初の一時間で抜け出して、宿泊棟二階の和室で追い込みを始めます。朝倉さんも一緒でした。
「中津ちゃんは、あとどのくらい?」
「恥ずかしながら、残りを言えるほどの進捗ではないのです」
「それは、大変だね……」
 ここまで来てしまったら、もはや何が何でも形にするしかありません。書けそうかどうかではなく、書くのです。わたしはこれまで断片的に得てきた発想を、ミックスジュースにしてしまうことにしました。
 メロスは激怒した。その筋書きを思い出したのは、四人目が消えたときだった。この古びた山荘に、何の因果か集った八人。一人は激怒した後に失踪。一人はいきり立つ短剣に刺されて。一人は南無三、寝過ごして。そして今、四人目は濁流に押し流された――。
 ミステリのネタは出せそうになかったので、普通に山荘からの脱出を試みる話にしました。最初に失踪した一人は山荘の周辺に眠る埋蔵金を当てにしており、他の七人を敵と見做して排除しようとしたのです。事態はもつれ、最後の一騎打ちになったとき、緋のマントを捧げられるのはどちらか、という流れです。
「中津ちゃん、頑張って」
 ようやく執筆も軌道に乗り、半分くらい行ったところで朝倉さんが部屋を出ていきました。どうやら作品を書き上げたようです。
「お疲れ様です」
 消灯時間は過ぎて、現在十一時です。その間和室には誰も来ませんでした。今頃は下の和室で、またゲームなどに興じているのでしょうか。気になって廊下へ出てみます。ついでに眠気を感じてきたので、歯を磨いてリフレッシュすることにしました。
 リーダー室にも人はいません。二階は完全な無人です。先生くらいはいるだろうと思いましたが、寝室にもいないのです。この状況、多数派の視点では「中津がいない」となるのですが、私の視点では、「みんながいない」と判別がつきません。そういうところから、ホラーが始まることもあるでしょう。
 ……まあ、それは一階に行けば、確実に全員がいるのです。変な考えを起こしてしまうのは、慣れない執筆に疲れが出ているのでしょう。しかしながら、まだ残り半分はあります。ここで眠ってしまうわけにはいきません。
 作業に戻ってすぐ、先生と小宮さんが二階に上がってきました。
「中津ちゃん、まだ掛かりそう?」
「申し訳ございませんが……日付が変わるまでには、間に合わないと思います」
 作品は、小宮さんが取りまとめることになっています。明日の午前中に合評をするのです。そのときには、確実に間に合わせなければなりません。
「じゃあ、明日の掃除の前にでも、提出してくれればいいから。おやすみ」
「はい。ありがとうございます……」
 小宮さんはあくびをして、そのまま寝室に入っていきました。その後、先生はわたしの隣に来てくれます。
「疲れたか?」
「軽く錯乱するくらいには……」
「わたしだって、今からでも帰りたいくらいだ。朝には札幌だろう」
「ふふ、そんなには掛からないですよ」
 心配している風に見せて、自分の疲れを自慢げに話してしまうような先生ですが、やっぱりわたしのことは、一番理解してくれているという信頼があります。
「先生は、遅くまで何をしていたのですか?」
「新井と、朝倉に誘われてな。人狼とかいうゲームをしたんだ。最初わたしは、人狼になったのだが……どうだ。占い師とやらに一発で見抜かれて、話す間もなく処刑されてしまった。その後も、村人になればすぐに噛まれ、狩人になっても何も守れず……わたしは、あのゲームに向いていないようだ」
「それは災難でしたね……」
 人狼は話術と振る舞いで乗り切るコミュニケーションゲームです。口下手な先生の適性は低いと言わざるを得ません。その一方、作品は既に提出をしたとのことです。
「ところで先生は今回、どんな作品を書かれたのですか?」
「結局、あまり出来の良い作品ではないが……激怒できない少年の話だ。他人の傍若無人な振る舞いに、たとえ何らかの被害を被ったとしても、ただ、黙ってやり過ごしてしまう……行動を起こし、王の心境を変えて見せたメロスは所詮、物語の中の英雄に過ぎないということだ」
「なるほど。先生にしては珍しく、リアルに近い内容ですね」
「合宿だからと気合を入れてみたが、やはり慣れないことは、補えるものではないな」
 わたしも先生も、今回の合宿では慣れないことに苦戦しています。そう考えると、もう一人思い出す人がいます。
「そういえば、人狼には高本さんも参加されていましたか?」
「ああ。挙動不審なのに、何故かいつも後半まで生き残るのだ。巧みに疑惑を回避し、議論の主導権を取ってしまう。狂人という役に当たったときは、人狼の陣営を圧倒的な勝利に導いていた」
「そういう舌戦はできそうですからね……ともかくも、ノリノリだったわけですか」
 表現は何通りかありそうですが、良く言えば、高本さんは切り替えができるのでしょう。この合宿の夜は完全なオフというわけです。しかしながら、文芸部にいるときはほぼ常にオンなので、高本さんにそういった素顔があろうとは、考えさせる隙もありません。
「不器用な方です」
「そんなものではないか? そこまで器用な人間など、多くはないよ」
「先生も大概ですけどね」
「うるさい」
 合宿の意義の一つには、こうして互いの新たな側面を発見することもあるのだと思います。それは、必ずしも心の距離を縮めるばかりではないでしょう。良くも悪くも、人間関係が変わるきっかけになるのです。
 あの選挙の夜から静かに、しかし急速に変わりゆくものがあるのを感じています。巻き起こった風は、目には見えなくても、確実に何かを運んでくるのです。それがわたしたちの前にどのような形で現れるのかは、まだわかりません。
 やがて先生も寝室に入り、わたしは夜中の三時頃、ようやく作品を書き上げました。推敲も一応はしましたが、もはや脳が硬直したかのような鈍痛に襲われ、目で文字を追うこともままなりません。
 わたしはパソコンを抱えて、消灯された廊下に出ました。あとは寝室のドアを開けて、パソコンを適当なところに放って、ベッドに入るだけ……ではありませんでした。
「……なあ」
「もう……じゃあ、ちょっとだけね」
 二階の入口の外から、か細い男女の声が聞こえます。今にも途絶えそうな意識の中でも、わたしは聞き慣れたその声の主を、はっきりと捉えていました。
 外の廊下には非常灯があるのでしょう。青緑の光で、入り口のガラス戸には一体のシルエットが縁どられていました。
「私ばっかりじゃ、やっぱりダメだよ」
「わかってる。でも、俺は香奈実ちゃんと、こうしてるときが一番なんだから」
 なんとなく耳をそばだててしまいましたが、気付かれれば大変なことになります。わたしは音を立てないよう努めて慎重に寝室へと入りました。中では先生が寝ているだけです。
 じきに戻る彼女と鉢合わせにならないよう、わたしは予定通りにパソコンをバッグの上に放って、速やかにベッドに入りました。すると、ドアを開ける音にも気づかないほど一瞬で、深い眠りに落ちてしまったのです。
 もし、あそこで逃げ遅れたら?
 わたしは夢を見ました。言い訳の言葉もなく、ただ立ち尽くすばかり。そのまま世界が流体のように形を失って、それで目が覚めたのです。

六 空隙

 秋口の青空が好きです。空を飛ぶなら、間違いなく秋が最適だと思います。夏の熱気が去ったところへ、爽やかな風と共に飛び込んでいくのです。
 そんな空想もしながら過ごした九月でしたが、気付けばもう下旬、夏休みも終わりが見えてしまいました。宿題も講習もない夏休みは実に幼稚園以来のことで、実際に過ごしてみると、なんと持て余してしまったことかと思います。
 何もしていなかったわけではありません。多くは文芸部のイベントであるマスカレードに投稿された作品を読んでいました。小説部門だけでも十五作品あり、十五夜掛けて読んだというわけです。規模もジャンルも様々でした。全て匿名で投稿されていましたが、中には作者の姿がありありと見えるような強い個性を示すものもありました。
 では、肝心の先生の作品は見つけられたのかと言えば……当然です。わたしは自信を持って今日、発表会へ向かうのです。
「先生、お久しぶりです」
「合宿以来か。久しぶりだな」
 夏休み最後の土曜日の午後です。学期中と変わらない程度には人がいました。先生に会うこともそうですが、会場のサークル会館へ向かう道も、周囲の雰囲気も含めて何もかもが久しぶりという感じがします。
「先生はマスカレードの作品、全部読みましたか?」
「読んだよ。投票もした。さすがになかなか、読み応えのある作品もあったな」
「そうですね」
 快晴でも暑くはなく、運動には最適な日でした。体育会系の練習も盛んであるように見えます。そういった空気も作用してか、先生に話したいことが次々と浮かんできました。しかしまずは、マスカレードの作品のことです。
「約束した通り、先生の作品はきっちりと見極めてきましたよ」
「では聞かせてもらおう、どの作品だ?」
「はい。『ラッキーアイテム』です!」
 わたしは迷いなく作品名を言いました。先生は安心したように微笑みます。
「……さすがだな。正解だ」
「ループものとは、挑戦的ですね」
 朝のテレビの占いから発想を得たというその作品は、幸運や幸福というものについて考えさせる、怪奇かつシビアな世界観を持っていました。
 主人公は高校生の女子で、テレビの占いでラッキーアイテムに選ばれた品によって、その日多くの幸運を手にします。しかし副作用で、ラッキーアイテムを午前中に手放さない限り、同じ日を繰り返すことになってしまいます。選ばれるのは、友人との思い出の品ばかり。幸運に溺れるか、未来へ這い上がるかの葛藤の中で、彼女はその世界の秘密に迫っていく……という物語です。
「贔屓ではありませんが、上位も狙えるのではないかと思います」
「そうか。しかし、行くとしても三位ではないか?」
 先生にも自信があるようで、笑いまじりに自惚れたことを言いました。しかしながら、三位という自己評価は意外と謙虚です。実はわたしも、そのくらいの順位に落ち着くのではないかと踏んでいました。
「そうですね。例えば『油地獄』とか、上位になるのはそういう真っ向勝負の作品なんですよ」
「あれは……わたしが見ても、圧倒的な作品だったな」
 作者の見当はついていませんが、それは相当な実力を感じさせる作品でした。妻と離婚し、親の介護と不安定な仕事で困窮した中年の男性が、再起を図ることもできず心身を病んでいき、壊滅的な結末を迎えるというサスペンスです。読書によって多少補っているとはいえ、本質的に人生経験の乏しいわたしたちにとっては、考えも及ばない作品です。
 ちなみに先生の作品の結末は、ラッキーアイテムを手放し続けた未来こそが最も無難で平和なものだった、という王道の展開です。そのことは、主人公からラッキーアイテムを譲り受けた友人が、本来主人公が迎えるはずだった悲劇的結末を迎えるという形で示されます。
「夏部誌もそうでしたけど、やっぱり大学生の書く作品は何か、パラダイムが違うような気がしますね」
「ああ。ジャンルも内容もレベルも、より多様になっている。こうして競う場面でも、同じ土俵に立っている気がしないほどにな」
「現にわたしは先生の作品が上位になると信じていますが、それも狭い世界での話だとしたら……」
「今日、それもはっきりとするだろう」
 元々先生の作品の魅力は、良くも悪くも「ませている」ところにあるのでした。成熟した感性や迫力ある描写、構想力、それらすべての基準が、これまでは高校生にあったのです。一年誌を終えて、今後一人前として活動していくからには、大学生あるいは一般のパラダイムに適合していく必要があります。
 しかしながら、一年目でこんなことを考えているのは、わたしたちだけなのでしょう。これは姉から聞いた話ですが、一年目の後期はとにかく人の消えがちな時期だそうです。サークル活動に参加しなくなったり、午前中の講義に出なくなったりするところから始まり、やがては連絡も取れなくなり、学年から消え、大学からも消えてしまう……と。
 秋の空は音もなく人をさらっていくのです。緊張感から解放された、本当の大学生活へ。それ自体は、ありふれた通過儀礼なのかもしれません。しかし油断すると、大事にしていた志も、あっさりと抜き取られてしまうのです。

 発表会の前には臨時部会があり、高本部長の進行で新歓や冬部誌のスケジュール確認がされました。冬部誌は初稿の締め切りが十月の初週と早く、翌週には合評が始まります。そうして年内には丁合を終わらせる予定です。
 一年目にとっては新歓も重要ですが、それにしても一番の関心はマスカレードです。部会が終わった後の休憩時間に、わたしは久しぶりの和泉さんに話し掛けました。髪のワンポイントの色が、赤から緑になっています。
「和泉さん、夏休みはいかがでしたか」
「思いっきりだらけたね。だるっだる。結局これの作品も全部は読めてないし。それで? フミはどれだけ真面目に夏を過ごしたの?」
「わたしも大概、自堕落な生活でしたが……楽しかったですよ」
「それならよし。だいたいみんな同じだよ。こいつだって……」
 そこで和泉さんは、近くで椅子に座っていた星井さんの肩に、後ろからそっと両手を掛けました。星井さんはその場で跳ね上がります。
「ちょっと、急に触ったら、びっくりするから」
「星井のっぽい小説、一つあったね。つれない先輩と風鈴を眺めるやつ」
「そう。わかるんだ」
「普段から話してればわかるもんだよ、文体とか構成とか癖が出るし」
 帰省をしていた間にも、二人は多少なりとも企画に参加していたようです。ちなみに星井さんの作品は、わたしも見極めることができました。
 事前の情報によれば、新井くんと朝倉さんも作品を出している可能性があります。実際、二人のらしい小説があったのでした。わたしは部屋の隅に形成された二人の空間に、遠慮なく入らせていただきます。
「新井くん。作品読みましたよ」
「おっ、中津さん。どれかわかったんか?」
「『冬のダイヤモンド』でしょう。まあなんというか、趣味全開の作品でしたね」
「中津さんに聞くのも違うかもしれんが……萌えたか?」
 そんな彼の作品は、軽音楽部でバンドを組んでいる四人の女の子たちが、曲作りのために天体観測キャンプをするという物語です。設定からして、かつてブームになったアニメを想起させます。内容も日常の描写が多く、準備や買い出しを経て、当日のアクティビティとバーベキューを経て、天体観測にたどり着くまでがとにかく迂遠なのでした。
「萌えを意識した作品とは読めましたが、その表現は、小説では難しかったのでは?」
「そうか? 個人的には割と満足いく出来だと思うけど」
 首を傾げる新井くんを見て、朝倉さんも口を開きます。
「私は面白いと思ったよ。描写とか綺麗だったし、キャンプの準備とか、楽しそうだったし」
「新井くん、もしや朝倉さんが気に入ってくれたからそれでいいとか、思っていないですよね?」
「それはない。俺はこうして趣味を押し出した話を書くことによって、同志を見つけるんや。最低限、ある程度受け入れられなかったら困るわ」
 急に声の大きくなるところは怪しくもありますが、新井くんは以前から近い創作観の人を見つけたいと言っていたので、そこは本当なのだと思います。
 一方の朝倉さんも何らかの作品を出したとは教えてくれましたが、どの作品なのかは明言しませんでした。わたしも一応の見当はついていましたが、あまり詮索しないのもマナーです。

 マスカレードの結果は全体として、予想を大きく外れることはありませんでした。『油地獄』は十点中八点に迫る総合点で優勝し、作者は二年目で四年生の瀬田さんだとわかりました。二位は六年目の松戸さん、三位は山根さんで、先生は八戸さんと並んで四位タイでした。
 六年目賞には八戸さんの小説が、新井くんの個人賞と樋田さんの韻文賞にはともに山根さんの作品が選ばれました。新井くんと樋田さんはどちらも「青春」というキーワードを指定しており、小説と詩の違いはあれど副賞がレモンで重複するという珍事が起きました。それらを両手にしてはにかむポーズを取らされた山根さんが、その日の話題を独占してしまいました。
 その夜には近所の居酒屋でマスカレードの打ち上げが開かれ、わたしと先生は早速、優勝した瀬田さんにお話を聞かせてもらうことにしました。瀬田さんの隣には高本さんもいます。とても濃い話のできそうなお相手です。
「早速ですが瀬田さん、優勝おめでとうございます」
「どうもありがとう。こんなに評価してもらえるとは、思ってなかったけどね」
「いやいや、瀬田さんは実に素晴らしい作品をお書きになる」
 高本さんもハイペースでお酒を飲んで、取り巻きのように瀬田さんを持ち上げていました。その敬意は本物なのでしょう。ちなみに高本さんの作品は総合点がほぼ中央値で、あまり話題にもなっていません。その悔しさも感じられます。
「浦川さんも、八戸と並んで四位だったよね。年目はあんまり関係ないけど、やっぱりすごいと思うよ」
「……そうか」
 一方、先生はここに来るまでは瀬田さんのお話を聞きたいと張り切っていましたが、席に着いた途端に人見知りを発動してしまいました。わたしに頼りきりです。
「わたしもずっと浦川の作品を見てきた身として誇らしいのですが……例えば瀬田さんや松戸さんの作品は、やはり本当に成熟しているというか、高校生のパラダイムでやってきたわたしたちから見ると、一つも二つも上のステップにいるような気がしています。そういった中でこの順位を頂けたのは、ある意味偶然だったかもしれません」
 こうして先生の考えを代弁するのも慣れたものです。ほとんどわたし自身の考えでもありますが。
「僕はそれが却って、若々しくて新鮮だと思ったよ。中津さんと浦川さんは、同じ高校だったりしたの?」
「はい。わたしたち、札幌豊橋高校文芸部の創立メンバーです」
「豊橋って、あの頭のいいところ?」
「偏差値の上ではそうですね」
 経歴について積極的には語らずにおきましたが、高本さんが補完してくれました。先生が獲った賞の名前まで、よく調べられています。
「僕はそれこそ、去年入部してからだから、若い人たちの活躍を見ると、才能だなって思うんだ。高本もそうだよ」
「恐縮です」
 瀬田さんは気前よく高本さんの肩を叩きました。なんとなく、学年の差以上に大人な振る舞いに見えます。器の大きさにしても、謙虚さにしても、明らかに先生にはないものを持っています。そういった性質は、作品においても重要な世界観に強く影響するのです。
「浦川さんや中津さんから見れば、僕のほうが手の届かないものを持っているように思えるかもしれないけど、僕にあるのは本当、年齢くらいだからね。積極的にいろんな経験をして、ちゃんと勉強していれば、僕なんてすぐ追い越せるよ」
「ありがとうございます。励みになります」
 結局は経験と勉強です。それは当然、一朝一夕に解決する問題ではありません。消極的な姿勢でいれば永遠に手に入りません。
 ある程度お酒が入ると、瀬田さんと高本さんは揃って平素の理性を失い、互いの悩みなどについて延々と語り始めました。とても気の合うお二人です。
 こういうとき、高本さんは不思議と文芸や文学の話はしないもので、恋愛運のないことへの嘆きだけが出てくるのでした。その中にはやはり、新井くんを敵視しているかのような内容もあります。その新井くんはというと、今日もしっかり朝倉さんと隣り合って、企画班の平塚さんや武藤さんと話しているようでした。
 こうなると、自分から話すことのない先生はとても退屈そうです。わたしの隣で、船盛り刺身のつまを黙々と咀嚼しています。実際、退屈なのはわたしも同じだったので、今のうちに冬部誌の話をしておくことにしました。
「先生は、冬部誌どうされますか?」
「せっかくだ、初稿締め切りまで時間もないし、今回のを出そう」
「わかりました。編集は……」
 そこでわたしは思いとどまります。いつものように「編集はわたしがします」と言うことが、本当に良いことなのかと。
「もし先生がよろしければ、今回もわたしが務めさせていただきます」
 結果として、とても消極的な言葉が出てしまいました。もちろん、わたしはずっと先生の作品を見てきた身として、誰よりも先生の持ち味を引き出す編集ができると自負しています。この上ない安定です。しかしそれは、挑戦や冒険がなくなることと紙一重です。この部にはわたしが持っていない、高度な考えを持った人もいます。その考えを作品に取り入れようとするなら、その人に編集をしてもらう以外にないのではないでしょうか?
「わたしは構わないぞ。よろしく頼む」
「……わかりました」
 もしもわたし自身が、先生を狭いパラダイムに閉じ込めておくことに最も大きく加担していたのなら……。

 後期の授業が始まると同時に、新歓の活動も始まりました。わたしの役割はポスターの掲示です。まだ人の少ない一限の時間に、朝倉さんと手分けをして、教養棟の主な掲示板にポスターを貼りました。星井さん作の、文学少女のイラストが目を引くポスターです。
 片付けのためボックス席に戻ると、何故か新井くんが一人で待ち構えていました。朝倉さんはまだ戻っていないようです。
「新井くんは、どうしてここに?」
「ボックス当番だよ。二限は香奈実ちゃんの担当だから、来てみたんだ」
「もう朝倉さんしか見えていないのでは?」
「そんなことはない。同期が増えるのは楽しみやろ」
 しかしながら新井くんは、授業もあまり多くないとのことで、空いた時間を朝倉さんのために使おうとしているのはほぼ間違いありません。
「いつの間にやら、名前で呼んだりして」
「香奈実ちゃん来たな」
 食堂二階の入口から姿を見せた朝倉さんを、彼は瞬時に捉えます。向こうもまだ気付いていないのに手を振って、満足げな表情です。
「新井くん、来てたんだ」
「今日、新歓初日だし、気になってな」
 その下心を、朝倉さんは恐らく感じ取っていないか、気にしていないかです。ちなみにわたしは二限があるので、その後は二人きりの状況です。知っているわけではありませんが、交際二か月のカップルはこんな感じなのでしょう。
 そろそろ二人の空間にも慣れてきたので、違う話をすることにします。
「ところでお二人は、冬部誌に何か出しますか?」
 部誌の場合、編集班がスケジュールや予算を見積もるため、作者は事前にエントリーをする必要があります。文芸部はメールドライブと別にBBSを持っていて、そこに作品の種類や長さなどを書いておくのですが、一年目はまだ先生しか書いていません。
「俺は今回、出すつもりはないよ」
「私も……バイト始めて、最近ちょっと忙しいし」
 意外にも、二人とも消極的です。
「朝倉さんはともかく……新井くんは暇なのでは?」
「作品自体はあるけど、あんまり気乗りしなくてな」
 部誌制作に気乗りしない。その表現に強い違和感を覚えたのは、高校の文芸部の感覚だからでしょうか。確かにこの文芸部には様々な活動の形があります。しかし、部誌制作は数少ない外向きの活動であり、間違いなく文芸部の実体を支える柱であるはずなのです。
「それでは……新井くんはその作品を、どうするんですか?」
「このまま自分だけで楽しむかもしれんし。この部には自由創作ってシステムもあるから、それで出すかもしれん」
「ちなみにその作品って、この間の『冬のダイヤモンド』ですか?」
「いや違う。『冬のダイヤモンド』は、順位が思ったより伸びなかったから、もうしまっておこうかなって。後は自分で楽しめればええから」
 新井くんの気にする順位ですが、高本さんと同じくらいだったと思います。コメントを眺めると、描写やストーリーの瑞々しさを高く評価するものがある一方、キャラクター性の薄さや冗長さを批判するものもあり、なかなか激しい賛否両論でした。
「そうですか……」
「その点、浦川さんはすごかったよな。部誌には出さないの?」
「先生は出しますよ。その作品です」
「それなら、わざわざ俺の出る幕でもなかろう」
 新井くんは自嘲的に笑いました。マスカレードでの順位がそこまで悔しかったのでしょうか。最初の頃に見せていた自信過剰な様子は、もはや感じられません。むしろ卑屈なくらいです。
 時間が来てしまったので、わたしはボックスを後にしました。その日も、部誌へ新たにエントリーする一年目はいませんでした。

 風が涼しくなるにつれて、なんだか寂しくなるような感覚があります。後期最初の部会の日、わたしはその原因に気付いたのでした。
 部長になってみると、高本さんは非常に落ち着いた仕事ぶりで、部会は粛々と進行しました。しかし静かで落ち着いていたのは、わたしたち部員の側も同じだったのです。
 前期までは部会で見かけていた一年目のメンバーの姿がありません。特に男性陣は、新井くんを除いて全員欠席です。来ているのは先生、和泉さん、朝倉さん、星井さん、武藤さんと、決まりきったメンバーでした。飯綱さんもいません。
 ……と思っていたのですが、よく見ると新井くんの隣に、見かけない男性が座っています。夏休みの間にすっかり髪の伸びた新井くんと比較して、とてもさっぱりとした短髪の好青年です。
 部会が終わってから、早速彼にアプローチしました。
「お疲れ様です。新井くん、そちらの方は?」
「おお、紹介するで。入部希望の篠木くん」
「理学部一年の篠木義則です。今日ボックスを見学して、せっかくなので部会も見せてもらうことにしました」
「すごい行動力ですね。わたしは文学部一年の中津文子です。編集をしています」
 篠木くんは既に高本さんにも挨拶をして、入部届も書いてしまったようです。それはもう、入部希望どころか新入部員です。
「篠木くんはどうして、この時期に文芸部に?」
「前期が忙しくて、サークルとか全然見てなかったんだけど、昨日文芸部のポスターが目に留まって」
 確認したところイラストが気になったというよりは、純粋に文芸部に興味を持ってくれたようです。
「どんなジャンルが好きなんですか?」
「ジャンルかあ。何でも読むけど、古典文学とかかな」
「マニアックですね。星井さんと気が合うかもしれません」
 話しているうちに部員が次々と集まってきて、あっという間に篠木くんの囲み取材になりました。出身は山口県の西側で、書くよりは編集に興味があって、話していてもやはり感じの良い人であるということがわかりました。一年目にとってはとても良いタイミングで、期待の新人が入ってくれたと思います。

 それでも冬部誌の状況は変わらず、ついに初稿締め切りの前日になりました。エントリーは今日までとなっています。午後にボックスを訪ねると、八戸さんと新井くんがいました。
「お疲れ様です」
「中津。冬部誌出してください」
 八戸さんの第一声がそれです。この状況を見かねて、キャンペーンをしているようです。
「わたしは、編集の仕事もありますので……」
「他に出す人がいないんだよ。この冬部誌は、来年の新歓でたくさんの新入生の目に触れるのに、そのとき新歓をやってる君たちの作品が、全然載ってなかったらどう思う?」
 主張もよく理解できるものです。その唯一の作品が先生のものであったとしても、それだけでは部誌の内容として魅力が出てきません。八戸さんは続けます。
「この文芸部は、そんなに文芸してないんだなって思われても仕方がないよ。今なら間に合うから、新井も中津も、冬部誌出そう」
 わたしも困りましたが、新井くんも葛藤に満ちた表情で話を聞いていました。モチベーションが落ちていても、やはり根は生真面目なのでしょう。「こうするべき」という論調には弱そうです。
「すみませんが、わたしは明日までに作品を用意できないので、今回は出せません。ただ、もう一度一年目のメンバーに、この話を伝えます」
 ひとまず、和泉さんにメッセージを送りました。すると幸いなことに、間もなく『書いてなかったけど、詩は出すつもりだよ』と返信があったのです。わたしはそれを八戸さんに見せました。
「和泉さんは、出してくれるそうですよ」
「二人じゃ、まだ足りないよ。三人くらいはいないと」
 八戸さんは冷淡でしたが、三人という明確な数字を引き出すことができました。このまま、とりあえず今日は見逃してもらえるよう、交渉に持ち込むつもりでしたが……。
「わかりました。私も出します」
「新井くん、無理に出そうとしなくても、わたしたちは大丈夫ですよ」
「いや。作品はあるし、他に出せる人もおらん」
 先に、新井くんが名乗り出ました。今回はいつかの編集決めと違って、誰かが困るというわけでもありません。単にプレッシャーに負けたのか、あるいは本当に一年目の将来を憂慮したのか、どちらにせよ、わたしは少し心が痛みます。
「じゃあ、頑張ってください」
 八戸さんは腕時計を見ると、当然のようにそう言い残して去っていきました。
「……新井くん、本当に良かったんですか?」
「俺が出すことで、他の一年目にも刺激になったらいいな」
 わたしの見立てですが、この部には現状、新井くんの期待するような連帯感はありません。誰が部誌に作品を出しても、それを応援するとか、一緒に質を高めていくとか、そんな空気がいつもあるわけではありません。自然な流れに身を任せるだけなら、二回の合評もただ取り留めなく終わってしまいます。
「作品が上がったら、読みますからね。出すと決めたなら、頑張りましょう」
「問題は編集だな、飯綱さんのようになったとき、誰が付いてくれるか……」
「大抵の作品は大丈夫ですよ」
 特に責任があるわけでもありませんが、我ながら薄っぺらい励まししかできなかったものだと思います。部誌に対して新井くんが感じていたらしい不安を、わたしは少しも感じ取っていませんでした。

 初稿締め切りが過ぎ、新井くんの作品は無事に提出されました。もちろん先生の作品もです。わたしは約束通りに新井くんの作品を読みましたが、それ以上に何かをする、例えば編集につくなどは考えていませんでした。先生の編集につくことは、それが膠着を意味していたとしても、もはや決まりきったことでした。
 しかしその矢先に、高本さんからメールで重要な連絡があったのです。
『前回の部誌の反省において、部誌の編集を同じ学年の親しい者同士で行うことで、上年目からの技術継承が滞っているというご指摘を頂きました。今回の編集決めではこれを踏まえ、なるべく同じ学年の者同士で固まらないよう要請いたします』
 この連絡が編集長の大藤さんではなく、高本さんからなされたことが不思議だったので、とりあえずわたしは大藤さんに確認を取りました。回答は次のような感じです。
『二年目の中で、そういう話になったのは本当です。僕は部会でやんわりと言うつもりだったけれど、高本が先に言っちゃったんだよ』
 確かに技術継承は部誌だけの問題ではありませんが、今回の高本さんは先走っている印象を受けました。しかしともかくも、わたしは先生の編集につきにくい状況になったということです。
 月曜日に、早速二人で対応を考えることにしました。
「まあでも……先生と先生の作品なら、誰が編集についても、悪いようにはならないと思いますが」
「悪いようにならないだけなら、わたしの意思でできるだろう。だが、問題は良いようになるか否かなのではないか?」
「はい。それは承知しています」
 実際、わたしには自分が一番先生の作品を理解していて、上手に編集ができるという自信があります。しかしそれだけを主張して先生の編集につくことは、今や横暴の域に入ります。
 一年誌のとき、わたしは誰をも寄せ付けない態度で先生の編集につきました。あのときも実は、新井くんが先生の編集を希望していたのです。結果的に先生が望んでいなかったとはいえ、振り返ればフェアな振る舞いではありませんでした。
「ただ、わたしは最近、考えるんです。このままずっと当然のように先生の編集につき続けることが、果たして先生のためになるのだろうかと」
「それはわたしが選ぶことだ。あの要請にしても、背景には作品の質を高めるという目的があるのだろう。だが、本来は要請などなくとも、作品の質を高めるための選択は徹頭徹尾、作者の責任においてするべきではないか? 編集を変えるも変えないも」
 教養等の静かなリフレッシュスペースに、珍しく感情を露わにした先生の声が響きます。いつもならわたしはこの声に目を覚まし、先生に寄り添う決断ができたかもしれません。しかし今は、その当たり前だった選択肢がひどく頼りなく思えるのです。
「確かに、先生にそれができないとは思いません。でもこの部にはもっと、先生にも大切なことを学ばせてくれるはずの上年目の方がいるんです。わたしばかりが編集をしていては、そうした経験の機会も奪ってしまうのではないかと」
「……だから、わたしの編集ができないと?」
 先生は語気を弱め、声を震わせながら確かめました。わたしが頷いても、納得できないというふうに続けました。
「そんな論理があるものか。編集が誰でも良いと思っているのか。満足に編集のできる上年目が、どれほどいるかもわからないのに」
 わたしも実際、先生との約束を反故にするようなことは初めてです。これほどに怒った先生を見るのも初めてです。もはや「経験」などという綺麗な言葉には収まらない、泥濘の道に踏み入れてしまったように感じました。
「わたしだって、そう思っていないわけないですよ。でも……思うんです。わたしと先生は、あまりに同じ考えを持ちすぎる。これまでは、それで上手く噛み合って成功してきました。でも、この間のマスカレードのように、どうしても超えられなさそうな限界が見えたとき、そこで止まってしまうんですよ」
「わたしたちは、それでも地道に力を伸ばしてきただろう。去年の大会も、わたしたちの力で、その前よりも高みを見ることができた。それはもとより時間のかかることだ。安定を求めて何が悪い。安定の上にこそ確実な成長がある。寄せ集めの付け焼刃になど頼るつもりはない」
 長い議論……というか、平行線の言い争いが続きました。先生の芯は強すぎて曲がらず、なまじわたしも先生の考えが理解できるだけに、それを否定するように強く出ることができず。ただ、話しているうちに明らかになったことがあります。わたしは自分の能力や成長性に限界を感じていて、思いのほかそれで自信を失っていたということです。先生の言葉がどれだけ響いても、自信を取り戻すには至りませんでした。
 結局、先生が授業の時間になり、喧嘩別れのようになってしまいました。わたしは初めての心細さに、誰かの優しさを求めてボックスに向かいます。そこに和泉さんがいてくれたことを、そのときばかりは神に感謝しました。
「和泉さん、わたし……どうすれば良いのか……」
「ど、どうしたフミ」
 現れるなり突然正面から飛びつくわたしを、和泉さんは戸惑いつつも受け止めてくれました。ボックスの当番だったそうですが、一緒にいた大藤さんや黒沢さんに場を預けて、わたしを食堂一階の静かなところへ連れて行ってくれました。
「で……何があったの?」
「先生と、喧嘩してしまったんです」
「アキと? またどうして」
 とりあえず、わたしは状況を端的にまとめました。自分の編集に限界を感じていること。先生には上年目の編集を付けたほうが良いと思ったこと。先生がそれを拒んで、わたしの編集を望むあまりに言い争いになったこと。和泉さんはそれを、やや困惑した表情で聞いていました。
「相変わらずフミもアキも、難しいこと考えるよね。高本さんのメールなんてあたしまだ読んでないよ。別に編集なんて楽しく話せればいいじゃん。合評もあるし、一人で全部決めるわけじゃないんだからさ。結果的に作品の質を左右するかもしれないけど、アキなんて元から書けるんだから、大して変わらないでしょ」
 想像はしていましたが、気持ち良く一刀両断してくれます。
「まあでも高本さんのことだから、仲の良い同士でやると、ずぶずぶになって編集が甘くなるとか思ったんでしょ。例えば新井が朝倉ちゃんの編集したら、絶対甘くしそうじゃん。でもフミはそうじゃないでしょ?」
「もちろんです。わたしはいつも、先生が最高のパフォーマンスをして、最高の作品を書いてくださることを願っていますし、そのために妥協はしません」
「でも、やっぱりフミは今のままじゃアキのためにならないと思ったわけだ。じゃあもう、今回は互いに気分を変えるとかでさ、軽い気持ちでバラバラになればいいじゃん。部誌なんて何回もあるんだし、そんな今生の別れみたいに喧嘩しちゃってさ。お前ら夫婦なん?」
「いえ……」
 そこでわたしはもう一つの気付きを得ました。先生がわたしに依存するのと同じくらい、わたしも先生への依存があったということです。そうでなければ、わたしはもっとあっさりと快く先生を他の人に任せられたはずなのです。
 その夜、わたしは先生とビデオ通話をしました。画面に映った先生は、暖かそうな部屋着姿でリラックスした様子でした。
「先生。すみませんでした。でもやっぱりわたしは今、先生の編集としてやっていく自信を、少し失くしてしまっているんです」
 わたしが謝って頭を下げると、先生は穏やかな表情を変えずに頷きました。
「……まあ、わたしも悪かった。意固地になりすぎたな。大丈夫なのか?」
「ですから、その……今回は気分を変えて、他の方の編集についてみたいんです。先生の前でははっきりと言えませんでしたが、今回、お暇を頂きたいんです」
「わかったよ。まあ、たまには気分を変えたいこともあるだろう。ふふ、しかしわたしは今回、ついに反抗期が来たのかと思ったよ」
「それでも心はずっと、先生のためになることを願っているんですよ」
 あっさりと仲直りに至りました。今回はわたしが心境をしっかりと伝えられなかっただけで、このくらいではわたしたちの結束が壊れたりはしません。
「でも……和泉さんに話したら、言われちゃいましたよ。『お前ら夫婦か』って。確かにわたしたちの結束は固いですが、もう少し柔軟になってもいいかもしれませんね」
「まあな」
「ですから、先生はもっと周囲とコミュニケーションを取ってください! だからわたしも、安心して他の人に先生を任せられないんです」
「わたしは大丈夫だ。今回はなんとかする」
 まだ少し心配ではありましたが、わたしたちは互いに新たな道を進むことができそうでした。

