文芸人のフロンティア

イントロダクション

 北海道有数の進学校、豊橋。
 文芸部のなかったこの高校で、五人の生徒が立ち上がった。中でも「先生」と呼ばれた女子生徒は、二年目にして全国大会への進出を果たし、新聞で紹介されるほどの業績を残した。後輩にもその精神は引き継がれ、文芸部の存在は校内から地域へ、徐々に受け入れられていった。
 しかし、高校を去らない生徒はいない。
 今、「先生」は長く創作を共にした初代部長と共に、大学の門前に立った。
 この物語は、大学へ進学した二人の「文芸人」が――

「文章はここで途切れている。先生、また気合の入ったプロローグですね」
「そうだろう」
「でも、今回はわたしが主人公です」
「何故だ」
「先生は内向的すぎて、面白くならないからですよ。作品の面白さだけではダメです」
「では……このプロローグはどうするのだ」
「ギリギリわたしが主人公でも行けそうなので、最後の部分をこうして完成です!」

 この物語は、大学へ進学した二人の「文芸人」が、多くの出会いと別れ、綺麗事ばかりでない経験もしながら、さらに深く文芸のある人生と向き合う青春グラフィティなのだ!

「ほう。続編らしいな」
「続編ですし、確かにこれまでとは地続きですけど、新たな物語として考えてもらっても……というか、考えてもらった方が良いかもしれませんね」
「前作を未読でも楽しめます、とかいう決まり文句だな」
「高校までのことは、もはや過去のお話です。過去にばかり縋っていては、新たな世界で生き残っていけませんよ」
「もっともらしいことを言う。その実、また『日常系』なのではないか?」
「それも過去のお話です。その様子では、やや不安になりますが……始まりますよ。目まぐるしくも貴重な機会に満ちた大学生活が。乗り遅れないでくださいね?」
「……」
「急に黙らないでください!」

一 水芭蕉

 わたしたちは今、花木園に来ています。すぐ脇には有名なポプラ並木もあるのですが、観光が目的というわけではありません。きっと、先生の中では。
「こんな場所があるんですね。先生ってば入学一週間にして穴場発掘して、道理で空きコマに見かけないわけですよ」
 その名の通りちょっとした林になっていて、花の咲きそうな気配もあるのですが、まだ四月の半ば。ようやく最高気温が十度を上回るようになってきたばかりです。地面は一面の茶色で、雪も残っています。
「学生も観光客も、ここまではあまり入ってこない。表の銅像を見たら、並木に流れて終わりだ。いい場所だろう」
「まだシーズン前の、うすら寒い林ですよ? こんなところで世捨て人ごっこなんて、断じて健全な大学生のすることじゃないです。一刻も早く考え直して、サークル見つけましょうよ。食堂二階のフリースペースにたくさんの団体が集まってますよ?」
「……わたしは、急激な環境の変化にまだ、適応できていないのだ」
 そうです。この先生(わたしはこう呼ばせてもらっています)、とても人見知りで、尊大で、世が世なら虎になってもおかしくないような人なのです。しかしながら、高校時代に全国区の大会で表彰されたこともある、誇り高き「文芸人」でもあります。その点でのみ、わたしの自慢の先生です。
「ここには公認団体として、文芸部がありますよ。あとは短歌会ですね。それから、推理小説研究会みたいなところもありましたね」
「いや、知っているぞ。今日も今日とて、あの眩暈を起こすほどの群衆に、勧誘のチラシを押し付けられたのだ……一枚一枚、目を通している」
「完全に呑まれちゃってますね。あんなの、目線を合わせないようにすっと通り過ぎればいいんですよ。で、律義にもチラシは見てるわけですか」
 高校時代にはそれなりに後輩にも慕われていて、溢れる自信と覇気を持っていた先生ですが、それはいわゆる内弁慶というものだったようです。高校まではクラスに自分の席があって、そこが無条件の居場所になったりするわけですが、大学にはそんなものありません。居場所を見つけられなかった人は、こんなところにまで追いやられてしまうのです。
 先生は顔立ちこそ凛々しく、髪型と服装を整えれば立派な大学生にも見えそうなのに、今は半端に伸びた髪と全身灰色ルックで諦めた雰囲気しかありません。お洒落に関しては、わたしもあまり言えたことではないのですが……。
「とりあえず……先生、次のコマも空いてますよね? わたしと一緒に、文芸部の見学行きましょう? さもなくばわたしは、いよいよ先生を見捨てる覚悟をします」
「なっ……」
 厳しいようですが、わたしはもうクラスに友達もいますし、いつも先生の付き人ではいられないのです。自立してもらわなければなりません。割と本気でショックを受けたようですが、それなら頑張ってほしいです。
「……わかった。行こう」
 この花木園とわたしたちの通う教養棟って、歩いて往復するとそこそこ大変なんです。

 道中、ヒアリングを行いました。わたしたちの高校には元々文芸部がなかったので、先生は文芸部を立ち上げようという気にだけはなったのですが、ここでは大学公認の文芸部の存在を知って、どのように対応すれば良いか悩んでしまったそうです。とにかく文芸を続ける意思はあるわけですが、それをどこで、誰と、どのように続けるのかは、先生にとって(無論わたしにとっても)重要な問題です。
「で、すんなり文芸部に入るという選択肢はなかったんですね?」
「ホームページを見てみたのだが、まず人数が多い。八十人ほどいるらしい。それでいて、雰囲気がわからない。どのくらいの人が書いているのか、どのような作品が発表されて、部誌はどのように編集されているのか……」
「そこまで気になるなら、直接、聞きに行けばいいじゃないですか!」
 もう、「直接」をこれでもかと強調してやりました。何をそこまで尻込みする必要があるのでしょう? もう少し問い詰めると、苦し紛れのようにこんなことを言いました。
「ほら、明後日、説明会があると書いてあった。それには、出るつもりだったのだ」
「つもり……ですか。まあ良いでしょう」
 切り札のつもりなら、最初からそう言えば良かったのです。恐らくそれにすら迷いがあったのでしょう。部員が八十人もいると知って、怖気づいてしまったのかもしれません。
 とりあえず、先生のそんな迷いばかりの心境が見えてきたところで、食堂の二階に着きました。購買と本屋もここです。
「というか先生、ここに教科書買いに来ますよね? このフリースペースのことも、知っていたのではありませんか?」
「……視界に入れなかったのだ」
 三限の半ばで、昼休みのピークほどではありませんがなかなか賑やかです。先生の声がよく聞こえません。フリースペースにはたくさんの低い長机が並んでいて、それぞれに三人掛けのソファーが二台、対面で備え付けられています。そのボックス一つ一つが、団体の場所として割り当てられているのでした。どこも熱心に勧誘活動をしています。
 文芸部のボックスは、入って奥の通路に面しています。既に三人くらい人がいました。各々スマホを眺めたりノートを開いたりしているところを見るに、先客はいないようです。
「わたしが話を進めるので、先生は死なない程度に立ち回ってください」
 先生には適当に指示を出して、文芸部のボックスへ向かいます。
「失礼します。文芸部の見学に来ました」
 ちなみに、わたしもボックスを訪問するのは初めてです。ファーストコンタクトは先生と一緒に行きたいと思っていました。わたしなりの操というものです。
「おお、いらっしゃい!」
 男性の方が三人いたのですが、一人が向かい側に席を移って、わたしたちにソファーを空けてくれました。そして席に着くなり、『文芸部へようこそ!』というタイトルのリーフレットが配られます。
「まず、僕はここで部長をやっております、文学部三年の下野です。こっちの二人は、二年生です」
 幸運なことに、部長に会うことができました。わたしは三人と会釈を交わします。
「文学部一年の中津といいます。よろしくお願いします。こっちは浦川です」
 先生は緊張なのか何なのか、頭を下げる動きもぎこちないです。
「中津さんに、浦川さん。じゃあ、軽く説明するから、その紙を見ながら聞いてね」
 下野部長は気さくな人でした。活動内容や、毎週の部会のこと、レギュラー企画のこと、部費のことなど、リーフレットに沿って淡々と説明してくれます。
「というわけで、何か気になることはある?」
 三分くらいで説明は終わり、質疑応答です。先生は少し緊張に慣れてきたようですが、まだ喋るほどの余裕はなさそうでした。そこでまずは、わたし自身の疑問をぶつけます。
「あの、ホームページには部員八十人ってありますよね。この活動人数が四十人っていうのは、どういう数字なんですか?」
 下野部長はやや目を丸くしましたが、すぐに答えてくれました。
「ホームページも見てくれたのか。実は、幽霊部員が結構多くてね。部会とか、合評とかにちゃんと参加してくれる人が、このくらい。部員数は気にしなくても大丈夫だよ」
 幽霊部員が四十人いるというのも想像しにくい話ではありますが、逆に四十人は参加している人がいるわけで、部が衰退しているとかいう話ではないそうです。
「わかりました。下野部長は、作品を書かれるんですか?」
「毎回ではないけど、今回は書いてるね」
 次の質問に対して、下野部長は部誌を見せてくれました。『開拓』というタイトルで、B五サイズ無線綴じ、二百ページくらいの本です。奥付を見ると、印刷から製本まで大学でされているようでした。内容は単純な作品集という感じで、それぞれの作品の扉絵が目を引きます。
「夏部誌はこれから作るんだけど、一年生は大体、冬部誌から参加することになるかな。まずは、一年誌で部誌制作の流れを理解してもらうところからだね」
 これは人数の多い大学ならではのシステムだと思います。一年生を中心に編集部を組織して、作者を集って冊子を作るという企画があるのだそうです。これは面白そうだと思いました。先生も少し表情を和らげて、興味を持っているような雰囲気です。
「ちなみにだけど、二人は文芸の経験はある? 中津さんは詳しそうだけど」
 すると今度は、下野部長から質問されました。隠すこともないので、普通に答えます。
「はい。わたしたち、豊橋高校文芸部から来ました。わたしは編集専門で、この人がいろいろ書きます」
「豊橋高校! 頭いいんだね。あそこ文芸部できたんだ」
「この人が発起人で、わたしが初代部長です」
「へえ、すごいな」
 下野部長も実は、地元の出身だそうです。文芸は大学から始めたとのことでした。そこにいた二年生の二人も地元の出身と聞きましたが、やはりわたしたちの部のことは知らないようでした。文芸部でなかったのなら、仕方がないと思います。
「うちは本当に、未経験者もいるし、中学くらいからずっとやってる人もいるけど、みんなそれぞれ自由にやってる感じだね。どちらかと言えば、仲間同士で楽しむことが優先って感じで。大学のサークルも色々あるから、これまでやってきたことにこだわらないで、雰囲気の良さそうなところとかで選べばいいんじゃないかな」
 その辺りで、下野部長はアドバイスと一緒に、入部届を一枚ずつ渡してくれました。ここまでの印象をまとめると、やはり多くの点で高校文芸部よりもルーズだと感じます。良くも悪くも強制力とか使命感のようなものが薄くて、交流の場としての意味合いが強いのでしょう。サークルを三つや四つ掛け持ちすることも珍しくはないと聞きました。
「それでは、説明会にも参加してみようと思います。ありがとうございました」
 結局、先生はほとんど喋ることができませんでしたが、それなりに情報は手に入ったので、連絡先を交換して切り上げることにします。ちなみに二人いた二年生ですが、一人は話に参加するでもなくずっと膝に手を置いて静観しており、もう一人は、終始スマホを眺めていたのでした。

 翌日の昼休み、教養棟の比較的人気のないリフレッシュスペースで、今後のことについて話すことにしました。わたしも先生も、お昼は購買のサンドイッチです。
「さて。一夜明けて、考えはまとまりましたか?」
「そうだな……実はさっきの時間に、あのボックスへ行ってみたのだ。また違う二年生が二人いた。デザイン班だという話だったが……結局、あの部が、部員たちが、どのような理念で、どのような文芸をしようとしているのか、まだ見えてこない。部誌を読んでも、作品のジャンルも質もバラバラだ。システムは見えても、心が見えない」
「それはまあ四十人もいれば、仕方ないんじゃないですかね? 合評も一作品に二回やるらしいんですけど、それぞれ参加者は四、五人ずつなんですって。高校のときみたいに、全員の作品を全員が読むというシステムは、立ち行かないですよ」
 高校時代は部員が多くても七人で、しかし結束をもって活動していました。先生は内弁慶なので、信頼できる人に囲まれていなければ、本来のパフォーマンスを発揮できないのです。それなのに他人を信頼することについてひどく消極的という、困った人です。
「やはり、サークルを立ち上げるか……」
「大丈夫なんですか? 前だって、一年何の成果もなくて、挙句わたしが全部やることになりましたよね。先生だけでは、まず無理です」
 大学の文芸部がルーズであることについて、わたしは一つの推察をしました。大学生はそこまで暇ではないのです。学業や研究、アルバイト、自炊、飲み会などなど、大学生のやりたいこと、やるべきことの量は高校生までの比ではありません。体育会系ならまだ、チームの方針次第で拘束力を持って活動するかもしれませんが、文芸部にはそんな束縛を好まない人が、気軽に集まっているのでしょう。
「それでも先生は、対面で文芸をしたいんですよね? わたしとの間だけで完結していた頃には、もう戻れないんですよね?」
 青春の過ごし方が、ぐっと多様化したのです。ただ看板を出して待ち構えているだけでは、同じ青春を過ごす仲間が得られるはずもありません。飛び込んで、コミュニケーションをして、関係を築いていくほかないのです。それが先生にとって初めての試練となっているのは明らかでした。これでなんと、結構な寂しがりなのです。
「……そうだな。できればまた、互いに作品を書き、共に部誌を作り、文芸の極みに近づく仲間が欲しいのだ。何の兆しもないままに、燻っている時間がもったいないとも思う。しかし……」
「どうしても雰囲気の違いに戸惑う気持ちのほうが、先に来てしまう?」
「ああ」
 それでも、現状から脱却したいという気持ちも同じくらい強いはずです。調べたところ、高校文芸部のようにオールジャンルの創作を扱うサークルは、やはりあの文芸部しかないようでした。他はジャンルが固まっているか、読むこと専門のどちらかです。あのサークルに入って慣れてしまえば問題はなくなると思いますが、まずそれだけの思い切りが必要でした。
「まあでも、わたしはあの文芸部に入りますよ。これ書いてきました」
 刺激を与えてみようと思って、書いてきた入部届を見せつけます。
「編集っていう制度があるみたいなんですよね。部誌制作期間中、作者さんに一人ずつ、アシスタントの編集が付くんです。楽しそうだと思いませんか?」
「わたしの作品を預ける人は……選びたいものだが」
「部内で大会もやるみたいですよ?」
「それは、まあ……」
「九月には合宿もあるんですって!」
「うむ……」
 わたしのほうがもう、勧誘する人のようになってしまいました。先生の表情が、もごもごと動きます。興味は明らかに示しているのです。
「まあ、後は明日の説明会を聞いてから考えましょうか。先生は焦りすぎですよ。その気になれば、二年生からでもサークルを始める人はいるみたいですし、大丈夫ですって」
 互いに違う授業を取っていたので、わたしたちはそこで別れました。実際、わたしたちの共通の空きコマは三つくらいしかありません。授業でグループワークがあって、空きコマが潰れたりもするので、スケジュール管理はなかなか大変です。

 わたしには姉がいて、この春文学部を卒業しました。その姉から大学生活について聞いていたので、基本的な場面での振る舞い方はなんとなくわかります。例えば今日のような、部活の説明会に参加するときには。
「六時半からか……食べていく時間がないな」
「先生、新入生はお腹を空かせて行くのが礼儀だそうですよ。聞いてませんか? 大抵の説明会では、終わった後に先輩方のおごりで食事会があるんです。参加しましょうよ」
「そうだったのか……まあ、行ってみるか」
 もちろん食事会に参加しないという選択もできますが、説明会の内容自体は、ボックスで聞いた話の繰り返しだそうです。それだけではあまりにもったいないでしょう。
 会場の教室へ行ってみると、早かったので、まだ女性が一人しかいませんでした。首からネームカードを提げています。
「こちら、文芸部の説明会です」
「はい。わたしたち二人、参加します」
「ようこそ。名札に、所属と名前を書いてお待ちください。私は文学部二年の黒沢です」
 黒沢さんはやや緊張を見せながらも、丁寧に応対してくれました。やはり文芸部だからか、文学部の人によく出会います。大学全体では七割以上が理系なので、その点では文系に偏った集団なのかもしれません。
「資料と、部誌をどうぞ」
「あっ、ボックスで頂いたので、大丈夫です。ありがとうございます」
「失礼しました。では、もう少しお待ちください」
 前方窓側の席で待っていると、次々と人が入ってきます。窓から外を見ると、玄関前に祭りのような人だかりができているのが見えました。放課後は毎日こんな感じです。建物に入っても、一階は身動きが取れないほど混みあっています。
「おっ、来てくれたね。お疲れ様」
 やがて下野部長が来て、わたしたちに声を掛けてきました。
「お疲れ様です」
「今日はいろんな上年目が来てるから、話してみるといいよ。資料は持ってるね?」
「はい、持ってきました」
 三十人くらいは入ったでしょうか。一年生がどのくらいいるのかは、よくわかりません。ちなみに「上年目」というのは、ざっくり先輩のことです。このサークルでは入ってからの年数で管理されるので、学年よりも何年目なのかで呼ばれることのほうが多いそうです。
 わたしたちも、何人かの上年目と挨拶を交わしました。来ている上年目は十人くらいで、二年目と三年目の人が半々のようです。先生はというと、たどたどしくも頑張って、部誌に作品が載っているかどうかを確かめていました。
「誰か気になる方でもいましたか?」
「二つ、目を引いた作品があったのだ。作者がいたら、話をしたいと思ったのだが」
「まだいないんですね」
 やがて、部長の説明が始まります。内容には特に新しいことはありませんでした。それにしても、副部長に編集長など、たくさんの人が登場します。ゆくゆくは全員と関わっていくことになると思いますが、顔と名前を憶えるのは大変そうです。部会は週に一回とのことでしたが、活動に参加する機会が少ないと、ほとんど把握することができないのではないかと想像します。
 そんな感じで説明が終わって、食事会へ移動するまで自由時間になりました。そこでも先ほどからいる人を含め、何人かの上年目の人と話しましたが、その中に、先生が目を付けた作品を書いたという人がいました。
「お疲れ。君たちは寮生じゃないね。僕は八戸瑛太です。好きな作家は誰ですか」
 八戸さんは早口でぐいぐい来る人で、先生は最初少し身構えていました。
「わたしは、特に作家の好みがあるわけではありませんが……」
 そう前置きして、わたしが最近読んだ数冊の本を挙げると、八戸さんはだいたい知っているというふうに頷きました。この人も文学部の二年生です。
「君は? 浦川さんか」
「わたしは……こういう本を読んでいる」
「それ、前に芥川賞獲ったやつだね。なるほど」
 先生にも遠慮なしです。その質問はある意味、わたしたちを試しているようなニュアンスでした。八戸さんに好きな作家を聞き返すと、古今東西、様々な作家の名前を十人くらい挙げたのです。本当に、文学そのものが好きな人なのでしょう。そしてそのイメージに違わず、部誌の作品は現代的で強烈な風刺を含んだ、非常にまとまりの良いものでした。
「君たち、ちょっと文学わかりそうだから、文芸部入ってよ。文学の話できる人、あんまりいないんだ」
「わたしは入部しようと思います。よろしくお願いしますね」
「うん、入ってよ。うん」
 どうやらわたしたちは気に入られたようです。しかしその辺りで八戸さんは、他の上年目の人に「ちょっと絡みすぎじゃないの」と注意され、別な一年生のところへ行ってしまいました。代わりに来た人によると、八戸さんは寮生らしくはちゃめちゃな気質を持っていて、新入生にはあんまり近づけたくない……という評判なのだそうです。バンカラの生き残りとも言われていました。わたしは面白いと思いますが、先生は苦手そうです。
 食事会では他の一年生とも話したりして、わたしたちはそれなりに楽しい夜を過ごしました。文芸部の新歓なのに全く文芸要素はありませんでしたが、それでも入ってみたいと感じた人もいたようです。その点は先生も、仕方のないことだと理解しています。やっぱり文芸部の活動の本質は、家での執筆と、集まっての合評なのです。

 週が明けてわたしはまた先生の隠れ場所こと、花木園に来ていました。教養棟の裏から農場に抜けて南下すると近いこともわかりました。この間よりは雪解けも進み、草花も生えてきていますが、まだ少し肌寒いです。
「あそこに、立ち枯れした植物があるだろう。頭に開いた実を付けているやつだ。あれはオオウバユリと言って、先住民族が食料として利用していた植物らしい」
「実がはじけて、種が飛んだあとなんですね」
 先生は農学部に進むことが決まっています。高校時代に賞を獲った作品も、花の命がテーマになっていました。植物にはかなり興味があるようですが、やっぱり、人にはあまり興味がなさそうです。
「それで、今週もここに来てしまったわけですが……」
「植物園が連休からなのでな。北の原始林の辺りも、散策にはちょうどいい」
「結局、文芸部はどうするつもりですか?」
「まあ、入っても良いかもしれないと思った。今週もう一度説明会に行ってみようと思う」
 意外にも、やや前進しています。八戸さんと話したことや、食事会で同期の人と交流したことで、先生の心が少し開かれたのでしょう。
「今週、明日ですよね? わたしは用事があるので行けないんです」
「……それなら、来週はどうだ」
「来週ならいいですけど……そういう問題ではないですよね?」
 前言撤回です。何も変わっていません。わたしに全部頼りっきりです。
「あれはまだ一面に過ぎない。もう少し、慎重に考えたいのだ」
「慎重に考えてどうするんですか? というか、わたしはもう入部届を出してきたので、敢えて説明会に行く必要はないんですよね。来てもいいとは言われましたけど」
 ここまで来たらもう、先生には文芸部に入部する以外の選択がないはずなのです。
「あの場で、わたしは成長できるのか……特に、文芸を究める助けとなるのか。そこがまだ確信できないのだ。それ以外の選択肢がこれと言ってあるわけではないが、文芸をする環境は大切なのだ。ある意味、わたしの作品を預けることになるのだから」
「それはわかりますけど……じゃあ、入らないですか?」
「……」
 選択肢がないというのは、入らないことも含めてなのです。とにかく先生はこのまま、成り行きだけで文芸部に入ることだけは気に入らないようなのでした。そういうわけで、先生が納得しそうな動機を探ります。
「ところで、あの部には大学から文芸を始めた人が割とたくさんいるみたいですね。わたしたちには、もう二年以上の経験があるわけじゃないですか。入部したときには、どちらかと言えば文芸に慣れている側になるわけですよ」
「そうだな」
「あの部では、未経験の人に対して最低限のガイダンスはしているみたいですけど、そこからはもう放任、良く言えば自主性に任せているそうなんですね。そのとき先生は、経験者として、全体のレベルを高めることに貢献する……というのはいかがですか?」
「確かに……次の段階としては、悪くない」
 先生は自分の経験や知識を披露するのが好きです。その相手が得られることは少ないですが、それだけに嬉しいことだろうと思います。
「だが、あの部は見たところ、全員が目指す目標というものがないようだ。向上心がどれだけあるかもわからない。わたしは、うまくやっていけるだろうか」
「まあそうですね……そこは若干、わたしも気にしている点ではありますが」
 八戸さんのように本気で打ち込んでいる人もいましたが、それでも全体としてのモチベーションは、まだ見えないところがありました。というか、合評など作品に関わる部分を何も見ていないので、入部しないとわかりません。入ってみて、やっぱり精神的に向上心のない人たちが多かったりしたら、それはとても困るのです。
「それにしても、まずは仲間としての関係を築くところからだと思いますよ。部長から聞いたように、大学のサークルって楽しいことが第一なんです。それぞれ目指すものが違っていても、その点が一致すれば仲間として集まれるんですね」
「……仲間、か」
「お友達から始めましょう、ですね」
「それは何か違う」
 ちなみに、説明会では先生のことを知っている人には出会いませんでした。そもそも、地元の高校から来た人がわたしたちしかいなかったのです。一つ上の学年にも、地元の文芸部から来た人はまだ確認できていません。理由はいくつか考えられますが、ともかく本当にまっさらな環境です。
「じゃあ、来週また見学に行きますか?」
「いや、わかった。明日、一人で行ってくる。わたしもそろそろ、この憂鬱な春に決着を付けなければいけない」
「おっ、良いですね! 頑張ってください、応援していますよ」
 果たして、先生は大学デビューを果たすことができるのでしょうか。応援はしますが、実のところ、わたしはあまり期待していません。これはいつもの流れです。

 一方で、わたしには最初のサークル友達ができました。工学部の和泉恭子さんです。入部届を出しにボックスへ行ったとき、彼女はそこにいた上年目の人と談笑していたのでした。あまりに打ち解けていたので、わたしは最初同期だと思わなかったのです。
「入部ありがとう、ってなんとなく言ってみる。あたしも同期だけどね」
「そうだったんですか?」
 見た目の雰囲気も、髪をワンポイントだけ赤く染めていたりして、一年生にしては既に結構あか抜けた人だと思いました。
「工学部一年の和泉恭子です。どうぞよろしく」
「中津文子です。文学部一年です。和泉さん、『婦系図』とかって言われません?」
「それ三回目だわ……鏡花さんは男性だし、あたしの和泉は和の字が入るからね。間違えないように」
 名前を文芸的にいじることができる、わたしにとっては羨ましいタイプの人です。ちなみに大分県の中津市は、福沢諭吉の出身地だそうです。わかりにくいですね。
 和泉さんの興味は音楽のほうが強いらしく、そのときも音楽の話で盛り上がっていたようです。その類のサークルにも入ったと話していました。
「それでは、どうして和泉さんは文芸部に?」
「え? 面白そうだったから。そんなもんでしょ。高校のとき文芸部やってて、編集とか本を作るのが好きだったの」
「なんと。わたしも実は編集や校閲に興味があって、文芸部を続けてきたんです」
 共通の興味があるとわかったのは一つのきっかけに過ぎないと思いますが、そこでもうしばらく話すうちに、わたしたちは意気投合していました。木曜には二限に同じ授業を取っているということが判明して、その場の流れから二人で近所のラーメン屋に行くことになりました。和泉さんは九州の出身で一人暮らしですが、あまり自炊はしていないそうです。
「フミ、二回目の説明会来てなかったよね?」
「はい。もう入部したので、特に行く意味もないと思って」
「実家だからか。でもこの時期はさ、いろんな新歓に行った方がいいよ。タダ飯目当てで」
「いるらしいですね、食事目当ての人」
 入学して二週間になりますが、和泉さんは毎日のようにどこかのサークルの新歓に参加し、良質なディナーにタダでありついたとのことでした。
「スキー部は豪華だったよ。海鮮鍋。ありがたかったねえ」
 勧誘に必死な体育会系のサークルほど、遠慮なくおごってくれるとのことです。その分囲い込みが激しいところもあるので、上手な世渡りが重要なのだとか。
「単位もみんな、歓迎のつもりで気前良くおごってくれればいいのにね」
「切実な願いですか」
 表ではそれぞれ時間割も固まってきて、大学生活がいよいよ動き出した頃です。外部の試験が成績の半分を決める英語や、課題が面倒かつ多いと悪名高い情報学など、フレッシュマンを苦しめる授業の話も聞こえるようになりました。
「文系はまだいいでしょ、理系は毎週実験のレポートもあるし、化学わけわからんし、一限の線形代数とか起きる気しないし」
「気を確かに持ってください、出席は大切ですよ」
 文系特有の授業はというと、歴史や文化、芸術、哲学、経済学など、教授の話を聞いて憶えたり、考えたりするようなものばかりです。理系と共通の授業のほうがバラエティに富んでいて、空きコマがある限りは気の向くまま取ることができるので楽しいです。その点は先生も、「作品のネタになるかもしれない」と嬉しそうに話していました。
 わたしと和泉さんの会話では、基本的にこんな感じで和泉さんが先導してくれるのですが、文芸のことに話が向くことはほとんどありませんでした。先生とは高校の頃からいつも文芸の話ばかりしていたので、やや新鮮な感覚を味わっています。

 先生から文芸部に入ったという報告を受けたのは、翌週のことでした。それでもなお、先生はいつもの花木園に入り浸っているのですが。
「これを見てほしい。ミズバショウだ。ここに自生しているのだ」
 奥にある小さな池の周りに、数えるほどではありますが、ミズバショウが咲いていました。葉はまだ小さく、白い花をはっきりと見ることができます。三回目ともなるとやや徒労感がありましたが、悪くない歓迎だと思います。
「これはいいですね。ようやく春が来たということでしょうか」
「この白い部分は花びらではなく、葉に分類されるらしい。緑の葉がこれから大きく育って花の部分を隠してしまうから、今が一番の見頃なのだ」
「……先生、もしかして文芸部よりも、植物サークルのほうが向いているのでは?」
「いやいや。わたしはあくまで、文芸的な観察眼を持ってこの世界を見ている。この花木園の景色が移り変わることも、学術的な興味より、この大学での物語が始まる予感、そしてここで生きていくのだという感慨を喚起させるのだ」
「スタートを切った後だから、調子のいいこと言いますね」
 そんな感じで、先生はとても上機嫌でした。次はクロユリが咲くのを楽しみにしているそうです。しかし、わたしたちにとって本題はやはり文芸のことです。
「それで、二回目の説明会はいかがでしたか?」
「ああ。もう一つ、気になっていた作品の作者に会うことができた。三年生だったが、文学の他に哲学の心得もあり、文学で表現するべきことや、様々な表現の手法について、常に考え、工夫を重ねながら書いているという。わたしはその真摯な姿勢に感銘を受けた」
「なるほど」
 それほどモチベーションの高い人と出会ったことで、先生はいよいよ入部する決心をしたのでした。めでたしめでたしです。
「そういうわけだ。これからもよろしく頼むぞ」
「はい! 新しい環境ですが、これからも頑張りましょうね」
 ミズバショウの花言葉には、「美しい思い出」というものがあるそうです。これから先のことは、必ずしも美しいことばかりではないかもしれません。文芸部にはまだ、わたしたちの知らない部分も多くあります。それでもできるだけ多くの思い出を残すこと、そして、先生が一つでも多くの素晴らしい作品を書いてくれることを、わたしは願いました。
「ところで先生、今週も良かったら、文芸部の新歓に行きませんか? 紹介したい人がいるんですよ。わたしたちの同期です」
「そうか。予定は空いているぞ」
 ポプラ並木も、新しい生命の緑に燃え始めています。わたしたちは、次の空きコマをボックスで過ごそうと歩き出しました。

二 綿毛

 連休の最後の土曜日、わたしたちはキャンパスの南側にある、学生交流会館に集められました。かなり古い建物らしく、この集会室も廊下側の壁が板張りで、外の音があまり遮られません。今日は両隣の集会室をアウトドア系のサークルが利用しているようで、要するにあまり執筆向きではない環境でした。
「今日はしゃぶしゃぶだって! 楽しみだねえ」
「和泉さん、気が早いですよ」
 というのも、今日の名目は新入生向けのガイダンスです。わたしは先生と和泉さんの間の席に着きました。時間になると下野部長が、資料の束を抱えて入ってきました。
「皆さん、こんにちは。まずは資料をお配りしますね」
 待機していた上年目の人たちが、わたしたち一年生に資料を配ります。上年目はなんとなく見覚えのある人ばかりでした。まだ学年や名前を全て把握するまではいきませんが、副部長や編集長など、役職のある人の顔はわかるようになりました。
「それでは、皆さん改めまして、入部ありがとうございます! 僕は文学部三年、部長の下野貴弘といいます。これからどうぞよろしくお願いします。今日は、文芸部のいろいろなシステムや、班のこと、執筆のことについて説明して、それからちょっとした企画で楽しんでいこうと思います」
 一年生は十人くらいいましたが、全員ではないようです。男性は三人だけで、女性がかなり多い印象でした。最初のリーフレットに書いてあった男女比から見ても多いようです。
 最初の部長からの説明は、作品の提出や、部員同士の連絡方法についてでした。作品の提出が少し変わっていて、部員全員で共有するフリーメールのアカウントを使って、そのアカウント自身に作品のファイルを添付したメールを送ることで提出するのだそうです。隣の和泉さんがノートパソコンを持っていたので見せてもらうと、フォルダ分けや検索にも対応していて、なかなか便利なシステムだということがわかりました。上年目の間では、「メールドライブ」と呼ばれています。
「それでは次に、班の紹介です。各班長の皆さん、お願いします」
 部長が説明を終えると、三人の班長が前に並びました。順に編集長、企画班長、デザイン班長だそうです。部員は任意でこれらの班に所属することができ、運営や部誌制作に様々な形で関わることができるということです。
「編集長の樋田です。教育学部の三年生です。重要人物なので、早めに憶えてくださいね。編集班では、部誌制作のスケジュール管理や印刷に関わる裏方仕事など、たくさんのお仕事があります。しかしながら、班員はいつも不足しているので、皆さん是非編集班に入ってください! それから、これは大切なことですが、締め切りは、必ず守ってください!」
 樋田さんはやや大柄な女性で、いつも白い服を着ているイメージがあります。優しそうではありますが、締め切りについてアナウンスするとき、やや声のトーンを落として威厳を出そうとしていました。普段の苦労が伺えます。
「理学部三年の明石です。企画班長と、副部長を兼任しています。みんな入部ありがとう! 企画班では、この後やるような創作企画とか、普段の放課後にやるレギュラー企画とか、みんなで書いたり読んだりして楽しむことを考えています。興味があれば私に声を掛けてください!」
 明石さんは説明会のとき、進行を手伝ったり食事会の会場への誘導をしていたのを憶えています。とにかく元気で献身的な女性だと思います。
「僕は、文学部三年の山根です。デザイン班長をしています。主に部誌の表紙や扉絵を担当しています。忙しい期間は短く会議もほぼないので、絵の描ける方、気軽に入ってください」
 山根さんの自己紹介を聞いたとき、先生が手元の資料を二度見しました。なんと、先生が入部を決めるきっかけとなった二つの作品のうち、もう一方の作者だそうです。山根さんのことは先生も「真摯だ」と評していましたが、デザイン班長をしていたのは意外だったようでした。わたしの印象では、普通にとても利口そうな男性です。
 そんな山根さんですが、次のパートでは執筆の基礎的な心得を説明する役でした。資料にもプロットの作り方や表現の注意点などある程度のことは書かれていましたが、かなりの補足を入れて話してくれました。どうやら相当な凝り性のようですが、残念ながら、説明は冗長になってしまっています。和泉さんも居眠りをしています。
「山根、巻きで」
「おっと、これは失礼」
 最後には部長からストップが入り、執筆ガイダンスは終幕を迎えたのでした。期せずして気だるい雰囲気になってしまいましたが、そこで次に立ったのは、企画班の明石さんです。
「はい、ちょっと退屈だったかもしれないけど、ここからは切り替えて楽しくやっていきましょう!」
 大きな身振りで、空気を変えようとしているのが見て取れます。それを察知したのか、和泉さんは目を覚ましました。
「まずは、今日来てくれた一年目の皆さんに、自己紹介をお願いしたいと思います!」
 ようやく、と言うべきか、わたしたちの自己紹介です。今日初めて会う人も多いですが、とりあえずわたしはこのためにメモ帳を持ってきました。ちなみにわたしたちの席は、先生の希望もあって最前列です。これの意味するところは……。
「それでは、えっと……前の、あなたからお願いします!」
 先生は危険を感じて目をそらしていたようですが、そのかいなく、あっさりと指名されてしまいました。挙動不審になりながら、渋々と立ち上がります。
「わ、わたしは、浦川秋。本名は季節の秋。ペンネームは、旧国名の安芸だ。文芸は中学から続けていて、ここでさらに、その道を究めたいと思っている。どうかよろしく頼む」
 あまりに緊張しすぎて、敬語という概念も消失してしまったようです。その分、拍手の始まりが一瞬遅れるほどのインパクトを発揮しました。さすがです。
「先生、よく頑張りました」
「はい。じゃあ、順番にお願いします」
 次はわたしで、その次が和泉さんです。経験があると言った人はわたしを最後にしばらくいませんでした。地元の出身の人でも、文芸部だったとは誰も言いませんでした。
 そんな中で、先生ほどではありませんが、若干注目を集めた男性がいました。
「えっと、皆さん初めまして。理系一年生の、新井竣と申します。私は、文芸を初めて五年になります。その経験を活かして、この文芸部でも活動していければと思います。好きな作家は宮沢賢治です。よろしくお願いします」
 やや関西訛りの入った口調で、新井くんは淡々と述べました。なんだか、先生と同じようなにおいのする人です。経験がどうというよりは、やや自信過剰な雰囲気が。これはお話しておくほかはないと思いました。今日のターゲットは決まりです。
「新井くん、ありがとうございました。もう最後ですね。それでは、組み合わせ三題噺の企画に入っていこうと思います!」
 全員の自己紹介が終わり、いよいよ企画が始まりました。時刻は三時を回り、残り二時間です。明石さんから、「組み合わせ三題噺」のルールが説明されます。提示された十一個のキーワードの中から、三個以上を選択して作品に織り込むという創作ゲームです。キーワードは犬、墓場、陸上競技などわかりやすいものから、ジョーカー、サングラス、子泣き爺といった意表を突くチョイスまで様々ありました。
「原稿用紙はまだあるので、足りなくなったら言ってください。最初は無理に完成させようとしなくても大丈夫です。プロットだけでも、できたら是非周囲の上年目に見せてください」
 自由な雰囲気の企画タイムが始まります。さっきまではいなかった上年目も、二年目を中心に何人か来ていました。
「先生、今日はどのような作品を書かれますか?」
「そうだな……あまりモチーフを指示されるのは、得意ではないが」
 先生は、この手の縛りがある創作をあまり好みません。リレー小説の類も苦手だそうです。徹頭徹尾自分の意思で書きたい、我の強い書き手です。
「ところでさ、フミってアキのこと先生って呼ぶけど、どういう経緯で?」
 背中側から、和泉さんが質問してきました。話そうと思えばいくらでも長くできますが、今回は手短に答えます。
「元々先生は、一人で文芸をされていたんですね。それをわたしがたまたま知って、先生の作品に心を打たれたので、以来リスペクトを込めて先生と呼ばせてもらっています」
「なるほど。じゃあ、アキは結構ちゃんと文芸やってるのね」
「それはもう。去年は全国区で、どこの新聞社の賞でしたっけ? 獲ったんですよ」
「へえ」
 実感がわかないというような、淡白なリアクションでした。先生は遠慮がちに口をつぐんでいますが、物足りなさを感じたのは、わたしだけだったのでしょうか。
「まあでも、今度作品書いたら読ませてよ」
「はい、そうですね」
 いかなる過去の栄光も、言葉だけでは説得力を持ちません。わたしは思い当たりました。物語でも現実でも、顕現しないものは相手にされないのです。大切なのはこれから。考えを改めましょう。
 最初の作品を出すまでは、横一線の一年目です。作品を書いたら、自由なタイミングで提出しても良いそうです。それでも上年目は読んでくれると言います。しかし、やはりターゲットは一年誌です。そこで良好なスタートを切るために、わたしはできることを考え始めました。犬やら墓場やらのモチーフは、忠犬のドキュメンタリー的な話に仕立てておきましょう。

 最初はほとんどの人が集中して取り組んでいた三題噺でしたが、一時間も経つと結局、散漫な雰囲気になってしまいました。完全にコンパまでの待ち時間と化しています。上年目も互いに雑談していたり、たまに一年目を見回したりで、あまり場をまとめるつもりはないようです。そんな中、先生は原稿用紙の四枚目に突入し、周囲など気にしないモードに入っていました。和泉さんはイヤホンで何かを聞きながら、キーボードに伏せていました。間に挟まれたわたしは……身動きが取れません。
 先のことも大切ですが、そろそろ気分転換をしたい頃でした。左右がダメなら後ろ、ということで振り返ると、かわいらしい同期の女性がいました。名前を思い出し、手の止まったタイミングを見計らい、さあ、ナンパしましょう。
「朝倉さん。調子はいかがですか?」
「あっ、えっと……まあまあ、かな」
 少し驚かせてしまったようです。彼女はわたしと同じ文学部の、朝倉香奈実さんです。見かけたことはありますが、話すのは初めてでした。自己紹介ではあまり情報をくれなかったので、無難なところからアプローチします。
「三題噺って、結構悩んじゃいますよね。どのキーワードを選んだんですか?」
「犬と、墓場と、子泣き爺かな。ありきたりだけど」
「いえいえ。三題噺は、キーワードの味付けが要と言いますからね。というか、わたしも墓犬、選んだんでした」
「そうだったんだ……」
 正直、煙たがられているような気がします。朝倉さんが悪いわけではありませんが、コミュニケーションは全然円滑に進みません。アプローチを変えます。
「自己紹介がまだでしたね。わたしは中津です。こっちの浦川ともども、地元の豊橋という高校の出身です。朝倉さんは、どちらから?」
「豊橋高なんだ。私も地元だけど……」
 恥ずかしそうに朝倉さんが教えてくれた出身校は、あまり耳馴染みのない中堅の進学校でした。というのも、文芸部の地区大会には出場していなかったのです。しかし文芸部は存在していて、朝倉さんは部員だったと言います。
「あそこ、文芸部あったんですね。知りませんでした。実はわたしたちのところも、二年前までなかったんです。わたしと先生が発起人になって、部を作ったんですよ」
「そうなんだ。すごいね」
 自己紹介をしたのが功を奏したか、朝倉さんが少し心を開いてくれたような気がします。同じ人見知りでも、他人を寄せ付けないわけではない、付き合いやすいタイプのようです。
「わたしは編集専門だったので、編集班に入ろうと思うんですけど、朝倉さんはどこか興味ありましたか?」
「私は、編集とかやったことないし、絵も上手じゃないから……企画班だったら、何か役に立てるかなと思って」
「企画班、いいと思いますよ」
 そんな感じで少し話して、朝倉さんと打ち解けることができました。本当はどんな作品を書くのかとか、趣味とか、気になるところもありましたが、あまり執筆の邪魔をするのも申し訳ないので、適度に切り上げます。
 さて、いよいよ新歓コンパが近づいています。遠慮せず話すことができる機会に、誰と過ごすかはとても大切です。しかしわたしには、気になる人がとてもたくさんいます。もはや先生の相手をしている場合ではありません。和泉さんや朝倉さんと親睦を深めるか、新井くんをはじめ、まだ話していない一年目や上年目へ手を伸ばすか……組み合わせは、ちょうど十一人から三人くらいになりそうでした。
「そろそろ時間ですね。今日書いてもらった作品は、完成したら自由に投稿してくれて大丈夫です。もちろん一年誌に出してもOKです。それではこの部屋を片付けて、お待ちかねの新歓コンパへ出発しましょう!」
 明石さんのアナウンスが始まった瞬間から、明石さん本人を含め、ほぼ全員の意識が新歓コンパへと向いたのは、すぐに片付けが始まったことからも明らかでした。先生は惜しくも大詰めの部分で書き切ることができず、切り替わる流れに若干の抵抗を見せましたが、和泉さんに促されて諦めざるを得ないようでした。

 大学からコンパの会場までは歩いて三十分ほどでした。途中までは変わらず先生や和泉さんと歩いていましたが、建物に入るときのどさくさに紛れて、お目当ての人に近づく作戦なのでした。
「初めての新歓コンパ、楽しみですね」
「肉食うぞ!」
「……しゃぶしゃぶ、だったか。かように豪勢なもの、本当に食べて良いのだろうか」
「どゆこと? 肉はおかわり自由みたいだし、限界まで食えってことでしょ」
 おごられ慣れていない先生は、まだ抵抗があるようです。しかし新入生の分際でそれを気にするのは野暮というものでしょう。目を離すことに心配はありましたが、和泉さんが先生の近くに座るつもりのようなので、押し付け……任せてしまうことにします。
「先生、わたしは今回、違う方と一緒に座ろうと思うので、和泉さんとよろしくやってくださいね」
「フミそうなの? まあいいけど」
「……わかった」
 朝倉さんへのアプローチといい、今日のわたしは出会い目的かのような振る舞いをしていますが、これは業務上必要なことであり、下心があるわけではありません。ターゲットをとっかえひっかえするのも浮気なものですが、やはり早いうちのコミュニケーションが大切です。全く話さないまま一週間、二週間と経ってしまったら、その後の声の掛けにくさは爆発的に上昇します。
 そんな打算があり、今回のターゲットは新井くんに決めました。このような機会でなければ、自然と会話になる場面が想像できなかったのです。わたしにとっては幸いなことに、三人の一年目男性陣の中で、新井くんは浮いていました。道中は山根さんや八戸さんと話していたようです。
 建物に入り、エレベータに乗るタイミングで、すっと新井くんの隣に位置取ります。案の定、店では四人ずつのテーブルに分けられることになりました。なるべく一年目が二人、上年目が二人になるように座っていきます。わたしは首尾よく、彼の隣に座ることができました。向かいに座ったのは山根さんと、編集長の樋田さんです。樋田さんは、わたしがこの席で紅一点になることに気を遣って来てくれたのでした。
「山根くんは烏龍茶ですね。お二人は飲み物いかがなさいますか?」
「わたしも烏龍茶でお願いします」
「では、それで」
 席に着くなり、樋田さんは手早くドリンクの注文を取ります。飲み会慣れしているのでしょう。店員さんが巡ってくると、わたしたちの注文を伝えた後に、ワンテンポ置いて自分の注文を宣言しました。
「では、私はビールで。お先に失礼します」
 優しく清楚なふうに見えて、割と大胆な人だと思いました。仕事をそつなくこなすところは、編集長として鍛え上げられたのでしょう。三年目の中でもかなりのパワーを持っていそうな感じがあります。
 ちらりと他のテーブルを見て先生を探すと、男性二人と対面していました。一人は八戸さんでしたが、もう一人はなんと、学ランに学帽、丸眼鏡というコスプレを疑うようないで立ちでした。説明会で似たような人を見かけた気もしますが、正体不明です。
 向こうのことも気になりましたが、今は自分のテーブルに集中しましょう。とりあえず、新井くんに声を掛けることにします。
「新井くんでしたよね。はじめまして。わたしは文学部の中津です」
「新井です。よろしく」
「関西の方ですか?」
「一応、中学と高校は兵庫だったので。でも、出身は北海道です。十三までいました」
 彼の微妙に違和感のある関西訛りは、後から影響を受けたためにそうなっているようです。北海道では札幌の近郊に住んでいて、親の転勤で兵庫へ移ったとのことでした。
「すると、北海道に思い入れがあって、この大学を選んだとか?」
「ああ、そうです。作品のロケーションとして、いい場所がたくさんあって。この間も、取材に行ってきたんです」
「例えば、どういう場所がお気に入りですか?」
「えっと……」
 まず挙げられたのは、北海道の二つの湖でした。それぞれ引っ越す前に巡った記憶があり、そこを舞台にして作品を書いたことがあるそうです。取材に行ったのも、また別の湖でした。
「湖が好きなんですね?」
「書きやすくて。湖の化身の女の子と、交流する話なんです」
「ほうほう。湖の擬人化とは、変わったご趣味をお持ちですね」
「まあ……」
 本人はそれを、現代的な民間伝承のイメージで書いているそうですが、割り切って萌え萌えにした方が受けそうだと思ったのはわたしだけでしょうか? 新井くんはそういう点で若干堅苦しく、生真面目なところがありそうです。
 そこでドリンクが運ばれてきて、間もなくお肉と野菜が続きます。盛り上げ担当の明石さんの音頭で乾杯をして、野菜を入れた鍋が温まるまで暫しの待ち時間です。
「中津さん、だったよね? 編集に興味があるって言ったの」
 ジョッキ半分のビールの入った樋田さんが、早速前のめりになってきました。
「はい。高校時代も部誌の編集をしていて、それから将来も、編集や校閲の仕事がしたいと思っています」
「じゃあもう、編集班に入るしかないね! 今日から君は編集班員だ!」
「はい、喜んでお引き受けします」
「いやあ、これで我が編集班は安泰ですよ。ねえ、山根くん」
 この勢いは、わたしでもなかなか手応えがあります。山根さんも思わず苦笑いでした。
「樋田さんは、飲むとこんな感じなんだよね……新井くんは、興味のある班はあった?」
 地味ながら冷静なナイスプレーです。わたしもその話題には興味があります。
「えっと……もう少し考えたいですけど、企画班に興味があります。楽しく文芸をしていきたいと思っているので」
「なるほど、ちょっと意外です」
 てっきり真面目な彼のことなので、どこにも属さず文芸に専念するか、編集班で全体をまとめるかのどちらかだと踏んでいました。
「明石さん目当てでは、ありませんよね?」
「そんなことないです」
「ふふふ、無駄だよ。明石ちゃんには松戸さんという、素敵な彼氏さんがいるからね」
 それは戯れに言ったつもりでしたが、樋田さんから重要そうな事実を引き出すことに成功しました。たなぼたです。松戸さんというのは、六年目の方だそうです。大学院に進んでもなおこまめに参加してくれて、それでいて老害っぽさのない、偉大な存在とのことでした。山根さんも否定しなかったので、誇張抜きでそうなのだと思います。
 その辺りからお肉も食べ始めて、話題は樋田さんの主導でどんどん切り替わっていきました。樋田さんも旅行が好きで旅行サークルにも属しているそうですが、特に電車が好きということで、春休みに道東へ行ったときに見たSLについて熱く語ったりしていました。
 わたしはもう、流れに任せるだけになってしまいましたが、お肉の美味しさの前には当初の目的などどうでもよくなります。実際、新井くんとそれなりのひと時を過ごすことができましたし、きっと大丈夫です。
 そんな感じで新歓コンパは終わりました。二次会もあったそうですが、帰りが遅くなるといけないのと、お酒を飲むわけでもないので、わたしや先生、新井くんを含む一年目の半数はそこで帰りました。一年目で参加したのは和泉さんと朝倉さんほか二名だそうです。
 帰り道、先生はとてもお疲れの様子でした。上年目の絡みがきつかったとのこと。それ以上は話したがらなかったので、また後日聞くことにします。

 定例ミーティング、通称部会は毎週火曜日の放課後です。わたしは五限が空いていましたが、先生は実験があるとのことでした。
 その日は特別に、例会だというアナウンスが全体のメーリングリストで流れていて、部員は原則として参加しなければならないという旨が強調されていました。つまり、多くの人と出会うチャンスです。しかし幽霊部員が四十人もいるのは、大丈夫なのでしょうか?
 食堂の二階を訪ねてみると、半分くらいのサークルは新歓が終わって撤退したのか、やや静かに感じました。文芸部のボックスは、六人いて満員です。
「お疲れ様です」
「中津さん、お疲れ。ゲームする?」
 声を掛けると、下野部長が応じてくれました。他には既に和泉さんや新井くんの姿もあります。机には数字の書かれた見慣れないカードが広げられており、六人で遊んでいたのがわかります。
「ゲームですか?」
「そう。賭けとかじゃなくて、ただ例会まで暇だからね」
「わかりました。参加します」
 隣のボックスが空いていたので、座らせてもらいました。部長がルールを説明してくれます。このゲームも部長が持ってきたとのことでした。残りの三人は、初めて出会う一年目が一人、二年目が二人でした。挨拶をしてから、ゲームを始めます。
 ルールは手札の数字が書かれたカードから一枚を選んで全員一斉に場に出し、それらを並べた結果によってマイナス点がついたりつかなかったりするという、単純かつ運の要素が強いものでした。誰かを意図的に攻撃するようなことはできず、その場その場の結果にそれぞれ一喜一憂したり熱くなったりしながら、平和に進みました。
「ところでフミ、今日はアキと一緒じゃないの?」
 あるところで、和泉さんが先生のことを尋ねてきました。
「先生は実験だそうですよ。生物と、地学だとか」
「うわ、あいつ勝ち組か」
 理系の必修科目であるその実験は、四つのコースから二つを履修するのですが、それが抽選で振り分けられるそうです。地学は特に楽でありながら定員が少なく、壮絶な倍率になるのだとか。抽選で負けた和泉さんをはじめ多くの人は、物理と化学の組み合わせになるそうです。
「先生って、浦川さんのこと?」
 そして、ほかの誰もが抱いたであろう質問を、部長が代表でしてきました。
「はい。わたしが勝手に呼んでいるだけですが、一応、浦川はわたしの自慢の先生です」
「今年の一年目、濃いなあ。だって新井くんは師匠なんでしょ?」
「師匠、とは?」
 いつの間にか、新井くんが「師匠」と呼ばれるようになっていました。てっきり文芸の経験から、そう呼ばれていると思ったのですが。
「こいつさ、入学して三日目に、クラスの女子と二人でデートしてんの! 取材旅行とか言ってさ!」
 和泉さんがずばっと説明してくれました。その英雄的行動を称えて……言わずもがな、半分はからかいで……師匠と呼ぶことが決まったそうです。本人はそれについて黙秘していました。口が巧いわけでも、風貌が優れているわけでもなさそうな彼ですが、そういうところの行動力はあるようです。
「なるほど、取材旅行デートですか……参考にさせてもらいます!」
 わたしは思い付きで喋って、適当に場を盛り上げました。しかしわたしは、先生と出かけたことはあまり多くありません。実際、先生の作品には取材が必要というわけでもないので、わたしと先生ならただの旅行かデートになってしまいます。下心ばっかりです。
 何ゲームかすると、だんだん部員が集まってきました。ソファーに詰めて四人で座ったりして、ゲームの参加人数も十人になりました。そんなときです。
「あ、高本さんだ」
 席替えをしてわたしの隣になった和泉さんが、ボックスを遠巻きに眺める上年目の姿を認めました。ストライプのYシャツを着て丸眼鏡を掛けたその男性は、コンパで見かけた学ラン姿の人物とほぼ一致します。
「この間のコンパで、和泉さんの向かいに座っていた方ですか?」
「そうだね。二年目の高本さん。文学部で、八戸さんとは悪友って感じ」
 そう紹介された高本さんですが、何故かボックスに近づいて来ようとしません。それどころか、こちらの様子を睨みつけるように窺っているようです。
「高本さん、何かあったのでしょうか」
「さあ。見た目通りちょっと変わった人だからね」
 少し目を離した間に、高本さんはどこかへ行ってしまいました。上年目の人たちは、それがあまり不思議ではないという様子でした。
「例会には来るでしょ」
 下野部長に言わせても、そんな感じです。わたしもあまり気にしないことにしました。
「ところで、今日の例会はどんなことをする予定ですか?」
「一つ、マニュアルの承認があるけど、夏部誌の編集を決めるのが一番だね。それから、一年誌の編集長も決めるよ」
「部誌制作が始まるんですね」
「メールドライブは見た? この後一年生にも合評には参加してもらうから、ちょっとでも目を通しておくといいかもね」
「一応、覗いてみました。下野さんも出されてましたね」
「そうだね。これから忙しくなるよ」
 部誌に作品を出すのは任意で、初稿を締め切りまでに提出することでそのラインに乗ることになります。そして、この例会で作者のパートナーとなる、編集が割り当てられるということです。その作者である下野部長の表情は、やや悩ましいものでした。これから部誌に作品を載せようという人がそのような顔をするところを、わたしは見たことがありません。
 ちょうどゲームが終わり、五限の終わりの時間になっていました。周囲にはもう、二十人くらいの部員が集まっています。ゲームは楽しいものでしたが、初めての例会を控えた今になると、わたしはにわかに不安めいた緊張を覚えるのでした。それは楽しいばかりではない、組織としての文芸部が見えてくることへの感情です。何より集まった上年目の雰囲気がどこか気だるく、面倒事の起こる予感をしているかのようで、わたしはそれが思い違いであることを願うしかありませんでした。

 それがまさか、このようなことになるとは……。
 現在七時を回って、例会は始まってもいません。なんと、規約により例会は部員の三分の二を集めなければならないそうなのです。入部、退部を差し引いて、あらゆる部員に連絡をして、それでも数名届かない状況でした。
「連絡来ました! 部長に委任です」
「よし、これであと……」
「こっちも来ました! 棄権するそうです」
「行ったかな?」
 実際、一年目にも連絡をせず欠席している人がいるそうですが、いずれにせよかなり理不尽な待たされ方だと思いました。規約がメールドライブに上がっていたので和泉さんに見せてもらうと、この例会、年三回は開かれるそうです。この部の最高議決機関だそうですが、今回の例会としての議案は、「部誌掲載要項改正案の承認」一つでした。その要項は、作者が部誌に作品を掲載するための条件を定めたものですが、それに編集の役割と権限を明記しようという話でした。
「はい! 皆さん、たいへん長らくお待たせいたしました。部員七十七名に対して、出席、委任、棄権が五十名に達しましたので、本例会を成立と見做します」
 定刻から四十分は遅れているでしょうか。しかし、本当に大変なのはここからでした。まず本題となるその議案の審議から始まったのですが、「編集は作品が合評を行うレベルに達していないと判断した場合、取り下げを編集班に申請することができる」という一文が賛否両論で大炎上して、わたしたち一年目はわけがわからないまま、感情入り混じる紛糾の様子をただ傍観するほかありませんでした。もはや拷問です。
 下野部長や樋田編集長も、これほどの反発を受けることは想定外だったらしく、疲弊しているのがはっきりとわかりました。この議案は三年目中心の会議で作成されたようなのですが、そのさらに上の人たちが、「編集に判断を任せてよいのか」とか「取り下げの是非は」とか「そうならない対策が先」とか、徹底的に叩いている構図のようです。それらの主張ももっともではありますが、判断できるほどこの部を知らない一年目にとっては、巻き込まれてたまったものではありません。
 すったもんだの末、その一文が一部否認という形で、一応の決着がつきました。そして、そこからの編集決めが、また手間取ったこと……。教養棟の教室を使用できるのは九時までで、そのタイムリミットのギリギリで、無理やりに決まったという感じでした。もう一つの予定だった一年誌の編集長と副編集長は、わたしと和泉さんにすんなりと決まりました。
 正直、その例会のことは、思い出しても疲れてしまうほどです。翌朝何事もなかったかのように、メーリングリストに議事録が流れたのを、なんだか恨めしく感じました。よく見ると、その議事録を作成した書記はあの高本さんだったのですが、それはまた別の話として。

 二年目にも一年誌を監督する立場の人がいて、上年目編集長と呼ばれています。次の日わたしと和泉さんはその人に呼ばれて、ボックスに来ていました。
「えっと……中津さんと、和泉さんでいいかな」
「はい」
「よろしくお願いします」
 上年目編集長は、文学部二年生の大藤さんでした。寡黙な男性という印象です。実は昨日、ゲームにも参加していたのですが、あまり一年目と直接コミュニケーションを取っていなかったので、どのような人なのかまだよくわかりません。
「じゃあ、一年誌のこれからの流れと、編集長の仕事について説明します。紙にまとめてきました」
 早速大藤さん手作りのマニュアルに沿って、説明が進みます。言葉での説明は得意ではない様子でしたが、マニュアルのまとめ方は上手く、そこは文芸部員という感じです。
「あ、お疲れ」
 その途中、高本さんがボックスにやって来ました。昨日と同じような服装で、何か書類の束を脇に抱えています。大藤さんは、何気なく挨拶をしただけなのですが……。
「大藤さん、お疲れ様です」
 丁寧な言葉に似つかわしくない、険しい顔で高本さんは応じました。
「お二方は、一年誌編集長の中津さんと和泉さんですか」
「はい。中津です。よろしくお願いします」
「お疲れ様です」
「中津さんは、初めてですね。文学部、表現文化論講座二年の高本健一です」
 わたしたちには不気味なほど不自然な笑顔で、ご丁寧に所属まで名乗ってくれました。八戸さんよりも得体の知れない、変わった人だと思いました。机に広げられた書類を見ると、作品のようです。高本さんは、自身の作品の編集との打ち合わせのために来たとのことでした。
 一年誌について説明を聞きながら待っていると、高本さんのパートナーに当たる男性が見えました。同じく文学部二年の江本さんです。わたしたちは同じように挨拶を交わしましたが、江本さんは幾分クールで、フラットな方という印象を受けました。二人は対照的、というか江本さんのほうが、高本さんの一方的な歯止め役なのでしょう。しかし仲はとても良いように見えました。
 全体の流れの説明はすぐに終わり、一年誌に作品を出す意思がある人を取りまとめる仕事が与えられました。
「メーリングリストに連絡を流して、わたしのメールアドレスで返信を受けるようにすれば大丈夫ですね」
「そうだね」
 待つだけの簡単なお仕事です。そもそも初稿の締め切りは六月の第一週にある学校祭が終わった後なので、まだ余裕があるのでした。このタイミングで掲載希望者を募るのは、来週の部会でそれぞれに上年目をサポーターとして一人ずつつけることになっているからです。
「あたしは何かやることある?」
「特になさそうですね。活動が本格化してきたら、お願いしますよ」
「そっか。じゃあいいや。忙しいし」
 そこで、わたしと和泉さんは、目で合図を交わします。
「それでは、今日はここで失礼します。大藤さん、ありがとうございました」
「失礼します」
 和泉さんが先に席を立って、わたしも続きました。実は、終わり次第適度に切り上げて、二人で話そうという打ち合わせをしていたのです。わたしたちは、一階の食堂に場所を移しました。四限の比較的空いている時間帯です。
「あのさ、この部実際どうよ? 昨日の例会とか、少し嫌な感じじゃなかった?」
「そうですね……運営の下野部長や、周囲の人たちと、一般の部員との意思疎通があまり取れていないのだと思います」
「さすがにちょっと、空気の悪いところ見せちゃったよね。この忙しい時期にあれは、控えめに言ってあんまり印象良くないよ」
 和泉さんはやや疲れの見えるトーンで、不満を漏らしました。わたしもほとんどそれに共感できました。
「これで、他の一年目の皆さんが、離れていかなければ良いですが……」
「それも仕方ないだろうね。あたしらはせめて、少しでも互いに居心地の良いようにしたいね」
「はい。頑張りましょう」
 スマホを確認すると、先ほどのメールに一年目からの返信が四通届いていました。その中には、新井くんや朝倉さんの名前もあります。ひとまずこの人たちは離れていかないのだと思うと、疲弊した心の中に少しだけ安堵の感情が生まれました。

 雪はすっかり解け、道端にはフキノトウのなれの果てが目立つ季節です。ミズバショウも、葉が育ってきて見頃は終わったという感じです。代わりに花木園では、クロユリが見られるようになりました。非常に珍しく、殖やすのも難しい植物なのだとか。
「最近、綿毛が飛んでますよね。どこから来てるんでしょう?」
「知らないのか? これはポプラの綿毛だ。すぐそこから来ているんだ」
「そうだったんですね」
 少し暖かくなったせいか、ポプラの種が飛んでいるのでした。そこらを白い綿毛が常に漂っているのは、不思議な感じがします。初冬の雪虫のような風物詩です。たまに吹き溜まりがあって、緑の芝生の中に羊毛のような綿毛の山ができているのは、この都会の真ん中にあっても牧歌的で、ややメルヘンな雰囲気があります。
「ところで先生は、一年誌に出されますよね?」
「そうだな。会うだろうと思っていて、言ってなかったが」
「まあ、今まとめるのは上年目サポーターを付けるためなので、初稿の締め切りまではいつでも飛び入りできるんですけど」
 ちなみに今日もここまで来ているのは、天気が良かったからです。半分嘘です。本当は、先生がなんとなく、ボックスに近づきがたいと言い出したからなのでした。
「執筆は進んでいますか?」
「最近、忙しかったからな。少ししか進んでいない。書くことを忘れはしないのだが、長く時間が取れず、なかなか進まないのだ」
「難しいお悩みですね。和泉さんも、忙しいって言ってました」
 結果として、あの部が先生の本当の居場所となるには、もう少し時間が掛かりそうでした。そんなときは来ないかもわかりません。わたしとしてはせめて、一年誌を完成させるまでは辛抱していようと思うのですが、その先のことはまるで見えません。
「……七月になったら、取材旅行でも行きませんか」
「取材か。特に行きたいと思うようなところはないが……」
 先の楽しみになるかと思って、先生にデート、もとい取材旅行を持ちかけてみましたが、渋られてしまいました。それはそうなのです。新井くんがどのような手を使ったのか、わたしには想像がつかないのでした。
「ところで先生、高本さんの作品読みましたか?」
「ああ。明日、合評だったな」
 裏では夏部誌の合評が始まります。一年目はまだ参加者に含まれていませんが、どこかで見学に行くことを勧められています。そこでわたしと先生は、互いに都合の合う土曜日の合評に参加することを決めました。それが高本さんの合評だったのです。
「締め切りが早めなのはありがたいですね。高校では、前日に原稿配布とか普通でしたし」
「互いに忙しいのだ。そのくらいでないと困るのだろうな」
 合評稿の締め切りは合評の三日前必着になっていて、合評が土曜日なら締め切りは水曜日中です。それはちょうど、ボックスで高本さんに会った日でした。
「そういえば先生、新歓コンパで高本さんと同じテーブルでしたよね?」
「ああ……」
 なんとなくの興味で、地雷を踏んでしまったことがわかります。先生は苦い顔をしながらそのときの様子を聞かせてくれました。
「あの高本という男は、女に飢えているのだそうだ。『お目出たき人』のようにそう言っていた。そのことについて、酒を呷りながら八戸とずっと話していた。意中の人がどこかの体育会系サークルにいて、しかしその人に付きまとう男がいるとかどうとか……」
「『お目出たき人』って、武者小路実篤ですか」
「ああ。近代かぶれだ」
「それであのような格好を……」
 八戸さんとはまた別のベクトルで、文学にのめり込んでいる人のようです。寮生ではないとのことでした。
「というか、それって今回の高本さんの作品の話じゃないですか? 旧字旧かなの私小説だったんですね、あれは」
「そうだな」
 作品まで近代風という徹底ぶりは、それ単体なら尊敬に値すると思います。前の部誌にも高本さんの作品は載っていましたが、作品と作者が一致した今、深い納得に至りました。
「先生は、高本さんには目を付けていなかったんですね?」
「内容はそこまで、興味を持つほどのものではなかったからな」
「そうでしたか」
 変わり者の多い二年目の全貌が明らかになってきます。他にも二年目は十人近く確認できていますが、この辺りが主要人物とみて間違いないでしょう。ほぼ確実にこの中から、次代の部長や編集長が……。
 まだ入部したばかりなのに、文芸部のことを考えると気分は重くなります。綿毛の舞うこの穏やかな春に溶け込んで、まっさらな気持ちで過ごす未来はあったのか……ということも、思わず考えてしまうのです。

 場合によっては合評でも、例会のときのような炎上が巻き起こるのではないか……そんな不安を抱えて見学しましたが、編集の江本さんが上手に作者と参加者の間を取り持って進行をしてくれたため、概ね順当に成果の多い合評となりました。
 しかし、参加者は三年目や四年目が中心で、既に高本さんの人格や傾向についてよく知っていたこともあり、「私小説だから」と主人公の行動や考えについて、あまり批判的に検討されていなかった面があるようにも感じました。先生はその点にも意見していましたが、高本さんや江本さんに受け入れられたかどうかはわかりません。
 それにしても実際、最初に見学する合評としては難しすぎたのか、他に見学の一年目はいませんでした。合評稿は次々と上がっていて、月曜日の今日は樋田さんの詩の合評でした。
 三限の時間に一人でボックスを訪れると、人が五人いました。まず下野部長と大藤さんの姿が目に入ります。
「お疲れ様です」
「フミ。ちょうどいいところに」
 和泉さんと新井くんも一緒に、五人でカードゲームをしていたのです。もう一人は、二年目で文学部の黒沢さんです。挨拶を交わしたのは、最初の説明会以来でした。
「このゲームは何ですか?」
「サムライ。なんか、人狼みたいに自分の役職を隠しながら、敵を見つけて倒すゲームね」
 大藤さんが持ってきたゲームのようです。こんなふうに、ボックスに暇な人が集ってゲームをしている光景を、わたしはごく当たり前のように感じ始めていました。
「人数多いほうが楽しいから、フミもやろうよ」
「わかりました。よろしくお願いします」
 先日のゲームと異なり、プレイヤー同士で殴り合うゲームです。草薙の剣で将軍を刺しに行くような展開もある、とてもエキサイティングな世界観でした。自分のアバターとなる武人にもそれぞれ個性があり、作り込まれたゲームだと感じます。
「そういえば中津さん、高本の合評に行ったんだね?」
 つい真剣になってしまい、あまり雑談をしている余裕はなかったのですが、あるとき下野部長がそんな話題を持ってきました。
「はい。まあ、思ったより平和な合評でした。江本さんのおかげだと思います」
「そっか。それは良かった」
 下野部長の興味はそれで満たされたようでしたが、そこで和泉さんの口が動きました。
「高本さん、この間の二次会で部長になるって宣言してましたけど、あれ本気なんですか?」
「いや、それは……今は触れないでいて」
 黒沢さんがそう言って顔をしかめ、大藤さんは黙ったまま目をそらします。それはもう、誰の目に見てもタブーだったのだとわかる反応でした。
「……わかりました、すみません。続けましょう」
 部の予定表には、七月に役員選挙があると書いてありました。つまりあと二か月です。これから運営の中心を担う二年目の中では、そういう話がされていてもおかしくない時期でしょう。それが今、まさにタブーとなっているのです。和泉さんもあっさりと引き下がりましたが、空気の重さを感じたのか、すぐさま話題転換に動きます。
「えっと……ところで師匠は、この間デートした子とはどうしてるの?」
 話題の変え方は雑でしたが、急場をしのぐには十分でしょう。新井くんの近況は、わたしも気になります。
「ああ……まあ、たまに話す程度かな。というか、デートやないって。取材旅行。今度、一年誌にその作品出すから見とき」
「新井くん、それはそれで女誑しではありませんか?」
「浮かれてたんやって。あれはあれで、楽しかったけどな」
 反省の色があるのかないのか、よくわからない反応です。それにしてもこの人、いつの間にかかなりフランクに話すようになりました。この場にそれだけ居ついているようです。わたしたちのやり取りを見て、大藤さんや黒沢さんは緊張が解けたのか、元のようにゲームに興じていました。すると和泉さんは何かスイッチが入ったようで、新井くんへの詰問をエスカレートさせます。
「じゃあさ、新井的には、この部にかわいいと思う人とかいるわけ?」
「は?」
 これもこれで、危ない質問ではあるわけですが……わたしは見守ります。わたしや先生が指名される可能性は考えないようにしました。ないとは言い切れません。
「いや……答えないって。和泉は違う」
「文芸の経験あるって言ってたじゃん。アキとか気にならない? 浦川ね」
「浦川さん……まあ、話してみたい気はするな」
「じゃあ、フミは?」
「いや、本人の前やぞ」
 そうです。勘弁してください。と、和泉さんに目で抗議しますが、無視されました。その後も和泉さんのお節介は続きます。この二人、思ったよりボックスに足繁く通っているらしく、部員の顔と名前がかなり一致しているのがわかりました。そしてとりあえず、新井くんは今、取材旅行の人も含め、誰かと付き合っているとか、誰かが好きだとか、そういう話はないという結論が出ました。和泉さんはとても不満げで、その後のゲームで意図的に新井くんばかり攻撃していました。

 その週から、一年生は六限期間に入りました。足りないコマ数を補うために、特定のコマの講義が六限にも行われるのです。該当する科目を取っていなければ何もありませんが、五週間で実に十五コマがカバーされるので、全てを回避するのは不可能です。
 わたしはその日、六限の講義はありませんでしたが、放課後の部会にはしっかりと影響がありました。六限が終わる八時頃までは、部会を行うための教室も空いていないのです。そういうわけでボックスに行ってみると、ゲーム大会の様相を呈していました。中には合評を控えて編集との打ち合わせなどをしている人もいましたが、多くの人は、大藤さんや下野部長が持ってきたゲームで時間を潰していたのでした。
 そして、その様子を少し離れたボックスから、冷ややかに見ている三人の集団に気付きました。高本さん、八戸さん、そして江本さんです。特に高本さんは、それはそれは怨恨の込められていそうな目でこちらを睨んでいました。わたしは意を決して、三人との接触を試みます。
「お疲れ様です。皆さんは、ゲームはお嫌いですか?」
「あなたも! 彼らの味方をするんですね!」
 友好的に話しかけたつもりでしたが、高本さんはいきなり頑固親父のように激高しました。すかさず江本さんがなだめます。
「ああ、僕らのことは気にしないで。ごめんね」
「高本は、自分が入っていけないから、みんながゲームで楽しんでるのが気に食わないんだよ」
 八戸さんが、その高本さんの心境を端的に説明してくれます。推測はしていましたが、概ねその通りでした。高本さんがあの場で一緒にゲームをしているところを、わたしは想像することができません。かるた遊びくらいなら、ありうるかもしれませんが……。
「当然ですよ。ここは文芸部です。何故、文学に真剣に取り組んでいる私たちが、こうして肩身の狭い思いをしなければならないのですか!」
「まあまあ、落ち着いて」
 それで、自分たちにとって居心地の良い環境を作るために、部長になろうとしている。高本さんの主張は確かに正当なものだと思います。しかし、正当さだけで人を動かすことができないということは、大人ならば知っておかなければいけない暗黙知です。わたしは瞬間的に、この人たちの味方をしたくはないと思いました。
「失礼しました。高本さん、合評を経て作品は良くなりましたか?」
 逆に敵視されるわけにもいかないので、あくまで友好的に話題を探ります。
「それは、まあ、悪くはないですね」
「中津さん、合評に来てくれたよね。ありがとう。貴重な意見をもらったと思ってるよ」
「それはきっともう一人の、浦川だと思います」
 とりあえず、高本さんは落ち着きを取り戻したようです。
「中津って文学部だっけ。有島武郎って知ってる?」
 横から八戸さんが、いつもの試すような調子で質問してきました。
「はい。札幌農学校の卒業生で、校歌の詞の作者でもあるそうですね。入学式で聞きました」
「作品は読んだことある?」
「はい、多少は」
「それでこそだよなあ」
 わたしも文芸人であり文学部に進む者として、文学に関するトピックスにはしっかりアンテナを張っているつもりです。だからと言って、文学が絶対で至上であると思っているわけではないと、(口にはしませんが)ここで断っておきます。
「そこらの奴なんてさ、有島武郎の名前すら知らないでやんの。それなのに自分は素晴らしい文芸をやってますみたいな顔しちゃって、嘆かわしいね」
 ですから、わたしは八戸さんの味方もするつもりもありません。こんなことでは、せっかく真面目に文学を学んで文芸に取り組んでいるのに、悪い印象が足を引っ張るばかりです。八戸さんに関しては、見下すだけで特に何か働きかけをしようという気もないようですが、いずれにせよ厄介者扱いされてもおかしくはないと思いました。
 江本さんはともかくとして、あまり気分の良い人たちではありません。適度に腹の内を探ることができたので、わたしはその場を離れることにしました。六限が終わるまで、図書館で時間を潰していました。

 その日の部会は出席者が二十五人くらいで、一年目も、一年誌に出したいと連絡をくれた人以外は来ていませんでした。連絡をくれた人も、遅い時間のためか何人かは来られないと聞いています。
 それにしてもこの間の例会とは正反対の落ち着いた雰囲気で、一年誌のサポーターもすんなりと決まりました。詩を出したいと言った和泉さんには樋田さんが、先生には三年目の上尾さんという男性がつきました。
 後から確認してみたのですが、上尾さんは文学部で、編集班の方でした。今回の部誌に作品を出されていますが、本人は山根さんに近いタイプで、作風はとても真面目なリアリティ重視の書き手でした。先生との相性はまずまずだと思います。
 その日の部会は他に学校祭の話や部費の話などもしたのですが、それはともかくとして、本題は終わった後にありました。
「アフター行きたい人!」
 部会が終わり帰ろうとする部員に向けて、明石さんが人差し指を高く掲げて見せます。アフターとは、要するに食事会です。一年目もおごりではないとのことでしたが、興味があったので、今日は先生と一緒に参加することを決めていたのです。昼から何も食べていないので、いい加減お腹が空いています。部会中も若干鳴りました。
 その会場は、近所の中華料理屋でした。鳳華苑というその店は、文芸部員が代々アフターでよく行く店の一つだそうです。
 参加者はわたしたちを含めて八人で、一年目では朝倉さんが参加していました。道中、声を掛けてみます。
「朝倉さん、お疲れ様です」
「あ、うん。お疲れ。中津ちゃんも浦川ちゃんも、実家だから参加しないのかと思ってたよ」
 アフターは前回の例会のときからあったわけですが、そのときは家で食事の用意がありましたし、疲れていたので参加しなかったのです。
「そう言いますけど、朝倉さんも実家から通ってますよね?」
「そうだね。私はコンパとかも、いろんな人と話すのが楽しいから、なるべく参加したくて」
 朝倉さんらしいまっすぐな動機が伺えました。人間関係を探るとか、そういうことばかり考えていた自分が少し恥ずかしくなります。楽しむことは忘れずにいたいものです。
「一年誌、出されるんですよね。えっと、上年目サポーターはどなたでしたっけ」
「私? 明石さんだよ。あんまり、サポートしてもらうって言っても、自分の遅筆さがいちばん不安だから仕方がないと思うけど……」
「最近、忙しいですからね。ガイダンスのときの作品ですか?」
「そうだね。今はそれしか、書いてないから」
 店に着いたわたしたちは、個室のボックス席に案内されました。ちょうど八人で席が埋まります。わたしたちは一年目三人で、明石さんを囲む形になりました。明石さんはとても嬉しそうです。
「一年目に囲まれちゃったなあ。朝倉ちゃん、一年誌のことで困ったら何でも言ってね! ゴーストライター以外なら何でもするよ!」
「ありがとうございます……よろしくお願いします」
 注文を待つ間、話題の中心は朝倉さんのことでした。主に明石さんの主導です。
「朝倉ちゃんは、何か好きなジャンルとかあるの?」
「あの……軽いミステリーとか、ホラー系が好きです」
「その辺りか。私もミステリーは好きだよ。じゃあ、書くのもそういうやつ?」
「書くのは、上手くないので……ホラーを書こうとしても、ジャンルがよくわからない作品になってしまったり」
 ホラーの近辺が好きだという人は、これまであまり出会ってきませんでした。ましてその書き手となると、実際に作品を読むのが楽しみになります。
「朝倉は、地元出身だと言っていたよな。文芸部だったのか?」
 先生も興味を持ったらしく、ややぶっきらぼうに質問をしました。許してあげてください。悪気はないのです。
「文芸部には入ってたんだけど、大会には出てなかったんだよね。部員も多くないし、当番校が回ってきたりして大変だから……」
「それで見かけなかったのか。そういう文芸部もあるのだな」
 先生は物足りなさそうな反応をしましたが、これも悪気はないのでしょう。
「先生、大会を目指すばかりが全てではなかったということですよ。同じ文芸の世界でも」
「……そうか」
「でも、浦川さんって全国大会で賞を獲ったんだよね。そこまで実力があるなら、やっぱり大会で上を目指して良かったんじゃないかな」
 朝倉さんがフォローを入れてくれます。先生の不躾な質問にも嫌な顔一つせず、全てを受け入れてくれる包容力を感じます。わたしも見習いたいほどです。
「そうだ。気になっていたのだが、この部には大会などはないと聞いている。しかし、文学賞などに応募したり、個人的に動いている人はいないのだろうか?」
 その流れで、先生は明石さんにも尋ねました。
「いるよ。私の四つくらい上なんだけど、この部から二人、立て続けにプロが出たんだよね。メールボックスのアドレスが、『ユナのガレージ』になってるでしょ。ユナっていうのがその片方のあだ名なんだ」
「大先輩のお名前だったとは。驚きです」
 補足情報として、そのユナさんはデビューしたばかりで、先日単行本が出たとのことでした。あだ名の由来は、本人が部内に作品を投稿する際に使っていた偽名からだそうです。
「偽名か。何者とも判らぬ者、アンノウンだな」
「知ってる? 『そして誰もいなくなった』」
 ぼちぼち料理が来て、わたしたちはそれぞれ食べながら、明石さんによる先輩の武勇伝を聞いていました。ある意味、その頃が文芸のレベルや部の盛り上がりとして一つのピークだったようです。それを知っている世代の人にとっては、やはり現状は衰退したように映るのでしょうか。
 それでも、わたしたちと話す明石さんはとても晴れ晴れとした雰囲気で、わたしが見立てたような憂いは少しも感じません。
 なまじ「文芸部はこうあるべき」なんて思い込みがあるから、それに向かっているか離れているかの価値判断も生まれるのです。良くも悪くも様々な人が、それぞれのベクトルを持っている部です。副部長でもある明石さんの眼差しには、柔らかな光が宿っていました。

 五月も下旬となり、ポプラの綿毛も日に日にその数を増しているのがわかりました。風向きによっては、キャンパスの外でも見かけることができます。
 そういう時候の挨拶を書けば、オリジナリティ溢れる手紙になるかもしれないと勝手な想像をしてみますが、メールには全く不要なことです。わたしは小樽へ行った高校時代の部活仲間に、久しぶりのメールを送ったのでした。
『染谷さん、お久しぶりです。お元気ですか? 六月の最初の週末に大学祭があります。良かったら遊びに来ませんか? 先生も会いたがっていると思います』
 返信はすぐに来ました。
『中津さん、久しぶりだね。誘ってくれてありがとう。日曜日なら行けそうです。もし良かったら、一緒にお食事もと考えているのですが、いかがでしょう?』
 当時の染谷さんの姿を思い出して、どんな顔をしながらメールを打っていただろうと想像します。それはとても楽しいことでした。その日曜日まで前向きに生きる理由ができたのです。荒涼とした気分になることの多い近頃ですが、これで大学祭までは乗り切れそうだと思いました。
 そんな大学祭ですが、基本的にはサークルや一年生のクラスなどの団体が、メインストリートに出店を出すというものです。一部の文化系サークルは教養棟で教室を借りて、上映会や展示会などの催しを行うそうですが、文芸部では毎年出店を出しているようです。
 その理由の一つは、傑作選の販売のためです。傑作選とは、毎年部員が互選で優れた作品を選抜して本にするものと聞きました。ラインナップを見ると、しっかり八戸さんや山根さんの作品もあるのですが、知らない作者さんが大半でした。何年目なのかの手掛かりも、本の中にはないようです。
 話を戻しますが、大学祭に参加するうえで見逃せないのはお金のことでしょう。大学祭にはたくさんの観光客が訪れるため、出店が儲かるのは言うまでもありません。その利益を目当てに参加する意味合いも多分にあると思います。しかしそれは部費に還元するものではなく、営業に必要な資本、つまり出資金を出した人に配当として分配されるのです(もちろん、赤字のリスクもありますが)。
 そういうわけで、自分のクラスの手伝いがあるわたしたちでも、出資金によって部に貢献することができるのでした。とはいえわたしは大学祭が開かれる四日間、染谷さんに会うことを除いては暇だったので、クラスと文芸部を同じだけ手伝うことにしました。
 会計を手伝ってわかったのですが、一年生にとってこのイベントは新歓の利益還元的な意味合いがあるらしく、体育会系のサークルに属している人には何万円もの「つけ」が蓄積していたのです。当然ながらこれは当局にも禁止されている行為なのですが、少なくとも文芸部にそういう慣習がなくて良かったと思いました。
 さて、先生はというと、前日と最初の日に若干自分のクラスを手伝った後、二日間は家でじっくりと創作に打ち込んだそうです。贅沢ですね。そうは言っても、一年誌の初稿締め切りも実は週明けすぐなのでした。この時期の忙しなさは高校時代を思い出します。高校でも夏部誌をこの時期に作っていて、中間考査の後すぐに締め切りを設けたこともありました。書いた経験の少ないわたしには、そこまで身に染みた感覚でもありませんが……。

 日曜日は最終日なので、営業は夕方まででした。その後は片付けです。染谷さんには六時半まで待ってもらい、それから再度駅で合流しました。そしてわたしが選んでおいたブックカフェに来ました。パスタやピザも出してくれるところです。
「というわけで、再会を祝していただきましょう」
「こうして三人で話すのは、とても懐かしい思いだ」
「そうだね。いただきます」
 そこでわたしは、先生の笑顔をとても久しぶりに見たような気がしました。そんな感慨ばかりです。懐かしんで、振り返って、まるで今は希望がほとんどないかのようです。
「二人は、文芸部に入ったんだよね。もう作品は書いてるの?」
「明後日が締め切りだな。昨日書き上げた」
「わたしは相変わらず、編集専門です」
「そうなんだ。締め切り……レポートでしか聞かなくなっちゃったなあ」
 染谷さんも少し、あの頃を懐かしむように目を細めていました。
「もう、文芸は何も続けていないんですか?」
「小説は書かなくなっちゃった。やっぱり、私はあの部でみんなといたから書けたんだなって思う。でもね、俳句は続けてるんだ。何か印象的なことがあったら、寝る前、日記みたいに俳句を一句詠むの」
「いいですね。素敵な文芸だと思います」
 誰に読んでもらうということがなくても、日々の片隅に文芸がある。わたしたちは、それでは満足できなかったのだなあ、と思います。様々な人や作品に触れ、自分の作品を磨いていくような文芸をするのが当たり前になっていました。しかしあの頃は部員同士でその感覚を共有し、集団として高いモチベーションがありました。一度は成しえた理想を、人はなかなか捨てることができません。
「文芸のある日々……か。わたしはもう、自分のためだけに完結する文芸では、物足りなくなってしまった。持たざるを得ない向上心だ。同じ場所に、変わらず長くとどまることに耐えられなくなってしまった」
 先生の感傷的な言葉に共感します。文芸は趣味なのです。本来はそれぞれ、自分の満足を突き詰めれば良いのです。しかし先生はもはや、趣味と果てしない文芸の道を究めることが重なってしまったのでした。わたしもそんな先生に、ついて行こうとしています。
「……浦川さん、大学の文芸部って、どんなところなの?」
 いつの間にか考え込んでしまって、わたしも先生も、この場にあるまじき暗澹としたオーラを出してしまいました。染谷さんは戸惑っています。ここでわたしが、気の利いたことを言って持ち直せばいいのに、その言葉はすぐには浮かびません。その間にも先生は、真剣な面持ちで答えました。
「どうだろうな。まだ言い切れない。全体としての方向性があるわけでもなく、文芸に対するモチベーションもまちまちだ。だが……作品を出す前に終わるわけにはいかない。世代交代は必ず来る。わたしたちがこれから、変えていける部分もあるだろう。それを思えば、今はじれったいことも多いが、捨てたものではない」
 わたしははっとさせられて、後ろ向きになっていたのが自分だけだったと気付きます。先生は冷静に先を見据えていました。
「そっか。大変そうだけど、浦川さんならきっと、文芸の力でなんとかできるよ。中津さんもついてるし」
「そうですね、はい」
 こんなことで前向きになっても、気休めにしかならないのかもしれません。しかし、わたしたちでもこれから、できることが少しずつ増えていくはずなのです。
「今はまだ、先の見えない部分もありますが……今日はせっかくなので、あの頃のように語り明かそうではありませんか。『日々の文芸』ってテーマはどうですか?」
「懐かしいね。ずっとそんな感じで話してたっけ。でも帰りが遅くなるとあれだから、九時半くらいまでね」
 懐かしむのは、できれば今日で最後にしましょう。こんな姿は高校の後輩たちにも見せられません。次に会うときには胸を張って未来のことを語れるように。わたしたち、文芸人のスキットが始まります。

   ***

「染谷さんは、日記みたいに俳句を詠んでいるという話でしたけど、例えばどんな感じなんですか?」
「例えば、小樽駅のすぐ近くに、船見坂っていう坂があるんだよね。そこは線路を越えて、山のほうに上っていく坂なんだけど、下のほうは市場があって、海産物の匂いがするんだよね。そこで迎えた春のイメージで……『魚の香桜の香せり船見坂』みたいな」
「なるほど……海と山のコラボレーションですか。なんだかシュールですね」
「あまり実際に嗅ぎたいものではないな」
「まあね……自分でもそう思ってる」
「シュールレアリスムならぬ、シュールストレミングですね」
「それは何?」
「世界一臭いという、魚の缶詰だな」
「やめて!」
「いやはや、愉快ですね」
「だから、まあそんな感じで、俳句を詠むの。二人だって、キャンパスとか探検してみたりしないの? かなり広いんだよね」
「半分以上は森と農場ですけどね。先生は探検したみたいですよ。それで、入学一週間にして花木園に引きこもり……」
「それは文芸的な視点で、自然を観察しているのだと言っただろう。わたしは日々、意識的に文芸をしているわけではないが、何気ない場面で作品のことを考えている。先の展開、書きたい場面、テーマのことなど……それは文芸活動の大切な糧だ」
「浦川さんはそうだよね。中津さんは普段、文芸のことは考えるの?」
「わたしは……自分で作品を書くわけではないので、読書がそれにあたるんですかね。部長だった頃は、部の盛り上げ方とか、染谷さんのいじり方とか考えてましたよ」
「私のいじり方なんて考える暇があったら、文芸できたんじゃ……」
「いえいえ。わたしはこうして、先生や染谷さんたちと文芸的な日々を送ることが、自分にできる一番の文芸だと思っていますので」
「編集は、あの部でも重要のようだからな」
「なんだか、あんまり納得できない……でも真面目な話、日常的に文芸をしようとしたら、俳句とか随筆とかになるのかな。小説とか、作品のサイズが大きくなるほど、続けるのも大変だし」
「毎日続けることにこだわる必要はないと思うんですよね。ただ、小刻みに作品を完成させることで得られる満足感は、続ける動機になると思うんです。そうなると、連載風の掌編小説とか、そういうものでも良いのではないでしょうか?」
「そうだな。必ずしも、短いものが書きやすいというわけでもないが」
「それから日記って、その日のことを思い返して書くという点では、あんまり創作性がないですよね。わたしの場合、淡々とした内容になりがちで、得意ではありません」
「なるほどね。じゃあ逆に、すごく脚色して創作みたいな日記を書いたら、文芸的で面白いんじゃないかな?」
「ほうほう。ちょっとやってみたいような気がします」
「現実からいかに発想を飛ばせるかが問われるだろうな。創作の訓練になるかもしれない」
「それにしても、時間がなくて、隙間の時間にできるようなものと考えると……文芸は時間が掛かりますね」
「ノートの落書きにも、絵を描くことこそあれ、小説を書くことはないからな」
「えっ、浦川さんならそういうことやるのかなって思ってた」
「いや、そもそもわたしは落書きなどしない」
「でも、そのレベルのことが自然にできる人は、意識して文芸をしようとしなくても大丈夫そうですね」
「結局は、文芸が好きで、何か日々続けようとする……その自然な心の動きから、何気ない文芸的な行動が生まれるのだろう」
「私の俳句も、その範疇に入れてもいいよね?」

三 梅雨

 大学祭が終わると、天気予報に傘のマークがずらりと並ぶようになりました。ライラックの咲く頃です。先生は植物園に行く機会をすっかり逸してしまったようですが、もうしばらくその日和はなさそうです。
 その日、わたしは六限があった後の部会でした。今日のメインは、一年誌の編集決めという極めて重要な議題です。しかしもう一つ、下野部長からさらに重大な宣告がなされました。
「早いもので、僕ら役員の任期は残り二か月、前期最後の部会までとなりました。つきましては来月、役員選挙を執り行いますので、立候補される方は今月中に、僕に連絡してください」
 この部の役員は、部長と副部長の他に会計が一名、書記と庶務が各二名います。会計以下の五名については現在の一年生から選出したいとのことで、わたしたちにとっても他人事ではありません。ちなみに編集班などの班長も、同じタイミングで選挙をせずに代替わりがされるようです。
 選挙に関して、二年目の中で緊張が高まっていることは傍目にもわかりました。下野部長の話が終わった後、黒沢さんが真剣な表情で前に出ます。
「この場をお借りして、二年目二年生の皆さんに連絡します。近いうちに、部の今後の運営について会議をしたいと思います。後ほど詳細をメールでお伝えしますが、日程調整等、ご協力ください。よろしくお願いします」
 人間関係については後で整理することとしても、黒沢さんが立候補するつもりなのかどうかはよくわかりません。しかしそれは明らかに、立候補を考えているらしい高本さんへのアプローチだったと思います。
 とりあえず、わたしたちにとっての本題から片付けてしまいましょう。一年誌編集長になったわたしと和泉さんが、ここからは司会を務めます。
「それでは、これから一年誌の各作品について、編集を決めていこうと思います。まずは作者の皆さんに、簡単な作品の紹介と、編集の希望をお願いします。お手本はこちら、和泉さんが見せてくれます。どうぞ」
 というより、メインの司会はわたしで、和泉さんには書記の役割があります。
「フミ、無茶振りだな。和泉恭子、詩を出します。編集はこの機会にいろんな人と仲良くなりたいと思うので、まだあまり絡んだことのない人にお願いしたいです!」
「はい。ありがとうございました」
「これ、あたし黒板書くんでしょ?」
「お願いします」
 出された作品は意外と多く、九作品を数えていました。一年目は、名簿上では二十人くらいいるらしいのですが、今日の出席者はざっと数えて十三人です。作者でない人は、なにかしらの編集についてもらうことにするつもりです。わたしは最初ということで、先生の編集になると決めていました。
「浦川、ジャンルは自然と冒険だ。編集は既に手配している」
「はい。わたしが編集をします。よろしくお願いします」
 そんなやり取りをしたとき、傍にいた新井くんが少しもの言いたげにしていました。気になる反応でしたが、一旦流して進めます。
「それでは次、新井くんどうぞ」
「新井、ジャンルは……自然と幻想です。編集は、表現の都合上、女性の方にお願いしたいと思います」
 場がざわつきます。かなり大胆な希望でした。『みなみハミング』と題された新井くんの作品は、聞いていた通り、「みなみちゃん」という湖の化身の女の子と交流する物語でした。その主人公に当たるのが女性だったので、女性目線の意見が欲しいというのも納得はできるのですが。
 そんな感じで作者側からの希望が出揃い、編集についても半分はすんなりと決まりました。新井くんも、本人が望んだ結果かどうかはわかりませんが、和泉さんが編集を名乗り出ました。一方、ここまでのマッチングで漏れてしまった作品はなかなか決まらず、進行が停滞します。
「えっと……もう作者でも編集でもない方は、いないですね。作者の方で、やってもいいという方いませんか?」
 そうしてわたしが促すと、残った数名については、空き時間などのすり合わせをしたうえでマッチングができました。いよいよ、残りは二作品となります。その一つは、和泉さんの詩でした。
「和泉さんから、何かありますか?」
「誰かいない? そんなに経験とかいらないから、楽しくやろうよ」
 それは主に、一年生の女性陣へ向けたメッセージでした。すると、奥のほうで小さく手が挙がります。農学部一年生の武藤さんでした。
「じゃあ、私でよければ」
「いいよ! 頑張ろう!」
 最後に残った小説の作者は、文学部二年生で、この春に入部した飯綱さんです。四分の一くらい欧米の血が入っていそうな、美しい顔立ちが目を引く女性です。八戸さんらと知り合いで、ふと興味を持って文芸部に入ったようです。そして、初めてながらも書き上げた初稿を提出したまでは良かったのですが……。
 端的に言うと、その作品はとても編集しがいのある出来でした。気を病んだ少年と少女の出会いを描いたようなのですが、鬼気迫る描写と短時間に跳躍を繰り返す展開により、非常にユニークな作品になってしまっているのです。先生は「実に挑戦的な作品だ」と面白がっていましたが、この場でマッチングできずにいるのを見るとやや不憫です。
 飯綱さんの希望は「経験のある人に教えてもらいたい」という順当なものだったので、わたしはそろそろ、先生を甘やかさず編集になってもらおうと思い始めます。
「私がやりますよ。飯綱さんが、よろしければ」
 そんなとき、新井くんの手が挙がりました。
「ありがとう! 新井くん? よろしくお願いします!」
 わたしにもありがたい申し出ではありましたが、その気があるならもう少し早く動いてくれてもよかったのに、と思いました。時刻は九時に近づき、そろそろ教室を追い出される頃合いです。

 先生の最新作は、先日の組み合わせ三題噺企画で書いたものではなく、入学前からこつこつと書き進めていた作品でした。極北の氷河に不時着したパイロットの主人公が、消息を絶った仲間の機体の破片らしきものを見つけ、付近を捜索するところから始まる物語です。翌日わたしたちは、食堂の一階で打ち合わせをしました。
「ところで先生、上年目サポーターってありましたよね。ほとんど使わなかったという報告が何件か届いているのですが、先生はどうでしたか?」
「ああ……そんなものもあったな。忘れていた」
「まあ実際使った人も、メールドライブの使い方を教えてもらったとか、あまり本質的な利用ではなかったみたいなんですけど」
 それでも一応、先生のサポーターだった上尾さんからは、初稿の添削を頂きました。かなりの部分で褒めている一方、鋭い指摘もあり、さすがは先輩という感じです。
「そうそう、実は新井くん、先生の作品の編集をしたかったみたいなんですよ。合評にも出てくれるそうです」
 これは部会の後で本人から聞いた話でした。わたしとしては、新井くんが先生の作品に興味を持つのは納得できるところです。その思いが先生に受け入れられるとは、どうにも思えないわけですが。
「新井が? 編集は遠慮したいところだな。胡散臭い男だ。合評に来るくらいは構わないが」
 案の定、先生は新井くんを拒むように言いました。彼の『みなみハミング』も読んだそうですが、先生の琴線には触れなかったようです。
「あれで先鋭的なことをしているつもりなのだろうが、出来は凡庸。あの自信ありげな態度といい、独りよがりなところは……唐澤を思い出すな」
「そうですね……確かに、新井くんは自分が経験者であることから、増長しているような雰囲気を感じます。悪いようにならなければ良いのですが」
 唐澤くんというのは、わたしたちの高校の後輩です。自分の才能のなさと戦い続けていましたが、あるところで折れてしまい、それ以来書くのを辞めてしまったと聞いています。それはわたしたちにとって、苦い思い出の一つです。
「それにしても、一年誌の合評は一回なのだな?」
「そうですね。最低一回です。二回目も、希望すればできますけど……参加者の母数が多くないので、同じようなメンバーで二回することになるかもしれませんね」
 ちょうどその頃、上年目は夏部誌の二回目の合評をしていました。編集との予定が合わなければ合評ができないという都合上、一回目と同じ曜日にセッティングされることが多く、必然的に参加者も似通うと大藤さんから聞きました。そうなると、同じような議論が繰り返されたり、あるいは極端に意見が出なかったりして良くないのだそうです。
「実際、順当に修正が行われれば、同じメンバーで二回行うのは確認の意味合いが強くなるからな。これだけ部員がいるのだから、メンバーを変えて二回というのが本来の想定なのだろう」
「そうですね。まあ、それはそれで、場合によっては大変らしいんですけど……」
 その大藤さんも先日、二回目の合評に臨んだそうです。しかし、メンバーが異なることにより全く別のベクトルから意見が来て、一回目の合評をもとに直した部分についても反対方向へ動かされそうになった……と小さな声で話していました。
「船頭多くして船山に上る、か」
「良くも悪くも、いろんな人が集まる部ですからね」
「まあ、それを互いに許容できるのなら、良いのかもしれないが」
「ほう。先生から許容なんて言葉が出るとは」
 先生は相変わらず、あまりボックスには近づきません。引き続きゲームは流行していて、特にはまった新井くんは、自らもカードゲームを持参して暇さえあればボックスに入り浸っているようです。そのおかげか、これまであまり見かけなかった一年目もボックスに来るようになっていました。朝倉さんや、武藤さんもそうです。
「先生は、一年目の人とどのくらい話しましたか?」
「皮肉か」
「単なる興味ですよ。一年誌の作品を読んでも、誰が書いたかわからないのではないかと」
「新井と、朝倉、和泉……そのくらいは、わかる」
「半分行ってないですよ」
 一年目同士のつながりができてくる中で、先生にもあまり孤立しないよう、もう少し自分から輪の中へ入っていってもらいたい……と、常に思っていることではありますが、最近は改めてそう思います。

 レポートの提出があるという先生と別れて、わたしはボックスへ移動しました。すると、新井くんがあまり見かけない上年目の男性と話しています。
「お疲れ様です。何かの打ち合わせですか?」
「ああ……飯綱さんの作品について、ちょっと」
 対する男性は、三年目の桜木さんです。わたしは部会で一度挨拶したきりですが、明石さんからは「こだわりが強すぎてなかなか書けないタイプ」だと聞いています。飯綱さんが個人的に桜木さんにも助言を仰いでいるらしく、今回編集についた新井くんと今後の方針について話していたところのようです。
「あの作品ですか……」
「まあとにかく、これはもうボツにするつもりで掛からないとヤバいよ。支離滅裂だもん。それでさ、新井は飯綱がどういう話を書きたいのか聞き取って、プロットをまとめてあげるくらいのことはしないと、収拾つかなくなるから」
「なんとか、やってみます」
「まあ原形をとどめなくなると思うけど、こんな意味不明な状態で載せたら最悪だからね。これから修正していく中でも、新井は常に、どういう面白さを目指すのか、しっかり見据えてないといけないよ。編集だからね」
 新井くん自身は、飯綱さんの初稿をそこまでひどいものとは思っていなかったようです。この辺りは感性の違いというか、敏感さの違いでしょうか。桜木さんは上年目の中でも、かなり頭の回転が速い人という印象を受けました。文芸に関してもとりわけ明瞭な考えを持っていることが見て取れます。
「本当は、もっとこういう初めての人にもちゃんと教えるような場があればいいんだけどねえ。まあ、こんなところだよ。俺はそろそろ行くから、頑張って」
 ひとしきり話して、桜木さんは去っていきました。新井くんは真っ赤に添削された飯綱さんの原稿を前に、やや興奮しているようです。
「おう、中津さん。あの人知ってる? 三年目の桜木さん」
「部会で挨拶はしましたよ。その添削は、二人でしたんですか?」
「いや、ほとんど桜木さんの意見のメモ。桜木さんはすごいよ。あの人は……文芸的に、信頼できると思った。今度話してみるといいよ」
「文芸的に、ですか。そういえば、新井くんの上年目サポーターって誰でしたっけ?」
「ああ、サポーターねえ……誰だったか。というのは冗談だけど」
 私の記憶でも、新井くんのサポーターは別の方でした。しかし例に漏れず、何かの支援を受けた事実はないようです。
「まあ、上年目サポーターがそこまで役に立ったという話は聞かないな。朝倉さんとかは、作品の提出の仕方を教えてもらったみたいだけど」
「放任的な方が多いんですかね」
 二限の半ばで、まだあまり人のいない時間帯でした。文芸部のボックスにも、私たち以外は来ていません。
「ところで新井くん、和泉さんとはどうですか?」
「和泉さん、まあ仲良くやってるよ。今日の午後に打ち合わせをするんだ」
「じゃあ、どうしてこんなに早くからボックスに? 一限とかですか」
「授業は午後からなんだが、ここに来たら誰かがいるかと思ってな。そうしたら桜木さんに会った。それ以外はずっと一人だったけど」
「入り浸ってますねえ」
 英語の試験などの大きな課題は去ったわけですが、それにしても暇そうです。
「理系はそこまで暇な印象もないですけど、新井くんは成績大丈夫そうですか?」
「課題とかは家でまとめてやるから。まあ、情報科はそこまでハードル高くないし、そこそこやってるから大丈夫やろ」
「そうなんですね」
 時間の使い方はそれぞれとしても、新井くんは日常のかなりの時間を文芸部に割いているようです。ここが居場所ということなのでしょう。
「ここにいればたくさんの上年目と話せるし、お互い、顔を憶えられるしな」
「それはとても良いことですね」
「この間は、六年目の人とも話したよ。松戸さんっていう」
「ほう。件の、樋田さんが話していた方ですか?」
「そうだな」
 この部の六年目で活動状態なのは二人と認識しています。その一人が松戸さんです。樋田さんの話では、後輩思いの偉大な方なのだとか。
「松戸さんは、夏休みに向けて作品を準備してるって言ってた。何でも、マスカレードがあるのだとか」
「マスカレード……仮面舞踏会ですか」
「匿名で作品を提出して、匿名で評価しあってその点数で順位を付ける、コンペみたいなものらしいんだ」
「そういえば、新井くんは企画班に行くって言ってましたね」
「それなんだが……今はあんまり企画班員である必要も感じなかったし、結局入らなかったんだ。朝倉さんと、武藤さんが入ってると思う」
「それで、暇を持て余しているんですか?」
 これです。自分の時間を、極力他人のために使おうとしないタイプ。先生も近い部分はありますし、一年目の今ならまだ許されるのかもしれませんが。
「企画だ行事だと言っても、それで書く時間がなくなったら本末転倒だからな。まあ、それもマネジメントってやつだ」
「そうですか」
「そういう意味では、二年目は今時期随分大変そうだねえ。大学祭もあったし、夏部誌に出してる人も多いし、選挙もあるし……学部の授業は、どうかわからないけど」
「他人事のように……」
 とはいえ、二年目の抱える問題は今のところかなりデリケートなもののようです。わたしたちが出しゃばって、どうにかできる性質のものでもありません。
「四年目の西島さんから聞いたんだがさ。高本さん、前に結構なことやらかしたらしいんだよね。今もああいう態度だし、それでみんな、高本さんが部長になることに抵抗があるんだな」
「ほう。それは、文芸的な問題ですか? 作品を取り下げようとしたとか」
「まあ……人間関係の問題だな。大藤さんっているでしょ。高本さんと大藤さんは、あんまり仲が良くないみたいなんだけどさ。それは、高本さんが一方的に因縁を付けてるからなんだって」
 確かに、二人が一緒にいるところはあまり見かけません。以前ここで鉢合わせたときも、ぎくしゃくした雰囲気がありました。
「そんなことが……ちなみにそれは、何か理由があるんですか?」
「大藤さんが上年目から好かれていることを妬んでいるそうだ。それで、高本さんは去年、この部に好きな人がいたらしいのだが……その人が大藤さんと仲が良かったので、その嫉妬をこじらせて……一度、部会の後に口論になったらしいんだな」
「確かにそれは不安ですね……」
 役員、特に部長は、部の空気やイメージを作る立場です。内部では部員のモチベーションに影響しますし、外部でも、例えば新歓で入部を考えている人に、悪い印象を与えるようなことがあってはいけません。
「でも、二年目に他の部長候補っているんですかね?」
「いないかもな。中津さんは知ってるかもしれないけど、大藤さんは二年目で唯一の編集班員だ。さすがに編集長と部長の兼任は大変だし、仕事や責務が集中しすぎる。八戸さんは絶対やりたがらないだろうし、後は江本さんか……」
 いずれにしても、高本さんに近い立場の人しか名前が挙がりません。サイレントマジョリティという言葉もありますが、このままでは結局、高本さんが部長になるのは避けられないでしょう。高本さんが善政を施してくれることを、ただ期待するばかりです。
「高校までの部長とはわけが違うでしょうし、誰でもなれるものではないとは思いますが……それならせめて、高本さんには誠意ある対応をお願いしたいですね」
「一年目としては、入って数か月にしてサークルが分裂する様を見たくはないわな」
 方針の違いから分裂したサークルがあるとは聞いていますが、人間関係がもとで分裂したとなれば、それはたいそう不名誉な風評になるでしょう。とはいえ既に、このような心配をしなければならないことも、不本意なことではあるのですが……。

 それにしても、わたしたち一年目は着々と横のつながりを築きつつあります。
『今度の土曜空いてる? 同期飲み行こうよ』
 夕方になって、和泉さんからこんなメッセージが届きました。ちょうど新井くんとの打ち合わせを終えた頃なのだろうと想像します。
『お疲れ様です。楽しそうですね。わたしは行きますが、先生にも声を掛けましょうか?』
 わたしは少し気を遣ってそう返しました。和泉さんの誘い方と参加メンバーによっては、先生が参加を敬遠する可能性があったのです。
『助かる。じゃあアキのことは任せた』
 しかし特別な誘い方をするわけではなく、先生にはわたしから誘うことが重要なのです。わたしが参加して、メンバーが一年目だけなら、まず先生は断らないだろうと思います。
 そんな感じでセッティングされた同期飲みでした。会場は大学からほど近いイタリアンバルです。来てみると、参加者はわたしたちを含め六人いましたが、男性陣は新井くんを含め誰もいませんでした。
「微妙な人数ですね。大学祭の打ち上げと重なる時期だったからでしょうか?」
「ああ、そうかもね。うちのクラスも明日だよ」
 大学祭から一週間に当たる今日は、打ち上げの開かれる時期でもあります。文芸部では来週に予定されていますが、一年生はそれぞれのクラスでも打ち上げがあるはずです。ちなみに先生のクラスも今日だったそうですが、断って内緒で来たというわけです。
「実質の女子会ですね?」
「新井のやつ、土日は忙しいとか言って断りやがったのよ。一応、知ってる一年目にはだいたい声かけたんだけど。まあ、いないほうが却って良かったかもしれないけどね」
 こうして集まったのは、部会やボックスでもよく見かける、いつものメンバーというわけです。席次など気にしたことではありませんが、先生はちゃっかりと奥に入り、わたしがその隣に座りました。
「飲み放題のコースだから。あたしカシオレにする」
 同期で集まるという名目なのに、和泉さんは遠慮なくお酒を注文しました。わたしも若干の圧を掛けられましたが、笑顔で誤魔化しておきます。
 飲み物に続いてピザやサラダなどの料理が出され、いよいよ女子会が始まります。
「じゃあフミ、真ん中にいるし頼むわ」
「わたしですか」
 主催者の和泉さんがやっても変わらないことだと思いますが、ここで開始を遅らせる理由もありません。わたしはジンジャーエールのグラスを掲げました。
「今日はお集まりいただきありがとうございます。これから一年誌も始まりますが、皆さんここで親睦を深め、楽しくやっていきましょう。乾杯!」
 というわけで女子会が始まったわけですが、もはや当然のように、先生はしばらく誰とも話さず、黙々と食べているばかりでした。もったいないことです。向かい側で先生に近い席の二人が、まだあまり話したことのない人だからなのでしょう。ちなみに残りの下座側に、和泉さんと朝倉さんが座っています。
「先生、少しは喋りましょうよ」
「話は聞いている」
「参加しないで聞いているだけって、居心地悪くありませんか?」
「……わたしに何を話せと」
 基本的に他人に興味を持たず、コミュニケーションも下手な先生ですが、話の流れに乗ることができれば饒舌にもなれます。幸いにも向かいの二人は、それぞれ一年誌に小説を出しているのです。わたしの助け舟プランが出来上がりました。
「そういえば武藤さん、一年誌の作品って、この間の三題噺企画で書いたものですよね?」
「そうだね。犬と墓場と、桜」
 適度にタイミングを見計らって、流れを引き寄せます。まずは先生の向かいの、武藤千晶さんです。先生と同じく農学部ですが、互いに面識はないそうです。出身は奈良の東の方だそうで、言葉には新井くんよりも明確なイントネーションの違いを感じます。
「うち、来週の水曜日が合評なんやけど、締め切りって明日で合ってる?」
「そうですね。明日、日曜日のうちに出してくれれば大丈夫です」
 そんな武藤さんの合評ですが、参加者には先生が入っています。というか、わたしがその調整を担当して、意図的に先生を入れたのです。
「先生、武藤さんの合評に参加されますよね?」
「そうだったな。合評稿が上がったら読もう。よろしく頼む」
 意図と言っても当然、文芸の実力を考えたうえでの采配が最初にあるわけですが、一度合評に出たくらいで仲良くなるほど先生は緩くありません。こうして話を振っても、極めてビジネスライクな返答しかしてくれないのです。
「武藤さんは小説を初めて書くんですよね。初稿、とても良かったですよ。ややうわべだけで、さらっと書きすぎている部分はありますが、そこはこれから深掘りしていけば良い話です。コンセプトも話の筋もしっかりありますし、完成が楽しみです」
「それは、なんだか……ありがとう。頑張るよ」
 対して、武藤さんを褒めたときの初々しい反応と来たら! 嬉しさをこらえきれず、綻んだ表情にわたしはうっとりします。先生なんて、いくら褒めてももう、当たり前みたいな顔しかしないのです。割と最初からそうだったのですが。
「先生も、武藤さんの初稿読んでますよね?」
「あの作品か。そうだな。素直に書けていると思うぞ。書きたいことや、作品を通してやりたいことが伝わった。新井のような、妙に捻った作品よりも好感が持てる」
「先生は、新井くんの合評にも飛び入りしてあげてくださいね……」
 わたしの感想には素直な反応を見せてくれた武藤さんも、先生の上から目線な感想にはやや戸惑っているようでした。
「先生……浦川さんと中津さんって、高校同じだっけ?」
「そうですね。文芸部で、わたしはずっと先生の編集をしていたんです」
「じゃあ二人とも、結構長くやってるんだね」
 しかしながら、武藤さんは先生にも若干の興味を持ってくれたと見えます。一方的にでも先生を仲間として認識してもらえれば、最低限はクリアです。
「まあでも、先生は見ての通りの人見知りで、この文芸部に入るにも葛藤があったみたいなんですよね。武藤さんは、どうして文芸部に入ろうと思ったんですか?」
「なんとなくかな。新歓で上年目の人と話して、楽しかったから。でもせっかくなら書いてみようと思って。文学とかはあんまりわからないけど、この間の企画みたいな感じで気軽にできるなら大丈夫かなと思ったの」
「それで企画班なんですね」
 話しているうちにフライドポテトやアヒージョも来て、和泉さんはかなりお酒が進んだようでした。そろそろもう一人のターゲットに移ろうと思います。
「和泉さん、飲みすぎないでくださいね?」
「大丈夫だって。えっ、顔赤くなってないでしょ?」
「若干来てるように見えますよ。明日も飲むんですよね?」
「ああ……そろそろ控えめにするかな」
 そんな和泉さんに肩を抱かれたりして絡まれつつ、付き合ってレモンサワーを飲んでいるのが星井美柑さんです。彼女は文学部で、朝倉さんと同じクラスなのだそうです。五月まではあまり見かけなかったのですが、一年誌にも出しているので、最近はボックスにもよく来ています。スタイルが良く、綺麗な額がチャームポイントの美人さんです。上年目の中でも若干の噂になるほどだと聞いています。
「それはさておき和泉さん、ちょっと星井さんお借りしてもよろしいですか? 一年誌の作品についてお話したいと思ってたんですよ」
「何か業務的な話?」
「いいえ、文芸的なお喋りです」
「じゃああたしも交ぜて」
 そんな星井さんの作品ですが、これもまた部員たちを若干ざわつかせたのでした。先日の編集決めのとき、本人は「日常系」と紹介したのですが、それが実際の内容とかけ離れたものだったのです。
「というか……星井さん、大丈夫ですか?」
 その話をしようとしたところで気付きました。星井さんの目が虚ろです。和泉さん以上にお酒が回っていそうな雰囲気です。
「……大丈夫、ちょっと眠いだけ」
「おい、何かあったらヤバいからさ、本当に具合悪かったら早く言いなよ」
 眠いのと酔っているのは、なかなか判別の難しいところです。しかし実際、こんなところで事案があれば、わたしたちが部をめちゃくちゃにしてしまいます。心配した朝倉さんが、すかさず水を注文してくれました。
「星井ちゃん……無理しないでね」
「うん」
「今日はアレだな、ちょっと早めにお開きにするか。星井が落ち着いたら帰ろう」
 さすがに和泉さんも酔いが醒めてしまったようです。隣で一緒に飲んでいたにも関わらず星井さんの異変に気が付かなかったことに、若干の負い目もありそうでした。
 料理はほとんど片付いていたので、飲み放題の終了時間を待たずに店を出ました。思わぬトラブルもあり、予定とは違う結果になりましたが、それにしても互いへの理解とか信頼は深まったような気がします。星井さんは、武藤さんと和泉さんが家まで送っていくことになりました。わたしと先生と朝倉さんは、地下鉄の駅まで一緒に行くことにします。
「星井ちゃん、大丈夫かな」
「和泉さんもいますし、大丈夫ですよ。あれで責任感は強い人ですから」
 ちなみに朝倉さんはずっと素面で和泉さんの話を聞いていたそうですが、それで少し眠くなってきたところで、星井さんの異変には気付かなかったとのことです。
「最近、情報学の課題がきつくて……私もちょっと寝不足なんだ。星井ちゃんは他の授業もたくさん取ってるし、忙しいみたい」
「そうだったんですね。確かにあの課題は大変というか、時間が掛かりますよね」
 必修の情報学では、何やらグループで討論をさせたり、任意のテーマでプレゼンテーションを作らせたり、データベースやプログラミングを使わせたりと、慣れない人にとっては困難な課題が畳みかけられるのです。実際、わたしも先生に入れ知恵をしてもらいつつこなしています。
「でもね、最近は新井くんが教えてくれるから、ちょっと楽になったんだ。というか、新井くんに聞かなかったら本当にわからないのもあるし……」
「新井くんですか。確かに彼は、情報科志望だと言ってましたね」
「そうだね。毎週助かってるよ」
 勉強を教え合うというのも、オーソドックスながら非常に友情の深まる機会だと思います。先生も、成績は良いのだから、そういう機会を持てるはずなのに……と、わたしは叶わぬ期待をしたのでした。ちなみに星井さんは、月曜日からボックスに姿を見せていました。何事もなかったとのことですが、授業や課題はやはり忙しそうでした。

 翌週の金曜日、いよいよ先生の合評が回ってきました。ちなみに文芸部の合評は、放課後に付属図書館のグループ学習室を借りて行っています。というのも、部室らしい部室がなく、教養棟の教室も週に一度の部会でしか借りられないため、集まって合評などを開ける環境がここしかないのだそうです。サークルでの利用は認められていない場所なのですが、二年目くらいにもなれば罪悪感もなくなるのだとか。
 先生の合評は平穏無事に進み、前向きに無難な結論を出して終わりました。先生の編集を希望していた新井くんが飛び入り参加してくれたのですが、彼に誘われてわたしたちは、合評のアフターへ行くことになりました。場所は教養棟からほど近い、「フリータイム」というレストランです。
「新井くんは、アフターにもよく参加しているんですね?」
「ああ。でも一年目は、朝倉さん以外あんまり来てくれないんだよなあ」
 わたしと先生も実家から通っているのと、先生が帰りの遅くなるのを嫌うので、あまりアフターには参加していませんでした。このレストランも鳳華苑と並んで定番のお店のようですが、来るのは初めてです。
 ひとまず注文をして、一息つきます。
「先生、今日の合評はいかがでしたか?」
「感触は悪くなかったな。一年目からは、あまり意見が出なかったような気がしたが」
「そうでしたね。べた褒めという感じでした」
「それは、浦川さんの作品の完成度がそれだけ高かったっていうことなんじゃないの?」
 やや不満げに首を傾げる先生に、新井くんは軽薄な調子で言います。
「実際、八戸さんも褒めてくれたしな」
「はい……あれは若干意外でした」
 八戸さんは合評の見守り役として参加してくれたのですが、先生の作品に関して開口一番「よく書けている」と発した後、「今年の一年目の中で、一番良いんじゃないか」とまで言いました。加えて、他の作品や一年目に対する嫌味が入るわけですが……。
「まあでも、浦川さんの作品は、文学的に見てもセンスがあるんじゃないかな。俺は理系だし、あんまりでたらめ言うと怒られるかもしれんが」
「それにしても、わたしたちはあんまり、文学のことを意識しているわけではないんですよね」
「そうだな。あの場では、文学というものに対する遠慮があったような気がした」
 一年目から出た感想も、「文学的なテーマ性だった」とか「人間について考えさせられた」とか、確かにそういう物語だったにせよ、やはり文学を意識したものが多くありました。「面白かった」とか「わくわくした」といった、どちらかと言えば感情的な感想をあまり引き出せなかったのが、わたしたちの心残りなのです。
「文学に対する遠慮って?」
「確かに文学には文学の面白さがありますし、人文科学の主要な分野の一つとして、古くから敬われてきた事実もあると思います。でも、わたしたちのする文芸は、文学とイコールではないと思うんですよ。ですから、文学が絶対的な権威であるかのような振る舞いには、違和感を覚えます」
「文芸は、文学とイコールではない……なるほどな」
 八戸さんや高本さんのように、自ら深く文学に近づこうとして文芸をする人もいます。ともすれば大学では、そういったモチベーションの人が正しく見えることもあるでしょう。だからと言って、文学的でない振る舞いを否定したり、糾弾したりすることが許されはしないのです。文学的でないことを罪とするならば、文学もまた罪なのです。
「まあ、これはわたしたちの考え方なので、上年目の人たちとは、相容れないかもしれませんが……」
「でもなあ。確かに八戸さんが、『今年の一年目はへなちょこだ』とか言ってるのを聞いて、俺も同じようなことを思うよ。ボックスで遊んだりすることにも、プレッシャーを掛ける動きがあるし……俺は今、こうして楽しく気ままに過ごす時間を、なるべく長く持ちたいだけなんだがね」
 途中から、先生はカレーライスを食べながら、黙ってわたしと新井くんの話を聞いていました。だんだんと、新井くんの言葉に対しても頷くようになったのが印象に残っています。
「新井くんは、文芸を始めて五年くらいでしたっけ。これまでにどんな作品を書いてきたんですか?」
「話したかもしれないけど、『みなみハミング』は、湖シリーズの三作目なんだよな。でも、そればっかり書いてるわけじゃなくて、恋愛とか、友情みたいな話も書いてきた。今回で十三作目になるな」
「なかなか書いてますね」
 ちなみに先生は、今回で通算十作目になります。新井くんの文芸歴は先生より一年ほど長いようなので、だいたい同じくらいのペースで作品を書いていることになるでしょう。
「北海道を離れるときに、仲の良かった女の子たちがいて、寂しさからそういう妄想を小説に書き始めたんだ。心理学的には昇華って言うんだよな」
「そうですか……」
 何気に「女の子たち」という複数形になっていたことを、わたしは聞き逃しませんでした。今も似たような環境で、「師匠」とすら呼ばれているわけですが、果たしてその心境はいかがなものなのでしょう。和泉さんではありませんが、若干気になります。興味というよりは、ある種の恐怖です。これには先生も、訝しげな表情を浮かべています。
「わたしたちの中に、気になる人とかいないですよね?」
「和泉みたいなこと聞くな……今はいないよ。というか、師匠だなんだと呼ばれているけど、俺はそこまで恋愛がわかってるわけでもないしな」
「少し安心しました」
「どういう意味やの」
 新井くん以外の男性陣は、部会でもあまり見かけなくなってきました。それぞれ癖のありそうな人たちだったので、わたしは少し残念です。新井くんについてはむしろ、同性との付き合いが苦手そうなこともあり、少なくともこの状況を嫌がってはいないのだろうと感じました。一方、先生の彼に対する印象は、あまり良くはならなかったようです。

 日曜日には学校祭の打ち上げが予定されていましたが、その前に企画班の会議が開かれました。わたしは班員ではありませんが、夏の企画や合宿について話すということで、気になったので単独で潜入することにしました。雨が降っていたからか、やはり新井くんの姿はありません。
「それでは、企画班会議を始めます。議題は、第九回マスカレードについて、合宿について、レギュラー企画についてです」
 班長の明石さんも来ていますが、企画班では代替わりが始まっているらしく、司会は二年目の平塚さんが務めています。自らホワイトボードに書く文字はあまり綺麗ではありませんが、二年目の中ではマイルドな印象を与える男性です。
「まずマスカレードについてですが、基本的には匿名で作品を提出して、匿名で評価をしあう会になっています。詳しいルールについては、要項を作ってきたので見てください」
 配られた要項に沿って、マスカレードの説明が進みます。どちらも匿名なのに、提出する側には作品数の上限が設けられていたり、評価する側にはなるべくすべての作品を評価するという目標が設けられていたり、なかなか難しいことが説明されました。
「作品の提出締め切りは九月上旬、夏休み明けには表彰式と、打ち上げを行います。ここまでで、何か質問意見等はありますか?」
 朝倉さんと武藤さんが顔を見合わせます。班員である二人に対して遠慮がちな気持ちにもなりますが、わたしには気になることがありました。
「この企画で作品を出す人と評価する人が匿名になることの意図は、どういうところにあるのでしょうか?」
「意図は……匿名にすることで、作者による先入観を取り払って読んでもらったり、あとは上年目の作品に対しても、忌憚のない評価をしてもらったり、というところですかね?」
 平塚さんは、明石さんに確認するような調子になってしまいます。回答は想像していたような内容でしたが、それが第九回になる今回まで意識的に継がれてきたわけではなさそうです。
「そうだね。普段部員の作品を読んでる人なら、匿名にしてもだいたい誰の作品かわかるんだけど……一年目から六年目まで、いろんな部員の作品が並べて評価される企画って他にないから、そういうところも楽しいと思うよ」
 明石さんの見解はそのようなものでした。以前、新井くんから六年目の方の参加意思を聞いたことを思い出します。上年目にとっては、概ね楽しいイベントとして認知されているようです。
「あの、表彰式をするということは、最終的に誰が受賞した作品を書いたか、知らされるということですか?」
 そこで、武藤さんの手が挙がりました。今度は平塚さんが普通に答えます。
「基本的には誰がどの作品を出したか、最後まで企画班でもわかりません。受賞した作品だけ、名乗り出てもらうことになります。優勝者には、例年図書カードを贈呈することになっています」
「わかりました。ありがとうございます」
 加えて明石さんによると、結果発表の時期になれば、八割くらいの作品は作者が自ら名乗り出て、それが打ち上げの話のネタになるそうです。
 細かい管理の方法など気になる点はありましたが、とりあえずは先に進むことにします。マスカレードについては、もう二つ項目がありました。
「それで、今年も例年通り個人賞の募集をしたいと思います。七月いっぱい募集して、あまりに少なければ、企画班賞を設ける予定でいます」
 個人賞は、その名の通り部員の有志が自費でパトロンとなって設ける賞です。これもまた、マスカレードを盛り上げる要素の一つなのだとか。問題は次の項目でした。
「最後に、評価と順位についてですが、例年通り総合点を十点満点として、その平均点で順位を付けることとします。また、アンケートサイトを使うのですが、総合点の他にキャラ、ストーリー、構成力、アイディア、文章力の観点でそれぞれ点数を付けられるようにしたいと思います。これは、総合点と直接関係しない、任意のものとします。あとは、自由記述欄を設けます」
 やや複雑そうな仕組みですが、評価においては総合点だけが必須ということらしいです。他の観点の点数は、ある意味飾りです。
「それで、総合点について、基準を設けるべきという話が前回出てきました。もし設けるならば、六点を基準に考えてもらうよう、周知したいと思います」
 その経緯は、前回まで自由に総合点を付けさせたところ、いたずらに高い点あるいは低い点ばかり付ける人がいたように見えたからなのだとか。最後は平均化されるので、その人がすべての作品に同じ基準で点を付けていれば平等なのですが、匿名なのでそれも保証できません。実際、作品ごとの評価数にはばらつきがあるのだそうです。
「なんだか、それも含めて、匿名だから管理に限界があるのは仕方ないのでは? 基準をこっちから言ったとしても、守ってもらえるかどうか、わからないですよね」
 武藤さんからそんな疑問が出てくるのも、頷けることでした。平塚さんの側には、どうにか健全な企画にしたいという思いがありそうですが、構造上の欠陥は否定できません。
「まあ……だからなるべく、全部の作品に評価を入れるようにお願いしていったり、そういうことが企画班としてできる一番の対策ですね。最後は、部員の良心に任せることになります」
 ある意味、この部の最大の企画ということで、少額とはいえ金品も動くので、舞台裏はなかなか重苦しい雰囲気でした。他にも夏に向けての議題はありましたが、わたしはこのマスカレードで、この部の文芸的な側面が見通せそうだとわかったので満足です。

 ということで雨の中でしたが、大学祭の打ち上げはススキノの焼き肉屋で開かれました。わたしは先生や和泉さんと一緒に、大学祭プロジェクトの責任者もしていた大藤さんを囲みました。
 夏部誌は二回目の合評が終わり、最終稿に向けて忙しい時期です。未成年だという大藤さんは烏龍茶を飲んでいましたが、雰囲気からか、多少の愚痴もこぼしていました。というのも、前回の部会で行われた大学祭の反省会が、例によって面倒な流れになっていたのです。
「今回、二年目も三年目も、頑張ってくれたんだけどなあ……」
 ちなみに文芸部の出店では、お好み焼きを作って売っていました。一月から試作会をして準備したそうですが、本番になるとシフトの人数が少なくて調理が間に合わなかったり、材料の不足で売れない時間帯があったり、騒ぎがあったとのことでした。利益は出たのですが、特に四年目の方などから、「行きあたりばったり」と評されていたのです。
「まあまあ、そういうこともありますよ。大藤さん飲まないんですか?」
「いや、僕は飲まないけど……」
 そんな大藤さんの隣で、和泉さんはライチサワーを呷っていました。疑わしくなりますが、年下は間違いなく和泉さんです。
「そもそもは傑作選を売るためなのに、みたいな声もありましたけど、実際はどうなんですか?」
 寡黙な大藤さんから本音を聞き出すことができそうだったので、わたしも積極的に聞き役に回ります。
「それはそうなんだけどね。去年までは、同じ日に同人誌即売会みたいなイベントがあって、それに参加してたの。でも、今年なくなっちゃったから、一緒に売ることになってさ。お好み焼きはその前から準備してたし、やっぱり、お客さんも大半はお好み焼きが目当てだから」
 傑作選を売るのは三回目で、ある程度売れることを見込んで発行部数を増やしたとのことですが、今年はそれが裏目になってしまったのでした。
「結果的に黒字だったんだから、良いじゃないですか。飲みましょうよ」
「まあ、うん……」
 和泉さんはひたすら陽気に、大藤さんにお酒を勧めています。いつの間にか、二人の距離がかなり縮まっているような気がします。どちらかと言えば、和泉さんが一方的に大藤さんを巻き込んでいるのですが。
 そしてわたしは、そんな二人の様子を、遠くから睨みつける人の存在に気付いてしまいました。言わずもがな、高本さんです。同じテーブルには、八戸さんや江本さんもいます。また、文学の話とも女性の話ともつかない談義をしているのでしょう。そこに何故か、樋田さんも同席しています。わたしは見なかったことにしました。
 ちなみに今日、一年目は先日の女子会メンバーが来ているだけでした。残りの三人は、それぞれ別のテーブルに散らばっています。
「今日も新井くんは来ませんでしたね」
「飲み会にあんまり興味ないんじゃない? 別にいいよ。それより、フミも飲む?」
「わたしは遠慮しておきます」
 和泉さんにはさすがに前回の反省があるのか、わたしや先生にはほとんどお酒の話を持ち出しませんでした。
 大藤さんからは、流れで先日あったという二年目会議の話が聞ければと思っていましたが、この場では全くそれに触れられることはありませんでした。

 その雨はしばらく止まず、火曜日の夜にようやく晴れ間が見えました。そして水曜日の午後、わたしは先生に誘われて、大学の植物園に来たのです。
「随分広そうですね。道順は先生にお任せしますよ」
「ああ。気の向くまま巡ってみよう」
 重ね着もいらないほど暖かくなり、ライラックの花は終わりごろです。その並木から続く灌木園には、ツツジやウツギの花などが見られました。園内は一周一時間ほどとのことですが、先生は全身を植物園の空気に浸しながら、ゆったりと歩いています。
「意外と咲いていますね」
「種類が多いからな。この時期だから、もうオオバナノエンレイソウや、クロユリなども終わってしまったが」
 散策には良い天気でしたが、すれ違う人はほとんどありませんでした。ここは市街の中心部からはやや外れていますが、それでもビル街に面した立地です。柵の外には、交通量の多い通りが見えます。
「先生は相変わらず、こういうところで癒しを感じられるんですね。羨ましいです」
「気苦労が多いようだな?」
「気苦労というか、取り越し苦労というか……気になるじゃないですか。二年目が、今後部についてどういう選択をしていくのか。わたしたちだって、無関係ではいられないですよ」
「まあ確かに、運営の方針は重要かもしれない。だがそれは、この部が文芸部でありながら、文芸のためだけに存在するわけにはいかない……そんなジレンマがあるから、余計に複雑な話になってしまうのだろうな」
 先生も、部の先行きについて憂慮していないわけではなさそうです。高本さんのことというよりは、部会での上年目の振る舞いを見て、思うところがあるということでした。
「先生は、高本さんのようにと言ったら大袈裟ですけど、この部が文芸を第一に考えるべきだと思いますか?」
「そうだな。文芸の力を互いに高められるような環境であるのが最低限だ。しかしそういう環境は、ただ文芸をする者が集まっただけでできるわけではない。場合によっては、互いの持つモチベーションを否定し合い、打ち消し合うような環境にもなるだろう。部長がその形成にどこまで関わるかはわからないが……少なくともあの高本という男は、文学以外にはあまり理解がないようだな」
「そうですね」
「恐らく、今の三年目とか、四年目よりも上の時代には、もっと部員相互の信頼と、適度な距離感と、精神の共有があったのだろう。規則やマニュアルのように明文化されない、以心伝心的な関係だ。しかしそれが通用しなくなり、コミュニケーションの断絶が起きてきている……社会の縮図だ」
「先生が見ても、わかりますか?」
「どういう意味だ」
「いえ……」
 サークルは絶対に人が入れ替わるものです。四年を超えて在籍する部員が例外的に数名いるだけで、新しい部員はどんどん入ってきます。だからと言ってわたしには、年月を掛けて醸成される部の風土や伝統、精神を蔑ろにすることはできません。しかし、そういうものが新しい人にとって邪魔である場合も、相応に多いのです。
「先生はあまり興味がないかもしれませんが、わたしはまあ、部員がゲームで親交を深めているとか、文学にあまり興味がないとか、そういう趣味の問題は本質的でないと思うんですよ。文芸と、それに関わる仕事を怠けなければ、この部はなるようになると思うんです」
 実は今週の部会で、樋田さんが鬼の形相を見せたのでした。それは来週に迫った、夏部誌の最終締め切りの件です。
『締め切りは、絶対に、絶対に遅れないでくださいね! いいですね!』
 噂には、締め切りに遅れる人が出ると、決まってろくでもない騒動に発展するのだそうです。そのためこの時期、編集班員は目に見えてピリピリするのでした。
 もう一人、三年目の山根さんも、控えめな態度でこんなことを言っていました。
『最近、ボックスでゲームをして盛り上がっていたり、それは部員として喜ばしいことだと思うのですが、合評の参加者が少なかったり、仕事が一部の人に集中したり、そういう状況になっているのはあまり良くないと思います』
 というのも、この部の合評は原則参加という建前ですが、実際は予定を組む際に、入ることのできる日程を担当者に送らなければ、参加せずに済んでしまうのです。確認してみると、確かに部会で見かける二年目や三年目でも、合評の参加者として名前がないことがありました。それぞれの事情もあるとは思いますが、これが続けば望ましくはないでしょう。
「まあ、仕事という言い方自体が、あまり良くない雰囲気を醸し出すのかもしれませんが」
「サークルは、会員のためのサービス業ではないだろうに」
「部誌制作の構造はもう、編集班のサービスですからね」
 こういうとき、まだ老成しきらない心を持ち合わせるわたしなどは、誰かがドラッカーでも読んで素晴らしい方向へ文芸部を導いてくれはしないかと空想するのです。しかしそれは、信頼できるリーダーの登場が前提にあるのでした。
「人手不足なら、倒産もやむなしか」
「まずは規模縮小ですよ。作者さんを切り捨てるんです。それか、対価を要求します」
「そんな殺伐とした文芸部も、逆に面白いかもしれないな」
 投げやりなジョークと、初夏の花の取り合わせです。カキツバタも盛りを過ぎたこの頃、バラの花やハスの花は輝かしすぎて、郷愁を寄せるには向きません。

 その裏では、朝倉さんの合評が延期になるというハプニングがありました。編集の方の都合でなかなか日程が合わず、六月最後のこの土曜日までずれ込んでしまったということです。その代わり天気は晴れて、穏やかな午後にたくさんの一年目が集まりました。新井くんも含めて、いつものメンバーが揃っています。
「今日は、飛び入りでもたくさん来てくれて、本当にありがとうございました」
 朝倉さんは最初少しの間戸惑っていましたが、見守り役に平塚さんを交えた合評は緩やかに進み、また無難すぎるということもなく、楽しく終わりました。
 そして、なんとなく全員で固まって、会場の図書館を出た後のことです。
「今日、星井の家に行こうって話してたのよ。フミとアキも来る?」
 和泉さんがそんな誘いをしてきました。元々は今日、二人で遊ぶ予定だったそうです。
「わたしはいいですけど、星井さんは?」
「問題ないよ。ねっ」
 目配せをされた星井さんは、そのまま頷きました。
「先生は、どうします?」
「わたしは……今日は帰るとしよう」
「そうですか」
 そうしているうちに、和泉さんは武藤さんや朝倉さんにも声を掛けていました。朝倉さんは興味を示しているようです。しかしその流れは、思わぬ方向へ向きました。
「えっ、新井も来たいの?」
「いや、その……朝倉さんも、行くのね?」
「うん、行こうかな」
 何故か新井くんが、朝倉さんと何かの相談をしています。そして、一人で帰ることをためらっている様子。
「来たいなら来れば? いいよね、星井」
「まあ……片づければ、大丈夫」
「じゃあ、行く。行かせてほしい」
 それがなんと、和泉さんの一言で、あっさりと新井くんの参加も決まってしまったのでした。普段の飲み会ならまだしも、今日は場所が一人暮らしの女性の部屋です。気にしすぎと言われればそれまでですが、かなり奇妙な状況になったと思いました。
 そういうわけで、わたしと和泉さん、朝倉さんと新井くんの四人で、星井さんの部屋にお邪魔することになりました。
「新井くん、本当に大丈夫ですか?」
「まあ、星井さんもいいって言ってるし……気は遣うけどな」
 道中、そう言いながらも新井くんは平気そうな顔をしていました。そこまで抵抗があるわけではないのでしょう。師匠と呼ばれるだけあり、女性に関しては随分と図太い神経をお持ちのようです。
 部屋の前で五分くらい待った後、わたしたちは入室を許されました。
「今日は、二人で何をする予定だったのですか?」
「本当はホラー映画でも見せて、星井を怖がらせようと思ってたんだけど……借りてくるの忘れちゃったからさ。ホラーゲーム持ってきた」
「そうですか……」
 ホラーと聞いて、星井さんが無言で抗議の姿勢を見せます。しかし和泉さんはそれを完全に無視して、ノートパソコンを立ち上げ始めました。これは二人だったら、また別の意味で荒れそうだと思います。
 和泉さんは操作も星井さんにさせる気でいましたが、星井さんが全力で拒否したので、ゲームに慣れていそうだという理由で新井くんが抜擢されることになりました。
「ほら、星井はもっと近くで見て」
「いやもう、おかしいでしょ、それはダメ」
「ちょっと驚かすだけだって、ちゃんと目開けて」
「無理無理、驚かすって言ってるし」
 ゲームには謎解きやアクションの要素もありましたが、新井くんは躓くことなく、すらすらとクリアしていきます。ちなみにそこまで血生臭いホラーではなく、映像や音響で驚かせる、お化け屋敷的な脱出ゲームでした。朝倉さんは一度攻略したことがあるようです。
「あ、ちょっと新井、そこの右の部屋入って」
「こっちか? でも……」
「いいから」
 途中から、すんなり進んで罰ゲーム的な場所も飛ばし始めたので、和泉さんがわざと間違った道を選ぶよう誘導し始めました。実際、和泉さんのワンマンショーで、新井くんは助手という感じです。そして星井さんは、望まざるVIP待遇なのでした。
 ゲームは一時間半ほどで終わり、夕方になりました。会はそこでお開きです。わたしはほとんど見ていただけでしたが、久しぶりに嫌なことを考えずに過ごせた日だと思いました。和泉さんと散々じゃれて、ぐったりとしていた星井さんには少し申し訳ない気もしますが、わたしは楽しかったです。

 七月になり、最初の部会で役員選挙の立候補者が発表されました。大方の予想通り、部長は高本さん、副部長は江本さんです。信任投票ということで、一週間後に例会が開かれることになりました。
 ちなみに、一年目が持つべき役職もそれぞれ埋まりました。朝倉さんが書記、和泉さんが会計、わたしと新井くんが庶務に立候補しています。これも例会の日に承認される予定です。
 その日のアフターには、樋田さんと大藤さんが参加していました。わたしは編集班員として、二人の近くに座らせていただくことにしました。場所は鳳華苑です。
「大藤くん、おつかれビール飲みます? 私の奢りですよ」
「いえ、お気持ちだけ頂戴します」
「じゃあ、私は頂きます」
 あまり気にしていませんでしたが、ここには「おつかれビール」というメニューがあるのでした。小さなグラスのビールが、格安で出てくるというものです。樋田さんなどは普段の様子からすると、本当に申し訳程度の量だと思いますが、それでも気分は良さそうです。というのも、夏部誌は最終稿締め切りが無事に終わったのでした。
「夏部誌、全部の作品が予定通り提出されたみたいで、良かったです」
「毎回一人くらいはいるんだけどね。今回はラッキーだったよ。でも、編集長はこれからマスターを印刷して、印刷に備えなければならないのだ。あっ、印刷講習会も告知しないと」
「講習会は、僕が担当しますよ」
「さすがは未来の編集長」
 部誌の印刷は、まず提出された原稿をもとに編集長がマスター原稿を作り、それをもとに輪転機で一ページずつ、必要な枚数印刷し、最後に丁合を行うという流れだそうです。その丁合の作業は、七月最後の部会に予定されています。
 ともかくも、ここからは事件に発展する要素が少ないということで、樋田さんは特に陽気でした。しかし、片や大藤さんはあまり表情を緩めません。平時に近い姿ではあるのですが、喜ばしい気分ではなさそうです。
「大藤さん、何かお悩みですか? 例えば、来週の選挙のこととか」
「いや、まあ……僕は、高本がちゃんとやってくれるって言うなら、お願いしようって立場だから」
「私まだ所信表明ちゃんと読んでないんだけど、そこまで変な内容ではないでしょう?」
「はい。それは、僕ら二年目の意見が反映されたものだと思って読んでくださればと思います」
 そこでわたしは、大藤さんの表情が覚悟の表現なのだということを悟りました。先日開かれたという会議の内容はわかりませんが、それを経た今になって、高本さんへの不満をこぼすのは二年目としてフェアではありません。
 その所信表明ですが、やはり「文芸活動を疎かにしない」こと、「部員の参加意識を向上させる」ことが謳われていました。一方で「多様な部員が満足できる地盤の確保」も内容として盛り込まれていて、二年目としての議論の成果が伺えます。それらの具体策については、もう一つ足りないという印象でしたが……。
「最悪の場合は、江本くんがなんとかしてくれるよね」
「いや、そうならないように僕らも頑張ります」
 江本さんは普通に上年目からの信頼もあり、所信表明の内容も「インターネットでの作品公開など、活動の場を広げたい」など現実的なものだったので、特に問題はないと思います。そして実際、和泉さんもそうだと聞きましたが、「江本さんが副部長なら高本さんが部長でも良い」という立場もあるようです。さすがにそんな政権はまずいのでは?