 初稿は十作品が提出され、編集決めの部会は前回よりも高い出席率になりました。それでも一年目は少なく、もはや当たり前のようにいる篠木くんを数えても、前期の人数には届きません。この新歓で、もう何人かの加入を目指すしかありません。
 それはさておき、部会は山根さんによる、部誌に関する注意事項を高本さんが独断で発信したことに関するお叱りから始まりました。高本さんの回答は次の通りです。
「今回は、部誌という場ではございますが、部の今後に関わる重大なことですので、部長として発信させて頂きました。編集長の大藤さんへの連絡を行わなかった件については、大変失礼いたしました。この注意事項は、強制的なものではありませんが、しかし今後のため、なるべく皆様に意識して頂きたいことであります」
 相変わらずの図太さでした。すっかりペースを乱されてしまったわたしなどは、個人的にもう少し苦情を言いたい気もしますが、最初なので今回はやめておきます。
 こうして始まった編集決めでしたが、先生の編集は真っ先に決まりました。是非ともやりたいと名乗り出てくださったのは明石さんです。コミュニケーションの面では、良好な組み合わせだと思います。先生もすんなりと受け入れました。
 樋田さんが八戸さんの短歌に付くなど、運営を退いた三年目もまだまだ現役と言わんばかりの積極性を発揮し、編集はどんどん埋まっていきます。
 しかし、その第一次マッチングと呼ぶべき波に、新井くんは乗ることができませんでした。彼が提出した『彼の世は幻想の園』は、恐らく、女の子同士の友情を描いた冒険ファンタジーです。読んだわたしが曖昧な表現をしているのは、様々な要素が絡み合っていて、テーマ性を一本に絞りがたいためなのです。進めるべき方向性が見えにくく、今回の作品の中ではかなり編集の難しい部類だと思います。
 タイトルに「彼の世」とあるように、主な舞台が死後の世界です。先に事故で亡くなってしまった親友を追うように、主人公は生きながらそこへ迷い込んでしまいます。そこでの「願えば何でも叶う暮らし」に呑み込まれそうになりながらも、親友と再会し、元の世界に戻る方法を探して町を巡り、最後には世界の真実に触れる……というような話です。
 あらすじにまとめるとこのくらいですが、四万文字ほどもあるやや長い作品です。他にもこの作品の悩ましい部分はいくつかありますが、「なんとなく新井くんの編集は大変そう」という雰囲気が上年目の中にもあるのだと思います。本人は気にしていませんでしたが、一年誌のときのそういう振る舞いを、人は見ているものです。
 何より、彼は懲りずに女性の編集を希望していました。作品の内容もそこまで女性的な視点が必須というわけでもなさそうですし、それ以外の意図が見え隠れします。しかも、そのときには編集希望でフリーの女性は上年目にいませんでした。
 ほかに残っていた作者は高本さんと、三年目の上尾さんでした。二人は作品の質こそ良いものの、却って編集の難しそうな印象を与えているようです。
 わたしは自由に選ばせてもらえるならば上尾さんを希望しますが、前回の反省から、なるべく残った人の編集につこうと考えていました。しかし、なかなか動きを決められません。
「フミ、編集やらないの?」
 そこで既に大藤さんの編集についた和泉さんが、わたしをつついてきました。編集班員としては、なるべくスムーズに、円満にこの場を収めたいという気持ちもあります。
「やります、やりますよ」
「誰の?」
「それは……」
 なんだか、本当はやる気のない人のようになってしまいました。場は沈黙です。先生という唯一の選択肢を離れると、わたしはなかなか優柔不断になるということに気付きます。
「お疲れ様です。遅れました」
 その静寂を破って、教室後方の入口から、背の高い粗雑そうな男性が入ってきました。四年目の柿元さんです。
「まだ編集決めやってる?」
「はい、残り三人です」
 黒板と司会の大藤さんを交互に見ながら、柿元さんは窓際の机に腰掛けました。
「おっ、上尾行き遅れてるんじゃん。俺編集やるよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
 この間わずか三十秒ほどです。柿元さんは(他の文系の四年生もそうですが)前期は就職活動のためかあまり見かけませんでしたが、今は時間に余裕があるようです。今日は、経済学部のゼミで遅れたとのことでした。
 そしていよいよ、残りは高本さんと新井くんの二人になりました。そこで手を挙げたのは、意外にも篠木くんでした。
「大藤さん。編集って、どんなことをするんですか」
「編集は、作者と打ち合わせをして原稿を作ったり、合評の場所を確保したり、合評の進行をしたりっていうのが仕事です」
「じゃあ僕、高本さんの編集、やってみてもいいですか」
「高本、どう?」
「はい。私も編集のことは教えますので、是非ともお願いいたします」
 歓声が上がりました。入部したてでガイダンスもしていない篠木くんでしたが、もはや英雄のように歓迎されています。部長の高本さんに付いたという部分もわたしたちを安心させました。
 こうして案の定、新井くんは最後の一人になりました。例によって時間はギリギリです。ここに来てもなお、「誰でも良いのでお願いします」という姿勢を見せないのも新井くんです。仮にそうしても、今更のことではありますが。
 しかしながら、わたしもここまで結局、誰につくかを決めきれずに来てしまったのです。これはもう、新井くんの編集につくしかありません。そしてその気になったなら、動きは早い方が良いのです。誰かのように、いたずらに場を停滞させたりはしません。
「新井くん。わたしがやりましょうか」
「中津さん……」
「同じ年目ですけど、決まらないよりは良いですよね」
 大藤さんも頷いてくれたので、決定です。いろいろありましたが、わたしは今回、新井くんと冬部誌に取り組むことになりました。

「……とまあ、大雑把ですけど、この作品にはこれだけの問題点があると思います」
 翌日の午後、ボックスで最初の打ち合わせをしました。当番の邪魔になるといけないので、隣の机に原稿を拡げます。実際は当番をしているボックスでも、星井さんが柿元さんに経済学を教わっていたりして、単に場所がないだけでしたが……。
「そうねえ。例えばここは、主人公の不安の表現なのよ。それで、次のこのちょっとした喧嘩につながるわけ。伝わらん?」
「言われればつながるかもしれませんが、その時点で説明不足と言わざるを得ません」
 新井くんにはとりあえず、展開のつながりや、台詞のおかしい部分など、最低限のことを伝えました。本当はもっと根本的な問題が潜んでいるように見えましたが、いきなり作品のコンセプトを切り崩すのは大変なので、とりあえずです。
「まあでも、さすがに中津さんは鋭いとこ突いてくるね。ただどうよ、これだけの問題を直したとして、この作品は面白くなると思う?」
「見違えるほどとは言いませんが、しないよりは良いです」
 ちなみにわたしはこの作品について「問題点はあるものの、悪くはない」と伝えました。ご機嫌取りです。これで新井くんもなかなか繊細そうなので、少しでも不安を与えれば、すぐ極端に動いてしまう予感がするのです。
 前回の作品を先生は「自己完結的な楽しみ」だと評しましたが、今回も同じように感じます。それは自分が楽しめることと、作品が面白いことが勝手にイコールになってしまうのです。現実は決してそうではありません。
「ところで新井くん。前回の作品は、実在の湖を舞台に書きたいというところから始まったそうですが、今回は当然、そういう感じではありませんよね」
「ああ。この作品の始まりは夢でさ、海の向こうに会いたい人がいるとか、辺鄙な温泉で再会を果たすとか……そういうイメージに、死後の世界の設定をかぶせて、できていった作品なんだ」
「温泉で……ですか」
 作品の中盤、主人公が親友と再会するシーンが、まさに寂れた露天風呂なのです。親友は、自分が「会ってお別れを言いたい」という願いを持ってしまったために主人公をその世界に呼び寄せてしまったかもしれないと、後ろめたさを感じて隠れていたと説明されていますが、そこが露天風呂なのは新井くんの趣味だと思います。
「実はこの作品、最初高校一年のときに書いたんだよな。話したかもしれないけど、当時引っ越して離れた女の子を思ってさ。でも、男女の恋愛は別に書きたくもないから、女の子同士にしたってわけ」
「心理学的には昇華と呼ぶ、でしたっけ?」
「そうそう」
 何とも都合の良い言い草です。しかし、編集の方向性を決めるうえで使える情報が出てきました。少し掘り下げてみます。
「まあつまり、新井くんはこの主人公二人の友情、特に美しい再会を書きたくて、この作品を書き始めたんですね?」
「そうだな。でもそれだけだとストーリーも何もないし、せっかくだからこういうファンタジーにしてみようって思ったわけよ。主人公が親友と離れて、絶望で自殺しそうになるっていうのはキルケゴールね」
「死に至る病……ですか」
「ただ、死に至る病っていうのは神への帰依で実存を確保するっていう流れだから、この世界は神を中心に成立している」
 作品の終盤には世界を意のままにする神様が登場するのですが、この神は主人公の親友の願いを受けて、絶望で死に至ろうとしていた主人公を救うために、生きながらその世界に呼び寄せたと語ります。そして「彼」を中心とした、信仰に依れば大抵のことが叶う世界で、主人公を救済しようとしたという設定です。従ってタイトルの「彼の世」は、「あのよ」であり「かれのよ」でもあるそうです。
「でも、この世界はあくまでも死後の世界なんですよね? 黄泉戸喫みたいな描写もありますし、この神も、現世は一切皆苦みたいなことを語っていますし……やや世界観というか、背景の思想が散らかっているのでは?」
「そこは大した問題ではなかろ。黄泉戸喫はこの世界だと厳密ではなくて、ただ、最初に何か食べた瞬間、神の干渉を受け始めてその気にさせられるっていう感じ。そこからは不自由しないし、本来反抗して現世に帰ろうという気は起こしにくいんだよな」
「はあ。でもそこで、主人公の他にも現世に帰る、つまり転生しようとしている女の子がいると」
「そうそう。まあいろんな立場の人がいたほうが、世界観に深みも出るし、あと、この子は主人公たちに最後の場所への手掛かりを与える点で重要だよ」
 主人公と親友の友情を書きたいと言った割には、とても回りくどく世界設定を作り込んでいます。その世界設定から友情以外のテーマ性がにじみ出て、展開が迂遠になって、しかし見せ場が増えるわけでもなく、ひたすら長く単調な物語になってしまっています。
「なるほど……確認しますけど、新井くんは二人の友情を書くために、この作品を書き終えたんですよね?」
「そう表現すると、少し違うかもしれんな。書き終えるときにはもう、この完成した作品世界を書きたかったって感じ」
 はっきりしました。この作品は原初の思い付きから完成に至るまでの過程全てを無秩序に詰め込んで、その過程を美化するべく書かれた作品です。新井くんは、この量だけはある作品をまとめ上げたことによる満足感と作品の面白さを同一視する錯覚にとらわれているのです。
「……ぶれているって、言われません?」
「別に。まあでもとりあえず、指摘貰ったところ取り入れて、一次合評に臨む感じでええの?」
「間に合わなくても大変なので、そのくらいにとどめておきましょう」
「わかった。ありがとうな」
 合評の日程は決まっていませんが、いずれにせよ合評稿の締め切りまで一週間もありません。わたしはもはや不安しかありませんが、本当のことは一次合評で話すことにしようと決めました。それは正直、新井くんにとってあまり幸福なことではないと思います。

 さて、合評の日程が木曜日に決まり、その三日前である月曜日に合評稿は無事に提出されました。これで合評までは仮初の平和です。そこにちょうど、新歓の説明会がありました。いつもの一年目メンバーは、先生も新井くんも篠木くんも含めて勢揃いです。先生は特に面倒くさがっていましたが、何も役割を持っていない身でさぼらせるわけにはいきません。
 しかし来たからと言って、説明が終わった後の交流タイムにも隅のほうの席で本を読んでいたのでは意味がありません。
「先生! 何をしているんですか、来てくださった方と絡むんですよ」
「わたしはこうして、目を引くような本を持って、声を掛けられるのを待っている」
「そんな新歓がありますか!」
 先生が持っていたのは、『鼻行類』という奇妙な生き物の生態について書いた本でした。それが目を引くような本なのかは、わたしにはわかりません。どちらでも関係ありません。
「そんなことより、あそこに座っているのは小野寺ではないか?」
 すると先生は、これまた隅の席でかじりつくように夏部誌を読んでいる女性に目を向けました。小野寺さんというのは、高校時代の先生のクラスメートです。名前を憶えているとは意外です。わたしの記憶には、その少し乱れた長髪が重なります。
「確かに、わたしは話したことはありませんが、なんとなく記憶にあります。声を掛けてみては?」
「……そうだな」
 クラスメートならできると思ったのか、先生は素直に立ち上がりました。小野寺さんはわたしたちが近づいても、真剣に部誌を読んでいました。どの作品かはわかりませんが、口元が綻んでいるのを見ると、楽しく読んでくれているようです。
「久しぶり、だな」
「あっ、浦川さん。それから……」
「中津です。先生と同じ文芸部でしたよ」
 それにしても、小野寺さんが文芸に興味を持っていたとは知りませんでした。わたしは部を立ち上げるときに、無差別聞き取り調査で文芸に興味を持っている人を隈なく探したのですが、それでも見つからなかったということです。
「小野寺、望海さんでしたっけ。文芸に興味があったんですか?」
「……去年くらいから。詩とか、小説とか、ちょっと書いてて」
 小野寺さんは少し恥ずかしそうに答えます。確かに去年なら、新しく部活動を始めるには遅い時期です。彼女も先生と同じく理系で、今は理学部だそうです。篠木くんと同じく前期が忙しかったのと、あの騒々しい新歓期が苦手だったので、今になって見学に来たとのことでした。
「こちらはどんな感じです?」
 あるとき、新井くんが割り込んできました。この人はさっきから、女性にばかり声を掛けて回っています。
「理系一年の新井竣と言います。どうぞよろしく。えっと……」
「理学部の、小野寺望海です」
「小野寺さん。ちなみにご出身は?」
「札幌です」
 いきなり出身から入るところも、あまり文芸的ではありません。
「それはそれは。実は私も札幌出身でしてね」
「新井くん。ここはわたしたちに任せて。ほら、あちらの方とか空いてますよ」
「そうか。じゃあとりあえず、文芸部をよろしく!」
 フランクに親指を立てて見せた新井くんが次に向かったのは、朝倉さんのところでした。もはや新歓であることなどどうでも良いのかもしれません。わたしは小野寺さんに話を戻します。
「まあ、文芸部にはたくさんの人がいますけど、楽しいですよ」
「二人は、どんなことしてるの?」
「わたしは編集で、先生が小説を書いていますね。それで作品を作り上げて、そんな感じの部誌にするんです」
「そっか。他にすることはある?」
「合宿とか、部内のコンペとか、企画はいろいろありますね。メインは部誌ですけど、それ以外にも活動はできますよ。先生はこの間のコンペで、部内四位を獲ったのです」
「そうなんだ。ただ書くだけじゃないのは、面白そうだね」
 わたしと小野寺さんはその後の食事会でも、部のことや高校のことなどで盛り上がりました。先生は同席していながらほとんど喋りませんでしたが、小野寺さんのことは気にしていたようです。
 わたしたちの高校は半分が東京へ進学するので、この大学ではあまり知り合いに出会いません。小野寺さんは高校では違う部活でしたが、わたしたちの部誌はいつも読んでくれていたとのことです。そして、この文芸部に入ると言ってくれました。こんな人が身近にいたのに気付かなかったとは、わたしもまだまだだと思います。
 去る人がいれば、来る人もいる。すっかり姿を見なくなった飯綱さんも、八戸さんに言わせれば「あいつはミーハーだからな」と当然のような反応でしたが、わたしはショックだったのです。他にもまだあまり関わらないうちに、縁のない人になってしまった同期が何人もいます。しかしそんな隙間を埋めるように、頼もしい二人が入ってくれました。収支を考えるともう少し入ってほしいところですが、ともかくもこの二人とは、末永い付き合いになることを願ってやみません。

 数日のうちに気温がぐっと下がり、その夜は冷たい風が吹いていました。合評前に会った新井くんは、二枚のチケットを自慢げに見せてきます。
「今週末、香奈実ちゃんの誕生日なんだよな。二人で交響楽団の演奏会に行くことにしたのよ」
「この合評を無事に終えられたら、朝倉さんとデートに行くんだ……と?」
「そう、死亡フラグみたいな言い方をするもんやないで」
 ここまで来て、見習いたいほどの能天気さです。わたしにはこの合評がどれほど荒れるのか、見当もついていません。
 いつもの図書館の個室に集まった参加者は、大藤さんに和泉さん、小宮さんに武藤さんでした。合評の始まる前、新井くんが飲み物を買いに部屋を出ると、和泉さんが声を掛けてきます。
「フミ、ちょっと今回の作品……アレじゃない?」
 言葉は濁されていましたが、カラフルな糸が絡まったように書き込みのされた原稿を見ると、わたしでも少し恐ろしくなります。自分でも新井くんに対してこのくらいの書き込みをしたわけですが、それが普通かもしれないと思わされるのはやはり違う感覚です。
「大藤さんも、ですか」
「……まあね、言いたいことは、結構あるかな」
 大藤さんはノートパソコンを持参していましたが、画面を見せてもらうと原稿のファイルに百を超える数のコメントが入っていました。相当な時間が掛かったことでしょう。
「こんなに……ありがとうございます」
「フミ、先に謝っておくけど、あたしはこの作品最後まで読めなかったよ。もう無理。好き勝手言うけど、上手いことやってね」
「はい。頑張ります。初稿を読んだときから、覚悟はしていました」
 やがて新井くんが戻り、合評開始の時刻になりました。部屋の予約は閉館まで一杯に取ってあります。わたしはそれでも足りないかもしれないと予感しました。
「それでは、時間になりましたので、新井くん……新村千草さんの作品、『彼の世は幻想の園』の合評を始めます。よろしくお願いします」
 その瞬間から漂い始めた重い緊張感に、新井くんは気付いていたかわかりません。最初は参加者全員から雑感を聞きます。わたしは敢えて武藤さんから順番を回しました。
「えっと……文章は読みやすくて、上手いと思いました。ただ、中身はファンタジーとか、冒険とか、友情とか、生きる意味みたいなテーマはいくつかありそうだったんですけど、どれもなんだか、中途半端な気がしました」
 新井くんが小さく唸ります。それでもまだ優しい感想かもしれません。次は小宮さんです。
「はい。新井くんは、こういう女の子がメインの話が好きなんだろうな、とは思うんですけど、その割には、心理描写が薄かったり、前後のつながりが悪かったり、盛り上がりがなかったり、あんまりこだわりが見えませんでした。逆にファンタジー要素も、浮いてる感じがして、削ってもいいかなって思いました」
 武藤さんとアプローチは違いますが、指摘している問題点はほぼ同じです。それを一言で表してくれたのは大藤さんです。
「まずね、僕はこれを読んでも、何がやりたかったのかわかりませんでした」
 原稿に感想をメモしていた新井くんの手が止まりました。大藤さんは続けます。
「ファンタジーを書いたとは言うけれど、設定も活かしきれていないし、特に目新しい設定でもないし、そのために文章を使うなら、もっと主人公たちの心の動きのほうにフォーカスしたほうがいいと思います。いずれにしても、まず書きたいものをもっと絞るべきだと思いました」
 新井くんは早くも不満げですが、他人の感想を覆すことはできません。最後は和泉さんです。
「だいたいみんな言ってくれたことと同じなんですけど、何より長くて、展開もしているように見えるけど伝わってこなくて、最後まで読み切るのが大変でした。雑感は以上です」
 結局、褒めるような言葉は武藤さんからしか出ませんでした。わたしは予想していましたが、厳しい感想ばかりです。
 それにしても、新井くんはこうした感想を投げかけられることに対して、全く身に覚えがないという態度です。ある意味ここからの改善についても、思考はほとんど止まってしまっているのでしょう。そんな状況で意見ばかりを言っても、今度は新井くんの意思が何一つ反映されない合評になってしまいます。司会のわたしが手を打たなければなりません。
「皆さんありがとうございました。今回、作品の意図があまり伝わらなかったということで、まずは新井くんから、こういう作品が書きたかったということについて説明してもらいましょう」
「はい。私が書きたかったのは、この主人公が友情によって絶望を克服するという物語です。この世界は一見、現世で恵まれない結末を迎えた人々を救済する仕組みになっていますが、主人公を救済するのはこの世界でも神でもなく、親友の思いなのだというテーマです」
 今度はわたしが意表を突かれました。いつ考えたのか、言っていることがこの間と違います。しかし本人の中でなんとなく考えはまとまってきているようなので、このまま進めます。
「ええと……今は要素が多かったり、それぞれの出し方のバランスが悪かったりして、やりたかったことが伝わっていないということになるでしょう。ここに関して、皆さんからこれはいらないとか、ここを活かしたほうがいいとかありましたら、ご意見をお聞かせください」
 普段の合評ではもう少し自由な流れで進行するのですが、今回はそうすると参加者の不満が一気に押し寄せることになるので、極力話題を絞るように進行しています。
「じゃあ、はい」
「大藤さん、お願いします」
「まず、変にキルケゴールとか、いろんなもののパロディっぽく世界を作るのはやめたほうがいいと思います。そもそも友情というテーマと、生き死にのテーマを合わせるのはどうしても重すぎるので、それで中途半端になっているんだと思います。だからいっそファンタジーであることを捨てるか、ファンタジーにしても、死後の世界とか背景設定が前面に出るようなものは、避けた方がいいと思います」
 それでもこんなふうに、一刀両断されるのです。新井くんはさすがに不満を露わにしました。
「それを削ったら、この作品何が残るんですか」
「そこで友情が残るように書くんだよ!」
 場がどよめき、和泉さんがたまらず口を挟みました。これもまた難しいところで、客観的には不要なものでも、既に作者の中には既得権益のごとく居座っているのです。当然それは作品のバランスを崩すのですが、作者の認識ではもはや作品世界に癒着していて、引き剥がせないのです。上手くメスを入れる必要があります。
「まあともかくも……新井くんとしては、友情がテーマだとしても、再会という点に動機があるそうですし、冒険物語として軸を通したいのではないですか?」
「そうやね」
「現実に土台があるから、冒険の成立しそうなファンタジー世界にシフトするために、わざわざ絶望などという手続きを踏む必要が生まれるのです。ならば最初から、冒険に溢れたファンタジー世界を描けばよいではないですか。大藤さん、それならいかがでしょう?」
「それでやっと、普通かなって思う」
「でもさ、何にしてももう、この作品をこの作品としてやってくのは無理っぽいよね」
「そうですね……とりあえず、ありがとうございます」
 あまり二人にばかり意見を聞いてもいけないので、武藤さんにも話を聞いてみることにします。
「武藤さんは、作品全体を通して中途半端な印象を受けたとのことでしたが、友情がメインだと聞いて、どう思いましたか?」
「そっちだったのか、と。そもそも主人公って、漠然と親友の後を追うことは考えてても、親友に何としても会いたいっていう感じはしないんですよね。だから変な世界に迷い込んでも、その世界のことばっかり気になって、なりふり構わず親友を探そうっていう感じが全然しなかったので、基本は元の世界に戻ることで、親友には会えたらラッキーかな、くらいだと思って」
 新井くんはもはや、最低限のメモだけをして、一言も発することはありませんでした。本人にとっては非常に心外な感想かもしれませんが、妥当なところでしょう。次は小宮さんです。
「小宮さんは、盛り上がりが少ない、女の子の描写にこだわりがないといったことを挙げていましたが、もう少し詳しく聞かせてもらえますか?」
「はい。武藤ちゃんも言ってくれたけど、主人公にまず一貫性がないというか、意思が弱いというのが気になりました。とりあえず動いて、誰かに助けてもらって、なんとなく目的に近づいて、ずっとその繰り返しなんですよね。だから主人公の活躍っていうのも少なくて、冒険物語としても、盛り上がらないかなと思いました」
 さて、こうして詳しく聞いてみても、褒めるような表現は一つも出てきません。本来ここまで何もかもが失敗しているような作品というのも珍しいのですが、それにしても文章力だけでは戦えません。さすがに新井くんのモチベーションも不安なので、話の流れを変えてみます。
「ええと、ここまで皆さんに厳しいご指摘をたくさん頂いています。ありがとうございます。ただ、このままではわたしたちとしても光が見えないので、何でも良いです、この作品の中で光るもの、どれだけ改稿したとしても、残してほしいものがあれば教えてください。和泉さんから!」
「フミ、無茶振りだぞ! まあ……文章は読みやすいんじゃない? ところどころ変な表現あるけど、まだマシだよ」
 結果を言えばこの話は失敗でした。一巡しても特に重要な指摘はありません。ここまでしても、この作品ならではのものは見つからなかったのです。もはや八方塞がりでした。
 こうなると、もはや各ページを追って表現のあら捜しなどをしても意味がありません。わたしは合評を終えることにしました。
 参加者の皆さんが帰るまで、新井くんは片付けもせず、座ったまま黙り込んでいました。ここまで作品を酷評されたことはなかったのだと思います。
「中津さん……俺はどうすればいいのかねえ」
「少し、お話しましょうか?」
「ああ。フリータイムでも行くか」

 終わってみると、わたしの心にあった気力も空っぽでした。当然ながら、自分が担当する作品が酷評されたのも初めてなのです。合評中はどこか他人事のように思っていましたが、ここからはわたしの仕事です。
 新井くんはもどかしそうに原稿を見ては、何かを呟いていました。まさに四面楚歌のこの状況で、心を乱すのも無理はありません。
「新井くん。二次合評まで時間はあります。まずは落ち着いて、書きたいものを見極めましょう。この作品が全く違うものになったとしても、わたしは最後まで編集をしますから」
「だが……俺はどうすればいい。何一つ拾うところのないこの作品を、これからどう愛していけばいい」
「愛する……ですか。新井くんは本当に、自分の作品を大切に思っていますね」
 少し歪んだところもありますが、新井くんは自分の作品への思い入れという点では、かなり強いと思います。現にこの作品も、高校時代に書いたものを出してきたと話していました。
「それにしてもこの作品、高校生に書いたものをそのままというわけではないですよね?」
「ああ。大学に入ってから書き直したんだ。設定も展開も新しくして、だからある程度は自信があったんだがな」
 その作品愛のためか、作品の話をさせると少し、沈んでいた気分も晴れるようです。
「それは、一人で?」
「そりゃな。最初、俺は文芸部に入るつもりはなかったんだよ。大学なら、同じような趣味の人がいて、あわよくばアシスタントになってくれればと思ってさ。でもまあ、そんなこと個人の趣味でやるには限界もあるし、結局文芸部に入ったけどな」
「なるほど……」
 その「アシスタント」という表現は、下心を隠すためのものだったかもしれませんが……深くは追及しないことにします。
「俺は高校まで文芸をやっててさ、そろそろ、独立した書き手になりたいと思ってたんだよ。それはつまり……文芸部って、合評があったら質は良くなるかもしれないけど、結局俺なんかは、毎回合評でこんなふうにボロボロにされてさ。そうしたらもう、自分の力で書いたものって言えないわけよ。でも、合評に頼った姿勢でいた自覚があってさ。その頃の完成した作品は、今読んでもすごいんだ。勝てない。でも、なんとか一人で超えたくてさ」
 いつの間にか、新井くんは文芸への熱意を夢中で語っていました。強い作品愛の裏には、その強い熱意で書き上げたという自信や、プライドもあるのでしょう。
「その意欲は、まだ燃え尽きていませんか?」
「というか……ちょっと目が覚めたような気もする。『冬のダイヤモンド』とかあんな順位だったけど、高い点を付けてくれる人もいたし、これでいいかなって思ってしまった。本当はもっと頑張らないといけないのに」
「それでしたら、大丈夫ですよ。きっと書き直せます」
「そうだといいんだが……まあ、中津さんが味方でいてくれるなら、頑張れるかな」
「はい。一緒にまた、頑張っていきましょう」
 新井くんの目に、炎が見えました。わたしも気合を入れなおすときです。すっかり冷たくなった風に晒され、わたしたちの炎が消えないように。

七 水鏡

 峠を越えてこのかた、車窓は紅葉の枯れ始めた山々を背景に、すっかり収穫の終わった畑地を映していました。わたしたちは今、洞爺湖行のバスに揺られています。十一月の下旬、冬部誌も締め切りまで一週間というこの時期ですが、連休に温泉でも行こうと集まった有志により「秋合宿」が実現したのです。
 久しぶりの余暇でした。ちょうど昨日が二次合評の最終日で、わたしの担当する新井くんの番だったのです。あまり運が良かったと言うと新井くんには失礼ですが、合評は大きく紛糾することもなく、穏やかに終わりました。
 わたしの隣では新入部員の篠木くんが、文庫本に指を挟んだまま首を垂れています。本は辛うじて手に引っかかっていますが、今にも落ちそうです。
 夏合宿では少なかった一年目ですが、今回は逆に、アクティブなメンバーのほぼ全員が参加しています。その中には、同じく新入部員の小野寺さんもいました。来られなかったのは武藤さんと先生くらいです。先生は予定が会わないと話していましたが、同時に『温泉に行くだけなら、作品を仕上げている』と、あからさまな本音をこぼしたのでした。
 わたしの後ろの席では、新井くんと朝倉さんが寄り添って眠っています。新井くんにとっては、本当に久しぶりの安息なのでしょう。この二人の空間がまさに聖域なのだと思うようになったのは、前回の合評から間もない時期でした。

 自作を合評で酷評され、奮い立ったかに見えた新井くんでしたが、翌週からはボックスで姿を見なくなってしまいました。来てはいるものの、わたしや和泉さんなど一部の人を避けて行動している様子だと、星井さんが教えてくれたのです。
 それを聞いて、和泉さんは呆れました。
「何がしたいんだか。手抜きで書いたのがバレたからってさ、逃げてどうにかなるものでもないのに」
 確かに一次合評が和泉さんに不快感を与えたのは認めますが、それにしても辛辣な物言いです。わたしは少しだけ、新井くんのフォローに回ります。
「それでも、新井くんはやる気になってくれたみたいですし、大丈夫ですよ」
「フミはすごいな、よくあいつに付き合ってられるね。朝倉ちゃんもだけど……」
「朝倉さんも、最近少し見かけなくなりましたね?」
 星井さんも頷きます。朝倉さんはいくつか同じ授業を取っているのですが、ここ最近、次が空きコマのときも、いつの間にかいなくなってしまうのです。
「新井に会ってるんじゃないの?」
「そうだとしたら、朝倉さんも大変かもしれませんね」
「でも、新井くんが今度、短歌の企画をやろうって言って来てる」
 星井さんは思い出したように言いました。わたしは『多角化戦略』というワードを思い出します。
「新井くんは、短歌とか俳句をこの部で普及させたいみたいですよ」
「そうやって全部半端になりそうな辺り、やっぱり作品にも性格って出るよね」
「まあ……わからなくもないですが」
 新井くんにとっては不幸なことに、和泉さんは他の上年目にもお喋り感覚であの合評のことを話すので、少しずつ新井くんへのマイナスイメージが拡散してしまっています。悪意があるわけではないと思いますが、なんとなく換気をしたい気分になります。
「それで? フミも避けられてるって言うけど、締め切りには間に合いそうなの?」
「そこは編集として、間に合わせますよ」
 先生も締め切りには毎回ギリギリになるので、原稿の催促は慣れたものです。しかし現状、新井くんにはメッセージを送っても『今、次の構想を考えているので、もう少し待ってください』といった感じの返信しかありません。確かに必要な作業ではあるのですが、詳しく聞こうとしても、『まとまっていない』と来るのです。正直に言えば心配です。
 新井くんは部会に来ても同じような感じでした。隅の席に座って、朝倉さんや星井さん、篠木くんといった限られたメンバーとしか話をせず、アフターにも参加せず帰ってしまうのです。アフターに来れば朝倉さんとの時間を過ごせるにもかかわらずです。さすがに異変を感じたわたしは、朝倉さんに話を聞くことにしました。
「朝倉さん。もし良かったら、新井くんの様子、聞かせてもらえませんか」
「えっと……話せる範囲でなら」
 しっかりと口止めをしている辺りは、わたしでも呆れる狡猾さです。しかし、秘密があるという事実はそれだけで多くのことを物語ります。何かを話してくれそうな雰囲気はあるので、わたしはそれとなく近況を聞き出していくことにしました。
「この間、誕生日だったみたいですね。おめでとうございます」
「ありがとう」
「新井くんとの交響楽デートはいかがでしたか?」
「あっ……」
 朝倉さんは顔を赤らめます。早速何かを踏みました。二人だけのお楽しみがあったのかもしれませんが、とりあえずわたしは新井くんの様子だけ聞ければ良いのです。
「新井くんから聞いたんですよ。演奏がどんなものか、気になりまして」
「演奏はすごく本格的だったよ。でも、曲が難しくて、途中で眠くなっちゃった」
「新井くんはそういう曲、わかるんですか?」
「新井くんもよく知らなかったみたい。最初の『シェヘラザード』くらいかな」
 これではどうして新井くんが交響楽の演奏会に行ったのかわかりませんが、もはや二人ならどこでも良かったのだということにしておきます。
「それにしても……聞いているかもしれませんが、新井くんはこの間の合評で作品を酷評されて、今少し不安定なのだと思います。わたしともあまり話してくれませんし、心配です」
「そうだね。私もそのときに聞いたんだけど……そんなに荒れちゃったの?」
「荒れたのは事実なんですけど、わたしはその後、一緒に頑張ろうと話したんです。でも、未だに報告の一つもない……」
「それは……」
 朝倉さんは俯きます。核心に触れるようなことは、なかなか話してくれません。無理に打ち明けさせれば、優しい朝倉さんをわたしが悪者にしてしまいます。アプローチを変えてみることにしました。
「では、良かったら新井くんに伝言をお願いできますか?」
「それならいいよ。部誌のこと?」
「はい。それもありますけど……わたしは新井くんのことを信じていますし、大切な一年目の仲間だと思っていますと、伝えてあげてください。お願いします」
「うん。わかったよ」
 朝倉さんも、単に恋仲であるだけでなく、この部の仲間としての新井くんを心配しているはずでした。実際わたしには、その言葉が届いてくれることを願うしかなかったのです。

 本の落ちる音で、わたしは回想から引き戻されました。篠木くんの手から、ついに文庫本がすべり落ちたのです。篠木くんは驚いて目を覚まし、文庫本を拾いました。
「大丈夫ですか?」
「うん。読みながら寝てしまったんだ。今どの辺りかな?」
「今さっき、洞爺湖町に入ったところですよ。もうすぐ湖も見えてくると思うんですけどね」
 バスはさっきまでの田園風景とは一転、林間の蛇行した道路を進んでいます。時間で言えば、三十分ほどで着くようです。
「じゃあ、起きていようかな」
 篠木くんは再び文庫本を開きます。読んでいるのは、映画にもなった堀辰雄の『風立ちぬ』でした。近現代の文学では、割と好きな作品なのだとか。
「ところで中津さんは、読書会参加してくれる?」
「はい。読んできましたよ」
 言われてわたしは、印刷してきた一編の小説を取り出しました。北條民雄の『いのちの初夜』です。今夜の読書会は、これを合評のように読み解いていく企画だと聞いています。発案者は瀬田さんと高本さんなのですが、篠木くんも一緒に企画の内容を考えたとのことでした。
「篠木くんはとても積極的ですね。わたしも見習わなければ」
「何もそんな。僕はたまたま、面白そうな話に乗っただけだよ。この部の人たちが、それぞれどんな風に作品を読むのか興味があったから」
「わたしも面白い企画だと思いますよ」
 このような企画が発案された背景には、高本さんの危惧する「作品の質の低下」もあるようですが……今は触れずにおきましょう。
「浦川さん、来られなかったの残念だなあ。文学も詳しそうだし、話したかったのに」
「先生は、温泉旅行にあまり興味がないみたいで」
「あっ、そうだ。気になってたんだけど、師匠が新井くんで、先生が浦川さんなんだね?」
「そのように並べるのは、あまり適切ではないのですが……」
「そうなの?」
 先生のことをこう呼んでいるのはわたしだけです。「師匠」も最近はあまり聞かなくなりましたが、下野さんや樋田さんなど三年目以上の方がちらほらと呼んでいます。
「先生は、わたしが勝手に呼ばせてもらっているだけなので」
「あだ名はだいたい、そういうものだと思うけど……由来はあるの?」
「面白いものではないですよ。ただ、先生と先生の作品に、敬意を表しているだけです」
「そうなんだ。浦川さんの合評出たけど、確かに力のある作品を書くよね」
「はい。明石さんとも衝突なくやっているようで、わたしは安心です」
 前の合評の後で新井くんがしていた『独立した書き手』という表現を想起します。それを合評に頼らず、自分の作品の質を判断できる程度の書き手とするならば、先生は間違いなく当てはまるでしょう。
 わたしなりの表現をするなら、独立した書き手とは、文芸において書き手のなすべき仕事をわかっている人です。それは何より、作品の本質的な可能性を創出することです。人物や物語、あるいは背景設定といった要素のどこかに、その作品を書く必然性を感じさせるようなアイデアの結晶を埋め込むことです。先生はこれを毎回、自然にやってくれます。すると編集はその結晶を磨くだけなので、事はすんなりと運ぶのです。
「中津さんは、新井くんの編集だっけ。どんな感じ?」
「苦しい時期は越えましたよ。昨日が二次合評だったんですけど、新井くんも立ち直ってくれて、本当に良かったです」
「でも……作品、随分変わっちゃったよね。僕は前のも、ちゃんと書けば面白くなりそうだと思ったけど」
「まあ、それは作者の意向でしたので……」
 そうです。読書会の原稿と一緒に持ってきた新井くんの二次合評稿には、『Vacant Rally』というタイトルが記されています。あのファンタジーがそのままこのタイトルになったわけではありません。それには、一度はわたしも困惑したような経緯があるのです。

 朝倉さんに託した言葉が届いてくれたのか、間もなく新井くんはメールで原稿を送ってくれました。タイトルは直訳すると『空虚なラリー』です。ファイルのサイズも前より明らかに小さく、わたしは送る原稿を間違えたのではないかと思いました。しかしメールの本文には、次のように書かれていたのです。
『かのげんは死にました。探さないでください。この作品は、かのげんのスピンオフになります。書きたいものを絞ったら、こうするしかなかったのです。主人公とか、雰囲気はなるべく残しました。ともあれ読んでみてください。よろしくお願いします』
 以前の『彼の世は幻想の園』からいくつかの要素を抜き出して再構築し、別の作品を書いたということです。読んでみると、確かに主人公と親友が同じ名前で登場していて、バドミントンをしています。この二人は生前、バドミントン部でタッグを組んでいたという設定があったのでした。
 それにしても、全く別の作品です。異世界の冒険とか、神とかの要素は跡形もなく、ただ二人が体育館で延々とバドミントンをしているのです。しかし、その空間には何故か二人しかおらず、シャトルも一本しかないという異様な状況でした。
 十六枚あるシャトルの羽根が一本ずつ折れていくうちに、主人公と親友の力関係が、二人の経歴を再演するように変化していきます。最初は劣勢だった主人公も徐々に互角に戦えるようになり、最後にはシャトルの破損も味方して、主人公が勝利します。
 ここまでならまだ普通のスポーツものですが、体育倉庫に秘密が隠されていました。試合が終わった後、二人は互いを称えあいながら、万全な状態での次の試合を約束します。しかしその後、何故かその場で深い眠りに落ちてしまうのです。主人公が目を覚ますと親友はいなくなっており、代わりに体育館のステージの上に、親友のための献花台を見つけます。そして主人公自身は、地下の体育倉庫で首を吊っていたのでした。二人とも、もはや生きた人間ではなかったのです。
 主人公の遺体は、さっきまで試合で使っていたはずの、傷ついたシャトルを持っていました。真実を知った主人公は、裏切られたという思いから友情を転覆させ、シャトルの傷ついていない最後の羽根を自ら折ってしまいます。そこで物語は終わりです。
 長さが元の三分の一になっていたのもありますが、わたしは割にすんなりと読了しました。作品から余計なものがなくなり、ようやく普通に読み進められるレベルになっていたのです。叙述トリックを狙ったとみられる構成も明瞭で、死別を巡る二人の友情の形も描き切れています。わたしはすぐさま新井くんに返信を書きました。
『お疲れ様です! よく書いてくれました。作品が変わることに関しては、意見のある方もいるとは思いますが、わたしはこの作品で行くならば反対しません。二次合評に向けて、準備を進めていきましょう』
 それと同時に、大藤さんへの根回しもしました。新しい作品は合評を一回しか受けていないことになるので、編集班としては黒に近いグレーです。それにしても、今回は元の作品のままで部誌に載せられるような質を確保できる状況でなかったと認めてもらいました。これもある意味わたしの立場の濫用なので、文芸部として黒に近いグレーだと思います。しかしそれらを避けて行きつくのは、取り下げか、締め切りに間に合わないかのどちらかでした。編集班員としても部員としても、わたしたちはもうそれらの禁忌には触れたくないのです。
 それからもう少しの修正を経て、新井くんは無事に二次合評を迎えました。参加者の中には歴代部長の下野さんや高本さんもいましたが、作品が大きく変わったことに関してはあまり問題視はされず、穏やかな合評を終えたのです。
 実は今回、一次合評が荒れたのは新井くんだけではありませんでした。高本さんや上尾さんについても大幅な加筆を求められるような結果となり、全体としてページ数が増えてきていたのです。編集班としては、予算や紙の注文などの計画が狂うので大迷惑です。これで新井くんの作品のページ数が増えていたら、本当に許してもらえなかったでしょう。

 小学校の修学旅行は、この洞爺湖に泊まりました。そのときを思い出すような大部屋の和室に案内され、わたしたちの秋合宿が始まります。とは言っても、読書会が夕食後に予定されているだけで、他には自由時間以外の予定がありませんでした。
 大きなホテルや温泉街の観光に出る人、部屋でゲームの準備を始める人など様々でしたが、わたしたち一年目女性陣は和泉さんについて行く形で、温泉に入ることにしました。
 洗い場を出てから、わたしは一人でぬるめのジャグジーに浸かっていましたが、あるとき隣に星井さんが来ました。
「和泉、知らない?」
「わたしは見ていませんが……」
「サウナに入るって言ったんだけど、いないの。もう上がったのかな」
「はて……」
 ここ最近、星井さんは和泉さんとよく一緒にいます。仲は前から良いほうでしたが、今月に入った辺りからは、ボックスで見かけても二人だけで場所を移ってしまうなど、二人きりの状況が多くなりました。
「いいや。私も上がる」
 気が付けば、朝倉さんや小野寺さんの姿も見えません。いつの間にか長風呂していたことに気付くと、急に体が火照ります。星井さんが行ってしまったあと、わたしは涼を求めて露天風呂に出ました。
 白砂青松を模した庭園に臨む岩風呂です。わたしは最初、他に人はいないと思いました。岩に腰掛けて、上半身を思い切り外気に晒します。やや寒いですが、気分は一気にリフレッシュしました。思わず吐息が漏れます。
 そしてふと辺りを見渡すと、ひときわ大きな岩の陰で一人、隠れるように和泉さんがくつろいでいたのでした。見られてしまったかと思い一瞬焦りますが、向こうはわたしに気付いていません。わたしは静かに近寄ります。
「和泉さん、こんなところに」
「ああ……フミか。じゃあいいや」
 脱力した反応です。相当、普段の疲れが溜まっていたのでしょう。
「星井さんが探していましたよ」
「ほっといて。今は考えたくない」
 わたしも先生のことで和泉さんに相談しましたが、星井さんも何かの件で、継続的に和泉さんのお世話になっているようです。
「お疲れ様です」
「労うくらいなら、あんまり面倒事を増やさないでくれよ……」
 実際、冬部誌のことも和泉さんにはそれなりの負担になっていました。予定や想定の通りに行かないことが多く、そのたびに胃を痛めていたのです。こう見えて責任感の強い人です。
 しばらく二人で、庭園を眺めながら半身浴をしていました。わたしには掛ける言葉がありません。編集班の細かな仕事も和泉さんが積極的に受けてくれることに甘えて、新井くんの編集をも言い訳にして、わたしはあまりしていませんでした。
「なあフミ。部長と編集長、どっちになりたい?」
「部長と、編集長ですか」
 そんな中で投げかけられた質問です。高校時代はそれらを兼任していたわたしですが、この文芸部でそのどちらかを務めることを真剣には考えていませんでした。しかし確かに、和泉さんとわたしのどちらかが編集長になるのは確定です。部長も、他に候補がいるかと言えば悩ましいところです。
 まして上年目にも顔が広く、分け隔てなくコミュニケーションを取れる和泉さんには、ある種の期待や、重責が集まっているのも事実です。わたしが「部長になりたい」と言えば、それを少しは和らげることもできたかもしれません。しかし、それだけのためにつき通せる嘘を、わたしは用意できませんでした。
「やっぱり、編集長です。この部も編集に興味があって入ったので」
「相変わらず正直だね」
「でも、和泉さんもまだ、部長になることなんて考える時期ではないと思いますが」
「はあ……」
 和泉さんは大きなため息をつき、全身を湯船に沈めました。そして、一言だけ続けます。
「誰ができるのさ、こんなんで」
 その言葉に籠った諦めの感情が、わたしの首筋を撫でます。和泉さん自身、一人で仕事を抱え込んで疲弊する中で、あまり一年目への信頼を持てなくなっているのでしょう。
 わたしはそろそろのぼせてしまいそうでした。そのまま和泉さんを置いて戻るのは少し心配でしたが、話もそこで途絶えてしまったので、そうするしかなかったのです。気の利いた言葉を掛けることができなかったのは、その後しばらく心残りでした。

 部屋に戻ると、まず何かの詩を吟じるような声に気付きました。続けて、畳を叩く音が響きます。声の主は星井さんでした。
「おや、百人一首ですか」
 大藤さんと篠木くんの試合です。ギャラリーは朝倉さんや小野寺さんをはじめ五人くらいいました。何故か全員が立ち見です。
「ゆらのとを……」
 確か、ゆくえも知らぬ恋の道かな。などと考えている場合ではなく、初句が読まれる頃には札が散っていました。ギャラリーの皆さんは、その飛んでくる札を避けるのが楽しいようです。
 盤面を見ると、まだ互いに多くの札を抱えています。先は長そうだったので、わたしは他の部屋も覗いてみることにしました。というのも、朝倉さんの近くにいるはずの新井くんがいないようなのです。
 部屋は和室の大部屋を二つ取っていました。かるた取りをしていた部屋は女性陣の寝室として取られた部屋で、もう一つと比べるとやや小さめです。そして、その真の大部屋と呼ぶべき部屋では、山根さんが何やらボードゲームのようなものを広げていました。
「お疲れ様です。それは?」
「TRPGだよ。知ってる?」
「聞いたことはあります」
 参加者それぞれが自分のキャラクターを演じ、自由な発想で展開を作り上げていくゲームです。こちらは下野さんや柿元さんなど、平均年齢の高いメンバー構成でした。
 その部屋の隅に、どの娯楽にも参加せずにいる新井くんを見つけます。ノートパソコンを開いていました。
「新井くんは遊ばないんですか?」
「夜は長いわけだし……今のうちにある程度仕上げておこうと思ってな」
 感心したことに、原稿の修正をしていたのです。それにしても、退屈そうな様子は隠しきれていません。独りで作業をしているというのも心配になります。
 そんな新井くんでしたが、秋合宿を楽しみにしていたのは間違いないと思います。実は昨日、メールドライブに「秋合宿記念ゲリラ投稿」と銘打たれた作品を投稿していたのです。
「ところで、昨日メールドライブに上げていたのは、どんな作品なんですか?」
「『さなみクロール』な。あれはこの洞爺湖を舞台にした作品で、水泳の苦手な女の子が、湖の化身の力を借りて頑張る話やで」
「『みなみハミング』に似ていますね?」
「それはまあ、湖シリーズだからな。あれが三作目で、こっちは二作目。高校のときに書いた作品なんよ。読む?」
「じゃあ、少しだけ……」
 わたしが少しでも興味を示すなり原稿を差し出してくるとは、新井くんもなかなかいやらしいところがあります。どれだけ自分のためだと言っても、やはり作品を読んでもらいたいという欲求があるのです。どこまでも素直でない人です。
 作品に関して言えば、洞爺湖の化身の女の子はいたずら好きでボーイッシュな性格で、全般的に静かでシリアスだった『みなみハミング』とは対照的な雰囲気になっていました。
「化身の女の子の設定って、やっぱり湖のイメージから決めるんですか?」
「ああ。洞爺湖って、こんなふうに観光地化されてて、かなり人が集まるやんか。そんな場所だから、人懐っこくて、楽しい感じかなって」
「なるほど」
「それで、その作中に出てくる浮見堂公園っていうのがちょうど湖の向かい側に実在しててさ。いつか行ってみたいんよ」
「行ったことないんですか?」
「これ書いた当時、兵庫におったから。公園についてはネットで調べて、割と想像で書いてる」
 あまり知りたくなかった舞台裏です。
「でも、洞爺湖の雰囲気とか、そういうのは昔実際に家族で来たときの写真とか、記憶をたどったりして書いたよ。せやないと、全く想像だけだったら書く気もせん」
 そういえば、出会って間もない頃、新井くんはこの湖ともう一つどこかの湖が好きだと言っていたような気がします。
「湖もの、二作目って言いましたよね。一作目はどこなんですか?」
「支笏湖。これも近いうちに公開するわ。夏休みに香奈実ちゃんと行ってきたから」
「ああ……なるほど」
「こんな感じ」
 そこで新井くんが見せてくれた画面には、一枚の写真が表示されていました。静かな湖岸の木陰に佇み、対岸に並ぶ山々を眺める朝倉さんの写真です。
「朝倉さん、モデルになってくれたんですね」
「絵になるよな。俺は普段、人は撮らないんやけどな」
「そうですか」
 敢えて後ろ姿を撮るところがなんだか、下心をカモフラージュしようとする意図を感じさせます。こんな写真を急に撮りたいと言われて、朝倉さんは困惑したかもしれません。
「香奈実ちゃん、あんまり正面とか横からとか、写真撮らせてくれないのよ」
「二人で写ったりしないんですか?」
「俺はなんというか……自分が写ってる写真見るの好きやないし」
 つくづく変な人です。でも、わたしは新井くんが嫌いではありません。変人であることに関して言うならば、ずっと一緒にいる先生も大概だからです。新井くんはこれだけ独特なものを持っていながら、その表現がとても下手だと思います。しかしそれが改善すれば、花開くときがくる……と、わたしは編集として、人知れず期待しているのです。
「すっかり邪魔してしまいましたね、頑張ってください」
「ああ」

 夕食から戻って少し休んだ後、読書会が始まりました。大部屋に敷かれた布団を畳んで、持ち込んだ飲み物やお菓子を囲んで、全員で輪を作ります。夏合宿の怪談企画を思い出させる状況でした。
「はい。それでは第一回読書会を始めさせていただきます。題材は北條民雄著、『いのちの初夜』です。まずは皆さんから、雑感を頂ければと思います」
 普段の合評のように一人ずつ雑感を述べます。この時点で、日ごろから文学に触れているか否かが作品への印象を左右していることが感じられました。山根さんはもちろん、大藤さんや篠木くんなど文学に触れている人は、この作品の時代背景、社会的意義なども含めた視点で自分なりの「評価」を下しています。
 わたしはこの作品を今回初めて読んだくらいで、文学としての位置づけについてはあまり調べていませんでした。他の人たちと同じく、鮮烈な描写やテーマに関する深い考察を表面的に捉えて褒める程度のことしか言えません。
 それにしても、この読書会の意図の一つに「作品を正しく読めるようになる」というものがあるらしく、高本さんから作品の背景に関する解説がありました。
「この作品は癩病――今はハンセン病と呼ばれていますが、自身もその患者であった民雄が、こういった収容施設での体験をもとに著したといわれています。作中にもあるように、当時ハンセン病は不治の病とされ、かつ患者に対する差別的な扱いもありました。この作品はそうした時代に、患者としての心境や生き様を描いたという点で重要です」
 作中には、主人公が患者として生きるのか死ぬのか、あるいは病に抗うのか、病を受け入れるのかといった点で葛藤する様子が描かれています。それはある意味、現代にはない迫真さです。わたしたち学生が少し背伸びをして書くような病や障害とは次元が違います。
 ここまでで、部屋には思いのほか硬い空気が漂いました。新井くんなどは退屈そうにしています。上年目にも、退室したいとは言わないものの、もはや話を聞かずにお酒を飲んでいる人が見受けられます。
 しかしその後、瀬田さんが本文をナビゲートする流れになり、空気が少し変わりました。瀬田さんは展開のポイントとなる部分を提示し、適宜考える時間を与えてくれました。それによって、一年目のわたしたちでも作品を無理なく読み解くことができ、そこで持った考えを共有することができたのです。次第に新井くんも発言するようになり、話し合いは活性化していきました。
 初心者のペースに合わせて進んだ読書会は、高本さんの想定とは少し違っていたようです。高本さんは時折とても批判的な、「ここは良くない」という主張を投げかけるのですが、その相手をできる人は多くありません。瀬田さんはそんなときでも、作品への意見や評価を強制せず、まずは自分の感性で受け取るように軌道修正をしてくれました。
 読書会は一時間程度で終わり、最後に瀬田さんはこんな言葉を残しました。
「文学というものを、ここまで疑うことなく生きてきた人も多いと思います。書いてあることは全部が正しくて、理解できないのは自分が悪いのだと思っている人もいるかもしれません。それは、そういう教育をされてきたからには、自然なことなのだと思います。
 でも、僕はそういう先入観が、人それぞれ持つはずの感想を矯正してしまうことを、もったいないと感じます。せっかく文芸部にいるのだから、もっとお互い、自由な観点で作品を読んで、そのありのままの感性で交流したいと思っています。今回の読書会が、そのきっかけになれたら幸いです」
 振り返れば短い時間でしたが、文学と文芸のことを少し考えなおしてみようと思わせるような企画でした。札幌に帰ったら、先生に「温泉だけではなかったですよ」と伝えてあげたいと思います。

 そんな読書会の余韻もそこそこに、片付けの終わった大部屋では大藤さんが持ってきたテレビゲームが始まりました。わたしはテレビゲームはあまり得意ではないので、もう一つの部屋で他の遊びに参加しようかと思いましたが、一年目の姿がありません。ただ一人、小野寺さんがスマートフォンを見ていました。
「小野寺さん。こちらには誰も来ていないですか?」
「えっと……和泉さんと星井さんは、さっき二人で出ていった」
「また二人で?」
 そこで柿元さんが部屋を覗きに来ました。星井さんを探しているとのことでしたが、いないと知るや、大部屋に戻っていきます。
「朝倉さんもいないですよね。新井くんと一緒にいるんでしょうけど……」
「朝倉さんは、外に行くって言ってた」
「外ですか?」
「これ」
 小野寺さんが見せてくれたのは、この近くで開かれているらしいイベントのホームページでした。電飾を施したトンネルが設置されているようです。
「なるほど……二人きりで行くには最適の場所ですね」
 それぞれの行き先はわかりましたが、わたしにはすることがなくなってしまいました。こんなとき先生がいれば、一緒に外に出て、夜の湖畔を散策したりもできましたが……。
 目の前には、未だあまり話したことのない小野寺さんがいます。これは親交を深めるチャンスなのではないでしょうか?
「小野寺さん。もし良ければ、二人でちょっと外に出てみませんか? わたし、今とても暇なんです」
「えっ、じゃあ……これ、見に行きたいな」
「いいですよ。行きましょう」
 こうしてわたしは小野寺さんを連れ出してホテルを出ました。件のトンネルは道路を挟んだ向かい側にあり、夜の静かな温泉街で特異的な光彩を放っています。
 その入口に差し掛かると、ちょうど新井くんと朝倉さんが出てきました。
「おおっ、二人とも奇遇やな。俺らはもう行くから、ゆっくり楽しんでな」
 秘密のデートのつもりだったのか、朝倉さんまでもが困惑するほどの狼狽え方をして、そのまま道路を渡ってしまいます。
「じゃあ……またね」
 後を追っていく朝倉さんを見送り、わたしたちは顔を見合わせます。
「行こう」
 わたしなどは二人がそのまま戻ったのかなど、無粋な推測をしてしまうわけですが、小野寺さんはあまり興味がないようです。
 トンネルは曲線的な構造で、ものの数分で反対側へ抜けられてしまいました。抜けても他に何かあるというわけではなく、ただこの眩しいくらいの電飾の塊が一つあるだけだったのです。
「これで終わりですか」
「そうみたい」
「……湖のほう、行ってみましょう」
「うん」
 少し物足りない気持ちでトンネルを戻り、ホテルの脇の坂道を下ります。湖畔の歩道には、銅像の座ったベンチが見えました。さっきまでの眩しさは一転、限りなく少ない光の下で、晴れた空には普段出てこない星たちも集まっています。今夜は有明の月の頃で、その細い姿は漆黒の湖面にもはっきりと認めることができました。
 じっと立っているとすぐに冷えてしまうような底冷えでしたが、わたしたちはその光景をしばらく眺めていました。寒さのせいか、ちょっと危うい眠気を覚えます。そんなとき、隣から子守唄のように心地良い旋律が聞こえてきて……。
 そうです。いつからかこの風景に捧げるように、小野寺さんが歌っていたのです。それはちょうど今のように、夜空が水面に映った情景を歌った歌でした。その薄氷のような歌声も、鮮明ではないものの、どこかで聞いた覚えがありました。

 湖の深い底 星空の果てない彼方
 見えないものは見たくないもの 光るものだけ見つめていたい
 鏡に映る今が一番 愛しいときになりますように

 目を輝かせて夢中になっている小野寺さんを邪魔しないように、歌の終わったタイミングで尋ねてみます。
「いい歌ですね。何の歌だったか、思い出せないのですが……」
「『鏡面プラネタリウム』っていうの」
「誰の歌ですか?」
 小野寺さんは、少し嬉しそうに答えます。
「私の歌。高校のとき、軽音楽部だったから」
「そうでしたか。聞いたことがありますよ」
 思い出したのは高校の学校祭です。確かに体育館で、軽音楽部の各バンドがフェスのようにコンサートを開いていたのでした。わたしも知らずのうちに、小野寺さんの歌を聞いていたのでしょう。
「では、作詞も?」
「うん。私は、人と話すのは得意じゃなくて、思ってること、言いたいことも伝えられないことが多いけど、ステージの上で歌にするときは、普段の弱い自分を忘れられたの」
「そうだったんですね」
 当時はボーカルとギターをしていたとのことでしたが、部活動を引退するのと同時にバンドも解散、その歌は記憶の中だけのものになっていたのです。
「小説とか詩は、音楽をやめてから始めたというわけですね」
「うん。あのバンド以外でやっていこうとは思わなかった。だから、音楽は全部しまっちゃって、文芸を始めてみようって思ったの」
 高校時代からの延長線上に今の文芸部での活動を思い描いていたわたしとは逆の考え方です。たとえこの文芸部で思ったような活動を続けられなかったとしても、わたしはどうにかして文芸を求めたはずなのです。小野寺さんのように別の道を選んでみるような決断はできません。
「先生はそのこと、知ってたんですかね?」
「浦川さんは……少し話したけど、それっきり。でも、それで良かったんだと思う。私は浦川さんが全国で賞を獲ったのも知ってたし、成績も良くて、すごいなあって思ってたから」
「そうですか……片思いですね」
「ふふ、そうかも」
 そのとき、普段は長い髪に隠れて見えにくい小野寺さんの純真な微笑みが、風のいたずらではっきりと露わになったのです。わたしは何か特別なものを垣間見た気分にとらわれ、少しの間言葉が出ませんでした。
「……中津さんが、ちょっと羨ましい」
 小野寺さんがそう言ったのかどうか、本当はわかりません。気の抜けていたわたしの耳には、断片的な言葉しか届かなかったのです。
「わたしが、ですか?」
「今のは、聞かなかったことにして」
「はい……」
 それにしても、人見知りでクラスメートとの交流すら乏しかった先生が、小野寺さんのことは憶えていたのでした。先生もやはり、自分たちの部誌を読んでもらっていたのは嬉しかったのだと思います。
「まだ入部したばかりですが、文芸部はどうですか」
「朝倉さんとか、星井さんとか、友達も増えたし楽しいよ。これから部誌にも参加していけたらと思ってる」
「ぜひ。楽しみにしています」
 心ばかりは温かくなるひと時でしたが、すっかり指先つま先まで冷え切ってしまいました。意識し始めるとにわかに身体が震えます。実際、わたしはここまで出歩く予定ではなく、秋物のコートしか持って来なかったのです。
「……そろそろ、戻りましょうか」
「中津さん、寒くないの?」
「いえ……お察しの通り」
 それからは、戻っていた新井くんが持っていたカードゲームなどをしながら、夜は更けていきました。一方で、和泉さんと星井さんはなかなか戻りませんでした。二人には、まだ話せない秘密の事情があるようです。

 こうして秋合宿は終わりました。翌週の部会からの帰り道、わたしは先生に参加しなかったことを後悔させようという意気込みで、これらのことを余すことなく報告したのです。
「春にも温泉合宿があるみたいですし、今度は一緒に行きましょうね?」
「考えておくよ」
 雪の積もり始めた街路は雑音を絡め捕り、先生の声が少しだけはっきりと聞こえます。それでも頑固な先生ですから、参加したいなどと積極的な言葉は聞かせてくれないのです。近くなったら、もっと粘り強く誘う必要がありそうです。
 ひとまず合宿の話は終わりにしましょう。実はもう、冬部誌の締め切り当日なのです。先生は合宿に行かなかった間とても作業が捗ったらしく、既に最終稿の提出を終えています。
「ところで、新井は大丈夫なのか?」
「本人は、大丈夫だと言っていましたが……」
 新井くんはというと、昨晩、わたしが最後の追記を送って、「修正が終わったら提出してください」と伝えたところです。もはや大きな変更はしないことにしていたので、概ね心配はないと思っています。
 しかし新井くんは、こんな日にも朝倉さんとアフターに参加しているというのです。確かに序盤から考えれば差し迫った状況ではありませんが、それにしても気の緩みが見えます。その一点だけは心配するべき要素でした。
「帰ったら、状況確認のメッセージを送りますよ」
「そうか」
 締め切りからいち早く解放されている先生はのんきに笑います。『ラッキーアイテム』は結局、ストーリーラインの変更はほぼなく、単純に描写や表現の面での補強がされていました。
「明石さんの編集はいかがでしたか?」
「悪くなかったよ。すんなりと話の通る感覚がないのは仕方のないことだが……わたしの考えをしっかりと聞いて、作品の可能性をよく探ってくれる編集だった。広く選択肢を提示したうえで委ねてくれるから、わたしは自信を持って改稿を行うことができた。満足だよ」
「相変わらず尊大な……ちゃんとお礼言ったんですか?」
「言ったさ」
「じゃあ次からはもう、わたしじゃなくても大丈夫ですね?」
「それは……無理だとは、言わないが」
 そんな質問をしたのは、今回のことで、もっと他の人の編集にもついてみたいと思ったからです。新井くんの編集は様々な意味で大変でしたが、その大変さは、先生の編集では生涯味わうことのなかったものだと思います。ともすれば惰性になりがちなこの秋に、適度な刺激を与えてくれたのです。
「でも、わかったでしょう。わたしたちは少し離れていたほうが、普段使わない力を鍛えることができるんです。まだまだ先は長いですし、わたしはもう少し、他の人の編集についてみたいです」
「そうだな……今は、それもまた一興か。ならば約束しようではないか。二年後か三年後。わたしが最後の部誌に出すときには必ず戻ってきて、最高の編集をしてほしい。そのときには、わたしも最高の作品で迎えよう」
「いいですよ。そのときには先生も驚かせるような、編集の匠になります!」
 とても漠然とした約束でしたが、わたしたちは互いの目を見て頷きあうだけで、強い信頼を結ぶことができました。先生ならやってくれる。そして、わたしならできる。失いかけていた自信が、より確かな形で戻ってきたのを感じました。

 夜の十時を過ぎて、まだ新井くんの最終稿は上がっていませんでした。わたしは確認のメッセージを送ります。
『間に合いそうですか? 無理せず仕上げてくださいね』
 新井くんからはすぐに返答がありました。
『もう少し直して、あとがきを書いたら出します。まあ間に合いますよ』
 その辺りで、他の作者さんの最終稿が続々と上がってきます。あっという間に、残りは新井くんを含めて三人になりました。
 大藤さんからメーリングリストで注意喚起がされます。
『部会でもお知らせしましたが、締め切りは本日中、十一時五十九分までです。遅れそうな方は必ず、大藤まで連絡ください』
 やがて十一時を回りました。新井くんの動きがありません。しかし、ただ待っているのも手持無沙汰な時間です。いけないと思いつつも、わたしは横になって、うたた寝をしてしまったのです。
 ちょうど夢を見始めた頃、電話の着信音で目が覚めました。朦朧とした意識の中で、わたしは時計を確認する間もなく応答します。相手は和泉さんでした。
「おいフミ、やっと出たよ。新井は大丈夫なのか」
「え? ああ……すみません」
「さては寝てたな。まだ最終稿が上がってないんだよ。さっき大藤さんがメールしたらしいんだけど、それも反応がないんだ。フミから連絡取れる?」
「わかりました。作業中だと思いますので、パソコンで連絡してみます」
 締め切りまであと五分というところでした。わたしが寝ている間、和泉さんからメッセージが四件、不在着信が二回ありました。とにかくわたしはパソコンを開いて新井くんへの連絡を試みます。
『お疲れ様です。締め切りが近いですので、とにかく一回大藤さんに連絡をしてください』
 ところが遅すぎました。メッセージを送って間もなく、日付が変わってしまったのです。すぐさまメールドライブを確認しますが、受信トレイにも送信トレイにも、新井くんの作品は入っていませんでした。
 神経の凍りつくような感覚でした。あれだけ余裕を見せていた新井くんが、まさか原稿を落とすとは。
 そんなわたしに、さらに無情な仕打ちがありました。日付をまたいで三分後、それはしれっと受信トレイに現れたのです。