 六限期間も終わり、授業ではそろそろ最終レポートや試験などの話が出てくる頃です。七月に入ってからは夏らしい好天に恵まれることも増えましたが、その日は狙いすましたかのように、じっとりとした雨が降っていました。北海道の珍しい長雨は、梅雨と宣言されることがなければ、永遠に梅雨明けを迎えることもないのです。
 例会は普段と異なり、学生交流会館で開かれます。わたしは放課後に先生と一緒に向かう約束をしたので、五限の時間をボックスで過ごそうとしましたが、そこには新井くんしかいませんでした。
「今日は、誰も来ていないんですね?」
「まあ、こんな雨の中、わざわざ向こうの学部から来ないよ」
 この食堂や教養棟はメインストリートの北の端にあり、会館の反対側です。さすがにこの重大な日に、ここで遊ぼうと考える人もいなかったのでしょう。
「新井くんは今日の選挙、どうするつもりですか?」
「どうするって? まあ、高本さんは話を聞いてみて……かな。投票はする」
「そうですか」
 現実的なことを言えば、こうして信任投票に持ち込まれた以上、わたしたちに選択の余地はありません。それはもう、この部の上年目のことなので、厳しい質問が飛び交うことも予想されますが、どれだけ言葉での乱闘を繰り広げてもなお、最後には高本さんが信任されて幕を閉じることを望んでいる人が大半であるはずなのです。まかり間違って不信任になれば、想像のできないレベルの混乱が起こってしまいます。
「二年目はもう、腹をくくったというか……自分たちはこれで行きたいっていう姿勢を見せ始めたから、後はそれがどう判断されるかだ。中津さんはどう思う?」
「わたしは……正直なところ、こうして決まっていくことを変えようとは思わないですね。高本さんの作るこの部で、上手く共存していけるかがポイントだと思います」
「共存、ねえ」
 新井くんはクリアファイルを抱え、その中を見つめていました。高本さんの所信表明です。その表情には、迷いや苦しみが見え隠れしています。
「この部は、そこまでガツガツしていないところが良かったのにな……ゆったり書いていたい。文学がどうとか、知らない」
 こういうとき、新井くんはとても話したがりです。どこまでが本心かは断定できませんが、話すことが考えの整理につながるようなのです。まるで独り言のように続けます。
「俺はさ、もう五年くらいやってるけど……正直、高校のときも大会とか全然ダメでさ。要するに上手くはないんだな。でも、ここでならプロを目指すとか、そういうことばっかり意識しなくても、自分のペースで文芸ができると思ってたよ。それで、一年目の同期とさ、お互い文芸を楽しめるような仲間になって……な」
「それは今、実現していないのですか? わたしには、新井くんも楽しんでいるように見えていますよ」
「まあ……仲は良いかもしれないけど。文芸を楽しむ関係とは、違う気がするんだよな。部活仲間というより、ただの友達」
「なるほど……」
 先生と似たような考え方です。先生は恐らく、ただの友達をほぼ必要としていないので、こうした関係の形について悩む必要もないのでしょう。
「ちょっと最近、俺も文芸のモチベーションが下がっててさ。それは多分、高本さんの言う通りなんだよ。この部が、出会いと、遊びの場になっている……そんな感じだ」
「そうだったんですね」
「俺も最近、気になる人ができたし……楽しく過ごせるなら、そういうのも悪くないと思うんだ。でも、やっぱり文芸を続けてきたから、ちゃんとやりたい自分もいる。俺はどちらかに決めかねているけど、先に部の空気が決まっちゃったら、流されてしまうと思う」
「結局、その空気に強いられて文芸を続けることになる、と?」
「そうだな」
 こう見えて、新井くんは周囲の目をかなり気にするタイプです。その点で先生とは決定的に違うとわたしは判断しています。その一方で、彼自身はそんな性格をあまり受け入れていないようなのです。誰も見ていないところでも、手を抜きたいと思いつつ、誰かに見られる可能性を気にして手を抜けない、そんな哀しい葛藤が感じられます。
「ちなみに、気になる人とは?」
 そして、この質問はあまりするべきではなかったと思いました。これまでのように答えずに終わるのかと思いきや、新井くんは思い切りわざとらしく勿体つけて、彼女の名前を口にしたのです。
「……わかった、言うよ。俺は朝倉さんが好きだ」
 これはその場で思いついた異説ですが、本質的に目立ちたがりである彼は、「ちゃんとやっている自分」を周囲に誇示したくて仕方がない……という解釈も成り立つと思いました。そのほうがしっくり来て、かつ厄介なものです。

 例会はいつものように、定刻から三十分遅れて始まりました。いつかは改善したいものです。最低限の連絡事項を消化した後、いよいよ下野部長に紹介されて、高本さんが前に立ちます。
「それでは、部長に立候補した高本くんに、所信表明演説をお願いします」
「はい。私はこの部を、真剣に文芸をする部にしていきたいと考えています」
 そう切り出した高本さんは、事前に発表された原稿と同じ内容を、力強く語りました。
「文芸はもちろんのこと、文芸に関連した合評や編集、印刷等の仕事においても、一部の人に負担が偏ることなく、全員が協力し、部の活動としての意識を持って取り組むことを目指します」
 実現性はともかく、ここまでが当初の内容だったのでしょう。高本さんはここから、やや態度を軟化させ、わたしたちに語り掛けます。
「しかしながら、この部には作品を書いたり、読んだりするばかりではなく、例えば、デザイン班の皆さんのような、様々な目的を持って入部された方がいると思います。私はそういった方々にも、できれば、合評や編集などを通して、文芸活動に参加していただきたいのです。そして、この部がより質の高い文芸活動を行える場であるよう、私たちで、研鑽を積んでいこうではありませんか。何卒、信任をよろしくお願いいたします」
 演説は十分に満たないくらいでした。高本さんが礼をすると、拍手が起こります。しかしそれは、必ずしも歓迎や称賛の意を秘めたものではありませんでした。
「それでは、質疑応答に移ります」
 下野部長が発言者を募ると、一斉に数名の手が挙がりました。最初の発言者は、デザイン班長の山根さんです。
「あの、これはデザイン班の名誉もあるので言わせて頂きたいのですが、高本さんはデザイン班に参加する部員のことを、どのようにお考えですか? あたかも、絵を描くことばかりで、文芸にはまるで興味のない、そのような集団だと仄めかしているように聞こえたのですが、その点についてお聞かせください」
 最初から容赦のない質問です。実際、この部は新歓で、デザイン専門の部員も分け隔てなく募集していました。もちろん、デザインで部に貢献するというありかたは正当なはずです。しかも現在のデザイン班員は、ほとんど全員が夏部誌にも作者あるいは編集として参加していました。高本さんのデザイン班への言及の仕方は、やや乱暴であったと言わざるを得ません。
「はい。私には、デザイン班の皆さんを、デザイン班であるからと言って、文芸をしない集団であると決めつけるような意図はございません」
 高本さんは毅然と言い切ります。既に、かなり表情が険しいです。
「しかしながら、この部は現在、デザインのみを目的とした入部も認めています。私はそうした、文芸以外を目的とする部員であっても、文芸部なのだから、文芸活動に参加して頂きたいということを申し上げています」
「……わかりました。僕からはひとまず切り上げます」
 山根さんは不服そうな表情をしていましたが、次の発言者に配慮したのか引き下がりました。代わりに発言するのは、三年目の上尾さんです。一年誌のとき、先生のサポーターになってくださった方でした。
「高本くんが話してくれたように、合評をはじめとする仕事への積極性がなくなってきているというのは、本当だと思います。ただ、お聞きしたいのは、何をもって文芸をしているとか、仕事に参加しているかを判断するつもりなのかということと、それを部員一人一人について管理するつもりなのかということです。例えば、仮に積極的でない部員の存在が明らかになったとして、どうするつもりなのかということを聞きたいです」
 これももっともな疑問だと思いました。万一そのような管理システムが実現してしまったら、ディストピアまっしぐらだと思います。部員は離れ、しめやかに廃部を迎えることでしょう。
「はい。私には、活動に積極的でない部員を、直ちに糾弾する意図はございません」
 高本さんは先ほどと全く同じように答えます。どのような印象を与えようと、誤解だという一点張りで押し通すつもりのようです。コミュニケーションの方策として、あまり褒められた姿勢ではないと思います。
「しかしながら、この部の規約には、何らかの形で活動に参加していることを部員の要件として定めております。また、各マニュアルにおいても、合評や印刷、丁合等の作業には原則として全員参加することを求めています。私は皆さんへの呼びかけを通して、また自らも積極的に活動を行うことで、それらの規定を厳格に運用することを目指します」
 そしてもう一つ気になるのは、高本さんが部長という立場を、全能的な唯一神か何かだと考えてはいないかということです。部長になれば直ちに部員を従えて理想とする部を実現できるという、誤った認識を持っているように感じられるのです。確かに、カリスマ的な影響力で部員を導くような部長がいても悪くはないと思いますが、高本さんは現状それとは縁遠いのです。まず信頼が足りません。
「あの、僕からこのような話をするのは、心苦しいですが」
 高本さんを見かねたのか、大藤さんが手を挙げました。
「僕自身は、もう過去のことは気にしていません。高本に目指すものがあって、この部をしっかりと守ってくれるなら、それで良いと思います。ただ、中には高本がこれまで起こしてきた問題について、まだ不安に思っている人もいると思います。それについて、改めて考えを聞かせてもらいたいです」
 今、このやり取りの中でも息遣いが荒くなっている高本さんです。見た目に反して気性の激しい部分があるのは、上年目にとっての大きな不安要素です。一度は大藤さんと喧嘩になりかけたとも聞いています。
「私も、過去のままではありません。男子三日会わざれば刮目して見よ、ということです」
 本人は気の利いた答弁をしたつもりなのだと思いますが、これには場が一気にどよめきました。失笑すら聞こえます。
 予想以上の泥沼ぶりに、質疑応答は長引きました。もはや上年目も二年目も、なんとか前向きな結論を引き出そうとする動きが見えてきます。しかし質問を一つ受けるたびに、高本さんの顔には深い皺が浮かび、目は赤くなり、余裕のなさをにじませます。
 そんな時間が、一時間くらい続きました。今回ばかりはわたしたち一年目も他人事ではありませんが、それにしても永いです。
「それでは、質問が出尽くしたようなので、高本くんについてはこれで終わりたいと思います。ありがとうございました」
 八時半を回り、ようやく江本さんの番です。それはもう、驚くほど安定感のある、平穏な時間だったと思います。やはりインターネットに展開することについては、その具体的な方法、部誌や傑作選など他の媒体とのバランスの問題など議論の余地はありそうでしたが、江本さんは冷静に、誠意ある答弁をしていました。

 例会は九時ちょうどに終わりました。学生交流会館も消灯時間です。わたしは雨が降っていたことすら忘れていました。アフターに行く気も起きず、ただ、先生と疲れた心を寄せ合い、駅まで歩いていきました。
「結局、信任されたな」
「それはまあ、不信任になったら、この部はもう終わりですよ」
 投票を終えて、妙に長い集計の後、下野部長から二人の信任が告げられました。実際のところ例会が成立する要件が部員の三分の二で、さらにその過半数が信任すれば良いので、見かけよりそのハードルは低かったと思います。それでもどのくらいの不信任があったのか、想像すると恐ろしいです。
「しかし、結果的に信任されると言ってもだ。あのように全方面から叩かれることを考えれば、生半可な覚悟ではなれないだろうな」
「それだけは、高本さんにも感心しますよ」
 高校と大学の部長は性質の異なるものですが、いずれにしても、新たな方向性で集団を動かそうとするのはとても大変なことです。ある日突然誰かが言い出したくらいでは、動きようがありません。地道なコミュニケーションと共感があって、少しずつ人の行動は変わっていくのです。わたしは部長の経験から、そう考えています。
「あれでは来年、部長になりたがる者も少ないだろうな」
「いいですよ。そのときは、わたしがなりますから」
「ふふ、その気があったら、独立したサークルを立てるほうが早いかもしれないぞ」
「フェアではありません。それに、曲がりなりにもわたしは、高本さんのようにしっかりと文学がわかっている人も、この部にとっては大切な人材だと思っているんです。だから、互いに気持ち良く過ごせるあり方を探っていきたいと思います」
「そうか。まだまだ大変だな」
 先生もまた、口では独立と言いながらも、やはりこの部に思い入れが出てきているのです。わたしが離れると言わなければ、この部を離れようとはしないでしょう。
 夏に向けて、次第に天気が良くなることを願うように……今は曇天のような部だったとしても、円満で晴れやかな雰囲気になるように。わたしはそれを、部長任せにはしません。大学生として初めての夏休みには、楽しみなイベントもたくさん待っています。どのような環境でも、楽しむことを見失わなければ乗り越えられると思います。できれば先生や、一年目の仲間たち、そして上年目の皆さんと、これからも楽しく過ごしたい。わたしの願うことは、つまるところそこに集約されるのです。

四 流風(上)

 四か月振りに見る校舎は記憶と何も変わるところがなく、安心感を与えてくれます。ここはわたしたちの原点なのです。
「先生……戻ってきましたね」
「ああ。展示の場所は、去年と変わらないのだろう?」
「先生ってば、本当に他のものには目もくれず、文芸部だけ見て帰るつもりですか?」
「それが目的なのだ、何も悪いことではない」
 人混みの苦手な先生は、足早に校舎の中へ入ろうとします。わたしは玄関の受付でパンフレットをもらいました。
「先生、今年も社会科教室とは限りませんよ。行った先で演劇部の公演に巻き込まれたり、将棋部の対局に放り込まれたりしても怒らないでくださいね」
「ん? 天海から聞いていないのか?」
「はい。実は今日、サプライズ訪問なんです」
 天海さんは三年生で、わたしの次の部長です。卒業以来連絡を取らなくなってしまい、そのまま今日を迎えてしまいました。なかなか連絡を取る口実がなかったということも、単純に忙しかったということも、今となってはただの言い訳です。
「それなら、行った先で誰がシフトに入っているかもわからないのか」
「そうですね。もしかしたら、一年生に会えるかもしれませんよ」
「会うのは良いが、わたしたちのことを知らない代だぞ。大丈夫か」
「先輩なんですから、堂々としていればいいんです。あっ、場所は去年と同じでした。行きましょう」
 もしも文芸部に一年生が入部していなかったらとても気まずいことになってしまいますが、そこは後輩に対する信頼の表現ということにしておきましょう。わたしたちはまっすぐに文芸部のブースへ向かいました。すると、幸運なことに知っている後輩が二人いました。
「天海さん、小池さん」
「フミ先輩、アキ先輩!」
「来てくださったんですね!」
 天海さんと、もう一人は二年生の小池さんです。二人はわたしたちを見つけると、長く留守番させた犬のように飛びついてきました。先生も照れながら、小池さんと抱擁を交わしています。
「お久しぶりです。皆さんお元気でしたか?」
「はい。一年生が一人入って、四人で楽しくやってます。先輩方のために第三号の部誌も取り置きしてあるので、今持ってきますね」
「最新の第四号はこちらです! 私が編集したんですよ!」
 小池さんが指した机には、わたしたちの名付けた部誌『逍遥』の第四号が積まれていました。早速手に取り、中をめくってみます。聞いた通り、初めて見かけるペンネームが一つありました。
「桜井志織さんというのが、今年の新入部員の方ですか」
「はい。本名は、波田佳乃ちゃんっていうんです。詩が書けるんですよ! 大人しい子なんですけど、直ちゃんと違ってとげとげしいところもないので、とってもかわいいです」
「小池さんも、すっかり先輩ですね」
 高校生にしてはやや小さい体で、小池さんは今の充実ぶりをめいっぱい表現していました。ちなみに、「小さい」というのは本人の前では禁句です。
「今日はどのくらい居られますか?」
「終日空いてますよ。せっかくですから鳴滝さんや、波田さんにも会っていきたいですね」
「それは良かったです。二人とも喜びますよ」
「部誌、持ってきましたよ!」
 そこで、天海さんが第三号の部誌を持って戻ってきました。シフトの交代までは一時間ほどあったので、わたしたちはそこで待たせてもらうことにしました。
「さて。天海さん、文芸部はどうでしたか?」
 既に代替わりはしていますが、まずは天海さんに報告を聞かせてもらうことにしました。抜き打ちテストのような不意の質問でしたが、天海さんは臆する様子も見せず、堂々とした表情を保っています。
「はい。困ったり、悩んだりすることもありますけど、私たちはみんな、自分の文芸に自信を持ってやっています。私はこの文芸部が好きですし、後輩たちもそう思ってると感じてます。それは私の力というより、それぞれが部のために行動してくれたからですけどね」
「いいえ、素晴らしいと思いますよ。部誌の編集もちゃんとできていますね。小池さんが編集をしているのは、少し意外でしたが」
「去年の大会で部誌部門の分科会に参加して、興味が出たみたいです。部誌の編集はそろそろやり方が固まってきたので、マニュアルを作ろうと思っています」
「いいですね。しっかり引き継いであげてください」
 そうです。この感じです。部員がそれぞれ高いモチベーションを持って、誰からともなくまとまって、さらに成長していく。わたしたちの成しえた理想です。あの大学の文芸部では、全体としてこのレベルに達するのがもはや、限りなく困難に思われます。それでもなおわたしは、今の仲間たちと少しでも良い関係を築いていきたいという思いを新たにしました。
「唐澤は、まだ戻らないか」
 一方で、先生は唐澤くんのことが気になっているようでした。わたしたちが手を尽くしても、最後まで救えなかった後輩です。彼が休部となってしまってから一年になります。
「なんだか私、あいつに避けられてるみたいで。状況はよくわかりません。でも、私からは絶対に迎えに行かないって決めているんです。あいつ次第です」
「そうか」
 そのとき天海さんが初めて表情を暗くしました。握られた手からもどかしさが伝わります。当時の部長としての責任感なのか、同期としての別の感情なのかはわかりませんが、唐澤くんのことを今も心配しているのでしょう。わたしは何やら、眩いものすら感じます。
「先輩方、やっぱり心配ですよね。すみません」
「なに、天海は自信を持って良いと思うぞ」
 先生も、同じようなことを感じたのでしょうか。励ます言葉も、差し出す右手もぶっきらぼうで、こういう場面に慣れていないのが明らかですが、それでも心は天海さんにしっかりと届いたようです。
「ありがとうございます。あの……大会が終わったらまた、報告するので。今度は、大学の話も聞かせてください」
「ああ。楽しみにしているぞ」
 わたしたちは天海さんと、それぞれ握手を交わしました。小池さんはブースの番をしていましたが、そわそわしながらしきりにこちらを見てくるので、そろそろ交代させてあげることにします。
「次は小池さんですね」
「そうですね。代わります」
 天海さんが声を掛けると、小池さんは再び最初のように飛んできました。本当に元気な人です。元バレーボール部のエースだっただけあり、動きが全体的に機敏です。
「小池さん、文芸部は楽しいですか?」
「もちろんですよ! というか先輩、聞いてください。今私たちは、強大な敵と戦っているんです」
「敵……ですか?」
 有り余る元気によって、話も大袈裟になってしまうことがあるようです。わたしと先生は顔を見合わせ、揃って首を傾げました。
「はい。実は、さっき話した佳乃ちゃんのお兄さんなんですけど、文芸が大嫌いなんだそうなんです。それで、佳乃ちゃんに文芸部を辞めさせようとしたり、ひどいことを言ったりするんですけど、なんとか見返してやろうと思って頑張ってます!」
「複雑な兄弟事情ですね……」
「ふふ、楽しそうだな」
 当人にとっては間違いなく真剣な話だと思いますが、先生はこらえきれず笑っていました。小池さんが元々コミカルな作品の書き手なので、その印象から余計に誇張した話に聞こえてしまうのでしょう。
「笑わないでください、これは文芸部の危機なんですよ。佳乃ちゃんが辞めさせられてしまったら、一年生が居なくなって、大変なことになるんです!」
「では、勝つ見込みはありそうですか?」
「一緒にお兄さんを説得して、とりあえず大会までは続けられることになったんですけど、それまでに成果を出せなかったら、辞めさせられてしまうんです。でも、佳乃ちゃんも頑張っていますし、きっと大丈夫です!」
「それは結構ですね。これからも頑張ってください」
 後に、現在の部長である鳴滝さんや、注目の波田さんからも話を聞かせてもらいましたが、それぞれの代にそれぞれのドラマがあるのだということを実感しました。わたしたちは見守る立場として、詳しくは言及しないことにします。
 終わってみると、もう少し懐かしくなるかと想像していましたが、思いのほか前向きな心持ちです。先生も、別れ際には名残惜しそうにしていましたが、校舎を出れば普段の表情に戻っていました。
「皆さん楽しくやっているようで良かったですね。先生、もう少し居たかったんじゃないですか?」
「言うな。入る風があれば、抜ける風もある。だから、帰るぞ」
「本音は?」
「天海がこっちに来ればいい」
「先生、そういうところは変わりませんね」
 そんな想像は、わたしもしなかったわけではありません。ただ、先生のようにはどうにも思いきれなかったのです。たとえ天海さんが同じ大学に来たとしても、今の文芸部に誘うのが、本当に良いことなのか、と。
「先生は、今の文芸部でも……天海さんを誘いますか?」
「わたしたちもいるのだ、誘う以外にないだろう。今の環境が、天海を満足させられないと思うなら、わたしたちは変えていくこともできる。わたしたちの、フロンティアだ」
「フロンティア、ですか」
 乱暴に見えて、後輩への最大級の思慮を込めた答えだったと思います。そういうところなのです。わたしはそんな先生に、これからも幾度となく励まされることになるのだろうなと思いました。
 将来の話はこのくらいにしましょう。わたしたちの、夏が始まります。

 一年誌は、第二回目の合評が始まりました。開催は任意ですが、先生はもちろん、新井くんや和泉さん、飯綱さんなど半数くらいが希望しています。
 一方で、夏部誌の印刷も行われています。輪転機がサークル会館という場所にあるのですが、これが教養棟の裏の林を抜けたところにあり、なかなかの僻地です。メーリングリストには、誰が来ないとか、忘れ物をしたとかの連絡が飛び交っていました。
 そんな期間だからか、ボックスは一時期と比較してかなり閑散としていました。一人か二人しか来ていないのは当たり前で、しかも来るのは限られた人だけです。具体的には、一年目のメンバーや、大藤さん、平塚さん以外は見かけなくなりました。
 ある日、わたしがボックスを訪れたとき、珍しく四人も集まっていました。新井くんに朝倉さん、星井さんと平塚さんです。どうやら四人で、トランプのハーツに興じていたようです。
「お疲れ様です。トランプとは、珍しいですね」
「ロッカーに、トランプが備え付けてあるんだよな」
 そのトランプは、誰のものというわけでもないのでした。以前だったら、新井くんが何か変わったカードゲームを持参していて、それで遊んでいたところだと思います。
「新井くん、最近ゲームを持って来なくなりましたね?」
「あんまりそういう空気じゃないしな。大藤さんも自粛し始めたし」
「ああ……」
 大藤さんのことは、わたしも本人から聞いています。曰く、「高本が部長になったし、僕はなるべく協力したい」とのこと。
「私、結局高本さんが何をしたいのか、よくわからないんだけど」
 そう言いだしたのは星井さんです。平塚さんが頷きました。
「今だから言うけどさ。二年目会議から大変だったんだよ。何をしたいかじゃなくて、高本には文芸部がどうなってほしいかしか見えてないんだよね」
「そうですよね? 部長になっただけでそれが実現するなら、誰も苦労しないですよ」
 高本さんが部長になるのはもはや決まったことですが、それを素直に受け入れる人と、そうでない人がいるのは当然のことです。そして中には、面従腹背の人もいるでしょう。新井くんなどはそのタイプに見えました。
「まあ、遊びすぎたというのはその通りかもしれないが……どうにも好きになれないんだよな、あの人。仮に俺たちが今から思い思いに文芸をし始めたとして、あの人を満足させられる保証もないし。平塚さんは、次期企画班長としてどう思いますか?」
 変わりつつある空気の中で、葛藤があるのでしょう。手持ちのカードを睨むその目が、本当に睨むものは何なのか気になります。
「俺は企画班も、文芸をさせるための班だとは思ってないよ。逆に、みんながこの部でやりたいことを実現させるための班だと思ってる」
 平塚さんの答えに、新井くんはすぐさま頷きました。
「サークル活動なのに自発性がなくなったら、何が残るんだって話ですよね」
 こうして話していても、状況が何か変わるということはありません。仮にこの会話が高本さんや江本さんの耳に入ったとしても、決して良い結果にはならないと思います。要するに愚痴なのです。そんな中、新井くんの隣で聞き役に徹している朝倉さんの姿に、わたしはは確かな癒しを感じました。
 それから、先日の新井くんの告白を思い出しました。振り返ってみると、確かに新井くんは、大抵朝倉さんの近くにいたような気がします。しかしながら、現状はまだ片思いなのでしょう。朝倉さんからは、普段の分け隔てのない慈愛以上のものを感じません。
「ところで平塚さん。マスカレードの個人賞、やっていいですか?」
 ややあって話題が変わりました。マスカレードについては、今月初めにアナウンスが行われていて、個人賞の募集締め切りが来週の部会になっています。
「いいけど、どんな感じ?」
「今のところ、青春を感じられる物語で、気に入ったものを選びたいと思ってます」
「じゃあ大丈夫かな」
 平塚さんはすんなりと了承しましたが、隣で星井さんが首を傾げます。
「そんな基準で大丈夫なの?」
「まあ……俺はこの機会に、近い創作観の人が見つかればいいかなと思って」
 詳しいことはまだ知りませんが、平塚さんの反応を見るに、個人賞が緩い雰囲気の企画であることは間違いないでしょう。新井くんのような動機で個人賞を開く人も、過去にいたのではないかと推測します。わたしは関連して、一つ尋ねてみることにしました。
「他にはどんな個人賞が出されているんですか?」
「今回はもう二つ出てるね。一つは樋田さんの韻文賞。もう一つは六年目賞。どっちも対象の違いはあるけど、基本的には気に入った作品って感じ」
「そういえば、韻文部門もあるんでしたね」
 実際、個人賞の運営はパトロンに任されていますし、賞品なども自費なので、企画班がそこまで干渉する必要もないのでしょう。
 しかしながら、仮に特定のジャンルを対象にした賞を設けたとして、該当する作品が全くないということも、可能性としてはあるわけです。いきなり個人賞に乗り出した新井くんは、やはり行動力があるのだと思いました。妙に、行動力だけは。

 ちょうどその日は、新井くんが編集をしている飯綱さんの合評がありました。先生が参加したので、翌日わたしは、打ち合わせのついでに様子を聞いてみることにしました。
「先生の作品については、ほぼ問題ないと思いますよ。あとは合評で、感想を聞いてみることにしましょう」
「そうか。では提出しておこう」
「よろしくお願いします。ところで、飯綱さんの合評はいかがでしたか?」
「あの合評か。面白かったぞ。妙に上年目が多かったようだが」
 合評そのものに関しては納得しているようです。上年目の飛び入りがたくさん来ていて、一年誌の合評らしくはなかったとのことでした。飯綱さんが個人的に呼び集めたのだそうです。
「あの作品、初稿からもう別物になってしまいましたね」
「そうだな。しかし、軟着陸に向かっているのは間違いない。書きたいテーマが定まり、それを形にする感覚がつかめてきたのだろう。新井も苦労しただろうな」
「そうですね。三年目の桜木さんにも、アドバイスをもらっていたようですが」
 飯綱さんの作品は結局、兄に生理的嫌悪感を持つ少女が、儚く発狂を迎えるまでの話になりました。作者の持ち味と思われる、美しくも異質な世界観がわたしも少し気になっています。飯綱さん自身は、大正期の少女小説に興味があるようです。
「三年目の桜木……知らないな」
「部会にはあまり来ていないので、仕方ないですよ。樋田さんと同じ、教育学部の三年生ですね。実はわたしも、あまりお話したことはないんです」
 新井くんによれば相当な切れ者ですが、残念ながら姿を見かけたのは数回しかありません。例会のときも、明石さんか誰かに投票を委任していたような記憶があります。
「話したい部員がいても、すぐには話す機会を持てないのだな」
「そうですね。ボックスや部会で自然に会える方ならまだしも、そうでない方は……」
 忙しいことがわかっている相手に、同じサークルとはいえあまり親しくもない自分が時間を取らせるわけにいかないと、つい躊躇ってしまうのです。それではコミュニケーションが進むはずがないと言われれば耳の痛い話ですが、やはりそこまでの行動力を持つ人は稀です。
「三年目以上になると、次第に忙しくなるのだろう。次々入ってくる後輩とも、互いに互いの作品を知らず、話したとしても世間話に終始し、関係は深まらない。必然の成り行きとはいえ、もどかしいものだな」
「その点、飯綱さんはかなり積極性と行動力がありますね」
「あまり参考にできる人物ではないようだが……」
 この頃、飯綱さんに関してはある噂が飛び交っています。それは、ある学部の教授の息子と交際しているというものです。しかもきっぱり「お試し」として、肉体関係を持たずにいるのだとか。わたしはそれを新井くんから聞きましたが、新井くん自身は本人から聞いたと話していました。
「そういえば、メールドライブに高本さんのゲリラ投稿が上がっていましたよね。読まれました?」
「ああ。あれは、飯綱のことなのか?」
 その噂と同じ内容のことが、先日投稿された高本さんの私小説にも描写されていたのです。作中の飯綱さんをモデルにしていると思しき女性は、堂々とした態度で弱気な主人公をたしなめる人物として描かれています。
「高本さんのことですし、半分以上は実際に起きたことだと思います」
「そうか。飯綱と高本は、なかなか相性が良さそうだな」
「わかります。でも、高本さんは飯綱さんに対してそういう感情はないみたいですね」
 他人の恋の噂など、期せず先生とガールズトークのようなものをしてしまいました。ともかく、わたしも飯綱さんの上達を楽しみにしているのは事実です。そのうち、本人と直接お話したいと思っています。

 代替わりは目前ですが、下野部長や明石副部長は普段と変わらない振る舞いを見せています。翌週の部会でも、淡々とできることをこなしている様子でした。
 その部会では高本部長の初仕事に当たる後期新歓の役職決めがあり、わたしは朝倉さんと一緒にポスターの掲示と点検を行う係になりました。そのポスターは、星井さんがデザインしてくれることになりました。こうした役割が与えられることで、わたしなどはいよいよ運営への関心が高まるような思いがするのですが、役割を免れた先生には、その感覚はわからないようです。
 それにしても、後期は九月の下旬からです。八月の上旬からそれまでの間は、聞きしに勝る長さの夏休みなのです。半分くらいの部員は帰省先で過ごすらしいですが、札幌に残るメンバーは、存分に企画を催して過ごす準備を進めています。
「合宿幹事の小宮です。副幹事は、新井くんにやってもらうことになりました。よろしくお願いします」
 二年目の小宮さんは、企画班員ではありませんが、去年の副幹事だったことから幹事に選出されたそうです。二年目の中では緩い雰囲気の女性であり、普段はマイペースに小説を書き、デザインを担当しているイメージです。
「それで、日程が決まりました。参加者の確定をするので、後でまた連絡ください。それから、八月の最初の日曜に合宿会議をしますので、一緒に企画を考えてくれる方は参加してください」
 小宮さんは低いトーンで、手元のメモ帳を見ながら連絡をしました。こういった場面はあまり得意ではないのでしょう。彼女の声を聴こうと、教室は静まります。
「場所は去年と同じ大雪山です。費用はおよそ八千円です。しおりは参加者と企画が確定したら作ります。何か質問ありますか」
 特に質問もなく、合宿の連絡は終わりました。小宮さんはゆっくりと席に戻ります。次に前に出たのは平塚さんでした。
「はい。続きまして、お待ちかねのマスカレードに関する連絡です。合宿の日程が決まったので、前日の二十四時を締め切りとします。作品数の上限は、小説部門は一篇です。詩部門は二篇ですが、詩集を出す場合一篇のみとします。守ってください。ルールなどまとめたものをメールドライブに上げておくので、しっかり読んで投稿してください。特に、匿名投稿の方法については、わからない方は確認するようにしてください」
 マスカレードでも、普段と同じようにワープロファイルで作品を提出するのですが、然るべき処理をしないと、ファイルに残ったユーザー名の情報から作者が特定されてしまうとのことです。
「個人賞に関しても一緒に上げてあるので、興味のある方は確認してください。今年は三つ出されたので、企画班賞は設けません」
 こうして事務的な連絡が続きましたが、企画はまだまだ予定されているようです。例えば二年目の黒沢さんは、夏部誌の作品からワードを抽出した三題噺の企画を告知していました。また、高本さんも企画を考えたらしく、せかせかと立ち上がりました。
「私からは、花火大会企画のお知らせです。来週の金曜日、花火大会がありますが、それを見物しつつ、文学について語り合おうという企画です」
 そこまでは文芸部員として至極真っ当な内容でしたが、次に提示した条件がわたしたちを困惑させました。
「ただし、参加者は、誰とも交際していない方に限ります」
 笑い声も聞こえます。高本さんは相変わらずなのでした。良くも悪くも姿勢がぶれません。せめて、参加者がいるようにと願います。
 こうして、その日は覚えきれないほどの企画が発表されました。上年目が夏部誌から解放されたので、そのエネルギーが企画に巡ってきたのでしょう。わたしも大学で最初の夏休みは、まだ予定の決まらない期間もたくさんありますが、充実したものにしたいと思いました。

 先生の二回目の合評も、一回目と同じようにすんなりと通りました。それが先生には、やや物足りなく思われたようですが、最終締め切りが来週である以上、今から大きなことを言われても仕方がありません。編集には、そういうジレンマがありました。
 参加者の中に和泉さんがいたので、終了後に三人でアフターへ行くことにしました。場所は和泉さんが気になっていたというインドカレーのお店です。最近は和泉さんも試験やレポートが続いて忙しかったらしく、こうしてゆっくりと話すのは久しぶりです。
「和泉さんは、作品の修正進んでいますか?」
「まだ何もやってないよ? 合評は先週だったけど、そこまで意見も出なかったし。武藤もこれで良いんじゃないかって言うんだよね」
 和泉さんの作品は詩なので、小説よりも意見が出にくいようです。合評の流れが参加者に左右される度合いは、さらに大きくなるでしょう。
「わたしも、詩の編集はそこまで経験があるわけではありませんが……よろしければ、感想を送りましょうか?」
「いいよ、早く片付いちゃうなら、それはそれでいいし。一年誌だからね。扉絵とか、自己紹介ページの取りまとめもしなきゃいけないし」
「それはまあ、そうですね」
 ちなみに一年誌では、デザイン班が働きません。扉絵は作者が準備するか、個人的に星井さんなど絵の描ける方にお願いするかのどちらかです。
「表紙のデザインも、星井さんにお願いしたんですか?」
「いや、あれはあたしがやる。最近ちょっといいフォント見つけたから、使ってみたいの」
「では、わたしの仕事はマスターの準備くらいですね」
「うん、頼むわ」
 その辺りで、注文したカレーとナンが出てきました。和泉さんは姿勢を正してから、楽しみにしていたカレーを食べ始めます。普段からこんなふうに、近所のラーメン屋やカレー屋などを巡っているそうです。大抵は一人で、たまに星井さんや武藤さんを連れていくこともあるのだとか。
「ところで和泉は、新井の編集だったな。新井の作品は、和泉から見てどうだ?」
 しばらくは食べることで忙しくなっていたわたしたちですが、あるとき珍しく、先生が話を切り出しました。新井くんの二回目の合評は、月曜日に終わっています。
「新井? あいつ本当は、編集なんていらないって思ってるんじゃないかな」
 新井くんの名前を聞いて、和泉さんが眉をひそめました。
「何かあったんですか?」
「第二次合評稿でさ、なんか資料が上がってたじゃん。ご丁寧に、写真付きの解説。あいつ、あたしに黙ってああいうの上げるんだよ。あたしの知らない情報とか遠慮なく入ってるし、もうどうしろって」
 件の資料は、新井くんが取材旅行で作品の舞台となった湖を訪れたときの様子を紹介するものでした。作中の描写が現実の風景とリンクしており、そこに表現したい情趣があるということを伝えるためのものだったのでしょう。それにしては、目立ちたがりの新井くんらしい、やや回りくどい文章でしたが……。
「あの資料か。わたしは新井が何をしたかったのか、よくわからなかったが」
 先生もその資料には目を通していたようです。しかし、内容は決して効果的なものではなかったのでしょう。
「あの作品、まあそこまでつまらなくはないし、文章も慣れてるんだろうなとは思うけど……あたしはなんだか、ずっと違和感があるんだよね。作品というか、新井の態度に原因があるのかもしれない」
「資料にも書いてありましたが、あの作品を書こうとした動機は、内容の割に私的なものでしたね。自分で自分の作品の舞台に、聖地巡礼をしたい……とか」
 一応、他にも「土地の魅力を伝えたい」とか、「自然環境との距離感がテーマ」などとは書いてあるのですが、根本が旅行自慢であるという印象は拭えません。
「旅行先で刺激を受けて、作品を書きたくなることはあるだろう。しかし、新井はそれを自己完結的な楽しみにとどめて、大衆に読ませる作品として昇華しきれていない……それがわたしの見方だ」
「アキいいこと言った。本当にそれな」
 ちなみに、わたしも一つだけ、どうしても見過ごせない部分があるのでした。それは、新井くんが「師匠」と呼ばれるきっかけとなった、取材旅行に同行した女性のことです。
 作中で、主人公の女性が首に提げていた双眼鏡を、湖の化身である女の子に引っ張られ、不意にその紐の距離まで接近してしまうという描写があります。なんとその資料では、このような出来事が、実際に起こったと仄めかされているのでした。不潔です!
 ……とまあ、そこまで潔癖ぶるわけではありませんが、それにしても新井くんは少し、調子に乗りすぎているようです。誰のように、とは言わないとしても、彼がわたしたちにとっての悩みの種とならないことを祈ります。カレーはとても美味しく頂きました。

 ここ最近は天気も良く、冷房の整っていないボックスはとても暑くなります。そのせいで、わたし自身もボックスから足が遠のいています。特に勉強をするような気分でなくても、涼しい図書館で過ごすようになってしまいました。先生もまた、最近はパソコン室で専らマスカレードに出す作品を書いているようです。
 そんな中で七月最後の火曜日になりました。来週は丁合作業の日なので、前期最後の部会です。最後の部会では、本紹介という企画が恒例になっているとのことです。
 わたしは何も本を持ってきませんでしたが、せっかくなので本を紹介できればと思い、図書館を探してみることにしました。すると、国内文学の全集の棚の辺りで、高本さんと鉢合わせたのです。
「おや、中津さん。こんにちは」
「こんにちは。偶然ですね」
 高本さんはワイシャツに学帽という格好で、既に厚い本を何冊か抱えていました。もはや見慣れた学徒スタイルです。
「お勉強ですか」
「いいえ、今日の本紹介のネタを探しに来ました」
「そうでしたか、これは失礼しました」
 イメージと異なる腰の低い態度に違和感を覚えました。しかしよく考えてみると、わたしはこれまで、高本さんと一対一で会話したことがほとんどないのです。
「高本さんは、レポートですか?」
「私もこれは、紹介する本です。有島武郎全集」
「本当にお好きなんですね」
「いえ、私などまだまだです」
 よくわからない謙遜をして、高本さんは静かに笑いました。
「もっと勉強して、まともな議論ができるようにならなければ……ああ、すみません。私はこれで失礼します。お疲れ様です」
「お疲れ様です……」
 どうやら、わたしが「勉強熱心ですね」と言ったかのように受け取られてしまったようです。それにしても、過ぎた謙虚さだと思いました。確かに学問の道を見上げれば、学部の二年生など一般人と変わらないのかもしれません。しかし少なくとも、自ら文学を体現しようとするほどの熱意や、将来の研究テーマになるかもしれない有島武郎への愛は、充分誇っても良いものだと思います。
 高本さんに関しては、思いのほかわからない部分が多くありそうです。後期から部長となるこの人のことを、わたしはもう少し知らなければならないと思いました。
 ひとまず本探しに戻ります。そこでわたしは、筒井康隆の『残像に口紅を』を見つけました。世界から五十音の音が徐々に消えていくという、唯一性の高いコンセプトの作品です。かつてわたしと先生の間で、これを真似した『残像に口紅を』ごっこが一瞬流行したのでした。
 例えば「あ」の音が消えたなら、それに伴う概念も消滅して言及できなくなるので、他の表現で代替しなければいけません。そこそこ知的な遊戯だと思いますが、残念ながら原作の知名度自体が高くないのです。
 ということで、紹介する本が容易く決まりました。残りの余分な時間は、一度読んだきりのその本を読み返して過ごすことにしました。

 そうして万全の準備で迎えた本紹介でしたが、実体は拍子抜けするくらい緩い雰囲気の企画でした。何人か消えたことになってしまう人がいるので、「あ」の音はここで戻しておきます。
 ミステリーが好きだと話していた明石さんが、実際に好きなミステリーを紹介していたり。新井くんは、意外にも普通の学園ものを紹介していたり。先生は、最近読んだというSFを紹介していたり。部員それぞれの個性が垣間見えて、純粋に楽しい企画だと思いました。
 中でもわたしが気になったのは、飯綱さんの発表です。紹介されたのは文庫版の少女漫画でした。山岸凉子という、北海道出身の女性作家の作品とのことです。
「これは、私の一番好きな漫画です。私は元々、小説よりは漫画のほうが好きでよく読んでて、この本は、こっちに来てから古本屋で見かけたので、買っちゃいました。ちょっと中身を紹介しますね」
 収録されたいくつかの短編のうち、飯綱さんが紹介したのは女性の価値観について描いたものでした。父親に厳しく旧時代的な躾を施された主人公が、自らを律するあまり他人とまともなコミュニケーションもできないほどになり、成人しても報われることはなく、果ては父親にも裏切られ、ついに狂気の中で解放される……と、そんなあらすじを飯綱さんは熱く語ってくれました。
 最後の交流タイムに少し読ませてもらったのですが、現代風に言えば「病み」とか「闇」を鮮烈に描写した作品が多く、またそれが飯綱さんの作風に影響を与えているのは明らかでした。
 それにしても、飯綱さんに関しては得られる情報のほとんどが、作品のイメージと重なります。話をまとめるのが上手ではなく、とにかく手当たり次第に語り尽くそうとするところも、なんとなく一年誌の初稿を想起させます。良くも悪くも非常に率直で、パワフルな方なのだと思います。
 企画が一通り終わった後、先生にも考えを聞いてみることにしました。
「飯綱さんのバッググラウンドには、ああいう作品があったんですね」
「そうだな。わたしもよく知らないジャンルだが、飯綱は好きな作品のエッセンスを過剰なほどに吸収していると見える。それをしっかり制御して、自分の作品に還元できるようになったなら、すぐに化けるだろうな」
「そうですね。飯綱さんの今後の成長がとても楽しみです」
「飯綱さんの話か?」
 わたしたちの話を聞きつけて、新井くんが寄ってきました。
「編集お疲れ様です。飯綱さんの作品は、二次合評でかなり読めるものになりましたし、このまま行けば、もっと才能を発揮できるのではないかと思いますよ」
「中津さんもそう思う? まあ、桜木さんにも随分入れ知恵してもらったけどさ。ここまで大変だったよ。飯綱さんは、持ってるものは悪くないんだけど、表現に関しては好き放題暴れがちだから。あれをコメディタッチにされたときにはさすがに焦った」
「されたんですね……」
 曲がりなりにも短期間でこれだけ質が上がったので、編集の新井くんもそれなりの苦労はしたはずです。それはわたしも認めたいと思いました。
「でも、飯綱さんは絶対に諦めないし、言ったことはどんどん吸収してやってくれるし、編集のし甲斐はあるというものだな」
「そうかもしれませんね」
「初心者が成長するところを見るのが最も楽しい、か」
 珍しく、わたしたち三人の見解が一致しました。しかし新井くんに関しては、今それと対極の苦労を和泉さんに掛けているということを忘れてはなりません。他人に厳しく、自分に甘いタイプです。
「ところで新井くん、和泉さんがお怒りでしたよ?」
「それは……中津さんまで。良かれと思ってやったんだ、反省はしている」
「度が過ぎたらわたし、朝倉さんのこと和泉さんに話しますからね」
「わかった、わかったって。和泉とは仲良くするから」
 きまりが悪くなったのか、新井くんはそそくさと自分の席へ戻っていきました。その隣にはやはり朝倉さんがいるのです。その様子を、先生は訝しげに見つめます。
「新井と朝倉に、何かあったのか?」
「興味があるならお話しますが……先生、どうせあまり気にしていないのでは?」
「まあな。別にどうでも良いが」
 ちなみに先生の作品には、恋愛が絡んだことはありません。よく知らない、考えの及ばないことを小説に書かないというのが、先生の信条の一つだからです。要するに、見た目通り恋愛には奥手なのです。わたしもあまり他人のことは言えませんが。

 その週には件の花火大会などもありましたが、実はその日がまさに、一年誌の締め切りだったのです。ただでさえ学期末で試験やレポートに追われている一年目には、遊ぶという発想がなかったのでした。
 だんだん夜も暑くなり、気付けばもう八月です。一週間などあっという間で、丁合の日がやって来ました。
「あとは、連絡をお持ちの方はいませんね」
 下野部長による最後の進行です。いつもの教養棟の教室で、既に机は二列に連ねられ、印刷された部誌のページが並べられています。その中で、最低限の連絡を済ませる時間でした。
「後期最初の部会に関しては、マスカレードの発表会の前に行われる予定です。そこからは、高本くんが部長として頑張ってくれると思います。よろしくお願いします」
「はい。全力を尽くす所存です」
 その言葉が実質的に、部長の継承を象徴していました。高本さんが返事をすると、誰からともなく拍手が起こります。それと同時に、任期を終える下野部長に対する労いの言葉も聞こえてきました。
「ありがとうございます。それでは、丁合を始めましょう。樋田さん、説明をお願いします」
 下野部長が降壇すると、こちらも間もなく編集長の役割を終える樋田さんが立ちました。
「既にページは並べられていますが、皆さん順路に沿って、一枚ずつ組んでください。今回は予備も含めて、百八十部作る予定です。ある程度組みましたら、その辺の机でチェック作業をして、輪ゴムで束ねてください」
 わたしたちが回転寿司の皿のごとくひたすら順路を周回しながら、ページを組み合わせるという仕事です。この日も例会と同じく部員は原則参加になっていて、四十人くらいの人手があります。
 しかしこの作業は、人によって得意不得意がはっきりと分かれます。全員が綺麗に整列してスムーズに進むなどということはなく、すぐに列は途切れ途切れになりました。詰まったり追い抜いたりして、やや渋滞した道路のような流れです。それにしても前後の人と会話をするなど、作業はゆったりとした雰囲気で進んでいきました。
 丁合を五週くらいしてから、わたしはチェック作業に入りました。小さなグループがいくつもできている中で、適度に仕事のありそうなところを見つけて入ったのですが、そこは高本さんが星井さんや朝倉さんと作業をしているグループだったのでした。
「わたしも入りますよ」
「おや、中津さんではありませんか」
 高本さんは物珍しそうに、わたしをじろじろと見てきます。やや嬉しそうです。何故に嬉しそうなのかを想像するのはやめておきます。
「中津ちゃんも、文学部の話聞く?」
「それは、興味がありますね」
 三人で何の話をしていたかと思えば、意外にも高本さんに、文学部の話を聞いていたのでした。わたしたちは文学部に属することこそ決まっていますが、肝心の講座が決まっていません。それぞれで研究内容が全く異なるので、希望を出す一月までに情報を集めなければならないのです。
「高本さんは表現文化論でしたよね。どのような分野があるのでしょうか?」
「表現文化論講座はですね、散文や韻文のみならず、漫画や、映像等も幅広く扱っています。近代以降の表現に関することなら、概ねできると思いますよ。興味がおありですか?」
「はい。あります」
「ああ、それでは、ぜひ」
 編集や校閲に興味のあるわたしとしては、それが最初の候補に挙がる講座でした。高本さんは勉強熱心な方なので、学問に関する話では信頼できます。
「ところで、八戸さんや江本さんも同じ講座ですか?」
「いいえ、二人とも違います。私と同じなのは、小宮さんですね」
 確認してみると、八戸さんが国文学、大藤さんが西洋史、江本さんと黒沢さんが社会学系と、思いのほかバラバラでした。三年目を含めてもあまり固まっているわけではないようです。それだけ文学部の分野の幅が広いというのもあるのでしょう。そうなると、星井さんや朝倉さんの興味も気になります。
「星井さんと朝倉さんは、何に興味があるんですか?」
「私は漢詩」
 星井さんは即答でした。第二外国語も中国語だったり、別に広東語の講義を取っていたりという話も聞いています。中国そのものへの興味が強いようです。
「朝倉さんは?」
「私は……今のところ、日本史かな」
 朝倉さんは考えている途中のようです。ちなみに成績などが影響することはないということなので、興味さえ定まれば望む講座に属することができます。まだ半年もある時間で、じっくりと考えるのも良いでしょう。
 話しながらの作業でしたが、終わりが近づいてきました。こうして、単に先輩から学業のアドバイスをもらう場としても、サークルは機能しているということを思い出します。この試験期間、他のサークルでは過去問の継承が行われていたり、レポートすら先輩のを写したりといったことがあると聞きました。良くも悪くも様々な情報を共有できる場なのです。
「ところで高本さん、花火大会の企画はいかがでしたか?」
 最後に、少し気になっていたことを聞いてみます。参加者に「誰とも交際していない」という条件を課した企画だったので、参加者数がどちらへ転ぶか、興味があったのです。
「参加者は、私を含めて三名でした」
「いつもの面々ですか」
「そうです」
 高本さんはきっぱりと答えます。自ら作品にするほど女性関係には苦心しているようですが、それなりの根性もあるように思いました。
「しかしですね、また次の企画もありますので。中津さんや星井さん、朝倉さんもよろしければ、ぜひ」
 そして実は、この高本さんと遊ぶ企画に、第二弾があったのです。それは八月の中旬に、小樽の水族館へ行こうというかなり本格的なものでした。今日の連絡のときにも告知がなされていたのですが、誰もが「懲りないな」と思ったことでしょう。今回も参加者には、しっかりと条件付きです。
「遠慮しておきます」
 わたしの言葉に、星井さんや朝倉さんも頷きました。罷り間違って高本さんと二人きりになろうものなら、それは珍妙なことになると思います。
 しかしながら、高本さんはこうして堂々と下心を見せるところが逆に潔い印象を与えます。新井くんのように、取材旅行に扮したデートをしようとするなど、とても浮ついた根性が感じられるではありませんか。
「星井さんは合宿にも参加されないようですが、帰省ですか?」
「はい。来週からずっと」
 高本さんは諦めずに、わたしたちの予定を聞き始めます。そろそろナンパの域です。
「朝倉さんはいかがですか。再来週ですね」
「えっと……出掛ける用事があるので」
 朝倉さんはすっかり縮こまっています。これはもう、止めなければなりません。
「高本さん。そろそろチェックも終わるみたいですよ」
「おや、そうですね。失礼いたしました」
 最後はチェックしたページの束を箱に詰めて、明日以降、大学の印刷サービスへ持っていく段階になります。いつの間にか長い時間が流れていて、作業が終了したのは八時半過ぎでした。それでも、これまでの遅くなった部会や例会よりは、気楽な時間を過ごせたと思います。

 その日はアフターもあり、そちらもたくさんの方が参加して賑やかそうでしたが、わたしは先生と二人で帰ることに決めていました。そうでもないと、しばらく先生とお話をする機会もなくなってしまいます。
「さて……前期も終わりですね。先生は楽しかったですか?」
「思っていたより退屈はしなかった。だが、あれだけの人数がいても、わたしの作品を読んでいるのはごく一部だと思うと、もどかしいものだな」
 わたしたちはメインストリートを、駅に向けて歩きました。程よく涼しい夜です。前期を振り返る先生の表情は街灯にぼんやりと照らされ、普段よりも柔らかく見えました。
「まあ、一年誌もまだ完成していないことですし……完成して皆さんに行き届けば、読んでもらえますよ」
 なるべくなら、もう少し明るく微笑んでほしい……そう思って励ましたつもりでしたが、先生はあくまで冷静でした。
「完成したら読む、か。それも文芸部の、一つの価値観なのだろうか」
「確かにわたしたちがこれまでやってきたこととは、少し違う考え方ですよね」
 作品が段階的に完成度を増し、洗練されていくのを見届けるのが、わたしたちの楽しみでした。それに伴う作者の成長も含めた、過程を大切にして文芸を続けてきました。
 一方で、ここには完成した作品について考えたり、批評したりすることが好きな人もいます。完結していない作品は議論の俎上に載せられることもありませんし、作品にとって作者の意思だとか、成長などはどうでもよいという立場もあります。わたしたちの考えとは対極です。
「しかしこの人数だ。全員が全員の面倒を見ることなどできないだろう。継続的に見ることを初めから諦めて、その場その場の対応にならざるを得ないというのも理解できる」
「でも……わたしは、例えば同じ一年目の仲間となら、互いに見届ける関係になれると思っていますよ。例えば武藤さんや星井さんも、今回の初めての作品、最終稿でかなり良くなりましたよね」
「そうだな。このまま、書き続けてほしいものだ」
 何はともあれ、わたしも先生も、仲間を求めて文芸部に入ったことには違いないのです。そしてこの前期だけでも、たくさんの出会いがありました。それだけでも、文芸部に入って良かったと思うことができます。
「ところで先生、今週の土曜日、新井くんが短歌や俳句の練習企画をすると言っていましたが……参加されますか?」
 この夏休み、まだまだ楽しむことはできるでしょう。とりあえず予定を確認していくことにします。
「新井は、短歌や俳句もできるのか」
「そうみたいですね。今回は、合宿でも短歌俳句企画があるそうで、その練習なのだとか」
「そうか。まあ、あまり興味はないが」
 新井くんの短歌俳句練習企画は、先生の気が乗らないようでした。次の予定は、興味を持ってもらえる見込みもありませんが、話してみることにします。
「一年誌の印刷と製本を挟んで、次は再来週の、高本さんの企画ですね。小樽の水族館を見に行くようです」
「……行きたいのか?」
 案の定、先生には容赦なく疑問の眼差しを向けられてしまいました。
「それならわたしは、個人的に行きたいですね」
「小樽か。あまり行っていないな。染谷を誘って行ってみるか?」
「それは楽しそうですね。では、染谷さんにお話してみましょう」
 せっかくの夏の海です。わたしたちにも、一緒に行く人を選ぶ権利はあるでしょう。
「その次は、マスカレードの締め切りですね。今回は、わたしも下読みはしないほうが良いでしょうか?」
「それも面白いな。今回の作品は、また少し挑戦をするつもりだ。楽しみにするといい」
「はい。匿名だろうと、先生の作品は絶対に言い当てて見せますよ」
 マスカレードの一つの楽しみであるという作者当ては、一年目のわたしたちには分の悪いゲームですが、挑戦してみたいものです。
「そして合宿です。わたしはこれが一番楽しみですよ」
「ああ。美瑛の山の中など、なかなか普段行かないところだ。新鮮な気分で作品が書けるだろうな」
 既に参加者も確定したようで、一年目はわたしたちの他に、新井くんと朝倉さんが参加することになっています。なんともセンセーショナルな組み合わせですが、今は気にしないで置きましょう。
「合宿が終わったら、九月はマスカレードの作品を読んで過ごすという感じですね」
「そうだな」
 今の段階でもたくさんの予定があります。北海道の夏はもはや折り返しですが、わたしたちの夏はまだまだこれからなのです。

五 流風(下)

 夏休み最初の月曜日から、一年誌の印刷が始まりました。わたしは編集長の責務として、スタートアップを任されていたのです。朝に弱い和泉さんには、日中のトラブル対応などを請け負ってもらうことになりました。
 印刷は授業と同じく一コマ九十分として、それぞれのコマに二人ずつ割り当てる形でシフトを作っています。今回のわたしのパートナーは朝倉さんでした。
「中津ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
 食堂二階のロッカーに集合して、コピー用紙を一箱、サークル会館まで運びます。サークル会館には収納スペースを持っていないので、自転車を持っていないわたしたちは、台車で運ぶことにします。
 サークル会館は林を抜けた先の、大学構内ではかなりの僻地にあります。既に日は高く、歩いていてもすぐに汗ばむような暑さでした。
「中津ちゃん、交代するよ?」
「では、半分まで行ったらお願いします」
 こんな日にもラクロス部や陸上部といった体育会系の人たちは、集まって練習をしています。実際わたしは運動が得意ではないので、想像するだけで恐ろしいことです。
 このままでは気持ちから疲れてしまうので、朝倉さんに近況を聞いてみることにしました。もちろん、新井くんのことです。行動力のある彼のことなら、何らかのアプローチをしていておかしくない頃です。
「ところで朝倉さん。最近新井くんと、仲がよろしいようですね」
「あ、いやその……」
 探りを入れただけでしたが、朝倉さんの顔色はたちまち変わりました。とても初々しい、照れの表情です。その時点で、もはや二人が交際することになったというのは疑いようがありませんでした。
「もしかして、付き合っていたり?」
「……丁合の帰りに、好きだって言われて」
 朝倉さんはとても恥ずかしそうに打ち明けます。それでも、嫌ではない様子でした。なんというか、わたしまで変に緊張してしまうほど純真無垢な「初恋」を目の当たりにしています。
「すみません。実はわたし、新井くんから聞いてたんですよ」
「そう、だったんだ……」
 このままもう少しいじってみるのも、それはそれで愛らしい朝倉さんが見られそうですが、ひとまず種明かしをしました。
「この間まで恋愛なんてまだわからないみたいなこと言ってたのに、変わり身の早い人です。朝倉さんは、新井くんと取材旅行デートとか行くんですか?」
「取材旅行なら……湖に行こうって」
「あの人、本当に湖好きですね」
 よくよく聞いていると、その取材旅行に行く約束は先月の初めくらいからあったようです。ちょうどわたしが、新井くんから朝倉さんの話を聞いた頃だと思います。告白が丁合の日だと、デートの約束をしたうえで告白をしたことになります。順番が逆ではないでしょうか?
「でも、やっぱり朝倉さんも、新井くんのことが好きなんですね?」
「私は……正直、まだ自分でよくわかってないんだけど……新井くんと一緒にいると、そうなのかなって、思う」
「ああもう、ベタ甘じゃないですか。お幸せに」
「ありがと」
 暑さも台車の交代も忘れて、サークル会館まで来てしまいました。印刷中はこんな話をしていると全く集中できなさそうなので、打ち止めです。
 代わりに聞いた話では、朝倉さんもマスカレードに参加したいと考えているそうです。作品が間に合うかどうかはわからないとのことですが、一つ楽しみが増えたのでした。

 こうして印刷が進む裏で、わたしは先生や染谷さんと、ビデオ通話を開通させました。夜の自室で早速、三人でのグループ通話に臨みます。
「こんばんは。先生、染谷さん、聞こえますか?」
「わたしは問題ない」
「大丈夫だよ」
「良さそうですね。やはり顔が見えるというのは、安心感があります」
 それぞれの背景にプライベートが垣間見えて、悪くない感覚です。染谷さんの後ろには、大きなぬいぐるみが二つありました。しかし部屋は片付いているように見えます。
「そっちはもう夏休み?」
「はい。先週からですね。でも今は、一年誌の印刷で大学に通っています」
「一年誌?」
 染谷さんは首を傾げます。そういえば大学祭のときには、一年誌のことをあまりお話していないのでした。
「今年入部した一年目が、部誌制作を体験するために作る部誌みたいなものですね」
「いきなり冊子作るんだ。すごい」
「合評とか、編集とかも、一年目が中心になって回したんです」
「楽しそうだね」
 実際、一年誌は様々な交流のきっかけになりましたし、わたしも楽しかったです。驚きに手を合わせる染谷さんを見て、それを改めて感じたのでした。
「染谷は、俳句を続けているのか?」
「続けてるよ。最近詠んだのは……『陽炎を踏みわけ駆けぬ地獄坂』みたいな」
「夏の小樽の体感ですね」
「やはりそちらも暑いのか?」
「暑いよ。大学は、坂の上にあるし……でも、その坂を海に向かって一気に駆け下りたら、気持ちいいだろうなと思って」
 しかし札幌には海がありません。自然の豊かな北海道の中でも最大級のコンクリートジャングルです。ヒートアイランド現象も起きると言います。暑苦しい限りなのです。
「あの、染谷さん。わたしたち、夏休みに小樽に行きたいって話してたんですよ。良かったら水族館でも、一緒に行きませんか?」
「いいね。私は平日なら、割と空いてるよ」
 期待通り、染谷さんも話に乗ってくれました。日程は染谷さんの希望通り、お盆過ぎの平日に決めました。朝から行って、午後は市街を見る計画です。
「楽しみにしてます」
 その後は、染谷さんの近況を聞きました。サークルなどには入っていないとのことでしたが、アルバイトを始めたり、友達もできたりして、楽しく過ごしているとのことです。それから、高校の部誌も送ってもらったようです。
「私は珠枝ちゃんにお願いして部誌を送ってもらったんだけど、二人は学校祭行ったんだよね?」
「行きましたよ。新人さんにも会ってきました。詩が得意な方でしたね」
「そうだな。部誌に載っていた詩も、しっかりと自分なりの芯を持って書かれたものだと感じられる。期待の新人だ」
「桜井さん……だね。一人しか入らなかったって聞いて心配だったんだけど、部誌もちゃんと作れてるし、大丈夫かな」
「心配はないと思いますよ。まあ、勧誘はもう少し頑張ってもらう必要がありそうですが」
「もとより、文芸部は目立たないからな……」
 そんな高校の文芸部は、八月の下旬に地区大会を控えています。もちろん後にも大会は続くのですが、三年生は地区大会で引退です。
「一花ちゃんや直美ちゃんにも、また会いたいな。来年の学校祭は、見に行けたらいいんだけど」
「忙しかったんですか?」
「アルバイトがあったし、まだちょっと、お金の余裕がなくて。でも、今度水族館に行くのは大丈夫だよ。ちゃんと一日空けておくから」
「無理しないでくださいね」
 染谷さんにもやはり、様々な苦労があるのです。それに比べれば、わたしたちはとても自由奔放に、享楽的な大学生活を送っていると思います。
「さて、そろそろ一時間か」
「たくさん話したね」
 先生の言葉で、わたしたちは時間の経過に気付きました。楽しい話は早瀬のように進み、悩ましい話は淀んで進まないものなのです。それはきっと、小説でも同じです。

 一年誌の印刷は予定より早く、一週間掛からずに終わりました。残すは丁合と製本です。これは上年目の皆さんにも協力してもらって、一日で終わらせる予定です。
 そういうわけで、札幌にいるはずの一年目メンバーは全員揃って……はいませんでした。なんと新井くんが欠席だというのです。せっかく朝倉さんも来ているというのに! とりあえず、朝倉さんに尋ねてみます。
「新井くんは今日、何か用事があったんですかね?」
「家族が来てて、稚内に行ってるんだって」
「稚内! 北緯四十五度まで高飛びとは」
 一家揃って旅行好きのようです。もう少し探ってみると、新井くんはまめなことに、朝倉さんに写真付きで旅行の報告メールを送っていました。『羽幌で見たバス会社の萌えキャラ』とか、『サロベツ湿原の浚渫船』とか、目の付け所がいちいちマニアックです。それにしても、文面は意外と普通の友達のような雰囲気でした。
「フミ、始めようぜ」
「はい。失礼しました」
 和泉さんに呼ばれて、予定の時間を過ぎたことに気付きます。とりあえず、新井くんは当面好きなようにさせておこうと思いました。
「今日は夏休みですが、お集まりいただきありがとうございます。それでは、一年誌の製本を始めましょう」
 一年誌は部内でしか配布されないので、紙は安物、製本はテープです。それにしても、和泉さんが担当した表紙は様々なフォントで『Map』というタイトルを散りばめたもので、チープさを感じさせないお洒落な仕上がりでした。二年目でデザイン班長になったばかりの小宮さんも興味を示していました。
「この表紙は、誰が作ったの?」
「はい! それあたしです!」
「和泉ちゃんか。こういうデザインは新鮮な感じだね」
 小宮さんの他に、明石さんや黒沢さんも表紙を褒めてくれました。そのたびに得意になっていた和泉さんは、実際、本当に報われたことだと思います。
 そこでわたしは、現在製本中の夏部誌の表紙を思い出しました。季節感のある壮麗なイラストだったのです。制服の少女がバスの中に立っているのですが、そのバスが水中を進んでいて、車窓には魚の群れなどが見えるというものです。
「小宮さん。夏部誌の表紙は、どなたが描かれたのですか?」
「あれは川内ちゃんにお願いしてるんだ」
「川内さん……確か、二年目の?」
 出てきた名前は、あまり面識のない二年目の女性でした。デザイン班に所属しているそうですが、部会でもあまり見かけません。
「うん。法学部で忙しいんだけど、描きたいって言ってくれて」
「そうだったんですね。素晴らしい表紙でした」
「フミ、もしかしてあたしのこと?」
「今のは違いますよ」
「なんだあ」
 こうして見ると、やはりデザイン班は確かにこの部を華やかにしているのだと感じます。わたしたちの忘れがちな、大きな貢献です。一年誌でも星井さんが三作品の扉絵を担当していました。
「ところで今日は、星井ちゃんもいないね」
「今週から帰省だそうです」
「早いな」
 一年目の中で実家から通っているのはわたしと先生、朝倉さんの三人だけです。他は当然と言うべきか、ほぼ全員帰省するということでした。和泉さんや武藤さんも八月中には発つそうです。こうなると、むしろ遠隔地から活動に参加できる機会がもっと多くあるべきで、合宿など対面の企画はどうしても物足りなく思えてしまいます。
「和泉さんは、マスカレード参加されますか?」
「それさ、仮に作品出すとしても、今言っちゃったらつまらなくない?」
「確かにそうですね」
「まあでも、評価はしようと思ってるよ。読むくらいならできそうだし」
 マスカレードについては、実は昨日、最初の作品が提出されていました。詩部門の作品だったのですが、提出メールの本文が『一番乗りを目指しました』というもので、すごい気合を感じました。
「もう、最初の作品が上がっていましたね」
「気付かなかったわ。帰省したら読もっと」
 そうこうしているうちに、部誌の製本は終わりました。上年目がたくさん集まって下さったおかげです。実際、一年目は少ないですが、上年目には帰省しない方も多く、それで様々なことが回っているという事実もありそうです。合宿の参加者も十八人を数えていたのでした。

 さて、完成した一年誌を引っ提げ、わたしと先生は小樽へ繰り出しました。天候は快晴、波は静穏、肌には温風……といった感じで、話に聞く分には夏らしい日和ですが、現実は朝から容赦のない暑さです。電車に乗っているときから汗が流れます。
「これはちょっと……先生、最初はイルカショーに行きましょう。最前列で、水を被るんです!」
「落ち着け。まだ水族館は遠いぞ」
 札幌で買ったペットボトルの麦茶が、半分もありません。水族館はここからバスで三十分です。着く頃には飲み干してしまうでしょう。そこからは水族館の水が頼り……などという冗談を口にしつつ、改札をくぐります。染谷さんは待合室にいました。
「おはようございます」
「おはよう。今日は暑いね。二人とも大丈夫?」
 今日の染谷さんは清涼感のある半袖のトップスにロングスカートといういで立ちで、抱きかかえた麦わら帽子が印象的でした。大学祭のときは心の余裕がなく気付きませんでしたが、軽いメイクを始めたようです。高校時代から全く進歩のないわたしたちと比較して、格別のお洒落さんです。わたしたちがいかに、文芸以外のことに無頓着なのかを思い知ります。
「わたしは染谷さんを見た途端、暑さの吹き飛ぶ思いをしましたよ。ねえ、先生?」
「何故同意を求めるのだ。あまり強がらないほうがいいぞ」
「元気そうで良かった」
 それでも、慎ましやかな笑い方は記憶のままでした。
「さて、バスに乗りましょうか」
「そうだね。もうすぐ来るはずだよ」
 わたしたちは首尾よく、最後列の席に並んで座りました。平日だからか、バスには若干の空席があります。
「一年誌を持ってきたので、後でお渡ししますね」
「ありがとう。中津さんは今回、何も書いてないの?」
「わたしは先生の編集専門でしたので、自分で書くという発想がありませんでしたね」
「相変わらずだね。編集お疲れ様」
 バスの車内はいくらか冷房が効いていて快適でした。市街地を抜け、博物館を過ぎると、いよいよ海が近くに見えます。道中は話が弾みました。
「染谷さんは、小樽をどのくらい観光しましたか?」
「運河とか、ガラス工房は見に行ったよ。こんなの買ったりして」
 そこで染谷さんは髪をかき上げ、片耳を見せました。なんとトンボ玉のピアスがつけられています。
「先生、染谷さんがピアスを……」
「穴は自分で空けたのか?」
「あっ、これはね、穴を空けなくてもつけられるの。こんな感じ」
 ピアスを外したところを見ると、確かに穴はありませんでした。それにしても、染谷さんの大学デビューは思いのほか進んでいるようで驚きを隠せません。裏を返せば、こんなことにその都度驚いているわたしたちは、いつまで経っても奥手です。
「染谷さん、もしかして彼氏さんとか……」
「いない、いないよ。私の周り、もっとかわいい子も多いし……」
 比較的普通の大学生である染谷さんの話は、わたしにも刺激があります。やはりというか、周囲からそういう話が聞こえてくると意識してしまうのです。全くの無関心を貫ける先生が羨ましいくらいです。
「先生、染谷さんよりかわいい子ですって。想像できますか?」
「それは皮肉か。できないとは言わないが、興味はない」
「浦川さんはぶれないね」
 羨ましいのと同時に、安心してもいます。先生がある日突然恋愛を知って、本格的なラブロマンスなんかを書き始めた日には、まともな編集ができなくなってしまいます。わたしにとっては死活問題です。実際、その可能性が一番、わたしを恋愛に対して敏感にさせているように思います。

 バスを降りると、心地よい海風が迎えてくれます。水族館はここから長い階段を上らなければいけませんが、それもまた楽しみの一部です。開館して間もない時間帯で、まだあまり混んでいるわけではありませんでした。
 館内は比較的涼しく、外に出る気を失わせます。各種のショーまでは時間がありそうだったので、まずはじっくりと館内を見ることにしました。最初はウミガメです。
「ウミガメって、意外と見ないですよね」
「そうだな。モチーフとしては出てくるが」
「沖縄とか、南の海にいるイメージ」
 ゆったりと泳ぐウミガメは、数ある長寿のモチーフの中でも、際立ってよく出現します。それはやはり、現実に長寿だからという理由があるでしょう。しかしながら、ウミガメはカメの中では短命だそうです。
「他にカメのモチーフと言えば、産卵ですかね」
「涙を流して卵を産むって言うよね」
 ウミガメは絶滅が危惧される一方で、陸のカメは増えすぎる……という、あまり笑えない背景もポイントだと思います。
「先生、この間大学の農場でカメを見たんですよね?」
「ああ。畦道を移動していた。二十センチはあったぞ」
「棲みついてるんだね……」
 そんなふうに他愛のない話をしながら、ゆっくりと館内を巡っていきました。そのうち、話題が先生のことになります。
「浦川さんは、海と山どっちが好き?」
「遊びに行くなら山だな。観光するなら海もいい」
「じゃあ、暮らすなら?」
「そうだな……どちらでもいいが、街だ」
「まあ、わからなくもないけど」
 回遊魚の水槽をバックにしながらこんなことを言っている先生ですが、農学部に進むことが決まっています。
「先生、農学部なのにそんなことで、大丈夫ですか?」
「農学部だからと言って、農業ばかりではない。生物化学や、食品、環境なども範疇だ。それに、わたしが興味を持っているのは花卉園芸学だから問題ない」
「はあ……」
 先生の『問題ない』は経験上、あまり当てになりません。それにしても、植物のあるところに入り浸っていたくらいなので、園芸に興味を持っているのは本当のようです。
「水産学部もあるんだよね?」
「ありますよ」
 染谷さんの言う水産学部ですが、札幌には建物がありません。そのためか、文芸部にも属している方はいないようです。
「函館キャンパスだな。調査船を持っていると聞いたが」
「そうですね。集中講義に申し込めば、実習に参加することができるとか」
「そうなんだ。でも、水産学部の人は入学したときから函館なの?」
「確か、最初の二年くらいは札幌だと聞きましたよ」
「引っ越しが大変そう……」
 文芸部ならあるいは、函館からも活動に参加することができるかもしれませんが、合評や部誌制作に関わりにくい時点で厳しいものがあります。仮に入部しても、函館に行くときにはお別れすることになるでしょう。そんなメンバーは一年目にいないので、少し安心します。
「函館で、独自にサークルを立ち上げているのではないか? 札幌にある医学系の学部でさえ、独自のサークルを持っているのだ。考えられないこともない」
「そうかもしれないね。サークルって言っても、公認じゃなきゃいけないわけじゃないし」
「染谷さんのところには、文芸サークルとかありませんか?」
「えっと……白菊高校の文芸部だった子が、OG中心に集まってるっていうのは聞いたことある」
 白菊高校の文芸部は、地元では和綴じの部誌で有名なところです。作品のレベルも高く、全国大会にもたびたび進出していると聞いていました。その精神とメンバーの結びつきは、卒業しても絶えるものではないのでしょう。
「なるほど。なんというか、周辺の文芸サークルとの交流もしたいですよね」
「今のところ、交流する機会は全くないからな」
 一応、部長だったわたしには、コネクションがないわけではありません。外の世界も気になります。それはこの水槽の魚たちが、本当はもっと広大な海に生息しているということに似ています。

 やがてショーの時間になりました。目当てのイルカショーは、一頭しかいなかったためやや迫力に欠けるものでしたが、算数をするオタリアは楽しい演出だと思いました。海水を被ることはなくても、涼しかったので満足です。
 その後は、ペンギンのショーを見に行きました。朝よりは気温も上がっていましたが、風も出てきたので過ごしやすく感じます。
「ここのペンギンは、働かないことで有名なんだって」
「聞いたことがあります」
 プールには二十羽くらいのフンボルトペンギンがいて、それぞれ思い思いに佇んだり、泳いだりしています。飼育員さんが魚の入ったバケツを持って出てきても、興味を示すのは一部だけでした。
 シーソーや滑り台、ハードルなど、いくつかの種目が用意されています。飼育員さんは手近なペンギンを魚で釣りつつ、なんとか芸を見せるよう促すのですが、ペンギンは食べるだけ食べて、働いてはくれません。カモメが闖入して魚を横取りするなど、ハプニングには事欠かないのですが、用意された種目はなかなか成功しませんでした。
 それでも、会場には笑いが溢れ、ペンギンが気まぐれにハードルを跳んだときには歓声が上がりました。飼育員さんも生態の解説で巧みに間を繋いだり、ペンギンの機嫌に合わせて柔軟に進行したりと、全てが想定されているようです。
 トドやオットセイなども含めて、高度に訓練された生き物のショーが並び立つ中で、ありのままを見せるペンギンショーはひときわ印象的でした。
「先生はペンギンショー、いかがでしたか?」
「わたしは訓練されたペンギンを見たことがないぞ。あれが自然なのではないか?」
 全てをアクティブに考えすぎると、見えなくなってしまうものがあるようです。力の限り芸を磨くことと同じくらい、脱力した自分と向き合うことも大切なのかもしれない。わたしはそんなことを考えました。
「そろそろお昼にしようか」
「そうですね」
 今日くらいは、文芸のことも忘れて。わたしたちは水族館のレストランで昼食を取った後、市街に戻りました。
 お土産は、オルゴールの工房で見つけたガムランボールです。耳元で振ると、とてもきめ細かく、不思議な波長のうなりを含んだ音色を聞くことができます。暇な昼下がり、マイクロビーズのクッションを抱きながら、風鈴の代わりにガムランボールを鳴らすと、心地よいうたた寝にいざなわれるのです。

 九月に入り、わたしはあまりの平穏さに、やや堕落しかけていました。「明日は合宿だ」という連絡のメールを受け取り、慌てて荷物をまとめたのです。
 札幌から高速バスに乗り、旭川からは施設のバスで、合計四時間という道のりでした。そこはもう山の中です。少し下ると小さな温泉街があるそうですが、車の通りも少なく、鳥や虫の声しか聞こえないような場所です。
 そんな山の中に現れた施設は意外なほど巨大で、いくつもの建物がほぼ直線上に連なった構造をしているようでした。その中央の建物に入ります。
「これは……聞きしに勝る広さだな。こんな山の中に施設があると聞いて、もっと山小屋のような建物を想像していたが」
「はい。わたしも、こんなに立派な施設だとは思っていませんでした」
 わたしたちはそこそこ盛り上がっていましたが、上年目は初めて来るという明石さんがはしゃいでいたくらいで、あまり目に見える反応をしていません。それから、今日久しぶりに会った新井くんは、さらに遠慮なく朝倉さんの近くをキープして、二人で仲睦まじく話しています。
 ともかくも、わたしたちは中央棟の研修室に通されました。施設の方によるオリエンテーションを終えて、昼食を済ませた後、幹事の小宮さんが前に立ちます。
「はい。それでは今日から二泊三日、合宿を楽しんでいきましょう。今日はまず、最初の企画を発表します」
 この合宿については、いくつかの企画が用意されているようですが、内容の全ては明らかになっていません。最初の企画は、その秘密になっていた一つでした。小宮さんは淡々と説明します。
「最初の企画は、題して『種育て式創作』です」
 そこで、新井くんが前に出ました。黒板にあまり鮮明ではない字で、有名な一文を書きます。
「『メロスは激怒した』という文から始めて、作品を書いてください。長さや形式は自由です。今日はこの後、五時まで創作時間を取りますが、明日の夜までには完成させるようにしてください」
 少し捻った名前がついていますが、要するに有名作品から冒頭を拝借するという、よくある類の企画です。合宿ならではという感じではありません。各々持参したノートパソコンや原稿用紙を用意して、特に盛り上がりもなく執筆は始まりました。当然ながらわたしも今回は、編集専門というわけにはいきません。
 外はよく晴れていて気温も高いですが、窓を開ければ涼しい風が吹き込みます。虫もある程度は網戸で防ぐことができます。しかしわたしは既に道中、脚を蚊に刺されてしまいました。痒みに耐えています。
「先生はこの企画、どのように攻めますか?」
「そうだな……まあ時間はある。ゆっくり考えるとしよう。しかし、インターネットも使えないとは不便だ」
 先日は「街に暮らしたい」と言っていた先生です。環境が変わることで刺激になる部分もありますが、慣れるまでは不便さが勝ってしまいそうです。
「先生は、この手の創作って苦手なんですよね。リレー形式とか」
「まあ、今回は冒頭だけだ。ここからどうにでも持ち込めるだろうし、あまり問題はない」
 企画開始から二十分くらい経つと、いよいよ行動が別々になってきました。上年目も、黙々と創作に打ち込む方や、気楽に談笑する方、研修室を抜け出して施設を探検しようとする方などバラバラです。
 新井くんと朝倉さんは隣り合って、それぞれ執筆をしていました。わたしはなかなか満足の行く流れが思いつかないので、息抜きに話し掛けてみることにしました。
「お二人とも、進んでますか?」
「中津さん。それはまだ……今は言えない」
 わたしとしては、もちろん執筆の調子を尋ねたつもりですが、誤解を招いてしまったようです。新井くんはちらちらと朝倉さんを見ながら、勿体つけたことを言いました。
「新井くん、作品の話だと思うよ」
「おっと。それならそうと言うてや」
「……見せつけてくれますね」
 ちなみにこの二人は道中のバスで、寄り添って寝ていました。新井くんのほうは恐らく狸寝入りだったと思います。その様子に高本さんは始終歯ぎしりをしていたとか。
「まあでも、俺はプロットができたから、後は書くだけだよ。中津さんは?」
「わたしは普段自分では書かないので、ゆっくりとやります」
「そうなんだ。私もあんまり進んでないよ」
 朝倉さんも、考えながら少しずつ書き進めているとのことでした。この二人に関しては実際、今まさに熱すぎて侵しがたい領域を持っているような気がします。
「中津さん。こちらを向いていただけますか」
 そんなとき、後ろから高本さんに声を掛けられました。振り向いたときにはわたしたち三人、ポーズを取る間もなく写真に納まります。
「合宿の、カメラ係です。よろしくお願いします」
 悪気はないのだと思いますが、撮り方が不親切でした。それにしても、その両手に構えた銀色の角張ったカメラに目が行きます。
「あまり見かけないカメラですが、フィルムカメラですか?」
「いいえ、デジタルですよ」
 カメラまで古風……という期待を一瞬しましたが、あっさりと否定されてしまいました。
「それでは、合宿お楽しみください」
「はい。ありがとうございます」
 高本さんはそのままカメラを持って、研修室を出ていきました。高本さんの席には、原稿用紙が残されています。一目見ただけでも、万年筆で殴り書きをしたその文字の迫力に、執念めいたものを感じました。それはある意味で、期待通りです。

 少しだけ文芸的な話をすると、『メロスは激怒した』という一文には、様々な解釈が考えられます。実際にメロスが激怒したという描写とするのがオーソドックスだと思いますが、あまりに有名な一文なので、引用として扱っても良いでしょう。あるいは、先入観を捨てて『メロスは激怒した』という言葉を解体していくような物語も面白そうです。
 わたしはこれでも長く編集をしてきたので、触れてきた作品を思い返してパターンを見つけることができます。しかしそれは自分でも書けるということを、直ちに意味するものではありません。
 個人的な感覚ですが、編集が作品の改善に寄与するときに発揮される創造性は、作者の持っているそれと微妙に質が異なります。編集の創造性は、あくまで既存の作品に喚起されて働くものなのです。だからわたしは、何もないところから作品を生み出す作者の皆さんに敬意を持つのです。
 たまに、編集に対して「執筆は難しいのに、言うだけ言う。お前も書いてみろ」などと言う方もいますが、大抵の場合その要求は通りません。必然的に上手には書けない編集を見て、その方は胸がすくのかもしれませんが、結局は不毛なことです。
 そんなことを考えながら、わたしは施設を探検していました。今日は他の団体も宿泊する予定ですが、日中は野外活動なのか、まだ来ていません。わたしたちしかいないのに、この巨大な施設です。不思議な気分になります。
 中央棟から北側は、体育館や武道場、プールなどが連なっています。長い廊下にはわたしの足音だけが響きます。若干、何が出てくるかわからない怖さがあります。これで前後から別の足音が聞こえたら、わたしはどこかに隠れるでしょう。そんなことも起こらないほど、本当に誰もいないのですが。
 研修室を出た上年目は、中央棟に何か所かあるラウンジでそれぞれくつろいでいました。今回、二年目の中では八戸さんや江本さんが来ていません。一方、二年目で文学部の四年生だという瀬田さんが参加されていて、高本さんと文学について語り合っています。瀬田さんだけではなく、今回の参加者は年齢層が高めです。単純に考えれば、夏休みだからなのでしょう。
 中央棟の階段の踊り場には、ヒグマの剥製が飾られています。メロスの世界観には、ヒグマはいないかもしれません。そもそも、せっかくこの雄大な北海道の真ん中にいて、どうして古代ギリシアに思いをはせることができるでしょうか?
 まとまらない構想にじれったい感情が芽生えてきたので、わたしは研修室に戻りました。執筆をする人たちは、一概に捗っているとは言えないかもしれませんが、室内を静まり返らせ作業に没頭していました。さっきよりも人数が減っています。
「何か面白いものはあったか?」
 席に着いたわたしに、先生が声を掛けてくれました。
「この空間、一歩間違えばクローズドサークルですね」
「冬は本当にそうなるかもしれないな」
 路線バスが入口まで来るので、夏場は余程の大雨でもなければ孤立することはありません。この立地ですが、安全性はそこそこです。それにしても、急病人などが出ればとんでもないことになりそうです。
 そんな不穏な想像をするのも、敢えて非日常への扉を開くためです。わたしはいい加減に古代ギリシアを諦めて、こちらの世界観にメロスを誘い込むことにしました。例えば、『走れメロス』の筋書き通りに、人が消えていくとか……。
 メロスが十八人、村で暮らしていたら、一人が激怒して、残りは十七人。
 おっと、これは違う作品も混ざっていますね。どうも。パロディが好きな編集者です。

 活動終了時間である五時は、あっという間に来てしまいました。わたしはもはや、十八人のメロスを一人一人と消していく快感に溺れて、それで時間を使い果たしてしまったのです。ちなみに最後のメロスは、緋のマントを捧げられたらひどく赤面して、誰もいなくなりました。我ながら意味がわかりません。途中から、ノベルゲームでバッドエンドの選択肢を回収しているかのような気分になりました。
 それにしてもわたしには、もう一つの思惑があったのです。実は今日の夜に、また一つの企画が予定されています。その名も百物語ならぬ、『十八(仮)』。命名者の意図はわかりかねますが、要するに部屋で怪談を持ち寄って披露するという企画です。これもわたしは、あれかこれかと一つを選ぶことができずに、今日まで保留していたのでした。こうなれば、今しがた仕上がったメロスの詩を読み上げてやるのです。
 施設には他大学の一学科だという大きな団体が入って、クローズドサークルという雰囲気ではなくなりました。研修施設ならではの簡素なバイキングで夕食を取り、わたしたちは宿舎棟へと移りました。
 宿舎は二階建てで、各階に六人分の寝室が三つと、リーダー室と呼ばれる個室が一つ、それから大きな和室が一つずつありました。わたしたち女性陣は二階の寝室に荷物を置いて、まずはお楽しみの入浴時間です。
 参加者が十八人いると言っても、女性はそのうち六人です。寝室は贅沢に二つ使えますし、浴室も貸切で広々としています。
「ねえ、朝倉ちゃん。新井くんと付き合ってるの?」
 そんなところで始まるのは、やはり恋愛話なのでした。小宮さんと、同じく二年目の佐々木さんが、朝倉さんを囲んでいます。明石さんも興味を示しているようでした。
「えっと……新井くんは、いつも仲良くしてくれます」
 否定しきれないところが、何ともいじらしいものです。本人の羞恥心も相当にありそうですが、それ以上に、新井くんに口止めでもされているのでしょう。あの姑息な人のやりそうなことです。
「えっ、告白はどっちから? 新井くんのどういうところが好きなの?」
「私は、その……」
「やっぱり新井くんから? 言われて好きだって気付いた感じ?」
 小宮さんと佐々木さんによる質問攻めは凄まじく、朝倉さんの曖昧な答えからもどんどん真実を暴いてしまいます。そうして鉱脈を掘り尽くすと、「新井くんは朝倉さんのどこを好きになったのか」という話になりました。それはわたしも聞いていないということに気付きます。
「やっぱり、朝倉ちゃんがかわいいから?」
「胸だったりして」
「意外と体目当て?」
 いよいよ際どい話題になり、朝倉さんはメロスのようにひどく赤面していました。その心は、どちらも丸裸です。のぼせているのと区別がつかなくて、いずれにしてもそろそろ解放してあげたいところでした。
「あっ、あの……そろそろ、上がります」
 しかしわたしが声を掛けるまでもなく、朝倉さんは自分から浴室を出ていきました。さりげなく明石さんも続きますが、小宮さんと佐々木さんは、二人でも盛り上がっていました。
 ちなみに先生は、いつの間にか音も立てずに上がってしまったらしく、そのときには脱衣所にすらいませんでした。

 宿泊棟に戻ると、二階のリーダー室から風雅な笛の音が聞こえます。例えば、夜の楼閣からこんな調べが聞こえたら、誘われ出でてしまいそうな。奏者は高本さんでした。
「おや、中津さん。戻られましたか」
「はい。それは横笛ですか」
「横笛の一種で、篠笛といいます」
 高本さんは邦楽もたしなまれるようです。わたしは篠笛の現物を初めて見ました。
「何か演奏してもらえませんか」
「拙い演奏ですが、よろしければ」
 謙遜しながらも、高本さんは一冊の楽譜を開き、笛を吹き始めました。演奏の良し悪しがわかるわけではありませんが、その曲は初秋の夜風を感じさせるような、どこか寂しい落ち着きのある調べでした。
「ここにいたのか」
 曲が終わった頃、ルームウェア姿の先生が顔を出しました。クリアファイルを抱えています。そしてわたしたちを見るなり、眉をひそめました。
「浦川さん、お疲れ様です」
「……ここでも密会か?」
「先生、誤解ですよ。わたしはただ、高本さんの演奏を聴いていただけです」
 先生は静かな場所を探していたようです。怪談を読む練習をしたかったそうですが、一階には良い場所が見つからなかったのだとか。
「ここでも、というのは?」
 高本さんも、先生の言葉に何かを察知したようです。それは一階のリーダー室にも、誰かがいたということを意味していました。
「もしかして、新井くんですか」
「そうだ。朝倉を連れ込んで、何かしていたらしい」
「また彼ですか!」
 耐えかねた高本さんが声を上げます。今日は宥めてくれる八戸さんや江本さんもいません。こんなとき、その感情のはけ口は……。
 原稿です。高本さんは原稿用紙と万年筆を鞄から出すと、ひたすらに何かを書き殴りました。おおよそ文字とは認識できないその字画の一つ一つが、呪詛に縁どられた魔物の姿を浮かび上がらせます。そういえば、高本さんは絵画もたしなまれるのだそうです。部誌では自分で作品の扉絵を描いていました。これだけ趣味があって、それぞれ人の心を掴む要素があるのに、不思議なほど報われない人です。それはもう、卑屈にもなるのだと思います。
 そこにいても仕方がないので、わたしと先生は寝室に入りました。ここはもう、二段ベッドが三台入って一杯の空間なので、あまり執筆向きではありません。企画が始まるまでは三十分ほど。やや長く感じる時間です。
「疲れた……これではあまり、こんな山奥に出向いた意味がない」
「メロスのやつ、先生は終わりました?」
「一応な。だが、見るに堪えない出来だから、書き直すつもりだ」
「締め切りは明日の夜でしたね」
 先生は自分のベッドに横たわり、そのまま眠ってしまいそうなほど脱力していました。こんなときメロスは寝過ごしたり、悪い夢を見たりするものですが、それは重大な使命を負って疲労困憊しているからで、先生の場合とは質が違います。仮にこのまま寝落ちして企画をすっぽかすことになっても、「南無三」などとは言わないでしょう。
「先生、ここで寝たらせっかく用意された怪談が無駄になりますよ?」
「代読してくれないか? 知っているだろう、わたしは朗読が苦手だ」
「知ってますけど……」
 案外、まともな原稿が用意できなかったわたしにも利益のある提案です。だからと言って、素直に引き受けるのは抵抗があります。
「あまり知らない上年目ばかりで、合宿とはいえ距離も近い。そんな中で……」
 それは、先生が普段から交流して来なかったからなのでは……と、つい言ってしまいそうになりましたが、ともあれ相当参ってしまったようです。なんだかんだで、わたしはそんな先生に甘いのです。
「わかりましたよ。原稿はそれですか」
「ああ。短いから、すぐ読めるだろう」
 クリアファイルから出てきたのは、『秘湯で生き返る』という題の、三分くらいで目を通せる長さの怪談でした。ある山奥の秘湯の噂を聞いた旅人が、実際にそれを探し当てるのですが、その温泉は落ちた虫をも生き返らせてしまうという話です。ブユやムカデなどが必要以上の滋養を得て蘇り、人間に襲い掛かる様子をグロテスクに描いた迫真の原稿はさすがという感じですが、相当に力を入れて読まなければ原稿に負けてしまいそうです。
「なるほど……これをわたしに読めと」
「それはな、こんな山の中にある温泉に行くと、露天風呂で虫が鬱陶しくて仕方がないという情景を描写した話だ」
 怪談は単に怖がらせるというよりは、「本当にあるかもしれない」と感じさせるところにエッセンスがあると言う人もいます。そういう意味ではポイントを押さえた原稿です。わたしの投げやりなメロス数え歌が恥ずかしくなります。
「……では、企画の趣旨には反するかもしれませんが、原稿担当が先生で、朗読担当がわたしという形式にしたいと思います。それでよろしければ、わたしが先生の代理で企画に出ます」
「ん? 何もそこまでする必要はないぞ」
「わたし今日、怪談を用意できなかったんですよ。それで、こんな原稿を読もうとしてたんです」
 メロス数え歌の原稿を渡すと、先生はくすくすと笑いました。先生が笑ってくれたので、この原稿の役割は終了としても良いでしょう。
「確かにこれは、怪談ではないな。いくら猟奇的なミステリでも、ホラーと同一視されるわけではないだろう」
「そうですね。そんなものを書いていたので、今日の企画は一文字も進んでいないのです」
「なるほどな。そういうことなら、後は好きにしてくれ」
 こうして結局わたしたちも「密会」を終えたわけですが、先生はそのまま布団に入ってしまいました。とりあえず企画の時間まで原稿を読んで待とうと動き出したところで、部屋のドアが開きます。
「あれ、中津ちゃん」
 相部屋の朝倉さんが戻ってきました。こちらはジャージ姿で、パソコンを抱えています。
「お疲れ様です。ずっと下にいたんですか?」
「ちょっと、メロスの企画の作品書いてて。浦川ちゃんもいるんだ」
「疲れたとかで、寝てしまいましたけどね……企画も参加しないそうです」
「そっか。疲れたなら仕方ないね」
 朝倉さんは持ってきたバッグの中に怪談の原稿があるので、それを取りに来たようです。
「もうみんな下の和室に集まってるけど、中津ちゃんも来ない?」
「そうですか。では行きます」
 誘われたならば、もはや先生にばかり構ってもいられないでしょう。わたしは人が集まって賑やかな場所も嫌いではありません。
「先生、電気は消していきますよ」
「……ああ」
 そうして迎えた『十八(仮)』もとい、『十七(仮)』でしたが、先生のように真面目な怪談を準備してきた人もいれば、ダジャレやホラー以外のオチなどのネタに走った人も少なくありませんでした。新井くんなどは、『揺籠唄』というタイトルで、実は登場する夫婦の名前が「ユリカ」と「ゴウタ」だったというオチの話でした。内容は先日サロベツ原野で仕入れた河童伝説をもとにしていたそうですが、それをわざわざ脈絡のないダジャレでラッピングするところが非常に新井くんらしいです。
 上年目では、明石さんが樋田さんにゴーストライターを頼んでいたのが、怪談の内容から即座に看破されてしまうという珍事がありました。一方、同じく三年目の上尾さんや山根さんはとても完成度の高い原稿と語りを用意してきていて、注目を集めました。特にそれで順位を付けるというわけではありませんが、やはり本当の意味で場を盛り上げるのは、真面目に企画の趣旨に沿った人なのだと感じます。わたしは先生からこの原稿を預かって、本当に良かったと思うのです。
 ちなみにこの企画名を考えたのは、平塚さんだという話でした。元ネタから「八」を拝借したとのことで、期せず企画名が変わってしまったことにはやや不満げでした。

 その夜は企画が終わってからも長かったと、朝倉さんから聞きました。明石さんが人狼をやろうと言い出したり、持ち寄ったゲームで遊んだりと、とても盛り上がったそうです。意外なことに、そのときは高本さんも、ノリノリで参加していたという話でした。これは今日、自分の目で確かめねばなるまいと思いました。
 施設の朝は早く、六時半になると目覚ましの放送が流れます。七時から前庭で、宿泊団体全員参加の集いが催されるのです。周囲は誰も彼もが眠そうでした。
 しかしながら、気温がやや低いことを除けば、とても清々しい朝です。周囲に力強くそびえる山々を望み、思い切り深呼吸をしたなら、朝露に濡れた芝生にも飛び込みたくなるくらいの開放感があります。
 もう少し散歩でもしてから戻りたいところでしたが、直後から朝食の時間なので、仕方なく施設に入ります。これだけ早くに起きて、今日は午前から気合の入った企画がある……と思いきや、朝食の後は十時まで自由時間です。仕方なくわたしは、激怒したメロスを料理する作業に入りました。二階の和室には、静かな場所を求めて上年目も何人か集まっています。わたしと先生もその一角にお邪魔して、黙々と作業をしました。
 メロスは激怒した。激怒した激怒した激怒した激怒した。そもそも、メロスとは誰? 何故激怒した? わからない。わたしが一人一人、レミングの行進のごとく失踪させていったメロスとは? 失踪と言えば、疾走と音は同じ。つまりメロスは走っている。『走れメロス』ここにあり。
 ――そうです。原稿を前にして一文も進まない人の頭の中は、こんなに混沌としているのです。これは、誰でもそうなるのです。
 厳密には、わたしの原稿にはその、梃子でも動かぬ一文目が刻まれているのですが、この頑固で断定的な一文は、自分の手には余ってしまいます。原作のアイデンティティとも呼べる、画竜点睛に相当するこの一文を、安易には料理できません。
「……先生、わたしはダメです。風に当たってきます」
「大丈夫か?」
「創作の苦しみですので、お気になさらず」
 わたしは二階のリーダー室の窓を開け放ち、風に当たりました。空には何やら重い陰を帯びた雲が流れていきます。気圧が下がっているようです。しかし実は、次の企画はハイキングだと聞いています。そのために動きやすい靴を履いて、雨具を持って来るようにとアナウンスがされていたのです。
 各方面からあの雲のような不安が流れ込んでくるわけですが、ひとまずわたしは、窓際の机に向かって瞑想をしました。こんなときは小樽で買ったガムランボールの音色が恋しくなりますが、残念ながら持ってきていませんでした。
 そんな未練も雑念も、今だけは、心から追い払って……。
「中津さん。下に弁当届いたから、受け取って。そろそろ出発の準備もしてや」
 と、そんな時間は十数秒で打ち破られました。新井くんです。しかも、用件を早口で言うだけ言って、わたしが振り返ったときにはもういないのです。本当に、この怪しい雲行きの中で、昼をまたぐようなハイキングを決行するつもりなのでしょうか?
 それにしても、ハイキングがなくなればそのときは、またこの施設から一歩も出ずに不便で閉鎖的な創作に終始することになるので、まだ外に出て雨に降られた方が良いような気もしてきます。わたしはそちらの方が楽しいです。
 そんな思いが通じたのかはわかりませんが、ハイキングは決行する運びとなりました。行き先は、道をまっすぐ下った先にある、青い池というスポットです。道中、バスから入口の駐車場だけは見ていました。テレビでも取り上げられており、わたしも名前だけは知っています。
 まだ眠いのか、一部の上年目は億劫そうにしていましたが、このハイキングも、ただ歩くだけではありません。実は午後から、このハイキングを題材に短歌または俳句を詠むという企画が待ち構えているのです。要するに吟行です。
 施設を出て、わたしたちはまばらな列をなして往きます。天気はこのまま持つ気がしません。湿度が上がっていて、雨の匂いもし始めています。そんな中で、深い渓谷に架かった橋を渡った頃、わたしたちを出迎えるものがありました。
 蛾です。道内の各地でしばしば大発生する、マイマイガという種類です。山の中なので仕方のない部分もありますが、無視できない程度には辺りを飛び交っています。足元には死骸も散らばっていたりして、苦手な人には十分な恐怖を与える光景です。わたしはともかく、朝倉さんなどはかわいそうになるほど怯えながら歩いています。
「これは聞いてないですよ……」
「運が悪かったな」
 先生はさすがに農学部だけあり、虫には耐性があるようです。
「ではここで一句、または一首」
「そうだな……『台風の眼や群れ踊る舞舞蛾』というのはどうだ」
「なるほど、この不穏さを率直に詠んだ句ですね」
 温泉街に来ると、ホテルの花壇にコスモスが咲いています。それにしてもこの辺りは森林だからか、自然の花があまり多くありません。実はこの企画に備えて、新井くんが事前に秋の季語をある程度まとめた資料を作ってくれたのですが、そこに載っていたような秋の花やら果実やらは、ほとんど見かけられないのでした。
 それでも池に着けば、何か詩になるような情景というものを見つけられると思った矢先でした。ついに、雨が強く降り始めたのです。そのときわたしたちは既に温泉街を抜けていて、雨宿りには道路脇の林に身を隠すしかありませんでした。施設から二十分くらいですが、まだ池までの道のりのおよそ半分です。
 さすがに副幹事である新井くんも焦って、小宮さんや上年目の方々とあれこれ相談をしていました。それにしても雨が止む見込みはなく、引き返すことを前提に話はすんなりと進んだようです。
「はい。皆さん、すみませんが、引き返しましょう。戻ったら、宿泊棟の一階和室に集合してください」
 小宮さんの号令で、わたしたちは散り散りに施設へと動き始めました。ある人は全力疾走で。ある人は、悠長に濡れながら歩いて。またある人は傘を持っていて、場合によっては誰かと入っていました。わたしは先生の折りたたみ傘に入れてもらいました。
「先生、ここで一句」
「驟雨は……夏の季語か。秋雨とするか?」
「ありますよね、そういうこと……じゃあ、わたしから。『秋の蝉今ひと時の雨に消ゆ』」
「なるほど。敢えて蝉を主題にしたのか」
「はい。わたしたちもある意味、一度きりの機会を雨で失ったわけですが、蝉の命と比べると大したこともないように思えますね」
 当然ながら、傘は二人を守り切るほど大きくはありません。肩が濡れます。スニーカーはとうの昔に浸水しています。それでも、わたしたちはマイペースに帰りました。「ゆっくり」という表現をしないのは、基本的に先生の歩きが速いからです。
 あるところで、少し先にいた新井くんと朝倉さんに追いつきました。二人の姿と、一本の傘。しかし、実際に見えるものはわたしたちの期待に全く背いたものでした。なんと新井くんだけが傘に入っているのです。朝倉さんがレインコートを着ているとはいえ、ただでは見過ごせない状況です。
「新井くん、これはどういうことですか!」
「いや、違うねん」
「私が、いいって言ったの」
 わたしは反射的に声を掛けましたが、朝倉さんが新井くんを庇います。その反応もまた、一見意外なものでした。
「朝倉さんが?」
「その……私は、レインコートあるし」
 新井くんはそれ以上何も語りませんでしたが、二人で話し合った末に、このような形になったということです。確かに新井くんは比較的薄着で、傘以外の装備はありません。朝倉さんに十分な雨具があるなら、新井くんだけが傘を使うのも、合理的ではあります。
「でも……相合傘とか、されないんですか?」
「……まあな」
 今度は朝倉さんが顔を伏せてしまって、新井くんは諦めたように答えました。この様子から察するに、新井くんのほうにはその気があったのでしょう。とりあえず、この場はそれで許してあげることにします。
「では、お先に」
「ああ」
 わたしは先生の歩調に合わせて、二人と距離を置きました。それでも二人はそのままです。
「今更だが、相合傘より、一定時間で傘を回して使った方が効率的な気がするな」
「そうですね」
 そんなことを言う先生にはわからないかもしれませんが、一見非効率的な相合傘は、二人の間柄を効率的に誇示してくれるのです。朝倉さんはそれを恥ずかしがったのでしょう。
「それにしても、あの二人はこの合宿中、常に一緒にいるような気がする」
「それ、気のせいではないですよ」
 考えがまとまってくると、逆にわたしは、アプローチの過剰な新井くんに少し自重するよう言ってあげるべきだったと思います。それはほとんどの意味で、朝倉さんのためです。

 施設に戻った後、短歌俳句企画は午後から予定通り開催されることになりました。この企画の進行は新井くんに任されているとのことでした。夏休みの最初に練習企画をしていただけあり、気合が入っているように見受けられます。
「まずは、先日の練習企画に参加してくださった皆さん、ありがとうございました。私はこの文芸部で、短歌や俳句があまり盛んでないと聞いたので、活動の多角化戦略の助けになればと思い、今回こういった企画を提案させて頂きました」
 後から本人に確認したのですが、この部がより幅広い活動の場を得て、活動内容も豊富になれば、その「多角化戦略」というものが達成されるようです。なんとも意識の高そうな導入です。
「まずは皆さんに、紙をお配りします。一人一句または一首、作品を書いて提出してください。二十分くらいでお願いします」
 わたしと先生は、ハイキングで詠んだ俳句をそのまま提出しました。時間に余裕があったので、少し新井くんに企画のことを聞いてみることにします。
「新井くん。今回、短歌と俳句を同列に扱っているのは何故ですか?」
「それはな、慣れていない人からすれば、どっちも似たようなものだからやね。今回は最初のお試し企画だから、好きな方を選んでもらうことにしたんよ」
「なるほど」
「この後も継続的に句会や歌会をやろうと思うけど、そのときは別々にやる」
 さすがに自分で「戦略」と言うだけあり、計画性もあるようです。短歌や俳句を作る人が劇的に増えなくても、鑑賞できる人が増えるだけでも有益です。
「でも、俳句はともかくとして、短歌は競合する団体があるのでは?」
「確かにな。でも、短歌会は専門性の高い団体だから、今更うちの団体が短歌を始めたところで競合とかの騒ぎにはならんでしょ。むしろ、これをきっかけに短歌会との交流の道が開けるかもしれない」
「まあ確かに、この文芸部は周辺の文芸サークルとの交流、ほとんどないみたいですね」
「本当はそれも実現して、多角化戦略が達成されるのよ」
 サークルは企業ではありませんし、必ずしも規模の拡大が利益ではありません。ただ、それによって魅力的な活動が実現できて、かつ部員の満足度が高まるならば、わたしも応援したいと思いました。
「わたしも短歌や俳句はわかるので、何か手伝えることがあれば言ってくださいね」
「そうか。ありがとう」
 さて、企画の後半では、提出された作品が一筆箋に清書され、黒板に貼り出されます。匿名で、作者がわからないようになっているというわけです。
「それではここから、皆さんの作品を鑑賞していきます。まずは皆さんに、投票をしてもらいたいと思います。一人当たり特選を一票と、選を二票投じてください。特選は二点分になります。念のため言いますが、自分の作品には投票なさらぬよう」
 並んだ作品を見ると、短歌がやや多くなっています。全てひらがなで表記してみたり、韻を踏んでみたり、中には折句と思しき歌もあったりと、各々の挑戦が見て取れます。一方、俳句は音数や季語などの制約のためか、相対的に表現力を発揮できない傾向にありました。
 それにしてもハイキングがあのような状況だったため、蛾や雨の様子を率直に詠んだ作品ばかりです。その点ではあまり差がついていないように感じます。
 開票されると、わたしの感じた傾向はそのまま得点の偏りとして表出しました。上位三作品を短歌が独占し、わたしと先生は五位タイとなりました。
「はい。それではここから、講評に入りたいと思います。上位の作品から読み上げますので、作者の方は名乗り出てください」
 講評は、新井くんが各作品について、感想やアドバイス等を述べるというものでした。そこで、道路上で傷ついて蠢く蛾の姿を詠んだ二位の短歌が、朝倉さんの作品であることが明らかになります。
「この短歌は、とても鮮烈な印象を与えますね。死にかけた蛾が寄り集まって、動くか、動かないかのところがある意味、生命を感じさせるところでありますし、一方、最も気持ちの悪いところではないかと思います」
 こんな感じで新井くんは講評をしてくれるのですが、そのときばかりはとても嬉しそうでした。ちなみに、先生の詠んだ蛾の俳句に対する講評はこんな感じです。
「台風の眼が季語で、舞舞蛾を取り合わせたんですね。『群れ踊る』という部分は、『舞舞蛾』という漢字の持つ印象と重なってしまうので、もう少し違う表現をする余地があると思います。でも今回、蛾の躍動感というか、動きのある様子を詠んだ作品は少なかったですね。そこに目を付けたのは、さすがに浦川さんという感じです」
 比較的上位の作品にはこのようにすらすらと感想を出していた新井くんでしたが、後半になるとだんだん、コメントに困る様子が見えてきます。それでも全ての作品について講評をしようとするので、あまり票の集まらなかった人にとっては、気まずい名乗りとなったことでしょう。新井くんはこれでも頑張ったのだと思いますが、やや不器用な面があるのかもしれません。

 二日目の企画はそれで終了となり、夕食と入浴の後は飲み会がありました。中央棟の防音室にお菓子や飲み物を持ち込んで、立食形式で自由に交流するというものです。環境としては、消灯時間まで自由に騒げるような場所でした。
 しかしながらわたしも含め、締め切りの迫った人にとってはとても遊んでいられるような時間ではありませんでした。最初の一時間で抜け出して、宿泊棟二階の和室で追い込みを始めます。朝倉さんも一緒でした。
「中津ちゃんは、あとどのくらい?」
「恥ずかしながら、残りを言えるほどの進捗ではないのです」
「それは、大変だね……」
 ここまで来てしまったら、もはや何が何でも形にするしかありません。書けそうかどうかではなく、書くのです。わたしはこれまで断片的に得てきた発想を、ミックスジュースにしてしまうことにしました。
 メロスは激怒した。その筋書きを思い出したのは、四人目が消えたときだった。この古びた山荘に、何の因果か集った八人。一人は激怒した後に失踪。一人はいきり立つ短剣に刺されて。一人は南無三、寝過ごして。そして今、四人目は濁流に押し流された――。
 ミステリのネタは出せそうになかったので、普通に山荘からの脱出を試みる話にしました。最初に失踪した一人は山荘の周辺に眠る埋蔵金を当てにしており、他の七人を敵と見做して排除しようとしたのです。事態はもつれ、最後の一騎打ちになったとき、緋のマントを捧げられるのはどちらか、という流れです。
「中津ちゃん、頑張って」
 ようやく執筆も軌道に乗り、半分くらい行ったところで朝倉さんが部屋を出ていきました。どうやら作品を書き上げたようです。
「お疲れ様です」
 消灯時間は過ぎて、現在十一時です。その間和室には誰も来ませんでした。今頃は下の和室で、またゲームなどに興じているのでしょうか。気になって廊下へ出てみます。ついでに眠気を感じてきたので、歯を磨いてリフレッシュすることにしました。
 リーダー室にも人はいません。二階は完全な無人です。先生くらいはいるだろうと思いましたが、寝室にもいないのです。この状況、多数派の視点では「中津がいない」となるのですが、私の視点では、「みんながいない」と判別がつきません。そういうところから、ホラーが始まることもあるでしょう。
 ……まあ、それは一階に行けば、確実に全員がいるのです。変な考えを起こしてしまうのは、慣れない執筆に疲れが出ているのでしょう。しかしながら、まだ残り半分はあります。ここで眠ってしまうわけにはいきません。
 作業に戻ってすぐ、先生と小宮さんが二階に上がってきました。
「中津ちゃん、まだ掛かりそう?」
「申し訳ございませんが……日付が変わるまでには、間に合わないと思います」
 作品は、小宮さんが取りまとめることになっています。明日の午前中に合評をするのです。そのときには、確実に間に合わせなければなりません。
「じゃあ、明日の掃除の前にでも、提出してくれればいいから。おやすみ」
「はい。ありがとうございます……」
 小宮さんはあくびをして、そのまま寝室に入っていきました。その後、先生はわたしの隣に来てくれます。
「疲れたか?」
「軽く錯乱するくらいには……」
「わたしだって、今からでも帰りたいくらいだ。朝には札幌だろう」
「ふふ、そんなには掛からないですよ」
 心配している風に見せて、自分の疲れを自慢げに話してしまうような先生ですが、やっぱりわたしのことは、一番理解してくれているという信頼があります。
「先生は、遅くまで何をしていたのですか?」
「新井と、朝倉に誘われてな。人狼とかいうゲームをしたんだ。最初わたしは、人狼になったのだが……どうだ。占い師とやらに一発で見抜かれて、話す間もなく処刑されてしまった。その後も、村人になればすぐに噛まれ、狩人になっても何も守れず……わたしは、あのゲームに向いていないようだ」
「それは災難でしたね……」
 人狼は話術と振る舞いで乗り切るコミュニケーションゲームです。口下手な先生の適性は低いと言わざるを得ません。その一方、作品は既に提出をしたとのことです。
「ところで先生は今回、どんな作品を書かれたのですか?」
「結局、あまり出来の良い作品ではないが……激怒できない少年の話だ。他人の傍若無人な振る舞いに、たとえ何らかの被害を被ったとしても、ただ、黙ってやり過ごしてしまう……行動を起こし、王の心境を変えて見せたメロスは所詮、物語の中の英雄に過ぎないということだ」
「なるほど。先生にしては珍しく、リアルに近い内容ですね」
「合宿だからと気合を入れてみたが、やはり慣れないことは、補えるものではないな」
 わたしも先生も、今回の合宿では慣れないことに苦戦しています。そう考えると、もう一人思い出す人がいます。
「そういえば、人狼には高本さんも参加されていましたか?」
「ああ。挙動不審なのに、何故かいつも後半まで生き残るのだ。巧みに疑惑を回避し、議論の主導権を取ってしまう。狂人という役に当たったときは、人狼の陣営を圧倒的な勝利に導いていた」
「そういう舌戦はできそうですからね……ともかくも、ノリノリだったわけですか」
 表現は何通りかありそうですが、良く言えば、高本さんは切り替えができるのでしょう。この合宿の夜は完全なオフというわけです。しかしながら、文芸部にいるときはほぼ常にオンなので、高本さんにそういった素顔があろうとは、考えさせる隙もありません。
「不器用な方です」
「そんなものではないか? そこまで器用な人間など、多くはないよ」
「先生も大概ですけどね」
「うるさい」
 合宿の意義の一つには、こうして互いの新たな側面を発見することもあるのだと思います。それは、必ずしも心の距離を縮めるばかりではないでしょう。良くも悪くも、人間関係が変わるきっかけになるのです。
 あの選挙の夜から静かに、しかし急速に変わりゆくものがあるのを感じています。巻き起こった風は、目には見えなくても、確実に何かを運んでくるのです。それがわたしたちの前にどのような形で現れるのかは、まだわかりません。
 やがて先生も寝室に入り、わたしは夜中の三時頃、ようやく作品を書き上げました。推敲も一応はしましたが、もはや脳が硬直したかのような鈍痛に襲われ、目で文字を追うこともままなりません。
 わたしはパソコンを抱えて、消灯された廊下に出ました。あとは寝室のドアを開けて、パソコンを適当なところに放って、ベッドに入るだけ……ではありませんでした。
「……なあ」
「もう……じゃあ、ちょっとだけね」
 二階の入口の外から、か細い男女の声が聞こえます。今にも途絶えそうな意識の中でも、わたしは聞き慣れたその声の主を、はっきりと捉えていました。
 外の廊下には非常灯があるのでしょう。青緑の光で、入り口のガラス戸には一体のシルエットが縁どられていました。
「私ばっかりじゃ、やっぱりダメだよ」
「わかってる。でも、俺は香奈実ちゃんと、こうしてるときが一番なんだから」
 なんとなく耳をそばだててしまいましたが、気付かれれば大変なことになります。わたしは音を立てないよう努めて慎重に寝室へと入りました。中では先生が寝ているだけです。
 じきに戻る彼女と鉢合わせにならないよう、わたしは予定通りにパソコンをバッグの上に放って、速やかにベッドに入りました。すると、ドアを開ける音にも気づかないほど一瞬で、深い眠りに落ちてしまったのです。
 もし、あそこで逃げ遅れたら?
 わたしは夢を見ました。言い訳の言葉もなく、ただ立ち尽くすばかり。そのまま世界が流体のように形を失って、それで目が覚めたのです。

六 空隙

 秋口の青空が好きです。空を飛ぶなら、間違いなく秋が最適だと思います。夏の熱気が去ったところへ、爽やかな風と共に飛び込んでいくのです。
 そんな空想もしながら過ごした九月でしたが、気付けばもう下旬、夏休みも終わりが見えてしまいました。宿題も講習もない夏休みは実に幼稚園以来のことで、実際に過ごしてみると、なんと持て余してしまったことかと思います。
 何もしていなかったわけではありません。多くは文芸部のイベントであるマスカレードに投稿された作品を読んでいました。小説部門だけでも十五作品あり、十五夜掛けて読んだというわけです。規模もジャンルも様々でした。全て匿名で投稿されていましたが、中には作者の姿がありありと見えるような強い個性を示すものもありました。
 では、肝心の先生の作品は見つけられたのかと言えば……当然です。わたしは自信を持って今日、発表会へ向かうのです。
「先生、お久しぶりです」
「合宿以来か。久しぶりだな」
 夏休み最後の土曜日の午後です。学期中と変わらない程度には人がいました。先生に会うこともそうですが、会場のサークル会館へ向かう道も、周囲の雰囲気も含めて何もかもが久しぶりという感じがします。
「先生はマスカレードの作品、全部読みましたか?」
「読んだよ。投票もした。さすがになかなか、読み応えのある作品もあったな」
「そうですね」
 快晴でも暑くはなく、運動には最適な日でした。体育会系の練習も盛んであるように見えます。そういった空気も作用してか、先生に話したいことが次々と浮かんできました。しかしまずは、マスカレードの作品のことです。
「約束した通り、先生の作品はきっちりと見極めてきましたよ」
「では聞かせてもらおう、どの作品だ?」
「はい。『ラッキーアイテム』です!」
 わたしは迷いなく作品名を言いました。先生は安心したように微笑みます。
「……さすがだな。正解だ」
「ループものとは、挑戦的ですね」
 朝のテレビの占いから発想を得たというその作品は、幸運や幸福というものについて考えさせる、怪奇かつシビアな世界観を持っていました。
 主人公は高校生の女子で、テレビの占いでラッキーアイテムに選ばれた品によって、その日多くの幸運を手にします。しかし副作用で、ラッキーアイテムを午前中に手放さない限り、同じ日を繰り返すことになってしまいます。選ばれるのは、友人との思い出の品ばかり。幸運に溺れるか、未来へ這い上がるかの葛藤の中で、彼女はその世界の秘密に迫っていく……という物語です。
「贔屓ではありませんが、上位も狙えるのではないかと思います」
「そうか。しかし、行くとしても三位ではないか?」
 先生にも自信があるようで、笑いまじりに自惚れたことを言いました。しかしながら、三位という自己評価は意外と謙虚です。実はわたしも、そのくらいの順位に落ち着くのではないかと踏んでいました。
「そうですね。例えば『油地獄』とか、上位になるのはそういう真っ向勝負の作品なんですよ」
「あれは……わたしが見ても、圧倒的な作品だったな」
 作者の見当はついていませんが、それは相当な実力を感じさせる作品でした。妻と離婚し、親の介護と不安定な仕事で困窮した中年の男性が、再起を図ることもできず心身を病んでいき、壊滅的な結末を迎えるというサスペンスです。読書によって多少補っているとはいえ、本質的に人生経験の乏しいわたしたちにとっては、考えも及ばない作品です。
 ちなみに先生の作品の結末は、ラッキーアイテムを手放し続けた未来こそが最も無難で平和なものだった、という王道の展開です。そのことは、主人公からラッキーアイテムを譲り受けた友人が、本来主人公が迎えるはずだった悲劇的結末を迎えるという形で示されます。
「夏部誌もそうでしたけど、やっぱり大学生の書く作品は何か、パラダイムが違うような気がしますね」
「ああ。ジャンルも内容もレベルも、より多様になっている。こうして競う場面でも、同じ土俵に立っている気がしないほどにな」
「現にわたしは先生の作品が上位になると信じていますが、それも狭い世界での話だとしたら……」
「今日、それもはっきりとするだろう」
 元々先生の作品の魅力は、良くも悪くも「ませている」ところにあるのでした。成熟した感性や迫力ある描写、構想力、それらすべての基準が、これまでは高校生にあったのです。一年誌を終えて、今後一人前として活動していくからには、大学生あるいは一般のパラダイムに適合していく必要があります。
 しかしながら、一年目でこんなことを考えているのは、わたしたちだけなのでしょう。これは姉から聞いた話ですが、一年目の後期はとにかく人の消えがちな時期だそうです。サークル活動に参加しなくなったり、午前中の講義に出なくなったりするところから始まり、やがては連絡も取れなくなり、学年から消え、大学からも消えてしまう……と。
 秋の空は音もなく人をさらっていくのです。緊張感から解放された、本当の大学生活へ。それ自体は、ありふれた通過儀礼なのかもしれません。しかし油断すると、大事にしていた志も、あっさりと抜き取られてしまうのです。

 発表会の前には臨時部会があり、高本部長の進行で新歓や冬部誌のスケジュール確認がされました。冬部誌は初稿の締め切りが十月の初週と早く、翌週には合評が始まります。そうして年内には丁合を終わらせる予定です。
 一年目にとっては新歓も重要ですが、それにしても一番の関心はマスカレードです。部会が終わった後の休憩時間に、わたしは久しぶりの和泉さんに話し掛けました。髪のワンポイントの色が、赤から緑になっています。
「和泉さん、夏休みはいかがでしたか」
「思いっきりだらけたね。だるっだる。結局これの作品も全部は読めてないし。それで? フミはどれだけ真面目に夏を過ごしたの?」
「わたしも大概、自堕落な生活でしたが……楽しかったですよ」
「それならよし。だいたいみんな同じだよ。こいつだって……」
 そこで和泉さんは、近くで椅子に座っていた星井さんの肩に、後ろからそっと両手を掛けました。星井さんはその場で跳ね上がります。
「ちょっと、急に触ったら、びっくりするから」
「星井のっぽい小説、一つあったね。つれない先輩と風鈴を眺めるやつ」
「そう。わかるんだ」
「普段から話してればわかるもんだよ、文体とか構成とか癖が出るし」
 帰省をしていた間にも、二人は多少なりとも企画に参加していたようです。ちなみに星井さんの作品は、わたしも見極めることができました。
 事前の情報によれば、新井くんと朝倉さんも作品を出している可能性があります。実際、二人のらしい小説があったのでした。わたしは部屋の隅に形成された二人の空間に、遠慮なく入らせていただきます。
「新井くん。作品読みましたよ」
「おっ、中津さん。どれかわかったんか?」
「『冬のダイヤモンド』でしょう。まあなんというか、趣味全開の作品でしたね」
「中津さんに聞くのも違うかもしれんが……萌えたか?」
 そんな彼の作品は、軽音楽部でバンドを組んでいる四人の女の子たちが、曲作りのために天体観測キャンプをするという物語です。設定からして、かつてブームになったアニメを想起させます。内容も日常の描写が多く、準備や買い出しを経て、当日のアクティビティとバーベキューを経て、天体観測にたどり着くまでがとにかく迂遠なのでした。
「萌えを意識した作品とは読めましたが、その表現は、小説では難しかったのでは?」
「そうか? 個人的には割と満足いく出来だと思うけど」
 首を傾げる新井くんを見て、朝倉さんも口を開きます。
「私は面白いと思ったよ。描写とか綺麗だったし、キャンプの準備とか、楽しそうだったし」
「新井くん、もしや朝倉さんが気に入ってくれたからそれでいいとか、思っていないですよね?」
「それはない。俺はこうして趣味を押し出した話を書くことによって、同志を見つけるんや。最低限、ある程度受け入れられなかったら困るわ」
 急に声の大きくなるところは怪しくもありますが、新井くんは以前から近い創作観の人を見つけたいと言っていたので、そこは本当なのだと思います。
 一方の朝倉さんも何らかの作品を出したとは教えてくれましたが、どの作品なのかは明言しませんでした。わたしも一応の見当はついていましたが、あまり詮索しないのもマナーです。

 マスカレードの結果は全体として、予想を大きく外れることはありませんでした。『油地獄』は十点中八点に迫る総合点で優勝し、作者は二年目で四年生の瀬田さんだとわかりました。二位は六年目の松戸さん、三位は山根さんで、先生は八戸さんと並んで四位タイでした。
 六年目賞には八戸さんの小説が、新井くんの個人賞と樋田さんの韻文賞にはともに山根さんの作品が選ばれました。新井くんと樋田さんはどちらも「青春」というキーワードを指定しており、小説と詩の違いはあれど副賞がレモンで重複するという珍事が起きました。それらを両手にしてはにかむポーズを取らされた山根さんが、その日の話題を独占してしまいました。
 その夜には近所の居酒屋でマスカレードの打ち上げが開かれ、わたしと先生は早速、優勝した瀬田さんにお話を聞かせてもらうことにしました。瀬田さんの隣には高本さんもいます。とても濃い話のできそうなお相手です。
「早速ですが瀬田さん、優勝おめでとうございます」
「どうもありがとう。こんなに評価してもらえるとは、思ってなかったけどね」
「いやいや、瀬田さんは実に素晴らしい作品をお書きになる」
 高本さんもハイペースでお酒を飲んで、取り巻きのように瀬田さんを持ち上げていました。その敬意は本物なのでしょう。ちなみに高本さんの作品は総合点がほぼ中央値で、あまり話題にもなっていません。その悔しさも感じられます。
「浦川さんも、八戸と並んで四位だったよね。年目はあんまり関係ないけど、やっぱりすごいと思うよ」
「……そうか」
 一方、先生はここに来るまでは瀬田さんのお話を聞きたいと張り切っていましたが、席に着いた途端に人見知りを発動してしまいました。わたしに頼りきりです。
「わたしもずっと浦川の作品を見てきた身として誇らしいのですが……例えば瀬田さんや松戸さんの作品は、やはり本当に成熟しているというか、高校生のパラダイムでやってきたわたしたちから見ると、一つも二つも上のステップにいるような気がしています。そういった中でこの順位を頂けたのは、ある意味偶然だったかもしれません」
 こうして先生の考えを代弁するのも慣れたものです。ほとんどわたし自身の考えでもありますが。
「僕はそれが却って、若々しくて新鮮だと思ったよ。中津さんと浦川さんは、同じ高校だったりしたの?」
「はい。わたしたち、札幌豊橋高校文芸部の創立メンバーです」
「豊橋って、あの頭のいいところ?」
「偏差値の上ではそうですね」
 経歴について積極的には語らずにおきましたが、高本さんが補完してくれました。先生が獲った賞の名前まで、よく調べられています。
「僕はそれこそ、去年入部してからだから、若い人たちの活躍を見ると、才能だなって思うんだ。高本もそうだよ」
「恐縮です」
 瀬田さんは気前よく高本さんの肩を叩きました。なんとなく、学年の差以上に大人な振る舞いに見えます。器の大きさにしても、謙虚さにしても、明らかに先生にはないものを持っています。そういった性質は、作品においても重要な世界観に強く影響するのです。
「浦川さんや中津さんから見れば、僕のほうが手の届かないものを持っているように思えるかもしれないけど、僕にあるのは本当、年齢くらいだからね。積極的にいろんな経験をして、ちゃんと勉強していれば、僕なんてすぐ追い越せるよ」
「ありがとうございます。励みになります」
 結局は経験と勉強です。それは当然、一朝一夕に解決する問題ではありません。消極的な姿勢でいれば永遠に手に入りません。
 ある程度お酒が入ると、瀬田さんと高本さんは揃って平素の理性を失い、互いの悩みなどについて延々と語り始めました。とても気の合うお二人です。
 こういうとき、高本さんは不思議と文芸や文学の話はしないもので、恋愛運のないことへの嘆きだけが出てくるのでした。その中にはやはり、新井くんを敵視しているかのような内容もあります。その新井くんはというと、今日もしっかり朝倉さんと隣り合って、企画班の平塚さんや武藤さんと話しているようでした。
 こうなると、自分から話すことのない先生はとても退屈そうです。わたしの隣で、船盛り刺身のつまを黙々と咀嚼しています。実際、退屈なのはわたしも同じだったので、今のうちに冬部誌の話をしておくことにしました。
「先生は、冬部誌どうされますか?」
「せっかくだ、初稿締め切りまで時間もないし、今回のを出そう」
「わかりました。編集は……」
 そこでわたしは思いとどまります。いつものように「編集はわたしがします」と言うことが、本当に良いことなのかと。
「もし先生がよろしければ、今回もわたしが務めさせていただきます」
 結果として、とても消極的な言葉が出てしまいました。もちろん、わたしはずっと先生の作品を見てきた身として、誰よりも先生の持ち味を引き出す編集ができると自負しています。この上ない安定です。しかしそれは、挑戦や冒険がなくなることと紙一重です。この部にはわたしが持っていない、高度な考えを持った人もいます。その考えを作品に取り入れようとするなら、その人に編集をしてもらう以外にないのではないでしょうか?
「わたしは構わないぞ。よろしく頼む」
「……わかりました」
 もしもわたし自身が、先生を狭いパラダイムに閉じ込めておくことに最も大きく加担していたのなら……。

 後期の授業が始まると同時に、新歓の活動も始まりました。わたしの役割はポスターの掲示です。まだ人の少ない一限の時間に、朝倉さんと手分けをして、教養棟の主な掲示板にポスターを貼りました。星井さん作の、文学少女のイラストが目を引くポスターです。
 片付けのためボックス席に戻ると、何故か新井くんが一人で待ち構えていました。朝倉さんはまだ戻っていないようです。
「新井くんは、どうしてここに?」
「ボックス当番だよ。二限は香奈実ちゃんの担当だから、来てみたんだ」
「もう朝倉さんしか見えていないのでは?」
「そんなことはない。同期が増えるのは楽しみやろ」
 しかしながら新井くんは、授業もあまり多くないとのことで、空いた時間を朝倉さんのために使おうとしているのはほぼ間違いありません。
「いつの間にやら、名前で呼んだりして」
「香奈実ちゃん来たな」
 食堂二階の入口から姿を見せた朝倉さんを、彼は瞬時に捉えます。向こうもまだ気付いていないのに手を振って、満足げな表情です。
「新井くん、来てたんだ」
「今日、新歓初日だし、気になってな」
 その下心を、朝倉さんは恐らく感じ取っていないか、気にしていないかです。ちなみにわたしは二限があるので、その後は二人きりの状況です。知っているわけではありませんが、交際二か月のカップルはこんな感じなのでしょう。
 そろそろ二人の空間にも慣れてきたので、違う話をすることにします。
「ところでお二人は、冬部誌に何か出しますか?」
 部誌の場合、編集班がスケジュールや予算を見積もるため、作者は事前にエントリーをする必要があります。文芸部はメールドライブと別にBBSを持っていて、そこに作品の種類や長さなどを書いておくのですが、一年目はまだ先生しか書いていません。
「俺は今回、出すつもりはないよ」
「私も……バイト始めて、最近ちょっと忙しいし」
 意外にも、二人とも消極的です。
「朝倉さんはともかく……新井くんは暇なのでは?」
「作品自体はあるけど、あんまり気乗りしなくてな」
 部誌制作に気乗りしない。その表現に強い違和感を覚えたのは、高校の文芸部の感覚だからでしょうか。確かにこの文芸部には様々な活動の形があります。しかし、部誌制作は数少ない外向きの活動であり、間違いなく文芸部の実体を支える柱であるはずなのです。
「それでは……新井くんはその作品を、どうするんですか?」
「このまま自分だけで楽しむかもしれんし。この部には自由創作ってシステムもあるから、それで出すかもしれん」
「ちなみにその作品って、この間の『冬のダイヤモンド』ですか?」
「いや違う。『冬のダイヤモンド』は、順位が思ったより伸びなかったから、もうしまっておこうかなって。後は自分で楽しめればええから」
 新井くんの気にする順位ですが、高本さんと同じくらいだったと思います。コメントを眺めると、描写やストーリーの瑞々しさを高く評価するものがある一方、キャラクター性の薄さや冗長さを批判するものもあり、なかなか激しい賛否両論でした。
「そうですか……」
「その点、浦川さんはすごかったよな。部誌には出さないの?」
「先生は出しますよ。その作品です」
「それなら、わざわざ俺の出る幕でもなかろう」
 新井くんは自嘲的に笑いました。マスカレードでの順位がそこまで悔しかったのでしょうか。最初の頃に見せていた自信過剰な様子は、もはや感じられません。むしろ卑屈なくらいです。
 時間が来てしまったので、わたしはボックスを後にしました。その日も、部誌へ新たにエントリーする一年目はいませんでした。

 風が涼しくなるにつれて、なんだか寂しくなるような感覚があります。後期最初の部会の日、わたしはその原因に気付いたのでした。
 部長になってみると、高本さんは非常に落ち着いた仕事ぶりで、部会は粛々と進行しました。しかし静かで落ち着いていたのは、わたしたち部員の側も同じだったのです。
 前期までは部会で見かけていた一年目のメンバーの姿がありません。特に男性陣は、新井くんを除いて全員欠席です。来ているのは先生、和泉さん、朝倉さん、星井さん、武藤さんと、決まりきったメンバーでした。飯綱さんもいません。
 ……と思っていたのですが、よく見ると新井くんの隣に、見かけない男性が座っています。夏休みの間にすっかり髪の伸びた新井くんと比較して、とてもさっぱりとした短髪の好青年です。
 部会が終わってから、早速彼にアプローチしました。
「お疲れ様です。新井くん、そちらの方は?」
「おお、紹介するで。入部希望の篠木くん」
「理学部一年の篠木義則です。今日ボックスを見学して、せっかくなので部会も見せてもらうことにしました」
「すごい行動力ですね。わたしは文学部一年の中津文子です。編集をしています」
 篠木くんは既に高本さんにも挨拶をして、入部届も書いてしまったようです。それはもう、入部希望どころか新入部員です。
「篠木くんはどうして、この時期に文芸部に?」
「前期が忙しくて、サークルとか全然見てなかったんだけど、昨日文芸部のポスターが目に留まって」
 確認したところイラストが気になったというよりは、純粋に文芸部に興味を持ってくれたようです。
「どんなジャンルが好きなんですか?」
「ジャンルかあ。何でも読むけど、古典文学とかかな」
「マニアックですね。星井さんと気が合うかもしれません」
 話しているうちに部員が次々と集まってきて、あっという間に篠木くんの囲み取材になりました。出身は山口県の西側で、書くよりは編集に興味があって、話していてもやはり感じの良い人であるということがわかりました。一年目にとってはとても良いタイミングで、期待の新人が入ってくれたと思います。

 それでも冬部誌の状況は変わらず、ついに初稿締め切りの前日になりました。エントリーは今日までとなっています。午後にボックスを訪ねると、八戸さんと新井くんがいました。
「お疲れ様です」
「中津。冬部誌出してください」
 八戸さんの第一声がそれです。この状況を見かねて、キャンペーンをしているようです。
「わたしは、編集の仕事もありますので……」
「他に出す人がいないんだよ。この冬部誌は、来年の新歓でたくさんの新入生の目に触れるのに、そのとき新歓をやってる君たちの作品が、全然載ってなかったらどう思う?」
 主張もよく理解できるものです。その唯一の作品が先生のものであったとしても、それだけでは部誌の内容として魅力が出てきません。八戸さんは続けます。
「この文芸部は、そんなに文芸してないんだなって思われても仕方がないよ。今なら間に合うから、新井も中津も、冬部誌出そう」
 わたしも困りましたが、新井くんも葛藤に満ちた表情で話を聞いていました。モチベーションが落ちていても、やはり根は生真面目なのでしょう。「こうするべき」という論調には弱そうです。
「すみませんが、わたしは明日までに作品を用意できないので、今回は出せません。ただ、もう一度一年目のメンバーに、この話を伝えます」
 ひとまず、和泉さんにメッセージを送りました。すると幸いなことに、間もなく『書いてなかったけど、詩は出すつもりだよ』と返信があったのです。わたしはそれを八戸さんに見せました。
「和泉さんは、出してくれるそうですよ」
「二人じゃ、まだ足りないよ。三人くらいはいないと」
 八戸さんは冷淡でしたが、三人という明確な数字を引き出すことができました。このまま、とりあえず今日は見逃してもらえるよう、交渉に持ち込むつもりでしたが……。
「わかりました。私も出します」
「新井くん、無理に出そうとしなくても、わたしたちは大丈夫ですよ」
「いや。作品はあるし、他に出せる人もおらん」
 先に、新井くんが名乗り出ました。今回はいつかの編集決めと違って、誰かが困るというわけでもありません。単にプレッシャーに負けたのか、あるいは本当に一年目の将来を憂慮したのか、どちらにせよ、わたしは少し心が痛みます。
「じゃあ、頑張ってください」
 八戸さんは腕時計を見ると、当然のようにそう言い残して去っていきました。
「……新井くん、本当に良かったんですか?」
「俺が出すことで、他の一年目にも刺激になったらいいな」
 わたしの見立てですが、この部には現状、新井くんの期待するような連帯感はありません。誰が部誌に作品を出しても、それを応援するとか、一緒に質を高めていくとか、そんな空気がいつもあるわけではありません。自然な流れに身を任せるだけなら、二回の合評もただ取り留めなく終わってしまいます。
「作品が上がったら、読みますからね。出すと決めたなら、頑張りましょう」
「問題は編集だな、飯綱さんのようになったとき、誰が付いてくれるか……」
「大抵の作品は大丈夫ですよ」
 特に責任があるわけでもありませんが、我ながら薄っぺらい励まししかできなかったものだと思います。部誌に対して新井くんが感じていたらしい不安を、わたしは少しも感じ取っていませんでした。

 初稿締め切りが過ぎ、新井くんの作品は無事に提出されました。もちろん先生の作品もです。わたしは約束通りに新井くんの作品を読みましたが、それ以上に何かをする、例えば編集につくなどは考えていませんでした。先生の編集につくことは、それが膠着を意味していたとしても、もはや決まりきったことでした。
 しかしその矢先に、高本さんからメールで重要な連絡があったのです。
『前回の部誌の反省において、部誌の編集を同じ学年の親しい者同士で行うことで、上年目からの技術継承が滞っているというご指摘を頂きました。今回の編集決めではこれを踏まえ、なるべく同じ学年の者同士で固まらないよう要請いたします』
 この連絡が編集長の大藤さんではなく、高本さんからなされたことが不思議だったので、とりあえずわたしは大藤さんに確認を取りました。回答は次のような感じです。
『二年目の中で、そういう話になったのは本当です。僕は部会でやんわりと言うつもりだったけれど、高本が先に言っちゃったんだよ』
 確かに技術継承は部誌だけの問題ではありませんが、今回の高本さんは先走っている印象を受けました。しかしともかくも、わたしは先生の編集につきにくい状況になったということです。
 月曜日に、早速二人で対応を考えることにしました。
「まあでも……先生と先生の作品なら、誰が編集についても、悪いようにはならないと思いますが」
「悪いようにならないだけなら、わたしの意思でできるだろう。だが、問題は良いようになるか否かなのではないか?」
「はい。それは承知しています」
 実際、わたしには自分が一番先生の作品を理解していて、上手に編集ができるという自信があります。しかしそれだけを主張して先生の編集につくことは、今や横暴の域に入ります。
 一年誌のとき、わたしは誰をも寄せ付けない態度で先生の編集につきました。あのときも実は、新井くんが先生の編集を希望していたのです。結果的に先生が望んでいなかったとはいえ、振り返ればフェアな振る舞いではありませんでした。
「ただ、わたしは最近、考えるんです。このままずっと当然のように先生の編集につき続けることが、果たして先生のためになるのだろうかと」
「それはわたしが選ぶことだ。あの要請にしても、背景には作品の質を高めるという目的があるのだろう。だが、本来は要請などなくとも、作品の質を高めるための選択は徹頭徹尾、作者の責任においてするべきではないか? 編集を変えるも変えないも」
 教養等の静かなリフレッシュスペースに、珍しく感情を露わにした先生の声が響きます。いつもならわたしはこの声に目を覚まし、先生に寄り添う決断ができたかもしれません。しかし今は、その当たり前だった選択肢がひどく頼りなく思えるのです。
「確かに、先生にそれができないとは思いません。でもこの部にはもっと、先生にも大切なことを学ばせてくれるはずの上年目の方がいるんです。わたしばかりが編集をしていては、そうした経験の機会も奪ってしまうのではないかと」
「……だから、わたしの編集ができないと?」
 先生は語気を弱め、声を震わせながら確かめました。わたしが頷いても、納得できないというふうに続けました。
「そんな論理があるものか。編集が誰でも良いと思っているのか。満足に編集のできる上年目が、どれほどいるかもわからないのに」
 わたしも実際、先生との約束を反故にするようなことは初めてです。これほどに怒った先生を見るのも初めてです。もはや「経験」などという綺麗な言葉には収まらない、泥濘の道に踏み入れてしまったように感じました。
「わたしだって、そう思っていないわけないですよ。でも……思うんです。わたしと先生は、あまりに同じ考えを持ちすぎる。これまでは、それで上手く噛み合って成功してきました。でも、この間のマスカレードのように、どうしても超えられなさそうな限界が見えたとき、そこで止まってしまうんですよ」
「わたしたちは、それでも地道に力を伸ばしてきただろう。去年の大会も、わたしたちの力で、その前よりも高みを見ることができた。それはもとより時間のかかることだ。安定を求めて何が悪い。安定の上にこそ確実な成長がある。寄せ集めの付け焼刃になど頼るつもりはない」
 長い議論……というか、平行線の言い争いが続きました。先生の芯は強すぎて曲がらず、なまじわたしも先生の考えが理解できるだけに、それを否定するように強く出ることができず。ただ、話しているうちに明らかになったことがあります。わたしは自分の能力や成長性に限界を感じていて、思いのほかそれで自信を失っていたということです。先生の言葉がどれだけ響いても、自信を取り戻すには至りませんでした。
 結局、先生が授業の時間になり、喧嘩別れのようになってしまいました。わたしは初めての心細さに、誰かの優しさを求めてボックスに向かいます。そこに和泉さんがいてくれたことを、そのときばかりは神に感謝しました。
「和泉さん、わたし……どうすれば良いのか……」
「ど、どうしたフミ」
 現れるなり突然正面から飛びつくわたしを、和泉さんは戸惑いつつも受け止めてくれました。ボックスの当番だったそうですが、一緒にいた大藤さんや黒沢さんに場を預けて、わたしを食堂一階の静かなところへ連れて行ってくれました。
「で……何があったの?」
「先生と、喧嘩してしまったんです」
「アキと? またどうして」
 とりあえず、わたしは状況を端的にまとめました。自分の編集に限界を感じていること。先生には上年目の編集を付けたほうが良いと思ったこと。先生がそれを拒んで、わたしの編集を望むあまりに言い争いになったこと。和泉さんはそれを、やや困惑した表情で聞いていました。
「相変わらずフミもアキも、難しいこと考えるよね。高本さんのメールなんてあたしまだ読んでないよ。別に編集なんて楽しく話せればいいじゃん。合評もあるし、一人で全部決めるわけじゃないんだからさ。結果的に作品の質を左右するかもしれないけど、アキなんて元から書けるんだから、大して変わらないでしょ」
 想像はしていましたが、気持ち良く一刀両断してくれます。
「まあでも高本さんのことだから、仲の良い同士でやると、ずぶずぶになって編集が甘くなるとか思ったんでしょ。例えば新井が朝倉ちゃんの編集したら、絶対甘くしそうじゃん。でもフミはそうじゃないでしょ?」
「もちろんです。わたしはいつも、先生が最高のパフォーマンスをして、最高の作品を書いてくださることを願っていますし、そのために妥協はしません」
「でも、やっぱりフミは今のままじゃアキのためにならないと思ったわけだ。じゃあもう、今回は互いに気分を変えるとかでさ、軽い気持ちでバラバラになればいいじゃん。部誌なんて何回もあるんだし、そんな今生の別れみたいに喧嘩しちゃってさ。お前ら夫婦なん?」
「いえ……」
 そこでわたしはもう一つの気付きを得ました。先生がわたしに依存するのと同じくらい、わたしも先生への依存があったということです。そうでなければ、わたしはもっとあっさりと快く先生を他の人に任せられたはずなのです。
 その夜、わたしは先生とビデオ通話をしました。画面に映った先生は、暖かそうな部屋着姿でリラックスした様子でした。
「先生。すみませんでした。でもやっぱりわたしは今、先生の編集としてやっていく自信を、少し失くしてしまっているんです」
 わたしが謝って頭を下げると、先生は穏やかな表情を変えずに頷きました。
「……まあ、わたしも悪かった。意固地になりすぎたな。大丈夫なのか?」
「ですから、その……今回は気分を変えて、他の方の編集についてみたいんです。先生の前でははっきりと言えませんでしたが、今回、お暇を頂きたいんです」
「わかったよ。まあ、たまには気分を変えたいこともあるだろう。ふふ、しかしわたしは今回、ついに反抗期が来たのかと思ったよ」
「それでも心はずっと、先生のためになることを願っているんですよ」
 あっさりと仲直りに至りました。今回はわたしが心境をしっかりと伝えられなかっただけで、このくらいではわたしたちの結束が壊れたりはしません。
「でも……和泉さんに話したら、言われちゃいましたよ。『お前ら夫婦か』って。確かにわたしたちの結束は固いですが、もう少し柔軟になってもいいかもしれませんね」
「まあな」
「ですから、先生はもっと周囲とコミュニケーションを取ってください! だからわたしも、安心して他の人に先生を任せられないんです」
「わたしは大丈夫だ。今回はなんとかする」
 まだ少し心配ではありましたが、わたしたちは互いに新たな道を進むことができそうでした。

 初稿は十作品が提出され、編集決めの部会は前回よりも高い出席率になりました。それでも一年目は少なく、もはや当たり前のようにいる篠木くんを数えても、前期の人数には届きません。この新歓で、もう何人かの加入を目指すしかありません。
 それはさておき、部会は山根さんによる、部誌に関する注意事項を高本さんが独断で発信したことに関するお叱りから始まりました。高本さんの回答は次の通りです。
「今回は、部誌という場ではございますが、部の今後に関わる重大なことですので、部長として発信させて頂きました。編集長の大藤さんへの連絡を行わなかった件については、大変失礼いたしました。この注意事項は、強制的なものではありませんが、しかし今後のため、なるべく皆様に意識して頂きたいことであります」
 相変わらずの図太さでした。すっかりペースを乱されてしまったわたしなどは、個人的にもう少し苦情を言いたい気もしますが、最初なので今回はやめておきます。
 こうして始まった編集決めでしたが、先生の編集は真っ先に決まりました。是非ともやりたいと名乗り出てくださったのは明石さんです。コミュニケーションの面では、良好な組み合わせだと思います。先生もすんなりと受け入れました。
 樋田さんが八戸さんの短歌に付くなど、運営を退いた三年目もまだまだ現役と言わんばかりの積極性を発揮し、編集はどんどん埋まっていきます。
 しかし、その第一次マッチングと呼ぶべき波に、新井くんは乗ることができませんでした。彼が提出した『彼の世は幻想の園』は、恐らく、女の子同士の友情を描いた冒険ファンタジーです。読んだわたしが曖昧な表現をしているのは、様々な要素が絡み合っていて、テーマ性を一本に絞りがたいためなのです。進めるべき方向性が見えにくく、今回の作品の中ではかなり編集の難しい部類だと思います。
 タイトルに「彼の世」とあるように、主な舞台が死後の世界です。先に事故で亡くなってしまった親友を追うように、主人公は生きながらそこへ迷い込んでしまいます。そこでの「願えば何でも叶う暮らし」に呑み込まれそうになりながらも、親友と再会し、元の世界に戻る方法を探して町を巡り、最後には世界の真実に触れる……というような話です。
 あらすじにまとめるとこのくらいですが、四万文字ほどもあるやや長い作品です。他にもこの作品の悩ましい部分はいくつかありますが、「なんとなく新井くんの編集は大変そう」という雰囲気が上年目の中にもあるのだと思います。本人は気にしていませんでしたが、一年誌のときのそういう振る舞いを、人は見ているものです。
 何より、彼は懲りずに女性の編集を希望していました。作品の内容もそこまで女性的な視点が必須というわけでもなさそうですし、それ以外の意図が見え隠れします。しかも、そのときには編集希望でフリーの女性は上年目にいませんでした。
 ほかに残っていた作者は高本さんと、三年目の上尾さんでした。二人は作品の質こそ良いものの、却って編集の難しそうな印象を与えているようです。
 わたしは自由に選ばせてもらえるならば上尾さんを希望しますが、前回の反省から、なるべく残った人の編集につこうと考えていました。しかし、なかなか動きを決められません。
「フミ、編集やらないの?」
 そこで既に大藤さんの編集についた和泉さんが、わたしをつついてきました。編集班員としては、なるべくスムーズに、円満にこの場を収めたいという気持ちもあります。
「やります、やりますよ」
「誰の?」
「それは……」
 なんだか、本当はやる気のない人のようになってしまいました。場は沈黙です。先生という唯一の選択肢を離れると、わたしはなかなか優柔不断になるということに気付きます。
「お疲れ様です。遅れました」
 その静寂を破って、教室後方の入口から、背の高い粗雑そうな男性が入ってきました。四年目の柿元さんです。
「まだ編集決めやってる?」
「はい、残り三人です」
 黒板と司会の大藤さんを交互に見ながら、柿元さんは窓際の机に腰掛けました。
「おっ、上尾行き遅れてるんじゃん。俺編集やるよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
 この間わずか三十秒ほどです。柿元さんは(他の文系の四年生もそうですが)前期は就職活動のためかあまり見かけませんでしたが、今は時間に余裕があるようです。今日は、経済学部のゼミで遅れたとのことでした。
 そしていよいよ、残りは高本さんと新井くんの二人になりました。そこで手を挙げたのは、意外にも篠木くんでした。
「大藤さん。編集って、どんなことをするんですか」
「編集は、作者と打ち合わせをして原稿を作ったり、合評の場所を確保したり、合評の進行をしたりっていうのが仕事です」
「じゃあ僕、高本さんの編集、やってみてもいいですか」
「高本、どう?」
「はい。私も編集のことは教えますので、是非ともお願いいたします」
 歓声が上がりました。入部したてでガイダンスもしていない篠木くんでしたが、もはや英雄のように歓迎されています。部長の高本さんに付いたという部分もわたしたちを安心させました。
 こうして案の定、新井くんは最後の一人になりました。例によって時間はギリギリです。ここに来てもなお、「誰でも良いのでお願いします」という姿勢を見せないのも新井くんです。仮にそうしても、今更のことではありますが。
 しかしながら、わたしもここまで結局、誰につくかを決めきれずに来てしまったのです。これはもう、新井くんの編集につくしかありません。そしてその気になったなら、動きは早い方が良いのです。誰かのように、いたずらに場を停滞させたりはしません。
「新井くん。わたしがやりましょうか」
「中津さん……」
「同じ年目ですけど、決まらないよりは良いですよね」
 大藤さんも頷いてくれたので、決定です。いろいろありましたが、わたしは今回、新井くんと冬部誌に取り組むことになりました。

「……とまあ、大雑把ですけど、この作品にはこれだけの問題点があると思います」
 翌日の午後、ボックスで最初の打ち合わせをしました。当番の邪魔になるといけないので、隣の机に原稿を拡げます。実際は当番をしているボックスでも、星井さんが柿元さんに経済学を教わっていたりして、単に場所がないだけでしたが……。
「そうねえ。例えばここは、主人公の不安の表現なのよ。それで、次のこのちょっとした喧嘩につながるわけ。伝わらん?」
「言われればつながるかもしれませんが、その時点で説明不足と言わざるを得ません」
 新井くんにはとりあえず、展開のつながりや、台詞のおかしい部分など、最低限のことを伝えました。本当はもっと根本的な問題が潜んでいるように見えましたが、いきなり作品のコンセプトを切り崩すのは大変なので、とりあえずです。
「まあでも、さすがに中津さんは鋭いとこ突いてくるね。ただどうよ、これだけの問題を直したとして、この作品は面白くなると思う?」
「見違えるほどとは言いませんが、しないよりは良いです」
 ちなみにわたしはこの作品について「問題点はあるものの、悪くはない」と伝えました。ご機嫌取りです。これで新井くんもなかなか繊細そうなので、少しでも不安を与えれば、すぐ極端に動いてしまう予感がするのです。
 前回の作品を先生は「自己完結的な楽しみ」だと評しましたが、今回も同じように感じます。それは自分が楽しめることと、作品が面白いことが勝手にイコールになってしまうのです。現実は決してそうではありません。
「ところで新井くん。前回の作品は、実在の湖を舞台に書きたいというところから始まったそうですが、今回は当然、そういう感じではありませんよね」
「ああ。この作品の始まりは夢でさ、海の向こうに会いたい人がいるとか、辺鄙な温泉で再会を果たすとか……そういうイメージに、死後の世界の設定をかぶせて、できていった作品なんだ」
「温泉で……ですか」
 作品の中盤、主人公が親友と再会するシーンが、まさに寂れた露天風呂なのです。親友は、自分が「会ってお別れを言いたい」という願いを持ってしまったために主人公をその世界に呼び寄せてしまったかもしれないと、後ろめたさを感じて隠れていたと説明されていますが、そこが露天風呂なのは新井くんの趣味だと思います。
「実はこの作品、最初高校一年のときに書いたんだよな。話したかもしれないけど、当時引っ越して離れた女の子を思ってさ。でも、男女の恋愛は別に書きたくもないから、女の子同士にしたってわけ」
「心理学的には昇華と呼ぶ、でしたっけ?」
「そうそう」
 何とも都合の良い言い草です。しかし、編集の方向性を決めるうえで使える情報が出てきました。少し掘り下げてみます。
「まあつまり、新井くんはこの主人公二人の友情、特に美しい再会を書きたくて、この作品を書き始めたんですね?」
「そうだな。でもそれだけだとストーリーも何もないし、せっかくだからこういうファンタジーにしてみようって思ったわけよ。主人公が親友と離れて、絶望で自殺しそうになるっていうのはキルケゴールね」
「死に至る病……ですか」
「ただ、死に至る病っていうのは神への帰依で実存を確保するっていう流れだから、この世界は神を中心に成立している」
 作品の終盤には世界を意のままにする神様が登場するのですが、この神は主人公の親友の願いを受けて、絶望で死に至ろうとしていた主人公を救うために、生きながらその世界に呼び寄せたと語ります。そして「彼」を中心とした、信仰に依れば大抵のことが叶う世界で、主人公を救済しようとしたという設定です。従ってタイトルの「彼の世」は、「あのよ」であり「かれのよ」でもあるそうです。
「でも、この世界はあくまでも死後の世界なんですよね? 黄泉戸喫みたいな描写もありますし、この神も、現世は一切皆苦みたいなことを語っていますし……やや世界観というか、背景の思想が散らかっているのでは?」
「そこは大した問題ではなかろ。黄泉戸喫はこの世界だと厳密ではなくて、ただ、最初に何か食べた瞬間、神の干渉を受け始めてその気にさせられるっていう感じ。そこからは不自由しないし、本来反抗して現世に帰ろうという気は起こしにくいんだよな」
「はあ。でもそこで、主人公の他にも現世に帰る、つまり転生しようとしている女の子がいると」
「そうそう。まあいろんな立場の人がいたほうが、世界観に深みも出るし、あと、この子は主人公たちに最後の場所への手掛かりを与える点で重要だよ」
 主人公と親友の友情を書きたいと言った割には、とても回りくどく世界設定を作り込んでいます。その世界設定から友情以外のテーマ性がにじみ出て、展開が迂遠になって、しかし見せ場が増えるわけでもなく、ひたすら長く単調な物語になってしまっています。
「なるほど……確認しますけど、新井くんは二人の友情を書くために、この作品を書き終えたんですよね?」
「そう表現すると、少し違うかもしれんな。書き終えるときにはもう、この完成した作品世界を書きたかったって感じ」
 はっきりしました。この作品は原初の思い付きから完成に至るまでの過程全てを無秩序に詰め込んで、その過程を美化するべく書かれた作品です。新井くんは、この量だけはある作品をまとめ上げたことによる満足感と作品の面白さを同一視する錯覚にとらわれているのです。
「……ぶれているって、言われません?」
「別に。まあでもとりあえず、指摘貰ったところ取り入れて、一次合評に臨む感じでええの?」
「間に合わなくても大変なので、そのくらいにとどめておきましょう」
「わかった。ありがとうな」
 合評の日程は決まっていませんが、いずれにせよ合評稿の締め切りまで一週間もありません。わたしはもはや不安しかありませんが、本当のことは一次合評で話すことにしようと決めました。それは正直、新井くんにとってあまり幸福なことではないと思います。

 さて、合評の日程が木曜日に決まり、その三日前である月曜日に合評稿は無事に提出されました。これで合評までは仮初の平和です。そこにちょうど、新歓の説明会がありました。いつもの一年目メンバーは、先生も新井くんも篠木くんも含めて勢揃いです。先生は特に面倒くさがっていましたが、何も役割を持っていない身でさぼらせるわけにはいきません。
 しかし来たからと言って、説明が終わった後の交流タイムにも隅のほうの席で本を読んでいたのでは意味がありません。
「先生! 何をしているんですか、来てくださった方と絡むんですよ」
「わたしはこうして、目を引くような本を持って、声を掛けられるのを待っている」
「そんな新歓がありますか!」
 先生が持っていたのは、『鼻行類』という奇妙な生き物の生態について書いた本でした。それが目を引くような本なのかは、わたしにはわかりません。どちらでも関係ありません。
「そんなことより、あそこに座っているのは小野寺ではないか?」
 すると先生は、これまた隅の席でかじりつくように夏部誌を読んでいる女性に目を向けました。小野寺さんというのは、高校時代の先生のクラスメートです。名前を憶えているとは意外です。わたしの記憶には、その少し乱れた長髪が重なります。
「確かに、わたしは話したことはありませんが、なんとなく記憶にあります。声を掛けてみては?」
「……そうだな」
 クラスメートならできると思ったのか、先生は素直に立ち上がりました。小野寺さんはわたしたちが近づいても、真剣に部誌を読んでいました。どの作品かはわかりませんが、口元が綻んでいるのを見ると、楽しく読んでくれているようです。
「久しぶり、だな」
「あっ、浦川さん。それから……」
「中津です。先生と同じ文芸部でしたよ」
 それにしても、小野寺さんが文芸に興味を持っていたとは知りませんでした。わたしは部を立ち上げるときに、無差別聞き取り調査で文芸に興味を持っている人を隈なく探したのですが、それでも見つからなかったということです。
「小野寺、望海さんでしたっけ。文芸に興味があったんですか?」
「……去年くらいから。詩とか、小説とか、ちょっと書いてて」
 小野寺さんは少し恥ずかしそうに答えます。確かに去年なら、新しく部活動を始めるには遅い時期です。彼女も先生と同じく理系で、今は理学部だそうです。篠木くんと同じく前期が忙しかったのと、あの騒々しい新歓期が苦手だったので、今になって見学に来たとのことでした。
「こちらはどんな感じです?」
 あるとき、新井くんが割り込んできました。この人はさっきから、女性にばかり声を掛けて回っています。
「理系一年の新井竣と言います。どうぞよろしく。えっと……」
「理学部の、小野寺望海です」
「小野寺さん。ちなみにご出身は?」
「札幌です」
 いきなり出身から入るところも、あまり文芸的ではありません。
「それはそれは。実は私も札幌出身でしてね」
「新井くん。ここはわたしたちに任せて。ほら、あちらの方とか空いてますよ」
「そうか。じゃあとりあえず、文芸部をよろしく!」
 フランクに親指を立てて見せた新井くんが次に向かったのは、朝倉さんのところでした。もはや新歓であることなどどうでも良いのかもしれません。わたしは小野寺さんに話を戻します。
「まあ、文芸部にはたくさんの人がいますけど、楽しいですよ」
「二人は、どんなことしてるの?」
「わたしは編集で、先生が小説を書いていますね。それで作品を作り上げて、そんな感じの部誌にするんです」
「そっか。他にすることはある?」
「合宿とか、部内のコンペとか、企画はいろいろありますね。メインは部誌ですけど、それ以外にも活動はできますよ。先生はこの間のコンペで、部内四位を獲ったのです」
「そうなんだ。ただ書くだけじゃないのは、面白そうだね」
 わたしと小野寺さんはその後の食事会でも、部のことや高校のことなどで盛り上がりました。先生は同席していながらほとんど喋りませんでしたが、小野寺さんのことは気にしていたようです。
 わたしたちの高校は半分が東京へ進学するので、この大学ではあまり知り合いに出会いません。小野寺さんは高校では違う部活でしたが、わたしたちの部誌はいつも読んでくれていたとのことです。そして、この文芸部に入ると言ってくれました。こんな人が身近にいたのに気付かなかったとは、わたしもまだまだだと思います。
 去る人がいれば、来る人もいる。すっかり姿を見なくなった飯綱さんも、八戸さんに言わせれば「あいつはミーハーだからな」と当然のような反応でしたが、わたしはショックだったのです。他にもまだあまり関わらないうちに、縁のない人になってしまった同期が何人もいます。しかしそんな隙間を埋めるように、頼もしい二人が入ってくれました。収支を考えるともう少し入ってほしいところですが、ともかくもこの二人とは、末永い付き合いになることを願ってやみません。

 数日のうちに気温がぐっと下がり、その夜は冷たい風が吹いていました。合評前に会った新井くんは、二枚のチケットを自慢げに見せてきます。
「今週末、香奈実ちゃんの誕生日なんだよな。二人で交響楽団の演奏会に行くことにしたのよ」
「この合評を無事に終えられたら、朝倉さんとデートに行くんだ……と?」
「そう、死亡フラグみたいな言い方をするもんやないで」
 ここまで来て、見習いたいほどの能天気さです。わたしにはこの合評がどれほど荒れるのか、見当もついていません。
 いつもの図書館の個室に集まった参加者は、大藤さんに和泉さん、小宮さんに武藤さんでした。合評の始まる前、新井くんが飲み物を買いに部屋を出ると、和泉さんが声を掛けてきます。
「フミ、ちょっと今回の作品……アレじゃない?」
 言葉は濁されていましたが、カラフルな糸が絡まったように書き込みのされた原稿を見ると、わたしでも少し恐ろしくなります。自分でも新井くんに対してこのくらいの書き込みをしたわけですが、それが普通かもしれないと思わされるのはやはり違う感覚です。
「大藤さんも、ですか」
「……まあね、言いたいことは、結構あるかな」
 大藤さんはノートパソコンを持参していましたが、画面を見せてもらうと原稿のファイルに百を超える数のコメントが入っていました。相当な時間が掛かったことでしょう。
「こんなに……ありがとうございます」
「フミ、先に謝っておくけど、あたしはこの作品最後まで読めなかったよ。もう無理。好き勝手言うけど、上手いことやってね」
「はい。頑張ります。初稿を読んだときから、覚悟はしていました」
 やがて新井くんが戻り、合評開始の時刻になりました。部屋の予約は閉館まで一杯に取ってあります。わたしはそれでも足りないかもしれないと予感しました。
「それでは、時間になりましたので、新井くん……新村千草さんの作品、『彼の世は幻想の園』の合評を始めます。よろしくお願いします」
 その瞬間から漂い始めた重い緊張感に、新井くんは気付いていたかわかりません。最初は参加者全員から雑感を聞きます。わたしは敢えて武藤さんから順番を回しました。
「えっと……文章は読みやすくて、上手いと思いました。ただ、中身はファンタジーとか、冒険とか、友情とか、生きる意味みたいなテーマはいくつかありそうだったんですけど、どれもなんだか、中途半端な気がしました」
 新井くんが小さく唸ります。それでもまだ優しい感想かもしれません。次は小宮さんです。
「はい。新井くんは、こういう女の子がメインの話が好きなんだろうな、とは思うんですけど、その割には、心理描写が薄かったり、前後のつながりが悪かったり、盛り上がりがなかったり、あんまりこだわりが見えませんでした。逆にファンタジー要素も、浮いてる感じがして、削ってもいいかなって思いました」
 武藤さんとアプローチは違いますが、指摘している問題点はほぼ同じです。それを一言で表してくれたのは大藤さんです。
「まずね、僕はこれを読んでも、何がやりたかったのかわかりませんでした」
 原稿に感想をメモしていた新井くんの手が止まりました。大藤さんは続けます。
「ファンタジーを書いたとは言うけれど、設定も活かしきれていないし、特に目新しい設定でもないし、そのために文章を使うなら、もっと主人公たちの心の動きのほうにフォーカスしたほうがいいと思います。いずれにしても、まず書きたいものをもっと絞るべきだと思いました」
 新井くんは早くも不満げですが、他人の感想を覆すことはできません。最後は和泉さんです。
「だいたいみんな言ってくれたことと同じなんですけど、何より長くて、展開もしているように見えるけど伝わってこなくて、最後まで読み切るのが大変でした。雑感は以上です」
 結局、褒めるような言葉は武藤さんからしか出ませんでした。わたしは予想していましたが、厳しい感想ばかりです。
 それにしても、新井くんはこうした感想を投げかけられることに対して、全く身に覚えがないという態度です。ある意味ここからの改善についても、思考はほとんど止まってしまっているのでしょう。そんな状況で意見ばかりを言っても、今度は新井くんの意思が何一つ反映されない合評になってしまいます。司会のわたしが手を打たなければなりません。
「皆さんありがとうございました。今回、作品の意図があまり伝わらなかったということで、まずは新井くんから、こういう作品が書きたかったということについて説明してもらいましょう」
「はい。私が書きたかったのは、この主人公が友情によって絶望を克服するという物語です。この世界は一見、現世で恵まれない結末を迎えた人々を救済する仕組みになっていますが、主人公を救済するのはこの世界でも神でもなく、親友の思いなのだというテーマです」
 今度はわたしが意表を突かれました。いつ考えたのか、言っていることがこの間と違います。しかし本人の中でなんとなく考えはまとまってきているようなので、このまま進めます。
「ええと……今は要素が多かったり、それぞれの出し方のバランスが悪かったりして、やりたかったことが伝わっていないということになるでしょう。ここに関して、皆さんからこれはいらないとか、ここを活かしたほうがいいとかありましたら、ご意見をお聞かせください」
 普段の合評ではもう少し自由な流れで進行するのですが、今回はそうすると参加者の不満が一気に押し寄せることになるので、極力話題を絞るように進行しています。
「じゃあ、はい」
「大藤さん、お願いします」
「まず、変にキルケゴールとか、いろんなもののパロディっぽく世界を作るのはやめたほうがいいと思います。そもそも友情というテーマと、生き死にのテーマを合わせるのはどうしても重すぎるので、それで中途半端になっているんだと思います。だからいっそファンタジーであることを捨てるか、ファンタジーにしても、死後の世界とか背景設定が前面に出るようなものは、避けた方がいいと思います」
 それでもこんなふうに、一刀両断されるのです。新井くんはさすがに不満を露わにしました。
「それを削ったら、この作品何が残るんですか」
「そこで友情が残るように書くんだよ!」
 場がどよめき、和泉さんがたまらず口を挟みました。これもまた難しいところで、客観的には不要なものでも、既に作者の中には既得権益のごとく居座っているのです。当然それは作品のバランスを崩すのですが、作者の認識ではもはや作品世界に癒着していて、引き剥がせないのです。上手くメスを入れる必要があります。
「まあともかくも……新井くんとしては、友情がテーマだとしても、再会という点に動機があるそうですし、冒険物語として軸を通したいのではないですか?」
「そうやね」
「現実に土台があるから、冒険の成立しそうなファンタジー世界にシフトするために、わざわざ絶望などという手続きを踏む必要が生まれるのです。ならば最初から、冒険に溢れたファンタジー世界を描けばよいではないですか。大藤さん、それならいかがでしょう?」
「それでやっと、普通かなって思う」
「でもさ、何にしてももう、この作品をこの作品としてやってくのは無理っぽいよね」
「そうですね……とりあえず、ありがとうございます」
 あまり二人にばかり意見を聞いてもいけないので、武藤さんにも話を聞いてみることにします。
「武藤さんは、作品全体を通して中途半端な印象を受けたとのことでしたが、友情がメインだと聞いて、どう思いましたか?」
「そっちだったのか、と。そもそも主人公って、漠然と親友の後を追うことは考えてても、親友に何としても会いたいっていう感じはしないんですよね。だから変な世界に迷い込んでも、その世界のことばっかり気になって、なりふり構わず親友を探そうっていう感じが全然しなかったので、基本は元の世界に戻ることで、親友には会えたらラッキーかな、くらいだと思って」
 新井くんはもはや、最低限のメモだけをして、一言も発することはありませんでした。本人にとっては非常に心外な感想かもしれませんが、妥当なところでしょう。次は小宮さんです。
「小宮さんは、盛り上がりが少ない、女の子の描写にこだわりがないといったことを挙げていましたが、もう少し詳しく聞かせてもらえますか?」
「はい。武藤ちゃんも言ってくれたけど、主人公にまず一貫性がないというか、意思が弱いというのが気になりました。とりあえず動いて、誰かに助けてもらって、なんとなく目的に近づいて、ずっとその繰り返しなんですよね。だから主人公の活躍っていうのも少なくて、冒険物語としても、盛り上がらないかなと思いました」
 さて、こうして詳しく聞いてみても、褒めるような表現は一つも出てきません。本来ここまで何もかもが失敗しているような作品というのも珍しいのですが、それにしても文章力だけでは戦えません。さすがに新井くんのモチベーションも不安なので、話の流れを変えてみます。
「ええと、ここまで皆さんに厳しいご指摘をたくさん頂いています。ありがとうございます。ただ、このままではわたしたちとしても光が見えないので、何でも良いです、この作品の中で光るもの、どれだけ改稿したとしても、残してほしいものがあれば教えてください。和泉さんから!」
「フミ、無茶振りだぞ! まあ……文章は読みやすいんじゃない? ところどころ変な表現あるけど、まだマシだよ」
 結果を言えばこの話は失敗でした。一巡しても特に重要な指摘はありません。ここまでしても、この作品ならではのものは見つからなかったのです。もはや八方塞がりでした。
 こうなると、もはや各ページを追って表現のあら捜しなどをしても意味がありません。わたしは合評を終えることにしました。
 参加者の皆さんが帰るまで、新井くんは片付けもせず、座ったまま黙り込んでいました。ここまで作品を酷評されたことはなかったのだと思います。
「中津さん……俺はどうすればいいのかねえ」
「少し、お話しましょうか?」
「ああ。フリータイムでも行くか」

 終わってみると、わたしの心にあった気力も空っぽでした。当然ながら、自分が担当する作品が酷評されたのも初めてなのです。合評中はどこか他人事のように思っていましたが、ここからはわたしの仕事です。
 新井くんはもどかしそうに原稿を見ては、何かを呟いていました。まさに四面楚歌のこの状況で、心を乱すのも無理はありません。
「新井くん。二次合評まで時間はあります。まずは落ち着いて、書きたいものを見極めましょう。この作品が全く違うものになったとしても、わたしは最後まで編集をしますから」
「だが……俺はどうすればいい。何一つ拾うところのないこの作品を、これからどう愛していけばいい」
「愛する……ですか。新井くんは本当に、自分の作品を大切に思っていますね」
 少し歪んだところもありますが、新井くんは自分の作品への思い入れという点では、かなり強いと思います。現にこの作品も、高校時代に書いたものを出してきたと話していました。
「それにしてもこの作品、高校生に書いたものをそのままというわけではないですよね?」
「ああ。大学に入ってから書き直したんだ。設定も展開も新しくして、だからある程度は自信があったんだがな」
 その作品愛のためか、作品の話をさせると少し、沈んでいた気分も晴れるようです。
「それは、一人で?」
「そりゃな。最初、俺は文芸部に入るつもりはなかったんだよ。大学なら、同じような趣味の人がいて、あわよくばアシスタントになってくれればと思ってさ。でもまあ、そんなこと個人の趣味でやるには限界もあるし、結局文芸部に入ったけどな」
「なるほど……」
 その「アシスタント」という表現は、下心を隠すためのものだったかもしれませんが……深くは追及しないことにします。
「俺は高校まで文芸をやっててさ、そろそろ、独立した書き手になりたいと思ってたんだよ。それはつまり……文芸部って、合評があったら質は良くなるかもしれないけど、結局俺なんかは、毎回合評でこんなふうにボロボロにされてさ。そうしたらもう、自分の力で書いたものって言えないわけよ。でも、合評に頼った姿勢でいた自覚があってさ。その頃の完成した作品は、今読んでもすごいんだ。勝てない。でも、なんとか一人で超えたくてさ」
 いつの間にか、新井くんは文芸への熱意を夢中で語っていました。強い作品愛の裏には、その強い熱意で書き上げたという自信や、プライドもあるのでしょう。
「その意欲は、まだ燃え尽きていませんか?」
「というか……ちょっと目が覚めたような気もする。『冬のダイヤモンド』とかあんな順位だったけど、高い点を付けてくれる人もいたし、これでいいかなって思ってしまった。本当はもっと頑張らないといけないのに」
「それでしたら、大丈夫ですよ。きっと書き直せます」
「そうだといいんだが……まあ、中津さんが味方でいてくれるなら、頑張れるかな」
「はい。一緒にまた、頑張っていきましょう」
 新井くんの目に、炎が見えました。わたしも気合を入れなおすときです。すっかり冷たくなった風に晒され、わたしたちの炎が消えないように。

七 水鏡

 峠を越えてこのかた、車窓は紅葉の枯れ始めた山々を背景に、すっかり収穫の終わった畑地を映していました。わたしたちは今、洞爺湖行のバスに揺られています。十一月の下旬、冬部誌も締め切りまで一週間というこの時期ですが、連休に温泉でも行こうと集まった有志により「秋合宿」が実現したのです。
 久しぶりの余暇でした。ちょうど昨日が二次合評の最終日で、わたしの担当する新井くんの番だったのです。あまり運が良かったと言うと新井くんには失礼ですが、合評は大きく紛糾することもなく、穏やかに終わりました。
 わたしの隣では新入部員の篠木くんが、文庫本に指を挟んだまま首を垂れています。本は辛うじて手に引っかかっていますが、今にも落ちそうです。
 夏合宿では少なかった一年目ですが、今回は逆に、アクティブなメンバーのほぼ全員が参加しています。その中には、同じく新入部員の小野寺さんもいました。来られなかったのは武藤さんと先生くらいです。先生は予定が会わないと話していましたが、同時に『温泉に行くだけなら、作品を仕上げている』と、あからさまな本音をこぼしたのでした。
 わたしの後ろの席では、新井くんと朝倉さんが寄り添って眠っています。新井くんにとっては、本当に久しぶりの安息なのでしょう。この二人の空間がまさに聖域なのだと思うようになったのは、前回の合評から間もない時期でした。

 自作を合評で酷評され、奮い立ったかに見えた新井くんでしたが、翌週からはボックスで姿を見なくなってしまいました。来てはいるものの、わたしや和泉さんなど一部の人を避けて行動している様子だと、星井さんが教えてくれたのです。
 それを聞いて、和泉さんは呆れました。
「何がしたいんだか。手抜きで書いたのがバレたからってさ、逃げてどうにかなるものでもないのに」
 確かに一次合評が和泉さんに不快感を与えたのは認めますが、それにしても辛辣な物言いです。わたしは少しだけ、新井くんのフォローに回ります。
「それでも、新井くんはやる気になってくれたみたいですし、大丈夫ですよ」
「フミはすごいな、よくあいつに付き合ってられるね。朝倉ちゃんもだけど……」
「朝倉さんも、最近少し見かけなくなりましたね?」
 星井さんも頷きます。朝倉さんはいくつか同じ授業を取っているのですが、ここ最近、次が空きコマのときも、いつの間にかいなくなってしまうのです。
「新井に会ってるんじゃないの?」
「そうだとしたら、朝倉さんも大変かもしれませんね」
「でも、新井くんが今度、短歌の企画をやろうって言って来てる」
 星井さんは思い出したように言いました。わたしは『多角化戦略』というワードを思い出します。
「新井くんは、短歌とか俳句をこの部で普及させたいみたいですよ」
「そうやって全部半端になりそうな辺り、やっぱり作品にも性格って出るよね」
「まあ……わからなくもないですが」
 新井くんにとっては不幸なことに、和泉さんは他の上年目にもお喋り感覚であの合評のことを話すので、少しずつ新井くんへのマイナスイメージが拡散してしまっています。悪意があるわけではないと思いますが、なんとなく換気をしたい気分になります。
「それで? フミも避けられてるって言うけど、締め切りには間に合いそうなの?」
「そこは編集として、間に合わせますよ」
 先生も締め切りには毎回ギリギリになるので、原稿の催促は慣れたものです。しかし現状、新井くんにはメッセージを送っても『今、次の構想を考えているので、もう少し待ってください』といった感じの返信しかありません。確かに必要な作業ではあるのですが、詳しく聞こうとしても、『まとまっていない』と来るのです。正直に言えば心配です。
 新井くんは部会に来ても同じような感じでした。隅の席に座って、朝倉さんや星井さん、篠木くんといった限られたメンバーとしか話をせず、アフターにも参加せず帰ってしまうのです。アフターに来れば朝倉さんとの時間を過ごせるにもかかわらずです。さすがに異変を感じたわたしは、朝倉さんに話を聞くことにしました。
「朝倉さん。もし良かったら、新井くんの様子、聞かせてもらえませんか」
「えっと……話せる範囲でなら」
 しっかりと口止めをしている辺りは、わたしでも呆れる狡猾さです。しかし、秘密があるという事実はそれだけで多くのことを物語ります。何かを話してくれそうな雰囲気はあるので、わたしはそれとなく近況を聞き出していくことにしました。
「この間、誕生日だったみたいですね。おめでとうございます」
「ありがとう」
「新井くんとの交響楽デートはいかがでしたか?」
「あっ……」
 朝倉さんは顔を赤らめます。早速何かを踏みました。二人だけのお楽しみがあったのかもしれませんが、とりあえずわたしは新井くんの様子だけ聞ければ良いのです。
「新井くんから聞いたんですよ。演奏がどんなものか、気になりまして」
「演奏はすごく本格的だったよ。でも、曲が難しくて、途中で眠くなっちゃった」
「新井くんはそういう曲、わかるんですか?」
「新井くんもよく知らなかったみたい。最初の『シェヘラザード』くらいかな」
 これではどうして新井くんが交響楽の演奏会に行ったのかわかりませんが、もはや二人ならどこでも良かったのだということにしておきます。
「それにしても……聞いているかもしれませんが、新井くんはこの間の合評で作品を酷評されて、今少し不安定なのだと思います。わたしともあまり話してくれませんし、心配です」
「そうだね。私もそのときに聞いたんだけど……そんなに荒れちゃったの?」
「荒れたのは事実なんですけど、わたしはその後、一緒に頑張ろうと話したんです。でも、未だに報告の一つもない……」
「それは……」
 朝倉さんは俯きます。核心に触れるようなことは、なかなか話してくれません。無理に打ち明けさせれば、優しい朝倉さんをわたしが悪者にしてしまいます。アプローチを変えてみることにしました。
「では、良かったら新井くんに伝言をお願いできますか?」
「それならいいよ。部誌のこと?」
「はい。それもありますけど……わたしは新井くんのことを信じていますし、大切な一年目の仲間だと思っていますと、伝えてあげてください。お願いします」
「うん。わかったよ」
 朝倉さんも、単に恋仲であるだけでなく、この部の仲間としての新井くんを心配しているはずでした。実際わたしには、その言葉が届いてくれることを願うしかなかったのです。

 本の落ちる音で、わたしは回想から引き戻されました。篠木くんの手から、ついに文庫本がすべり落ちたのです。篠木くんは驚いて目を覚まし、文庫本を拾いました。
「大丈夫ですか?」
「うん。読みながら寝てしまったんだ。今どの辺りかな?」
「今さっき、洞爺湖町に入ったところですよ。もうすぐ湖も見えてくると思うんですけどね」
 バスはさっきまでの田園風景とは一転、林間の蛇行した道路を進んでいます。時間で言えば、三十分ほどで着くようです。
「じゃあ、起きていようかな」
 篠木くんは再び文庫本を開きます。読んでいるのは、映画にもなった堀辰雄の『風立ちぬ』でした。近現代の文学では、割と好きな作品なのだとか。
「ところで中津さんは、読書会参加してくれる?」
「はい。読んできましたよ」
 言われてわたしは、印刷してきた一編の小説を取り出しました。北條民雄の『いのちの初夜』です。今夜の読書会は、これを合評のように読み解いていく企画だと聞いています。発案者は瀬田さんと高本さんなのですが、篠木くんも一緒に企画の内容を考えたとのことでした。
「篠木くんはとても積極的ですね。わたしも見習わなければ」
「何もそんな。僕はたまたま、面白そうな話に乗っただけだよ。この部の人たちが、それぞれどんな風に作品を読むのか興味があったから」
「わたしも面白い企画だと思いますよ」
 このような企画が発案された背景には、高本さんの危惧する「作品の質の低下」もあるようですが……今は触れずにおきましょう。
「浦川さん、来られなかったの残念だなあ。文学も詳しそうだし、話したかったのに」
「先生は、温泉旅行にあまり興味がないみたいで」
「あっ、そうだ。気になってたんだけど、師匠が新井くんで、先生が浦川さんなんだね?」
「そのように並べるのは、あまり適切ではないのですが……」
「そうなの?」
 先生のことをこう呼んでいるのはわたしだけです。「師匠」も最近はあまり聞かなくなりましたが、下野さんや樋田さんなど三年目以上の方がちらほらと呼んでいます。
「先生は、わたしが勝手に呼ばせてもらっているだけなので」
「あだ名はだいたい、そういうものだと思うけど……由来はあるの?」
「面白いものではないですよ。ただ、先生と先生の作品に、敬意を表しているだけです」
「そうなんだ。浦川さんの合評出たけど、確かに力のある作品を書くよね」
「はい。明石さんとも衝突なくやっているようで、わたしは安心です」
 前の合評の後で新井くんがしていた『独立した書き手』という表現を想起します。それを合評に頼らず、自分の作品の質を判断できる程度の書き手とするならば、先生は間違いなく当てはまるでしょう。
 わたしなりの表現をするなら、独立した書き手とは、文芸において書き手のなすべき仕事をわかっている人です。それは何より、作品の本質的な可能性を創出することです。人物や物語、あるいは背景設定といった要素のどこかに、その作品を書く必然性を感じさせるようなアイデアの結晶を埋め込むことです。先生はこれを毎回、自然にやってくれます。すると編集はその結晶を磨くだけなので、事はすんなりと運ぶのです。
「中津さんは、新井くんの編集だっけ。どんな感じ?」
「苦しい時期は越えましたよ。昨日が二次合評だったんですけど、新井くんも立ち直ってくれて、本当に良かったです」
「でも……作品、随分変わっちゃったよね。僕は前のも、ちゃんと書けば面白くなりそうだと思ったけど」
「まあ、それは作者の意向でしたので……」
 そうです。読書会の原稿と一緒に持ってきた新井くんの二次合評稿には、『Vacant Rally』というタイトルが記されています。あのファンタジーがそのままこのタイトルになったわけではありません。それには、一度はわたしも困惑したような経緯があるのです。

 朝倉さんに託した言葉が届いてくれたのか、間もなく新井くんはメールで原稿を送ってくれました。タイトルは直訳すると『空虚なラリー』です。ファイルのサイズも前より明らかに小さく、わたしは送る原稿を間違えたのではないかと思いました。しかしメールの本文には、次のように書かれていたのです。
『かのげんは死にました。探さないでください。この作品は、かのげんのスピンオフになります。書きたいものを絞ったら、こうするしかなかったのです。主人公とか、雰囲気はなるべく残しました。ともあれ読んでみてください。よろしくお願いします』
 以前の『彼の世は幻想の園』からいくつかの要素を抜き出して再構築し、別の作品を書いたということです。読んでみると、確かに主人公と親友が同じ名前で登場していて、バドミントンをしています。この二人は生前、バドミントン部でタッグを組んでいたという設定があったのでした。
 それにしても、全く別の作品です。異世界の冒険とか、神とかの要素は跡形もなく、ただ二人が体育館で延々とバドミントンをしているのです。しかし、その空間には何故か二人しかおらず、シャトルも一本しかないという異様な状況でした。
 十六枚あるシャトルの羽根が一本ずつ折れていくうちに、主人公と親友の力関係が、二人の経歴を再演するように変化していきます。最初は劣勢だった主人公も徐々に互角に戦えるようになり、最後にはシャトルの破損も味方して、主人公が勝利します。
 ここまでならまだ普通のスポーツものですが、体育倉庫に秘密が隠されていました。試合が終わった後、二人は互いを称えあいながら、万全な状態での次の試合を約束します。しかしその後、何故かその場で深い眠りに落ちてしまうのです。主人公が目を覚ますと親友はいなくなっており、代わりに体育館のステージの上に、親友のための献花台を見つけます。そして主人公自身は、地下の体育倉庫で首を吊っていたのでした。二人とも、もはや生きた人間ではなかったのです。
 主人公の遺体は、さっきまで試合で使っていたはずの、傷ついたシャトルを持っていました。真実を知った主人公は、裏切られたという思いから友情を転覆させ、シャトルの傷ついていない最後の羽根を自ら折ってしまいます。そこで物語は終わりです。
 長さが元の三分の一になっていたのもありますが、わたしは割にすんなりと読了しました。作品から余計なものがなくなり、ようやく普通に読み進められるレベルになっていたのです。叙述トリックを狙ったとみられる構成も明瞭で、死別を巡る二人の友情の形も描き切れています。わたしはすぐさま新井くんに返信を書きました。
『お疲れ様です! よく書いてくれました。作品が変わることに関しては、意見のある方もいるとは思いますが、わたしはこの作品で行くならば反対しません。二次合評に向けて、準備を進めていきましょう』
 それと同時に、大藤さんへの根回しもしました。新しい作品は合評を一回しか受けていないことになるので、編集班としては黒に近いグレーです。それにしても、今回は元の作品のままで部誌に載せられるような質を確保できる状況でなかったと認めてもらいました。これもある意味わたしの立場の濫用なので、文芸部として黒に近いグレーだと思います。しかしそれらを避けて行きつくのは、取り下げか、締め切りに間に合わないかのどちらかでした。編集班員としても部員としても、わたしたちはもうそれらの禁忌には触れたくないのです。
 それからもう少しの修正を経て、新井くんは無事に二次合評を迎えました。参加者の中には歴代部長の下野さんや高本さんもいましたが、作品が大きく変わったことに関してはあまり問題視はされず、穏やかな合評を終えたのです。
 実は今回、一次合評が荒れたのは新井くんだけではありませんでした。高本さんや上尾さんについても大幅な加筆を求められるような結果となり、全体としてページ数が増えてきていたのです。編集班としては、予算や紙の注文などの計画が狂うので大迷惑です。これで新井くんの作品のページ数が増えていたら、本当に許してもらえなかったでしょう。

 小学校の修学旅行は、この洞爺湖に泊まりました。そのときを思い出すような大部屋の和室に案内され、わたしたちの秋合宿が始まります。とは言っても、読書会が夕食後に予定されているだけで、他には自由時間以外の予定がありませんでした。
 大きなホテルや温泉街の観光に出る人、部屋でゲームの準備を始める人など様々でしたが、わたしたち一年目女性陣は和泉さんについて行く形で、温泉に入ることにしました。
 洗い場を出てから、わたしは一人でぬるめのジャグジーに浸かっていましたが、あるとき隣に星井さんが来ました。
「和泉、知らない?」
「わたしは見ていませんが……」
「サウナに入るって言ったんだけど、いないの。もう上がったのかな」
「はて……」
 ここ最近、星井さんは和泉さんとよく一緒にいます。仲は前から良いほうでしたが、今月に入った辺りからは、ボックスで見かけても二人だけで場所を移ってしまうなど、二人きりの状況が多くなりました。
「いいや。私も上がる」
 気が付けば、朝倉さんや小野寺さんの姿も見えません。いつの間にか長風呂していたことに気付くと、急に体が火照ります。星井さんが行ってしまったあと、わたしは涼を求めて露天風呂に出ました。
 白砂青松を模した庭園に臨む岩風呂です。わたしは最初、他に人はいないと思いました。岩に腰掛けて、上半身を思い切り外気に晒します。やや寒いですが、気分は一気にリフレッシュしました。思わず吐息が漏れます。
 そしてふと辺りを見渡すと、ひときわ大きな岩の陰で一人、隠れるように和泉さんがくつろいでいたのでした。見られてしまったかと思い一瞬焦りますが、向こうはわたしに気付いていません。わたしは静かに近寄ります。
「和泉さん、こんなところに」
「ああ……フミか。じゃあいいや」
 脱力した反応です。相当、普段の疲れが溜まっていたのでしょう。
「星井さんが探していましたよ」
「ほっといて。今は考えたくない」
 わたしも先生のことで和泉さんに相談しましたが、星井さんも何かの件で、継続的に和泉さんのお世話になっているようです。
「お疲れ様です」
「労うくらいなら、あんまり面倒事を増やさないでくれよ……」
 実際、冬部誌のことも和泉さんにはそれなりの負担になっていました。予定や想定の通りに行かないことが多く、そのたびに胃を痛めていたのです。こう見えて責任感の強い人です。
 しばらく二人で、庭園を眺めながら半身浴をしていました。わたしには掛ける言葉がありません。編集班の細かな仕事も和泉さんが積極的に受けてくれることに甘えて、新井くんの編集をも言い訳にして、わたしはあまりしていませんでした。
「なあフミ。部長と編集長、どっちになりたい?」
「部長と、編集長ですか」
 そんな中で投げかけられた質問です。高校時代はそれらを兼任していたわたしですが、この文芸部でそのどちらかを務めることを真剣には考えていませんでした。しかし確かに、和泉さんとわたしのどちらかが編集長になるのは確定です。部長も、他に候補がいるかと言えば悩ましいところです。
 まして上年目にも顔が広く、分け隔てなくコミュニケーションを取れる和泉さんには、ある種の期待や、重責が集まっているのも事実です。わたしが「部長になりたい」と言えば、それを少しは和らげることもできたかもしれません。しかし、それだけのためにつき通せる嘘を、わたしは用意できませんでした。
「やっぱり、編集長です。この部も編集に興味があって入ったので」
「相変わらず正直だね」
「でも、和泉さんもまだ、部長になることなんて考える時期ではないと思いますが」
「はあ……」
 和泉さんは大きなため息をつき、全身を湯船に沈めました。そして、一言だけ続けます。
「誰ができるのさ、こんなんで」
 その言葉に籠った諦めの感情が、わたしの首筋を撫でます。和泉さん自身、一人で仕事を抱え込んで疲弊する中で、あまり一年目への信頼を持てなくなっているのでしょう。
 わたしはそろそろのぼせてしまいそうでした。そのまま和泉さんを置いて戻るのは少し心配でしたが、話もそこで途絶えてしまったので、そうするしかなかったのです。気の利いた言葉を掛けることができなかったのは、その後しばらく心残りでした。

 部屋に戻ると、まず何かの詩を吟じるような声に気付きました。続けて、畳を叩く音が響きます。声の主は星井さんでした。
「おや、百人一首ですか」
 大藤さんと篠木くんの試合です。ギャラリーは朝倉さんや小野寺さんをはじめ五人くらいいました。何故か全員が立ち見です。
「ゆらのとを……」
 確か、ゆくえも知らぬ恋の道かな。などと考えている場合ではなく、初句が読まれる頃には札が散っていました。ギャラリーの皆さんは、その飛んでくる札を避けるのが楽しいようです。
 盤面を見ると、まだ互いに多くの札を抱えています。先は長そうだったので、わたしは他の部屋も覗いてみることにしました。というのも、朝倉さんの近くにいるはずの新井くんがいないようなのです。
 部屋は和室の大部屋を二つ取っていました。かるた取りをしていた部屋は女性陣の寝室として取られた部屋で、もう一つと比べるとやや小さめです。そして、その真の大部屋と呼ぶべき部屋では、山根さんが何やらボードゲームのようなものを広げていました。
「お疲れ様です。それは?」
「TRPGだよ。知ってる?」
「聞いたことはあります」
 参加者それぞれが自分のキャラクターを演じ、自由な発想で展開を作り上げていくゲームです。こちらは下野さんや柿元さんなど、平均年齢の高いメンバー構成でした。
 その部屋の隅に、どの娯楽にも参加せずにいる新井くんを見つけます。ノートパソコンを開いていました。
「新井くんは遊ばないんですか?」
「夜は長いわけだし……今のうちにある程度仕上げておこうと思ってな」
 感心したことに、原稿の修正をしていたのです。それにしても、退屈そうな様子は隠しきれていません。独りで作業をしているというのも心配になります。
 そんな新井くんでしたが、秋合宿を楽しみにしていたのは間違いないと思います。実は昨日、メールドライブに「秋合宿記念ゲリラ投稿」と銘打たれた作品を投稿していたのです。
「ところで、昨日メールドライブに上げていたのは、どんな作品なんですか?」
「『さなみクロール』な。あれはこの洞爺湖を舞台にした作品で、水泳の苦手な女の子が、湖の化身の力を借りて頑張る話やで」
「『みなみハミング』に似ていますね?」
「それはまあ、湖シリーズだからな。あれが三作目で、こっちは二作目。高校のときに書いた作品なんよ。読む?」
「じゃあ、少しだけ……」
 わたしが少しでも興味を示すなり原稿を差し出してくるとは、新井くんもなかなかいやらしいところがあります。どれだけ自分のためだと言っても、やはり作品を読んでもらいたいという欲求があるのです。どこまでも素直でない人です。
 作品に関して言えば、洞爺湖の化身の女の子はいたずら好きでボーイッシュな性格で、全般的に静かでシリアスだった『みなみハミング』とは対照的な雰囲気になっていました。
「化身の女の子の設定って、やっぱり湖のイメージから決めるんですか?」
「ああ。洞爺湖って、こんなふうに観光地化されてて、かなり人が集まるやんか。そんな場所だから、人懐っこくて、楽しい感じかなって」
「なるほど」
「それで、その作中に出てくる浮見堂公園っていうのがちょうど湖の向かい側に実在しててさ。いつか行ってみたいんよ」
「行ったことないんですか?」
「これ書いた当時、兵庫におったから。公園についてはネットで調べて、割と想像で書いてる」
 あまり知りたくなかった舞台裏です。
「でも、洞爺湖の雰囲気とか、そういうのは昔実際に家族で来たときの写真とか、記憶をたどったりして書いたよ。せやないと、全く想像だけだったら書く気もせん」
 そういえば、出会って間もない頃、新井くんはこの湖ともう一つどこかの湖が好きだと言っていたような気がします。
「湖もの、二作目って言いましたよね。一作目はどこなんですか?」
「支笏湖。これも近いうちに公開するわ。夏休みに香奈実ちゃんと行ってきたから」
「ああ……なるほど」
「こんな感じ」
 そこで新井くんが見せてくれた画面には、一枚の写真が表示されていました。静かな湖岸の木陰に佇み、対岸に並ぶ山々を眺める朝倉さんの写真です。
「朝倉さん、モデルになってくれたんですね」
「絵になるよな。俺は普段、人は撮らないんやけどな」
「そうですか」
 敢えて後ろ姿を撮るところがなんだか、下心をカモフラージュしようとする意図を感じさせます。こんな写真を急に撮りたいと言われて、朝倉さんは困惑したかもしれません。
「香奈実ちゃん、あんまり正面とか横からとか、写真撮らせてくれないのよ」
「二人で写ったりしないんですか?」
「俺はなんというか……自分が写ってる写真見るの好きやないし」
 つくづく変な人です。でも、わたしは新井くんが嫌いではありません。変人であることに関して言うならば、ずっと一緒にいる先生も大概だからです。新井くんはこれだけ独特なものを持っていながら、その表現がとても下手だと思います。しかしそれが改善すれば、花開くときがくる……と、わたしは編集として、人知れず期待しているのです。
「すっかり邪魔してしまいましたね、頑張ってください」
「ああ」

 夕食から戻って少し休んだ後、読書会が始まりました。大部屋に敷かれた布団を畳んで、持ち込んだ飲み物やお菓子を囲んで、全員で輪を作ります。夏合宿の怪談企画を思い出させる状況でした。
「はい。それでは第一回読書会を始めさせていただきます。題材は北條民雄著、『いのちの初夜』です。まずは皆さんから、雑感を頂ければと思います」
 普段の合評のように一人ずつ雑感を述べます。この時点で、日ごろから文学に触れているか否かが作品への印象を左右していることが感じられました。山根さんはもちろん、大藤さんや篠木くんなど文学に触れている人は、この作品の時代背景、社会的意義なども含めた視点で自分なりの「評価」を下しています。
 わたしはこの作品を今回初めて読んだくらいで、文学としての位置づけについてはあまり調べていませんでした。他の人たちと同じく、鮮烈な描写やテーマに関する深い考察を表面的に捉えて褒める程度のことしか言えません。
 それにしても、この読書会の意図の一つに「作品を正しく読めるようになる」というものがあるらしく、高本さんから作品の背景に関する解説がありました。
「この作品は癩病――今はハンセン病と呼ばれていますが、自身もその患者であった民雄が、こういった収容施設での体験をもとに著したといわれています。作中にもあるように、当時ハンセン病は不治の病とされ、かつ患者に対する差別的な扱いもありました。この作品はそうした時代に、患者としての心境や生き様を描いたという点で重要です」
 作中には、主人公が患者として生きるのか死ぬのか、あるいは病に抗うのか、病を受け入れるのかといった点で葛藤する様子が描かれています。それはある意味、現代にはない迫真さです。わたしたち学生が少し背伸びをして書くような病や障害とは次元が違います。
 ここまでで、部屋には思いのほか硬い空気が漂いました。新井くんなどは退屈そうにしています。上年目にも、退室したいとは言わないものの、もはや話を聞かずにお酒を飲んでいる人が見受けられます。
 しかしその後、瀬田さんが本文をナビゲートする流れになり、空気が少し変わりました。瀬田さんは展開のポイントとなる部分を提示し、適宜考える時間を与えてくれました。それによって、一年目のわたしたちでも作品を無理なく読み解くことができ、そこで持った考えを共有することができたのです。次第に新井くんも発言するようになり、話し合いは活性化していきました。
 初心者のペースに合わせて進んだ読書会は、高本さんの想定とは少し違っていたようです。高本さんは時折とても批判的な、「ここは良くない」という主張を投げかけるのですが、その相手をできる人は多くありません。瀬田さんはそんなときでも、作品への意見や評価を強制せず、まずは自分の感性で受け取るように軌道修正をしてくれました。
 読書会は一時間程度で終わり、最後に瀬田さんはこんな言葉を残しました。
「文学というものを、ここまで疑うことなく生きてきた人も多いと思います。書いてあることは全部が正しくて、理解できないのは自分が悪いのだと思っている人もいるかもしれません。それは、そういう教育をされてきたからには、自然なことなのだと思います。
 でも、僕はそういう先入観が、人それぞれ持つはずの感想を矯正してしまうことを、もったいないと感じます。せっかく文芸部にいるのだから、もっとお互い、自由な観点で作品を読んで、そのありのままの感性で交流したいと思っています。今回の読書会が、そのきっかけになれたら幸いです」
 振り返れば短い時間でしたが、文学と文芸のことを少し考えなおしてみようと思わせるような企画でした。札幌に帰ったら、先生に「温泉だけではなかったですよ」と伝えてあげたいと思います。

 そんな読書会の余韻もそこそこに、片付けの終わった大部屋では大藤さんが持ってきたテレビゲームが始まりました。わたしはテレビゲームはあまり得意ではないので、もう一つの部屋で他の遊びに参加しようかと思いましたが、一年目の姿がありません。ただ一人、小野寺さんがスマートフォンを見ていました。
「小野寺さん。こちらには誰も来ていないですか?」
「えっと……和泉さんと星井さんは、さっき二人で出ていった」
「また二人で?」
 そこで柿元さんが部屋を覗きに来ました。星井さんを探しているとのことでしたが、いないと知るや、大部屋に戻っていきます。
「朝倉さんもいないですよね。新井くんと一緒にいるんでしょうけど……」
「朝倉さんは、外に行くって言ってた」
「外ですか?」
「これ」
 小野寺さんが見せてくれたのは、この近くで開かれているらしいイベントのホームページでした。電飾を施したトンネルが設置されているようです。
「なるほど……二人きりで行くには最適の場所ですね」
 それぞれの行き先はわかりましたが、わたしにはすることがなくなってしまいました。こんなとき先生がいれば、一緒に外に出て、夜の湖畔を散策したりもできましたが……。
 目の前には、未だあまり話したことのない小野寺さんがいます。これは親交を深めるチャンスなのではないでしょうか?
「小野寺さん。もし良ければ、二人でちょっと外に出てみませんか? わたし、今とても暇なんです」
「えっ、じゃあ……これ、見に行きたいな」
「いいですよ。行きましょう」
 こうしてわたしは小野寺さんを連れ出してホテルを出ました。件のトンネルは道路を挟んだ向かい側にあり、夜の静かな温泉街で特異的な光彩を放っています。
 その入口に差し掛かると、ちょうど新井くんと朝倉さんが出てきました。
「おおっ、二人とも奇遇やな。俺らはもう行くから、ゆっくり楽しんでな」
 秘密のデートのつもりだったのか、朝倉さんまでもが困惑するほどの狼狽え方をして、そのまま道路を渡ってしまいます。
「じゃあ……またね」
 後を追っていく朝倉さんを見送り、わたしたちは顔を見合わせます。
「行こう」
 わたしなどは二人がそのまま戻ったのかなど、無粋な推測をしてしまうわけですが、小野寺さんはあまり興味がないようです。
 トンネルは曲線的な構造で、ものの数分で反対側へ抜けられてしまいました。抜けても他に何かあるというわけではなく、ただこの眩しいくらいの電飾の塊が一つあるだけだったのです。
「これで終わりですか」
「そうみたい」
「……湖のほう、行ってみましょう」
「うん」
 少し物足りない気持ちでトンネルを戻り、ホテルの脇の坂道を下ります。湖畔の歩道には、銅像の座ったベンチが見えました。さっきまでの眩しさは一転、限りなく少ない光の下で、晴れた空には普段出てこない星たちも集まっています。今夜は有明の月の頃で、その細い姿は漆黒の湖面にもはっきりと認めることができました。
 じっと立っているとすぐに冷えてしまうような底冷えでしたが、わたしたちはその光景をしばらく眺めていました。寒さのせいか、ちょっと危うい眠気を覚えます。そんなとき、隣から子守唄のように心地良い旋律が聞こえてきて……。
 そうです。いつからかこの風景に捧げるように、小野寺さんが歌っていたのです。それはちょうど今のように、夜空が水面に映った情景を歌った歌でした。その薄氷のような歌声も、鮮明ではないものの、どこかで聞いた覚えがありました。

  湖の深い底 星空の果てない彼方
  見えないものは見たくないもの 光るものだけ見つめていたい
  鏡に映る今が一番 愛しいときになりますように

 目を輝かせて夢中になっている小野寺さんを邪魔しないように、歌の終わったタイミングで尋ねてみます。
「いい歌ですね。何の歌だったか、思い出せないのですが……」
「『鏡面プラネタリウム』っていうの」
「誰の歌ですか?」
 小野寺さんは、少し嬉しそうに答えます。
「私の歌。高校のとき、軽音楽部だったから」
「そうでしたか。聞いたことがありますよ」
 思い出したのは高校の学校祭です。確かに体育館で、軽音楽部の各バンドがフェスのようにコンサートを開いていたのでした。わたしも知らずのうちに、小野寺さんの歌を聞いていたのでしょう。
「では、作詞も?」
「うん。私は、人と話すのは得意じゃなくて、思ってること、言いたいことも伝えられないことが多いけど、ステージの上で歌にするときは、普段の弱い自分を忘れられたの」
「そうだったんですね」
 当時はボーカルとギターをしていたとのことでしたが、部活動を引退するのと同時にバンドも解散、その歌は記憶の中だけのものになっていたのです。
「小説とか詩は、音楽をやめてから始めたというわけですね」
「うん。あのバンド以外でやっていこうとは思わなかった。だから、音楽は全部しまっちゃって、文芸を始めてみようって思ったの」
 高校時代からの延長線上に今の文芸部での活動を思い描いていたわたしとは逆の考え方です。たとえこの文芸部で思ったような活動を続けられなかったとしても、わたしはどうにかして文芸を求めたはずなのです。小野寺さんのように別の道を選んでみるような決断はできません。
「先生はそのこと、知ってたんですかね?」
「浦川さんは……少し話したけど、それっきり。でも、それで良かったんだと思う。私は浦川さんが全国で賞を獲ったのも知ってたし、成績も良くて、すごいなあって思ってたから」
「そうですか……片思いですね」
「ふふ、そうかも」
 そのとき、普段は長い髪に隠れて見えにくい小野寺さんの純真な微笑みが、風のいたずらではっきりと露わになったのです。わたしは何か特別なものを垣間見た気分にとらわれ、少しの間言葉が出ませんでした。
「……中津さんが、ちょっと羨ましい」
 小野寺さんがそう言ったのかどうか、本当はわかりません。気の抜けていたわたしの耳には、断片的な言葉しか届かなかったのです。
「わたしが、ですか?」
「今のは、聞かなかったことにして」
「はい……」
 それにしても、人見知りでクラスメートとの交流すら乏しかった先生が、小野寺さんのことは憶えていたのでした。先生もやはり、自分たちの部誌を読んでもらっていたのは嬉しかったのだと思います。
「まだ入部したばかりですが、文芸部はどうですか」
「朝倉さんとか、星井さんとか、友達も増えたし楽しいよ。これから部誌にも参加していけたらと思ってる」
「ぜひ。楽しみにしています」
 心ばかりは温かくなるひと時でしたが、すっかり指先つま先まで冷え切ってしまいました。意識し始めるとにわかに身体が震えます。実際、わたしはここまで出歩く予定ではなく、秋物のコートしか持って来なかったのです。
「……そろそろ、戻りましょうか」
「中津さん、寒くないの?」
「いえ……お察しの通り」
 それからは、戻っていた新井くんが持っていたカードゲームなどをしながら、夜は更けていきました。一方で、和泉さんと星井さんはなかなか戻りませんでした。二人には、まだ話せない秘密の事情があるようです。

 こうして秋合宿は終わりました。翌週の部会からの帰り道、わたしは先生に参加しなかったことを後悔させようという意気込みで、これらのことを余すことなく報告したのです。
「春にも温泉合宿があるみたいですし、今度は一緒に行きましょうね?」
「考えておくよ」
 雪の積もり始めた街路は雑音を絡め捕り、先生の声が少しだけはっきりと聞こえます。それでも頑固な先生ですから、参加したいなどと積極的な言葉は聞かせてくれないのです。近くなったら、もっと粘り強く誘う必要がありそうです。
 ひとまず合宿の話は終わりにしましょう。実はもう、冬部誌の締め切り当日なのです。先生は合宿に行かなかった間とても作業が捗ったらしく、既に最終稿の提出を終えています。
「ところで、新井は大丈夫なのか?」
「本人は、大丈夫だと言っていましたが……」
 新井くんはというと、昨晩、わたしが最後の追記を送って、「修正が終わったら提出してください」と伝えたところです。もはや大きな変更はしないことにしていたので、概ね心配はないと思っています。
 しかし新井くんは、こんな日にも朝倉さんとアフターに参加しているというのです。確かに序盤から考えれば差し迫った状況ではありませんが、それにしても気の緩みが見えます。その一点だけは心配するべき要素でした。
「帰ったら、状況確認のメッセージを送りますよ」
「そうか」
 締め切りからいち早く解放されている先生はのんきに笑います。『ラッキーアイテム』は結局、ストーリーラインの変更はほぼなく、単純に描写や表現の面での補強がされていました。
「明石さんの編集はいかがでしたか?」
「悪くなかったよ。すんなりと話の通る感覚がないのは仕方のないことだが……わたしの考えをしっかりと聞いて、作品の可能性をよく探ってくれる編集だった。広く選択肢を提示したうえで委ねてくれるから、わたしは自信を持って改稿を行うことができた。満足だよ」
「相変わらず尊大な……ちゃんとお礼言ったんですか?」
「言ったさ」
「じゃあ次からはもう、わたしじゃなくても大丈夫ですね?」
「それは……無理だとは、言わないが」
 そんな質問をしたのは、今回のことで、もっと他の人の編集にもついてみたいと思ったからです。新井くんの編集は様々な意味で大変でしたが、その大変さは、先生の編集では生涯味わうことのなかったものだと思います。ともすれば惰性になりがちなこの秋に、適度な刺激を与えてくれたのです。
「でも、わかったでしょう。わたしたちは少し離れていたほうが、普段使わない力を鍛えることができるんです。まだまだ先は長いですし、わたしはもう少し、他の人の編集についてみたいです」
「そうだな……今は、それもまた一興か。ならば約束しようではないか。二年後か三年後。わたしが最後の部誌に出すときには必ず戻ってきて、最高の編集をしてほしい。そのときには、わたしも最高の作品で迎えよう」
「いいですよ。そのときには先生も驚かせるような、編集の匠になります!」
 とても漠然とした約束でしたが、わたしたちは互いの目を見て頷きあうだけで、強い信頼を結ぶことができました。先生ならやってくれる。そして、わたしならできる。失いかけていた自信が、より確かな形で戻ってきたのを感じました。

 夜の十時を過ぎて、まだ新井くんの最終稿は上がっていませんでした。わたしは確認のメッセージを送ります。
『間に合いそうですか? 無理せず仕上げてくださいね』
 新井くんからはすぐに返答がありました。
『もう少し直して、あとがきを書いたら出します。まあ間に合いますよ』
 その辺りで、他の作者さんの最終稿が続々と上がってきます。あっという間に、残りは新井くんを含めて三人になりました。
 大藤さんからメーリングリストで注意喚起がされます。
『部会でもお知らせしましたが、締め切りは本日中、十一時五十九分までです。遅れそうな方は必ず、大藤まで連絡ください』
 やがて十一時を回りました。新井くんの動きがありません。しかし、ただ待っているのも手持無沙汰な時間です。いけないと思いつつも、わたしは横になって、うたた寝をしてしまったのです。
 ちょうど夢を見始めた頃、電話の着信音で目が覚めました。朦朧とした意識の中で、わたしは時計を確認する間もなく応答します。相手は和泉さんでした。
「おいフミ、やっと出たよ。新井は大丈夫なのか」
「え? ああ……すみません」
「さては寝てたな。まだ最終稿が上がってないんだよ。さっき大藤さんがメールしたらしいんだけど、それも反応がないんだ。フミから連絡取れる?」
「わかりました。作業中だと思いますので、パソコンで連絡してみます」
 締め切りまであと五分というところでした。わたしが寝ている間、和泉さんからメッセージが四件、不在着信が二回ありました。とにかくわたしはパソコンを開いて新井くんへの連絡を試みます。
『お疲れ様です。締め切りが近いですので、とにかく一回大藤さんに連絡をしてください』
 ところが遅すぎました。メッセージを送って間もなく、日付が変わってしまったのです。すぐさまメールドライブを確認しますが、受信トレイにも送信トレイにも、新井くんの作品は入っていませんでした。
 神経の凍りつくような感覚でした。あれだけ余裕を見せていた新井くんが、まさか原稿を落とすとは。
 そんなわたしに、さらに無情な仕打ちがありました。日付をまたいで三分後、それはしれっと受信トレイに現れたのです。

八 氷雨

 不気味なほど暖かくなった十二月の初旬、降る雨は今年最後と言われる冷たいものでした。街路は雪と落ち葉と泥が混ざって荒れ放題で、ある意味真冬よりも足取りの鈍る思いです。わたしはこの季節が、あまり好きではありません。
 しかもその日は、ある重大な会議が予定されていました。編集班主催で、締め切りに遅れた新井くんの作品の処分を話し合う会だと聞いていますが、要するに裁判です。わたしも弁護役だとは聞いていますが、編集としての責任がある以上、そんな小ぎれいな立場ではありません。
 それを痛感させてくれたのは、昼休みの和泉さんです。
「フミお前、あの大変なときに、まさか寝てたんじゃないだろうね?」
「はい……申し訳ありません」
 ボックスで出会うなり、彼女は強烈な剣幕で迫ってきました。締め切りの夜、不甲斐ないわたしに代わって編集長の大藤さんの手伝いをしてくれたのです。それでこのような結果になれば、憤慨するのも当然です。
「新井はなんというか、そのうちこんなこともするんじゃないかと思ってたけど……お前までポンコツじゃほんとに困るよ。おかげで面倒なことになったもんだ」
「しかし実際、新井くんの作品はどうなるのでしょうか」
「聞いてないの? もう印刷のマスタも作っちゃったし、掲載取りやめは絶対ないよ。だから面倒なんじゃんか。わざわざ新井の言い訳を聞くために残らなきゃいけないなんてさ」
「そうでしたか……いえ、本当にご迷惑をお掛けしました」
 それでは何故、会議を開くのか……とは、わたしの立場から聞けたことではありませんでした。掲載が強行される理由はなんとなく推測できます。こういった組織で予定を変えることのコストは、見た目よりも遥かに高いのです。
「はあ……胃が痛むよ、まったく」
 和泉さんは椅子に腰掛け、大きなため息をつきます。これ以外のことでも最近は気苦労が多いようです。わたしもまた、本当は真面目な彼女に甘えてしまった面があったことを、今一度深く反省しなければなりませんでした。

 新井くんはというと、五限が空いていたので、会議前に食堂の一階で会って話をすることにしました。
「さて……とりあえず、お疲れ様でした」
「悪いね、中津さんまで巻き込んでしまって」
「わたしも編集としての責任がありますし、一人だけ逃れるわけにはいきません」
 互いになんとなく、しゅんとした雰囲気です。それでわたしは、新井くんも反省しているのだろうと思いました。
「ただ……どうして、大藤さんに連絡をしなかったのですか?」
「間に合わせるつもりだったし、遅れても数分なら別にって思ってたからな。現に、樋田さんからも掲載取りやめはないって聞いてるし、わざわざ会議だなんて、三分程度に騒ぎすぎやないかね」
「新井くん、そういうことを会議の場で言ってはダメですよ」
「……」
 予想に反して、新井くんは不服そうでした。こんな態度では、確実に和泉さんを怒らせてしまいます。大藤さんすら怒りを爆発させてしまうかもしれません。
「こうなってしまった以上、まずは素直に謝りましょうよ。そうすれば、お互い穏便に……」
「わざと遅れたと言ったら?」
「えっ?」
 次の言葉は、本当に一瞬、何を言われたのかわかりませんでした。
「俺の作品に、あんな無残な扱いをしておいて、何のフォローもなし。結局、こんな急ごしらえの作品を出す羽目になった。ちょっとした反抗ってやつよ。三分後なんて、本気で遅れた人の出す時間じゃないしな」
 それは彼が抱え込んでいた本心だったのでしょう。遅れたのが故意であったかどうかはさておき、この機会にそれを編集班にぶつけようと言うのです。間違いなく最悪のシナリオでした。
「新井くん、冷静になってください。二次合評の評判は、まずまずだったじゃないですか。たとえそういう気を起こしていたとしても……やっぱりダメです。新井くん、この部にいられなくなりますよ」
「だいたいこの部は、誰も俺の作品に見向きもしない。そもそも編集決めのときだって、中津さんが引き受けてくれなかったらどうなっていたと思う? 仮に俺の作品に欠陥があるとしても。こんな場所で続けていたって、解決の糸口なんざ掴めやしない」
 しかし、新井くんは既に最悪のシナリオに向けて、投げやりに駆け出してしまっています。それが最悪だという認識もないのでしょう。わたしはさすがに焦りもありましたが、冷静に切り札を使わせてもらうことにしました。
「朝倉さんを悲しませてもいいんですか」
 ところが、それは浅はかな考えだったようです。途端、新井くんは声を荒らげました。
「知ったようなことを言うな! 香奈実ちゃんだけは、何があっても俺の味方だ」
 この状況でそう断言するのは、一瞬感心してしまうほどの愛の強さです。しかしよく考えれば、新井くんはもはや唯一の頼みとして、朝倉さんに依存しているだけなのでした。優しい朝倉さんはそれでも新井くんの考えを尊重するかもしれませんが、その危うい関係がいつまで続くかもわかりません。
 それ以上に衝撃を受けたのは、いつの間にか新井くんの言う「味方」の範疇から、わたしが外れてしまったことでした。
「わたしだって、まだ新井くんの味方でいたいですよ。新井くんはこの一年目の中でもよく作品を書いていますし、問題点も多いかもしれないですが、それよりも大いに面白くなる可能性があると思うんです。新井くんが退部してしまったら、わたしは悲しいです」
「……時間か」
 幸か不幸か、まだ結論の出ないまま、わたしたちは会議に臨むことになってしまいました。もはや新井くんは、目を合わせてくれませんでした。

 会議はボックスで行われ、大藤さんと和泉さんの他に、高本部長も来ていました。大藤さんは表情を隠すように、つばのある帽子を深く被っています。その三人に、わたしと新井くんは正対して座りました。
 大きな不安の中で始まった会議でしたが、最初はわたしの話から始まったため、淡々と進みました。編集として監督を怠ったことを謝罪し、処分は口頭注意となりました。
 新井くんもこんなふうにすんなりと終わってほしいと願うことの、何がいけなかったのでしょう。会はいよいよ、本題に入ります。
「では、何故締め切りに遅れたのか、説明してください」
 ちらりと覗いた大藤さんの目は、いつになく険しく、赤みを帯びていました。新井くんの第一声に、誰もが注目します。
「黙秘します」
 それは冷徹に期待を裏切っていきました。大藤さんは少しの間次の言葉を待っていましたが、重い沈黙が長引いただけでした。
「それはないでしょうよ。何か言うことあるだろ?」
 たまらず和泉さんが、前のめりになって怒鳴ります。すぐさま大藤さんに制止されましたが、緊張は一気に高まりました。
「新井さん。どうか、誠意あるご対応を」
 高本部長は紳士的な言葉を投げかけました。対面した三人の中では、直接の当事者ではないからか一番冷静です。わたしはこれが新井くんに与えられた最後のチャンスだと直感します。
「失礼します」
 すると新井くんは呟くようにそう伝えて、不意に立ち上がりました。そして、ボックスの脇の通路に膝をついたのです。わたしは止めなければならないと思いつつも、既に傲慢な覚悟を決めてしまった彼の威圧感に負けて、動くことができませんでした。
「……大変申し訳ございませんでした」
 強張った発音とともに、床に手を着き、頭を下げる。土下座でした。実際、それで誠意が示せるかと言えば真逆で、却って互いに清算しきれない感情を持たせるだけです。和泉さんはいち早く両手で顔を覆いました。
「そういうことでは、ないと思いますよ」
 高本部長はなおも穏やかに諭しますが、新井くんは頭を上げません。もはや謝意というより、是が非でもこの件をややこしくしようという意思を感じます。
「頭を上げて、席に戻りなさい」
 やがて、大藤さんは帽子で目元を隠したまま言いました。新井くんはどこか満足げに、きびきびと椅子に戻ります。和泉さんは、俯きながら両手を膝の上で握りしめていました。場の雰囲気は一触即発です。
「それが君の答えというわけか」
 新井くんは黙って頷きました。大藤さんの目はさらにぎらつき、静かな怒りを湛えています。
「大藤さん、すみません」
 そんな中、今度は和泉さんが立ち上がりました。俯いたままでしたが、尋常ではない苦悶の表情が見えます。
「帰らせてください。吐きそうなので」
「ああ。ゆっくり休んでくれ」
 和泉さんが帰ってしまい、新井くんと大藤さんは再び睨み合う構図になりました。もはや会議を続けても、互いの感情はエスカレートするしかありません。高本部長も、わたしと同じ考えのようでした。
「大藤さん、新井さん。本日は一旦、お開きといたしませんか。その代わり、新井さんには後日、改めてお考えを聞かせていただくということで」
「この件について話すことは、もはやありませんよ」
「ともかくです。わかりませんか。あなたにはもう一度、考える時間を差し上げると言っているのです。どうか無駄になさらぬよう」
 新井くんの望む結果ではなかったようですが、高本部長のおかげで会議は終わりました。ようやく部長らしい働きを見せてくれたような気がします。選挙の質疑をあれだけ長引かせた高本さんと同一人物とは思えません。あるいは、相手が憎き新井くんだから、いつもよりも気合が入っていたのかもしれませんが……。
 会議が終わった後、わたしたちは互いに目を合わせることもせず、散り散りに帰りました。それにしても、会議前の新井くんの言葉を思い出すと、これでも最悪中の最悪を回避することができたのかもしれないと思います。雨は既に雪となり、心の底まで冷たい帰り道でした。

 翌日の夜、わたしは先生を誘って鳳華苑に行きました。気分の落ち込んだときには、無性に先生と話したくなるものです。
「昨日の会議は、そんなに大変だったのか?」
「はい……わたしについては別に問題ないですけど、新井くんがどうしても編集班に従いたくないようで。会議でも黙秘を貫いた挙句に土下座と、挑発的な振る舞いばかり」
 会議については、大藤さんからメーリングリストに報告が流れていました。『作品は掲載するが、作者の処分については保留』という内容です。
「新井はどうしてまた、そんな気を起こしたのだ?」
「合評の結果、作品を大幅に変えざるを得なかったことに、納得がいかなかったのでしょう。合評には和泉さんと大藤さんがいたので、そういう不満を編集班にぶつけるために、この場を利用しているのかもしれません」
「不満……逆恨みではなく?」
「どちらも、ですかね。信じがたいかもしれませんが」
 わたしはあんかけ焼きそばを、先生は炒飯を注文しましたが、混んでいるためか時間が掛かっています。その間に、わたしは会議前の新井くんの様子について話しました。
「会議の前に会って話したんですよ。そうしたら、まるで編集班が敵であるかのような言い方をして。それどころか、味方は朝倉さんだけだと言うんです。わたしも編集として手を尽くしてきたのに、あんまりですよ」
「敵だの味方だのと……単に、自分にとって都合が良いか悪いかでしかないだろうに」
「わたしはこれでも最大限、新井くんの意思を尊重してきたのに」
 本当の無批判でなければ、新井くんの味方にはなりえなかったのでしょうか。朝倉さんとて、そうではないはずなのですが。
 料理が来てからも、わたしは飲み会のような感覚で、延々と先生に愚痴を聞いてもらいました。大抵、先生は笑っていました。そのくらいのほうが、わたしも遠慮なく話しやすいというものです。
 食べ終わる頃、わたしは朝倉さんからメッセージが届いていることに気付きました。それは業務連絡を除けばとても稀なことでしたが、業務連絡だとしても、心当たりがありません。
「どうした?」
「いえ、朝倉さんからメッセージが……そんな!」
 内容は業務連絡などではなく、新井くんについての相談でした。
『突然ごめんね。実は、新井くんが文芸部を辞めるって言ってて……私は辞めてほしくないけど、聞いてもらえなくて。中津ちゃん、明日話せる?』
 朝倉さんの願いすら聞き入れず、新井くんはどこへ向かってしまうのでしょう。手遅れでないことを祈りつつ、わたしは返信を書きました。
『もちろんです。明日は四限以降なら空いていますよ』
 その間待たせてしまった先生でしたが、何の話なのかは察してくれたようです。
「新井の話か」
「はい。どうやら、本気で退部しようとしているみたいです」
「別に誰がいなくなろうと、そういうものなのではないか? 飯綱だって、何も言わずに蒸発してしまっただろう」
 実際、先生はそこまで新井くんに興味を示していなかったので、こんな反応になるのが普通だと思います。しかし、わたしはそうではありません。
「わたしは先生みたいに薄情じゃないんです。引き止めるチャンスがあるなら、同じ一年目の仲間として、言いたいことがたくさんあるんですから」
「気を引いて、同情を誘うためのパフォーマンスかもしれないぞ」
「それなら真っ向から乗ってやるだけですよ。新井くんには、まだこの部にも居場所があると思ってもらわないといけません」
「大した覚悟だな。わたしは結果を楽しみに待つとしよう」
 もはやどこまでが編集の責任の範疇なのか、どこからがあの日居眠りをしてしまったことの償いなのかはわかりませんが、最終的にわたしは、どうにか新井くんが前向きに立ち上がってくれるまで戦う覚悟を決めました。このままではどうにも終われません。

 食堂では騒音が多いので、朝倉さんとはリフレッシュスペースで会うことにしました。
「来てくれてありがとう。中津ちゃんも、大変だったね」
「いえ、わたしはそこまでですが……ありがとうございます」
 自分も不安の中にいて、なお心配りを忘れない。本当に健気な人だと思います。
「和泉ちゃんも随分疲れてたみたいだし……みんな大丈夫かな」
「まずは新井くんですよ。彼が考え直してくれれば、状況は良くなるはずです」
「そうだね。よろしくお願いします」
 朝倉さんはやんわりとお辞儀をして、新井くんの様子を話してくれました。
「昨日、冬部誌お疲れ様の意味も込めて、二人でフリータイムに行ってたんだけど、新井くんが急に、『もうこの部にはいられない』って言い出して」
「はい」
「私は、そんなことないと思うし、和泉ちゃんとか大藤さんも、ちゃんと話せば許してくれるって言ったんだけど、新井くんは『それだけじゃ、何の解決にもならない』って」
「そうですか……」
 新井くんにとっての問題は、この冬部誌の期間を通して根付いてしまった、この部や編集班への不信感です。それを無理やり、締め切りに遅れた問題と一緒くたにして解決しようとしているのでしょう。
 しかしそんなことは、和泉さんや大藤さんには全く伝わっていません。編集班の側としては当然、締め切りに遅れた問題にだけ決着が付けば良かったのです。伝わっていたとしても、同時に解決しようとは考えるはずもありません。
「今、新井くんにとって大切なのは、編集班のことではなく、この部で自分が望むような文芸ができるかどうかなのだと思います。言ってしまえば、自分の文芸を否定する人がいない……あるいは、肯定に対して否定が、無視できるほど小さいということです」
「合評が荒れて新しい作品を書くのが、そんなに嫌だったのかな」
「そうなのだと思いますが……違う場所に行かなければ状況が良くならないというのも、あまりに短絡的な思い込みですよ」
 重要なこととして、和泉さんや大藤さんも、あの一次合評の場ではしっかりと作品の未来を考えてくれていました。それに従って『彼の世は幻想の園』を生まれ変わらせる道もあったはずです。しかし新井くんはそれを全否定と決めつけ、望んで作品の未来を擲ってしまったのです。
「どんな場所で文芸をしても、このままでは似たようなことを繰り返すだけです。ただ、今の新井くんは理屈を言っても聞かないでしょうね」
「うん。でも、私の話も聞いてくれなかったし、どうすればいいのかな」
「少し聞きましたけど、どんなことを話したんですか?」
「えっと……新井くんは、文芸部を辞めても行く当てがなかったみたいだから、それだったら辞めないほうが良いんじゃないかな、とか」
「そうですね。間違いではありませんが……」
 新井くんの考え自体にどれだけ問題があるとしても、わたしたちの話を聞く姿勢でない以上、何を言っても意味がありません。まずはその塞がれた耳を、どうにか開放してもらう必要があります。
「単純に、わたしたちの辞めてほしくないという気持ちを伝え続けるのが、今の新井くんには一番効くのではないかと思います。理屈ではなく、気持ちです」
「それだけで、聞いてくれるかな」
「新井くんに、仕方なくでも良いので残ってもらうんです。一時しのぎでしかありませんが……辞めなければ、あとの問題は時間を掛けて解決することができます」
「わかった」
 もちろん、問題を本当に解決するには本人の努力が不可欠です。わたしたちの伝えることは、同じように努力をするなら、外ではなくこの文芸部でしてほしいという願いなのです。それならば、快く助けになることもできるのですから。

 朝倉さんは、新井くんを食堂の一階に呼び出してくれました。わたしが偶然それを見つけたという体で、新井くんの説得に持ち込む作戦です。
 二人は窓際の隅のテーブルで対面していました。昼休みが終わり、やや空いてきたところを狙います。
「新井くん、やっと見つけました!」
「な、中津さん……どうしてこんなところに」
 新井くんは実に都合が悪いというふうに体をよじらせました。わたしは朝倉さんの隣に座って続けます。
「朝倉さんに聞いたんです。文芸部を辞めるなんて、すぐに考え直してください」
「その話か。無駄やぞ。今だけなら、いくらでも甘いこと言えるやろ。そうしてまた、こんなことを繰り返すのは見え透いとる」
「それはどこに行っても同じですよ。新井くんが変わらない限りは。でも、行った先で同じようなことになったとして、新井くんの味方をする人がいるとは限りません。そのことを、ちゃんと考えてほしいんです」
 つい理屈っぽく反論してしまいましたが、新井くんは言い返してきませんでした。意外にも状況は有利です。
「わたしも、朝倉さんも……もちろん、他の多くの人も、新井くんに辞めてほしくないと思っていますよ。今ならまだやり直せます。高本さんだって、チャンスをくれたじゃないですか」
「くっ……」
 このまま押し切れるかと思いましたが、新井くんは悪あがきの手段を残していました。
「せや。そんなに俺が大切だと言うなら、二人とも一緒に来ればええ。新たな文芸部を立ち上げよう」
 呆れるほど利己的な提案です。これ以上何も失いえないという謎の確信を感じます。しかしさすがに、朝倉さんも黙ってはいませんでした。
「嫌だよ。私はこの文芸部が好きだし、新井くんには付き合えない」
 事実上の別れ話です。彼女の毅然とした表情には、新井くんも明らかに怯んだ様子でした。決着をつけるには、今しかありません。
「新井くん。それでも一人で行くと言うのであれば、わたしは止めません。ただ……そんなこと、寂しすぎはしませんか。わたしは寂しいです。新井くんは一年目の中でも、たくさんの作品を書いてくれています。書いてくれる人がいなくなってしまったら、編集の楽しみもなくなってしまいます」
 新井くんは言い返してきませんでした。ただ表情を歪め、長い間、細い声で何かを呟いていました。
 その末に、ぽつりと。
「……俺が悪かったよ。ごめん」
 わたしは思わず朝倉さんの手を取って喜びました。そして、新井くんとも握手をしました。これからやり直していくのです。まだ安心はできないかもしれませんが、幾分大きな希望を感じました。

 翌週の部会は、新井くんの謝罪から始まりました。
「皆様。この度は、冬部誌の締め切りに遅れたことに始まり、多大なご迷惑をお掛けしたことを、深くお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした」
 きっちりと直立し、深々と頭を下げます。あの日の土下座とは違う、確かな誠意を感じました。
「私は、自分の誤りや力不足を、認めることができなかったのです。しかしこれからは、心を入れ替えて活動に取り組み、信頼の回復を目指していきたいと思います。これからも、どうぞよろしくお願いします」
 誰からともなく、自然と拍手が起こりました。新井くんが降壇すると、大藤さんからは、特別な懲罰を科さないことが宣言されます。これでめでたく、一連の事案は解決に至ったのでした。
 裏では既に印刷も始まっていて、冬部誌の完成は近づいています。他にも来年の大学祭に向けた傑作選の準備が始まるなど、忙しい時期が続くのでした。
 そんな忙しさの中で、さらに全体の士気を下げるような事案が起ころうとは、わたしは想像していませんでした。
 一通りの連絡が終わった後、副部長の江本さんが、一枚のコピー用紙を持って立ち上がります。上年目を中心に、一部の人がざわつきました。
「一部の方は、既にご存知かと思いますが……サークル会館の、階段の踊り場のところですかね。こんなポスターが掲示されていました」
 小さな紙面に、マジックペンの黒い線が群れを成しています。遠目にはその内容を判読することができません。ただ唯一、最も大きく書かれた『文芸』の文字が、辛うじてこの部に関連する内容であることを示していました。
 わたしはその前衛芸術じみたポスターに既視感がありましたが、すぐさまそれが他人の空似であることを願いました。江本さんの説明は続きます。
「読み取りにくいですが、『文芸部を取り戻す』、『出会い系サークルではない』などと書かれています。文芸部の今のあり方を、批判する意図があるのでしょう」
「それ、高本の字じゃないの?」
 説明の途中でしたが、誰かの発した一言をきっかけに、場は油を撒いたように炎上します。同じことを多くの人が感じていたのでしょう。わたしもそうです。その特徴的な字体は、容易に装えるものではありません。
「皆さん、聞いてください」
 江本さんが声を張り上げて場を静まらせるまで数分掛かりました。疑惑を向けられた高本部長は、意外にも普段とあまり変わらない穏やかな表情で佇んでいます。
「僕ら二年目のほうで確認しましたが、このポスターは、もちろん高本くんの掲示したものではないとのことです」
「はい。私は全く、身に覚えがありません。このような手段は、とても正当なものとは言えず、やめていただきたいところでございます」
 いかにも迷惑そうに答弁する高本部長でしたが、実際、そのポスターが誰の手によるものなのか、この場で証明する方法はありません。ここはやはり、「疑わしきは罰せず」の原則に従うのが賢明です。江本さんがフォローします。
「部としては、犯人を捜すようなことは行いませんし、このポスターに対しても、こうして注意喚起を行うことで終了とします。部の運営等に関して意見があれば、この部会の場に持ち込むか、僕らに直接言うようにしてください」
 その場はそれで収まりましたが、実際その一件は、新井くんの事案以上のインパクトを全体にもたらしたものと思います。なんとも不穏な空気です。

 その日のアフターは、久しぶりに和泉さんとご一緒することにしました。今日は先生も来ています。思うところがあるそうです。場所はこれも久しぶりの「フリータイム」でした。
「本当は飲みに行きたいんだがな……もうすぐ忘年会もあるし、それまでの辛抱か」
「いつも本当にお疲れ様です。大藤さんに聞きましたが、傑作選の仕事はわたしがやりますよ。アンケートの準備とか、合評の段取りとか」
「助かるわ。よろしく」
 和泉さんの心労は、その程度で癒えるほどではなさそうです。今後はわたしもなるべく負担を肩代わりしようと思いますが、やはり本人しか解決できない問題もあるのでしょう。
「なあ、和泉」
 そこで珍しく、先生が自分から話を切り出します。
「アキ、どうした?」
「今日、副部長が持ってきたあのポスターだが……和泉はどう思う?」
「あれね……はあ」
 この話がしたかったために、アフターに参加したのでしょう。しかし疲れている和泉さんには、重すぎる話題ではないでしょうか。
「内容といい文字といい、他に誰がやるっていうのさ。証明できない以上、どうしようもないけどね。かまってちゃんかよ」
 少し離れたテーブルに座っている本人に聞こえないよう、和泉さんは小声で見解を話してくれました。
「しかしだ、出会い系サークルがどうとかの件は、よく理解できない。あれを掲示した者には、この部がそう見えているのか?」
 先生が疑問に感じていた部分は、確かにわたしも疑問でした。この部にそこまで恋愛関係があるようには見えなかったのです。というより、新井くんと朝倉さんが目立ちすぎて、他には全く目が行っていませんでした。和泉さんはその多くを知っているようです。
「そうなんじゃないの。まあ最近は続いてるからね。新井と朝倉ちゃんに始まり、武藤と平塚さんでしょ。最近では、星井と柿元さんも怪しかったし……」
「そんなに」
 なんと一年目関連で、既に三組もあるというのです。わたしのほうが驚きました。一方で、先生は聞いてみたものの、あまりイメージができないというように首を傾げています。それもそのはず、先生は平塚さんや柿元さんのことをよく知りません。
「この間から星井さんと頻繁に行動を共にしているのは、その関係で?」
「そうだよ。あいつも初心なもんでさ。盛んに人生相談だなんだって、あたししか頼る人いないのかっつの。でもまあ、終わっちゃったけどね」
「終わったって……」
 そういえば、十二月に入ってから星井さんと柿元さんは揃って、部会にもボックスにも来なくなりました。嫌な想像が頭をよぎります。
「あたしは最初から怪しいと思ってたけど……一晩だけ寝て、捨てられたってさ。『思ってたのと違った』とか言って。下種だね」
「なんと……」
 想像の通りです。小説でしか読んだことのない話が、これほど身近に起きていたとは思いませんでした。星井さんは授業でも見かけて話もしますが、そのようなことがあったと感じさせる様子ではなかったのです。
「星井さんは、大丈夫なんですか」
「まあ、立ち直りは早いみたいだから。来ないのは、授業が忙しいからでしょ」
「そうですか……」
 先生はすっかり聞くだけになっていましたが、どこか上の空です。食事にも手を付けず、一人で何かを考えているようでした。
「先生?」
「ああ」
 この度重なる不穏な出来事に、もしや先生までもこの部への不信感が芽生えてしまったのではないかと心配になります。わたしは話題を変えることにしました。
「ところで先生、傑作選ですよ。一年誌や部誌の作品は自動でエントリーされるので、先生の作品が選ばれることも当然、あるわけです」
「そうか。それは楽しみだな」
 棒読みです。あまり楽しそうではありません。
「傑作選に載れば、大学祭で頒布されて、多くの人に読んでもらえるんですよ」
「それは確かに貴重な機会だが……不特定多数に読まれるという点では、部誌もあまり変わらない。それに、傑作選は何部刷る?」
「えっと……和泉さん、わかりますか?」
「百くらいじゃない。それで売れ残る」
「それでは、な……」
 いずれにせよ、先生は傑作選にあまり特別な意味を見出していないようでした。掲載されることが目標という意識でもないようです。
「江本さんが前に話していた、インターネット上での公開はどうですか? 詳細はまだあまり決まっていないみたいですけど、冊子と違って、インターネットなら時間が経ってからでも読めるわけですし」
「そこまで長く残しておきたい作品は、まだ書けていない。部誌が出回らなくなるのと同時に忘れ去られるくらいがちょうどいいのだ。気持ち良く次の作品に進むことができる」
 その興味はもはや、次の作品にありました。確かに今回の『ラッキーアイテム』は、夏休みからずっと向き合ってきたのです。そろそろ次の作品が書きたくもなるでしょう。
「次は春のマスカレードですか?」
「そうだな。高校と違って、ここは作品数を重視するほうが機会を得やすいらしい。部誌に出すのは悪くなかったが、期間の長さに対して、退屈な時間も多かったからな」
 あの波乱の冬部誌の期間を退屈と評するとはさすがです。しかし確かに、先生にとっては一つの作品に長く拘束されるよりも、積極的に様々なパターンの作品に挑戦して、経験を積んでいくほうが有効かもしれません。新たなパラダイムに慣れていく必要があるのです。
「アキもさ、ちょっとくらい部のこと手伝ってくれてもいいのに」
 そんな先生に、和泉さんは不満を漏らします。
「作品を書くことこそ、文芸部への最大の貢献ではないのか」
「これだけ人数がいると、そうもいかないんだよ」
 二人の考えは一致しませんでした。これは非常に悩ましい問題です。確かに文芸部は作品を書く人がいなければ成立しません。しかし、作品を読む人やその他の仕事をする人もいなければ、活動の質が上がりません。言わば書き手は土台、読み手は柱、みんなの仕事で造る城なのです。
「まあ、先生の分はわたしが働きますから」
「お前らの癒着も大概だよ」
 これも編集専門であるわたしの役目……とは思いますが、やっぱり、先生にはもう少し文芸以外の面でも自立してもらいたいところです。誰彼構わず対立していては、ただでさえ多い文芸部の厄介者の一人に名を連ねるのも、時間の問題でしょう。

 と、そう思った矢先の帰り道です。冷たい風に震えながら、先生はいきなりこんなことを言い出しました。
「面倒事が増えそうだし、春まで隠遁しようと思うのだがどうだろう?」
「また変な考えを起こしたものですね……具体的にはどうするんですか?」
「部会に出ない。これだけで、大部分はシャットアウトできる」
 それは文芸部の裏技とでも言うべき行為です。実際、様々な仕事の割り当てはその日のうちに決められることを想定されているため、出席者の中から決めざるを得ません。部会に出席しなければ、例えば九時まで長引く編集決めなど、いくつもの醜いものを知らずにのうのうと過ごすことができるのです。
 それでいて、出席しないことへのペナルティはありません。例えば部誌期間中の作者や編集など、いつでも連絡が取れて然るべき人がいなければひんしゅくを買うかもしれませんが、それ以外は多くの場合見過ごされます。「忙しい」という万人を納得させる魔法の言葉があるので大丈夫です。
「しかし先生、忙しくもないのにそれで自分だけ執筆に専念しようとは、卑怯ではありませんか」
「人聞きの悪い。わたしが作品を出さなくなったら、一年目には誰がいる。新井か? 言っただろう。作品を書くことこそ、文芸部への最大の貢献なのだ」
 久しぶりに強く、先生のことを尊大だと思いました。しかし確かに、先生は一年目を代表する書き手と言えるだけの貢献はしていると思います。上年目からの文芸に関する期待も、ほとんど先生が集めている状況です。
「わたしは許しますけど……新歓の仕事には、ちゃんと参加してくださいね?」
「勧誘のために作品を書こう。それでいいな」
「悪くはないかもしれませんが……せめてそういうことは、自分で会議に出るとかして提案してください」
「頼まれて書くのは好まないのだが」
 振り返ればその日の先生は、ただ部への不満の感情を露わにしていただけなのだと思います。例えば、この部の中で書き手が蔑ろにされるような想像でもしたのかもしれません。しかし本来は対立でも、労使のような関係でもなく、もっと自然に書く人と支援する人が協力し、互いを尊重するような関係が築かれるのが理想です。
 こんな理想を持ってしまったら、わたしは部長になるしかないのでは?
 一瞬、そんな考えが浮かびました。いくらなんでも早計だと、すぐにもみ消します。まずは高本部長が何を成し遂げるかを見届けてからでも、遅くはないと思います。
 文芸部を取り戻す。果たして、文芸部は誰のものだったのでしょうか?

「あれは高本だよ。SNSでもいろんな人に疑われてたのに、逆に謝らせるなんてすごいよね。江本のおかげか」
 八戸さんは当然のように言いました。お酒が入っているとはいえ、重大なことをあっさりと口にするものです。隣では江本さん本人が苦い顔をしました。
「八戸は、そういうことあんまり言わないで」
 忘年会には、先生は来ませんでした。前部長、副部長の下野さんと明石さんに色紙を渡すイベントがあるそうで、普段より三年目以上の人が多いように感じます。
 わたしの隣では、小野寺さんがうっすらとリアクションを見せながらジュースを飲んでいました。先生とは別種の大人しさです。
「しかし、高本さんも大変でしたね。わたしから見れば、最近の高本さんはよく働いているようでしたが」
「裏表だよ」
 八戸さんの見立てでは、あのポスターは高本さんの抑圧された感情の発露だということです。それにしても、あまり決まった事実のように話すのは悪いので、このくらいにしておきます。わたしは江本さんを見て、思い出したことがありました。
「ところで江本さん、作品をインターネットに公開するという話はどうなりましたか?」
「あれね。覚えててくれたんだ。そろそろ、二年目の中で検討し始めようと思ってます」
 思いのほか計画は進んでいないらしく、江本さんは苦笑しながら答えます。八戸さんが横槍を入れます。
「傑作選の作品でも出してみればいいんじゃないの。それよりも、部内の合評とか、作品の質を上げる対策のほうが先だと思うけどね」
「僕は活動の場を広げることで、部員のモチベーションを高めるところから進められればと思ってるんだ」
 どちらも必要な考えです。部長が作品の質のために読書会などの動きを始めているので、副部長の動きで部員のモチベーションとのバランスが取れればベストだと思いました。
「編集班には協力してもらうことになると思うけど、そのときはよろしく」
「はい。楽しみにしています」
 先生は書き手としてあまり興味を示していませんでしたが、わたしは編集として純粋に興味がありました。どのような計画になるとしても、より多様な作品に関わる機会になればと思うのです。
 コース料理は進み、飲み放題のドリンクは二回目の注文を終えました。小野寺さんはあまり自分からは話していませんが、退屈そうではありません。
「小野寺さん、冬部誌の作品は読まれましたか?」
「今読んでる。『Vacant Rally』は読んだけど、私は好きだったよ。初稿のも、悪くはないと思ってたけど……」
「ありがとうございます。その言葉で、随分と報われた気がしましたよ」
 篠木くんもそうでしたが、『彼の世は幻想の園』に可能性を見出していた人は一定数いるような気がしています。それを切り捨てたのは新井くんの意向でしたが、あの合評の参加者次第では、違う結論を導いたかもしれないと想像します。その運命の巡り合わせを、わたしは改めて怖いものだと思いました。
「そうか。中津さんが新井くんの編集だったのか」
 そこで江本さんが、何かを思い出したかのように言います。
「はい。あまり、胸を張れる編集ではありませんでしたが……」
「まあ、いろいろあったけど、一次合評で荒れたって聞いてたからさ。お疲れ様でした」
「江本さんも、作品を出されていましたよね。お疲れ様です」
 互いを労う流れになり、わたしは少し気恥しさもありましたが、それ以上にやりがいを感じました。文芸部はこうでなければと思います。やはりお互いの作品について話して盛り上がっているときが、一番楽しいのです。
「浦川の作品は、傑作選載るかもな。僕は一年誌のほうが好きだけど、冬部誌のがわかりやすいかもしれない」
 話が進むうちに、八戸さんが先生の作品に言及します。江本さんが頷き、小野寺さんがやや前のめりになりました。
「『氷河に還る』、私も好きです」
 さすがは先生のファンです。一年誌の作品もしっかりと読んでくれていました。しかし先生には、その思いがどれだけ届いているのか全くわかりません。
「先生はあんまり、傑作選には乗り気じゃないんですよね」
「そうなの?」
「ありがたくもこれだけ支持されているのに、愛想がないものですよ」
「でも、浦川さんらしいかも」
 元々が求道者気質の先生は、もちろん読者に媚びるような書き方を好みません。編集の段階で読者層に合わせたディレクションを施すこともありますが、刹那的な流行への追従やあからさまなパフォーマンスなどは、わたしも先生の作品に不要なものだと思います。
「それにしても、もう少し普通に読んでくれる人のことを大切にしたほうが良いと思うんですよ。向上心があるのは素晴らしいことですが、先生ってばそればかりで、ごく普通の『面白かった』とか『作品が好きだ』といった声には反応が薄いので」
「そういう姿勢で、結果も出てるから……仕方ないのかなって」
 小野寺さんは俯きます。その言葉には、先生に関する葛藤めいたものが感じられました。ファンの心理も単純ではありません。
「まあでも、小野寺さんは是非とも、先生に直接感想を伝えてあげてください」
「うん。そのうち……」
 こちらも不思議なことに、高校時代と同じ片思い状態が続いているようなのです。その気になればわたしが仲介して、二人を引き合わせることもできますが、小野寺さんはそれを望まないのでしょう。まるで本当の片思いです。だとすれば、先生は鈍感が過ぎます。

 デザートのシャーベットを食べ、ラストオーダーが過ぎ、忘年会も終わりが見え始めた頃でした。いよいよ高本さんと江本さんが立ち上がります。
「皆様、宴もたけなわではございますが、ここで前部長の下野さん、前副部長の明石さんに、色紙と記念品の贈呈を行います」
 指名された二人もその場で立ち上がり、部長同士、副部長同士で品の受け渡しが行われました。拍手が起こり熱気の冷めやらぬ中、下野さんが口を開きました。
「皆さん、本当にありがとうございました。部長としての一年間は大変なこともありましたが、皆さんのおかげで、楽しく過ごすことができたと思っています。二年目や一年目の皆さんは、これからもお互い協力して、良い文芸部を創ってもらえればと思います」
 明石さんは早くも記念品の中身を確かめていました。万年筆だったようです。
「みんなありがとう! とても嬉しいです。私は副部長としての働きは多くなくて、少し申し訳ないですが、無事に役目を終えることができたことには感謝しかありません。これからは、後輩たちの活躍に期待しています。今日はありがとうございました!」
 二人の言葉は全体に向けた典型的なものでしたが、それが却って穏やかな時代の尊さを感じさせます。改革だけが運営ではありません。部を一年間無事に楽しく保てたなら、それは立派な成功なのです。わたしはそのことを忘れかけていました。
 あの選挙の夜に巻き起こった風は、わたしたちに漠然とした不安を運んできたのだと思います。自分の「居場所」は自分で守ると、態度を変えた人たちを見てきました。小さなテリトリーへ、自らを匿おうとする人たちを見てきました。このままでは部員間の分断が進むのは明らかです。
 改革の道は崩れる橋のように、後戻りもできずに走り続けることになりがちです。その先に理想郷があったとしても、本気でそれを信じて走り続ける人は多くありません。大抵は元の「居場所」に未練を持ちながら、急かされて足を動かすのです。
 高本さんにとって好からぬ方向へ事態は動いていました。それは、本人もよく認識していることだったと思います。

九 薄明

 三が日が明け、最初の火曜日です。本来ならば今年最初の部会があり、部員の皆さんと新年の挨拶を交わしているところでしたが、わたしは床に臥せています。三十九度に迫る高熱と激しい悪寒、起き上がる気力すら奪う四肢の鈍痛、水の味もわからなくなるほど炎症を起こした喉――そうです。新年早々、インフルエンザに罹ってしまったのです。
 今日の部会では、傑作選に掲載の決まった作品の編集を決めると聞いています。こんな日にこそ重要な議題はあるものです。わたしも編集を務めたい意欲ばかりはありましたが、外出もままならない状況でできるはずもありません。
 編集については潔く諦めるとしても、気になることはもう一つありました。なんと先生が一年誌に出した『氷河に還る』が選出されたのです。そして昨日、小野寺さんからこんなメールが届いていました。
『私、浦川さんの編集になれるかな』
 それは可能かどうかというより、資格があるかどうかを問うていたのでしょう。まさに勇気を出して先生の編集になろうとしているところなのだと思います。しかしこうして寝込んでいるわたしには、応援の言葉を返すくらいしかできませんでした。
『先生なら大丈夫ですよ。小野寺さんがやる気を見せれば、受け入れてくれると思います』
 部会に出ている先生がどのような対応をするのか気になりますが、足掻くだけ無駄なので、大人しく寝ていろという話なのです。わたしは諦めてひと眠りしました。スマホの通知音で目が覚めて、議事録のメールが届いていることに気付きます。既に午後九時を回っていますが、部会はあまり長引かなかったようです。
 他の内容を飛ばして、決まった編集のリストを見ると……。
『浦川 黒沢』
 先生の編集が、二年目の黒沢さんになっているではありませんか! わたしは思わず驚きの声を出してしまい、すぐに喉の痛みで咳き込むことになりました。

 ちなみに、投票の結果を見ると先生は小説の四番手くらいで、より上には八戸さんや上尾さん、山根さんの作品がありました。八戸さんは傑作選の投票期間が始まると、総決算とばかりに掌編の作品や短歌などを投稿し、そのうち二つが選出されたのです。マスカレードで優勝した『油地獄』はエントリーされていませんでした。それもそのはず、瀬田さんは四年生で、今は卒論の審査の真っ只中なのです。
 さすがに傑作選の投票は記名式で、アンケートには投票した理由を記述するコメント欄も設けることになっていました。そして自分の作品には投票しないようにと大藤さんがアナウンスしてくれましたが、それを堂々と破った人がいました。
『私の作品こそが傑作選に相応しいものであります』
 そのようなコメントと共に、自分の作品にのみ投票されたのは、他でもない高本部長でした。投票は無効となり、後に大藤さんや江本さんにたしなめられたということです。
 先生はそのような手段に頼ることもなく、一年目から四年目まで幅広く票を集めました。着実に先生の作品の認知度は高まっていると感じます。
 ということで、週末にようやく熱の下がったわたしは、ビデオ通話で先生の近況を聞き出すことにしました。
「先生……お久しぶりです。あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとう。災難だったな」
「期せず一週間も寝正月を延長してしまいましたが……先生はお元気ですか?」
「わたしは変わらないよ」
 わたしの身を案じてくれているのか、先生はいつもより優しい調子で話しているように感じました。
「本題ですけど、先生の編集が黒沢さんになったと聞きまして。上手くやってますか?」
「まあな。堅実な編集をしてくれているよ。しかし合評も免除だ、あの作品は軽く手直しをする程度で出そうと思っている。今、次の作品のほうが捗っているのでな。この勢いを止めたくない」
「楽しみにしていますよ」
 余裕のありそうな雰囲気です。この調子ならば執筆に問題はないでしょう。しかし、小野寺さんのことを無視するわけにはいきません。
「ところで先生、小野寺さんが立候補しませんでしたか?」
「ああ……何故知っている」
 先生は訝しげに首を傾げました。
「いえ、月曜日に小野寺さんからメールが来たんですよ。それで、先生の編集になりたいようだったので」
「確かに小野寺も立候補したよ。でも、わたしが黒沢氏を選んだ」
「そうですか……」
 先生自身が選んだなら仕方がないのかもしれません。客観的に見れば自然なことです。しかし小野寺さんの背中を押した身としては、どうしても残念に思ってしまいます。
「何故、残念そうにする?」
「わたしも、小野寺さんのことを応援した立場なので……」
「……編集を経験したいのなら、わたしでなくても良いだろう。そうしなかったならば、小野寺の意思などその程度だったということだ」
 ところが先生は冷たく言い切りました。今回は度を越して冷徹だと思います。
「先生、それはひどいのではありませんか? 小野寺さんは初めての編集ですけど、先生の作品はよく読み込んでいますし、熱意は本物ですよ。大きく改稿するつもりがないのなら、先生が編集のやり方を教えるくらいの気持ちでも良かったのでは?」
「……ともかくだ。わたしは今、小野寺に構っている時間はない。この話は終わりだ」
 画面の向こうの先生は俯いて、顔を見せてくれません。どうしてここまで小野寺さんを遠ざけようとするのか、わたしにはまるでわかりませんでした。

 週明けの月曜日に、わたしは小野寺さんと会う約束をしました。ちょうど午後に共通の空きコマがあったのです。小野寺さんが行きたい場所があると言うので、わたしは後について、東へ向かってまっすぐ歩いていきました。
 よく晴れていましたが、頬が痛くなって熱を持つほど冷えています。凍り付いた路面を慎重に歩いて、教養棟を出てから十五分くらい。その間、小野寺さんは喋りませんでした。
「あそこ」
 創成川の広い道路に差し掛かったところで、小野寺さんが向かい側を指しました。石造りの鳥居が見えます。
「神社、ですか?」
「うん」
 鳥居の傍らには石碑が立っていて、近づいて見ると「諏訪神社」という文字が読み取れました。境内に人はなく、踏み入った途端、すっと辺りが静まったような気がします。
「こんな場所、よく知ってましたね」
「車で通ったときに見かけて、気になってたの」
 来たからには、最初に二人でお参りをしました。わたしにとっては遅い初詣です。今年も先生や文芸部の仲間たちと、豊かな創作ができますように。深く考えずにそんな願いを掛けてしまいましたが、気付いたのは階段を下りてからのことです。
「ここは、何の神様なんですかね?」
「殖産と勝負の神様。それから……縁結びの神様」
 小野寺さんは立派な木の幹に寄りかかり、少し恥ずかしそうに答えました。どうやら、わたしは少し的外れな願いを持ち込んでしまったようです。それはさておき、ここに来たことについては納得がいきました。
「先生と縁があるように……ですか」
「うん。編集にはなれなかったけど、頑張っていつか、浦川さんと一緒に文芸がしたい」
 わたしは思わず下唇を噛んでしまいます。なんといじらしいことでしょう! これほどまでに慕う人がいるのに、先生の薄情なことと来たら!
「でも、先生もひどいですよね。ちゃんと言ってやりたかったですけど、逃げられてしまいました。小野寺さんに教えるくらいの器の大きさを見せて欲しかったのに」
「ありがとう。でも……油断すると、考えちゃうの。浦川さんはやっぱり、私のこと迷惑なのかなって」
「そんな……」
 どうにかして小野寺さんを励ましたいと思いましたが、わたしには明らかな嘘を言うことはできませんでした。
 この神社の空間には、不思議な魅力があります。不安を抱えたままの心では、どうにも離れがたく感じてしまうのです。わたしは先生に小野寺さんを受け入れてもらうシナリオを必死に考えました。しかし、先生の閉ざされた心を開くのは容易ではないでしょう。そこでわたしは、一つの疑問に行きあたります。
「それにしても変ですよね。小野寺さんは、先生のためだけに文芸を始めたわけではないのに、先生はそう思っているみたいなんです」
 先生はああ見えて、無暗に追従されるのは好きではありません。そうだとしても、今回に関しては完全に誤解だと思います。
「それは……多分、私のせい」
 ところが、小野寺さんには思い当たることがあるようでした。
「そんなこと、ありましたか?」
「高校の頃なの」
 思いのほか根の深い問題が見えます。小野寺さんは、先生との知られざる馴れ初めを話してくれました。

 その話は長く取り留めのない話だったので、僭越ながらわたしの語りでまとめさせていただきます。
 事の始まりは高校三年の夏でした。学校祭が終わって少し経った頃、軽音楽部を引退した小野寺さんは一編の詩を書きました。それは当時のわたしたちの部誌に載っていた、先生の作品に触発されたものだったそうです。小野寺さんはそれを、思い切って先生に見せたのでした。
「私、浦川さんの作品が好きで……『イモータル・エフェメラル』の世界観で、詩を書いてみたの。読んでくれたら、嬉しい」
 世にファンレター、ファンアートはあれど、ファンポエムはなかなかありません。先生は最初戸惑った様子でしたが、その作品を受け取って読みました。その感想はこうです。
「これは歌詞だな。内容よりも音韻やリズムのために割かれた言葉が多い、完全なる歌詞だ」
 軽音楽部で作詞をしていた小野寺さんの作風を、先生は一目で見抜いてしまったのです。
「すごい、わかるんだ。私、軽音楽部で作詞してたの」
 小野寺さんにはそれが、自分の歌詞を認められたように感じられたそうです。そしてやや興奮したまま、軽音楽部に属していたことを明かしました。
 しかし、先生は作品に興味を持ったわけではなく、冷たくこう返したとのことです。
「その詞なら、二次創作に含める必要もないだろう。わたしなどのところに来るよりほかに、活躍できる場所があるのではないか?」
 住む世界が違うのだ、と。乙女心など歯牙にもかけない大失言です。炎上ものです。こんなことを、先生は良かれと思って言ってしまったのでしょう。小野寺さんは困惑しました。
「……もしかして、迷惑だった?」
「そういうわけではないが、わたしに構うよりも、することがあるだろう」
 ただ先生への憧れを伝えたくて、あわよくばファンとして認識してくれたら嬉しい……そんな小野寺さんの思いは、ひとかけらも届くことはなかったのです。
 それ以来悲しいことに、小野寺さんは自ら先生と距離を置くようになってしまいました。それでもいつか先生との縁があることを信じて、文芸だけは一人で続けてきたということです。
 当時、わたしはこの一件を全く知りませんでした。先生もこんな隠し事ができるのだと感心したくらいです。わたしは先生の「書く仕事」だけを見ていて、それがすべてだと思っていたのです。

 小野寺さんの乗り越えた壁は、今回先生の編集に立候補することだけではありませんでした。先生のいるこの部に入部した時点で、既に一つの壁を越えていたのです。わたしはその夜、もう一度先生とビデオ通話を繋ぎました。
「先生! 小野寺さんのファンポエムのこと、どうして隠してたんですか?」
 挨拶もそこそこに、わたしは話題を切り出します。先生は諦めたようにため息をつきました。
「……聞いたのか。だが、あれはわたしたちの世界の『詩』ではなかったんだ。だから、文芸をする身として、敢えて話すことでもないと思った。それだけだ」
「だからといって、住む世界が違うなんて言わなくても良かったのでは?」
「その考えは、今でも変わらないよ」
 それでも先生は頑なに、小野寺さんの文芸に向かう姿勢を認めようとしません。
「先生は、小野寺さんの作品に何か不満があったんですか?」
「……」
 何かはわかりませんが、どうしても譲れないことがあるようです。
「お願いです。小野寺さんには言いませんから、教えてください」
「これだけは、言うなよ」
「はい。誓います」
 先生はそれでも少し逡巡していました。小野寺さんに対する本心がそこにあったのです。
「わたしは小野寺が、それを『詩』だと言って見せたのが理解できなかった。『歌詞』が書けるのならそれで良いではないか。それは小野寺の気の迷いだと思った。だから、音楽の世界へ戻るべきだと言ったんだ」
「そうでしたか……」
「『詩』が『歌詞』になることはあっても、逆はほとんどない。小野寺はわたしなどのために、敢えてその細道を来るべきではないと思った。繰り返すが、この考えは今も変わらない。結局、小野寺はこの部に入部してから、作品を出してもいないだろう。わたしを見失わないためだけにこの部にいるのなら、そんなことに意味はない」
 厳しい言い方でしたが、わたしはようやく、その奥底にある先生の不器用な優しさを感じ取ることができました。つまり、先生は小野寺さん自身を認めていないわけではなかったのです。
「では、小野寺さんが本当に『文芸』の作品を書いた日には……先生も認めてくださるということですね?」
「認めよう。だがその日までは、小野寺がどれだけわたしを追いかけようと、振り向くまいと思う」
 思いの丈は作品で示せということです。それはこの上なく先生らしい、シンプルな答えでした。わたしは小野寺さんの素敵な乙女心に共感するあまり、それが武骨な先生に通用するはずのないという事実を見失っていたのでした。
「わかりました。ではわたしは今回、小野寺さんに味方させてもらいますよ。小野寺さんの作品で、先生をやっつけてやります!」
「小野寺に直接話すのは反則だからな。本当にできるのなら、楽しみにしているよ」
 そこでわたしは今年初めて、先生の笑顔を見ました。ちょっと憎たらしい笑顔です。新年に相応しい、大仕事の始まりでした。

 翌日、部会前の五限に、わたしは年明け初めてのボックスに立ち寄りました。ところが、いつもの場所には誰もいません。世間的にはテスト期間なので不思議なことではないのですが、あまりに休みが長くて潮流に取り残されたわたしはそれに気付かず、店先に繋がれた犬のように誰かが来るのを待つことしかできなかったのです。
「おや、今日は一人か?」
 五分くらい経って、先生が来てくれました。特に待ち望んでいたというわけではありませんが、声を掛けられた瞬間から、特別な安心を感じます。
「先生! 生身で会うのは初めてですね。今年もよろしくお願いします」
「ふふ、松の内が明けてしまったからな。七草粥は食べたか?」
「残念ながら、今まで一度も……冬至のかぼちゃは、去年もちゃんと食べたんですよ。というか、先生は七草粥、食べたことありますか?」
「一度はあるが……特別、面白みはなかったぞ。あれは一つの神事だ。信仰がなければ何にもならない」
「そうですか」
 幸先の悪い新年でしたが、こうして先生と何気ない話をしていると、精神的には元気に過ごしていけそうな気がします。
「ところで、今日はどうしてここへ?」
「そろそろ来るはずなのだが……」
 するとそこへ、黒沢さんが到着しました。予想のできたことではありますが、傑作選の編集です。文学部から歩いてきたのか、両肩が雪で濡れています。
「お疲れ様です」
「黒沢さん、今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 挨拶を交わしましたが、これから二人で打ち合わせが行われる場に、わたしは無用です。邪魔をしないように、図書館にでも行こうと思いました。
「打ち合わせでしたら、わたしのことは気にせず、どうぞ……」
「中津さん。居ても大丈夫ですよ。私たちはそっちでやるので」
 立ち上がったところで、黒沢さんに引き止められます。それと同時に、先生がわたしの肩に手を置きました。
「良ければ三人で話をしないか? ここも最初の編集だし、今回はもう最後のチェックだから、二人の意見を聞ければありがたい」
 気を遣ってくれたのでしょう。わたしに拒否する理由はありません。
「それでしたら、わたしは喜んでお手伝いしますが……黒沢さんは大丈夫ですか?」
「いいですよ」
 こうしてわたしたちは三人で、先生の原稿の最終チェックをしました。実際、黒沢さんの編集でも修正を迫られた箇所はほぼなく、変更箇所の多くは先生自身による微調整です。話はすんなりと終わりました。
「よし、ではこれを反映させて提出しよう」
「はい。お願いします」
 五限の時間はまだ半分ほどあります。そのまま解散するのも退屈なので、わたしは黒沢さんにも近況を聞くことにしました。
「黒沢さんは、今回どうして先生の編集に?」
「まあその、浦川さんが、この作品に投票した人を希望していたので」
「先生、そんな希望を出していたんですね」
 ちなみにわたしは、先生の作品には投票していません。先生が傑作選に乗り気でないことを知っていたからというのもありますし、組織票のようになるのも嫌だったのです。
 それにしても、この条件が小野寺さんにもぴったり当てはまっていたのは言うまでもありません。なんだか意地悪な感じもしますが、それについてはもはや言わないことにしましょう。
「選ばれた作品には、ある意味で部員のお墨付きがあるはずだ。傑作選としてそれが実質の要件なら、わざわざ物言いを聞き入れて、内容を変えてしまう必要もないだろう。投票した者なら、そのリスクを抑えられると考えた」
「もう本当に、リソースを抑えてますね……」
 さすがに黒沢さんも苦笑していましたが、期間も短い中で部誌と同じ感覚で斬られては、選ばれた側もたまらないでしょう。そこは上手にコントロールして得をする人がいてもおかしくはないと思います。
 そこで不意に、黒沢さんが顔を上げました。
「大藤くん」
 暖かそうなフードを被って現れた大藤さんは、リュックにも雪を積もらせています。
「雪山帰りですか? あっ、今年もよろしくお願いします」
「普通に吹雪だよ! 今年もよろしく」
 外の様子は暗くてわかりませんが、この五限の時間になってから、雪は次第に強くなっているようです。
「吹雪か……」
 先生が呟きながら、気だるげに立ち上がりました。コートを掴んだので声を掛けます。
「先生、どこか行くんですか?」
「図書館で作品を仕上げながら、吹雪が過ぎるのを待つことにした。部会には出ないから、連絡があれば聞いておいてくれないか」
「せっかくこの時間までいることですし、部会には出ましょうよ」
「わたしは今、隠遁中なのだから」
 隠遁中だと対面で言われるのはかなり奇妙な状況ですが、要するに部会が面倒くさいのです。わたしは少し寂しくなりましたが、そのまま去っていく先生を見送りました。
 先生が見えなくなった後で、黒沢さんが口を開きます。
「浦川さんが言ってた、隠遁というのは?」
 当然の疑問でしたが、わたしはどれだけオブラートに包んで説明するか、困ってしまいます。
「執筆に集中したいようなのですが……まあ、忙しいみたいですね」
 その実、運営に関わることから距離を置こうとしているとは言えません。間違いなく、二年目のお二人に対する直接的な批判になります。わたしはなんとなく流して、その後は文学部の話をしました。そろそろ講座を選ばなければならない時期なのです。

 考え直してくれたらという願いも空しく、部会の開かれる教室にも先生はいませんでした。そして皆さんと新年の挨拶を交わすうちに、もう一人、大抵いるはずの人がいないことに気付いたのです。
「新井くん。朝倉さんは今日、お休みですか?」
 昨日の授業には出ていたはずの朝倉さんです。知っているだろうと当たりをつけて新井くんに声を掛けると、その表情にやはり何かあったのだろうという雰囲気が感じ取れました。
「香奈実ちゃんなあ。かわいそうに昨日の夜から体調崩して、病院に行ったらインフルエンザだったんだと。予防接種したって言ってたのに……中津さんも気をつけてな」
「恥ずかしながら、わたしもインフルに罹ってしまったので……新井くんこそ、用心してくださいね」
「ああ。そういうわけで、今日の書記は俺がする」
 話しながら、新井くんは幅の広いバッグからノートパソコンを取り出しました。
「今日、浦川さんは?」
「先生は、執筆で図書館に籠っています。雪が止んだら、そのまま帰るみたいですよ。部会に顔を出してくれてもいいのに……」
「まあ正直、部会も面倒なことあるからなあ。俺も今日は、書記の使命がなければ帰ろうと思ってたし」
「朝倉さんがいないからですか?」
「皆までは言わないが」
 自分に目的のない部会には、出席する意味がない。先生にも新井くんにも、そんな考えがあるようです。実際、ただ連絡を聞くだけなら、後から議事録を読むだけでも大丈夫です。
 しかし、今や数少ない交流の場となった部会から人が離れるのは、部としてとても危険な兆候ではないかと感じます。
「わたしはやっぱり、部会に皆さんが来ているのを見るだけでも安心します。ボックスが閑散としている今、部会でも会えなくなった人は、それきりになるのではないかと思ってしまうんです。飯綱さんとか……」
「……まあな」
 飯綱さんの名前を出したことで、新井くんの表情が動きました。
「中津さん、名簿の管理やってたよな。飯綱さんはもう退部扱いなのか?」
「名前は残っていますよ。確か、規約上は二期連続で部費が未納になれば、除名になるらしいのですが」
「丸一年間か。また随分と猶予があるんやな」
 実際、名簿にはもはや名前すら聞いたことのない人がたくさんいます。そんな人も含めて、幽霊部員だと思われる人は三分の一から半分くらいになります。毎回毎回、例会がすんなりと成立しない理由です。
「そうですね。今のところは、例会が成立しにくくなること以外に害はないみたいですし、見過ごされているのでしょう」
「それ、結構問題やと思うけどな……」
 新井くんは不満げに首を捻ります。わたしはそれが実際、少し嬉しかったのです。
「実際、幽霊部員がたくさんいることだけでも、イメージは良くないですよね」
「でも、そんなこと気にしない人のほうが多いんやろ」
 もう少し話したいところでしたが、その辺りで部会の始まる時間になってしまいました。

 この時期は学業も忙しいのに、文芸部でもたくさんの企画や仕事があります。全体としては傑作選の制作期間ですが、裏では新歓や学校祭に向けての準備も進んでいますし、春休みには四年生の追い出しコンパ、そしてマスカレードや温泉合宿も予定されています。部会ではこれらについての連絡が次から次へとされました。
 わたしはパソコンで議事録を取る新井くんを横から見ていましたが、その指はなかなか休まることがありませんでした。
 そのうち各担当者からの連絡が終わりましたが、最後に高本さんが、ある発表をしました。
「ここで、私が二年目を代表して、先週末の会議について報告いたします」
 わたしにとっては唐突なことでしたが、新井くんによると、会議のことは先週の部会で告知されていたようです。高本さんは粛々と話を進めます。
「私はかねてより、部誌や合評も含めた作品制作への意欲の低下を憂慮しておりました。特に最近では、限られた人としか交流のない部員が増えたことにより、上年目からの知恵や技術の継承も滞っているように感じられます。私たちはそれらを打開するための方針について話し合いました」
 その間、江本さんが黒板に文字を書いていきます。箇条書きで、項目は二つ。高本さんの言う「方針」とは、次のようなものです。
 二年目以上の部員は、年に一作品以上の発表を目標とする。
 上年目は、新入生や下の年目の部員と積極的に交流するよう努める。
「これらは強制ではありませんが、この文芸部が名実ともに『文芸をする部』であるために、皆様にも心に留めて頂きたい努力目標です」
 やや過激な文言に、毎度のことながら場がざわつきます。すぐさま山根さんが手を挙げました。
「あの。これらは努力目標とのことですが、これを決めた二年目の皆さんは、具体的にどのような活動によって、これを達成しようとしていますか? 特に、年に一作品以上発表するというのは、部員それぞれについて管理、監視するということですか?」
 呼びかけてこれっきりでは、当然何が変わるはずもないでしょう。だからと言って作品の発表をただただ強制するようになってしまうのも、運営としてあまりに無責任だと思います。少子化問題を解決できない政府のようなものです。
 それに対して、高本さんは比較的冷静に答えました。
「仮に達成できない人がいたとしても、その個人を糾弾するようなことはございません。今後は、部誌や企画、そして江本くんが進めているインターネットを含めた、この部の作品発表の場をより活用し、誰もが参加しやすく、有意義なものにしたいと考えております。その結果として、皆さんが一年間のうちに一作品でも発表していることを目指すということです」
 なんとなくですが、選挙のときの答弁から前に進んでいるような気がします。周囲とのコミュニケーションが取れて、実際に二年目を代表した意見になっているのでしょう。しかし、山根さんの求めるような具体性にはもう少し足りないという印象を受けました。山根さん自身もそう感じたようです。
「ただ場があるだけでは、僕なんかもそうですが、黙っていても書く人が参加するだけだと思います。部長は今、積極的には作品を書いていない部員に、どのような働きかけができると思いますか?」
 やや誘導的ではありますが、大きなヒントです。その意図を、高本さんが汲み取れたかと言えば……。
「はい。現状では部誌についても、参加することに心理的抵抗感を持っている方がいらっしゃると聞いております。しかし、それ以外に合評をしたり、多くの部員の目に触れて感想を集められる機会が、この部には多くありません。まずはそういった場を企画として充実させ、普段あまり書かない方も、創作に慣れる場とする構想を持っております」
 なかなか今回は、悪くない調子です。二年目の中で対策をしてきたのかもしれません。これから新歓に向かう中で上手くその企画からの流れを確立できれば、新入生にとっても入りやすい部になると思います。
「わかりました。ありがとうございます」
 山根さんはそこで下がりましたが、選挙のときのような不満は見せていませんでした。
 次に手を挙げたのは明石さんです。
「あの、私がちょっと気になるのは、みんなが書くばかりでも、上手く回らなくなるということです。そしてやっぱり、読むこととか、編集で活躍しようと思っている部員もいるので、書くことばかりを重要視するのは、違うのかなって思います」
 それはわたしにも関わる内容でした。全く作品を書けないわけではありませんが、編集による貢献が認められるのならばありがたいことです。
「はい。貴重なご意見、ありがとうございます。編集のことに関しては、私たちでは考えが及びませんでした。例えばこちらの文言を、このように変更するというのはいかがでしょうか」
 すると高本さんは、江本さんに指示を出し、一つ目の目標を書き直しました。
 二年目以上の部員は、年に一作品以上を発表すること、あるいは一回以上編集を務めることを目標とする。
 わたしは実際驚きました。あの頑固な高本さんが、この短い間に至らない部分を認め、意見を取り入れる柔軟さを見せたのです。これには明石さんも納得していました。
「そのほうが、書きたい人も読みたい人も、活躍しやすくなると思います」
 二つ目の目標についても細かな質問はありましたが、高本さんは各班と連携して交流の場を活性化するという姿勢を見せ、これらの努力目標はかつてなくすんなりと承認されました。
 それでわたしは、この部もまだまだ終わったものではないと感じました。心の中にあった漠然とした不安が薄まり、もう少し高本さんや、これから三年目となる運営陣の皆さんについて行こうと思ったのです。
 部会が終わってから黒沢さんや大藤さんに聞きましたが、裏では案の定、とても大変な会議があったとのことです。しかし、二人の表情は達成感に満ちていました。互いに本音をぶつけ合い、そのうえで譲歩し合うところまでようやくたどり着けたのです。
 先生にも、この場で見てほしかったと思います。

 その帰りは小野寺さんに声を掛けて、ご一緒させてもらうことにしました。雪は弱まり、静まり返ったメインストリートを白い街灯が清らかに照らしています。歩道には足が半分埋まるほど積もっており、数名が通った程度の細い通路ができているだけでした。わたしは小野寺さんの後ろを歩きます。
「小野寺さん。春のマスカレードに、作品を出してみませんか?」
「……うん。考えてたところ」
 表情はわかりませんが、まだ迷いのありそうな声です。
「先生に作品を読まれるのが不安ですか?」
「違う、けど……そうかも。文芸部に入ったのはいいけど、私にはまだ、文芸ができるのかどうかも、わからないから」
 この部で作品を発表すれば当然、先生に読まれるでしょう。それは紛れもなく、小野寺さんが越えようとしている最後の壁です。わたしはそれを助けるためにここにいるのです。
「出すなら、やっぱり詩でしょうか?」
「そう思う。ちゃんと、歌詞じゃない詩も書けるようになったのを、浦川さんに見てほしい」
 劣等感を克服するための、真っ向勝負ということです。ますます負けられません。わたしも気合が入ります。
「よろしければ、わたしも協力しますよ。提出前に見せてくれれば、感想もお伝えできますし」
 しかし、小野寺さんはこちらを向いて首を振りました。
「そこまではいいよ」
 本当に大切な作品は、自分だけで仕上げたい。そんな強い意志を感じます。邪魔をすることになってはいけません。
「わかりました。応援はしますので、何かできることがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
「……ありがとう」
 少しもどかしい思いもありましたが、わたしばかりが焦っても仕方がありません。小野寺さんは再び前を向いて歩きます。そのときでした。
「あっ」
 歩道の切れ目の下り坂になったところで足を滑らせたのでしょう、小野寺さんが転んでしまったのです。
「大丈夫ですか!」
「平気……あんまり、痛くなかった」
 わたしも慎重に近づきますが、そこは積もったばかりの雪の下に、ほとんど摩擦なく滑る氷が隠れていました。幸い、小野寺さんはわたしが手を貸すまでもなく立ち上がりました。
「転んでひっくり返る感じは、あんまり嫌いじゃない」
「そうなんですか?」
「昔は、スキーもよく行ったから」
「結構アウトドア派なんですね」
 すると小野寺さんは、再び歩き出すなり、秋合宿のときのように歌い始めました。

  ひっくり返って雪まみれ 強がりわたしの息は切れ
  君の描いたシュプールも 見失ったらまっしろけ
  決めて見せたいパラレルターン 頑張るわたしの冒険譚
  直滑降で先回り 妄想だけが空回り 立ち上がったら脚が震えた

 湖の歌よりもアップテンポですが、切なさを感じるメロディラインです。サビと思われる一節だけでしたが、慣れないスキーで憧れの人を必死に追いかけるような、今の小野寺さんの状況にも重なる情景が浮かびます。
「それも、小野寺さんの歌ですか?」
「『パラレルターン』っていうの。自分で言うのも変だけど……好きな歌だった」
「そうなんですね。どんな歌なんですか?」
「何度転んでも頑張るの。思った通り上手くはいかないし、転ぶのは怖いけど、それでも立ち上がって滑り出す。そんな、勇気の歌」
 歌われたのは一番のサビで、最後のサビではその頑張りがちょっと報われる瞬間が来るのだそうです。
「小野寺さんの歌は、何曲くらいあるんですか?」
「二年間で七曲作った。詞はもっと作ったんだけど、曲を付けるのは大変だから。『パラレルターン』は、その最初の曲」
「デビュー曲ですか。それは思い出深いですね」
「うん。ライブでもだいたい、最初かその次くらいに歌うの」
 それを聞いた覚えのないわたしは、本当にただの通りすがりだったのでした。それで芽生えた興味のままに話を掘り下げていきます。
「小野寺さんの歌、もっと聞きたいです」
 しかしそれは、言ってしまってから失敗だと思いました。わたし自身が小野寺さんを音楽へ引き戻してしまっては、この上ない足手まといです。
「動画ならあるけど……やっぱりダメ。私も見てないから」
 小野寺さんは踏みとどまってくれました。わたしは安心しながらも、速やかに話題の方向を戻します。
「いえ、いいんですよ。今は文芸部員ですからね。何よりもやっぱり、小野寺さんの作品を読むのが楽しみです」
「それはちょっと、プレッシャーになる」
「あっ……失礼しました」
 もしやわたしも、自分で思うほど小野寺さんの心境に寄り添えていないのでは?
 そんな不安がありながらも、わたしは小野寺さんが心のうちに秘めた強いやる気を感じ取っています。実際には音楽も、捨て去った過去のものではなく、新しいことへ挑戦するときの支えとなっているのだと思います。だから、わたしが心配するまでもないのでしょう。
 メインストリートを抜けて、小野寺さんとは大学の構内から出たところで別れました。

 家に着いてから、わたしは真っ先にメールドライブを確認します。受信トレイの一番上に、先生の作品が上がっていました。時間は、部会がちょうど始まった頃です。
 先生はそれでも、部会には来なかったのでした。
 一方、メーリングリストには議事録が流れていました。差出人は朝倉さんになっています。新井くんから議事録を受け取る約束になっていたのでしょう。部会に出ていなければ、あたかも朝倉さんが出席していたかのように見えます。
 先生は今、朝倉さんがインフルエンザで欠席していることも知らずに……。
 気にしすぎだという自覚はあります。しかし、せっかく部が良い方向へ動き出そうとしているときに、部から離れようとする先生をわたしは見過ごせないのです。
 メッセージを送ることにしました。
『作品の提出お疲れさまでした。議事録は読まれましたか? 二年目の皆さんが、文芸に対して真摯な文芸部を後輩へ引き継ごうと、まとまりつつあります。今はまだ、先生にとっていつも居たいような場所ではないかもしれませんが……わたしは先生や皆さんと、より良い作品を目指せる部になっていくことを信じています。だから、あまり離れすぎないでくださいね』
 返信はただ一文でした。
『春までの辛抱だ』
 あくまで考えは変わらないようです。
 ただ待つばかりで過ごすには、北国の冬は長すぎると思います。

十 絆

 かつて海水浴場の駅があったという場所を過ぎました。今は駅舎もホームも完全に取り払われ、知っていてもその場所を確かめることは困難です。わたしもスマートフォンがなければ、気付かず通り過ぎてしまったでしょう。
 昨日の朝まで札幌は猛吹雪、こちら側も言わずもがなという天候でしたが、今日は久しぶりに気持ちよく晴れました。世間的にはバレンタインデーです。わたしたちはもちろんそんなものに縁のない人生ですが、せっかく冬休みに入ったわけで、各地で催される雪まつり的イベントに繰り出してみようと思い立ったのでした。
 隣の席では先生が、リュックを抱えて眠りこけています。執筆のために隠遁中だという先生を連れ出すために、わたしはある人の助けを借りなければなりませんでした。
 ……とまあ、大袈裟に言いましたが、真相は染谷さんと冬の小樽を見物するという名目で先生を誘ったということです。
 札幌の雪まつりの後に入れ替わるタイミングで、小樽では「雪あかりの路」というイベントが始まります。わたしがそれを知ったのは一月末のことでした。授業の課題でチャタレー裁判に関するレポートを書いていたとき、伊藤整を調べる途中で目に留まったのです。そのイベントは、伊藤整の詩集『雪明りの路』にちなんで名づけられたそうです。
 わたしはまず、染谷さんにメッセージを送りました。
『お久しぶりです。二月に小樽で、「雪あかりの路」というイベントがあるそうです。よろしければ、ご一緒しませんか?』
『久しぶり。十一日か十二日はどうかな』
『ありがとうございます。では、先生とも予定を合わせて、また連絡しますね』
 先生は染谷さんの名前を出すとすぐに、行くと言ってくれました。しかし日程は合わなかったらしく、三人で改めて話し合った結果、この十四日の土曜日になりました。
 わたしのリュックには、もちろんこの間の冬部誌が入っています。試験やレポートは全て終わり、冬休み中は文芸部の仕事も多くはありません。夏休みと同じく、有意義で楽しい休暇にしたいと思います。
 先生は疲れていたのか、終着の直前まで目を覚ましませんでした。

 待合室に着きましたが、染谷さんの姿はありませんでした。この時間に着くと伝えたとき、「待ってるね」と返事を頂いたはずでしたが……。
「中津さん、浦川さん」
「はい」
 不意に声を掛けられます。前方から上品なメイクをした女性が、深緑のダッフルコートを抱えて近づいてきました。すぐには気付きませんでしたが、彼女は染谷さんです。
「久しぶりだね」
「染谷さん……これはまた、麗しくなられて」
 ピアスは前回もありましたが、今回は爪にも光沢のある装飾を施しています。お洒落に関する経験値が一段と蓄積されたものと見えます。ちなみにわたしや先生の成長は皆無です。もはやナイーブです。
「先生、感想は?」
「良かったな。いざとなれば、染谷に助言を仰げる」
 先生はそれでも、あくまで自分からお洒落をしようという気持ちは芽生えないようです。わたしは少しだけ危機感を持ちました。自分のことも、先生のことも。
 それはさておき、わたしは忘れないうちに冬部誌を渡してから、時計を確認します。
「点火まで、三時間くらいですか」
「そうだね。午後五時からだって」
 その時間になると、会場では一斉にキャンドルに火が灯るそうです。それまでは、駅周辺を見物する計画でした。
 早速外に出るべく振り返ると、駅の売店のほうから、見慣れたカップルが歩いてくるのを見つけました。わたしは反射的に足を止めます。
「先生、ちょっと下がってください」
「どうした?」
「新井くんと、朝倉さんです」
 目的は間違いなく「雪あかりの路」でのデートです。日付を考えれば特に驚くべきことではありませんが、なんとなく今日は他人でいたい気がしたのでした。先生も二人に気が付きます。
「そうだな。隠れる必要はあるのか?」
「なんとなくですが……邪魔をすることになってもいけませんし」
 染谷さんは首を傾げました。
「二人の知り合い?」
「二人とも、文芸部の同期なんです。あの男性は今回の冬部誌で私が編集をした小説の作者、新村千草さんですね」
「そうなんだ」
 新井くんと朝倉さんが付き合っているのは誰の目にも明らかでしたが、わたしも染谷さんも、そこには触れませんでした。
 話しているうちに、二人は外へ出ていました。奥の市場のほうへ向かうのが見えたので、わたしたちも出発することにします。
「止めてしまってすみません。行きましょうか」
「ああ」
「まずは、都通りだね」
 ちなみに新井くんの向かった市場の入口には、石川啄木の歌碑があるそうです。わたしもインターネットでの下調べで知っていましたが、特に実物を見てありがたがるものでもないので、見には行きません。

 都通りは、札幌の狸小路のような歩行者天国のアーケード街です。その賑わいはさすがに狸小路と比較するほどではありませんが、それでも普段よりは人が多いようでした。
「染谷さんは普段、この辺りで遊んだりしているんですか?」
「そうだね。ショッピングもするし、喫茶店も何軒か入ったよ」
「小樽、満喫してますねえ」
 機会は札幌のほうが恵まれているはずなのに、わたしはそういった遊びをほとんどしたことがありません。学部の友人に誘われて一度、駅地下のアイスクリーム屋に行ったくらいです。先生は勝手に断言しますが、全くありません。
「そこの二階、喫茶店になってるんだけど、入ってみない?」
 入口の反対側まで来たところで、染谷さんがケーキ屋を指して教えてくれます。名前は知らないところでしたが、地元では古くからあり有名なお店だそうです。ずっと外にいるのも冷えてしまいそうなので、わたしたちは即決で入ることにしました。席にはすんなりと案内されましたが、見渡せば満席に近い状況です。
「ここは、何が人気なんですかね?」
「クリームぜんざいだって」
 メニューを開くと、最初のページの左上に写真が載っています。ソフトクリームが載っていて、清涼感のあるスイーツであることが一目でわかりました。季節には合いませんが、来たからには人気メニューを味わってみたいという気持ちもあります。
「コーヒーのセットで、ショートケーキにしようかな。二人はどうする?」
「わたしはホットコーヒーと、ティラミスにしよう」
 二人は無難に、コーヒーとケーキのセットを選びます。それが参考になりました。温かいコーヒーをつけるなら、ソフトクリームも大丈夫ではありませんか。わたしは決断しました。
「コーヒーと、クリームぜんざいにしましょう」
「見るからに冷たそうだぞ」
「まあ大丈夫ですよ」
 それなりに身構えていましたが、ぜんざいが実際に来るまでに冷えていた身体も温まり、問題なく美味しくいただくことができました。メインはソフトクリームですが、下のつぶ餡や団子と一緒に食べると、冷たさも甘さも程よく和らぐのです。
「若干古い時代の印象はありますが、落ち着くお店ですね」
 食べ進めつつ、改めて店内を見回してみます。内装のカーペットや座席のソファはワインレッドを基調としており、やや大人びた印象です。天井が白く明るいためか、陰気な感じはありません。
「この辺りは、和菓子も洋菓子も、老舗が多いイメージ。堺町に行ったら、最新のスイーツがある」
 堺町というのは、オルゴールやガラスの工房などもある小樽最大の観光街です。その辺りは、前回来たときに巡ったのでした。
「観光客は、新しい観光街のほうに集中するんですね」
「観光のわかりやすい動線って、どうしてもあるから……」
 観光バスのツアーで来るような場合は、バスが運河の辺りに停まるので、わざわざ駅の側まで来ないのです。
「まあでも、こうして並ばずにすんなり事が運ぶくらいがちょうどいいですね」
「そうだね」
 例えば札幌駅には、パフェやパンケーキのために一時間以上の行列が当たり前にできるようなパーラーがあります。相応に美味しいのかもしれませんが、そちらに誘われたとき、わたしは全く気が向きませんでした。
 興味のあるシチュエーションを考えたときに、私はふと、小野寺さんのことを思い出します。
「ところで染谷さんは、軽音楽部の小野寺さんを知っていますか?」
「軽音楽部の小野寺さん……望海ちゃんだよね。『マリンビュー』のボーカルの子」
 染谷さんが記憶をたどり始めると同時に、先生がちらりと苦々しい表情を見せます。わたしは初めて聞いたバンド名にも興味を持ちましたが、とりあわずそれらに構わず続けます。
「実は、わたしたちの文芸部に入ってくれたんですよ」
「そうなんだ。作詞もギターも歌もできて、文芸に来たのは意外」
「……席を外させてもらう」
 先生の小野寺さんに対する反応は、アレルギーじみてきたようにも思います。それでも、話すことは話させてもらいます。
「実はですね、小野寺さんが文芸を始めたのは、先生の『イモータル・エフェメラル』がきっかけだそうで」
「造花を植える話だよね。それは浦川さんも、嬉しかったんじゃないかな」
「ところがどっこい、先生ってば小野寺さんが才能を発揮する場は文芸じゃないとか言い出して、ああして遠ざけ続けているんですよ。ですから今、わたしは小野寺さんが先生を満足させるような作品を書けるよう、応援しているのです」
「そっか……うん、だんだん思い出してきた。『鏡面プラネタリウム』だったかな。夜の湖の歌が一番好きだった」
 どうやら染谷さんは、当時からちゃんとしたファンだったようです。わたしは今、バンド名を初めて聞きました。にわかもいいところです。
「恥ずかしながら、わたしは当時、全然小野寺さんのライブを見たことがなかったのです」
「そうなんだ。私はクラスにキーボードをやってた子がいて、それで何度か見に行ったの。望海ちゃんは無口で、MCでもほとんど喋らないんだけど、歌声は綺麗な高音が会場いっぱいに響くんだ。一度、『歌は勇気』って言ってたことがあって、本当にそうなんだなあって」
「それは思いますよ」
 歌は勇気。秋合宿のときも、小野寺さんは同じようなことを言っていました。文芸は新たな勇気になるのでしょうか。わたしはこれからも、小野寺さんを追いかけていきたいと思います。
 それにしても、このまま小野寺さんの話を続けると先生が戻れなくなりそうなので、話題を変えてみます。
「ところで……染谷さんは夏から一段と美しくなられたわけですが、もしや今度こそ誰かと交際を始めたのでは?」
「えっと……今日は、気にしないでほしいな」
 染谷さんは明らかに狼狽えます。恐らく図星でした。しかしそれなら本来、今日はその彼氏さんと過ごしているはずの日だと思います。
 そこで、安全を察知した先生が戻ってきました。
「何の話だ」
「前回から時間も経ちましたし、染谷さんも綺麗になったところで、彼氏さんがいてもおかしくないかと思いまして。わたしたちは今回、無理を言って今日にしてもらいましたが……大丈夫でした?」
 先生はやはり興味がなさそうですが、席には残ったコーヒーを飲んで留まりました。わたしは染谷さんのいじらしい心遣いを気にせずにはいられません。
「それは大丈夫。私も昨日とか明日はバイトだし、今日しか会えないなら仕方ないよ」
 あくまで、今日はわたしたち優先で通すつもりのようです。心配でもありましたが、視点を変えればこうしたことにも寛容な彼氏さんということになります。その考えに至ると、罪悪感がわずかに軽くなりました。
「結婚するときは呼んでくださいね?」
「早い、中津さん気が早いよ」
 実際、染谷さんは朝倉さんよりも奥ゆかしく本心を隠しているわけですが、それでも交際相手ができたことは雰囲気の違いでわかったのでした。恋は人を変貌させます。わたしはまだ、それが少し怖いのです。

 混雑してきて長居するのも気が引けたので、わたしたちは外に出ました。そのままアーケードから出て、坂を下ります。間もなく、踏切の遮断機が見えてきました。
「あの辺りが会場ですか」
「そうみたいだね。ここと、運河と」
 三時半を過ぎて辺りは徐々に暗くなってきましたが、会場はまだまだ準備中です。そこでわたしは、踏切の奥に見えていた豆腐型の建物に目を付けます。
「そこ、確か文学館でしたよね。寄ってみませんか?」
「いいよ」
 文芸部員だから文学館という演繹は今回、あまり適当ではありません。現に先生は、文学館には興味がなさそうです。
「わたしは美術館の気分だ」
「そう言わず。伊藤整に関する展示もあるそうですし、このイベントの世界観が多少なりとも理解できるかもしれませんよ」
「まあ……どちらでも良いが」
 退屈そうな先生を見て、小樽に来るのが早すぎたかもしれないと思い始めます。しかし、それを悔やんでも仕方がありません。わたしはせめてもの賑やかしに、事前に仕入れた情報を放出していきます。
「ここにはですね、小林多喜二のデスマスクがあるんです」
「それは珍しいのかもしれないが……わたしには価値がわからない」
「プロレタリアートの魂が宿っているんですよ」
 賑やかしのためなので、わたしもデスマスクの価値を説明することはできませんし、わけのわからないことを言っている自覚があります。染谷さんは笑ってくれました。
 わたしは古い原稿とか、その時代に発行された初版本の展示を見て楽しめるので文学館が好きです。しかし、解説や年表は情報量が多く、目的意識を持って読まなければ発見も学びも得られません。博物館もそうですが、いきなり立ち寄って満足できる保証はありません。
 それでもせっかく入場料を払うわけで、先生は明治大正期の鉄道の客席を再現したセットに入り、延々と車窓の映像を眺めていました。俗世を捨て、辺境へ向かうかのように……。
 染谷さんとわたしは、ゆっくりと展示を見て回ります。
「中津さんは、ここ来たことある?」
「いいえ、ちょっと下調べをしたくらいですよ。そもそも今回のイベントを知ったのも、これがきっかけなので……」
 伊藤整のコーナーに来ました。そこには、初版当時の『チャタレイ夫人の恋人』が展示されています。
「現代社会の教科書に載ってたね。大学の授業?」
「そうなんです。この裁判の当時、戦後間もない頃は有罪判決になりましたが、現代では全文問題なく出版されているんですよね。その経緯を調べて、考えを述べるというレポートがありまして」
「面白そう」
「そちらは単科大学ですが、教養科目などはあるんですか?」
「一年目は教養がメインだったよ。文学、経済学、社会学ももちろんあるけど、意外と数学とか物理学とか、理系の科目もあった。第二外国語はフランス語にしたよ」
「フランス語。染谷さんには欧米の言語が似合いますねえ。わたしは中国語、先生はドイツ語でしたね。まあ、忘れかけてきているのですが……」
「文法とか日常で使わないと忘れちゃうよね」
 わたしは姉も同じ大学だったので、他の大学の話を聞くことはほとんどありません。聞いていると、やはり基礎的な部分は似通っていますが、細かいところに文化の違いが見つかります。
「そちらは、学生寮ってあるんですか?」
「つい最近造られたみたい。友達が入ってて一回だけ見せてもらったけど、まだ新しい建物だったよ」
「なるほど……大学寮は、独特の文化が築かれる場所と認識していますが、どうなんでしょう」
「あんまり極端な話は聞かないよ。寮生以外でも、悪目立ちする人はいるし……そっちの寮でも、全員がその色に染まるわけじゃないと思うけど」
「まあ、最近は新しい考えの学生が入って、少しずつ変わってきているとは聞きますね。それでも、秋に屋外で、ほぼ全裸になってパフォーマンスをする学生もいるわけですが」
「そうなんだ……」
 当然ながら、大学寮には女性もいます。わたしの知り合いにもいましたが、彼女の暮らしている区画は比較的穏やかなところだそうです。
「うちの大学には全国、全世界から学生が集まるわけですけど、わたしから見れば『地元の大学』なんですよね。それ自体に、特別な感じはないんです。たまに、遠く離れた他所での暮らしに憧れます。染谷さんは、こちらでの暮らしはどうですか?」
「最初はずっと大変だったし、疲れたときにも一人なのはつらいけど、それを通して、成長できてる気がする。実家にいたら絶対にやらなかったこと、できなかったこともあると思うし」
「そうですよね」
 伊藤整の展示の隣には、石原慎太郎の展示がありました。現代では政治家として知られる方ですが、芥川賞作家でもあります。読んだことはありませんが、戦後の変革期で学生運動なども盛んだった頃、若者の尖った感性を後押しするような作品を書いたというイメージがあります。
 二人に共通するのは、幼少期を小樽で過ごしたということです。出生地そのものではないという点も同じです。作家に限らず古い著名人は大抵、幼少期に転居を経験していると思います。そして複数の「ゆかりの地」があるとしても、その人にとって重要な土地を一つに決めるのは困難です。
 わたしや先生はそれが北海道、特に札幌になるのだと思いますが、この後それが変わらないとも限りません。このまま他の土地を知らずにいるのも損だと思います。もし、先生もそんな思いを持っていて、それがわたしより強かったとしたら?
「……先生が、仮面浪人生だったと言ったら、信じますか?」
「なに、急に。私は普段の浦川さんまで見てないからわからないかな。中津さんの言い方次第では、騙されちゃうかもしれない」
「まあ……嘘なんですけど」
 隠遁して作品を書くと言っていた時間は受験勉強の追い込みで、実はセンター試験を受けていて。今月末には二次試験を控えて、今日は束の間の息抜き……と。勝手な妄想ではありますが、この一年間、結局ほとんど人付き合いのなかった先生の姿を振り返ると、妙な信憑性が感じられます。
「例えば試しに、二次試験の日に遊びに誘ってみて……断られるのが怖いんです」
「……どこまでが本当なの?」
「いえ、わたしの勝手な妄想ですが」
 考え出すと不安になってきて、染谷さんとの会話もちぐはぐになってしまいました。
 客席のセットに、先生はもういませんでした。受付前の図書コーナーで、小樽の歴史の本を読んでいたのです。わたしたちはあまり言葉を交わさず、手持ち無沙汰な時間を過ごしてから外に出ました。

 キャンドルに灯の入れられた頃です。外に出ると下がった気温に震え上がる思いをしましたが、間もなく幻想的に浮かぶ灯りに誘われ、寒さも忘れたのです。この会場は、数十年前まで線路が通っていたところを整備した公園です。先ほど見た踏切の遮断機の傍には、復元された小さな駅舎もあります。既に人は多く、各々満足の行く写真を撮ろうと苦心していました。わたしは一歩早く会場に入ります。
「この線路は、向こうの港のほうまで続いているんですよね」
「そうだね。水族館に行く途中に鉄道博物館があるけど、その辺りからこっち側が遊歩道になってるの」
 周辺には、かつて銀行だった石造りの建物も多く保存されています。北海道の行政の中心は札幌に置かれていましたが、ここは経済の中心であったわけです。わたしたちはキャンドルの飾られた雪像を眺めながら歩きました。先生はいつの間にやらニット帽を被っています。
 公園の端で折り返して、半分くらい来たところで染谷さんがスマートフォンを構えます。
「浦川さん、中津さん。写真撮ろうよ」
「誰かに撮ってもらいましょうか?」
「そうだね。そこに並んで」
 戸惑う先生を抱き寄せて、わたしはそこにあった雪像の傍らに立ちました。ちょうどその雪像はハート形で、正面に日付の入ったボードが据えられています。
「おい、近いぞ」
「いいじゃないですか、思い出です」
 染谷さんは通りかかったカップルに声を掛けていましたが、わたしはその二人の姿を見て、とっさに先生から離れました。
「今度はどうした」
「あれ、新井くんと朝倉さんですよ」
「む、本当だな」
 来ていたのは知っていましたが、なんという巡り合わせでしょう。染谷さんからスマートフォンを借りたところで、二人もわたしたちに気付きました。
「あれ? 誰かと思えば中津さんに浦川さん。来てたんか」
「奇遇ですね。というか染谷さん、よりによってこの人たちに声を掛けるとは」
「ごめん、同じ年代だと思って、なんとなく声掛けちゃった」
 染谷さんは案外天然に見えて、こういう展開を狙ってくるところもあります。実際、この人混みの中でわたしたちの知り合いを引き当てたというのに、ほとんど驚いていません。新井くんとどんどん話を進めていきます。
「写真撮ればええの? 並んでや」
「まあ……お願いします」
 とりあえず、わたしたちは新井くんに写真を撮ってもらいました。そしてこうなれば、お返しに二人の写真を撮るのが筋でしょう。
「お二人もどうですか? わたしが撮りますよ」
 その間、朝倉さんは隠れるように、新井くんの一歩後ろに立っていました。ここで見られたのが相当に恥ずかしいようです。普段の大学では見せない、可憐な表情を覗かせます。
「香奈実ちゃん、どうする?」
「じゃあ……お願いします」
 ここに来て、ハート形の雪像が意味を持ち始めたのでした。二人ともポーズを取らずに、緊張した表情で写真に写ります。こういうときにリードしないのも新井くんです。遊び慣れているように見えて、本質的には不器用なのです。
「ありがとな。運河の会場も、人が多いけど綺麗やったで。出抜き小路の櫓から見るのもええ」
 写真を確認すると、新井くんは早口にお礼の情報を教えてくれました。
「お二人も、楽しんで」
「じゃあな」
 それから、撮ってもらったところ申し訳なくもありましたが、わたしと先生はもう一枚、染谷さんに二人での写真を撮りなおしてもらいました。先生の表情が強張りすぎて面白くなかったのです。今度は思い切り先生の弱点をくすぐって、楽しい写真になりました。削除を求められましたが、これは永久保存させていただこうと思います。

 運河には壺のようなキャンドルが浮かべられ、橙色の光が暗い水面によく映っていました。しかし人通りはさらに多く、先生が近寄りたがりません。そこでわたしたちは、新井くんに教えられた櫓を探しました。場所は目立つのですぐにわかりましたが、入口がわかりにくく若干迷います。
「この上が入口ではないか?」
「ああ……そうみたいですね」
 三分ほど迷って、最終的に先生が入口へ続く階段を見つけてくれました。建物は施錠こそされていませんでしたが、中は電気も点いておらず、ただ櫓の上に向かう螺旋階段があるだけでした。人もいません。
「こんなところ、新井くんはよく入ろうと思いましたね」
「知らないと、入れるって思わないかも」
 階段を上っても人はいませんでした。車道を挟んで向こう側に運河が見えます。橋の上には、身動きも取れないであろう人だかりができていました。ここは特等席……かと思いきや。
「いい眺めだけど……普通の夜景だね」
「運河はあまり見えないですか」
 街灯の明るさばかりが目立って、運河のキャンドルはほんの小さな光点にしか見えません。夜空で言えば三等星くらいの、辛うじて視認できるレベルです。
 わたしと染谷さんがその光景を写真に収める間、先生は運河とは反対の端で柵にもたれ、物憂げに何かを見つめていました。染谷さんが気を遣って声を掛けます。
「浦川さん、こっち来てもいいよ」
「……わたしは、ここからでいい」
 明らかな間があり、億劫そうな返答でした。先生の関心は今、どこにあるのでしょう。
「先生、次はどこへ行きましょうか? わたしは支笏湖の氷濤まつりも興味があります」
「気が向けばな。わたしのことは気にせず、楽しんできてもいいぞ」
「いつにも増して素っ気ないですねえ」
 とはいえ、わたしにも原因の一端があるような気がしてきました。今日は染谷さんと二人でばかり話していたと思います。先生は元々一人でも楽しめる人ではありますが、久しぶりの染谷さんとの楽しみをわたしが独占していた感じは否めません。
 こんなことでは今後先生を外出に誘っても、付き合ってくれなくなってしまいます。わたしは挽回の方策を探しました。
「そういえば、もうすぐ大学の二次試験だよね」
 そこで不意に、染谷さんが受験の話を切り出します。わたしはコートの中でも背筋の冷える思いをしました。
「珠枝ちゃんと唐澤くん、受験終わったら会いたいね」
 後輩の話になり、ひとまず安堵します。高校の文芸部の話は、十一月頃、部長の鳴滝さんから大会の結果の報告を受けたきりでした。唐澤くんも受賞には至らなかったものの、作品を書き切って悔いの残らない引退になったことと聞いています。
「進路については、何も聞いていないので……もしかしたら今日、どこかの私大を受けている可能性もあるわけですね」
「そっか。珠枝ちゃんは、どんどん東京とか行きそうな感じがする」
「そうですね」
 都合よく話を合わせましたが、わたしは実際、天海さんが同じ大学に来る可能性をどこかで期待し続けていました。同じくそうであったはずの先生は、口を閉ざしています。
「それぞれの進路……本人に後悔がないのが一番ですよね」
 ほんの少し、先生に問いかけるようなイントネーションを付けました。閉ざされがちな心の中が垣間見えることを願って。
 先生は、諦めたようにため息をつきました。
「相変わらず皮肉は巧いな。わたしは進路に後悔などしていないぞ」
 わたしの抱えていた不安を見透かして(現実的には、文学館でのわたしたちの話を聞いていたのかもしれませんが)、きっぱりと言います。もう少し、踏み込みたくなりました。
「先生はこの一年、楽しかったですか?」
 今度は直接的に試す質問です。先生は不敵なポーカーフェイスでわたしを見つめました。睨み合いです。わたしもまた、試されているのです。少しでも逃げるような気持ちを見せれば、はぐらかされてしまうでしょう。
 どれだけそうしていたか、蚊帳の外になってしまった染谷さんも、ありがたいことに忍耐強くわたしたちを見守っていてくれました。
 やがて、先生が。
「……ふっ」
 微かに、しかし確かに笑いました。にらめっこなら高らかに勝利を宣言するところですが、わたしは油断せずダメ押しの眼力を働かせます。
「わかった、わたしの負けだ」
 程なく、先生は本格的に笑い出しました。わたしもようやく表情を緩めます。振り返ると、染谷さんも控えめに微笑んでいました。
「まったく、呆れるほどの世話焼きだな。わたしの編集を離れて、新井や小野寺にかかってもなお、こうまでわたしの心配をするとは……」
「わたしは先生みたいに薄情じゃないんです。言ったじゃないですか。先生のことだって、考えないときはありません」
 すると先生は、今日初めての優しい表情を見せてくれました。
「退屈する時期もある。今日もそうだった。だが、わたしが辛抱強いのは知っているだろうに」
「今日は、先生につまらない思いをさせてしまったのではないかと、わたしも反省しているんです。でも、辛抱強いからと言って放っておいて、手遅れになったら嫌じゃないですか」
「知らぬ間に、わたしがどこかへ行こうとしているのではないかと疑ったのか?」
「はい」
 やはり先生は、文学館での話を聞いていたようです。不意に、わたしは前で重ねていた手を取られました。
 そこで生じた一瞬の間は、次の言葉への躊躇いだったのかもしれません。
「わたしだって、そこまで薄情ではない。言ったはずだ。中津はわたしの、手放しがたいパートナーだと」
 先生、今、なんと?
 意外すぎる形での告白でした。内容はもちろん、わかり切ったことではあります。でも。
「せ、先生……わたしのこと、ついに名前で」
 先生に、初めて名前を呼ばれたのです。ずっと近くにいたのに、これまで恥ずかしがって、全く名前を呼んでくれなかった先生が、「中津」と声に出してくれたのです。感動が過ぎて涙すら出てきます。
「浦川さん、まだ中津さんのこと呼んでなかったんだね……」
「呼ばなくとも、普段は困らないのだからいいだろう。こんなことで感動するな。わたしは冷えたから中に入るぞ」
 後から染谷さんは、先生もわたしも顔が真っ赤だったと、面白がって教えてくれました。結果的にはわたしたちの結束を確かめる、バレンタインデーらしい一日だったと思います。
 その夜、わたしは布団に入ってもこのことを思い出してしまって、何時間も寝付くことができませんでした。次に名前を呼ばれるのはいつになるか、当たり前のように呼ばれる日は来るのか、そんなことも気になりだして、いよいよ睡眠どころではなかったのです。