八 氷雨

 不気味なほど暖かくなった十二月の初旬、降る雨は今年最後と言われる冷たいものでした。街路は雪と落ち葉と泥が混ざって荒れ放題で、ある意味真冬よりも足取りの鈍る思いです。わたしはこの季節が、あまり好きではありません。
 しかもその日は、ある重大な会議が予定されていました。編集班主催で、締め切りに遅れた新井くんの作品の処分を話し合う会だと聞いていますが、要するに裁判です。わたしも弁護役だとは聞いていますが、編集としての責任がある以上、そんな小ぎれいな立場ではありません。
 それを痛感させてくれたのは、昼休みの和泉さんです。
「フミお前、あの大変なときに、まさか寝てたんじゃないだろうね?」
「はい……申し訳ありません」
 ボックスで出会うなり、彼女は強烈な剣幕で迫ってきました。締め切りの夜、不甲斐ないわたしに代わって編集長の大藤さんの手伝いをしてくれたのです。それでこのような結果になれば、憤慨するのも当然です。
「新井はなんというか、そのうちこんなこともするんじゃないかと思ってたけど……お前までポンコツじゃほんとに困るよ。おかげで面倒なことになったもんだ」
「しかし実際、新井くんの作品はどうなるのでしょうか」
「聞いてないの? もう印刷のマスタも作っちゃったし、掲載取りやめは絶対ないよ。だから面倒なんじゃんか。わざわざ新井の言い訳を聞くために残らなきゃいけないなんてさ」
「そうでしたか……いえ、本当にご迷惑をお掛けしました」
 それでは何故、会議を開くのか……とは、わたしの立場から聞けたことではありませんでした。掲載が強行される理由はなんとなく推測できます。こういった組織で予定を変えることのコストは、見た目よりも遥かに高いのです。
「はあ……胃が痛むよ、まったく」
 和泉さんは椅子に腰掛け、大きなため息をつきます。これ以外のことでも最近は気苦労が多いようです。わたしもまた、本当は真面目な彼女に甘えてしまった面があったことを、今一度深く反省しなければなりませんでした。

 新井くんはというと、五限が空いていたので、会議前に食堂の一階で会って話をすることにしました。
「さて……とりあえず、お疲れ様でした」
「悪いね、中津さんまで巻き込んでしまって」
「わたしも編集としての責任がありますし、一人だけ逃れるわけにはいきません」
 互いになんとなく、しゅんとした雰囲気です。それでわたしは、新井くんも反省しているのだろうと思いました。
「ただ……どうして、大藤さんに連絡をしなかったのですか?」
「間に合わせるつもりだったし、遅れても数分なら別にって思ってたからな。現に、樋田さんからも掲載取りやめはないって聞いてるし、わざわざ会議だなんて、三分程度に騒ぎすぎやないかね」
「新井くん、そういうことを会議の場で言ってはダメですよ」
「……」
 予想に反して、新井くんは不服そうでした。こんな態度では、確実に和泉さんを怒らせてしまいます。大藤さんすら怒りを爆発させてしまうかもしれません。
「こうなってしまった以上、まずは素直に謝りましょうよ。そうすれば、お互い穏便に……」
「わざと遅れたと言ったら?」
「えっ?」
 次の言葉は、本当に一瞬、何を言われたのかわかりませんでした。
「俺の作品に、あんな無残な扱いをしておいて、何のフォローもなし。結局、こんな急ごしらえの作品を出す羽目になった。ちょっとした反抗ってやつよ。三分後なんて、本気で遅れた人の出す時間じゃないしな」
 それは彼が抱え込んでいた本心だったのでしょう。遅れたのが故意であったかどうかはさておき、この機会にそれを編集班にぶつけようと言うのです。間違いなく最悪のシナリオでした。
「新井くん、冷静になってください。二次合評の評判は、まずまずだったじゃないですか。たとえそういう気を起こしていたとしても……やっぱりダメです。新井くん、この部にいられなくなりますよ」
「だいたいこの部は、誰も俺の作品に見向きもしない。そもそも編集決めのときだって、中津さんが引き受けてくれなかったらどうなっていたと思う? 仮に俺の作品に欠陥があるとしても。こんな場所で続けていたって、解決の糸口なんざ掴めやしない」
 しかし、新井くんは既に最悪のシナリオに向けて、投げやりに駆け出してしまっています。それが最悪だという認識もないのでしょう。わたしはさすがに焦りもありましたが、冷静に切り札を使わせてもらうことにしました。
「朝倉さんを悲しませてもいいんですか」
 ところが、それは浅はかな考えだったようです。途端、新井くんは声を荒らげました。
「知ったようなことを言うな! 香奈実ちゃんだけは、何があっても俺の味方だ」
 この状況でそう断言するのは、一瞬感心してしまうほどの愛の強さです。しかしよく考えれば、新井くんはもはや唯一の頼みとして、朝倉さんに依存しているだけなのでした。優しい朝倉さんはそれでも新井くんの考えを尊重するかもしれませんが、その危うい関係がいつまで続くかもわかりません。
 それ以上に衝撃を受けたのは、いつの間にか新井くんの言う「味方」の範疇から、わたしが外れてしまったことでした。
「わたしだって、まだ新井くんの味方でいたいですよ。新井くんはこの一年目の中でもよく作品を書いていますし、問題点も多いかもしれないですが、それよりも大いに面白くなる可能性があると思うんです。新井くんが退部してしまったら、わたしは悲しいです」
「……時間か」
 幸か不幸か、まだ結論の出ないまま、わたしたちは会議に臨むことになってしまいました。もはや新井くんは、目を合わせてくれませんでした。

 会議はボックスで行われ、大藤さんと和泉さんの他に、高本部長も来ていました。大藤さんは表情を隠すように、つばのある帽子を深く被っています。その三人に、わたしと新井くんは正対して座りました。
 大きな不安の中で始まった会議でしたが、最初はわたしの話から始まったため、淡々と進みました。編集として監督を怠ったことを謝罪し、処分は口頭注意となりました。
 新井くんもこんなふうにすんなりと終わってほしいと願うことの、何がいけなかったのでしょう。会はいよいよ、本題に入ります。
「では、何故締め切りに遅れたのか、説明してください」
 ちらりと覗いた大藤さんの目は、いつになく険しく、赤みを帯びていました。新井くんの第一声に、誰もが注目します。
「黙秘します」
 それは冷徹に期待を裏切っていきました。大藤さんは少しの間次の言葉を待っていましたが、重い沈黙が長引いただけでした。
「それはないでしょうよ。何か言うことあるだろ?」
 たまらず和泉さんが、前のめりになって怒鳴ります。すぐさま大藤さんに制止されましたが、緊張は一気に高まりました。
「新井さん。どうか、誠意あるご対応を」
 高本部長は紳士的な言葉を投げかけました。対面した三人の中では、直接の当事者ではないからか一番冷静です。わたしはこれが新井くんに与えられた最後のチャンスだと直感します。
「失礼します」
 すると新井くんは呟くようにそう伝えて、不意に立ち上がりました。そして、ボックスの脇の通路に膝をついたのです。わたしは止めなければならないと思いつつも、既に傲慢な覚悟を決めてしまった彼の威圧感に負けて、動くことができませんでした。
「……大変申し訳ございませんでした」
 強張った発音とともに、床に手を着き、頭を下げる。土下座でした。実際、それで誠意が示せるかと言えば真逆で、却って互いに清算しきれない感情を持たせるだけです。和泉さんはいち早く両手で顔を覆いました。
「そういうことでは、ないと思いますよ」
 高本部長はなおも穏やかに諭しますが、新井くんは頭を上げません。もはや謝意というより、是が非でもこの件をややこしくしようという意思を感じます。
「頭を上げて、席に戻りなさい」
 やがて、大藤さんは帽子で目元を隠したまま言いました。新井くんはどこか満足げに、きびきびと椅子に戻ります。和泉さんは、俯きながら両手を膝の上で握りしめていました。場の雰囲気は一触即発です。
「それが君の答えというわけか」
 新井くんは黙って頷きました。大藤さんの目はさらにぎらつき、静かな怒りを湛えています。
「大藤さん、すみません」
 そんな中、今度は和泉さんが立ち上がりました。俯いたままでしたが、尋常ではない苦悶の表情が見えます。
「帰らせてください。吐きそうなので」
「ああ。ゆっくり休んでくれ」
 和泉さんが帰ってしまい、新井くんと大藤さんは再び睨み合う構図になりました。もはや会議を続けても、互いの感情はエスカレートするしかありません。高本部長も、わたしと同じ考えのようでした。
「大藤さん、新井さん。本日は一旦、お開きといたしませんか。その代わり、新井さんには後日、改めてお考えを聞かせていただくということで」
「この件について話すことは、もはやありませんよ」
「ともかくです。わかりませんか。あなたにはもう一度、考える時間を差し上げると言っているのです。どうか無駄になさらぬよう」
 新井くんの望む結果ではなかったようですが、高本部長のおかげで会議は終わりました。ようやく部長らしい働きを見せてくれたような気がします。選挙の質疑をあれだけ長引かせた高本さんと同一人物とは思えません。あるいは、相手が憎き新井くんだから、いつもよりも気合が入っていたのかもしれませんが……。
 会議が終わった後、わたしたちは互いに目を合わせることもせず、散り散りに帰りました。それにしても、会議前の新井くんの言葉を思い出すと、これでも最悪中の最悪を回避することができたのかもしれないと思います。雨は既に雪となり、心の底まで冷たい帰り道でした。

 翌日の夜、わたしは先生を誘って鳳華苑に行きました。気分の落ち込んだときには、無性に先生と話したくなるものです。
「昨日の会議は、そんなに大変だったのか?」
「はい……わたしについては別に問題ないですけど、新井くんがどうしても編集班に従いたくないようで。会議でも黙秘を貫いた挙句に土下座と、挑発的な振る舞いばかり」
 会議については、大藤さんからメーリングリストに報告が流れていました。『作品は掲載するが、作者の処分については保留』という内容です。
「新井はどうしてまた、そんな気を起こしたのだ?」
「合評の結果、作品を大幅に変えざるを得なかったことに、納得がいかなかったのでしょう。合評には和泉さんと大藤さんがいたので、そういう不満を編集班にぶつけるために、この場を利用しているのかもしれません」
「不満……逆恨みではなく?」
「どちらも、ですかね。信じがたいかもしれませんが」
 わたしはあんかけ焼きそばを、先生は炒飯を注文しましたが、混んでいるためか時間が掛かっています。その間に、わたしは会議前の新井くんの様子について話しました。
「会議の前に会って話したんですよ。そうしたら、まるで編集班が敵であるかのような言い方をして。それどころか、味方は朝倉さんだけだと言うんです。わたしも編集として手を尽くしてきたのに、あんまりですよ」
「敵だの味方だのと……単に、自分にとって都合が良いか悪いかでしかないだろうに」
「わたしはこれでも最大限、新井くんの意思を尊重してきたのに」
 本当の無批判でなければ、新井くんの味方にはなりえなかったのでしょうか。朝倉さんとて、そうではないはずなのですが。
 料理が来てからも、わたしは飲み会のような感覚で、延々と先生に愚痴を聞いてもらいました。大抵、先生は笑っていました。そのくらいのほうが、わたしも遠慮なく話しやすいというものです。
 食べ終わる頃、わたしは朝倉さんからメッセージが届いていることに気付きました。それは業務連絡を除けばとても稀なことでしたが、業務連絡だとしても、心当たりがありません。
「どうした?」
「いえ、朝倉さんからメッセージが……そんな!」
 内容は業務連絡などではなく、新井くんについての相談でした。
『突然ごめんね。実は、新井くんが文芸部を辞めるって言ってて……私は辞めてほしくないけど、聞いてもらえなくて。中津ちゃん、明日話せる?』
 朝倉さんの願いすら聞き入れず、新井くんはどこへ向かってしまうのでしょう。手遅れでないことを祈りつつ、わたしは返信を書きました。
『もちろんです。明日は四限以降なら空いていますよ』
 その間待たせてしまった先生でしたが、何の話なのかは察してくれたようです。
「新井の話か」
「はい。どうやら、本気で退部しようとしているみたいです」
「別に誰がいなくなろうと、そういうものなのではないか? 飯綱だって、何も言わずに蒸発してしまっただろう」
 実際、先生はそこまで新井くんに興味を示していなかったので、こんな反応になるのが普通だと思います。しかし、わたしはそうではありません。
「わたしは先生みたいに薄情じゃないんです。引き止めるチャンスがあるなら、同じ一年目の仲間として、言いたいことがたくさんあるんですから」
「気を引いて、同情を誘うためのパフォーマンスかもしれないぞ」
「それなら真っ向から乗ってやるだけですよ。新井くんには、まだこの部にも居場所があると思ってもらわないといけません」
「大した覚悟だな。わたしは結果を楽しみに待つとしよう」
 もはやどこまでが編集の責任の範疇なのか、どこからがあの日居眠りをしてしまったことの償いなのかはわかりませんが、最終的にわたしは、どうにか新井くんが前向きに立ち上がってくれるまで戦う覚悟を決めました。このままではどうにも終われません。

 食堂では騒音が多いので、朝倉さんとはリフレッシュスペースで会うことにしました。
「来てくれてありがとう。中津ちゃんも、大変だったね」
「いえ、わたしはそこまでですが……ありがとうございます」
 自分も不安の中にいて、なお心配りを忘れない。本当に健気な人だと思います。
「和泉ちゃんも随分疲れてたみたいだし……みんな大丈夫かな」
「まずは新井くんですよ。彼が考え直してくれれば、状況は良くなるはずです」
「そうだね。よろしくお願いします」
 朝倉さんはやんわりとお辞儀をして、新井くんの様子を話してくれました。
「昨日、冬部誌お疲れ様の意味も込めて、二人でフリータイムに行ってたんだけど、新井くんが急に、『もうこの部にはいられない』って言い出して」
「はい」
「私は、そんなことないと思うし、和泉ちゃんとか大藤さんも、ちゃんと話せば許してくれるって言ったんだけど、新井くんは『それだけじゃ、何の解決にもならない』って」
「そうですか……」
 新井くんにとっての問題は、この冬部誌の期間を通して根付いてしまった、この部や編集班への不信感です。それを無理やり、締め切りに遅れた問題と一緒くたにして解決しようとしているのでしょう。
 しかしそんなことは、和泉さんや大藤さんには全く伝わっていません。編集班の側としては当然、締め切りに遅れた問題にだけ決着が付けば良かったのです。伝わっていたとしても、同時に解決しようとは考えるはずもありません。
「今、新井くんにとって大切なのは、編集班のことではなく、この部で自分が望むような文芸ができるかどうかなのだと思います。言ってしまえば、自分の文芸を否定する人がいない……あるいは、肯定に対して否定が、無視できるほど小さいということです」
「合評が荒れて新しい作品を書くのが、そんなに嫌だったのかな」
「そうなのだと思いますが……違う場所に行かなければ状況が良くならないというのも、あまりに短絡的な思い込みですよ」
 重要なこととして、和泉さんや大藤さんも、あの一次合評の場ではしっかりと作品の未来を考えてくれていました。それに従って『彼の世は幻想の園』を生まれ変わらせる道もあったはずです。しかし新井くんはそれを全否定と決めつけ、望んで作品の未来を擲ってしまったのです。
「どんな場所で文芸をしても、このままでは似たようなことを繰り返すだけです。ただ、今の新井くんは理屈を言っても聞かないでしょうね」
「うん。でも、私の話も聞いてくれなかったし、どうすればいいのかな」
「少し聞きましたけど、どんなことを話したんですか?」
「えっと……新井くんは、文芸部を辞めても行く当てがなかったみたいだから、それだったら辞めないほうが良いんじゃないかな、とか」
「そうですね。間違いではありませんが……」
 新井くんの考え自体にどれだけ問題があるとしても、わたしたちの話を聞く姿勢でない以上、何を言っても意味がありません。まずはその塞がれた耳を、どうにか開放してもらう必要があります。
「単純に、わたしたちの辞めてほしくないという気持ちを伝え続けるのが、今の新井くんには一番効くのではないかと思います。理屈ではなく、気持ちです」
「それだけで、聞いてくれるかな」
「新井くんに、仕方なくでも良いので残ってもらうんです。一時しのぎでしかありませんが……辞めなければ、あとの問題は時間を掛けて解決することができます」
「わかった」
 もちろん、問題を本当に解決するには本人の努力が不可欠です。わたしたちの伝えることは、同じように努力をするなら、外ではなくこの文芸部でしてほしいという願いなのです。それならば、快く助けになることもできるのですから。

 朝倉さんは、新井くんを食堂の一階に呼び出してくれました。わたしが偶然それを見つけたという体で、新井くんの説得に持ち込む作戦です。
 二人は窓際の隅のテーブルで対面していました。昼休みが終わり、やや空いてきたところを狙います。
「新井くん、やっと見つけました!」
「な、中津さん……どうしてこんなところに」
 新井くんは実に都合が悪いというふうに体をよじらせました。わたしは朝倉さんの隣に座って続けます。
「朝倉さんに聞いたんです。文芸部を辞めるなんて、すぐに考え直してください」
「その話か。無駄やぞ。今だけなら、いくらでも甘いこと言えるやろ。そうしてまた、こんなことを繰り返すのは見え透いとる」
「それはどこに行っても同じですよ。新井くんが変わらない限りは。でも、行った先で同じようなことになったとして、新井くんの味方をする人がいるとは限りません。そのことを、ちゃんと考えてほしいんです」
 つい理屈っぽく反論してしまいましたが、新井くんは言い返してきませんでした。意外にも状況は有利です。
「わたしも、朝倉さんも……もちろん、他の多くの人も、新井くんに辞めてほしくないと思っていますよ。今ならまだやり直せます。高本さんだって、チャンスをくれたじゃないですか」
「くっ……」
 このまま押し切れるかと思いましたが、新井くんは悪あがきの手段を残していました。
「せや。そんなに俺が大切だと言うなら、二人とも一緒に来ればええ。新たな文芸部を立ち上げよう」
 呆れるほど利己的な提案です。これ以上何も失いえないという謎の確信を感じます。しかしさすがに、朝倉さんも黙ってはいませんでした。
「嫌だよ。私はこの文芸部が好きだし、新井くんには付き合えない」
 事実上の別れ話です。彼女の毅然とした表情には、新井くんも明らかに怯んだ様子でした。決着をつけるには、今しかありません。
「新井くん。それでも一人で行くと言うのであれば、わたしは止めません。ただ……そんなこと、寂しすぎはしませんか。わたしは寂しいです。新井くんは一年目の中でも、たくさんの作品を書いてくれています。書いてくれる人がいなくなってしまったら、編集の楽しみもなくなってしまいます」
 新井くんは言い返してきませんでした。ただ表情を歪め、長い間、細い声で何かを呟いていました。
 その末に、ぽつりと。
「……俺が悪かったよ。ごめん」
 わたしは思わず朝倉さんの手を取って喜びました。そして、新井くんとも握手をしました。これからやり直していくのです。まだ安心はできないかもしれませんが、幾分大きな希望を感じました。

 翌週の部会は、新井くんの謝罪から始まりました。
「皆様。この度は、冬部誌の締め切りに遅れたことに始まり、多大なご迷惑をお掛けしたことを、深くお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした」
 きっちりと直立し、深々と頭を下げます。あの日の土下座とは違う、確かな誠意を感じました。
「私は、自分の誤りや力不足を、認めることができなかったのです。しかしこれからは、心を入れ替えて活動に取り組み、信頼の回復を目指していきたいと思います。これからも、どうぞよろしくお願いします」
 誰からともなく、自然と拍手が起こりました。新井くんが降壇すると、大藤さんからは、特別な懲罰を科さないことが宣言されます。これでめでたく、一連の事案は解決に至ったのでした。
 裏では既に印刷も始まっていて、冬部誌の完成は近づいています。他にも来年の大学祭に向けた傑作選の準備が始まるなど、忙しい時期が続くのでした。
 そんな忙しさの中で、さらに全体の士気を下げるような事案が起ころうとは、わたしは想像していませんでした。
 一通りの連絡が終わった後、副部長の江本さんが、一枚のコピー用紙を持って立ち上がります。上年目を中心に、一部の人がざわつきました。
「一部の方は、既にご存知かと思いますが……サークル会館の、階段の踊り場のところですかね。こんなポスターが掲示されていました」
 小さな紙面に、マジックペンの黒い線が群れを成しています。遠目にはその内容を判読することができません。ただ唯一、最も大きく書かれた『文芸』の文字が、辛うじてこの部に関連する内容であることを示していました。
 わたしはその前衛芸術じみたポスターに既視感がありましたが、すぐさまそれが他人の空似であることを願いました。江本さんの説明は続きます。
「読み取りにくいですが、『文芸部を取り戻す』、『出会い系サークルではない』などと書かれています。文芸部の今のあり方を、批判する意図があるのでしょう」
「それ、高本の字じゃないの?」
 説明の途中でしたが、誰かの発した一言をきっかけに、場は油を撒いたように炎上します。同じことを多くの人が感じていたのでしょう。わたしもそうです。その特徴的な字体は、容易に装えるものではありません。
「皆さん、聞いてください」
 江本さんが声を張り上げて場を静まらせるまで数分掛かりました。疑惑を向けられた高本部長は、意外にも普段とあまり変わらない穏やかな表情で佇んでいます。
「僕ら二年目のほうで確認しましたが、このポスターは、もちろん高本くんの掲示したものではないとのことです」
「はい。私は全く、身に覚えがありません。このような手段は、とても正当なものとは言えず、やめていただきたいところでございます」
 いかにも迷惑そうに答弁する高本部長でしたが、実際、そのポスターが誰の手によるものなのか、この場で証明する方法はありません。ここはやはり、「疑わしきは罰せず」の原則に従うのが賢明です。江本さんがフォローします。
「部としては、犯人を捜すようなことは行いませんし、このポスターに対しても、こうして注意喚起を行うことで終了とします。部の運営等に関して意見があれば、この部会の場に持ち込むか、僕らに直接言うようにしてください」
 その場はそれで収まりましたが、実際その一件は、新井くんの事案以上のインパクトを全体にもたらしたものと思います。なんとも不穏な空気です。

 その日のアフターは、久しぶりに和泉さんとご一緒することにしました。今日は先生も来ています。思うところがあるそうです。場所はこれも久しぶりの「フリータイム」でした。
「本当は飲みに行きたいんだがな……もうすぐ忘年会もあるし、それまでの辛抱か」
「いつも本当にお疲れ様です。大藤さんに聞きましたが、傑作選の仕事はわたしがやりますよ。アンケートの準備とか、合評の段取りとか」
「助かるわ。よろしく」
 和泉さんの心労は、その程度で癒えるほどではなさそうです。今後はわたしもなるべく負担を肩代わりしようと思いますが、やはり本人しか解決できない問題もあるのでしょう。
「なあ、和泉」
 そこで珍しく、先生が自分から話を切り出します。
「アキ、どうした?」
「今日、副部長が持ってきたあのポスターだが……和泉はどう思う?」
「あれね……はあ」
 この話がしたかったために、アフターに参加したのでしょう。しかし疲れている和泉さんには、重すぎる話題ではないでしょうか。
「内容といい文字といい、他に誰がやるっていうのさ。証明できない以上、どうしようもないけどね。かまってちゃんかよ」
 少し離れたテーブルに座っている本人に聞こえないよう、和泉さんは小声で見解を話してくれました。
「しかしだ、出会い系サークルがどうとかの件は、よく理解できない。あれを掲示した者には、この部がそう見えているのか?」
 先生が疑問に感じていた部分は、確かにわたしも疑問でした。この部にそこまで恋愛関係があるようには見えなかったのです。というより、新井くんと朝倉さんが目立ちすぎて、他には全く目が行っていませんでした。和泉さんはその多くを知っているようです。
「そうなんじゃないの。まあ最近は続いてるからね。新井と朝倉ちゃんに始まり、武藤と平塚さんでしょ。最近では、星井と柿元さんも怪しかったし……」
「そんなに」
 なんと一年目関連で、既に三組もあるというのです。わたしのほうが驚きました。一方で、先生は聞いてみたものの、あまりイメージができないというように首を傾げています。それもそのはず、先生は平塚さんや柿元さんのことをよく知りません。
「この間から星井さんと頻繁に行動を共にしているのは、その関係で?」
「そうだよ。あいつも初心なもんでさ。盛んに人生相談だなんだって、あたししか頼る人いないのかっつの。でもまあ、終わっちゃったけどね」
「終わったって……」
 そういえば、十二月に入ってから星井さんと柿元さんは揃って、部会にもボックスにも来なくなりました。嫌な想像が頭をよぎります。
「あたしは最初から怪しいと思ってたけど……一晩だけ寝て、捨てられたってさ。『思ってたのと違った』とか言って。下種だね」
「なんと……」
 想像の通りです。小説でしか読んだことのない話が、これほど身近に起きていたとは思いませんでした。星井さんは授業でも見かけて話もしますが、そのようなことがあったと感じさせる様子ではなかったのです。
「星井さんは、大丈夫なんですか」
「まあ、立ち直りは早いみたいだから。来ないのは、授業が忙しいからでしょ」
「そうですか……」
 先生はすっかり聞くだけになっていましたが、どこか上の空です。食事にも手を付けず、一人で何かを考えているようでした。
「先生?」
「ああ」
 この度重なる不穏な出来事に、もしや先生までもこの部への不信感が芽生えてしまったのではないかと心配になります。わたしは話題を変えることにしました。
「ところで先生、傑作選ですよ。一年誌や部誌の作品は自動でエントリーされるので、先生の作品が選ばれることも当然、あるわけです」
「そうか。それは楽しみだな」
 棒読みです。あまり楽しそうではありません。
「傑作選に載れば、大学祭で頒布されて、多くの人に読んでもらえるんですよ」
「それは確かに貴重な機会だが……不特定多数に読まれるという点では、部誌もあまり変わらない。それに、傑作選は何部刷る?」
「えっと……和泉さん、わかりますか?」
「百くらいじゃない。それで売れ残る」
「それでは、な……」
 いずれにせよ、先生は傑作選にあまり特別な意味を見出していないようでした。掲載されることが目標という意識でもないようです。
「江本さんが前に話していた、インターネット上での公開はどうですか? 詳細はまだあまり決まっていないみたいですけど、冊子と違って、インターネットなら時間が経ってからでも読めるわけですし」
「そこまで長く残しておきたい作品は、まだ書けていない。部誌が出回らなくなるのと同時に忘れ去られるくらいがちょうどいいのだ。気持ち良く次の作品に進むことができる」
 その興味はもはや、次の作品にありました。確かに今回の『ラッキーアイテム』は、夏休みからずっと向き合ってきたのです。そろそろ次の作品が書きたくもなるでしょう。
「次は春のマスカレードですか?」
「そうだな。高校と違って、ここは作品数を重視するほうが機会を得やすいらしい。部誌に出すのは悪くなかったが、期間の長さに対して、退屈な時間も多かったからな」
 あの波乱の冬部誌の期間を退屈と評するとはさすがです。しかし確かに、先生にとっては一つの作品に長く拘束されるよりも、積極的に様々なパターンの作品に挑戦して、経験を積んでいくほうが有効かもしれません。新たなパラダイムに慣れていく必要があるのです。
「アキもさ、ちょっとくらい部のこと手伝ってくれてもいいのに」
 そんな先生に、和泉さんは不満を漏らします。
「作品を書くことこそ、文芸部への最大の貢献ではないのか」
「これだけ人数がいると、そうもいかないんだよ」
 二人の考えは一致しませんでした。これは非常に悩ましい問題です。確かに文芸部は作品を書く人がいなければ成立しません。しかし、作品を読む人やその他の仕事をする人もいなければ、活動の質が上がりません。言わば書き手は土台、読み手は柱、みんなの仕事で造る城なのです。
「まあ、先生の分はわたしが働きますから」
「お前らの癒着も大概だよ」
 これも編集専門であるわたしの役目……とは思いますが、やっぱり、先生にはもう少し文芸以外の面でも自立してもらいたいところです。誰彼構わず対立していては、ただでさえ多い文芸部の厄介者の一人に名を連ねるのも、時間の問題でしょう。

 と、そう思った矢先の帰り道です。冷たい風に震えながら、先生はいきなりこんなことを言い出しました。
「面倒事が増えそうだし、春まで隠遁しようと思うのだがどうだろう?」
「また変な考えを起こしたものですね……具体的にはどうするんですか?」
「部会に出ない。これだけで、大部分はシャットアウトできる」
 それは文芸部の裏技とでも言うべき行為です。実際、様々な仕事の割り当てはその日のうちに決められることを想定されているため、出席者の中から決めざるを得ません。部会に出席しなければ、例えば九時まで長引く編集決めなど、いくつもの醜いものを知らずにのうのうと過ごすことができるのです。
 それでいて、出席しないことへのペナルティはありません。例えば部誌期間中の作者や編集など、いつでも連絡が取れて然るべき人がいなければひんしゅくを買うかもしれませんが、それ以外は多くの場合見過ごされます。「忙しい」という万人を納得させる魔法の言葉があるので大丈夫です。
「しかし先生、忙しくもないのにそれで自分だけ執筆に専念しようとは、卑怯ではありませんか」
「人聞きの悪い。わたしが作品を出さなくなったら、一年目には誰がいる。新井か? 言っただろう。作品を書くことこそ、文芸部への最大の貢献なのだ」
 久しぶりに強く、先生のことを尊大だと思いました。しかし確かに、先生は一年目を代表する書き手と言えるだけの貢献はしていると思います。上年目からの文芸に関する期待も、ほとんど先生が集めている状況です。
「わたしは許しますけど……新歓の仕事には、ちゃんと参加してくださいね?」
「勧誘のために作品を書こう。それでいいな」
「悪くはないかもしれませんが……せめてそういうことは、自分で会議に出るとかして提案してください」
「頼まれて書くのは好まないのだが」
 振り返ればその日の先生は、ただ部への不満の感情を露わにしていただけなのだと思います。例えば、この部の中で書き手が蔑ろにされるような想像でもしたのかもしれません。しかし本来は対立でも、労使のような関係でもなく、もっと自然に書く人と支援する人が協力し、互いを尊重するような関係が築かれるのが理想です。
 こんな理想を持ってしまったら、わたしは部長になるしかないのでは?
 一瞬、そんな考えが浮かびました。いくらなんでも早計だと、すぐにもみ消します。まずは高本部長が何を成し遂げるかを見届けてからでも、遅くはないと思います。
 文芸部を取り戻す。果たして、文芸部は誰のものだったのでしょうか?