 その二月には大学祭に向けた会議や、卒業される四年目を送り出す追いコンなどもありましたが、その話はまた次の機会にいたしましょう。先生はそれらの行事にやはり参加せず、マスカレードに向けた執筆に専念していたようです。
 では、その執筆が終わったタイミングなら、イベントに参加するのでしょうか?
 期待するだけ無駄でした。
 三月の初旬、ちょうどマスカレードの締め切りの翌日です。河童のマークのバスで、わたしたちが向かう先とは。
「今回の先生の作品、わたしは冒頭一文字でわかったんですけどね。さすがに隠遁までして書き上げただけはありましたよ。でも、だからこそ今回はゆっくり温泉に浸かって、慰労の機会を持つべきだと思ったんですが……」
 そうです。定山渓温泉での春合宿です。告知自体は一月に部会でされていましたが、参加者の募集が始まるなり、先生はこんなメッセージを送ってきたのでした。
『春合宿には、参加しないからな』
 わたしの出鼻を挫く先制攻撃です。完全に先回りされました。しかしわたしは諦めません。
『ダメです。わたしが先生の分まで参加希望を出します』
『残念だったな。平塚氏にも不参加の連絡をしてある』
 そこまでは、ギリギリ想定の範囲内でした。だからと言って、食い下がる以外の対策を考えているわけではないのですが。
『考えておくって言ったじゃないですか』
『考えて参加しないことに決めた』
『お土産買ってきませんからね?』
『市内だぞ。敢えて買うまでもないだろう』
『先生は呪われています。源泉公園の定山坊の像に温泉卵を奉納しなければ、これから毎日湯あたりします』
『不当に長く苦しめようとするな』
 あの手この手で強引な勧誘を試みたわけですが、当然、先生には通用しません。初めから勝利の可能性はゼロだったのです。
 そんなわたしの愚痴を聞いてくれているのは、小野寺さんでした。
「小野寺さんも、先生と旅行したいですよね?」
「……修学旅行は、同じ班だった。全然話せなかったけど」
「ええっ!」
 いきなり新情報が飛び出します。小野寺さんは少し得意げに微笑みました。わたしに共感してはくれないようです。
「というか、修学旅行の話聞かせてください」
「浦川さん、ずっとメモ取ってた。私はそのとき、浦川さんが文芸部を立ち上げて大会に出たことくらいしか知らなかったから、話すきっかけもなくて」
「なるほど……そうですよね」
 高校の修学旅行は、二年生の十月でした。先生はちょうど文芸部の全道大会から帰ったばかりで、立て続けの旅行だったと思います。しかし、まだ部誌も出していなかった頃で、わたしたちの文芸部の知名度はほとんどありませんでした。
 ちなみに行き先は姫路、大阪、京都という感じでしたが、わたしもあまり文芸部員として語るようなことはなかったので、このくらいにしておきます。
「ところで小野寺さん。バンド名、『マリンビュー』っていうんですね」
「知らなかったの?」
 何気なく思い出した話でしたが、小野寺さんは口をとがらせます。軽音楽部時代の活動にも、誇りを持ち続けていることが伺えました。しかし、怒らせてしまったのは謝らなければなりません。
「にわかでごめんなさい」
「まあ、仕方ないけど」
「バンド名は、小野寺さんの名前から?」
「うん。望海。私はメンバーの中で一番背が低くて地味だったから、目立つようにって」
 面白そうな由来でした。小野寺さんはボーカルとギターだったと聞いているので、名実ともにバンドの主役だったということだと思います。
「メンバーの名前から取ることって、音楽グループだとたまにありますよね」
「でも、最初は恥ずかしかったし、逃げられなくなったっていう不安のほうが大きかった。最初の学校祭のライブまでが、一番大変だったと思う。そこからは一気に、バンドと一体化できたというか……上手く言えないけど」
「バンドの主役としてやっていく覚悟ができたという感じですかね?」
「うん」
 それにしても、小野寺さんの過去の話は聞けば聞くほど興味が増して、現役時代に知らなかったことへの後悔ばかりが出てきてしまいます。話を文芸に戻しましょう。
「ところで、マスカレードの作品は完成しましたか?」
「出したよ。詩部門に一つ」
「ひとまず、お疲れさまでした」
「ありがとう」
 詩部門の作品にもざっと目を通してきましたが、まだどの作品も作者を特定するには至りませんでした。後でじっくりと拝読したいと思います。
「しかし……匿名で出されているという建前上、発表会まであまり作品の話ができないのも退屈ですね」
「まだ、提出が終わったばっかりだし」
 この車内でも、マスカレードの話題は一つか二つ聞こえるくらいです。今回は作品数が多いとか、一つ数十万文字の大作が紛れているとか。先生の作品(暫定)の話題はまだ聞こえません。
「小野寺さん、夏部誌には出されますか?」
「うん。詳しくは、まだ決めてないけど」
「いいですね。編集なら、わたしが喜んで引き受けますよ」
「ありがとう」
 小野寺さんは少しずつ、文芸に適応しようと頑張っています。わたしも編集として、日々研鑽しなければなりません。この春合宿も、参加しないよりは絶対に何か得るものがあるはずなのです。先生に対するアドバンテージを手にしようと思います。

 ホテルは奥行きのある開放的なエントランスが印象的でした。部屋は五人部屋が三つあり、一つがわたしたちの女性部屋です。小野寺さんのほか、朝倉さん、二年目の黒沢さん、小宮さんがいました。比較的静かな面々です。
 荷物を置くと、二年目のお二人は早速温泉に向かいました。朝倉さんも、何やらコピー用紙の束を抱えて、男性部屋に行くと言って部屋を出ました。小野寺さんと二人になります。
「中津さんも行くの?」
「わたしは少し休んでから行きます」
「お茶飲む?」
「いいですね。お願いします」
 小野寺さんは備え付けのポットでお湯を沸かし始めました。一度遊びに出れば、落ち着く時間はしばらくないと思います。
「わたしは先に温泉に行こうと思いますが、小野寺さんは?」
「温泉。ゲームは、あんまり」
 お互い、座椅子にゆったりと座り、テレビも見ずにただくつろいでいました。しかし、まだお湯も沸かない頃、部屋のドアがノックされます。わたしが立ち上がりました。
「はい……おや、新井くん」
 コート姿の新井くんです。足元を見ると、外靴を履いています。
「中津さん一人?」
「小野寺さんもいますよ」
 一人かどうかを確認したいのはわたしも同じでした。本来なら、新井くんは朝倉さんや皆さんと何らかの遊びに興じているはずなのです。
「ちょいと散歩にでも出ようかと思ってな。梅森さんも来るけどどう?」
「朝倉さんは?」
「別行動や」
 新井くんは若干不貞腐れたように、ぶっきらぼうに答えます。何があったのかは、とりあえず触れずにおきましょう。
「なるほど……わたしも行きたいですが、少々お待ちを」
 言わずもがな、わたしは初めて合宿で一緒になった梅森さんに興味があるのです。梅森さんはわたしたちと同じ一年目ですが、最近までほとんど姿を見かけませんでした。幽霊部員から復帰しつつあるようです。
 わたしは部屋に戻りました。ちょうどお湯が沸いたようで、小野寺さんはお茶を飲み始めていました。
「これから外を軽く散策しようかと思うのですが、小野寺さんも来ますか?」
「寒いから、いい」
 即答です。さらにわたしは、座っていた座椅子の前に、既にお茶と温泉饅頭が用意されているのを見つけてしまいました。これを味わわずに出かけてしまうのは、いかにも礼を欠くことだと思います。心なしか小野寺さんの目線が寂しげに、「飲まないの?」と訴えているように感じます。
 ということで、新井くんには準備万端のところでしたが、少し待ってもらうことにしました。
「お茶を飲んでからでもよろしいですか?」
「ああ。じゃあ、こっちの部屋で待っとるわ」
 改めて座椅子に座り、まずはお茶で喉を潤します。これ自体はありふれたティーバッグの緑茶でしたが、ほどよく心を落ち着かせてくれました。
 饅頭は黒糖風味の皮にしっとりとしたこし餡の甘みが絶妙に嬉しいものでしたが、サイズは一口でも食べられてしまう大きさで、お茶の時間は割にすぐ終わってしまいます。
 小野寺さんは、ティーバッグを使いまわして二杯目のお茶を淹れようと試みていました。
「それでは、行ってきますね」
「何か面白いものがあったら、写真見せて」
「わかりました」
 わたしはコートを着込んで、新井くん、梅森さんと三人で外へ繰り出しました。

 ホテルは定山渓を貫く国道沿いにあります。新井くんの案内で、まずはその脇から、階段で谷のほうへ降りていきました。国道側の壁からはお湯が滝のように沸き出ており、わたしたちはその湯気の中へ入っていきます。
 そこで眼鏡を曇らせた梅森さんと、わたしは早速コミュニケーションを始めました。
「梅森さんは、この間の追いコンに参加されていましたね」
「そうだね。去年は全然来れなかったから、これから参加していくよ」
 写真を撮っていた新井くんも、会話に入ってきます。
「農学部、やっぱり忙しいですか?」
「俺は学科というより、サークルを掛け持ちしてたからね。そっちが忙しくて、色々両立するのが難しそうだったから、思い切って辞めちゃったんだ」
「そうだったんですね」
 後から確認したところ、オリエンテーリング部に入っていたようです。主に山林の中で、地図を頼りにチェックポイントを巡るウォークラリーゲームです。わたしの印象では都会的な梅森さんですが、意外にワイルドな趣味を持っているようです。
「新井は農学部に決まったんだよね。資源だっけ?」
「そうですね。なんとか行けました」
「新井くん、今なんと?」
 驚くべき新情報が出ました。新井くんは大学の制度上、この春にようやく所属する学部が決まることになっていましたが、それが農学部、しかも先生と同じ学科だというのです。
「中津さんには話してなかったな。俺、農学部に行くことにしたのよ」
「工学部の、情報工学科でしたっけ? そちらを希望されていたのでは?」
「まあ、色々考えた結果や」
 新井くんも先生も、春から同じ学科に属することになることをまだ知らないと思います。わたしはこれを先生に伝えるべきか否か考えましたが、答えがすぐに出るものではありませんでした。
 階段を降りると、石畳の坂道の途中に出ます。わたしたちはそこをもう少し下り、源泉公園に入りました。ここで、先生の湯あたりの呪いを解くことができます。冬囲いの施された植木には厚く雪が積もっていましたが、園路はしっかりと雪かきがされていました。
「ここ、温泉卵が作れるんですよね」
「中津さん、よう知っとるな。向こうの売店で卵買うてな」
 公園の一角には熱いままの源泉を引いた水槽があり、そこに生卵を沈めておけば、二十分ほどで温泉卵が出来上がるということです。ちょうど使用中で、梅森さんはその様子をじっくりと観察していました。
「二人とも詳しいけど、来たことあるの?」
「小さい頃に、何度か」
「わたしもあります」
 わたしの家でも、定山渓は日帰りでも温泉旅行が楽しめるので、よく来ていた覚えがあります。高級な旅館やホテルもありますが、やはりわたしにとっては、定山渓は庶民的な温泉街というイメージです。
 公園の反対側には広々とした足湯があり、定山渓の名前の由来となった定山坊の石像がそれを見守るように置かれています。足湯はホテルにもあるので、わたしたちは軽く見物するだけで、次の場所へ向かうことにしました。
 いくつかの河童の銅像を見ながら橋を渡り、左手のホテルの裏側へと入っていきます。その道の奥に、藻のような緑色をした、奇妙な人型のモニュメントが見えてきました。
「新井くん、あれが噂の……」
「かっぱ大王な」
 そこは公園のようでしたが、雪に埋もれており道もなく、ただその入口から眺めるしかありません。しかし、最奥に鎮座する「かっぱ大王」は、大きな存在感を持ってこちらを見つめていました。
「夏に来ると、この奥の吊り橋まで行けるらしいんやけども……今は無理やな」
「さすがに入れませんね」
 とりあえず、三人で写真だけ撮って引き返すことにしました。もと来た道を戻っていきます。
 ここまでで、新井くんはふと視界に入る多くの瞬間、楽しそうに見えました。しかし、例えばかっぱ大王の写真を撮った後の一瞬の間に、例えば梅森さんに場所を紹介した後の一瞬の間に、何か大切なものの欠落を感じさせたのです。心の底からは楽しんでいない。そんな感じがしたのです。
 直接的にそれをつつくのは意地悪なので、わたしは遠回しに、新井くんの心の隙間を覗かせてもらおうと思いました。
「ところで新井くん。小樽は楽しかったですか?」
「ああ。もっといろいろ行きたいけど、冬はどうしても場所が限られるし。もどかしい季節やで」
 もっと、朝倉さんと二人きりでいたい。そんな新井くんの独占欲を窺い知ることができます。
「中津さんたちは、櫓まで行ったん?」
「はい。先生は満足していたみたいですけど、あのキャンドルを見るなら、近くでなければよく見えないかもしれませんね」
「でも、近づくとめちゃくちゃ混んでるしなあ。そういう場所でまで、二人きりの世界には入れへん。だから、俺が調べておいたんよ」
「わたしたちは、そんな下心の成果のお裾分けを頂いたわけですか」
 夏合宿のときは多くの時間、行動を共にしていた二人でしたが、秋合宿、そして今回の春合宿と、だんだん朝倉さんのほうが、二人きりでばかりいることを望まなくなっているのだと思います。
 また橋を渡り、今度は最初に見た湯の滝を過ぎて、坂を上っていきます。
「鉄道の旅とバスの旅、どっちが好きですか?」
 その途中、新井くんがふと、そんな問いかけをしました。梅森さんが先に答えます。
「俺は鉄道かな。深夜のバスとか一回乗ったことあるけど、やっぱり疲れるよ」
「中津さんは?」
「鉄道の旅をあまりしないので、どちらが好きとは断定しにくいですが……バスの旅、嫌いではありませんよ。新井くんはどうですか?」
 わたしが促すと、新井くんも自身の旅行観を聞かせてくれました。
「鉄道派。やっぱり、鉄道のほうが時間は正確やから」
 そう前置きして、梅森さんにも向けて思わず長い話が始まります。
「この定山渓も、今はバスでしか来られませんけど、昔は鉄道が通ってたっていいますよね。それに一回、乗ってみたかったと思うわけですよ。まあ、世間の流れとして、鉄道は線路だとか踏切だとか駅舎だとか、あれこれ造って維持しないといけないですし、マイカーが普及した現代、採算が取れなくなって廃れるところがあっても仕方がありません」
 新井くんはさも当たり前の知識のように話していますが、実際その鉄道が通っていたのは数十年も前、まだ札幌の炭坑や石切り場が稼働していた頃の話です。
「北海道は、厳しい状況の路線が多いんですよ。身近なところでは、新十津川に行く札沼線ももう無いようなものですし……電車で気軽に旅行するのは、案外難しいんです」
「新井は免許持ってない?」
「まだ取ってませんね。まあ……そのうち」
 ちなみに新井くんの話していた定山渓鐡道ですが、この近辺にはもはや、駅舎の遺構や線路などが見られる場所はないようです。現在の温泉街からも、小樽のように古い時代の様子を想像することは困難です。
 話しているうちに、わたしたちは坂を上り切り、国道と合流するところまで来ました。そこには、願掛け手湯というものがあります。河童の石像の頭の皿からお湯を入れると口からお湯が飛び出てきて、それで手を清めつつ願を掛けるという場所のようです。
 新井くんの願い事は、わたしたちよりも圧倒的に多くありそうでした。わたしの願うことは、次の機会こそ先生と一緒にここへ来るということ一つです。

 ホテルに戻ると、女性部屋には黒沢さんと小宮さんが戻っていました。一方、朝倉さんと小野寺さんは温泉に向かったとのことです。ここに来て一人で温泉に入るのは寂しすぎるので、わたしは急いで後を追いました。
 二人で洗い場に居るところをすんなりと発見できたので、わたしはシャワーを浴びている二人の後ろを通り過ぎ、朝倉さんの側を選んで座ります。まだ声は掛けません。シャワーを浴び終えて、目の開くタイミングを狙います。
「朝倉さん」
「わっ、中津ちゃんか」
 無事、驚かすことに成功しました。朝倉さんは恥ずかしそうに眼を逸らします。先生のいない寂しさも紛れる、とても愉快な瞬間でした。
 ちなみにわたしは自分の体にコンプレックスがあるわけではありませんが、少しいやらしい話、朝倉さんも小野寺さんも、平均よりは明らかに豊満なものをお持ちです。コメディ的なノリなら、様々なスキンシップの標的になるところだと思います。しかし、わたしたち一年目の間では、あまりそういったノリが見られることはありませんでした。それがお互いに安心できる、程よい距離感なのかもしれません。
 人もあまり多くはありませんが、それ以上にとても広々とした浴場でした。とりあえず洗い場を出た後は、二人を露天風呂に誘ってみます。竹垣で囲われて外は見えませんが、上方には夕暮れ時の空が見えました。
 わたしは竹垣の側まで浴槽に入り込んで、ゆったりと脚を延ばしました。一方、朝倉さんと小野寺さんは控えめにも端に退いて、居場所を確保しています。
 何やら会話が始まったので、わたしもそれとなく近づいていきました。
「朝倉さん、さっき抱えてたの、原稿?」
「うん。マスカレードの作品、印刷して持ってきたの」
 ここに来て最初に、朝倉さんが男性部屋へ持ち込んだコピー用紙の束のことです。
「マスカレードって、出てくる作品が増えるのも大事だけど、その後読んで評価してくれる人がたくさんいないと、順位にもあんまり意味がなくなっちゃうんだよね。企画班でその対策を話してて、せっかくこの合宿では時間があるから、いつでも手に取って読めればどうかって案が出て」
「そうなんだ」
「しかし朝倉さん、今回はとても長い作品もあるようですし、大変だったのでは?」
「平塚さんも新井くんも手伝ってくれたし、大丈夫だよ。あの作品は早めに出してくれたから、それは助かったけど」
 ちなみに今回、作品数を増やすという意図で、小説部門も一人二作品までの提出が認められています。そのためか、作品数は二十の大台に乗っていました。
「今回、朝倉さんは何か書かれましたか?」
 朝倉さんの作品があったとしても、候補はあまり絞れていません。朝倉さんと言えばホラー系のイメージですが、ぴったり当てはまる作品がなかったのです。
「一応ね」
「なるほど」
「浦川ちゃんはどう?」
「先生は、もうバッチリですよ。一月くらいから、もうマスカレードの作品のことしか考えていなかったみたいなので」
 誇張に聞こえるような表現ですが、わたしは本気でそうだったと認識しています。良くも悪くも。
 そこで、小野寺さんがわたしに尋ねました。
「中津さん、さっき浦川さんの作品を、冒頭の一文字目でわかったって言ってたけど、どうやったの?」
「一文字目で?」
 ありがたくもバスでのわたしの愚痴を覚えていてくれたようです。朝倉さんは冗談だと思ったのか、笑いをこぼしながらわたしに好奇の目を向けてきました。正解は、残念ながら冗談です。意気込みとしてはこのくらいの直感力を持ちたいですが、やはり構造上の無理があります。しかし、場合によっては信じ続けてくれそうな小野寺さんの夢を壊さないよう、わたしはさらに嘘を重ねるのでした。
「まあ、一文字目を見ますよね。そうしたら、先生のセンスなら次にどんな言葉が続くのか、わたしはなんとなくわかるわけですよ。で、実際それがある。最初の一ページくらい読めば、ほぼ確信ですね」
「すごい……」
「それって、一文字目でわかったって言うのかな?」
「それは少し盛ってますけど、だいたいわたしは先生の作品なら、冒頭一文もあれば半分、一段落あれば九割の精度で特定する自信があります」
 朝倉さんはやはり苦笑していましたが、小野寺さんは純粋に感心してくれたようでした。ちなみに一文で半分、一段落で九割というのは本当に自信があります。それなので、全編読んでなお間違えるようなことがあれば、わたしは引退を通り越して切腹を考えるレベルです。

 三人で世間話などをしながらつい長風呂してしまい、上がった頃には間もなく夕食という時間でした。それにしても、皆さん各々のタイミングで温泉に行くなどはしていましたが、それ以外は終始ゲームをしています。企画班が用意したマスカレードの原稿はテーブルにまとめて積まれたまま、ほとんど手がついていないようでした。
 観光ホテル特有のバイキングを終え、部屋に戻った後も引き続きゲームが始まります。せっかくなのでわたしも参加させてもらいましたが、新井くんや大藤さん、平塚さんなどがそれぞれに持ち込んだゲームを梯子するうちに、あっという間に夜が更けていきました。
 気が付けば午後十一時を回り、三部屋あるうちの二部屋が睡眠部屋に決められます。そのタイミングで、女性陣では二年目のお二人が部屋に戻り、男性陣も年長者を中心に、半分くらいが退室します。
 夕食後はゲームに参加していた小野寺さんも、そろそろ部屋に戻るかどうか考えているようでした。
「小野寺さんは、この後どうしますか?」
「まだ眠くないけど……ゲームはもういいかな」
 そう言って、マスカレードの原稿の山から一作品を引き抜きます。そこに、新井くんが寄ってきました。
「次、また違うのやろうと思うけど、二人はどうする?」
「私はいい」
 小野寺さんは即答でしたが、私は少し悩みます。
「ちなみにどんなゲームですか?」
「豆を育てるやつや。中津さん、やったことなかったか」
 それは平塚さんが持ち込んだゲームで、前期の頃にはボックス席でもよく遊ばれていたようです。しかし、わたしは参加したことがありませんでした。
「ないですね……今から新しいルールを理解するのは大変なので、遠慮しておきます」
「わかった」
 こうして断ってしまった以上、わたしも実際、この部屋にとどまる理由があまりありません。寝てしまっても良い時間だと思います。それでもこのまま今日を終えるのはもう少し物足りない気がしたので、わたしもマスカレードの薄そうな原稿を抜き取りました。
「小野寺さん、そちらの作品は?」
「『夕暮れの水屋から』って、茶道部の話」
「ほう。なんとなく記憶にありますよ」
 冒頭を少し確認しただけでしたが、悪くない感触の小説でした。部活ものですが、中学校の茶道部という珍しい設定のため、若干気になっています。ちなみに先生の作品ではありません。
「中津さんのは?」
「これは……『桃郎』ですね」
「え、桃太郎じゃなくて?」
「『桃郎』です」
 締め切りのギリギリに投稿されたのか、わたしもまだ目を通していない作品です。用紙一枚の表裏で完結している掌編小説でした。一瞬誤植を疑ってしまうような奇妙なタイトルでしたが、冒頭はよく知られた『桃太郎』の語り出しです。
 小野寺さんも興味を示していたので、とりあえず本文を読み進めてみました。文字数にして四千にも満たない作品なので、五分程度で終わってしまいます。しかし、これは……。
「どう?」
 読み終えたはずが何もリアクションをできずにいたわたしに、小野寺さんが声を掛けてきます。どのように応じるべきかがわかりません。
「この作品……恐ろしく壮大なものを匂わせているのですが、アレです」
「ちょっと見せて」
「どうぞ」
 端的に言えば、技術の発展した現代の世界観で桃太郎の話をやるという試みなのですが、鬼の陣営に当たるのが、データサイエンスによって超越的な叡智を獲得し、高次元の存在となった人類らしいのです。
「えっ、これで終わり?」
 鬼の陣営によって物語そのものも攻撃を受けており、そのためタイトルも「太」を抜かれてしまったという奇抜な展開が描かれているのですが、その結末は残念ながら収拾がつかなくなり、「投げっぱなし」で終わっています。
「……まあ、わたしは粛々と評価させていただきます」
 今回、小説部門は作品数が増えていましたが、特におよそ一万文字以内の掌編から短編が多くなっています。その中にはもちろん然るべきまとまり方をして、十分に評価できる作品もありましたが、どちらかと言えば作品の軸となる発想を活かせずに終わってしまっている作品も多くありました。
 一応、掌編や短編はとりあえず最後まで読んでもらいやすいという大きなメリットがあります。難易度に関わらず、初心者に短めの作品が奨められるのはそのためです。しかし、これは読む側の都合です。
 本来は、初めてならば猶のこと、発想に見合う自然な文字数に落ち着くものなので、長さを気にして書くのはあまり意味がないと思います。それにしても、面白くなかったときに手抜きを疑われやすいのは、短い作品の不利なところだとわたしは感じたのでした。
 結局、その夜は何時まで起きていたのか、はっきりとは憶えていません。翌日も十時にはチェックアウトで、夏合宿はもちろん秋合宿と比較しても、驚くほど何も起きない合宿でした。これでは、先生に自慢話をするネタもありません。大半の人にとっては束の間でも非日常を体感することに意味があるので、それ以上のドラマを求めようもないのかもしれません。
 そして何故か、帰りのバスは新井くんの隣の席になりました。朝倉さんとはやっぱり「別行動」だそうです。二人の間に何があったのか、すっかり聞き出すタイミングを逸してしまいましたが、ちょっとした綻びが生じていることは間違いないようでした。先生には、そんなことを報告しても全く意味がありません。

 春合宿が終わってから一週間は、ひたすらマスカレードの作品を読んでいました。それをようやく終えて、評価とコメントをまとめ上げた頃、後輩の小池さんからメッセージが届きました。
『お久しぶりです。お元気ですか? 今回、晴れて天海先輩と唐澤先輩の合格が決まったので、祝賀会兼追いコンを開催します!』
 ちょうど、わたしたちの大学でも昨日、前期試験の合格発表があったと聞いています。このタイミングということは、二人のどちらかは国公立大学を受けていたのでしょう。しかし、日程は二日後の日曜日と急です。とりあえずわたしは一人でも参加するつもりで、返信を書きました。
『お久しぶりですね。わたしは出席します』
『素早い返信ありがとうございます!』
 今、突貫で話が進んでいるところなのだと思います。まだお店も決まっていないかもしれません。そんな小池さんに若干の心配はありましたが、とりあえずわたしは先生に連絡をしました。返信はすぐに来ます。
『小池さんから、祝賀会の案内は届きましたか?』
『届いたよ。唐澤はまたわたしたちの後輩になり、天海は東京に行くらしい』
 そういった報告は本人から聞くつもりでしたが、先生は待ちきれなかったようです。とはいえ、先生も無事に参加できるようでした。問題は染谷さんです。
『天海さんも唐澤くんも、進学が決まったみたいですね。日曜日に祝賀会をするそうなのですが、来られそうですか?』
 返信までは、お茶を一杯飲むくらいの間がありました。
『ごめんね、今回は帰れないんだ。でも良かった! 私からもお祝いメッセージ送るけど、会ったら私の分もおめでとうって伝えておいて!』
『了解です。必ず!』
 小池さんのほうでも比較的迅速に出欠確認が取れたようで、夜にはお店が確定し、詳細のメッセージが届きました。わたしはそのときから、懐かしむばかりでない、将来を向いた話題を考え始めていました。

 場所は鳴滝さんが見つけたという、小ぎれいなビュッフェスタイルのレストランでした。各々が料理や飲み物を用意したタイミングで、小池さんが音頭を取り始めます。
「今日は皆さんお集まりいただき、ありがとうございます。まずは料理を楽しみましょう! 天海先輩、唐澤先輩の前途を祝して、乾杯!」
 前回から半年以上の間があるわけですが、小池さんの背が大きく伸びているというサプライズはありませんでした。しかし、不安と緊張の中にあった前回と違って、大きな身振りには純粋な幸福が感じられます。鳴滝さんや波田さんも、自然に笑顔を見せていました。
 それにしても改めて驚くのは、唐澤くんがこの場に参加しているということです。乾杯のときには俯きがちに小さくグラスを掲げて、一見すると渋々参加しているかのように見えるのですが、よく見ると口元が綻んでいるのでした。隣の席の先生が、珍しく積極的に声を掛けます。
「唐澤。よく戻ったな」
 すると唐澤くんは、先生の顔をしっかりと見て頷きました。実際、感動的な光景でした。我を通そうとするばかりだった彼が、このような誠実さを見せるとは! 先生は続けます。
「文芸の道に終わりはない。わたしは唐澤が無理にそれを終わらせたがって、仮初の完璧を求め、繕い続けるのを見てきた。しかし、今ならそれを理解できるかもしれない。己の視界から文芸を消し去るのは、存外簡単なことだと思う。それでも、何かを表現することによって成し遂げたいと決めた原初の志は、どれだけ踏みにじろうと、土をかぶせようと、燃え続けたのではないか?」
 先生らしく遠回しな問いかけでしたが、わたしにはなんとなくその真意がわかりました。勧誘です。
 そんな意図が伝わったかどうかはわかりませんが、唐澤くんは一度頷いてから答えました。
「ああ。俺がこうして戻ったのは……文芸を、そしてこの文芸部を、投げ出したままでいられなかったからだ。その意味では、大会での成績がどうであれ、俺は満たされているはずだった。事実、大会が終わってしばらくは満たされていた。だが……時々、新たな作品の構想が浮かぶのだ。俺は、次は書かないという覚悟で、最後の作品に臨んだというのに」
 彼が大会に出した作品は部誌に載っていないため、わたしはその内容を知りません。隣の天海さんに、こっそり質問してみます。
「天海さん、唐澤くんが大会に出した作品は、どのようなものだったんですか?」
「絵が好きだけど上手くはない男の子が、ガールフレンドに振り向いてもらうために、頑張って絵を練習し続ける話ですね。まあ、ちょっと複雑な事情で生まれた作品でしたが……唐澤が珍しく自分の感情や、偽りのない意志と向き合って書いてたので、そこは良かったのかなと思います」
 タイトルは『折れない硬筆』だったそうです。紛れもなく強い意志を感じるタイトルです。
 さて、先生は唐澤くんの話を聞いて、いよいよ勧誘の言葉を掛け始めていました。
「わたしたちの文芸部に来てみないか? 良くも悪くも、気の向いたときに好きなだけ書ける場所だ。わたしには少し物足りないが……文芸を続けるつもりなら、一人でいるよりは間違いなく良い」
 先生がそれをどこまで本心で言っているのかは大きな疑問でしたが、意外にも真っ当な文句でした。しかし、唐澤くんはゆっくりと首を横に振ります。
「……俺などを誘ってくれることには、感謝しかない。しかし申し訳ない。俺はもう、文芸部に属することは考えていない。その代わり、何か違う経験のできる場所を探したいと思う」
「そうか。それも大事なことだな」
 わたしも唐澤くんの決意を、しっかりと聞き届けました。もはや、この先はわたしたちが心配することではないでしょう。先生も残念そうな表情を見せましたが、一瞬だけでした。
「天海は、東京へ行くのだったな?」
 先生は続いて、天海さんに声を掛けました。いつになく積極的なのは、今回が最後になるかもしれないと予感しているからなのだと思います。
「はい。実はもう、明後日には出発なんです。向こうのことはまだほとんどわからなくて不安ですけど、なんとか頑張ります」
「天海さんは、文芸を続けられるんですか?」
 せっかくなので、わたしも話に参加させてもらいます。
「あの、大学には文芸サークルがありそうなので、とりあえず覗いてみたいですね。文芸を続けるとしたら、今度はもっと大勢の書く人がいるようなところで、作品を見せ合ったりして楽しみたいです。フミ先輩やアキ先輩のサークルも、そんな感じですよね?」
 話の流れから、それは予想された逆質問でした。先生が先に答えます。
「他所がどうかはわからないが、必ずしも書き手ばかりが集う場所ではないらしい。書き手とも、読み手ともつかない、その他……モブのような部員もいる。多くの人間が集まれば、自然なことなのかもしれないがな」
 やや過激な表現に聞こえたので、わたしは補足を試みました。
「サークルって、結局は自分たちで目的を見つけて活動しないといけないんですよね。例えば大会とか目指すものがあって団結するのも一つですけど、大学の文芸サークルはその点与えられるものはなくて、自由なんですよ。だからむしろ、目的はサークル自体が持つというよりは、一人一人が持ち寄るものなのだと思います。それで、様々な立場の人が来ますし、必要なわけですよ」
「なんとなく、そうなのかなって思ってました。大学生って、基本的に自由じゃないですか。別の言い方をするなら……個人主義的ですかね。でも、色々な背景の人がいて、お互い自然に交流するチャンスを得やすい、貴重な四年間なんだと思います」
 さすがに好奇心の強い天海さんです。入学前にして、大学生活をかなり具体的に想像しているようでした。
「天海さんなら、東京へ行ってもきっと上手くやっていけますね、先生」
「そうだな」
 その後は、いよいよ受験生になる鳴滝さんや小池さん、そしてもうすぐ部長になる波田さんにも、意気込みを聞かせてもらったりしました。
 最後には、卒業した二人に、文芸部の引退のときには渡せなかったという色紙を渡す場面もありました。わたしは自分の卒業のときにはあまり寂しさを感じたり、それで泣いたりということはありませんでしたが、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら色紙を渡す小池さんを見ていると、ほんの少し、ほろりとしてしまうのです。

 楽しい祝賀会も終われば一瞬のことで、ついに別れの時が来ました。お店の前で解散した後、先生が少し外を歩きたいと言い出したので、わたしたちは大通公園を目指して歩き始めました。夜はまだ、冬と変わらない氷点下です。
「……残念、ですか?」
 いつもよりゆっくりな歩調で歩く先生に、わたしは寄り添います。
「これが自然なことだ。自然なことよりも残念なことがあれば、わたしは残念だと言おう」
 やはり先生は、どこかで二人のどちらかが大学の文芸部に来ることを期待していたのかもしれません。そうなれば、いつか話していた『フロンティア』に近づく原動力になったのだと思います。
 しかし、身内ばかりで過ごしていては、『フロンティア』を見つける意味すらなくなってしまうでしょう。わたしは、これで良かったと思います。
「新歓、頑張りましょうね」
「ああ」
 その辺りで、オレンジに輝くテレビ塔が見えてきました。大きな時計が二十時過ぎを示しています。だんだん、わたしもこのまま帰るには物足りない気分になってきました。先生に会うこと自体久しぶりで、話したいことがどんどん浮かびます。
「そういえば、今回のマスカレードは、優秀作品がインターネットで公開されるそうですよ」
「わたしは辞退するかな。部誌には出すが」
「それなら、いいですけど……ちなみに今回の作品、『ニューラルネット・イミテーション』ですよね? あの、AIの話です」
「正解だ」
 最近ニュースでも聞くようになった、AIと会話できる装置をモチーフとした小説です。あるAI研究者の男性が、知り合いの女性にAIプログラムの被験者になって欲しいと頼んでスピーカーを渡すのですが、それは女性を監視するために細工されたものだったという、現代的サスペンスです。
「今回は、どのようにしてこんな発想を?」
「チューリングテストという、AIを評価するための試験法があってだな。人間が何か問いかけをして、AIと別の人間がそれぞれ返答をする。そこで、問いかけをした者がAIの返答を看破できなければAIが合格というものだ」
「高度なAIは、人間と区別がつかないということですね」
「ではそこで、AIがいつの間にか人間とすり替わったらどうなるか。人間がAIに扮することもできるのではないか。そう考えたのが始まりだ」
「なるほど……タイトルも、AIの用語から来てるんですよね?」
「そうだな。まあ単純に、AIに擬態することを指したタイトルだがな。一応、そういう用語については四年目に詳しい人がいたから、取材させてもらったが」
「隠遁とか言いながら、そんなことはしてたんですね?」
「それは必要なことだ。情報工学は専門外だからな」
 そこでふと、情報工学からの連想で浮かんだのが新井くんでした。わたしから先生に学科のことを伝えるチャンスは、今日が最後だと思います。次はマスカレードの発表会で、新井くんが直接先生に話しに来ることでしょう。それを考えると、やはりわたしから伝えておくほうが先生に優しい決断だという結論に達しました。
「そういえば、新井くんが工学部をやめて農学部に進んだんですよ。先生と同じ学科らしいんですけど、知ってました?」
「なんだと、初耳だ。本当なのか? 生物資源科学科だぞ」
 案の定、先生は動揺してしまいました。わたしは淡々と事実を伝えます。
「はい。間違いありません」
「それにしても、どうして」
「それが、わたしにもわからないんです。考えた結果だとは言ってましたが、実際は何を考えたのか……」
 ちなみにわたしのほうは、結局のところ表現文化論講座を選びました。朝倉さんや星井さんも、それぞれ当初の希望と変わらない講座を選び、無事に配属されたそうです。四月からは、いよいよ専門の授業が始まります。
「文系棟と農学部だと、まあ近いほうですかね?」
 文系の四つの学部は、文系棟と呼ばれる増改築を繰り返したかのように複雑な建物に集まっています。場所は構内のやや南側で、メインストリートを挟んだ向かいが理学部、その南側が農学部です。教養棟やボックス席のある北部食堂は遠く、歩いて十分くらい掛かります。
「そうだな。だが、農学部は食堂を持っているから、昼には会わないかもしれないぞ」
「中央食堂とか、会いに来てくれてもいいんですよ?」
「あそこは狭いし、昼休みは混むだろう。あまり行きたくはない」
「では、交流会館にお弁当を持って集合はどうでしょう」
「そのくらいなら、気が向いたらな」
 わたしたちはそんなふうに、テレビ塔の下でしばらく話し込んでいました。

 家に帰ってから、わたしはふと、大学を卒業して先生とお別れするときのことを考えました。それはもう、今日の小池さんよりも泣きじゃくってしまうくらい寂しいことですが、逆に、思いのほか前向きな心境で、寂しがらずに別れられる可能性もあると思いました。
 それは、残り三年でわたしが何を成し遂げるかで決まるものです。この一年、わたしは自分の優柔不断さに気付きながら、周囲の人に付き合い、ペースを合わせることばかりの立場に甘んじていました。
 だから、もっと主体的に。最高の編集として先生との約束を果たすためには、もっと経験を積む必要があります。三年後のその日に、悔いの残らないように。

十一 秘花

 薄暗く、圧迫感のある居酒屋でした。小上がりの広間の中央に立たされ、下級生から上級生までおおよそ四十人を前に、わたしはまさに自己紹介を求められたのです。
「文学部の中津文子といいます。出身は札幌です。どうぞよろしくお願いします」
 学年は敢えて言いませんでした。拍手が起こる中で素早く一礼して、自席に戻ります。交代で和泉さんが立ちました。
「理系一年の和泉恭子です。九州出身で、スキーは全くの未経験ですが、説明を聞いてちょっと楽しそうだなって思いました。今日はお世話になります!」
 彼女がごく自然に嘘をついたことに気付けたのは、恐らくこの場でわたしだけでした。
 わたしたちはこの四月から、間違いなく二年生になったのですから。

 話は五限目に遡ります。わたしと和泉さんは、いつものボックス席で来訪者に応対する当番になっていました。一年生は本格的に授業が始まって数日で、周囲のサークルでは盛んに客引きや呼び込みが行われています。教科書を買いに来る人も多く、このフロア全体の人口密度が高まっていました。
 それにしても、文芸部のボックス席に訪れる人は、今のところ一時間に一グループ程度だそうです。周囲を見ると不安になる数字です。
「わたしたちも、道行く人に声を掛けたりした方がいいですかね?」
「別にいいんじゃない。うちなんて、説明会に来てもらえれば十分だし。八戸さんならやれって言いそうだけどね」
 和泉さんは脚を組んで、スマートフォンでゲームをしながらくつろいでいます。わたしの感じているような緊張感はなさそうです。
「今週は金曜日、来週は木曜日、その次は月曜日でしたっけ」
「よく憶えてるね。今週のしかわからん」
 そんな小さな会話がいくつかありましたが、正直に言えば退屈な時間でした。わたしも文学部の時間割表やシラバスを眺めて、履修の計画を立てるくらいしかすることがなかったのです。
 来訪者もないまま、五限の終わる六時が近づきます。そんなとき、和泉さんがこんなことを言い出しました。
「なあフミ。タダ飯食いに行かね?」
 サークルの新歓説明会では大抵、食事会が併せて開かれます。大きめの体育会系サークルなど、場所によってはかなりのご馳走が振る舞われると聞いています。そこに潜入しようという話です。
「それは大丈夫なんですか?」
「何も問題ない。逆にさ、文芸部の説明会にも、明らかに入る気のなさそうな二年生、三年生とか来るじゃんか。フミはそういうの、何とも思わないでしょ?」
「入る気がないと決めつけるのは、どうかと思いますが……」
「うわ、超純粋かよ」
 そもそもわたしは実家暮らしで、夕食の心配をする必要もありません。それなのに他所のサークルへお邪魔するのは、やはり気が進みませんでした。ところが、和泉さんは諦めてくれません。
「でも二年目になったんだから、新歓はそういう綺麗事ばっかりじゃないってこと、知らなきゃダメだな。勉強だと思ってさ。フミ、勉強好きだろ?」
「……わかりました。お付き合いします」
 和泉さんの狙い通り、「勉強」という表現がわたしには深く刺さりました。振り返れば去年も、文芸部以外の説明会には参加しなかったのです。新歓をよく知らずに上年目になってしまったわたしは、和泉さんの言葉によってわかりやすい動機と正当化を得てしまいました。
 こうして今に至ります。潜入したのは、大学に四つあるスキー部の一つでした。冬にしか本格的な活動のできない競技ですが、説明会では夏の間のトレーニングなども紹介されており、活動内容の透明性があった印象です。
 居酒屋までの道中、部員の方ともお話して少し楽しくなっていたわたしでしたが、いざこの席に着くと、徐々に罪悪感が台頭してきました。なんと振る舞われたのは、ホタテやカニも入った豪華な海鮮鍋だったのです。飲み放題も付いていて、文芸部と比較すると五倍もの予算が推定されます。
「今日はどんどん食べてね」
「もう時間割組んでる?」
「他の新歓も行ってみるといいよ」
 遠慮して箸の進まなかったわたしを見て、部員の方々はあれこれ話題を振ってきたり、大学生活のアドバイスをくれたりもしました。それはサークルの勧誘というよりは、上級生による入学祝いの意味合いが大きいのではないかと思いました。それでいて新入生以外も拒まず、誰であろうと全力で歓迎する、一種のプロ意識を感じます。見学に来た人は三十人ほどいましたが、その何人が入部するかなどということは、誰も気にしていないのだと思います。

 結局わたしは満足するまで海鮮鍋を頂いて、和泉さんと一緒に帰途に就いたのでした。
「どうだった? 誰も詮索してこなかったでしょ?」
「はい……それにしても、堂々と学年を詐称するのはどうなんですか」
「どういう設定で紛れ込むかも楽しみの一つだから」
 慣れているだけのことはあります。
「あそこは去年も行ったけど、一年経てば誰も顔なんて覚えてないし。要するに新歓って、半分はああいう宴会を開くための口実だってこと。祭りよ」
「はあ……」
 わたしはその考えに、まだ完全には賛同できませんでした。ただ、迎える側も祭りのように開き直っていなければ、あそこまでの宴会を何度も開くのは難しいと思います。
「まあ、うちの新歓費じゃ絶対無理だけどね。あれが必ずしも良いとも言わないし」
「そうですよ。わたしたちが破産してしまいます」
 ちなみに文芸部は、部費が半期二千円で、新歓時期には食事会を開くための費用を、新歓費として七百円程度徴収しています。これでも安いほうだとは聞いていましたが、今日はそれが実感できました。
「部誌制作を除けば、基本的に文芸はお金が掛からない趣味ですよね。それが、サークルになった途端に必要以上の経費が掛かるのでは、人を遠ざけてしまうのではないでしょうか」
「元々倹約家の人が多そうだし、部費を上げるとかは余程じゃないと難しいね。今も正直、余ってるし」
「なるほど……」
「あたしが作った会計報告見てないだろ?」
「すみません」
 それは数日前に、メールドライブで共有された報告書です。わたしも高校時代に会計をしたのでわかりますが、文芸部には部誌や傑作選の用紙代、印刷代くらいしかありません。部費の徴収状況も知っていたので、報告書を細かく見るまでもなかったのです。ちなみにこの部は黒字会計続きで、繰越金が部誌二回分くらい貯まっています。あるお金の使い道が見つからないというのも、もどかしいものだと思います。

 翌日は四月にしては暖かく、雪解けもラストスパートを迎えているようでした。そんな日の昼下がり、わたしは先生から、昼食持参で農学部の南棟の出入口に来るようにとメッセージを受け取りました。
 行ってみると、先生は去年も着ていたような全身灰色ルックで佇んでいました。
「お疲れ様です。今日はどうしてここへ?」
「良い場所を見つけた。行こう」
 普段より上機嫌です。その理由は様々に想像できますが、「学科の人間関係から離れられるから」とか、変な理由でなければ良しとしましょう。
 わたしは先生の見つけた「良い場所」も気になりましたが、農学部に近づくのも初めてだったので、コの字型になったその建物を見回しました。この大学で最も古い学部ですが、建物自体は改修が繰り返されているためか、古そうな感じはしません。人通りは少なめですが、正面玄関の前には、何やら大縄跳びをしている集団が見えました。
「先生、農学部はどうですか?」
「授業は面白いぞ。農場での実習もあるんだ。初回は、ハーブの種まきだったが」
「学科の友達はできましたか?」
「……まあ、これからだ」
 やや不安な返答です。学科が決まった今ここで周囲との関係を築けなければ、残りの三年間が挽回不能なほど無味乾燥になってしまう可能性があります。
「学科の人の名前くらいは覚えないと、本当に取り返しのつかないことになりますからね」
「名簿を作るらしいから、それでどうにかする」
「その前に話し掛けたりして、コミュニケーションを取るんですよ!」
「新井だって似たようなものだ」
「先生はそれでいいんですか?」
 他人との交流に関しては相変わらずマイペースで気まぐれです。どんな追及をしても回避されてしまいます。
「まあいい。着いたぞ」
 わたしは次のアプローチを考えようとしたところでしたが、目的の場所に着いてしまいました。何も考えずについて来てしまいましたが、何かの建物の脇から、通路なのかも怪しい砂利道を通って裏手に入ったところです。
「こんな場所……やっぱり世捨て人ごっこじゃないですか!」
 そこには円形の四阿が一つあるだけでした。ベンチやテーブルがあり、汚くはありませんが、誰も寄り付かなさそうな度合いはシーズンオフの花木園を大きく上回ります。
「わたしだって、ここには三日に一度くらいしか来ていない。それに、目的もある。今度また来るときのために、この風景を覚えておくといい」
「そう言われましても……」
 さらに奥、建物の真裏の空間には、まだ葉も付いていない二メートルくらいの樹木が点々と植えられています。先生は恐らくその木のことを言っているのだと思いますが、わたしにはあまり興味がありません。
「というかわたし、三限がボックス番なので、あまり長くは居られません。お昼食べちゃいましょう」
「そうだったのか」
 ちなみに先生は、ボックス番にわたしの半分くらいしか入っていません。時間割を見せてもらうと空きコマがたくさんあるのに、まあ怪しいです。とりあえず今日は気にせず、持ってきたサンドイッチを口に運びます。先生は、生協で売っているようなおにぎりを二個持ってきたようです。
「文学部はどうだ? 授業は今週からだったか」
「まだ今週はガイダンスですね。でも面白そうな授業はありますよ、現代詩の鑑賞をする授業とか」
「さすがに文学部だな」
 しばらく、互いの学部の話をしていました。初めは陰気な場所に見えたこの秘密の庭でしたが、慣れてくると今日の暖かさもあり、時間を忘れて留まってしまいそうになります。
「それにしても、静かな場所ですね……たまにはこんな場所でのんびりするのも、悪くないですか」
「そうだろう。この学内で、人のいない場所を探すのも大変だからな」
「それはわかります」
 しかしながら、わたしはそろそろ出発しなければ、ボックス番に間に合わなくなってしまいます。
「……もう時間ですね。そう言えば先生、新歓向けの作品はどうなりましたか?」
「ああ。先週完成したのだが、いつものメールドライブでは見学者の目に触れないだろう。どうしたものかと考えていてな」
「印刷して、ボックス席に置くのはいかがでしょう?」
「そうだな。次の当番のときにでも持って行こう」
「今日は入っていないんでしたっけ?」
「入っていない。授業もないし、帰って次の作品でも書くよ」
「わかりました」
 その場所が何なのかは結局あまりわかりませんでしたが、もう一度来るくらいなら悪くないと思いました。

 北部食堂の二階には裏口があります。表から入ろうとすれば、三限の授業へ向かう人と、それを狙った勧誘の人の入り混じる中を抜けなければなりません。一応、文芸部もそのような場面で配るビラを用意していますが、公式にビラ配り係が設けられてはいませんでした。
 ボックス番は朝倉さんと一緒です。わたしが行ったときには、一人で何かの教科書を読みながら番をしていました。
「お疲れ様です」
「中津ちゃん。お疲れ」
「一人ですか?」
「さっきまで、五人くらいいたんだけど」
 わたしはその全員と、すれ違うこともなく入れ替わりになってしまったようです。一応、ボックス番のときは見学者が来やすいように、四人以上で長時間溜まらないという不文律があります。
 テーブルの上も片付けられていましたが、説明用の資料を入れたクリアファイルの他に一冊、コピー用紙をホッチキスで綴じた冊子のようなものが置かれていました。
「これは?」
 手に取ると、その表紙には見慣れた癖字で『ウサギは百回も跳ねない』というタイトルが書かれていました。作者名は「朝村千草」とあります。よく似たペンネームの同期を一人だけ知っていますが……。
「新井くんの新作。昨日からかな。新入生に活動をアピールするために置いたんだって」
「ペンネーム変えたんですね」
 タイトルの下には、いくつかの説明が書かれていました。曰く「コメディみたいな短編です」と。その下には「見学者の方もぜひ」と書かれたところが、二本線で消されています。
「新井くんがコメディですか……得意そうには見えませんが」
「高校のときに似たような作品を書いたことがあるって言ってた」
「高校の、随分引っ張りますねえ」
 それにしても、面白ければ問題はありません。既に不安要素が見えてしまっているわけですが、わたしは目を通してみることにしました。
 物語は高校生の女子が誕生日に、趣味仲間らしいクラスメイトの男子に自作のアクションゲームをもらうところから始まります。彼女は早速それを遊んでみて、最初は好きなウサギが主人公、程よい難易度、ご褒美イラストもあるなどの要素に引き込まれていくのですが、後半になると仕組まれたドッキリ要素が次々と明らかになりさあ大変。憤慨した彼女は製作者の男子を捕まえて、ゲームの内容にちなんだ「ウサギ跳び百回」のお仕置きをするのでした。
 一応、パロディネタらしいものが散りばめられてはいましたが、率直に言って、コメディと言い張るにはベースの雰囲気が固すぎます。文体が『彼の世は幻想の園』と同じなのです。それでいて独特の剽軽な描写などもなく、状況も単体で笑えるようなものではなく、仮にこれを合評に出したならば、また大変なことになる予感がします。
 冊子の最後には半分の大きさの用紙が綴じられており、感想を寄せ書きできるようになっていました。しかし、あまり好印象の感想はありません。
『ちょっと単調。笑い所がわかりにくい。篠木』
『コメディ要素が判りませんでした。高本』
『ゲームはゲームで表現したまえ。大藤』
『夏部誌出してください。八戸』
 このレベルで済んでいるのは、ある意味では媒体選びの妙と言えるでしょう。わたしは紙面さえあればもっと辛辣なことを書きそうな人を何人か知っています。
「この感想、新井くんはもう知ってるんですかね?」
「どうだろう。私はこの前、最初に読ませてもらったんだけど、そのときには新井くんの書きたいものもわかったし、面白いねって言っちゃったから……そういう感想になるのは、私も今になって気付いた。期待させちゃったかも」
 不幸にも朝倉さんが、新井くんの良き理解者であったために……。わたしは何かフォローするような感想を書くべきかと迷いましたが、そもそも新井くんの作品がこのようになってしまうときは、客観的に褒めるところがほとんどないのです。無自覚にここまで失敗できるのが逆に羨ましいほどです。
「せめて、率先して活動をアピールしようとしたことは認めてあげたいところですね」
「うん……」
 この後先生がここに作品を置いたら、新井くんの作品は見向きもされなくなってしまうでしょう。それならば、酷評ばかりであっても読まれて感想をもらえるほうが、まだ本人のためになるかもしれません。

 その後、わたしは朝倉さんにも時間割を見せてもらいました。講座が違っても共通する授業はあり、空きコマの場所もわたしと似通っていました。しかし、朝倉さんは冬休みから塾講師のアルバイトを始めたうえ、三月からは自動車学校にも通っているとのことで、かなり忙しそうです。ちなみに先生には、そういった事情があるとは一つも聞きません。
「こうなると、どうしてもサークルの優先順位は低くなってしまいますよね」
「でも、なるべく時間を作って参加したいと思ってるよ。夏部誌にも出せそうな作品があるから、一回は参加してみたい」
「部誌に関することなら、何でも協力しますからね」
「ありがとう」
 様々なやりたいこと、やるべきことがある中で、すべてを積極的に両立させることはなかなか大変です。それでも挑戦しようとする朝倉さんには、頼もしさを感じました。
「あの、すみません」
 そんなとき、一人の女性がわたしたちに声を掛けてくれました。真ん中で分けられた前髪と、縁の細い眼鏡。可愛らしくも知性を感じる顔立ちが印象的です。どこかで見覚えのあるような気がしましたが、はっきりとは思い出せません。
「文芸部について、ここで説明会をしていると聞いて来ました」
「はい。ありがとうございます。そちらへどうぞ、お座りください」
 わたしが案内をする間に、朝倉さんがクリアファイルから資料を取り出し、彼女へ手渡してくれました。
「まずは自己紹介をば。わたしは文学部二年の中津といいます。この部では、読んで編集する役回りです」
「同じく文学部二年の、朝倉です」
 わたしたちが名乗ると、彼女はしっかりと背筋を伸ばして自己紹介を始めました。
「文学部一年の橋上恵といいます。間違っていたら申し訳ないのですが、中津さん、豊橋高校文芸部の部長をされていた方ですよね?」
「おや、憶えていてくださったとは。橋上さんは、どちらの高校でしたか」
「三沢高校です。詩を主に書いていました」
 校名を聞いて、わたしも橋上さんに関する断片的な情報が、頭の中でようやく一つになりました。
「確か……噂に聞いたことですが、地区大会で、最優秀賞を獲られた方ですか?」
「はい。自分で言うのも、恥ずかしいですが」
 三月の追いコンのとき、波田さんがその詩について話していたのでした。地区大会とはいえ、最優秀賞は大変な名誉です。入部してくれたなら、間違いなく期待の新人です。
 嬉しいことに、橋上さんは文芸部への入部をほぼ決めていると言います。そこでわたしたちは、資料による事務的な説明は程々に省いて、少し踏み込んだ話をすることにしました。放課後の説明会で配布する冬部誌も渡してしまいます。
「現状、詩を部誌に出す方はあまりいないので、橋上さんをきっかけに、活性化していくかもしれませんね」
「やっぱり小説のほうが、取り組みやすいんですかね」
「そうですね。企画では、短歌や俳句も出てきますよ」
 そこで橋上さんは、部誌のある作品の扉絵のページで手を止めました。『ラッキーアイテム』です。
「あの、この作品の浦川さんって、豊橋高校の浦川秋さんですか」
「先生のこともご存知でしたか」
「『イモータル・エフェメラル』、今でも思い出せます。私はそのとき一年生で、ただただ憧れていました」
 これはもう、先生も知らないふりはできないでしょう。二人の対面が今から楽しみになります。
「朝倉さんは、何か作品を書かれるんですか?」
 次に橋上さんは、すっかり聞き役になってしまった朝倉さんに質問を始めました。
「部誌に出したことはないけど、企画で小説をいくつか書いたかな。こういう場所で集まって喋ったりとかも楽しいよ」
「高校文芸部と違って、書いて部誌を作ることが全てではないということですね」
「わかりました。ところで……それは何ですか?」
 その辺りで、橋上さんはだいたいの疑問を解決したのでしょう。ついに、関心がテーブルの上に残された新井くんの作品に向きます。わたしはとりあえず、真っ先に原稿を取り上げます。
「これは……このボックス席が普段から部員の溜まり場になるんですけど、誰かに作品を読んでもらいたい人が、こんなふうに原稿を置いていくんですよ」
「では、合評とか企画とか、部会の他にも交流できる場はあるんですね」
「そうですね。書いた作品はインターネットで共有しているので、いつでも読んでもらえますし」
 新井くんの作品は「見学者の方もぜひ」の文言が消されている以上、独断では見せられませんでした。新井くんの名誉のためにも良くありません。本人だったら、気にせずに読むのを勧めると思いますが。
「いろいろお話聞かせてくださって、ありがとうございました。そろそろ失礼いたします」
「こちらこそ、ありがとうございます。よろしければ放課後の説明会にも来てくださいね」
 橋上さんを見送った後、わたしは新井くんの作品をクリアファイルの中に隠しました。聞こえの良い言い方をすれば、避難させました。

 聞いた話によれば、ボックスを訪ねてくれる人は徐々に増えているようです。恐らく、教養棟の各所に根気よく貼っている宣伝ポスターが効いてきたのでしょう。そして、期待の膨らむその週の放課後の説明会では、二十人ほどの見学者が来ていました。
 交流タイムが始まると、黒沢さんが高本さんや江本さんと、何かの相談を始めました。わたしも首を突っ込んでみます。
「何か問題発生ですか?」
「人数が多くて、予定していたところの予約が取れなかったんです」
 先週の第一回説明会では見学者が十人ほどで、部員を合わせても二十人分の席があれば足りました。しかし今回は、合計で三十人になります。他の団体も競合する中で、席の確保に失敗してしまったということです。
「こうなれば三十人でというのは無理があるから、半分くらいずつ分けるのはどうかな」
 さすがに江本さんは、このくらいでは動じません。とても現実的な案でした。
「そうしましょう。十五人ずつで、二箇所の予約を取れませんか」
「わかりました。やってみます」
 高本さんが素早く判断し、黒沢さんが動き出します。こうなれば、わたしが心配する必要はないように思えました。
 一方で、半分の見学者の方とはこの時間しか話せないということに決まったのです。そのうえ今は部員のほうが少なく、ただ待たせてしまっている方も見受けられます。その中には橋上さんもいました。勧誘した者の務めとして、声を掛けに行きます。
「橋上さん。来てくださったんですね」
「こんばんは。部長の高本さんや、他の方ともお話できればと思いまして」
「ありがとうございます。でも今日は部員の人手が足りず、ご期待に沿えないかもしれませんね。すみません」
「いえいえ。説明会が賑わうのは、サークルにとって良いことですので」
「では、わたしはここで」
 ある意味大学生らしからぬ慎ましさに感心しながら、わたしは次の方へと移ることにしました。
 何人かに話し掛けてみましたが、学部も出身も様々で、改めてこの大学の大きさを感じます。とはいえ、文芸部とは結び付かなさそうな方がいたのも事実でした。
 山田と名乗った寡黙な男性が、その中でも印象に残っています。
「文芸部にようこそ。わたしは文学部二年の中津です。所属はどちらですか?」
「理系一年、山田」
 名札にもそれだけしか書いていませんでした。ホッチキス留めの資料は机の上に放られ、折り目も付いていません。しかし、彼は何かを物色するように、じろじろとわたしを見つめます。
「……もうすぐ食事会へ移動しますので、少々お待ちくださいね」
 居づらくなって、つい逃げてしまいました。その後も観察していると、彼は男性からの問いかけには全く応じていませんでした。八戸さんなどはそれでも興味を引こうとおどけてみたり、寮の変わった人の話をしたりしていましたが、彼は全く興味を示しません。一方、女性にはあの目を向けて、場合によっては話をしたりもしています。特に星井さんとは長く話していましたが、星井さんは終始困り果てた様子で、周りの部員に目線で助けを求めていました。気付きながら助けることができず、わたしは申し訳なく思います。
 結局その日はそれが全てで、その後の食事会でも誰と何を話したのか、ほとんど記憶に残りませんでした。帰り道に一緒になった大藤さんも、彼のことを怪しく思っていたようです。
「なんかさあ……明らかに出会い目的の人いなかった? 山田とかいう」
「いましたね。所属や名前も、本当なのかどうかはわかりませんが」
 大藤さんがこうして陰口のように言うのは相当なことです。
「八戸が話し掛けても無視してたのに、星井とか黒沢には言い寄っちゃって」
「でも、向こうではもう悪だくみもできないですよ」
 あの後、三年目メンバーで急遽対応が話し合われ、食事会は見学者を男女で別々の会場に分けることになりました。彼は今頃、男性しかいない会場で味のしない食事を摂ったことでしょう。
「ああいうのは、どこにでもいるらしいけどね」
「新歓の闇ですか」
 自分を正当化するわけではありませんが、これならばただ食事目当てに来ただけの方も、幾分歓迎する気になるというものです。新歓は祭りだとしても、無礼講というわけではないでしょう。当然、暗黙のルールやマナーが双方にあるのです。

 そんな話を報告すると、さすがに和泉さんも眉をひそめました。
「下種だね。星井からも聞いてたんだけどさ」
「そうだったんですか」
「まあでも、所詮は学生サークルの運営でさ、強い対応なんてできない。基本的には自己防衛だよ」
 和泉さんの隣では、先生がもの言いたげに目線を泳がせていました。四限のボックス席です。先生はただ印刷した作品を置きに来たところで、このような話を聞くとは思っていなかったのでしょう。
「人数多かったんでしょ?」
「はい。二十人は来ていましたね」
「そういうのに当たる確率も高くなるさ」
 気分を紛らわすためか、和泉さんは置かれたばかりの先生の作品を手に取りました。『春は霞』というタイトルです。わたしも未読で、内容が気になります。
「アキは夏部誌出すの?」
「ああ。それか、マスカレードに出したものだな」
「今回はあたし出せそうにないから、頼むわ」
「和泉さん、一緒に読みませんか」
「フミはいつでも読めるでしょ。待て」
 犬のように「待て」を命じられたわたしは、手持ち無沙汰に新歓用のクリアファイルを引き寄せました。その中には新井くんの作品も入っていますが、また別に、四ページほどの作品が入っていました。
「こんなところに、大藤さんの作品が」
「ああ、置くって言ってたわ。新井に煽られてさ」
「またそんなことが……」
 聞けば新井くんは、作品を置いたときには「どうせただメールドライブに上げても誰も読まないだろう」と主張し、果たして酷評まみれとなった感想欄や、消された「見学者の方もぜひ」の文字を見ても「競合がいなければこれがこの部の事実だ」と姿勢を曲げなかったそうです。
「結局さ、あいつ冬部誌のときから全く反省してないよ。むしろ開き直ってる。作品数は出せるって言っても、外に向けて質の低いものを出せないのは当たり前じゃんか」
「そうですね。そのための編集ですし」
 和泉さんの物言いは相変わらず辛辣でしたが、否定はできませんでした。
 そこで思い出したのは、この前の土曜日にあった不定期の合評のことです。マスカレードの作品を中心に六作品が持ち寄られ、それぞれについて短いながらも活発な意見交換がされました。
 そこに新井くんが持ち込んだのは、『夕暮れの水屋から』という茶道部を舞台にした作品でした。これがなんと、朝倉さんとの合作だったのです。しかし新井くんの我が強すぎたせいか、ストーリーには起伏が少なく、メインメンバーの個性が乏しく、それでいてやや長いという問題点ばかりが目に付く結果になってしまいました。
「これさあ、先輩の女子四人組、削ってもいいでしょ?」
 そこで最もクリティカルな指摘をしたのは、我らが大藤さんでした。
「しかしですよ。この四人で、三年生はフルメンバーなんです。先輩の視点からも話が語られる構造で、出さないわけにはいかない。より少なければ、今年度がいよいよ廃部の危機という感じでもなくなる」
「だったらさ、もっとこの四人に個性出すとか、読んでて楽しい雰囲気を出すとかしないと」
 言わずもがな、それが「できていない」という指摘です。新井くんは言い返さずに目を背けましたが、明らかないら立ちを見せていました。
「ここは、私も上手く書けなかったのもあるので……」
 朝倉さんは健気にもフォローに回ります。意外だったのは、それを八戸さんがさらにフォローしたことでした。
「でも、僕はこの作品、合作として失敗していないのがすごいと思う。話の筋は一応通ってるし、設定の矛盾とかもない。文体も合っていて、合作だと言われなければ気付かなかった。僕は企画で小宮とか、高本とも合作したけど、上手く行かなかったよ」
 大藤さんは納得したように頷きます。メールドライブに作品が残っていたので目を通したのですが、確かに連携の取れていない様子が認められました。三人とも、題材選びから文体に至るまで筋の通ったスタイルを持っている書き手です。企画の短い期間で書いたことを考えても、すり合わせが充分にできなかったのでしょう。
 ともあれ、ここで合作としての作品が評価されたのは、新井くんにとって大きな救済でした。幾らか態度を軟化させて、制作の背景について語り始めます。
「この作品、去年の十月くらいから構想してたんです。冬部誌が終わった後から書き始めて、交代で執筆して三か月くらいですね。まあ……結果的には私の書いたパート、後輩視点のほうが大きくなりすぎて、物語としてはバランスが崩れてしまった面もあるかもしれません」
 それを聞いて、わたしにも一つ、アドバイスをできそうなところが見つかりました。
「新井くんは、時間を掛けて長い作品を書き上げることができますよね。でも、書き上げたところで止まりがちです。全部が不可侵的な思い出になってしまうような感じで、手を入れるのも苦手ですよね。そのときしっかりと作品を見つめることができれば、実力も伸びると思いますよ」
「……わかった。ありがとう」
 それは新井くんの癖のようなもので、すぐに治るものでないことは明らかでした。それでも反省して修正することを繰り返していけば、必ず良い方向へ向かうと思ったのです。
 しかし……どうやら新井くんは、反省をするのも苦手なようです。

 本人は当番のため、五限に現れました。交代で和泉さんと先生が帰り、わたしたちは二人きりになります。
「見学者来とる?」
「前の時間は来ませんでしたね」
 状況を確認して、間もなく新井くんは先生と大藤さんの作品を見つけました。
「これは……浦川さんまで」
 本当に作品が出てくるとは思っていなかったのでしょう。苦々しい表情です。
「新井くん。自分の作品に対する評価は、しっかり受け止めないとダメですよ」
「まあ、こうなったら『ウサ百』はもう下げるしかないな。でも、俺がこうして作品を出さなければ、こういう場での公開とか、新歓の宣伝アプローチについて議論されなかった部分もあるやろ。計画通りの範囲内やな」
 この行き当たりばったりなところも、相変わらずです。
「先生も、去年の冬くらいから新歓に作品を書くって話してたので、新井くんに触発されてではありませんよ」
「ほう。さすがは浦川さん。考えることは同じやで」
 先生が聞いていたら間違いなく拒絶反応を起こしたことでしょう。とはいえ、作品を書くことが部内での自己主張の手段になっているという点で、二人は似通っています。作品の質ではっきりと明暗が分かれていますが、本質的には似た者同士です。
「新井くんは先生のこと、何だと思ってるんですか」
 そこで生まれた小さな疑問でした。新井くんにとって先生は都合の良い人物だと思いますが、それを本人がどう認識しているのかが気になります。
 しかし新井くんは、妙に警戒して答えました。
「それは何か? 変なこと言うたら香奈実ちゃんに告げ口するとかか」
 これはもう、わたしの聞き方が悪かったと思うしかありません。聞き直します。
「そうではなくて。単純に、相関図上で新井くんから先生に伸びる矢印の傍らには、どんな注釈が付くのかということを聞いたんです」
 実際まだ誤解を招きそうな言い方ではありましたが、今度は通じました。
「恰好つけるなら、『ライバル』かなあ」
「いや……」
 即答でしたが、あまりに信じがたい言葉に絶句してしまいます。しかしそれは、わたしが無意識に先生と新井くんを越えられない壁で隔てていたからなのでしょう。新井くんの認識では、そうではないということです。そして、補足がありました。
「上手くなるって決めたはいいが、如何せん二年目には書き手がいない。一緒に書いて、語り合って、伸びていくような書き手がな。ただまあ、浦川さんは元から上手いし、結局『ライバル』と言えるほど近い感じもせん」
 わたしは少し納得しましたが、新井くんは重大な見落としをしていると思いました。
「朝倉さんは、そうではないのですか?」
「香奈実ちゃんはなあ……書き手という感じではないな」
「合作までしておいて」
「あれは楽しかったけど、終わってみれば結構無理させちゃったと思うよ」
 これは看過できません。先生とはまた別種の高慢さです。
「それこそ、朝倉さんに告げ口しますよ」
「またどうして、中津さんが怒るのよ。知っとるかもしらんが、香奈実ちゃんはバイトも始めたし、車校にも通い始めたわけでさ。まあ正直、あの作品も俺が香奈実ちゃんの倍書いてるわけね。それはもう、感謝もあるけど、申し訳なくもなるやんか」
 そこでわたしは、新井くんが不定期合評で、作品のバランスについて言及していたのを思い出します。
「つまり新井くんの中では、合作は満足のいくものではなかったと」
「中津さんにだから言うけど、せやね」
 謎の信頼を得ている立場というのは、身震いしてしまうような情報ばかりが入ってくるので損です。
「でも、朝倉さんは夏部誌にも作品を出そうとしているみたいですよ?」
「ああ……無理するよなあ。今は何かの授業で、くずし字みたいなものにも苦労してるらしいのに」
 わたしは受講していませんが、文学部には近代の古文書を読み解く講義があります。毎週ある小テストが厳しいという悲鳴があちらこちらから聞こえてくるので口コミ的には星も少ないと思いますが、朝倉さんのように日本史に関わる講座では基礎に当たるため、避けて通れません。
「朝倉さんには、夏部誌に出して欲しくないと?」
「ああ。でも止められんよ」
「素直に応援できない理由があるんですね?」
「……まあな」
 その先のことは、なんとなく予想できてしまいました。文芸部では同期の書き手が増えてくれることを望んでおきながら、朝倉さんに限ってはそうなることを歓迎しない。その矛盾の裏には、特殊な行動原理があるはずなのです。
 このまま放っておいては朝倉さんに悪い気がしたので、もう一段斬り込んでみます。
「欲求不満ですか」
「……」
 ことによっては、わたしが誘っているように受け取られたことでしょう。しかし新井くんは踏みとどまりました。この辺りの堅さはさすがです。
「朝倉さんを奪うあらゆるものが憎いのでしょう。たとえそれが、文芸であっても」
「見透かしよって。ハニートラップには乗らんで」
 とりあえず、このまま安易に浮気へ走ってしまうようなことはないだろうと思いました。しかし、朝倉さんに固執し続けるのも決して健全ではありません。
「そんなつもりはないですよ。新井くんがこんなことでは、ただでさえ大変な時期に、朝倉さんに余計な心配を掛けてしまいますから」
「……だったら、愚痴くらい聞いてくれや」
「わたしでよければ」
 二人きりのボックスで、新井くんは腐らせてしまった朝倉さんへの想いを、この後しばらく吐き出していました。朝倉さんとの関係をただ刹那的なもので終わらせるつもりはないと言いますが、その一方で、刹那的な肉体関係への願望はやはりあり、未だそれが叶わないことに物足りなさを感じているようでした。そもそも相合傘すら、人前ではできない二人です。
「その……一回も、ないんですか?」
「二人でそう決めたんや。本当の初夜を待つって」
「それなら、覚悟を決めるしかないのでは?」
「……それ以外のところは、俺も譲れん」
 実際、上年目からは「老夫婦」などとも揶揄されていますが、現代ではなかなか珍しい貞操の堅さです。却って歪んだものを感じてしまいます。
「朝倉さんとの関係については何も言いませんが、朝倉さんの文芸を縛ろうとするなら、わたしは許しませんからね」
「わかったよ」
 こんな話をしていたせいか、五限の時間も見学者は寄り付きませんでした。それにしても、新井くんの動向はもう少し注視する必要がありそうです。

 三回目の説明会は、見学者が多すぎるということも、不埒者が紛れ込むということもなく、無事に終わりました。その翌日の昼休みです。わたしは先生にまた、例の場所へ呼び出されました。
 そこにあったのは、視界いっぱいの桜でした。
「この木、全部桜だったんですか」
「そうだよ。前に来たときも、花芽が付いていただろう」
「興味がなくて、気にしていませんでしたよ」
「覚えておけと言ったのに」
 構内で桜が楽しめるスポットはあまり多くありません。恐らく、この広場が一番だと思います。わたしはその中央に立って、ゆっくりと一回転してみました。どこを見ても桜があるのは、なかなかない体験です。
「桜があると、こんな場所でも特別に思えてきますね」
「都合のいいことを言うものだ」
「でも先生だって、楽しみにしていたんでしょう?」
「まあな」
 少しの間そこで桜を楽しんだ後、わたしたちは四阿の中に入りました。そこから眺める桜も、なかなかに贅沢です。
「学科ではどうですか?」
「アスパラを収穫したぞ」
「いいですね。でもわたしが聞きたいのは……」
「コミュニケーションくらいは取っている。花卉学の研究室は人気のようでな。最終的に話し合いになる可能性があるらしい」
「ほう。それは大変ですね」
「だが、最近は動物生態学にも興味が出てきた。学問自体も面白いが……研究室が二つあるんだ。政争が起きて分裂したらしい」
「どこの世界にも、そんなことってあるんですか」
 なんだかんだで、先生は学科での生活を満喫しているようです。というより、基本的に先生は自分で人生を楽しめる人です。それは素直に羨ましく思います。
「……大縄跳び大会に参加させられたときは、ひどい目に遭ったがな」
「あれ、やっぱり農学部の行事だったんですね」
 我が道を行く先生だから、こんな場所に秘められた桜を見つけることもできたのでしょう。誰の足跡もない道をしっかり選んで進む姿勢が、創作にも役立っているのだと思います。
 もうすぐ来る五月からは、様々な波乱の起こる予感があります。先生と一緒にいる今だけは、そんなことも忘れられました。

十二 独

 秘められた桜も風流でしたが、賑やかな桜も好きです。
 わたしが公園に着いた頃には、辺りにもバーベキューをしている団体がたくさんあり、午前中でありながらお酒を飲んでいる人も見られました。
 もちろん、頭上には一面の桜です。
「中津さん、こっちやで」
 新井くんの声が聞こえました。文芸部で取った場所らしいブルーシートの周りに、部員が十人ほど集まっています。
「お疲れ様です」
 その中には、初めて見る顔もありました。新入生です。まだ人数は確定していませんが、少なくとも十五人が入部してくれました。今日はそのうち、五人が参加してくれるそうです。
 ソフトドリンクの買い出しを頼まれていたわたしは、幹事の朝倉さんのところへ報告に行きました。
「朝倉さん。飲み物、買ってきましたよ」
「おはよう。買い出しありがとう」
「そこに置いていいですか?」
「大丈夫だよ」
 ブルーシートの上に荷物を下ろすと、体が一気に軽くなりました。飲み物は合計十リットルほどもあったのです。腕というより、指先が疲れていました。
「人数は……まだ揃っていないですかね?」
「梅森さんはお酒の買い出しで、もうすぐ着くって。篠木くんは、地下鉄の駅で新入生を捕まえる係。中津ちゃんは休んでていいよ」
「では、お言葉に甘えて……」
 靴を履いたまま、ブルーシートの隅に腰を下ろします。他の皆さんはいくつかのグループに分かれて、立ち話に花を咲かせていました。告知されていた開始時刻までは二十分ほどありますが、そんなことは関係ないようです。
 そこでふと動かした右手が何かに当たりました。古本屋のレジ袋です。口は開いていて、少女漫画の単行本が恐らく全巻セットで入っています。この場には些か不自然な品でした。
「中津さん、それが気になるかい」
 現れたのは、なんと新井くんです。
「それは気になりますよ」
「この間、和泉に勧められてな。場所取りの暇つぶしに持って来たのよ」
「和泉さんに?」
 わたしが聞き返すと、新井くんは漫画の袋を持ち上げ、そこに座りました。
「この間、ボックスで和泉と、あと星井ちゃんと一緒になってな。俺が今、夏に向けてかわいい小説を書いてるって話をしたら、この漫画の話になってさ」
「かわいい小説とは?」
「『冬のダイヤモンド』みたいな、かわいくてちょっぴりセンチもあるような小説やで」
 この人はいっちょ前に、新たな概念を提唱するつもりです。そういうのは大抵、自分の有利なフィールドで一方的な議論を展開するための策略に過ぎません。
「和泉が、『これなんて主人公の子は結構かわいいし、お前好きなんじゃね?』って。早速古本屋で全巻手に入れたわけよ」
「参考になりそうでしたか?」
「まあ確かに主人公の子は奥手だけど明るくて、純真な感じで良かったんだが……俺のかわいい小説は、恋愛が絡むものではないんだよな」
「はあ」
 これです。自分のためだけに概念を提唱する人は、好き勝手に定義をいじって、議論の主導権を相手に渡しません。
「中津さんも読む?」
「いいえ、別に……」
 新井くんとの話は、あまり暇つぶしにはなりませんでした。

 程なくメンバーが揃い、業者に予約していたジンギスカンセットが届けられます。早速、新井くんがドラム缶のようなコンロに着火剤と炭を入れて、火おこしを始めました。
「新井くん、火おこしできるんですね」
「まあ見てな」
 実は、他に火おこしのできる部員がいなかったのです。文芸部でこのような花見ジンギスカンパーティーをするのも初めてとのことでした。
「香奈実ちゃん、ちょっとこの辺扇いでみてくれる?」
「了解」
 新井くんが火ばさみで炭の位置を調節し、朝倉さんが風を送ります。見た目は期待の持てるものでした。
 その場は二人に任せて、わたしは新入生と交流を深めることにします。今日は橋上さんも来ていましたが、男性にも話し掛けてみましょう。
 わたしがターゲットに選んだのは、部員の中でもひときわ背の高い、笑顔の爽やかな男性でした。
「文芸部にようこそ。わたしは二年目の中津といいます」
「文系一年の高崎です。よろしくお願いします」
 人当たりも良く、近くで見ると身体もよく引き締まっていることがわかります。一昔前ならモテるための要件を全て満たしていると言われそうな方です。
「何かスポーツとか、されていたんですか?」
「中学までバスケ部でした。高校で文芸部に入って、その流れで入部しました」
「意外といるものですね、元体育会系」
「そうかもしれません」
 高校時代の話を聞くと、男子校の小さな文芸部で、大会には出ずに楽しんでいたそうです。リレー小説や三題噺など、ゲーム的な創作が好きだと言います。
「企画班が向いているかもしれません」
「僕も興味があります。でも、活動には幅広く参加してみたいです」
「ぜひ、そうしてください」
 期待の新人、高崎くんの名前を憶えたところで、コンロに戻ります。ところが、火は消えてしまっていました。
「新井くん、これは……」
「炭が燃えなくてな。着火剤をケチってたら、もう残り三本しかない」
「ケチってたんですか」
 火おこしのことはあまり知りませんが、今回しか使わない着火剤をわざわざ節約する必要はないと思います。
「あとは炭の組み方やな。こう、角から燃えるから……」
 新井くんも知識だけはあるようですが、残念ながらそれを活かすことができていません。火がなければわたしたちは何も食べられないというわけで、徐々に不安になります。
 そんなとき、隣でバーベキューをしていた団体から、一人の男性が近づいてきました。
「お手伝いしましょうか」
 どうやら、新井くんが苦戦しているのを見かねて助けに来てくださったようです。
「どうもすみません、炭に火がつかなくてですね」
 新井くんはあっさりと助けを求めました。すると隣の男性は、火のついている炭を少し分けてくれます。そしてうちわで一気に風を送ると、赤い火が点々と上がり、間もなく残りの炭にも火が移りました。
「これで大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
 わたしたちは三人でお礼を言いました。
「こんなに簡単に燃えるとはな……」
 新井くんは男性が去った後、しばらく悔しそうにしていました。

 ともかくも肉や野菜が焼けるようになり、宴会が始まってからはあっという間でした。参加した新入生には年齢を偽ってお酒を飲もうとする人もいなかったので、ソフトドリンクはすぐになくなり、むしろお酒のほうが余ってしまいました。
 しかし、余り気味のお酒が巡ってきた高本さんはいつにも増して陽気になったらしく、新入生の橋上さんや、もう一人いた女性の相羽さんに絡もうとしては、江本さんや黒沢さんに抑えられていました。
 宴会は午後二時くらいに解散となりましたが、誰からともなく歩いて帰る流れになり、わたしも定期券のある大通駅まで一緒に行くことにしました。
 わたしに下心はないので、相羽さんにも堂々と話し掛けることができます。
「相羽さん。入部ありがとうございます」
 彼女とは新歓説明会のときに、一度話したことがありました。水色の太いフレームの眼鏡と柔らかそうな頬が印象的な、活発そうで少し脱力した雰囲気の方です。
「中津さん、でしたよね。編集担当の」
「憶えていてくださったんですね。文芸部、入ってみてどうですか」
「まだ何も活動してないんで、よくわからないですけど……変な人、多いですね」
 率直な感想です。
「文芸部は初めてでしたっけ」
「はい。高校は放送部でした。カーストは上がってないと思います」
「珍しい部活ですね」
 言われてみれば、相羽さんの発音はとても聞きやすく、訓練してきたことが感じられます。放送部はわたしの高校にはありませんでしたが、文芸部と同じく全国大会もある部活だと聞いたことがあります。
「私から見れば、文芸部も珍しい部活でしたよ」
「それは確かに、そうかもしれません」
 結局、演劇部や吹奏楽部といったメジャーな部活には敵わないのです。
「しかし、相羽さんはどういった経緯で文芸部に?」
「なんとなくいろんなところで夕飯をご馳走になって、ちょうどいい賑やかさだと思ったところに入った感じです」
「それはまた、縁があって良かったですよ」
 そういう経緯なのでもう一つ、ジャズ研究会にも入ったそうです。楽器も何ができるというわけではないとのことでした。
「ところで中津さん。ここは大学祭で、何を出すんですか?」
「綿あめですね」
「……お腹が膨れません」
「まあ、傑作選を売るのがメインですから」
 それが決まったのは、二月の会議でした。昨年はお好み焼きを売っていた文芸部でしたが、材料の調達が滞ったり、作る人の技量の差が大きかったり、傑作選がおまけ程度になってしまったりと様々な反省点が挙がっていました。そこで今年挙げられた候補の中で、誰でも簡単に作って売れる綿あめに票が集まったのです。
「綿あめじゃ、利益出ないんじゃないですか」
「原価は安いですし、売れればそこそこだと思いますよ」
 それにしても、まだ計画はあまり固まっていません。いくらで売るか、縁日でよく見かけるキャラクターの袋を使うかなど、会計の和泉さんが計算をしているところです。
「ちなみに私のクラスは、名古屋のたませんを出します」
「それは……せんべいに目玉焼きが挟まっているという?」
「そうです。サービスはできませんが、絶対食べに来てくださいね」
「当日見かけたら、立ち寄らせていただきましょう」
「場所も決まったら教えますから」
 去年は手伝いばかりで、あまりじっくりと巡ることができなかったのを思い出します。今年も暇があるかどうかはわかりませんが、少しは余裕を持って楽しむことができれば……と、わたしは呑気に考えていたのでした。

 連休が明け、顔合わせも兼ねた例会の日になりました。名簿管理役のわたしは今日のために、新入部員のリサーチを済ませ……もとい、入部届をもとに最新の名簿を作ってきました。
 今年の新入部員は十九人でした。学部も様々で、中には他の大学から来てくださった方もいました。彼ら、彼女らの今後の活躍が楽しみです。
 しかし一方で、名簿から名前を消さなければならない方も同じくらいいました。卒業された方なども含めると、部員数は若干のマイナスです。
 それでも幽霊部員は一定の割合いるわけで、わたしたち二年目の中にももはや、来期には名前の消えていそうな方が半分くらいになっています。実際、多くの方は一年目の前期の部費を納めているので、現行制度では最短で除名になるのがこの前期末ということです。
 その猶予の長さについて、本気で気にしている人はもちろん多くありません。わたしも例会のたびにどうにかしたいとは思いますが、例会を過ぎるとすぐに忘れてしまうようなものです。
 しかし、彼は唐突に、そこへ斬り込んでいきました。
「この文芸部は十数年の歴史の中で、制度を整えるべく様々に手を加えてきたと聞いている。しかし現行の制度にも、未だ部の運営に不都合を生じる可能性のある点は複数見受けられる。今回はその一つの点に関して、規約の改正という形での対応を提案したい」
 やたらと大仰な前文から始まる『提案書』を提出したのは、他でもない新井くんでした。
 提案の内容は二つで、メインは規約の部費の納入期限に関する条項の改正です。曰く、その半期のうちに部費を納入しなかった場合、即座に除名とすると。もう一つは、やむを得ず部費を払えない、あるいは活動に参加できない部員のために、休部制度を利用しやすくするという提案です。
 重要な内容にもかかわらず、提出されたのは花見の直後、今日から数えて一週間前でした。これを実際に運用することになるわたしや和泉さんにも、一切の相談がありません。
 例会前にボックスで会った和泉さんは、案の定ピリピリしていました。
「あいつ、本当に今日の例会で採決まで行こうとしてるのかな」
「でも、本気ではあると思うんですよね」
 提案書には、この提案の三つの意図が記されていました。一つは、活動に参加する意思のある者を厳格に区別するため。一つは、例会の運営をより円滑にするため。もう一つは、収入を見積もり、部費の運用を円滑にするためです。
 一つ目には正直、新井くんの政治的な思想が見え隠れしますが、残りの二つは普通にメリットを提示しているものと考えられます。予算編成がこの部に必要かどうかはやや疑問ですが、例会については納得する部員が多いかもしれません。
「本気なら相談しろっつの」
「朝倉さんには相談していたんでしょうね」
「そういうところが姑息なんだよ、あいつは。ちゃんと説明してくれればあたしだって聞くのにさ」
 わたしは今回、どちらかと言えば和泉さんに近い立場です。提案を否定する気はありませんが、組織を変えるためには正当な手順を踏む必要があると、新井くんにはわかってもらう必要があると思います。
 ということで、例会前にはまだ話したことのない新入生を差し置いて、新井くんとお話することになりました。珍しく朝倉さんはまだ来ていなくて梅森さんと話していたところでしたが、割り込ませてもらいます。
「新井くん! あの提案書は何なんですか」
「何って、中津さんには話さなかったか? 例会のたびに部員が集まる集まらないで気を揉むから、何か対策しようかって」
 新井くんは特に怯む様子もなく、完全に居直っています。それが正義であったとしても、ここまで来るとただの暴力と区別がつきません。
「そこまでは聞いてないですよ。というか、提案書を出す前にある程度相談してくれないと、わたしたちには議論の準備ができませんよね」
「主語がでかいぜ。一週間で足りんのか?」
「せっかくの提案なのに、新井くんの独断で決めている部分が大きすぎて受け入れにくいんです。少なくとも二年目の間で議論をしておけば、もっと磨いた形で出せたじゃないですか。今日は新入部員の顔合わせもあるのに、みっともない口論を見せることになりますよ」
「それに掛ける時間に見合う利益があるわけでもない。一年目には、この部が変わろうとしているところを早く見せたいんでな」
「それだって、新井くんの独断じゃないですか」
 これには梅森さんも呆れ顔でした。新歓期のボックスに作品を置いたときもそうでしたが、最近の新井くんは意図的にこの部の脆いところを突き崩そうとしているように思えます。その目指す先に何があるのかはわかりませんが、良くない方向へ進んでいるのは明らかです。
「話は例会で聞く」
 いかにも頑固な言葉で、新井くんは話を打ち切りました。わたしは仕方なくその場を後にしましたが、提出された提案書は今日、確実に混乱を巻き起こすでしょう。それを回避する方法を考えなければなりませんでした。

 今回の例会は新入生の出席率が高かったこともあり、ギリギリながらも始まった段階ですぐに成立しました。新井くんにとっては皮肉なことだったと思います。
 新学期最初の正式な集まりということもあり、新入生の自己紹介から始まり、新歓ガイダンスや夏部誌、一年誌、大学祭など連絡が盛りだくさんでした。
 特に夏部誌については、連休前に初稿締め切りがあり、今日は編集決めだったのです。今回は幸いにも、例会での話し合いが長引くことにはなりませんでした。その分、事前にいくつかの衝突があったのですが、その話は次に回すことといたしましょう。
 時刻は八時半になり、最後に追いやられた新井くんの提案に関する審議が始まります。まだメールドライブのアカウントも知らされていない新入生のために、印刷された提案書が配られました。
「一年目の皆様のために、少し詳しく説明いたしますが……この部には、二期連続で部費を納めなければ除名処分となる規定があります。しかし、二期というのは丸一年です。その間、参加していない人の名前が名簿に残り続けますし、今日のような例会も名簿上の人数が成立要件に関わるわけで、円滑な部の運営にはよろしくないと考えました」
 新井くんは時間がないことを意識してか、やや早口に淡々と説明します。
「そこで今回、部費を納めず、部長や会計などの連絡にも応じない場合には、即座に除名処分とするよう、規約を改正することを提案させていただきました。同時に休部者名簿を作り、現状曖昧な休部制度を整備することで、活動に参加できないが復帰の意思がある方の立場を明確にすることも提案いたします」
 提案書には他にも、この規約改正によって不利益を被る可能性のある人に関する説明が書かれていましたが、そこには触れられませんでした。恐らく、反対意見を抑えるための布石なのだと思います。
 新井くんの話が終わると、ざわつきの中で意見交換が始まりました。わたしと和泉さんは、とにかく早く手を挙げる必要がありました。騒ぎが拡大する前に、二年目がこの尚早な提案を持ち帰るという方向性を示したかったのです。わたしたちが発言することで、周囲には新井くんが独断で今回の提案をしたことが伝わるという効果も見込めます。
 三年目や四年目の方も数名が手を挙げましたが、先に当てられたのは和泉さんでした。
「二年目の内輪もめみたいになってしまって、皆さんには申し訳ないんですが……私はこのような形で規約を改正する必要はないと考えています。ただ、部員と部費の管理をちゃんとするべきだというのはわかるので、もう少し方法を詳しく議論するべきではないかと思います」
 すると、それに賛同する声が方々から上がります。新井くんは和泉さんの意見をじっと聞いていましたが、これで状況が不利であることを悟ったのか、手元の提案書に目線を落としました。
 これで新井くんの暴走は止められそうですが、ここからは今後の部のために、わたしも現在の名簿管理担当として発言しておきます。
「確かに、現状の制度では部費の納入状況を引き継がなければいけなかったり、一年ほども活動に参加していない、面識のない方に部費の督促をしなければいけなかったり、負担はあります。ただ、いきなり規約を改正してしまうのはリスクもありますし、何よりこの場では議論する時間も足りません。わたしもこの提案を一度保留して、次の例会までに改めて議論し、本当に規約の改正が必要かどうかを判断するべきだと思います」
 わたしの発言が終わると、また賛同の声が上がりました。そして、先ほど手を挙げた上年目の方々も同じ意見だったのか、手を置いたままになりました。
 これを見て、新井くんが発言します。
「皆様のご意見、ありがとうございます。今回、突然の提案にもかかわらず、皆様がこの問題に関心を持ってくださったことに関して、まずは御礼申し上げます」
 少しは抵抗するのかと思いきや、このまま引き下がる姿勢を見せています。わたしたちが考えていたよりは、改正を強行する気はなさそうです。
「この場では結論を急がず、部員および部費の管理について今後議論を進めるという方針について採決を頂きたいと思いますが、よろしいでしょうか」
 そう問いかけられた高本部長は頷きます。
「それでは、新井さんの提案について、次回例会までに議論を行うという方針について採決を行いますが、皆様から質問等はございますでしょうか」
 わたしとしては、このまま一件落着となってほしかったのですが、ある人が手を挙げました。こういった場面では決まって鋭い意見を投げかける番人、四年目の山根さんです。
「これは、個人的に気になったことですが……提案書にある新井さんの意図として、活動に参加する意思のある部員を、部費の納入によって区別するというものがありますよね。これ自体は部員に直接のメリットがあるわけではないと思いますが、これを例会のことや予算のことよりも上に挙げたのは、どういった意図があってのことですか?」
 さすがの指摘でした。新井くんが秘めている政治的な考えを、的確に明らかにしようとしています。ややこしくなりそうな話題ですが、こればかりはわたしにも庇えないので、成り行きに任せるしかありません。
「はい。お答えします。私が最も問題視しているのは、幽霊部員の数や割合そのものです。私が入部したとき、部員は八十人と伝えられましたが、実際に活動しているのは四十人程度でした。この部は実際にどの程度の活動能力があるのか、部員数からは全くわからないのです。そして幽霊部員の存在は、それだけで部員の連帯感を弱め、活動意欲を低下させると思います。高本さんによって文芸の質を高める方針が示された今、この問題は第一に解決すべきものと考え、こうして意図の一番に挙げさせていただきました」
 新井くんから出たとは思えない、意識の高すぎる答弁でした。それこそ背後に誰かがいるのかと一瞬疑いましたが、今の文芸部には新井くんにこんな考えを吹き込みそうな人が思い当たりません。
 仮に本人が自分でこの考えに至ったとしても、元々なるべく働きたくない人である新井くんでは説得力がありません。まあ、実際にはその矛盾に気付けるだけ新井くんを知っている人が多くないのも、この部の真実ではあるのですが。
「新井さんの考えはわかりました。僕はもう意見するのは控えますが、部の方針にも関わる提案ということですから、これからの世代を担う皆さんで、真剣に議論がなされることを期待します」
 山根さんが質問を終えると間もなく採決に入り、賛成多数で議論が開始されることになりました。とりあえず新井くんは満足げでしたが、わたしは先のことを考えるのが少し怖くなりました。

 その週は大学祭の屋台の場所を割り当てる会議があり、責任者の武藤さん、会計の和泉さんとわたしの三人で参加してきました。結果はキャンパス中央の工学部前の場所を取ることができ、予定通りです。
 会議が終わった後、わたしたちは和泉さんの見つけたラーメン屋に行きました。鳥白湯ラーメンが人気だという、洒落た内装のお店です。
 そこまでは普段のように陽気に話していた和泉さんでしたが、注文して待つ間、不意に何かを思い出したかのように深刻な表情を見せました。
「なあフミ。部長やってくれない?」
 単純な問いかけでしたが、それが長い苦悩の末に彼女が出した答えだということを、わたしは知っています。
 秋合宿のときにも同じような話をしましたが、わたしも考えが変わってきていました。編集長の仕事は和泉さんのほうがよくわかっていますし、他の立場で役立てることがあるなら、そちらに回るほうが全体にとって良いはずです。それが部長なのかどうかは、まだ判断のつかないところですが……。
「私は恭子ちゃんの部長のほうが、上年目にも信頼されてるし良いと思うけど」
 わたしが答えに迷っていると、武藤さんが意見を言いました。それにはわたしも頷けますが、問題はそこではないのでしょう。
「あたしは編集長の仕事が好きでやりたいんだよ。あたしの意思はどうでもいいのか」
「それは……ごめん」
「武藤だって企画班があるだろうし、星井はデザインだし、後期入部の二人は厳しい。アキや朝倉ちゃんもやりたがらないだろうし、もうフミしか頼れる人がいないんだ」
 和泉さんが意図的に言及しなかった人がいました。「彼」を絶対に部長にはさせたくないという、切実な意思を感じます。わたしもそのためになら協力したいと思うくらい、強く重大な願いであることは理解しています。しかし、今この二人の間で決めてしまったならば、結局は「彼」と同じようにアンフェアな振る舞いになってしまいます。
「それこそ、二年目の中でしっかりと対話するべきだと思います。その結果ならばわたしは部長にもなりますが、そうでなければ……結局、新井くんとの対話は避けられないと思います」
「……」
 恐らくそれは和泉さんもわかりきっていたことで、その場では単に理想を吐き出したかっただけなのだと思います。だからそれ以上、和泉さんはこの件について何も言いませんでした。

 傑作選が完成し、メニューが決まり、当日の場所が決まり、出資金の募集も始まりましたが、大学祭の準備にも心配がないわけではありませんでした。
 綿あめは当日に専用の機械を借りて作るため、事前の試作が全くできていないのです。ざらめ糖の適切な分量を見極めたり、技術を習得したりといったことができないのは、誰の目にもわかる不安要素でした。
 それでも昨年の責任者である大藤さんに相談しながら話は進み、綿あめはキャラクター袋に入れて百五十円で売ることが決まりました。
 大学祭の一週間前の部会でそれを発表すると、部会が終わった後、軽く打ち合わせをしていたわたしたちのところに相羽さんが来ました。
「綿あめの値段の件なんですけど、高すぎませんか?」
 わたしたちはあくまでも原価から値段を決めたので、それが相場なのかどうかはわかりません。これ以上安くすると、販売ノルマが現実的でない値になっていきます。わたしは何かを知っていそうな相羽さんに情報を求めることにしました。
「一応、原価を考えるとこの値段で売りたいところですが……どこかとの比較で、高いと思ったのですか?」
「私の友達のクラスが、百円で出すそうです。多分そこまで量が変わることもないでしょうし、向こうには味というか、色のバリエーションもあるみたいです。完全に負けてますよ」
「なるほど……」
「あのさ」
 予算表を睨みながら、和泉さんも質問をします。
「そこ、キャラの袋使ってる? うちのが高いのって、かなりの割合その袋なんだよね」
「使っていないと思います」
 実際、キャラクター袋は一枚四十円ほどにもなり、原価の大半を占めています。これがなければ、値段を百円くらいまで下げることができます。しかし、今からプランを変更するのは困難です。この袋を提案した武藤さんも、普通のポリ袋に変えることは考えていないようでした。
「キャラクターの袋を使えば、子供の目を引いて売れやすくなるかもしれないよ。値段では負けてても、差別化ができるならいいと思う」
「というかもう注文しちゃったから、袋は変えられないんだけどさ」
 あとは、売り方を工夫するしかありません。
「値段はそのままにして、どうしても売れなかったら下げていくとか?」
「それはやりたくないんだよ。計算が面倒だし、早くから値下げすると却って客が遠のく。それなら、最初から百二十円とかで売ったほうがマシだな」
「それは、かなり薄利多売の戦略になりますよね……」
 和泉さんが計算をやり直すということで、その場では結論を出しませんでした。しかしわたしたちの間には、そのとき確かに危機感が芽生えたのです。出資金は既に、二十名ほどから集まっていました。

 一週間考えて和泉さんが出した結論は、元の値段のままでざらめ糖を多めに使い、ボリュームで勝負することでした。届いた実際の袋を見ると予想より大きく、半端な綿あめでは必要以上に貧相な印象を与えてしまうことがわかったのです。
 それにしても、その大きさを作るのにどのくらいのざらめ糖が必要なのか、量を増やして形を整えるのが難しくならないかなどと、何を懸念しても当日までに解決できないのがもどかしいばかりでした。
 その裏では、店番のシフト組みが進んでいました。多めに入ることのできる人に序盤で綿あめ職人になっていただき、四日間を乗り切る作戦です。わたしも一日平均六時間働くことになり、綿あめづくりがどれだけ上達するか楽しみになりました。
 他の二年目のメンバーも協力してくれる方が多い中、圧倒的に参加時間の短い人がいました。先生です。
 大学祭前の最後の部会が終わり、久しぶりの先生との帰り道に、その本音を聞き出そうと思いました。
「先生……大学祭のシフト、一コマ三時間だけというのはあまりに短いのでは?」
「傑作選に作品を載せたからな。一応の礼儀だが、それ以上は知らない」
 本当に興味がないようです。先生は出資金も出していませんでした。
「そもそも、傑作選を売るためなのか、金儲けのためなのか、どっちつかずで付き合う気にならない」
「先生、それは違いますよ」
 実際に出店しようとすればわかることですが、ただ傑作選を売るブースを置くだけでも、出店料や資材のレンタル代でそれなりのお金が掛かるのです。他の食品などを売るのは、その費用を傑作選の値段や部費に転嫁しないための方策でもあります。ちなみに、傑作選は百円です。ほとんどサービスのような値段ですし、部員には無料で配布されます。
「傑作選を安く出すためには、必要なことなんです」
「そのための手間が大きすぎる。長時間働いても、出資金を出していなければリターンもないのだろう。世間ではそれを搾取と……」
「先生、それ以上はダメです。わたしたちはお金では測れない貴重な経験の機会を得ているんですよ。大学生なんですから」
 あまり良からぬ発言になり始めたので、とりあえず止めました。先生は咳払いをして、話題を切り替えます。
「せめて傑作選は五百円くらいにして、活動に還元するくらいの動機があっても良いと思うのだが」
「まあ……ページ数を考えると、そのくらいが適切な値段だと聞きますね」
 傑作選の厚さは百ページくらいです。同人誌としてはそこそこのボリュームだと思います。それにしてもあまり値段を上げてしまうと、全く売れないリスクばかりが大きくなってしまいます。
「自ら傑作を名乗るくせ、百円だぞ。謙虚が過ぎる。この値段はずっとそうなのか?」
「少なくとも三年前から、ずっと百円です。勝手には上げられませんし……」
 二年前の傑作選は見せてもらったことがありますが、装丁もページ数も今とほぼ同じです。値段が百円である理由はわかりませんが、昔の部員が評価した額をそのまま伝えてきているのかもしれません。
「その値段でも、去年は売れ残ってしまったそうなので」
「傑作選も、満足に売れていないということか?」
「そこは、でも……文芸部は名前が知られているわけでもないですし、売れ残ったと言っても五十部は売ってますし、健闘していると思いますよ」
「結局は傑作選を売るためと言いつつ、宣伝するのは食品のほうだけなのだろう?」
「それは確かにそうです。傑作選を宣伝しても、道行く人のほとんどには刺さりませんし……」
「……難儀なものだな。やはり付き合いきれない」
 ついに先生は呆れ果てて、何も言わなくなってしまいました。わたしも実際、これまでやってきたことがいくつもの矛盾を孕んでいて、見て見ぬふりをすることで押し通そうとしていたことを自覚し、何も言うことができなかったのです。

 それでも、大学祭はやり通さなければなりません。前夜、メインストリートの一角に屋台を設置し、わたしと武藤さん、和泉さんの三人で朝まで機材番をすることになりました。
 先生と話をして以来、色々考えることはありましたが、それは来年に向けての反省としてしまっておくことにしました。今から変えようのないことを言っても、士気を下げるだけです。
 和泉さんはノートパソコンを持参していて、インターネットの繋がらないところですが、何かをタイピングしていました。
「和泉さん、それはレポートか何かですか?」
「そうだね。暇だし」
「うちも課題あるなあ」
 この週明けに課題の提出をさせるような講義は、どこの学部にもあるようです。特に休講となる木曜日や金曜日の講義は、「大学祭はありますが、二週間のうちに講義の内容を忘れては困りますので」などと前置きして、レポートを課してきたりします。
 わたしは不覚にも、時間を潰すものを何も持ってきませんでした。今日の講義の資料があるくらいです。受付の椅子に座り、夜のメインストリートを眺めます。二十二時を回ったところですが、普段の部会の帰りよりも人通りがあるように思います。
 幸いなことには、あまり冷え込まない夜でした。ひざ掛けの毛布が一枚あれば、身体は冷えません。しかし、通りを眺めているだけでは退屈で、眠くなってしまいます。和泉さんは相変わらずパソコンに向かい、武藤さんはスマートフォンを触っていました。
「お疲れ様です!」
 そんなとき、様子を見に来てくれたのは四年目の明石さんでした。コンビニの袋を持って、この時間にもかかわらず元気に駆け寄ってきます。
「差し入れを持ってきましたよ」
「ありがとうございます!」
 袋にはペットボトルの温かいお茶が三本入っていました。和泉さんはそれを見ていち早く立ち上がってきました。
「じゃあ、私はこれで。理学部は眠らないのだ」
 どうやら、実験の合間に来てくれたようです。さすがに四年生ともなると、大学祭を楽しんでばかりもいられないのかもしれません。
 お茶はすぐに飲み干してしまい、わたしたちはまた、極めて静かな夜を過ごしました。だんだんと自分が起きているのか眠っているのかわからなくなります。
「おいフミ、起きてるか?」
「あっ、えっと……わかりません」
 ちょうど日付が変わった頃のことです。
「誰かは起きてなきゃいけないからさ。あと七時間くらい、交代で睡眠を取ろう。武藤もそれでいい?」
「了解。順番は?」
 武藤さんも眠そうです。和泉さんはまだ余裕がありそうでした。
「あたしはまだ起きてるからいいよ。二時間くらい、どっちか寝ていいよ」
「……じゃんけんで」
 勝負は一瞬で決まり、わたしが勝ちました。武藤さんと場所を代わり、わたしは硬いアスファルトの上に毛布を敷いただけのところでしたが、横になることができました。
 そして一瞬で眠りに就いたわけでしたが、そうなると二時間などあっという間で、すぐに交代の時間になります。次は武藤さんです。
 人通りはほとんどなくなりましたが、道路を照らす二列の街灯は不思議なほど明るく、まだ夢の中にいるのかもしれないと思いました。
 大学祭期間中は、構内全域で飲酒が禁止されています。この夜も例外ではありません。とりあえずは、それで平穏が保たれているのだと思います。
「フミ、さっき小説書いたんだけど読んでくれる?」
 和泉さんもさすがに、声のトーンを落として声を掛けてきました。
「いいですよ」
 わたしが眠っている間に、和泉さんと武藤さんで掌編小説を書いたとのことです。帰省した田舎で菜の花畑を見つけた主人公の少年が、言葉を発さない謎の女性に出会うところから始まる、少し不思議な作品でした。
 制作過程は見ていませんが、文体は統一感があり、恐らく一人で書いたものと推察します。しかし、和泉さんや武藤さんの小説を読むのは一年誌以来で、読んでわかるほど特徴を知りません。
「これは、どちらかが全部書いた感じですか?」
「そうだね。プロットまでは二人で考えたけど、武藤が眠くて文章なんて考えられないって言うから」
「でも、コンパクトにまとまっていると思います。女性について謎は残っているんですけど、さりげないヒントが散りばめられていて、説明不足という感じではないですね」
 その後細かい表現についていくつかお話して、作品が仕上がりました。
「ここ、インターネット繋がらないんだよな……」
 和泉さんはそう呟きながら、スマートフォンとノートパソコンを同時に操作し始めます。数分後には、スマートフォンでメールドライブの画面を見せてくれました。
「深夜機材番ゲリラ。明日からも、便乗してくれるといいな」
「なるほど。楽しみですね」
 作品そのものはきっと、傍から見て優れたものではないかもしれません。それでも、この特別な夜に生まれた作品として、わたしの記憶には長く残るのだろうと思いました。
 先のことを考えると、浮き足立ってしまうような夜です。既に綿あめを作る機械や材料、キャラクターの袋もすべて準備ができています。それでも、この夜を抜け出すのが惜しくなります。
「……寝ていい? フミ、一人になるけど」
 ここまでずっと起きていた和泉さんですが、声に普段の明瞭さがありません。そろそろ四時というところで、限界が近いようです。
「いいですよ。もうすぐ武藤さんの起きる時間ですし」
「ありがと。んじゃ、任せた」
 それはもう、寝落ちにしてもあまりに早かったと思います。一人になったわたしは、またメインストリートへ顔を出しました。
 日の出前のギリギリの時間帯です。まだ街灯が明るく見えます。しかしさすがに冷えてきているようで、温かい飲み物が恋しくなりました。
 わたしたちは、何のためにこの日を目指してきたのでしょうか。
 ふと、足元の段ボール箱に目を留めました。直方体の小さな面が開いていて、中に新品の傑作選が入っているのがわかります。わたしはその中の一冊を、そっと手に取りました。
 緑一色の表紙に、明朝体で文芸部の名と年度と『傑作選』の文字が並んだ、非常に質素なデザインです。普段の部誌はデザイン班の川内さんが美麗なイラストを描いてくださっていて目を引きますが、傑作選には何故かそれがありません。
 先生は強気なことも言いましたが、実物を見るとやはり、百円でなければ売れないような気もしてきます。中身がどれだけ良くても、このデザインからはそれが全く伝わりません。
 やっぱり、何もかもが不安でした。
 やがて、スマートフォンのアラームで武藤さんが起きた頃には、辺りが少しずつ明るくなり始めていました。空は完全な曇りであることがわかります。
「おはよう。なんか明るくなったね」
「おはようございます」
 わたしも武藤さんも、二時間と少ししか寝ていません。おはようと言いつつも、お互いあくびが出ています。
 いつの間にか街灯は消えていました。カラスが騒ぎ始めます。たくさんの食品が出回る大学祭は、彼らにとっても一番の稼ぎどころです。いよいよ、そのときが近づいているのを感じさせます。

 こうして始まった初日、わたしのシフトは午前中の調理でした。たくさんの時間シフトに入ってくれる篠木くんと共にエプロンを着て、綿あめ職人への第一歩を踏み出すはずでしたが……。
 来ません。九時台はなんとゼロ人。十時台でようやく一本売れましたが、買ってくれたのは明石さんでした。これではサクラ疑惑が出てしまいます。
「せっかく綿あめが作れると聞いて、古事記を読んでイメージトレーニングをしてきたのに」
「古事記で綿あめ……ですか?」
「そう。こうして棒でかき混ぜると、漂っていた綿が一つの島のようになっていく。まるで、天沼鉾でおのごろ島を創ったイザナギとイザナミのようにね」
 さすがに古典が好きだと言うだけのことはあります。まるで国を生むかのように、神話のごとき綿あめを作ってくれるのです。しかし、そんな売り文句を考えても、メインターゲットの年齢層にはほぼ間違いなく刺さりません。
 というか、世間的には木曜日です。道行く人は半分以上が内部の学生だと思います。たまに二歳くらいの子供を連れて散歩に来たらしい主婦の方などを見ますが、そういうときに限って、買われるのは他所の綿あめです。
「百五十円、高いんじゃないかな」
「……篠木くんも、そこに気付きましたか」
「いや、多分みんな思ってるよ。向こうの綿あめは百円とかだし」
 その言葉にどれほどの根拠があったのかはわかりませんが、競合もここから見える範囲に店を構えていることがわかった今、価格競争で負けていることは誰の目にも明らかです。
「これ、キャラクターの袋アピールする? そうじゃないと誰も来ないよ」
 そんな宣伝策を提案したのは、呼び込みをしてくださっていた平塚さんです。
「なんか、夏祭りの屋台でさ。この袋に綿あめ詰めたもの、いっぱい吊るしてるじゃん」
「なるほど……」
 そこで目に付いたのは、作業台に敷くために持ち寄った新聞紙です。
「これを丸めて、袋に詰めて表に飾りましょう」
「よし、そうしよう」
 平塚さんと、受付をしていた小野寺さんの二人の力で、間もなく四袋分の飾りが出来上がりました。これで見た目は少し華やかになります。競合店は風船で装飾しているようですが、その点ではこちらの方が有利だと思います。
 しかし、午前中にはそれ以上の注文がありませんでした。一応、傑作選は三冊売れましたが、あまり慰めにはなりません。わたしはシフトの交代の時間になり、明日に備えて帰宅することにしました。
 こんなとき、天は味方してくれないものです。帰宅して天気予報を見ると、水曜日の段階で曇り予報だった金曜日に傘のマークがありました。朝から夕方にかけて、やや強い雨とのことです。
 本格的に逆風でした。大半の団体は利益を出す大学祭ですが、さりとて戦略や準備の整っていないところまで無条件に成功するかというと、そうではありません。ただでさえ綱渡りだった文芸部の赤字は、いよいよ決定的でした。

 翌日の朝、九時ごろから傘を差しても靴が浸水するほどの大雨が降っていました。出歩いている人はほとんどいませんし、周囲の店もちらほらと休業しているところがあります。文芸部は一応、受付の机を少し引っ込めて営業しているようでした。
「おはようございます、入れてもらえますか……」
「裏から入りたまえ」
 深夜機材番の後、そのまま最初の雑用係に入っていた大藤さんが迎えてくれました。中に入ると武藤さんが調理をしていて、シフトに入っていないはずの和泉さんもいました。
「フミも来たか」
「あの……和泉さんは午後からだったような気がしますけど」
「こんな状況でさ、家でゴロゴロしてられるかよ。昨日の売り上げ二十食だぞ」
 屋台の中には、恨めしい雨音が響いています。受付をしていた朝倉さんが、わたしたちを不安そうに見つめていました。
「雨が止む前に、戦略を考えましょう」
「ともかく、明日が勝負だ。まだ値段は下げられないけど、材料余らせても仕方ないし、大きさで攻める」
 冷静そうに見えて、和泉さんも相当焦っていると思います。そこで、武藤さんがある指摘をしました。
「あのさ。昨日見てた感じ、綿あめ買ってくれる人、小さい子供連れたお母さんが多かったんだけど……自分のこと思い出してみると、大きい綿あめって余しちゃうんだよね。だから多分、大きさってそこまで魅力にならないんじゃないかなって」
 確かに、とわたしは思いました。ところが和泉さんは袋を一枚摘み上げ、首を傾げます。
「でもさ、この袋に小さい綿あめ入れてみなよ。袋の下半分が余って、見た目も綺麗じゃないし、綿あめも余計に小さく見えるし、全然いいところないよ」
 どこまでも、このキャラクターの袋が裏目に出てしまっています。わたしたちはこの袋に包まれて、このまま窒息していく運命なのでしょうか?
「それならいっそ、上の年齢層を狙うとか……」
 わたしは必死に、起死回生のアイデアを探します。しかし結局、いくら方針を見つけても、決め手となりうる行動が見つかりません。
「どうやって?」
 和泉さんは、わたしの何気ない一言に対して容赦なく追及してきます。もはや焦りが過ぎて、考えが浅く空転し始めているのでしょう。結局、わたしにも大した意見は出せません。
「例えば、おのごろ島綿あめ、神話級の美味さ……みたいな」
「古事記かよ」
 篠木くんの案を丸パクリしました。これには大藤さんもツッコミをせずにいられなかったようです。でも、誰も笑いませんでした。むしろ笑ってくれたほうが、わたしは助かったのです。
「夏の風物詩、ポプラの綿あめ……とか」
 空気が重すぎます。今度は自分で考えた二発目を撃ちますが、空気が却って重くなってしまいました。もう半分押しつぶされています。
 その後、予報通りに雨は止みましたが、綿あめは一個も売れていませんでした。そして、夜に四年目の上尾さんと樋田さんが様子を見に来たついでに一個ずつ買ってくれましたが、それがこの日唯一の売り上げとなりました。

 祈るような思いで迎えた三日目です。今日の最初の時間帯は、先生が雑用に、新井くんが会計に入っていました。ちなみに新井くんも、シフトに入っている時間はここだけです。
「雑用ということだが、何をすればいい?」
「基本的には呼び込みです。何か足りない資材があったら、買い出しをお願いしたりします」
 指示の内容が予想外だったらしい先生はうろたえます。
「呼び込みだと、それなら調理のほうがまだ……」
「調理はわたしがやります。大きさとか形とか、慣れていないと難しいんですよ。もう三日目ですし」
 しかし実際には不幸が重なったため、わたしも数えるほどしか綿あめを作っていません。正直、まだ未経験の素人同然です。何も知らない先生だから、これで丸め込めるのです。
「段ボールを被って、自分がロボットになったと思い込んで呼び込みをすれば、緊張もしないんじゃないですか」
 ちょうど、昨日の暇な時間に作った白い段ボールのスーツがあります。宣伝文句がそれぞれの面に書かれているので、歩くだけでも効果はあるような気がします。いずれにしても先生にはぴったりです。
「確かに、ロボットは緊張しないが……それは普通、他人のほうを野菜など害のないものと思い込んで、尊厳を保つのではないのか」
「そんな揚げ足取りができるだけ頭が回るなら、最強の宣伝方法でも考えてください。今日が本当に勝負なんですから」
「……わかった」
 売上の状況は、先生を含め多くの人には伝えていません。変にプレッシャーを与えるのは得策でないからです。ただ、今日が勝負であるという直感にも一致する事実は、積極的に強調していきたいと思います。
 ということで、午前の営業が始まりました。休日ということもあり、高校生と思しき制服姿の集団を見かけるようになり、家族連れや観光客の数も明らかに増えています。
 そして幸先の良いことに、キャラクターの袋に目を付けて来てくれる人が多く、午前中から三十食もの売り上げがあったのでした。これは非常に期待が持てます。
 午後は調理を篠木くんに交代して、わたしは呼び込みに出ました。ロボットには頼らず、段ボールの看板一つで頑張ります。
「文芸部の綿あめ、たっぷり詰まって百五十円!」
 その日はとても気温が上がっていて蒸し暑く、声を出し続けるのも大変でしたが、負けてはいられません。
 売り上げも順調に伸びていきます。行列ができ始めたので、篠木くんは綿あめを絶え間なく作ることになりましたが、練習の成果を思う存分発揮できてとても満足げでした。
 そんなとき、南側から見覚えのある女性がわたしをしっかり見つめて歩いてきました。また一段と綺麗になった染谷さんです。
 わたしが親友をすぐに判別できなかったのにはもう一つ理由があります。男女の二人組だったからです。つまり、染谷さんは今日、彼氏さんを連れてきていたのです!
「中津さん」
「染谷さん!」
 ほぼ同時に呼び合い、握手を交わします。
「サプライズ訪問だなんて。先生が悔しがりますよ」
「ごめん、来れるかどうかわからなかったから。浦川さんいないの?」
「午前中だけ働いて、もう帰ってしまいました。今頃はきっと引きこもりです」
「変わらないね」
 わたしとしては染谷さん自身ももちろん気になりますが、彼氏さんにも注目せずにいられませんでした。髪はスポーツ刈りで、背は男性にしては低めですが、染谷さんをすっぽりと包んで守ってくれそうな強固な体躯が印象的です。サッカーか何かのキーパーか、ラグビーやアメフト辺りをやっていると思います。
「今日は札幌でデートですか」
「うん。映画を見に来たんだけど、もう少し時間があるから、どこか行こうって話になって」
「頼もしそうな彼氏さんじゃないですか、仲良くしてくださいね」
「ありがとう。せっかくだし、綿あめ買っていくよ」
「それでしたら、わたしにお任せください」
 ここは当然、二人の幸せを願う意味でも、わたしが代金を出すところです。綿あめに加えて、傑作選も付けました。これでとりあえず、先生の近況報告もできるはずです。
「中津さん、本当にいいの?」
「もちろんです。あっ、でも……一緒に写真を撮ってもらってよろしいですか?」
「いいよ」
 彼氏さんにお願いをして、屋台の前でわたしと染谷さんのツーショットを撮りました。これは夜になってから先生に送り付けてやるのです。
「じゃあ、私はこれで。またね」
「お元気で!」
 その時間が、あらゆる意味でピークでした。夕方からは初日ほどのペースでしか売れなくなり、しめやかに閉店時間を迎えたのです。

 最終日、わたしは午後からのシフトでしたが、行ってみると綿あめの値段が百二十円に下がっていました。ちょうど和泉さんが呼び込みをしていたので、話を聞いてみます。
「お疲れ様です。値下げしたんですね」
「少しでも売るためにな。もう、覚悟するしかないよ」
 一応、屋台の前には五組くらいの行列ができていました。値下げ作戦は功を奏しているようです。それでも赤字を免れないという状況なのが、和泉さんの口ぶりからわかりました。
 天気は快晴で、昨日よりも気温が高くなっていました。それでも涼しい風が吹いており、大学構内は程よい熱気に包まれています。
 行列が途切れたところで、武藤さんと調理を交代します。最終日は十五時までなので、わたしが最後の調理担当です。
 本来シフトに入っていない人も次々に集まってきて、呼び込みに協力してくれました。ほとんど総力戦の様相です。損失を少しでも減らすためにも、とにかく作って売るしかありません。
 傑作選はいつの間にか在庫がなくなっていました。あとは綿あめに集中するのみです。
 実際、綿あめは熱を加えて綿状にするものなので、機械が相当な熱源となります。近くで調理をしていると、とにかく暑いです。汗が出てきます。幸か不幸か注文が絶え間なく来るので、一息入れる暇もありません。
 忙しさとしては、昨日のピークと同じくらいだったと思います。その勢いのまま、気が付いたら終了時間になっていました。
 満足感はありましたが、袋単位で余ったざらめ糖やキャラクターの袋を見ると、予定の販売数には遠く及ばなかったことがわかります。しかし、もしかしたら赤字を回避できたのではないかと思うほど充実したラストスパートでした。

 二週間後の部会で、現実の総決算をしました。
「大学祭へのご協力、皆さん本当にありがとうございました。二日目に雨が降ったりもしましたが、こうして無事に傑作選を完売し、終えることができました。まずは和泉さんから、会計の報告をいたします」
 和泉さんが会計の最終決算表を配ります。
「利益は出ませんでした。出資者の皆さんには、一口二千円そのままお返しします。以上です」
 きっぱりと述べられた報告内容に、場がどよめきます。そんなわけはない、と野次も聞こえますが、決算表には売上の収入と、材料費や参加料などの支出が、ぴったり一致しているという事実が記されていました。
「綿あめは、何個売れたんですか?」
「申し訳ありませんが、質問にはお答えできません」
 四年目の上尾さんからの質問にも、和泉さんが明確な回答を避けたその背景には、わたしたち三人と大藤さんしか知らない秘密がありました。
 出資金の返しきれない額だけ、わたしたちが綿あめを買ったという体で埋め合わせをしたのです。それが和泉さんの言っていた「覚悟」でした。元の値段にして、だいたい五十食くらいは足りなかったようです。三日目以降で惜しいところまでは戻せているわけですが、それでも出資金を減らして返すようなことになれば、醜い大炎上を見ることになると和泉さんは考えたようです。
 実際、決算についてそれ以上の質問はありませんでした。損をさせなければ、説明責任を追及する人もいない。和泉さんの思惑の通りです。
 そして、続く反省会でも公平に議論をすることができる。これが赤字だったら、冷静に悪かったところを後の世代へ伝えようと行動できる集団じゃない。周囲の意見を取り入れる場が少ないのが悪いとか、もっと相談して欲しかったとか、そもそも最初から間違ってるとか、これまで意見を求めても何も言わなかった奴らが増長して騒ぎ出すから。
 それを聞いたとき、わたしはさすがに独善的ではないかと思いましたが、和泉さんに反対することはできませんでした。今この部会で、大きな混乱が起きていないのを見ると、和泉さんの決断が正しかったのではないかと思い始めます。
「それでは今年の大学祭について、いくつか観点を分けて反省をしていきたいと思います」
 武藤さんによる進行も、和泉さんの作ったシナリオです。「綿あめについて」、「当日までの準備について」、「当日の運営について」という三つの観点に絞って、意見を受け付けようというものです。
 まずは「綿あめについて」です。わたしたちの間でも綿あめを選んだのは失敗だったという結論に至りましたが、部会でも否定的な意見が集まりました。
「四日間もあるのに、休日の日中にしか売れないようなメニューを選んでしまったのは失敗だった。儲けを出したいなら、メニューを決めるときに客層も意識する必要があると思った」
 早速、五年目の方からこんな意見が飛んできたので、和泉さんは隠れてため息をつきました。
 そもそもわたしたちも、昨年の責任者だった大藤さんには常にアドバイスを頂いていましたし、メニューの候補は全体から募集したもので、そこから一つに決める会議も参加を自由にしたり、メールでも意見を募集したりと、議論は尽くしたと思っています。その結果をもとから持っていたであろう価値観で断じるのは、あまりフェアなことではないと思います。
「綿あめも作るときに飛び散って作業台や床がベタベタになるので、火や油を使う調理と比べてもそこまで綺麗だったり、楽だったりするわけではないと思った」
「原価では競合に負けていたが、キャラクターの袋は差別化になっていた感じがあるし、袋のお陰で量を多くすることもできたので、百五十円で売るという判断も間違ってはいなかったと思う」
 それでも、多くは純粋に将来に向けた教訓を残すための意見でした。これが赤字だったならば、攻撃的な意見が多数を占めたかもしれないと思うと恐ろしくなります。
 準備や運営についてはトラブル自体が多くなかったので、普通にわたしたちを評価してくださる声もありました。全体で見ると、和泉さんの判断で見事に炎上を回避したことになります。わたしや武藤さんでは、このような舵取りはできませんでした。
 それでも、これ以上彼女のカリスマ性に依存してはいられません。次期部長選挙に向けた議論も始まっていました。わたしは……長くなりそうなので、続きはまたの機会にしたいと思います。

十三 鴛鴦

 それは春休みの終わり際のことでした。わたしはまたも小野寺さんに誘われて、裏通りの小さな神社を訪れていました。
「こんな神社があったんですね……」
「高校のときに知って、合格祈願もここだった」
 菅原道真公をも祭っているというこの神社は、彌彦神社というそうです。新潟由来の由緒ある神社だということが、境内の前の案内板に書かれていました。
 寒くはありませんでしたが、境内にはまだまだ雪が残っています。冬の間あまり運動をしていなかったにもかかわらず、大通からここまで頑張って歩いてきました。わたしはすっかりバテていましたが、小野寺さんは元気そうです。体力があります。
 それでもわたしが付き合ってここまで来たのは、やはり先生に関する大切な目的があったからなのです。
「今日は、合格祈願というわけではないですよね?」
「うん。縁結び」
 誘われたのは、マスカレードの結果発表会があったその日でした。

 マスカレードの詩部門は、全般的に部員が詩を読むことに慣れていないせいか、作品数が出る割に話題になる作品は多くありません。今回も十作品が提出されていましたが、各作品への投票数は散文部門の半分ほどでした。競争が激しいかどうか以前に、そもそも注目度が低いのです。
 そこへ十四篇の詩からなる詩集を提出した小野寺さんでしたが……。
「六位以下の結果はこちらのプリントにまとめましたので、後で見てください」
 作品名が呼ばれることはなく、発表会はあっさりと終わってしまいました。詩部門の入賞者が五位から順番に呼ばれていたとき、最初は両手を組んで必死に祈っていた小野寺さんが、上位に近づくにつれてだんだんと祈る力を失ってしまうのを見ました。
「今回の企画班賞、詩部門は『名もなき夜』」
 その瞬間、わたしは思わず小野寺さんの手を取って喜ぶところでしたが、小野寺さんは逆にわたしの手を引っ張り留めました。先生もその様子を見ている中で、名乗り出ることができなかったのです。
「……では、賞品は後ほど本人に届けさせていただきます」
 ちなみに景品は、季節外れの花火セットでした。受賞の背景を朝倉さんに聞くと、たまたま選考会に江本さんが来ていて、小野寺さんの詩の「痛々しいほどにギラギラした感じ」を大層気に入られたということがあったと話していました。

 わたし自身は小野寺さんの詩集をそこまで悪いものとは思いませんでした。やはり全体的にリズム感重視の言葉選びで、伝わってくるものがないと言われればそれまでかもしれませんが、小野寺さんが持つ独特の世界観はかなり色濃く表現できていたと思うのです。
 それでも結果を見ると、「ロックの歌詞のようだ」とか「詩という感じはしない」とか散々な感想ばかりで、総合点でも目を覆うような結果になっていました。
 先生に認めてもらうため、文芸部員としてこれからも進んでいくため、強い思いで臨んだマスカレードの結果がこれでは、その傷心も想像以上だと思います。
「……これから、どうすればいいのかな」
 社殿の前で手を合わせながら、小野寺さんは呟きました。わたしは慎重になりすぎて、言葉を返すことができません。
「詩は、諦めたほうがいいのかな」
 でも、小野寺さんが自ら選んで作った詩は、間違いなく大切なアイデンティティです。それを諦めてしまっては元も子もありません。わたしは少し強く言いました。
「小野寺さんはまだ、先生やこの部の人たちのような、文芸の作品が好きな人に向けた書き方を知らないだけですよ。表現したいものも、言葉を選ぶ力もあるので、少し表現の焦点を変えればすぐに受け入れられると思います」
 すると小野寺さんは、合わせていた手を下ろして、「じゃあ」とわたしの目を見つめました。
「小説の書き方、教えて。夏部誌に出したい」
 意外な申し出でした。夏部誌に出す気があるとは聞いていましたが、当面は詩で勝負するものだと思っていたからです。
「今からで、間に合いますかね?」
 夏部誌の締め切りは四月末、連休の前です。ちょうど一か月しかなく、初めてで今から作品を仕上げるにはやや厳しいところでした。
「休みの間に、半分くらいまでは書いてみたの。でも、後半のまとめ方がわからなくて。それを完成させたい」
「長さはどのくらいですか?」
「今の時点で、合評稿のフォーマット三枚くらい」
 完成すれば一万文字程度になる短編です。これならば大丈夫だと思いました。
「わかりました。あとで、原稿を送ってください」
「ありがとう」
 そして、わたしもそこの神社で必勝祈願をしました。現実的にも、先生は小野寺さんの小説を否定することはできないはずなので、勝てる見込みは大いにありました。あとは、二人の関係性を適切なところに着地させるだけです。

 その帰り、わたしは近くの文学館で少し休んだ後、小野寺さんと中島公園を歩きました。まだ人も少なく、全体に白茶けた色合いの公園でしたが、池辺には水鳥が訪い始めていました。
「あれ、アオサギ」
「いますね」
 小島の水際に佇む白く細い鳥を、小野寺さんはいち早く見つけて指で示しました。
「鳥が好きなんですか?」
「うん。白鳥も毎年見に行ってる」
 そこで小野寺さんの挙げた湖の中には、昨年の一年誌のときに新井くんが取材したという湖の名前もありました。二人が同じクラスでなくて、本当に良かったと思います(小野寺さんなら、新井くんの軽々しい誘いには靡かないと思いますが)。
 木造のデッキから、わたしも野鳥を探すつもりで池を見回しました。すると、カモくらいの大きさで、頭に白いラインの入った赤いくちばしの鳥が水面を滑っているのを見つけました。
「小野寺さん、あれは?」
 わたしは小さな声で尋ねます。
「オシドリの雄。繁殖期には、あんなに派手になる」
「雌へのアピールなんですね」
 言葉ではよく聞くオシドリですが、生きているものを実際に見たのは初めてでした。一般には良縁の象徴とされる縁起の良い鳥です。
「良い縁があるといいですね」
「でも、オシドリは毎年相手を変える。相手を変えない鳥もいるから、あんまり特別じゃない」
「ああ……聞いたことがあります」
「カラスとかも、一度つがいになったらずっと一緒に行動するのに」
 それでもやはり、オシドリのイメージがその関係性を美化させるのでしょう。カラスを良縁の象徴とはなかなか思いません。
 ワンシーズンで離れるが、仲睦まじいオシドリ。わたしはそれを、身近なものに重ねました。
「でも、ある意味わたしたちがあやかるべきは、オシドリなのかもしれません」
「どうして?」
「作者と編集の関係は大抵、作品が完成するまでです。でも、協力して最高の成果、作品を目指しますよね」
「そっか……」
 小野寺さんは深く一度頷いて、また池を眺めました。あのオシドリのペアになるような存在は、この辺りには見つかりませんでした。

 こうして四月を迎え、わたしは新歓の傍ら、小野寺さんの小説が初稿として完成を迎えられるようにサポートをしていました。先生を含め、周りには内緒です。
 小野寺さんが書いていたのは、『叫べ』というファンタジー風の物語でした。戦時下、空襲で家や家族を失った幼い少女が、路傍で半分壊れた洋風の人形を見つけるところから始まります。
 その人形は不思議な力を持っており、もはや死ぬ運命にあった少女を天使として生き返らせます。しかし、彼女は見習いの天使として人間に干渉する権限も力もなく、ただ各地を巡って様子を見ることしかできないのでした。
 作者としては、戦争の陰惨で理不尽な描写により、間接的に平和を訴えるようにまとめたいとのことですが、肝心の後半部分の運び方が決まらずに悩んでいる状態でした。しかし、前半だけを見ても描写力は見事で、完成すれば傑作選も視野に入ると思うほどでした。
 四月に入ってから、小野寺さんの理学部は文学部よりも授業が早く始まるので、わたしは理学部のエントランスに出向いて打ち合わせをしました。象徴的なステンドグラスのある場所です。
「これは多分、太平洋戦争の頃の話だと思うんですけど、史実をどのくらいなぞっているのですか?」
「参考に、抜き出してる程度かな。そのときに限らず、各地で悲惨な戦争が起きてきたわけだから、その醜いところを凝縮して、主人公を絶望させたい」
「ほう……なかなか挑戦的ですね」
 悪い方向にも感情を揺さぶることに躊躇がないのは、作家としての大きな強みだと思います。そうしなければ、一般に冷徹な読者の期待を上回ることができないのです。
「でも、絶望させた後、最初はタイトル通り叫んで終わりにしようと思ったんだけど、物足りないと思って」
「そうですね……ただ内面の変化が起きるだけで、行動に現れる部分が薄かったりすると、物足りなさを感じると思います。例えば、禁止されたことを破る……主人公が、人間に干渉してしまうというのはどうでしょう。その力はないと書かれていますが、内に秘めているということにしても良いと思います」
「わかった。例えば……」
 小野寺さんはノートを開いて、空白になっている後半部分のプロットを書き始めました。
 途中で一度、機銃で撃たれそうになっている少女を逃がす。警告を受ける。最後には、爆弾を投下した戦闘機を墜落させる。パイロットは死亡し、完全に違反。主人公は天使の権限を剥奪され、二度目の「死」を迎える。
「こんな感じ?」
 まだ飛び飛びのプロットですが、大筋としては良くなったと思います。 
「そうです。もう少しその間の段階を丁寧に設ければ、言うことはありませんよ」
「わかった。それは、書きながら考えるでもいい? なんだか、すぐにでも書きたくなってきたから」
 小野寺さんの頭の中でも、しっかりと物語が動き始めているようです。こうなれば、後は勢いに任せるのが吉です。
「そうしましょう。勢いは大事ですよ」
「ありがとう。また困ったら相談する」
「任せてください」
 しかしそうするまでもなく、小野寺さんの作品は週末までに仕上がりました。完成したものを読んでも、やはり先生にも劣らない魅力を感じます。先生がこれでも受け入れないとなった日には、わたしは先生を先生と呼ぶのをやめてしまおうかと思います。

 その初稿は、締め切りの前日に提出されました。わたしも推敲を手伝って、初稿としては万全の状態です。
 連休の半ばの平日に、小野寺さんと今後の作戦会議をするため、ボックス席で待ち合わせをしました。誰かがいたら、初稿の感想を聞きたいと思ったのです。
 するとそこには八戸さんがいました。
「あっ、小野寺。今回の初稿良かったよ」
 開口一番それなので、小野寺さんは戸惑ってしまいました。
「えっと……ありがとうございます」
 しかし、わたしは少し安心しました。つまらないものには厳しい八戸さんですが、裏を返せばしっかりと面白いものがわかるということです。
「今回、朝倉や浦川も良いの出してるんだよな。二年目も捨てたものじゃなかったな」
 朝倉さんも忙しい中でしたが、無事に初稿を提出することができました。内容は小学校低学年の、発音の発達が遅いことでいじめられている女の子の話です。
 ちなみに先生は結局、新歓のために書いた『春は霞』を出していました。高度成長時代、仙人の信仰がある古い山寺が舞台で、失われていく信仰と猛威を振るう公害により、仙人の霊威が失われていく様を、寺に住む少年の視点から描いた作品です。
「僕は今回、インターネットに出すからこっちまでは出さないけど、誰かの編集やりたいんだよな」
 それは明らかに、小野寺さんに対するアプローチでした。マッチングはもう始まっているのです。
「少し、考えさせてください」
 小野寺さんにもやはり、思うところがあるようでした。実際、わたしもこのまま小野寺さんの編集をするつもりでいましたが、前回が新井くんなので、同期で続いてしまうのが気になります。先輩のいるうちに、できるだけ腕を磨いておきたいのです。
 そんなことを考えていると、新井くんがやってきました。
「お疲れ様です」
「お疲れ」
 八戸さんは淡白な挨拶しかしませんでした。実は、新井くんも今回、夏部誌に作品を出していたのです。『ホワイト・キャナル』という小樽を舞台にした恋愛小説……と言うと少し語弊があります。本当は、妻と上手くいっていない男性が、母の病気をきっかけに一人で小樽の実家に帰ったとき、街を歩きながら大学時代の幸せだった恋愛を思い出して内省するという話です。
「新井くん。あの作品、朝倉さん的には大丈夫だったんですか?」
 わたしはその初稿を読んで、実際少し衝撃を受けました。過去の回想の内容が、二月の朝倉さんとのデートを強く想起させるものだったのです。そればかりか、当時の相手の描写の節々に、朝倉さんを意識したかのような感じがあるのです。
「え? 別になんも」
「それなら、いいですけど……」
 しかしそういうところも含めて、いつも通り我欲のために書かれた作品なのだと思います。八戸さんが歯牙にもかけないのはさもありなんという感じです。
「というか、中津さんは読んでくれたんやね。どうだった?」 
「前回よりは荒れないような気もしますが、男性視点の話なので、編集に女性を希望するのはやめたほうがいいと思いますよ」
「うむ……そうかもしれんな」
 真剣に考えている風ですが、表情には残念に思う感情が隠しきれていません。
「僕は朝倉か小野寺か浦川の編集をするから、やらないよ」
 そして八戸さんにごく自然に拒絶された新井くんでしたが、彼が嚙みついたのは拒絶されたことではありませんでした。
「あっ、朝倉さんは今回、私が編集をやります」
「どうして。新井と朝倉じゃ全然作風が違うから、まともな編集にならないよ」
「本人の希望です」
 わずか十秒のうちに睨み合いになりました。客観的には間違いなく八戸さんの意見が正しいのですが、まあ何しろ新井くんなので、朝倉さんの編集に就くために手段を選んではいないのでしょう。編集の立場を利用して何かをしようとしていることが明白です。
「新井くん。それは編集の態度としてあまり良くないのでは?」
 わたしがそれを指摘すると、新井くんはいつものように意固地になるかと思いましたが、今回は違いました。
「もちろん、合評以外でも朝倉さんの作品に意見があったら、私に投げてもらっても構いませんよ」
「それは、朝倉さんのためになるんですか?」
「完成した作品を見てもらえばわかるで」
 わたしたちの言葉も意に介さない、余裕の振る舞いです。結局は、朝倉さんとの間で合意があるならば、新井くんは編集になることができます。実際、何を言っても意味がないのでした。

 その後は興ざめした八戸さんが帰ってしまい、新井くんも居心地が悪くなったのか、すぐにどこかへ行ってしまいました。二人になったところで、小野寺さんが声を掛けてきました。
「八戸さんって、どんな人?」
 先ほど編集のオファーを受けて、人柄が気になったようです。
「文学、特に小説に関してはとても造詣が深く、傑作選やマスカレードの上位も常連ですし、信頼されている方ですよ。性格には、若干癖があるかもしれませんが……」
 実際、八戸さんの文芸に関する評価は先生を上回ります。風刺的な掌編を書かせれば、部内で右に出る方はいないでしょう。
「社会の問題を扱った作品が得意なので、小野寺さんや朝倉さん、先生あたりの編集を希望しているのだと思います」
「じゃあ、八戸さんに編集をしてもらうのがいいのかな」
「そうですね。期待値は高い選択だと思います」
 他にも小野寺さんの作品に近い要素を持っていて実力のある方はいますが、八戸さんを断って選ぶほどではないと思います。
「これは個人的な意見ですが、今の段階でも小野寺さんの作品はわたしにお手伝いできる最良の状態に近いので、本当にもっと実力のある方にお渡しして、仕上げてもらいたいという思いはあります」
「……うん」
 それでも、小野寺さんには迷いがあるようでした。
「不安ですか?」
「まあ、そこは頑張ろうと思うけど……」
 先生ほどではありませんが、人見知りの気があります。しかし、引っかかっていたのはもう少し異なる思いでした。
「浦川さん、編集ならやってくれないかなって」
「なるほど、先生ですか……」
 ある意味、小野寺さんにとってはブレイクスルーともいえる選択肢だと思いました。直接教えを乞うならば、手っ取り早く先生との距離を縮めることができるでしょう。
「でも、八戸さんのほうが私の作品に合ってるなら、浦川さんにお願いするのはわがままになる」
 そこで踏みとどまることができるのは、新井くんにも見習ってほしいくらいの謙虚さです。わたしはぜひ、その考えで間違っていないと背中を押してあげたいと思いました。
「このように考えてみませんか。先生に教われば、良くも悪くも先生に近づく程度で止まる可能性が高いわけです。でも、八戸さんは先生を上回る書き手なので、もっとレベルの高い考えを知ることができると思います。
 それに、編集として頻繁に作品を見ていると、総量としてどのくらい成長したのかが見えにくくなってしまうんですよね。先生は編集の経験もないですし、その点でどうなるかわかりません。この期間は八戸さんと実力を伸ばして、先生の鼻を明かしてやるというのはどうでしょう?」
 小野寺さんは少し考え込んだ後、しっかりと頷きました。
「決めた。編集は、八戸さんにお願いする」

 編集決めの当日、結果として小野寺さんの希望は通り、八戸さんが編集になりました。その裏では、疑問の声を浴びながらも新井くんが朝倉さんの編集になりました。
 ちなみに新井くん自身の編集は平塚さん、先生の編集は意外なところから、篠木くんが担当することになりました。
 わたし自身はというと、例によって優柔不断を発動した末、大藤さんの編集になりました。中世風の世界観で描かれたファンタジーです。他には高本さんの私小説に挑戦することなども考えましたが、そのときは大学祭の運営などの仕事も抱えていて、どうしても冒険するほどの余裕がなかったのです。
 一週間後には小野寺さんの一次合評があり、そこには飛び入り参加させてもらいました。原稿を見ると、陰惨な戦争の描写の一部が修正されており、八戸さんによると「必要以上に猟奇的に描かれていたところを直した」とのことでした。大筋はそのままで、合評でもほとんど手放しに褒める感想が多く、やはり少し物足りないくらいでした。
 合評は短めの一時間半で終わり、わたしはいつも通り、小野寺さんと一緒に帰りました。
「小野寺さん、八戸さんの編集はいかがですか」
「うん。お願いして良かったと思う。知識もあるし、知らなかった本を紹介してくれるし、すごく勉強になってる」
「良かったですね」
 実はその日、わたしは五限の時間に先生と合って話していました。そして、伝言を頼まれていたのです。
「これは先生から、小野寺さんへの伝言なのですが……」
「うん。聞かせて」
 小野寺さんは身構えます。表情がきりっと真剣になりました。
「初稿から、小野寺の作品はまだ読んでいない。自信を持って見せられる出来になったら、見せに来るといい」
「……わかった。最終稿が完成した後かな」
「そうですね」
 どうして先生がそのような空気を読んだ行動に出たか。そこには、先生によるせめてもの気遣いがありました。
「マスカレードの『名もなき夜』、あれは小野寺の作品だったのだろう?」
「先生、どこでそれを……」
「認めたな。企画班賞の受賞者が名乗り出る場面で、不審な動きをしただろう」
 どちらかと言えば、それはわたしのことでした。小野寺さんは隠す意思を見せていたのに、申し訳なくなります。
「小野寺さんには言わないでくださいね」
「言わないよ。準備ができていないのなら、わたしから声を掛ける必要もないだろう。期待せずに待っているから、忘れた頃にでも来るといい」
 先生もかなりのツンデレだと思います。でも、なんだかんだで小野寺さんのことを考えてくれることには、素直に感謝したいと思いました。

 しかし、その決戦の日は予定よりも早く来てしまいました。大学祭が終わって間もなく、二次合評の参加者の中に先生が入ったのです。その予定表が公開されたとき、すぐに小野寺さんからメッセージが届きました。
『浦川さんが合評に来るどうしよう』
 汗の絵文字が五個くらい並んでいます。しかし、決まった合評の参加者はよほどの事情がなければ変えられません。
『覚悟を決めるしかありませんね。明日でも、少し話せますか』
『お願い』
 今度は理学部のエントランスで待ち合わせをしましたが、当日行ってみると小野寺さんは原稿をテーブルに広げて、準備万端で待っていました。
「お疲れ様です」
「来てくれてありがとう」
 無駄話など望まれていない雰囲気なので、早速本題に入ります。まずは現状の把握です。
「もちろん、突然のことだからというのもあるかもしれませんが……先生に作品を見せるのは、まだ不安ですか?」
 小野寺さんは頷きました。
「一次合評で、褒めてもらったのは嬉しかったんだけど、あんまり改善点が出なくて。八戸さんともだんだん話すことがなくなってきたし、初稿から見ても、ほとんど変わってないと思うんだけど、それで大丈夫なのかな」
「それは逆に、大筋では直す必要もないほど質の高い作品だということですよ」
 多くの人はどうにも行きつかない状況ですが、例えば一年誌のときの先生もそうでした。ここから先は、作者のセンスと勇気で新たな価値を追い求めていく段階なのです。
「二次合評でもし、他の人みたいに全部をひっくり返すようなことを言われたら?」
「たとえ言われても、ここまで来たものをひっくり返して、短い期間で行きつくところなんて、たかが知れていると思いませんか」
「まあ、確かに」
「実際、どんな文豪の名作にも『これは全くダメ』みたいな批判をすることはできますし、そんな批判でも、無視できない程度の論理性を持つことってあるんですよね。でも、結局は何を重視するかという価値観の衝突で、作者がどこに立つかという問題でしかないんです。絶対的に良いか悪いかで考えられるのは面白みのないレベルの作品だけで、小野寺さんの作品は、それをとっくに超えてしまっているんですよ」
 小野寺さんはしばらく、首をひねって考え込んでいました。マスカレードの結果からしても、なかなか解釈しがたい状況なのだと思います。自信を持って良いのか悪いのか。もっと客観的に見られるとどうなるのか。そんな葛藤がいくつもあるように感じられます。
 その末に、出てきた言葉は。
「じゃあ……もう、浦川さんに見せても大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。あとは、小野寺さんが自信を持てるかどうかです」
「わかった。頑張ってみる」
 確かな覚悟を帯び始めていました。

 その日のうちに小野寺さんは、先生にメールで連絡を取り、「二次合評には手加減なしで参加してほしい」とお願いしたそうです。
 わたしが手を貸したのはそこまででした。最後は小野寺さんと先生が、高校時代から続いてきたすれ違いを解消できるかどうかです。また合評に飛び入りしようかとも考えましたが、先生が嫌がりそうですし、そもそも作品に対してあまり言うことが残っていないのに、合評へお邪魔するのも良くありません。
 合評の翌日の空き時間に、先生を桜の隠れ家へ呼び出しました。もちろん桜の花はもうなく、雑草は足首くらいまで伸び、もはや誰も近寄る意味のない場所でしたが、先生が本当のことを話してくれそうな場所は、そこくらいしかなかったのです。
 前日の夜、小野寺さんからは『上手く行った。ありがとう』とだけメッセージが届いていました。
「先生」
「わかっている。小野寺の話だろう」
「話が早くて助かります」
 先生は最初少しぶっきらぼうでしたが、ベンチに腰掛け、いよいよ話そうとするときには、もう普段のようにリラックスしていました。
「正直に言えば驚いたよ。小野寺があれほどに小説を書けるとはな。初稿とも読み比べたが、基礎はその段階で固まっていた。戦争という難しいテーマだったが、確かな描写力による迫力も、深く真摯に考えられた物語も、テーマに負けてはいなかった。小野寺は間違いなく、一人前の書き手だ」
 聞いているうちに、わたしは自分のことのように嬉しくなりました。
「そうでしょう、そうでしょうとも。わたしは誰よりも早く、小野寺さんの魅力に気付いていたんですよ。今回はわたしの勝ちですよね」
「認めるよ。だから、小野寺には今までの非礼を詫びてきた。だが……だからと言って、わたしなどを追いかけるのはやめるべきだと思うがな」
「相変わらずですね」
 小野寺さんを同じ「文芸人」として認めてもなお、自分を追従するのは許さない。それは先生らしさとして、許容したいと思います。
「小野寺はまだ伸びるだろう。だが、わたしばかり見ていたのでは別だ。そこはやはり、自由になるべきだと思う」
「大丈夫ですよ。小野寺さん、今回の編集を先生にお願いしようとしていたのですが、しっかり考えて八戸さんを選んだのですから」
「ふふ。わたしのところに来ていたら、同じ結末にはならなかっただろうな」
「そうですかね? わたしは初稿でも、先生の目を覚ますには十分な力があると思いますよ」
「自画自賛だな?」
「当然です。わたしは文芸的縁結びの女神、舟波克比売ですよ」
「なんだそれは」
 とりあえず、今度の休みにはお礼参りに行かなければならないと思います。そして、これからも豊かな文芸活動ができるよう、またお願いするのです。

十四 岐路(左)

 ついに、このときが来ました。
「来月の役員選挙について告知いたします」
 それは大学祭が終了した直後の部会で、一年誌の編集決めなどもあった後でした。わたしは大学祭の赤字の埋め合わせのことで頭がいっぱいでしたが、その話ばかりは聞かなければなりませんでした。
「部長は二年目の二年生、副部長は二年生以下から選出します。立候補される方は、今月中に高本までご連絡ください」
 立候補の締め切りまではおよそ三週間、そこから選挙までは二週間と告げられました。これが、わたしたちのタイムリミットです。