「あれは高本だよ。SNSでもいろんな人に疑われてたのに、逆に謝らせるなんてすごいよね。江本のおかげか」
 八戸さんは当然のように言いました。お酒が入っているとはいえ、重大なことをあっさりと口にするものです。隣では江本さん本人が苦い顔をしました。
「八戸は、そういうことあんまり言わないで」
 忘年会には、先生は来ませんでした。前部長、副部長の下野さんと明石さんに色紙を渡すイベントがあるそうで、普段より三年目以上の人が多いように感じます。
 わたしの隣では、小野寺さんがうっすらとリアクションを見せながらジュースを飲んでいました。先生とは別種の大人しさです。
「しかし、高本さんも大変でしたね。わたしから見れば、最近の高本さんはよく働いているようでしたが」
「裏表だよ」
 八戸さんの見立てでは、あのポスターは高本さんの抑圧された感情の発露だということです。それにしても、あまり決まった事実のように話すのは悪いので、このくらいにしておきます。わたしは江本さんを見て、思い出したことがありました。
「ところで江本さん、作品をインターネットに公開するという話はどうなりましたか?」
「あれね。覚えててくれたんだ。そろそろ、二年目の中で検討し始めようと思ってます」
 思いのほか計画は進んでいないらしく、江本さんは苦笑しながら答えます。八戸さんが横槍を入れます。
「傑作選の作品でも出してみればいいんじゃないの。それよりも、部内の合評とか、作品の質を上げる対策のほうが先だと思うけどね」
「僕は活動の場を広げることで、部員のモチベーションを高めるところから進められればと思ってるんだ」
 どちらも必要な考えです。部長が作品の質のために読書会などの動きを始めているので、副部長の動きで部員のモチベーションとのバランスが取れればベストだと思いました。
「編集班には協力してもらうことになると思うけど、そのときはよろしく」
「はい。楽しみにしています」
 先生は書き手としてあまり興味を示していませんでしたが、わたしは編集として純粋に興味がありました。どのような計画になるとしても、より多様な作品に関わる機会になればと思うのです。
 コース料理は進み、飲み放題のドリンクは二回目の注文を終えました。小野寺さんはあまり自分からは話していませんが、退屈そうではありません。
「小野寺さん、冬部誌の作品は読まれましたか?」
「今読んでる。『Vacant Rally』は読んだけど、私は好きだったよ。初稿のも、悪くはないと思ってたけど……」
「ありがとうございます。その言葉で、随分と報われた気がしましたよ」
 篠木くんもそうでしたが、『彼の世は幻想の園』に可能性を見出していた人は一定数いるような気がしています。それを切り捨てたのは新井くんの意向でしたが、あの合評の参加者次第では、違う結論を導いたかもしれないと想像します。その運命の巡り合わせを、わたしは改めて怖いものだと思いました。
「そうか。中津さんが新井くんの編集だったのか」
 そこで江本さんが、何かを思い出したかのように言います。
「はい。あまり、胸を張れる編集ではありませんでしたが……」
「まあ、いろいろあったけど、一次合評で荒れたって聞いてたからさ。お疲れ様でした」
「江本さんも、作品を出されていましたよね。お疲れ様です」
 互いを労う流れになり、わたしは少し気恥しさもありましたが、それ以上にやりがいを感じました。文芸部はこうでなければと思います。やはりお互いの作品について話して盛り上がっているときが、一番楽しいのです。
「浦川の作品は、傑作選載るかもな。僕は一年誌のほうが好きだけど、冬部誌のがわかりやすいかもしれない」
 話が進むうちに、八戸さんが先生の作品に言及します。江本さんが頷き、小野寺さんがやや前のめりになりました。
「『氷河に還る』、私も好きです」
 さすがは先生のファンです。一年誌の作品もしっかりと読んでくれていました。しかし先生には、その思いがどれだけ届いているのか全くわかりません。
「先生はあんまり、傑作選には乗り気じゃないんですよね」
「そうなの?」
「ありがたくもこれだけ支持されているのに、愛想がないものですよ」
「でも、浦川さんらしいかも」
 元々が求道者気質の先生は、もちろん読者に媚びるような書き方を好みません。編集の段階で読者層に合わせたディレクションを施すこともありますが、刹那的な流行への追従やあからさまなパフォーマンスなどは、わたしも先生の作品に不要なものだと思います。
「それにしても、もう少し普通に読んでくれる人のことを大切にしたほうが良いと思うんですよ。向上心があるのは素晴らしいことですが、先生ってばそればかりで、ごく普通の『面白かった』とか『作品が好きだ』といった声には反応が薄いので」
「そういう姿勢で、結果も出てるから……仕方ないのかなって」
 小野寺さんは俯きます。その言葉には、先生に関する葛藤めいたものが感じられました。ファンの心理も単純ではありません。
「まあでも、小野寺さんは是非とも、先生に直接感想を伝えてあげてください」
「うん。そのうち……」
 こちらも不思議なことに、高校時代と同じ片思い状態が続いているようなのです。その気になればわたしが仲介して、二人を引き合わせることもできますが、小野寺さんはそれを望まないのでしょう。まるで本当の片思いです。だとすれば、先生は鈍感が過ぎます。

 デザートのシャーベットを食べ、ラストオーダーが過ぎ、忘年会も終わりが見え始めた頃でした。いよいよ高本さんと江本さんが立ち上がります。
「皆様、宴もたけなわではございますが、ここで前部長の下野さん、前副部長の明石さんに、色紙と記念品の贈呈を行います」
 指名された二人もその場で立ち上がり、部長同士、副部長同士で品の受け渡しが行われました。拍手が起こり熱気の冷めやらぬ中、下野さんが口を開きました。
「皆さん、本当にありがとうございました。部長としての一年間は大変なこともありましたが、皆さんのおかげで、楽しく過ごすことができたと思っています。二年目や一年目の皆さんは、これからもお互い協力して、良い文芸部を創ってもらえればと思います」
 明石さんは早くも記念品の中身を確かめていました。万年筆だったようです。
「みんなありがとう! とても嬉しいです。私は副部長としての働きは多くなくて、少し申し訳ないですが、無事に役目を終えることができたことには感謝しかありません。これからは、後輩たちの活躍に期待しています。今日はありがとうございました!」
 二人の言葉は全体に向けた典型的なものでしたが、それが却って穏やかな時代の尊さを感じさせます。改革だけが運営ではありません。部を一年間無事に楽しく保てたなら、それは立派な成功なのです。わたしはそのことを忘れかけていました。
 あの選挙の夜に巻き起こった風は、わたしたちに漠然とした不安を運んできたのだと思います。自分の「居場所」は自分で守ると、態度を変えた人たちを見てきました。小さなテリトリーへ、自らを匿おうとする人たちを見てきました。このままでは部員間の分断が進むのは明らかです。
 改革の道は崩れる橋のように、後戻りもできずに走り続けることになりがちです。その先に理想郷があったとしても、本気でそれを信じて走り続ける人は多くありません。大抵は元の「居場所」に未練を持ちながら、急かされて足を動かすのです。
 高本さんにとって好からぬ方向へ事態は動いていました。それは、本人もよく認識していることだったと思います。

九 薄明

 三が日が明け、最初の火曜日です。本来ならば今年最初の部会があり、部員の皆さんと新年の挨拶を交わしているところでしたが、わたしは床に臥せています。三十九度に迫る高熱と激しい悪寒、起き上がる気力すら奪う四肢の鈍痛、水の味もわからなくなるほど炎症を起こした喉――そうです。新年早々、インフルエンザに罹ってしまったのです。
 今日の部会では、傑作選に掲載の決まった作品の編集を決めると聞いています。こんな日にこそ重要な議題はあるものです。わたしも編集を務めたい意欲ばかりはありましたが、外出もままならない状況でできるはずもありません。
 編集については潔く諦めるとしても、気になることはもう一つありました。なんと先生が一年誌に出した『氷河に還る』が選出されたのです。そして昨日、小野寺さんからこんなメールが届いていました。
『私、浦川さんの編集になれるかな』
 それは可能かどうかというより、資格があるかどうかを問うていたのでしょう。まさに勇気を出して先生の編集になろうとしているところなのだと思います。しかしこうして寝込んでいるわたしには、応援の言葉を返すくらいしかできませんでした。
『先生なら大丈夫ですよ。小野寺さんがやる気を見せれば、受け入れてくれると思います』
 部会に出ている先生がどのような対応をするのか気になりますが、足掻くだけ無駄なので、大人しく寝ていろという話なのです。わたしは諦めてひと眠りしました。スマホの通知音で目が覚めて、議事録のメールが届いていることに気付きます。既に午後九時を回っていますが、部会はあまり長引かなかったようです。
 他の内容を飛ばして、決まった編集のリストを見ると……。
『浦川 黒沢』
 先生の編集が、二年目の黒沢さんになっているではありませんか! わたしは思わず驚きの声を出してしまい、すぐに喉の痛みで咳き込むことになりました。

 ちなみに、投票の結果を見ると先生は小説の四番手くらいで、より上には八戸さんや上尾さん、山根さんの作品がありました。八戸さんは傑作選の投票期間が始まると、総決算とばかりに掌編の作品や短歌などを投稿し、そのうち二つが選出されたのです。マスカレードで優勝した『油地獄』はエントリーされていませんでした。それもそのはず、瀬田さんは四年生で、今は卒論の審査の真っ只中なのです。
 さすがに傑作選の投票は記名式で、アンケートには投票した理由を記述するコメント欄も設けることになっていました。そして自分の作品には投票しないようにと大藤さんがアナウンスしてくれましたが、それを堂々と破った人がいました。
『私の作品こそが傑作選に相応しいものであります』
 そのようなコメントと共に、自分の作品にのみ投票されたのは、他でもない高本部長でした。投票は無効となり、後に大藤さんや江本さんにたしなめられたということです。
 先生はそのような手段に頼ることもなく、一年目から四年目まで幅広く票を集めました。着実に先生の作品の認知度は高まっていると感じます。
 ということで、週末にようやく熱の下がったわたしは、ビデオ通話で先生の近況を聞き出すことにしました。
「先生……お久しぶりです。あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとう。災難だったな」
「期せず一週間も寝正月を延長してしまいましたが……先生はお元気ですか?」
「わたしは変わらないよ」
 わたしの身を案じてくれているのか、先生はいつもより優しい調子で話しているように感じました。
「本題ですけど、先生の編集が黒沢さんになったと聞きまして。上手くやってますか?」
「まあな。堅実な編集をしてくれているよ。しかし合評も免除だ、あの作品は軽く手直しをする程度で出そうと思っている。今、次の作品のほうが捗っているのでな。この勢いを止めたくない」
「楽しみにしていますよ」
 余裕のありそうな雰囲気です。この調子ならば執筆に問題はないでしょう。しかし、小野寺さんのことを無視するわけにはいきません。
「ところで先生、小野寺さんが立候補しませんでしたか?」
「ああ……何故知っている」
 先生は訝しげに首を傾げました。
「いえ、月曜日に小野寺さんからメールが来たんですよ。それで、先生の編集になりたいようだったので」
「確かに小野寺も立候補したよ。でも、わたしが黒沢氏を選んだ」
「そうですか……」
 先生自身が選んだなら仕方がないのかもしれません。客観的に見れば自然なことです。しかし小野寺さんの背中を押した身としては、どうしても残念に思ってしまいます。
「何故、残念そうにする?」
「わたしも、小野寺さんのことを応援した立場なので……」
「……編集を経験したいのなら、わたしでなくても良いだろう。そうしなかったならば、小野寺の意思などその程度だったということだ」
 ところが先生は冷たく言い切りました。今回は度を越して冷徹だと思います。
「先生、それはひどいのではありませんか? 小野寺さんは初めての編集ですけど、先生の作品はよく読み込んでいますし、熱意は本物ですよ。大きく改稿するつもりがないのなら、先生が編集のやり方を教えるくらいの気持ちでも良かったのでは?」
「……ともかくだ。わたしは今、小野寺に構っている時間はない。この話は終わりだ」
 画面の向こうの先生は俯いて、顔を見せてくれません。どうしてここまで小野寺さんを遠ざけようとするのか、わたしにはまるでわかりませんでした。

 週明けの月曜日に、わたしは小野寺さんと会う約束をしました。ちょうど午後に共通の空きコマがあったのです。小野寺さんが行きたい場所があると言うので、わたしは後について、東へ向かってまっすぐ歩いていきました。
 よく晴れていましたが、頬が痛くなって熱を持つほど冷えています。凍り付いた路面を慎重に歩いて、教養棟を出てから十五分くらい。その間、小野寺さんは喋りませんでした。
「あそこ」
 創成川の広い道路に差し掛かったところで、小野寺さんが向かい側を指しました。石造りの鳥居が見えます。
「神社、ですか?」
「うん」
 鳥居の傍らには石碑が立っていて、近づいて見ると「諏訪神社」という文字が読み取れました。境内に人はなく、踏み入った途端、すっと辺りが静まったような気がします。
「こんな場所、よく知ってましたね」
「車で通ったときに見かけて、気になってたの」
 来たからには、最初に二人でお参りをしました。わたしにとっては遅い初詣です。今年も先生や文芸部の仲間たちと、豊かな創作ができますように。深く考えずにそんな願いを掛けてしまいましたが、気付いたのは階段を下りてからのことです。
「ここは、何の神様なんですかね?」
「殖産と勝負の神様。それから……縁結びの神様」
 小野寺さんは立派な木の幹に寄りかかり、少し恥ずかしそうに答えました。どうやら、わたしは少し的外れな願いを持ち込んでしまったようです。それはさておき、ここに来たことについては納得がいきました。
「先生と縁があるように……ですか」
「うん。編集にはなれなかったけど、頑張っていつか、浦川さんと一緒に文芸がしたい」
 わたしは思わず下唇を噛んでしまいます。なんといじらしいことでしょう! これほどまでに慕う人がいるのに、先生の薄情なことと来たら!
「でも、先生もひどいですよね。ちゃんと言ってやりたかったですけど、逃げられてしまいました。小野寺さんに教えるくらいの器の大きさを見せて欲しかったのに」
「ありがとう。でも……油断すると、考えちゃうの。浦川さんはやっぱり、私のこと迷惑なのかなって」
「そんな……」
 どうにかして小野寺さんを励ましたいと思いましたが、わたしには明らかな嘘を言うことはできませんでした。
 この神社の空間には、不思議な魅力があります。不安を抱えたままの心では、どうにも離れがたく感じてしまうのです。わたしは先生に小野寺さんを受け入れてもらうシナリオを必死に考えました。しかし、先生の閉ざされた心を開くのは容易ではないでしょう。そこでわたしは、一つの疑問に行きあたります。
「それにしても変ですよね。小野寺さんは、先生のためだけに文芸を始めたわけではないのに、先生はそう思っているみたいなんです」
 先生はああ見えて、無暗に追従されるのは好きではありません。そうだとしても、今回に関しては完全に誤解だと思います。
「それは……多分、私のせい」
 ところが、小野寺さんには思い当たることがあるようでした。
「そんなこと、ありましたか?」
「高校の頃なの」
 思いのほか根の深い問題が見えます。小野寺さんは、先生との知られざる馴れ初めを話してくれました。

 その話は長く取り留めのない話だったので、僭越ながらわたしの語りでまとめさせていただきます。
 事の始まりは高校三年の夏でした。学校祭が終わって少し経った頃、軽音楽部を引退した小野寺さんは一編の詩を書きました。それは当時のわたしたちの部誌に載っていた、先生の作品に触発されたものだったそうです。小野寺さんはそれを、思い切って先生に見せたのでした。
「私、浦川さんの作品が好きで……『イモータル・エフェメラル』の世界観で、詩を書いてみたの。読んでくれたら、嬉しい」
 世にファンレター、ファンアートはあれど、ファンポエムはなかなかありません。先生は最初戸惑った様子でしたが、その作品を受け取って読みました。その感想はこうです。
「これは歌詞だな。内容よりも音韻やリズムのために割かれた言葉が多い、完全なる歌詞だ」
 軽音楽部で作詞をしていた小野寺さんの作風を、先生は一目で見抜いてしまったのです。
「すごい、わかるんだ。私、軽音楽部で作詞してたの」
 小野寺さんにはそれが、自分の歌詞を認められたように感じられたそうです。そしてやや興奮したまま、軽音楽部に属していたことを明かしました。
 しかし、先生は作品に興味を持ったわけではなく、冷たくこう返したとのことです。
「その詞なら、二次創作に含める必要もないだろう。わたしなどのところに来るよりほかに、活躍できる場所があるのではないか?」
 住む世界が違うのだ、と。乙女心など歯牙にもかけない大失言です。炎上ものです。こんなことを、先生は良かれと思って言ってしまったのでしょう。小野寺さんは困惑しました。
「……もしかして、迷惑だった?」
「そういうわけではないが、わたしに構うよりも、することがあるだろう」
 ただ先生への憧れを伝えたくて、あわよくばファンとして認識してくれたら嬉しい……そんな小野寺さんの思いは、ひとかけらも届くことはなかったのです。
 それ以来悲しいことに、小野寺さんは自ら先生と距離を置くようになってしまいました。それでもいつか先生との縁があることを信じて、文芸だけは一人で続けてきたということです。
 当時、わたしはこの一件を全く知りませんでした。先生もこんな隠し事ができるのだと感心したくらいです。わたしは先生の「書く仕事」だけを見ていて、それがすべてだと思っていたのです。

 小野寺さんの乗り越えた壁は、今回先生の編集に立候補することだけではありませんでした。先生のいるこの部に入部した時点で、既に一つの壁を越えていたのです。わたしはその夜、もう一度先生とビデオ通話を繋ぎました。
「先生! 小野寺さんのファンポエムのこと、どうして隠してたんですか?」
 挨拶もそこそこに、わたしは話題を切り出します。先生は諦めたようにため息をつきました。
「……聞いたのか。だが、あれはわたしたちの世界の『詩』ではなかったんだ。だから、文芸をする身として、敢えて話すことでもないと思った。それだけだ」
「だからといって、住む世界が違うなんて言わなくても良かったのでは?」
「その考えは、今でも変わらないよ」
 それでも先生は頑なに、小野寺さんの文芸に向かう姿勢を認めようとしません。
「先生は、小野寺さんの作品に何か不満があったんですか?」
「……」
 何かはわかりませんが、どうしても譲れないことがあるようです。
「お願いです。小野寺さんには言いませんから、教えてください」
「これだけは、言うなよ」
「はい。誓います」
 先生はそれでも少し逡巡していました。小野寺さんに対する本心がそこにあったのです。
「わたしは小野寺が、それを『詩』だと言って見せたのが理解できなかった。『歌詞』が書けるのならそれで良いではないか。それは小野寺の気の迷いだと思った。だから、音楽の世界へ戻るべきだと言ったんだ」
「そうでしたか……」
「『詩』が『歌詞』になることはあっても、逆はほとんどない。小野寺はわたしなどのために、敢えてその細道を来るべきではないと思った。繰り返すが、この考えは今も変わらない。結局、小野寺はこの部に入部してから、作品を出してもいないだろう。わたしを見失わないためだけにこの部にいるのなら、そんなことに意味はない」
 厳しい言い方でしたが、わたしはようやく、その奥底にある先生の不器用な優しさを感じ取ることができました。つまり、先生は小野寺さん自身を認めていないわけではなかったのです。
「では、小野寺さんが本当に『文芸』の作品を書いた日には……先生も認めてくださるということですね?」
「認めよう。だがその日までは、小野寺がどれだけわたしを追いかけようと、振り向くまいと思う」
 思いの丈は作品で示せということです。それはこの上なく先生らしい、シンプルな答えでした。わたしは小野寺さんの素敵な乙女心に共感するあまり、それが武骨な先生に通用するはずのないという事実を見失っていたのでした。
「わかりました。ではわたしは今回、小野寺さんに味方させてもらいますよ。小野寺さんの作品で、先生をやっつけてやります!」
「小野寺に直接話すのは反則だからな。本当にできるのなら、楽しみにしているよ」
 そこでわたしは今年初めて、先生の笑顔を見ました。ちょっと憎たらしい笑顔です。新年に相応しい、大仕事の始まりでした。

 翌日、部会前の五限に、わたしは年明け初めてのボックスに立ち寄りました。ところが、いつもの場所には誰もいません。世間的にはテスト期間なので不思議なことではないのですが、あまりに休みが長くて潮流に取り残されたわたしはそれに気付かず、店先に繋がれた犬のように誰かが来るのを待つことしかできなかったのです。
「おや、今日は一人か?」
 五分くらい経って、先生が来てくれました。特に待ち望んでいたというわけではありませんが、声を掛けられた瞬間から、特別な安心を感じます。
「先生! 生身で会うのは初めてですね。今年もよろしくお願いします」
「ふふ、松の内が明けてしまったからな。七草粥は食べたか?」
「残念ながら、今まで一度も……冬至のかぼちゃは、去年もちゃんと食べたんですよ。というか、先生は七草粥、食べたことありますか?」
「一度はあるが……特別、面白みはなかったぞ。あれは一つの神事だ。信仰がなければ何にもならない」
「そうですか」
 幸先の悪い新年でしたが、こうして先生と何気ない話をしていると、精神的には元気に過ごしていけそうな気がします。
「ところで、今日はどうしてここへ?」
「そろそろ来るはずなのだが……」
 するとそこへ、黒沢さんが到着しました。予想のできたことではありますが、傑作選の編集です。文学部から歩いてきたのか、両肩が雪で濡れています。
「お疲れ様です」
「黒沢さん、今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 挨拶を交わしましたが、これから二人で打ち合わせが行われる場に、わたしは無用です。邪魔をしないように、図書館にでも行こうと思いました。
「打ち合わせでしたら、わたしのことは気にせず、どうぞ……」
「中津さん。居ても大丈夫ですよ。私たちはそっちでやるので」
 立ち上がったところで、黒沢さんに引き止められます。それと同時に、先生がわたしの肩に手を置きました。
「良ければ三人で話をしないか? ここも最初の編集だし、今回はもう最後のチェックだから、二人の意見を聞ければありがたい」
 気を遣ってくれたのでしょう。わたしに拒否する理由はありません。
「それでしたら、わたしは喜んでお手伝いしますが……黒沢さんは大丈夫ですか?」
「いいですよ」
 こうしてわたしたちは三人で、先生の原稿の最終チェックをしました。実際、黒沢さんの編集でも修正を迫られた箇所はほぼなく、変更箇所の多くは先生自身による微調整です。話はすんなりと終わりました。
「よし、ではこれを反映させて提出しよう」
「はい。お願いします」
 五限の時間はまだ半分ほどあります。そのまま解散するのも退屈なので、わたしは黒沢さんにも近況を聞くことにしました。
「黒沢さんは、今回どうして先生の編集に?」
「まあその、浦川さんが、この作品に投票した人を希望していたので」
「先生、そんな希望を出していたんですね」
 ちなみにわたしは、先生の作品には投票していません。先生が傑作選に乗り気でないことを知っていたからというのもありますし、組織票のようになるのも嫌だったのです。
 それにしても、この条件が小野寺さんにもぴったり当てはまっていたのは言うまでもありません。なんだか意地悪な感じもしますが、それについてはもはや言わないことにしましょう。
「選ばれた作品には、ある意味で部員のお墨付きがあるはずだ。傑作選としてそれが実質の要件なら、わざわざ物言いを聞き入れて、内容を変えてしまう必要もないだろう。投票した者なら、そのリスクを抑えられると考えた」
「もう本当に、リソースを抑えてますね……」
 さすがに黒沢さんも苦笑していましたが、期間も短い中で部誌と同じ感覚で斬られては、選ばれた側もたまらないでしょう。そこは上手にコントロールして得をする人がいてもおかしくはないと思います。
 そこで不意に、黒沢さんが顔を上げました。
「大藤くん」
 暖かそうなフードを被って現れた大藤さんは、リュックにも雪を積もらせています。
「雪山帰りですか? あっ、今年もよろしくお願いします」
「普通に吹雪だよ! 今年もよろしく」
 外の様子は暗くてわかりませんが、この五限の時間になってから、雪は次第に強くなっているようです。
「吹雪か……」
 先生が呟きながら、気だるげに立ち上がりました。コートを掴んだので声を掛けます。
「先生、どこか行くんですか?」
「図書館で作品を仕上げながら、吹雪が過ぎるのを待つことにした。部会には出ないから、連絡があれば聞いておいてくれないか」
「せっかくこの時間までいることですし、部会には出ましょうよ」
「わたしは今、隠遁中なのだから」
 隠遁中だと対面で言われるのはかなり奇妙な状況ですが、要するに部会が面倒くさいのです。わたしは少し寂しくなりましたが、そのまま去っていく先生を見送りました。
 先生が見えなくなった後で、黒沢さんが口を開きます。
「浦川さんが言ってた、隠遁というのは?」
 当然の疑問でしたが、わたしはどれだけオブラートに包んで説明するか、困ってしまいます。
「執筆に集中したいようなのですが……まあ、忙しいみたいですね」
 その実、運営に関わることから距離を置こうとしているとは言えません。間違いなく、二年目のお二人に対する直接的な批判になります。わたしはなんとなく流して、その後は文学部の話をしました。そろそろ講座を選ばなければならない時期なのです。

 考え直してくれたらという願いも空しく、部会の開かれる教室にも先生はいませんでした。そして皆さんと新年の挨拶を交わすうちに、もう一人、大抵いるはずの人がいないことに気付いたのです。
「新井くん。朝倉さんは今日、お休みですか?」
 昨日の授業には出ていたはずの朝倉さんです。知っているだろうと当たりをつけて新井くんに声を掛けると、その表情にやはり何かあったのだろうという雰囲気が感じ取れました。
「香奈実ちゃんなあ。かわいそうに昨日の夜から体調崩して、病院に行ったらインフルエンザだったんだと。予防接種したって言ってたのに……中津さんも気をつけてな」
「恥ずかしながら、わたしもインフルに罹ってしまったので……新井くんこそ、用心してくださいね」
「ああ。そういうわけで、今日の書記は俺がする」
 話しながら、新井くんは幅の広いバッグからノートパソコンを取り出しました。
「今日、浦川さんは?」
「先生は、執筆で図書館に籠っています。雪が止んだら、そのまま帰るみたいですよ。部会に顔を出してくれてもいいのに……」
「まあ正直、部会も面倒なことあるからなあ。俺も今日は、書記の使命がなければ帰ろうと思ってたし」
「朝倉さんがいないからですか?」
「皆までは言わないが」
 自分に目的のない部会には、出席する意味がない。先生にも新井くんにも、そんな考えがあるようです。実際、ただ連絡を聞くだけなら、後から議事録を読むだけでも大丈夫です。
 しかし、今や数少ない交流の場となった部会から人が離れるのは、部としてとても危険な兆候ではないかと感じます。
「わたしはやっぱり、部会に皆さんが来ているのを見るだけでも安心します。ボックスが閑散としている今、部会でも会えなくなった人は、それきりになるのではないかと思ってしまうんです。飯綱さんとか……」
「……まあな」
 飯綱さんの名前を出したことで、新井くんの表情が動きました。
「中津さん、名簿の管理やってたよな。飯綱さんはもう退部扱いなのか?」
「名前は残っていますよ。確か、規約上は二期連続で部費が未納になれば、除名になるらしいのですが」
「丸一年間か。また随分と猶予があるんやな」
 実際、名簿にはもはや名前すら聞いたことのない人がたくさんいます。そんな人も含めて、幽霊部員だと思われる人は三分の一から半分くらいになります。毎回毎回、例会がすんなりと成立しない理由です。
「そうですね。今のところは、例会が成立しにくくなること以外に害はないみたいですし、見過ごされているのでしょう」
「それ、結構問題やと思うけどな……」
 新井くんは不満げに首を捻ります。わたしはそれが実際、少し嬉しかったのです。
「実際、幽霊部員がたくさんいることだけでも、イメージは良くないですよね」
「でも、そんなこと気にしない人のほうが多いんやろ」
 もう少し話したいところでしたが、その辺りで部会の始まる時間になってしまいました。

 この時期は学業も忙しいのに、文芸部でもたくさんの企画や仕事があります。全体としては傑作選の制作期間ですが、裏では新歓や学校祭に向けての準備も進んでいますし、春休みには四年生の追い出しコンパ、そしてマスカレードや温泉合宿も予定されています。部会ではこれらについての連絡が次から次へとされました。
 わたしはパソコンで議事録を取る新井くんを横から見ていましたが、その指はなかなか休まることがありませんでした。
 そのうち各担当者からの連絡が終わりましたが、最後に高本さんが、ある発表をしました。
「ここで、私が二年目を代表して、先週末の会議について報告いたします」
 わたしにとっては唐突なことでしたが、新井くんによると、会議のことは先週の部会で告知されていたようです。高本さんは粛々と話を進めます。
「私はかねてより、部誌や合評も含めた作品制作への意欲の低下を憂慮しておりました。特に最近では、限られた人としか交流のない部員が増えたことにより、上年目からの知恵や技術の継承も滞っているように感じられます。私たちはそれらを打開するための方針について話し合いました」
 その間、江本さんが黒板に文字を書いていきます。箇条書きで、項目は二つ。高本さんの言う「方針」とは、次のようなものです。
 二年目以上の部員は、年に一作品以上の発表を目標とする。
 上年目は、新入生や下の年目の部員と積極的に交流するよう努める。
「これらは強制ではありませんが、この文芸部が名実ともに『文芸をする部』であるために、皆様にも心に留めて頂きたい努力目標です」
 やや過激な文言に、毎度のことながら場がざわつきます。すぐさま山根さんが手を挙げました。
「あの。これらは努力目標とのことですが、これを決めた二年目の皆さんは、具体的にどのような活動によって、これを達成しようとしていますか? 特に、年に一作品以上発表するというのは、部員それぞれについて管理、監視するということですか?」
 呼びかけてこれっきりでは、当然何が変わるはずもないでしょう。だからと言って作品の発表をただただ強制するようになってしまうのも、運営としてあまりに無責任だと思います。少子化問題を解決できない政府のようなものです。
 それに対して、高本さんは比較的冷静に答えました。
「仮に達成できない人がいたとしても、その個人を糾弾するようなことはございません。今後は、部誌や企画、そして江本くんが進めているインターネットを含めた、この部の作品発表の場をより活用し、誰もが参加しやすく、有意義なものにしたいと考えております。その結果として、皆さんが一年間のうちに一作品でも発表していることを目指すということです」
 なんとなくですが、選挙のときの答弁から前に進んでいるような気がします。周囲とのコミュニケーションが取れて、実際に二年目を代表した意見になっているのでしょう。しかし、山根さんの求めるような具体性にはもう少し足りないという印象を受けました。山根さん自身もそう感じたようです。
「ただ場があるだけでは、僕なんかもそうですが、黙っていても書く人が参加するだけだと思います。部長は今、積極的には作品を書いていない部員に、どのような働きかけができると思いますか?」
 やや誘導的ではありますが、大きなヒントです。その意図を、高本さんが汲み取れたかと言えば……。
「はい。現状では部誌についても、参加することに心理的抵抗感を持っている方がいらっしゃると聞いております。しかし、それ以外に合評をしたり、多くの部員の目に触れて感想を集められる機会が、この部には多くありません。まずはそういった場を企画として充実させ、普段あまり書かない方も、創作に慣れる場とする構想を持っております」
 なかなか今回は、悪くない調子です。二年目の中で対策をしてきたのかもしれません。これから新歓に向かう中で上手くその企画からの流れを確立できれば、新入生にとっても入りやすい部になると思います。
「わかりました。ありがとうございます」
 山根さんはそこで下がりましたが、選挙のときのような不満は見せていませんでした。
 次に手を挙げたのは明石さんです。
「あの、私がちょっと気になるのは、みんなが書くばかりでも、上手く回らなくなるということです。そしてやっぱり、読むこととか、編集で活躍しようと思っている部員もいるので、書くことばかりを重要視するのは、違うのかなって思います」
 それはわたしにも関わる内容でした。全く作品を書けないわけではありませんが、編集による貢献が認められるのならばありがたいことです。
「はい。貴重なご意見、ありがとうございます。編集のことに関しては、私たちでは考えが及びませんでした。例えばこちらの文言を、このように変更するというのはいかがでしょうか」
 すると高本さんは、江本さんに指示を出し、一つ目の目標を書き直しました。
 二年目以上の部員は、年に一作品以上を発表すること、あるいは一回以上編集を務めることを目標とする。
 わたしは実際驚きました。あの頑固な高本さんが、この短い間に至らない部分を認め、意見を取り入れる柔軟さを見せたのです。これには明石さんも納得していました。
「そのほうが、書きたい人も読みたい人も、活躍しやすくなると思います」
 二つ目の目標についても細かな質問はありましたが、高本さんは各班と連携して交流の場を活性化するという姿勢を見せ、これらの努力目標はかつてなくすんなりと承認されました。
 それでわたしは、この部もまだまだ終わったものではないと感じました。心の中にあった漠然とした不安が薄まり、もう少し高本さんや、これから三年目となる運営陣の皆さんについて行こうと思ったのです。
 部会が終わってから黒沢さんや大藤さんに聞きましたが、裏では案の定、とても大変な会議があったとのことです。しかし、二人の表情は達成感に満ちていました。互いに本音をぶつけ合い、そのうえで譲歩し合うところまでようやくたどり着けたのです。
 先生にも、この場で見てほしかったと思います。

 その帰りは小野寺さんに声を掛けて、ご一緒させてもらうことにしました。雪は弱まり、静まり返ったメインストリートを白い街灯が清らかに照らしています。歩道には足が半分埋まるほど積もっており、数名が通った程度の細い通路ができているだけでした。わたしは小野寺さんの後ろを歩きます。
「小野寺さん。春のマスカレードに、作品を出してみませんか?」
「……うん。考えてたところ」
 表情はわかりませんが、まだ迷いのありそうな声です。
「先生に作品を読まれるのが不安ですか?」
「違う、けど……そうかも。文芸部に入ったのはいいけど、私にはまだ、文芸ができるのかどうかも、わからないから」
 この部で作品を発表すれば当然、先生に読まれるでしょう。それは紛れもなく、小野寺さんが越えようとしている最後の壁です。わたしはそれを助けるためにここにいるのです。
「出すなら、やっぱり詩でしょうか?」
「そう思う。ちゃんと、歌詞じゃない詩も書けるようになったのを、浦川さんに見てほしい」
 劣等感を克服するための、真っ向勝負ということです。ますます負けられません。わたしも気合が入ります。
「よろしければ、わたしも協力しますよ。提出前に見せてくれれば、感想もお伝えできますし」
 しかし、小野寺さんはこちらを向いて首を振りました。
「そこまではいいよ」
 本当に大切な作品は、自分だけで仕上げたい。そんな強い意志を感じます。邪魔をすることになってはいけません。
「わかりました。応援はしますので、何かできることがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
「……ありがとう」
 少しもどかしい思いもありましたが、わたしばかりが焦っても仕方がありません。小野寺さんは再び前を向いて歩きます。そのときでした。
「あっ」
 歩道の切れ目の下り坂になったところで足を滑らせたのでしょう、小野寺さんが転んでしまったのです。
「大丈夫ですか!」
「平気……あんまり、痛くなかった」
 わたしも慎重に近づきますが、そこは積もったばかりの雪の下に、ほとんど摩擦なく滑る氷が隠れていました。幸い、小野寺さんはわたしが手を貸すまでもなく立ち上がりました。
「転んでひっくり返る感じは、あんまり嫌いじゃない」
「そうなんですか?」
「昔は、スキーもよく行ったから」
「結構アウトドア派なんですね」
 すると小野寺さんは、再び歩き出すなり、秋合宿のときのように歌い始めました。

 ひっくり返って雪まみれ 強がりわたしの息は切れ
 君の描いたシュプールも 見失ったらまっしろけ
 決めて見せたいパラレルターン 頑張るわたしの冒険譚
 直滑降で先回り 妄想だけが空回り 立ち上がったら脚が震えた

 湖の歌よりもアップテンポですが、切なさを感じるメロディラインです。サビと思われる一節だけでしたが、慣れないスキーで憧れの人を必死に追いかけるような、今の小野寺さんの状況にも重なる情景が浮かびます。
「それも、小野寺さんの歌ですか?」
「『パラレルターン』っていうの。自分で言うのも変だけど……好きな歌だった」
「そうなんですね。どんな歌なんですか?」
「何度転んでも頑張るの。思った通り上手くはいかないし、転ぶのは怖いけど、それでも立ち上がって滑り出す。そんな、勇気の歌」
 歌われたのは一番のサビで、最後のサビではその頑張りがちょっと報われる瞬間が来るのだそうです。
「小野寺さんの歌は、何曲くらいあるんですか?」
「二年間で七曲作った。詞はもっと作ったんだけど、曲を付けるのは大変だから。『パラレルターン』は、その最初の曲」
「デビュー曲ですか。それは思い出深いですね」
「うん。ライブでもだいたい、最初かその次くらいに歌うの」
 それを聞いた覚えのないわたしは、本当にただの通りすがりだったのでした。それで芽生えた興味のままに話を掘り下げていきます。
「小野寺さんの歌、もっと聞きたいです」
 しかしそれは、言ってしまってから失敗だと思いました。わたし自身が小野寺さんを音楽へ引き戻してしまっては、この上ない足手まといです。
「動画ならあるけど……やっぱりダメ。私も見てないから」
 小野寺さんは踏みとどまってくれました。わたしは安心しながらも、速やかに話題の方向を戻します。
「いえ、いいんですよ。今は文芸部員ですからね。何よりもやっぱり、小野寺さんの作品を読むのが楽しみです」
「それはちょっと、プレッシャーになる」
「あっ……失礼しました」
 もしやわたしも、自分で思うほど小野寺さんの心境に寄り添えていないのでは?
 そんな不安がありながらも、わたしは小野寺さんが心のうちに秘めた強いやる気を感じ取っています。実際には音楽も、捨て去った過去のものではなく、新しいことへ挑戦するときの支えとなっているのだと思います。だから、わたしが心配するまでもないのでしょう。
 メインストリートを抜けて、小野寺さんとは大学の構内から出たところで別れました。