 直後、新井くんから会議の連絡がされました。
「七月の例会では、前回の例会でもお話した名簿や部費の管理の件も話したいと思います。それに先立って、今週の土曜日か日曜日に会議を開きたいと思います」
 部会の前に、メーリングリストで日程調整の連絡が回っていました。乱暴だと思うのは、やっぱり会議に最も参加するべきであるわたしや和泉さんに事前の説明がなかったことです。
 しかし、そういうところからも、新井くんがわたしたちを遠ざけて影響力を持とうとしていることが感じられました。暴走する彼を適切な位置に落ち着かせることは、目下わたしたちの最大の課題です。
 帰り道、わたしは先生と一緒に歩きながら、身の振り方を相談します。
「先生はわたしがこの部の部長になると言ったら、応援してくれますか?」
「なんだ、立候補する気があるのか? わたしはもう、和泉がなるものだと思っていたが」
「和泉さん一人に、これ以上重責を押し付けたくないんです」
 上年目の間には明確に言えないほど早くから、和泉さんが部長になるという観念がありました。本人もそれは感じていて、期待を受けて部長になるか、自分の希望を通して編集長になるかの間で、ずっと揺れていたのです。
 そしてわたしは、葛藤する彼女の様子を一番近くで見てきました。何度も「代わりに部長になってくれないか」と相談されました。
「そういうつもりなら協力はするが……しかし、上年目は納得するだろうか」
「それは、これから考えます。でも、立候補するからにはちゃんと方向性を示しますよ」
「単に流れを継ぐ……というわけにもいかないのだろうな」
 部が安定している時勢なら、その流れを継いでほどほど保守的にやっていくのでも信任を得られそうです。しかし今年は高本さんによって部の雰囲気が大きく変えられ、その過渡期にあるのです。次の部長には、この変化をどこに落ち着かせるのか、明確なビジョンが求められると予想します。
「それにしても、高本氏は実効性のない圧力を掛けていただけだったな」
「というと?」
「作品を出すも出さないも、部長が口出しをするものではないということだよ。春のマスカレードや、今回の夏部誌も作品数は増えたが、部長の影響力かと言えばそうではないだろう」
「なるほど」
 わたしはそこまで冷ややかに見ていたわけではありませんが、先生の見解には納得できました。一月に発表された「二年目以上の部員は、年に一作品以上の発表を目標とする」みたいな目標も、あれから一度も聞きませんし、覚えている人がいるのかどうかもわかりません。
「もし部長になるなら、合評の場を部誌以外にも増やしてくれないか?」
「一応、不定期合評という制度はあって、副部長が管轄だと聞いていますが……」
 最近では、四月にマスカレードの作品を主な対象として開かれたのが不定期合評です。しかし、思い返しても他に開かれていた記憶がありません。
「この間は、大学祭の深夜機材番ゲリラ投稿なるものもあったが、基本的にこの部は、部誌とマスカレードしか作品を発表する機会がない。そして、マスカレードは誰にどれだけ読まれたかもわからない。継続的に作者を追えるのは部誌だけだが、部誌の合評はリソース不足の感が否めない」
「リソース不足……詳しく聞かせてもらえませんか」
 ある意味、そう指摘する先生自身もリソースの不足に加担していたように思いますが、とりあえず言い分を聞きます。
「一次合評で参加者の予定を組んだとき、四人の枠がなかなか埋まらなかったのだ。今回は作品数が増えたようだが、一年目はまだ正規の参加者にはならないし、二年目以上も多くは空きコマが少ないから、その中で多めに空きコマを送った者に負担が集中する。無慈悲な仕事だったよ」
 珍しく部誌の仕事を引き受けてくれた先生でしたが、その大変さを実感したようです。空きコマは自己申告制で、一応、参加者としては連続した日に割り当てないという暗黙のルールがあるものの、参加回数に上限はありません。単純に多くの空きコマを送った人に負担が集中することになります。
「でも、先生も新歓のボックス番のときに、他の人へ負担を強いていた側では?」
「まあな。しかしそれで負担が集中するだの、全体の意識が低いだのと言うのは、違う気がするよ。サークルは企業ではないのだから、部員の参加度合いというリソースから活動の規模が規定されて然るべきだと思う。だが今は逆。活動の規模を固定して、ないリソースを無理に捻出しようとしている」
「指摘としては真っ当かもしれませんが、なかなか意図的に規模を縮小するという決断はできませんよ」
「縮小と言うと人聞きが悪いから、最適化と呼べばいい。例えば部誌なら、先に編集候補を募り、その数を上限に作品数を絞る。合評の二回目を任意にする。その代わり、一回の合評の参加者を増やしたり、合評以外での意見交流をメインにするなどして、質とコストのバランスを取る。時間には余裕ができるだろうから、そこで不定期合評を増やす」
「なるほど……」
 先生の案は、わたしたちの高校時代のやり方を想起させるものでした。高校の文芸部では全員が集まる合評は基本的に一回でしたが、普段からの交流によって作品の質を高め、ノウハウを積み重ねていました。
「しかし実際、この部では合評以外で自発的に作品を読むことも少ないですし、合評を二回強制的に設けなければ質を確保できないという判断も妥当なのではないかと思います」
「強制的な合評で疲弊するから、他の作品まで面倒を見ようと思わないのではないか? まして編集になったら、ほとんど余裕もないだろう」
「確かに……」
 編集になると余裕がないというのは、認めたくないことですが本当でした。わたしも初稿は全ての作品を読んでいますが、合評稿は毎回、全てを読み切ることができません。
「そして今は部誌の合評もギリギリなのに、インターネットへ出す作品の合評もしようとしている。新歓では活動が週一回と喧伝して、忙しかったり兼部をしていても大丈夫のようなふりをしてこれだ。遠からず人が離れるぞ」
 話しているうちにヒートアップした先生が示したのは、この部から人が離れる未来でした。
 果たして、本当にそうなのでしょうか?
「……それを防ぐために、わたしに部長になれと」
「最初の話からは少し飛躍してしまったが、恐らく和泉には、そこまでの危機感を持つ余裕がない」
 確かに、今もこの部には適切に機能していない仕組みや決まりがあります。それでも、多くの人は不完全な今の部を受け入れて、各々できることをしています。わたしもそうです。ボランティアのようなものですが、楽しいのです。ちぐはぐな部であっても、住めば都なのです。
「やっぱりダメです」
「そうか?」
「少し、一人で考えさせてください」
「……ああ」
 このまま先生の危機感のために部長になっては、ただわたしが和泉さんの身代わりになるだけです。この部のためにもなりません。
 でも、先生の隣を黙って歩いているうちは、新しい考えがなにも出ませんでした。

 それにしても、どうしてこの部は、部長になるのにこれほどまでの覚悟を求められるのでしょう。そもそも、部長とはどのような立場なのでしょう。
 わたしが高校の文芸部で部長になったのは、創立メンバーであるからに過ぎませんでした。創立メンバーであったために、何もかもが自由でした。だから、十年くらいは続いているらしいこの部の部長の参考になるかどうかもわかりません。
 やはり一人で考えていても前に進まなかったので、わたしは四年目の下野さんに連絡を取って、相談をお願いしました。先生と話した翌日、文学部の休憩スペースで話すことになりました。
「今は、二年目に部長候補が実質いない状況です。和泉さんは編集長を希望していて、他にやりたいと言う人もまだいません。でも、もしわたしに、部長としてこの部の皆さんに貢献できることがあるのなら、部長になろうと思っています。そこで……質問です。この部の部長とは、どのような立場なのでしょうか」
「そうか……ちょっと考えてもいいかな」
 下野さんははじめ少し面食らった様子でしたが、わたしのために時間を取って、じっくりと考えてくれました。
「僕や、僕の前の部長は、そこまで自分から働きかけるというか、部を引っ張るみたいなイメージは持ってなかったんだよね。ただ、周りと自然に協力関係を作って、みんなで文芸部を良くしていこうっていう、そのまとめ役かな。部誌のことは樋田や山根、企画のことは明石に任せてたし、僕は居るだけで部が勝手に回ってたんだよ」
 わたしはその時代の本当に少ししか見ていませんが、そのような時代だったことはなんとなく想像ができました。
「そういう経験から言うと、部長は一人で先陣切って進んでいくものではないと思う。みんなが協力しやすいようにあれこれ手を尽くすのが、僕のやってきた部長だったよ」
 そうなると気になるのは、反対の考えを持っているようにも思える高本さんのことでした。
「下野さんから見て、高本さんが部長だった一年間はどうでしたか?」
「最初は結構心配だったけど、当時の二年目もそこまでバラバラじゃなかったし、今はちゃんと話し合いもして、連携もできてる。高本のやろうとしてたことがどれだけ実現したかはわからないけど、江本のインターネットのやつも実現してきてるし、決してダメではなかったと思うよ」
 さすがに器の大きな先代部長です。
「実を言うと僕らが二年目のときも、桜木がもっと質の高い作品を目指す組織にするって、部長に立候補しようとしてたんだよね。でも、そのときは当時の上年目とも相談して、ギリギリまで考えて僕だけが出ることになった」
「その決め手になったのは?」
「単純に言えば多数決だね。桜木はそれこそ、勉強会とかも開いて合評の質を高める努力をするべきだとか、傑作選や大学祭に取り組む暇があったら執筆の勉強をするべきだとか、ちょっと過激だけどちゃんとしたことは言ってたんだよ。ただ、そんな方向性を望んでいる人が少なかっただけのことで」
 その後は後腐れなく、桜木さんも主張を控えめにして、企画の運営なども積極的に手伝っていたようです。
「わたしたちが望んで団結するなら、どのような方向性にも進められるということですか」
「僕は応援するよ。まあ、慎重な上年目もいると思うけどね」
 二年目はまだ、その方向性も決まってはいません。しかし、この部をこのまま進めるのか、何かを変えるのかといった考えは、誰しも少なからず持っているはずです。今はその交流すら行われていない状況です。
「では……まずは二年目で、各々の意見を出し合って、方向性をまとめるのが先決ですかね」
「それが良いんじゃないかな。向いている方向がある程度揃ったら、部長が一人で全部抱え込むような仕事だなんて思わなくなるよ」
「参考になりました。ありがとうございます」
 わたしは手帳を開き、メモ欄に一つの言葉を書き記しました。「協調」です。わたしが示すべきものは、それしかないと思いました。

 新井くんの会議は土曜日の午前中に開かれました。とりあえず、わたしも和泉さんも参加できる時間帯です。二年目はわたしたち以外に、篠木くんや星井さん、朝倉さんもいます。三年目では高本さんに江本さん、大藤さんも来ていました。雨の日にもかかわらずいつもの合評よりも多い人数で、椅子が足りずに大藤さんと江本さんが立ち見になってしまいました。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。まずは、先日私が提出いたしました規約改正案について改めてご説明し、本日の議題の確認とします」
 新井くんはやたらと慇懃に挨拶し、提案内容をホワイトボードへ書き出していきます。おさらいすると、部費が現状二期未納で除名となるところを、一期未納で除名とするように改正するということです。
「こちらの提案でしたが、例会の場でもいくつかのご指摘を頂きましたので、この場で内容を見直していきたいと思います」
「はい」
 早速、和泉さんが手を挙げました。
「前にも言いましたが、私は規約を改正する必要はないと思っていて、代わりにメーリスで管理することを考えました。毎年新しいメーリスを作って、それに入った人は継続扱いということです」
 こちらは事前に、わたしと二人で考えたものです。メーリングリストは現在、長く同じものが使われ続けています。そして、退部や卒業したときにも自分で脱退する仕組みなので、実際には脱退しなかった過去の部員にも連絡が回り続けているらしいのです。
「なるほど」
 新井くんはそう呟きながら、和泉さんの意見をホワイトボードに書き留めます。それから少し間をおいて、質問を返しました。
「メーリスを基準に除名するようなことは、現行の規約で可能なのですか」
「第三条に部員の資格を定めた条文があって、その中に『何らかの方法で部会、例会その他の集まりに参加している者』とあるので、根拠になると思います」
 和泉さんはメモを見ながら答えます。これも事前に調べて、高本さんにも確認を取ったものでした。
「わかりました。つまりこうですね」
 新井くんは一本の縦線を引き、その上端、中央、下端にそれぞれ点を打ちました。上から「前」「後」「前」と文字を添えます。
「前期から部費が未納になった部員は、どのみち翌春まで待つことになりますが、後期から部費が未納になった部員は、春のメーリスの更新時には除名になる可能性が高いと」
 和泉さんは頷きました。
「そうです。私は会計ですけど、部費の催促って個人相手にあんまりしたくないんですよ。メーリスなら誰が入ったか管理しやすくて、お金のトラブルにもなりません」
 議論にはこれで決着がつきました。移行先のサービスの候補も見つかっていたので完璧です。最初は部の全体を巻き込んだ注目度の高い案件でしたが、その幕切れはとてもあっさりとしたものでした。これもやはり、和泉さんの貢献ということになるのだと思いました。
 それにしても、本題はここからです。わたしは会議が終わった後、その場にいた二年目を呼び止めました。
「今度の部会の前の時間、役員選挙について話しませんか」
 場の空気が硬直します。互いの出方を窺うような緊張感です。その中で真っ先に動いたのは新井くんでした。
「俺はこの場でもいいが」
 公平な話し合いにするには、ここで相手のペースに乗ってはいけません。
「なるべくメンバーを集めたいので。火曜日の部会後、空けておいてください。よろしくお願いします」
 あとは各々が一言二言、承諾の言葉を発しただけでした。わたしは和泉さん、星井さんと一緒に外へ出ました。
「結局さ、誰が部長になるの?」
 傘を差して一列に並ぶ形で歩いていると、後ろにいた星井さんが何気なく質問してきました。前を歩いていた和泉さんは振り返り一瞬、眉をひそめます。
「あたしはやらないよ」
「だって、新井も何考えてるかわからないし。和泉がなってくれたら、みんな安心するよ」
「そうやって都合よく扱われるのが嫌なの、わかるだろ?」
 以前はこんな場面でも、わたしは何も和泉さんの助けになれませんでした。しかし、今なら。
「部長には、わたしが立候補しますよ」
 言ってしまってから、少し鳥肌が立ちました。二人の視線がたちまちわたしへ集まります。
「フミ、お前……」
「本当に大事なのは、部長を中心に二年目が団結できることです。皆さんが協力してくれるなら、何も心配することはありません」
「私は、中津さんなら応援するけど」
「ありがとうございます」
 和泉さんは、足元を見ながら歩いていました。
「ごめんな。任せていいか」
 ここまで来て、その肩の荷を下ろすことにも勇気が必要だったと思います。
 わたしも、それで本当に覚悟が決まりました。
「大丈夫ですよ。これはわたしの意思ですから」
 この部は、どちらへ進んでいくのか。わたしはその岐路を見つけました。どちらへ進みたいのか。結果的に部長にならないとしても、わたしはその少し先を見て、問いかけようと思いました。

 会議には準備が必要です。月曜日の空き時間に、わたしは理学部へ赴きました。今回は小野寺さんではなく、篠木くんとの約束です。
「お疲れ様です。わざわざありがとうございます」
「明日の会議で、僕に司会をしてほしいって?」
 メールでお願いしたところ承諾してくれたので、その打ち合わせです。
「はい。わたしの見立てですが、今の二年目では篠木くんが一番、中立に近い立場かと思いまして」
「単に、状況をあんまり知らないだけだけどね」
 本人は冗談めかして言いますが、二年目の水面下にある様々なわだかまりを知りすぎていないことこそが、最大の価値なのです。
「だからこそ、公平な進行をしてくれるのではないかと……」
「そもそも、誰が部長に立候補するのかな? 新井くんは出るって言ってたけど」
「それでしたら、新井くんとわたしです。でも、今回は最終的に二年目で擁立した候補者を選挙で信任してもらわないといけないので、単に人気投票で、勝った負けたの話にしたくはないのです」
 小野寺さんはどうかわかりませんが、先生、和泉さん、星井さんに武藤さんは議論をするまでもなくわたしに投票することでしょう。過半数です。ある意味で正義ではありますが、今回はそこまで単純な話ではありません。
「誰が出るかは大事だけど、どんな主張をするかがもっと大事なんだね」
「そうです。そもそも今は、互いがどのような考えを持っているか、誰も把握していない状況です。ここでわたしや新井くんの考えについてしっかりと議論をして、最終的には二年目で一つの方針を共有したいと思っています。そのうえで目指す方針に近い考えの候補者を擁立するという流れなら、全員が納得に近づくと思うのですが……」
「なるほど。じゃあ、名目は擁立する候補者を決めることだけど、実際には全員で意見を出し合って、すり合わせをする会にしたいね」
「はい。お願いできますでしょうか」
「いいよ」
「ありがとうございます」
 篠木くんは、嫌な顔一つせず引き受けてくれました。中立な立場であることと同時に、こうして部のために働くことを厭わない姿勢も、わたしが司会をお願いする理由です。
「ところで、中津さんはどうして部長になりたいと思ったの?」
 会議の話が終わったところで、篠木くんが尋ねてきました。新井くんの意向は聞いているようなので、わたしも話すことにします。
「今、この部は一部の声を上げる人のために、なんとなく全体が流されるように動いていると思います。例えば高本さんも、今は周囲の協力が追いついてきていますが、それ以前は明確な方向性が打ち出されず、混乱が起こっていました。わたしはそうではなくて、何かこの部で実現したいことを持っている人が、孤立や暴走をすることなく、円滑に活動できる部にしたいのです」
「じゃあ、新井くんと比較したら受動的な立場だ」
 つまり、新井くんは能動的に何らかの改革をしようとしているということです。わたしは興味のままに聞き返します。
「新井くんの考え、わたしはよく知らないのですが、どんな感じなのでしょうか」
「後輩のために制度を整える感じかな。文芸のノウハウの共有とか、部誌、新歓、大学祭について交わされた議論をまとめて同じようないざこざを繰り返さないようにするとか」
「後輩のため……本当なのでしょうか」
 規約改正の件もそうでしたが、最近の新井くんはやたらと後輩を意識しているようです。しかし、得てして完全な自己犠牲というものは存在しないものです。新井くんはどこかで欲求を満たそうとしてくることでしょう。
「文芸のノウハウの共有には力を入れたいって言ってた。この部には最初から上手い人がいるけど、属人的なノウハウが共有されたり継承されたりしないから、後から上達する人が全然いないし、すぐ辞めたり、書かなくなったりしてしまうって」
「それを制度化するのは難しいと思うのですが……篠木くんは、どう思いますか?」
「僕もマスカレードに、『桃郎』っていう小説を出してみたんだけど、散々な結果だったんだよね」
「あれ、篠木くんの作品だったんですか」
 思わず声が大きくなってしまいました。壮大な設定で一発ネタを書きそうな人が、わたしには全く思い当たらなかったのです。でも、篠木くんと聞くと半分くらいは納得がいきました。
「初めてだったし、時間もない中でちょっと投げたような終わり方になっちゃったけど、コメントを見ると予想以上に叩かれてて……興味の湧かない作品には冷たいんだなって思った」
「まあ確かに……」
 それは、マスカレードの匿名性の弊害かもしれません。特に下位の作品には貶すだけのコメントも多く、作品を書かないわたしが見ても心の痛む光景を作ってしまいます。
「だから、ノウハウの継承とは違うかもしれないけど、せっかく多様なジャンルの作者が集まる文芸部だし、もっと互いに興味を持って交流できたらいいんじゃないかな」
「なるほど」
「新井くんが、この部の人は上がった作品をあんまり読んでないから、作者同士の交流って感じにならないし、成長もわからないって言ってたけど、それは本当なの?」
「確かに、部誌でも自分の関わる作品しか読まない人もいますし、間違いではないと思います」
 もう少し言うならば、やはり上手な書き手の作品は優先して読まれます。それは単純に人気の問題です。人気のない書き手が読まれる機会を失って這い上がることもできないというのは、極端に言えば本当です。
「ただ、それでも誰かに頼んでアドバイスをもらうとか、文芸部の人脈を使うという発想がないからそうなってしまうのかもしれません。互いに忙しくて気を遣うのはわかりますけどね」
「まあ、急に連絡とかするのは難しいから、そのきっかけになるような交流があるといいよね」
 気付けばいつの間にか、篠木くんとの意見交換になっていました。聞けば聞くほど篠木くんの立つ独自の立場が見えてきて面白くなります。
 だから、勢いのままに聞いてみることにしました。
「篠木くん、副部長になりませんか?」
「後期入部だし、僕なんかでいいの?」
 篠木くんは首を横に振りましたが、全くその気がないわけではなさそうです。
「大丈夫ですよ。副部長は自由に動きやすいですし、部に対する影響力もあります。全体の方向性から逸脱しない限りは、思い切り盛り上げ役ができる立場ですよ」
 非常に旨味のある副部長職なのですが、部長候補が決まらない状況では、表立って「副部長になりたい」とはなかなか言えません。でも、後期入部で「部長になりたい」と言いにくい篠木くんならば、そのポストにすんなりと滑り込むことができるでしょう。
 何より、わたしとしても副部長に篠木くんがいると非常に心強いのです。
「じゃあ、考えておこうかな」
「ぜひ」
 いよいよ準備が整ってきました。あとは、新井くんと決着をつけるだけです。

 二年目会議は、部会前の六限の時間に図書館の学習室で催されました。二年目の二年生で普段から参加している九人全員が集まりました。わたしなどは大学祭の反省を控えていましたが、それはまた別の話です。
「今日は選挙に向けて、どのような運営体制を敷いていくかについて検討します。時間は短いので、まずは部長候補を出して、部の方針について議論するところまで行きたいと思います。早速ですが、部長に立候補したいという方、挙手してください」
 急に頼んだ司会でしたが、篠木くんはしっかりと段取りを考えてくれたようです。いきなり本題に斬り込んだことで、やはり互いを牽制するような間が生まれましたが、わたしは怯まずに手を挙げます。ほぼ同時に、もう一つの手が挙がりました。
「中津さんと、新井くんですね。前に出てください」
 全員に注目されながら、わたしと新井くんは全員の前に立ちました。先生すら、真剣にわたしたちのほうを見つめていました。
「では、中津さんと新井くんのどちらかを候補として、二年目で擁立したいと思います。まず二人には、部長に立候補する理由、意気込みなどを話してもらいます。新井くんからお願いします」
 わたしは席に着いて、新井くんを横から見ていました。その表情は、何かを恐れるように険しく強張っていました。
「私は部長として、『後輩が育つ部』を作りたいと思っています」
 事前に聞いていた通りの語り出しです。ひとまず、全員が聞く姿勢を見せているようでした。
「この部は今、制度として放任が過ぎると考えます。未経験で入る人が多かった私たちのような代は、右も左もわからないまま書けとばかり言われて、一年誌の前後で半分が脱落。その後一つ、二つしか書いていない人もいます。一方、マスカレードで上位になるのはいつも同じメンバーですが、そのような技術を持っている部員から学ぶ機会も用意されていません。
 今年の一年目についても、同じことを繰り返してはいけないと思います。一年目と上年目の間で積極的な作品交流の場を設けること、書き方のわからない未経験者、実力を伸ばしたい初心者が学ぶことに特化した場を設けることに向けて、活動内容を見直したいと思います」
 早期に脱落する人を減らしたい、あるいは実力の底上げをしたいという主張であるとは理解しましたが、まだいくつか怪しい部分があります。それは、後で質問することにしましょう。
 演説を終えた新井くんは、短い拍手の中で着席しました。わたしはその代わりに前に出ます。
 見回した聴衆の態度は新井くんのときよりも明らかに良く、わたしがこのまま勝負を決めてくれることを期待しているのは明白でした。
 でも、本当はわたしも、新井くんの暴走を止めるためではあるものの、新井くんを敗北者の立場に押し込めるために立候補したのではありません。最終的にはノーサイドです。そのための語りかけをしなければなりません。
「わたしは部長になっても、編集専門でありたいと思っています」
 掴みの言葉にも、雰囲気は変わりませんでした。全体を取り巻く緊張感を少しでも和らげるつもりで、努めて穏やかに話します。
「今、この部は漠然とした不安に包まれていると思います。作品の質が上がらない。仕事をする人が足りない。部員間のコミュニケーションが取りにくい。それでも、何もできなかったり、何をすれば良いかわからなかったりして、もどかしく思っている人もいると思います。
 それは今の部に、半ば脅迫的な、『こうあるべき』という空気があるからだと思います。わたしたちは基本的に真面目なので、理屈の通った正しそうなことを意識的に放棄することはなかなかできません。でも、『正しいからやる』という方向性を意識的に共有することも、放棄することと同じように難しいのです。
 この部は声を上げる人がいたら、そのままその人に引っ張られていくことが多くあります。それは、杓子定規な正しさのために、部員それぞれの意思が抑圧されているからだと思います。
 わたしは部長の役割が、その調停役にあると考えています。部員の皆さんのクリエイティブな発想を、実現できるものは実現し、できないものは現実的な範囲に落とし込む。これが、編集専門の考えです。皆さんの持つ意思をなるべく尊重する、自由で創造的な文芸部を目指します」
 大きな拍手が起こり、わたしは着席しました。空気としては、このままわたしの圧倒的勝利で終わってもおかしくないように感じます。しかし、篠木くんは冷静に司会を続けました。
「ありがとうございました。それでは、二人への質疑応答に移ります。質問をする際には、なるべく意見や要望をしないようにお願いします。まずは、新井くんへの質問を受け付けます」
 すると、和泉さんと小野寺さん、二人の手が挙がりました。和泉さんに発言権が渡されます。
「作品交流の場が欲しい、初心者の学ぶ場が欲しいと言いますが、部誌や一年誌はその役割を果たしていないのですか。考えを聞かせてください」
 これはやはり、編集長になる和泉さんにとって非常に重要な問題です。ややぶっきらぼうな語調から不安が窺えます。
「部誌や一年誌は現状、作品集以上の意味はあまりないと思います。何らかの経験にはなるので無意味とは言いませんが、本来、高々二回の合評をしてもらうために、部誌のスケジュールに拘束される必要性はないですよね。部員にとってより良い手段を用意する余地は大いにあると思います」
 部誌というよりも、文芸部全体への怨嗟が感じられます。「読んでもらう機会がもっと欲しい」という主張なのだとは思いますが、如何せん言い方が挑発的です。和泉さんは一瞬肩を震わせるほど、怒りを感じたのが見て取れました。それでもぐっと堪えて質問を返します。
「より良い手段とは、どういったものですか」
「はい。例えば、完成を前提としない、執筆途中の作品を出せる合評。ボックス席や部会の場を活用した、自由創作による交流の活性化。あとは、一年誌よりもう少し小規模なグループで、互いに互いの作品の完成までを見届ける創作演習などを考えています。つまりは、もっと気軽に、プレッシャーの少ない環境で練習のできる場を作ることです」
 少し意外なことでしたが、実現できそうな具体案が出てきました。これだけを抜き出せば、わたしも参考にしたい部分があります。
「和泉さん。一旦そこまでにしていただけますか」
 篠木くんのストップが入り、和泉さんは引き下がります。発言権は小野寺さんに移りました。
「あの……作品を読んでもらう場を作るには、読む人がいないと成り立たないと思います。書く人の育成も大事ですが、読む人のことは、どのように考えていますか」
 これも鋭い指摘です。リソース不足については先生も話していましたが、新井くんがただ書かれる作品数だけを増やす施策をするならば、結局読む人が少なくなって効果を挙げられないでしょう。
「例えばマスカレードでも、作品を出しても投票したり感想を書いたりしない人がいます。そうではなく、基本的にはそれぞれの企画の参加者の間で、簡単にでも読み合うことを原則とすればある程度は改善すると思います。私が大事にしたいのは単に読んでくれる人数ではなく、継続的にその人の作品を読んで、その成長を証明できる人の存在です」
 新井くんは淀みなく答えました。『後輩の育つ部』というコンセプトも、どうやら本当に根幹をなしているようです。ひとまずわたしも、気になっていたことを質問してみます。
「今の文芸部にとって、部員が上達することは任意なのだと思います。上達したい人は、誰か実力のある人に読んでもらうなど、行動をすることは許されていますよね。一方で、上達が第一ではなく、マイペースに書いて楽しみたい人もいます。ある意味、新井くんの考えるような企画は上達を第一としない人への圧力となる可能性もありませんか?」
「それは違います。むしろ、上達したい人を圧力から解放するための企画です。現状は、期間やページ数など様々な制約が課せられる部誌か、誰に読まれたかもわからないマスカレードしか実質的な機会がないのです。しかもそれらは結局、作品が画一的な基準で評価されるだけで、作者の成長は考慮されていません。腰を据えてじっくりと書き、作品を介して互いに交流する。作品と共に作者も成長し、互いにそれを認め合える。このように作者を第一にした仕組みを作ることで、誰もが自分のペースで活動できるようになることを目指します」
 一貫性を保ちながらも、様々な表現で主張を展開する新井くんは、フラットな条件ならもっと支持を集められたかもしれないと思います。いつから考えていたかはわかりませんが、ここまで壮大な構想を明確にイメージしているのは素直に感心するところです。
 しかしながら、現状の文芸部と新井くんの理想との距離はかなり開いているように感じられます。スケジュールの大幅な改編も必要で、一年間という部長の任期のうちにすべてを実現することは難しいでしょう。
 そうなるとまた、変化と混乱の中で次への引継ぎを行わなければなりません。後輩のためと言いながら、後輩のためにならない結末を迎えてしまうのです。
 そして何より、結果として新井くんは何を得ようとするのか、その本心がまだ見えていないのです。
「では……新井くん自身は、部長としての一年間の活動を通してどのようになりたいのですか?」
 狙い通り、これは急所に刺さりました。新井くんが硬直します。その間は何も考えていないというより、考えていることを話さざるべきかの葛藤のためだと思いました。場はしんと静まり、全員が新井くんに注目しています。
「今は、話せません」
 その末の黙秘です。和泉さん側のメンバーもなんとなく新井くんの話に耳を傾ける姿勢を見せていましたが、これでまた意識が離れてしまったように見えました。
「それでは、時間もありますので、中津さんへの質疑応答に移ります」
 篠木くんの進行が挟まり、今度はわたしの番です。ところが、最初は誰の手も挙がりませんでした。実際、わたしの考えに全員が納得していると言えばそうなのかもしれませんが、それでも完璧だとは思っていません。新井くんとの比較は別として、疑問を生じるような部分があれば指摘してほしいという思いもあります。
「じゃあ、いいですか」
 結局、手を挙げたのは新井くんだけです。もはや直接対決です。
「中津さんは編集専門で、確かに部にも貢献していると思います。ただ、やはり部長は部員、特に新入部員の注目を集めるわけで、この部での無意識的な行動規範を作る立場であるといえます。そのとき、自らは全く執筆をしない部長が、どのようなものを示せるとお考えですか?」
 いきなり人格攻撃になるのではないかと思うようなラフプレーです。しかし、ここで新井くんと対立して、後まで引きずるような関係性になるのは避けなければなりません。わたしは冷静に新井くんの不満げな表情を見つめ、毅然と答えました。
「協調です。この部では、部誌のことは編集班、企画のことは企画班と分権がされています。ですから、部長がすべての機能を担って、象徴的に振る舞う必要はないと思います。むしろ、部長のカリスマ性だけで動かせるほど、この部は小さくありません。部員も七十人ほどいますし、対等に意見を出し合い、協力して望ましい形を実現するべきだと思います。わたしはその中心で、積極的に協調する姿勢を示すことができます」
 すると、その場で和泉さんが拍手を始め、星井さんと武藤さんが続きました。予定外のことに篠木くんも声を上げて制止しますが、和泉さんは反論します。
「もう良いんじゃないの? みんな中津を支持してるでしょ」
 状況は間違いなくわたしの優勢ですが、まだ互いの考えをぶつけただけで、議論を尽くしたとは言えません。ここで終わるのはあまりに暴力的です。
 しかし、タイムリミットも近づいてきています。ここは次の場をセッティングして、持ち越すしかありません。わたしは篠木くんに対して腕時計を指さす合図を送りました。篠木くんは頷いて、一歩前に出ます。
「すみませんが今日はもう時間がないので、次の部会前へ持ち越したいと思いますがよろしいでしょうか」
「まあ……いいけど」
 和泉さんは渋々と承諾します。とりあえず急場は凌ぎました。
「ここまでで二人の考えが見えてきたところだと思うので、次回はそれをもとに、二年目としての方針をまとめていきたいと思います。今日はありがとうございました」
 篠木くんによって閉会が宣言されると、新井くんは朝倉さんに一言声を掛けて、足早に部屋を出て行ってしまいました。

 部会が終わった後も、新井くんは他の人との接触を避けて帰ってしまいましたが、朝倉さんには声を掛けていたようです。話を聞いてみます。
「新井くんは、今なんと?」
「外で待ってるって」
 会議中も朝倉さんは常に新井くんを気に掛けていました。今回は本当に、新井くんの唯一の味方かもしれません。心配な状況です。
「この後は、二人で帰りますか?」
「何か食べに行こうかって話してた」
 時間も遅いので、今日はアフターも開かれません。
「ご一緒させてもらえませんか、新井くんにはわたしから話しますので」
「私はいいけど……」
 二人で外に出ようとしましたが、先生が待っていました。先生も夕食がまだで、わたしと鳳華苑にでも行きたいのです。
「先生も来ますか?」
「新井となのだろう、それならわたしは一人で帰る」
 とりあえず、まずは新井くんと話してみることにしました。
 新井くんは教養棟の外の広場で、二の腕を掻きながら待っていました。
「新井くん。お疲れ様です」
「なんや、ぞろぞろと……」
 声を掛けると、狼狽えながら退いていきます。
「二人のところを邪魔するようで恐縮ですが、食べに行くならわたしもご一緒させてもらえませんか」
「浦川さんはええのか」
「わたしは一人で帰る」
 きっぱりと拒否されるかと思いましたが、そうではありませんでした。わたしとなら話したいと思ったのかもしれません。何にしても、本当に欲求には素直です。
「じゃあ、フリータイムでも行くか」

 注文を終えて、いよいよ話そうと思ったところで、新井くんのほうから話を切り出してきました。
「大方、説得しに来たんやろ。和泉の言う通り、みんな中津さんを支持している。もはや俺は投了するしかないってな」
 やはり相当追いつめられているようです。ここでどのように運ぶかが大事です。安易に励ましたり、蹴落としたりするではなく、ノーサイドを目指す、つまりは共存の道を探らなければなりません。
「でも、わたしは新井くんのように考えを行動に移せる人は必要だと思います。部員の声を原動力として、ハンドリングを担うのが部長だと思っていますので」
「残れと言うたのは中津さんだからな。しかし、俺かて何も為せないままで終わるつもりはない。この部で見向きもされないまま文芸を続けるような思いを、後輩にまでさせたくもないしな」
 新井くんの隠していた本心が垣間見えました。しかしまだ、その上澄みだけを掬っているような気がします。わたしや和泉さんについても、やはり職に就くことで満たしたい欲求があるのです。それをある程度深くまで見通せてようやく、人は心から誰かに仕事を任せることができるのです。
「それ、会議の場では言ってませんでしたね。新井くん自身がどうなりたいかとも、関係あるのですか?」
「まあな。しかし言ったところで、俺の心などあいつらの知ったことではなかろ」
 あくまで、鉄仮面の下の素顔は見せるつもりがないようです。
「でも……朝倉さんが新井くんを応援するのは、そんな本心まで知っているからではありませんか?」
「そう……かな」
 朝倉さんは少し考えた後、小さく頷きました。新井くんはそれを見て、黙り込んでしまいます。
 そこで、注文した料理が立て続けに到着しました。それでも無言が続きます。わたしは、新井くんが何らかの答えを出すのを待つつもりでした。
 考えてみれば、今は新井くんにとって最後のチャンスです。わたしの立候補を取りやめさせることができれば、少なくとも信任投票には持ち込むことができます。そうなれば、去年の高本さんのときのような洗礼を受けるかもしれませんが、結局は部長になることができるでしょう。わたしから見れば実現可能性はありませんが、それに賭けてくるのか、それとも……。
「中津さん」
 半分くらい食べ進めたところで、新井くんがまた声を発しました。わたしは耳を傾けます。
「俺はやはり諦めきれん。部長という肩書の力も、俺には必要だ。そうでなきゃ俺はずっと、誰も向いていない方向へ部を引っ張ろうとするレジスタンスにしかならん。
 文芸は派閥や。シンパシーを持てる仲間を見つけて、同じほう向いて頑張るという地盤がなきゃ、独り善がりになるか、八方美人になるかしかない。それで仲間が欲しくて文芸部に入ったのに、このざまだ。だから部長になる。そして後輩を取り込んで、俺の派閥を作る」
 今度はかなり核に近い言葉だと思いました。つまりは会議の場で話していた『継続的にその人の作品を読んで、その成長を証明できる人』とは、他でもない新井くんが望んでいたものだったのです。
 よく思い返せば、新井くんはこの部でずっと疎外感を口にしていました。仲間や味方を欲しがっていました。朝倉さんと交際している今も、それが解消することはありませんでした。孤独を恐れる心こそが本質だったのです。しかし、新井くんが部長という立場に望む強制力は、その解決のためには最悪の力です。
「そんなことが、できると思っているのですか」
「競合もいないからな。部長の立場なら完璧やで」
 実際に怖いのは、新井くんの行動力です。一年目を集めて、その計画を実行に移すこともできてしまうでしょう。
「それで新井くんは……どんなにつまらない作品も面白いと絶賛されるような立場になったとしても、満足できるのですか?」
「中津さんかて、面白さが一つの絶対的なベクトルでないことはわかるやろうに。今、この部にある価値観では受け入れられない作品があったとしても、それはただの偶然やで。俺はそんな偶然に一喜一憂せずに済む環境を作るというだけの話や。
 それに、俺は自分の成長も諦めてはおらん。進みたい方向に進んで、成長する。それができる部なら、誰も文句はあらへんやろが」
 普段より強く訛りを出して、新井くんは感情を露わにします。結果論ではありますが、本心をあぶり出したのは失敗でした。却って、彼のなけなしの理性に封じられていたモンスターを興奮させてしまったようです。
「中津さんはこの部で遍く部員から意見を聞いて公平に議論する、民主主義みたいなことがやりたいのかも知らんが、そんなものは欺瞞やで。トップにポリシーがないなどありえへんし、本当になかったとしたら、ほかに発言する奴がイニシアチブを取って傀儡になるだけや。そもそも、和泉が出ないから仕方なく出てきたんやろ?」
 ついには言葉の暴力に訴え始めます。わたしも可能な限り融和できるように歩み寄るつもりでいましたが、今の新井くんでは対話になりません。
 ここまで来ると、いつの間にか食べ終えて静観していた朝倉さんも口を開きました。
「新井くん、もうやめて」
 前にも見たような展開です。しかし今回は、朝倉さんの側にも葛藤が見えます。途中までは本当に新井くんを応援していたのでしょう。
「止めてくれるな。俺がこの部で文芸を続けていくには、この道しかあらへん」
「でも、みんなと対立してたら部長にはなれないよ」
「高本さんかて、今はもうみんなが認める部長になってる。人間、新しいものや急なことにはまず警戒してみせるものや。しばらくは考えの違いが残るかも知らんが、粘り強くやってればまとまってくる。信念と努力が俺を部長にする」
 もはや四面楚歌と呼べる状況でも折れない、強すぎる信念です。なんとしても世界を自分のために回そうとする、強大な妄執を感じます。
 でも、妄執では他人の心を掴むことはできないのです。息巻く新井くんを見つめる朝倉さんの心境は、どれほど心細いものでしょうか。こんな争いを起こさないための選択は、何度も取りえたはずだったのです。
 わたしはずっと新井くんの成長に期待していました。それは彼自身が変わることです。冬部誌の騒動の後、文芸部を辞めようとした彼を引き留めたのも、まだ変わるチャンスがあったからでした。しかし今、やはり何も変わらなかったのだと思います。彼は利己心のために、文芸部を歪めようとしています。
「新井くん……わたしは悲しいです。断言しますよ。あなたはこのまま部長になっても、後輩を支配しても、そのまま引退を迎えても、何一つ面白い作品なんて書けませんし、成長もしません。何より、心からあなたを慕う人なんて、今後誰一人現れません」
「なっ……」
 わたし自身、他人をこれだけ強く諭したのは初めてでした。心の底からじわじわと震えが起こっています。しかし新井くんにも効き目があったようで、互いに硬直していました。
「二人とも、今日は一旦、このくらいにしない?」
 朝倉さんの言葉で我に返ったわたしたちは、そのまま会話もなく、解散することになりました。

十五 岐路(右)

 わたしはこれでも、彼の作品は全部読んでいました。
 一年誌の『みなみハミング』に始まり、マスカレードの『冬のダイヤモンド』や『夕暮れの水屋から』、冬部誌で編集をした『彼の世は幻想の園』や『Vacant Rally』。ゲリラ投稿の『さなみクロール』や『ウサギは百回も跳ねない』、そして今回の夏部誌の『ホワイト・キャナル』まで、内容はすべて覚えていますし、時系列でたどることもできます。
 だからこそ、わたしは彼が作品の質の向上よりも、周囲の意識を変えることばかりに腐心していたことがわかるのです。
 彼は独立した書き手になりたいと言いましたが、それは「他人に自分が独立した書き手であることを認めさせる」という意味で、内面では早くから先走った自我を飼い太らせていたのではないかと思います。
 自分を理解しない者を認識から削ぎ落していくうちに、ひどく先鋭化してしまったのが今の彼です。
 ここまで深みに入り込んでしまった人を救い上げるのは簡単ではありません。
 でも、わたしたちの将来のためには、やらなければならないと思います。

 わたしたち二年目は部長候補を決めるための会議を開きましたが、質疑応答が長引いた結果、決議を一週間後に持ち越すことになりました。
 その翌日、三限の授業の後で、朝倉さんに声を掛けられました。
「中津ちゃん。新井くんのこと、話したいんだけど……いいかな」
「はい。大丈夫ですよ」
 わたしは五限に授業がありましたが、次は空きコマです。二人で近くの休憩スペースへ行きました。
「昨日はごめんね。新井くんがひどいこと言って」
 代わりに頭を下げるなど、見ていられないほど健気な人です。一方で、わたしもかなり強く言ってしまったことが気がかりでした。
「わたしは気にしていませんが……あの後、新井くんのほうは大丈夫でしたか」
「どうすればいいのかわからなくて、悩んでるみたい。部長になれなかったらどうやってのし上がって行けばいいんだって言ってた」
「のし上がって行く、ですか……」
 それはやはり、本人が正当な努力を重ねることでしか解決できない問題なのです。
「その見かけの向上心の裏に、あそこまで歪んだ意識があるとは思いませんでしたよ」
 朝倉さんの表情が陰って、わたしは思わず毒づいてしまったことに気付きます。
「……やっぱり、怒ってる?」
「まあ、悩んでいるのはわたしも同じです」
「でも、新井くんも上手くなりたいのは本当だと思う。ただ、思うようにならなくて苦しんでるだけで……」
 わたしはそのことすら疑っていました。ありのままで無条件に受け入れられるなら、成長する必要は全くないからです。
「思うようにならない道理に、無理を通そうとしてばかりなんです。上手くなりたい、受け入れられたいと思っていたとしても、全方面に喧嘩を売っていては話になりません。部長どころか、どのポストにも就かせられないですよ」
 言っては悪いとは思いつつも、恨み言ばかりが出てきました。朝倉さんは心配そうに聴いてくれています。
「……愚痴のようになってしまって、すみません」
「私は大丈夫だよ。中津ちゃんがちゃんと、新井くんのことも考えてくれてるのは知ってるから」
 それにしても、今はわたしが話を聞く側だったはずでした。
「朝倉さんの、話したいことというのは?」
 やはりわたしの言葉で牽制してしまったのか、朝倉さんは少し話しにくそうにしていました。
「新井くん自身は、そうとは言わないんだけど……部長になれなかったら、退部するしかないのかなって」
 純粋に朝倉さんの心配事ということです。また、冬部誌のときのようになるのではないかと。しかし、それこそこれまでの争いがすべて不毛なものになってしまいます。
「それは本当に、新井くん自身の話を聞いたほうが良いと思います。わたしはむしろ、負けて辞めるつもりだとしたらきっぱり見捨てます」
「……うん」
「わたしは、選挙のときまでにしっかりとノーサイドにしたいですし、新井くんが実現したいと言ったことも、すべてがダメだとは思っていません。だからこそ、我欲まみれの新井くんに舵を取らせるのではなく、わたしが公平な立場で管理していきたいのです」
「そうだよね。新井くんに聞いてみる」
 その後、朝倉さんは夏部誌の関係で新井くんと会う予定だったようです。その場でこの話をしたらしく、夜には報告が届きました。
『新井くん、部長になれなくても辞めるつもりはないみたい』
 メッセージには笑顔の絵文字が一つと、「ありがとう」のスタンプが添えられていました。これでわたしも、遠慮なく働きかけることができます。

 次の日の昼休み、わたしは大藤さんの編集の打ち合わせのため、久しぶりに北部食堂のボックス席を訪れました。大藤さんはまだ来ていませんでしたが、一年目が三人もいました。少し嬉しくなって声を掛けます。
「お疲れ様です」
 橋上さん、高崎くん、そして辻くんです。辻くんは目立って肩幅の広い男性で、大学祭の実行委員会にも属しているようです。五月までは忙しさのためあまり見かけませんでしたが、今は一年誌にも作品を出して頑張っています。編集班にも入ってくれました。
「文学部からここまで、遠くありませんか」
 その辻くんが、わたしを労うように尋ねてきました。ちなみに彼は理系で、学部は決まっていません。
「歩くと十分くらいですね。適度な運動ですよ」
「今日は、どなたかと打ち合わせですか」
 続けて橋上さんの質問です。実は、彼女も編集班員です。頼もしい二人が入ってくれたので、編集班は安泰です。
「大藤さんの編集で。三限からの予定です」
「あっ、この間は合評を見学させていただいて、ありがとうございました」
 お礼を言ったのは高崎くんです。彼は企画班に入ったと聞いています。
「いえ、こちらこそ感想もいただいて、ありがとうございます」
 そのまましばらく、一年目に囲まれて談笑していました。今は六限があって大変だとか、こんな面白い授業があったとか、教養の話はもはや懐かしい限りです。一年誌については、この三人を含む十人が作品を出していて、今がまさに合評期間です。こちらも盛り上がっているようです。
「文芸部は楽しいですか?」
 見て明らかなことでしたが、わたしはつい、言葉に出してしまいました。
「はい」
「お陰様で」
「楽しいですよ」
 やっぱり、この部をこのまま守っていきたいと思いました。彼らも去年のわたしたちと同じように、たくさんの期待と希望を持って参加してくれているはずなのです。去年の選挙のように、不安になるようなものは見せられません。

 一年目の三人が授業のため去っていくと、入れ替わりで大藤さんが来ました。今日は最終締め切りに向けた簡単な確認です。二次合評まで順当に進んできていたので、話はすぐに終わってしまいます。そのまま、編集班の話になりました。
「次の編集長は、どちらになるのかな」
 わたしは心配をさせないよう、努めて当たり前のように答えます。
「和泉さんです。わたしは部長に出ます」
「そうなったのか。了解した」
 大藤さんも、特に疑問を抱いているような様子などはありませんでした。
「部長になっても、編集班の仕事は手伝いますので」
「無理はしないようにね。和泉と相談して、一年目とも協力するといいよ」
「はい。ありがとうございます」
 するとそこに、八戸さんが来ました。
「お疲れ。大藤に中津か。編集班?」
「いや、今日は僕の作品の編集」
「そうか」
 八戸さんは二次合評が終わると早々に最終稿を提出してしまい、今は小野寺さんの編集に専念している状態です。とはいえ、今日は特に用事もなく来ただけとのことでした。
「中津。二年目は誰が部長になるの?」
 雑談の流れになると、話題はやっぱりこれです。
「今、二年目で話し合っているところです。来週には決まる予定です」
 とりあえず、誰が候補になっているかは話しませんでした。わたしが候補だと知ったら、八戸さんも要望をしてくると思ったのです。まだその相手をする段階ではありません。
「新井は?」
「一応、立候補しているとだけ」
「そうしたら、和泉か中津が対抗で出たんでしょ」
 それでも洞察だけで二年目の状況を見抜いてしまうとはさすがです。
「新井はあんまり部長向きじゃないと思うよ。ほんの少しだって、全体のために自分を犠牲にすることができなさそうだから」
 それもまた、新井くんには悪いですが、否定できない見解でした。
「どうせ一年間で大したことなんてできないんだから、変に大きいこと言うよりは、地道にやりますくらいでいいと思うよ。高本も結局、無難に落ち着いたしな」
「高本は、ちゃんと話し合ってくれるようになったから」
 実際、この一年で部の制度として変わったことはほとんどありません。一部部員の意識には大きな影響を与えましたが、高本さんの望んだ文芸に対する意識の高まりや、作品の質の向上があったとはいえないかもしれません。
 恐らく四年で卒業するであろう二人は、就職活動も始まり、学業もだんだんと忙しくなるはずです。相対的に優先度の低いサークル活動が生き残るかどうかは、個人的な愛着に左右されるのではないかと思いました。わたしは尋ねます。
「八戸さん、大藤さんは、今後もこの部で活動を続けられるのですか」
「僕は卒業までいるよ」
「僕も」
 大藤さんも頷きます。わたしの完全な杞憂だったようです。
「高本や江本はもちろん、黒沢や小宮も、辞める気はないでしょ」
「平塚はわからないけどな。武藤がいるから辞めないか」
「そういうことではないでしょう」
 いくつものトラブルを乗り越え、文芸部を維持してきた三年目です。その結束は、見かけよりもずっと強いのだとわかりました。
 仲間のことを語る二人に、わたしも希望を見ました。まだ、できることはあります。

 翌週の月曜日、わたしは新井くんと篠木くんに連絡して、理学部のエントランスで話し合いの場を設けることにしました。
「新井くん。心境の変化はありましたか」
 この間のことで内省してくれていたらと、淡い期待のもとに問いかけます。
「多少はな。このままゴリ押しでは埒が明かない」
 相変わらず頑固さを感じさせる言葉でしたが、態度は前回ほど感情的ではありませんでした。
「篠木くんも、来てくれてありがとうございます」
「僕がお役に立てるのなら」
 今日は、この場で勝負を決めるつもりで来ました。新井くんをどうにか説得することが、現実的な最後のステップなのです。それは明らかに、明日の会議の場で行うべきことではありません。
「ということで新井くん。単刀直入に言います。副部長になりませんか?」
 わたしとしては、これが最大限の譲歩でした。しかし新井くんはここまで予期していたというふうに、表情も変えません。
「確かに、副部長は外向きの仕事も少ないし、部長より自由に動けるかもしれん。だが、副部長に期待されるのは補佐の役割やで。どう見ても保守的な中津さんと俺とでは釣り合わなかろ」
 それにしては、取ってつけたような反論です。副部長というポストにはそれなりの魅力を感じているようです。
「大丈夫ですよ。方向性は全員の総意で決まっていくものです。むしろわたしと新井くんの思想が反対だからこそ、間に多様な立場が生まれます。仮に和泉さんが副部長だったら、新井くんはどうなりますか?」
 全くの仮定の話でしたが、新井くんは苦い顔をしました。
「……篠木はどう思う?」
「僕も副部長候補だけど、新井くんが出るなら譲ってもいいよ」
「なるほどな。本当に、二年目はもう中津さんの意のままだと」
 味方だと思っていた篠木くんも、副部長候補としてわたしと通じていたことが明かされました。新井くんは苦しそうに縮こまります。抵抗の意思がなくなってきたところで、速やかに交渉に入ります。
「これが根回し、コミュニケーションですよ。新井くんは一人ですべてを動かそうとしますけど、いくら制度や構造を動かしても、人が動かなければ何も変わらないんです。もし、新井くんが副部長として立ち直ってくれるなら、わたしも新井くんの実現したいことには可能な限り協力しますが、いかがですか?」
「『可能な限り』なんて、要求を自分の都合で曲解するための口実やないんか」
「わたしだけの都合ではありません。なるべく多くの部員の利益になるように調整するのですから、新井くんの考えた方法そのままにはならないこともありますよ。でも、例えば結果として新井くんの主張していた『後輩の育つ部』に近づくなら、問題はないですよね?」
 やや長い沈黙があって、新井くんは深く息をつきました。
「わかったよ。降参する。副部長の座もいらない」
 副部長まで諦めるというのは意外な申し出でした。少し押さえつけすぎたかと心配になります。
「よろしいのですか?」
「ああ。それなら俺は八戸さんみたいに、フリーの立場で動かせてもらうで」
 本当に立ち直りが早いというか、自分が得するためには頭が回る人です。既に次のビジョンがあるのでしょう。
「わかりました。それでは篠木くん、お願いしてもよろしいでしょうか」
「うん。任せてよ」

 翌日の会議は、新井くんによる発表から始まりました。
「この一週間で、何人かと話したりして、心境の変化がありました。私は部長への立候補を取り下げます。以上です」
 驚く様子を見せる人もなく、最初はさもそれが当たり前であるかのように、誰もが沈黙していました。
 これではあまりにも、冷淡ではありませんか。
 わたしと朝倉さんが拍手を始めたのは、ほぼ同時でした。小野寺さんや篠木くん、先生や武藤さんまでも続いてくれましたが、和泉さんと星井さんは最後まで手を動かしませんでした。
 候補者が確定し、会議は長く続きませんでした。わたしと篠木くんの所信表明の内容が確認され、今後の方針について少し話した程度で終わりました。
 その後の部会も比較的短く終わり、わたしは久しぶりに先生と鳳華苑に行きました。
「それにしても、新井は変にあっさりと退いたものだな」
 舞台裏を何も知らない先生は、新井くんの態度が不思議だったようです。
「わたしが朝倉さんや篠木くんと協力して、説得したんですよ」
「そうか。まあいつもの通り、粘り強いほうが勝つというわけか」
「いつもの通りって何ですか」
 まるでわたしが、新井くんよりも頑固かのような言い方です。先生は笑います。
「聞き分けが良いようでいて、決めたことはまず曲げない。それでこそ我らが部長だよ」
 久しぶりに、先生から「部長」と呼ばれました。わたしはその本当の意味に気付きます。
「先生、わたしのこと名前で呼んでください」
「これからも部長と呼んでやろう」
「というか、まだ決まったわけでもありませんよ」
「決まったも同然だ」
 しかしながら、わたしも「先生」と呼ばせてもらっていて、普段から本名で呼ぶのは少し気恥しく思います。これがわたしたちの関係性なのです。
「部長になったら、何から始めるのだ?」
 今後の話は続きます。
「まずは後期新歓ですね。それから、一年目を巻き込んだ大きな企画をやりたいです」
「ほう」
「今年、一年目は十九人入って、そのうち十六人が一年誌に何らかの形で参加しているんですよ。このまま高い定着率を維持したいところです」
「そんなにいたのか」
「一堂に会する機会はないので、実感はしにくいですけどね」
 新井くんほど極端ではありませんが、やはり後輩は大切です。
「部誌や合評についてはどうする?」
「和泉さんは好きにやりたいと言うかもしれませんが……歴代の編集長が部誌のたびに不要な精神的負担を強いられているのは、どうにかしたいと思います」
「元はと言えば、和泉の代わりだからな」
「それももう終わりです。わたしは今や、二年目を背負って立つ候補なのですから」
 具体的な方針は考え切れていませんが、先生の指摘したリソース不足についても、真剣に考える頃なのかもしれません。
 話しているうちに料理も食べ終え、かわいらしいガラスの器に作られた杏仁豆腐をそれぞれスプーンでつついていました。
「話は変わるが……」
 先生はもう、わたしが部長になる話は満足してしまったようです。それでも、関心は相変わらず今後のことにありました。
「わたしは次の春のマスカレードで、勝負に出ようと思う」
「次の春……この夏ではなく?」
 いつになく真剣な表情です。先生を真剣にさせるものは、文芸の他にありません。
「山根氏や上尾氏と競うことができる機会は、この夏で最後かもしれないが……まだ準備ができていない。今年の夏も、また春と同じような順位になるだろう」
 春のマスカレードの小説部門で、先生は五位でした。優勝したのは大学院を修了した松戸さん、三位が山根さんで、八戸さん、先生、そして僅差で上尾さんが続きます。二位の作品もかなり話題になりましたが、未だ作者が判明していません。
「そうですね……マスカレードだと、先生の作品は無難だという感想をよく見ますね」
 先生の作品は低評価こそ付きませんが、より上位の作品と比較すると高い点数も多くありません。基準点が十点満点の六点で、七点ばかり付けられています。これは八戸さんや上尾さんもほとんど同じ傾向で、基本的に六点の割合を競う構図になります。
「確かにな」
「先生の作品って、モチーフや設定には珍しさが見えますけど、話の運び方は意外なほど質実剛健ですよね」
「ああ。昔からだろう」
「はい。それが安定感を与える一方で、ある種の新鮮な刺激を殺いでしまうのかもしれません」
「そうだな……まあ、そういうわけで次の春を目指して、また修練を積むのだ」
 どのような修練を積むのかは定かでありませんが、わたしはこれからも先生を応援したいと思います。部長になっても、それは変わりません。

 そして、あっという間に七月になりました。七月と言えば高校の学校祭もありましたが、今年はその日に先生が実習で余市の果樹園へ行ってしまい、わたしも二年目にして一人で高校に戻る決心がつかず、鳴滝さんと小池さんにメッセージを送っただけで終わってしまいました。それでも、『逍遥』の第五号と第六号は送ってもらうことにしました。
 ところがその学校祭の日の昼、東京に行った天海さんから電話が掛かってきました。
「もしもし。中津です」
「フミ先輩! お久しぶりです、天海です」
 電話口でしたが、相変わらず元気であることが伝わってきました。向こうは人混みの中にいるらしく、かなり賑やかです。
「天海さん。今日はまたどうして」
「高校の学校祭あるじゃないですか。そのために昨日、札幌に帰ってきたんですよ」
「今、高校ですか?」
「当たりです。直美ちゃんや一花、佳乃ちゃんにも会いましたよ。次はフミ先輩とアキ先輩です! 今晩どこか食事でもどうですか?」
 突然でしたが嬉しい申し出です。先生は運が悪かったということにして、遠慮なく抜け駆けしたいと思います。
「わたしは大丈夫ですが……先生が今日、実習で余市まで行ってるんですよね。その後で来たがるかどうか」
「それでアキ先輩、繋がらなかったんですね。というかアキ先輩って何学部でしたっけ?」
「農学部ですよ。果樹園での収穫実習みたいです」
「すごい! じゃあ、フミ先輩だけでも全然大丈夫なので、アキ先輩の話たくさん聞かせてください」
「わかりました」
 夕暮れの頃、わたしたちはテレビ塔の下で待ち合わせをしました。天海さんは髪を栗色に染めて、装いも肩の出た白いブラウスにダメージジーンズと、すっかり都会的な印象を与えます。
「大学生らしくなりましたね」
「フミ先輩、一花と同じこと言ってます」
 それにしても、七月の初めの札幌でしかも夕方では、やや寒そうな恰好です。言うのは野暮ですが、気にしてしまいます。
 今日はいつぞや染谷さんと行ったブックカフェを予約していました。天海さんは初めてとのことで、興味津々です。
「こういうお店って札幌にもあったんですね」
「最近は、増えてきているらしいですよ」
 一風変わった異国の本などに囲まれているというだけでも、普通の料理屋にはない情緒を感じるものです。天海さんもすぐに気に入ったようでした。
「神田神保町のブックカフェに行ったんですよ。もう、半分図書館みたいな感じで。大きすぎるのもなんだか、落ち着かないですね」
「あの辺りは、いろいろ規模が違うと聞きますが」
「古本屋もすごかったですよ。古い貴重な文献とかもあったりして、一日見れますよ」
「一度行ってみたいですねえ」
 東京は休日に出かけるスポットがたくさんあるので羨ましく思います。数日きりの観光だと、悩ましくも選ばなければなりません。
 そこで、天海さんがスマホに通知が入ったことに気付きました。
「アキ先輩からです。『実習でまだ帰りなので行けないが、またの機会には会おう』ですって。ちょっと気になるんですけど、アキ先輩ってどんな大学生活を送っているんですか?」
 やはり天海さんも、先生のことを心配しているようです。わたしは開けっぴろげに話してしまいます。
「まあ、学科が決まったのにほとんど交友関係も築かなかったようで、大学構内の誰もいないスポットを見つけたりしてマイペースに過ごしていますよ」
「イメージ通りでした」
 すると、天海さんは再びスマホの画面を覗きました。またも先生からのメッセージのようです。
「アキ先輩から、『今日は我らが部長に奢ってもらうといい』って」
「先生……本当に内弁慶なんですから。こんな場面でしか、先輩風を吹かせられないんです」
 それでも先生は、なんだかんだで後輩に奢るなどのサービスは厭わない人だと思います。ただ、その機会を自分からは持とうとしないだけなのです。
「そちらの文芸部には、後輩いるんですか?」
「いますが……先生が交流しているところは、見たことがありません」
「それはちょっと意外です」
「前期は一年目の中で冊子を作っていたりするので、わたしも活動上の接点はあまりないのです」
「それはなんだか、寂しい気もしますね。先輩にしても後輩にしても」
「そうですね……」
 去年のわたしたちも、夏休みが終わる頃にはかなりの人がいなくなってしまいました。その中には一年誌に参加していた人もいました。実際に辞めてしまった人のことを考えるのは意味がないかもしれませんが、この部では辞めようとする人を減らすことも考えられていません。
 そうして考え込んでしまったわたしに、天海さんは少し前のめりになって問います。
「大学のサークルの部長ってだいたい、二年生の後期からですよね。フミ先輩は、また部長になろうとか、考えるんですか?」
 期待を強く感じる眼差しでした。少し気圧されながらも、わたしは頷きます。
「実は来週、選挙がありまして。わたしは部長候補になりましたよ」
「さすがです。アキ先輩も、フミ先輩も、あの頃からずっと高い志を持ち続けて、文芸に取り組み続けています。私が言うのも烏滸がましいかもしれませんが、誇らしいです」
「ありがとうございます」
 わたしは先生とは違って、こうして後輩から尊敬されることも素直に嬉しく思います。しかし一方で、確かにプレッシャーも感じました。
「……実は私、今少し書くことからは離れているんです」
「えっ?」
 そんな中での、唐突な告白です。わたしの理解も一瞬追いつきませんでした。
「やっぱり、高校の文芸部のような濃密な交流の中で作品を書いていく感覚から抜け出せなくて。だから、環境が変わっても変わらない文芸を続けている先輩方は、本当にすごいと思います」
 それは、この七月の初旬という珍しい時期に、天海さんが高校の学校祭を狙って帰省した理由に他なりませんでした。
「それを、わたしたちへ伝えに?」
 一転して、わたしが話を聞く側になります。
「はい。恰好悪くて、ごめんなさい。後輩たちには結局、言えなかったんですけどね。文芸部には入らなくて、代わりに読書サークルに入ったんです。そうしたら、高校の頃は文芸も文学も全然知らないで、良くも悪くも無邪気に、自分のための執筆に打ち込んでいたことに気付いて……なんだか、敢えて自分で文芸を続ける理由がなくなっちゃったんです」
 天海さんが感じたことは、恐らくわたしの感じた高校と大学の間の違いと似たようなものだと思います。
「でも、文芸にはいつでも復帰できるわけですし……そうして離れることを、気に病む必要は全くないと思いますよ」
「そう言えば、唐澤には会ったりしますか?」
「いいえ、まだ一度も。あの広い大学では、偶然出会うのも難しいですね」
「そうですか……まあ、どうせあいつも元気なので、聞いてみただけです」
 仲間のことばかりが気になる。わたしにはそんな天海さんの気持ちがわかりました。思えば、天海さんの文芸は完全にわたしたちとの文芸だったのです。中学では吹奏楽部に属していたのに文芸部へあっさりと乗り換えられたのも、今回文芸部から他のフィールドへ移ろうとしていることも、本質的には同じだと思います。
「天海さんも、この先また、熱中できることが見つかるといいですね」
「……一番欲しい言葉、ありがとうございます」
 その後の天海さんは、少し重くなってしまった空気を吹き飛ばすかのように、大学での楽しい出来事をたくさん話してくれました。
 わたしたちの夜は、そうして更けていきます。

 月曜日、わたしは昼休みに先生と会ってお昼をご一緒しました。場所はいつもの(このような修飾語を付ける日が来るとは思いませんでしたが)庭ではなく、交流会館です。外はまだ本格的な暑さではありませんが、虫が増えてきたのです。
「余市ではリンゴの摘果とハスカップの収穫をしてきたよ。九月にはリンゴが収穫できる予定だから、楽しみに待っているといい」
「えっ、お土産をくれるんですか?」
「たくさん貰えたらな」
 天海さんに会えなかったことは残念がっていましたが、収穫実習は楽しかったようです。札幌の農場でもこれから様々な作物が次々と収穫期を迎えて、夏休みの終わりには稲刈りをする機会もあるそうです。
「では、わたしからもお土産話を。天海さん、今は読書サークルに入って、自分で書くことからは少し離れているんですって。でも、大学生活はとても楽しそうでしたよ」
「天海のことだ、何も心配することはないな」
「そうですね」
 お互い、この土日にあったようなことを楽しく話していると、お昼休みなどあっという間に終わってしまいます。わたしも先生も三限は空いていましたが、先生は行きたいところがあるとのことでした。
「農場へ行って、桑の葉を貰って帰る」
「桑の葉とは……またどうして?」
「実は今、実習の一環として蚕を飼っていてな。もうこの小指くらいの大きさになって、間もなく繭を作る頃だと聞いているのだが……食べる量も多いのだ」
「それはまた、現代ではなかなかできない体験ですね」
 せっかく天気も良かったので、わたしも散歩がてら、先生について行くことにしました。農学部の裏の道路を北へ向けて歩いていきます。
 一週間後には選挙を控えているわけですが、もはやあまり不安はありませんでした。所信表明の内容も決まっていますし、迷うこともありません。今、わたしにできるのは束の間の平和を謳歌することくらいです。
 先生も夏部誌の最終稿の提出が終わり、次に向けた準備を始めているようでした。
「次のマスカレードの作品は、簡単には看破させないからな」
「わたしへの挑戦状ですか」
「ああ。今のうちに、そのくらいの冒険をしてみようと思う」
「なるほど。夏休みの楽しみが増えるというものですね」
 現実的には、文体や言葉選び、話の運び方などあらゆる要素に書き手の特色が出るので、その全てを変えて書くのは先生でも難しいことだと思います。わたしがそのわずかな先生の痕跡を見過ごすはずがありません。とはいえ、そこで本当に意外なほど普段の先生から離れた作品を看破することができたなら、とても痛快なことだろうと思います。
 マスカレードの話の流れで、わたしはもう一つの楽しみに気が付きました。
「そういえば先生、一年目の橋上さんとはお話しましたか?」
「ああ、挨拶くらいはな。三沢高文芸部の出身なのだろう」
「一年誌の作品は?」
「初稿は読んだぞ。小説はあまり書かないと言っていたが、その割に慣れた書き方だったな」
 高校時代は詩がメインだった彼女ですが、一年誌には短編の小説を出していて、これも上年目の間で話題になるほどの出来でした。この調子で彼女がマスカレードにも小説を出したならば、先生との直接対決が実現します。
「あとは、小野寺さんも今回のことで小説に自信が出てきたみたいです。次のマスカレードでは、先生を追いかける二人の躍進にも注目ですね」
「後ろにいる限り、わたしの視界には入らない」
「さすが。すごい自信です」
 桑畑の入口まで来たので、わたしはそこで待つことにしました。
 今年の夏はきっと、今日の空のように晴れやかな日々になるのだと思います。

 そして翌週、冷たい雨の中でしたが、役員選挙は定刻に始まりました。諸連絡が終わると、いよいよわたしの出番です。
「部長候補者、中津文子さん。所信表明をお願いいたします」
「はい」
 高本部長の司会を合図に、わたしは前に立って聴衆を見渡します。学生交流会館の集会室は教養棟の教室よりも一回り狭く、四十人ほども集まった今日は人が密集してすごい熱気です。かと言って窓には網戸がないので、迂闊に開ければ虫が入り放題です。
 ここは無用に長引かせず終わらせるのが貢献だと思います。わたしは表情を引き締め、頭の中の原稿を読み上げました。
「わたしはこれまで編集班で、編集専門の立場で皆さんの文芸と向き合ってきました。部長になっても編集の視点を活かして、この部でより良い文芸ができ、何より楽しく過ごすことができるように、尽力したいと思います。
 この部には、本気で文芸を究めようとしている方もいますし、そうでもない方もいます。とにかく作品を書く人もいれば、企画で書くのが好きだったり、あるいは読むのが好きだったり、デザインが好きだったりと、様々な方がいます。
 この部に皆さんが持ち寄る『実現したいこと』もまた多様だと思いますが、それらをしっかりと聞き集め、全体の楽しみとして還元することが、部長の役割だと考えます。
 文芸部だから作品を書かなければいけない、上達しなければいけないといったことを、わたしは強制しません。来たいときに来て、書きたいときに書いて、読みたいときに読む。わたしはそれでいいと思います。
 ただ一つだけ、何より大切にしたいことがあります。それは、お互いの文芸を知り、認め合うことです。そのために、部誌や企画、毎週の部会などの場で、現状より深い部員間の交流ができるよう、模索していきたいです。
 わたしはこの部に集まってもなお、孤独な文芸をしていた人を見てきました。誰とも交わらず、離れていく人を見てきました。そういう人たちを、これからはできるだけ少なくしたいのです。
 わたしたち全員で、明るい部を作り上げていきましょう。信任よろしくお願いいたします!」
 一礼した途端、拍手が起こりました。わたしは一旦それに笑顔で応じた後、すぐに表情を引き締めます。ここからが重要なところです。
「質疑応答を行います。発言される方は挙手をお願いいたします」
 まずは山根さんと上尾さんの手が挙がりました。先に動いた山根さんに発言権が渡ります。
「この部は長いこと、合評や印刷など絶対に必要な仕事の負担が一部の人に偏っているという問題を抱えています。これについて、部長候補としての考えを聞かせてください」
 去年、最初にこの問題を指摘したのも山根さんだったと思います。この場面では第一に予測された質問でした。わたしは臆せず答えます。
「部誌の仕事に関する内容は、今後皆さんと議論したいと考えています。わたしの認識では、部誌がこの部にとって最も重要な活動であり、全員参加が当然であるという価値観が浸透していないのだと思います。そこで必要な仕事だからと圧力を掛けるのでは、分断が進むばかりです。
 逆に、部誌に多くのリソースが割かれているために、この部でやりたいことを実現できていない人もいるかもしれません。インターネットへの進出も、この夏部誌のスケジュールとの兼ね合いで、思うように進んでいないのが現状です。そうした活動のバランスを、今一度考える必要があると思います」
 実はわたし自身、この問題に関してまだ答えが出ていません。先生や新井くんのようにきっぱりと部誌制作を削るような考えは、和泉さんのことを考えるとどうしてもできないのです。
「それは、部誌の規模を縮小する可能性があるということですか?」
 できれば今後に期待してもらいたかったところですが、さすがに番人の山根さんは厳しく見ています。しかし、ここで具体策を議論しても仕方がありません。
「はい。ただしその場合も、編集を付けて合評を規程の回数通すといった最低限のラインは定めて守りたいと思います」
「わかりました。ありがとうございます」
 わたしが編集班員だったことも幸いしたのか、山根さんは納得してくれたようです。続いては上尾さんの質問です。
「ここまでの話で、中津さんはこの部の文芸への取り組みや、作品の質の問題について、現部長の高本くんとは違った認識を持っている印象を受けました。そこで、例えば今年の初めに立てられた、『二年目以上の部員は年度内に一作品以上書くか編集をする』という目標もそうですが、これまでの方針をどれだけ引き継ぐつもりなのかお聞きしたいです」
 この質問には、高本部長も小さく一度頷きました。わたしは用意してきた通りに答えます。
「旧来の方針については、今後わたしたちの代の方針を定めるときに、それを大切に思って継続させたい方がいれば、改めて提案していただきたいと思います。確かに、文芸部にとって文芸は核となる活動ですし、それを全員で重んじるという理想は正しいことだと思います。それでも、在籍七十人、ここにいるだけでも四十人の部員が全員、『正しいからやる』という理屈に従うわけではないと思います。
 やはり、『やりたいからやる』という理屈が優先するはずですし、ここはサークルであって、何より部員の満足につながることが大切なのです。必要がないと思う人が多ければ、作品数や編集の数値目標も撤廃するべきだと思います」
 自分でも少し攻めた発言だとは思いますが、変えられる体制を敢えてそのまま維持するために、一部の人へ理不尽なプレッシャーを掛け続ける現状は看過できません。
「やらされることよりも、自分たちでやることを大切にしたいというふうに解釈しましたが、間違えていませんか」
「はい。大丈夫です」
「ありがとうございます」
 その後は十秒ほど、誰の手も挙がりませんでした。次に動いたのは二年目で三年生の梅森さんです。
「二年目の二年生の中で、候補者を決めるために議論されたことと思いますが、差し支えなければ中津さんが部長候補に決まった経緯を聞かせてください」
 これも実際、説明するのは難しい部分です。しかし、二年目の代表としてここに立っているからには、誠意を持って答える必要があります。わたしは慎重に言葉を選び始めました。
「結果としては、最初三人の候補がいたところから、副部長や各班長なども総合的に考えて話し合い、わたしが部長へ立候補することになりました。
 方針について最初は対立もありましたが、わたしはそうした考えの違いも吸収していければと思い、時間を掛けて議論をしました。二年目二年生については、全員が納得して今日を迎えていると考えていただいても差し支えありません」
「安心しました。ありがとうございます」
 梅森さんを最後に、質疑応答は終わりました。確かな手ごたえを感じながら席に戻ります。
 副部長候補の篠木くんは、「色々なことに挑戦できて、互いに応援し合うような部を、皆さんと協力して目指していきたい」と話していました。わたしとほぼ変わらない方向性については敢えて追及されることもなく、副部長の担当になる活動についていくつか質問はありましたが、いずれも篠木くんは意欲的な回答をしていました。
 そしていよいよ投票です。わたしと篠木くんは部屋から出され、廊下で開票が終わるのを待つことになりました。
「中津さん。僕、緊張してたように見えたかな」
「いえ、とても落ち着いていたと思いますよ」
「良かった、中津さんが全然平気そうだったから、却って緊張しちゃって」
「それはなんだか、すみませんでした」
 とはいえ、わたしも必死で夢中で意識していなかっただけで、緊張はしていたのだと思います。このときになって、一気に疲労が身体にのしかかってきたのです。
「お二人とも、どうぞお入りください」
 しばらくして、高本部長が扉を開けてくれました。わたしと篠木くんは部屋に入るなり全員の前に立たされ、審判のときを迎えます。
「開票結果。部長、中津文子さん。副部長、篠木義則さん。ともに信任されました」
 今日一番の拍手と歓声が起こりました。わたしたちは揃って一礼します。
 部長になることが決まって眺める文芸部の景色は、当然と言えば当然ですが、以前と何も変わりませんでした。これからも、こんな景色を眺めていたいと思いました。
 正式な任期は八月からですが、後期新歓の計画など、すぐに動かなければならない仕事が待っています。ここからは部長として休む暇などありません。
 進む道は決まりました。目指す先は、先生が話していた……ではなく、わたしなりの『フロンティア』です。

十六 田園

 八月になり周囲の学部が次々と夏休みに入る中、文学部はまだ一週間も講義期間を残していました。レポートの課題が多く忙しい時期でしたが、その日は文芸部の部長として、外せない用事がありました。
 高本さんと文学部のホールで待ち合わせをして、ある建物の一角まで歩いてきました。入り組んだ構造で廊下は風通しが悪く、汗ばむのを我慢しています。
「こちらです。覚えておいてください」
「はい」
 高本さんが頑丈な扉を四回ノックし、ノブを回します。
「失礼いたします」
「どうぞ」
 中からは男性の柔らかい声が聞こえました。わたしも高本さんに続いて入室し、重い扉を静かに閉めます。
 両脇の本棚には隙間もなく、床にまで書籍や論文が積まれています。奥のデスクでわたしたちを迎えてくれたのは、間違いなく声の主と思われる、優しそうな五十代くらいの男性です。しかし服装はゴルファーのような半袖のポロシャツで、意外とアクティブな印象も受けました。
 今日、わたしは高本さんとこの人を訪ねてきたのです。
「こんにちは。高本くん、一年間の部長職、よくやり遂げてくれましたね」
「ありがとうございます。こちらが八月より部長になります、中津文子さんです」
「はい。ご紹介にあずかりました、文学部二年の中津です。よろしくお願いします」
「顧問の嘉山です。いつも君たちに任せきりにしていて申し訳ありませんが、必要なことがあればいつでも声を掛けてください」
 大学のサークルの中でも、文芸部は公認団体という位置づけです。公認団体には教授職の顧問がいなければならないらしく、嘉山教授はそれを引き受けてくださっています。
 それにしても、普段の活動に顧問は全く関与していません。一応、手続きのときに顧問のお名前が必要になるくらいです。わたしもそのお名前と、文学部の教授であることは知っていましたが、対面するのは初めてです。
「こちら、先日完成した夏部誌です。一部差し上げます」
「ありがとう。しかと読ませていただきますよ」
 高本部長が手土産に部誌を渡したのち、わたしは連絡先を交換しました。ところが実際、このように教授の部屋を訪ねることも初めてだったため、緊張であまり内容のあるお話はできませんでした。
「それでは、今後ともよろしくお願いいたします」
「はい。高本くんも中津さんも、頑張ってください」
「ありがとうございます。失礼いたします」
 部屋を出ると、入る前の二倍くらいの汗が流れました。そういえば、今日は猛暑日だったのです。

 部長の用事はまだ終わりません。場所を比較的風通しの良い休憩スペースに移動して、今度は仕事の引継ぎです。互いに持参したノートパソコンを立ち上げます。
「まずは、こちらのデータを入れてください」
「はい」
 高本さんに渡されたUSBから、「部長フォルダ」というデータを自分のパソコンへ移します。その中には、事務手続きに必要な書類のフォーマットや、部員の名簿、部長のマニュアル、新歓の資料など部にとって重要なものがおおよそ入っていました。
「それから、こちらをお渡しします」
 次に高本さんが差し出したのは、二冊のノートです。一方の表紙には高本さんの字で『部長ノオト』と書かれていました。
「部会や班の会議には、なるべく出席するようにしてください。そのノートは、一冊は下野さんから引き継いだものです。部会の内容やスケジュールなどは概ね書いてあるので、参考になるかと思います」
「ありがとうございます」
 その場で高本さんのノートを適当に開いてみましたが、高本さんの文字は一瞬で解読できるものではありませんでした。まあ、これから何度となく開くうちに目が慣れてくるだろうと思います。
「あとは……サークル会館に文芸部のポストがあり、郵便物が届くので気を付けてください。大体は広告ですが」
「はい。定期的に見に行きます」
「部誌が完成したら、顧問に一冊、大学の教務課に一冊ずつ寄贈することになっています」
「覚えておきます」
「そのくらいですね。お渡しした部長フォルダの、マニュアルにも書いてありますので」
「ありがとうございます」
 そんな感じで高本さんから引き継がれたものは、事務的な仕事の方法ばかりでした。部長が代替わりすることの精神的な面については一切触れられていません。藪蛇になるかもしれませんが、わたしから聞き出してみることにします。
「高本さんは、部長としてやり残したことなどはありませんか?」
「それは……話しても、仕方のないことです」
 高本さんは自嘲的に笑いながら答えました。わたしは諦めません。
「良かったら、参考までに聞かせてください。高本さんが部長として、この部をもっと真剣に文芸に取り組む部にしたいと考えていたことは知っています。それについて、一年でどのくらい実現できたと思いますか?」
 高本さんの表情が、やや苦みを帯びます。こうして高本さんと真剣にお話する機会がほとんどなかったので、手応えがよくわかりません。
「強いて言うならば……活動に占める文芸の割合は増えたものの、絶対量、そして質は大きく変化していないと思います」
 控えめな調子ではありましたが、本音に近い意見だと思いました。
「その根幹の部分に踏み込めなかったことには、自分の至らなさを感じます」
 この一年、高本さんのわたしたちに向かう姿勢が少しずつ変化してきたのは見てきたとおりですが、その裏には本人のいくつもの反省があったのだと思います。実感としても良い方へ向かう流れに乗っていた高本さんを、ここで止めてしまうのは惜しいことです。
「わたしも、全員が文学に深い造詣を持つとか、表現の求道者になるとかいうことを望んでいるわけではありませんが……それでも、各々が実現したい文芸があって、しかし個人では届かないようなときに、互いに手助けができるような部にしていきたいと思います。その結果として、活動の量も質も高められれば最高です。高本さんも、まだまだこの部で実現したいことを、わたしたちに聞かせてください」
「……中津さんは、素晴らしい方だ」
「いえいえ。部長としてはまだまだですので」
 皮肉めいたものを感じる間がありましたが、言葉は純粋な称賛と受け取っておきます。実際、高本さんの表情は晴れてきていました。
 こうしてわたしは、名実ともに部長となったのです。

 それから一か月が経ち、例年通り夏合宿が始まりました。昨年は美瑛の山奥でしたが、今年は幹事となった新井くんの計画で、深川にあるという研修施設へ向かっています。旭川の手前でバスが直通なので、交通費の削減になるという算段だそうです。
 バスの座席からは、高速道路のフェンスの向こう、平野一面の田畑が見えます。わたしの隣には珍しく先生がいて、一緒に景色を眺めていました。
「お米はそろそろ収穫時期ですかねえ」
「まだ一週間ほど早いかもしれないな。九月の中旬から下旬にかけてが盛りだ」
「農学部は収穫実習、まだ続いてるんですよね」
「先週末は、余市でリンゴを収穫してきた。今度会うときに分けようか」
「前に話してたリンゴですね。ありがとうございます」
 移動が疲れないという点は、先生を参加させるのに貢献した要素の一つです。もう一つは恐らくマスカレードです。先生が余市へ出向いていたその週末に、マスカレードの締め切りもあったのでした。そして今日の夜には、投票数を高めるためにマスカレードの作品を読む時間が設けられることも公表されています。
 わたしは今回、先生がマスカレードに出した作品を当てるという勝負を挑まれています。「簡単には看破させない」と冒険する意思を見せていた先生は、わたしが足掻く姿を見物しに来たのかもしれません。
「部長はどうだ、忙しいのか?」
「八月の上旬までは会議もありましたが、今は和泉さんや星井さん、篠木くんも帰省中ですし」
 実は、夏休みに入ってから先生に会うのは初めてです。先生は収穫実習が細かくあり、わたしも自動車学校に通い始めたりしていたので、なかなか会うという話にもならなかったのでした。
「先生が合宿に参加してくれて良かったですよ。このままだと、なかなか会えないまま夏休みが終わってしまいますから。今日は一年目も三人来ていますし、交流のチャンスです」
「まあ、息抜きだ」
 後ろのほうから橋上さんの談笑する声が聞こえます。今年はノウハウの共有のため、一年目は三人で副幹事を分担することになったそうです。わたしはここぞとばかりに、リュックの中から二冊の冊子を取り出しました。
「今日は一年誌も持ってきていますので、活用してくださいね。ちなみに三人とも出してますよ」
「分冊なのだな」
 昨年より多くの作品が集まった一年誌は、合評期間が長引くなど多少の予定外もあったようですが、無事八月の半ばに完成しました。比較的明るくコミカルな作品を集めたAパートと、シリアスな作品を集めたBパートに分かれています。
「ちなみに高崎くんがAパート、橋上さんと長谷くんがBパートです」
「橋上と、高崎はわかるが……長谷とは?」
「……後で教えます。企画班に入った、読書家の男性ですよ」
「ふむ」
 先生は各パートの最後に配置されている自己紹介のページをめくり始めました。一年誌に参加した十六人のうち、先生が把握しているのは五人くらいでしょうか。
「知らない名前ばかり……ですよね?」
「まあな。何人が後期まで残ると思う?」
 そこにいきなりの挑発的な質問です。
「全員!と答えない部長がいると思いますか。現実的なところでは、十二人くらいでしょうけど……」
「あまり、一人一人に心を揺らしていては持たないぞ。ダメなものはダメだと、割り切ることも大事だ」
 相変わらずの尊大な気遣いです。確かにわたしたちにはどうにもできない理由で部を去っていく人もいます。しかし、それをミクロ的な、人と人とのつながりによる対策をしない理由にはなりません。
「先生だって、一人くらい後輩に慕われていても良い頃ですのに。全然、影が薄いじゃないですか。信頼できる上年目がいるのは大事だと、先生自身が一番わかっているはずでは?」
「……確かにな」
 先生は途端に大人しくなってしまいました。これが案外、急所に刺さったようです。その表情には、言い返すに言い返せない、もどかしさが浮かびます。
 いつまでも手のかかる先生だな、と思います。
「先生まで、後輩を巻き込んで派閥を作るとか、言い出さないでくださいね?」
「それでは、新井と同じではないか」
 一年目の相羽さんの話では、先生は「影が薄い」というより、「気軽には近寄りがたいオーラが出ている」と評判だそうです。なんともかわいそうな話ではありますが、半分は先生自身が招いてしまった結果というわけで、わたしにはこうして内省を促すくらいしかできません。

 バスを降りると、目の前に円弧状の建物がありました。さすがに昨年の施設ほどのスケールは感じられませんが、ガラス張りのエントランスには新しさを感じます。
 そしてわたしが先生と離れると、小野寺さんが近づいてきました。
「浦川さんと、どんな話してたの」
「一年誌の話ですね。先生ってば、一年目の名前を全然知らないので、もっと頑張ってほしいという話をしていたのです」
「そっか」
 夏部誌のことで一応は和解した二人ですが、まだまだすれ違いは続いているというか、小野寺さんもすぐには積極的になれないようです。
 ところが、チャンスはすぐに訪れました。女性陣の部屋は八人に対して四人部屋が二つ。三年目の小宮さんと佐々木さんが同じ部屋を希望したので、小野寺さんが先生と同じ部屋になる確率が極めて高くなります。
「浦川ちゃん、あんまり夜更かししないから、出入りの少ないほうがいいかな」
「そうしてもらえると助かる」
 朝倉さんの気遣いです。小宮さんは比較的遅くまで遊びたい側とのことで、先生はもう一方の部屋に決まりました。
「私も浦川さんの部屋でいいですか」
 次に手を挙げたのは橋上さんです。残りは二人。わたしもどちらかと言えば先生の部屋に入りたい側ですが、待ち構えるのは短い納期です。昨年の実績を考えると、夜更かし部屋のほうがいいかとも思います。
 一方、小野寺さんも周囲の顔色を窺って、何かを言い出そうとしているようでしたが……。
「じゃあ、私と武藤ちゃんが夜更かし部屋でいいかな」
「OK」
 朝倉さんのごく自然なリードにより、優柔不断なわたしたちは揃って先生と同じ部屋になったのでした。
 活動は午後からということで、まずは各々の部屋で昼食です。
 薄々予感してはいましたが、その時間は誰も喋らずに終わりました。しかし空気が重いというよりは、完全にお互い干渉することもなく、見えないカーテンで病室のように仕切られて、それぞれのパーソナルスペースに収まっていたのです。

「今回最初の企画は、『猫チョコ創作』です」
 幹事としてホワイトボードの前に立った新井くんは、謎の多い企画名だけを告げて自ら拍手を始めました。副幹事の三人が企画名を書き、その下にコピー用紙をマグネットで貼り付けていきます。「アイテムテーブル」と「状況テーブル」の二つの表が完成しました。
「基本的なルールは三題噺です。その三つのお題を、これらの表の中から、ダイスロールで決めようというのが今回の企画です」
 二つの表にはそれぞれ、「灯台」「包丁」「お面」などのアイテムと、「年明け」「雨宿り」「死ぬ直前」などの状況が並んでいます。ダイスを二つ振ることで、お題を決める抽選をしようというわけです。
「ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、この企画のもとになったパーティーゲームがありましてね。様々なシチュエーションを、与えられたアイテムで上手く切り抜けるという大喜利的なゲームなのです。そこで今回のお題は、アイテムが二つと状況が一つです。アイテムのうち一つは、全員共通のものをこれから決めます。ここまでで何か質問はございますか」
 質疑に入ると、大藤さんの手が挙がります。
「状況に対して、アイテムを使った解決を与えるという筋書きは強制ですか」
「いいえ、そこは通常の三題噺と同じく、作品の中で自由に使ってもらえればと思います」
 ともあれ、これでルールはわかりました。問題はそのお題が何になるかです。
「それでは早速、全員共通のアイテムを決めましょう。高崎くん、お願いします」
「はい」
 最前列のテーブルで、高崎くんが二つのダイスを転がします。出目はよく見えません。
「五と、三ですね。全員共通のアイテムは鏡です。以降、このマスにはダークマターが入ります」
 鏡。とりあえずどのようにでも使えるアイテムが当たって安堵したのも束の間、代わりにアイテムとしてはとんでもないものが入ります。よく見ると、アイテムテーブルには他にも変なものが入っていました。「イノベーション」や「コンセンサス」なんかを手に入れてしまった日には、意識の高い三題噺を書かざるを得ないでしょう。
「それでは、順番に回りますので、残りのアイテムと状況を決めていきましょう」
 程なくして、わたしにもダイスが回ってきました。昨年のメロス創作よりは攻略のパターンもありそうですが、場合によってはまた深夜まで格闘することになります。その運命を決める二投です。
 アイテム二つ目……羊。
 状況……入れ替わり。
「こ、これは!」
 なんともシナジーのありそうな組み合わせに、思わず声が漏れます。鏡を見て、羊と入れ替わったことに気付く……そんな筋書きなら、アイテムの使い方としてはこの上なく安直ですが、何かしら話になりそうです。
 後ろの席ではちょうど、小野寺さんのアイテムと状況が決まったところでした。
「小野寺さんは何を拾いましたか?」
「ダークマター」
「なんと……」
 しかも状況は「食卓」です。宇宙規模の化学反応が起きそうな組み合わせに苦笑する小野寺さんですが、次の瞬間には何かしらのインスピレーションを得たのか、手元のメモ帳に何かを書き始めます。
 右隣に座っている先生にもダイスが回ってきました。三題噺があまり得意ではない先生ですが、迷いなくダイスを投げる動作には余裕を感じます。ところが決まった状況を見て、その表情が一瞬固まりました。
「先生は、何に決まりましたか?」
「アイテムが保冷剤、状況はラブラブ、だな」
「ほう……それはセンセーショナルですね」
「……」
 意図せずダジャレのようになってしまいましたが、先生が顔をしかめて黙ってしまったのはそれに気付いたからではないと思いたいところです。何はともあれ先生が恋愛シチュエーションを書くことは今までになく、期待が急上昇です。
「わたしは羊と、入れ替わりでしたよ」
「なるほど。羊と入れ替わる話で終わったのでは、面白くないな?」
「うっ」
 何の意趣返しなのか、圧力を掛けられます。やはり変なダジャレでからかったように思われているのかもしれません。しかしわたしは認めるのも恥ずかしく、スルーを決め込むしかなかったのです。

 全員のアイテムと状況が決まると、自由時間が始まりました。研修室は程よく冷房が効いていましたが、夕方までそこにいるのは退屈とばかりに、何人かはすぐさま他の場所を求めて外へ出ていきました。
 しかし、その大半の人は十分くらいで戻ってきてしまったのです。大藤さんに話を聞いてみます。
「執筆場所、見つかりませんでしたか?」
「テーブルのある休憩所、あるんだけど小さくてね。ここが一番執筆はしやすいよ」
「そうなんですね」
 わたしも気晴らしに(と言っても進捗は全くありませんが)、施設を見物してみることにしました。まずはエントランスまで戻り、館内の見取り図を見つけます。
 外からの見た目通り、内部は弓状の構造のようです。入って左側には事務室や食堂、体育館。右側には宿泊室や浴室などの生活空間。そして奥の円弧の部分には、大小の研修室が並んでいます。
 それらを結ぶ通路上に、いくつかのフリースペースが点在しているのが目に付きました。とりあえず、その一番大きなものが浴室の前にあるらしいので、そこへ向かうことにします。
 まだ他の団体が到着していないため、宿泊室はどこも扉が開いていて空室、物音ひとつしません。去年の施設では宿泊棟が貸切で他の団体との距離が離れていましたが、ここでは一続きのようです。
 浴室前のフリースペースには窓がなく、ノートパソコンを一台なら置けるくらいのテーブルに、一対のアームチェアが備え付けられていました。そこでは小宮さんと佐々木さんが向かい合って、仲良く執筆を……しているわけではなく、寝息を立てています。わたしは静かにそこを通りすぎ、円弧の通路へと入っていきました。
 わたしたちの研修室を通り過ぎ、食堂へ向かう途中のフリースペースには、ガラス越しにひときわ明るく日光が差し込んでいました。背もたれのないベンチが二台並んであり、気分転換の日光浴には最適な場所だと思います。一応、何もないながらも中庭を眺めることもできます。
「おう、中津さん」
 そこに食堂の側から、新井くんが歩いてきました。手ぶらなので、わたしと同じくただ見物していただけのようです。
「ここ、あんまり広くないですね」
 とりあえずこの施設を選んだ幹事でもある新井くんには、率直な感想を伝えてみます。
「ちょっと裏話をするとさ、今年は参加者が十四人だけど、この人数じゃ前回の施設、旭川駅まで迎えのバスを出してくれないらしいのよ。それで交通費が高くなるから、ここを選んだわけな」
 施設の料金はどちらも大差ないらしく、合宿の費用は去年からちょうど交通費の分だけ安くなっています。もし今年も同じ施設を選んでいたら、二千円ほど余分にバス代が掛かったそうです。
「たまには違う施設を選んでみるのもよかろ。まあ、来年は無理しても去年のところに行くかもしれんが」
「はい……」
 広さのことは横に置くとしても、ここにはなんだか、あんまり非日常の雰囲気がないような気もします。夜になっても飲酒が禁止とのことで、大学生のサークルの合宿にはそもそも向いていないのかもしれません。まあ、お酒についてはわたしも含め、未成年のメンバーには直接関係のない話ですが。

 それはさておき執筆です。わたしは研修室に戻ってノートパソコンを開きました。
「妙案は思いついたか?」
 横から先生が声を掛けてきます。先生のパソコンの画面を覗くと、既に十段落くらいは文章が進んでいました。
「わたしはスロースターターですので。先生は、順調のようですね」
「ああ。お望みなら、センセーショナルでもセンシティブでも書いてやろう」
 わたしが何か怪しいスイッチを入れてしまったようです。しかし、これはこれで先生の新境地が見られるかもしれないという楽しみになります。
 小野寺さんは席を離れていました。先生の作品が無事に完成したときには、一緒に楽しみたいと思います。
 それはさておき執筆です。もう逃げられはしません。賽は投げられたのです。わたしが投げた賽なのです。
 とりあえず、鏡やら羊やらはどこに登場させても良いので、メインに置かざるを得ない入れ替わりの状況をどうするかがポイントです。
「先生は、物理的な入れ替わりと精神的な入れ替わりでは、どちらが書きやすいと思いますか? あっ、とりあえず人間同士の前提で」
 物理的な入れ替わりは、『とりかへばや物語』に代表される、体ごと入れ替わるパターンです。対する精神的な入れ替わりは、現代の主流である、心だけが入れ替わるパターンです。
「まあどちらも、似たようなテーマを書くことができるだろう。最近は精神的な入れ替わりパターンが多いが、やはり書きやすいのではないか? 心だけが入れ替わったら、最終的には自分の体に戻ることを考えなければならない。すると話の筋が最後のほうまで規定されるし、自然に山場を作りやすい」
「なるほど、そうですね」
「物理的な入れ替わり、特に男女が入れ替わるのでは、リアリティに無理が生じやすいこともあるだろうな。精神的な入れ替わりのほうは、最初からファンタジー的に脚色できる分の利があるともいえる」
 頭をぶつけたら入れ替わっていた、というのが特に定番です。そこから作品によって、落雷のエネルギーが作用したとか、神社などの霊的なパワーが作用したというような理由づけがされます。しかしいずれもファンタジーの文脈です。
 とまあ、ここまで人間同士が入れ替わる物語をあれこれ思い浮かべてきたわけですが、わたしはある気付きを得ました。
「というか先生、羊と入れ替わる話の線ですけど、確かにお題の帰結としてはベタですが、お題と関係なく見ればあまり類例のない作品になるのではありませんか?」
「ふむ。確かに人間同士の入れ替わりよりは圧倒的に少数だろうな。動物となら、入れ替わりより変身のほうが扱いやすい。動物の精神が移った体がどうなるかは、物語上かなりの負担になるだろう。ファンタジーにはなるが、何かの魔法や呪いで動物と入れ替わってしまうようなものはあるかもしれないな」
「確かに」
「しかしそこで無理をするよりは、普通に人間同士の入れ替わりを考えたほうが可能性はあると思うぞ」
「はい……ありがとうございます」
 先生のアドバイスをもとに、わたしはプロットを考え始めました。とりあえず、人間同士の精神的な入れ替わりを前提に決めてしまいます。問題は、人格以上に何が入れ替わるかです。性別や立場、生活など、このジャンルは様々なギャップを浮き彫りにするところに興味が集まります。
 とは言っても、男性経験に乏しいわたしが異性との入れ替わりを描写できるはずもなく。最も身近なところで考えてみることにします。
 例えば、わたしと先生が入れ替わったら?
 先生は見かけ上、急に社交的で饒舌になります。その一方、大きな魅力であった創作の力をほとんど全く失くしてしまうのです。一方、わたしはたちまち世捨て人になり、編集ではなく自ら創作する道へと歩み出すでしょう。どちらの持ち味も致命的に損なってしまう、最悪の入れ替わりです。すぐに戻らなければなりません。
 ほかの誰かと入れ替わったら?
 最も影響が少ないのは和泉さんだと思います。部内での立場は近いので、一部わたしだけと親しい人との間を除けば混乱は起こりにくいでしょう。
 小野寺さんとの入れ替わりは、なかなかドラマチックなことになりそうです。しかし、先生と同じくわたしが小野寺さんのアイデンティティを損なってしまう感じは否めません。
 朝倉さんとの入れ替わりは……新井くんとの関係が最大の問題です。わたしでは責任を負えません。
 そもそも大学生にもなれば、誰もが自分の積み重ねてきたものの上で自己実現に近づいているわけで、どうしても他人では代替不能な部分があるはずなのです。安易に入れ替わることを考えるのは、相手の否定であると同時に、自分の否定にもなるわけです。例えば主人公が入れ替わりの能力を手に入れて、他人と入れ替わることで欲求を満たそうとするような話も、小学生から中学生くらいの設定が妥当だろうと思います。その設定でもまず破綻する野望なのです。
 ここでもう一つの軸が出てきました。入れ替わりが能動的で積極的なものなのか、あるいは受動的で偶発的なものなのかというものです。ここはどうせなら、能動的な入れ替わりを書いてみたいという気持ちがあります。精神的な入れ替わりは、何らかの事故をきっかけにするのが主流だからです。
 でも、それで結局他人にはなれないというテーマでは、やはりベタの域を出ません。とりあえず今年は、先生に見せても恥ずかしくないくらいの作品にはしたいのです。去年の合宿で半分寝ながら書いた作品は、実のところ真っ当なクライマックスを書くこともできず、散々だったのでした。
 こうして頭を悩ませているうちに、夕食の時間になってしまいました。今年も今のところ断片的な発想が飛び交うばかりで、全然まとまりません。執筆に追われて夜のアクティビティに参加できないのは寂しすぎます。

 夕食は他団体との調整のため、短い時間で済ませることになりました。入ってきた団体は小学生の宿泊研修です。同じ一階の、わたしたちの部屋から手洗い場を挟んだ向こう側の部屋が埋まっています。それは当然、飲酒禁止ということになるわけです。
 十九時を回り、向こう側も賑やかな時間帯ですが、第二の企画が始まりました。わたしは自分の部屋で、橋上さんから説明を聞きます。宿泊室には全員が集まれるような広さの場所がないので、それぞれの部屋で行うようです。
「二つ目の企画は、マスカレード読書会です。マスカレードに出された作品を印刷してきたので、各部屋に配布します。一時間経つまでは、部屋を移動せずに作品を読んでください。違う作品が読みたくなったら、私に申し出てください。そして、少しでも多くの投票をしていただければ……とのことです」
「これは……企画なのか?」
 説明が終わるなり、先生が自然な疑問を投げかけます。
「企画班で、マスカレードの投票数を増やすためにこのような時間を設けることになったそうです。ご協力をお願いします。一応、最初の企画の作品を書いたり、他のことをしても大丈夫です」
 わたしは部長として、それが決まった企画班会議にも出席していました。様々な問題点が指摘されているマスカレードですが、投票数が少ないことは企画の趣旨を揺るがす切実な問題であり、今や完全に企画班員となった新井くんの権限でこの時間が設けられたのです。ちなみに今回は応募作品を増やす必要はないと判断され、小説部門は一人一作品までの制限に戻っています。
 企画と言いながら強制力はないのですが、先生は素直に印刷された作品を手に取りました。その薄さは、詩部門の作品のようです。わたしは小説にアタックします。わたしが看破できないほど冒険すると話していた先生の作品を、なんとしても探し当てなければなりません。
 そこでわたしは、作品の中に異様な分厚さのものがあることに気付きました。ホチキスの針も通らなかったのか、四冊に分けられています。それぞれ最初のページの右上に、『竜騎神ターミネイト』というタイトルと丸で囲った数字が手書きされており、区別できるようになっていました。とりあえず一冊目を手に取ってみます。
 背景は中世風ファンタジーで、竜騎士見習いの主人公が王国侵略を目論む魔王軍との戦いに身を投じるという、王道の物語です。とりあえず一話は、周辺の指揮官や先輩、衛生兵など今後の主要人物になりそうな人たちが出てきて、主人公は初めての任務として敵の小部隊を倒すという話でした。
 四冊目の後ろのほうを覗くと、二十六話が「最終話」となっています。アニメだときっかり二クール、半年分です。この世界観、物語、形式でこれだけの大作を書ける人を、わたしは一人しか知りません。大藤さんです。文体もこの間まで編集していた作品にほとんど一致しています。
 それにしても、この作品をこの時間に読むのは無茶というものです。もっと手頃なサイズの小説がないかと思い、手に取ったのは『あの夏の火と鐘』という中編くらいの小説でした。
 工業大学に通う二年生の女性が主人公で、夏休みに堕落しかけていた同じ学科の友人を連れ出して釣りに挑戦しようとする話です。その過程でなんだかんだ四人になって、準備やらなにやらをやっている様子には強烈な既視感がありました。紛れもない、新井くんの作品です。今回こそコメディチックにしたいという気持ちは見えますが、やっぱり文体が何も変わっていないので、今回も微妙な感じで終わるのではないかと思います。
 次に手に取ったのは、『黄昏の赤ずきん』という短編でした。一瞬、前回のマスカレードの『桃郎』を想起しましたが、内容は全く違いました。
 最初は童話のような語り口で、主人公が赤い頭巾をかぶって祖母の家に葡萄酒を届けに行くという、『赤ずきん』の筋書きをなぞります。しかし、祖母がオオカミに襲われているところの描写で雰囲気は一変します。童話では猟師の手で救出される祖母ですが、ここでは助けもなく、明らかにダメな喰われ方をして、彼女に強烈なトラウマを植え付けるのです。
 それから、彼女は頭巾が喋っているかのような幻聴を聞くようになります。しかもその内容は破壊的なものばかり。まるで彼女自身が、血に飢えたオオカミになってしまったようでした。
 夜な夜な家を出ては、ナイフで家畜を傷つける日々。それが噂になり、彼女はついに両親から疑われてしまいます。こうなれば、やるしかない。人間には刃を向けなかった彼女ですが、頭巾に唆されてついにナイフを両親に向けます。最初は父親に押さえつけられますが、人間としてのタガを外してしまった彼女の力は凄まじく、蹴り上げによって父親から逃れると、形勢は逆転します。しかし、最後は同じく事件を調査していた猟師が家に突入してきて、もはや逃げ場なし。彼女は自ら腹を割いて絶命してしまうのです。童話でオオカミがそうなるはずだったように。
 最後まで迫真の描写に心を掴まれたまま読み切りました。このグロテスクな場面の連続を飽きさせることなく描き切れる人も多くはありません。小野寺さんでほぼ確定ですが、もし本人が作品を出していないとなったら、先生が怪しいところだと思います。
 その後も五篇ほどの小説に目を通しましたが、先生の作品だと確信できるものはありませんでした。残りは四篇です。一旦これまでの予想の答え合わせをしておくという手もありますが、それはマスカレードの趣旨を考えてもフェアではありません。勝負は最後までわからないというわけです。

 二十一時になって、ようやく入浴の時間となりました。小学生の団体は就寝準備の時間なのか、途端に静かになります。通路でもほとんど見かけません。
 身体を洗っていると、隣に小野寺さんが来ました。
「中津さん。マスカレード、浦川さんの作品見つけた?」
 春合宿のときにわたしは小野寺さんに対して、『先生の作品なら、冒頭一文もあれば半分、一段落あれば九割の精度で特定する自信があります』と豪語しました。そのうえ春のマスカレードの作品は、冒頭一文字で特定できたことにしていました(さすがに誇張です)。今回もそのくらいのパフォーマンスを期待されているのです。ただでさえ難易度が上がっている中で、プレッシャーも強まります。
 しかし今は、変に迷っているよりは答えやすい状況で助かりました。
「まだですね。わたしたちの部屋には、回ってこなかったと思います」
「そっか。ちなみに、私も小説出したんだけど……わかった?」
「ありましたね。おばあさんの辺りで、そうかなと思いました」
 本人が望むなら、答え合わせをしてもよいでしょう。これは正解だったらしく、小野寺さんは綺麗な笑顔を見せます。
「嬉しい。中津さんがすごく真剣に読んでたから、ドキドキしてた」
「あれなら、先生の前にも自信を持って出せると思いますよ」
「ありがとう。でも、発表会まで浦川さんには内緒ね」
「わかりました」
 前回のマスカレードでは、発表会でわたしが不審な動きをしたために先生に見破られてしまったのでした。今回はそのような失敗をするまいと思います。先生とてある程度の嗅覚は持ち合わせているので、夏部誌と似た要素を持つ今回の作品を自力で嗅ぎ分けるかもしれませんが、そのときはそのときです。
 一方、先生は今年もいつの間にか音もなく上がってしまう……というわけではありませんでした。なんと湯船の隅に腰掛けて、橋上さんと何やら語らい合っています。気になりますが今は邪魔をせず、後から聞き出すことにしましょう。
 恋愛話の大好きな三年目のお二人は、例によって朝倉さんや武藤さんに詰め寄って、近況を根掘り葉掘りにしているようです。二組とも、もう一年になる関係です。
 どちらに入っていく気もしなかったので、わたしはそのまま小野寺さんとの会話を続けることにしました。
「小野寺さん、三題噺の調子はいかがですか」
「なんか書けそう。小説だと時間かかるから、詩にしてみようかと思ってる」
「なるほど」
 臨機応変にスタイルを変えられるのは、他のメンバーにはない強みです。内心少し停滞していることを期待していたわたしですが、そんな期待は持たないほうが良かったと思い知らされます。
「中津さんは? 入れ替わりだっけ」
 こうして絶対、自分に返ってくるのですから。
「残念ながら、まだ一文字も。難しいシチュエーションですよ」
 こればかりは誤魔化せないので、正直に答えます。
「難しいのはわかる。なんか、入れ替わりって自分の中に相手が入ってくるから、好きじゃない。それなら変身のほうがいいかなって」
「そうですよね」
 これは現実の話ですが、現実に抵抗感があると、小説にも書きにくいということだと思います。
「パラレルワールドの自分と入れ替われないかな、とかはたまに思う」
「ほう?」
 それは大きなヒントでした。鏡、そして羊という二つのアイテムと合わさり、一つの物語のイメージが出来上がります。その一瞬の間に、小野寺さんもわたしに訪れた閃きを察してくれたようです。
「使ってもいいよ」
「ありがとうございます、今年はゆっくり眠れそうです」
 部屋に戻ってすぐ、パソコンを立ち上げて浮かんだ構想を文字に起こしました。一晩寝かせて見直せば、めでたくプロットの完成です。

 翌朝は起床時間に音楽が鳴り出すこともなく、施設全体の朝の集いなどもなく、非常に静穏な目覚めとなりました。わたしの部屋には夜更かしをしない人が集められたわけですが、他の部屋も昨晩は比較的早く、日付の変わる頃までには寝静まったようです。
 今日も爽やかに晴れています。恒例のハイキング、そして短歌企画が予定されていますが、問題なく決行できそうです。去年のように突然雨が降る心配もありません。
 朝食を終え、部屋で出発の時刻を待つことになりました。今年は九時出発です。待ち時間は長くありませんが、わたしは寝かせていたプロットを見直していました。
「橋上さん、お弁当取りに来て」
「はい」
 外から新井くんに声を掛けられ、橋上さんが出ていきます。間もなく、四人分のお弁当を抱えて戻ってきました。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 おにぎりが二つと沢庵が二枚、魚肉ソーセージが一本と、ペットボトルのお茶です。持って行くように言われましたが、お昼まではかなりの時間があります。
「橋上さん。今回のハイキングは、どこへ向かう予定なのですか?」
「道路の上のほうにある、トトロ峠ですね。どのくらいかかるかはわかりませんが、お弁当は一応持って行くとのことで」
 有名なアニメを想起させる地名です。スマホで調べてみると、ここから三キロ弱の道のりでした。着いた先はただの展望台で、おおよそ昼まで時間を潰せそうな要素がありません。
「なるほど……」
「あとは短歌ですね。午後から短歌企画を行うので、道中考えてみてください」
「今年は短歌限定ですか?」
「そうですね。ハイキングを題材にした短歌を作ってください」
 忙しさであまり気に留めていませんでしたが、新井くんは昨年の合宿以降も、細々と短歌や俳句の企画を続けていました。確か、昨年末には短歌、今年の六月頃には俳句をやっていたような気がします。前に話していた『多角化戦略』の達成に近づいているのかは、どうにも不明ですが。
 九時になると、小学生の団体も出発の時間となり、正面玄関の前で退館式などをしていました。その整然とした様子とは対照的に、大学生のわたしたちはあっという間にまばらな列となり、三々五々、目的地へ向けて歩いていきました。
 わたしはいつも通り、先生と歩きます。目的地が峠ということで、曲がりくねった上り坂が続きます。平野から山へ差し掛かるところなのでしょう。道路の脇には果樹園などもあり、まさに真っ赤なリンゴがたくさん実っているところでした。
「余市もこんな感じでしたか?」
「ああ。ここも収穫時期だな。品種によって違うが、九月から十月がピークだ」
「今が旬なんですね」
「しかし、リンゴは非常に病害虫の影響を受けやすい。無農薬で何の対策もしなければ、商品になるものがゼロと言っていいほど獲れなくなる。余市でも、病変した幹を削ったりして、なんとか生かしているという感じだった。ほら、あそこにも削った跡があるだろう」
 先生が指で示した木には、確かに削ったような褐色の跡がありました。
「見えました。幹の内側があんな色なんですか?」
「いや、削ってから薬品を塗っている。だからああいう色に見えるんだ」
「裏では、そのような苦労があるということですね……」
 最近では、そのような苦労の末の農産物であるということをストーリー仕立てにして、付加価値を高めようとする動きもあるようです。文芸としてはかなり実用的な部類だと思います。
 もう少し行くと農業体験施設のようなものもありましたが、その辺りから道路上に何か飛び交うものが目に付くようになりました。
「先生、これは……」
「バッタだな」
 今年も虫の群れに遭遇してしまうとは。進むほど群れは密度を増して、正面から飛び掛かってくることもありました。ここを車が通ったら、さらなる地獄絵図になってしまうことでしょう。
「やっぱり米とか食べるんですかね?」
「全部のバッタ、あるいはイナゴがそうというわけではない。米を食害するバッタの代表はトノサマバッタだな。これはもう、世界的にそうだ」
「聞いたことがあります。群れで押し寄せるんですよね」
「ああ。日本、特に北海道では滅多に出ないのだが、明治時代に大発生したことがあるらしい。それを駆除して、埋めて処分したところをバッタ塚という。札幌にも一か所ある」
「塚ができるほど、壮絶な戦いが繰り広げられたということですか」
 そんな歴史を思えば今、この路上で跳ねまわっている程度はかわいいものなのでしょう。実際、マイマイガよりは高くを飛ばない分、安全でもあります。
「まあでも……これは今年の短歌は、バッタばかりですね」
「そうだな」
 やがてバッタの群れを抜けたと思われたところで、道路の右側に虎色のプレハブのようなものが見えました。脇には先を行っていた人たちが集まっています。
「あそこみたいですね?」
「ああ」
 プレハブのように見えたものは、近づいて見ると廃バスでした。正面には猫の顔、そして側面には複数の脚がペイントされています。この場所の名前から連想されるアニメには、ちょうどこんな猫のバスが登場したのです。
「戸外炉峠……ですか。ちゃんとした地名だったんですね」
「それはそうだろう」
 しかし、もう少し先に展望台があるくらいで、ほとんど何もない場所です。そして時間は十時にもなっていません。尺余りも大概です。わたしはそこにいた新井くんに尋ねました。
「ここで本当に、お昼まで過ごす予定ですか?」
「ああ……思ったより近かったし、何もなかったな。これなら戻って、昨日の執筆の続きでもしていたほうがよかろ。みんな来たら説明するで」
「はい」
 結局、全員集まったところで現地解散となり、短歌のネタ集めにとどまるもよし、すぐに帰るもよしとなりました。とりあえずわたしは、展望台までは行こうと先生を誘います。
「これでは本当に、バッタで短歌を詠むしかないな」
「まあまあ。案外眺めはいいかもしれませんよ」
 峠と言うよりは小高い丘という感じで、展望台の柵の向こうには、ひたすら平坦な田園が広がっています。わたしはその場で全身をぐいっと伸ばして、深呼吸をしました。
「平野だからか、高さのわりに遠くまで見えるな」
「そうですね。いい眺めじゃないですか」
「だが……印象的だったものは?」
「バッタの群れ、ですけど……」
 先生は風流というものがわかるのか、わからないのか。試してみたくなります。
「では先生、ここで一首」
「短歌はあまり、即興で作るものではないと思うのだが。まあいい。『腐乱病削りし幹の褐色や玉の熟せじ白露の朝』」
「ほう……リンゴですか」
 道中見たような光景です。「玉」というのがここではリンゴのことなのでしょう。しかし、「熟せじ」という打消の形になっています。そこに「白露」を置くとは、悲愁を感じるチョイスです。
「これ、よく考えると悲劇的な歌じゃないですか?」
「先人の苦労を偲んだ歌だ。だから文語調にした」
「なるほど……」
 農家の病気や害虫との戦いは、昔ほどひどいものではないと思いますが、今でも続いています。農学部でその過去や現在を学んでいる先生には、この田園もわたしとは違った見え方をしているのでしょう。
「でも、先生だってこの景色を題材にしないじゃないですか」
「バッタでなければいいだろう」
 いずれにせよ、先生はこれでノルマ達成です。それ以上余計に景色を眺めているということもなく、一人で揚々と帰ってしまいました。
 バスのところへ戻ると、小野寺さんや朝倉さん、そして新井くんがいました。新井くんが、後部の窓にスマホを掲げています。写真を撮っているようです。
「中に何かありますか?」
「いや、座席は全部外してある。本当の廃バスやな」
 撮ったばかりの写真を見せてもらいましたが、確かに内部は空っぽです。タイヤの真上の盛り上がった部分は露わになり、押しボタンのあったところからは配線が飛び出しています。
「このオブジェのために、廃バスを買い取って……不思議ですね」
 珍しいものは見ることができましたが、わたしもこれでいよいよ、することがなくなってしまいました。三人はこれから、展望台を見に行くようです。
「浦川さんは?」
 メモ用なのか、リングノートを抱えた小野寺さんが尋ねてきます。表情は少し寂しげでした。わたしが先生を占領していたので、チャンスを窺っていたのでしょう。
「言いにくいですが……短歌ができたので、一人で戻ってしまいました」
「……ずるい」
 そう言い残して、とぼとぼと歩き去ってしまいます。わたしはもう少し先生を引き留めておくべきだったと思いました。
「中津ちゃんは、もう帰るの?」
「そうですね。昨日の続きもありますし……」
「気を付けてね」
 展望台へ向かう朝倉さんと新井くんを見送ってから、わたしは坂道を下り始めました。肝心の短歌は……午後の企画までに考えることにします。

 施設は他の団体がいなくなり、また最初のように静寂の空間でした。男性陣も数名しか戻っていないようで、文芸部の領域からも物音は聞こえません。
 部屋に入ると、先生はベッドにノートパソコンを置いて佇んでいました。寝そべって執筆をしていたような雰囲気です。目が合ってしまって、若干気まずくなります。
「案外早かったな。短歌はできたか?」
「これから考えます」
「人に即興をさせておいて」
 すると先生は横になり、キーボードで文字を打ち込み始めました。
「先生、それが普段の執筆スタイルですか」
「いや……机がないのでな。不便で仕方ない」
 確かにこの部屋には、四人分のベッドしかありません。これが普段の姿でなくて良かったと思います。こんな姿、小野寺さんにも橋上さんにも見せられません。
「そう言えば、昨日は橋上さんと何をお話していたのですか?」
 浴室でのことです。それはもう、今晩ですら見られるかどうかわからない貴重な光景でした。
「わたしが読んだ本に、興味があると言うのでな。『鼻行類』の話をした」
 聞き覚えのあるタイトルですが、決してポピュラーな本ではなかったと思います。
「それは……橋上さん、どんな反応でしたか?」
「面白がっていたよ。案外、本は幅広く読んでいるらしい。今度読みたいと言っていた」
「それなら、いいですけど」
 先生と話すには、変な本の話から。こんなことだから、「近寄りがたい」と思われてしまうのですが。
「先生って、流行りの作家とかは全然読まないですよね」
「多少は読んでいるぞ。芥川賞、直木賞、本屋大賞あたりはチェックしているし、候補作からつまんでいる。まあ、どうにも最新の価値観で書かれた作品は、肌に合わないと感じることもあるがな」
「橋上さんの好きな作家とか、聞きましたか?」
「聞いてない」
「はあ……」
 傍目には珍しい光景でしたが、その実わたしには見慣れた一方的なコミュニケーションが展開されていたのです。
「なんというか、それでよく、自分から変わっていこうと思えるものだなあと」
「どういう意味だ」
「安心してください。感心してますよ」
「まったく」
 先生は文芸に関する向上心を、ほんの少しでも他のことへ向けるべきだと思います。そのくらいしても、先生の文芸は揺らぐはずがないのですから。

 十一時前になると、皆さん続々と戻ってきました。誰が言い出したのか、昼までテニスをするという話になっていたので、執筆はわずかに進んでいたところでしたが、わたしも外に出てみます。先生は「気が向いたら行く」と言いましたが、期待しません。
 二面あるテニスコートの一面では、早くも高崎くんと大藤さんのラリーが始まっていました。球の跳ねる音が小気味よく響く真剣勝負です。ちなみに、球は硬式でした。
 もう一面では、小野寺さんと武藤さんが対峙しています。こちらは比較的カジュアルな雰囲気でした。橋上さんが審判の高い椅子に座っています。
 こういうときは新井くんの姿もありそうなものでしたが、朝倉さんともどもいませんでした。
 わたしはとりあえず、橋上さんの後ろあたりに陣取ります。
「武藤さん、サービスお願いします」
 橋上さんの合図で、武藤さんは位置につくと、球を頭上へ高くトスしました。そして、ラケットが空を裂き、強烈なサーブが……とはならず、空振りです。球は地面に落ちます。
「フォールトです」
「ごめんごめん、やっぱ見様見真似じゃあかんね。普通に打つわ」
 武藤さんは笑いながら球を拾い、構えなおしました。今度は下手のサーブです。これはネットを越え、小野寺さん側の中央付近に入りました。小野寺さんはそれを難なく打ち返しますが、こちらはフェンスに当たるほどのアウトになってしまいました。
「ちょ、望海ちゃん力入りすぎやって」
「ごめん、あんまりやったことなくて」
 初心者同士の対戦は和やかに進みました。お互いに勝敗など気にしていない雰囲気ですが、一応橋上さんは得点のカウントを続けています。ラブ、フィフティーン、サーティ、フォーティ。スポーツの中でも異質なカウントを聞いていると、ある一つの閃きが去来します。
 テニスのゲーム開始と掛けまして、付き合い始めたばかりのカップルと解きます。その心は……どちらも「ラブラブ」です。
 我ながら、なんとくだらないことを閃いてしまったものかと思います。勝手にテンションが下がります。
「中津さん、橋上さん、交代する?」
 そうしているうちにゲームが終わったようです。
「や、やります」
 わたしは小野寺さんからラケットを受け取り、コートに入りました。こうなればもう、思い切り動いてテンションを上げるしかありません。
 しかし、所詮はほぼ未経験の初心者です。闇雲にやってもラリーが続くはずもなく、ゲームは大して盛り上がらずに終わってしまいました。
 そもそも女性陣に経験者がいるのかと言えば、いなかったのです。ダブルスにすることで守備範囲が狭くなって少しは改善しましたが、最終的には男性陣の白熱した打ち合いを見ているほうがエキサイトするという結論に至りました。

 先生は最後まで来ませんでした。戻ってみるとパソコンを起動させたまま、わたしにも気付かず居眠りをしていたのです。せっかくなので、小さく口を開けた先生の寝顔をじっくり鑑賞させてもらいます。
 これは普段の執筆スタイルでないと主張していた先生ですが、本当のところはどうなのか。ベッドの上であまり仕事をしすぎると、不眠症になってしまうとも聞きます。その点では、先生は健全なのでしょう。
「開けるよ」
 外から声がします。
「はい」
 小野寺さんと橋上さんも戻りました。先生が寝ていることを察して、静かに入ってきます。
「浦川さん……寝落ち?」
「ぐっすりです。企画まで寝かせてあげましょう」
「ちょっと、隣にお邪魔してきます」
 気を遣ったのか、橋上さんはお弁当を持って、速やかに部屋を出ていきました。小野寺さんも続いて部屋を出ようかと一瞬迷うように橋上さんを二度見しましたが、留まることにしたようです。
 企画までは四十分もあります。わたしは小野寺さんとこの場で昼食を取ることになりました。先生は、わたしたちがいない間に食べたものと思っておきます。
 初日のように、食べるときは黙々と食べるもので、部屋には食品パックをはじく音や、時折回る先生のパソコンのファンの音が響くくらいでした。
 ややあって食べ終わると、小野寺さんはリュックから峠で持っていたリングノートを取り出しました。それからペンケースを開いて、鉛筆と消しゴムを手に取ります。
 スケッチです。安らかな寝息を立てる先生を前に、小野寺さんは顔をやや紅潮させ、手を震わせながらもスケッチを始めたのです。
 なんと、禁断の美しさを帯びた時間であることか……。
 わたしは暫し、小野寺さんに見とれてしまいました。それに気付いた小野寺さんは、「口にチャック」の仕草を見せます。「静かに」そして「先生には秘密」ということでしょう。そのいじらしさは、わたしまでじわりと汗をかくほどです。

 蜜秘めし果実に染むる白露の香の立ち昇る秋の朝明け

 そんな歌が自然と浮かんできます。今、先生が目覚めるのはもちろんのこと、外から誰かが来ても大変なことになりそうです。小野寺さんの額にも汗が滴り、表情には真剣さと大きな緊張感が窺えます。
 果たして、天運は……味方したようです。
「できた」
 小野寺さんは無邪気にも満面の笑みを浮かべて、完成したスケッチをわたしに見せました。
 簡略化しながらも、先生の凛々しい顔立ちが緩んだ様子を的確に描き表した、見事な一枚です。わたしは両手を合わせて感心の意を示しました。この絵は二人の秘密として、永く忘れがたいものになるでしょう。
 そんなこととはつゆ知らず、先生は短歌企画が始まる直前まで、すやすやと眠っていたのでした。

 今年の短歌企画は匿名で作品を並べて投票する形式ではなく、最初から作者を公開し、感想カードを送り合う形式でした。作品を提出して、橋上さんが清書をした後は、新井くんの講評もなく自由時間になってしまいます。並べられた短歌を見ると、やはりバッタ、次点で田園の景色を詠んだ歌が多くありました。リンゴを詠んだのはわたしと先生、そして新井くんだけでした。
 先生は起こされたタイミングが悪かったのか、定期的にあくびをしていました。
「先生、お疲れですか?」
「マスカレードに冬部誌にと、九月に入ってから急に捗り出したので、最近はあまり寝ていないんだ」
 先生の執筆は夜型です。寝る前に書けるだけ書くので、調子が良いときには日付を跨ぐこともあるそうです。
「冬部誌にも別の作品を準備していると?」
「ああ。そちらは多分、普段に近い作品になるだろう。マスカレードに出したものは、話したと思うが実験的な作品だ。機会があれば合評には出したいと思うが、部誌に出そうとは思わない」
「なるほど」
「して、わたしの作品は探し当てられたか?」
「まだです。それらしいものは見かけていません」
「そうか。まあゆっくり探すといい」
 マスカレードについては、相当に実験的な作品ができたという自負があるようです。わたしは先生が夜を徹して書いた会心の作品を、必ずや探し当てるという気持ちを新たにしました。
「ところで、また随分と耽美的な歌を詠んだものだな。どこから仕入れてきた?」
 一方、先生も普段のわたしと違う臭いには敏感です。
「そ、それは……」
 間違っても、小野寺さんとの秘密の時間に得られた歌だということは言えません。仄めかすのもダメです。
「なんというか、リンゴって禁断の果実と言われることもあるじゃないですか。そういうところから始まって、わたしもちょっと冒険してみたというわけです」
「そうか」
「はい……」
 やり過ごせたのかどうか、微妙な反応です。小野寺さんとの秘密が漏れるのはいつもわたしからです。わたしは先生に隠し事ができないのを、そろそろ克服しなければならないと思います。
 ちなみに、小野寺さんの短歌はあの猫バスから発想を得たものでした。

 金色の猫の夢見る廃バスは風の道筋夜ごと駆け跳ぶ

 懐かしい映画のワンシーンを彷彿とさせる、微笑ましい短歌です。先生の目には留まらなかったようですが、他の女性陣には人気だったようで、感想カードをたくさん集めていました。
 わたしも上年目中心に五枚ほど感想を頂いたり、お返しに書いたりしましたが、やはり意識はまだ終わらない昨日からの執筆に向いていました。
「……よし、こんなものか」
 あるとき、隣で先生が息をついて呟きました。大方何があったかの見当はつきますが、様子を探ってみます。
「先生、完成しましたか?」
「ああ。読むか?」
 一応、明日は書いた作品の合評も予定されていますが、四人くらいのチームに分かれて行うので、先生と一緒になる保証がありません。そうなれば、帰って作品がメールドライブに上げられるまでお預けです。
 そして今回は、「ラブラブ」という状況(テニスではありません)が示す通り、先生が滅多に書かない恋愛シチュエーションを書いているのです。これはもう、読まない選択肢はありません。
「……はい。読ませてください」
「ほら」
 先生はノートパソコンをわたしのほうへ寄せてくれました。タイトルは『熱帯夜』です。
「先生、これは……」
 出てきたのは二人の少女。なんと血のつながらない、同い年の姉妹です。親の帰りが遅い、二人きりの夜。暑さと物足りなさで眠れない夜。年齢は明言されていませんが、第二次性徴の本格化してくる頃。開幕でこれだけの情報が明かされて、ここから「ラブラブ」が始まるというのです。
 そこで浮かんだのは、「耽美的」という言葉です。ちょうど先ほど先生がわたしの短歌を評した言葉と同じでした。
「わたしが寝ている間に、覗いたのではなかったのだな」
「ええ、覗いてはいませんが……」
 それで先生は、わたしの短歌の出所を探ろうとしていたのでした。小野寺さんとのことが感づかれていなくて、本当に良かったと思います。
「それにしても今回は、攻めてますね」
「そうか? どのくらい、攻めていると思う?」
 とりあえずそれは与えられた状況に対するモチーフの選び方について言ったものですが、読んでいくと意外に、先生らしい地に足の着いた物語であることに気付かされます。
 姉の恋愛話に始まり、保健体育で習ったような断片的な情報から、その極みにある行為を想像する二人。互いの体に起こりつつある変化を見つめ合い、鏡で観察してみたり。火照った体を保冷剤で撫で、一番気持ちの良いところを探してみたり。次第に、二人の行為は想像の遊びから現実の快楽へとエスカレートしていき……。
「先生は、こういう描写は書かないものだと思ってましたが……しかし意外と、不思議と普段の先生を感じます」
「ふむ。そんなものか」
 不易流行と言えば松尾芭蕉ですが、先生もそのようなスタイルです。新しいものを取り入れても、どこかに代わらない部分があるはずなのです。これはマスカレードの作品を探し当てるうえでも大きなヒントだと思います。
「わたしの作品も、完成したらお見せします」
「わたしが寝ていなかったらな」
「さすがに今回は、そこまで掛かりませんよ」
 思い返せば昨年は、夜の宴会が終わった時点で固定の一文目しかない状態だったのです。そこから見れば、プロットがあって書き始められている今年は大いに勝機があります。この企画の時間も残り二時間ありました。
 美術準備室に置かれた、古い姿見。掃除当番の後、忘れ物を取りに来た主人公は、その姿見に映る自分が違う動きをしていることに気付いてしまう。声は聞こえないが、助けを求めている様子。主人公が恐る恐る姿見に手をかざすと、ようやく声が聞こえた。向こう側にいるのは「世界史で赤点を取ってしまった」自分。追試験が明日に迫っているという。こちら側の自分は、辛くも赤点を回避していた。自分の頼みなら、見捨てるわけにもいかないだろうか。悩みつつも主人公は、向こう側の自分と入れ替わることを決める。それは、主人公のひと夏の数奇な物語の始まりだった……。
 と、こんな感じの学園ものです。結末までの道筋も概ね通っています。主人公は自分の失敗も他の世界線の自分に解決してもらうなどして様々な自分との交流を持つのですが、やがてどんな失敗もしていない完璧な自分はいないのかと探し始めます。その自分と入れ替わることができれば……と思っていた矢先に入れ替わったのは、逆にこれまで解決してきたすべての失敗を通ってきた自分でした。その自分は成績も友人関係も生活もかなり荒廃してしまっていて、生きる希望すら失いかけていました。そんな自分が入れ替わりを求めてきたのは、もはや助けてもらうことではなく、入れ替わることそのものが目的だったのです。姿見は向こうから破壊され、ただの鏡に戻ってしまいます。絶体絶命。果たして元の世界線に戻れるのか、という筋書きです。
 しかし、今のところもう一つのアイテムである羊を全く使えていません。とりあえず伏線として使えるように、主人公の夢の中に登場させています。しかも、別の世界線の自分を助けるたびに数が増えていくのです。これを上手くラストシーンに合流させたいところです。
 結局その二時間は、失敗を続けた自分に騙されるところまで書き進めて終わりました。我ながら上出来ではありますが、油断はできません。最後がまとまらないことは無限のリスクなのですから。

 夕食の後、今日は他の団体が入らずすぐに入浴時間となり、その後には恒例の宴会もありました。会場として和室が貸し出されたものの、飲酒禁止に短い時間制限も相まってあまり盛り上がらず、早く宿泊室に戻って自由時間にしようという話になりました。
 男性陣の部屋でこれまた恒例のカードゲームや人狼などが始まりましたが、わたしはちゃぶ台のあるリーダー室にお邪魔して、先に原稿を片付けてしまうことにしました。橋上さんも一緒で、パソコンを持ち込んでいないため昔ながらの原稿用紙に手書きしています。お題は「ストラップ」と「水族館」だそうです。
 さすがに橋上さんの集中力は素晴らしく、わたしも自然と気が引き締まりました。しかし、失敗続きの世界線に取り残された主人公が自身の企んでいたことの愚かしさを知って反省したところで、手が止まってしまいます。どうにか脱出させなければならないのですが、納得のいく方法が見つからないのです。
「中津さん、お先に失礼します」
「はい、お疲れ様です」
 とっさに返事をすることしかできませんでしたが、橋上さんは先に作品を完成させて部屋を出ていきました。代わって新井くんが入ってきます。橋上さんの原稿を持っています。
「それ、橋上さんの作品ですよね?」
「ああ。明日の合評は基本的にパソコンのファイルでやり取りするから、今から打ち込むわけよ」
 四百字詰めで二十枚ほどあります。いくら新井くんがタイピングに慣れていると言っても、なかなかの量だと思います。
「わたしも手伝いましょうか?」
「終わってないなら、自分の作品優先しいや。向こうも終わってない人ばっかりでゲームもしてないから、俺はすることないんやって」
 退屈なのは本当のようです。話している間にも打ち込みは始まり、新井くんの指は動き続けます。
「ちなみに朝倉さんは?」
「終わってない。部屋に戻ってもうたし」
 口調に少しの苛立ちが見えました。今回は、そこには踏み込まないでおきます。
「それではちょっと、わたしの相談に乗ってもらえますか」
「なんや?」
 せっかくの機会なので、新井くんのアイディアを貸してもらうのも悪くない方法だと思いました。わたしは今の状況を説明し、ラストシーンをまとめる方法を尋ねます。
「その夢に出てくる羊は、エントロピーみたいなものちゃうんかな。羊が助けてくれるっていうのは甘い考えで、やっぱり助け合ってた世界線の自分たちも道理に背いたことをしとるのは同じやろうし、例えばその最悪の世界線からは他の世界線の自分が助けてくれるとしても、もう一悶着あるというのはどうやろか?」
「なるほど。エントロピー、つまり羊が増大すると、どうなるのですか?」
「SF的な感じで行けば、タイムパラドックスが起きて全部の世界線がめちゃくちゃになるとかやろな。それを消してくれるのは、マクスウェルの悪魔か、インキュベーターやで」
「インキュベーターって……魔法少女ですか」
 とりあえず契約するのはインキュベーターではなく、マクスウェルの悪魔にします。新井くんのアイディアを拝借して、筋書きを少し書き換えました。
 最悪の世界線に取り残された翌朝、突如世界が崩壊を始めます。世界のあらゆるものが歪み、うねり、ブラックホールのような闇が時空を飲み込んでしまったのです。それは、元々この世界にいた自分が、余りにかけ離れた世界線へ移ってしまったせいで、エントロピーが許容値を突破してしまったためでした。闇の中で主人公は、これまで助けてきた世界線の自分たちと再会します。そこへ現れる悪魔。主人公は悪魔から真実を聞かされ、「助かりたければ全てをもとに戻すしかない」と告げられます。たとえ小さな一つの改変、一頭の羊であっても、一歩間違えば誰かを永眠させかねないのです。主人公たちは葛藤しますが、最終的には諦め、前向きにありのままの人生を歩んでいこうと決心し、悪魔の要求を受け入れます。これで、めでたしめでたしです。
「新井くん、ありがとうございます。お陰でもうすぐ書き上げられそうです」
「それは良かった」
 ちなみに新井くん自身は「お面」と「三分後」が当たったそうです。女の子が親戚の大学生のお兄さんと夏祭りに出かけて、最後には三分間の星の軌道の写真を撮るという一見ハートフルな物語なのですが、読んでみると描写の端々に何故か「事案っぽさ」が感じられる珍妙な作品でした。安定の新井くんクオリティです。

 それにしてもわたしはウィニングランに入り、新井くんが橋上さんの原稿を打ち込み終えるのとどちらが早いかを競うつもりでいました。そんなところで、部屋の扉がノックされます。
「俺が出るで……おや、小野寺さんか」
 新井くんが扉を開けると、小野寺さんが一冊の原稿を手にして立っていました。
「中津さん、いる?」
「おう。入って」
 手にしていたのはマスカレードの作品です。わたしはもしやと思いました。
「小野寺さん、それは……」
「これ、昨日読んでないでしょ。多分、浦川さんの作品だと思うんだけど……どう思う?」
 突きつけられた原稿。先生からの挑戦状が、小野寺さんからの挑戦状と一つになった瞬間でした。
 タイトルは『肺活量スキルで異世界素潜りスローライフ』です。一目でライトノベルだと見当がつきましたが、この時点で普段の先生とはおおよそかけ離れたジャンルです。
 最初の段落は、主人公が海中で銛を片手に漁をしている描写でした。しっかり主人公の一人称で書かれていて、全身を包む水の感覚や、銛を握る手の力加減など、細部にまでこだわりが見えます。それでいてくどくない、力を感じる書き出しです。
 しかし、これではまだ先生と断定するには足りません。もし作品を出していれば、明石さんもこれに近い作風だったと思います。一方でまだ読んでいない作品は少なく、これまでの情報を当てにすれば、この作品が先生のものである可能性も大いにありました。
 小野寺さんの期待の眼差しが突き刺さります。そのとき、わたしの答えは――。

十七 稲穂

 夏の熱気は段々と北風に押し流され、半袖ではいられない季節になりました。その日はマスカレードの発表会がありましたが、わたしは少し早めに先生と合流し、二人で南側から農場を貫くポプラ並木を通ってサークル会館へ向かっています。
「ちょうど昨日、そこで稲刈りをしたよ」
 ポプラ並木の脇に水田があります。先生の示したところは稲が綺麗に刈り取られ、残った茎が整然と並んでいました。
「品種は?」
「ゆめぴりかだ。今はあそこに干してある」
 並木の反対側には青いネットを掛けられた稲架があり、稲の束が藁葺き屋根のように並んで干してあります。たくさんの粒が寄り集まった稲穂は、さすがに太い鉄パイプで組まれた稲架をたわませるほどではないにせよ、見かけにも豊かな重みを感じます。
「お米は食べられるわけじゃないんですね」
「そうらしいな。何週間か乾燥させて、脱穀、籾摺り、精米……として初めて見慣れた白米になる。その作業は農場の職員がやって、米は学内で職員に販売するらしい」
「ほう」
 学部に配属されて半年、先生は専門の授業だけはこの上なく満喫しているようです。
「そういえば、研究室に配属されるって話してましたよね?」
「来年からだな。だが……この間話を聞いたら、今は花卉の研究を専門にしている教授がいないという。同じ研究室では造園や公共緑地の研究が主だとか」
「なるほど。やっぱり理系だと、教授が何をやっているかって重要なんですね?」
「ああ。卒論を書くだけならどうにかなるかもしれないが、やはり設備や学会なんかの問題が出てくるらしい。というわけで、今は他の研究室も視野に入れている」
 その点で文系は、テーマの縛りは比較的緩いと思います。姉は卒論を書いていたとき、文献を手に入れるために各地の図書館に出向いていましたが、要は設定したテーマのために必要な資料が手に入ればよいのです。
 それにしても、わたしはまだそこまで先のことを考えていません。来週からは後期新歓も始まるわけですが、既にポスターなどの準備はできていますし、心配事と言えば北上しつつある台風が、北海道に上陸するのかどうかくらいです。
 ……まあ、厳密には今日とても重要な勝負の結果が出るので、それは何よりの心配事でした。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな……って、元は俳句なんですかね?」
 一般にはことわざで、老成してもなお謙虚であり続けることをいう、これまで思い上がっていたわたしにもぴったりな言葉です。
「さあな。いつの時代の言葉なのかもわからないが、どちらかと言えば近現代の標語ではないか?」
「そんな感じもしますね」
 車は急に止まれない……みたいな。もうすぐ受ける予定の自動車免許の試験でも、慢心は厳禁です。
「おや、あそこの水田は、稲が倒れてしまっていますね」
 先生が稲刈りをしたところから二つ隣の水田では、まだ成熟した稲穂が揺れていました。しかしその中央部に、何か十メートルくらいの生物が寝転がったかのような跡があります。
「先週の台風だろうな。痛ましいものだが、これでは収量にならない」
「場合によっては、ミステリーサークルに見えそうですね」
「ふむ。UFOがここに着陸したとでも言うのか」
「まあ、水田に着陸してしまった日には、もう飛べないでしょうけど」
「傍に広い草地もあるというのに、間の抜けた宇宙人だ」
 ポプラ並木を抜けると同時に、水田の区画も終わりました。北側には見慣れた白黒の乳牛が放牧されています。放牧地はひたすら平坦で、野球場くらいの広さはあると思います。そこは通り抜けられないので、一度西側の道路へ出ることになります。
「先生の学科では、畜産や酪農はやっていないんですか?」
「そうだな。畜産科学科がある。だが、実習では牛舎、豚舎、鶏舎を一通り見学できたよ」
「へえ。素人目線ですが、見学できただけでも貴重な体験ですよね」
「まあな」
 さて、道路に出たところでいよいよ目を引くものがなくなってしまいました。ここからはもう、マスカレードの発表会を意識せざるを得ません。先生はともかく、わたしはそうです。場合によってはこれまでずっと先生の編集をしてきたアイデンティティが揺らいでしまうのですから。
「ところで、わたしの作品はどれかわかったか?」
「……」
 いつもなら「はい、もちろんです!」と即答するところでしたが、言葉が出ません。
 合宿二日目の夜、小野寺さんに突き付けられた『肺活量スキルで異世界素潜りスローライフ』を、わたしは先生の作品ではないと判断しました。小野寺さんはその作品が先生のものだと考えていたので、その場のノリで勝負することになったのです。賭けたものは高々アイスクリーム一つですが、もちろん本質は先生を慕う者同士のプライドの勝負です。わたしが負けた日には、もう先生に顔向けできなくなってしまいます。
 そしてどうにも自信が持てないのは、他に先生の作品と断言できるものがなかったからなのです。小野寺さんと勝負した時点で読んでいない小説は三篇ありましたが、後から読んだところ、そのどれも先生のものとは思えませんでした。やはりあの作品が先生のものだったのでしょうか。焦りが生じると目は急に曇るもので、既に読んだ作品も、果ては『肺活量スキル(以下略)』すらも、先生の作品には見えなくなってしまったのです。
 もしや、「先生は作品を出していない」というのが答えなのでは……?
 そんな疑念すら持って、わたしは先生の後ろを歩いています。
「ふふ、どうやら相当、疑心暗鬼になっているようだな。わたしの試みは成功したか」
「そうですね……実を言えば、小野寺さんと勝負しているんです」
「なるほど。小野寺も合宿のとき、何やら必死にマスカレードの作品を読んでいると思っていたが、そんなことだったのか」
「ですから、結果は後で教えてください。今のところ、小野寺さんの予想は『肺活量スキルで異世界素潜りスローライフ』で、わたしの予想は『スノードロップ』です」
「……そうか」
 少しの間があり、わたしの心臓が跳ねます。それは確実に、どちらかが正解しているというしるしでした。
「では、楽しみにしているといい。何かしら入賞したら名乗り出るが、それは大丈夫だな?」
「はい。たとえ予想が外れていたとしても……先生の作品が入賞することを願っています」
「ああ」
 そんな先生の前で、わたしはもはやいつものような軽口を叩くなど思いもしませんでした。
 ちなみに『スノードロップ』は、合宿の初日に読んだ作品の一つです。高校生の恋愛を描いた物語で、主人公の女子が憧れる華道部の先輩にもらったスノードロップの花を愛でながら、遠距離恋愛に思い悩むという作品です。わたしは当初それが橋上さんの作品ではないかと思っていましたが、合宿の企画での二人の作品を加味して考え直したのです。腕が確かなことは感じられたので、勝算がないわけではありません。

 発表会の会場になっている一室に入ると、先に来ていた小野寺さんが駆け寄ってきました。
「中津さん。浦川さんの作品まだ聞いてない?」
「お互いの予想は伝えましたが、正解については何も聞いていませんよ」
「じゃあ、勝負は正々堂々ね」
「はい」
 なんというか合宿以来、小野寺さんがわたしの立場を狙っているような感じがしています。小野寺さんがこの勝負に懸けるプライドは、まさに先生への愛の強さそのものなのでしょう。わたしはその愛が育っていく様子をずっと親心のようなものを持って見てきましたが、いざそれが自分の立場を脅かすほどになってしまったのを感じると、素直に喜べません。
 やがて、発表会が武藤さんの司会で始まりました。まずは詩部門の上位作品の発表でしたが、今回は作者の明らかにならない作品が多く、ただ三位に橋上さん、一位に山根さんが入ったとわかっただけでした。それでも橋上さんの入賞が明らかになったときには、大喝采が巻き起こりました。
 小説部門の発表も間もなく始まりました。冒険したとはいえ先生の作品です。贔屓目ではありますが、ほぼ確実に上位に入るものと思います。
 そう思っていたら、早速その作品のタイトルが読まれました。
「第五位は、『肺活量スキルで異世界素潜りスローライフ』です!」
 とっさに先生を見つめます。目が合って、先生は頷きました。
「わたしだ」
「浦川さん、おめでとうございます!」
 立ち上がった先生に対して、拍手が送られました。わたしは少し後から、無理にでも手を動かすしかありません。予想は外れたのです。
 わたしの隣で、小野寺さんは惜しげもなく拍手をしていました。その目は微かに潤んでいるようにも見えます。間違いなく、文芸部に入ってから最も報われた時間であることでしょう。わたしの拍手もむしろ、先生より小野寺さんに向いていたかもしれません。
 ところが、小野寺さんへの祝福はもう一つありました。
「第三位は、『黄昏の赤ずきん』です!」
「はい、私です」
 間に八戸さんの作品を挟んで、堂々の第三位です。小野寺さんは謙虚にも座ったまま、興奮に顔を赤くしてたくさんの拍手を浴びていました。まさかの、先生より高い順位です。先生も目を丸くして拍手をしています。
 ちなみに二位は高本さん、そして優勝は山根さんでした。個人的には高本さんの作品も、最近は偏屈さが抜けてきて洗練されてきたという印象を受けていたので、納得の順位です。
 わたしが先生の作品だと思った『スノードロップ』は七位でした。誰の作品かは不明で、恐らく一年目の誰かではないかと噂になっていましたが、それ以上詮索する気にはなりませんでした。

 発表会の後、新歓に向けたいくつかの連絡をして、打ち上げの時間まで一時解散ということになりました。わたしは小野寺さんと二人で、黙って部屋を出てしまった先生を捕まえます。
「先生……第五位、おめでとうございます」
「ああ。よもや、小野寺に見破られるとは。そして、順位でも負けるとはな。恐れ入ったよ」
 力のない愛想笑いです。なんだか、打ちひしがれたかのような雰囲気でした。
「ありがとう。今回は偶然かもしれないけど……私、もっと浦川さんに近づきたい」
「……」
 小野寺さんの熱い言葉にも、先生は頷きません。ただ天井を仰ぐだけでした。
「わたしはまだ途上。今回なぜ、このようなライトノベルでマスカレードに挑んだと思う?」
 直々の答え合わせが始まります。そもそもの選択肢を外してしまったわたしですが、理由のほうはわかるような気がします。それにしても、これ以上先生との乖離が露わになるのは怖くて、自分から言い出すことはできません。
「私にはわからないけど……浦川さんは本当にいろんなジャンルの小説が書けるし、面白さはぶれない。今回も普段と全然違うライトノベルなのに、浦川さんらしい知的なユーモアもあったりして、すごく面白かった」
 小野寺さんの答えは非常に素直なものでした。先生だけを見つめるその素直さも、今回の勝因ではないかと思います。わたしは多くの人の作風を知っていたために、いつしか消去法的な考え方になり、却ってノイズに惑わされてしまったのです。
 一方、先生は小野寺さんの答えに対して、首を横に振りました。
「小野寺が追いかけているのは、ある種のピークに立つ完全なわたしではないか? 小野寺だけではない。ここでは多くの部員が、わたしをほとんど完成されたものだと思っている。違うか?」
 これは以前から様々な形で口にしている思いです。まだ終わりの見えない探究心。そして、真の意味で共に切磋琢磨する仲間のいない孤独。小野寺さんは黙り込んでしまいました。これはフォローしなければならないと思います。
「先生、小野寺さんは一年前まで、純粋な先生のファンだったわけですし……そういう視点があるのも、大切なことではありませんか?」
「書き手となってまでそればかりでは、わたしはどうすればいい。わたしが今回ライトノベルを出したのは、対等な立場からの感想を集めるためでもある。どうも普段のような作品では、投票を敬遠されたり、当たり障りのない高評価しか来ないようなのでな。結果を見せてやろう」
 先生はスマホの画面を見せます。それは今回の先生の作品への投票結果でした。十五票が集まり、評価点も下は四点から上は九点まで、かなり分散しています。コメントも純粋な称賛から、熱心な考察や分析をしたもの、商業作品と仮定しての評価など、類を見ないほどバラエティに富んでいました。
「例えば、山根氏の作品ではこうだ」
 画面は変わって、山根さんの作品の結果になります。投票数は八票、評価点は七点か八点に集中しています。高本さんや小野寺さんの作品についても、投票数は十票未満で、評価点のあまり分散しない傾向がみられました。コメントについても改善点を述べるものは少なく、手放しに誉めるものばかりです。前回までの先生の作品も、このような形で平均点が上がったことが上位に入った要因でした。
「身をやつして欺くことが、皮肉にも多くの読者と対等になるための最大の手段だった。なんと空しい成功であることか」
「つまり……先生はこの票数の偏りが、作品のジャンルや、内容の難しさによるものだと?」
「そうだな」
 現在のマスカレードでは、無料のアンケートサイトを利用して一作品ごとに投票フォームを作るため、必ずしも全作品に投票する必要がありません。もちろん全作品に投票することが呼びかけられていますが、偏りは毎回あります。長編の『竜騎神ターミネイト』に至っては、四票しか集まっていませんでした。
「読みやすい作品だけが読まれ、その中で感想を言いやすい作品だけが投票される。本気で力を試す場として、これでは説得力がないと思わないか?」
「なるほど……」
「まあ、何に価値を見出すかは自由だが……次はお互い、納得のいく競争がしたいものだな」
 そう言い残して、先生は一人で帰っていきました。小野寺さんは呆然としてしまっています。
「難儀ですよね。今回は、先生の考えを見通すことができなかったわたしの責任でもあると思います。小野寺さんは悪くないですよ」
「……ありがとう」
「今日はもう購買が閉まっているので、アイスは今度、お好きなタイミングで言ってください」
「うん」
 先生の孤独を癒せるのは、わたしか小野寺さんか。予想を外したわたしはもう少し落ち込むつもりでしたが、そんな場合ではなくなってしまいました。

 その後は小野寺さんも帰宅して、わたしだけで打ち上げに参加しました。新井くんから企画班で軽く反省会をしたいと誘われたので、同じテーブルを囲みます。
「俺は、黒霧島の水割りで」
 新井くんは堂々と芋焼酎を注文しました。誕生日は六月だったようです。わたしと朝倉さん、そして武藤さんはソフトドリンクです。
「中津さん、誕生日いつだっけ?」
「三日前ですね、二十歳になったばかりです」
「そうなんや、おめでとう」
 家でお酒を試しに飲んでみたのですが、弱めのチューハイでも頭がくらくらしてしまったので、恐らく外では飲めない体質です。
「飲んでみたん?」
「多少は。でもわたし、弱いんですよ。一応、部の飲み会では事故防止のために飲酒しない者を置くことになっているので、ちょうどいいですね」
「なるほどな」
 ちなみに朝倉さんの誕生日は来月、武藤さんは一月です。あってないような規則ですが、未成年者の飲酒防止も部長の責務です。
 程なく飲み物が来て、追って船盛りが来ました。艶のある海老や、滑らかな色合いの帆立なども盛られています。今日の予算はいつもより若干高めです。
 幹事の朝倉さんがグラスを持って立ち上がりました。
「皆さん、今日はマスカレードのことに限らず、楽しく語らいましょう。乾杯!」
 わたしたちのテーブルでは企画班の反省会が始まります。と言っても、まずは作品に関する楽しいお話です。
「新井くんは今回、『あの夏の火と鐘』ですか?」
「せやで。まあ、総合点で言えば前回より良かったな」
 新井くんの順位は八位でしたが、本人は納得しているようです。
「あれってさ、また北海道のどこかが舞台になってたりするん?」
 武藤さんが質問しました。
「室蘭やで。工場の夜景が綺麗なんよ」
「ああ、ラストシーンのやつ?」
 今回は取材に行ったというわけではなく、昔の記憶などを頼りに書いたとのことです。
「あとさ、やきとり?って出てきたやん。あれ豚肉って書いてなかった?」
「それはな、本当に豚肉なんよ」
 現地以外ではあまり食べられないグルメです。わたしも食べたことはありませんが、室蘭の話になると真っ先に話題に上るくらいには有名です。
「それにしても、どうして釣りなんですか?」
「そこはなんというか……取り合わせやな。JDと、釣り」
 要するにフィーリングです。しかも釣りそのものの描写が濃いわけでもなく、本当に必然性はなかったのだと思います。
「釣りと言えば。あの素潜りのやつ、やっぱり浦川さんやったのな。驚いたわ」
「そうですね。恥ずかしながら、わたしも予想を外してしまいました」
「そういえば合宿のとき、小野寺さんと勝負しとったな」
「はい。アイス一個です」
 朝倉さんや武藤さんも、先生の作品を見破ることはできなかったと言います。
「うち、浦川さんは赤ずきんのやつだと思ってたわ」
「私も。でも、小野寺ちゃんだったの聞いて納得した」
「望海ちゃんもすごいよね。どんどん上手くなってる」
 二年目の中で、着実に小野寺さんは存在感を増しているようです。しかしながら、本人は先生並みに他の年目との交流が薄いので、特に一年目からどのように見られているのかは気になります。先生のように敬遠されていたとしても、平気なのかもしれませんが。
 それはさておき、なかなか反省らしい反省が始まりません。新井くんは二杯目に入ったところです。そのために呼ばれた立場でもあるので、そろそろ話を切り出してみます。
「新井くん。実は今回、先生があのような作品を出したのって、読みやすい作品で票を集めるためらしいんですよ。つまり、長かったり内容が難しかったりすると、すぐに投票数が減ってしまうんです。それで平均点が高くなっても、納得がいかないみたいで」
 新井くんは感心したように頷きました。
「なるほどなあ。それでも上位に入るとは、さすが浦川さんやで。まあ確かに、票数の偏りは企画班でもずっと問題として上がっとる。合宿とかで読む企画やると、票数の最大値は上がるんやけどな、底上げにはなかなかならんで、結局格差が広がるだけだったりしてな」
「そうなんですね」
「あとはまあ、点数の付け方もな。基準が六点と言うたら、まあ三点以下や九点以上はそう付けられるもんやない。そしたら五段階でええんやないか、とかな。そもそも順位付けるのがマスカレードの本質じゃないと言うたら、点数なんてつけなくてもええんやないか、とかな」
 新井くんの言う「マスカレードの本質」は、確かにこの部では全くと言ってよいほど共有されていません。説明の際にも、ただ匿名投稿、匿名評価のルールが語られるだけで、そこに見出す意味は各人でバラバラです。これでは議論になりません。
「楽しみ方が委ねられていて自由である一方、互いに求めるものが噛み合わない……ということですね」
「せやな。夏休みで集まれない中でもできる、数少ない企画ではあるんやけどな」
「参加者は多いですし、より満足できるやり方を探っていきたいですね」
 マスカレードについては今後、一年目も交えて議論していくことになりました。ぼちぼちデザートも出始めて、飲み会は終盤です。
「そういえば……中津さん。後期にやりたい企画があるんよ」
 不意に新井くんが、改まった態度で申し出てきます。わたしに言うからには、何か大きなことなのでしょう。
「企画ですか?」
「一年目を集めて、チームの中で互いに互いの作品を構想から完成まで見届けつつ、部内誌を作る企画なんや。上年目もゲストに招いて、ノウハウの継承もできればいいと思とる。中津さんにもできたら、メンバーの募集やスケジュールの調整周りで協力してほしい」
 役員選挙のときには「派閥を作る」と豪語していた新井くんです。このような企画の構想は当時からあったのでしょう。
「新井くんはどういった役回りですか?」
「マネージャーやな。基本的には参加してくれた一年目の中で合評なんかもやっていくけど、俺は見守りつつ、要所要所でアドバイスもする」
「なるほど。一人だと大変ではありませんか?」
「暇はあるし、そこは調整するで。でも、サブがいてくれると助かるな」
 少なくとも、ワンマンで好きなように持って行こうというわけではないようです。既存の部誌や一年誌の制度との違いは、構想段階からサポートすることと、合評のメンバーを固定すること。舵取りの難しい企画にはなりそうですが、実験としては興味を惹かれる内容です。
「その企画で目指す、最終目標は?」
「まずは一年目の中で互いを理解して、ビジネスライクじゃない、真に文芸を介した関係を形成することやな。だから、後期の新入部員も巻き込みたい。現実的な話、あんまり大人数だと厳しいから、六人くらいがいいとこやろな」
「なるほど……」
 一年目の横のつながりが強まる効果は確かにありそうです。ただ、受け入れ人数の限界は、参加したメンバーとそれ以外の間に壁を作る可能性もあり、注意したいところだと思います。
「まあ、始めるとしても十一月の下旬くらいからやな。冬部誌も出すし。何かアイディアあったら言うてや」
「わかりました」
 新井くんについては、作品こそ相変わらずですが、精神的には少し変わってくれたのかなと思います。先生に新井くんの手伝いをさせたら面白そうだと思いましたが、後で先生に恨まれそうなので、口には出しませんでした。

 さて、いよいよ後期新歓の始まりです。教養の授業が始まった初日、わたしは橋上さんと一緒に、相羽さんが描いてくれたポスターと画鋲を携えて、教養棟の掲示板を巡りに出ました。
 その最初の掲示板で、非常に気になるものを見つけてしまったのです。
「橋上さん、これを見てください」
「何ですか?」
「『総合文芸サークル・エクリチュール』ですって」
 明朝体の文字だけが並ぶ、簡素な勧誘ポスターでした。
「ああ、部長もご存知かと思ってました。七月くらいから貼ってありますよ」
「なんと……全く気付きませんでした」
 嬉しいようなそうでもないような、同業サークルの出現です。連絡先として記載されている「文学部二年・金森」という名前に、わたしは思い当たる人物がありました。同じ講座の男性です。
「私、七月にこの金森さんという方とお話してきたんです。小さいサークルには小さいサークルなりの動きやすさがあって、文芸部とは別にやってみるのもありかなと思って。まだ正式には入会してないですけどね」
 さすがに橋上さんは行動が早いと思います。
「そうだったんですね。メンバーは何人かいるんですか?」
「まだ、代表の粟嶋さんという方と、金森さんの二人だそうです。粟嶋さんはいろいろアルバイトをして、活動資金を稼いでいるのだとか」
「粟嶋さん……もしかして」
「元文芸部だと聞きましたよ」
「あっ、やはりそうですか」
 ちょうどこの間わたしが部費の滞納により除名にした、二年目の男性です。一年誌には作者として参加されていましたが、夏休みを境に全く姿を見なくなってしまったのでした。
「文芸部としては、友好的な関係を築きたいですね」
「そうですね」
 とりあえず文芸部のポスターを貼るだけ貼って、ボックス席に戻りました。新井くんと高崎くんが番をしています。
「お疲れ様です」
 そうは言っても初日の二限です。まだ来訪者はないようです。
「新井くん。粟嶋さんって、農学部でしたよね?」
「ああ。学科は違うけどな。俺はたまに話すで。なんか、めちゃくちゃ働いてるとか、来年海外に行くけど四年で卒業したいみたいな話は聞いた」
「その粟嶋さんが、文芸サークルを立ち上げていたらしいんですよ。ポスターが貼ってあって」
 わたしはスマホで撮影したポスターを見せます。
「へえ。あの人本当にいろいろやってるんやね」
 あまり話したこともなく人物像はよくわかりませんが、何やらものすごいバイタリティを持っていることが窺えます。
「『エクリチュール』でしたっけ。最初、カフェか何かかと思いました」
 高崎くんはサークル名を知っていたようです。わたしも詳しくは知りませんが、フランス語で話し言葉に対する「書き言葉」を指す言葉だと、哲学講座の友人から聞いたことがあります。
「まあでも、活動場所は案外カフェとかだったりしてな。非公認サークルって、普段どこに集まるんやろう?」
「私が行ったときは、教養棟のリフレッシュスペースでしたよ。こちらでは代表の金森さんが一人で勧誘活動をされているみたいですし、まだ活動場所も何も決まっていないと聞きました」
「橋上さんは、説明聞きに行ったんやね」
 一応、橋上さんには金森さんから聞いた話を聞かせてもらいましたが、今はまだ友好関係以前に、先方がサークルとして成立できるかどうかも怪しい状況のようです。
「金森さんは、たまたま寮で部屋の近かった粟嶋さんに声を掛けられて、協力することになったそうです。金森さんにもやる気はあるのですが、如何せん一人で勧誘をほとんど丸投げされて、困っていると……」
「なんか、その話で一気に胡散臭くなったな」
「ええ……ですので、まだ私は入会していなくて、考えています」
「なるほど……」
 新井くんと高崎くんは、今の話でもはや興味を失くしてしまったようです。その後、「エクリチュール」の話が続くことはありませんでした。

 後期の新歓説明会は一回で、その週以外は通常通り部会が行われます。最初の部会では、冬部誌の編集決めが予定されています。今回は誰の編集に付くのか。様々なタスクがある中で、なかなかに脂っこい問題です。
 今回は八戸さんが短歌、橋上さん、和泉さん、そして小野寺さんが詩を提出し、いつになく韻文の多い部誌になっています。小説も九名出していて、ボリュームは十分です。
 部会の開始前、和泉さんと簡単に打ち合わせをしました。
「今回ちょっと、作品数多いからさ。最終稿締め切りは伸ばせないけど、一次の期間を後ろに、二次の期間を前に伸ばしてさ。こんな感じでどう?」
「そうですね。合評の予定を組むときは、一次と二次の間があまり短くなりすぎないように気を付けてもらいましょう」
「あとは……本当に決まらなかったらフミ、二人持ってもらうことになるかもしれない」
「ええ、わかりました」
 部会の参加者は後期最初ということもあり、例会の開催ラインにも迫るほどでした。これは追い風ですが、油断はできません。わたしは部会が始まる前に、メールドライブに上がった作品をもう一度おさらいしました。
 小説ではマスカレードに出した作品を持ち込んだ方が六人もいたので、目を通すこと自体は楽でした。新規の小説を出したのは大藤さん、小宮さん、そして先生です。
 最初に目を引いたのは、ある意味縁のある『スノードロップ』です。これが一年目の長谷くんの作品であることが明らかになりました。わたしもここらで青春恋愛ジャンルと向き合ってみようかということで、第一候補です。
 他の小説は長めの短編や中編が多く、掛け持ちはなかなか大変です。もしもう一人持つなら韻文と見当をつけたところで、部会が始まりました。編集決めは長引くので、他の連絡を済ませた後にします。
「それでは冬部誌の編集決めに移ります。和泉さん、お願いします」
「はい。まず、一年目の皆さんは今回初めて部誌に参加するということで、部誌に作品を出すときのルールをおさらいします。注目!」
 和泉さんは熱血教師のように声を響かせ、三つのルールを板書担当の高崎くんに書かせました。
「一つ、締切厳守! 合評稿は、合評の三日前の二十三時五十九分まで。最終稿も日付が変わるまでです。遅れる場合は私に、絶対! 連絡してください。連絡をせずに遅れた場合は、最悪の場合で掲載取りやめも含めた、厳正な処置を取らせていただきます。いいですね!」
 去年の新井くんの事案も念頭にあるのでしょう、先々代編集長の樋田さんを上回る気迫です。それにしても少し無理をしているのか、和泉さんは息が上がっています。
「一つ、初志貫徹! 途中で作品数が変わることは、編集班にとって大変な負担になります! 出すと決めた作品は、最終稿締め切りまでに責任を持って完成させてください! また、作者と編集はなるべく部会に参加することを含め、いつでも編集班と連絡が取れるようにしていてください!
 最後に一つ、全員参加! これは作者以外の皆さんにもお願いなのですが、今回は作品数が多いです。合評のスケジュールも密になることが予想されますので、なるべくたくさんの空きコマにご参加いただけると幸いです。少なくとも空きコマ募集のメールには、たとえ参加できなくても返信しましょう!」
 この二つはこれまであまり明言されていないルールでしたが、不文律的な部分を潰しておく意図があるのでしょう。徹底して面倒事を避けたい、和泉さんらしい宣言です。
「この三つを守って、事故なく楽しく部誌制作を進めましょう。よろしくお願いします! あっ、議事録担当って誰だっけ?」
「僕です」
 後期から朝倉さんに代わって書記を担当しているのは、長谷くんです。
「今の内容、後で編集班からもメールするけど、議事録にも書いておいてね」
「はい」
 この連絡の後の編集決めは、普段なら聞こえる小さな私語すらもなく、粛々と始まりました。それぞれの作者から作品の説明と編集の希望が出され、それを高崎くんが黒板に書き出していきます。それが終わったところで、和泉さんからもう一つのアナウンスがなされました。
「これから編集を決めていきますが、上年目向けのお知らせです。毎回、作者と編集はなるべく違う年目で組むように言われてきましたが、今回、年目は特に気にしないことにします。作品数が多いので、編集がちゃんと決まることのほうが大事です。編集決めが円滑に進むよう、ご協力お願いします」
 この有無を言わせない感じが容認されるのは、和泉さんならではだと思います。わたしにはまだ、ここまできっぱり堂々と事を進めることはできません。
 それにしても、わたしも二年目の後期を迎えたわけで、今や部長でもあるのです。これまでのような優柔不断からは少しずつでも脱却していく必要があります。
「はい。わたし、長谷くんの編集についてもいいですか」
 真っ先に名乗り出たわたしに、対立はなし。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 長谷くんは恭しく頭を下げました。まずは一歩前進です。
 その後も和泉さんのアナウンスの効果があったのか、スムーズにマッチングが進みました。詩についても意外にあっさりと決まり、わたしの出る幕もなくなります。それでも、一作品はなかなか決まらないものがあるのが常なのです。
 今回も、新井くんでした。『あの夏の火と鐘』はジャンルが「ゆるふわ」、そして昨年の冬部誌以来の「女性希望」と紹介され、人を寄せ付けない雰囲気を放っていたのです。マスカレードでは主に背景描写や雰囲気が評価されて点数が上がっていましたが、部誌で編集をするとなると要素が散らかっていて、コメディにも振り切れていないためなかなかの問題作だと思います。
「新井」
 誰もが手をこまねいていた中で、声を上げたのは四年目の桜木さんでした。
「この作品本当に面白くしたいってやる気があるなら、俺が編集するけど?」
 編集班としては非常にありがたい申し出ですが、桜木さんは既に明石さんに頼まれて編集に付いていました。和泉さんが間に入ります。
「桜木さん、二人に付くことになりますが大丈夫ですか?」
「ああ、編集班的に問題ある?」
「問題はないですが、負担ではあるので」
「じゃあ、やらせてほしい。俺はもう暇だし、なんだかんだこのままじゃ、後輩に何も還元できないで終わっちゃうからさ」
 実際、桜木さんはわたしたちの一年誌のときに新井くんをサポートしていたくらいで、それ以降は忙しかったのか、ほとんど姿を見ませんでした。それでも上年目の中ではとりわけ明瞭な考えを持った方で、二年前には部長候補でもあったと聞いています。何かしら部に貢献したいという思いは本当だと思います。
 そんな桜木さんからの申し出は、いくら新井くんが浮ついた気分でいたとしても、魅力的なものであったに違いありません。
「新井、どう?」
「わかりました。ぜひ、よろしくお願いいたします」

 桜木さんのお陰もあり、編集決めはいつになくスムーズに終わりました。普段は二十一時に近いのでアフターにも行かずに解散してしまうのですが、今回はその余裕もあります。
「和泉さん、お疲れ様です。今回は幸先いいですね」
「そう毎回ごたつくなんて御免だよ。このまま最後まで行ければいいけどな」
「久しぶりですので、アフターご一緒しませんか?」
「ごめん、あたし食べてきたから。疲れてるし今日は帰るわ」
「わかりました」
 和泉さんは一年目の編集班二人に業務連絡を済ませると、すぐに帰ってしまいました。
 わたしは長谷くんに挨拶と連絡先の交換をして、ちょうどフリーになった先生の元へ向かいます。先生は今回なんと、相羽さんが編集になりました。
「先生。アフター行きませんか?」
「構わないが、何か積もる話でもあるのか?」
「いえ、特には。強いて言えば、今回の作品についてお話したいです」
「わかった」
 先生がわざわざマスカレードの作品と別に用意した今回の作品は、『オーロラ』です。北極圏の小さな町に滞在してオーロラの写真を狙うベテラン写真家の物語です。一年誌の『氷河に還る』にも似た、厳しい自然との対峙をテーマにした作品です。
 たまには新しい場所を開拓しようという流れになり、わたしたちは高崎くんの案内でネパールカレーの店に入りました。
「先生、辛さのレベルがあるみたいですよ。上は百まで」
 レベル六から追加料金が取られるところを見るに、それより下が一般的な辛さなのでしょう。
「挑戦するなら止めないが、わたしは四くらいにしておこう」
「まあ……わたしもそのくらいで」
 辛さのレベルに目が行きましたが、カレー自体もひよこ豆やほうれん草など変わった材料を使うものがあり、好奇心をそそられます。アフターで行くところはかなり固定化されてきていたので、余計に新鮮に感じます。
「今回の作品の話ですが、かなり安定感がありましたね。『氷河に還る』にも似ていて、目新しさはあまりないかもしれませんが」
「まあな。今回は敢えて似たようなテーマで書いてみた。作風がバラエティに富むと言えば聞こえも良いが、わたしもそろそろ、腰を据えて長く付き合っていくテーマがあってもいい頃だと思うのだ」
「なるほど……」
 確かに上年目の書き手を見ると、既に自分のテーマをしっかり持っている方ばかりです。それはある意味、各々の「文学」の表現でもあります。先生はこれまで、そうした作者を貫くテーマを意図的に持たず、様々なジャンルでその場その場の器用さを見せる文芸人、つまり「文芸の芸人」でした。
「それはつまり、趣味を超えて将来の選択肢に入ってきたと?」
「飛躍しすぎだ。だが……このままでは遠からずネタ切れを起こす予感がした。これまでのわたしの作品では、テーマに対してそのとき持っていた見解を盛り込んだに過ぎない。その程度の深さなら様々なジャンルを書ける。だが、一つのテーマを深く突き詰めた作品には勝てない」
「確かに」
 わたしもこれまで、先生の作品を文学的な観点で見ることは意図的に避けてきました。文芸的な技巧や文章表現力を中心に見ていて、先生はそれだけでも戦えると思い込んでいました。
「人間と自然、そして環境。これは『春は霞』もそうだが、今のところ最も多く作品数を書いているテーマだ」
「高校の頃から見てもそうですね」
「だから、様々な挑戦をするのと同時に、このテーマを深く掘り下げていきたいと思う」
「わかりました」
 ちょうど去年の今頃、わたしたちは高校生と大学生の間にあるパラダイムの壁を見出し、それを超えて更なる成長を遂げるために少し距離を置くことを決めました。先生はその壁の本質を見たのだと思います。わたしがいなくてもどんどん成長しています。
 先生が、少しずつ遠くなるような感覚も……ないわけではありません。
「相羽さんと、仲良くやってくださいね?」
「まあ……相羽がなぜわたしの編集になったのかはわからないが。やる気があるのならよかろう」
 ちなみに後日相羽さんに聞いたところでは、「マスカレードで作品の幅の広さに驚いたので、もっと考えていることを知りたくなった」と話していました。これがきっかけになるかはわかりませんが、後輩との交流が開けることも願っています。

 翌日、わたしは文学部での授業の後、金森さんにコンタクトを取りました。
「金森さん。この後お時間ありましたら、『エクリチュール』について聞かせてもらえませんか」
「おや、もしかして、ポスター見てくれましたか」
「はい」
 わたしと金森さんは顔見知り程度の関係で、恐らく、入会希望だと思われたような感触がありました。期待を裏切るような形になって申し訳ないと思いながら、休憩スペースへ移動します。
「まあ……恥ずかしながら今は活動方針も定まっていない状態で、少し怪しい団体だと思われているかもしれないというね。中津さんも、何か書くことに興味あるんですか」
 最初に金森さんは、苦笑しながら現状を聞かせてくれました。わたしが聞いていた話とも一致します。それにしても、わたしは入会することはできないので、別の方法でせっかくの新興サークルを盛り上げたいと思うのです。身分もここで明かしてしまいます。
「実はわたし、公認の文芸部で部長をやっているんですよ。自分からは作品を書かない、編集専門ですけどね。それで新しく文芸サークルができたと聞いて、良い関係を築けないかと思いまして。そちらの代表の粟嶋さんも、元は文芸部の部員ですし」
 それまでは入会希望の人に接するようなフランクさのあった金森さんでしたが、わたしの身分を知るなり、少々接待モードに入ってしまいました。
「ああ、それはそれは。わざわざこんなサークルのことを気に留めてもらって、なんだか恐縮です。僕もせっかくなら、イベントに参加するとかやってみたいと思うんですけどね。いろいろ教えていただけませんか」
「わたしにできることなら。とりあえず、うちは掛け持ちも大丈夫ですので。遠慮せず勧誘活動をしてくださいね」
「ありがとうございます」
 ともあれ、ここからが本題です。
「今、金森さんが一人で勧誘をされていると聞いたのですが、粟嶋さんはどういう立場になるのでしょう?」
「粟嶋は、自分も書くけど、メインは出資者だと言ってます。活動資金の負担の少ないサークルで書き手を集めて、マネジメントをしてみたいと」
「それはまた、思いもよらない動機ですね」
 要は、起業をするかのようにサークルを立ち上げようとしているということです。行動力がありすぎて、にわかには信じられません。
「あとは、各ジャンルの作家さんとコネクションを作って、いろいろ語り合いたいとか。大学に招いて講演イベントを開きたいとか」
「なんと……壮大な野望ですね」
 壮大すぎて近寄りがたいほどです。これはかなり人を選ぶサークルだと思います。とりあえずポスターのデザインを改善して連絡しやすい雰囲気にすることを提案するつもりでしたが、今の硬派なポスターのほうが粟嶋さんの目的には合っているような気もしてきました。
「七月ごろからポスターを掲示しているらしいと聞いていますが、これまで連絡は来ていますか?」
「三人ですかね。会員が一人か二人でも集まれば、十一月くらいから活動するつもりではあるんですが、まだ入会には至っていない状況です」
「なるほど……まあ、恐らく今の状況でも入ろうとする人は、ある程度の覚悟があるか、タダ乗りを目論んでいるかのどちらかだと思いますね」
「僕もそう思います。代表に活動資金の大半を出してもらうシステムが、良くも悪くも……」
 それにしても、このまま立ち消えしてしまうには惜しいサークルだと思います。
「前向きに捉えていきましょう。うちには外部とのコネクションがほとんどないので、内向きの活動にならざるを得ないんです。部員も多いので、方針を大きく変えるにも時間が掛かりますし。その点、『エクリチュール』は外向きの活動がメインになりそうで、身軽さもあってどんどん面白くできるのではないかと思います。それをアピールすれば、やる気のある人を集めやすいかもしれません」
「前向きに、か……」
 少し熱が入ってしまいましたが、金森さんはわたしの言葉をゆっくりと飲み込み、やがて頷きました。
「ありがとう。もう少し頑張ってみようと思います」
「はい。応援しています」

 もちろん、わたしが応援しなければならない人は他にもいます。その日の五限には、長谷くんとの打ち合わせが予定されていました。金森さんとお話した後、図書館で少し原稿を読み直して、北のボックス席へ向かいます。
 着いたのはちょうど四限の終わりで、長谷くんは辻くんと一緒にボックス番に入っています。
「お疲れ様です。ボックス番はいかがですか」
「ちょっと申し訳ないんですけど、暇です」
 辻くんがスマホを置いて答えました。まだ最初の週なので仕方のないことではありますが、入部希望の話は全然届いていません。
「でも、三限の頃に女子が一人来たって聞きましたよ」
「そうですか、まあ気長にやりましょう」
 今回は暇なときに読むための作品も置かれていない……と思いきや、わたしはテーブルの上に置かれた書類の山が、不自然に分厚いことに気付きます。
「これは……『竜騎神ターミネイト』じゃないですか」
 四冊に分けられた原稿は恐らく合宿の企画のために刷られたものの流用ですが、一冊目の表紙として、大藤さんの書置きが綴じられていました。
『マスカレードに出したこの作品ですが、残念ながら数名の方にしか感想を頂けませんでした。それなりの期間を掛けた作品であり、このままでは寂しいので、どうかお暇な方、感想を頂けますと幸いです』
 マスカレードの際の投票数は四票、一票はわたしなので、他に三人しか投票に至っていないという事実です。文面からは言い知れない哀愁が漂います。書置きの裏には例によって感想スペースが設けられていましたが、まだ白紙でした。
「それ、僕たちも途中までしか読めてないので、今度感想書こうと思います」
「そうですね。冬部誌もあるので、無理にとは言えませんが……」
 そこに、小野寺さんと朝倉さんが来ました。五限のボックス番のようです。
「お疲れ様」
「お疲れ様です。それでは、僕はこれにて失礼します」
「では……長谷くん、そちらで打ち合わせをしましょうか」
「はい。お願いします」
 空いている隣のボックスに荷物を移したところで、小野寺さんと目が合います。
「小野寺さん……例のもの、どうしますか?」
「今、貰ってもいい?」
「了解です」
 傍から見ると裏取引ですが、これは正当な勝負の結果です。小野寺さんにはストロベリーのアイスクリームを一つ差し上げました。
 ボックスに戻ると、朝倉さんは『竜騎神ターミネイト』を読んでいました。
「それ、この間話してた勝負のやつ?」
「そうですね。アイス一個です」
 勝負のことも片付いて、わたしは長谷くんと対面します。企画班に属する彼は一年目の中でも寡黙なほうですが、本はよく読んでいるらしく、八戸さんと文学について十分に語り合える数少ない新人です。
「勝負って、何ですか」
 長谷くんも、わたしと小野寺さんと先生との間の勝負が気になったようです。変に誤魔化すとコンプライアンスに抵触するような誤解を招きそうなので、ちゃんと話します。
「マスカレードで、二年目の浦川っているじゃないですか。あの人が出した作品を当てられるか、小野寺さんと勝負していたんですよ。それで、わたしが負けてしまったというわけです」
「浦川さんのこと、先生って呼んでますよね」
「はい。実はわたしと浦川は高校が同じで、当時から一緒に文芸部をやっていたので。そのときから先生と呼ばせてもらっています」
「そうなんですね。浦川さん、僕はあんまり話せてないですけど、作品はすごいと思います」
「わたしも同期として、鼻が高いですよ」
 前までなら「直接伝えてあげてください」とお願いするところでしたが、ここまで来たらもう先生を甘やかす必要はないかなと思います。今は相羽さんをきっかけとして、徐々に一年目との交流が始まるのを待つ段階です。
「それで……『スノードロップ』ですが、淡く儚げな雰囲気がよく演出できていると思います。実はわたし、この作品こそ先生が書いたのではないかと思っていて。主人公が華道部ということで植物の描写が非常に多いですが、そこで変に誤魔化したような感じがなくて、力を感じました」
「ありがとうございます」
 作品の構成は、スノードロップを愛でながら先輩と文通をする現在パートと、先輩との経緯を振り返る回想パートからなります。最初は回想パートが多めで進みますが、だんだんと現在に近い、重要なエピソードが語られるにつれて、現在パートの物語も前に進んでいくという演出が絶妙です。
「問題点は終盤ですかね。スノードロップが咲いたことを知らせる手紙に、返事が来なかった。耐えかねて送った手紙も、『宛先に尋ね当たりません』と返ってきてしまう。スノードロップは一生を終えた。この流れ自体は『巻雲を掴むような恋』とも表現される雰囲気に合致していて伏線もありますが、主人公にとっては完全な理不尽で、却って予定調和のような感じがあります」
「ここは……やりたかったこととしては、先輩は元から生き方に悩んでいて、ここではもう、大学を中退するか休学するかしているんですよね。主人公も先輩の飄々としたところに憧れていて、受け入れているつもりだったけど、ここでやっぱり自分のもとで落ち着いてほしかったという思いに気付くという感じです」
「元々、主人公の自己完結的なところでまとめるつもりだったということですね」
「はい。ここから先輩が主人公のところに戻ってくるのも違いますし。やっぱり不可抗力なんです。でも、主人公も無意識に重すぎる思いを押し付けていて、そこの歪みが最後に崩れるという感じです」
 先生はこういうところで、主人公の決定や行動による因果を明示して、作品の意味づけをする傾向があります。安定感が生まれる一方、芸術的な深みは生まれにくくなります。
「では……そういう最後であることを、読者が自然に感じ取って終われるような書き方がいいですね」
「そうですね」
「あとは、回想パートの内容ですが……」
 元から完成度の高い作品なので、合評に出しても大きく筋書きを変えることにはならないと思います。それもまた、今のわたしには好都合でした。ここからさらに作品の価値を高めるには何ができるか。成長した先生の元に戻れる編集になるためには、挑み続けなければならない課題です。

 打ち合わせは五限の半分くらいで終わりました。長谷くんは合評稿の準備のためすぐに帰りましたが、わたしは小野寺さんと十九時までのボックス番に入っていたので、その場に残ります。
 小野寺さんはアイスを食べ終わり、朝倉さんは『竜騎神ターミネイト』の二冊目に入っていました。
「お二人は冬部誌、調子はいかがですか?」
「私は明日、打ち合わせする」
「私も」
 小野寺さんの編集は江本さんです。今回は詩ということで、いつぞやのマスカレードで企画班賞を決めた縁のある江本さんが立候補してくれました。朝倉さんは今回作品を出さず、小宮さんの編集をしています。
「小野寺さんの詩、今回は言葉選びがかなり鋭くなったように思いました」
「そうかな。いろいろ昔の詩を読んで、勉強してみたんだけど」
「ええ。前までは言葉選びが独特すぎて、ともすればリズムばかりに注目されてしまうような感じでしたが、今回はちゃんと真に迫るものがあるというか。小説と同じように、上達を感じます」
「ありがとう」
「小野寺ちゃん、この間のマスカレードでも三位だったし、春からすごく上手になったよね」
「うん……」
 それでもなお、小野寺さんの目標は変わらず先生に近づくことなのだと思います。マスカレードの結果については、素直に喜べない葛藤が見えました。
「中津さん。この間、浦川さんが言ってたこと。私が、ピークに立つ浦川さんだけを見ているって……そう思う?」
「それはですね……」
 とてもデリケートな質問です。小野寺さんはまだ、そうならざるを得ない段階にあるというのが正直な答えですが、それでは後ろ向きになるばかりです。
「例えば先生の合評に、二回とも参加してみるというのはどうでしょう。この部はどうしても、ただ完成した作品を読んでその場で評価するだけで、各人の変化には関心を持たないことになりがちです。でも、本当は作品間の変化ももちろん、部誌のときは一つの作品の中でも、初稿から最終稿までの変化があるわけじゃないですか。先生はやっぱり自己研鑽が大事なので、そういう変化を外から見てくれる人を求めているんですよ」
「そっか……」
 背中を押してみたつもりですが、まだ引っかかるものがあるようです。
「実はね、今回も、本当は浦川さんの編集になろうかなって考えたの。『オーロラ』は、『氷河に還る』から一歩進んだ感じもして、本当に好きな作品だった。でも、編集としてその作品を今より良くできるかと言ったら自信もないし、浦川さんもやっぱり嫌がるんじゃないかと思っちゃって」
「そこを、相羽さんに掻っ攫われてしまったと……」
 なんというか、マスカレードのときはわたしの立場が小野寺さんに取って代わられるのではないかと危機感を持ったわけですが、それは恥ずかしい杞憂だったようです。本当は毎回これほど必死に先生への愛を抱えているのに、わたしはそれを抑えることすら考えてしまいました。
「難しいよね。浦川ちゃんは実力もあるし、頭も良くてどんどん自分でも先に進めるけど、それでも文芸部にいるのは、一緒に進んでいく仲間が欲しいからだと思うし……私じゃ浦川さんには付いていけないから、なんか、ごめんねってなっちゃう」
 朝倉さんも、先生に対しては複雑な思いを持っているようです。
「新井くんなんかは、先生のことライバルだって言うんですよ。まあでも、高校のときは先生もちゃんと、後輩に慕われる先輩をやっていたわけですし。相羽さんのように、一緒に対等にやっていこうという気持ちを見せれば、案外あっさりと心を開いてくれるような気はするんですよね」
「多分、その後が大変だと思うから……」
 朝倉さんの言葉に、小野寺さんも頷きました。いつの間に先生は、ここまで凶悪なオーラを纏ってしまったのでしょう。わたしは近くにいすぎて、全然気づかなかったのでした。

 なんだか重い空気になってしまったまま五限の時間は終わり、朝倉さんは帰っていきました。しばらくは小野寺さんとも会話がないまま、購買に出入りする人などを眺めていました。
 そんなあるとき、見覚えのある顔立ちの女性がこちらに向かってきます。
「文子ちゃん……だよね?」
 わたしの名前を呼ぶ、その声でわかりました。髪はベージュに染められ、髪型も記憶からかなり大胆に変わっていましたが、間違いありません。
「もしや、野中さんですか?」
「そうだよ。久しぶり」
 わたしたちとは違う高校で部長をしていた野中さんです。小野寺さんは首を傾げました。
「知り合い?」
「はい。小中が同じで……つまり幼馴染ですね。高校でも、文芸部の部長仲間でした。野中さん、こちらはわたしの同期の小野寺さんです」
「野中です。よろしくお願いします」
「よろしく」
 野中さんは一浪して、今年入学したそうです。多分に漏れず、後期になって余裕ができたので文芸サークルを探して、ここに来てくれたとのことでした。
「ポスターで部長の名前を見て、もしかしたらと思ってたけど」
「はい。今はわたしが、部長をさせてもらっています」
「部員はどのくらいいるの?」
「名簿上は、六十人くらいですかね。アクティブな方は、そのうち七割くらいです」
「やっぱりすごいね。夏部誌読んだけど、全員分の合評とかするの大変じゃない?」
「そうですね。そこは毎回、人数の力です」
 ひとまず、説明用の資料を渡します。野中さんはじっくりと目を通し始めました。
「ここって……プロを目指してる人とか、いる?」
「少し前に二人、この部からプロになった方がいるようですが……今はそういう話は聞きませんね。個人で文学賞などに応募している方はいるかもしれません」
 聞くと、野中さんは本当にプロの作家を目指す決意をされたようです。そのための拠点となるようなサークルを探しているということです。
「文芸部の仕組みとしてそういうものはないですが、不定期に合評なんかも開くことはできますし、人数もいるので様々な視点からの意見はもらえると思いますよ」
「イベントに参加したりはしてる?」
「そこはまだ、全く……大学祭くらいですね」
 人数が多いと、どうしても全体としては動きにくくなります。札幌では参加できそうなイベントがなかなかありません。
「なるほど……実はね、ここで言うのもちょっと悪いけど、もう一つ他のところと迷ってて」
 プロ、そしてイベント。野中さんの求める外向きなイメージに合致する競合の候補は、ちょうど一つありました。
「もしかして、『エクリチュール』ですか?」
「あっ、そこ。知ってたんだ」
「はい。向こうは身軽さを活かして外向きにやっていきたいサークルのようなので、うちではやりにくいことも向こうならできるかもしれませんよ。文芸部としては、野中さんに入っていただけると心強いですが……逆にわたしたちが、必ずしも野中さんのご期待に沿えるわけではないので」
 文芸部だけで、すべての受け皿になる必要はないでしょう。それぞれの強みを持った競合サークルがあることで、お互いに単独でいるときよりも成長できると思います。
「わかった。いろいろ教えてくれてありがとう。再来週の説明会にも参加してみるよ」
「はい。こちらこそ、来てくれてありがとうございました」

 後期の初週にして様々なことが起こり、週末には運転免許の試験を控えていましたが、学科の復習をする暇もありません。それでも翌日の午後、先生に『相談がある』と呼び出されたときには、やはり行かざるを得ないのです。今週の予定はこれで最後であることを願います。
 わたしたちはこの間と同じように、農場のポプラ並木の下で落ち合いました。今日は曇っていて、風も冷たいです。
「先生……今日はどうしましたか?」
「実は、新井から一緒に企画をやらないかと誘われてな」
「ほう」
 思いのほか重要そうな話でした。マスカレードの打ち上げで話していた企画のことです。
「一年目を集めて、チームで互いに互いの作品を最初から最後まで見届けるような企画をやりたいのだとか。そこでわたしには、進行役やアドバイザーを手伝ってほしいと。どうすればいい?」
「まず確認させてください。先生にも、やる気がないわけではないのですね?」
「まあな。というか……無下にしたら、口うるさく言うだろう」
「新井くんは言わないと思いますが……わたしがですか?」
「そうだ」
 先生の言い分には納得しかねますが、とりあえずわたしに相談してくれたことには感謝したいと思います。新井くんが文芸のことで先生に助力を求めるだけの謙虚さを持ってくれたことを、わたしも無下にはできません。
「まあ、ともかく。わたしは先生がこの上ない適任者だと思いますよ。やっぱり、先生は誰もが羨む実力者ですから。この部では全員が全員、先生のように気高い向上心を持って文芸と向き合っているわけではありませんが……それでも、だからこそ、みんな先生のことは尊敬しているんです。一緒に文芸をしたいと思っているんですよ」
「……そうか」
 先生は新井くんの企画について、何も答えませんでした。ただ、じっと収穫の終わった田んぼを眺めていました。稲穂を刈り取られた茎の根元から、ちらほらと緑の葉っぱが出てきています。
「なんだか、緑の葉っぱが生えてきてますね。あれは雑草ですか?」
「いや、稲だ。ひこばえという、新しい茎だ。穂を刈り取っても、根は一応生きているからな」
「へえ。放っておいたら、来年もお米になったり?」
「それはないな。冬は越せない。だから、無駄と言えば無駄だ」
「なるほど……それでも、生きているということですね」
「ああ」
 稲穂を刈り取られて見向きもされなくなったところでも、根は人知れず生きている。それは今の先生の在り方にも重なる部分があると思いました。
 それでも、先生はもっと自分から、歩み寄ることもできるのです。わたしも日々変わっていきますし、わたしが部長になったこの部も、上年目や後輩たちも変わっていきます。
 先生がその流れに取り残されず、良い方向へ向かえるように。わたしは何かを考える先生の横顔を見ながら、心の中で祈るのでした。

十八 萌芽(前)

 風の冷たい夜でした。わたしは和泉さんの詩の一次合評に入ったので、図書館のグループ学習室に来ていました。部屋は半分ガラス張りになっていて、隣の部屋の様子も見通せます。今日はそちらで、新井くんの合評も開かれているのです。
「フミ、何かない?」
「ええ。全体としては、フレーズの繰り返しが印象的なので、そこは崩さないほうが良いのではないかと思います」
「わかった。じゃあ終わるか」
 和泉さんの詩は、大人たちに意見を届かせたい若者を題材にしたものでした。合評では軸となる内容を変えずに表現を洗練させる方向になり、特定のテーマに沿って言葉を出し合う連想ゲームのようなものも行われたところです。
「ありがとうございました!」
 こちらの部屋はこれで解散となりました。一時間くらい経過していましたが、隣の部屋ではまだまだ議論が交わされているようです。大藤さんや明石さん、橋上さんもいて、濃いメンバーです。
 見ていると、こちらの合評に参加していた相羽さんや辻くんも隣の部屋へ入っていきました。
「和泉さん。隣、覗いてみませんか?」
 なんとなく誘ってみましたが、首を横に振られました。
「どうせ意見したって聞き入れもしないのにさ。それより、今日なら飯行ってもいいぜ」
 逆にこうなると、わたしは最近ゆっくり語らう機会のなかった和泉さんを選ばざるを得ません。
「ぜひ。行きましょう」
 わたしと和泉さんは二人で、やや北へ歩いたところのラーメン屋に入りました。文芸部では普段来ないところです。
「そういえば……新井がなんか、一年目集めて大掛かりな企画やろうとしてるんだと。聞いてる?」
「はい。和泉さんも誘われましたか?」
「いや、あたしは橋上ちゃんから聞いただけ。誘われたってやる気ないけどさ、あいつがあたしのこと誘うわけないじゃんか」
「そうですか……」
 それは予想された答えではありました。新井くんに、和泉さんを誘う理由はほとんどありません。
「今回は、桜木さんが付いてるから大丈夫だと思うけど……これでまた締め切り破った日には、もう絶対部誌に出せないようにしてやるから」
「まあまあ」
 編集長としての和泉さんの心配も理解できます。企画の始まりは十一月の下旬からと聞いていますが、その頃には二次合評と最終締め切りがあります。
「フミとしては、どう思うわけ?」
「新井くんのワンマンになるなら、心配もありますが……部としても色々、今とは違うやり方について一年目も交えて考えられる場になりうると思います。わたしたちも積極的に参加することで、和泉さんの思うようなリスクは軽減できますよ」
「まあ、フミがいいって言うなら止めないけどさ。結局あたしには、どうにもあいつの自己満足のための企画に見えるわけよ。一年目相手に偏った講釈垂れる場が欲しいんでしょ」
「仮にそうだったとしても……一年目だからと言って、教えられたことを全部鵜呑みにするわけではないですよ。そのときは、企画が頓挫して終わりだと思います」
「どうせそうなるんだから、やっても無駄だって」
 相変わらず、和泉さんと新井くんの間には根の深い因縁を感じます。二人が和解する日は来るのでしょうか。わたしが部長でいるうちに来てほしいと思います。
 ラーメンを食べるのは久しぶりでした。今日は外が寒いこともあり、スープまで積極的に飲みたくなります。
「なんか、新しく文芸サークルできたの知ってる? エクレアみたいな名前のやつ」
「はい。『エクリチュール』ですね。この間、代表の方に挨拶してきました」
「そことか、明石さんがユナさん達とやってるところとか見てるとさ。あたしらもなんか、小さい規模でいいから、好きに本作って、コミケでも繰り出したくなるのよ」
「夢がありますね」
 実は先日の部会で、明石さんがプロになったユナさんを含むOBやOGの方々と組んだサークルの同人誌を宣伝していました。文芸部を引退した後も文芸を続けるために、サークルとして独立するのは一つの選択肢です。
「最近は文フリなんてものもあるな」
「札幌に来たら、うちも参加を検討できるのですが……」
 やはりそういうイベントは首都圏で開催されることが多く、部としてはなかなか進出できません。
「引退してからでもいいから、いつかやろうぜ。アキとか誘っていいから」
「そうですね。機会があれば」
 それにしても、和泉さんから引退後の話が出たので、わたしはほんの少ししんみりしました。二年生の後期。長いとばかり思っていた大学生活ですが、残りの時間は決して多くはないようです。
 来年の秋には、何をしているのか。今日のように、心穏やかにラーメンを食べるようなことはできるのか。そんなことを考えました。

 翌週には、教養棟での新歓説明会がありました。前日には別の合評に参加し、翌日には長谷くんの合評を控えているという状況で、少し寝不足です。しかし、わたしがこの部の顔になるというわけで、無様な姿は見せられません。
 この日のために、篠木くんと話し合ってチェックリストを用意しました。配付資料を印刷する。名札を買っておく。食事会のお店を予約する。上年目の食事会参加者を取りまとめる。新歓費を集めておく。
 そして……場を一気に盛り上げる、会心のネタを考える!
 篠木くんからの無茶振りです。曰く「中津さんは雰囲気がちょっとカタいから、そのままだと文芸部に入りにくい印象を与えるかもしれない」と。
 とりあえずその場では努力目標としましたが、実際一年目からどう思われているのかについて、わたしはあまり気にしたことがありませんでした。それは、先生のほうが大変な状況だから、自分は大丈夫だという楽観もあったのです。
 ということで、和泉さんの合評のときに、こういうことに詳しい相羽さんに尋ねてみました。
「部長は……すぐ慣れますし、真面目な人なんだなって思うくらいですよ」
 その答えは、意外にも問題のなさそうなものでした。
「副部長の篠木くんが、新歓説明会で文芸部に入りやすい雰囲気を作るようなネタを考えろって言うんですよ。わたしが堅苦しいからって」
「多分、そっちのほうが変な感じがします。部長はなんか、下手に冗談とか言わないほうがいいですよ。どうやっても不意打ちになるので、素直に笑えません」
 つまりわたしは、『文芸部に入りにくい印象』を与えているわけではないですが、とても冗談を言いそうにないと思われているようです。これはこれで、なんだか損した気になります。
「でも、それを変えるには部長が敬語キャラを捨てるくらいのことをしないとなので、諦めたほうがいいですよ」
「なるほど……ありがとうございます」
 それにしても、相羽さんの見解には納得できてしまいました。新歓で相手にするのは初対面の人だからと言っても、雰囲気を作るにはその場にいる部員をも笑わせるくらいでないといけません。それが難しい時点で、相当に分が悪いのです。
 それを聞いていた辻くんは、なかなか辛辣なことを言われたわたしを案じて、励ましてくれました。
「中津さんは、部長の立場もありますし、いつも通りきっちりと説明してくださったらいいと思いますよ。その後の交流時間で、僕らが入りやすい雰囲気を作りますから」
「おっ、辻くん頼もしいじゃん」
「そうして頂けると、とても助かります」
 結局、チェックリストの最後の項目は一年目の協力を得られたので、実質的にクリアということにしました。
 心残りがないわけではありません。これではまるでわたしが、真面目過ぎてつまらない人間だと思われているようではありませんか。それはとても心外です。
 高校の文芸部で部長をしていた頃は、場を和ませるムードメーカーだったという自負もあります。どうにか起死回生の一手を打たなければならない……と意気込むまでは良かったのですが。
 当日を迎えて、やはり何も思いつかないのでした。
 本番前、わたしが会場入りしたときには、篠木くんも来ていました。見学者はまだいないようです。
「篠木くん。会心のネタの件ですが……わたしには無理でした。ごめんなさい」
「じゃあ、来年の春にはリベンジしよう」
「憶えていたら……」
 篠木くんも真顔で冗談を言うタイプですが、今回は本気のようです。確かにこの説明会のコンテンツはわたしの説明と部員との交流タイム、そして食事会くらいしかないので、特色に乏しいのです。それも含めて、解決法を探らねばならないと思います。
 ふと、時計を見て気付きましたが、開始十分前にして一人も見学者が来ていません。教養棟の一階のホールや、北部食堂前の人通りが多いところに呼び込み要員を出していますが、苦戦しているようです。
 そんなとき、野中さんが入ってきてくれました。
「あっ、文子ちゃん。ここで合ってるね」
「来てくれてありがとうございます。まあどうぞ、座ってください」
 篠木くんは名札を持ってきましたが、それを何故かわたしに手渡しました。
「中津さんの知り合い?」
「はい。中学校までが同じで、高校では文芸部の部長仲間です」
「野中です。今日はよろしくお願いします」
 とりあえず野中さんには名札を書いてもらいます。「文学部一年」と書かれたところに、篠木くんが首を傾げました。
「後輩?」
「同い年ですね」
「なるほど。まあ、中津さんに任せるよ」
「はい……」
 小さな声で確認する篠木くんですが、わたしの旧友に失礼のないようにと気を遣ってくれたのでしょう。上年目は何人か入ってきましたが、まだ他の見学者も来ないので、もう少し野中さんと話してみます。
「どうですか、サークル選びは」
「『エクリチュール』には、やっぱり入ってみようかなって。橋上恵ちゃん、文芸部にいるよね? あの子も考えてるって聞いて、一緒に入ることにしたの」
「ほう。橋上さんもですか」
 橋上さんは迷っていると聞いていましたが、最終的にはお互いの存在が決め手になったようです。
「なんか、文芸部で他のサークルの話しちゃってごめんね」
「大丈夫ですよ。他のサークルが近くにあったほうが、うちも個性を出しやすいですし」
「強かだね。やっぱり文子ちゃんは部長向きだと思うよ」
「ありがとうございます」
 開始まで残り三分になり、見ると見学者は七名ほど来ていました。呼び込み要員もしっかり成果を上げて戻ってきています。わたしは教壇に戻って、資料の最終確認に入りました。
 すると、見学者の一人と話していた篠木くんも戻ってきます。
「中津さんって、本当に誰でもその喋り方なんだね。いつから?」
 投げかけられたのは率直な疑問です。恐らく、わたしのキャラの原点を探ろうとしているのでしょう。しかし、この話はちゃんと話そうとすると三分では絶対に足りません。
「小学校の、高学年くらいからですね……もうずっと、長いことの癖なんです」
「そうなんだ。すごいね」
 そうではないとわかっていながら、ほんの少し皮肉的なニュアンスを感じ取ってしまったりもして。自分のキャラに対する自信はますます揺らぐばかりです。
 しかしながら、フォローしてくれると言ってくれた辻くんをはじめ、仲間を信じることも部長の務めです。わたしは正面を向いて、いつもより大きな声で呼びかけました。
「皆さん、お待たせしました。文芸部の後期新歓説明会を始めます!」

 一連の説明と短い交流時間が終わり、食事会への移動時間となりました。教室を出ようとしたところで、相羽さんが声を掛けてきます。
「部長。いつもより明るくて、良かったですよ」
 とりあえず、これでやるだけはやったと言えるでしょう。大所帯をまとめる部長には、溢れるパッションも大事です。
「そうですか、ありがとうございます」
 そこで、相羽さんが見学者を一人連れていることに気付きました。相羽さんと同じく明るい色のパーカーを着た女性です。交流時間には話せなかったので、このままご一緒しようと思います。
「そちらの方は……」
「ジャズ研仲間なんですけど、今日来てみたいって言うので連れてきました」
「入船です!」
「名前が照なので、みんなテルミンって呼んでます」
「手をかざしても、音が出たりはしないですけどね」
 息のぴったり合った、絶妙な間の掛け合いです。入船さんの名前はしっかりと印象付けられました。ニックネームのほうは、そういう名前の楽器を聞いたことがあります。
「文芸部をぜひ、よろしくお願いします」
「入部届ってどうすればいいんでしたっけ?」
「毎週火曜日に部会があるので、そこに持ってきていただくのが確実ですね」
「マジでやる気なの?」
「もうペンネームも考えてるよ。多分、凉ちゃんよりは語彙力あるからできると思う」
「おっ、言うじゃんお前」
 なかなかの意欲を感じます。完全に未経験のようですが、これからの成長が楽しみです。
 食事会でもわたしたち三人は同じテーブルを囲み、残りの角には和泉さんが座りました。
「君らってジャズ研だったよね? あたし最近行ってないけどわかる?」
 和泉さんは、入船さんを一目見るなり問いかけます。掛け持ちしているサークルが同じとは、思わぬ接点です。
「ごめんなさい、お顔は憶えているんですけど、名前が出てこなくて」
「まあ、あたしも今はそんな感じだけど……テルミンちゃんだっけ?」
「あっ、そうです」
「合ってた。相バスと仲いいから、憶えてたわ」
 どうやらジャズ研究会では、あだ名を付ける文化があるようです。
「和泉さんにもあだ名があったりしますか?」
「そりゃお前、婦系図よ。初対面でそれ言った三人のうち、二人がジャズ研だったからな」
「なるほど」
 残りの一人はわたしです。和泉恭子という名前を最初に聞いたときには、それを連想せざるを得なかったのです。
「でも、最近はだいたい和泉の姉貴って呼ばれてますよね?」
 相羽さんから指摘が入りました。「姉貴」とはこの上なく直球ですが、和泉さんにはなかなか似合います。しかし、本人は不服そうに顔をしかめました。
「それ、こっちでは広めないでくれよ? なんか三下がすり寄ってきてる感じして、好きじゃないんだよな」
 鋭い言葉で拒絶を示す和泉さんに、相羽さんははっきりと身震いします。しかし次の瞬間、その衝撃は興奮に変わったようでした。
「今の、すごい姉貴っぽくなかった?」
「うん。格好良かった」
 これもやはり、和泉さんのカリスマ性がなせる業なのでしょう。本人はと言えば、とても煙たそうです。
「もう、あたしの話はいいだろ。フミの話も聞いてやれよ」
 あっという間にターゲットをなすりつけられました。果たしてどんな話を振られるのか。わたしは相羽さんに注目します。
「部長は……なんか、自分のことを面白おかしく話すのは苦手そうですけど、浦川さんの面白エピソードとか、持ってませんか?」
 ここにはいない先生の話です。入船さんはもちろん首を傾げます。
「浦川さんって?」
「今、冬部誌で私が見てる作者さん。すんごい職人って感じの人なんだけど、意外と遊びに付き合ってくれたり、ドーナツ奢ってくれたりして、面白いの」
「いいなあ。会ってみたい」
 なんと、裏で先生と相羽さんがそこまで距離を縮めていたとは。先生からそんな流れを作れるはずがないので、相羽さんが相当根気強くアプローチしたのでしょう。
「部長は、高校時代に浦川さんと最初に意気投合して、文芸部を立ち上げたんですよね? その出会った頃の話とか、聞かせてもらえませんか?」
「まあ、ご期待に沿えるかはわかりませんが……いいですよ」
 わたしが先生と出会ったのは高校一年の秋なので、もう四年前になります。わたしは記憶をたどり、面白そうなエピソードを探しました。
「わたしと浦川は、高校一年のときに同じクラスで……秋の宿泊研修のときに初めて話したんですよ」
「えっ、クラスメートなのにそれってヤバくないですか?」
 まだほんの導入のつもりでしたが、相羽さんは食いついてくれました。話の流れができて助かります。
「そのくらい人見知りですし、他の人に全然興味を持たないので、夏ぐらいには誰も寄せ付けなくなってしまったのです。そうすると、班を決めるときとかに引き取り手がいないんですよ」
「それで、部長の班に浦川さんが入ることになったと」
「はい。まあ、わたしも割と満遍なくニュートラルに付き合っていた結果、特に仲の良いグループに属しているわけではなかったので、自然の成り行きですね」
「部長は浦川さんのこと、先生って呼んでるじゃないですか。それはいつからですか?」
 もう少し間のエピソードを求められるかと思いましたが、相羽さんは核心部分に斬り込んできます。確かにこうして軽快なペースで話を進めるのも、面白さのうちです。
「最初からですね。その宿泊研修の夜に、先生が一人で小説を書いているのを知って、作品を読ませてもらったんです。そうしたら、なんというか……心を撃ち抜かれてしまいまして」
「すると、文芸部を立ち上げるのも部長から誘ったわけですか」
「そうですね。先生はその頃、もう半ば諦めていたんですよ。それをわたしが持ち上げて、編集担当になって、部員集めとかいろいろわたしだけでやることになりましたけど、最終的には全国まで行ったというわけです」
「サクセスストーリーですね」
「すごいです」
 入船さんは小さく拍手をしてくれました。それにしても、ここで終わってはただの自慢話です。相羽さんの質問も続きます。
「でも、高校の文芸部ってみんな何かしら書きたくて入るイメージがあって。部長はどうして、編集専門でやろうって思ったんですか?」
 これもなかなか鋭い質問です。わたしが編集者に憧れた原点の話は、実際これまでほとんどしていません。
「中学の頃ですね。わたしには東京の出版社で働く伯母がいまして。夏休みに、宿題の作文を見てもらうことがあったんですよ。そうしたら、自分ではやるだけやったと思っていた文章に、どんどん赤ペンが入っていきまして。最初は結構、心を打ち砕かれる思いだったわけですが、とりあえず言われた通りに直して出しました。すると、その作文、社会科の税に関する作文コンクールだったんですけど、優秀賞をいただきまして。編集者の力というものを思い知ったのです」
「自分でも、そういう力のある編集者になりたいと?」
「そうですね。書き手が一人で完璧な表現をできることは稀だと思うんです。推敲の故事が示すように、誰かと議論をする中で、表現が磨かれることも多いでしょう。わたしは自分でゼロから何かを作るのは得意ではないので、そのお手伝いができればと思っています」
「そうなんですね」
「なんか、すごいな」
 和泉さんも、ぽつりと感想をこぼします。
「あたしは編集長やってるけど、単に本を作りたいってだけだから。フミ、自己分析もうできてるじゃんか」
「そうでしょうか……」
 わたしたちも、三年生になれば就職を意識する時期になってきます。傍から見れば、明確な軸のようなものもあって、部長としてこれから作っていく実績もあるわたしは、あまり苦労せず就職できてしまうように見えるのかもしれません。
「アキもそうだけど、ずっと一つの目標があるっていうのは、あたしから見ればよくやるよねって感じ。いい意味でね」
 そうは言っても、工学部で構造力学などを学んでいるらしい和泉さんなら、専門性の面で就職に有利だと思っていました。
「工学部というか、理系の研究室なら、就職先もある程度保証されるのでは?」
「いやいや、今はそんなこと全然ないよ。公務員も多いしな。あたしみたいなのは地道にやらなきゃ、どこにも行けないさ」
「そうなんですね……」
 一年生の二人を前にして、思わず重い話になってしまいましたが、入船さんは思いのほか真剣に聞いてくれていました。わたしたちの姿が、後輩の目にはどのように映っているのか。どのような影響を与えうるのか。そういうことまで考え出すと、きりのない秋の夜長でした。

 翌日の長谷くんの合評では、やはり「最後がわかりにくい」という感想が四人中三人から出たので、長谷くんの求める情趣を損なわないような見せ方を中心に検討しました。それにしても大筋は好評で、前途は明るいと思います。
 合評が終わった後、参加者の新井くんが声を掛けてきました。
「長谷くん。例の企画、感触はどうやった?」
「橋上さんは、興味はあるけど、新入部員が参加しないようだとあんまり……って感じでした。相羽さんは、なんか胡散臭いから様子を見る、と。女性陣は全体的に感触が悪いですね」
 企画班員である長谷くんにも、メンバー集めを手伝ってもらっているようです。
「なるほどなあ。辻くんとか、高崎くん辺りは?」
「辻くんは冬部誌に出さなかったから、書く機会があるなら参加してみようかなって言ってました。高崎くんは、橋上さんと同じような感じです」
「ふむ……じゃあ、新入部員が参加してくれるかどうかがキーポイントやな」
「そうですね」
 入船さんの顔が浮かびます。昨日に関して正直に言えば、他にあまり本気で入ってくれそうな人がいなかったのです。後期入部が少なくても部の全体としては問題ありませんが、せっかくの新井くんの企画が頓挫してしまう確率が大きく高まることでしょう。
「中津さん、昨日の新歓で話してた子、おるよな。どんな感じやった?」
「まあ、彼女は相羽さんと仲が良いみたいですし、ペンネームも考えていると話していたので、入部してくれると思いますよ。企画に関しては誘ってみないとわからないですが……」
「なるほど。昨日は言うほど入ってくれそうな人がおらんでな。そこに期待するしかないか……」
 こうして情報収集に余念がない新井くんですが、今は冬部誌の大事な時期でもあります。
「ところで新井くん。自分の冬部誌のほうは大丈夫ですか?」
「まあな。桜木さんと二日置きに打ち合わせしてるけど、すごいで。俺はどんどん上手くなる。釣りは捨てたから、もう原型ないといえばそうやけど、その分中身の面白さで勝負する」
 果たしてそれにどこまでの根拠があるのでしょう。何気に重要なモチーフであった釣りを「捨てた」というのも気になります。また去年のような迷走の始まりでないことを祈ります。
「まあ、今日もノルマがあるから、また今度な。お疲れさん」
「お疲れ様です……」
 残ったわたしたちも長居する理由はなかったので、片付けをしてすぐに外へ出ました。もうすぐ十一月。夜はすっかり寒いです。

 さて、注目の集まる新入部員の数ですが、翌週の部会の時点では三人ということがわかりました。そのうち女性は入船さん一人です。
 その三人が参加してくれた部会の最後に、新井くんが前へ出ました。
「新入部員の皆さん、入部ありがとうございます。企画班の新井です。早速ですが、皆さんを歓迎する意味も込めて、私はある企画を行いたいと思っています。その名も……」
 新井くんは自らチョークを持って、黒板に大きく企画名を書きました。
「『チーム創作プロジェクト・朝村ゼミ』です!」
 自らのペンネームを冠した、大仰な企画名です。新井くんは篠木くんにチョークを預けて、説明を続けます。
「テーマは、文芸を介した関係を築くこと。プロットから完成まで、六人くらいのチームでお互いの作品が出来上がっていくのを見届ける企画になります。流れとしては、十一月の中旬にプロットの検討をやって、十二月から合評を二回経て、一月末くらいに完成の予定です。合間に座談会みたいな交流企画も予定しています。
 完成した作品は、予算がないので紙媒体にはしませんが、私が編集して部内誌のような形にしたいと思います。
 既に、一年目のメンバーには募集を掛けていますが、せっかくなので、新入部員の方にも参加して頂けたら、より良い場になるのではないかと思います。また、上年目の皆さんにも、何人かにはお話しましたが、アドバイザーとして参加して頂くことで、年目を超えた交流もしたいという思いがあります。
 詳しい作品数の規定などはメールドライブに資料を上げておりますので、新入部員の皆さんも、アクセスできるようになったら覗いてみてください。参加を希望される一年目の方は、来週末くらいまでに連絡をお願いいたします。一緒にこれからの文芸部を盛り上げていきましょう。皆さんのご参加お待ちしております!」
 その後、質疑応答では三年目以上の上年目からいくつかの質問が出ましたが、企画のコンセプトや段取りに疑問を呈するものではありませんでした。少なくとも、上年目にはそれなりに受け入れられたのではないかと思います。
 部会が終わった後で、わたしは新井くんがメールドライブに上げた資料を覗いてみました。
『この企画の目標は三つあります。気軽に創作を体験する場をつくること。文芸を介した関係を形成すること。そして、集団を活かして作品の質を高める方法を考えること。いずれも、これからのこの部にとって必要なものだと私は考えています』
 前書きの言葉です。根っこにある考え方は、役員選挙の頃から変わっていないように思います。しかしながら、あの頃新井くんを支配していたような利己心は、今のこの企画からはあまり感じません。もっとも、利己心を巧妙に隠す術を学んだのかもしれませんが……。
 資料の続きには、「シラバス」として大まかなスケジュールや作品数の規定などが書かれていました。『気軽に』とは書いてありましたが、企画名に「ゼミ」と入っていることもあって、かなり真剣な企画という印象を与えます。
「なるほど……って」
 画面から目線を上げると、目の前に先生がいました。ここ最近は会えていなくて、およそ三週間ぶりです。
「久しぶりだな。調子はどうだ?」
「わたしは、いろいろ順調ですが。先生こそ、その後相羽さんとは上手くやっていますか?」
「まあな。なんだか……相羽は、天海を思い出させる」
 先生はしみじみと言います。あれこれ言いながらもやっぱり、興味を持ってくれる後輩がいるのは嬉しいのだと思います。
「久しぶりに、アフターでも行きませんか?」
「ああ」
 ちょうどアフターへ行くメンバーが教室を出るところだったので、わたしたちもその流れに乗って移動しました。今日は鳳華苑です。同じテーブルには、橋上さんと入船さんが来ました。入船さんが先生の隣になりました。
 部会で自己紹介もあったわけで、少なくとも先生は入船さんを新入部員として認識しているはずです。果たしてどうなるかと半分期待しつつ見ていると、先に話し掛けたのは入船さんでした。
「あの私、新入部員の入船と言います。何年目の方ですか?」
「二年目の浦川だ」
 会いたいと言っていた先生と対面していることがわかって、目が輝きます。
「すごい、本物ですね! 凉ちゃんから聞きました。あと部長からも。すごい職人だけど、優しい人だって」
「……そうか」
 先生がわたしを睨みます。いったい何を話したのだ、と。とりあえず、知らん顔をします。
「浦川さん。相羽さんとはどうですか?」
 橋上さんがやや心配そうに尋ねました。誰もが気になることなのかもしれません。
「なに、心配には及ばないよ。相羽はわたしの作品をよく読んでいるし、遠慮せず意見も言える。一年目だ。やる気さえあれば、とやかく言わないさ」
 なんと、先輩風を吹かせた台詞でしょう。しかしながら、先生がこの部で後輩との関係をほとんど築けていないのを気にしていたのは事実です。先生なりの努力なのでしょう。突き放すよりは間違いなく良いです。
「あっ、恵ちゃん。凉ちゃんが、会って結構経つのに『相羽さん』としか呼んでくれないって寂しがってたよ。いつでも『相バス』とか『凉』って呼んでくれていいからねって伝言」
「そうなの? わかった、今度話してみるね」
「ついでに私も、『照』とか『テルミン』でいいからね」
 それにしても入船さん、相羽さんのコミュニケーション能力の高さには驚かされます。二人を中心に、間違いなく人間関係が円滑に動き始めています。きっと今年の一年目は、わたしたちや三年目の抱えたようなコミュニケーションの問題でぶつからずに済むことでしょう。それはとても大きな希望です。
「それで、浦川先輩。凉ちゃんとドーナツ食べたって本当ですか?」
「そんなことまで……あれは、編集をしっかり務めてくれているお礼だ。服を見繕ってもらったりもしたがな」
 さらっと重大な情報が引き出されます。お洒落には全く興味のない先生が! しかし、今日の服装はわたしもよく見覚えのある類の、暗い色のコーディネートでした。
「今日のそれは、凉ちゃんのコーデですか?」
「いや……普段着は、これで十分だ」
 つまり、選んでもらったは良いが、お洒落過ぎて普段から着るのがためらわれるということです。なんと勿体ない。
「先生、今度見せてくださいよ。相羽さんも今日、残念に思ったのではないですか?」
「相羽には、打ち合わせのときに一回見せた。今日は洗濯中だ」
 全く着ていないわけではないので、まだ良いほうでしょうか。
 入船さんの会話はあちらこちらへと話題が飛びましたが、先生の近況は着実に明かされていきました。相羽さんと一緒に楽しく執筆に励む姿が垣間見えます。普段ストイックになりがちな先生にとって、それは貴重な体験であったに違いありません。
 先生に関する話題が概ね尽きると、今度は入船さんの今後の話になりました。
「部長。今日、新井先輩でしたっけ。企画があるっておっしゃってましたよね。あれに参加したら、小説は書けますか?」
「そうですね。普段の部誌より前の段階からアドバイスが貰えるので、最初には良いかもしれません」
 わたしは迷わず参加を勧めました。実を言えば、代わりの機会が全くないのです。自由創作として好きなタイミングで公開するのを除けば、企画はマスカレードを、部誌は来年の夏部誌を待たなければいけません。
「先生は結局、アドバイザーを引き受けるんですか?」
「まあ、都合の良いときに行くとは言っておいた。相羽はネタがないとかで、参加しないらしいが」
「照ちゃんが参加してくれるなら、私も参加しようかなって思ってるの」
 橋上さんも入船さんを誘ってくれます。
「一応、高崎くん、辻くん、長谷くんは参加するみたいなんだけど、みんな前期からいて一年誌もやったから、それだとあんまり面白くないと思ってて……」
「えっ、一緒にやろう。恵ちゃんは小説も詩も書けるんだよね。色々教えてよ」
「うん。いいよ」
 こうして自分たちの意思で一年目が集まってきているのは、とても喜ばしいことだと思います。もはやこの企画は、新井くんだけのものではありません。
 翌日、新井くんからメールで連絡がありました。
『朝村ゼミ、参加希望者が六名集まったので、開講決定です。よろしくお願いします』
 後から見返すと参加者が聞いていたより多かったのですが、わたしは興奮のあまり、見落としてしまいました。
『おめでとうございます! わたしも集まりには出ますし、部としてもできる限りサポートしますので、遠慮なく相談してくださいね』

 その週の金曜日の放課後に、メンバーが集められました。内容はオリエンテーションだけと聞いていましたが、進め方を話し合う部分もあるそうなので、わたしは早速顔を出してみることにしました。
「今日は顔合わせということで、入部間もない方も久しぶりの方も居りますし、まずは軽く自己紹介から。この企画の運営を担当します、二年目の新井です。皆さん参加してくれて本当にありがとうございます。この企画が、これからのこの部を盛り上げるきっかけになればと思います」
 場所はいつもの図書館の個室です。上年目は、今日は突発的な集まりだったためか、わたししか来ていません。
「では、一人ずつ意気込みでも頂こうかな。入船さんから」
「はい」
 指名された入船さんはその場に立ち上がると、左から右へ、視線を注ぐ仲間たちを見回しました。表情にはわずかに緊張が見えます。
「新入部員の入船です。相羽さんと同じジャズ研で文芸部の話を聞いて、小説が書きたくなったので入部しました。本当に初めてなので、こういう企画があって良かったと思います。皆さん色々教えてください。どうぞよろしくお願いします!」
 温かい拍手が起こります。それを受けて、入船さんはにっこりと笑顔を見せました。
 その後、高崎くん、長谷くん、橋上さん、辻くんと順に挨拶をして、最後がその、正体不明だった六人目です。
「では、最後。敷嶋さん、お願いします」
 無言で立ち上がった、やや大柄で髪の長い女性が敷嶋さんです。わたしの席からは彼女の顔が前髪に隠れて見えなかったので、少し移動しました。それでも俯いていて、表情を読み取れません。
「あの……敷嶋、です。私も、初心者なので……お手柔らかに、お願いします」
 息が上がっています。敷嶋さんは文学部の一年生で前期入部ですが、部会には滅多に来ていませんでした。一年誌では合評に出たり、自己紹介のページを書いたりしていましたが、わたしも顔を見るのは(見えませんが)本当に久しぶりです。
 拍手が起こると、敷嶋さんは立ったまま硬直してしまいました。こういう場は得意でないというか、大の苦手なのでしょう。それでも今回参加を希望してくれたのは、とても勇気を要したことだと思います。
「敷嶋さん、ありがとうな。もう座ってええよ。ゆっくりな」
 新井くんに促されて、脱力したように腰を下ろします。わたしはその姿を見ながら記憶をたどりますが、前期の頃はもう少し整った綺麗な髪だったような気がしました。
 その後はスケジュールを確認したり、プロット会議の場所を確保する当番を決めたりしました。そして、プロット会議が終わるまでの宿題として、三つが提示されました。
「一つは、座談会をやろうと思っているので、文芸に関することなら何でも良いのですが、みんながどう思っているか聞きたいというテーマを考えてきてください。とりあえず出してもらって、全員で絞ります。
 一つは、一千文字くらいの簡単なコラムページを書いてもらおうと思っているので、そのテーマも考えてみてください。随筆です。
 最後、これは当分先でも良いですが、最終的に同人誌っぽくまとめるので、そのタイトルを募集します」
 まるで高校の文芸部を思い出させるような、盛りだくさんの企画です。
「はい」
 新井くんの説明が終わると、橋上さんが手を挙げました。
「橋上さん、どうぞ」
「その、本のタイトルを思いついたのですが……」
 注目される中で、橋上さんは一呼吸おいて、その言葉を口にします。
「『萌芽』なんて、どうでしょうか」
「なるほど。これやね」
 新井くんが漢字をホワイトボードに書いて確認します。芽生えを意味する言葉ですが、確かに今の状況には適しているかもしれないと思いました。橋上さん本人からも説明がされます。
「一年目はこれから、文芸部でたくさんのことを形にしていきたいと思っています。こうして入船さんや、敷嶋さんも一緒に集まれたことが、何かのきっかけになればいいなと、願いを込めたタイトルです」
 わたしが拍手をしようとしたところで、もっと早くから拍手が始まりました。この場にいる全員が、橋上さんの願いに共感しています。それを見て、新井くんはホワイトボードに書いた二文字を、大きく丸で囲いました。
「よし、『萌芽』で行こうか」

 オリエンテーションは、それで解散となりました。一年目のメンバーはこのまま食事会という流れでしたが、新井くんは自分の冬部誌もあって参加しないと言います。わたしは久しぶりの敷嶋さんと喋りたい気持ちもありましたが、一年目同士の交流を邪魔してもいけないので、新井くんと一緒に帰ることにしました。
「敷嶋さん、よく参加してくれましたね」
「ああ。部会の次の日に連絡が来たんよ。『私でも参加していいでしょうか』ってな。あの子は文章になるとかなり饒舌やで。そのメールに、どうして参加しようと思ったかが延々書いてあるわけよ」
「ほう」
「ざっくり言うと、『社会復帰』なんだとか」
 やや異質な表現ではありましたが、今日の敷嶋さんの様子を見るに、察することもないわけではありません。
「深くは聞きませんが……苦労されているみたいですね」
「俺も前期に一回くらいしか話してなかったから、驚いたで」
「はい。正直、このままいなくなってしまうのではないかと思っていました」
 今回参加していない一年目メンバーも、着実に影が薄くなりつつあります。合宿の頃は十二人以上と見積もっていましたが、今のところ安定して参加している前期入部のメンバーは九人くらいになっていました。
「この企画も、一年目の中で参加した、しなかったの壁を作るのではないかと、少し心配しています」
「二年目も去年の今頃には、もうメンバーがだいたい固定されてたけどな」
「それはそうですが……」
「他のメンバーも部誌には参加してくれてるし、そこは、上年目がフォローできるんちゃう?」
「……はい」
 誰一人こぼさないことは理想ですが、やはり現実的にできないこともあります。そのようなフォローを望む人ばかりでもありません。一方で、それは今回のような人数制限のある企画を諦める理由にもなりません。
「まあでも、とりあえず企画倒れにならんで助かったわ」
「そうですね」
 助かったのはわたしも同じですが、恐らく新井くんの言うそれとは重さが違います。
「企画の舵取りは任せますので。新井くん自身も、楽しんでくださいね」
「ああ。また顔出してや」
「はい」
 地下鉄の駅のところで別れます。週末には雪の予報が出ていました。わたしは暖かい駅構内に駆け込みます。
 二度目の冬。そして始まった『萌芽』。後輩たちは何を見せてくれるのでしょう。わたしはせめて、その芽を決して潰すことのないように見守りたいと思うのです。

十九 萌芽(後)

 朝から初雪の訪うた日に、長谷くんの二次合評がありました。これまで問題にしていた結末のことは一転して「良い塩梅だ」という感想が全体を占めたので、浮いた時間で細部のブラッシュアップを検討しました。
 参加者の中には、新井くんの企画をきっかけに復帰しつつある敷嶋さんがいました。彼女はやはり口頭で意見を述べるのは苦手そうでしたが、合評の前に送られてきた原稿のファイルには細かい表現に至るまでびっしりとコメントが入っており、わたしは新井くんの話していた「文章になるとかなり饒舌」という意味を理解したのです。その内容は単に指摘だけではなく、気に入った表現、好きなシーンなどプラスの感想も多く含まれていて、編集としては非常にありがたいものでした。
 合評が終わった後、声を掛けてみます。
「敷嶋さん。感想ありがとうございました」
「あっ……はい」
 俯いてしまって、いかにもお礼を言われ慣れていないような反応です。わたしが先輩だからかもしれませんが、かなりの人見知りに見えます。しかし、それで遠慮していては部長の名折れです。
「この後、鳳華苑でも行きませんか?」
「行きたい、です」
 これには意外と反応が良く、顔を上げて頷いてくれました。
「良かったら、長谷くんも一緒に」
「行きます」
 他の参加者は帰ってしまったので、三人で鳳華苑に向かいます。冷たい風にちらちらと雪が舞う中で、自然に足取りは早まりました。そんな中でしたが、わたしは敷嶋さんの荷物がとても少ないことに気付きます。具体的には、手提げのバッグ一つです。
「敷嶋さんは、どの辺にお住まいなんですか?」
「寮生、です」
 納得しました。教養棟近辺からであればいつでも行き来できます。
「出身はどちらですか?」
「愛媛の、宇和島というところです」
 なんとなくですが、雪などほとんど降りそうにない、暖かいところというイメージがあります。
「なるほど。北海道は寒いでしょう」
「はい……でも、雪は嫌いじゃありません」
「ほう。そちらでも、雪は降りますか?」
「降りますよ。こちらほどは、積もらないですけど」
 故郷について話す敷嶋さんは、普段の緊張が少し和らいでいるように見えました。こちらでの暮らしで苦労する中、やはり故郷を思い出すことに安らぎを感じるのかもしれません。
「長谷くんは出身どちらでしたっけ」
「僕は山形です。雪は慣れてます」
 場合によっては、札幌よりも雪の深い土地です。雪にも寒さにも、あまり特別な感情はなさそうでした。
 鳳華苑に入ってからも、もう少し地元の話を続けてみることにします。
「辻くんも、愛媛出身でしたよね?」
「彼は、四国中央なので……端と端です」
 敷嶋さんは、高知県に近い南西の端。辻くんは香川県に近い北東の端だそうです。気候もそれなりに違うのだとか。
「四国、行ってみたいですねえ……」
 学部のほうでも、今年は夏休みに合宿で佐賀県の武雄温泉に行ったりしましたが、四国には行ったことがありません。
「浦川さんのペンネームって、何が由来なんですか」
 そこに、長谷くんの質問です。先生は本名が「秋」なので、読みの同じ「安芸」をペンネームにしています。しかし、わたしでも由来を聞かれると少し困ります。
「まあ本人は、『旧国名の安芸』って名乗ってますけど……『芸の字を使いたかった』とも言ってましたね」
 それ以上のことをわたしは知りません。字面を重視した当て字だと納得していたので、気にしたこともなかったのです。
「安芸は広島と高知にあるので、どっちなのかな、と。旧国名なら、広島ですね」
 長谷くんは日本史、特に戦国時代が好きなのだそうです。それは、多くの人物に興味深いエピソードがあり、人物像を想像するのが面白いから。歴史学というよりは、文学的な視点です。
「長谷くん、長曾我部元親が好きだって言ってたよね」
「うん」
 敷嶋さんが挙げたのは、まさに四国の大名です。そこからはわたしもあまり詳しくない、歴史トークが始まりました。この二人はなかなか息が合いそうです。敷嶋さんも、いつの間にやら普通に喋っていました。

 これで「わたしも楽しい時間を過ごせました」と結んでも良いような気分にはなりましたが、二人を誘った目的は一応あるのです。歴史トークが落ち着いたところで話を切り出してみます。
「ところで敷嶋さん、新井くんの企画に向けた作品は順調ですか?」
「えっと……今、プロットを書いてみています」
 とりあえず停滞してはいないようでしたが、順調とも言えないような反応です。
「作品の構想自体はある、という感じですか」
「はい。新井さんの資料が、ありまして。それに沿って、考えています」
 前回のオリエンテーションの直後、新井くんがメールドライブに資料を掲載しました。それは、文芸部が公式に行う執筆ガイダンスよりも幾分深入りした、新井くん独自のメソッドによる指南書だったのです。『物語の種(テーマ)の見つけ方』『弁証法的役割理論』『ペース配分と三幕構成』の三章立て、印刷すると十ページにもなります。わたしも全部は目を通せていません。
「新井くんの資料ですか。長谷くんは、読んでみましたか?」
「流し読みですけど……ハリウッド式みたいな感じでしたね。役割に人物を割り当てたり、文字数のバランスを考えたりするところが」
「ハリウッド式脚本術とか呼ばれるものですね。確かに新井くんなら知っていそうです」
 わたしも自分で試したことはありませんが、概略だけなら知っています。元は映画の脚本に関する方法論で、長谷くんが言うように、登場人物の役割や物語の展開、そして時間配分を定型に当てはめることでそれらしく見えるというものです。
「まあ、絶対それでやらなきゃいけないわけではないらしいですけど」
「それならまあ……何もないよりは良いでしょうね」
 理論としては、構成上詰めるべき部分が明確なので、惰性でやると陥りがちな「山なしオチなし意味なし」を回避しやすいというメリットが大きいと思います。その一方で、初心者が書く前から文字数を意識することは困難です。箇条書きのプロットと実際の文章表現が乖離することも当然あるでしょう。まさにプロットが「机上の空論」になってしまうこともあるというわけです。
「プロット会議自体は、ここではやったことがないので、面白いと思うんですよ。果たしてどうなるか……」
 しかしながら、仮にプロット会議が新井くんの想定通り機能しなかったとしても、保険は掛けられているのだろうと思います。例えば、次回の一次合評では作品の完成を前提としない、つまり未完成の作品を合評に出しても良いということが資料に書いてあります。プロット会議も含めて完成までの軌道修正を意図したものだと思いますが、仮にスムーズに執筆が進まなかったとしても、脱落者を出さずに済むという側面もあります。いずれにしても、現行の部誌制度にはないセーフティネットです。
「まあ、一年目の皆さんはとにかく楽しんでやるのが一番ですね」
「はい」
「僕もそう思います」
 するとそこに、先生からのメッセージが届きました。なんと良いタイミングでしょう、新井くんの企画の話です。
『新井の企画のプロット会議とやらに参加してみようと思うのだが、来られそうか?』
 暗にわたしがいないと参加しないと言っているわけですが、確かにまだ新井くんと一年目の集まりに先生を一人で放り込むのは酷だと思います。相当なアウェーです。
『基本的に大丈夫ですよ。二日に分けるみたいなので、後で調整しましょう』
 先生に返信を打ってから、二人にもそれを伝えてあげることにします。
「先生……二年目の浦川も、プロット会議に参加してくれるみたいです」
「それは楽しみです」
 長谷くんは食いついてくれましたが、敷嶋さんは最初、首を傾げていました。
「浦川さんって……『オーロラ』の人ですか」
「そうです。少し気難しいですが実力は確かなので、温かく迎えてあげてください」
「あっ、わかりました。前回、一年目の中で噂になっていたので、話してみたいです」
 しかし、先生を認識するなり少し前のめりになって興味を示してくれます。わたしもその経緯には大いに興味があります。
「噂になっていた……とは?」
「入船さんが、『来てくれたらいいな』って話してて。いろいろすごい人なのだと」
 いつの間にか、ハードルがどんどん高くなっているようです。それにしても、先生にはそのくらい軽々と超えてもらいたいところです。わたしも加担してしまいます。
「昨年はわたしたちの同期で唯一、傑作選に作品が載りましたし、マスカレードも上位の常連です。二年目の中では一番のベテランと言って差し支えないでしょう」
 すると長谷くんから、思わぬ名前が挙がりました。
「二年目だと、僕は小野寺さんもすごいと思います。夏部誌の『叫べ』を何度も読んでます」
「それはぜひ、本人に直接伝えてあげてください。一年目から見ると、先生以上に話し掛けにくいかもしれませんが……ぜひ」
「まあ……そうですね」
 わたしは純粋に嬉しくて熱が入りましたが、長谷くんは曖昧な返事をします。小野寺さんに話し掛けにくいのは、やはり確かなのです。
「小野寺さんって、どんな方ですか」
「髪が長くて、身長はわたしより少し低めで……今回の冬部誌では、『元素』という詩集を出してますね」
「詩は読ませていただきました。今度の部会で探してみます」
 これが先生の話だと、わたしは調子に乗って様々なパーソナリティを喧伝してしまうわけですが、小野寺さんについてはそうもいきません。高校時代から最近のことまで、容易く話すことのできない可憐な秘密のエピソードばかりです。
「まあでも、小野寺さんは去年の後期に文芸部に入ってからここまで上達しているので、先生よりは一年目の皆さんに近い立場かもしれませんね」
「後期入部だったんですね、知りませんでした」
 こうして、企画の話から二年目の書き手の話になったわけでしたが、二人から新井くんの名前が出ることはありませんでした。本人がいたとしても、先生や小野寺さんと同列に語られることはまずないのでしょう。そんな哀しい功労者である新井くんの企画を、わたしはしっかり見届けてあげたいと改めて思いました。

 翌週の土曜日、わたしは先生と二人でプロット会議に参加させてもらいました。前日に三人分は終わっていて、後半とのことです。
「今日は、高崎くん、敷嶋さん、入船さんの順番に行きますよ」
 全員分のプロットを事前に受け取っていますが、単純な進度にはやはりばらつきがありました。高崎くんは今、書きたい最初と最後のシーンだけが決まっているという感じで、その間の線は大雑把にしか引かれていません。
「高崎くん、準備ができたら説明お願いします」
「はい。最初に、まだ全然決まっていなくて申し訳ありません」
 そんな謝罪から高崎くんの説明が始まります。それでも、新井くんを含めた参加者の間には、それを咎めるような雰囲気は一切ありませんでした。
「タイトルは未定、ジャンルはメルヘンみたいな感じです。主人公の少年は命にかかわるような病気でずっと入院しているのですが、ある日、紳士風の魔法使いが現れて、生き延びるためのチャンスをくれると言います。ある少女の願いを叶える助けになれ、ということで、どこか知らない町に飛ばされて、その少女とまずは仲良くなって、彼女の願いを叶えようと頑張る物語です
 彼女の願いが何なのかが、大事なところですが決まっていないです。ただ、単純に叶えてめでたしという流れにするつもりはなくて、主人公が葛藤した末に願いを叶えるのを諦めるところが書きたいです」
「諦めると、主人公はどうなるの?」
 橋上さんが質問しました。わたしもそこは気になっていたところです。
「主人公は自覚していないんですけど、死にます。魔法使いが見えた時点でもう、危篤状態なので」
「でも、葛藤するってことはその少女の代わりに何か、重く見たものがあるってことだよね? それのために、無自覚で死ぬことを選んじゃうのはなんだか、悲しすぎるというか、救いがなさすぎる……」
「私も、そう思う……」
 共感を示したのは入船さんでした。高崎くんは首を傾げます。
「まあ、確かに。でも、却ってそれのために生き返れたりしたら、またご都合主義みたいになるかなと思って。一番納得感のあるのはどういう形だろう」
 新井くんも一言くらいは言いたそうに口をつぐんでいました。逆に先生は、余裕のある表情で後輩たちを見守っています。わたしはその考えを聞いてみたいと思いました。
『先生ならこの局面、どのようにお考えになりますか?』
 メモ帳に質問を書いて、シャーペンと一緒に先生に渡してみます。先生はすぐに答えを書いてくれました。
『寓話だとすれば、一番は叶える願いの内容だろうな。例えば、結果として主人公が誰かの命を救ったのであれば、生き返っても良いのではないか?』
 なるほどと思います。その願いが命がけの主人公を葛藤させるような重いものであるという前提ならば、猶のこと自然につながります。
 わたしはというと、少女の吹っ掛ける願いが困難なもので、生きるためとはいえ主人公の心が折れたという筋書きを考えていました。しかし、それはそれで書くのが難しそうです。他のあらゆる可能性を排除して徹底的に主人公をいじめなければなりません。恐らく高崎くんの想像している展開は、それほど鬼畜なものではないと思います。
「僕は、最後まで救われないのも悪くはないと思いますよ」
 議論の流れを変えたのは長谷くんでした。
「というか、主人公の努力と思考の結果として必然的に迎える結末なら、救いのあるなしは関係ないんじゃないかな、と」
「僕も、長谷くんに近い。ハッピーエンドは好きだけどね」
 辻くんも同調します。見解は割れていますが、高崎くん自身が考える材料は積み上がってきました。
「敷嶋さんはどう思う?」
 そろそろ一区切りつけられるかというところで、これまで喋れずにいた敷嶋さんに、橋上さんが話を振ってくれました。敷嶋さんは手元のプロット用紙に目線を落としながら口を開きます。
「あの……多分、最後だけを考えてもあんまり意味がなくて、主人公が、自分本位なところから始まって、自分以外のことも考えるとか、生きる希望を失っているところから始まって、どうにか生きようとするとか、全体の流れが、大事なのかなと思います」
「おお、確かに」
 一同の意表を突くような意見に、感嘆の声が広がります。わたしもここまでは「メルヘン」を前提として、主人公の置かれている状況やイデオロギー的な意味を軸に考えていました。しかし、それでは見えないものもあるというわけです。
「主人公の性格とか考えがあって、それに対して少女の願いがあって、最後はどういう結末だったとしても、主人公が経験したこと、考えたことの帰結であるなら、説得力も出てくると。かなりイメージがはっきりしてきました。具体的なことはこれから考えますが、ためになる意見をたくさん頂いて、ありがとうございます」
 一連の議論を通して、高崎くんは確かな道筋を見つけられたようです。こういうことは、普段の合評の場でやるには遅すぎます。それこそ一度は完成した作品に引っ張られて意見の幅が狭まるか、意見の幅が広すぎて作品を瓦解させてしまうかです。
 続く敷嶋さんのプロットは、『鎖場』という作品でした。
「主人公は、気弱な高校一年の男の子です。強引に登山部に勧誘されて、でも、せっかくだから強くなりたいと思って入部します。その最初の目標が石鎚山で、大きな鎖を伝って登るルートがあるんですけど、そこに挑戦するまでの話です」
 石鎚山と言えば敷嶋さんの地元、愛媛県にある西日本の最高峰です。プロットには補足情報として、ルート上には難易度の異なる四箇所の鎖場があることと、もちろん通しで登ることが目標だということが書いてありました。簡単なところは子供でも登り切れるようです。
「人間と争うのは、私自身あまり好きではないので……自然とか、己と闘うような作品を書きたいと思いました。新井さんの資料に沿って三幕構成で、最初の山は基礎トレーニング。二番目の山は、しまなみ海道サイクリングと尾道での鎖修行。そして最後が、石鎚山での本番という感じです。主人公が、心身ともに成長する過程を描いていきたいと思います」
 物語の大筋は既に明確だったので、主人公や登山部の先輩のキャラクター性を中心に話し合われました。総じて、敷嶋さんは順調なスタートと言えるでしょう。
 最後の入船さんのプロットは、開始前に先生をして「逸材かもしれないぞ」と言わしめた、衝撃的な作品でした。
「タイトルは『クラブのキング』です。よろしくお願いします。プロット会議なので全部ネタバレしちゃいますが、タイトルの『クラブ』はトランプと見せかけて、カニです」
 主人公は居酒屋の生簀にいる花咲ガニで、「ガラス張りの部屋」から無音の人間ドラマを眺めつつ、脱出の方法を模索しているのです。仲間が一杯ずつ引き上げられていくことに、大きな不安と少しの希望を持ちながら……。
「このカニさんを人間だと思って読み進めてもらいたくて、最終的にはなんか、居酒屋とかで見かけたときに『こいつら酔っぱらった人間を見てこんなこと思ってるのかもしれないなあ』とか思ってもらえたら面白いと思います!」
 最初にしていきなり叙述トリックに挑戦しようとする胆力、そして絶妙に馴染みのある生簀のカニを主人公に抜擢するセンスを持ち合わせる書き手はなかなかいません。さすがに先生も認める天才肌です。
 それにしても、プロット会議の段階では固めておくべき内容がほとんどないという話になります。軽妙な文章で「無音の人間ドラマ」を書き切れるかどうかがすべてだと結論付けられました。
 全員分のプロットの検討が終わり、最後に新井くんが総括を述べ始めました。
「皆さん、プロット会議お疲れ様でした。非常に実り多く、素晴らしい会議だったと思います。まずは良いスタートを切れたのではないでしょうか。ここからプロットを実際の文章に起こしていくのが、また大変なところではありますが、次回の一次合評は途中でも大丈夫なので、焦らず恐れずに書き進めてみましょう。途中でも私は相談に乗りますのでね。では、中津さん、浦川さんからも一言ずつお願いできますか」
「はい」
 わたしなどはこのまま出る幕がなくても良いかなと思い始めていましたが、とりあえず言えることは言っておくことにします。
「皆さん、互いに作品を自分のもののように考えて良くしようとする姿勢がみられて、とても良かったと思います。部誌では今、なかなかこれを大規模にやる時間は取れませんが、例えば希望者だけで定期的にやるのも面白いかもしれませんね」
 内容に関するコメントは新井くんとほとんど同じになるので、わたしは部長の立場からコメントしてみました。こういったことが、将来へ託す種になるのだと思います。最後は先生です。
「前半の三人のプロットも読ませてもらったが、それぞれ書きたいものを明確にできていて、わたしも感心した。しかし、文芸はここからが本番だ。決めたことを上手く表現できないこともあるだろう。どうしても話の流れが横に逸れてしまうこともあるだろう。そういうときでも、自分で思う作品の本質的な部分は見失わないことだ。それさえ守れば、多少プロットから変わっても問題はない。合評を楽しみにしているよ」
 先生のコメントが終わったところで、拍手が堰を切りました。もちろん、新井くんやわたしに向けられたものでもあると思いますが、先生の言葉にこそ、大いに奮い立てられたのではないかと思います。そのときの先生の横顔は、栄光ある高校時代を思い出すような凛々しさでした。

 月曜日には、そんな先生の二次合評がありました。
「今回は、まず皆さんの雑感をお聞きしまして、細かいところの描写をいくつか見ていきたいと思います」
 相羽さんの司会も板についています。作品の内容を振り返ると、アラスカでオーロラの写真を狙うベテラン写真家の話です。主人公の父親も写真家ですが、同じくアラスカで巨大なオーロラの写真を撮った次の日に不慮の事故で命を落としてしまいます。主人公はその遺作となった写真を見てオーロラに恐怖を抱いていましたが、このまま逃げていては人生に悔いを残すと思い立ち、父の仇に挑む覚悟でアラスカを目指すという物語です。
 原稿を読むと、初稿から大きく変わったところがありました。終盤で主人公がついに巨大なオーロラに出会ったときの描写です。初稿では普段の先生らしい、主人公にフォーカスした簡潔で情感のある描写でしたが、一次合評を経て、今回は大胆にオーロラの様子を描写する文が増やされていました。
「次は部長、雑感をお願いします」
「はい。一次合評から、終盤のオーロラに出会うシーンが大きく変わりましたね。ここは前より印象的なアクセントになっていて、冗長にはなっていないと思います。ちなみに、この改稿をした経緯は?」
「一次合評で、まあ無難にまとまっているという感想は多かったんですけど、それ以上に面白いとか、印象的だという感じをあんまり持ってもらえてなかったんですよね。それで私が、ここは父親の仇を取るつもりで、文章でもオーロラを全身全霊で描写するしかないと提案させていただきました」
「なるほど。そして、先生もそれを受け入れたと」
「冗長とばかり思っていたが、やってみると存外悪くなかったな」
 わたしが編集だったとしても、このようなディレクションはできなかったと思います。もちろんこれが唯一の正解というわけではありませんが、『無難にまとまっている』というレベルからもう一歩前に出ることを形にできるのはなかなか素晴らしいことです。
 その後も相羽さんの進行で行われたのは、ひたすらアイデアを集めることでした。この要素は掘り下げられる、この部分にエピソードが欲しい、ここの描写をもっと見たい、などなど。ある程度の完成度を前提にして成り立つ大胆な合評です。ただ受け身で意見を聞くのではなく、相羽さんはそれを先生の考えとすり合わせていました。そして何より、先生ともどもここで出た意見の全てを無条件に取り入れるわけではないという立場を明確にして、フラットに意見を捌いています。これらはいずれも当たり前のようであって、しかし文芸部の合評ではなかなか実現しないことなのです。
 時間は少し長めに掛かりましたが、とても濃密な合評でした。この後も先生や相羽さんと三人で裏側の話などを聞きたいと思いながら片付けていると、相羽さんのほうから声を掛けてきました。
「部長。さっきこの部屋の鍵をもらうとき、こういうものを渡されたんですけど……」
 わたしはラミネート加工された一枚の紙を受け取ります。そこには、『サークル活動でのグループ学習室の利用は原則禁止です!』と赤字に白抜きで書かれていました。注意喚起の周知です。土曜日にはなかったはずなので、まさに今日から図書館側が動き出したというわけです。
「ついに来ましたか……」
 文芸部の活動上、非合法的になってしまっている部分はいくつかあって、歴代ではそれをどうにか誤魔化しつつやって来ました。しかし、これを機に取り締まられるようなことがあれば、公認団体としての活動が制限されることも考えられます。幸いにも二次合評は明後日の新井くんの合評で最後でしたが、次の機会までには対応を考えなければなりません。
「まあしかし、他に場所もないのだ。これまで通り勉強会という体で潜り込むしかないのではないか?」
 先生は臆面もなく言ってのけます。確かに、ここに来て急に気にするのもみっともない話かもしれません。しかし、何か問題があれば責任を負うのはわたしです。
「そうですね……明日の部会で話しましょう」
 こういうわけで、相羽さんや先生とのアフターはご破算となってしまいました。

 翌日の部会でこの話をすると、やはり上年目からは、これまで通り節度を持って誤魔化すという旨の意見が多く出ました。例えば四年目の桜木さんの意見はこうです。
「ちょっとタイミングが悪かったね。今回の冬部誌は合評のスケジュールも密だったし、一日に二部屋同時に使うこともあった。新井の企画も重なったしね。それはこれまでもあったけど、今回たまたま目に着いちゃったんだろうね。だから、例えば週に何枠以上は控えるとか、同じ人が何度も予約しないとか、本館も分散して使うとか、現実的なところはなるべく迷惑を掛けない使い方をするしかないと思うよ」
 一方、一年目からは少し違った視点の意見も出ました。最初に手を挙げたのは橋上さんです。
「グループ学習室以外にも、北図書館の西棟とか、集まれる場所はありますよね。回数を減らすなら、会議をメーリスとか、グループチャットで可能な限り進めることもできると思います。合評や企画は、難しいかもしれないですけど……」
「僕も、具体的な案があるわけではないですけど、仮に図書館がこれから使えない状況になったときのために、代わりの場所や方法を考えておくのは良いと思います」
 高崎くんが続きます。それを聞いて、わたしはある閃きを得ました。最近は使わなくなってしまいましたが、先生や染谷さんと繋いでいたようなビデオ通話なら、その解決策になりうるかもしれません。
「皆さんにお聞きしたいのですが、ビデオ通話とか、パソコンでもスマホでもいいですけど、使ったことのある方はどのくらいいますか?」
 聞いてみると、手を挙げたのは十人くらいです。あまり高い割合ではありません。
「ありがとうございます。一つの案としてビデオ通話があると思いますが、これもしっかり検討して、導入の可否を見極めていかなければなりませんね」
 結局、その場では対応が決まるということもなく、当面密な利用は控えつつ様子を見ることになりました。すると部会が終わった後で、新井くんが声を掛けてきました。
「ビデオ通話で合評とかやるの、面白そうやないか。俺な、最近桜木さんとパソコンで通話しながら編集してもらってたんやけど、要はその応用ってことよな。無料で文章とか共有して編集できるようなサービスもあるしな」
「なるほど。それなら、対面で集まる場所がなくても合評ができると」
「まあ、俺は二人でしかやったことないから、三人以上はわからんけどな」
「ふむ……」
 それにしても、試してみる価値はありそうだと思います。
「新井くん。ゼミ企画の一次合評って、まだ先でしたよね?」
「ああ。来週、部誌の最終稿締め切りがあって、その次の週の後半からやな」
「では、最終稿が終わったら、一度ビデオ通話で合評をしてみませんか?」
「ええで。作品と、参加するメンバーはどうする?」
「実験なので、適当に声を掛けますよ。作品は何か短いものを使いましょう」
 まずは誰でも参加できるように手順書を作って、幾らかのトラブルも経験しておく必要があります。わたしはその準備を担当することになりました。
 新井くんも今日は、明日の合評の準備があるということでそのまま帰っていきました。わたしはちょうどアフターへ移動するところの一団に合流します。行き先はフリータイムでした。
「ご一緒してもよろしいですか?」
「はい」
 部会で意見を出してくれた橋上さんや高崎くんのいる四人席に入らせてもらいます。もう一人は入船さんでした。
「そう言えば今日、敷嶋さん来てなかったね」
 道中から、ゼミ企画の話をしていたようです。部会には他のメンバーは全員来ていましたが、敷嶋さんだけが欠席でした。高崎くんは何気なく言及します。
「私、今日の二限が同じ授業だったけど、来てなかった。体調悪いのかな」
「湊ちゃん、昨日の三限も来てなかったよ」
「風邪ひいたのかな。寮だから、一人でいるよりはいいかもしれないけど」
 橋上さん、入船さんから次々と欠席の証言が挙がります。それにしても、雪が積もり始めて普通に寒い時期です。体調を崩すのは不思議ではありません。
「何事もなければ良いのですが……」
 そのときはまだ、わたしも多少心配していたというだけで、それ以上に重大なこととは思っていませんでした。

 ビデオ通話での合評の実験は、翌週の金曜日に行いました。参加者はわたしと新井くんのほかに、ビデオ通話が未経験の篠木くんに声を掛けました。
「新井くん、篠木くん、聞こえますか?」
「聞こえるで」
「こっちも大丈夫だよ」
 とりあえず最初は画面越しに顔を合わせます。少し気になるのは、こういう場合にも背景にプライベートが映り込んでしまうことです。わたしは椅子に厚めのクッションを敷いて、ノートパソコンの画面の上に付いているカメラをやや上に向け、顔だけが映るようにしていました。恐らくあまり見栄えの良くない映り方をしていると思います。
「では、オンライン合評のテストを始めましょうか」
「さっき送ったURLにアクセスしてみてや」
 インターネットのブラウザを開くと、通話の画面が隠れました。普通のノートパソコンの画面は、ブラウザの画面と通話の画面を両方映すには狭すぎるようです。それにしてもカメラは動いているので、気を付けていないとはしたない姿を晒してしまいます。
 新井くんが用意してくれたのは、原稿をブラウザ上で共同編集できるようにしたものです。作品は新井くんが夏合宿で書いた掌編でした。原稿が画面に表示されると、既に新井くんや篠木くんが操作するカーソルがちらちら動いていました。
「これ、カメラいりますかね? 原稿の画面と通話の画面が、同時には見れないですよ」
「まあ、プライバシーもあるし、これで原稿は印刷しろって言うのもなんだかなあ。篠木はどう思う?」
「……」
 新井くんの問いかけに、篠木くんの反応がありません。通話の画面を見ると、篠木くんは画面上で硬直してしまっています。少し待ってようやく動いたかと思うと、断片的な音声が耳に届きました。
「あっ、電波」
 どうやら通信のトラブルがあるようです。こうなってしまっては、会話も成立しません。
『声、聞こえてる?』
『二人の声も、途切れて聞こえる』
 篠木くんからチャットが届くと、新井くんの唸り声とキーボードを打つ音が聞こえます。
『回線は仕方ないな、一回通話切ってチャットで話すか』
 こうして、十分にも満たない通話は終了してしまいました。ここからは反省会です。
『安い回線でごめん』
『篠木は悪くない、遅い・切れる回線っていうのはあるからな』
 わたしの周りでは幸いにもそういう回線に当たってしまった人がいなかったのです。前向きに考えれば、これだけでも今日実験をした成果があったといえるでしょう。
『桜木さんの話だけど、オンライン合評には課題が少なくとも三つあるって。一つはこの回線を含む環境と準備のハードルの問題、一つは議論のやりにくさの問題、一つは個々人の意識と理解の問題。早速、一つ目に当たったな……』
『残りの二つはどのような問題ですか?』
『二つ目は、表情が見えにくくて、喋るのが被ったり、音声の届き方にも時間差がでたりして、スムーズに会話ができなくなる問題。チャットは代替にはなるけど、タイピングのできる人ばかりじゃないから厳しい』
『三つ目は、そもそもパソコンでこういうことをやりたくない人もいるってこと。企画でならまだしも、部誌の合評で採用するなら、相当ちゃんとした説明が必要になる(現実的でない)』
 桜木さんの指摘ということで予感はしていましたが、かなり厳しい課題ばかりです。今日、仮に篠木くんの回線が良好だったとしても二つ目の課題に遭遇することになったと思いますし、やがて三つ目の問題に遭遇することも想像に難くありません。
『これではまだ、実用化には遠いですね……』
『ちょっと安易に考えてたな。まあ、限定的な状況でなら選択肢には入るかもな』
『これから冬だし、外出しなくても参加できるのはいいなと思ったのに』
 今回は悔いの残る結果でしたが、いくつかの課題は体感できたので次に活かすしかありません。

 一方で、敷嶋さんの欠席は続きました。一年目メンバーも心配して連絡を試みていたようですが、誰も反応を得られていません。同じ寮生の八戸さんも女子の領域のことは当然わからないと言いますし、ほとんど消息不明です。
 そんな中で、新井くんの企画の一次合評を迎えてしまいました。合評稿はメールドライブに提出されましたが、敷嶋さんの作品はいつまでも現れません。このままリタイアとなってしまうのか、わたしは気が気でないまま、一回目の集まりに参加しました。場所は北図書館ですが、今年オープンしたらしい西棟にディスカッションスペースという場所ができていたので、そこに集まることになりました。
 勾玉のように湾曲した机を二つ寄せて、七人で囲みます。周りはやや賑やかですが、キャスターの付いた縦長のホワイトボードもあって便利です。
「さて、まずは敷嶋さんの話やけど……誰か、連絡取れた?」
 新井くんはホワイトボードの一番上に『朝村ゼミ』とだけ書いて切り出します。一年目のメンバーはそれぞれ顔を見合わせました。
「ダメか……座談会も、やろうと思ってたんやけどな」
 座談会のテーマは「人間と動物の表現」に決まったようです。この一次合評の期間に上年目のゲストも招いて開催される予定だったところが、敷嶋さんと連絡がつかないため保留になってしまったのです。
「まあ仕方ない。座談会はいつでもできるから、今回は見送ってもええ。しかしどうにか、無事かどうかだけでも掴めないものか……」
「あの……」
 そこで、入船さんが恐る恐る手を挙げました。
「凉ちゃんの友達に、寮生で湊ちゃんと部屋が近い子がいて。詳しくは話せないですけど、湊ちゃんは今ちょっと引きこもりになってるって聞きました」
「なるほど……」
「多分、あんまりみんなから連絡しても負担になってしまうので、ここは私と凉ちゃんに任せてもらえませんか」
 状況は思いのほか悪いようです。「社会復帰」の途中で躓いてしまい、そのまま立ち上がれなくなってしまったのでしょう。わたしには到底どうすることもできないと思われるこの状況でも、まだ諦めずに行動しようとする入船さんはとても輝かしく、胸が痛みます。
「わかった。頼むわ」
 これが部誌だったら、わたしたちは敷嶋さんと冷徹に向き合わなければなりませんでした。心配する声よりも多く、作者としての責任を追及する声を聞かなければなりませんでした。しかし、それはこの部でずっと部誌制度の信頼性や安定性が維持されてきた証拠でもあるのです。
「敷嶋さんが戻ってこれたら、作品は完成できなかったとしても、できる限り合評はやりましょう。最悪、コラムとあとがきだけでも載せられればええな」
 このとき、わたしは新井くんから初めて「慈悲」というものを感じました。普段のような利己心のない、純粋に後輩を思いやる気持ちです。わたし自身、そんなものを新井くんから感じたことには不思議な思いもありました。上年目や同期、それこそ朝倉さんの前でさえ、それを示したことはなかったのです。
「さて、切り替えていくで。今日は高崎くんのと、入船さんのやな。まずは高崎くんから、前説どうぞ」
 とりあえず考察は後にして、始まった合評に集中します。高崎くんの作品は主人公が少女と親しくなって彼女の願いを知るところまでしか書けていませんでしたが、当初のプロットでイメージしていた「メルヘン」の殻を破ろうとしているのが窺える出来でした。
「はい。まずは、途中まででごめんなさい。どうにかここまでは書こうと思って書いてきましたが、最後のほうは急ぎ足になってしまったので、次までにはもう少し丁寧に書き直します。意識したことは、状況や構図よりも、主人公の考えや気持ちに焦点を当てることです。この先はプロットから変わらず、主人公は葛藤の末、彼女の願いを諦めますが、その後をどう見せるかは書きながら考えたいと思っています」
 その少女の願いは、彼女に陰湿ないじめを繰り返す娘が死ぬことです。つまり主人公は、少女の恨みによって召喚された「仕事人」のような立場なのです。当初わたしが想像していたよりは単純明快な構図になりましたが、主人公の複雑な葛藤を見せるなら、構図は簡単なほうが良いと思います。
 例によって、一人ずつ雑感を言う流れになりました。最初は新井くんの匙加減により、入船さんです。
「えっと、第一印象は、シンデレラの原作みたいだと思いました」
「あの、足を削ぎ切っちゃうやつ?」
「そうそう。夢や奇跡の裏には、血生臭い闇がある……みたいな。そして、このいじめっ子の娘も相当憎らしくて、主人公が本当にやっちゃってもおかしくないようには見えるんですよね。そこはこれから、ラストシーンに掛けてハラハラしながら読み進められるのかな、と思っています」
 新井くんが小さく「ほう」と感嘆の声を漏らしました。未完成の作品の魅力を想像力で的確に補った感想です。裏を返せば、高崎くんの作品がこの時点でしっかり先を期待させる書き方ができているということです。
「では次、橋上さん」
「はい。照ちゃんも言ってくれましたが、ここまでの状況の書き方がしっかりしていて、先を読むのが楽しみです。この子の病んでる感じが特に上手いと思ってて、もしかしたら主人公も最後、諦めたらこの子に殺されちゃうんじゃないかなとか、さすがにそれはないか、まあそういうことも想像させる作品でした」
 橋上さんは笑いまじりに言いましたが、長谷くんは真剣な顔で頷きました。一方、順番が回ってきた辻くんは何やら戦慄いています。
「なんというか、入船さんや橋上さんの言うことにも納得できるんですけど、僕はプロットのときはもう少し夢のある雰囲気の話になるのかなと思ってて、それがなんだか、本当に救いのない話になってちょっと意外でした。でも、ここまで来たら半端にしても面白くないので、やるだけやってほしいなと思います。僕には多分、こういうのは書けないので」
 最後は長谷くんです。
「橋上さんとほとんど同じで、だいたい出尽くしてるんですけど、ここからドロドロしてくるのが楽しみです」
 実は長谷くんの今回の作品は、意外にもデスゲームものです。演出こそ大きく違うものの、他人と命のやり取りをするという本質的な部分は似通っています。シンパシーを感じる部分もあったのでしょう。
 今回も事前に新井くんが資料を準備しています。そこでは今回の合評の役割について、「プロット会議で検討した作品像も参考にしながら、軌道修正をしたり、更なる魅力を見出したりする最後の機会」としています。そうした定義が必ずしも作用しているわけではないかもしれませんが、単純に参加者の作品への理解度が高いこともあって、全員が積極的に議論に参加する合評でした。
 次の入船さんの合評は、入部前から決めていたというペンネームのお披露目から始まりました。
「まずは、ペンネームを紹介させてください。ペンネームは、武蔵野月華と言います! 広大な野原を照らす月のように、皆さんの印象に残る作品を書いていきたいと思います!」
 なかなか煌びやかなペンネームです。その作品はと言うと、プロット会議でわたしたちを驚かせたカニの話を見事に書き上げていました。こちらは最後の種明かしパートで焼きガニにされてしまうのですが、そこでは三人称視点になることで表現が和らげられています。
「プロット会議のときにネタバレをしてしまったので、難しい質問になるかもしれないんですけど、どの辺りで『あっ、こいつ人間じゃないな』と思ったか教えてください。それから、カニだと思って読んだときに違和感がないかも確認したいです」
 内容としては三組の客と関わるパートがあり、日常もののようなテイストです。落語を思わせる剽軽な語りに、ところどころ「泡を吹く」「関節が軋む」などカニを思わせる表現が散りばめられ、そうとわかって読んだときには非常に面白い作品です。
 ところが、この場では「カニの話」という先入観を捨ててフラットに読めた人がいませんでした。
「多分だけど、三番目のパートで、酔った人が『こちらをおちょくるような横歩き』をするところまでにはカニだと完全にわかって、種明かしに行けると思う」
 橋上さんもあまり自信がなさそうです。こういう場面では、部誌の合評のように毎回参加者が変わって、前情報なく読んでもらう機会が多いのがメリットになると思いました。
 それにしても、最初からわかって読んでも面白いという意見は全員で一致していたので、ここからは入船さんのセンスで調整していくという方向になり、合評自体はすぐに終わりました。
 外野からはまだまだ心配の声も聞こえるこの企画ですが、わたしはもう、大きな失敗に終わることは危惧していませんでした。新井くんも一年目のメンバーも、良い信頼関係が築けているのは間違いありません。文芸部の将来にとっては、それが何より大切なのです。

 解散した後、一年目は例によってアフターへ行くということでしたが、新井くんは実験のレポートを書かなければならないのでそのまま帰ると言いました。そうなるとやはりわたしも、新井くんと一緒に帰ることにします。
 ここ数日は暖かく、歩道はところどころに氷の張った水溜りができていました。それでも外は静かです。
「敷嶋さんのことは心配ですが……企画は軌道に乗ってきましたね」
「ああ。もうぶっちゃけ、俺がいなくても回っとるやろ。合評でもこうするべきみたいなことは言わないようにしとるし」
 確かに新井くんは、プロット会議からほとんど意見を出さず、メンバーを見守ることに徹しています。自己主張と言えるのは、事前の資料だけでした。
「まあでも、この企画での俺の役割は監修、言うたらお膳立て係やからな」
 合評の前に見せた思いやりといい、後輩に対する新井くんは別人のように謙虚です。実際、先生も含めて誰しも後輩には多少なりとも優しさを見せるものではありますが、新井くんの場合は、わたしたち同期や上年目に対する態度とあまりに違います。
「なんだか不思議です。新井くんがそこまで謙虚になるなんて」
「ほっとけ。後輩の前で謙虚にならんでどうすんねん」
 それが本当だとすれば、「後輩を取り込んで派閥を作る」と豪語していた頃から大きな変化です。そのような変化は、いつから始まっていたのでしょう。
「新井くんはこういう企画を、恐らく選挙の頃から考えていたと思うんですよ。だから、『派閥を作る』ことも具体的に主張できた」
「まあ、言うならもっと前からやけどな」
「でも、新井くんは部長になっていたら、それこそ独断でこの企画を実行に移せたはずなんですね。そのときも、こんなふうに謙虚な運営をしていたのか……要は、あの頃から新井くんの考えがどれほど変わったのかが気になりまして」
「なるほど。別に俺は、変わったつもりはあらへんけどな。というか、『全然変わらん』って言われるけどな。『火と鐘』やって、合評のたびにスクラップにされて、最後でようやっと新しいものが見えたと思うたが……小宮さんに『最初のほうが好きだった』って言われたで。桜木さん曰くにゃ、『技術的には改善したが、面白さはほとんど変わらない、これでようやくスタートラインだ』ってさ」
 わたしは結局一度も参加できませんでしたが、後から合評稿を追ってみると、確かに初稿、一次、二次、最終稿と全て違う展開で(二次から最終稿までの変更は比較的小さく抑えられていましたが)、四人の登場人物も一人が完全に別人になるなど大きな変更がありました。文体も従来の堅苦しいものから少しは砕けて、「ゆるふわ」を意図したようなシーンも最初よりは伝わるようになっていましたが、盛り上がらなかった釣りや脈絡のなかった室蘭アピールなど悪目立ちするものが削れた分、印象に残るものも少なく、結果的に桜木さんが「スタートライン」と表現したのも納得できる出来でした。
 それでも、新井くんが『あの夏の火と鐘』をどのような形であれ同じ作品として通したのは、去年の冬部誌と大きく違うところです。それは、編集のわたしが引き出せなかった意志でもあります。
「前までの新井くんだったら、その過程で投げ出していたような気がします。桜木さんの編集も良かったのかもしれませんが、諦めず粘り強くあの作品と向き合えたのは、新井くんの成長だと思います」
「俺は本気で面白くするって誓いを立てたけど、結果それは果たせなかった。諦めず粘り強くやってくれたのは、桜木さんのほうやで」
「……」
 傲慢は七つの大罪にも数えられる罪ですが、こう卑屈なのも同じくらい困ります。結局、新井くんには精神的向上心がないのでしょうか。
「俺はいつも、やりたいだけやるだけや。でも、環境は変わる。環境が変われば、同じことをやってても違う見え方をする。それだけのことやろ」
 わたしは今回のことで新井くんを少し見直したと思っていましたが、これでまたわからなくなってしまいました。それでも、この企画に期待しているのは変わりません。

 翌週の土曜日には忘年会が予定されており、先代部長の高本さんと副部長の江本さんに寄せ書きの色紙と記念品のボールペンを贈呈することになっていました。
 色紙のベースのデザインは星井さんに描いてもらい、部会やボックス席で声を掛け回って、二十人ほどのメッセージを集めることができました。そして今、当日の朝になってわたしは、残ったスペースに自分のメッセージを入れようとしています。最初に書かなかったのは、いつも通り文面が決まらなかったからです。
 まずは江本さんです。江本さんについて困るのは、任期中に印象的なエピソードがほとんどなかったことです。三年目の中では本当に「いるだけで安心感を与える守護神」のような立場で、唯一主導していたインターネットでの作品公開もこの夏の一回だけで止まってしまっています(一応、今回の傑作選作品からいくつか横流しする計画はあります)。
 そういうわけで、ありきたりな感じにはなりますが、日頃からの感謝を啓上することにしました。
『トラブルにも動じず、いつも冷静に文芸部を支えていた江本さんはとても頼もしい副部長でした。一年間ありがとうございました。 中津』
 そして、高本さんです。部長としてのやり取りは八月の引継ぎのときに終わってしまっていて、今になって敢えて贈る言葉がなかなか難しいのです。最近はもうご自分の文芸に専念されているという感じで、良くも悪くも運営に関わることからは距離を置かれていますし、新しい言葉が出てきません。
『在任中、高本さんがされた数々の文芸部の問いかけ、一つ一つが重要なことだったと思い返しています。わたしはそれを無駄にはさせません。後輩たちと協力して、少しずつ理想を追っていければと思います。その礎を築いてくださり、本当にありがとうございます。 中津』
 若干大雑把なメッセージになってしまいましたが、足りないところはこれまでの積み重ねで補っていただくことにします。
 それを持って臨んだ忘年会は、焼き肉食べ放題でした。わたしのテーブルは、篠木くん、和泉さん、橋上さんというメンバーです。
「なんか、文芸部の飲み会めっちゃ久しぶりだな。あたし大学祭のとき以来だわ」
 それは恐らく、文芸部の飲み会自体が少ないのです。この間にはマスカレードの打ち上げしかありませんでした。
「和泉先輩は、マスカレードの打ち上げ参加されてませんでしたっけ」
「行ってない。最近はアフターもあんまり行かなくなったし、メグや辻くん以外と全然話さなくなっちゃったな。フミは新井の企画とか、ちょくちょく顔出してるんでしょ?」
「そうですね」
 和泉さんは最近ボックス席にも来ているのですが、一年目のほうが来ないので、やはり交流がないのです。専ら大藤さんか八戸さんが来ていて、世間話をしています。
「二年目の皆さんって、少々失礼かもしれませんが、集まってご飯食べたりとかしなさそうですよね」
 そこへ、橋上さんの鋭い指摘です。思い返せばそのような集まりは、去年の六月が最初で最後になっています。
「確かに……まあ、あたしらバラバラだしな。出掛けるって言っても、あたしは星井か武藤とばっかりだし。篠木はその辺どうなん?」
「僕もないね。どうしても、男が僕だけとかになっちゃうし」
「そこは新井とか誘えよ」
「新井くんは、ほら、朝倉さんがいるし」
「そんなん別に、惚気とか聞いてやればいいんだよ。ちなみに武藤は割と喋る」
 そういう意味では、一年目は男女比が比較的良いバランスです。わたしたちの代は、前期に男性陣がほとんど流出してしまったのも不幸でした。
「そう言えば、中津先輩。敷嶋さんの件ですけど、どうにか復帰してくれそうです」
「本当ですか」
 次の話題は朗報でした。
「敷嶋さんは今、昼夜逆転しているみたいなので、時間はかかるかもしれないですけど……」
「それ、単位とか大丈夫なん?」
「一か月近く休んでるので、厳しいかもしれないです」
「そうか……出席が足りないと無条件でダメなところも多いしな」
 それはつまり、留年です。全学共通で、一年生は教養の単位を一定以上取っていなければ進級できません。前期だけでそれを満たすことはできないはずなので、もはや絶望的な状況です。しかし、まずは敷嶋さんが立ち直ろうとしていることを喜ぶべきでしょう。そして、その助けとなった二人にも感謝したいと思います。
「相羽さんや入船さんは、よくやってくれましたね」
「はい。凉ちゃんが、夜中に敷嶋さんがコンビニへ出掛けるところを狙って突撃したと言ってました」
「あいつ、すごいな」
 もっと穏便な方法を想像していましたが、思いのほかパワープレイです。相羽さんなので納得はできますが、なかなか実際の様子は想像できません。
「相羽さんは先生の心を開かせるくらいなので、パワーがあるのは認めますが……やっぱりすごいですね」
「そういや、アキの編集もやってたな。あれも最初は、思い切ったなと思ったよ」
「わたしもです。ありがたいことですけどね」
 後期になってからというもの、一年目は徐々に存在感を増してきていますし、結束も強まっています。新井くんの企画も良い刺激になっていると思います。
 そういう中で、わたしも自分にできることを考えてきました。これまでそこで念頭にあったのは、和泉さん、新井くん、ひいては高本さんのように、自分の考えを明確に示して部員を先導しようとする人の姿です。わたしもそれに負けないよう、存在感を出す方法を考えることもありました。
 しかし、それは一つのやり方に過ぎなかったのです。
「さて、篠木くん。そろそろやりましょうか」
「そうだね」
 二人で席を立って、全員から見えやすい位置に移動し、高本さんと江本さんを呼びました。
「おお、中津さんに篠木さん。楽しんでおられますか」
「高本、もう少しちゃんとしたほうがいいよ」
 高本さんはかなりお酒が入ってやや千鳥足でしたが、江本さんが支えてくれています。締りはないですが、悪くはない対面だと思います。高本さんも本来は、このように陽気な方なのですから。
「わたしたちから、昨年度の部長、副部長を務めあげてくださったお二人への感謝を込めて、色紙と記念品を差し上げます。一年間、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました!」
 ふらついていた高本さんも、そのときだけは背筋を伸ばしていました。大きな拍手の中でしっかりと目を合わせて、それから一礼します。
「この部はまた、新しい方向へ動き始めています。わたしは、自ら帆をはためかす風になることは得意ではありませんが、それでもこの文芸部という船が転覆したり、山に登ったりすることのないよう、舵を取っていきたいと思います。これからもどうか、見守っていただければ幸いです」
 わたしの強みは、この部の全体を見渡せる場所に立っていることです。そして、やはりこの部で最も多くの人の安心感に影響するのは、部長の振る舞いなのです。わたしがバランス感覚を失わずにいることが、何よりこの部のためになるのだと思うのです。
「ありがとうございます。これからも、頑張ってください」
「頑張って」
 また少し、新しい風を感じました。

 その後、年内には敷嶋さんが新井くんの企画に復帰し、一次合評と座談会をメンバー全員で行えたそうです。年明けには二次合評が行われ、一月末に予定通り最終稿の締め切りとなりましたが、最終的には敷嶋さんが途中までの掲載、橋上さんは一次合評以降執筆に時間を取れなかったとのことで掲載断念となっていました。
 二月の上旬に、完成した朝村ゼミ企画誌『萌芽』のファイルがメールドライブに投稿されました。メンバーのあとがきを読むと、「楽しかった」というのはもちろん、「創作意欲が沸いた」とか、「これからも頑張りたい」とか、前向きな内容がとても多く見られました。
 その最後に、新井くんがせめてもの自己主張とばかりに長めの編集後記を残していて、印象的な言葉がありました。
「『萌芽』というタイトルは、橋上さんが提案してくれました。最初はこの企画が何かのきっかけになることを願ったタイトルということでしたが、今やそれだけではない、とても多くの願いが掛けられています。
 私はうだつの上がらない書き手ですし、部長にもなれなかった凡人です。それなのに、もうすぐ三年目になってしまいます。こんな私への救済は、少なくとも今のこの部にはないと思います。
 しかし、この企画に参加してくれたり、協力してくれたりした後輩たちには、お互い、それぞれもがいた跡を追いかけ、認め合えるような関係になって欲しいと思います。それが、ともすれば孤独になりがちな文芸を続けていくうえで、最も頼もしい救済になるのですから」
 これではまるで、新井くんが自分の文芸を諦めてしまったかのようです。三年目からは、精神的にも成熟して作品に深みが出てくる人も多いのに、もったいないばかりです。
 果たして、この企画を通して新井くんは何を見たのでしょう。そして、ここに現れた芽はどのような花を付けるのでしょう。徐々に後輩へ主導権が移り行く中でも、わたしたちの物語はまだまだ続きます。

二十 辰星

 それは十一月の下旬、冬部誌の最終稿締め切り前の編集部会議でのことでした。
「さて、最後に今年の傑作選について話しましょうか」
 そう切り出した和泉さんは、ホワイトボードに「表紙のカラー化」と「値上げ」の二項目を箇条書きにします。
「これは次の部会で全体に提案して、年内に決めたいと思うのですが……何故か今の傑作選って、百円で売ってるのに表紙はあの味気ないデザインじゃないですか。無料配付の部誌はカラーでこそないですが、今回は星井が描いてくれる、ちゃんとしたイラストなんですよ。というわけで、傑作選もちゃんと売るために、カラーの表紙で見た目を綺麗にして、それを理由に適切な値段まで引き上げようという話です。せめて五百円だな」
 二つともこれまでちらちらと浮上していた問題ではありましたが、和泉さんは今回ついにそれを変えようとしていたのです。詳しく話を聞いてみます。
「和泉さんとしては、表紙のデザインを改善することに重点を置いている感じですか?」
「まあね。中身で勝負って言ったら聞こえはいいけどさ。学祭でこれ買うとき、中身なんて見ないじゃんか。それに、やっぱり食べ物目当ての人が大半で、そこにあんな地味なデザインの本を置いてたって見向きもされない……というのは建前で、実は今年も六十部くらい売れてるから、極端に売れ残ってるわけではないんだけどな」
「あくまで、傑作選の見た目を格好よくしたいと」
「そういうこと」
 わたし自身も、あの質素な見た目の傑作選が売れるのだろうかと不安になったことはあります。一方で、デザインの改善が値上げをどこまで説明しうるのかは部会で狙われそうなところです。
「値上げについては、どこまでが必然というか、最低ラインですか?」
「三百円くらいかな。今もそうだけど全部を回収したいわけじゃないし。でも、百円って相場からすると安いんだよな。部誌は無料配布だけど、そんなこと外から来る人には関係ないからさ。曲がりなりにも一年間に出た作品から選抜した傑作選を安売りしてるって思われるのも心外なわけよ。だから、本当なら五百円にしたい」
「なるほど」
 自分が手掛けるものへの、編集長としてのプライドを感じます。今年の大学祭のときには先生も「謙虚が過ぎる」と愚痴をこぼしていましたが、両者の思いの本質は同じだと思います。
「質問です。そもそも傑作選の値段が百円に決まったのは、どういう経緯でですか?」
 そこで、橋上さんが手を挙げました。横で聞いていた辻くんも頷きます。
「樋田さんから、部会で決めたって聞いた。そのときは最初だったし、とにかく買ってもらわなきゃ始まらないし、実際それほど価値のあるものでもないって百円になったんだって。で、その後はずっとそのまま。確か、今年で五年目だな」
「傑作選なのに価値のない前提の値段とは……」
「ゼロよりは高いからでしょ」
 今やその頃を知る人はほとんどいなくなってしまいましたが、四年前と言えば、まだ作家としてデビューする前のユナさんも在籍されていて、士気は決して低くなかったのではないかと推測します。少なくとも、投げやりに決められた値段ではないはずです。
「とりあえず、提案すれば賛成多数は取れそうですが……元の値段の経緯は気になりますね」
「まあな。意外と四年目あたりから強く反対されそうな気がする。フミ、時間あったら何か考えてそうな人探ってきてくれる? 樋田さんと大藤さんには話したから、他の人で」
 後期に入ってからは大きな決定をしていないので忘れそうになりますが、残り時間の少ない四年目でさえ、この部では親切心から意見を出してくれるものなのです。それは部会のその場で提示されるには重すぎることも少なくありませんが、かと言ってメールで伝えてくれるわけでもありません。自分から聞き出しに行く必要があるのです。
「わかりました。何かわかったら連絡します」
「頼むわ」

 わたしが最初に目を付けたのは桜木さんでした。当時積極的に部長へ立候補した桜木さんなら、詳しいことを知っているか、少なくともこの値段に対する意見を持っているはずだと思いました。新井くん経由で連絡を取り、ボックス席で待ち合わせます。
「傑作選のことで、俺に聞きたいって?」
「はい。今、傑作選を世間の相場に合わせたもう少し高い値段で出せないかと検討していて、樋田さんにも今の値段になった経緯を尋ねたのですが、詳しくは覚えていないとのことでしたので」
「なるほどね。俺も入部する前だから伝聞でしかないけど、高く出して売れないくらいなら、百円でも売れるほうを優先したって感じだよ。そんなに深くは考えてなかったよ」
「そうですか」
 樋田さんの話ともほとんど一致します。それ自体は、明確に意図して決められた値段だということでしょう。
「最初に値段が決まってから、一度も変わっていないですよね。百円で売り続けているということは、これまで変える必要性が感じられていなかったということですか」
「少なくとも俺は、今の傑作選なら変える必要はないと思ってるよ。値段だけ上げるのも変な話だし、そもそも傑作選だって何のために作ってるのかわからなくなってきてる。そこを考え直さないと、適切な値段なんてわからないでしょ。そもそも傑作選も学祭も、文芸部にとって必要なのかは疑問だけどね」
「傑作選を作る目的……ですか」
 桜木さんは単刀直入に言いました。確かに、わたしたちにとって傑作選は入部前からある決まりきった制度の一つで、優秀な部員を表彰するような意味があるくらいにしか考えていませんでした。
「最初は学祭で即売会みたいなイベントがあってさ。それに出すために、せっかくなら堂々と出せる作品を選ぼうって始まったのが傑作選だって聞いてるよ。最近は傑作選に載ること自体が権威になって、自分に投票する奴とかもいるけどさ。俺は百円が妥当だと思う。今も学外への宣伝が本質的なところだし、学祭の露店でしか売らないんだから」
 やはり傑作選の意味と価値に関する認識は、わたしたちと上の世代では少し違うようです。
「値段とは別に、和泉さんが傑作選の表紙をカラーにして、デザインを改善することもしたいと言っています。少しでも買ってもらうためには、デザインで目を引くことも重要なので。もしそのために値上げが必要になるとしても、桜木さんは最小限にしたほうが良いと考えますか」
「なるほどね。まあ、中身が変わらないなら、最小限にとどめるしかないと思うよ。ちなみにその最小限ってどのくらい?」
「三百円くらいです」
「じゃあ三百円。部費が赤字にさえならなければいい」
 和泉さんが主張する五百円にはどうにも届きません。しかし、中身の価値が認められないのでは、これ以上に打つ手がありません。それは舵取りを担う編集班や、傑作選に作品が載る作者の立場になると寂しいことです。
「編集班では、五百円くらいで提案したいと思っていまして。それは相場を気にしている面もありますけど、わたしは値段が傑作選に対するモチベーションを決める面もあると思うんです。つまり、五百円という値段に負けない作品を書いて、選んで、合評して……それは部内での名誉にもなりますし、どうせそこまでの価値がないと思って取り組むよりは良いものができると思います」
「なるほど。まあ確かに、今は傑作選の投票もしない人が多いでしょ。合評も普段の調子と変わらないし、部誌を通ってたら免除される。そういう仕組みや雰囲気から変えるって言うなら納得できる。それにしても、値段はそんなに上げ下げしていいものじゃないから、段階的になるだろうけどね」
「はい……もう少し、後輩とも相談して詰めていきたいと思います。ありがとうございました」
 桜木さん一人だけでは偏りもあると思ったので、部長だった下野さんにもアポイントを取ってみました。文学部の一角で対面します。
「今、編集班で傑作選のデザインの改善と、値段の設定について検討しておりまして。下野さんは、今の傑作選の百円という値段について、どう思いますか?」
「まあ……これ以上安くはできないけど、高くする理由もないって感じかな。俺が入部した頃から百円だったし、高くして売れなくなるのも怖いし。百円ならそこそこ売れるのがわかってるからね。それに、儲けなんて気にしなくていいんだから、百円が一番いいと思ってたよ。俺の代も編集班で一回考えたんだけど、結局変えないことにしたんだ」
 新しい情報が出ました。四年目の代は、互いに近い感覚を共有しているとみて良さそうです。そして、相応の理由がなければ値上げに納得してもらうのは難しそうです。
「実は、和泉さんが傑作選の表紙をカラーにしたいと言っていて。一つの案として、三百円まで上げれば、収支のバランスが今とだいたい同じくらいになるんですね。ただ、和泉さんは一般の即売会のような相場を意識して、五百円くらいまで上げるべきだと思っているみたいで」
「なるほど。カラーで三百円はわかるけど、五百円はちょっと、今と比べて上げすぎかなって思う。内容がそこまで急に変わるものでもないしね」
 値段に関する感覚も桜木さんと似たものでした。
 ということで次は、三年目代表の高本さんにも突撃してみます。ちなみに大藤さんについては、全面的に和泉さんの考えを支持してくれると聞きました。
「高本さんは、今の傑作選の百円という値段について、どう思いますか?」
「私の作品が載った傑作選には、百円以上の価値があるはずです! ……すみません、出過ぎたことを言いました」
 高本さんは前のめりになって答えましたが、すぐに引っ込んでしまいました。
「真面目に申し上げますと、確かに安いとは思いますね。しかし、大学祭で傑作選を買うような人は概ね、相場などわからないのです。コミケなどに行けばあのくらいの冊子で千円を付けるサークルもあると思いますが、うちがそれをやれば全く売れないでしょうね」
「表紙をカラーにした場合はどうですか?」
「大学祭であれば、それでも三百円から五百円程度でしょう。コミケなら千円ですね」
 意外にもコミケを知っていた高本さんの感覚は、どちらかと言えばわたしたちに近いものでした。
 幾らかのサンプルは集まったので、次の部会の前にこのことを和泉さんに伝えてみました。
「……というわけで、桜木さんはデザインの改善とそれに必要な値上げについては反対しませんでしたが、それ以上の値上げには、傑作選の仕組みや雰囲気が追いついていないという考えのようです。下野さんもだいたい同じですね。四年目でも検討した経緯があって、現状では百円が最適と結論付けたと言ってました。高本さんは、表紙をカラーにすればもう少し強気になれると考えているようです」
「ふむ。じゃあ大藤さんの後ろ盾もあるし、三百円は行けそうだな。その前提で、まずは五百円で提示する。ぶっちゃけ、中身の質とかは編集班じゃ合評を二回通したらOKっていう合意があるし、そこを今以上に厳しくするのは現実的じゃない。だからまあ、あんまり面倒な条件引き出されるくらいなら三百円で通す」
「わかりました」
 和泉さんは相変わらずの策士です。状況を弁えて、決して無理をしません。
 果たして部会は目論み通りに進みました。最初の五百円の提案には上尾さんや山根さんに「少し高すぎる」と意見されて、和泉さんが三百円ならどうかと問えば、「まあそれなら」と賛同を勝ち取ったのです。筋書き通りのプロレスでした。
 ちなみに部会が終わった後、値上げを望んでいた先生は「どうせなら最初にもっと吹っ掛けておけば良かったものを」といつも通りの上から目線でした。それにしても、少し豪華になる傑作選には前よりも興味が出たようです。

 やがて十二月になり、昨年と同じように傑作選の投票が行われました。今年の小説のトップは上尾さんで、二位の山根さんと共に三年連続だという掲載を決めました。八戸さんは例によって物量作戦で新作を含む掌編二つの掲載を決め、三年目の小宮さんも冬部誌の作品で初めての掲載となっています。
 そして二年目からは、運命的なことに先生の冬部誌の『オーロラ』と小野寺さんの夏部誌の『叫べ』が同率五位で掲載となりました。
 編集決めは来週となったところで、わたしはまず小野寺さんのもとに駆け付けます。
「小野寺さん、傑作選掲載おめでとうございます」
「……ありがとう」
 小野寺さんの笑顔は、何故か強張っていました。そして、何やらそわそわしています。嬉しさよりも緊張を感じるような仕草です。
「どうかしましたか?」
「えっと……ちょっと来て」
 そう言ってリュックを置いたまま駆け出した先には、帰ろうとする先生がいました。わたしも後を追います。
「浦川さん。その……」
「どうした? わたしに何か用か」
 小野寺さんは先生を前にして、上着の左のポケットに手を入れたり出したりしています。何かを渡そうとしているようです。これは恐らく、かなりの大勝負です。わたしにもその緊張が伝わってきます。
「何もないなら、帰るぞ」
 ところが先生は鈍感にも、小野寺さんに取り合わず帰ろうとします。わたしはすかさず先生の後ろに回って、両肩を掴みました。
「まあまあ。聞いてあげましょうよ。ね?」
「何のつもりだ」
 それも長くは持ちません。しかし、小野寺さんが覚悟を決めるために必要な時間は稼げました。
「浦川さん。吹奏楽団の友達から、チケット三枚貰ったの。中津さんと、三人で、っ……行こう」
 まるでラブレターを渡すかのように、先生に向けて三枚のチケットを差し出します。クリスマスコンサートということで、日付は十二月二十四日、クリスマスイブでした。わたしもいきなり数に入っているわけですが、先生に近づくためには多少の強引さも必要です。大目に見てあげましょう。
「いいですね。先生、行きましょうよ。わたしたち、イブに予定があるはずないんですから」
「うるさい。二人で行けばいいものを……そうまで必死に誘われたら、断るのも後味が悪い」
「決まりですね。小野寺さん、やりましたよ」
「ありがとう……」
「来週末だな。段取りは任せる」
 先生はチケットを一枚受け取り、足早に帰ってしまいました。わたしは緊張が解けてその場にへたり込んでしまった小野寺さんに肩を貸しながら、教室に戻ります。
「あのね。私、浦川さんと小説の合作がしてみたいの」
 その途中、小野寺さんがこぼします。わたしは思わず叫んでしまいそうになりました。なんとロマンチックな夢でしょう! しかし、いくら小野寺さんと先生の作風に近しいところがあると言っても、先生は合作が苦手です。こればかりは、わたしがいくら説得しても難しいと思います。
「……」
 だから、何も言えませんでした。無責任に励ますことも、無下に無理だと止めることも、あまりにかわいそうです。席に戻った小野寺さんは、椅子に座って続けます。
「この一年、たくさんいろんな小説や詩、漫画や映画にも触れて勉強してきた。それで、ようやく傑作選にも選ばれた。今なら浦川さんも振り向いてくれると思って。その日、お願いしてみるつもり」
 後ろにいる限り、わたしの視界には入らない。いつか先生がそう言っていたことを思い出します。最近の小野寺さんは、いくつかの場面で先生の前に躍り出ることもありました。その背景にある努力や、原動力となっている先生への思いの強さを考えると、無条件に報われる結末を想像したくもなります。しかし、先生は綺麗事では動きません。
「……やっぱり、無理かな」
 黙りこくっていても、失敗を予感させてしまいます。少なくともここで止めてしまっては、先ほどこのために勇気を振り絞ったであろうクリスマスのことが半分くらい無駄になるのかもしれません。ならば、やはりここは背中を押すしかありません。
「大丈夫、とは言えないですが……先生も、もう小野寺さんのことはちゃんと文芸人として認めていると思います。合作は難易度が高いので、先生は乗り気にならないかもしれません。でも、それでも小野寺さんを辱めるようなことはしないですよ。もしそうだったら、わたしは本当に先生と縁を切りますから」
「そうだよね。無理かもしれないけど……ここまで来て、何もせずには終われない」
 小野寺さんは、ついに覚悟を決めたようです。当日は大通公園の西側でコンサートがあるので、終わった後はそのまま大通公園のイルミネーションを見に行き、そこでわたしが程よく立ち回ってその機会を作るという作戦を立てました。
「それから……中津さん。もし今回のことがダメでも、それは全部私が悪いから。浦川さんのことは責めないで。約束」
 あくまで、先生の考えを尊重する。それは同時に、わたしを悪者にさせないための約束でもあると思いました。そんなもの、わたしには拒否権がありません。
「わかりました。応援、しますからね」
「ありがとう」
 誰もいなくなった教養棟の一室で交わされた、秘密の約束です。わたしと小野寺さんの間には、もうどれだけの秘密があることでしょう。秘密の詰まった風船がどんどん膨らんでいくようです。それをわたしは、もっと長い間破裂させないよう守っていくことになるのだと思います。でも、それはとても温かく、誇らしくなるほど尊いものでした。

 翌週の火曜日、部会の前にボックス席で時間を潰していると、相羽さんがやって来ました。わたしの他には誰もいませんでした。
「お疲れ様です。部長、ちょうどいいところに」
「わたしに用事ですか?」
「はい。小野寺さんって、元々音楽やってたって本当ですか?」
 どこからかそんな話を聞き出したようです。同じく音楽を嗜む相羽さんにとっては、コミュニケーションの取っ掛かりになると思われたのでしょう。しかし、あまり広めるのも本人が嫌がりそうです。
「確かにそうですが……ちなみに、誰からそれを?」
「浦川さんです。私、小野寺さんとも全然お話したことがなくて、どんな人なのかって聞いてみたんですよ」
「なるほど……」
 これは先生以外はあり得ないところだったので、先生で良かったと思います。それにしても、相羽さんは貪欲です。先生の次は小野寺さんと、二年目の中でも後輩に対して気難しいところへ果敢に挑んでいます。
「本人は、音楽からきっぱりと文芸に乗り換えたと言っているので……あまり掘り返さないであげてくださいね」
「わかりました。でも、音楽は好きということですね」
「そうかもしれません。詳しい趣味は、わたしも知らないですが」
 わたしが気になるのは、このタイミングです。今日の部会では傑作選の編集決めが予定されていて、そこから導かれる結論は一つしかありません。
「今度は、小野寺さんの編集希望ですか?」
「はい。浦川さんとも楽しくやれたので、大丈夫かなと思って。ずっと気になってはいたんですけど、一年目では全然話したことのある人がいなくて、ちょっと慎重になってます」
 これまで小野寺さんの編集は上年目ばかりでした。普段にしても、わたし以外と話しているところをほとんど見たことがありません。朝倉さんとは比較的親しいようですが、あとは和泉さんと事務的な話をするくらいです。
「先生のようにあっさり行くわけではないと思いますが、小野寺さんも文芸に真剣なのは間違いないので。相羽さんなら大丈夫ですよ」
「ありがとうございます!」
 こうして、小野寺さんの編集は相羽さんに決まりました。先生の編集は、相羽さんの後を入船さんが引き継いでいます。二人とも部誌で二回の合評を通した作品で、先生は追加の合評を受けない意向を示しましたが、小野寺さんは夏部誌から時間が経っていることもあり、一回は受けたいと言いました。その合評は、一月に予定されています。

 そしてついに、勝負の日が来ました。日没とともに雪が止み、凍てつくクリスマスの夜です。大通公園沿いに西へ向かう道中、歩くのが早い先生はわたしたち二人の前で、少しも振り向いてはくれませんでした。
「今日は楽しみですね」
「うん……」
 小野寺さんもこの先のことを意識していたのか、心ここにあらずという感じでした。このままでは重大な打ち明け話に必要な勢いも雰囲気も生まれません。わたしの立場から盛り上げることも難しいので、吹奏楽団のコンサートには自然と期待が高まっていきました。
 席は自由でした。先生が先に真ん中あたりの通路際の席を取ったので、わたしはとっさに一つ空けたところに座りました。小野寺さんはその真ん中の席に、おずおずと収まります。先生は入口で配られたパンフレットを読んでいて、もはや気にしていないようでした。
 開演までは時間があるので、わたしもパンフレットを開いてみます。それにしても、わたしは吹奏楽とはあまり縁がなかったので、曲名や解説を読んでもいまいちイメージができません。
「小野寺さんはこういう曲、ご存知ですか?」
「曲名だと、二つくらいしかわからない。でも、知らない曲だから楽しめないわけじゃないよ」
「そうですね」
 知らない曲でも楽しめる。それは演奏者が、楽しませるという気概でやっているからです。小野寺さん自身の経験にも裏打ちされているであろうその言葉には説得力がありました。文芸だって同じです。ほとんど前情報のないところからでも、楽しく読ませなければいけないのですから。
 そうして始まった演奏会は二部構成で、第一部はクラシックに近いフォーマルな曲が多く、第二部はクリスマスらしい曲が中心でパフォーマンスも取り入れられていました。わたしもそうですが、小野寺さんもなかなか心が躍ったようで、時折手元でリズムを取る仕草が見られました。
 先生は終始ゆったりとした姿勢で落ち着き払って聴いていましたが、第二部の後半で、あるハプニングが起きました。
 ややアップテンポで愉快な曲の途中、指揮者が手を滑らせてしまったのか、突然、指揮棒が宙を舞ったのです。そして、それは硬い音を響かせて床に落ちました。さすがに指揮や演奏は何事もなかったかのように続けられましたが、会場は一瞬ざわつきました。
 そのとき、わたしは見たのです。先生が口元を押さえて、笑いをこらえているところを!
 演奏会が終わった後、早速先生をつついてみます。
「先生、なんだかんだ楽しんでますね?」
「演奏会に興味があっただけだ」
「見てましたよ。指揮棒が飛んだとき、笑ってましたね?」
「うむ、まあ……しかし、あの指揮者は冷静だったな」
「一瞬、パフォーマンスかと思った」
「そうか」
 小野寺さんの見解は意外でしたが、わたしは少し納得しました。愉快な曲だったこともそうですが、その前から指揮者も身振り手振りでパフォーマンスに参加しており、コミカルな演出として見れなくもなかったのです。
 幸いなことにその話で少し雰囲気が温まりました。冷めないうちに、見繕っておいた近くのイタリアンレストランへ移動します。
「浦川さんは、農学部で今、どんな勉強してるの」
 料理を待つ間から、小野寺さんは先生へのアプローチを始めました。
「各研究室の分野に関係する実験をしている。例えばこの間は、異なる場所で採取した野生の豆の遺伝子型と成分を調べて、特定の遺伝子の有無が成分に影響を及ぼすことを確かめた」
 先生も嫌がらずに応じています。今のところ穏やかです。
「そうなんだ、意外と近いことやってる……」
「小野寺さんって、理学部のどの学科でしたっけ」
「生物学科の、生物学のほう」
 理学部の生物学科には二つの区分があって、小野寺さんが属しているのは昔ながらの生物学を扱っているほうだと言います。
「私のところでも、PCRとかで遺伝子は見たりする」
「なるほど。農学部は植物で、理学部は動物みたいな括りですかね?」
「理学部でも、普通の動物だけじゃなくて、植物とか微生物とか、色々出てくるよ」
「生態系は、植物だけでも動物だけでもないからな。うちの学科でも、昆虫の分類学をやっている」
 そこからしばらくは二人の理系トークが始まり、わたしはだんだんと内容がわからなくなってきました。生物学は大学受験で使いましたが、およそ二年でもはや忘れかけているのです。しかし、先生と小野寺さんがまともに会話しているのを見るのはこれが初めてです。聞いているだけでも喜ばしく思います。
 だから、もしかすると……。

 レストランを出た後は、大通公園をテレビ塔に向かって歩きました。七丁目を過ぎたあたりで、緑色に光るものが見えてきます。
「あれですね」
「綺麗……なんだか不思議な感じ」
 近くで見ると、それは球体でした。雪のうっすら積もった広場にいくつもの球体が置かれ、それぞれが緑色に光っています。
「マリモだ」
「ふふっ」
 先生の一言に、わたしと小野寺さんは揃って笑いました。確かに、湖底のマリモを想起させるような光景です。もうマリモにしか見えません。
 もう一つ道路を渡ると、今度は白く輝くトンネルが見えました。
「これは、あの洞爺湖の夜を思い出しますね」
「去年の秋合宿ね」
「あそこにも、こんなものがあったのか」
 しかし、同じく通り過ぎるだけで、こちらのほうが道は細く、長く立ち止まるようなものではありませんでした。
 状況が変わったのは三丁目です。噴水の円の中心に巨大な六花の結晶を模したオブジェが青白く輝き、そこから放射状に寒色系の細かな電飾が張られていました。
「写真、撮りたい……」
 それを見るなり、小野寺さんはわたしのコートの袖を引っ張ります。とはいえ、いきなり先生と二人というのも不自然です。
「まずは三人で撮りましょうか。そのあとわたしが上手くやりますよ」
 わたしはまず、通りがかった人にわたしのスマホを渡して、三人でオブジェを背に並びます。もちろん、真ん中が小野寺さんです。
「先生、ちゃんと笑顔見せてくださいね?」
「ああ」
「お願いします!」
 ここまでが前置きです。わたしは写真の確認をする間も、二人をそのまま待たせておきました。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 そして、お願いした人が離れて動こうとする先生を、すかさず手で制止します。
「先生、そのまま二人で! 小野寺さん、行きますよ」
「おい、待て」
 驚き顔の先生と、満面の笑顔の小野寺さんが写真に映りました。大成功です。写真を小野寺さんに確認してもらいます。
「どうですか?」
「ありがとう」
「謀ったな」
「いいじゃないですか、今日、誘ってくれた小野寺さんへのお礼です。先生にも後で送りますね」
「いらない」
 先生もこれは、わたしの悪ふざけとして受け取ってくれたようです。こうしてわたしが囮になることで、先生の心に隙を作る効果があればいいなと思います。
 二丁目ではクリスマス市をやっていましたが、人が多かったのでそのまま通過しました。すると、終点のテレビ塔です。
 そこには、いくつかのハート形のライトで飾られた、クリスマスツリー型のオブジェがありました。そこには写真撮影スポットがあってカップルが群れを成していたので、わたしたちは少し離れて見物することにしました。
 さて、ここが最後です。わたしは小野寺さんとアイコンタクトを取りました。やりましょう。
「すみません。わたし、ちょっとお腹が……」
「どうした、大丈夫か?」
 先生を欺くため、事前に小野寺さんと練習までした腹痛の演技です。掛かりました。
「あの、わたしは大丈夫ですから、落ち着いたらどちらかに連絡しますので、お二人はごゆっくり楽しんでください!」
「あ、ああ……」
 わたしは首尾よく二人を置いて、地下街に駆け込みました。これで見守れるような物陰もないので、下手に戻れません。あとは小野寺さんを信じるだけです。
 降りてきた入口から少し離れて、ベンチで時間を潰しました。あまり長く待たせると心配のほうが大きくなってしまうので、ちゃんと時計も見ておきます。
 苦しい暇潰しでした。今日は本当に楽しい時間を過ごせたと思いますし、小野寺さんもいつもより、先生との距離を縮められている感じがありました。この流れなら上手く行くのではないかという淡い期待は、ますます大きくなっていました。
 それでも、先生は先生です。文芸のことになるとまず自分を曲げない、無粋な人です。今回に限って情にほだされてくれることなどありません。きっと小野寺さんがそれを打ち明けた瞬間、先生はすべてが仕組まれたことだと悟り、逃げてしまうのです。というか、今回は最初から騙されたふりをしてくれているだけの可能性もあります。だとすれば、希望を与えるだけ与えてギリギリまで泳がせようとしている。どちらにしても勝てません。
 そして、十分が経過します。そろそろ戻ろうかと思ったところで、小野寺さんからメッセージが届きました。
 合格発表を見るような思いで、内容を確認します。
『戻ってきていいよ。ありがとう』
 少しの間、身体が全く動かなくなりました。これは、つまり……。
 何度か足をもつれさせながらも、わたしは地上へ戻りました。二人はほとんど変わらない場所に立っていました。
「すみません、お待たせしました」
「ああ」
「お帰り」
 しかし、もはやさっきまでのような空気はそこにはありませんでした。二人の反応はぎこちなく。互いの顔も見ていません。
「もう少し見ますか?」
「わたしはもういい」
「……うん」
 続行不能。なすすべもなく、その場で解散となってしまいました。