 家に着いてから、わたしは真っ先にメールドライブを確認します。受信トレイの一番上に、先生の作品が上がっていました。時間は、部会がちょうど始まった頃です。
 先生はそれでも、部会には来なかったのでした。
 一方、メーリングリストには議事録が流れていました。差出人は朝倉さんになっています。新井くんから議事録を受け取る約束になっていたのでしょう。部会に出ていなければ、あたかも朝倉さんが出席していたかのように見えます。
 先生は今、朝倉さんがインフルエンザで欠席していることも知らずに……。
 気にしすぎだという自覚はあります。しかし、せっかく部が良い方向へ動き出そうとしているときに、部から離れようとする先生をわたしは見過ごせないのです。
 メッセージを送ることにしました。
『作品の提出お疲れさまでした。議事録は読まれましたか? 二年目の皆さんが、文芸に対して真摯な文芸部を後輩へ引き継ごうと、まとまりつつあります。今はまだ、先生にとっていつも居たいような場所ではないかもしれませんが……わたしは先生や皆さんと、より良い作品を目指せる部になっていくことを信じています。だから、あまり離れすぎないでくださいね』
 返信はただ一文でした。
『春までの辛抱だ』
 あくまで考えは変わらないようです。
 ただ待つばかりで過ごすには、北国の冬は長すぎると思います。

十 絆

 かつて海水浴場の駅があったという場所を過ぎました。今は駅舎もホームも完全に取り払われ、知っていてもその場所を確かめることは困難です。わたしもスマートフォンがなければ、気付かず通り過ぎてしまったでしょう。
 昨日の朝まで札幌は猛吹雪、こちら側も言わずもがなという天候でしたが、今日は久しぶりに気持ちよく晴れました。世間的にはバレンタインデーです。わたしたちはもちろんそんなものに縁のない人生ですが、せっかく冬休みに入ったわけで、各地で催される雪まつり的イベントに繰り出してみようと思い立ったのでした。
 隣の席では先生が、リュックを抱えて眠りこけています。執筆のために隠遁中だという先生を連れ出すために、わたしはある人の助けを借りなければなりませんでした。
 ……とまあ、大袈裟に言いましたが、真相は染谷さんと冬の小樽を見物するという名目で先生を誘ったということです。
 札幌の雪まつりの後に入れ替わるタイミングで、小樽では「雪あかりの路」というイベントが始まります。わたしがそれを知ったのは一月末のことでした。授業の課題でチャタレー裁判に関するレポートを書いていたとき、伊藤整を調べる途中で目に留まったのです。そのイベントは、伊藤整の詩集『雪明りの路』にちなんで名づけられたそうです。
 わたしはまず、染谷さんにメッセージを送りました。
『お久しぶりです。二月に小樽で、「雪あかりの路」というイベントがあるそうです。よろしければ、ご一緒しませんか?』
『久しぶり。十一日か十二日はどうかな』
『ありがとうございます。では、先生とも予定を合わせて、また連絡しますね』
 先生は染谷さんの名前を出すとすぐに、行くと言ってくれました。しかし日程は合わなかったらしく、三人で改めて話し合った結果、この十四日の土曜日になりました。
 わたしのリュックには、もちろんこの間の冬部誌が入っています。試験やレポートは全て終わり、冬休み中は文芸部の仕事も多くはありません。夏休みと同じく、有意義で楽しい休暇にしたいと思います。
 先生は疲れていたのか、終着の直前まで目を覚ましませんでした。

 待合室に着きましたが、染谷さんの姿はありませんでした。この時間に着くと伝えたとき、「待ってるね」と返事を頂いたはずでしたが……。
「中津さん、浦川さん」
「はい」
 不意に声を掛けられます。前方から上品なメイクをした女性が、深緑のダッフルコートを抱えて近づいてきました。すぐには気付きませんでしたが、彼女は染谷さんです。
「久しぶりだね」
「染谷さん……これはまた、麗しくなられて」
 ピアスは前回もありましたが、今回は爪にも光沢のある装飾を施しています。お洒落に関する経験値が一段と蓄積されたものと見えます。ちなみにわたしや先生の成長は皆無です。もはやナイーブです。
「先生、感想は?」
「良かったな。いざとなれば、染谷に助言を仰げる」
 先生はそれでも、あくまで自分からお洒落をしようという気持ちは芽生えないようです。わたしは少しだけ危機感を持ちました。自分のことも、先生のことも。
 それはさておき、わたしは忘れないうちに冬部誌を渡してから、時計を確認します。
「点火まで、三時間くらいですか」
「そうだね。午後五時からだって」
 その時間になると、会場では一斉にキャンドルに火が灯るそうです。それまでは、駅周辺を見物する計画でした。
 早速外に出るべく振り返ると、駅の売店のほうから、見慣れたカップルが歩いてくるのを見つけました。わたしは反射的に足を止めます。
「先生、ちょっと下がってください」
「どうした?」
「新井くんと、朝倉さんです」
 目的は間違いなく「雪あかりの路」でのデートです。日付を考えれば特に驚くべきことではありませんが、なんとなく今日は他人でいたい気がしたのでした。先生も二人に気が付きます。
「そうだな。隠れる必要はあるのか?」
「なんとなくですが……邪魔をすることになってもいけませんし」
 染谷さんは首を傾げました。
「二人の知り合い?」
「二人とも、文芸部の同期なんです。あの男性は今回の冬部誌で私が編集をした小説の作者、新村千草さんですね」
「そうなんだ」
 新井くんと朝倉さんが付き合っているのは誰の目にも明らかでしたが、わたしも染谷さんも、そこには触れませんでした。
 話しているうちに、二人は外へ出ていました。奥の市場のほうへ向かうのが見えたので、わたしたちも出発することにします。
「止めてしまってすみません。行きましょうか」
「ああ」
「まずは、都通りだね」
 ちなみに新井くんの向かった市場の入口には、石川啄木の歌碑があるそうです。わたしもインターネットでの下調べで知っていましたが、特に実物を見てありがたがるものでもないので、見には行きません。

 都通りは、札幌の狸小路のような歩行者天国のアーケード街です。その賑わいはさすがに狸小路と比較するほどではありませんが、それでも普段よりは人が多いようでした。
「染谷さんは普段、この辺りで遊んだりしているんですか?」
「そうだね。ショッピングもするし、喫茶店も何軒か入ったよ」
「小樽、満喫してますねえ」
 機会は札幌のほうが恵まれているはずなのに、わたしはそういった遊びをほとんどしたことがありません。学部の友人に誘われて一度、駅地下のアイスクリーム屋に行ったくらいです。先生は勝手に断言しますが、全くありません。
「そこの二階、喫茶店になってるんだけど、入ってみない?」
 入口の反対側まで来たところで、染谷さんがケーキ屋を指して教えてくれます。名前は知らないところでしたが、地元では古くからあり有名なお店だそうです。ずっと外にいるのも冷えてしまいそうなので、わたしたちは即決で入ることにしました。席にはすんなりと案内されましたが、見渡せば満席に近い状況です。
「ここは、何が人気なんですかね?」
「クリームぜんざいだって」
 メニューを開くと、最初のページの左上に写真が載っています。ソフトクリームが載っていて、清涼感のあるスイーツであることが一目でわかりました。季節には合いませんが、来たからには人気メニューを味わってみたいという気持ちもあります。
「コーヒーのセットで、ショートケーキにしようかな。二人はどうする?」
「わたしはホットコーヒーと、ティラミスにしよう」
 二人は無難に、コーヒーとケーキのセットを選びます。それが参考になりました。温かいコーヒーをつけるなら、ソフトクリームも大丈夫ではありませんか。わたしは決断しました。
「コーヒーと、クリームぜんざいにしましょう」
「見るからに冷たそうだぞ」
「まあ大丈夫ですよ」
 それなりに身構えていましたが、ぜんざいが実際に来るまでに冷えていた身体も温まり、問題なく美味しくいただくことができました。メインはソフトクリームですが、下のつぶ餡や団子と一緒に食べると、冷たさも甘さも程よく和らぐのです。
「若干古い時代の印象はありますが、落ち着くお店ですね」
 食べ進めつつ、改めて店内を見回してみます。内装のカーペットや座席のソファはワインレッドを基調としており、やや大人びた印象です。天井が白く明るいためか、陰気な感じはありません。
「この辺りは、和菓子も洋菓子も、老舗が多いイメージ。堺町に行ったら、最新のスイーツがある」
 堺町というのは、オルゴールやガラスの工房などもある小樽最大の観光街です。その辺りは、前回来たときに巡ったのでした。
「観光客は、新しい観光街のほうに集中するんですね」
「観光のわかりやすい動線って、どうしてもあるから……」
 観光バスのツアーで来るような場合は、バスが運河の辺りに停まるので、わざわざ駅の側まで来ないのです。
「まあでも、こうして並ばずにすんなり事が運ぶくらいがちょうどいいですね」
「そうだね」
 例えば札幌駅には、パフェやパンケーキのために一時間以上の行列が当たり前にできるようなパーラーがあります。相応に美味しいのかもしれませんが、そちらに誘われたとき、わたしは全く気が向きませんでした。
 興味のあるシチュエーションを考えたときに、私はふと、小野寺さんのことを思い出します。
「ところで染谷さんは、軽音楽部の小野寺さんを知っていますか?」
「軽音楽部の小野寺さん……望海ちゃんだよね。『マリンビュー』のボーカルの子」
 染谷さんが記憶をたどり始めると同時に、先生がちらりと苦々しい表情を見せます。わたしは初めて聞いたバンド名にも興味を持ちましたが、とりあわずそれらに構わず続けます。
「実は、わたしたちの文芸部に入ってくれたんですよ」
「そうなんだ。作詞もギターも歌もできて、文芸に来たのは意外」
「……席を外させてもらう」
 先生の小野寺さんに対する反応は、アレルギーじみてきたようにも思います。それでも、話すことは話させてもらいます。
「実はですね、小野寺さんが文芸を始めたのは、先生の『イモータル・エフェメラル』がきっかけだそうで」
「造花を植える話だよね。それは浦川さんも、嬉しかったんじゃないかな」
「ところがどっこい、先生ってば小野寺さんが才能を発揮する場は文芸じゃないとか言い出して、ああして遠ざけ続けているんですよ。ですから今、わたしは小野寺さんが先生を満足させるような作品を書けるよう、応援しているのです」
「そっか……うん、だんだん思い出してきた。『鏡面プラネタリウム』だったかな。夜の湖の歌が一番好きだった」
 どうやら染谷さんは、当時からちゃんとしたファンだったようです。わたしは今、バンド名を初めて聞きました。にわかもいいところです。
「恥ずかしながら、わたしは当時、全然小野寺さんのライブを見たことがなかったのです」
「そうなんだ。私はクラスにキーボードをやってた子がいて、それで何度か見に行ったの。望海ちゃんは無口で、MCでもほとんど喋らないんだけど、歌声は綺麗な高音が会場いっぱいに響くんだ。一度、『歌は勇気』って言ってたことがあって、本当にそうなんだなあって」
「それは思いますよ」
 歌は勇気。秋合宿のときも、小野寺さんは同じようなことを言っていました。文芸は新たな勇気になるのでしょうか。わたしはこれからも、小野寺さんを追いかけていきたいと思います。
 それにしても、このまま小野寺さんの話を続けると先生が戻れなくなりそうなので、話題を変えてみます。
「ところで……染谷さんは夏から一段と美しくなられたわけですが、もしや今度こそ誰かと交際を始めたのでは?」
「えっと……今日は、気にしないでほしいな」
 染谷さんは明らかに狼狽えます。恐らく図星でした。しかしそれなら本来、今日はその彼氏さんと過ごしているはずの日だと思います。
 そこで、安全を察知した先生が戻ってきました。
「何の話だ」
「前回から時間も経ちましたし、染谷さんも綺麗になったところで、彼氏さんがいてもおかしくないかと思いまして。わたしたちは今回、無理を言って今日にしてもらいましたが……大丈夫でした?」
 先生はやはり興味がなさそうですが、席には残ったコーヒーを飲んで留まりました。わたしは染谷さんのいじらしい心遣いを気にせずにはいられません。
「それは大丈夫。私も昨日とか明日はバイトだし、今日しか会えないなら仕方ないよ」
 あくまで、今日はわたしたち優先で通すつもりのようです。心配でもありましたが、視点を変えればこうしたことにも寛容な彼氏さんということになります。その考えに至ると、罪悪感がわずかに軽くなりました。
「結婚するときは呼んでくださいね?」
「早い、中津さん気が早いよ」
 実際、染谷さんは朝倉さんよりも奥ゆかしく本心を隠しているわけですが、それでも交際相手ができたことは雰囲気の違いでわかったのでした。恋は人を変貌させます。わたしはまだ、それが少し怖いのです。

 混雑してきて長居するのも気が引けたので、わたしたちは外に出ました。そのままアーケードから出て、坂を下ります。間もなく、踏切の遮断機が見えてきました。
「あの辺りが会場ですか」
「そうみたいだね。ここと、運河と」
 三時半を過ぎて辺りは徐々に暗くなってきましたが、会場はまだまだ準備中です。そこでわたしは、踏切の奥に見えていた豆腐型の建物に目を付けます。
「そこ、確か文学館でしたよね。寄ってみませんか?」
「いいよ」
 文芸部員だから文学館という演繹は今回、あまり適当ではありません。現に先生は、文学館には興味がなさそうです。
「わたしは美術館の気分だ」
「そう言わず。伊藤整に関する展示もあるそうですし、このイベントの世界観が多少なりとも理解できるかもしれませんよ」
「まあ……どちらでも良いが」
 退屈そうな先生を見て、小樽に来るのが早すぎたかもしれないと思い始めます。しかし、それを悔やんでも仕方がありません。わたしはせめてもの賑やかしに、事前に仕入れた情報を放出していきます。
「ここにはですね、小林多喜二のデスマスクがあるんです」
「それは珍しいのかもしれないが……わたしには価値がわからない」
「プロレタリアートの魂が宿っているんですよ」
 賑やかしのためなので、わたしもデスマスクの価値を説明することはできませんし、わけのわからないことを言っている自覚があります。染谷さんは笑ってくれました。
 わたしは古い原稿とか、その時代に発行された初版本の展示を見て楽しめるので文学館が好きです。しかし、解説や年表は情報量が多く、目的意識を持って読まなければ発見も学びも得られません。博物館もそうですが、いきなり立ち寄って満足できる保証はありません。
 それでもせっかく入場料を払うわけで、先生は明治大正期の鉄道の客席を再現したセットに入り、延々と車窓の映像を眺めていました。俗世を捨て、辺境へ向かうかのように……。
 染谷さんとわたしは、ゆっくりと展示を見て回ります。
「中津さんは、ここ来たことある?」
「いいえ、ちょっと下調べをしたくらいですよ。そもそも今回のイベントを知ったのも、これがきっかけなので……」
 伊藤整のコーナーに来ました。そこには、初版当時の『チャタレイ夫人の恋人』が展示されています。
「現代社会の教科書に載ってたね。大学の授業?」
「そうなんです。この裁判の当時、戦後間もない頃は有罪判決になりましたが、現代では全文問題なく出版されているんですよね。その経緯を調べて、考えを述べるというレポートがありまして」
「面白そう」
「そちらは単科大学ですが、教養科目などはあるんですか?」
「一年目は教養がメインだったよ。文学、経済学、社会学ももちろんあるけど、意外と数学とか物理学とか、理系の科目もあった。第二外国語はフランス語にしたよ」
「フランス語。染谷さんには欧米の言語が似合いますねえ。わたしは中国語、先生はドイツ語でしたね。まあ、忘れかけてきているのですが……」
「文法とか日常で使わないと忘れちゃうよね」
 わたしは姉も同じ大学だったので、他の大学の話を聞くことはほとんどありません。聞いていると、やはり基礎的な部分は似通っていますが、細かいところに文化の違いが見つかります。
「そちらは、学生寮ってあるんですか?」
「つい最近造られたみたい。友達が入ってて一回だけ見せてもらったけど、まだ新しい建物だったよ」
「なるほど……大学寮は、独特の文化が築かれる場所と認識していますが、どうなんでしょう」
「あんまり極端な話は聞かないよ。寮生以外でも、悪目立ちする人はいるし……そっちの寮でも、全員がその色に染まるわけじゃないと思うけど」
「まあ、最近は新しい考えの学生が入って、少しずつ変わってきているとは聞きますね。それでも、秋に屋外で、ほぼ全裸になってパフォーマンスをする学生もいるわけですが」
「そうなんだ……」
 当然ながら、大学寮には女性もいます。わたしの知り合いにもいましたが、彼女の暮らしている区画は比較的穏やかなところだそうです。
「うちの大学には全国、全世界から学生が集まるわけですけど、わたしから見れば『地元の大学』なんですよね。それ自体に、特別な感じはないんです。たまに、遠く離れた他所での暮らしに憧れます。染谷さんは、こちらでの暮らしはどうですか?」
「最初はずっと大変だったし、疲れたときにも一人なのはつらいけど、それを通して、成長できてる気がする。実家にいたら絶対にやらなかったこと、できなかったこともあると思うし」
「そうですよね」
 伊藤整の展示の隣には、石原慎太郎の展示がありました。現代では政治家として知られる方ですが、芥川賞作家でもあります。読んだことはありませんが、戦後の変革期で学生運動なども盛んだった頃、若者の尖った感性を後押しするような作品を書いたというイメージがあります。
 二人に共通するのは、幼少期を小樽で過ごしたということです。出生地そのものではないという点も同じです。作家に限らず古い著名人は大抵、幼少期に転居を経験していると思います。そして複数の「ゆかりの地」があるとしても、その人にとって重要な土地を一つに決めるのは困難です。
 わたしや先生はそれが北海道、特に札幌になるのだと思いますが、この後それが変わらないとも限りません。このまま他の土地を知らずにいるのも損だと思います。もし、先生もそんな思いを持っていて、それがわたしより強かったとしたら?
「……先生が、仮面浪人生だったと言ったら、信じますか?」
「なに、急に。私は普段の浦川さんまで見てないからわからないかな。中津さんの言い方次第では、騙されちゃうかもしれない」
「まあ……嘘なんですけど」
 隠遁して作品を書くと言っていた時間は受験勉強の追い込みで、実はセンター試験を受けていて。今月末には二次試験を控えて、今日は束の間の息抜き……と。勝手な妄想ではありますが、この一年間、結局ほとんど人付き合いのなかった先生の姿を振り返ると、妙な信憑性が感じられます。
「例えば試しに、二次試験の日に遊びに誘ってみて……断られるのが怖いんです」
「……どこまでが本当なの?」
「いえ、わたしの勝手な妄想ですが」
 考え出すと不安になってきて、染谷さんとの会話もちぐはぐになってしまいました。
 客席のセットに、先生はもういませんでした。受付前の図書コーナーで、小樽の歴史の本を読んでいたのです。わたしたちはあまり言葉を交わさず、手持ち無沙汰な時間を過ごしてから外に出ました。

 キャンドルに灯の入れられた頃です。外に出ると下がった気温に震え上がる思いをしましたが、間もなく幻想的に浮かぶ灯りに誘われ、寒さも忘れたのです。この会場は、数十年前まで線路が通っていたところを整備した公園です。先ほど見た踏切の遮断機の傍には、復元された小さな駅舎もあります。既に人は多く、各々満足の行く写真を撮ろうと苦心していました。わたしは一歩早く会場に入ります。
「この線路は、向こうの港のほうまで続いているんですよね」
「そうだね。水族館に行く途中に鉄道博物館があるけど、その辺りからこっち側が遊歩道になってるの」
 周辺には、かつて銀行だった石造りの建物も多く保存されています。北海道の行政の中心は札幌に置かれていましたが、ここは経済の中心であったわけです。わたしたちはキャンドルの飾られた雪像を眺めながら歩きました。先生はいつの間にやらニット帽を被っています。
 公園の端で折り返して、半分くらい来たところで染谷さんがスマートフォンを構えます。
「浦川さん、中津さん。写真撮ろうよ」
「誰かに撮ってもらいましょうか?」
「そうだね。そこに並んで」
 戸惑う先生を抱き寄せて、わたしはそこにあった雪像の傍らに立ちました。ちょうどその雪像はハート形で、正面に日付の入ったボードが据えられています。
「おい、近いぞ」
「いいじゃないですか、思い出です」
 染谷さんは通りかかったカップルに声を掛けていましたが、わたしはその二人の姿を見て、とっさに先生から離れました。
「今度はどうした」
「あれ、新井くんと朝倉さんですよ」
「む、本当だな」
 来ていたのは知っていましたが、なんという巡り合わせでしょう。染谷さんからスマートフォンを借りたところで、二人もわたしたちに気付きました。
「あれ? 誰かと思えば中津さんに浦川さん。来てたんか」
「奇遇ですね。というか染谷さん、よりによってこの人たちに声を掛けるとは」
「ごめん、同じ年代だと思って、なんとなく声掛けちゃった」
 染谷さんは案外天然に見えて、こういう展開を狙ってくるところもあります。実際、この人混みの中でわたしたちの知り合いを引き当てたというのに、ほとんど驚いていません。新井くんとどんどん話を進めていきます。
「写真撮ればええの? 並んでや」
「まあ……お願いします」
 とりあえず、わたしたちは新井くんに写真を撮ってもらいました。そしてこうなれば、お返しに二人の写真を撮るのが筋でしょう。
「お二人もどうですか? わたしが撮りますよ」
 その間、朝倉さんは隠れるように、新井くんの一歩後ろに立っていました。ここで見られたのが相当に恥ずかしいようです。普段の大学では見せない、可憐な表情を覗かせます。
「香奈実ちゃん、どうする?」
「じゃあ……お願いします」
 ここに来て、ハート形の雪像が意味を持ち始めたのでした。二人ともポーズを取らずに、緊張した表情で写真に写ります。こういうときにリードしないのも新井くんです。遊び慣れているように見えて、本質的には不器用なのです。
「ありがとな。運河の会場も、人が多いけど綺麗やったで。出抜き小路の櫓から見るのもええ」
 写真を確認すると、新井くんは早口にお礼の情報を教えてくれました。
「お二人も、楽しんで」
「じゃあな」
 それから、撮ってもらったところ申し訳なくもありましたが、わたしと先生はもう一枚、染谷さんに二人での写真を撮りなおしてもらいました。先生の表情が強張りすぎて面白くなかったのです。今度は思い切り先生の弱点をくすぐって、楽しい写真になりました。削除を求められましたが、これは永久保存させていただこうと思います。

 運河には壺のようなキャンドルが浮かべられ、橙色の光が暗い水面によく映っていました。しかし人通りはさらに多く、先生が近寄りたがりません。そこでわたしたちは、新井くんに教えられた櫓を探しました。場所は目立つのですぐにわかりましたが、入口がわかりにくく若干迷います。
「この上が入口ではないか?」
「ああ……そうみたいですね」
 三分ほど迷って、最終的に先生が入口へ続く階段を見つけてくれました。建物は施錠こそされていませんでしたが、中は電気も点いておらず、ただ櫓の上に向かう螺旋階段があるだけでした。人もいません。
「こんなところ、新井くんはよく入ろうと思いましたね」
「知らないと、入れるって思わないかも」
 階段を上っても人はいませんでした。車道を挟んで向こう側に運河が見えます。橋の上には、身動きも取れないであろう人だかりができていました。ここは特等席……かと思いきや。
「いい眺めだけど……普通の夜景だね」
「運河はあまり見えないですか」
 街灯の明るさばかりが目立って、運河のキャンドルはほんの小さな光点にしか見えません。夜空で言えば三等星くらいの、辛うじて視認できるレベルです。
 わたしと染谷さんがその光景を写真に収める間、先生は運河とは反対の端で柵にもたれ、物憂げに何かを見つめていました。染谷さんが気を遣って声を掛けます。
「浦川さん、こっち来てもいいよ」
「……わたしは、ここからでいい」
 明らかな間があり、億劫そうな返答でした。先生の関心は今、どこにあるのでしょう。
「先生、次はどこへ行きましょうか? わたしは支笏湖の氷濤まつりも興味があります」
「気が向けばな。わたしのことは気にせず、楽しんできてもいいぞ」
「いつにも増して素っ気ないですねえ」
 とはいえ、わたしにも原因の一端があるような気がしてきました。今日は染谷さんと二人でばかり話していたと思います。先生は元々一人でも楽しめる人ではありますが、久しぶりの染谷さんとの楽しみをわたしが独占していた感じは否めません。
 こんなことでは今後先生を外出に誘っても、付き合ってくれなくなってしまいます。わたしは挽回の方策を探しました。
「そういえば、もうすぐ大学の二次試験だよね」
 そこで不意に、染谷さんが受験の話を切り出します。わたしはコートの中でも背筋の冷える思いをしました。
「珠枝ちゃんと唐澤くん、受験終わったら会いたいね」
 後輩の話になり、ひとまず安堵します。高校の文芸部の話は、十一月頃、部長の鳴滝さんから大会の結果の報告を受けたきりでした。唐澤くんも受賞には至らなかったものの、作品を書き切って悔いの残らない引退になったことと聞いています。
「進路については、何も聞いていないので……もしかしたら今日、どこかの私大を受けている可能性もあるわけですね」
「そっか。珠枝ちゃんは、どんどん東京とか行きそうな感じがする」
「そうですね」
 都合よく話を合わせましたが、わたしは実際、天海さんが同じ大学に来る可能性をどこかで期待し続けていました。同じくそうであったはずの先生は、口を閉ざしています。
「それぞれの進路……本人に後悔がないのが一番ですよね」
 ほんの少し、先生に問いかけるようなイントネーションを付けました。閉ざされがちな心の中が垣間見えることを願って。
 先生は、諦めたようにため息をつきました。
「相変わらず皮肉は巧いな。わたしは進路に後悔などしていないぞ」
 わたしの抱えていた不安を見透かして(現実的には、文学館でのわたしたちの話を聞いていたのかもしれませんが)、きっぱりと言います。もう少し、踏み込みたくなりました。
「先生はこの一年、楽しかったですか?」
 今度は直接的に試す質問です。先生は不敵なポーカーフェイスでわたしを見つめました。睨み合いです。わたしもまた、試されているのです。少しでも逃げるような気持ちを見せれば、はぐらかされてしまうでしょう。
 どれだけそうしていたか、蚊帳の外になってしまった染谷さんも、ありがたいことに忍耐強くわたしたちを見守っていてくれました。
 やがて、先生が。
「……ふっ」
 微かに、しかし確かに笑いました。にらめっこなら高らかに勝利を宣言するところですが、わたしは油断せずダメ押しの眼力を働かせます。
「わかった、わたしの負けだ」
 程なく、先生は本格的に笑い出しました。わたしもようやく表情を緩めます。振り返ると、染谷さんも控えめに微笑んでいました。
「まったく、呆れるほどの世話焼きだな。わたしの編集を離れて、新井や小野寺にかかってもなお、こうまでわたしの心配をするとは……」
「わたしは先生みたいに薄情じゃないんです。言ったじゃないですか。先生のことだって、考えないときはありません」
 すると先生は、今日初めての優しい表情を見せてくれました。
「退屈する時期もある。今日もそうだった。だが、わたしが辛抱強いのは知っているだろうに」
「今日は、先生につまらない思いをさせてしまったのではないかと、わたしも反省しているんです。でも、辛抱強いからと言って放っておいて、手遅れになったら嫌じゃないですか」
「知らぬ間に、わたしがどこかへ行こうとしているのではないかと疑ったのか?」
「はい」
 やはり先生は、文学館での話を聞いていたようです。不意に、わたしは前で重ねていた手を取られました。
 そこで生じた一瞬の間は、次の言葉への躊躇いだったのかもしれません。
「わたしだって、そこまで薄情ではない。言ったはずだ。中津はわたしの、手放しがたいパートナーだと」
 先生、今、なんと?
 意外すぎる形での告白でした。内容はもちろん、わかり切ったことではあります。でも。
「せ、先生……わたしのこと、ついに名前で」
 先生に、初めて名前を呼ばれたのです。ずっと近くにいたのに、これまで恥ずかしがって、全く名前を呼んでくれなかった先生が、「中津」と声に出してくれたのです。感動が過ぎて涙すら出てきます。
「浦川さん、まだ中津さんのこと呼んでなかったんだね……」
「呼ばなくとも、普段は困らないのだからいいだろう。こんなことで感動するな。わたしは冷えたから中に入るぞ」
 後から染谷さんは、先生もわたしも顔が真っ赤だったと、面白がって教えてくれました。結果的にはわたしたちの結束を確かめる、バレンタインデーらしい一日だったと思います。
 その夜、わたしは布団に入ってもこのことを思い出してしまって、何時間も寝付くことができませんでした。次に名前を呼ばれるのはいつになるか、当たり前のように呼ばれる日は来るのか、そんなことも気になりだして、いよいよ睡眠どころではなかったのです。

 その二月には大学祭に向けた会議や、卒業される四年目を送り出す追いコンなどもありましたが、その話はまた次の機会にいたしましょう。先生はそれらの行事にやはり参加せず、マスカレードに向けた執筆に専念していたようです。
 では、その執筆が終わったタイミングなら、イベントに参加するのでしょうか?
 期待するだけ無駄でした。
 三月の初旬、ちょうどマスカレードの締め切りの翌日です。河童のマークのバスで、わたしたちが向かう先とは。
「今回の先生の作品、わたしは冒頭一文字でわかったんですけどね。さすがに隠遁までして書き上げただけはありましたよ。でも、だからこそ今回はゆっくり温泉に浸かって、慰労の機会を持つべきだと思ったんですが……」
 そうです。定山渓温泉での春合宿です。告知自体は一月に部会でされていましたが、参加者の募集が始まるなり、先生はこんなメッセージを送ってきたのでした。
『春合宿には、参加しないからな』
 わたしの出鼻を挫く先制攻撃です。完全に先回りされました。しかしわたしは諦めません。
『ダメです。わたしが先生の分まで参加希望を出します』
『残念だったな。平塚氏にも不参加の連絡をしてある』
 そこまでは、ギリギリ想定の範囲内でした。だからと言って、食い下がる以外の対策を考えているわけではないのですが。
『考えておくって言ったじゃないですか』
『考えて参加しないことに決めた』
『お土産買ってきませんからね?』
『市内だぞ。敢えて買うまでもないだろう』
『先生は呪われています。源泉公園の定山坊の像に温泉卵を奉納しなければ、これから毎日湯あたりします』
『不当に長く苦しめようとするな』
 あの手この手で強引な勧誘を試みたわけですが、当然、先生には通用しません。初めから勝利の可能性はゼロだったのです。
 そんなわたしの愚痴を聞いてくれているのは、小野寺さんでした。
「小野寺さんも、先生と旅行したいですよね?」
「……修学旅行は、同じ班だった。全然話せなかったけど」
「ええっ!」
 いきなり新情報が飛び出します。小野寺さんは少し得意げに微笑みました。わたしに共感してはくれないようです。
「というか、修学旅行の話聞かせてください」
「浦川さん、ずっとメモ取ってた。私はそのとき、浦川さんが文芸部を立ち上げて大会に出たことくらいしか知らなかったから、話すきっかけもなくて」
「なるほど……そうですよね」
 高校の修学旅行は、二年生の十月でした。先生はちょうど文芸部の全道大会から帰ったばかりで、立て続けの旅行だったと思います。しかし、まだ部誌も出していなかった頃で、わたしたちの文芸部の知名度はほとんどありませんでした。
 ちなみに行き先は姫路、大阪、京都という感じでしたが、わたしもあまり文芸部員として語るようなことはなかったので、このくらいにしておきます。
「ところで小野寺さん。バンド名、『マリンビュー』っていうんですね」
「知らなかったの?」
 何気なく思い出した話でしたが、小野寺さんは口をとがらせます。軽音楽部時代の活動にも、誇りを持ち続けていることが伺えました。しかし、怒らせてしまったのは謝らなければなりません。
「にわかでごめんなさい」
「まあ、仕方ないけど」
「バンド名は、小野寺さんの名前から?」
「うん。望海。私はメンバーの中で一番背が低くて地味だったから、目立つようにって」
 面白そうな由来でした。小野寺さんはボーカルとギターだったと聞いているので、名実ともにバンドの主役だったということだと思います。
「メンバーの名前から取ることって、音楽グループだとたまにありますよね」
「でも、最初は恥ずかしかったし、逃げられなくなったっていう不安のほうが大きかった。最初の学校祭のライブまでが、一番大変だったと思う。そこからは一気に、バンドと一体化できたというか……上手く言えないけど」
「バンドの主役としてやっていく覚悟ができたという感じですかね?」
「うん」
 それにしても、小野寺さんの過去の話は聞けば聞くほど興味が増して、現役時代に知らなかったことへの後悔ばかりが出てきてしまいます。話を文芸に戻しましょう。
「ところで、マスカレードの作品は完成しましたか?」
「出したよ。詩部門に一つ」
「ひとまず、お疲れさまでした」
「ありがとう」
 詩部門の作品にもざっと目を通してきましたが、まだどの作品も作者を特定するには至りませんでした。後でじっくりと拝読したいと思います。
「しかし……匿名で出されているという建前上、発表会まであまり作品の話ができないのも退屈ですね」
「まだ、提出が終わったばっかりだし」
 この車内でも、マスカレードの話題は一つか二つ聞こえるくらいです。今回は作品数が多いとか、一つ数十万文字の大作が紛れているとか。先生の作品(暫定)の話題はまだ聞こえません。
「小野寺さん、夏部誌には出されますか?」
「うん。詳しくは、まだ決めてないけど」
「いいですね。編集なら、わたしが喜んで引き受けますよ」
「ありがとう」
 小野寺さんは少しずつ、文芸に適応しようと頑張っています。わたしも編集として、日々研鑽しなければなりません。この春合宿も、参加しないよりは絶対に何か得るものがあるはずなのです。先生に対するアドバンテージを手にしようと思います。

 ホテルは奥行きのある開放的なエントランスが印象的でした。部屋は五人部屋が三つあり、一つがわたしたちの女性部屋です。小野寺さんのほか、朝倉さん、二年目の黒沢さん、小宮さんがいました。比較的静かな面々です。
 荷物を置くと、二年目のお二人は早速温泉に向かいました。朝倉さんも、何やらコピー用紙の束を抱えて、男性部屋に行くと言って部屋を出ました。小野寺さんと二人になります。
「中津さんも行くの?」
「わたしは少し休んでから行きます」
「お茶飲む?」
「いいですね。お願いします」
 小野寺さんは備え付けのポットでお湯を沸かし始めました。一度遊びに出れば、落ち着く時間はしばらくないと思います。
「わたしは先に温泉に行こうと思いますが、小野寺さんは?」
「温泉。ゲームは、あんまり」
 お互い、座椅子にゆったりと座り、テレビも見ずにただくつろいでいました。しかし、まだお湯も沸かない頃、部屋のドアがノックされます。わたしが立ち上がりました。
「はい……おや、新井くん」
 コート姿の新井くんです。足元を見ると、外靴を履いています。
「中津さん一人?」
「小野寺さんもいますよ」
 一人かどうかを確認したいのはわたしも同じでした。本来なら、新井くんは朝倉さんや皆さんと何らかの遊びに興じているはずなのです。
「ちょいと散歩にでも出ようかと思ってな。梅森さんも来るけどどう?」
「朝倉さんは?」
「別行動や」
 新井くんは若干不貞腐れたように、ぶっきらぼうに答えます。何があったのかは、とりあえず触れずにおきましょう。
「なるほど……わたしも行きたいですが、少々お待ちを」
 言わずもがな、わたしは初めて合宿で一緒になった梅森さんに興味があるのです。梅森さんはわたしたちと同じ一年目ですが、最近までほとんど姿を見かけませんでした。幽霊部員から復帰しつつあるようです。
 わたしは部屋に戻りました。ちょうどお湯が沸いたようで、小野寺さんはお茶を飲み始めていました。
「これから外を軽く散策しようかと思うのですが、小野寺さんも来ますか?」
「寒いから、いい」
 即答です。さらにわたしは、座っていた座椅子の前に、既にお茶と温泉饅頭が用意されているのを見つけてしまいました。これを味わわずに出かけてしまうのは、いかにも礼を欠くことだと思います。心なしか小野寺さんの目線が寂しげに、「飲まないの?」と訴えているように感じます。
 ということで、新井くんには準備万端のところでしたが、少し待ってもらうことにしました。
「お茶を飲んでからでもよろしいですか?」
「ああ。じゃあ、こっちの部屋で待っとるわ」
 改めて座椅子に座り、まずはお茶で喉を潤します。これ自体はありふれたティーバッグの緑茶でしたが、ほどよく心を落ち着かせてくれました。
 饅頭は黒糖風味の皮にしっとりとしたこし餡の甘みが絶妙に嬉しいものでしたが、サイズは一口でも食べられてしまう大きさで、お茶の時間は割にすぐ終わってしまいます。
 小野寺さんは、ティーバッグを使いまわして二杯目のお茶を淹れようと試みていました。
「それでは、行ってきますね」
「何か面白いものがあったら、写真見せて」
「わかりました」
 わたしはコートを着込んで、新井くん、梅森さんと三人で外へ繰り出しました。

 ホテルは定山渓を貫く国道沿いにあります。新井くんの案内で、まずはその脇から、階段で谷のほうへ降りていきました。国道側の壁からはお湯が滝のように沸き出ており、わたしたちはその湯気の中へ入っていきます。
 そこで眼鏡を曇らせた梅森さんと、わたしは早速コミュニケーションを始めました。
「梅森さんは、この間の追いコンに参加されていましたね」
「そうだね。去年は全然来れなかったから、これから参加していくよ」
 写真を撮っていた新井くんも、会話に入ってきます。
「農学部、やっぱり忙しいですか?」
「俺は学科というより、サークルを掛け持ちしてたからね。そっちが忙しくて、色々両立するのが難しそうだったから、思い切って辞めちゃったんだ」
「そうだったんですね」
 後から確認したところ、オリエンテーリング部に入っていたようです。主に山林の中で、地図を頼りにチェックポイントを巡るウォークラリーゲームです。わたしの印象では都会的な梅森さんですが、意外にワイルドな趣味を持っているようです。
「新井は農学部に決まったんだよね。資源だっけ?」
「そうですね。なんとか行けました」
「新井くん、今なんと?」
 驚くべき新情報が出ました。新井くんは大学の制度上、この春にようやく所属する学部が決まることになっていましたが、それが農学部、しかも先生と同じ学科だというのです。
「中津さんには話してなかったな。俺、農学部に行くことにしたのよ」
「工学部の、情報工学科でしたっけ? そちらを希望されていたのでは?」
「まあ、色々考えた結果や」
 新井くんも先生も、春から同じ学科に属することになることをまだ知らないと思います。わたしはこれを先生に伝えるべきか否か考えましたが、答えがすぐに出るものではありませんでした。
 階段を降りると、石畳の坂道の途中に出ます。わたしたちはそこをもう少し下り、源泉公園に入りました。ここで、先生の湯あたりの呪いを解くことができます。冬囲いの施された植木には厚く雪が積もっていましたが、園路はしっかりと雪かきがされていました。
「ここ、温泉卵が作れるんですよね」
「中津さん、よう知っとるな。向こうの売店で卵買うてな」
 公園の一角には熱いままの源泉を引いた水槽があり、そこに生卵を沈めておけば、二十分ほどで温泉卵が出来上がるということです。ちょうど使用中で、梅森さんはその様子をじっくりと観察していました。
「二人とも詳しいけど、来たことあるの?」
「小さい頃に、何度か」
「わたしもあります」
 わたしの家でも、定山渓は日帰りでも温泉旅行が楽しめるので、よく来ていた覚えがあります。高級な旅館やホテルもありますが、やはりわたしにとっては、定山渓は庶民的な温泉街というイメージです。
 公園の反対側には広々とした足湯があり、定山渓の名前の由来となった定山坊の石像がそれを見守るように置かれています。足湯はホテルにもあるので、わたしたちは軽く見物するだけで、次の場所へ向かうことにしました。
 いくつかの河童の銅像を見ながら橋を渡り、左手のホテルの裏側へと入っていきます。その道の奥に、藻のような緑色をした、奇妙な人型のモニュメントが見えてきました。
「新井くん、あれが噂の……」
「かっぱ大王な」
 そこは公園のようでしたが、雪に埋もれており道もなく、ただその入口から眺めるしかありません。しかし、最奥に鎮座する「かっぱ大王」は、大きな存在感を持ってこちらを見つめていました。
「夏に来ると、この奥の吊り橋まで行けるらしいんやけども……今は無理やな」
「さすがに入れませんね」
 とりあえず、三人で写真だけ撮って引き返すことにしました。もと来た道を戻っていきます。
 ここまでで、新井くんはふと視界に入る多くの瞬間、楽しそうに見えました。しかし、例えばかっぱ大王の写真を撮った後の一瞬の間に、例えば梅森さんに場所を紹介した後の一瞬の間に、何か大切なものの欠落を感じさせたのです。心の底からは楽しんでいない。そんな感じがしたのです。
 直接的にそれをつつくのは意地悪なので、わたしは遠回しに、新井くんの心の隙間を覗かせてもらおうと思いました。
「ところで新井くん。小樽は楽しかったですか?」
「ああ。もっといろいろ行きたいけど、冬はどうしても場所が限られるし。もどかしい季節やで」
 もっと、朝倉さんと二人きりでいたい。そんな新井くんの独占欲を窺い知ることができます。
「中津さんたちは、櫓まで行ったん?」
「はい。先生は満足していたみたいですけど、あのキャンドルを見るなら、近くでなければよく見えないかもしれませんね」
「でも、近づくとめちゃくちゃ混んでるしなあ。そういう場所でまで、二人きりの世界には入れへん。だから、俺が調べておいたんよ」
「わたしたちは、そんな下心の成果のお裾分けを頂いたわけですか」
 夏合宿のときは多くの時間、行動を共にしていた二人でしたが、秋合宿、そして今回の春合宿と、だんだん朝倉さんのほうが、二人きりでばかりいることを望まなくなっているのだと思います。
 また橋を渡り、今度は最初に見た湯の滝を過ぎて、坂を上っていきます。
「鉄道の旅とバスの旅、どっちが好きですか?」
 その途中、新井くんがふと、そんな問いかけをしました。梅森さんが先に答えます。
「俺は鉄道かな。深夜のバスとか一回乗ったことあるけど、やっぱり疲れるよ」
「中津さんは?」
「鉄道の旅をあまりしないので、どちらが好きとは断定しにくいですが……バスの旅、嫌いではありませんよ。新井くんはどうですか?」
 わたしが促すと、新井くんも自身の旅行観を聞かせてくれました。
「鉄道派。やっぱり、鉄道のほうが時間は正確やから」
 そう前置きして、梅森さんにも向けて思わず長い話が始まります。
「この定山渓も、今はバスでしか来られませんけど、昔は鉄道が通ってたっていいますよね。それに一回、乗ってみたかったと思うわけですよ。まあ、世間の流れとして、鉄道は線路だとか踏切だとか駅舎だとか、あれこれ造って維持しないといけないですし、マイカーが普及した現代、採算が取れなくなって廃れるところがあっても仕方がありません」
 新井くんはさも当たり前の知識のように話していますが、実際その鉄道が通っていたのは数十年も前、まだ札幌の炭坑や石切り場が稼働していた頃の話です。
「北海道は、厳しい状況の路線が多いんですよ。身近なところでは、新十津川に行く札沼線ももう無いようなものですし……電車で気軽に旅行するのは、案外難しいんです」
「新井は免許持ってない?」
「まだ取ってませんね。まあ……そのうち」
 ちなみに新井くんの話していた定山渓鐡道ですが、この近辺にはもはや、駅舎の遺構や線路などが見られる場所はないようです。現在の温泉街からも、小樽のように古い時代の様子を想像することは困難です。
 話しているうちに、わたしたちは坂を上り切り、国道と合流するところまで来ました。そこには、願掛け手湯というものがあります。河童の石像の頭の皿からお湯を入れると口からお湯が飛び出てきて、それで手を清めつつ願を掛けるという場所のようです。
 新井くんの願い事は、わたしたちよりも圧倒的に多くありそうでした。わたしの願うことは、次の機会こそ先生と一緒にここへ来るということ一つです。

 ホテルに戻ると、女性部屋には黒沢さんと小宮さんが戻っていました。一方、朝倉さんと小野寺さんは温泉に向かったとのことです。ここに来て一人で温泉に入るのは寂しすぎるので、わたしは急いで後を追いました。
 二人で洗い場に居るところをすんなりと発見できたので、わたしはシャワーを浴びている二人の後ろを通り過ぎ、朝倉さんの側を選んで座ります。まだ声は掛けません。シャワーを浴び終えて、目の開くタイミングを狙います。
「朝倉さん」
「わっ、中津ちゃんか」
 無事、驚かすことに成功しました。朝倉さんは恥ずかしそうに眼を逸らします。先生のいない寂しさも紛れる、とても愉快な瞬間でした。
 ちなみにわたしは自分の体にコンプレックスがあるわけではありませんが、少しいやらしい話、朝倉さんも小野寺さんも、平均よりは明らかに豊満なものをお持ちです。コメディ的なノリなら、様々なスキンシップの標的になるところだと思います。しかし、わたしたち一年目の間では、あまりそういったノリが見られることはありませんでした。それがお互いに安心できる、程よい距離感なのかもしれません。
 人もあまり多くはありませんが、それ以上にとても広々とした浴場でした。とりあえず洗い場を出た後は、二人を露天風呂に誘ってみます。竹垣で囲われて外は見えませんが、上方には夕暮れ時の空が見えました。
 わたしは竹垣の側まで浴槽に入り込んで、ゆったりと脚を延ばしました。一方、朝倉さんと小野寺さんは控えめにも端に退いて、居場所を確保しています。
 何やら会話が始まったので、わたしもそれとなく近づいていきました。
「朝倉さん、さっき抱えてたの、原稿?」
「うん。マスカレードの作品、印刷して持ってきたの」
 ここに来て最初に、朝倉さんが男性部屋へ持ち込んだコピー用紙の束のことです。
「マスカレードって、出てくる作品が増えるのも大事だけど、その後読んで評価してくれる人がたくさんいないと、順位にもあんまり意味がなくなっちゃうんだよね。企画班でその対策を話してて、せっかくこの合宿では時間があるから、いつでも手に取って読めればどうかって案が出て」
「そうなんだ」
「しかし朝倉さん、今回はとても長い作品もあるようですし、大変だったのでは?」
「平塚さんも新井くんも手伝ってくれたし、大丈夫だよ。あの作品は早めに出してくれたから、それは助かったけど」
 ちなみに今回、作品数を増やすという意図で、小説部門も一人二作品までの提出が認められています。そのためか、作品数は二十の大台に乗っていました。
「今回、朝倉さんは何か書かれましたか?」
 朝倉さんの作品があったとしても、候補はあまり絞れていません。朝倉さんと言えばホラー系のイメージですが、ぴったり当てはまる作品がなかったのです。
「一応ね」
「なるほど」
「浦川ちゃんはどう?」
「先生は、もうバッチリですよ。一月くらいから、もうマスカレードの作品のことしか考えていなかったみたいなので」
 誇張に聞こえるような表現ですが、わたしは本気でそうだったと認識しています。良くも悪くも。
 そこで、小野寺さんがわたしに尋ねました。
「中津さん、さっき浦川さんの作品を、冒頭の一文字目でわかったって言ってたけど、どうやったの?」
「一文字目で?」
 ありがたくもバスでのわたしの愚痴を覚えていてくれたようです。朝倉さんは冗談だと思ったのか、笑いをこぼしながらわたしに好奇の目を向けてきました。正解は、残念ながら冗談です。意気込みとしてはこのくらいの直感力を持ちたいですが、やはり構造上の無理があります。しかし、場合によっては信じ続けてくれそうな小野寺さんの夢を壊さないよう、わたしはさらに嘘を重ねるのでした。
「まあ、一文字目を見ますよね。そうしたら、先生のセンスなら次にどんな言葉が続くのか、わたしはなんとなくわかるわけですよ。で、実際それがある。最初の一ページくらい読めば、ほぼ確信ですね」
「すごい……」
「それって、一文字目でわかったって言うのかな?」
「それは少し盛ってますけど、だいたいわたしは先生の作品なら、冒頭一文もあれば半分、一段落あれば九割の精度で特定する自信があります」
 朝倉さんはやはり苦笑していましたが、小野寺さんは純粋に感心してくれたようでした。ちなみに一文で半分、一段落で九割というのは本当に自信があります。それなので、全編読んでなお間違えるようなことがあれば、わたしは引退を通り越して切腹を考えるレベルです。

 三人で世間話などをしながらつい長風呂してしまい、上がった頃には間もなく夕食という時間でした。それにしても、皆さん各々のタイミングで温泉に行くなどはしていましたが、それ以外は終始ゲームをしています。企画班が用意したマスカレードの原稿はテーブルにまとめて積まれたまま、ほとんど手がついていないようでした。
 観光ホテル特有のバイキングを終え、部屋に戻った後も引き続きゲームが始まります。せっかくなのでわたしも参加させてもらいましたが、新井くんや大藤さん、平塚さんなどがそれぞれに持ち込んだゲームを梯子するうちに、あっという間に夜が更けていきました。
 気が付けば午後十一時を回り、三部屋あるうちの二部屋が睡眠部屋に決められます。そのタイミングで、女性陣では二年目のお二人が部屋に戻り、男性陣も年長者を中心に、半分くらいが退室します。
 夕食後はゲームに参加していた小野寺さんも、そろそろ部屋に戻るかどうか考えているようでした。
「小野寺さんは、この後どうしますか?」
「まだ眠くないけど……ゲームはもういいかな」
 そう言って、マスカレードの原稿の山から一作品を引き抜きます。そこに、新井くんが寄ってきました。
「次、また違うのやろうと思うけど、二人はどうする?」
「私はいい」
 小野寺さんは即答でしたが、私は少し悩みます。
「ちなみにどんなゲームですか?」
「豆を育てるやつや。中津さん、やったことなかったか」
 それは平塚さんが持ち込んだゲームで、前期の頃にはボックス席でもよく遊ばれていたようです。しかし、わたしは参加したことがありませんでした。
「ないですね……今から新しいルールを理解するのは大変なので、遠慮しておきます」
「わかった」
 こうして断ってしまった以上、わたしも実際、この部屋にとどまる理由があまりありません。寝てしまっても良い時間だと思います。それでもこのまま今日を終えるのはもう少し物足りない気がしたので、わたしもマスカレードの薄そうな原稿を抜き取りました。
「小野寺さん、そちらの作品は?」
「『夕暮れの水屋から』って、茶道部の話」
「ほう。なんとなく記憶にありますよ」
 冒頭を少し確認しただけでしたが、悪くない感触の小説でした。部活ものですが、中学校の茶道部という珍しい設定のため、若干気になっています。ちなみに先生の作品ではありません。
「中津さんのは?」
「これは……『桃郎』ですね」
「え、桃太郎じゃなくて?」
「『桃郎』です」
 締め切りのギリギリに投稿されたのか、わたしもまだ目を通していない作品です。用紙一枚の表裏で完結している掌編小説でした。一瞬誤植を疑ってしまうような奇妙なタイトルでしたが、冒頭はよく知られた『桃太郎』の語り出しです。
 小野寺さんも興味を示していたので、とりあえず本文を読み進めてみました。文字数にして四千にも満たない作品なので、五分程度で終わってしまいます。しかし、これは……。
「どう?」
 読み終えたはずが何もリアクションをできずにいたわたしに、小野寺さんが声を掛けてきます。どのように応じるべきかがわかりません。
「この作品……恐ろしく壮大なものを匂わせているのですが、アレです」
「ちょっと見せて」
「どうぞ」
 端的に言えば、技術の発展した現代の世界観で桃太郎の話をやるという試みなのですが、鬼の陣営に当たるのが、データサイエンスによって超越的な叡智を獲得し、高次元の存在となった人類らしいのです。
「えっ、これで終わり?」
 鬼の陣営によって物語そのものも攻撃を受けており、そのためタイトルも「太」を抜かれてしまったという奇抜な展開が描かれているのですが、その結末は残念ながら収拾がつかなくなり、「投げっぱなし」で終わっています。
「……まあ、わたしは粛々と評価させていただきます」
 今回、小説部門は作品数が増えていましたが、特におよそ一万文字以内の掌編から短編が多くなっています。その中にはもちろん然るべきまとまり方をして、十分に評価できる作品もありましたが、どちらかと言えば作品の軸となる発想を活かせずに終わってしまっている作品も多くありました。
 一応、掌編や短編はとりあえず最後まで読んでもらいやすいという大きなメリットがあります。難易度に関わらず、初心者に短めの作品が奨められるのはそのためです。しかし、これは読む側の都合です。
 本来は、初めてならば猶のこと、発想に見合う自然な文字数に落ち着くものなので、長さを気にして書くのはあまり意味がないと思います。それにしても、面白くなかったときに手抜きを疑われやすいのは、短い作品の不利なところだとわたしは感じたのでした。
 結局、その夜は何時まで起きていたのか、はっきりとは憶えていません。翌日も十時にはチェックアウトで、夏合宿はもちろん秋合宿と比較しても、驚くほど何も起きない合宿でした。これでは、先生に自慢話をするネタもありません。大半の人にとっては束の間でも非日常を体感することに意味があるので、それ以上のドラマを求めようもないのかもしれません。
 そして何故か、帰りのバスは新井くんの隣の席になりました。朝倉さんとはやっぱり「別行動」だそうです。二人の間に何があったのか、すっかり聞き出すタイミングを逸してしまいましたが、ちょっとした綻びが生じていることは間違いないようでした。先生には、そんなことを報告しても全く意味がありません。

 春合宿が終わってから一週間は、ひたすらマスカレードの作品を読んでいました。それをようやく終えて、評価とコメントをまとめ上げた頃、後輩の小池さんからメッセージが届きました。
『お久しぶりです。お元気ですか? 今回、晴れて天海先輩と唐澤先輩の合格が決まったので、祝賀会兼追いコンを開催します!』
 ちょうど、わたしたちの大学でも昨日、前期試験の合格発表があったと聞いています。このタイミングということは、二人のどちらかは国公立大学を受けていたのでしょう。しかし、日程は二日後の日曜日と急です。とりあえずわたしは一人でも参加するつもりで、返信を書きました。
『お久しぶりですね。わたしは出席します』
『素早い返信ありがとうございます!』
 今、突貫で話が進んでいるところなのだと思います。まだお店も決まっていないかもしれません。そんな小池さんに若干の心配はありましたが、とりあえずわたしは先生に連絡をしました。返信はすぐに来ます。
『小池さんから、祝賀会の案内は届きましたか?』
『届いたよ。唐澤はまたわたしたちの後輩になり、天海は東京に行くらしい』
 そういった報告は本人から聞くつもりでしたが、先生は待ちきれなかったようです。とはいえ、先生も無事に参加できるようでした。問題は染谷さんです。
『天海さんも唐澤くんも、進学が決まったみたいですね。日曜日に祝賀会をするそうなのですが、来られそうですか?』
 返信までは、お茶を一杯飲むくらいの間がありました。
『ごめんね、今回は帰れないんだ。でも良かった! 私からもお祝いメッセージ送るけど、会ったら私の分もおめでとうって伝えておいて!』
『了解です。必ず!』
 小池さんのほうでも比較的迅速に出欠確認が取れたようで、夜にはお店が確定し、詳細のメッセージが届きました。わたしはそのときから、懐かしむばかりでない、将来を向いた話題を考え始めていました。

 場所は鳴滝さんが見つけたという、小ぎれいなビュッフェスタイルのレストランでした。各々が料理や飲み物を用意したタイミングで、小池さんが音頭を取り始めます。
「今日は皆さんお集まりいただき、ありがとうございます。まずは料理を楽しみましょう! 天海先輩、唐澤先輩の前途を祝して、乾杯!」
 前回から半年以上の間があるわけですが、小池さんの背が大きく伸びているというサプライズはありませんでした。しかし、不安と緊張の中にあった前回と違って、大きな身振りには純粋な幸福が感じられます。鳴滝さんや波田さんも、自然に笑顔を見せていました。
 それにしても改めて驚くのは、唐澤くんがこの場に参加しているということです。乾杯のときには俯きがちに小さくグラスを掲げて、一見すると渋々参加しているかのように見えるのですが、よく見ると口元が綻んでいるのでした。隣の席の先生が、珍しく積極的に声を掛けます。
「唐澤。よく戻ったな」
 すると唐澤くんは、先生の顔をしっかりと見て頷きました。実際、感動的な光景でした。我を通そうとするばかりだった彼が、このような誠実さを見せるとは! 先生は続けます。
「文芸の道に終わりはない。わたしは唐澤が無理にそれを終わらせたがって、仮初の完璧を求め、繕い続けるのを見てきた。しかし、今ならそれを理解できるかもしれない。己の視界から文芸を消し去るのは、存外簡単なことだと思う。それでも、何かを表現することによって成し遂げたいと決めた原初の志は、どれだけ踏みにじろうと、土をかぶせようと、燃え続けたのではないか?」
 先生らしく遠回しな問いかけでしたが、わたしにはなんとなくその真意がわかりました。勧誘です。
 そんな意図が伝わったかどうかはわかりませんが、唐澤くんは一度頷いてから答えました。
「ああ。俺がこうして戻ったのは……文芸を、そしてこの文芸部を、投げ出したままでいられなかったからだ。その意味では、大会での成績がどうであれ、俺は満たされているはずだった。事実、大会が終わってしばらくは満たされていた。だが……時々、新たな作品の構想が浮かぶのだ。俺は、次は書かないという覚悟で、最後の作品に臨んだというのに」
 彼が大会に出した作品は部誌に載っていないため、わたしはその内容を知りません。隣の天海さんに、こっそり質問してみます。
「天海さん、唐澤くんが大会に出した作品は、どのようなものだったんですか?」
「絵が好きだけど上手くはない男の子が、ガールフレンドに振り向いてもらうために、頑張って絵を練習し続ける話ですね。まあ、ちょっと複雑な事情で生まれた作品でしたが……唐澤が珍しく自分の感情や、偽りのない意志と向き合って書いてたので、そこは良かったのかなと思います」
 タイトルは『折れない硬筆』だったそうです。紛れもなく強い意志を感じるタイトルです。
 さて、先生は唐澤くんの話を聞いて、いよいよ勧誘の言葉を掛け始めていました。
「わたしたちの文芸部に来てみないか? 良くも悪くも、気の向いたときに好きなだけ書ける場所だ。わたしには少し物足りないが……文芸を続けるつもりなら、一人でいるよりは間違いなく良い」
 先生がそれをどこまで本心で言っているのかは大きな疑問でしたが、意外にも真っ当な文句でした。しかし、唐澤くんはゆっくりと首を横に振ります。
「……俺などを誘ってくれることには、感謝しかない。しかし申し訳ない。俺はもう、文芸部に属することは考えていない。その代わり、何か違う経験のできる場所を探したいと思う」
「そうか。それも大事なことだな」
 わたしも唐澤くんの決意を、しっかりと聞き届けました。もはや、この先はわたしたちが心配することではないでしょう。先生も残念そうな表情を見せましたが、一瞬だけでした。
「天海は、東京へ行くのだったな?」
 先生は続いて、天海さんに声を掛けました。いつになく積極的なのは、今回が最後になるかもしれないと予感しているからなのだと思います。
「はい。実はもう、明後日には出発なんです。向こうのことはまだほとんどわからなくて不安ですけど、なんとか頑張ります」
「天海さんは、文芸を続けられるんですか?」
 せっかくなので、わたしも話に参加させてもらいます。
「あの、大学には文芸サークルがありそうなので、とりあえず覗いてみたいですね。文芸を続けるとしたら、今度はもっと大勢の書く人がいるようなところで、作品を見せ合ったりして楽しみたいです。フミ先輩やアキ先輩のサークルも、そんな感じですよね?」
 話の流れから、それは予想された逆質問でした。先生が先に答えます。
「他所がどうかはわからないが、必ずしも書き手ばかりが集う場所ではないらしい。書き手とも、読み手ともつかない、その他……モブのような部員もいる。多くの人間が集まれば、自然なことなのかもしれないがな」
 やや過激な表現に聞こえたので、わたしは補足を試みました。
「サークルって、結局は自分たちで目的を見つけて活動しないといけないんですよね。例えば大会とか目指すものがあって団結するのも一つですけど、大学の文芸サークルはその点与えられるものはなくて、自由なんですよ。だからむしろ、目的はサークル自体が持つというよりは、一人一人が持ち寄るものなのだと思います。それで、様々な立場の人が来ますし、必要なわけですよ」
「なんとなく、そうなのかなって思ってました。大学生って、基本的に自由じゃないですか。別の言い方をするなら……個人主義的ですかね。でも、色々な背景の人がいて、お互い自然に交流するチャンスを得やすい、貴重な四年間なんだと思います」
 さすがに好奇心の強い天海さんです。入学前にして、大学生活をかなり具体的に想像しているようでした。
「天海さんなら、東京へ行ってもきっと上手くやっていけますね、先生」
「そうだな」
 その後は、いよいよ受験生になる鳴滝さんや小池さん、そしてもうすぐ部長になる波田さんにも、意気込みを聞かせてもらったりしました。
 最後には、卒業した二人に、文芸部の引退のときには渡せなかったという色紙を渡す場面もありました。わたしは自分の卒業のときにはあまり寂しさを感じたり、それで泣いたりということはありませんでしたが、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら色紙を渡す小池さんを見ていると、ほんの少し、ほろりとしてしまうのです。

 楽しい祝賀会も終われば一瞬のことで、ついに別れの時が来ました。お店の前で解散した後、先生が少し外を歩きたいと言い出したので、わたしたちは大通公園を目指して歩き始めました。夜はまだ、冬と変わらない氷点下です。
「……残念、ですか?」
 いつもよりゆっくりな歩調で歩く先生に、わたしは寄り添います。
「これが自然なことだ。自然なことよりも残念なことがあれば、わたしは残念だと言おう」
 やはり先生は、どこかで二人のどちらかが大学の文芸部に来ることを期待していたのかもしれません。そうなれば、いつか話していた『フロンティア』に近づく原動力になったのだと思います。
 しかし、身内ばかりで過ごしていては、『フロンティア』を見つける意味すらなくなってしまうでしょう。わたしは、これで良かったと思います。
「新歓、頑張りましょうね」
「ああ」
 その辺りで、オレンジに輝くテレビ塔が見えてきました。大きな時計が二十時過ぎを示しています。だんだん、わたしもこのまま帰るには物足りない気分になってきました。先生に会うこと自体久しぶりで、話したいことがどんどん浮かびます。
「そういえば、今回のマスカレードは、優秀作品がインターネットで公開されるそうですよ」
「わたしは辞退するかな。部誌には出すが」
「それなら、いいですけど……ちなみに今回の作品、『ニューラルネット・イミテーション』ですよね? あの、AIの話です」
「正解だ」
 最近ニュースでも聞くようになった、AIと会話できる装置をモチーフとした小説です。あるAI研究者の男性が、知り合いの女性にAIプログラムの被験者になって欲しいと頼んでスピーカーを渡すのですが、それは女性を監視するために細工されたものだったという、現代的サスペンスです。
「今回は、どのようにしてこんな発想を?」
「チューリングテストという、AIを評価するための試験法があってだな。人間が何か問いかけをして、AIと別の人間がそれぞれ返答をする。そこで、問いかけをした者がAIの返答を看破できなければAIが合格というものだ」
「高度なAIは、人間と区別がつかないということですね」
「ではそこで、AIがいつの間にか人間とすり替わったらどうなるか。人間がAIに扮することもできるのではないか。そう考えたのが始まりだ」
「なるほど……タイトルも、AIの用語から来てるんですよね?」
「そうだな。まあ単純に、AIに擬態することを指したタイトルだがな。一応、そういう用語については四年目に詳しい人がいたから、取材させてもらったが」
「隠遁とか言いながら、そんなことはしてたんですね?」
「それは必要なことだ。情報工学は専門外だからな」
 そこでふと、情報工学からの連想で浮かんだのが新井くんでした。わたしから先生に学科のことを伝えるチャンスは、今日が最後だと思います。次はマスカレードの発表会で、新井くんが直接先生に話しに来ることでしょう。それを考えると、やはりわたしから伝えておくほうが先生に優しい決断だという結論に達しました。
「そういえば、新井くんが工学部をやめて農学部に進んだんですよ。先生と同じ学科らしいんですけど、知ってました?」
「なんだと、初耳だ。本当なのか? 生物資源科学科だぞ」
 案の定、先生は動揺してしまいました。わたしは淡々と事実を伝えます。
「はい。間違いありません」
「それにしても、どうして」
「それが、わたしにもわからないんです。考えた結果だとは言ってましたが、実際は何を考えたのか……」
 ちなみにわたしのほうは、結局のところ表現文化論講座を選びました。朝倉さんや星井さんも、それぞれ当初の希望と変わらない講座を選び、無事に配属されたそうです。四月からは、いよいよ専門の授業が始まります。
「文系棟と農学部だと、まあ近いほうですかね?」
 文系の四つの学部は、文系棟と呼ばれる増改築を繰り返したかのように複雑な建物に集まっています。場所は構内のやや南側で、メインストリートを挟んだ向かいが理学部、その南側が農学部です。教養棟やボックス席のある北部食堂は遠く、歩いて十分くらい掛かります。
「そうだな。だが、農学部は食堂を持っているから、昼には会わないかもしれないぞ」
「中央食堂とか、会いに来てくれてもいいんですよ?」
「あそこは狭いし、昼休みは混むだろう。あまり行きたくはない」
「では、交流会館にお弁当を持って集合はどうでしょう」
「そのくらいなら、気が向いたらな」
 わたしたちはそんなふうに、テレビ塔の下でしばらく話し込んでいました。

 家に帰ってから、わたしはふと、大学を卒業して先生とお別れするときのことを考えました。それはもう、今日の小池さんよりも泣きじゃくってしまうくらい寂しいことですが、逆に、思いのほか前向きな心境で、寂しがらずに別れられる可能性もあると思いました。
 それは、残り三年でわたしが何を成し遂げるかで決まるものです。この一年、わたしは自分の優柔不断さに気付きながら、周囲の人に付き合い、ペースを合わせることばかりの立場に甘んじていました。
 だから、もっと主体的に。最高の編集として先生との約束を果たすためには、もっと経験を積む必要があります。三年後のその日に、悔いの残らないように。

十一 秘花

 薄暗く、圧迫感のある居酒屋でした。小上がりの広間の中央に立たされ、下級生から上級生までおおよそ四十人を前に、わたしはまさに自己紹介を求められたのです。
「文学部の中津文子といいます。出身は札幌です。どうぞよろしくお願いします」
 学年は敢えて言いませんでした。拍手が起こる中で素早く一礼して、自席に戻ります。交代で和泉さんが立ちました。
「理系一年の和泉恭子です。九州出身で、スキーは全くの未経験ですが、説明を聞いてちょっと楽しそうだなって思いました。今日はお世話になります!」
 彼女がごく自然に嘘をついたことに気付けたのは、恐らくこの場でわたしだけでした。
 わたしたちはこの四月から、間違いなく二年生になったのですから。