 その場では三人、別々の方向へ別れましたが、間もなく小野寺さんがメッセージを送ってきて、またテレビ塔の下で合流することになりました。
 行ってみると小野寺さんは先に来ていて、わたしを見つけると飛びついてきました。
「中津さんっ」
 泣いています。わたしはその背中を、優しくさすってあげることしかできません。
「手伝って、くれて……ありがとう」
「よく、頑張りましたよね」
 どんな話になったかもわからない状況です。とりあえず、小野寺さんの悲しみを受け止めることだけで精一杯でした。
 それでも、しばらくして落ち着いた小野寺さんは、少しずつ話を聞かせてくれます。
「『合作は苦手だ、断る』って、それだけ。浦川さんにはね、本当に、それ以上の気持ちは、なかったと思う」
 確かに、先生のしそうな反応です。どれだけ大きな感情をぶつけても、受け流されてしまうのです。先生を責めることはしない約束ですが、それにしても全く報われなかった小野寺さんがかわいそうです。
「私が、勝手に浦川さんを好きになって、不相応な願いを持っただけ。文芸だって、いつまでも浦川さんに近づくための手段じゃなくなることはなくて。不純で、愚かで、醜くて……」
「小野寺さん!」
 このままでは、小野寺さんが自分を責めて沈んでしまうばかりです。そこからは、なんとしても今日のうちに救い上げなければなりません。それが何もできなかったわたしの、せめてもの償いです。
「小野寺さんの文芸は、誰もそんなふうに思っていないですよ。ただ本当のことを知らないだけと言うなら、わたしはどうなりますか。わたしだって、全部小野寺さんの思いを知っていても、作品は作品でちゃんと評価しています。編集者の責任として、そこに嘘はありません。だから……これ以上、自分を責めないでください。これで、小野寺さんの文芸が終わってしまったら……わたしは悲しいです」
 泣き腫らした目。わたしの視界もにじんでいました。
 わたしの言葉も、どれだけ届いたかはわかりません。
「……でも、やっぱり。浦川さんからは、一回離れないといけないと思う。わたしが、何のために文芸を始めて、本当にこれからも続けていけるのか……少し、考えさせて」
「はい……」
 勢いで文芸を辞めるようなことにはならず、多少は安心します。
「今日は、本当にありがとう。遅くまで付き合わせてごめんね。温かくしてね」
「小野寺さんも、気を付けて帰ってください」
 それでもなお、ひどく心細い別れです。もう会えないような気さえします。そのままクリスマス市の人混みへ消えていく小野寺さんを、わたしは見えなくなってもしばらく見送っていました。

「今日、小野寺さんは休みですか?」
 週明けの部会は年内最後であり、恒例の丁合の日でした。その開始直前に、相羽さんに尋ねられます。しかし、教室を見回しても小野寺さんの姿はありません。
「来てないみたいですね……」
「わかりました。メールで連絡取ってみます」
 先生は来ていました。しかし、今日はいつにも増して険しい表情です。そのときのことを聞き出そうとするのは、結果的に先生を責めることになりそうでできません。
 丁合が始まって、わたしは序盤から組まれたページをチェックする係に入りましたが、そこに入船さんが来ました。
「部長、今日の浦川さん、怖いです……」
 この和気藹々とした空間にそぐわない異様な圧力を放つ先生を怖がっているのです。これはいけません。しかし、今回ばかりはわたしも先生を宥める方法がわかりませんでした。
「すみません、ちょっと気が立っているみたいで……」
「部長、もしかして浦川さんと喧嘩ですか」
 そこに相羽さんも寄ってきます。この二人が相手では、話してはいけないことまで聞き出されてしまいそうです。
「いえ、そういうわけではないのですが……まあ少し、アレですよ」
「アレ……」
「とは?」
 残念ながら、曖昧な表現では誤魔化せませんでした。しかし、ここで緩んでは二人の思うつぼです。
「少し、話しにくい事情があるので……今日は楽しくお話することはできないかもしれないですけど、年明けにはきっと、良くなりますから」
「わかりました」
「辛いときもありますよね」
 今度は納得されました。何だと思われたのかは、この際気にしないでおきます。時間が解決するものだとわかってもらえればそれで良いです。
 しかしながら、先生のそれに今日小野寺さんが来ていないことが関係していないはずがありません。先生にとっては多分、小野寺さんのどっちつかずな態度が一番嫌なのです。すなわち、自分に関わらず、本気で文芸をする気があるのか、どうなのか。
 それこそ『叫べ』は、先生に小野寺さんを一人前の書き手だと認めさせた作品です。先生もそのときは、小野寺さんが先生への執着を捨てて対等な立場で邁進していくものだと思っていたのでしょう。しかし、小野寺さんの思いはそういうものではありませんでした。先生の前に出ることがあっても、常に先生を追う姿勢を崩しませんでした。それはそれで本気であり、誠意でもありました。このすれ違いが、今また大きな断裂となってしまったのです。
 丁合が終わった後の帰り道、思い切って先生を捕まえました。
「先生、その……ごめんなさい。クリスマスのことは、わたしが進んで小野寺さんに協力したんです」
 まずは少なくともその分の非礼を謝っておきます。これはもちろん、本質的な部分ではありません。
「最初からわかっていたよ」
 先生はにべもなく答えました。
「もっと、愛の告白でもされるのかと思っていたが。そうしたらいい機会だから、はっきりそこは線を引くつもりだったが……どうだ。わたしと合作がしたいと言う。拍子抜けだと思ったよ。だが……それだけのこと。どうして小野寺は来ない? 裏で通じているのだろう、知っているのではないか?」
 やはり、小野寺さんのことが気になって仕方がないのです。そのほかの部分も、だいたい予想通りでした。予想通りではあって欲しくないと思っていたのに、呆れます。
「小野寺さんは! その告白に匹敵するくらい勇気を出して、先生を合作に誘ったんですよ。先生はそれを大したことじゃないと思って、受け流したんですよね?」
「わたしは合作が苦手だと、小野寺に伝えなかったのか? なぜ合作にこだわる必要がある。それは私情を押し付けているだけだろう。わたしの知ったことではない」
「確かに、先生は、そうですけど……もう知りません!」
 わたしもその言葉に、心を打ち砕かれてしまいました。先生の隣に立っていられなくなって、とにかく先生から離れようとして、がむしゃらに走りました。
 そして、二十一時を過ぎて消灯した教養棟の前に戻ってきてしまいました。ドアは開かなくて、立ち尽くします。
 教養棟の前にはイルミネーションで飾られた木があって、こんな時間まで電気が通っています。
 だから、雲はありませんでしたが、星は見えませんでした。星のほうが見たかったのです。
『経過はいかがですか? 今日、わたしも先生と話しました。そうしたら、わたしはなんだか先生が許せなくなって、喧嘩になってしまいました。
 それでもやっぱり、わたしは先生のぶれない求道者的なところに惹かれていて……小野寺さんもきっと、そこは今も変わらないと思います。ですから、傷心旅行にでも行って、一緒に次のことを考えませんか?
 早ければ、年明けの土日にでも。行きたい場所があったら言ってください』
 心細さのままに、小野寺さんへメッセージを送りました。年明けの週末は三連休ですが、月曜日は成人式なので、一泊二日しか使えません。
 返信はすぐに来ました。
『支笏湖、行きたい。日付はそこでいいよ』

 当日は午後から札幌駅で待ち合わせして、電車とバスで行く予定でした。時間が近づいて、なかなか小野寺さんが来ないと思っていると……。
「中津さん」
 短めのショートヘアの女性に話し掛けられました。一瞬、誰なのかわからず。しかし、声と恥ずかしそうに前髪をいじる仕草でわかりました。
「もしや小野寺さんですか?」
「うん。あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
 肩よりも伸びた癖のある長髪を切ってしまったのです。見た目の雰囲気は間違いなく明るくなりました。ちなみにわたしはいつも通りです。
「長い髪……私は顔を隠すのとかにも使ってたけど。もう、そういうのはやめようと思って。まだ慣れなくて、ちょっと恥ずかしい」
 この健気さが失われていなくて、本当に良かったと思います。
「明後日、成人式ですが……髪を結ったりする予定は?」
「写真だけ撮ったから。成人式は出ないつもり」
「そうなんですね」
 千歳へ向かう快速で、わたしたちは幸いにも座ることができました。すると小野寺さんは、リュックから一冊の原稿を取り出します。
「中津さん。これ、私が入る前の夏のマスカレードの小説なんだけど……誰のかわかる?」
 なんとそれは、『冬のダイヤモンド』でした。高校の軽音楽部の女の子四人が天体観測キャンプをする、ゆるふわ小説です。作者はもちろん新井くんですが、本人も半分黒歴史扱いしているような作品です。
「新井くんですよ。しかしまあ、よりによってその作品ですか……」
「ちょっと退屈なところもあったけど……雪のキャンプ場とか、星を見るところの描写が綺麗で、こういうことやってみたいって思った」
「それは新井くんには聞かせないほうがいいですね……間違いなく調子に乗るので。今日、支笏湖を選んだのもこれで?」
「うん」
 その作中に出てくるのは、冬の夜に見られる代表的な六つの星です。明るい星ではありますが、街中ではなかなか観測が捗りません。今は支笏湖も毎年のイベントが始まる前なので、夜も静かで良い環境だと思います。
「『夕暮れの水屋から』って、新井くんと朝倉さんの合作だったでしょ」
 次は去年の春のマスカレードの作品です。中学の茶道部で部員が新設の美術部に流れて危機を迎えている中で、二年生の男の子が三年生の先輩たちからしっかりと「心と伝統」を受け継ぎ、次代の部長として成長していく物語です。
「そうですね。それにも、影響を受けたとか?」
「影響というか……朝倉さんが、実際に書くのは大変だったけど、一緒に設定とか話を考えたり、茶道について勉強したりするのが楽しかったって言ってて。合作って、それは大変かもしれないけど、バンドの合奏と同じで、お互いを信頼していないと楽しめないと思う。そういうところが、羨ましかった」
「先生とも、そういう関係になりたかったと……」
 先生が求めるものは純然な「文芸のためにつながる」関係ですが、その対極である「つながりのために文芸をする」関係との間には多くの立場があると思います。白か黒かではなく、度合いが強いか弱いかだけなのです。なおかつ、それらは共存でき、互いを強め合います。文芸を遠慮なく手段として活用する新井くんでさえ、「文芸を介した関係」によって各々の文芸の実力が高まると言っています。
「難しいですよね。わたしはある意味、編集しかやっていなかったから、ちょうど先生と利害が一致して、今までやってこれたと思うんです。でも、わたしも書き手だったら、先生の望むような切磋琢磨する関係で居続けるのは難しかったと思います。どこかで後塵を拝するだけになって、それでも先生と一緒に居ようと思ったら、文芸は手段にならざるを得ません」
「まあ……なんとなくわかる。でも、私はやっぱりまだ、浦川さんの作品に意見できるほどじゃなかった。この間、合評に出てみたらって勧めてくれたでしょ。それで一次合評に出てみたんだけど、当たり障りのないことしか言えなくて。でも、二次合評稿を読んでみたら、大きく変わってて……」
「それは、相羽さんの力ですね」
「私はこれだけ浦川さんを見てきたけど、浦川さんの行く先のことには、何も考えが及んでないんだって思った。だからもう、本当の意味で一緒に新しい作品を作ることでしかそこに関われない。合作を選んだのは、そういう理由もあるの」
「なるほど……」
 先生の行く先。先生はどこからかそれを見つけてきますが、わたしがそれを示せることは、もはやほとんどありません。
 ……それならば、先生にとって編集者としてのわたしは、とうに終わっているのでしょうか?
 浮かんでしまった絶望的な予感は、首を振っても消えませんでした。
「どうしたの?」
「いえ……わたし、まだ小野寺さんに話していなかったことがありまして」
「うん」
「わたし、もうずっと長いこと、先生の編集ってやってないんですよ。一年誌のときが最後で。冬部誌のときに、お互い高校の文芸のレベルから脱却しようとして、別行動を決めました。そしてお互い成長して、来年の冬部誌で最後に組もうって約束したんです。でもそのきっかけは、わたしが編集として自信を失くしたことなんです」
「そうだったんだ……」
「もちろん、先生の作品は今でも全部読んでますけど……それだけと言えば、それだけなんです」
 自虐的にしかそれを打ち明けられなかったのは、わたしがこれまで先生の編集であったことを、自分を大きく見せるための材料として都合よく利用してきたからに他なりません。やっぱり、小野寺さんとは先生の隣を奪い合うライバルでもあったのです。
「でも、その約束は諦めちゃったの?」
「諦めたと言うには早いですが、先生の編集に戻れるのかは不安です。先生の成長に比べたら、わたしはもう」
「……」
 このままでは、傷を舐め合うだけで終わってしまいます。前向きな気持ちは全然起こりません。
 先生の不器用な励ましが、今は何より懐かしく思い起こされました。

 千歳駅でバスに乗り換えると、小野寺さんは眠ってしまいました。わたしも森に入るまでは何をするでもなく起きていましたが、限界が来ました。気が付くと湖畔です。
 バスを降りてから、湖畔の遊歩道を歩いてホテルへ向かいました。ここは凍らないことで有名な湖です。いくつもの真っ白な山を背景に湖面が揺れているのは、不思議な感じがします。今日は晴れていますが、気温は氷点下十度を下回っていました。たまに吹く風が顔に刺さります。
「寒いですね……温泉が待ち遠しいです」
「……夜はカイロ、たくさん使う」
 もう日が傾いていて外を歩く人はほとんどいませんでしたが、ホテルに入るとそれなりの人通りがありました。とりあえずチェックインして、荷物を置いたら温泉へ向かいます。
 冷えていた身体によく染みる、しっとりとしたお湯でした。油断するとのぼせるまで浸かってしまいそうです。
「さっきの、話だけど」
 一息ついて、小野寺さんが言いました。
「中津さんには、あんなふうに弱気になって欲しくなかった」
 初めての厳しい口調です。
「中津さんがどうして浦川さんの一番近くに居られるのか、ずっと考えてたのに。どうして無条件に許されてるんだろうって」
「……すみません」
 わたしは謝ることしかできませんでした。どんな責めも甘んじて受けるつもりでした。しかし、次の小野寺さんの言葉は、想像と少し違いました。
「でも……たとえ中津さんがその約束を守れなくても、浦川さんはやっぱり許しそうな気がする。そんなの、嫉妬しちゃうよ。高校の文芸部でのことが、そんなに埋めようのない差だったってことなのかな」
 わたしと先生の関係こそ、文芸のための関係だと思っていました。基本的に先生はそれ以外のことに興味を示しませんでした。だから、相羽さんが先生と築いた関係は心底意外だったのです。しかし小野寺さんの言うように、わたしがどんな状態になっても、万一文芸への熱意を失っても、先生は諦めてくれないような気がします。
『わたしだって、そこまで薄情ではない。言ったはずだ。中津はわたしの、手放しがたいパートナーだと』
 去年のバレンタインデーに先生が掛けてくれた言葉が、頭の中に蘇りました。
 今でも、そうなのでしょうか?
「確かに先生も、自分では薄情でないと思っているみたいですが……」
「私も浦川さんは、薄情ではないと思うよ。言葉は冷たくても、私にとって良いことを考えてくれてるし。私を遠ざけようとするのも……やっぱりそうだし」
 何があっても離れないわたしと、絶対に近づけない小野寺さん。こんな状況を招いた先生は重罪です。でも、わたしも小野寺さんも、知ってか知らずかそんな先生を選んでしまったのです。
「結局は、勇気と覚悟。先生の文芸に対するそれと同じくらい、わたしたちも先生と一緒に走り続けるためには必要なのかもしれませんね」
「……そうだね」

 夕食も済ませ二十時頃、二人で外に出ました。わたしも小野寺さんからもらったカイロを首の後ろに貼っています。湖畔までは暗い山道を下らなければならず危険だったので、まずは湖の見える櫓を目指しました。誰かが歩いた細道をたどっていきます。
「ここなら、湖も見えますが……空はこちらの方角しか見えませんね」
「こっちは……西。多分、あの辺りに四角形が見えるはず」
 小野寺さんがスマホで方角を調べ、星座早見と見比べます。わたしは言われた通り、まっすぐ湖上の星空を仰いでみました。すると確かに、結ぶと台形になりそうな四つの星が見えます。
「見えますね」
「あれはペガスス座の一部で、秋の四辺形」
「秋の星座ですか」
「十月頃だと、真南に来て見やすい」
 さすがに天体をモチーフにした歌を作っただけのことはあり、小野寺さんは慣れた手つきで星座早見の円盤を回して案内をしてくれます。
「そうなると、冬の星座は南か東にあるというわけですね」
「うん。ホテルの陰になっちゃうから、駐車場のほうまで行こう」
 小野寺さんが狙うのは、やはり冬の星座です。駐車場は街灯もありやや明るいですが、それでも星はよく見えました。
「多分あっちのホテルに近い方に、シリウスとかプロキオンが見えるはず。後は、星座を探すとか、好きにして」
 わたしも星座早見を貸してもらい、明るい星を探してみます。それはやや低いところに見つかりました。
「あっちの明るい星、シリウスでしょうか」
「低いから多分、シリウス。あっちのもう少し高いところに見えるのがプロキオン」
 それにしても、天体観測に慣れないわたしにとっては、こうしてたくさんの星が見える環境にいること自体が貴重な体験です。星や星座を探すよりも、普段は見えない星の全てを目に焼き付けるほうが優先だと思いました。
 そうしていると、だんだんと晴れやかな気持ちになって、先生とももう一度向き合えそうな気がしてきます。
「……中津さん」
 やがて、小野寺さんが空を見上げながら言いました。
「戻ったら私の歌、聴かせてあげる」
「歌、ですか?」
「『マリンビュー』の、最後の曲」
 今回はこれまでのように一部を口ずさむのではなく、ちゃんと録音したものを聴かせてくれるようです。しかし小野寺さんは以前、それを自分自身も聞いていない、しまい込んでいるものだと言っていたような気がします。
「本当に、聴かせてもらってもいいですか?」
「うん。そういうものも全部、堂々としなきゃと思って。全部が私だから。これまで、私も浦川さんに自分の一番いいところだけを見せようとしてたの。だから、いちいち緊張して。浦川さんも、厳しいところばっかりじゃないと思う。本当はもっと文芸とは関係なく、友達にもなれたんだと思う。それを私は、敢えて一番難しいところに、自分の一部だけでずっと勝負してた。そういうのは、おしまいにする」
「……わかりました。聴かせてください」
 ひとしきり星空を楽しんだところで部屋に戻ります。温かいお茶を淹れてから、小野寺さんの最後の歌を聞かせてもらうことにしました。
「『Stray』っていうの。七曲あるうち、バラードらしいバラードはこの曲だけだった。まずは聴いてみて」
「では、聴かせていただきます」

  どこから来たの? この気持ち
  誰かを強く 求めてる
  いつの間にかの 居候
  追い出そうかと 何度も思った

  ずうずうしくて 憎らしい
  だけどときどき 温かい
  見えない迷子 預かって
  誰にも言えず 抱えてる

  Stray お前の居場所は
  本当はきっと ここじゃない
  Stray だけどわたしも
  どこへ行くのか わからないまま

  どこかへ行くの? この気持ち
  不意にあなたと 出会ったら
  ひっくり返り 引きこもり
  その先なんて 夢のまた夢

  むずむずしてる どんくさい
  だけど何故だか 気になるの
  ベッドの中の 妄想を
  誰にも言わず 重ねてる

  Stray お前だけだよ
  本当のこと 知っているのは
  Stray だけどわたしも
  夜にこのまま 溺れたくない

  打ち明けた、夢? それはわたしじゃない
  あなたの手、透けて 消えたのはわたし
  壊れる世界 自分を空に放り投げた
  ああ 明け方 あなたの姿が

  Stray もう動かない
  思い出だけなら 忘れて終わり
  Stray 大好きだって
  次はあなたに 言えたらいいな

  頑張るからね Stray

  思い切ったの 長い髪
  軽くなったら またいつか
  会いたくなった あの気持ち
  「どうしたの?」って それは――秘密

 曲を聴いている間、わたしはステージの上で歌う小野寺さんを想像していました。センターで、ギターも抱えて、バンド名は自分の名前が由来になっている。小野寺さんはバンドの主役です。そして全校に名前が知れて、最後のライブともなれば、多くの観客がいたのでしょう。そこに、どちらかと言えばかわいらしいハイトーンボイスを響かせる。その間は、弱い自分を忘れられる。歌だけでなく、その可憐な歌姫の姿に魅了された人も少なくなかったのだろうと思います。
 そして、最後の音が止まって……わたしは小野寺さんに拍手を送ります。
「ありがとうございます。とても甘酸っぱくて……折に触れて何度も聴きたくなるような曲ですね」
 恐らく片思いの心境を歌ったこの歌は、まるで当時の小野寺さんが、今の小野寺さんに向けて書いたかのように重なる部分があると思いました。
「ありがとう。この曲は本当に最後の学校祭で、一回しか演奏できなかったの。なんか、恋なんてしたこともなかったのにこんな歌詞書いちゃって恥ずかしかったから、良かったのかもしれないけど。多分、この曲をちゃんと憶えてるお客さんはもういない」
「小野寺さんの歌、ちゃんと聞けて良かったです。現役時代に聴けなかったことが心残りだったので」
「ふふ、良かったね。本当に貴重だから、忘れないでよ」
「はい」
 わたしも勇気をもらいました。きっとやり直せます。そして、一つずつ前に進むのです。

 次の部会が終わった後、わたしたちは先生を呼び止めました。
「先生。まずはこの間のクリスマスのこと、そして丁合のときのこと、申し訳ありません」
「私も、浦川さんを騙すようなことをして……本当にごめんなさい」
 頭を下げて、また上げると、先生の表情は穏やかでした。
「もういい。わたしも、言い方がきつかったかもしれない。小野寺に勝手な期待を押し付けていた。価値観の違いに、わたしの中で折り合いをつけられなかった。許してほしい」
 先生と小野寺さんが握手を交わします。とりあえず、これで元通りです。
「……うん。それでね」
 次は、小野寺さんが改めて気持ちを伝える段です。
「私は、やっぱり浦川さんの作品が好きで、浦川さんにも、憧れてるから。やっぱり、私の文芸は浦川さんとの間にあるものなの。これまでは、一番いいところだけを見せようとしてきたけど……本当は文芸だけじゃなくて、何気ないところから、同じものを分かち合いたい。浦川さんと、そういう友達に、なりたい」
「……友達、か」
 先生は恥ずかしそうに、横目で小野寺さんをちらちらと見ていました。
「まったく、最初からそう言えば良かったのだ。あくまで文芸にこだわるから、わたしもああいう対応をしたというのに……そういうつもりなら、よろしく頼む」
「うん。よろしくね」
「ああ」
 先生から手を差し出し、小野寺さんが応えます。とりあえず小野寺さんのことは、これで良いところに収まったのだと思います。その後は傑作選も、相羽さんに切った髪をいじられたりしながら、楽しく仕上げを進めることができたと言っていました。
 その様子を見ていたわたしの心境は、まだまだ穏やかなものとは言えませんでしたが……ともかくも小野寺さんは、先生の近くに居場所を見つけることができたのです。

二十一 夢

「正直に申し上げると……僕ら一年目はあんまり、マスカレードに興味がないんですよね」
 高崎くんが控えめに、重たい意見を口にしました。
「新井さんの企画も一月末まであって、そこからマスカレードの締め切りに間に合わせるのも難しいですし、意外と帰省したり進級の手続きがあったりして、読む時間もあまり取れないと思ってます」
 それは、忘年会の翌日に図書館で行われた企画班会議でのことでした。議題は、長いこと問題を抱えているマスカレードのことです。投稿される作品の数に対して投票数が少なかったり、作品ごとの投票数に偏りがあることは大きな問題であり、今回もそれを改善するための方法が話し合われるところだったのです。
「あとは、匿名で投稿したりコメントしたりするのも、あまり良い方向に働いていないと思っています。一年目で、もう文芸部には来ていないんですけど、夏のマスカレードに出した人がいて……順位が低かったのは仕方ないとしても、全然前向きじゃない、こき下ろすようなコメントがついたので、文芸自体のやる気をなくしてしまったということがありまして」
「そんなことが……」
 そのような経緯で部を離れてしまう一年目がいたという事実は衝撃的でしたが、殊更意外には思いませんでした。そういったコメントがあることはわたしも認識していたのです。新井くんくらいの「賛否両論」になるならまだ良いほうで、もう少し拙さの目立ってしまうような作品だと、それは無残なコメント欄になってしまいます。この文芸部という、一見善良そうな人々が集まっている集団でも、匿名になるとこうなのです。
「なるほどなあ……悲しいことやで」
 新井くんは頷きつつ、共感を示しました。
「まあ、そういうコメントの質の問題は二の次になってたよな。順位をつけるイベントだから、やっぱり投票の公平性のほうが問題になるんでさ。でも、俺も八戸さんが怒ってるのを聞いたで。『悪い点つけるために、てんで的外れなコメントを書く奴がいる』って。それは全部がコメント書くほうの責任じゃないけどさ、そういうコメントを『間違ってる』って裁く機会はないから、野放しになるわけだよな。確かに、治安も悪くなるで」
「点数のほうは気にしなくても、コメントは気にしちゃうよね」
「難しいな……」
 朝倉さんや武藤さんも、深刻な表情で首を傾げたりしています。
「個人的には、俺はマスカレードが数少ない勝負の機会やから、なくなったらつまらないな。言うても、それが実際、部のモチベーションに少なからず悪影響を及ぼしとるとなったら……いっそ止めてしまうか」
 こうなると当然、廃止論が出てくるわけです。わたしも、もはや今の形態のままマスカレードを続けることには無理があると思います。
「橋上さんは、コメントが匿名じゃなくなって、作者も最後には全部明らかになるくらいなら、堂々と風通し良くやれるのではないかと言ってました。順位付けはあってもいいですけど、点数の付け方は今みたいな十段階ではなく、もっと単純な方式がいいそうです」
「なるほど。点数のつけ方について、具体的な考えはある?」
「これは辻が言ってたんですけど、今は平均点で競うので、平均点以下が実質なマイナスなんですよね。意図しなくてもマイナスの点をつけられるのはあまり気持ち良くないので、できたら完全な加点方式にしたいです。傑作選みたいな投票でもいいかもしれません」
 高崎くんの隣で、長谷くんも頷きます。裏で一年目としての意見をまとめてきたのでしょう。武藤さんがそれをホワイトボードに書き起こすと、新たなマスカレードの原案が出来上がりました。
「なるほど……でも、これやと投票する気のない作品には読む気も起こらんと思うで。俺は今、マスカレードの点は相対評価でつけてるから、低い点の作品もちゃんと理由付けるために読む。それが良い作品だけ投票することになったら、投票しない作品はもっと流し読みになるかなあ。それに多分、上位何作品か以外は差がつかないよな」
 しかし、新井くんは手厳しく指摘します。確かに、差がつかないというのは企画の面白さを大きく損ないかねません。コメントも結局、上位の作品に偏って終わりだと思います。状況は今と変わらないか、却って悪化することになるでしょう。
「この部ではよくあることやけど、みんなマスカレードに求めるものが違うよな。忖度なし、掛け値なしの厳しい評価で戦いたいって人もいれば、単に読まれて感想をもらえる機会を求めている人もいるし、個人賞を楽しみにしてる人もいる。今はまあ、悪く言えばどっちつかず、良く言えばニュートラルな企画だから、みんな自分のいいように楽しんでるけど、奇跡的なバランスと言えばそうだよな」
「自分さえ良ければ……って感じ?」
 その武藤さんの言葉に、誰もが黙り込んでしまいました。誰も、マスカレードが仮面の下に利己心の渦巻く闇の舞踏会であることを否定できなかったのです。
 そもそも、この部は個人主義的でした。お互いに距離を取って、過度に干渉せず、フラットにやってきたのです。それならば、マスカレードも楽しめる人だけが楽しむという形で良かったのかもしれません。
 しかし、今の一年目は違います。どの年目よりも密接な関係を早くから築いています。現在進行中の新井くんの企画でも、その結束の固さを見せてくれているところです。彼らがマスカレードに良い印象を持たないのも当然の話だったのです。
「それなら、順位付けもやめるか」
 静寂を破ったのは、やはり新井くんです。
「順位さえなけりゃ、もっと大らかにやれるやろ。匿名も撤廃。最初から作者も、感想も名前出してやる。それから、作品を投稿した人は、感想も半分以上は書くくらいのコンセプトを前面に押し出す。そして必要なら、合評の場も設ける。高崎くん、どうや?」
「そうですね。僕らはそのくらいのほうが参加しやすいです」
「よし、そういうわけだ。武藤さん、企画のレジュメ作るのは俺に任せてや」
「わかった。じゃあお願い」
「一応、来週の部会あたりでそれとなく、マスカレードやめるって言っておいたほうがええな」
 この瞬間、マスカレードの廃止が実質的に決まってしまいました。そして、代わりにできるのはカジュアルな交流企画です。自然な成り行きであったとはいえ、この決定をすんなりと受け入れられない人もいるのではないかと思いました。先生もその一人です。この春のマスカレードを、卒業する山根さんや上尾さんとの本気の勝負の場と決めていたのです。
 しかし、先生に関しては前回、作品が少ない人数にしか読まれない可能性があることに不満を漏らしていました。
『読みやすい作品だけが読まれ、その中で感想を言いやすい作品だけが投票される。本気で力を試す場として、これでは説得力がないと思わないか?』
 どのような場なら、気持ちよく勝負ができるのでしょうか。これは直接聞いてみなければならないと思いました。

 翌日の月曜日の午後、学生交流会館に先生を呼び出しました。そのときは傑作選の編集決めの直前でしたが、先生は暇そうに、眠たそうにしていました。
「お疲れ様です」
「ああ」
「早速用件を申し上げますと……実はマスカレードがなくなるのです」
「ああ?」
 わたしがそれを伝えた途端、先生は目を見開きました。驚くのも無理はありません。
「実は、昨日の企画班会議で話し合いまして。作者もコメントも匿名であることによって、上位以外がギスギスした雰囲気になってしまうのを、一年目は嫌っているみたいで……先生が前に指摘されていた票の偏りの問題もそうですけど、マスカレードの構造的な欠陥は、どうにも解決しがたいという話になりまして」
「しかし、それでは冬休みの予定が空くだろう。代わりの企画はないのか?」
 先生は一応、マスカレードがなくなることに関しては納得したようです。問題はここからです。
「今考えているのは、初めからオープンに、書く人もコメントする人も名前を出して、純粋な交流企画にしようという案ですね。ただ、これでは先生をはじめ、力比べがしたい人にはつまらないだろうと思ったので、わたしが勝手に先生の意見を聞きに来たというわけです」
「なるほど。まあ、確かに欠陥があるとはいえ、唯一の力試しの場だ。完全になくなるというのはつまらない。だが、その新たな企画で順位付けをする気もないのだろう?」
「はい。傑作選のように投票するという案も出ましたが、採用しない方向です。そうなると結局、上位の作品に注目が集まるだけなので」
「要は、実力にかかわらず、こだわらず、分け隔てなく交流しようというわけか。新しい時代には、それでも良いのかもしれないな」
 意外にも、先生が肯定的な発言をしています。もっと抵抗すると思っていましたが、期待外れです。
 ……そう思うのはやはり、私自身もこの部の頂点で輝く先生を見たかったからに他なりません。この小さな部であっても、高校を出た頃のもっと小さな世界しか知らなかった先生が、二年近く修練を積んで、ついにこの春、大勝負に出るはずだったのです。実力にかかわらず認め合うことも大事にしたいとは思いますが、わたしはやはり、先生にはカリスマであってほしいのです。その威光で衆生を遍く照らしてほしいのです。
「まあ、作品はこれから書き始めるところだ。何にしても今、わたしに書ける最高のものを書くだけだよ」
「はい……」
「残念そうだな?」
「いえ……先生がよろしければ、わたしはそれで。新作、楽しみにしていますよ」
 もはや、先生のためだけに動くわけにもいきません。この話は、これで終わりにしようと思いました。

 それから小野寺さんとのクリスマスの件があって、支笏湖に行って、わたしはマスカレードに代わるその企画のことを忘れかけていました。裏では企画班が準備を進めていて、『春の創作まつり』という名前が決まったり、企画を盛り上げるアイデアの募集もされたりしていましたが、わたしたちが支笏湖に行った次の部会の段階でも、意見は出ていなかったようです。
 その週末、世間的にはセンター試験などがあり大学への出入りが制限されているところでしたが、新井くんからわたしや企画班のメンバーに向けて一通のメールが送られました。
『お疲れ様です。祭の件ですが、マスカレードにあった個人賞を導入するのはどうでしょう? あれなら、オープンな交流をするコンセプトを損なわずに盛り上げられると思います。最低限、企画班賞みたいなものはやりたいですね』
 これは大きなチャンスです。わたしはとりあえず返信を打ちました。
『わたしは賛成です。企画班賞もそうですが、何かご褒美的な要素があると、モチベーションが上がる人もいると思います』
 しばらく経って、朝倉さんからもメールが届きました。
『個人賞、いいと思う! 企画班賞もやることになったら手伝うよ』
 あとは一年目の反応も気になるところでしたが、心配したようなものではありませんでした。
『賛成です。個人賞は、普通に感想を書くことの延長みたいな感じで、自由な観点でできるといいですね。コミュニケーションのきっかけにもなると思います』
『面白そうですね。僕も賛成です』
 高崎くん、長谷くんからも賛成の声が上がります。決定的でした。やがて、それを確認した武藤さんが告知書を作ってくれました。次回の部会で発表することになります。
 さて、新井くんのおかげで舞台は整いました。しかし、例えば山根さんや上尾さんに頼んで個人賞を出してもらうとしても、なんだかわざとらしい感じです。やはり先生は認めてもらうというよりは、作品同士でぶつかり合い、それをもって語り合いたい人です。かと言って、わたしが審判を務めるのも違うような気がします。
 ということで、個人賞の告知の行われた部会の帰り道、先生と話してみることにしました。雪のメインストリートを、先生の少し後ろについて歩いていきます。
「例えば……先生は山根さんや上尾さんが個人賞を出してくださったら、獲りたいと思いますか?」
「思わなくはないが、そういう賞は、もっと明確に報いたい者を意識して行うのではないか? 逆にわたしは辞退するよ。山根氏や上尾氏の賞による『箔』を必要とするのはわたしではない」
 部会ではこの企画班賞を『個人的なご褒美としての位置づけ』と説明しています。要はおまけです。そういうものに先生が興味を示さないのは想定していたことでした。
「では……わたしが最も優秀な作品を選ぶ、部長賞ならどうでしょう」
 これに対して、先生は大笑いしました。
「何を必死になっている。そんなもの、部長の立場でわたしの作品を選べるのか? 癒着を疑われても知らないぞ」
 確かにそれはありそうな反応ですが、然るべき根拠があれば、わたしは選びます。
「先生の作品に説得力があれば、何の問題もありません。もちろん、下手には選びませんよ」
 すると先生はまた笑いました。わたしは少し、むっとします。
「まあ、わたしの挑戦の場がなくなることを案じてくれているのだろう。この春が最後の機会であることもな。だが、この春に向けて調整すると決めたのはわたしの勝手だよ。夏に勝負をする判断もできたのだから。そこまで、わたしの雄姿が見たかったのか?」
 見透かされました。わたしは無言で頷きます。
「そうか。だが今回は、時代の流れと言うほかないだろう。この部は競争よりも協和に向かっている。それは違わないよな」
「はい」
「そして、わたしたちは三年目になる。もう与えられる側ではない。だから、これでいいのだよ」
 もとよりわたしも、諦めたはずのことでした。今度こそ、この話は終わりです。
「……わかりました」
 それにしても、先生はどうしてここまで達観しているのでしょう。これまでの先生は、結局のところ自分のことにしか興味がなかったはずなのです。「時代の流れ」に抵抗することも厭わず、自分の道を進んできました。最近の一連の態度の変化は、ある予感を起こさせるほどです。
「先生、もしかして……この部から引退しようとしていませんか」
 怖くなって尋ねました。すると先生は、ちらりと振り向きます。
「そう思うか?」
「文芸人たる先生を満足させるものは、この部からもうじきなくなってしまうでしょう。そうしたら、次の場所へ向かうのが……」
 先生にとって、自然なことではないかと。わたしはそこまで言い切ることができませんでした。こんなところで言霊に隙を見せて、本当になってしまったら取り返しがつきません。
 そうしたら、先生はまた大笑いしました。
「昔のわたしなら、次の夏には辞めてしまっただろうな。しかし今は、もうしばらくこの部には居ようと思っているよ」
 少し涙が出てしまうほど安堵しました。先生は続けます。
「冷徹に追い求める文芸も好きだ。しかし今の一年目のように、特に高い目標を持たずとも、文芸を楽しむことで一致している関係はまた違った趣がある。そのことに気づいたのだ」
「それは、相羽さんや入船さんの影響で?」
「ああ」
 もしかすると、先生が友達になりたいと言った小野寺さんを受け入れたのも、このような心境の変化があったからなのかもしれないと思いました。後輩との触れ合いが、先生に新たな選択肢を与えたのです。
 そして、わたしは最後まで、先生はずっと同じだと思っていました。どれだけ成長しても、何か同じものでつながっていると思い込んでいました。
 それは、つまり……。
「先生。わたしとの約束、覚えてますか? 最後の部誌で、また組むって」
「もちろん。そうしないうちに辞める気はない」
「そのこと……」
 結局わたしは、今もなお先生を昔と同じパラダイムに引きとどめようとしているのです。いっそ、ここで先生を自由にしてしまおうと思いました。
 その最後の一縷を、断ち切ってしまうことができたなら!
 しかし、途端に息が詰まってしまい、声が出ません。気を取られたわたしは無防備に氷の張った傾斜へ足を踏み入れ、そのまま転倒してしまうのでした。
「大丈夫か?」
 先生が、すぐに手を差し伸べてくれます。
 わたしはほとんど無意識に、その手を取ってしまいました。
「……ありがとうございます」
 もうそれで、わたしは甘くどっちつかずな時間の中から、また抜け出せなくなったのです。
「何か、言おうとしていたのではないか?」
「……忘れてください」
 こんなとき、小野寺さんなら歌で気分を入れ替えて、また前に進んでいけるのだと思います。本当に強い人です。わたしの「勇気」は結局、ずっと変わらない先生に依存していたのです。そこからはどうにか抜け出さなければならないと思うのですが、その道は少しもわかりませんでした。

 それからは先生と話すことも少なくなっていきました。二月になって春休みに入り、傑作選の印刷が始まります。その日は二限の時間に新井くんと一緒でした。ちょうど、『萌芽』が完成した直後のことです。
 輪転機を回しつつも、いくつか気になっていたことを尋ねてみようと思います。
「『萌芽』の完成、おめでとうございます。まだ全部は読めていませんが、印刷したらかなりの厚みになりそうですね」
「ああ。長谷くんの作品が、一次から二次の間に倍以上に膨らんでな。大作やで。合評はもう、図書館が閉まるまで掛かったけどな」
 文字数にすると八万文字くらいはあったそうです。部誌にはギリギリ載せられそうな長さだと思います。
「完成できなかったメンバーもおるけど、一年目はみんな楽しかったって言うし、悪くはなかったと思うで。何もやらなかったら、この冬は退屈やったろうしな」
 とりあえず一年目にとっては、新井くんの企画は有意義なものだったと言えるのでしょう。そこからがわたしの気になるところで、この企画が新井くんにとってどうだったのかが、同じくらい大事だと思うのです。
「新井くん、あとがきに『こんな私への救済は、少なくとも今のこの部にはない』なんて書いてましたけど、本当にそう思っていますか?」
「それはまあ、そうやで。心配せずとも、俺の文芸への評価はこの企画じゃ変わりようもない。マスカレードもなくなってもうたが、俺は安心しとるで。もう、ああいう評価に振り回されて、自分を見失うこともないってな」
「それは……『あの夏の火と鐘』のことですか?」
 新井くんが今回の冬部誌に出した『あの夏の火と鐘』は、もともと夏のマスカレードに出していた作品でした。結果は本人にとって納得のいくものだったらしく、それが編集の過程で何度もスクラップになることなど、全く予感もさせなかったのでしょう。
「それもあるし。本当に信頼できる人の評価に勝るものはないってことかな。俺はちょっと今回の創作まつりはパスするで。後輩にはあんまり、俺の無様な藻掻きに付き合わせたくもない」
「そうですか……」
 新井くんにもそれなりに、心境の変化が訪れているのです。
「そう言えば創作まつり、浦川さんが個人賞出してくれるってな」
「えっ?」
 わたしは大きな不意打ちを受けました。確かに最近話していなかったとはいえ、先生がわたしに話さずそのような行動に出るとは全く思わなかったのです。
「あれ、中津さん聞いてなかったん? 俺が浦川さんに、授業のときに頼んでさ。後輩も喜ぶし、中津さんと一緒でもいいからやってくれないかって。浦川さん、一人でやるつもりなんか」
「そうですね……まあ、先生は最近、一年目の皆さんとも徐々に打ち解けてきていますし……よいのでは?」
 少し的外れなことを言いました。でも、それ以上直接的にそのことを考える余裕はなかったのです。
「まあありがたいよな。高本さんや、明石さんと桜木さんもやってくれるし、今週末あたり、出揃ったものを発表するで」
「お願いします」
 そこで話が途切れてから、わたしは黙々と印刷作業を進めるロボットのようになりました。
 あれほど望んだ先生の自立です。でも、そうなって自分がこんなに寂しくなるとは思いもしませんでした。
 このまま、わたしは用済みになってしまうのでしょうか?

 三限の担当の二人と交代し、わたしは新井くんと北部食堂に向かいます。結論から言えば、無理にでも離れて帰るべきでした。この流れで新井くんから先生の話が出ることは予想できたのです。
「浦川さん、生態学の研究室に決まったんやって」
 いつか、花卉園芸学に代わって興味が出てきたと言っていた分野です。理解できる範囲で良かったと思いました。
「もう決まる時期なんですね。新井くんは?」
「植物病理学。要は、植物に感染する菌だとかの研究をして、農薬やらなんやらの防除に応用する分野やな」
 大雑把な説明ですが、先生よりは明らかに「農」に近そうな分野です。
「まあでも、最近なんだか浦川さんが明るくなったような気がするで。前期くらいまではあんまり学科の学生部屋とかにも来なかったんやけど、今は学科の人気者やで。浦川さんは頭もええし、魅力的な小説も書く……俺なんかもう、いないようなもんや」
 先生のエピソードはもっと陰気で、しかし奥深いニッチを突くようなものだったはずです。それではまるで、普通の優等生のようではありませんか。
「なんだか……わたしの知らない人みたいです」
「驚くのも無理はないで。俺も浦川さんがこんな感じになるとは、思わんかったしな」
 わたしには新井くんの共感も、上辺だけのものにしか聞こえませんでした。もはやこれは、わたしにしかわからない感情なのです。先生と出会って四年間で積み重ねた末、少し歪んでしまった。
 このままではお昼をご一緒することになりますが、その時点でわたしは食欲もなくなっていました。
「新井くん、すみません。わたし、ちょっと頭が痛くなってきたので帰りますね」
「おお、そうか。温かくしてな」
 いつからだったのでしょう。わたしと先生との距離が開き始めたのは。
 小野寺さんとの関係においては、昔からの因縁を引きずっていたせいで、ずっとわたしの知っている先生に見えていました。しかしそれがある意味、真実を隠していたのかもしれません。
 例えば、相羽さんと仲良くなり始めたとき。わたしが夏のマスカレードで、先生の作品を当てられなかったとき。何気なく見送ったことですが、それらは今にして思えば、予兆だったと思うのです。
 こうしてわたしは先生と話しにくくなってしまい、傑作選の丁合の日に会っても声を掛けることができませんでした。そして先生も、わたしに話しかける必要がなかったのです。そのときは、長谷くんと何やら話が弾んでいたようでした。

 三月になり、定山渓での春合宿が昨年と同じように開催されました。しかし今年は参加者が七人と少なく、男女一部屋ずつで足りるような状況です。そんな中で、なんと珍しいことに、先生が参加していたのです。一年前だったら大喜びしたところでしたが、今年のわたしはそれを、複雑な心境で受け取るしかありませんでした。
 道中のバスで、わたしは狙って朝倉さんの隣の席に入ります。今回は新井くんが参加していません。
「朝倉さんは、最近忙しいですか?」
「そうだね。塾の中学生がもう、受験時期だし。教育実習の手続きとかも始めないといけないし……」
「朝倉さん、教員志望なんですね」
「うん。もっと勉強しないといけないけど」
 大学三年生というのは、一般的にはそういう時期です。わたしもそろそろ、具体的な進路を考える必要があります。こんな悩みで惑っているのは贅沢ですらあると思います。
「中津ちゃんは、どこか企業受けるの?」
「そうですね。出版社とか……」
「やっぱり、編集者?」
「はい」
 気を紛らわすためにも、少し将来のことを考えてみました。ずっと憧れてきた編集者になった自分を想像します。小説の編集者ではないかもしれません。雑誌の記事などの編集や、どちらかと言えば校閲に近い仕事をしているかもしれません。あるいは何かの間違いで、文章を書く側になっているかも……。
 しかし、今はそのどれも、今の自分から地続きであるとはどうにも思われないのでした。もし全く違う業界を選ぶことになったら、わたしはどうなるのでしょう? 何になれるのでしょうか?
「朝倉さんは、どうして教員を目指すのですか?」
「自分にできることを考えたときに、これならっていうものが教員だったんだよね。仕事は大変だって聞くし、公立はあちこちに転勤があるって言うけど……本当になりたいと思ってる」
 わたしはその言葉に、朝倉さんが自分を鼓舞するようなニュアンスを感じ取りました。朝倉さんとて、その選択に完全な自信があるというわけではないようです。誰もが普通はそうだということを、先生のことばかり考えていると忘れそうになってしまいます。
「つらいことがあったら、話し相手になりますからね」
「ありがと」
 本当はそれは、新井くんの役割なのかもしれません。でも、わたしのような立場だからこそ話せることもあるでしょう。ただ役割を持ちたいための押し売りではありましたが、朝倉さんは微笑んでくれました。
「そういえば今年は、新井くん来てないんですね」
「今年はいいかなって言ってた。帰省してるみたい」
「へえ」
 わたしもいつまでも、古い自分に閉じこもっていられません。このままうじうじとしていたら、先生に笑われてしまいます。

 そのチャンスはすぐに訪れます。夕食前に温泉へ行くことになったのです。わたしは先生が一人で露天風呂に向かったところを狙って、覚悟の突撃を行いました。
「先生」
「……ああ」
 先生は平たい岩に背中を預けて、リラックスしていました。わたしは隣に入らせてもらいます。お湯の出口に近いためか少し熱いですが、氷点に近い温度の微風がほどよく頭を冷やしてくれます。暖色のランプに照らされ、先生の横顔はいつになく柔和に見えました。
「なんだか、久しぶりですね」
「そうだな。元気か?」
「ぼちぼちです」
 意外といつも通りだと思います。それはまあ、わたしの心の持ちようではあるのですが。
「研究室、決まったんですね。新井くんから聞きました。もう研究始まるんですか?」
「いや、三年生のうちはゼミなどで論文を読んで、読み書きに慣れるところからだと聞いている。卒論はある程度、教授の研究に近いテーマになりそうだが、そこで自分なりの目的意識を持って取り組むには、基礎の勉強が欠かせないからな」
「なるほど。論文は、英語だったりするんですか?」
「そうだな。うちの研究室は卒論も学会発表も英語だと聞いている」
「へえ……」
 推測ではありますが、そのような研究室に入るのはなかなか覚悟が要りそうです。楽に卒業させてくれそうな感じはしません。しかし、先生ならばそれをしっかりと成し遂げられそうだと思います。
「先生はやっぱり、院に進まれますか?」
「修士までは行くつもりだよ。そこから先は、そのときに決める。まだ、研究をライフワークにしたくなるかはわからないからな」
 こういう気まぐれなところは、変わらないなと思います。それでも先生は、自分で心に決めたことは貫き通す人です。修士までやってみると言ったら、まずそうするつもりなのでしょう。
「じゃあ、わたしが卒業してから二年間は、いつでも先生に会いに来れますね」
「そうか」
 空を見ながらふうっと息を吐くと、湯気と一緒に白い靄が上がっていきました。いつの間にか緊張もなくなったようです。また、先生の横顔を雪の積もった庭園の風景とともに視界に入れます。
「ちょっと、変なこと聞きますけど……」
「どうした?」
「わたし、編集以外だったら何ができると思いますか?」
「はあ」
 また笑われるかと思いましたが、先生は少し息をついただけでした。
「そんなものは、自分で見つけてこそではないか?」
 それが当たり前だ、と言わんばかりに。先生にとってはつまらない質問だったようです。
「そうですけど……」
「編集以外を求められないから、もし求められなくなったときに何が残るか不安になったのか?」
「うっ」
「かと言って、編集だけでやっていく自信もないというところか?」
「……」
 そしていつも通り、見透かされました。むしろ、これを期待していたと言ったほうが間違いがないと思います。それは、先生がわたしのことを気にかけてくれているという、何よりの証拠なのですから。
「中津にとって、編集とは何だ?」
 不意の問いかけでした。わたしにとっての編集とは。いつしか、わたしは編集をすることや、編集者であることが当たり前になっていて、その本質を顧みることがなくなっていたのです。
 目を閉じてみると、たくさんの記憶が浮かびました。初めて編集というものを目の当たりにした夏のこと。初めて心を射貫くような作品と、底知れない魅力を持った人に出会った冬のこと。そして編集者になって、さらに多くの人たちに出会ったこと。これまでに創りあげてきた星の数ほどの世界のこと。
 編集というものが、わたしをここまで導いてくれたのです。しかし、導かれていただけでもあります。これから先、本当に自分のやりたいことを見つけなければ、自分のできることも見つかるはずがありません。
「そう……編集は、わたしの夢だったんです。でも、それはすごく漠然としていて。わたしはなんとなく、その虚像を追いかけてここまで来てしまったんですよね。
 わかった気になっていただけで、何も本当は、理解していなかったんです。編集が何なのか。そして、文芸が何なのか。わたしたちが本当に、意味のあるものを作れているのか」
 夢を追い求めた末には、何かを現実に持ち帰らなければなりません。持ち帰ったものが容赦なく試されるときが、もうすぐそこまで迫っているのです。
「夢、か」
 わたしの答えに対して、先生は肯定するでも否定するでもなく、表情も変えずにただ復唱しただけでした。その意図が気になり、わたしは質問を返します。
「では、先生にとって文芸とは?」
「プライド、というのが一番近かっただろうな」
 即答でしたが、過去形です。先生は続けます。
「わたしの文芸は、すべてを自分の力と責任で紡ぎたいというところから始まった。それができるという自信があったのだ。幸いにも作品が認められたり、褒められたりするうちに、わたしはプライドを肥らせていった。より質の高い作品を目指すことが必然になった。わたしは自分が完璧であることを求めるように、作品にも完璧を求め続けた。現実にそうならないことがあれば、さらに研鑽を積まざるを得なかった。それが、プライドと一体化したわたしの文芸だった。
 しかし今、わたしは自分のプライドと文芸を切り離そうとしている。自分の価値を文芸だけに依拠して評価し続けることで、文芸がすべてに優先するようになっていたのだ。それではこの先の研究や、将来のことなどとの折り合いがつかなくなる」
 これが最近、先生の心境の変化の裏で起きていたことだったのでしょう。確かに先生は、自分の文芸に対してとても強いプライドを持っていました。そのために人付き合いなど他のことが幾分犠牲になっていたことも、見てきた通りです。
「では、今はもう切り離すことができたのですか?」
「もう少しだな。もちろん、文芸を辞めるつもりはないし、極力、文芸に妥協を許したくもない。だが、必ずしも質の高い作品を目指し続けることだけがわたしの文芸だとは思わなくなってきた。できるときに、できるだけ、様々な角度から楽しむ。この文芸部で多くの人がしていることに、わたしも目を向けるようになった」
「そうだったんですね」
 このように聞くと、わたしはある期待を持ってしまいます。
「クリスマスに断った小野寺さんとの合作も、今の先生ならできるのでは?」
「それは……ああやって断ってしまった手前、やりにくいではないか」
「そうですか」
 実際このように変わらない部分も多いのだと思いますが、先生が重要な成長を遂げたことは間違いないようです。
「話は戻りますが……わたしにとって編集が夢だということについて、先生はどう思いますか?」
「感想を言うなら、わたしの見立てとは少し違っていたようだが……それを言っても仕方がないだろう。違って当たり前だからな」
 違って当たり前。その言葉は、何か大きなヒントになりそうな気がしました。
「以前の先生なら、何かしらの持論を語ってくれたところだと思います」
「そうかもしれないな。だが、それを聞いてどうする? わたしの意見に沿って、考えを曲げるのか?」
「……」
 強い言葉でしたが、それはより直接的なヒントだと思いました。結局は、自分で見つけてこそなのです。
「もう少し、自分で考えてみます」
 先生は静かに頷きました。そこまでわかれば、考えるべきことは明確です。自分が編集と、ひいては文芸と、今後どのように関わっていきたいかを見つめるだけなのです。
 ふと時計を見ると、夕食までもう時間がありません。髪を乾かしていたらギリギリです。
「先生、そろそろ上がらないと、夕食です」
「ん、そうか。夢中になってしまったな」
「いろいろ聞いてくれて、ありがとうございます」
「ああ」
 わたしたちは急ぎ足で温泉から上がりました。身体は芯まで温まって、日頃の疲れもすっかり消えてしまったようです。

 今年は参加者が少ないため、創作まつりの原稿も準備はされませんでした。それでも先生は、自分で何作品かを印刷して持ってきたようです。夜の部屋で一人、それを読んでいました。
「それは、創作まつりの作品ですね?」
「ああ。審査員だからな」
 先生の個人賞は、現在の一年目部員が書いた作品の中で、「最も挑戦的で、かつそれが成功していると認められるもの」に賞を与えるというコンセプトでした。しかしわたしは結局、それらのことを人づてや文章でしか認識していないのです。ようやく、先生とこの賞について話せる機会が来たのでした。
「わたし、先生の賞のことも新井くんから聞いて、驚いたんですよ」
「そうだったのか? しばらく何もリアクションがないから、こういうことは望んでいたのではないものと思っていたが」
「失礼ながら、先生がわたしに黙ってこういう動きができるなんて思っていなかったので……」
「今回は、背中を押されるまでもなくやってみようと思った、それだけの話だ。新井が、わたしの賞で一年目を盛り上げてほしいと言うのでな」
 新井くんと先生のやり取りで思い出すのは、朝村ゼミ企画のことです。あのとき新井くんに助っ人を頼まれた先生は、わたしが背中を押したことで、企画に参加することを決めたのでした。今回、このようなステップは先生が一段飛ばしにしたのです。
 まだ、先生の自立を見て寂しさを感じなくなったわけではありません。それでも、心からこれを歓迎して喜べるようになっていきたいと思います。少なくとも前向きに捉えなければなりません。
「その作品は、誰のですか?」
「相羽だ。ポニーテールとサイドテール、そしてツインテールの三竦みを描いたコメディだな」
「ほう」
 冒頭を少しだけ読ませてもらいましたが、相羽さんの雰囲気そのままのゆるい文体です。先生が紹介したように、三人の男子高校生が、女子の髪型の好みについて面白おかしく激論するという筋書きです。
「この路線を突き詰める人は、この部にはいませんでしたね」
「ああ。入船とも近いようで、少し違う」
 合宿などの企画でネタに走って書く人はいますが、相羽さんはそういう一時的なものではなく、しっかりこのジャンルに軸があると思います。
 先生の傍らには入船さんの作品も置いてありました。手に取ってみます。
「今回、一年目メンバーがたくさん作品を出してくれましたよね」
「そもそもマスカレードをやめてこの企画にしたのも、一年目の提案だったのだろう? こういう企画なら参加したいという思いを共有していたのではないか?」
「そうだと思います」
 今回の入船さんの作品は、意外にもSFです。近未来の、人工太陽の照らす地下世界で、多くの人々はそれを当たり前に受け入れて疑わないところですが、主人公は少年時代にある老人との出会いをきっかけに未知なる「地上世界」と「本物の空」に憧れ、大人になってついに地下世界を脱出しようとするという話です。内容はオーソドックスですが、冒険がテーマであるだけに動きのあるシーンが多く、入船さんのテンポの良い語りがそれを引き立てています。
 このほか、敷嶋さんや橋上さんも作品を出していました。新井くんの企画で未完となっていた作品を書き上げたものです。
「一年目メンバーが参加してくれていることがはっきりとわかるのは、この企画の良いところですね」
「二年目が作品を出していないことも、浮き彫りになったがな」
「まあ、それは……仕方がないと思います」
 先生が指摘したように、二年目で作品を出したのは先生と小野寺さんだけでした。三年目は四人、四年目でも三人が出している中で、最も少ない人数です。
「先生の作品は今回、師弟関係の話でしたね」
「ああ」
 そのタイトルは『梟の眼』です。木彫りのフクロウを専門とする職人に弟子入りした主人公が、その心得を学び、技を修め、自分なりの表現を実現していく過程を描いた物語です。自然のものを相手にする仕事という点ではこれまでの先生の作品に重なりますが、今回は師となる職人から主人公へ、何がどのように継承されるのかという師弟のメカニズムを丁寧に描いています。
「先生も、弟子を持つことなどに興味を持たれたのですか?」
「いや、それは飛躍だ。職人の技術は、文芸の技術とは質が違う。文芸を学ぶのに師弟関係は必然でないだろう」
「なるほど」
 確かにおおよそ文芸を始める人は、勝手に既存の作品から学ぶのです。先生も例外ではありません。専門学校や塾の類もあるようですが、それらを通過しない人もたくさんいます。
「職人の技術は、その道において不可欠なものだ。だから守破離の段階を踏んで、守るべき要件を学ぶ。しかし文芸では、作品が文芸と認められるための要件がない。フリースタイルがあったとして、それがフリースタイルであることを理由に否定されることはない。だから本来は自由だ。ただ、そこで質の高い作品を目指すとか、ヒットする作品を目指すとかするときに、有限の時間内には扱いきれない選択肢の中で狙いをつけるための制約が欲しくなる。それが既存の作品を学んだり、誰かに従おうとする意味だ。だが、わたしなどに従う価値があるとは思えない」
「そうですか……」
 先生のそういう意識は相変わらずのようです。そこに、創作まつりで設けた個人賞の意図との矛盾はないのでしょうか?
「例えばもし、先生の個人賞を獲った人が、先生に追従しようとしたらどうしますか? あるいは、先生の個人賞を獲るために、先生の後追いのような作品を書く人がいたらどうしますか?」
「そんなやわな態度で、わたしから賞を獲れるはずのことではない。もしそうなったら、わたしはもう個人賞を出さないことにする」
 こちらはものすごい自信を感じます。
「先生に追従することに価値はなくて、先生の賞には価値があるというわけですか」
「そうだ。わたしの賞はあくまで奨励。後輩を誤った方向へ導くわけにはいかないからな」
 そこでわたしは、もう一歩踏み込んだところに本質的な疑問を見つけました。
「少しまた、変なことを聞きますけど」
「ああ」
「先生って、わたし以外から『先生』と呼ばれるのは嫌がりそうじゃないですか。でも、わたしから『先生』と呼ばれるのはどうですか?」
 それはある意味、誰の追従も許さない先生が、わたしにだけは、その後ろの位置を許しているということなのです。
「それはもともと、アシスタントとしての敬意なのだろう? 酔狂だとは思ったが、今はもはや気にすることもない。違うのか?」
 先生は迷いなく答えました。小野寺さんも嫉妬するという、わたしが無条件に許されることの理由。それはやはり、先生の中でわたしが特別な枠に入っているということなのです。そして、元はと言えばわたしが望んで、そこに入れてもらったのです。
「……そうでしたね、仰る通りです」
 あれから四年。この関係性の舵取りは、実質的にわたしに任せられています。

 春合宿は人が少なかったこともあり、そのまま静かに終わりました。帰ってからも、わたしは今後の身の振り方を考える日々でした。どうにか新学期までには腹を決めて、部長として新入生や部員たちに自信ある態度を示さなければなりません。
 年末からこのかた散々悩み続けて、未だ進むべき道がはっきりと見えたわけではありません。しかしながら、とにかく何か新しいことに挑戦してみようという気にはなっていました。それがわたしを、新たなステージへ導いてくれることを信じて。
 その週の金曜日には、新歓に向けた会議が行われることになっていました。事前に一年目メンバーがある程度提案を出してくれていて、それについて検討する会です。二年目メンバーはまだほとんどが帰省しているので、参加できたのはわたしだけでした。
 例年の新歓説明会では、部長が少し話して、自由交流時間があって、食事会へ直行です。今回はそこで何らかの企画を行い、独自色を出すべきという話になっています。
「まずは、本紹介ですか」
「はい。僕から説明します」
 提案してくれたのは辻くんです。
「部内でも半年に一回とかやっている本紹介ですが、部員皆さんの人となりとかが垣間見えて面白いので、新歓説明会でも自己紹介を兼ねてやってみたいなと思っています。もしかしたら、見学者の方にも喋ってもらえるかもしれないですね。そうして、読むことに興味がある人も受け入れたいという気持ちです」
「なるほど。では、先にもう一つについても聞きましょう。ミニ合評ですね」
 もう一つの提案は、橋上さんのものでした。
「はい。やっぱり文芸部と言えば合評です。こんな風に作品をみんなで作っていくのだというところを体験してもらいたいと思っています。十分くらいで読める作品を書いてくれる作者さんと、合評の進行役をする編集さんを事前に決める必要があります」
 読むことと書くことにそれぞれフォーカスした二つの企画は、文芸部の本質的なところを伝えるのに役立ちそうです。
「説明会は三回ありますが、ミニ合評を三回というのは現実的ではなさそうですね」
「はい。上年目は夏部誌もありますし、そこまで作品が集まらないのではないかと。ですので、本紹介が二回と、ミニ合評が一回のイメージで考えていました」
「そうですね。合評の作者と編集はどのように決めますか?」
「誰もいなかったら、と前置きしてますけど、長谷くんは用意してくれているみたいです。何人か出てくれたら選別したいですね。読みやすい作品のほうがいいと思うので」
「では、全体に募集を掛けますね」
「お願いします」
 企画の段取りはすんなりと決まり、日程は最初と二回目が本紹介、三回目がミニ合評ということになりました。
「企画の内容も決まったので、ポスターとビラはわたしが文字を入れて印刷しておきますね。今日はこれで終わります」
「ありがとうございました」
 そのポスターと、配布用のビラも一年目メンバーが作ったものです。ポスターは入船さんのデザインで、『不思議の国のアリス』をかわいらしく描いたイラストが目を引きます。ビラのほうは読み物で、文芸が未経験で入部したメンバーによる座談会の様子が載っています。合評や編集などの制度の紹介から、文芸部に入って良かったこと、文芸を楽しいと思う瞬間など、テーマが六種類もあってすべて集めたくなってしまいます。
 北図書館から出るところでスマホを見ると、メッセージの通知が入っていました。そういえば、今日は前期試験の合格発表の日でもあったのです。ちょうど会議の始まった頃に発表が始まって、今は番号が紙で張り出されている教養棟の前に人だかりができています。
 メッセージは、高校文芸部の二つ下の後輩である小池さんからでした。時刻は五分くらい前です。
『保健学科、合格しました!!』
 たくさんのめでたい絵文字が並んでいます。わたしがそれを見て電話を掛けると、すぐに繋がりました。
「はい、小池です」
「お久しぶりですね。中津です」
「中津先輩! 見てくれましたか?」
「はい。合格おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
 相変わらず、声は元気そうです。車の通る音が聞こえるので、番号を見に来たのではないかと思いました。
「大学まで来てますか? わたしも今、近くにいるんですよ」
「そうなんですか? えっ、会いたいです! そっちの、高等教育なんとかって建物の前で待ち合わせしませんか?」
「いいですよ。それではまた」
「はい。失礼します!」
 小池さんの言った建物は、教養棟のことです。近くまで行ってみると、合格発表を見に来た受験生に、体育会系と思しき大学生が早くもサークルの勧誘などをしています。わたしはインターネットで合格発表を見たので、このような状況だとは知りませんでした。とりあえず巻き込まれないように、メインストリートを挟んだ向かい側の広場で小池さんを待ちます。それでも一度、「受験生の方ですか?」と声を掛けられました。まあ、サークルのユニフォームでも着ていないと、間違われるのは仕方のないことです。
「中津先輩!」
 一分くらい待つと、小池さんがわたしを見つけてチーターのように駆け寄ってきました。わたしは両手を広げて受け止めます。抱き合ってからその場で三回転しました。
「小池さん、少し大きくなりましたね」
「あっ、わかりますか? えへへ、とっても嬉しいです」
 なんだか、先ほど電話で合格をお祝いしたときよりも喜んでいるような気がします。それは、これ以上ないほどの笑顔を間近で見ているからなのかもしれません。
「今日、鳴滝さんは?」
 もう一人の後輩は今日、一緒ではないようです。
「直ちゃんも今日、合格発表です。十二時までに自分で見て、十二時になったら一緒に報告しようって話してるんです」
「大学は別ですか」
「はい。直ちゃんは東京です。法学部を目指しているんですよ」
「それはすごいですね」
「もう私立は合格が出ているので、今日が本命ですけど、どのみち東京には行っちゃいます」
「なるほど」
 正式な合格祝いは後日行うことにして、今日はわたしが、北部食堂で最も高い牛トロ丼をご馳走してあげることにしました。
「いただきます! 大学の食堂って広いんですね」
「入学したら驚きますよ。この食堂もほぼ満席になるので」
「本当ですか? この食堂は、全部の学部から人が集まるとか?」
「まあそれもありますけど、主に一年生ですね。一年生は二千人いるじゃないですか。それが文系も理系も問わずあの合格発表の建物で過ごすので、ここに押し寄せるのです」
「なるほど。なんか、倍率が四倍とかあったので意識しなかったですけど、合格者ってそんなに多いんですね。牛トロ丼、美味しいです!」
「良かったです」
 そこらでちょうど、十二時になろうとする時間になります。
「小池さん、そろそろ十二時ですね」
「あっ、ありがとうございます」
 食べている途中でしたが、小池さんはポシェットからスマホを取り出します。鳴滝さんにメッセージを打っているようです。
「食べ終わってからゆっくり喋りたいので、直ちゃんにはちょっと待ってもらいます」
「それがいいですね」
 鳴滝さんと早く話したいという思いもあったと思いますが、小池さんは牛トロ丼をゆっくりと味わいました。今いる食堂の一階は賑やかになってきたので、わたしの案内で、静かな二階の文芸部ボックス席へ移動します。
「ここはボックス席です。部員のたまり場ですね」
「部室とかはないですか?」
「残念ながら……でも、休み時間とか、大抵誰かがいますよ」
 二月にボックス席の場所取り抽選会があり、文芸部のボックスは通路からかなり奥へ入ったところになりました。新歓には不利ですが、その後集まるときにはこのほうが落ち着くかもしれません。
「それでは、直ちゃんに電話します」
「はい」
 せっかくなので、わたしも同席させてもらうことにしました。
「あっ、直ちゃん? 準備できてるね、じゃあせーので行くよ!」
 どうやら、二人で同時に結果を言い合うつもりのようです。
「せーの、合格! やった!」
 無事、その声は揃いました。小池さんはわたしにも笑顔で親指を立てて見せます。
「おめでとう直ちゃん、それでね、今大学に来てて、中津先輩と一緒にいるの。ちょっと代わるね」
「はい、中津です。鳴滝さん、お久しぶりですね」
「お久しぶりです。私も、進路が決まりました」
 鳴滝さんは感極まっているようでした。時折鼻をすする音が聞こえますが、そこは気にしないことにします。
「おめでとうございます。法学部を目指していると聞きました」
「ありがとうございます。成績が悪いと行けないので、頑張ります」
「鳴滝さんなら、大丈夫ですよ」
「はい。あの……一花は、多分また文芸部に入ると思うので、そうなったらよろしくお願いします」
「はい。任せてください」
 小池さんと鳴滝さんは小学校からずっと一緒だったと聞いています。別々の進路を決めるまでに、二人の間でも様々な感情が行き交ったことでしょう。しかし今、二人の間にそれを惜しむ様子はありません。それぞれ自分の道を見つけて、互いにそれを認め合うことができたのだと思います。一言で言えば、とても尊い関係性です。
「では、小池さんに返しますね」
「はい。ありがとうございます」
 その後、小池さんは『ゆっくり喋りたい』と言っていた割に、三分くらいであっさりと電話を切りました。
「もう、よろしいのですか?」
「はい。直ちゃんとは来週、二人だけでお疲れ様会をするんです。あとは、後輩の佳乃ちゃんたちとも。できたら、先輩たちともやりたいんですけど、来週末まででどこか空いてますか?」
 一斉にではなく、それぞれで開こうとするところにこだわりを感じます。わたしはとりあえず先生にメッセージを送りました。
「わたしは概ね大丈夫ですが、先生次第ですかね」
「染谷先輩は……小樽でしたっけ」
「はい。わたしたちも、最近連絡を取らなくなってしまっていて……」
「じゃあ、後で私から声掛けてみますね。あとは……せっかくなので、文芸部のこと聞いてもいいですか? 中津先輩、部長なんですよね」
「はい。では、冬部誌を持ってきますね」
 ボックス席から壁際のロッカーが近くなったのは便利なところです。冬部誌を一冊取って戻ります。
「『開拓』ですか……すごい、分厚いですね。表紙のイラストも綺麗です」
 小池さんはまず外観をじっくり眺めてから、目次のページを開きました。
「あっ、浦川先輩。中津先輩は今も編集専門ですか?」
「はい。ここでは部誌に作品を出す作者それぞれに一人、編集役を付けているので、高校より明確に編集の役割ですね」
「浦川先輩の編集ですか?」
「いいえ、今回わたしが担当したのは、『スノードロップ』という作品です。確か、後ろのほうに載っているはずです」
「あっ、ありました。大学は授業とか、忙しいですか?」
「学科や講座、受ける授業によってもかなり違いますね。授業だけでなく、アルバイトなどもあるので。高校よりスケジュールが不規則になりがちなので、ちゃんと管理する必要がありますよ」
「そうなんですね……せっかくなら、どこかのサークルと掛け持ちしてみようかと思ってて」
「大丈夫ですよ。うちも、部誌に作品を出したり編集をやったりしなければ、そこまで活動を強制することもないですし」
「締め切り破ったりすると、怖いですか?」
「ふふ、それはもう!」
「わかりました。気を付けます!」
 気が付くと、先生から返信のメッセージが届いています。
「おや、先生から……『土曜日以外は参加できる』ですって」
「わかりました! じゃあ、水曜日か木曜日で染谷先輩に聞いてみるので、決まったら連絡しますね」
「はい。お願いします」
 結局、その場で小池さんは入部届も持っていくことになりましたが、まだ学生番号も決まっていないので、即入部とはなりませんでした。それにしても、頼もしい後輩の入部が決まったことは、わたしにとっても大きな幸せでした。

 その翌週、小池さんと鳴滝さんの卒業を祝う会は札幌駅から少し南にあるちゃんこ鍋の店で開かれることになりました。やや早く着いて店の前で待っていると、染谷さんが来ました。会うのは昨年の大学祭以来です。
「染谷さん、お久しぶりですね」
「久しぶり。元気そうだね」
「染谷さんこそ。参加できて良かったです」
「今、帰省中だったんだ」
「なるほど」
 来る前に、大学祭のときに撮った写真を見返しました。半年でまたイメージが変わっていることも想像していましたが、今回はあまり変わらない姿です。スタイルを確立して、安定してきたのでしょう。
「浦川さんも来るんだよね?」
「はい。先生はこの半年で、かなり明るくなりましたよ。後輩とも打ち解けてきて」
「そうなんだ。打ち解けてきたっていうのは、新しい展開じゃない?」
「そうなんですよ。高校の頃だって、後輩と一緒に遊んだりなんてことはなかったじゃないですか」「おお、すごい」
「何の話をしている?」
 そこに、先生が来ました。小池さん、鳴滝さんも一緒です。
「浦川さんが、後輩と遊んだりもするようになったって、中津さんが」
「まったく」
「染谷先輩、お久しぶりです! 皆さん来られて良かったです!」
「一花ちゃん、直美ちゃん、合格おめでとう」
「ありがとうございます!」 
 集合したところで、早速店に入ります。鍋とカセットコンロがすでに用意されていて、それを囲んで掘りごたつに入ります。飲み物を注文して、火をつけてもらいます。
「先輩方、二十歳になりましたよね? お酒とか飲んでますか?」
「私、結構飲んでるかも……友達と宅飲みとかするの」
 小池さんの質問に、恥ずかしそうに答えたのは染谷さんです。
「おや、染谷さん、強いんですか?」
「回数は飲むんだけど、一回の量は抑えてるから……」
「そうですか。大学生してますねえ」
 これに関しては、わたしのほうが遊ばなさすぎているだけです。
「わたしは体質的に飲めないので、飲み会のときでもソフトドリンクです」
「あっ、やっぱり飲めない人もいるんですね。直ちゃん、あたしたちどっちだと思う?」
「さあ。パッチテストでもしてみたら? 私は親とか見てると、飲めない確率のほうが高いかも」
「浦川先輩はどうですか?」
「わたしはまあ、嗜む程度だ」
「そう言えば、先生が二十歳になってから、文芸部の飲み会で一回も見てません。いつ飲んでます?」
「家で一人で飲む。作品が停滞したときに、少し酒を入れて流れを変える」
「さすが浦川先輩、格好いいです!」
「本当にそんな使い方を?」
 それらしいことを言っているだけにも聞こえました。いずれにしても、お酒を飲んだ先生がどうなるのかには非常に興味があります。理性を失くして新たな一面が垣間見えるのも面白そうです。
 今日はもちろん、先生も染谷さんもソフトドリンクです。先生は烏龍茶、染谷さんはメロンソーダを頼んでいました。
「高校の文芸部は今、何人でやってるの?」
 今度は染谷さんが、二人に質問します。
「今は二人なんですよ。二年生と、一年生で……」
 小池さんは少し言いにくそうに答えました。二年生が一人だとは知っていましたが、一年生も一人では、確かに心配です。
「二人か。二年生の子って、桜井さんだっけ? 詩を書いてるんだよね」
「はい。桜井はペンネームで、本名は波田佳乃ちゃんって言います。今年は全道で佳作だったんですよ」
「波田さん。すごいね。人数が少なくても、ちゃんと頑張ってる部だったら、堂々としていればいいと思うけどな。それでも人が集まらないのは仕方ないよ」
「染谷先輩……」
 優しいフォローです。わたしも頷きます。
「今の一年生の子、入江新菜ちゃんって言うんですけど、すっごい元気なので、きっとものすごい勢いで部員を集めてくれると思ってます」
「ふふ、楽しみだね」
 そろそろ鍋の具も煮えてきて、染谷さんが取り分けてくれました。そこらで次は、東京へ行く鳴滝さんの話も聞いてみたいと思います。
「鳴滝さんは、法学部を目指しているんですよね?」
「はい」
「何だっけ。知的な権利を守る弁護士?」
「知的財産権です。その分野に強い弁護士になれたらと思ってます」
「それにしても、あらゆる法律を学ばなければいけないんですよね?」
「そうですね。法科大学院に行って、司法試験を受けて……先は長いです」
 大学に入る段階で明確な進路を思い描いているのは、そうでないわたしなどから見ればアドバンテージです。しかし、そのくらいの意志と覚悟がなければ、弁護士にはなれないのかもしれません。
「一花ちゃんは、保健学科だっけ?」
「はい。医学部とだけ言ったら、親戚みんなひっくり返っちゃいましたね。医学部保健学科、理学療法学専攻です。目標は、プロのスポーツトレーナーになることです!」
「二人とも、夢があってすごいなあ……」
 染谷さんが目を細めます。わたしも強く共感しました。
「珠枝ちゃんって、今何してるんだっけ?」
「天海先輩は、直ちゃんとは違う大学ですけど、東京ですね。心理学を勉強したいって聞きましたよ。染谷先輩は、どんなところなんですか?」
「私は商学部。今は経営学に興味が出てきてる」
「あっ、聞いたことあります。MLBですね!」
「ん?」
「一花、それ野球。MBAじゃないですか?」
「そうなの?」
「MBAだね。そう、経営学の大学院なんだけど、まだそこまで思い切りはついてないかな。でも、まだ世の中にない価値を創るっていうこと、やっぱり憧れてて……」
 それは文芸とも重なる、共通の憧れです。
「染谷さんも、立派な夢があるじゃないですか」
「私なんてまだまだだよ。中津さんは編集者でしょ。浦川さんは、やっぱり作家?」
「わたしの文芸は、職にするつもりはない。まあ、今年から動物生態学の研究室に入るから、その先のことはやりながら決めていくさ」
「生態学! そっちに行ったんだ」
「色々あってな」
 いずれにしても先生は、どこかから望むものを見つけてきて、それを実現してしまうのです。ずるいとすら思ってしまいます。この場ではわたしが誰よりも将来を決めかねているのに、「編集者」という軸を通されてしまっているのも皮肉なことです。
 しかし、めでたい門出を迎える後輩たちの前で、わたしが弱音を吐くわけにはいきません。
「一花ちゃんは、大学でも文芸は続けるの?」
「はい。この間、中津先輩に入部届をもらいました。でも、サークルはたくさんあるみたいなので、他にも何かやってみたいですね」
 当面は、この輝かしい後輩の姿に励まされながら、どうにか道を探していくしかないと思います。
「直ちゃんは、あたしが先輩方の近くにいたほうが安心できるでしょ?」
「……まあ」
 去年の天海さんの合格祝いのときにはよく泣いていた小池さんでしたが、今日は最後まで湿っぽいところがありませんでした。やはり、そうしたやり取りは二人の間で済んでしまっているのでしょう。
 会はあっという間に終わり、みんなで大通駅まで行って解散することになりました。
 鳴滝さんの口数が少なかったのは、様々な感情を抑えていたからかもしれません。別れ際、わたしだけに伝えてくれた言葉に、それが垣間見えました。
「……一花のこと、お願いします」
「ええ。鳴滝さんも、お気を付けて」
「ありがとうございます」
 新たな季節が迫っています。大学生活は残り半分になり、徐々に具体的な成果を求められるようになってきます。先生との関係のことも、文芸部の今後のことも、そしてわたし自身の進路のことも。
 改札をくぐる二人を見送り、札幌駅方面へ戻る染谷さんとも別れ、わたしは先生と二人になりました。
 もう、帰るしかありません。しかし、わたしから「帰る」とは、どうにも言い出せませんでした。
「少し、話すか?」
「……はい」
 先生はそんなわたしの心の内を察してくれたのでしょう。近くの空いているベンチに移動します。
 すると、先生はトートバッグから、やや年季の入った文庫本を取り出しました。
「まだ、迷いがあるのなら……この本が助けになるかもしれない。読んでみるといい」
「それは?」
 著者は加藤幸子とあります。最近では聞かない名前ですが、芥川賞作家です。
「農学部にゆかりのある作家だと、八戸氏から聞いてな」
「そうなんですね」
 先生は去年の秋にそれを知って、この本を大学の近くの古本屋で手に入れたそうです。
「わたしから言えることは、もうそれまでだ」
「ありがとうございます」
 先生が、この本を通じて何を言わんとしたのか。帰ってすぐに、わたしは本を開きました。
 その日、わたしは春の夜の夢をさらに短くすることになったのです。

二十二 縄

 四月十一日。いよいよ一年生の教養の授業も始まり、文芸部は本格的に新歓活動を開始しました。
 わたしは橋上さんと一緒に、五限のボックス番に入っていました。
「さっき、小池さんっていう保健学科の女の子が入部届を置いていったって聞きましたよ。凉ちゃんが預かっているみたいです」
「おや、それはそれは」
「こんなに早くに入部してくれるなんて、すごいですね」
 この時期に入部届を持っている保健学科の小池さんに該当する人は、まずもって一人しかいないでしょう。この春入学した、二つ下の後輩です。
「橋上さんは、わたしたちの高校にいた小池さんを覚えていませんか?」
「小池さん……あっ、思い出しました。前世の動物占いの話とか書いてた子ですよね」
「はい。実はその小池さんが、今年保健学科に入学しまして。合格発表の日に、入部届を渡していたというわけなのです」
「そうだったんですね。私の高校の文芸部は、勉強を犠牲にしてしまう人が多いので……なかなかここの大学には来ないです」
「厳しい現実ですね……」
 橋上さんの高校も、この近くでは五本の指に入る有名な進学校です。部活動のせいにするのは悲しいことですが、やはり文芸部の活動は相当に勉強時間を圧迫します。
 そんな話をしていると、一人の男性が近づいてきました。顔の皺や白髪の様子を見るに、少なくとも一年生ではなさそうな雰囲気です。
「恐れ入ります。こちらは文芸部で間違いないでしょうか」
「はい。ご見学の方でしょうか」
「私、記者の佐藤と申します」
 そう名乗った男性は、名刺を差し出します。どこかの出版社の記者だということです。しかし、文芸部のホームページに載せているメールアドレス宛には、昨日の時点で何の連絡もありませんでした。アポイントもなしに、取材に押しかけて来たのです。
「先日、この大学の大学院生らが中心になっていたグループが、麻薬の取引で摘発されたのはご存知でしょうか」
「はい……」
 数日前、新聞やニュース番組で地域のニュースとして比較的大きめに取り上げられていました。同じ大学とはいえ、まさか自分に関係があろうとは思わないのですが。
「その大学院生の一人がこの文芸部に属していたとのことで、知り合いの方などにお話を伺うことはできないでしょうか」
「ええと……お名前は?」
 名前と学年、属している院までは教えてもらいましたが、それがなんと、休学中の博士課程の方だと言うのです。わたしたちの代から数えて少なくとも四年は上です。そのくらいの部員はもう全員、卒業するか除名になるかしてしまっています。
「申し訳ありませんが、その方はもう、数年前から一度も活動に参加していませんし、現在は部に在籍しているという事実もありません。その方を知っている部員もいないと思います。どうか、お引き取り頂けないでしょうか」
 記者は少し表情を歪めると、威圧的な咳払いをしました。
「わかりました。失礼いたしました」
 なんだかとても不穏な空気です。橋上さんも肩を強張らせて、去っていく記者を注視していました。
「……何だったんでしょう。私たちには、ほとんど関係がないのに」
「しかし、そのような情報を流している筋があるということなのでしょうね」
 わたしは受け取った名刺を改めて眺めます。出版社は知らない名前です。
「きっと、ここだけじゃないですよ。弱りましたね……」
 もしこれからもこのように記者などが来る可能性があるとすれば、ボックス番に入る部員にとって大きな負担になりえます。今回はわたしが対応できたので良かったですが、これが二年目メンバーしかいない状況だったらと思うと恐ろしくなります。
 わたしは嫌な寒気を感じながら、全体に向けたメールを書きました。
『過去に文芸部に属していた大学院生が麻薬の取引で逮捕されたらしく、今日、その取材目的だと言う記者がボックスに来ました。今のところ公式に取材の申し込みはなく、あっても部長としてすべて断りますので、もし今後、そのような記者などに声を掛けられたら、対応しないようにしてください。万一何かトラブルがあれば、部長や大学当局に通報してください。ただ、あまりに件数が多いようであれば、ボックス席での新歓活動の休止も含めて検討します』
 そしてとりあえず、新歓活動は継続することにしました。

 その翌日、文学部での授業の後、同業サークル「エクリチュール」の金森さんに声を掛けられました。
「中津さん。ダメもとで、一つお願いがあるのですが……」
 一瞬、件の事件のことかと身構えましたが、どうやら違うようです。
「なんでしょう?」
「僕ら、『エクリチュール』なんですけど、同人誌の第一号に載せる原稿が出来上がりましてね」
「それはそれは。おめでとうございます」
「あとは印刷と製本をするだけというところなのですが……サークル会館に、輪転機がありますよね? あれを、文芸部さんの名前をお借りして、使わせていただけないかと思っておりまして」
「なるほど」
 文芸部では、編集班で原稿のマスターを作って、それを輪転機でコピーして、丁合するところまでは自前です。こうすることで、それなりに予算が節約できるのです。しかし輪転機は大学の設備であり、公認サークルにしか使用が許可されません。
「ページ数と部数はどのくらいですか?」
「五十ページ、つまり二十五枚の表裏ですね。それが百部の予定です。もちろん、用紙はこちらで用意します」
 平均二日くらいで終わりそうな量です。輪転機の使用中は文芸部の部員を付ける必要があるので、どの程度時間が掛かるのかは重要です。
「そのくらいなら、どうにかなるかもしれません。こちらで部員に相談してみます。あと、橋上さんも所属されてますよね?」
「はい」
「今後は橋上さんを通して連絡を取ることもあると思いますので、よろしくお願いします」
「わかりました。ありがとうございます」
 話は終わりましたが、せっかくなので聞きたいことが一つありました。
「ちなみに、どこかのイベントに参加されるのですか?」
「はい。七月に札幌のテレビ塔で、『文学のアジール』というイベントが開催されるのですが……ご存知ですか?」
 初めて聞くイベント名です。
「いえ、知りませんでした。同人誌即売会のような感じですか?」
「そうですね。そのほかに、歌人の方を招いたトークイベントなどもあるようです。入場は無料ですので、文芸部の皆様も、是非いらしてください」
「札幌でそういうイベントがあるのは珍しいですね。行ってみたいと思います」
 後から調べたところ、出店する団体としての参加申し込みはもう締め切りが過ぎていました。和泉さんはそれを知っていたようですが、文芸部として参加するということは全く考えていなかったようです。

 一方で、文芸部の新歓は厳しい状況になりました。最初に記者がボックスを訪れてから三日で四件の突発的な訪問があったので、ボックス番を停止することになってしまったのです。まだ悪評が流れているというわけではないようですが、肝心の新入生もなかなか寄り付かなくなっていました。
 そんな中で迎えた十五日、第一回の新歓説明会です。
 わたしは五限に授業があり、文学部から教養棟へ駆けつけたときには開始の十分前でした。教養棟の玄関前から入口のホールには既に様々なサークルによる集団が入り混じっており、わたしは壁際をすり抜けて会場の教室へ向かいました。必要な資料などの持ち込みは、篠木くんに頼んでいます。
「お疲れ様です」
 今日は場所の抽選で当たりを引いて、教養棟の中でも大きめの教室を取ることができました。しかし、中にいるのは見慣れた顔ばかり。黒板に文字を書いていた高崎くんや、教壇で資料の束を整えていた篠木くんと挨拶を交わします。
「中津先輩! お疲れ様です!」
 そこで後ろから呼びかけられました。小池さんです。その両隣には、かなり背の高い女性と、やや腰回りの大きな女性がいました。どの二人の組み合わせでも対照的な、なかなかいない三人組です。
「小池さん、来てくれましたね。そちらのお二人は?」
「学科の友達です。こちらが石垣蒼空ちゃん。なんと沖縄出身なんですよ」
 背の高いほうが石垣さんです。
「石垣です。保健学科の、看護です」
 名札を見せて自己紹介をしてくれました。声は細く、お淑やかな印象です。
「こちらは肥後久瑠美ちゃん。肥後って苗字、格好いいですよね!」
 もう一方が肥後さんです。
「あの、ご紹介にあずかりました、理学療法学の、一年生です」
 恥ずかしがりなのか、自分では名乗りませんでした。
「出身はどちらですか?」
「あの、兵庫県の豊岡……北のほうです」
「ほう。城崎とか、近いですか?」
「はい。隣町です」
 出身はバラバラです。まず確実に、大学に入ってから知り合ったのでしょう。
「お二人は、文芸の経験などはありますか?」
「いいえ、特には……」
「私もです」
 要するに、小池さんが学科で二人を誘って来てくれたというわけです。入学式からものの一週間でここまでできるのは、さすがに小池さんという感じがします。
「二人とも、サークル選び迷ってるって言ってたので、とりあえずやってみようよって誘ったんです」
「とても助かります。ありがとうございます」
 わたしはお礼を言うしかありませんでした。実際、まだ教室の後ろ半分はがらんどうであり、見学者は他に一人しか来ていません。小池さんが二人を連れてきてくれなければ、それはもう悲惨な状況になってしまうところでした。
 もっとも、四人という数字も決して喜べるものではありませんが……。
 今回から、新歓の説明会では文芸に親しむための企画を準備していました。今日と次回は本紹介企画です。そこでわたしは、後期新歓のときのリベンジを果たすべく、それなりのプレゼンテーションを考えてきていました。
 部の体制や大まかな活動内容の説明はそこそこに、企画へ移ります。
「これから、文芸部の雰囲気を感じていただくため、本紹介企画を行います。文芸部は作品を書くサークルではありますが、もともと読むことが好きな人もたくさんいます。企画を通して、部員同士で交流することで、また様々な文芸に触れて、それが自分の作品のためになっていく。それが、文芸部として集まる一つの意味だと思います」
 小池さんは頷きながら聞いてくれています。下手をすればそろそろ聴衆の心が離れて、退屈した人などはスマホを見始めるような頃ですが、今のところほかの三人についてもそのようなことはありません。
 わたしは教壇に置いた文庫本を手に取りました。今日はこれしかないと思って持ち込んだ本です。
「それでは、僭越ながらわたしがトップバッターを務めさせていただきます。本日わたしが紹介するのは加藤幸子の『ジーンとともに』です」
 短編集の中の一作品ですが、持ち時間が短いので、これを抜き出すことにしました。
「この作品は、ある鳥の一生を、鳥の視点で描いた小説です。つまり、生まれて、旅をして、パートナーと出会って、子を授かって、命を継ぐまでの物語です。その鳥には、先代の母鳥たちから引き継いだ記憶と、『ジーン』すなわち遺伝子の導きがあります。しかし、それに従うだけでよいわけではありません。環境の変化や、天敵の存在、そして、領地を拡大する『二本足』の不可解な生態。様々な危険に出会います。それを、『ジーン』と対話しながらも、時には自分なりの機転で乗り越えていく、壮大な冒険物語なのです。
 わたしは、つい先日この本を知ったのですが、三年生になったこの時期に知ることができて良かったと思っています。自分に何ができるか、何をしたいかは、まさに自分自身が生まれ持ったものや、これまで得てきたものを見つめながら探していくしかない。そして、より良く生きるためには、誰もやらなかったようなことでも、挑戦するしかない。そのようなことを、この作品を読みながら考えました。
 作中で、『ジーン』に行くべき方向を尋ねると、『南西に』と返してくれる場面があります。一方で、わたしたちの行くべき方向は、決まり切ったものではありません。
 皆さん、今日の説明会が終わった後、自分自身に問いかけてみてください。そのとき、『文芸部に』と思ってくださったら……わたしたちは、あなたを歓迎します!」
 篠木くんの期待するようなネタではないかもしれませんが、後期新歓のときよりは明らかに自信を持って話すことができたと思います。
 この本は言わずもがな、小池さんと鳴滝さんの合格祝いをしたあの日、先生が貸してくれたものです。時期からして、先生もこの本を読んで何か感じることがあったのかもしれません。
 その後は二年目メンバーが三人発表し、最後には小池さんも春休みに読んだ漫画について語ってくれました。企画が盛り上がったのは不幸中の幸いです。次回以降にも期待が持てます。

 食事会で鳳華苑へ向かう道中、わたしはもう一人の見学者と話すことにしました。
 彼女は薬学部一年の高村慧子さんと言うそうですが、説明会では時折品定めするような鋭い目でわたしを見つめる場面があり、なかなか手強い印象を持っています。しかし、前髪のヘアピンにフェルト生地のような桜の花の飾りが付いていたり、左手には水色のリストバンドをしていたりと、かわいらしい一面もありそうな気がします。
「高村さん。説明会はいかがでしたか」
「はい。良かったと思います」
 言葉に感情はありませんでしたが、こうして食事会まで来てくれるということで、決して悪くはなかったのでしょう。
「ありがとうございます」
「あの、中津部長。まだ入部していない身で恐縮ですが、相談させてください」
 わたしがお礼を言い終わるのを待たずに、高村さんはきっぱりと言います。
「ええ、わたしで良ければ……」
 何か事情のありそうな雰囲気でした。文芸部に入ってくれそうな感じではあるので、とりあえず話を聞いてみます。
「一年誌というのは、どこまでの人に読んでもらえるのでしょうか」
「一年誌はほとんど部内ですね。外で配ったりはしません。夏部誌や冬部誌は、大学の生協などに置かせてもらいますよ」
「では、大学の外に向けて発信する機会はありますか」
「今のところは傑作選ですかね。部内で一年間に発表された作品から、部員の互選でいくつかの傑作を選び出して、作品集を作ります。これは大学祭で頒布する予定です」
「……では、まず部誌に出せば、少し人の目にはついて、傑作選に載れば、より多くの人に読んでもらえるということですか」
「そうですね」
 作品が広く読まれることにこだわるとは、この部ではなかなか珍しいタイプです。
「プロを目指すなど、されていますか?」
「いいえ。私にはプロにはなれません。でも……とにかく、作品を読んでもらえるところで、本にしたいです。部誌にはすぐ出せますか」
「出せないこともありませんが……」
 プロに「なれない」という言い回しには、やや違和感を覚えました。あまりに迷いなく断言するので、それが能力の問題というよりは、資格の問題であるかのように感じます。それでも部誌に載せたい作品があるというのも不思議です。
 鳳華苑に着いてからも、わたしは高村さんの向かいに座り、引き続き話を聞くことにしました。わたしの隣には橋上さんが、高村さんの隣には入船さんが入りました。
「部誌に出すためには、編集を付けて、合評を二回通す必要がありますね」
「編集と、合評……ですか」
「作品をまずは部員に読んでもらって、内容について検討する会です。校正などの意味合いもありますが、基本的には、作品そのものの質を高めるためのプロセスですね」
「二週間後の説明会でミニ合評をするから、来てくれたら合評がどういうものかわかるかも」
 橋上さんが補足してくれました。
「わかりました。また来ます」
「ミニ合評、部長が作者役で、高崎くんが編集役なんですよね?」
 今度は入船さんの質問です。
「はい。作品を出させていただきました」
 これはわたし自身が、今後に向けた一つの挑戦として志願したものです。今のところ先生の力を借りることもなく、自分で小説を書きました。
「小説を書くのは初めてですか?」
 入船さんの質問は続きます。
「いいえ、合宿の企画ではあるのですが……本当に自分から書こうと思って書くのは初めてですね」
「やっぱり、編集するのと自分で書くのとでは違いますか?」
「そうですね。ゼロから何かを生み出すところが、一番大きな違いだと思います。それが作者の仕事で、編集はあくまでも補佐なので」
「逆に、書いてる人が編集をしても、上手にできるとは限らないんですね」
「ええ。それぞれ、適性があると思いますよ」
 実際、今回書き上げた作品はおよそ四千文字ほどの掌編でしたが、プロットを組み上げるところまでが最も大変でした。いざ自分で真っ新なプロット用紙を前にすると、何も手が動かないのです。
「でも、編集をやってたら、自分で書くときも推敲とかは楽じゃないですか?」
「わたしの場合、意外とそうでもなかったですね……編集は、第三者の目線だからこそできることもあるので」
「客観的に見るみたいなことですか?」
「そうです。特に今回、書き上げるまでで精一杯で、自分ではあらゆる可能性を吟味した感じがあって。まだ自分の作品を客観的にあんまり見れていないんですよね」
「わかります! 書き上げたときってそうなりますよね」
 そうしたやり取りの間、高村さんは変わらず、表情を硬くしたままでした。
「高村さん、緊張してる?」
 それを案じて声を掛けたのは橋上さんです。
「あっ、すみません……考え事をしていて」
「部誌に出したいということは、小説とか書いてるの?」
「……はい。小説です」
 かなりの間がありました。さすがに橋上さんも話しにくそうです。
「まあ、一年誌でも、出してくれたらみんなで読むし、楽しみにしてるよ」
「そうだね! みんなで本を作るのも楽しいよ」
「そのときは、お願いします」
 高村さんの挙動にはどこか不思議なところがありましたが、何にせよ、入部してくれそうなことには変わりません。わたしはこの場では、あまり深く気にしないことにしました。

 食事会が終わった後、小池さんが駆け寄ってきました。
「中津先輩、お疲れ様です。本紹介、格好良かったですよ!」
「小池さんも、前に出てくれてありがとうございます」
「一応、もう部員ですからね」
 地下鉄の駅に向けて、ゆっくり歩き出します。
「なんだか今週、文芸部のボックスにほとんど人がいないなって思ってたんですけど、何かあったんですか?」
 小池さんは早くも部員として、新歓のことを心配してくれているようです。それにしても新入部員です。余計な心配はさせられません。
「ああ、まだ準備中でして……」
 しかし、小池さんはそんなわたしの誤魔化しなど見抜いてしまいました。一歩前に出て、わたしの顔を覗き込んできます。
「もう、水臭いですよ! 準備中なんて嘘ですよね。月曜日に行ったとき、ちゃんと対応してくれましたもん。中津先輩が部長なのに、そんな怠慢が許されるとは考えられません。そうじゃなかったら……もしかして、そんなに部員が足りないんですか?」
 的確な追及に、わたしはとりあえず感心してしまいました。これ以上あしらい続けるのは、もはや不毛です。だいたいの経緯を話してしまうことにしました。結果として新入部員を巻き込むことになりますが、これは成長した小池さんへの敬意です。
「何かの雑誌や新聞の記者に、取材でボックスに押しかけられているんです。それは、もう部には在籍していない大学院生が、逮捕されたとかで……もちろんわたしたちには無関係ですが、ボックスで番をする人の負担になるので、落ち着くまであそこには出ないようにしているんです」
「そんな! ひどいですね……」
「いないとわかれば諦めると思うので、小池さんもなるべく近づかないようにしてください」
「わかりました。じゃあ、周りの人に引き続き、勧誘していきますね!」
「そうしてもらえると助かります」
「あの座談会とか載ってるビラ、もらってもいいですか?」
「いいですよ。月曜日、昼休みにでも会えますか?」
 小池さんと一緒に来ていた石垣さんや肥後さんも、月曜日には入部届を出してくれました。この三人は長く定着してくれそうな気がしますが、三人だけでこの部の一世代を担うのはあまりに厳しいことです。せめてあと五人くらいいなければ部が傾きかねません。二枚の入部届を眺めても、決して安心はできませんでした。

 その週の水曜日に二回目の説明会が開かれ、新規の参加者は五人でした。その日だけはボックス番を再開することにしましたが、見学者は一人も来なかったようです。しかし、記者の類も来なかったので、これからはボックス番を続けていけると思いました。
 本紹介は先生、和泉さん、朝倉さんが発表しましたが、今回も小池さんが応援に来ており、盛り上げ役を務めてくれました。
 小池さんの活躍はまだ終わりません。食事会に移動する前、わたしが先生と話していたところに、眼鏡を掛けた天然パーマの男性を連れてきました。
「中津先輩! 彼も文芸部に興味を持ってくれました。『牛くん』です」
 紹介された男性は、若干ぎこちない動きで名札を見せてくれます。
「理系の牛島と言います」
「今日は、小池さんに誘われて?」
「はい」
「スペイン語の授業が同じで、自己紹介のときまだサークルを決めていないって言ったので、声を掛けたんです」
「自分、ずっと帰宅部だったので。ゲームとかはするんですけど」
「でも、ライトノベルとか書いてみたいでしょ?」
「まあ……」
 その間、先生は何も言わず、穏やかな表情で見守っているだけでした。食事会へ移動する道中、感想を聞いてみます。
「先生。小池さんはもう、三人も連れてきてくれましたよ」
「ほう。それはすごい。しかし……」
「上年目が不甲斐ないとは言わないでくださいね」
「……」
 まさか、本当にそう言うつもりだったとは思わないことにしておきます。
「少しは落ち着いたか?」
「何がですか?」
「諸々だよ」
 諸々。確かに、先生が心配してくれていそうなことは複数思い当たりました。
「新歓は……明後日くらいからボックス番を再開できそうです。来週の準備も滞りなく進んでいますし、わたしのことも……とりあえず、大丈夫です」
「そうか」
「あの本、今読めて良かったです。ありがとうございました」
「そのまま持っていればいい。そういう本は、折に触れて読み返したくなるだろう」
「では、お言葉に甘えて……」
 ちなみに今日、先生が紹介したのは『鼻行類』です。本当に好きな本なのでしょう。そして、少なからず動物生態学の研究室を選んだこととも関係がありそうな気がします。
「先生はあの本、好きですよね」
「まあな。ああいう、魔力的な緻密さを持つ作品をいつかは書いてみたいと思う」
「なるほど」
 わたしは編集者として、そのような作品を担当することになったときのことを想像しました。多くの人にそれがいかにも本当だと信じ込ませるような緻密さは、そこに蟻の一穴ほどの隙さえあれば、脆く崩れ去ってしまうでしょう。編集者にも、それを見逃さないという覚悟が必要です。
「どれだけ深い知識があれば、その境地に至れるのでしょうね」
「深い……か。深さも大事だが、むしろ幅広さのほうが大事だと思う」
「そうですか?」
「深い知識だけでは、その分野を知らない人間には伝わらない。幅広い知識があってこそ、様々な人間の信じるものがわかる。より多くの人間が現実味を感じるような表現がわかる」
「確かに……」
 先生は、自分でもしっかりとその境地へ向かって歩んでいます。わたしも続かなければなりません。

 三回目の説明会は、いよいよ合評体験です。わたしがこの日のために用意した作品『縄』は、成人式の後のクラス会を題材にした掌編です。プロットで悩んだ末に結局、自分の体験をもとにして書いたのでした。
 小野寺さんは成人式に出なかったようですが、わたしはせっかくなので出てきました。式典そのものは特別な感情もなく終わりましたが、その後の中学校のクラス会では、いくらか衝撃的なことがありました。
 あるクラスメートが高校を卒業してすぐに結婚していて、今は妊娠五か月だと言ったのです。それは、「この中の誰が最初に結婚するんだろう」みたいな、定番の何気ない話の流れでした。相手は一つ年上ですが高卒で働いていて、苦しくともどうにか家庭を築いていきたいと話していました。
 わたしはそれを表面では祝福しつつも、心では受け容れることができず、理解とは程通い感情を持っていました。当人が幸せだということにすら疑いを覚えました。
 そのとき、わたしの中で何が起きていたのか。それを明らかにすることが、今回の作品の動機でした。
 そもそも、わたしは中学生だった当時から、他のクラスメートとはうっすらと一線を画していました。普通の公立中で、同じ高校へ進んだ人は学年でもわたしのほかにはいませんでした。定期試験でわたしの学年一位を脅かす人も二、三人しかいなかったわけで、クラスでは自然と崇められるような存在になっていたのです。
 しかしながら、わたしはそういう立場も疎んでいたわけではありませんでした。クラスメートたちと同じペースで動くのは窮屈で、疲れるばかりだという観念がもっと早い時期からあって、むしろ特別な枠に入れられることには得のほうが大きかったのです。あとは、ごく限られた友人関係があるだけで十分でした。
 野中さんはその限られた友人の一人です。彼女もその場にいましたが、やはりわたしとは違う感想を持っていました。
「すごく、勇気とか覚悟とかが必要な決断だったと思う。あの子なりにね。その末には本当に幸福な暮らしがあるのかもしれないし、破滅的な結末が待っているのかもしれない。そういうことって、小説にだって山ほど書かれてるし、世間の認識もある程度固まってるけどさ。『自分は特別だ』っていう思いを持てるなら、それこそ、特別なものを創れるのかもしれない」
 どこか羨ましそうに、野中さんはしみじみと語りました。
「もし、野中さんが彼女の立場だったら……大学進学を諦めてでも、その道を選びますか?」
「あの子はそれこそ、大学に行く選択肢なんて最初からないかもしれないし、あったとしても、私や文子ちゃんが想像しうるよりも軽い選択肢なんだと思う。だから、対立の選択肢は大学進学じゃなくて、もう少しちゃんと相手を選ぶとか、ちゃんと就職してお金を貯めるとかだよ」
「確かに……」
「まあ、こんな想像だって、今の私や文子ちゃんを納得させることはできても、本当に本人に当てはまるかどうかなんてわからないけどね。もっとあの子なりの……私たちにしてみれば突拍子もない考えがあるのかもしれない」
「そうですね」
「私たちはちょっと、常識ってものを知ってるのかもしれないけど、それが一部の集団からの一面的な見方でしかないってことは、自覚している必要があるよね」
「……はい」
 そのときはただ、それが小説を書く野中さんならではの感想だと思いました。つまり、書く者と書かない者。そのくらいの違いでしかないと思いました。
 しかし、改めてこのやり取りを思い出したときに、わたしは野中さんとのもっと大きな違いを見つけたのです。
 それこそ、わたしをずっと縛り付けていた、『縄』と呼ぶべきものの存在でした。
 作品も、主人公の女子がクラス会でクラスメートの結婚と妊娠を聞かされるところから始まります。そこで彼女は明確な不快感を覚え、少し多めにお酒を飲んでいたこともあって、体調を悪くしてしまいます。会の終わりごろには落ち着いて、歩いて帰れる程度にはなりますが、やはりクラスメートに対して感じたものは重く残っているのでした。
 別の親しい女子に付き添われての帰り道、主人公はその思いを口にします。「理解できない」とは、何なのか。恨みがあるわけではない。嫉妬というわけでもない。その感覚はどこから生まれたのか。
 もちろん、「人それぞれ」という言葉を知らないわけではありません。むしろそれで済ませるのが最も楽なことなのです。しかし、それではどうにも納得ができないのです。
 隣の友人は最初、主人公が酔っているのであまり真剣には取り合いませんでした。それでも、現役時代は大人しい優等生だった主人公の心の内に少しずつ興味を持つようになります。
 そして、主人公の部屋で二人きりです。友人は主人公に引き止められて、終電の時間までという約束で付き合うことにしました。
 主人公は友人に、高校や大学のことを尋ねます。分岐した先の、自分の選ばなかった未来を垣間見るためです。友人は主人公を半分からかうように、赤裸々な話を誇張して話しました。しかし結局、主人公はそれに対して遠くの世界のことのように驚くばかりで、友人は飽きてしまいます。
 主人公の通う大学にも、そのような話は少なからずあるはずなのに。そもそも主人公が、その現実を現実として理解する能力を持っていないはずもありません。
 友人はそれを、『何かに強く縛られているみたいだ』と表現します。そして、時間には少し早いですが、そのまま帰ってしまうのでした。
 翌朝、頭痛の中で目覚めた主人公は、出したままになっていたマグカップを片づけようとします。しかし、それを落として割ってしまい、それを片づけようとするときに指を傷つけてしまいます。
 にじみ出る血を見て、主人公はにわかに頭痛が引くのを感じました。そして悟ります。
 ああ、友人が自分に対して感じたことは、自分があのクラスメートに対して感じたことと同じようなことなのだ、と。

 その合評体験には、来ると言っていた高村さんも含めて、まだ入部していない人が八人も来てくれました。編集兼進行役の高崎くんが積極的に指名して発言を促したおかげで、時間はあっという間に過ぎ、むしろ合評はこれからというところで食事会の時間になってしまいました。
 道中、また高村さんと話してみます。
「合評体験、いかがでしたか」
「あの作品は、中津部長が書かれたのですね」
「はい。これまではあまり書かなかったのですが、挑戦として」
「……私は、主人公のようにもクラスメートのようにもなりたくないなと思いました」
 そこまでは普通の感想でした。合評の場でも言っていたことです。他にも多くの人が、友人に近い視点で読んでいました。
「でも、友人はもっと嫌いです。普通ぶって、世の中を知ったつもりになっている。絶対、自分に何らかの不幸が起きて状況が変わることなんてないと思っている。そんな気がします」
 その裏に、このような鋭い憎悪があったとは。高村さんは淡々と話していますが、表現の端々から強い感情が漏れています。
「あまり、お気に召さなかったですか」
「いえ……私も、自分が普通でないことはわかっているので。ところで、合評でああやって意見を言われたら、何かしら直さないといけないでしょうか。どうしても、作者の意図を尊重してもらうことはできないですか」
 先週に続いて、また不思議な質問です。
「まあ……厳密に言えば任意ですよ。合評をどうするも。でも、不毛ではありませんか。作者が意見を取り入れないのもそうですし、参加者が意見を押し付けて、作者が渋々と受け入れるようなのも。わたしたちは、信頼関係の上で合評を成り立たせているんですよね。その前提が守られるなら、本当に譲れないものは譲れないでいいと思いますよ」
 その場で考えながらの答えではありましたが、高村さんは頷いてくれました。
「あの、私も入部したいです。その代わりというわけではありませんが、今後、読んでいただきたい作品があります」
「あっ、ありがとうございます。わたしで良ければ、作品も読みますよ」
 良い返事をしたはずなのに、一瞬の間が生まれました。
「……では、入部届と一緒に持ってきますね」
「はい」
 それからは、高村さんは口を開きませんでした。ただ、たまに左手のリストバンドを気にして歩いていただけでした。

 説明会の翌日には、「エクリチュール」の同人誌の印刷をすることになっていました。ページ数と部数を考えれば一日で終わる量です。わたしは午後から同伴者として、野中さんと一緒に印刷室に入りました。
 わたしは『縄』の原稿を持ってきていました。読んでもらって、あわよくば、あの夜の話の続きをしたいという気持ちがあったのです。
「野中さん。この間、小説を書いてみたのですが……後で読んでいただけませんか」
「いいよ。じゃあ早く終わらせちゃおう」
 印刷作業で手が空く時間はほとんどありません。注意して見ていないと用紙が何枚か重なって取り込まれるので白紙ができたり、印刷位置がずれたりすることがあります。しかも、稼働する輪転機はなかなかうるさく、部屋も閉鎖的なところなのでやや暑いです。とても小説を読める環境ではありません。
 幸いにも午前中に作業がスムーズに進んでいたようで、作業は四限に入って少し経ったところで終わりました。わたしたちは印刷した原稿を半分ずつ抱えて、歩いてロッカーのある北部食堂まで戻ります。
「文子ちゃんが小説を書くのって、珍しいね」
「ええ、今回は新歓で合評体験をやったのですが……わたしも書く側のことを、少しでも体験しておこうと思いまして」
「へえ。どんな作品なの?」
「あの……成人式の、クラス会を思い出して書きました」
「ああ、あれね……わかった」
 野中さんはもっと、楽しげなテーマを想像していたのでしょうか。「わかった」という言葉にも、いくつかの意味がありそうな気がします。
 北部食堂まで戻って、ロッカーに原稿をしまってから、わたしたちは一階の窓際に移動しました。
「お願いします。率直な感想を聞かせてください」
「うん」
 原稿を手渡すと、急に緊張が襲ってきました。合評体験では、部員にあまり議論しすぎないよう通達していましたし、高崎くんもどちらかと言えば広く浅く意見を集める立ち回りをしていたので、作品の本質的なところまで精査されることはなかったのです。しかし、野中さんとは真剣勝負です。
 十分足らずで作品を読み終えた野中さんは、原稿を置いてまず一言。
「なんか……大学生っぽくはないなあ」
 わたしは唾を吞みました。少しは楽観的な思いもありました。しかし、そんなものは一瞬にして打ち砕かれてしまったのです。
「まあ、軽い作品で簡単に合評を体験してみようって話ならわかるけど……文子ちゃんは、この作品を本気で書いたんだよね?」
「……はい」
 ここで本気を偽ってしまっては意味がありません。わたしは覚悟を決めて頷きます。
「例えばさ。主人公、女の子でしょ。介抱してくれたのが男の子だって話になったら、どういう筋書きにする? もちろん、対象読者は大学生以上で」
「そ、それは……」
 その問いはむしろ、わたしの編集としてのセンスに向けられたもののように感じました。そうしたら、わたしは性描写だろうと選択肢に入れるはずなのです。結果的に違うものを見せるとしても、最初から男女の絡みを無視した話にするのは無理があります。
「要するにさ。主人公は多分、この年までそういう体験のことを身近で見聞きもしなかったんだろうけど、妊娠したクラスメートの話を聞いて、絶対裏でそういうことやってるって思ったはずなんだよね。嫌悪感の少なからぬ割合がそれに由来してると思うじゃん。だったら、自分自身もそういう場面に紙一重まで近づいたら、より生々しく何を感じるのかって話に持っていってやっと始まりだよ。編集の文子ちゃんならわかるよね?」
「はい……」
 わたしの書いた生ぬるい作品は、却って野中さんを熱くさせてしまったようです。しかし、これでもやっぱり、書き手としてのわたしは精一杯だったのです。それは逆に、編集をしているときのわたしが、何か特別なモードに入っていたことを示しているのかもしれません。
「まあ、難しいけどね。自分の作品を直すのって。世間から求められることよりも、やりたいことを優先しちゃうのもわかる。そうやって書き上げた作品って、どうにも手を入れられなくなっちゃったりしてね。文子ちゃんもこういう、『縄』みたいな感覚を持ってるの?」
「はい」
 作品の出来は散々だとしても、野中さんはわたしの作意を感じ取ってくれました。わたしは少し安心して答えます。
「これが自己分析だとしたら、なんだろう、私の見立てにも近い気がする。昔から文子ちゃんは、不自由そうだなって思ってた」
「……そうですか」
「だって、ずっと敬語だし、私のことも下の名前で呼んでくれなかったじゃん。どっちも諦めたんだよ」
「ごめんなさい」
 息苦しくなって、わたしは一度席を立ちました。冷たい水を汲んできて一気飲みします。
「文子ちゃんは確かに頭も良かったし、真面目なのも良いと思う。でも、そういうキャラに縛られちゃって、抜けられなくなってるんじゃないかなって。だって、もう大学まで来たら、そんなキャラだけで褒められて、何か特別な立場になれることなんてほとんどない。むしろ、空っぽになっちゃうだけだよ。なんか、言っちゃうとそういう痛々しさが、この作品からにじみ出ていると思う」
 空っぽ。痛々しさ。それはまさに、わたしが少しずつ自覚し始めている問題の核心でした。
「そうですか……抜けられないというのは、本当にそうです。楽ではあるんですよね。他人と深く関わらずにやっていくのって。わたしはそれを、小学生の頃には知ってしまったから……」
「うん。ある意味ずっとそれで、失敗してこなかったんだよね。でも近い将来、破綻しそうな気がしている」
「はい」
「というか、バイトやってないの? ファストフードとかやってみたら?」
「そうですね……考えてみます」
「まあとにかく、意識的に、自分の通ってこなかった世界を知ること。そこからかな。世界を知れば、自分の位置がわかる。そうしたら、ちゃんと根拠のある自信を持てるようになるよ」
 野中さんの言葉は、不思議な説得力を帯びていました。
 根拠のある自信。わたしが今一番欲しいものは、それに違いありません。

 その夜、高村さんからメールで連絡がありました。入部届を渡したいとのことでしたが、なぜか放課後に、教養棟の大講堂まで呼び出されました。曰く、『大事なお話をさせていただきたい』と。
 かなり怪しくはありますが、高村さんならば悪いことはないだろうと思いました。それ以上に、これまでの「訳あり」な感じについて、何かわかるかもしれないという期待が大きかったのです。
 久しぶりに大講堂の重い扉を押して入り、階段を上っていきます。そこは講堂の中段です。高村さんは、最前列のあたりにぽつねんと座っていました。他には誰もいません。
「高村さん。お疲れ様です」
「はい!」
 とりあえず声を掛けると、高村さんは背中を震わせて、跳ねるように振り向きました。
「すみません、驚かせてしまって」
「いいえ……」
 その右手は、やはり左手のリストバンドを押さえています。
「来ていただいて、本当にありがとうございます」
「いえいえ。これも、部のためですので」
 わたしは隣の席に座りました。すると高村さんは、リュックから十枚ほどあるコピー用紙の束を取り出します。
「それが、話していた作品ですか」
「はい」
 小説です。タイトルは『オオカミ』。作者は『高村節子』とあります。
「これは……高村さんが書かれたのですか?」
「まずは、読んでみてください。そうしたら、すべてをお話します」
 それはもう、高村さん自身の作品でないことは確定的です。それでは、誰の作品なのでしょう。気になりながらも、わたしはページをめくり始めました。
 ある難病で余命宣告をされながら、長い入院生活を送っている少女の物語です。彼女は中学生になる歳ですが、人生の大半は外に出ることもままならず過ごしており、ただ病院の外の世界を空想するしかありませんでした。夜になると、彼女の夢におぞましい怪物が現れます。それは鋭い爪と牙で少女を八つ裂きにしようとする狼の姿をしていました。彼女にとって昼の間の空想は、夜の怪物を克服するための訓練だったのです。
 ありそうな設定でしたが、表現には見どころがありそうだと思いました。やや拙い語り口ではあるものの、少女の年相応の目線であることを思えば納得できます。それよりも空想パートのユニークな描写や、怪物パートの生々しい描写など、深くはない語彙のわりに工夫された、価値のある部分が多いと思います。
 さて、病状は緩やかに進行していきますが、家族や双子の姉の協力もあって、彼女の空想はだんだんと豊かになっていきます。しかし、それと同時に怪物もより恐ろしく姿を変えていくのでした。
 そしてある日、病状は急変して……。
 作品は、そこで途切れたように終わっていました。わたしの勘が働きます。
「……もしや、未完成なのではありませんか?」
「わかりますか」
「ええ。これからというところですのに」
「節子は、私の双子の妹です。五年前に亡くなりました」
「えっ……と、今、なんと?」
 つまりこの原稿は、高村さんの妹の遺作だということでしょうか。戸惑うわたしに、高村さんはもう一度はっきり言いました。
「ご明察の通り、この作品は未完成です。私の妹が、亡くなる直前に書いていたものです」
「そんな……」
 では、高村さんはなぜこの作品をわたしに読ませたのか。考えつくことは一つです。
「もしや、この作品を部誌に載せたいと?」
「可能なら、このまま……これは妹が、生き長らえて小説家になるという夢を持ってから、初めて書いた作品です。完成こそしていませんが、それでも……妹が生きていた事実を、私を救ってくれたこの作品を、ほんの少しでも人の心に刻んでおきたい。どうか、載せていただけないでしょうか」
 高村さんはリストバンドを強く握りながら訴えました。それも恐らく、思い出の品か何かなのでしょう。しかし、事情があると言っても、厳密には作者がいないものを、未完成のまま、合評もせずに載せるわけにはいきません。仮にわたしが許したとしても、和泉さんが許さないでしょう。それは人情の問題ではないのです。
「大変申し訳ありませんが、この作品を部誌に載せることはできません」
 わたしはなるべく高村さんの心情を慮るように、優しく答えました。
「未完成だからですか。それなら……私が作者として、合評にも出ます」
 高村さんは涙ながらに食い下がります。しかし、実際にこの作品を引き継ぐのは簡単ではないと思います。真の書き手の意図はもはや誰にもわからないのです。小説を書いたこともないという高村さんでは、却ってこの作品を壊してしまうことにもなりかねません。
 そして実際、高村さん自身も作品に手を加えることは、望んでいないはずだったのです。
「落ち着いてください。妹さんの原稿に、手を入れられるのですか」
「できます!」
「合評では、妹さんの書いた部分の意図を聞かれたり、指摘を受けることもあるでしょう。それに誠意をもって対応することを、約束していただけますか?」
「必要とあらば、そうする覚悟です」
「そうしてできた作品は、もはや妹さんの作品とは思われないでしょう。それでも良いのですか?」
「私だけでも、わかっていれば……」
 わたしも厳しい問いかけをしていると思います。しかし、これはここで相談を受けたわたしの責任です。これを安易に通せば、部に混乱を招いて、もっと大勢の前で高村さんの名誉を傷つけてしまうことになるのです。
 高村さんの語気はだんだんと弱まっていきました。たまに右手で顔を拭っています。間違いなく、この作品には深い思い入れがあり、妹の無念を自分が晴らしたいという強い意志もあるのでしょう。しかし、今のところそれを最も短絡的な方向にしか向けられていないようです。このままではわたしたちも協力し難い状況です。どうにか協力できる方向性を見つける必要があります。
「……例えば、高村さんは、妹さんがこの作品をどのような気持ちで書いたのか、どのくらい説明できますか? 本人から聞いたことでも良いですし、自分でこの作品を読んで感じたことでも良いですよ」
「はい……その……」
 高村さんは鼻をぐずらせながら、ゆっくりと言葉を探していました。
「妹からは、何も聞いていないんです。ただ、完成したら読ませてくれるって、約束していたので……でも、この作品は、妹がもっと生きるつもりで、頑張っていた証拠だと思っています」
 そこには、姉妹の最後に近い思い出があったのでしょう。高村さんは時折しゃくりあげながら、その作品の経緯を話してくれました。
 完成することのなかった作品を、高村さんは何年もの間、読む勇気が出なかったのだそうです。それどころか、「自分に妹はいなかった」という現実逃避に陥って、学校に行くとき以外は一人で部屋に籠って、鬱々とした生活を送るようになりました。
「そのときは、どん底でした。このリストバンドは、昔から妹とお揃いだったものですが、その時以来……」
 高村さんの手で、リストバンドがちらりとめくられます。わたしはそれで事の深刻さを理解したつもりになりましたが、実際に本人がどれほど危うい状況にあったのか、うかがい知れようはずもありませんでした。
 しかし、早いうちに親が気づいて適切な対応をしたことで、高村さんが道を大きく踏み外すことはありませんでした。高校はあまり良いところに入ることはできませんでしたが、高校一年の夏には、精神的にも安定してきたそうです。
 その頃初めて、高村さんは妹が遺したこの作品を読んだのです。
「多分、不安定だった頃に読んでいたら、この作品が未完成であるということにも気付けなかったと思います。それで、まずは私が、妹の分まで頑張ろうと思いました」
 そこで高村さんは、薬剤師になるという夢を持ちました。薬剤師を選んだのは、立ち直った時期に「薬を正しく使うことの大切さ」を学んだからだということです。学力も足りていませんでしたが、高校のカリキュラムも高度な受験に対応できるものではなかったので、とにかく自習を重ねてこの大学に合格できるレベルまで達したそうです。
「そして、大学に合格して……私はもっと妹のために何かできることはないかと思いました。この作品は、私の人生の意味を取り戻す助けになったので……もっと多くの人に読んでもらって、同じように救われた思いをしてくれる人がいたら……妹も本望だと思うのです」
「……なるほど」
 高村さんがこの作品にこだわる理由もわかりました。ちなみに、原稿はもともと手書きだったそうですが、鉛筆で書かれていて遠からず読めなくなる可能性があったので、高村さんが原文そのままにパソコンで打ち込んだものが今回の原稿だそうです。確かに漢字の使い方や、いくつかの誤植もそのままになっているように見えます。
「しかし、現実的な話として、この作品を妹さんの作品のままで世間に出すのは、文芸部としては難しいです。ですから、提案なのですが、高村さん自身がこの作品と同じように、誰かを救えるような作品を書けるようになるというのはいかがでしょうか。それでしたら、わたしたちは喜んで協力できます」
「私が……ですか」
 高村さんは、少し眼を見開きました。やはりというか、自分で書くという発想をあまり持っていなかったのだと思います。
「この作品を高村さんの手で完成させるとしても……高村さんは今、小説の書き方をほとんど知らないはずです。それでは、作品を台無しにしてしまうかもしれません。ですから、本当にこの作品を何らかの形で完成させたいと願うなら……まずは高村さん自身が小説を書けるようになるべきかと思いますが、いかがでしょうか」
「……今の私では、この作品に手を加えるべきではない、ということですか」
「はい。今はあまり理解できないかもしれませんが……小説を書くのは難しいですよ。まして、誰かが書いたものの後に続けるのは、書き慣れた人でも悩むほどです。少なくとも、そのことを理解できるようになるまで自分でやってみてからでも遅くはないと思います」
「……わかりました」
 そう言うと、高村さんはリュックから一枚の紙切れを取り出しました。入部届です。
「部長。私に小説の書き方を教えてください。文芸部員として、これから頑張っていきますので、どうかよろしくお願いします」
 両手で差し出されたそれを、わたしも両手で受け取ります。
「ええ。一緒に、頑張りましょうね」
 そのとき、わたしは野中さんの言葉を思い出しました。
 意識的に、自分の通ってこなかった世界を知ること。
 高村さんとの関係は、わたしにとって、その入口になるかもしれないと思いました。お互いにまた自信を持って自分のやりたいことを実現するために、わたしたちは新たな一歩を踏み出したのです。

二十三 古傷

 昨夜の雨から幸いにも晴れた朝、湖岸の砂はまだ湿っていました。風は穏やかです。波もほとんどありません。向こう岸には鉄塔や、工場の煙突などが見えます。わたしは思い切り伸びをして、それから肩を回して緊張をほぐしました。それというのも、今日はここまで、わたしが運転をしてきたのです。
「白鳥……さすがに、いないか」
 隣では、小野寺さんが湖を眺めています。いつか、こんな湖にはよく来ていると話していました。
「ここも、よく来るんですか?」
「うん。一番来やすいし、静かに観察できるところもあるし」
 国道沿いにあるこの湖には、数年前に道の駅もできたのです。札幌からは高速道路を使って一時間ほど。気軽に自然と触れ合える場所かもしれません。
 振り返ると道の駅のほうから、先生と小池さんが歩いてきます。今日は四人で来ました。小池さんが『ゴールデンウィークには大学生らしくドライブをしてみたい』と言い出して、免許を持っているわたしと先生が連れていってあげることにしたのです。そして、それを興味ありげに聞いていた小野寺さんも誘いました。
「白鳥は見えたか?」
「えっ、ここ白鳥がいるんですか?」
 先生もここには来たことがあるようで、わたしと小池さんが初めてです。特に小池さんはここがどんな湖かも知らなかったらしく、白鳥がいると知るなり、水際まで駆け寄って辺りを見回します。
「あっ、あそこの草むらの辺り、何かいますね……」
 すると小池さんは、左側のやや遠くの岸を指し示しました。湖岸の岩と同化するかのように、茶色の鳥が二羽ほど佇んでいます。
「小野寺さん、わかりますか?」
「多分この時期だから、マガンはいないかもしれなくて……」
「カモの仲間ではありそうだな」
「うん、オナガガモの雌だと思う」
 先生も大雑把には知っているようですが、やはり小野寺さんのほうが詳しそうです。小池さんも「おお」と声を上げました。
「小野寺先輩、鳥博士ですね!」
「いや、そんなんじゃ……」
 小野寺さんはその場で身体を捩らせました。大げさに褒められたこともさることながら、「先輩」と呼ばれたことも大層くすぐったいことだったのでしょう。
 小池さんは、小野寺さんがバンドを組んでいたことを知りません。そもそも、小野寺さんがわたしたちと同じ高校だったことも知らなかったくらいです。
「さて、そろそろ行くか。先は長いぞ」
「そうですね。行きましょう!」

 そこからは先生に運転を交代して、わたしは助手席に座りました。目的地は、とりあえずは日高です。静内というところにある大規模な桜並木を目指しています。そして、余力があれば襟裳岬まで行ってしまおうという話になっています。
 車内では、来週から本格的に始まる一年誌に関する話題になりました。
「一年誌は、一年目同士で作者と編集になるんですよね?」
「そうですね。一人で作者と編集の両方をやることもできますよ」
「そうなんですね。じゃあ例えば、二人とか三人とかの編集になることはできますか?」
「そこは、明確な決まりがあるわけではありませんね。作者でなければ、二人の編集を同時にするくらいは大丈夫ですよ。ただ、作者で二人の編集もするとか、三人以上の編集をするとかは、合評のスケジュールを組むうえでも少し難しくなりますね」
「なるほど……」
 小池さんがこのような確認をするのは、自分で誘った未経験の同期のメンバーを意識してのことなのだろうと思います。結局、今期の入部者は小池さん、石垣さん、肥後さん、牛島くん、高村さんのほかに四人で、合計十人でした。去年の前期から見ると半減ですが、人数よりも気になる問題がありました。
「今回、文芸の経験者が小池さんを含めて三人しかいないんですよね。そのうち一人は短歌専門だと聞いています。小池さんも、未経験の全員に教えていたら負担が集中することになってしまうので、あまり無理はしないでくださいね。上年目もサポートしますので」
「ありがとうございます。そう言えば、合評も毎回全員参加じゃないんですよね?」
「はい。作者と編集のほかに、四人を割り当てることになっています。もちろん、割り当てられていない合評でも飛び入り参加ができますよ」
「それなら、編集にならなくても、合評にたくさん参加すればみんなと関われますね」
「それもいいと思います」
「先輩方は、夏部誌があるんですよね?」
「そうですね。もう、初項の締め切りは過ぎていますが……先生、出さなかったんですね?」
「ああ。出していない。この前期は、研究室のゼミが忙しいと聞いていてな」
 わたしたち三年目では、小野寺さんと和泉さんが詩集を出し、久しぶりの梅森さんが小説を出していました。先生は、創作まつりの『梟の眼』を出すことなどもできたとは思いますが、結局作品を出さなかったのです。
「まあ、編集はするよ。というのも、入船に頼まれてのことだがな」
「おお、入船さんですか」
「創作まつりの浦川さんの賞、入船さんが獲ってたよね」
「その縁でな」
 先生はこの間の創作まつりで、一年目を対象に、「最も挑戦的であり、かつ成功している作品」を表彰する個人賞を設けていたのでした。創作まつりには相羽さん、橋上さん、敷嶋さんも作品を出していましたが、最終的には入船さんが受賞することになったのです。地下世界からの脱出を試みる冒険活劇です。わたしから見ても設定や構成がしっかりしていて、隙の少ない作品でした。
 先生は講評も書いていましたが、入船さんの作品については力の入ったアクション描写を高く評価していました。他の三人はそれぞれ自分の思い入れのあるものを題材にしていましたが、入船さんはそこから少し飛躍があったところも先生の評価したポイントです。
「入船さん、今回は松の木の話なんですよね」
「読んだ。創作まつりとは打って変わって落ち着いた話で、本当に幅が広いよね」
 小野寺さんも絶賛するその作品は、そのまま『松』というタイトルです。内容は、ある小学校の校庭に植えられた松の木の周囲で起こる、子供たちや大人たちの半世紀にわたるドラマです。
「新井の企画のときにもやや近いが、今回はより、人間ドラマそのものに重点を置いているな」
「入船先輩、私も説明会のときに一回お話しました。去年の後期から入部して、文芸を始めたばかりなんですよね? それで浦川先輩に認められるなんて、すごいです」
「そうですね。まあ、同じ未経験でも、文芸はそれまでの経歴にも強く影響を受けますし……大学生にもなれば、文章の書き方くらいは心得ている人も多いので、構成さえ立てられればすぐに書けるようになることが多いですよ。あとは、目指す方向性の問題もあると思いますね」
 小池さんは高校から文芸を始めて、最初は文章の書き方もよく知らないところからでした。鳴滝さんの助けも借りて、悪戦苦闘しながらどうにか作品を完成させたのを憶えています。
「小野寺先輩も、大学からなんですよね。最初に書くときは大変でしたか?」
 そうなると、この無邪気な質問は当然出てくるのでした。
「私は……」
 小野寺さんも先生の前で、答えにくい部分もあるかもしれないと思いましたが……。
「最初は詩だったの。去年の春から、小説も書き始めて。大変というか、いろいろ悩んだり、迷ったりすることもあったけど、中津さんにはたくさん助けてもらったし、浦川さんも毎回読んで感想をくれた。他にも、面白いって言ってくれる人がいる。だから私は続けられているんだと思う」
「先輩方、仲が良いんですね。私も蒼空ちゃんや久瑠美ちゃんたちと、そんな風に文芸を楽しめるようになりたいです」
「小池さんなら、なれると思う」
「そうですか? ありがとうございます!」
 そのときわたしが思い浮かべたのは、高村さんのことでした。小池さんなら、彼女とも難なく打ち解けて、小説が書けるところまで導いてくれるかもしれません。それでも、口には出しませんでした。これはわたしが引き受けたことで、わたし自身が誠実に向き合わなければいけないのですから。

 桜並木に着いたのは十時を回った頃でした。どこまでも続くように見える直線道路の両脇に、色の濃い桜がずっと連なっています。道路の半ばに人の集まる広場があり、その中にも桜の並木道が見えました。そこでは「桜祭り」と称して、屋台も並んでいるようです。
「なかなか混んでいるな」
「こんなに賑わうんですね」
 路肩に駐車できるようになっていましたが、なかなか空いている場所はなく、少し離れてようやく見つけることができました。どちらを向いても桜があるので、歩くのも楽しいものです。
「直ちゃんに写真送って、自慢しちゃいます! この並木、ここまでも長かったのに、これからどこまで続いてるんですかね?」
「下調べした限りでは、数キロ先まで続いていて、日本一の桜並木だそうですよ」
「日本一!」
 小池さんも、このスケールの大きさには大満足のようです。一方、先生はとりあえず公園に向けて歩き出していて、小野寺さんも後に続いていました。わたしは小池さんと一緒に歩いていきます。
「東京は多分、大学に入ってすぐにお花見なんですよね」
「もう、この時期には終わっているでしょうね。その点、北海道では五月に桜を見ながら外でジンギスカンができます」
「ジンギスカン! やったんですか?」
「去年は文芸部でもやりましたね。今年もやろうという話にはなりませんでしたが……」
「じゃあ、来年はやりたいです! 火起こしとかできますよ」
「それは貴重な人材ですね」
 少し大変なのは、そういう場所のある公園まで出かけていかなければならないことです。大学構内には桜を楽しめるスポットが少なく、ジンギスカンパーティーができる広場はあるのですが、そこにも桜はなかったと思います。
「あっ、着ぐるみがいますよ。牛くんです」
「おお」
 広場の入口に差し掛かったところで、奥のほうに人だかりができているのが見えました。デフォルメされた乳牛の着ぐるみがいて、子供たちと触れ合っているのでした。
 わたしは辺りを見回して、先生と小野寺さんを見つけました。二人で桜の木の下に並んで、小野寺さんが自撮りをしていたのです。小野寺さんは、それはもう、かわいらしい笑顔で。先生はやはり困惑した様子ではありましたが、表情は満更でもなさそうでした。
 ちょうど、小池さんは着ぐるみを遠巻きに写真に収めていて、先生と小野寺さんには気付かなかったようでした。わたしも、今見たものは心の中にしまっておきます。
 間もなく、先生がこちらに来ました。
「道中、何かあったのか?」
「まあ、特に何があったというわけではありませんが、小池さんが写真を撮っていたので」
「はい。東京の直ちゃんに自慢するんです」
「そうか」
 小野寺さんが少し首を傾げました。
「文芸部の?」
「ああ。わたしたちの文芸部の後輩だよ」
 その様子を察して、小池さんがスマートフォンの画面を小野寺さんに見せます。
「この子が直ちゃん、鳴滝直美です。東京に行って、法学部に入ったんです」
 それは小池さんと鳴滝さんの二人の写真でした。背景には何か洞窟のような暗い空間が見えます。天候は良く二人は薄着で、とても暑い時期に撮った写真のようです。
「仲良しなんだね。この写真はどこで?」
「鍾乳洞です。去年の夏、二人で行ってきました。卒業旅行です」
「いいなあ」
 わたしや先生は言うまでもなく、小池さんのように輝かしくアクティブな青春を送ったわけではありません。それでは、小野寺さんはどうだったのでしょう。
 わたしたちは屋台を眺めつつ、並木道を歩いていきます。
「小野寺さんは高校のとき、仲間の方々とは旅行に行ったりしませんでしたか?」
「実は、あんまり……」
 小野寺さんは恥ずかしそうに答えました。
「予算も全然なかったから、合宿とかも行ってないし」
「小野寺先輩は、高校のとき何をされていたんですか?」
 小池さんが興味を示します。
「軽音楽部。バンドのボーカルだったの」
「すごいですね! 歌とか作れますか?」
「私は、作詞だけ」
「歌を作るときって、作詞と作曲が違う人でも、『合作』って言わないですよね。どうしてなんでしょう?」
「確かに……考えたことなかった」
 意表を突くような疑問でした。それでも、ある歌を作詞者と作曲者の合作だと表現するのは稀だと思います。歌詞や曲をそれぞれ複数人で作ったときは、合作と表現するかもしれません。
「曲と歌詞の結びつきが比較的弱いからではないか?」
 先生は多分、こんなテーマについて考えたことがあったのでしょう。詩と歌詞の違いについても明確な意見を持っている人ですから。
「でも、コラボレーションって言い方はするし、フィーチャリングとか、コンピレーションみたいな形もあるよね」
「横文字ばっかり……」
 小野寺さんが挙げた単語に、小池さんは頭を抱えるそぶりを見せました。
「まあ確かに、音楽ではそういう言い方のほうが多いな。コンピレーションは当事者ではないレコード会社などが編集する場合が多いから、合作ではないかもしれないが」
「フィーチャリングってたまに聞きますけど、何でしたっけ?」
「誰かを招待して、自分の曲に参加してもらう……みたいな感じかな」
「なるほど。そんなことができるんですね」
「そもそも音楽は、一曲に関わる人間が複数いるのが普通だ。作詞、作曲、編曲、演奏、歌。例えば有名な作曲家が曲を提供したとか、フィーチャリングで演奏者を招いたとか、そういう特別な場合を除けば、敢えて合作だと言う意味がない」
「確かに」
「それから、特に歌詞と曲は互いに挿げ替えられることがある。同じ曲に違う歌詞を載せたり、同じ歌詞に違う曲を載せたりできる。わたしたちが聞くのは、その無数にあり得るパターンの一つというわけだ。そういった自由度も、合作という意識を薄れさせると思う」
 それは、互いの仕事を切り離すことができるという話だと思いました。逆に言えば、文芸の合作ではそれぞれの書いたパートを切り離すのは困難です。一般には、切り離したものそれぞれは単体の作品として成立しないでしょう。
 音楽の合作と、文芸の合作。それぞれの感覚の違いも、かつて小野寺さんと先生がすれ違ってしまったことの背景の一部なのではないかと思いました。

 並木道は話しながら十分くらい歩くと終わりました。屋台もそこまでです。帰りは屋台を見ながら歩きました。意外とその場で食べるものの屋台ばかりではなく、先生は地元の山菜を買っていたり、小野寺さんは桜の押し花を使った手作りの栞を買っていたりしました。
 それから、地元産の肉を使っているらしいフランクフルトやケバブサンドなどを食べたりもして、合計で一時間ほど滞在しました。最後に、四人で改めて写真を撮りました。
 車に戻って、また先生が運転席に座ります。
「まだ、昼にもなっていない。このまま帰るのも退屈だろう」
「襟裳岬、行ってみたいです!」
「よし、では出発するぞ」
 先生は慣れた手つきでカーナビに目的地を設定しました。意外とドライブが好きなのかもしれません。運転にも慣れているように見えます。
「昼は道中、何かあればよいが……恐らくほとんど何もないだろう。襟裳岬まで行けば食堂があるはずだ」
 ここから先は、ひたすら海沿いの国道を走るだけです。海の向こうは灰色に曇っていました。
「あっ、直ちゃんから写真が届きましたよ。隅田川の桜とスカイツリーですって」
 小池さんが小野寺さんにスマートフォンの画面を見せました。
「本当だ」
「浅草の辺りですよね」
「そうなんですか?」
 わたしも見せてもらいます。その写真には、満開の桜を見上げた先の空に向かって、スカイツリーがそびえ立つ様子が収められていました。
「東京ですから、一か月くらい前かもしれませんね」
「なるほど。向こうの気候って、全然わからないですよね」
 きっと、東京は暖かいだけではなく、どこへ行っても賑やかな春を過ごすことになるのでしょう。
「あっ、また写真が届いてます」
 次の写真は、桜の下で鳴滝さんと天海さんが並んで写ったものでした。
「直ちゃん、天海先輩と会ってたんですね」
「高校の文芸部で、今もみんな繋がってるんだ」
 小野寺さんは少し羨ましそうに言います。
「はい! 文芸部って、作品を通してお互いの見ている世界を知ることができて……人と出会うたびに、自分の世界が広がっていく、そんな感じがしませんか?」
「うん、わかるよ」
「離れていても、繋がり続けて、また文芸を通して交わることができたら、もっと世界が広がります。それまで、私もまたたくさんの人と出会って……たくさんのことを体験したいです」
「素敵だね」
 なんと前向きなことでしょう。ここまで希望に満ちた大学一年生をわたしは見たことがありません。圧倒されてしまいます。
「先生、小池さんも立派に成長したものですね」
「そうだな」
 何より、小池さんは自分の進路を既に明確に見定めていることが強みだと思います。その時点でわたしなど敵うはずもありません。しかし、わたしもそのような覚悟ができれば、あるいは……。

 その後しばらくは、小野寺さんが小池さんのこれまでの作品について聞くという流れになりました。三年生のときに書いた作品に関しては、わたしたちも初耳です。
「最後の大会に出す作品が、どうしても決まらなかったんです。部誌に作品は書いたけれど、それも納得がいかなくて。それで、本当の勝負作品を書こうと思ったんです。さっき見せた写真の卒業旅行は、その作品を書くためでもあったんですよね。でも、思ったより気持ちよく書けすぎちゃって……文字数制限に収まらなくて、結局大会は諦めたんですよ」
「そうだったんだ……」
「無理に納得のいかない作品を出すよりは良かったかなって。そう言えば、大学の文芸部って大会とかないんですか?」
「ないよね、中津さん?」
「はい。大会という大会はなくて、それぞれで文学賞などに応募することはできます」
 実は、サークル会館には公認サークルの郵便受けがあって、たまに文学賞の案内などが届いたりもするのです。
「それって、本当にプロを目指したりするためのものですよね?」
「そういうものもありますし、単に娯楽というか、カジュアルな賞もありますよ。でも、そこに応募者間の交流などはないかもしれませんね」
「そう、そこですよ。何か、文芸サークル同士で集まるようなイベントとかってないですかね?」
 小池さんの望みそうなものを、わたしは知っています。
「七月に札幌で、『文学のアジール』という即売会的なイベントが開催されるらしいですよ。今回の応募締め切りは過ぎているので、文芸部としては参加できませんが……見に行くのも良さそうですね」
「行きましょう! みんな誘います」
「ちなみに先生は、来ますか? 恐らく大混雑が予想されますが」
「うむ……まあ、あまりない機会だろう。わたしも見に行くつもりだ」
 先生でも、さすがに来なければ嘘だと思いました。最近の先生なら猶のことです。
 その後、今度は小池さんが小野寺さんの好きな音楽について聞く流れになりました。やはりバンドで演奏していたような普通のポピュラー音楽が好きなのかと思いきや、洋楽、特にアメリカのヒップホップをよく聴くのだそうです。和泉さんが好む邦楽のロックなどはあまり聴かないとのことでした。
 それにしても、小池さんがいると会話が途切れません。ある種の才能だと思います。おかげで退屈することもなく、わたしたちは襟裳岬に着いたのでした。

 車を降りると早速、顔に冷たい風を感じました。三方を海に囲まれたこの岬は、いつでも強風が吹くことで有名です。まずは突端まで歩いてみることにします。
 人はちらほらといました。しかし、わたしたちのようにグループで来ている人は少ないようです。桜並木には家族連れもいましたが、ここにはいませんでした。
「古い歌を思い出しますね」
「何もない春、か」
 駐車場の脇には、枯れて白茶けた笹薮が広がっています。夏になれば、ここも緑が広がるのでしょうか。あまり想像がつきません。
「襟裳岬、初めて来ました」
「私も……」
 わたしも来るのは初めてなので、何があるのかよくわかっていません。とりあえず、「風の館」という施設の脇を抜けて、坂道を上っていきます。すると、白い灯台が見えてきました。外に見える手すりや梯子、窓枠などはところどころ錆びて、時代を感じさせます。
「先生は、来たことありますか?」
「ああ。前に来たときは夏だったが、そのときも風が強かった。涼しくて良かったよ」
 今は少し寒いです。灯台の向こうに見える海も冷たそうです。荒々しく白波が立っています。
 岬の突端へと続く遊歩道は舗装されて、歩きやすくなっていました。いよいよ海が近く、柵の向こうは断崖です。
「野生のアザラシがいるのだが、今日は見えないな」
「えっ、アザラシがいるんですか?」
「ああ。絶滅が危惧される一方、魚が取られるので、よくニュースになるだろう」
「それ、見たことあるかも……」
 やがて、『襟裳岬突端』と書かれた立札が見えました。道はまだ奥へ続いているようですが、眺めはここが良さそうです。振り返ると、さっきの灯台がもう遠くに、頭だけ見えています。そして、海はいくつかの岩場の向こうに、どこまでも続いていました。
「最果て……」
 小野寺さんが呟いた言葉が、よく当てはまる景色だと思います。わたしたちは海を背にして、四人で写真を撮りました。
「高校の頃だったら、歌詞ができたかも」
「どんな歌ですか?」
「演歌……かな」
「ほう」
 小野寺さんが演歌を歌う姿は、少し奇妙かもしれないと思いました。可憐でどちらかと言えば細い声も、演歌向きではないでしょう。それでも、挑戦したかったという思いは感じます。
「小野寺先輩の歌、聞きたいです! 今度、カラオケ行きませんか?」
「カラオケは……あんまり、歌わなくても良かったら」
「苦手ですか?」
「ちょっとね」
 小野寺さんにとって、バンドで歌っていたときだけが特別なのでした。それ以外の歌は、歌えないわけではないと思いますが、そういう気分にはなれないのでしょう。
 せっかくなので風の館も覗いてから、駐車場の傍にある食堂でお昼のラーメンなどを食べ、わたしたちはまた、先生の運転で帰途につきます。
 特別、何かあるという場所ではありませんでしたが、あらゆるものを取り払った真っ新な春がそこにはありました。気分を新たにして日常へ戻っていくには良かったのかもしれません。
「先生」
「どうした?」
「実はわたし、塾講師のアルバイトを始めようかと思っているんです」
「そうなのか」
「小中学生向けの個別指導塾なんですけど、先週、面接を受けてきて……昨日、二次面接の連絡が来ました」
「学力試験があったりするのか?」
「いえ、面接だけだそうです。わたしを選んでくれた教室の室長に会って、最後の見極めというわけです」
「なるほど。塾講師を選んだのは何か理由があるのか?」
「わたしが知らずにいた世界を知るため……ですかね。わたしが関わることを避けてきた、小中学生の現実に触れて、自分がどういった面でずれているのか、あるいはそうでないのかを知りたいと思いまして」
「ほう。自己分析、ひいては就活に役立てようと?」
「そうですね。その一方で、塾は、わたしは通ったことがないですけども、学校に通うだけではわからないことを教えられる場でもあるわけじゃないですか。子供たちにとっては、学校の外を知る少ない機会であるわけで。そういう意味では、わたしの人生経験でも、役立てられるところがあるのではないかと思って」
「なるほどな。わたしは集団指導の塾だったが、講師はプロだったな。確かに、学校の教師とはまた違う世界観を持っていたような気がする。それにしても、言うことは大抵、受験に向かう心構えばかりだがな」
「へえ」
「まあ、精一杯やってくるといい」
「頑張ります」
 襟裳岬の春風に、そして、先生の言葉に、背中を押されるような気持ちで。