 話は五限目に遡ります。わたしと和泉さんは、いつものボックス席で来訪者に応対する当番になっていました。一年生は本格的に授業が始まって数日で、周囲のサークルでは盛んに客引きや呼び込みが行われています。教科書を買いに来る人も多く、このフロア全体の人口密度が高まっていました。
 それにしても、文芸部のボックス席に訪れる人は、今のところ一時間に一グループ程度だそうです。周囲を見ると不安になる数字です。
「わたしたちも、道行く人に声を掛けたりした方がいいですかね?」
「別にいいんじゃない。うちなんて、説明会に来てもらえれば十分だし。八戸さんならやれって言いそうだけどね」
 和泉さんは脚を組んで、スマートフォンでゲームをしながらくつろいでいます。わたしの感じているような緊張感はなさそうです。
「今週は金曜日、来週は木曜日、その次は月曜日でしたっけ」
「よく憶えてるね。今週のしかわからん」
 そんな小さな会話がいくつかありましたが、正直に言えば退屈な時間でした。わたしも文学部の時間割表やシラバスを眺めて、履修の計画を立てるくらいしかすることがなかったのです。
 来訪者もないまま、五限の終わる六時が近づきます。そんなとき、和泉さんがこんなことを言い出しました。
「なあフミ。タダ飯食いに行かね?」
 サークルの新歓説明会では大抵、食事会が併せて開かれます。大きめの体育会系サークルなど、場所によってはかなりのご馳走が振る舞われると聞いています。そこに潜入しようという話です。
「それは大丈夫なんですか?」
「何も問題ない。逆にさ、文芸部の説明会にも、明らかに入る気のなさそうな二年生、三年生とか来るじゃんか。フミはそういうの、何とも思わないでしょ?」
「入る気がないと決めつけるのは、どうかと思いますが……」
「うわ、超純粋かよ」
 そもそもわたしは実家暮らしで、夕食の心配をする必要もありません。それなのに他所のサークルへお邪魔するのは、やはり気が進みませんでした。ところが、和泉さんは諦めてくれません。
「でも二年目になったんだから、新歓はそういう綺麗事ばっかりじゃないってこと、知らなきゃダメだな。勉強だと思ってさ。フミ、勉強好きだろ?」
「……わかりました。お付き合いします」
 和泉さんの狙い通り、「勉強」という表現がわたしには深く刺さりました。振り返れば去年も、文芸部以外の説明会には参加しなかったのです。新歓をよく知らずに上年目になってしまったわたしは、和泉さんの言葉によってわかりやすい動機と正当化を得てしまいました。
 こうして今に至ります。潜入したのは、大学に四つあるスキー部の一つでした。冬にしか本格的な活動のできない競技ですが、説明会では夏の間のトレーニングなども紹介されており、活動内容の透明性があった印象です。
 居酒屋までの道中、部員の方ともお話して少し楽しくなっていたわたしでしたが、いざこの席に着くと、徐々に罪悪感が台頭してきました。なんと振る舞われたのは、ホタテやカニも入った豪華な海鮮鍋だったのです。飲み放題も付いていて、文芸部と比較すると五倍もの予算が推定されます。
「今日はどんどん食べてね」
「もう時間割組んでる?」
「他の新歓も行ってみるといいよ」
 遠慮して箸の進まなかったわたしを見て、部員の方々はあれこれ話題を振ってきたり、大学生活のアドバイスをくれたりもしました。それはサークルの勧誘というよりは、上級生による入学祝いの意味合いが大きいのではないかと思いました。それでいて新入生以外も拒まず、誰であろうと全力で歓迎する、一種のプロ意識を感じます。見学に来た人は三十人ほどいましたが、その何人が入部するかなどということは、誰も気にしていないのだと思います。

 結局わたしは満足するまで海鮮鍋を頂いて、和泉さんと一緒に帰途に就いたのでした。
「どうだった? 誰も詮索してこなかったでしょ?」
「はい……それにしても、堂々と学年を詐称するのはどうなんですか」
「どういう設定で紛れ込むかも楽しみの一つだから」
 慣れているだけのことはあります。
「あそこは去年も行ったけど、一年経てば誰も顔なんて覚えてないし。要するに新歓って、半分はああいう宴会を開くための口実だってこと。祭りよ」
「はあ……」
 わたしはその考えに、まだ完全には賛同できませんでした。ただ、迎える側も祭りのように開き直っていなければ、あそこまでの宴会を何度も開くのは難しいと思います。
「まあ、うちの新歓費じゃ絶対無理だけどね。あれが必ずしも良いとも言わないし」
「そうですよ。わたしたちが破産してしまいます」
 ちなみに文芸部は、部費が半期二千円で、新歓時期には食事会を開くための費用を、新歓費として七百円程度徴収しています。これでも安いほうだとは聞いていましたが、今日はそれが実感できました。
「部誌制作を除けば、基本的に文芸はお金が掛からない趣味ですよね。それが、サークルになった途端に必要以上の経費が掛かるのでは、人を遠ざけてしまうのではないでしょうか」
「元々倹約家の人が多そうだし、部費を上げるとかは余程じゃないと難しいね。今も正直、余ってるし」
「なるほど……」
「あたしが作った会計報告見てないだろ?」
「すみません」
 それは数日前に、メールドライブで共有された報告書です。わたしも高校時代に会計をしたのでわかりますが、文芸部には部誌や傑作選の用紙代、印刷代くらいしかありません。部費の徴収状況も知っていたので、報告書を細かく見るまでもなかったのです。ちなみにこの部は黒字会計続きで、繰越金が部誌二回分くらい貯まっています。あるお金の使い道が見つからないというのも、もどかしいものだと思います。

 翌日は四月にしては暖かく、雪解けもラストスパートを迎えているようでした。そんな日の昼下がり、わたしは先生から、昼食持参で農学部の南棟の出入口に来るようにとメッセージを受け取りました。
 行ってみると、先生は去年も着ていたような全身灰色ルックで佇んでいました。
「お疲れ様です。今日はどうしてここへ?」
「良い場所を見つけた。行こう」
 普段より上機嫌です。その理由は様々に想像できますが、「学科の人間関係から離れられるから」とか、変な理由でなければ良しとしましょう。
 わたしは先生の見つけた「良い場所」も気になりましたが、農学部に近づくのも初めてだったので、コの字型になったその建物を見回しました。この大学で最も古い学部ですが、建物自体は改修が繰り返されているためか、古そうな感じはしません。人通りは少なめですが、正面玄関の前には、何やら大縄跳びをしている集団が見えました。
「先生、農学部はどうですか?」
「授業は面白いぞ。農場での実習もあるんだ。初回は、ハーブの種まきだったが」
「学科の友達はできましたか?」
「……まあ、これからだ」
 やや不安な返答です。学科が決まった今ここで周囲との関係を築けなければ、残りの三年間が挽回不能なほど無味乾燥になってしまう可能性があります。
「学科の人の名前くらいは覚えないと、本当に取り返しのつかないことになりますからね」
「名簿を作るらしいから、それでどうにかする」
「その前に話し掛けたりして、コミュニケーションを取るんですよ!」
「新井だって似たようなものだ」
「先生はそれでいいんですか?」
 他人との交流に関しては相変わらずマイペースで気まぐれです。どんな追及をしても回避されてしまいます。
「まあいい。着いたぞ」
 わたしは次のアプローチを考えようとしたところでしたが、目的の場所に着いてしまいました。何も考えずについて来てしまいましたが、何かの建物の脇から、通路なのかも怪しい砂利道を通って裏手に入ったところです。
「こんな場所……やっぱり世捨て人ごっこじゃないですか!」
 そこには円形の四阿が一つあるだけでした。ベンチやテーブルがあり、汚くはありませんが、誰も寄り付かなさそうな度合いはシーズンオフの花木園を大きく上回ります。
「わたしだって、ここには三日に一度くらいしか来ていない。それに、目的もある。今度また来るときのために、この風景を覚えておくといい」
「そう言われましても……」
 さらに奥、建物の真裏の空間には、まだ葉も付いていない二メートルくらいの樹木が点々と植えられています。先生は恐らくその木のことを言っているのだと思いますが、わたしにはあまり興味がありません。
「というかわたし、三限がボックス番なので、あまり長くは居られません。お昼食べちゃいましょう」
「そうだったのか」
 ちなみに先生は、ボックス番にわたしの半分くらいしか入っていません。時間割を見せてもらうと空きコマがたくさんあるのに、まあ怪しいです。とりあえず今日は気にせず、持ってきたサンドイッチを口に運びます。先生は、生協で売っているようなおにぎりを二個持ってきたようです。
「文学部はどうだ? 授業は今週からだったか」
「まだ今週はガイダンスですね。でも面白そうな授業はありますよ、現代詩の鑑賞をする授業とか」
「さすがに文学部だな」
 しばらく、互いの学部の話をしていました。初めは陰気な場所に見えたこの秘密の庭でしたが、慣れてくると今日の暖かさもあり、時間を忘れて留まってしまいそうになります。
「それにしても、静かな場所ですね……たまにはこんな場所でのんびりするのも、悪くないですか」
「そうだろう。この学内で、人のいない場所を探すのも大変だからな」
「それはわかります」
 しかしながら、わたしはそろそろ出発しなければ、ボックス番に間に合わなくなってしまいます。
「……もう時間ですね。そう言えば先生、新歓向けの作品はどうなりましたか?」
「ああ。先週完成したのだが、いつものメールドライブでは見学者の目に触れないだろう。どうしたものかと考えていてな」
「印刷して、ボックス席に置くのはいかがでしょう?」
「そうだな。次の当番のときにでも持って行こう」
「今日は入っていないんでしたっけ?」
「入っていない。授業もないし、帰って次の作品でも書くよ」
「わかりました」
 その場所が何なのかは結局あまりわかりませんでしたが、もう一度来るくらいなら悪くないと思いました。

 北部食堂の二階には裏口があります。表から入ろうとすれば、三限の授業へ向かう人と、それを狙った勧誘の人の入り混じる中を抜けなければなりません。一応、文芸部もそのような場面で配るビラを用意していますが、公式にビラ配り係が設けられてはいませんでした。
 ボックス番は朝倉さんと一緒です。わたしが行ったときには、一人で何かの教科書を読みながら番をしていました。
「お疲れ様です」
「中津ちゃん。お疲れ」
「一人ですか?」
「さっきまで、五人くらいいたんだけど」
 わたしはその全員と、すれ違うこともなく入れ替わりになってしまったようです。一応、ボックス番のときは見学者が来やすいように、四人以上で長時間溜まらないという不文律があります。
 テーブルの上も片付けられていましたが、説明用の資料を入れたクリアファイルの他に一冊、コピー用紙をホッチキスで綴じた冊子のようなものが置かれていました。
「これは?」
 手に取ると、その表紙には見慣れた癖字で『ウサギは百回も跳ねない』というタイトルが書かれていました。作者名は「朝村千草」とあります。よく似たペンネームの同期を一人だけ知っていますが……。
「新井くんの新作。昨日からかな。新入生に活動をアピールするために置いたんだって」
「ペンネーム変えたんですね」
 タイトルの下には、いくつかの説明が書かれていました。曰く「コメディみたいな短編です」と。その下には「見学者の方もぜひ」と書かれたところが、二本線で消されています。
「新井くんがコメディですか……得意そうには見えませんが」
「高校のときに似たような作品を書いたことがあるって言ってた」
「高校の、随分引っ張りますねえ」
 それにしても、面白ければ問題はありません。既に不安要素が見えてしまっているわけですが、わたしは目を通してみることにしました。
 物語は高校生の女子が誕生日に、趣味仲間らしいクラスメイトの男子に自作のアクションゲームをもらうところから始まります。彼女は早速それを遊んでみて、最初は好きなウサギが主人公、程よい難易度、ご褒美イラストもあるなどの要素に引き込まれていくのですが、後半になると仕組まれたドッキリ要素が次々と明らかになりさあ大変。憤慨した彼女は製作者の男子を捕まえて、ゲームの内容にちなんだ「ウサギ跳び百回」のお仕置きをするのでした。
 一応、パロディネタらしいものが散りばめられてはいましたが、率直に言って、コメディと言い張るにはベースの雰囲気が固すぎます。文体が『彼の世は幻想の園』と同じなのです。それでいて独特の剽軽な描写などもなく、状況も単体で笑えるようなものではなく、仮にこれを合評に出したならば、また大変なことになる予感がします。
 冊子の最後には半分の大きさの用紙が綴じられており、感想を寄せ書きできるようになっていました。しかし、あまり好印象の感想はありません。
『ちょっと単調。笑い所がわかりにくい。篠木』
『コメディ要素が判りませんでした。高本』
『ゲームはゲームで表現したまえ。大藤』
『夏部誌出してください。八戸』
 このレベルで済んでいるのは、ある意味では媒体選びの妙と言えるでしょう。わたしは紙面さえあればもっと辛辣なことを書きそうな人を何人か知っています。
「この感想、新井くんはもう知ってるんですかね?」
「どうだろう。私はこの前、最初に読ませてもらったんだけど、そのときには新井くんの書きたいものもわかったし、面白いねって言っちゃったから……そういう感想になるのは、私も今になって気付いた。期待させちゃったかも」
 不幸にも朝倉さんが、新井くんの良き理解者であったために……。わたしは何かフォローするような感想を書くべきかと迷いましたが、そもそも新井くんの作品がこのようになってしまうときは、客観的に褒めるところがほとんどないのです。無自覚にここまで失敗できるのが逆に羨ましいほどです。
「せめて、率先して活動をアピールしようとしたことは認めてあげたいところですね」
「うん……」
 この後先生がここに作品を置いたら、新井くんの作品は見向きもされなくなってしまうでしょう。それならば、酷評ばかりであっても読まれて感想をもらえるほうが、まだ本人のためになるかもしれません。

 その後、わたしは朝倉さんにも時間割を見せてもらいました。講座が違っても共通する授業はあり、空きコマの場所もわたしと似通っていました。しかし、朝倉さんは冬休みから塾講師のアルバイトを始めたうえ、三月からは自動車学校にも通っているとのことで、かなり忙しそうです。ちなみに先生には、そういった事情があるとは一つも聞きません。
「こうなると、どうしてもサークルの優先順位は低くなってしまいますよね」
「でも、なるべく時間を作って参加したいと思ってるよ。夏部誌にも出せそうな作品があるから、一回は参加してみたい」
「部誌に関することなら、何でも協力しますからね」
「ありがとう」
 様々なやりたいこと、やるべきことがある中で、すべてを積極的に両立させることはなかなか大変です。それでも挑戦しようとする朝倉さんには、頼もしさを感じました。
「あの、すみません」
 そんなとき、一人の女性がわたしたちに声を掛けてくれました。真ん中で分けられた前髪と、縁の細い眼鏡。可愛らしくも知性を感じる顔立ちが印象的です。どこかで見覚えのあるような気がしましたが、はっきりとは思い出せません。
「文芸部について、ここで説明会をしていると聞いて来ました」
「はい。ありがとうございます。そちらへどうぞ、お座りください」
 わたしが案内をする間に、朝倉さんがクリアファイルから資料を取り出し、彼女へ手渡してくれました。
「まずは自己紹介をば。わたしは文学部二年の中津といいます。この部では、読んで編集する役回りです」
「同じく文学部二年の、朝倉です」
 わたしたちが名乗ると、彼女はしっかりと背筋を伸ばして自己紹介を始めました。
「文学部一年の橋上恵といいます。間違っていたら申し訳ないのですが、中津さん、豊橋高校文芸部の部長をされていた方ですよね?」
「おや、憶えていてくださったとは。橋上さんは、どちらの高校でしたか」
「三沢高校です。詩を主に書いていました」
 校名を聞いて、わたしも橋上さんに関する断片的な情報が、頭の中でようやく一つになりました。
「確か……噂に聞いたことですが、地区大会で、最優秀賞を獲られた方ですか?」
「はい。自分で言うのも、恥ずかしいですが」
 三月の追いコンのとき、波田さんがその詩について話していたのでした。地区大会とはいえ、最優秀賞は大変な名誉です。入部してくれたなら、間違いなく期待の新人です。
 嬉しいことに、橋上さんは文芸部への入部をほぼ決めていると言います。そこでわたしたちは、資料による事務的な説明は程々に省いて、少し踏み込んだ話をすることにしました。放課後の説明会で配布する冬部誌も渡してしまいます。
「現状、詩を部誌に出す方はあまりいないので、橋上さんをきっかけに、活性化していくかもしれませんね」
「やっぱり小説のほうが、取り組みやすいんですかね」
「そうですね。企画では、短歌や俳句も出てきますよ」
 そこで橋上さんは、部誌のある作品の扉絵のページで手を止めました。『ラッキーアイテム』です。
「あの、この作品の浦川さんって、豊橋高校の浦川秋さんですか」
「先生のこともご存知でしたか」
「『イモータル・エフェメラル』、今でも思い出せます。私はそのとき一年生で、ただただ憧れていました」
 これはもう、先生も知らないふりはできないでしょう。二人の対面が今から楽しみになります。
「朝倉さんは、何か作品を書かれるんですか?」
 次に橋上さんは、すっかり聞き役になってしまった朝倉さんに質問を始めました。
「部誌に出したことはないけど、企画で小説をいくつか書いたかな。こういう場所で集まって喋ったりとかも楽しいよ」
「高校文芸部と違って、書いて部誌を作ることが全てではないということですね」
「わかりました。ところで……それは何ですか?」
 その辺りで、橋上さんはだいたいの疑問を解決したのでしょう。ついに、関心がテーブルの上に残された新井くんの作品に向きます。わたしはとりあえず、真っ先に原稿を取り上げます。
「これは……このボックス席が普段から部員の溜まり場になるんですけど、誰かに作品を読んでもらいたい人が、こんなふうに原稿を置いていくんですよ」
「では、合評とか企画とか、部会の他にも交流できる場はあるんですね」
「そうですね。書いた作品はインターネットで共有しているので、いつでも読んでもらえますし」
 新井くんの作品は「見学者の方もぜひ」の文言が消されている以上、独断では見せられませんでした。新井くんの名誉のためにも良くありません。本人だったら、気にせずに読むのを勧めると思いますが。
「いろいろお話聞かせてくださって、ありがとうございました。そろそろ失礼いたします」
「こちらこそ、ありがとうございます。よろしければ放課後の説明会にも来てくださいね」
 橋上さんを見送った後、わたしは新井くんの作品をクリアファイルの中に隠しました。聞こえの良い言い方をすれば、避難させました。

 聞いた話によれば、ボックスを訪ねてくれる人は徐々に増えているようです。恐らく、教養棟の各所に根気よく貼っている宣伝ポスターが効いてきたのでしょう。そして、期待の膨らむその週の放課後の説明会では、二十人ほどの見学者が来ていました。
 交流タイムが始まると、黒沢さんが高本さんや江本さんと、何かの相談を始めました。わたしも首を突っ込んでみます。
「何か問題発生ですか?」
「人数が多くて、予定していたところの予約が取れなかったんです」
 先週の第一回説明会では見学者が十人ほどで、部員を合わせても二十人分の席があれば足りました。しかし今回は、合計で三十人になります。他の団体も競合する中で、席の確保に失敗してしまったということです。
「こうなれば三十人でというのは無理があるから、半分くらいずつ分けるのはどうかな」
 さすがに江本さんは、このくらいでは動じません。とても現実的な案でした。
「そうしましょう。十五人ずつで、二箇所の予約を取れませんか」
「わかりました。やってみます」
 高本さんが素早く判断し、黒沢さんが動き出します。こうなれば、わたしが心配する必要はないように思えました。
 一方で、半分の見学者の方とはこの時間しか話せないということに決まったのです。そのうえ今は部員のほうが少なく、ただ待たせてしまっている方も見受けられます。その中には橋上さんもいました。勧誘した者の務めとして、声を掛けに行きます。
「橋上さん。来てくださったんですね」
「こんばんは。部長の高本さんや、他の方ともお話できればと思いまして」
「ありがとうございます。でも今日は部員の人手が足りず、ご期待に沿えないかもしれませんね。すみません」
「いえいえ。説明会が賑わうのは、サークルにとって良いことですので」
「では、わたしはここで」
 ある意味大学生らしからぬ慎ましさに感心しながら、わたしは次の方へと移ることにしました。
 何人かに話し掛けてみましたが、学部も出身も様々で、改めてこの大学の大きさを感じます。とはいえ、文芸部とは結び付かなさそうな方がいたのも事実でした。
 山田と名乗った寡黙な男性が、その中でも印象に残っています。
「文芸部にようこそ。わたしは文学部二年の中津です。所属はどちらですか?」
「理系一年、山田」
 名札にもそれだけしか書いていませんでした。ホッチキス留めの資料は机の上に放られ、折り目も付いていません。しかし、彼は何かを物色するように、じろじろとわたしを見つめます。
「……もうすぐ食事会へ移動しますので、少々お待ちくださいね」
 居づらくなって、つい逃げてしまいました。その後も観察していると、彼は男性からの問いかけには全く応じていませんでした。八戸さんなどはそれでも興味を引こうとおどけてみたり、寮の変わった人の話をしたりしていましたが、彼は全く興味を示しません。一方、女性にはあの目を向けて、場合によっては話をしたりもしています。特に星井さんとは長く話していましたが、星井さんは終始困り果てた様子で、周りの部員に目線で助けを求めていました。気付きながら助けることができず、わたしは申し訳なく思います。
 結局その日はそれが全てで、その後の食事会でも誰と何を話したのか、ほとんど記憶に残りませんでした。帰り道に一緒になった大藤さんも、彼のことを怪しく思っていたようです。
「なんかさあ……明らかに出会い目的の人いなかった? 山田とかいう」
「いましたね。所属や名前も、本当なのかどうかはわかりませんが」
 大藤さんがこうして陰口のように言うのは相当なことです。
「八戸が話し掛けても無視してたのに、星井とか黒沢には言い寄っちゃって」
「でも、向こうではもう悪だくみもできないですよ」
 あの後、三年目メンバーで急遽対応が話し合われ、食事会は見学者を男女で別々の会場に分けることになりました。彼は今頃、男性しかいない会場で味のしない食事を摂ったことでしょう。
「ああいうのは、どこにでもいるらしいけどね」
「新歓の闇ですか」
 自分を正当化するわけではありませんが、これならばただ食事目当てに来ただけの方も、幾分歓迎する気になるというものです。新歓は祭りだとしても、無礼講というわけではないでしょう。当然、暗黙のルールやマナーが双方にあるのです。

 そんな話を報告すると、さすがに和泉さんも眉をひそめました。
「下種だね。星井からも聞いてたんだけどさ」
「そうだったんですか」
「まあでも、所詮は学生サークルの運営でさ、強い対応なんてできない。基本的には自己防衛だよ」
 和泉さんの隣では、先生がもの言いたげに目線を泳がせていました。四限のボックス席です。先生はただ印刷した作品を置きに来たところで、このような話を聞くとは思っていなかったのでしょう。
「人数多かったんでしょ?」
「はい。二十人は来ていましたね」
「そういうのに当たる確率も高くなるさ」
 気分を紛らわすためか、和泉さんは置かれたばかりの先生の作品を手に取りました。『春は霞』というタイトルです。わたしも未読で、内容が気になります。
「アキは夏部誌出すの?」
「ああ。それか、マスカレードに出したものだな」
「今回はあたし出せそうにないから、頼むわ」
「和泉さん、一緒に読みませんか」
「フミはいつでも読めるでしょ。待て」
 犬のように「待て」を命じられたわたしは、手持ち無沙汰に新歓用のクリアファイルを引き寄せました。その中には新井くんの作品も入っていますが、また別に、四ページほどの作品が入っていました。
「こんなところに、大藤さんの作品が」
「ああ、置くって言ってたわ。新井に煽られてさ」
「またそんなことが……」
 聞けば新井くんは、作品を置いたときには「どうせただメールドライブに上げても誰も読まないだろう」と主張し、果たして酷評まみれとなった感想欄や、消された「見学者の方もぜひ」の文字を見ても「競合がいなければこれがこの部の事実だ」と姿勢を曲げなかったそうです。
「結局さ、あいつ冬部誌のときから全く反省してないよ。むしろ開き直ってる。作品数は出せるって言っても、外に向けて質の低いものを出せないのは当たり前じゃんか」
「そうですね。そのための編集ですし」
 和泉さんの物言いは相変わらず辛辣でしたが、否定はできませんでした。
 そこで思い出したのは、この前の土曜日にあった不定期の合評のことです。マスカレードの作品を中心に六作品が持ち寄られ、それぞれについて短いながらも活発な意見交換がされました。
 そこに新井くんが持ち込んだのは、『夕暮れの水屋から』という茶道部を舞台にした作品でした。これがなんと、朝倉さんとの合作だったのです。しかし新井くんの我が強すぎたせいか、ストーリーには起伏が少なく、メインメンバーの個性が乏しく、それでいてやや長いという問題点ばかりが目に付く結果になってしまいました。
「これさあ、先輩の女子四人組、削ってもいいでしょ?」
 そこで最もクリティカルな指摘をしたのは、我らが大藤さんでした。
「しかしですよ。この四人で、三年生はフルメンバーなんです。先輩の視点からも話が語られる構造で、出さないわけにはいかない。より少なければ、今年度がいよいよ廃部の危機という感じでもなくなる」
「だったらさ、もっとこの四人に個性出すとか、読んでて楽しい雰囲気を出すとかしないと」
 言わずもがな、それが「できていない」という指摘です。新井くんは言い返さずに目を背けましたが、明らかないら立ちを見せていました。
「ここは、私も上手く書けなかったのもあるので……」
 朝倉さんは健気にもフォローに回ります。意外だったのは、それを八戸さんがさらにフォローしたことでした。
「でも、僕はこの作品、合作として失敗していないのがすごいと思う。話の筋は一応通ってるし、設定の矛盾とかもない。文体も合っていて、合作だと言われなければ気付かなかった。僕は企画で小宮とか、高本とも合作したけど、上手く行かなかったよ」
 大藤さんは納得したように頷きます。メールドライブに作品が残っていたので目を通したのですが、確かに連携の取れていない様子が認められました。三人とも、題材選びから文体に至るまで筋の通ったスタイルを持っている書き手です。企画の短い期間で書いたことを考えても、すり合わせが充分にできなかったのでしょう。
 ともあれ、ここで合作としての作品が評価されたのは、新井くんにとって大きな救済でした。幾らか態度を軟化させて、制作の背景について語り始めます。
「この作品、去年の十月くらいから構想してたんです。冬部誌が終わった後から書き始めて、交代で執筆して三か月くらいですね。まあ……結果的には私の書いたパート、後輩視点のほうが大きくなりすぎて、物語としてはバランスが崩れてしまった面もあるかもしれません」
 それを聞いて、わたしにも一つ、アドバイスをできそうなところが見つかりました。
「新井くんは、時間を掛けて長い作品を書き上げることができますよね。でも、書き上げたところで止まりがちです。全部が不可侵的な思い出になってしまうような感じで、手を入れるのも苦手ですよね。そのときしっかりと作品を見つめることができれば、実力も伸びると思いますよ」
「……わかった。ありがとう」
 それは新井くんの癖のようなもので、すぐに治るものでないことは明らかでした。それでも反省して修正することを繰り返していけば、必ず良い方向へ向かうと思ったのです。
 しかし……どうやら新井くんは、反省をするのも苦手なようです。

 本人は当番のため、五限に現れました。交代で和泉さんと先生が帰り、わたしたちは二人きりになります。
「見学者来とる?」
「前の時間は来ませんでしたね」
 状況を確認して、間もなく新井くんは先生と大藤さんの作品を見つけました。
「これは……浦川さんまで」
 本当に作品が出てくるとは思っていなかったのでしょう。苦々しい表情です。
「新井くん。自分の作品に対する評価は、しっかり受け止めないとダメですよ」
「まあ、こうなったら『ウサ百』はもう下げるしかないな。でも、俺がこうして作品を出さなければ、こういう場での公開とか、新歓の宣伝アプローチについて議論されなかった部分もあるやろ。計画通りの範囲内やな」
 この行き当たりばったりなところも、相変わらずです。
「先生も、去年の冬くらいから新歓に作品を書くって話してたので、新井くんに触発されてではありませんよ」
「ほう。さすがは浦川さん。考えることは同じやで」
 先生が聞いていたら間違いなく拒絶反応を起こしたことでしょう。とはいえ、作品を書くことが部内での自己主張の手段になっているという点で、二人は似通っています。作品の質ではっきりと明暗が分かれていますが、本質的には似た者同士です。
「新井くんは先生のこと、何だと思ってるんですか」
 そこで生まれた小さな疑問でした。新井くんにとって先生は都合の良い人物だと思いますが、それを本人がどう認識しているのかが気になります。
 しかし新井くんは、妙に警戒して答えました。
「それは何か? 変なこと言うたら香奈実ちゃんに告げ口するとかか」
 これはもう、わたしの聞き方が悪かったと思うしかありません。聞き直します。
「そうではなくて。単純に、相関図上で新井くんから先生に伸びる矢印の傍らには、どんな注釈が付くのかということを聞いたんです」
 実際まだ誤解を招きそうな言い方ではありましたが、今度は通じました。
「恰好つけるなら、『ライバル』かなあ」
「いや……」
 即答でしたが、あまりに信じがたい言葉に絶句してしまいます。しかしそれは、わたしが無意識に先生と新井くんを越えられない壁で隔てていたからなのでしょう。新井くんの認識では、そうではないということです。そして、補足がありました。
「上手くなるって決めたはいいが、如何せん二年目には書き手がいない。一緒に書いて、語り合って、伸びていくような書き手がな。ただまあ、浦川さんは元から上手いし、結局『ライバル』と言えるほど近い感じもせん」
 わたしは少し納得しましたが、新井くんは重大な見落としをしていると思いました。
「朝倉さんは、そうではないのですか?」
「香奈実ちゃんはなあ……書き手という感じではないな」
「合作までしておいて」
「あれは楽しかったけど、終わってみれば結構無理させちゃったと思うよ」
 これは看過できません。先生とはまた別種の高慢さです。
「それこそ、朝倉さんに告げ口しますよ」
「またどうして、中津さんが怒るのよ。知っとるかもしらんが、香奈実ちゃんはバイトも始めたし、車校にも通い始めたわけでさ。まあ正直、あの作品も俺が香奈実ちゃんの倍書いてるわけね。それはもう、感謝もあるけど、申し訳なくもなるやんか」
 そこでわたしは、新井くんが不定期合評で、作品のバランスについて言及していたのを思い出します。
「つまり新井くんの中では、合作は満足のいくものではなかったと」
「中津さんにだから言うけど、せやね」
 謎の信頼を得ている立場というのは、身震いしてしまうような情報ばかりが入ってくるので損です。
「でも、朝倉さんは夏部誌にも作品を出そうとしているみたいですよ?」
「ああ……無理するよなあ。今は何かの授業で、くずし字みたいなものにも苦労してるらしいのに」
 わたしは受講していませんが、文学部には近代の古文書を読み解く講義があります。毎週ある小テストが厳しいという悲鳴があちらこちらから聞こえてくるので口コミ的には星も少ないと思いますが、朝倉さんのように日本史に関わる講座では基礎に当たるため、避けて通れません。
「朝倉さんには、夏部誌に出して欲しくないと?」
「ああ。でも止められんよ」
「素直に応援できない理由があるんですね?」
「……まあな」
 その先のことは、なんとなく予想できてしまいました。文芸部では同期の書き手が増えてくれることを望んでおきながら、朝倉さんに限ってはそうなることを歓迎しない。その矛盾の裏には、特殊な行動原理があるはずなのです。
 このまま放っておいては朝倉さんに悪い気がしたので、もう一段斬り込んでみます。
「欲求不満ですか」
「……」
 ことによっては、わたしが誘っているように受け取られたことでしょう。しかし新井くんは踏みとどまりました。この辺りの堅さはさすがです。
「朝倉さんを奪うあらゆるものが憎いのでしょう。たとえそれが、文芸であっても」
「見透かしよって。ハニートラップには乗らんで」
 とりあえず、このまま安易に浮気へ走ってしまうようなことはないだろうと思いました。しかし、朝倉さんに固執し続けるのも決して健全ではありません。
「そんなつもりはないですよ。新井くんがこんなことでは、ただでさえ大変な時期に、朝倉さんに余計な心配を掛けてしまいますから」
「……だったら、愚痴くらい聞いてくれや」
「わたしでよければ」
 二人きりのボックスで、新井くんは腐らせてしまった朝倉さんへの想いを、この後しばらく吐き出していました。朝倉さんとの関係をただ刹那的なもので終わらせるつもりはないと言いますが、その一方で、刹那的な肉体関係への願望はやはりあり、未だそれが叶わないことに物足りなさを感じているようでした。そもそも相合傘すら、人前ではできない二人です。
「その……一回も、ないんですか?」
「二人でそう決めたんや。本当の初夜を待つって」
「それなら、覚悟を決めるしかないのでは?」
「……それ以外のところは、俺も譲れん」
 実際、上年目からは「老夫婦」などとも揶揄されていますが、現代ではなかなか珍しい貞操の堅さです。却って歪んだものを感じてしまいます。
「朝倉さんとの関係については何も言いませんが、朝倉さんの文芸を縛ろうとするなら、わたしは許しませんからね」
「わかったよ」
 こんな話をしていたせいか、五限の時間も見学者は寄り付きませんでした。それにしても、新井くんの動向はもう少し注視する必要がありそうです。

 三回目の説明会は、見学者が多すぎるということも、不埒者が紛れ込むということもなく、無事に終わりました。その翌日の昼休みです。わたしは先生にまた、例の場所へ呼び出されました。
 そこにあったのは、視界いっぱいの桜でした。
「この木、全部桜だったんですか」
「そうだよ。前に来たときも、花芽が付いていただろう」
「興味がなくて、気にしていませんでしたよ」
「覚えておけと言ったのに」
 構内で桜が楽しめるスポットはあまり多くありません。恐らく、この広場が一番だと思います。わたしはその中央に立って、ゆっくりと一回転してみました。どこを見ても桜があるのは、なかなかない体験です。
「桜があると、こんな場所でも特別に思えてきますね」
「都合のいいことを言うものだ」
「でも先生だって、楽しみにしていたんでしょう?」
「まあな」
 少しの間そこで桜を楽しんだ後、わたしたちは四阿の中に入りました。そこから眺める桜も、なかなかに贅沢です。
「学科ではどうですか?」
「アスパラを収穫したぞ」
「いいですね。でもわたしが聞きたいのは……」
「コミュニケーションくらいは取っている。花卉学の研究室は人気のようでな。最終的に話し合いになる可能性があるらしい」
「ほう。それは大変ですね」
「だが、最近は動物生態学にも興味が出てきた。学問自体も面白いが……研究室が二つあるんだ。政争が起きて分裂したらしい」
「どこの世界にも、そんなことってあるんですか」
 なんだかんだで、先生は学科での生活を満喫しているようです。というより、基本的に先生は自分で人生を楽しめる人です。それは素直に羨ましく思います。
「……大縄跳び大会に参加させられたときは、ひどい目に遭ったがな」
「あれ、やっぱり農学部の行事だったんですね」
 我が道を行く先生だから、こんな場所に秘められた桜を見つけることもできたのでしょう。誰の足跡もない道をしっかり選んで進む姿勢が、創作にも役立っているのだと思います。
 もうすぐ来る五月からは、様々な波乱の起こる予感があります。先生と一緒にいる今だけは、そんなことも忘れられました。

文芸人のフロンティア

文芸人のフロンティア

多くの出会いと別れ、綺麗事ばかりでない経験もしながら、 さらに深く文芸のある人生と向き合う青春グラフィティ。 *連載中の作品です。現在第十一章まで。次回は二月中旬公開予定です。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-10-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. イントロダクション
  2. 一 水芭蕉
  3. 二 綿毛
  4. 三 梅雨
  5. 四 流風(上)
  6. 五 流風(下)
  7. 六 空隙
  8. 七 水鏡
  9. 八 氷雨
  10. 九 薄明
  11. 十 絆
  12. 十一 秘花