 もちろん、文芸部も五月は重要な仕事がたくさんあります。例えば、公認団体の継続申請もその一つです。飲酒等の事故防止の講習会に出席したうえで、様々な書類をまとめなければいけません。ある意味、部長の最大の役割です。
 夏部誌もそうですが、大学祭に向けた準備も本格的に始まりました。今年は入船さんの提案だというタピオカミルクティーを売ることになりました。今年は橋上さんが会計役になり、先代の和泉さんや大藤さんにも相談しながら着実に進めています。
 そして何より一年誌です。わたしは約束通り、高村さんの上年目サポーターになりました。高村さんは連休の間にいくらか文章を書いていたので、いつものボックス席で会って、まずは読ませてもらうことにしました。
 原稿を受け取った瞬間、不意にいくつかの卑猥な単語が目に入ります。タイトルは『裏の宴』です。インターネットの動画配信サイトのようなところで、中学生くらいの少女が配信をしているという場面から始まりました。一人称視点のようなので、主人公はそれを見ているのだと思います。
 少女は最初こそ服を着て雑談をしているだけでしたが、すぐに下着だけになり、各部位をめくって見せるなどした後、次第に過激な行為に及んでいくのです。主人公はその躊躇いのない様子を見て、最初こそ恐怖や嫌悪を覚えますが、間もなく『ここはこういう世界なんだ』と受け入れてしまいます。画面に映る少女の、危うい快楽に耽る姿が、主人公を感化してしまったのです。
 わたしはその最初の場面を読み終えたところで手を止めました。
「高村さん、これは、どういったものがテーマで?」
「部長は、ご存知ではないかもしれませんが」
 高村さんは落ち着き払って答えます。わたしがこのような反応をすることを、いくらか予測していたのかもしれません。
「世の中には、中学生、早ければ小学生の中学年くらいから、こういう世界でしか遊べなくなる人がいるんですよ。主人公も、まさに落ちかけていて……まずは、最後まで読んでいただけませんか」
「はい……」
 主人公は通信制の高校に在籍する一年生です。中学生の頃から断続的にしか登校できず、ほとんど引きこもりのような生活を続けているようです。しかし、作中でその経緯については言及されていませんでした。
 今回、主人公が冒頭の配信サイトを知ったのは、SNSで「裏垢」というものを見かけたのがきっかけだということです。つまり、素性を隠して、表には出せないようなやり取りをするためのアカウントです。素性を隠すと言っても、性別と年齢を明かしている人はいくらかいて、その中には主人公と近い年齢の女子もいたのでした。
 そこに集う人は、多くは自分と同じような性質の仲間を求めています。例えば、不登校の者。頭痛や腹痛などの体調不良に悩まされる者。大っぴらにできない趣味を抱える者。単に欲求を満たしたい者。見かけは匿名なので、そこにいるときは、誰もが表の世界の倫理を忘れたように振舞えるのです。
 このような世界に足を踏み入れること自体が、表の世界では悪いことのように思われます。しかし、ひとたび踏み入れてしまえば、もうそれ自体が悪いという意識はなくなってしまうのです。それでも、そこに倫理が全くないわけではありません。中には性別や身分を偽って人を欺く者、違法な行為に手を染める者もいます。そのような危険がある前提で、安全に遊ぶための振る舞いや考え方が広まっているのでした。
 主人公は一か月ほど、自分からは何も発信せず、ただ数名をフォローするだけにとどめていました。それがあるとき、いよいよ何かを公開してみようという気になったのです。滅多に着なかった中学校の制服をクローゼットから出して、そのスカートを自分で、下着の見える直前までたくし上げた写真を撮りました。それを公開すると、徐々に自分のフォロワーが増え始め、「いいね」などの反響が得られたのです。
 しかし、主人公が良い気分になったのは少しの間だけでした。なんと自分宛に、属していた中学校を言い当てたダイレクトメッセージが届いたのです。恐怖で全身の凍り付く思いをした主人公はすぐにアカウントを削除し、SNSから離れます。それでも、誰かがすぐ近くで見ているかもしれないという観念は消えず、自分の部屋から出ることも困難になってしまいました。
 それからは入浴もままならず、加速度的に心身は不健全になっていきます。見かねた親が主人公を病院へ連れ出そうとしますが、そこで主人公は抵抗し、半ば錯乱状態となります。
 もう、この世以外ならどこでもいい。
 主人公は薬箱から手当たり次第に薬を出して、それを水すら飲まずに一気に喉の奥へ押し込みます。間もなく、主人公の意識は失われて行き――。
 そこで、作品は終わっていました。
「あの、一応聞きますが、この主人公は……」
 わたしは原稿をまた机に置いて尋ねてみます。
「薬とか、諸々を喉に詰まらせて、窒息です」
 あまりにも過激で、露悪的な作品だと思いました。少なくとも、高村さん自身もこのような世界を覗いていた時期があったのだと思います。そして、間違いがあればこの主人公のように身を滅ぼしていたという想像から、この作品が書かれたと推察します。
 しかし、扱う題材はこの上なくデリケートなものであり、過激な描写も多くあります。それが確かな目的をもって、適切な意図で書かれたものならまだしも、現状では加減ができていない、半ば暴力的な書き方になっていることも否めません。まずはそれを緩和して、体面を整えなければ、これを一年誌に載せてよいかどうかの議論にも進めないと思います。
「ええと……まずですね、恐らくこの作品は、このままでは一年誌に載せられないと思います」
 高村さんは原稿に目を落として、両膝の上でそれぞれの手を握りしめました。
「……なぜですか。少年の非行を書いた作品なんて、いくらでもあります」
「はい。ですがそれは、もっと慎重に、多くの人の理解と合意を得て出版されているはずです。技術的な問題もありますが、内容についてももう少し考察を深めて、ただ露悪的なだけではない見え方を考える必要があると思います」
「それは、部長がこういう世界を知らなくて、見なかったことにしたくて、遠ざけたくて、そう仰っているのではないのですか」
 不意に、わたしの背筋にはナイフを突きつけられたかのような緊張が走りました。
「そんなことはありませんよ。本当は、高村さんもこのような世界を垣間見て……でも、表の世界では誰もその世界を見えないかのように振舞っているから、そのフラストレーションがこのような作品を書かせたのだと、そう言いたいのですよね」
「それだって、ただ過激なもので注目を集めようとしたような言い方じゃないですか。やっぱり、部長だけではダメです。誰か違う方に、読んではもらえないですか」
 完全に激昂させてしまったようです。ここは一旦、互いに落ち着くための時間を取るしかありません。
「……お役に立てず、申し訳ありません。今度、編集班の和泉さんに読んでもらえないか相談してみます」
「……お願いします」
 和泉さんなら、この手の話についてもわたしよりは明るいでしょう。しかし、これを一年誌に載せることに関する判断となれば、わたしよりも明らかに厳しい考えを持っているはずです。そのとき、高村さんがその結果をどのように受け止めるのか。わたしはそれをどのようにサポートできるのか。大きな課題が生まれてしまいました。

 とりあえず、高村さんの原稿のデータをもらうことはできたので、和泉さんとは前もってわたしと二人だけで話をしておくことにしました。
 学生交流会館の二階にあまり人目に付かない場所があるので、そこで打ち合わせをすることにします。和泉さんには先にメールで原稿を渡しておきました。
「……というわけで、高村さんにこの作品を一年誌に載せるために必要なプロセスについて、理解してもらわなければならないというところです」
「なるほどねえ」
 和泉さんが持っていた原稿には、既に様々な色のペンで書き込みがされていました。わたしが経緯を説明すると、和泉さんはそれを原稿の白紙の部分に書き入れます。
「そう言えば、高村さんってどの子だっけ? 大きい?」
「いえ、あの……リストバンドをしている方です」
「ああ、わかった。でも話したことないな」
 思えば、あのリストバンドに隠された白い傷跡の意味も、わたしは深く考えないようにしていました。この作品を書くに至った高村さんの背景と、関連は間違いなくあると思います。それにしても、わたしは自分だけで勝手に考えているだけでした。
「でさ。高村さんがどういう意図でこの作品を書いたのか、フミはちゃんと聞いたの?」
 そのとき初めて、わたしは自分の落ち度を自覚しました。
「いいえ……」
 つまり、高村さんの話をよく聞かずに、作品を否定するところから入ったように受け取られたかもしれないということです。
「このような世界の存在を世間に知らしめたいとか、そういう意図を勝手に取り上げて、決めつけてしまいました」
「まあでも、いつものフミならもう少し冷静に考えられたでしょ。今回それができなかったのは、やっぱり、テーマがそもそもダメみたいな意識があったりしない?」
「多少は……でも、無条件にダメなんてことはありえないと思います」
「じゃあ、こういう意図なら許されるっていうのがフミの中にあって、それを押し付けちゃったってこと?」
「はい……そうですね」
「それで、高村さんには話にならないと思わせてしまったというわけだ。謝らないとね」
「はい」
 何にしても、まずは高村さんの考えを理解するところから始める必要があったと思いました。
「それでは、和泉さんはこの作品についてどう思いますか?」
「単純にまだ、あんまり読める形になってないのはあるね。初めてだから、これから直していけばいいけどさ。主人公はこれ最後、死んだんだと思うけど、これもなんか、投げた感じがあるし。書きたいストーリーラインはある程度明確なんだけど、結局何を言いたいのかはどうにも伝わらない。だから、それを無理やり読もうとするんじゃなくて、聞き取らないといけないね」
「直していけば、一年誌には載せられると思いますか?」
「最終的な判断は一年誌編集長の辻くんや、一年目のメンバーだけどさ。まあ本人がどれだけ考えを深められるかじゃない? どのみち、まだ内容の是非について話せるレベルじゃないと思うよ」
「なるほど……」
 まだ掲載の是非について議論する段階ではないという見解は、わたしと一致しているようです。それで、次の動きについて相談しようと考えていたら、先に和泉さんが、もどかしそうに話し始めました。
「でもなあ。編集も合評も一年目が中心じゃ、あんまり深く掘り下げられないでそのまま載るっていうことも考えられる。あたしらも基本はなるべく許容して、一年目にやらせてみるっていうスタンスだからね」
 本来ならたくさんの意見を持っているということは、その大量の書き込みがされた原稿からもわかります。
「では、わたしたちは適切な助言をするくらいにとどめるべき、と」
「まあそんなとこでしょ。上年目は夏部誌や学祭で忙しいし。だからさ、あたしにも読んで欲しいってことだったけど、そこまで深い話するつもりはないよ?」
「それでも今、高村さんはこの作品を受け止めてくれる人を求めていると思うので……」
「できるなら一年目の誰かに引き継ぎたいな。小池さんだっけ? フミの後輩だっていうあの子とかどう?」
「確かに小池さんなら、高村さんの気持ちも理解できるかもしれませんが……本人の意向もあるでしょうし」
「ちょっと話してみたら? もし引き継いでくれるってことだったら、フミ、一緒に高村さんと話せるように調整してよ」
「わかりました」
 和泉さんの前ではそう言ったものの、わたしは小池さんに頼むことについて葛藤がありました。確かに、もはやわたしだけで解決するべき問題ではなくなっていると思います。しかし、これで結局また、わたしは自分の不自由な考えを打破する機会を逃してしまうのです。その機会を今回のことに求めたのが、そもそもの間違いだったのかもしれませんが……。

 それでも仕事を滞らせるわけにはいかないので、わたしは考え込む前にその場で小池さんに連絡を取りました。
『一年誌に向けて少し相談したいことがあるのですが、今日か明日、どこかでお話できませんか?』
『中津先輩、大学にいますか? ラーメン食べに行きたいです!』
 返信はすぐに来ました。小池さんは今日は五限まで授業があり、その後なら時間があるということです。わたしもせっかくアルバイトを始めるところなので、今日は奢ってあげようと思いました。
 五限の後、小池さんから送られてきた地図の場所で待ち合わせをしました。札幌駅の西側の高架沿いにあるラーメン屋です。
「味噌ラーメンで」
「では、わたしも」
 わたしはラーメンにはあまり明るくありませんが、この店は近年の流行ではなく、古くからの味を守っている店のようでした。
「それで、一年誌の相談って何ですか?」
 注文をするなり、小池さんは話を切り出します。実際、高村さんの作品はあまり食事の前後に読むようなものではないと思いましたが、読んでもらわずに話を進めるのは難しそうだったので、わたしは原稿を渡しました。
「高村さんと、話したことはありますか?」
「慧子ちゃんですね。ちょっと気難しくて、あんまり話せていないです」
 若干期待していたことではありましたが、やはり現実はなかなか難しいようです。
「これ、慧子ちゃんが書いたんですね……わあ……」
 原稿を見るなり、小池さんは一ページにして顔を赤くしてしまいました。高校の文芸部ではまず出会うことのなさそうな作品ですが、ここまでの反応は少し意外です。
「慧子ちゃんは、これを、一年誌に出すつもりなんですね?」
「はい。ただ、今のままでは技術的にも粗いですし、テーマにしても鑑賞に堪えるほど昇華されていない……そこで、経験のある小池さんに編集を務めてもらえないかというお願いです」
「それって、なんというか……エッチだからダメってことですか?」
「ええと……」
 しまったと思いました。小池さんは経験があるとは言っても、今回のような問題を考えたことはないでしょう。そこで、作品を読んだだけで問題意識を共有できるはずがなかったのです。しかし、わたしにはそれを説明する言葉の準備ができていませんでした。
 ちょうどラーメンが出てきたので、食べつつ考えます。歯ごたえのある縮れ麺に、スープがよく絡んでいました。
「ここは初めて来ましたが、美味しいですね」
「はい! チャーシューも柔らかくて好きです」
 最終的には、小池さんには高村さんの編集を務めてもらいたいと思います。そのためには、この作品と向き合うための考え方を理解する必要があるでしょう。まずは、それを丁寧に説明するところから始めようと思いました。
「この作品には、冒頭のそれもですが、不健全な描写がいくつも出てきます。本来それは、文芸的な意義……つまり、問題提起であったり、読者に新たな視点を与えるであったり、何らかの価値があれば正当化されるというわけです」
「なるほど。慧子ちゃんは、それについて何か考えがあるんですか?」
「はい。何か、強い意志をもってこのような世界を書きたいと思っているようなのですが、わたしは少し手違いがあって、教えてもらえなかったのです」
「手強いですね。でももし、慧子ちゃんがそういう考えを持っているわけではなくて、ただこういう描写を極めたくて書いたとかだったら、一年誌に載せられなくなるんですか?」
 それはとても良い質問だと思いました。小池さんもだんだんと問題の本質を捉えてきたのがわかります。その理解の早さは、高校の三年間で鍛え上げられた成果に他なりません。もう少しです。
「こういう描写を極めたいというのは、立派な考えだと思いますよ」
「それって……問題提起みたいなこととは、ちょっと違うのかなって思います」
「そう……少しわたしの言い方が悪かったですね、すみません。描写を極めるということだったら、対象をしっかり観察するということですし、そうして書かれた作品は読者の想像を掻き立てて、新たな視点を与える可能性があります。立派な価値ですよ」
「じゃあ、不健全な描写であっても、その過激さをちゃんとコントロールして、正々堂々と作品を書けば一年誌に載せていいってことですね」
「はい。そこが一番重要です。こういう描写自体がダメではありません。ちゃんとした考えを持って、最終的に賛否両論になることも覚悟して、それを含めて文章で表現した作品を書けるなら、極端に言えばどんな描写も許されます」
「覚悟と表現。わかりました」
「そして、その覚悟と表現を引き出す編集者が、高村さんには必要なのです。まあ、それでも全体のバランスというものはありますので、一年目の中で改めてこの作品を載せるときに、合意を取る必要はありますけど……その前提として、作品をしっかり完成させることが必要になるわけですよ」
「大役ですね。それをやらせてもらえるんですか?」
「はい。もちろん、他の一年目の皆さんに力を借りても大丈夫です。むしろ、そこは一年誌なので、全員で協力して進めてほしいくらいです。小池さんには、編集としてその舵取りをお願いしたいのです」
「やります! 任せてください!」
「ありがとうございます」
 もちろん、わたしもこれで終わりにするつもりはありません。これは最初の一歩に過ぎないのです。高村さんがこの作品を完成させるまでには、いくつもの障害があるでしょう。そして、その中にはわたしの立場で支援できることもあるはずです。わたしの役割は、そのときまで真摯さを持ち続けることなのです。

 翌週の月曜日に、四人でボックス席に集まることになりました。五限の時間です。わたしは四限があって、来たときにはもう、小池さんと和泉さんが何か話していました。
「お疲れ様です」
「中津先輩、お疲れ様です」
 わたしは二人の向かいの席に座りました。小池さんはカップアイスを食べています。
「それは、和泉さんのご馳走で?」
「はい。優しくしてもらってます」
「編集班の勧誘だよ! 今、確定は石垣さんしかいないんだ」
 和泉さんは力を込めて言いました。アイスで釣るような真似も厭わない、必死さが窺えます。
「小池さんはどういった考えですか?」
「編集班と企画班で迷ってます」
「迷ったら両方でもいいんだよ!」
「企画班の朝倉先輩も優しいので、両方も悪くないかなって思いました」
「そうそう、両方でもいいんだよ」
 そんなやり取りを聞いていたわたしは、企画班のことを考えていました。実はこの四月から、新井くんや武藤さんが姿を見せていないのです。今月初めのオリエンテーションでも、企画班については朝倉さんが代わりに説明していました。武藤さんについては参加できないという連絡があったものの、新井くんは完全に音沙汰なしです。
「あっ、慧子ちゃん来ましたよ」
 高村さんは四角いリュックを背負ってやってきました。
「お疲れ様です。今日はよろしくお願いします」
「まあ、荷物置いて座ってよ」
 わたしの隣に座ってもらいます。その表情は真剣そのものでした。高村さんはリュックから素早く原稿を取り出して、姿勢を整えます。
「アイスいる?」
「美味しいよ」
 そんな彼女の心を開こうとしたのか、和泉さんと小池さんは気軽な感じでアプローチをします。
「いりません」
 しかし、あっさりとあしらわれてしまいました。これには和泉さんであっても怯んでしまいます。
「慧子ちゃん、小説読んだよ。書いたことなかったのに、いきなりこれだけ書けるのはすごいよ」
 小池さんはまず、高村さんの努力を称えました。これは実際、わたしや和泉さんにはなかった視点です。そして、高村さんの目線も動きました。多少なりとも響いたようです。
「そんなことを、すごいって言われても……初めてじゃなかったらどう?」
「それはもちろん、頑張ればもっと上手く書けるようになるかもしれないって思う。でも、実際に初めてだったら、やっぱり初めてなりの頑張りは認めてもいいんじゃないかな」
「小池さん、あなたは楽観的すぎる。だって、この打ち合わせは、私の作品をそもそも部誌に載せられるかどうかの話をするのに」
 小池さんでも苦戦するという理由が見えてきました。改めて考えてみると、これまで「なるようになる」人生を送ってきた小池さんは、高村さんとは相反する存在です。相性が良くないのも無理はありません。
「大丈夫だよ。私が編集になるから、ちゃんと一年誌に載るところまで一緒に頑張ろう」
 それでも小池さんは穏やかに言い聞かせます。とにかく敵意がないことをアピールしているようです。高村さんは膝の上で手を握りしめていました。
「だったら……小池さん。あなたはこの作品を通して、私が何を書きたくて、何を伝えたかったのかわかるの?」
 本格的に小池さんを試す質問です。こうなると、さすがの小池さんであっても分が悪いのではないかと思いました。わたしは小池さんをフォローする方法を探しますが、すぐには思いつきません。
「ごめんね、わからないよ」
 それを、小池さんはあっさりと放棄してしまいました。もはや望みは絶たれたかと思いましたが……。
「それなのに、編集なんて」
「でもね、聞いて。文芸って多分そうじゃないと思ってて。私はこの作品を読んで、慧子ちゃんはこういうことを考えてるんじゃないかなって想像することはできた。だけど、それでわかったって言うのは、決めつけてるみたいじゃない? 小説に書かれているのは、あくまで数少ない視点からの見え方でさ。それを書いた人の考えの全部みたいに言われるのは、私も嫌だよ。だから、私の想像は想像として、本当のところは、慧子ちゃんに聞きたいなって思ってたんだ」
「おお……」
 和泉さんが思わず感嘆の声を漏らしました。わたしも驚くばかりでした。
 そして高村さんは、うつむいたまましばらく何か逡巡する素振りを見せていました。恐らくそれは、小池さんへの警戒が解けていくために必要な時間だったのです。
「……いざ、小説を書こうと思ったら、何も思いつかなくて」
 まだ、顔は下を向いたままです。しかしその声には、先ほどまでのとげとげしさは感じられませんでした。
「妹のために小説を書けるようになろうと思ったのに、何もできない。私はいつもそうだった。妹のこと、何一つ救えなかった。そういう無力感に襲われたとき、こんな世界に落ちかけたことを思い出して。あのまま行くところまで行ってたら、私はどうなっていたか。そういうことを、いろいろネットとかで見かけた話とかを集めて書いたの」
「じゃあ、慧子ちゃんの伝えたかったことって?」
「私には、こんなことしかできなかったんだってこと。無力さ。無能さ。醜さ。だけど、それも全部まとめて……誰かに、受け入れてほしかった」
 それを聞いて、わたしは四月に文芸部を訪れて以来の高村さんの振る舞いに筋が通ったような気がしました。弱い自分への葛藤も含めて、ありのままで受け入れられたい。それが、高村さんの根底にある切実な願いだったのです。
「慧子ちゃん、妹さんがいるの?」
「双子の妹。五年前に亡くなったの」
「あっ……じゃあ、五年間もずっと、そういう気持ちでいたの?」
 高村さんは答えを言葉にはしませんでしたが、わずかに頷くことでそれを示しました。
「でもさ、慧子ちゃんって薬学部だよね? 高校の間ずっとそんな気持ちでいながら、それでも、すごく勉強したんじゃないかなって思った。大学に入れたとき、嬉しくなかった? 自分にもできるんだって、思わなかった?」
 だんだんと、高村さんは肩を震わせるようになり。
「私はこの作品を読んでも、慧子ちゃんがそんなにダメだなんて全然思わなかった。本当だよ。でも、本当に苦しんで書いたんだなっていうのは、今わかった。だから……」
 ついには、机に伏せて、泣き出してしまいました。
「先輩方。ここは私に任せてください」
「……はい」
 わたしと和泉さんは、小池さんにその場を任せて一階に下りました。なんだか助かったような気分になった自分を憎らしく思いました。

 一階でとりあえず水を飲んで、和泉さんと向かい合って座ります。
「なんというか……あたしにはもう、付いて行けなかったわ」
「はい……」
「小池さん、すごいな。色々。高校のときからあんな感じだったの?」
「まあ、直情的なところは前からですね。でも、最初は深く考えるのも苦手で、もう一人いた同期に助けられていたのを見てきました」
「なるほど……」
「わたしたちが卒業してからの二年間で、あれだけ成長して……わたしなどはもう、追い抜かされた気分です」
 まるで、居酒屋で二人、くたびれて酒を酌み交わしているようだと思いました。
「高村さんも、何かに囚われちゃってるんだろうな。フミはその、高村さんの妹さんの話とか聞いてたの?」
「はい、入部前に。今回も、高村さんの経歴を少なからず反映した作品だとは思っていたのですが、ただやはり、とてもデリケートなことなので、わたしから話すわけにもいかず……」
「まあ、そうか。あたしは作品に自分を仮託しすぎるのもどうかと思うんだよな。そんなの、公平に作品の質を高めようとする中では邪魔でしかない。小池さんは、そこをちゃんと切り離してたな」
「そうですね」
 作品のことがどうであれ、高村さんを受け入れたい。小池さんからはそのような温かい気持ちを感じました。
「とりあえず、あとは小池さんに任せておけば大丈夫そうだな。編集班もこれで安泰だよ」
「良かったですね」
 それでもやはり、わたしには消化不良のような感じが残っていました。まだまだ、完成まで継続的に高村さんの作品を見届けようとは思いますが、それが自己満足の域を出ることはあるのでしょうか。
 翌日の部会では、高村さんに早速の変化が見られました。いつもは隅のほうの席で、部会の前後で誰とも話さずにいた高村さんですが、今回は小池さんの隣に座っていたのです。そこは教室の中央で、一年目メンバーが集まっているところです。部会の前後でも、会話の輪に入っている様子が見て取れました。
 もはや、これ以上の手出しは不要。これはもう、わたしの手を離れたことなのだと、わたしの理性が告げました。
 そして、この部ももうすぐ――。

二十四 杜若

 初春に逆戻りしたような、冷たい雨の降る夜でした。
「明日までずっと、こんな天気みたいですよ」
 入船さんがスマートフォンの画面を見ながら言います。晴れて暖かい大学祭はもう、随分遠い記憶になってしまいました。
 それでも今年の大学祭の準備はトラブルなく進み、タピオカミルクティーの競合店もないことがわかっています。明後日からは天候も回復する見込みで、それならば売り上げも昨年のようなことにはならないでしょう。
 ちょうど一年前も、わたしはこうして前夜の深夜機材番に入っていました。そのときは雨こそ降っていませんでしたが、何もかもが不安だったのを憶えています。今年は比べようもなく、楽観的な思いです。目下の心配事は天候だけなのです。
 風が強くないことは幸いでした。テントの中も寒く、地面が湿ってはいますが、雨はほとんど入ってきません。ブルーシートを敷いた上に、わたしたちはそれぞれ座布団やブランケットを持参して、防寒対策をしています。
 今日はわたしと朝倉さん、そして入船さんが当番に入っていました。
「ミルクティー、今回は冷たいんですけど、温かいほうが良かったかもしれませんね。でも、揚げアイスよりはまだいいかなって思ってます」
 タピオカミルクティーを提案したのは入船さんですが、他にも候補はあったようです。
「揚げアイス、とは?」
「シューアイス、あるじゃないですか。シュークリームの皮にアイスが詰まったやつです。あれを揚げたものが揚げアイスです。表面は温かいですけど、中は冷たくて、癖になる味わいです」
「そういうものがあるんですね」
「高校の文化祭で作ってるの、見たことあるよ」
 朝倉さんは知っていたようです。
「では、結構前からあるんですね?」
「そうだと思いますよ」
 わたしの高校では見かけませんでしたが、その頃から確かに存在していたスイーツなのでしょう。流行に疎いのは反省すべきかもしれないと思いました。
 それにしても、今回はタピオカミルクティーです。既にタピオカもミルクティーも運び込まれています。先ほどタピオカの実物を確認しましたが、ビー玉よりは小さいくらいの乾燥した黒い粒でした。当日はこれを茹でる工程が必要なようです。
「朝倉さんは、タピオカって食べたことありますか?」
「ないかな」
「実はわたしも……」
 今回は仲間がいて、少し安心しました。
「浦川さんも、食べたことはないって言ってました。でも詳しいんですよ。キャッサバっていう芋のでんぷんが原料で、要はお餅とかお団子みたいなものだって」
 先生はそういう知識だけは蓄えているのです。そもそも農学部ですから、詳しく知っていても何もおかしくはないでしょう。
「入船ちゃん、今は浦川ちゃんが編集なんだっけ?」
「はい。とってもお世話になってます。そうそう、この間、駅にある『歌うアイスクリーム屋さん』に一緒に行ったんですよ!」
「あっ、聞いたことある」
 わたしは聞いたことがありませんでしたが、口には出せませんでした。先生ならドーナツくらいだろうと高を括っていたのも、あっさりと超えられてしまいます。
「先生が、そんなトレンディなお店に?」
「あっ、私が行きたいって言ったんです。浦川先輩は、なんだかすごく不思議なものを見る目でしたね。アイスは美味しかったですよ」
 さすがに先生がそのような場面でノリノリな姿は想像できませんが、実際その通りでまだ良かったと思います。

 その後も寒い中ではありましたが、入船さんのおかげで時間の進みは早く感じました。八時頃から始まった機材番も、気付けばもう十一時です。
 メインストリートはさすがに人通りも少なく、外からは雨音しか聞こえませんでした。そんなあるとき、不意に外から声を掛けられます。
「お疲れさん。差し入れ持ってきたで」
 ビニール傘を差して白いレインコートを着た人物が、コンビニのビニール袋を差し出していました。フードで顔が隠れていて、わたしからは誰なのかわかりませんでした。
「新井くん。ありがとう」
 朝倉さんのほうは、声でもわかったのかもしれません。新井くんとなれば実に久しぶりです。持ってきてくれたのは、缶のホットココアでした。わたしはそれを朝倉さんから受け取ります。冷えていた手に熱が染みます。
「それにしても久しぶりですね。今までどうしていたんですか?」
「ああ、全然連絡もできんですまなかった。バイト探したりしててな。もうしばらく忙しいから、前期中はいないもんと思っといてや」
「そうですか……」
「じゃあ、頑張ってや」
「ありがとうございます」
 確かに差し入れはありがたいものでしたが、わたしはそれ以上に新井くんの様子が気になりました。朝倉さんとの絡みが薄いような気がしたのです。疲れているであろう中、せっかく朝倉さんのいるこの日を狙って来たのに、会話もせずに帰ってしまいました。
「朝倉さんは、最近新井くんと会ってましたか?」
「ううん……私も久しぶりだったよ」
「朝倉先輩って、新井先輩と付き合ってるんですよね?」
 入船さんは缶を両手で握って、目を輝かせています。純粋に新井くんの優しさが映ったのでしょう。
「うん……わかる?」
 朝倉さんは入船さんのほうを見ずに答えました。わたしから見えたその表情は、恥ずかしそうというよりは、寂しそうに見えました。
「見ればわかりますよ。二人とも穏やかで、和やかで、お似合いだなって思います。デートとか、どういうところに行きますか?」
「私も忙しくて、最近は行けてないけど……支笏湖とか、小樽も行ったし、新井くんにはいろんなところに連れていってもらったよ」
「旅行ですか! じゃあ、その……二人でお泊りとかは?」
「それは、まだないけど……」
「大事にされてるんですね」
 どの世代にも、恋愛話の好きな人はいるのだなと思いました。まして、新井くんの比較的良い側面しか知らない入船さんです。それはもう、素敵な恋愛に見えていることでしょう。
 しかし、朝倉さんのほうはいつもより話しにくそうにしているのが感じ取れました。最近は新井くんと会っていなかったというのも気になります。新井くんなら、どれだけ忙しくて文芸部を疎かにすることはあっても、朝倉さんと会う時間くらいはどうにか確保するだろうと思います。
 もしかすると。悪い予感もしてしまいました。しかしそれは、次に新井くんに会ったときに確かめようと思います。
 やがて日付も変わり、交代で睡眠を取ることになりました。中心メンバーとして働かなければならない入船さんには長めに寝てもらって、その時間はわたしと朝倉さんとで繋いでいきました。その時間は、どちらかと言えば学部の講座のことや、共通になった塾講師のアルバイトのことなど当たり障りのない話題が中心で、お互いに新井くんのことには触れませんでした。

 雨は時折強まったり、弱まったりもしていました。午前四時頃になって入船さんが起きたので、午前中にシフトのある朝倉さんに寝てもらいました。
「そろそろ、日の出の時間ですよ」
「早いんですね。私、深夜の二時くらいまでは結構起きてるんですけど、この時間は大抵寝てます」
 起きたばかりの入船さんは、声のトーンは少し落ちていましたが、意識ははっきりしているようです。
「中津先輩は眠たくないですか? 私、一人でも大丈夫ですよ」
 正直に言えばわたしも限界は近いところでしたが、今日のわたしのシフトは夕方からなので、家に帰って寝る時間があります。
「いえいえ。わたしは帰ってから休みます。それより……よろしければ聞かせてほしいのですが、二年目は今、誰が部長や副部長になるかの話はしていますか?」
 後期入部の入船さんにするには少し重い話かもしれませんが、実際わたしたちの代も後期入部の篠木くんが副部長になりました。これまでの二年目の中での入船さんの働きを見ても、何らかの役の候補に挙がっていてもおかしくないと思います。
「してますよ。今のところ、高崎くんが部長、凉ちゃんが副部長、辻くんが編集長、長谷くんが企画班長で、私がデザイン班長です」
「もうそこまで決まっているんですね」
 早くも大枠が決まっていることに、この上ない安心感を覚えました。構成にも大きな疑問はありませんでしたが、一つだけ驚いたことがありました。
「相羽さんが副部長になるとは、思い切りましたね」
「凉ちゃんは、文芸部のホームページとかSNSの管理体制をちゃんとしたいらしくて。やっぱり入部希望者とか、お客さんの目に触れやすいところなので、庶務の一人に任せきりじゃなくて、載せる内容とかデザインとか、アイディアを集めて手を入れたいって言ってます」
 そう言えば、相羽さんは二人いる庶務のうち、そうした広報関連を扱う役に就いていました。しかし、ホームページの更新と言えば新しい部誌や傑作選の情報を載せるくらい、SNSへの投稿は新歓や大学祭の告知くらいに限られていて、それらに果たして効果があるのかどうかについてもあまり評価はされていません。
「なるほど。確かに正直、ホームページなどのことはあまり考えていませんでした」
 実際、文芸部はまだインターネットなど外部への展開を維持できる余裕がなかったのかもしれません。作品掲載の件も凍結してしまっています。しかし、ホームページやSNSは新歓にも寄与するところです。せめてそこに力を入れたいというのは納得できます。
「では、高崎くんはどういった考えで?」
「高崎くんは、あの、部長や新井先輩が示してくれたように、もっとお互いの作品を大切に育てていけるような部にしたいって言ってます。詳しくは本人から聞いてあげてください」
「そうですか……」
 わたしは不思議な温かさを感じました。この一年間、当初掲げたことをどれだけ具体的に実現できたかを考えれば反省するべきことも多いと思います。それでも、高崎くんが多少なりともわたしの後に続いてくれようとしていることは、とてもありがたいことでした。
「橋上さんは、辻くんのサポートと言ったところですか」
「そうですね。辻くんも忙しい時期があるので。どっちが編集長になるかについては、和泉先輩とも話したって言ってました」
「それなら安心ですね」
「あとは、湊ちゃんが六月から企画班に入ってくれるみたいです」
「良いですね。敷嶋さんも、だんだんと落ち着いてきていますね」
「はい。これもやっぱり、新井先輩の企画があったおかげなのかなって思います。これからは二年目が中心になって、上年目の皆さんとも一年目のみんなとも協力して、楽しく文芸に取り組める部を作っていきたいなって話してます」
「ええ……とても嬉しいです。わたしも応援します」
 ほどほど眠いことも作用したのか、やや強く感動してしまいました。涙が出てきてしまいます。
「中津先輩……」
「すみません。わたしのしてきたことも、報われた気になってしまって……」
 でも、まだわたしの任期が終わったわけではありません。やるべきことも残っています。
「色々聞かせてもらって、本当にありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、いつも感謝してます」
 雨は降り続いていましたが、空は明るくなってきていました。雲の向こうはもっと明るく、暖かいのかもしれません。

 今年は、大学当局から大学祭の短縮が提案されたというニュースが流れていて、木曜日からの四日間開催は最後かもしれないと言われています。
 そうでなくても、来年のわたしたちにどれだけ大学祭を楽しむ余裕があるかはわかりません。
 わたしには一つ、今年どうしてもやり遂げなければならないことがありました。
「先生!」
 二日目の夕方、まだ小雨の降る中で、先生は会計役のシフトに入っていました。それが終わって足早に帰ろうとしていたところを、テントの裏で捕まえます。
「どうした?」
 わたしはシフトではありませんでしたが、このタイミングを計るために、呼び込みの支援に入っていました。
「あの……明日か明後日、先生と一緒に大学祭を見て回りたいです。付き合ってください!」
 先生の目を見つめながら、大胆に誘ってしまいます。このくらいの勢いは必須です。
「うむ……」
 去年までの先生なら、もっと嫌がることだったと思います。しかし今年は、わたしが本当に訴えたいことも、汲んでくれているはずだと信じています。
「後輩がやたらにわたしと遊ぶので、羨ましくなったか」
 ほとんど正解でした。わたしは少し安心しつつ、無言で二回頷きました。
「仕方がない。明日の十一時くらいからならどうだ、雨も乾くだろう」
「ありがとうございます!」
 こうして勝ち取った、先生と二人きりの貴重な時間です。やはりというか、最近は先生も部会でしか会う機会がなくなっていました。部会ではなかなか先生と二人きりになるわけにもいかず、この機会を待っていたのです。
 当日はメインストリートを北上するように巡ろうという話になり、農学部の前で待ち合わせをしました。行くと、先生はいつもの灰色ルックで待っています。わかりやすさだけは助かります。
「おはようございます」
「おはよう」
 わたしは少し意識して、普段穿かないロングスカートなんかを選んできました。とはいえ、そもそも先生がこのような場面で着る服を持っていないらしいことも知っていました。先に服選びの機会を設けなかったわたしの落ち度です。
「まあ、早速行きましょうか。農学部の中でも何かイベントが?」
「華道部の展示くらいだが、興味がないかと思ってな」
「なるほど。せっかくですし覗いていきます」
 わたしは農学部の中に入るのは初めてでした。正面の階段を上り、重い扉を引いて入ります。外観は戦前風のレンガなども見える重厚なものでしたが、エントランスにもその雰囲気がありました。正面には幅の広い階段が現れます。その手摺りも、石と木で造られた頑丈そうなものでした。
「講義室とかもあるんですよね?」
「ああ。例えばこの上、四階まで行けば大講堂がある。普通の講義室もいくつかあるし、実験室もある。こっちだ」
 立っていた案内板に従って、華道部の展示が行われているという講義室へ向かいます。少し廊下に入ると、もう普通の建物のように、無表情な部屋の扉が並んでいるというだけでした。
「案外、中は普通の建物ですね」
「それはそうだろう。表はあれだが、裏には増築された部分も多いし、それは他の学部の造りとそこまで変わらないはずだ」
「いえ、入口があれだけ立派だったもので……」
 講義室も、展示のために机は片付けられていましたが、奥には黒板もあって、先生の言う通り普通の講義室なのだと思います。
 そこは解説の類も案内の人もないところで、本当に一般開放しているのかと不安になるほどでした。
「静かですね」
「元より奥まった場所にある学部だ、大した宣伝もされていないし、そう人は寄り付かないだろう」
 華道については、わたしはほとんど知識はありませんが、少ない花による瀟洒なものというよりは、数種類の花を賑やかに盛り付けたものでした。
「最近はこんな華道もあるんですね」
「盛花だろう。由緒あるスタイルのはずだが」
 それぞれの花の名前はわかりませんが、どれもちゃんとした役割を持って配置されているのだろうと思います。大きく鮮やかな色の、目を引く花。細やかで淡い色の、空間を満たす花。添えられた木の枝などの小道具や、器なども含めて、それらが一つの作品として調和して見えるのはなぜなのか。本質的には、それを追い求めるのが華道の一つのあり方ではないかと思いました。
 わたしはそれらの作品が、どのような過程で完成していったのかを想像してみます。
「芸術って、制作過程を積極的に見せるものと見せないものがありますよね。華道は見せない側なのでしょうか」
「最近は見せる動きもあるらしいな。まあ、多くの分野で起こっているムーブメントだとは思うが。制作過程のダイナミズムを体験することが、新たな価値として見出されてきたのだろう。例えば書道もそうだ」
「確かに、書道パフォーマンスはよく見るようになりましたね」
「わたしは見る側のほうが、全般的に制作過程へ興味を示すようになったのだと思う。ある意味、完成した作品では飽き足らずに」
「なるほど」
「様々なメディアの普及で、今は昔と比べて圧倒的に多くの作品に触れられるようになった。ただの作品では飽和状態だから、新たな要素を取り込む必要があったのだと思う」
 飽和状態。実際、それは文芸についても言えることだと思いました。しかし、文芸については制作過程を動的に見せるのはなかなか困難です。その方向では、詩歌の類を即興するくらいが関の山だと思います。

 作品を一通り眺めて、次の場所へ移動することにしました。
「ときに、先生は最近、新井くんを見かけていますか?」
「ああ。講義や実習は同じだからな。特に変わりはないようだが?」
「いえ、初日の深夜機材番のときに差し入れを持ってきてくれたのですが、そのときの様子がどうも気になりまして」
「わたしには新井の様子の変化などわからないが……確か、朝倉もいたよな。朝倉に会いに来たのではないのか?」
「それがうまく言えないのですが、下心もほとんど見せず、朝倉さんと話すこともなく帰ってしまったのです」
「あの雨の中、わざわざ行くのは下心ではないのか」
 それにしても、先生が新井くんに興味を持っていないのは相変わらずのようです。やはり、本人に直接探りを入れてみる必要があると思いました。
「まあでも、企画班の人が少なくなってしまっていて。敷島さんや小池さん、牛島くんが入ってこれから持ち直すと思いますが、心配な状況だったのです」
「なるほどな。まあ、小池が入るならこれからは大丈夫だろう」
「確かに、心強くはありますけどね」
 一年誌の初稿締切も近づく中、小池さんは部会で一年目の全員に声を掛けるなどして、気を配っている様子が見られました。それで自分の作品も書こうとしているのですから、感服してしまうようなエネルギーです。
 話しているうちに、メインストリートに入りました。南端の農学部のエリアです。
「行者にんにく入りの餃子に、エゾシカ料理……ああいうのって、自分たちで採ったりしたものなんですかね?」
「さすがに買ったものだろう。食品や栄養の研究室はあるが、料理や食べ方の研究をしているのは聞かないし、ああいう屋台も大半は有志の知識、要は趣味で成り立っているはずだよ」
「そうなんですね」
 その場で食べるもの以外には、花やハーブの苗を売っているところもありました。それは、学生が農場での実習で植えて育てたもののようです。
 少し歩くと、国際本部のエリアに入りました。ここは留学生による屋台が集まるエリアで、様々な国旗が目に入ります。メニューも各国の料理であることが多いようです。お昼が近いこともあり、数軒隣まで行列が伸びているような屋台もちらほらと見られました。
「お腹が空いてきますね……」
 肉を焼いているところが多いのか、このあたりは特に美味しそうな匂いを感じます。
「わたしのことは気にせず、並んでもいいよ」
「そうですね、何か食べたいです。あそこのトルティーヤなどどうでしょう」
 肉や野菜を薄焼きのパンのようなもので包んだメキシコの料理です。行列はありましたが動きは遅くなく、十分も待たずに食べられると思いました。
「先生も、何か食べたいものがあれば遠慮なく」
「ああ。一応パンは持ってきているから、気が向いたらな」
 それは結局、何にも興味を持たずに終わるパターンのような気がしました。
「じゃあ、一緒にトルティーヤ食べましょう?」
「わかったよ」
 多分、わたしも先生が自分から楽しむというようなことは気にしないで、わたしのペースに持ち込んでしまうほうが良いのです。
 トルティーヤの中にはピリ辛のソースで味付けした鶏肉が入っていました。身近なハンバーガーやサンドイッチとは異なる、新鮮な味わいです。
「このパンみたいなものって、普通に小麦粉から作られるんですかね?」
「まあ、普通に小麦粉で作られることもあるだろうし、本場ではトウモロコシ粉も使われるらしいな」
「トウモロコシですか、確かに主食とする地域もあるとは聞きますが」
「稲、麦と並んで三大主食作物の一つだ。メキシコを中心とした中南米や、アフリカでも主食とする地域がある」
「ほう。さすがは農学部ですね。そういったことも授業で?」
「そうだな。食用、油糧用、繊維用、観賞用など、授業ではあらゆる用途の作物が出てくる」
「面白そうですね。そういうところから、作品のネタが生まれたりしますか?」
「そんなに単純ではないが、例えば作物は土地の特性や気候と密接に関係する。異世界の文明をリアルに描くために、そのような知識が役立つこともある」
「『肺活量スキル』とかですか」
「ああ」
 あの作品はどちらかと言えば海辺での自給自足生活を描いたものでしたが、その土地の農家と物々交換をする場面などもありました。そのあたりの描写のこだわりを見通せば、先生の作品を看破する手掛かりがあったかもしれないというわけです。

 さて、一個のトルティーヤでは少しお腹を満たすには足りません。わたしたちはまた少し北上して、中央食堂の近くにある文芸部の屋台まで来ました。なんと、二軒隣までの行列ができています。
「先生、今年は繁盛していますね」
「昨日までの分を取り返せるかな」
「昨日までも売れてはいますし、これなら心配ないですよ」
 そこで、調理に入っていた小野寺さんがこちらに気づいて手を振りました。
「先生、小野寺さんですよ」
「……ああ」
 先生と二人で手を振り返します。これは後で、「ずるい」と言われるパターンでしょうか。
 それでも今日は、わたしが先生を独り占めすると決めたのです。
 そこからは、縁日の気分でたこ焼きや焼きそばなどを食べて、気づけばメインストリートの北端、教養棟のあたりまで来ていました。食べる間も立ったままで、脚が少し疲れています。
「今日、多分北部食堂が開いているんですよね。ボックス席で少し休んでいきませんか」
「疲れたか?」
「ええ、少し……」
 外にもベンチはありますが、混んでいますし、あまり落ち着きません。ボックス席は案の定、人も少なく静かでした。
「今日は本当に、ありがとうございました」
 忘れないうちにお礼を言っておきます。
「どうした、急に改まって」
「だって……先生は誘っても、来てくれないことも結構あったじゃないですか。大学祭だって三年目にして初めてです。もう、いつでも来られるというわけではないのに」
「ああ、わかっているよ。そんなことだろうと思っていた。つまりは、わたしとの思い出が欲しかったと言うのだろう」
「……はい」
 先生にはしっかりと伝わっていました。
「まあ確かに、次はもうないかもしれないというところだった。誘われて初めて気づいたよ」
 なんだか、先生が稀に見る優しい表情をしています。わたしとの思い出が、先生にも何か特別な感情を芽生えさせたのでしょうか。そんなことに一抹の達成感を覚えつつ見ていると……。
「言わないでおくのも公平ではないな。中津に伝えておきたいことがあるのだが、大丈夫か?」
「えっ」
 急に名前を呼ばれて、心臓が飛び跳ねた勢いで体まで跳ね上がりました。
「そんなに驚くことか」
「いえ……すみません。伝えておきたいこと、とは?」
 先生がこのような切り出し方をする場面はこれまでありませんでした。重大な内容であることは間違いないとしても、それが具体的に何なのかは想像もつきません。
「留学しようと思うんだ」
「留学……というのは?」
 自分でもわけのわからない質問が出ました。もっと、いつから行くのか、どこへ行くつもりなのか、聞くべきことはたくさんあるにもかかわらず。
「なに、早くても来年からだ。教授の伝手をたどってスウェーデンへ行くつもりだ」
「スウェーデン……北欧の?」
「そうだ。それきりというわけではないが、行けば半年以上は戻らないだろう」
 信じたくはないことでしたが、嘘だとは思いませんでした。先生がそれだけ学問に興味を持って、本気で取り組もうと考えたということです。先生の熱意が学問に向いたら、留学くらいしてしまうのは何も不思議ではありません。
「つまり……それだけ、学問が楽しくなったと」
 ところが、先生は首を横に振りました。
「楽しくなったというのは、まだ違うかもしれないな。むしろ、楽しくなりそうなことを探しに行く。学部生の今が一番動きやすい時期だ。少し、大きく動いてみたくなったということだ」
「……そう、ですか」
 そんな先生の姿は、あの『ジーンとともに』の主人公の鳥の姿とも重なりました。時には危険も顧みずに未知へ自ら身を投じ、新たなことを学んでいくのです。
「それは……小野寺さんには?」
「まだ話していない。家族くらいだ。だが、これはやはり、わたしが直接話すべきことだから、今は誰にも口外しないでいてほしい」
「……わかりました」
 今はもう、先生を慕うのはわたしだけではありません。先生もようやくそのことを真に理解してくれたと思います。だから、小野寺さんや何人かの後輩たちにも、しっかりと伝えてくれるでしょう。
 でも、こんな場でさえ真っ先に他人の心配をしてしまう自分が、とてももどかしく感じられました。今日だって、せっかく自分のために先生との思い出を作ろうとしていたところです。
 それにしても、まさか「連れて行ってほしい」などとは言えるはずもなく。
 そんなとき、わたしは小池さんと鳴滝さんのことを思い出しました。わたしたちもあの二人のように、心から互いを信頼して、離れても繋がり続けていられるような関係になりたいと思いました。わたしと先生なら、そうなれないということはないはずです。
「先生。わたしの、わがままを聞いていただけませんか」
「なんだ?」
「先生とどこか、旅行に行ってみたいです。今のうちにわたしも、先生の近くでもっと、先生が見つめるものを一緒に、見てみたいです」 
「行きたい場所はあるのか?」
「まだ、具体的なことは何も決めていないですが……これから、相談させてください」
「わかったよ」
「……ちょっと、すみません」
 そのあたりで限界が来て、わたしは手洗い場に駆け込みました。それからしばらく、涙がわからなくなるように、顔を洗い続けました。
 そうして戻ったとき、心なしか先生の目も赤くなっているように見えました。
「落ち着いたか。気晴らしに、獣医学部のあたりまで歩いてみるか」
「はい……」
 すぐ出発することになったので、本当のところはわかりません。その場ではもう、わたしにはそれ以上先生の心境を推し量るだけの余裕はありませんでした。
 北の外れにある獣医学部の前では、乗馬体験や保護犬の譲渡会などが行われていました。しかしもはや、そのようなものでは心を癒しようもありません。
「小野寺は、どのような反応をするだろうか」
 先生もそのような景色を眺めながら、独り言のように言いました。
「先生にも、小野寺さんを悲しませるかもしれないという気持ちがあるんですね」
 皮肉のような言い方になってしまいましたが、実際、先生が自分からこのようなことを言い出して、わたしは少し驚いていました。先生が本当に、人間らしい感情を持つようになったのだと。
「……そのくらいは、ある」
 果たして、小野寺さんがどのような反応をするかは、わたしにもあまり想像ができませんでした。
 どんな場合も悲しすぎて、想像したくなかったというのが、より正確なのかもしれませんが……。

 週明けの部会では、大学祭で無事に目標の売上を達成できたという報告がなされました。今年から表紙のカラー化と値上げを行った傑作選も、冊数として昨年より多く売れていたようです。
 細かなトラブルはあったとのことですが、こうして無事に大学祭のプロジェクトを終えた後輩たちに、わたしはただ拍手を送るしかありませんでした。
 今日は、役員選挙の告示をする日でもあります。
「二年目、一年目の皆さんに、重要なお知らせがあります。七月の第二週の例会で、役員選挙を行います。わたしたち現役員は七月末をもって任期を終え、八月からは新たな体制となります。原則として、二年目の二年生から部長を。二年生以下の部員から副部長、会計、二人の書記と二人の庶務をそれぞれ立ててください。候補が一人の場合は信任投票を、複数人の場合は選挙を行います。立候補は、後ほどわたしから送るメールに返信してください」
 ちょうど一年前のわたしは、大学祭で失敗し、役員候補も決まらない中で、大きな重圧を感じていました。今年の二年目はどうでしょう。すべてが思い通りになるというわけではありませんが、ある程度の明るい見通しを持ってこの日を迎えているのではないかと思います。
 部会が終わった後、高崎くんが来ました。
「部長。この後、アフターに来られませんか。部長のことについて、お聞きしたいことがあります」
「わかりました。大丈夫ですよ」
 お互いに、少し改まって。事前に聞いていたことではありますが、実際にはまだ、高崎くんが何を考えているのか、あまり想像はできていませんでした。
 一方で、先生のことも気になります。今日は小野寺さんも来ていました。しかしわたしは、どちらにも声を掛けることができなかったのです。
 荷物を片付けながらそれとなく見ていると、ついに先生がバッグを持って立ち上がり、小野寺さんへ声を掛けました。
 そのまま、二人は一緒に教室を出ていきます。
 最後に見えた小野寺さんの表情は、ほんの少し気分が良さそうで……。
 わたしは、高崎くんとの話に気を逸らして、やり過ごすしかありませんでした。

 鳳華苑では、四人ずつテーブル席に案内されたので、わたしは高崎くんの向かいに座りました。わたしの隣は橋上さん、高崎くんの隣は敷島さんでした。
 それぞれ注文を終えたところで、高崎くんがわたしのほうへ向き直ります。緊張感が伝わってきて、わたしの背筋も伸びました。
「それでは、部長のことについてですが……」
「はい」
「僕が今、考えていることを話すので、変なことを言っていないか確認していただけませんか」
「なるほど」
 わたしのときは、同期の間では同じように所信表明の読み合わせなどの確認をしましたが、上年目に対しては特に何もせず本番を迎えました。
 ある意味で、役員選挙の場は二年目メンバーが体制を受け継ぐ儀式でもあると思っていました。そのために上年目を頼っていては、自立した姿を見せることができない。これは一発勝負の試験のようなものなのだと、そのような観念もあったと思います。
 今の高崎くんや他の二年目メンバーから見れば、そのような見え方ももはやしていないのでしょう。
「では、お願いします。ですが、そこまで気負わず、気軽に話しても大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
 それで、緊張感は幾分和らいだようでした。
「僕は、部長が去年の選挙のときに仰っていた、文芸部にいながら孤独な文芸をする人をなるべく減らしたいという考えに共感しています。その考えを引き継いで、部長や新井さんが目指したように、お互いの文芸を知って認め合うような風土を作っていきたいと考えています。それは、インターネット上に投稿サイトがいくらでもある中で、敢えて対面の文芸部を選ぶ理由になるからです」
「なるほど」
「マスカレードを創作まつりとして生まれ変わらせる提案をさせていただいたように、この部のルーティーンとして、よりオープンに、単に持ち寄られた作品を読み合うというよりは、部員同士が互いの持つ方向性に触れ合うことを大事にしていきたいと思っています」
 部員間の交流を大切にするというのが、一つ高崎くんの核となる考え方だと思いました。それが文芸部を選ぶ理由、価値のようなものになるということを、高崎くんは実感してきたのでしょう。
「それはつまり、部誌や合評などの作業の流れも変えるつもりがあるということですかね」
「はい」
 引き続き、話を聞いてみます。
「部誌や傑作選について、今の文芸部では編集と合評という制度によって作品の質を担保しています。その一方、部員も少なくなってきている中で、仕事が特定の人に偏るなどの問題も指摘されてきています。
 僕はそれについて、何が作品の質なのかということを、改めて考えてみるところから始めたいと思っています。今は、編集班が制度を運用することで、部として作品の質に責任を持つということになっているのだと思いますが、今はそれに囚われて、編集も合評もそれ自体が目的になりつつあるような危うさも感じます」
 現状に対しては、かなり強い言葉を選んだという印象でした。和泉さんが聞いたら間違いなく反発するところだと思います。
「それは……具体的には、どういったところから?」
「これまでの編集班は、今は和泉さんですが、編集や合評も含めた部誌のための仕事をすべて予定通りに終わらせるために全員が協力するという側面を強調していて、実際に編集や合評をどのような目的で進めるのかはあまり話されないですし、本来の目的である、作品の改善への評価もほとんどされないですよね。そこがやはり、仕事を片付けるということに傾倒していると思います」
 新しい時代の思想、という印象を持ちました。これまでの編集班の立場としては、仕事の完遂を第一に優先するのは当然で、編集や合評の質の問題はその次になることでしょう。ある意味、その仕事を保証するための編集班であって、それを「仕事に傾倒している」と言われるのは、編集班自体の否定になりかねません。
「なるほど。では、それに対して何か具体的な方策はありますか」
「はい。まず、部誌掲載では、作品に関して可能な限り明文化された最低限の基準を設けるつもりです。具体的な内容は、二年目で立てた草案をもとに検討していきたいと思いますが、部誌掲載を目指すときは、まずそれについて作者が了承するところから始まるようにします。これによって、作品を完成させ、質を担保する責任があくまで作者自身にあることを明確にします」
「その基準の内容はある程度固まっていますか?」
「はい。例えば、編集や合評を受けること、編集班からの連絡には常に応答できるようにすることなどは確実として、例えば、作品の長さに関する規定や、作品の同一性が損なわれるほどの大きな修正を制限する規定を設けることも考えています。一方で、作者が作品を取り下げることも、ある程度は認めるつもりです」
「それはむしろ、基準に適合できそうになければ作者は自分で退くべきということではありませんか?」
「はい。編集班の都合もあるので、例えば二次合評の前までなど期限は設けることになりますが、合評に出て致命的な欠陥が判明することはあると思います。そういったときに作品の質を確保するための手段として、作者には一旦出直すという権利が必要だと思います」
 作者の責任を謳うだけあり、従来よりも厳しい制約が盛り込まれることと思います。適合できなければ取り下げを余儀なくされるというのも、今の編集班の立場とは逆ですが、一定の合理性はあると思います。
「それにしても、僕らはそうなる人を出したくはないので、可能な限りのサポートを実現していきたいと考えています。例えば合評も、今のように限られた人しか作品を見ないのではなく、早い段階で多くの人の目に触れることを理想としたいと思います。例えば、部会で簡易的な合評を行うなどです。それから、今の合評はどうしても閉鎖的になりがちなので、議事録を導入して後からの検証を可能にすることも考えています」
「検証、というのは?」
「合評でどのような意見が交わされたか、その過程は健全なものだったか、といったことですね。結果として、作品の質に合評がどのように寄与したかも見ることができると思います。それ以外にも、二次合評に参加する人が一次合評の議事録を読んで経緯を知るなど、役立つ場面があります」
「なるほど。そこには言わば、合評参加者の責任という考えもありますかね?」
「そうですね。やはり、お互いに高めあうという意識の下で部誌に取り組みたいので、合評に参加するときの心構えみたいなものも、育てていきたいと思っています。そういった新しい規範は、僕らが率先して行動で示し続けることで浸透させていく必要があると思っていて、制度はあくまでそれを助けるためのものという位置づけです」
 制度よりも、行動を示す。それによって、意識や風土のレベルで理想に至ろうとする。過去のわたしたちにはあまりなかった態度です。当然、個人では実現しようもないことですし、少なからず他人への干渉を伴うという点で、とても困難なことです。しかし、高崎くんや二年目メンバーは、そこに挑戦しようとしているのでした。
「そうですか……とても難しい理想ですが、意欲的なのは素晴らしいと思います。部の仕組みについても、しっかりと分析されているのでしょうね。そこで高崎くんは、部長としてどういった役割を持つという考えですか?」
「部誌以外の企画や、相羽さんが進めようとしている広報の件も、僕らとしてはまず部長を中心に決めた方針の軸があるべきだと思っていて、僕は部長の手続き的なところにとどまらない役割は、そういった方針の取りまとめを行うところにあると考えています。視野を広く持って、物事を様々な角度から考えることでその役割を全うできるような部長を目指します」
 高崎くんの話は、所信表明としてもほとんど完成されていると思いました。それでも、実際にこの内容を実現しようとすると、相当な困難があることは想像に難くありません。例会の場でも相応に多くの質問を受けることになるでしょう。そこで折れないような覚悟は確かめておく必要があります。
「せっかくなので橋上さんや敷島さんに質問したいのですが、高崎くんの考えは、二年目の中ではどのくらい共有されていますか?」
 わたしの急な問いかけに対して、もはやデザートの杏仁豆腐を食べていた二人はあまり困惑を見せませんでした。最初に敷島さんが答えます。
「高崎くんは私にもちゃんと、こうしていきたいって説明してくれました。でもそれは高崎くんだけじゃなくて、みんなそれぞれの考えはありながらも、認め合い、助け合うような部にしていこうとしているのは、一致していると思います。私も、助けられたので……」
 橋上さんは笑顔で頷きました。
「二年目はみんな、目指すところは同じです。これからは、後輩たちや上年目のみなさんとも、そのビジョンを共有できたらと思っています」
 同期の間でも、ここまで同じビジョンを共有するのはなかなかできることではありません。それでいて、誰かのワンマンになるわけでもなく、それぞれが自発的に動こうとしているのです。そうした地盤があることは、わたしや高本さんにはなかった大きな強みだと思います。
「わかりました。本当に、これだけの結束をよく持つことができたなと思います。その意欲を持ち続けられる限り、わたしは皆さんを応援しますよ」
「ありがとうございます」
「必ずしもすんなり受け入れられる提案ばかりではありませんし、例会でも質問攻めになるだろうとは思いますが……それでも折れずに、誠意ある対応を見せてくれることを期待しています」
「はい。わかりました」

 家に帰ってから、小野寺さんからのメッセージに気付きました。一時間くらい前に届いたようです。
『浦川さんの話、聞いたの』
『留学するって』
 小野寺さんがどのような気持ちでいるのか、その文面からは何もわかりませんでした。
『はい』
 なるべく当たり障りのない返信を書こうと思いましたが、結局その一言だけになってしまいました。
 その夜はもう、それ以上の動きはなく。
『話そう』
 翌朝目覚めたときに、小野寺さんからの返信がありました。二人とも午後が空いていたので、三限から会うことにしました。
 その場所は大学の植物園です。ちょうど二年前、この時期に先生と来たことを思い出します。日差しのある日でしたが、風は涼しく、過ごしやすい昼下がりでした。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
 挨拶を交わすなり、小野寺さんは受付に学生証を見せて、迷いなく入っていきます。声の感じからしても、元気がないわけではなさそうです。
「よく来るんですか?」
「うん」
 入って、正面の方向へ。そこには綺麗な芝生の広場があります。小野寺さんはその片隅にある木陰のベンチに向かっていきました。
「いつも、人はあんまりいないから……一人になりたいときはよく来る」
「そうなんですね」
 確かに、心を落ち着けるには良い場所です。わたしたちは並んでベンチに座りました。
 そして、暫しの沈黙の後。
「……中津さんのほうが、もっと寂しがってるって思ってた」
 図星ではありませんが、それに近いことを言われたと思いました。その考え方は、わたしと全く鏡写しだったのです。
「わたしは、小野寺さんのほうがそうなのではないかと……」
「だって、浦川さんは院は内部だって言ってたし、ただ一年くらい会えないだけなら、そこまでは……」
 どうやら、わたしの見当は外れていたようです。小野寺さんはほとんど心を乱していないように見えました。
「先生は、小野寺さんにどんな話を?」
「行先とか、期間とか。それから……浦川さん、『寂しがらせてすまないな』って。なんか、浦川さんがここまで私に気を遣ってくれたことってなかったから、寂しいのは寂しいけど、嬉しかったの。そうしたら、私も素直に浦川さんの応援をしたいと思って」
 思いのほか余裕だったのです。そしてやはり、わたしのほうは自分の気持ちを小野寺さんに投影して遠ざけようとしていただけなのでした。
「……そうですか」
「中津さんは、自分がつらいのをごまかすために私の心配をしているだろうって、浦川さんも言ってた」
「ええ」
 そんなことは当然、先生にも見抜かれていて。
「本当に、私のほうが寂しがってるって思ってた?」
 にわかに、呼吸が荒くなりました。頭が締め付けられるような感覚に、わたしはその場でうずくまってしまいます。
 小野寺さんはそんなわたしの背中を撫でてくれました。
「今まで、中津さんはずっと私の気持ちに寄り添ってくれて、私の問題でも、自分のことのように考えてくれて、本当に頼もしかった。でも、今回は逆だと思う」
 小野寺さんの優しさが、その手からわたしの心へ染み渡ってくるようでした。呼吸が落ち着いてきたところで、わたしはハンカチで涙を拭います。
「中津さんの気持ち、聞かせてほしい」
「……はい」
 どうして、小野寺さんのように前向きになれなかったのか。どうしても先生と離れがたいのか。そういった先生への依存心は、どこから来ているのか。
「わたしが先生を慕うのは、編集者に漠然と憧れていた頃に、宿泊研修で先生の作品を読んで心を射抜かれたからで……」
「うん」
「そのとき、わたしが先生に、編集をやらせてほしいとお願いしたのが始まりです」
「そうなんだね」
「ですが、わたしは先生への依存心を持っていることを認めなければなりません。それは、編集が作者なしでは成立しないとか、そういう立場以上の気持ちです」
「それは、いつから?」
「思えば、最初からそうだったのかもしれないと思います」
 編集になりたいと言ったとき、先生は笑いながらも、その場で承諾してくれました。それにしても、宿泊研修の夜のことです。気分が浮かれていて、勢いでそうなったということは否定できません。
「宿泊研修から帰った後に、改めて先生と話したんです。どうして受け入れてくれたのかとか、本当はわたしは迷惑でないか、とか。先生は他人を寄せ付けない人だと思っていたので、距離感の取り方がわからなくて」
 それも厳密に言えば、わたしは全般的に他人との距離感の取り方がわからなかったのです。当時は表面的に顔が広かったので、自覚していないだけでした。
「そうしたら先生は、『変わった人間もいるものだとは思ったが、小説を書くためには、どんな人間だって理解する必要がある。読み手は欲しいと思っていたところだ。拒む理由はないよ』と。わたしが本当に先生の編集になったのって、そこからなんですよね」
「心から?」
「はい。わたしも、自分で少し変わっているという自覚はあって、無意識にずっと、誰も真の意味では受け入れず、誰にも心からは受け入れられない、そんな均衡を守っていたんですよね。でも、先生の前では、そうしなくても許される気がした」
「今もそういう人って、浦川さんだけってこと?」
「それは……」
 本当に難しい質問でした。単に小野寺さんの心情に配慮したというだけでなく、わたしが先生以外と心からの関係を築けているかについては、ほとんど自信がなかったのです。
「小野寺さんとも、そのような関係になれたかもしれないと思っています。でも、他の人とは……」
「朝倉さんや、和泉さんとは?」
「そうですね……」
 自分でも、そこまで判断ができないのは不思議でした。二人も確かに、この二年間で深く関わってきたことは間違いありません。
「でも、二人にはわたしのキャラ以外を見せられないと思います」
「キャラ?」
「そう……今は、文芸部の部長としてのわたしのキャラです。そういう、立場上の関係でしかないのを、否定できないのです」
「それはお互い、文芸部を離れたら他人同士に戻っちゃう感じ?」
「そうですね」
「ちょっと、わかるかも。そういう関係って、離れていると自然に消えちゃうんだよね。最後に交わす言葉も『またね』だったりするのが、余計に寂しい気もする」
 これまで文芸を通して出会った多くの人の顔が浮かびました。それぞれの人の人生に文芸があって、わたしは編集者としてその一部に携わることができたかもしれません。それは編集者の喜びであって、わたしはそれさえあれば良かったのです。
「わたしは先生や小野寺さんとは、そういう関係からもう少し踏み出せた気がしていて……でも、離れたときにそれが気のせいだったとわかるのが怖いです」
「気のせいじゃないよ。私も、本当にそう思ってる」
「小野寺さん……」
「だから、中津さんも一緒に、浦川さんのことを応援できたらと思う」
「……ええ」
 わたしは、少なくとも自分自身のことは大抵理解しているつもりでいました。それでも、今日ここで小野寺さんと話していて、気付いていなかった思いや感情をいくつも見つけたのです。
 また少し気分が晴れたところで、植物園を歩いてみることにしました。すると、水辺のところで青い花の群生を見つけます。
「カキツバタかな」
「ええ」
 その入り組んだ形の花は、遠目にもそうとわかる特徴的なものです。
「旅の心……」
「そうですよ。むしろ、先生のほうが一人になって寂しがるほうですから。わたしたちは大丈夫ですよね」
 元気になったことをアピールするつもりで冗談めかして言いましたが、小野寺さんは笑ってくれました。
「うん。大丈夫」

二十五 楽市

 七月の最初の日曜日は、日差しが強く非常に暑い日でした。風も弱く、日陰でも熱気から逃れることができません。
 そんな中ですが、待ちに待った「文学のアジール」の当日です。わたしは先生と小野寺さんと三人で見物することにしました。もともとは小池さんも一緒の予定でしたが、小池さんが張り切って一年目メンバーを誘った結果として人数が多くなってしまったので、別行動になったのです。
 会場であるテレビ塔の下で待ち合わせです。わたしが一番に着いて、間もなく先生が来ました。
「お疲れ様です」
「早いな」
 開場時間は過ぎていますが、待ち合わせの時間に対しては十分前です。
「先生こそ。わたしも今来たところですよ」
「そうか」
 今日の先生のファッションは、白い半袖のトップスに、明るいグリーンのロングスカートです。最近、入船さんのアドバイスで揃えたそうで、今回は部会などでもこの姿を見せています。以前と比較すると、幾分まともな女子大学生に見えます。
「その服、気に入ったんですか」
「今日も暑いだろう。入船が、明るい色のほうが涼しげに見えますよ、なんて言うものだから」
「そうですか。ちなみに学部のほうでは?」
「着ない。冷房が効いていることが多くて、冷えるからな」
 その言い分は妥当なところだと思いました。まあ、先生が急にお洒落になったとしたら「男を知った」などと噂されてしまうかもしれません。それ以前の「女を知った」とでも言うべき段階ですが。
 そんな話をしていると、屋内から小池さんが出てきました。背後には一年目メンバーが見えます。
「お疲れ様です!」
「小池さんもこの時間に待ち合わせですか」
「はい。地下で待ち合わせして、これから上がるところです」
 小池さんのほかに男女六人という大所帯です。その中には高村さんもいました。これは、終わった後も戦利品の話で盛り上がることでしょう。
「では、お先に失礼します!」
 エレベーターが来たところで、小池さんは戻っていきました。
「あんな人数、小池はよくまとめているものだ」
「そうですね」
 一年目メンバーの中で、小池さんは概ねかわいがられているようです。特に石垣さんには抱きしめられたり撫でられたりと、猫かわいがりされています。
 今年の男性陣は最初、あまり積極的に女性陣とコミュニケーションを取らない人が多めでしたが、最近は小池さんの働き掛けもあって、壁が薄くなってきているように感じます。わたしたちのときの新井くんのような意味での積極性を持つ人はいませんが、二年目のように着実に輪を築きつつあります。
「安心して代替わりできますよ」
「良かったな」

 小野寺さんは時間通りに来ました。熱気の籠るエレベーターに乗り込み、会場の二階で降りると、さらに激しい熱気を感じました。
「おお……」
 奥の大ホールがメイン会場のようですが、開いた扉の向こうに人だかりが見えます。
「盛況ですね」
「予想以上だ」
 パンフレットには百ほどの団体が出展していると書いてありました。大ホールとは別に中ホールがあり、そこでは見本の展示が行われていたり、イベントが開催されたりするようです。
「とりあえず、わたしは『エクリチュール』へ挨拶に行こうと思うのですが……」
「そうか。では、わたしは小野寺と見物している」
「うん」
「すみません、後から合流します」
 二人と離れて地図を頼りにブースへ向かうと、金森さんと橋上さんが受付に座っていました。
「お疲れ様です」
「これはこれは、中津さん。いろいろお世話になりました」
「いえいえ。わたしも『エクリチュール』がこの日を迎えられて嬉しいです」
 直前に完成した第一号の献本を受けましたが、表紙は清涼感のある海の情景がモノクロの切り絵風に描かれており、とても目を引きます。
「素敵な表紙ですが、デザインはどなたが?」
「もったいなきお言葉。実は、僕が描かせていただきました」
「金森さんが。すごいですね」
 内容も目を通してきましたが、橋上さんと野中さんが短編小説、金森さんは随筆を載せていました。そして、代表である粟嶋さんも後書きに挨拶の文章を載せていたのです。
「今回、粟嶋さんは来られますか?」
「粟嶋は来られないと言っていました。製本料やここの参加料は出してもらったのですが、売上は僕ら三人で焼肉にでも行けばいいと言われています」
「なるほど……」
 まるで富豪の道楽です。しかし、当初から粟嶋さんは出資者という話だったので、それが完遂されたのは良いことだと考えるべきでしょう。
 わたしが金森さんと話している間にも二人ほどお客さんが来て、冊子を買っていきました。単純な比較はできませんが、わたしたちが大学祭で傑作選を出しているときより、売れ行きは良いようです。
「今後の予定は考えていますか?」
「せっかくなので、粟嶋が飽きる前にやるだけのことはやっておきたいですね。第二号を作って、東京とかでもっと大きいイベントに進出するまでは考えていますよ」
「では、第二号も楽しみにしています。何かあれば遠慮なく相談してくださいね」
「ありがとうございます」
 団体として「エクリチュール」がどれだけ続くかを考えると、決して長くはないのでしょう。しかし、一瞬であっても花火のような輝きを演じられるのならば、それは貴重な体験だと思います。
 文芸部はやはり、公認団体として安定した運営を行う責任も伴います。どのようなあり方を目指しても、存続を守るのは絶対です。ある意味では公共財であり、わたしたちはそれを借りているに過ぎないのです。
 粟嶋さん自身が何を考えているかは見通せないままですが、真の意味で自分たちの団体を持って活動することを選ばなかったわたしは、純粋に彼らの行く末を見届けたいと思ったのでした。

 先生と小野寺さんを探しながら、他の団体も眺めてみます。さすがに「参加者自身が文学と信じるものであればジャンル不問」と謳われているだけあり、普通の小説や詩を持ち込んでいる団体ばかりではないようです。中には映像作品を展示しているところもありました。
 それにしても二人は見つからず、連絡を取ろうとしたところで、小池さんと再会しました。高村さんと二人で行動しているようです。
「小池さん。先生と小野寺さんを見かけませんでしたか?」
「見かけていないですね……慧子ちゃん、わかる?」
「私も、見ていないです」
 三人で辺りを見回しましたが、やはり見つかりません。
「あっ、向こうの見本を展示しているところじゃないですか?」
「確かに……」
 それは尤もなことだと思いました。
「行ってみます。ありがとうございます」
「楽しんでください!」
 中ホールに向かう間、一年目の牛島くんや石垣さんともすれ違いました。各々、参加団体の方との交流を楽しんでいた様子でした。
 そして、先生と小野寺さんは中ホールで見つかりました。長机に並べられた見本を少しずつ手に取って、中身を確かめています。
「先生! こんなところに」
「いきなり向こうに行くよりは、ここである程度気になるものを見つけてからのほうが効率的だ」
「それはそうかもしれませんが……気になるものはありましたか?」
「短歌会の会報を覗いたが、作品だけでなく、歌評や研究発表もあって面白そうだ」
「短歌会ですか」
「あとは、内容はあまり見ていないが、インターネットで公開していたものを自分で本にして出しているパターンが多いようだな」
「なるほど」
「やはり、形のある本として作品を残すことに憧れはあるものなのだろう」
 小野寺さんは、サイケデリックな光沢のある装丁の本を手に取っていました。
「その本は?」
「詩集。見た目はこれだけど、中身は割と普通」
 やはりこのようなイベントで埋もれないようにするためか、装丁にこだわった本が多くあります。
「そっちの歯車の本も詩集だけど、中身はちゃんとスチームパンクで、欲しくなった」
「そろそろ向こうへ行ってみませんか?」
「そうだね」
「先生も。待っていても空いてくるわけではないですし」
「……ああ」
 その少し渋ったような反応は、やはり人混みの中に入るのが嫌だったのでしょう。
 いよいよ三人で大ホールに入ろうというところで、今度は和泉さんと鉢合わせました。
「和泉さんも来てたんですね」
「そりゃやっぱり、来るだろ」
 和泉さんは今回のことも早くから独自に知っていました。
「札幌で続くかはわからんけど、下見だよ」
「なるほど」
「じゃあ」
 目当てがあるのか、和泉さんは迷いなくホールの奥へ入っていきました。
「下見だと言ったな」
「そうですね」
 何気なく聞き流してしまいましたが、和泉さんは個人的に参加を考えているようです。
「先生はこういうイベントに参加したいと思ったり……しないですか」
「こんなところに一日中いると思うと眩暈がする」
「まあでも、一人では大変そうですよね」
 ブースの設営や資材の搬入なども、大学祭で傑作選を売るときほどではないかもしれませんが、なかなかの重労働だと思います。
 お昼の時間が近づき、ちらほらと休憩中の看板を出したブースも見られました。それでもお客さんは減りません。
「小野寺さんは、こういったイベントは参加したいと思いますか?」
「私もあんまり……でも、ここは来る人もみんな文芸に興味があって、誰にも見向きもされないで終わるなんてことにはならなさそうだから、参加してもいいかなって思う」
「確かに、せっかく参加しても誰とも交流できずに終わるのでは、あまりに寂しいですよね」
「大学祭の受付でしばらく売れないとき、そういう気持ちになる」
「ああ……」
 少しだけ、昨年のことを思い出すなどしましたが……やめておきましょう。
「ただ、普段の文芸部だと、読んでくれる人のことも、自分の作品がどう思われたのかも全然わからないから、こういう場所で直に触れ合えるのは良いかもしれない」
「確かに文芸部だと、部員の感想は届きますが、外の人の感想は届かないですよね」
「アンケートとかってできないのかな」
「やりようはあるかもしれないですね」
 例えば今後、相羽さんを中心にSNSやホームページの運用体制が整えば、外部の読者の声を集めやすくなるかもしれません。
「さっき読んだ中で、最後のページにアンケートサイトのリンクと二次元コードを載せてるところがあった」
「なるほど」
「まあ、アンケートがあっても余程のことがないと、誰も書いてくれないのかもしれないけど……」
「そうですね……」
 それにしても、文芸部はこれまで敢えて外部からの感想を集めようとはしてこなかった感じがあります。インターネット上に作品を掲載したときも、江本さんが選んだのは感想の投稿機能を持たないサイトでした。
「小野寺さんは、匿名の感想は怖くありませんか?」
「怖いと思ったことはないかな。そういう目に遭ってないからかもしれないけど」
「恐らくそういう、外界のモラルに振り回される場面も想定されるわけで……今は、優先度が低くなっているのだと思います」
 マスカレードの件で見てきた通り、部内でも匿名になった途端、トラブルが続出するのです。
「そうなんだね。でも、自分の作品を自分でインターネットに公開するのは、別に禁止されてないんだよね?」
「はい。統一の見解は今のところないですが、文芸部所属を名乗る程度で、非公式という名目なら良いのではないかと思います」
「それでも、今のところやる人はいない?」
「わたしが知らないだけかもしれませんが、いないですね」
 その気になれば、文芸部の外で活動するのは難しくありません。様々な場所や機会があり、自由に選ぶことができます。それをわたしたちは、敢えて文芸部を選んで活動してきたのです。
「やはりというか、対面で行う活動を目的として、そこに文芸部の価値を見出している人が多いのではないでしょうか」
「そうかも」
 さて、思わず小野寺さんと二人で話し込んでしまいましたが、気が付くと先生は近くにいませんでした。
「おや、先生は……」
「浦川さん、あそこだ」
 小野寺さんが示した先には、どこかの団体のカウンターの前で、誰かと話しているらしい先生の姿がありました。
「もしや、一人で知らない人とお話を?」
 少しの驚きを持って見ると、そこは「エクリチュール」でした。話し相手は野中さんです。それでも、先生とはあまり交流がなかったはずなので、大きな一歩だと思います。
「あそこって、中津さんが言ってたところだよね」
「そうですね。『エクリチュール』なら安心です」
 先生は、しっかりと冊子を一冊買って戻ってきました。
「どうでしたか?」
「これか? 少し読んで、気になったというだけだ」
 見た目には気まぐれを装っていますが、それでも自分から買いに行くのですから、相当に気になる何かがあったのだと思います。よく見ると表情も満足げです。
「野中さんと、どんなことをお話されたんですか?」
「連絡先を交換してきた。向こうは、本当に作家を目指しているようだな」
「そうですね」
「わたしは野中氏のことはあまり気に留めていなかったが、向こうはずっとわたしのことを憶えていて、部誌なども読んでいたという」
「良かったじゃないですか」
「高校の頃の作品など、わたしはもう自分のものですらあまり憶えていないというのに。そして、これからも書き続けてほしい、と」
 それは、野中さんにとっては最大級の賛辞だと思います。
「わたしは留学も控えているし、これまでのように文芸を続けるとは限らない。それでも何か作品を書いたときには読みたいと。まるで……」
 そこで先生は語尾を濁してしまいましたが、その目線は少し恥ずかしそうに、わたしと小野寺さんの間を泳いでいました。

 週明けの文芸部は「文学のアジール」の話題で持ち切り……ではありませんでした。何人かは当日の夜の間に見学レポートを書いてメールドライブに投稿していましたが、なにぶん火曜日に役員選挙を控えていて、ボックス席に行ってもその話題ばかりが聞こえるのでした。
 そんな月曜日の夕方でしたが、わたしは急に、和泉さんから食事に誘われました。二人でちょっと真面目な話をしたいのだとか。
 五限の後に工学部の前で待ち合わせをして、和泉さんが最近見つけたというスープカレー屋に向かいます。
「真面目な話、とは?」
「まあいろいろ、今後の話とかな」
 道中では、和泉さんはそれしか明かしませんでした。
 今後の話と言えば、既に高崎くんの所信表明は公開されています。内容の根幹はわたしが聞いたときからほとんど変わりませんが、『仕事に傾倒している』などの批判的な表現を避け、真に作品の質の向上を目指すための提案という形式を取っています。
 そうは言っても、これまで和泉さんが守ってきたスタンスから外れていくことになるのは明らかです。多少なりとも心境の変化があったのかもしれません。
 店に入って注文を終えて、落ち着いたところでようやく、和泉さんは本題を切り出しました。
「さて。結論から言うと、あたしはもう退部しようと思うんだよ」
「退部……それは、後期からということですか?」
「うん」
 思い切った決断だというのが、最初の感想でした。
「高崎くんや辻くんも新しいことやろうとしてるところでさ、あたしみたいなのがいつまでも居座ってちゃ、老害になっても仕方ない。できたら明日の選挙も、フミに投票を委任したいんだけど、大丈夫?」
 代替わりを機に、きっぱりと身を引くということです。和泉さんらしい潔い判断だと思います。
「委任に関しては大丈夫ですが……それで、文芸まで辞めるというわけではないですよね?」
「それはな。大藤さん、明石さん、梅森さんとか声掛けてるんだけど、自分らで新しくサークル作って、『文学のアジール』とか、ああいうイベントに参加していきたいんだよね」
「つまりは独立ですか」
「そう。ちなみに、アキや小野寺ちゃんには声掛けてないんだけど……フミは来る気ある? もちろん、こっちと掛け持ちでもいいけど」
「そうですか……」
 もちろん誘われるだろうとは思いましたが、急に決断するのはなかなか難しいものです。しかし、少なくとも今の文芸部を辞めて移るということは考えられませんでした。
「今しばらくは、そちらのサークルに移ろうとは思いません。どちらにしても、今は企画班の武藤さんも来なくなっていますし、いざというときに過去のことを知っている人がいるべきだと思います。わたしは残らなければなりません」
「そうか。そういう意味じゃ、フミには迷惑掛けるよな。じゃあ、後のことは頼んだよ」
「はい……」
 和泉さんの話は概ね理解も納得もできましたが、やはり唐突なことで困惑が勝りました。
「退部することを考え始めたのは、いつ頃からですか?」
「四月くらいからかな。世代交代しても、本を作るうえでまだまだやりたいことはあるし、少ないメンバーで独立すれば自由にできるから。別に、この部に不満があるとか、そういうのは関係ないよ。まあ、ちゃんとやってくれそうな人だけを集めるっていうのはあるけどな」
 とりあえず一安心です。
「そうだったんですね。では、和泉さんは代表兼編集長のような立場になるわけですか」
「まあそうだな。マネジメントはいくらか、大藤さんと分担するつもりだけど」
「では、大藤さんやほかの方も退部ですか?」
「いや、大藤さんは残るって。というか、わざわざ退部するのはあたしぐらいだな。あたしが向こうに集中したいってだけだし」
「なるほど」
「あんまり引き抜きみたいになっても良くないだろ。『エクリチュール』だって、退部しないで掛け持ちしてるじゃんか」
「お気遣い、助かります」
「メンバーは別に出入りあってもいいから、フミも編集やりたくなったら声掛けてよ」
「はい」
 和泉さんの場合、「エクリチュール」のようにはあまり頻繁に関わらないかもしれないと思いました。そのことに多少の寂しさはあっても、わたしはいつかどこかで会えるだろうと、楽観的に考えてしまうのです。しかし、実際にはそれきりになってしまったりもして……。
 それはお互い、文芸部を離れたら他人同士に戻っちゃう感じ?
 あのときの小野寺さんの問いかけに対して、わたしは首を縦に振りました。今まさにこのような場面になっても、それは変わらないでしょうか。
 なんとなく、違うと感じました。私にも、このまま和泉さんと他人同士に戻ってしまうのは惜しいという思いはあるのです。
「和泉さん」
「どうした?」
 だから、少なくともこれまでの感謝はここで伝えておかなければならないと思いました。
「ずっと、編集長としての範囲を超えて、わたしたち、ひいては文芸部を支えてくれて、本当にありがとうございました」
「な、なんだよ、改まって……別に色紙とかもいらないからな」
「ええ。それでもわたしからは、どうしても伝えておきたかったので」
「まあでも、フミにはいろいろと世話になったな。ありがとう」
「イベントの参加が決まったら教えてください」
「わかった」
 せめて、お互いに文芸を続ける限りは。

 そして翌日、例会の場に和泉さんは現れましたが、冒頭で編集班からの連絡を終えると部屋を出てしまいました。これも和泉さんの判断で、わたしは事前に聞いていました。
「連絡だけ済ませて帰るよ。所信表明も読んでない。読んだら何か言いたくなるのを我慢できないだろうしな」
 しかしながら上年目の選挙への関心は高く、三年目や四年目のメンバーはほとんどが棄権も委任もせず、現地で参加しています。やはり武藤さんはわたしへの委任という形を取っていましたが、新井くんは顔を見せていました。
 今日は雨上がりの涼しい夜でしたが、集会室は人が密集して暑く、外からの風が猶のこと涼しく感じます。わたしは昼間に買ったペットボトルの麦茶の残りを飲み干してから、ホワイトボードの前に立ちました。
「それでは、役員選挙を始めます。今回は部長、副部長ともに立候補者が一人ですので、信任投票となります」
 毎年このときばかりは、冷たい緊張感が場を支配します。候補者によって役員選挙の持つ意味合いは変わりますが、やはり本質的には部の方向性、有り体に言えば様々な利害関係が動く機会です。
「まずは部長に立候補されました、高崎祐太さん。所信表明をお願いいたします」
「はい」
 力強い返事とともに立ち上がった高崎くんの表情は、不安に目線が踊ることもなく、安心感を与えるものでした。
「このたび部長に立候補しました、高崎祐太です。よろしくお願いします。
 僕はこの文芸部の価値は、自分の作品を継続的に読んでくれる仲間がいて、いつでも相談できることにあると考えています。インターネット上に投稿サイトが多くある中で、敢えてこの文芸部で活動することの意味もそこにあると思います。 
 上年目の皆さんのお陰もあり、僕ら二年目メンバーは、お互いに文芸で目指すものを知って、高めあう機会に恵まれてきました。特に昨年の新井さんの企画は、それまでバラバラだった僕らが、一つのチームとしてまとまっていくきっかけになりました。
 しかし今は、そうした機会が当たり前ではないことも認識しています。僕らは今後、現部長の『この部で孤独な文芸をする人を減らしたい』という思いを受け継ぎ、まずは単に作品を持ち寄る場としてではなく、お互いに文芸で目指すものを理解しあい、質の高い作品を実現できるような場としての風土づくりを、より具体的に進めたいと考えています。
 例えば部誌制作では、編集や合評といった制度の意味を見直し、作品に関わるそれぞれの人が、単なる仕事としてではなく、責任感と創造性を持って制作に関われるようにルールを整備していきます。
 企画や行事についても、先日、マスカレード企画の代わりに創作まつり企画を提案させていただいたように、今後の文芸部に合った形の企画を考えていきます。
 僕は部長の役割を、広報、企画、部誌制作の各方面でやるべきことを整理し、方針と照らして取りまとめと調整を行うことにあると考えています。副部長や各班長と密に連携する準備はできています。そして何より、僕らが率先して理想の実現に向けた行動を示すことで、良い雰囲気を作っていきたいと思います。
 皆様どうか、信任をお願いいたします」
 高崎くんの一礼とともに、拍手が起こります。とりあえず、あからさまに拍手をしていない人などはいないようでした。
「ありがとうございました。それでは質疑応答に移ります。発言される方は挙手してください」
 一瞬だけ間があった後、十人弱の手が上がりました。高崎くんは真剣な表情を崩しません。ここからが本番だということについても、しっかり自覚があるのだと思います。わたしは最も動きが早かった大藤さんに目線を向けました。
「大藤さん、お願いします」
「はい。あの、部誌制作の仕事についてですけど、今は編集や合評がちゃんと機能していないという問題意識があるということですよね。どういったところでそのように感じるのか、教えてほしいです」
 予想通りの内容でした。高崎くんも怯むことなく答えます。
「お答えします。まずは合評について、これは参加者によって、あまり意見が出ずに終わったり、逆に様々な方向の意見が出てまとめられずに終わるという例があります。その結果として、作者は思うように修正を進められなかったり、あるいは極端な修正に陥って、なかなか質が上がらなかったりということが起こっています。このようなときに、合評が適切に行われていたかを検証したり、教訓として次に生かしたりするような仕組みは現在ありません。これらのことから、合評制度には改善の余地があると考えています。
 また、編集も本来、合評などの場面で舵取りを期待されているのだと思いますが、実際そのようには機能していません。しかし、現在はその役割に関する周知、あるいは教育のようなこともほとんどされていないので、編集の責任を問うのは酷だと思います。
 今後はこれらの現状を踏まえて、まず合評における作者、編集、参加者の役割と責任を明確にし、合評に議事録を導入する、合評以外の場でも掲載予定作品に関する意見交換を可能にするなどの改善を考えています。
 特に今、各作品が合評参加者という少ない人の目にしか触れずに掲載されるような制度になっていることで、仕事の偏りや合評の質のばらつきが生じていると考えているので、なるべく部誌掲載までの過程が全体に対してオープンになることを意識しています」
 大藤さんは渋い顔をしました。
「恐らくそういった形にすると、かなりの負担増加になると思います。正直これまでは、合評に参加しない、できない人もいましたし、編集決めや傑作選の投票でも全員の作品を読めていない人もいたと思いますが、この部はそういうことを許容して成り立っていたんですよね。
 だから、合評や編集をちゃんとやりたいというのは結構ですが、今の状態からどのように持っていくかと、どこまで妥協できるかということを考えておかないと、結局何も動かせない、動かせても立ち行かないといったことになると思います。そのことについての考えを聞かせてもらえませんか」
 厳しいですが、現実を踏まえた鋭い指摘です。この質問への答えが選挙の流れを左右するのではないかと思いました。
 高崎くんはそれを頷きながら聞いていましたが、表情は穏やかなままでした。果たしてどのような答えの準備があるのか、聴衆の注目も高まります。
「お答えします。確かに、読む必要のある作品が多くなるにつれて当然、負担も大きくなります。特に慣れている人や能力のある人に負担が集中する、またその人の影響力が強くなりすぎるといった懸念もあります。
 そこで、質を重視する場合は作品数やページ数を制限する必要があり、作品数やページ数などの量を重視する場合は、合評の回数や参加人数、進行方法などについて軽減する必要があります。僕らはその両面から、極端に偏ることのないように考えています。
 例えば、質を重視するためには、作品の同一性を損なうような改稿や、大幅なページ増加を伴う改稿などには制限を設けるつもりです。それと同時に、作品の取り下げについても、作者の責任に対する権限として認める方向で考えています。これまでは、合評に出てから致命的な欠陥が見つかった場合に、それを短い期間で無理に修正しようとして、様々な不具合が生じることがありました。今後は作者がそのときに、一旦出直す判断をする権限を持つということです。
 また、量を重視するためには、各合評、特に二次合評でテーマを絞って、明確な目的に沿って効率的に合評を進めることを考えています。現在の合評は、作者や編集がテーマを持ち込むこともありますが、多くは毎回その場の話の流れで、全体の流れに関する話から細かな表現に関する話まで、あまり区別せずに取り留めなく意見交換されています。これに対しては、一次合評までに作品の方向性と改稿の方針を固めて、二次合評でその経過の評価と、章段単位の検討を行うというモデルを考えています。先に申し上げた合評の議事録などは、この間の連携のためにも役立ちます。
 これらのほかにも、編集決めの方法などを検討していますが、夏休み前までには全体の計画を公表して説明会を行います。そして、次の冬部誌から段階的に新たな制度を導入していく予定です。いきなりすべてがうまくいくことはないと思いますが、僕らはその様子をしっかり観察し、皆さんのご意見も聞きながら、改善を重ねていくつもりです。どこを妥協するかという観点では、それを最初から決め打ちするのではなく、様子を見ながら調整するべきという考えです」
 高崎くんは力強く回答を尽くしました。ここは以前に聞いたときから、さらに整理されたという印象です。
「……わかりました。ありがとうございます」
 大藤さんは暫し逡巡する様子を見せましたが、質問を打ち切りました。結果としては、高崎くんの主張を補強する良いやり取りになったと思います。
「ほかに質問のある方は、挙手してください」
 今度は三人の手が上がりました。早かったのは小池さんです。椅子から半分立ち上がって存在を主張しています。
「小池さん、お願いします」
「はい。質問です。合評や編集のやり方を工夫することで、効率を上げたいという考えは理解しましたが、そもそも、初めて作品を書く人とか、初めて編集をする人は、なかなか効率まで意識する余裕がなかったり、最初の段階で方向性を固めるようなことも難しかったりすると思います。そこでどのようなサポートがあるのか、それからどのようにして自分でできるようになっていくのか、考えていることがあれば教えてください」
 これは一年目を代表したような質問だと思いました。高崎くんは一度頷きます。
「お答えします。正直に申し上げて、僕らもまだ、確実に執筆や編集で必要な能力を養うような道筋は見出せていません。現状は、たまたま経験のある人や、自分で勉強している人がいて、その人に頼る形で保っているところです。実際、今回の一年誌でも小池さんが全員の進捗に気を配っているのは見ていますし、とても感謝しています。
 今後はノウハウを少しずつ言語化して引き継いでいけるように準備を進めますが、すべてについてこれを行うのは難しいですし、そうする必要もないと思います。ただ、例えば合評の議事録のまとめ方や、合評でのテーマの絞り方など、要所要所で良い方法を共有することはできます。執筆や編集についても、作品のジャンルは様々ですが、共通するプロセスはありますし、どのような観点で注意して書けばよいのかということも共有できると思います。企画として勉強会や、執筆の途中でもアドバイスをもらえる会を開くのも手段として考えています。そういった形で経験や知識を共有することを通して、皆さんが望む文芸に近づく助けになれればと思います」
「理解できました。ありがとうございます!」
 ここまで、核心に迫る質問が続きましたが、高崎くんはすべてに落ち着いて回答してきました。二年目の中で綿密に対策が検討されてきたことは疑いようもありません。大勢は決したと言っても良いでしょう。
 先ほど小池さんのほかに挙手していたのは、高村さんと新井くんです。
「ほかに質問はございますか」
 今度は、高村さんは動きませんでした。しかし、新井くんが一人で手を挙げています。
「新井さん、お願いします」
 新井くんにとって、今日は気に掛けてきた後輩の大舞台です。何か思うことはあったのでしょうか。
「はい。現時点で、今後の制度を変えていく計画に一年目のメンバーの意見はどれほど入っていますか? あるいは、その計画はどれほど開示されていますか? そうしている理由とともに教えてください」
 そこで、高崎くんは初めて目線を落とし、口ごもるような様子を見せました。確かに、わたしでもその計画の全容は明らかにされていないのです。和泉さんの話を振り返れば、編集班の中では断片的に「新しいこと」の話が出ていたようですが、やはりその大半は二年目の中で、二年目だけで行われてきたのかもしれません。
 主導権が後輩に渡っていくという意味では、上年目のわたしたちに対して案がある程度固まってから正式な説明になるのは自然なことだと思いますが、今後その計画の影響を直接的に受け、それを引きついでいく立場になる一年目としては、いきなり固まったものを提示されるのがどうかという見方もあると思います。これが盲点だったのでしょう。
「お答えします」
 恐らく二年目で打ち合わせした内容ではない、アドリブの回答です。それでも高崎くんは、焦りを見せずにゆっくりと答え始めました。
「結論から申し上げますと、まだ一年目の皆さんへの説明や根回しなどは、ほとんどできておりません。それは今後、冬部誌の活動が始まるまでの間に機会を設けるつもりでしたが、どのように一年目の皆さんと協力していくかについては考えが及んでいません。それは、一年目の皆さんにはまず一年誌の活動を通して、この部の基礎や、前提的なところを知ってほしいという考えもありますが、大きな部分では、二年目がこれからこの部を主導していくということに囚われた面もあると、ただ今気付きました。今後は、一年目の皆さんとも密にコミュニケーションを取りながら、計画を進めて参ります。また、上年目の皆さんも、この場で話しただけでは計画の全容も伝えきれませんので、今後いつでもご意見いただければ幸いです」
 回答の後、高崎くんは深く一礼しました。
「わかりました。ありがとうございます」
 高崎くんの見せた誠意には、新井くんも満足したようです。
 質疑応答はそこで終わりました。実際に計画が進められるかどうかという問題はあるものの、大筋では高崎くんに部長を任せることへの不安感は払拭できたように見えます。
 続く相羽さんの所信表明は、相羽さんらしい大胆なものでした。
「皆さんお疲れ様です! この度、文芸部の副部長、もとい、文芸部賑やかし隊長に立候補しました、相羽凉です!」
 高校では放送部に入っていたという相羽さんの、演説用に作られたよく通る声の威力は絶大でした。その第一声で、それまでの重い空気は吹き飛んでしまいます。
「私の使命は二つあります。一つは、退部者を減らすこと。もう一つは、入部者を増やすことです! ここ数年、入部者は徐々に減っていますが、退部者の割合も下がっています。私は退部者の割合を低く抑えながら、入部者を増やすことを目指します!
 まず、退部者を減らすための対策は、とにもかくにもコミュニケーション、これに尽きます。単に不満や意見を汲み上げることを目指すのではなく、普段から皆さんが、この文芸部の一員であると感じながら過ごせるような雰囲気を作っていきたいと思います! お互いに、合評の場だけでなく、何気ないことでも意見を言い合えるような、安心感のある文芸部を目指します!
 それから、入部者を増やすための対策は、SNSやホームページを充実させることです。現状、これらはあまり活用されていません。作品を公開する動きもありましたが、私はこれがまだ、段階として早すぎたと思っています。まずは、SNSならフォロワーを増やして注目を集めること。ホームページでは、もう少し親しみのあるデザインを取り入れて、古くなっている部分を更新することに、優先して取り組みます。そして、新歓にもそれらを活用することで、まずは説明会の参加者を増やし、そこから入部者の増加につなげていきたいと思います!
 改めて、文芸部賑やかし隊長の相羽凉を、どうぞよろしくお願いします!」
 これまでに副部長の役割を「賑やかし」と定義した例はなく、かなり新鮮な印象を与えていたと思います。あまり明確な役割のない副部長の立場を有効に活用するつもりなのでしょう。
 質疑応答では、インターネットでの作品公開が当面凍結されることが明確にされましたが、それ以上の質問は出ませんでした。
 そうしてついに、投開票の時間です。高崎くんと相羽さんには廊下に出てもらい、残った全員に投票用紙を配ります。わたし自身は、和泉さんや武藤さんに委任された分も含めて、二人の信任欄に丸を書き入れました。
 結果はどうだったのか。もはや言うまでもないでしょう。
 わたしは二人を呼び戻してから、新しい時代の始まりの意味も込めて、強く宣言しました。
「部長候補、高崎祐太さん。副部長候補、相羽凉さん。ともに信任されました」
 
 例会が終わった後、わたしは先生や小池さんと食事に行く予定でしたが、その前にまず新井くんに声を掛けました。
「新井くん。いろいろ聞きたいことがあるのですが」
「また久しぶりになったな。まあ、来週からは出られるから、積もる話はそのときにしようや」
「はい……」
 やはり朝倉さんとも話さず、一人で立ち去ってしまいます。さっぱりしすぎています。
 とはいえ、新井くんは(あまり良くない意味で)わたしの想像の枠に収まってくれないので、おとなしく会話の機会を待つしかないのでした。
 それでもなお、このまま何らかの理由で新井くんが文芸部を去る可能性も考えずにはいられないのです。
 一人、また一人と。花弁が散るように。
 近くの定食屋へ向かう途中、先生はそんなわたしの悩みを察してくれたようでした。
「新井と何かあったのか?」
「いえ、わたしが個人的に気にしているだけなのですが……やはり新井くんの様子はおかしいと思いまして。なんというか、全然、粘着質な感じがないので」
 あまり上手く言語化できませんでしたが、最近の新井くんからは、執着とか執念といったものを感じないのです。
「まあ、良いのではないか? どうして姿を見せなかったのかは知らないが、何か心を入れ替えるきっかけでもあったのだろう」
「そうですかね……」
「新井先輩って、どんな人なんですか? 今日、高崎先輩に最後に質問してた人ですよね」
 小池さんの疑問も当然でした。
「新井くんは……どう説明すればよいのでしょうね?」
「わたしに聞かれても困る」
 結局何がしたかったのか、最後までわからなかった人。傍から見ればそのように評価されても仕方がないでしょうか。しかし、彼はわたしにも二年目メンバーにも、確かな影響を与えてきました。
「ただ一つ言えるのは……模索する人、です」
「模索する人……」
「常に理想を求めて考え、行動する人です。不器用で、独り善がりになることもありますが、大きなことを成そうとするエネルギーを持った人です」
「随分と贔屓しているのだな」
「実際、部への貢献ではわたしよりもあったと思います」
「そうか」
 むしろこの一年間、わたしこそ何も成せなかった人間なのではないかと思われてならないのです。どこを目指すでもなく、ただ立ち尽くしていたのではないかと。
「でも、中津先輩だって慧子ちゃんを助けるために、私にいろいろ教えてくれました。中津先輩が何もしていないなんて、誰も思ってないですよ」
「小池さん……」
 定食屋に着いて、料理が来るまでの間も、わたしは改めて自分の一年間の働きを振り返っていました。
「部長になっても、編集専門のあり方を貫きたいと言ったのは、誰だったかな?」
 そんなとき、先生がとぼけたように言います。
「……わたしです」
「だから、部長の働きで部員が良い仕事をできるなら、それが本望なのだろう?」
「はい」
「謙虚になったものだ。わたしの編集だったときは、図々しいくらいに自分の貢献を主張していたというのに」
 小池さんが懐かしそうに笑いました。
「高校のときから、そうでしたよね」
「もう一度、わたしに編集の姿を見せてくれないか。冬部誌で組もう。それが恐らく、最後の機会になるだろうからな」
「先生……」
 それは唐突ながら、予測もできた宣告でした。ただ一度きりの、約束を果たす機会です。
「最高の作品を書く準備ができたということですか」
「そのつもりだ」
 先生は最高の作品で。わたしは最高の編集で。それを果たせるかどうか、今のわたしには自信がありません。
「すぐに返事ができなくても、わたしは待つよ」
 それでも。
「いいえ」
 ここで逃げてしまえば編集の名折れです。編集の道そのものを放棄するに等しい所業です。
「わかりました。力を尽くします。よろしくお願いします」
 先生と、テーブル越しに握手を交わします。
「ありがとう。頼むぞ」
 熱を持ってしっかり握られた手から、先生の覚悟が伝わってきます。わたしはそれを全身で受け止めなければなりません。
「先輩方が組んだら、今度はどんなすごい作品ができるのか楽しみです!」
「ああ。わたしの集大成だ。楽しみにしているといい」 
 小池さんは目を輝かせて、前のめりになって期待を表現しています。とても懐かしい感覚だと思うと同時に、胸の奥底からやる気が沸き上がってきました。
 もう、恐れてなどいられません。

 やがて八月になり、わたしの部長の任期は満了しました。高崎くんを伴って、去年と同じように顧問の嘉山教授へご挨拶に行き、その後引継ぎをすることになりました。
 わたしはその引継ぎのときまで、高崎くんにどのような言葉を掛けるべきか考えていましたが、ついぞ決めることはできませんでした。
「まずは、部長の仕事に必要なデータをお渡しします。過去の名簿などの個人情報も含まれるので、扱いには注意してください」
「はい」
 粛々と、最低限の説明を行います。もうすぐ役目を終える者の心境は静かで、諦めにも似た甘さでした。
「こちらは、歴代の部長が残したノートです。一年間の部会や例会、多くの会議の内容などが記録されています。わたしの分もありますので、参考にしてください」
「ありがとうございます」
 それでも昨年、わたしが高本さんに心残りを聞いたのは、やはり多少なりとも、精神的な引継ぎが必要だと考えたからです。それに従うならば、わたしは自ら、一言でも高崎くんに伝えなければなりません。
「部長として引き継ぐべきものは、これですべてですが……最後に、一つだけ」
「はい」
「これは、わたしの言い訳に聞こえるかもしれませんが、部長は掲げたことを、必ずすべて実現しなければならないというものではありません。状況に合わせて適切な舵取りをすることだけを考えれば、自然にうまくいくこともあると思います」
「はい」
「二年目の皆さんは、これから様々な改革に取り組んでいくのだと思いますが、それは常に、文芸部を良い方向へ向けるためのことであるのを、忘れないでいてください」
「わかりました。ありがとうございます」
 それが、わたしに伝えられる精一杯だと思いました。

二十六 斜陽

 夏合宿の当日、新井くんはわたしよりも早くに来ていましたが、少し離れた壁際で一人、何をするでもなく佇んでいました。結局、例会のときに話してから今日まで、話す機会を逃していたのです。わたしは真っ先に声を掛けました。
「新井くん。お疲れ様です」
「ああ」
「朝倉さん、来られなくて残念でしたね」
 今日、残念ながら朝倉さんは文学部のゼミの予定によって調整が付かなかったようです。
「当てつけか。俺もまあ、最後に合宿くらいは、と思ってな」
「えっ?」
 思わず声が出ました。新井くんの口からこうも簡単に「最後」という言葉が出るとは、想像もしていませんでした。
「最後って……」
「俺の文芸はもう終わりや。後輩たちの活躍を見られないのは残念やけども……これ以上、妄執のために文芸を続けててもええことないしな」
「そんな。後で詳しい話、聞かせてください」
 兆しがなかったわけではありませんが、新井くんが朝倉さんも含めたすべてのことを擲つだけの決断をできるはずもないと思っていたのです。今回もいつかのように、わたしたちの気を引くための大袈裟な振る舞いだったら、そちらのほうがまだ良かったと思いました。
 一旦、本来の集合場所に戻ります。見慣れた後輩二人組がお揃いのスーツケースを引いて来たのが見えたからです。
「鳴滝さん、お久しぶりですね」
「お久しぶりです。今日はよろしくお願いします」
 今年は二年前と同じく美瑛の研修施設に行くことになりましたが、なんと鳴滝さんの大学の文芸部と、交換留学合宿企画が実現したのです。少し前に、わたしたちの文芸部からは高崎くんと相羽さんと小池さんが先方の伊香保での合宿に参加し、今日は先方の文芸部から、鳴滝さんと二年生の方が二名来ることになっています。要は、小池さんと鳴滝さんのコネクションによって実現した企画ということです。相変わらずその物事を動かす力には感心します。
「小池さん、向こうでの合宿は楽しかったですか?」
「はい! 石段上って温泉巡りして、夜は怪談です! 直ちゃんは洋風のホラーになると怖がって……」
「その話はいいでしょ。うちはみんな、交換留学合宿ができて良かったと言っています」
「それは何よりです」
 二人は早速、既に来ていた一年目メンバーの輪の中に入っていきました。鳴滝さんも以前は人見知りという印象がありましたが、今ではすんなりと打ち解けられているようでした。

 旭川へ向かうバスで、わたしは新井くんの隣に座って話を聞くことにしました。
「まずそもそも……今年の四月から来なくなっていたのは、本当にアルバイトだったのですか?」
「それは本当やで。詳しくは話されないけども、厄介なところを掴んでしもうてな。労基に行って、辞める手続きとか、働いた分の給与とかの話してたんやけどな。まあそれは一つでしかない」
「なるほど」
 話しぶりからしても、アルバイトの件がそこまでの負担になっていた感じではありませんでした。
「では、真の理由があるということですね」
「ちょっと、この機会に気合入れて、本当の本気で作品書いて、夏の創作まつりにでも出そうと思うてて」
「ほう……」
 それはまだ疑わしい話のように聞こえました。というのも、創作まつりの締め切りは過ぎていますが、新井くんは作品を出していないのです。
「その作品は?」
「書き上げはしたが、没になった。というのも……この本や」
 新井くんがリュックを探って取り出したのは、真新しい文庫本でした。
「俺は、どうしても小説が上手く書けない主人公が、自分の内面や他人とのつきあい方、それから世界で起きている本当のことなんかと向き合って、何を表現したいか、そのために何をどのように書けばよいかという問題について考えていく小説を書いた。だが……この本を見つけてしまった。俺のやりたかったことのそのものを、明らかに俺より高いレベルでやっている。逃れようのない、完全な上位互換やで」
「なんと……」
 その本は文庫のために書き下ろされた新刊で、まさに新井くんがその作品を書き終える頃に出てきたのです。創作の悩みをテーマとした作品は定期的に出てきますが、出会い頭に真正面から衝突してしまうのは、かなり不幸なことだと思いました。
「これがもう少し後に出てくるんやったら、俺も少しは夢を見れたかもしれんが……いずれにせよ、俺の作品は打ち砕かれる。そうしたらもう、虚しくなってしまってな」
「なるほど……ちなみに今日、その作品は?」
「パソコンには入ってる」
「では、後で読ませてください。新井くんが、その本を自分の作品の上位互換だと思うことを否定するつもりではありません。それでも、せっかく本気で書いた作品が、誰の目にも触れずに没になるなんて、悲しいではないですか」
「……でも、本当に全然、格好つかない話やで? この本読んだほうがええよ」
 いつもならもっと貪欲に作品を読ませようとする新井くんですが、今回ばかりは本当に自信を失っているようです。
「では、わたしはその本を読みません。そうすれば、新井くんの作品だけが真実です。これでいかがですか?」
 新井くんはしばらく悩んだ末に頷きました。
「わかった。後でな」
「ありがとうございます」
 それにしても、まだもう一つ大きな謎が残っています。ここまでの話では説明のつかないことがあります。
「では、その作品のことで、文芸に対するモチベーションを失ってしまったというのはわかりました。それでも、新井くんは朝倉さんにさえ姿を見せていなかったと聞いています。わたしが聞くべき話ではないかもしれませんが、心配していたんですよ。朝倉さんと、何かあったのですか」
「……まだ、聞いてなかったんか」
 新井くんは俯いて呟きましたが、次の瞬間向き直り、はっきりと言いました。
「別れたで。もうずっと前。三月の話や」
「それは、どちらから?」
「そこまで言わすか。向こうからや」
 薄々そのような気はしていましたが、それにしても朝倉さんに別れを切り出させてしまうとは、相当なことがあったのでしょう。
「まあその……そんな気はしていたのですが、朝倉さんから聞くのはかわいそうだと思いまして」
「俺はええのか」
「わたしは朝倉さんの味方なので」
「立場がコロコロ変わるもんやで」
 仮説を立てるとすれば一つです。新井くんの束縛が度を越したのです。新井くんは朝倉さんの意向を尊重しているように見えて、裏で葛藤していたのは見てきた通りです。それが抑えられなくなれば、関係の崩壊につながってもおかしくはありません。
 結果としては、別れたほうが良かったと言えるかもしれません。しかしこれは、朝倉さんの傍から見ても赤面してしまうような甘酸っぱい初恋の終わりでもあるのです。わたしはそれが絶望的なものでなかったことを、確かめなければ気が済みませんでした。
「単刀直入に聞きますが、どうしてそのようなことに?」
「将来の望む生活の形っていうのが、どうしても合わなくてな」
「というのは?」
「教師、特に公立ともなれば、転勤は当たり前にあるし、いつどこにどう飛ばされるかわからん。そのたびに引っ越したり、単身赴任になったりするっていうことについて、どうするかって話をしたのよ」
「なるほど……しかし、それは今話しても仕方のないことなのでは?」
「そこやで。俺は農家になりたいと思った。せやけど、土地は動かされへんし、場合によってはもっと転職しやすい仕事か、勤務地の融通が利く仕事か、自営業を考える必要がある。だから話しておかなきゃならんかったのよ」
「つまり、新井くんにもやりたいことができて……朝倉さんとの擦り合わせをする必要があったと」
「ああ」
 一年生の頃、新井くんは工学部志望でした。それを農学部に変えたのは気まぐれのようなものだったと見ていますが、今では本当に農業を将来の選択肢の一つに入れているのでしょう。
「しかし、そこで溝が埋まらなかった……」
「俺はやっぱり、家族の時間も大事にしたい。子供ができれば猶更や。俺も中学のときに転勤で札幌から神戸に移ったけど、もっと早かったり、回数が多かったら子供にしても大変な負担になるだろうと想像がつく。単身赴任よりはまだ良いとしてもな。そういうところの考え方が合わなかった」
「なるほど……そうは言っても、朝倉さんがそれだけで別れるまでになるとは思いません。新井くん、何か朝倉さんを否定するようなことを言ったりしたのではありませんか?」
「……そう思うならそう思えばええ。それも含めた考えの相違やで」
 春合宿のときだったか、朝倉さんが教師になることについて話していたことを思い出します。朝倉さんが持っていた不安には、教師になれるだけの能力があるかどうかもありますが、新井くんとの関係のことも、無視できないほどの悩みの種だったのでしょう。
「まあ、言うなら……顔を合わせにくかったというのもあってな。企画班にも行けなかった。中津さんには言うが、大学祭の深夜機材番のときのあれは、企画班を任せきりにしてしまったことの、ささやかながらの罪滅ぼしでもあってな。武藤も来てなかったんやろ?」
「はい。武藤さんももう、この前期いっぱいで退部の申し出が来ています」
「それでも、文芸部を続ける気はあったが……そこで、これに当たってしもうてな」
「なるほど」
 最後まで聞いてみると、むしろアルバイトの問題の比重はかなり軽いように思われました。一番はおそらく朝倉さんのことで、そこに作品のことが追い打ちをかけたというのが本当のところだと思います。
「文芸部を辞めることは、朝倉さんには話したんですか」
「話すつもりもない。俺がいなくなったらそれっきりやで。友達ではいたいとかなんとかって言うけど、そんなもん引っ張って良かったためしなんてないしな」
 それはおそらく、心の優しい朝倉さんのことです。どれだけ傷ついても、なるべく新井くんの気持ちを尊重して、まだお互い卒業までは楽しい関係でいたいという意思があったのでしょう。しかしそれは、別れ方としては半端なかたちであり、この部を離れようとする新井くんにとっては邪魔であることも理解できます。
「お別れくらい、言っても良いのでは」
「俺はもう、次のことしか考えない。恋愛に関する妄執。文芸に対する妄執。全部捨て去って、前だけを見る。それだけやで」
「そうですか」
 新井くんはそれを「妄執」だと言っていますが、わたしはそのような見方自体が、新井くんの持つ偏りに起因することだと思いました。どちらにしても、正々堂々と向上心を持って努力するなら、決してそのように呼んで卑下するものではないのです。「妄執」という言い方にはもっと、何か無理なことに固執するというニュアンスを感じます。その無理なことがあるのだとすれば、それは新井くんの手段の選び方なのです。
「その行く先でも、妄執を持たずにいられるという確証はあるのですか」
 そう問いかけると、新井くんは諦めたように笑いました。
「いつかしたようなやり取りやな。中津さんの言う通り、多分無理やで。恋愛をしなくても、文芸を離れても、また思い通りにならない何かを捻じ曲げようとして妄執を持つ。俺はそういう性質なんやな。心根は怠け者やし、他人の心の機微もわからん。ただちょっと勉強ができたってだけで、なんにも深く究めてるものなんてないし、何かやってもすぐに心移りしてしまう。せやから、行く先なんてないんやで。後はもう、研究室に籠って俺の大学生活は終わりや。それで何か、一山当てられたらええなあくらいの気持ちしかない」
「そうですか……」
 幾分、自業自得であるとは言っても、わたしには新井くんに同情する気持ちがありました。それどころか、新井くんを羨ましくすら思いました。このように人生に迷ったとき、わたしなら立ち尽くしてしまうところですが、新井くんはそれでも何らかの道を見つけて、とりあえず歩き出すことができるのです。
「俺がいなくなったら、中津さんは寂しいとでも言うんか」
「それはそうですよ。後期からは和泉さんもいませんし……書き手がどんどんいなくなってしまいます」
「ほう、和泉もか。またどうして」
「和泉さんは、独立して有志で新たなサークルを立ち上げるそうです」
「『エクリチュール』みたいなもんか。まあ、和泉のやりそうなことやな」
 結局のところ、三年目メンバーで作品数が一番多かったのは新井くんです。わたしはそのすべてを読んできました。文芸に関しては、わたしが最も新井くんのことを知っていると言っても良いと思います。それは編集者としての誇りです。
「新井くんが文芸を辞めるというのであれば、それは止めませんが……最後の作品は、楽しみにしていますよ」
「……ありがとうな」
 そのくすぐったそうな反応を見て、わたしは思いました。
 果たして新井くんは、その人一倍に強い自己顕示欲や承認欲求などの捌け口を捨てて、どうするつもりなのでしょうか。自分の作品をよく知ってくれる人がいること、作品を楽しみだと言われることを何より求めていた人が、それを断って求めずにいられるでしょうか。
 退部するという覚悟がどれほどのものなのか、最後にそれも確かめたいと思いました。

 旭川駅からは施設の送迎バスに乗り換えます。今度は先生の隣になりました。三年目メンバーでは、あとは小野寺さんも来ています。
「新井と話せたのか?」
「はい……それなりの事情があって、退部すると言っています」
「そうか」
 先生は新井くんの事情について聞こうとしませんでした。先生の興味のないことであれば、わたしも話さないでおきます。
「塾講師をやっていると言っていたよな。今は夏期講習などで忙しいのではないか?」
「そうですね。昨日も三人見ましたし、帰った翌日からもまた仕事です」
「そうか」
 わたしが働いているのは個別指導の塾ですが、シフトは事前に出した希望をもとにして、「この時間にこの生徒のこの科目を担当してください」という指示が出されます。生徒は小中学生なので、文系理系に関係なく、すべての教科が割り当てられます。若干、国語や社会が多めに割り当てられている気がするくらいです。
「中三の受験生もいるだろう。やはり、数学なども教えるのか?」
「はい。まあ、中学の定期テストレベルなら大丈夫ですよ。高校受験の難しい問題になると、解説を見たりはしますけどね」
 実際、わたしもそれなりの受験勉強をして、地元では最高峰の高校に合格したのです。あれから六年になりますが、体で覚えたものは今でも再現できるものです。
「上手くやっているようだな。良かったよ」
「ありがとうございます」
 今でこそ安定してきていますが、最初は少し苦戦することもありました。というのもやはり、生徒には元気よく、楽しそうに教えるのが教室の掟だったのです。感情を出すのが苦手なわたしは、室長のもとで少し時間を掛けて訓練をしたのでした。
「して……その経験を通して自己分析に役立てたいと言っていたよな。それはどうだ?」
「はい。『中津先生はすべてを受け入れすぎる』と言われました」
 塾では当然、生徒に宿題を出すこともありますし、学校でテスト範囲が発表されたら連絡するなどのやり取りを求めることもあります。しかしそれらを忘れてくる生徒もいるわけで、指導しなければならないのですが、わたしは生徒の事情を考慮するあまり、きっぱりと指導することがなかなかできなかったのです。
 単に遊んでいたりして忘れたなら普通に注意もできますが、生徒の中には複数の塾を掛け持ちさせられていたり、家で兄弟や親族の世話によって勉強時間が取りにくくなっていたりといった事情を抱えている人もいます。
 ある意味、小中学生を取り巻く環境は自身の努力でどうにもならない部分もあるわけで、叱責するだけでは改善も見込まれないのではないかという葛藤があります。社会に出れば有無を言わさず責められるというのも尤もですが、それで生徒との信頼関係を損なえば、教えるどころではありません。
「生徒に対して甘くしすぎるのだと。塾としてはやはり統一的なルールがあって、いかなる理由でもそれは守るように努めさせなければならず、破れば厳格に指導するのが組織としての立場だと」
「それが組織としての立場なら、従うしかないだろうな。アルバイトの立場からでは見えにくいマクロな事情が関係することもあるだろう。しかし一方で、特例という形ではなく、立場の解釈によってできることを探るというのもまた、社会の渡り方ではないか?」
「確かに……」
 真剣に考えこんでいるわたしを見て、先生はくすりと笑いました。
「それにしても、子供を叱るくらいどうということもないだろうに。小野寺のことでわたしを怒鳴りつけたときのような顔を見せてやれば良いではないか」
「そういうことではありません!」
 やはりそれは、先生だからこそ特別に感情的になれるのです。塾ではそもそも感情的に叱るというのはご法度です。
 先生はまた笑いました。
「まあ、なんだ。真面目に言うなら、匙加減というものもあるだろう。同じ叱るのでも、軽く注意するレベルから、真剣に諭すレベルまで様々だ。その使い分けを考慮しなければ、ゼロかイチになるしかないのではないか?」
「そうですね……」
 恐らくわたしは、そのあたりのニュアンスを体で表現するのも苦手です。「冗談が下手」と思われるのもそういうところだと思います。
「そうは言っても、教えること自体に困っているわけではなさそうだな」
「はい。そこはわたしも編集などを通して慣れていることですし……」
「できることに数えられることが増えたのだろう?」
「ああ……」
 言われて初めて気づいたことでした。
「実績を今まさに積んでいるところなのだから、そろそろ自信も出てくるだろうと思っていたが」
「……そうですね」
 こうなると、自信がないというのはわたしがそう思い込んでいるだけで、客観的には気にするほどでもないという状況に思い当たります。
「まあ、先は長いだろう。焦る必要はない」
「ありがとうございます」
「ところで、旅行の計画を見たよ。なかなか詰め込んだな」
「あっ、そうですか?」
 大学祭のときに先生と約束した旅行は、夏休み中に広島へ行くことにしました。もちろん、先生のペンネームにちなんでです。三泊四日で、広島県を東から西へ横断するようなルートになりました。
「広島市内や宮島も良いですが、文芸部員としては尾道も捨てがたくて。せっかくなので両方です」
「まあ、どこまででも行くよ」
「ありがとうございます」
 そして、結局のところ小野寺さんも一緒に行くことになりました。このルートも小野寺さんと一緒に考えたのです。お互いの希望を可能な限り盛り込んだ、豪華な旅行になっています。
「当日は夕方に札幌駅集合です。ホテルはすべて取れたので安心してくださいね」
「そうか」
「山坂を結構歩くことになると思うので、動きやすい靴と服装でお願いします」
「わかった」
 想定するのは、ちょうどこの合宿の二日目のような服装です。今回もハイキングが予定されています。
「それにしても、今日は晴れて良かったですね」
 実は、一昨日くらいまで大型の台風が合宿所の辺りに直撃していたのです。
「まだ安心はできない。この台風で山もどれだけ荒れたかわからない」
「確かに……」
 木が倒れたり、沢が増水したり。詳しいルートは聞いていませんが、もし山の中を歩くことになれば大変です。
「まあ、そういう体験も貴重かもしれないがな」
「いや、普通に危険だと思いますが……」
「装備があればな。わたしの研究室では、沢の水を採取するために山を歩く」
「そうなんですか」
「沢の水に含まれる動物の遺伝情報を分析することで、動物の分布を知ることができる。先月、その現場に行ってきたよ」
「フィールドワークですか」
「ああ。なかなか楽しかった」
「良かったです」
 先生は今回の合宿で山の中を歩くことになっても、それはそれで良いと考えているようでした。
 バスは美瑛町に入り、起伏のあるまっすぐな道路を進んでいきます。先生は何やら原稿を読み始めました。
「創作まつりですか」
「ああ」
 今回も先生は個人賞を設けています。前回は対象を「挑戦的な作品」に絞っていましたが、今回は一年目メンバーが参加することも意識してか、「一、二年目メンバーによる作品で、最も作者の今後の発展を期待させるような作品」を表彰すると言っています。
「先生も最近は、読む側の働きが増えてきましたね」
「後輩の育成も何も、読まなければ始まらない。当然のことだ」
「入船さんの編集はいかがでしたか?」
「あれで意外と戯曲が好きなのだそうだ。確かに今回の作品も、場面の切り取り方は一幕物に近い」
「戯曲の影響があるんですね」
 入船さんは最初の作品から、独特な視点の取り方で目を引いていました。その発想の源流がどこにあるのかは謎でしたが、戯曲が好きだと聞いて納得しました。
「だが、入船は少し描写を尽くしすぎる傾向がある。編集ではそのバランスを調整する作業が主だったな」
「なるほど」
 完成したものは、初稿と比較して読者の想像を喚起するような描写が多く盛り込まれ、それでいて語りすぎるところもなく、なかなか芸術点の高い作品に仕上がっています。
「増えた描写、先生のような癖を感じたのですが、どのように教えたのですか?」
「いや、そこはわたしはあまり何も言っていない。ただ、入船がわたしの言ったことを体現するに当たって、わたしの作品の描写を分析したらしい」
「ほう……それであの再現度とは、やりますね」
「わたしも、入船の貪欲さには驚いたよ」 
 これでもしマスカレードがあって、先生と入船さんの作品があったら、わたしは描写だけではそれを見分けられないかもしれません。まあそもそも、入船さんの作品がなくても外してしまっているのですが。
「ちなみに、先生の考えでは戯曲は文芸に入りますか?」
「それはそうだろう」
 これは当然の答えです。先生の文芸の始まりも、演劇の脚本を書いたことなのですから。
「では、オペラやミュージカルは?」
「あれは音楽のほうに重心があるだろう。ミュージカルの脚本部分は文芸になるかもしれないが、オペラは完全に音楽だ」
「そうなんですね」
「知らなかったわけでもあるまい」
「まあ、予想通りの答えでした」
 文学部へ行くと、すべてひっくるめて研究対象になります。単なる文学ではなく「表現」という強力な上位概念で括られるので、大抵のものは逃れられません。
 先生が読んでいた原稿は、今日も来ている一年目の肥後さんの小説でした。わたしはまだ読んでいませんが、『犬になった君と、猿になった僕』というユーモラスなタイトルが印象的です。一年誌ではドッグランでの出会いから始まる恋愛小説を書いていた肥後さんなので、今回もその流れかと思いましたが……。
「恋愛小説なんですかね?」
「いや、少年の世界だぞ」
「なんと」
 気になったので、一緒に読ませてもらうことにしました。一年誌の作品は優しく甘い雰囲気でしたが、今回は冒頭が不良少年の喧嘩の場面から始まり、やや不穏です。
 主人公は中学生で、ある田舎の不良少年の集まりに属していますが、優等生で高校受験を控えて将来を期待される兄がいます。兄弟の仲は主人公が落ちこぼれるにつれて悪くなり、親からも比較されるようになり、主人公はそれを受けて荒れてしまったところから始まります。
「主人公が猿で、兄が犬だと」
「そうらしいな」
 しかし、主人公は善良な心も残っていて、非行に明け暮れる日々に虚しさを覚えています。ある日、喧嘩の際に腕を骨折してしまうのですが、その入院中に失われたかと思っていた兄の優しさに触れて、更生を決意します。
 その後、集まりから抜ける際に一悶着あり、抜けた後にも因縁のある別の集団に襲われて危機に陥ってしまいますが、兄が警察を呼び、自ら割り入って主人公を守ってくれるのです。それは、兄が主人公の更生のための努力を認め、心配していたからなのでした。最後には険悪になっていた親とも向き合うようになり、希望を見せて終わりです。
「なるほど……良く言えば優しい、悪く言えば浅い、というところですかね」
「そうだな。話の筋はよしとしても、描写があまり効果的ではない。兄弟愛を書きたくて始めたが、話の流れのほうが手に余ったようだな」
「はい。喧嘩のシーンなども、できれば書きたくないという思いが透けて見えるような……」
 お互いに小声で話していますが、やはりなかなか厳しい感想しか出てきません。とはいえ、これを本人にそのまま伝えるつもりはないのです。そのときには当然オブラートに包んだ表現になりますし、本人が無理なくステップアップできるように、改善点と改善案を提示するような形になるでしょう。
「先生の個人賞としては、どのくらいの評価になりますか?」
「まあ悪くはないな。恐らく書きたいものを小説としてどのようにまとめればよいのか、そのあたりの感覚がまだないのだろう。小説や物語の捉え方が抽象的すぎるのかもしれない。そのあたりが改善されれば、徐々に強みも見えてくるだろう」
「なるほど」
「シーンの得意不得意もあるようだが、それは後から慣れていけばよい」
 気が付くと、バスは既に深い森に囲まれ、上り坂を進んでいました。わずかに記憶にある風景です。二年前は蛾が騒がしく飛び回っていたりもしましたが、今年は静かです。
「そろそろですね」
「もはや懐かしい」
 大きく入り組んだ合宿所の建物は、二年前と変わらずにそこにありました。

 前回とは違う研修室でそれぞれ昼食を取った後、幹事の橋上さんが見覚えのある二枚の表をホワイトボードに貼りました。
「それでは、今年の合宿も楽しんでいきましょう。今年の創作企画は、昨年好評だった『猫チョコ創作』が帰ってきました。題して『チーム対抗・リレー猫チョコ創作』です!」
 昨年同様の『猫チョコ創作』は、ランダムに割り当てられた状況とアイテムを盛り込んで作品を書く、三題噺のようなものです。今年はそれを、リレー小説形式でやろうというのです。
「今回はくじ引きで皆さんを三つのチームに分けて、それぞれで一つのリレー小説を書いてください。その際、これからサイコロで状況一つとアイテム二つを割り当てるので、作品全体のどこかにそれらすべてを盛り込んでください。ただし、元となったゲームのような、状況をアイテムで乗り越えるという筋書きには沿わなくても大丈夫です」
 三つのチームに分かれて、一チームの人数は五人または六人です。くじ引きは年目ごと、そして東京枠でそれぞれ用意されており、同じ年目が固まりすぎないようになっています。
 結果としてわたしは敷島さん、辻くん、肥後さん、そして東京枠の二年生で部長だという男性の村主さんと五人でチームを組むことになりました。こちらのメンバーは比較的軽い、緩い作風の人が多く、物語に起伏をつけるのが課題になりそうです。
 そして、わたしたちのチームに割り当てられたのは、状況が「夕暮れ」、アイテムが「箒」と「隕石」でした。
「隕石がアイテムですか……博物館に置いてあったりするものですかね」
「家の前を掃除していて、たまたま隕石のようなものを拾ったとか」
 わたしはこの組み合わせで第一にファンタジー世界の魔女を想起しましたが、肥後さんや辻くんは日常的なところから連想を広げているようでした。
「隕石と言えば、恐竜を滅ぼしたような大きなものをイメージさせますが、実は細かな隕石であれば結構身近で、意外とそのあたりの砂ぼこりに紛れているらしいですね」
 村主さんも日常的な方面で話を広げてくれました。わたしはせっかくなので、魔女の話を投げ込んでみようと思います。
「少し話は逸れますが、わたしはこのアイテムを見たとき、ファンタジー世界の魔女を連想しました」
「あっ、私もです」
 敷島さんが話に乗ってくれます。
「隕石を呼び出す魔女ですか」
「メテオ、規模によってはラスボスですね」
「味方なら頼もしいですが、果たして」
 三人も、ファンタジーの世界観で想像が広がり始めたようでした。今回はリレー形式ということで、様々な設定やイメージを全員で共有する必要があります。ここの認識合わせは時間を掛けてやっておく価値があるでしょう。
「魔女と言えば、一般の人に親しまれる魔女も、忌み嫌われる魔女もいると思いますが、皆さんのイメージにはどちらが近いですか?」
 村主さんも積極的に、良い話題を提示してくれています。
「主人公で書くなら、僕は親しみのある魔女のほうが好きですね」
 辻くんが答えると、敷島さんも頷きました。
「なるほど。中津さんはいかがですか?」
 わたしはというと、魔女の出てくる作品をいろいろ思い浮かべていました。やはり、原義的な魔女は悪とされたものですし、古典的には白雪姫やヘンゼルとグレーテルなど、魔女が悪役である物語が多くあります。一方、現代では単に「魔法を使う女性」という意味での魔女であり、日本の「魔女っ子」も一つのジャンルを成していますし、馴染みがあります。
 今回、恐らく主人公として書くであろうこの魔女が悪役だというパターンも面白そうではありますが、ここであまり冒険して、難しい流れになるのが怖くもありました。
「悪役も面白そうではあるのですが、コンセプトとしてはあまり冒険せず、親しみある魔女っ子が良いかな、と考えています」
「ありがとうございます」
 そこで、肥後さんが控えめに手を挙げました。
「あの、流れ星って隕石ですか?」
「ああ、確かに」
「そうなのかな?」
 何人かのスマートフォンは圏外でしたが、わたしのものは電波が通っていました。ここはインターネットで定義を調べてみます。
「ええと、途中で燃え尽きたものが流星で、地表に到達すると隕石になるそうです」
「マグマと溶岩みたいな関係ですね」
 つまりは同じカテゴリですが、フェーズが違うものということです。
「逆に言えば、地表に到達しなければ隕石にならない」
 それを聞いて、肥後さんは少し残念そうでした。
「あの、流れ星を降らせる魔女だったらいいなと思っていたんですけど……隕石を降らせちゃうと、やっぱり大変なことになりそうです」
「それこそ悪役だね」
 肥後さんと敷島さんが笑います。一方、辻くんは何やら考え込んでいました。
「流れ星みたいに綺麗にはならないかもだけど、ラストシーンで隕石を降らせるっていうのは使えそうな気がするね」
「確かに」
 村主さんも同調します。わたしはそれを聞いて、なかなかスケールの大きい話になったと思いました。隕石を降らせるような大掛かりな行動には、大規模な破壊のような結果でもなければ釣り合いません。
 それに対して、敷島さんは首を傾げました。
「隕石を自分で降らせちゃうのは、どうやっても世界の危機とか、大きな話になっちゃうような気がする。それだったら、落ちてきた隕石を探しに行くような話のほうが良いかもしれない」
「私も、そっちのほうが好きです」
 肥後さんも同意を示します。わたしもそこで頷きました。これはささやかな軌道修正です。
「じゃあ、見つけた隕石を天に還して、流れ星になりました、みたいなのは?」
「砕け散ってる!」
 辻くんの提案に対して敷島さんはツッコミを入れましたが、わたしは少し違うことを考えました。
「流れ星というよりは、彗星のイメージではありませんか?」
「ああ、そうです。僕の言いたかったのはそっちが近いです」
「なるほど、それならちゃんと天に還ってるね」
 今度は敷島さんも納得して、その場の全員のイメージが一致しました。しかも彗星は言い換えれば「箒星」なので、アイテム同士のシナジーが生まれます。これでラストシーンは決まりです。
 そこからは、大まかに物語を五つのパートに分けて、その接続部分に当たるマイルストーンを決めました。その過程で、主人公の魔女には鉱物の声が聞こえるという設定が決まりました。
 わたしの担当は二番目のパートです。最初のパートで助けを求める隕石の声を聞いた主人公が、隕石の落下地点の見当をつけるため、町で情報収集をするというものです。山奥の猟師の集落の近くで目撃情報が多かったという情報を得て、次へバトンタッチです。
 率直に言って、全体で最も地味なパートでした。しかし、主人公の同行者となる学者の女性を登場させるという重要な役割もあります。つまり、主人公も含めたある程度のキャラがここで決まり、ひいては作品全体の雰囲気も決まるのです。書き手としては責任重大です。
 執筆も全パートを同時進行しているので、例年になく頻繁に会話しながらの執筆になりました。これはわたしにとっては都合が良く、主人公と学者さんの楽しげなやり取りの書き方などは、主に辻くんからたくさんのアドバイスを頂くことができました。

 その時間ほど、「あっという間」だと感じた時間は今までにありません。例年は必ずどこかで行き詰って、気晴らしに研修室の外を探検したりするところですが、今年はその必要もありませんでした。
 その分、他のチームの状況も全くわかっていないので、夕食の場で聞き出してみることにします。狙うは小野寺さんです。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
 小野寺さんには特に疲弊した様子はありませんでした。チームメイトは相羽さんに入船さん、小池さんに高村さん、そして鳴滝さんです。意外とバランスは悪くなさそうですが、とにかく賑やかそうなチームです。
「そちらのチームはいかがですか?」
「状況が『商店街』で、アイテムが『ウサギ』と『イノベーション』になった」
「イノベーションって……アイテムなんですかね?」
 テーブル上では確か、両方のサイコロで最大値を出したところに置いてあったものです。昨年と同じくおおよそアイテムかどうか怪しいものが紛れ込んでいるわけですが、小野寺さんのチームは運悪くそれを引いてしまったのでした。
「イノベーションは、何か変革を起こすこと。だから、商店街のペットショップが、時代を経て革新的になっていく物語を書くことにした」
 そこで小池さんのいるテーブルに目を遣ると、鳴滝さんや高村さんと三人でその作品の構想を語り合っているのが見えます。
「パートの分担などは?」
「六人いるから、まず前半と後半に分けた。小池さんたちが前半で、現代からどんな感じで進化していくかを考えてもらってる。ある程度設定が固まったら、私たちはその未来のペットショップで売られていたロボットのウサギが、何か騒動を起こすパートを書く」
「なるほど」
 実質的にパートを二つにすることで、リレー形式の連携の難しさを軽減したと見えます。いずれにしても、商店街というシチュエーションに似合わないほど壮大なSFになりそうな予感がします。
「楽しそうですね」
「うん。中津さんのほうはどう?」
「はい。わたしたちは、『夕暮れ』『箒』『隕石』です」
「人類滅亡みたいな話?」
 小野寺さんが第一印象で何を想起するか楽しみにしていましたが、概ねイメージ通りでした。
「いえ、ほのぼのとした魔女の話ですよ」
「魔女なんだ。隕石降らせたりする?」
「却下されました」
「残念」
 割と物騒な設定も好きな人です。わたしたちのチームでは刺激が足りないかもしれません。
「じゃあ、中津さんもほのぼのギャグを書くんだ」
「そうですね……辻くんに教えてもらっています」
「楽しみ」
 小野寺さんはいたずらっぽく笑いました。これは失敗できません。

 コミュニケーションを取りたい人はたくさんいます。東京枠のもう一人の二年生である安藤さんは同じ部屋なので、入浴の折には鳴滝さんと会話したいと思いました。
 小池さんと二人で湯船に入って話しているところへ、さりげなく声を掛けます。
「鳴滝さん。いろいろ向こうのお話を聞かせてもらえませんか」
「はい」
 わたしは体が温まっていたので、お湯には脚だけ入って湯船の縁に腰掛けます。
「私たちの文芸部は、五年くらい前にできたばかりで、部員は二十人くらいです」
「それだけ新しいと、まだ創立メンバーの方もいらっしゃるのですか?」
「はい。もう大学院生ですけど、三人ほど。いろいろ教えてくれます」
「良い環境ですね」
 当然ながら、創立メンバーの志が真の意味で生きているのは、彼らが在籍している間のみです。それ以降は人の手を渡るたびに、如何様にも形を変えます。だから、その「生の志」に触れられるのは貴重です。
「イベントに参加されたりしますか?」
「文芸専門の小さいイベントには、年に数回出ているそうです。部誌は年に二回で、すべてそのイベントで頒布する前提で作っています」
「なるほど。ちなみに有料ですよね?」
「はい。一冊千円で出しています」
 はじめからすべて有料で出すというのも一つの選択肢だと思います。お金の管理が大変になるなどはあると思いますが、部員のモチベーションも一般には高まるはずだと思います。
「うちは傑作選でも三百円くらいでしたよね? 部誌が千円だと、すごく高級なように感じます……」
 小池さんも、その値段のスケールをあまり想像できていないようでした。
「そうは言っても……この間の『文学のアジール』には大学のサークルも参加していましたよね。そこではわたしたちの部で部誌に相当するようなものを、五百円や千円で出していましたよ」
「確かに。じゃあ、案外千円って普通の値段なんですかね? 直ちゃんは知ってる?」
「私もまだ、イベントに参加したことはないの。でも、相場はそのくらいなんだと思う。部誌を作るには紙代とか印刷代とか掛かるし、イベントなら参加料も掛かるし、むしろお互いにそのくらいが最低限だっていう理解があるんだと思う」
「当たり前ってこと?」
「うちも最初の二年くらいは五百円でやってたらしいんだけど、その後は部の体制も安定してきたし、イベント参加のノウハウも溜まってきたから、自信を持って普通の値段で出すようになったって」
「そんな感じなんだ」
 もちろん、札幌と東京では物価の感覚にも大きな違いはあると思います。それにしても、傑作選を三百円に上げることでさえ大きな議論になったわたしたちの部とは次元が違うような気がしました。
「そう言えば、直ちゃんは天海先輩にも会ってるんだよね?」
「うん。一か月に二回くらい。住んでるところが結構近くて」
 以前、二人で隅田川に行ったときの写真をわたしも見せてもらいました。
「あと、今日来てる安藤さんは高校が同じなの」
「そうなんだ。じゃあ、天海先輩と同じ学年ってこと?」
「うん。クラスは違ったけど、知り合いだって」
 そこでわたしは、安藤さんに目を遣ります。最初からなんとなく見覚えのある顔だと思っていましたが、同じ高校だったのならば半分は納得です。しかし、この日まで覚えているほど、印象的な出会いがあったのかどうかは思い出せませんでした。
「安藤さん……今は文芸部ですけど、高校では何をされていたのでしょうか」
「図書局員だと聞きましたよ」
「なるほど」
 それで完全に腑に落ちました。図書室にはたびたび通っていたので、何度か顔を合わせていたはずです。それはわたしだけでもないでしょう。
「私の大学では、周りも本当にレベルが高くて、通ってきた世界も全然違うと感じることがあります。そんなとき、高校が同じとか、少しでも身近な縁を感じられる人がいると、ほっとします」
「直ちゃん、ホームシックにならなかった?」
「最初、ちょっとね。今は大丈夫。一花も電話してくれるし」
「良かった!」
 今回の交換留学合宿が成立した経緯も、深堀すればそういった縁が関わっているのだと思いました。

 初日の夜は、例年は何かしらの企画があったところですが、今年は執筆の時間を確保するという名目で、企画は設けられなかったそうです。
 そこでわたしは、新井くんに声を掛けて、二人で空いていたリーダー室に入りました。もちろん、チームメイトに場所は伝えてあります。
「二年前、朝倉さんとこんな風に密会していたそうですね」
 あのとき憤慨していた高本さんの姿は、そのとき聴かせていただいた笛の音とともに、今も鮮明に覚えています。
「刺しよるな」
「二日目だって、深夜まで……」
「どこで見てたんや、まったく」
 わたしが新井くんに恨み言を言うのは変なことかもしれませんが、何故か言いたいことはいくらでも湧いてくるのでした。
「では早速、読ませていただきますよ」
「おう」
 わたしはデスクに置かれたパソコンに向かって、新井くんはその後ろの椅子に座りました。画面に映った原稿のタイトルは『Segments』です。「断片」や「欠片」という意味があったと思います。
 ある高校の文芸部に属する、二年生になったばかりの男子が主人公です。彼は小説を書く上で、「人間が書けない」という問題を抱えて悩んでいます。具体的には、人間らしい面白みのある性格や言動を描写できず、違和感を持たれたり、つまらないと一蹴されたりしていて、そのことに悩んでいるのでした。
 冒頭にはその主人公が書いた小説の一部が引用されているのですが、それは若干誇張されているものの、普段の新井くんの作品そのものの味がありました。そこまででわたしは確かに、新井くんが自分と向き合ってこの作品に取り組もうとしたのだということを感じました。
 主人公の小説に対して周囲から投げかけられる感想も、非常に既視感のあるものでした。
『描写は綺麗で、文章は読みやすかったです』
『多分、良い話なのだとは思うのですが、人物の行動にあまりリアリティがなくて、少し気持ち悪さがありました』
『登場人物があんまり魅力的に感じなくて、何がしたかったのかよくわかりませんでした』
 それでも主人公は、根拠のない自信を持ち続け、次回こそは自然に書けるようになっているだろうと楽観的でした。しかし、二年生になって最初の合評でも状況は変わらず、後輩の前で恥を晒してしまいます。
 彼はまず、自分が怠惰を隠すために虚勢を張っていたことを認めなければなりませんでした。虚勢であるからには、元よりこのままではいけないという自覚はあったのです。
 作中では彼が自分について『妄想の国に魂を売ったバルバロイ』と卑下するくだりがあります。やや過激な表現ですが、まともな人間の道理が通じない存在なのだという意味です。感じること、考えることのどこかが他人と致命的にずれていて、それが小説にも表れているのだという観念です。
 そんな彼の作品を擁護する人はいませんでしたが、彼の奮起を信じ、支援しようとする人はいました。同じ文芸部の同期で、この春から部長になった女子です。主人公は彼女の助言で人間観察に取り組んでみようとしますが、他人の行動を分析するときに無意識の強いバイアスが掛かってしまい、本質的なところが見えず、成果を上げられませんでした。
 元来の飽き性もあって、主人公は人間観察を諦めようとします。そんなとき、高校の近くの公園で、同じ高校の制服を着た女子が、一人で桜の木のスケッチをしているらしいところを見かけました。彼はちょうど、絵描きの女子を小説に書きたいと思っていたので、彼女に勢いで声を掛けます。最初は強く拒絶されてしまいますが、彼は諦めず、二度目の挑戦に出ます。取った手段は、土下座での懇願でした。
 見かねた彼女は、彼に描いていた絵を見せます。しかしそれは、そこから見える景色のようでいて大きく歪んだ、超現実主義のような絵でした。また、別の絵には人間のようなものも描かれていましたが、それは身体のあちらこちらにどす黒い穴を持った、二本足の怪物の姿でした。
 そのうえ、彼女は片腕を失くしていたのです。彼は描いていた妄想的イメージをことごとく打ち破られ、一度は逃げるようにその場を去ってしまいます。
 しかもその後、どうやら彼女は学校に来ていないらしいということもわかります。誰も名前を知らず、一部の人にしか見えない幽霊だというような噂もあります。それらを受けて、彼は完全に怖気づいてしまいますが、それでも作品の締め切りは近づいていて、退くこともできない状況でした。
 そこで彼は起死回生を図って、彼女に小説のモデルになってほしいと頼みます。すると彼女は彼の作品を読みたいと要求します。実際に作品を読んだ彼女の感想は、やはり惨憺たるものでした。
『あなたの頭の中、本当にお花畑なのね。とても生きた人間とは思えない。でも、このくらいの感想だって何度となく言われてきたのでしょう。それでものうのうと書き続けられるなんて、羨ましい限りね』
 しかし彼女の側も、主には彼のしつこさ、そして多少は垣間見える彼の一途さによって心を動かされ、最後には条件付きで承諾するのでした。すなわち、彼女の絵のモデルになる、作品を誰よりも先に見せる、そして、片腕を失くしたことは書かない、と。
 その会話の中で、彼は初めて彼女の本名を知ります。しかし、それによって大変な事実が明らかになってしまいます。彼女は、十年ほど前に美術部で活躍していながら、いじめによって自尽を余儀なくされてしまった人物であり、本当に幽霊だったのです。
 そして、主人公が彼女を交流を持ち、彼女をモデルに小説を書こうとしていることが、現在の美術部員にも知られてしまいます。体制は当時から変わっていて、その事件ももはや忘れ去られている中で、掘り返すような作品を書かないでほしいと、主人公は圧力を掛けられます。
 それでも彼は、自分の中で新たな感覚が目覚めてきていることを感じていました。この作品を書きあげなければ、すべては無になってしまう。諦めるわけにはいきませんでした。彼は文芸部の部長とも相談し、正面から美術部員と交渉します。自分が自分のために書きたいというわけではなく、過去に生きた人間や、生きられなかった人間の、真の姿を伝えるために書くのだと。それは、なかったことのように振る舞うのではなく、誰もが戒めとして、心の中にとどめておくべきものだと。
『こうすればもう、まともに絵は描けません。これで満足ですか』
 彼女が片腕を失ったのは、その最期のときでした。それを主人公に書かないよう言いつけたのは、彼女自身、そのことに後悔があったからなのでした。
 それは結局、ただの復讐でしかなく。結果的にそのいじめに加担した生徒は全員退学になり、一時は美術部も解散となりましたが、美術部の外に出れば彼女は幽霊扱いされ、果ては忘れ去られてしまったのです。彼女がとどまっていたのは、自分の命をもう少し大切にするべきだったという後悔からなのでした。
 ある意味、自分の生き様に固執する主人公の姿は、彼女の理想でもあったのです。それは、絵のモデルになるという約束の真意でもあります。
 主人公は合評の締め切りの直前にどうにか作品を書きあげ、彼女に見せに行ったその場で、彼女の思いのすべてを聞くのでした。
 そして、彼に一つの構想が生まれます。彼女には、作品の中ではそれを思いとどまらせなければならない、と。その刃を前にして「生きたい」と叫び、復讐のためではなく生きるために戦う。この作品は、彼女の為したかったことを表現するためにある。彼に強い思いが去来しました。
 それは彼女の片腕に触れることであり、約束に抵触する可能性がありましたが、彼は思い切ってその構想を打ち明けます。すると、彼女もそれを受け入れたのでした。
 その後、彼が改稿を終えたところで、彼女は公園から姿を消してしまいます。そこには彼女が持っていたスケッチブックが遺されており、その最後の一枚に、主人公が生き生きとした人間の姿で描かれていました。
 その傍らには、メッセージも添えられていました。
『今のあなたなら勘違いしないと思うけど、あなたは人間を書けるようになったわけではない。何を書いてもお花畑だと私は思う。だけど、開き直るくらいがあなたらしい。ずっとそうやって書き続けていればいい。私なんかに触れて、祟られたんだと思いながらね』
 彼女の見立て通り、その作品は決して高く評価されるということはありませんでした。ただ、数名にはいつもより人物像がはっきりしていて、確かに現実味のある人間を書いたのだと言われました。
 しかし、そのようなある種の夢の時間を過ごした主人公は、その後はたと小説自体が書けなくなってしまいました。何も気にせず書こうとしても、ハードルが高まったところで思考が固まってしまい、書いては捨て、書いては捨てを繰り返すしかなくなったのです。
 それでも、彼は最後になったその作品を後悔することはありませんでした。少なくとも誰かにとって価値のある作品を、一つでも書くことができたのですから……。
「……読み終わりました」
 途中で気づいたことですが、五万文字近い長い作品でした。しかし夢中になってしまって、二時間ほども掛かって一気に読んでしまったのです。それが苦にならないのは、新井くんの数少ない特技である「綺麗で読みやすい文章」のお陰です。
 読み終わってみて、わたしは新井くんがその作品をお蔵入りにする理由も概ね想像できました。
「つまり……新井くんはこの作品では、自身の『人間が書けない』という問題を解決できなかったと。そこにあの本が来て、打ちのめされてしまったと。そういうことですね?」
 新井くんは頷いた後、少し間を置いて口を開きました。
「中津さんは、国語の先生になれるで。作者の気持ちを読ませたら、右に出る者はいないな」
「はあ……」
 なんというか新井くんらしい、微妙に的外れなお世辞です。
「俺はもう、どこまで行っても俺なんやなって。俺は嫌いやねんけどな。『そのままでいい』とかって言われるのは。問題があれば、根本から見直すのが早い。そのときに邪魔になるくらいなら、アイデンティティだって捨ててしまえばええと思ってたんやけど。いざ自分のことになったら、自分なんて捨てきれなくってな」
「はい……」
 結局、今回は今までの中で最も良い作品だとは言えるかもしれませんが、過去の新井くんを完全に打ち破るようなものだったかと言えば、決してそうではありません。それは本人もいたく自覚しているところだと思います。半分は自虐的な思いであっても、それを自覚して謙虚な思いを持つということがまず、以前の彼には難しかったのですが。
「でも、せっかくやし中津さんがどう思ったか、率直に教えてほしい」
 わたしは覚悟を持ってこの作品を読みました。今度はわたしにこの作品を読ませた新井くんの覚悟を問う番です。
「面白いとは思いましたよ。少なくとも、これまでの新井くんの作品の中では一番、真に迫るというか……変に身綺麗であろうとするような態度を感じなくて、そこの覚悟は本物だったのかなと思いました」
「ほう」
 初めて「身綺麗であろうとするような態度」という表現をしましたが、新井くんはずっと、世界の綺麗事ばかりに目を向けて、多くのことを視界に入れてこなかったのだと思います。そこにメスを入れたという点は、素直に評価しています。
 しかしここからは誇張のしどころです。新井くんの承認欲求をこれでもかと刺激して、それでも退部すると言えるのかを試さなければなりません。
「それでも、これまでの作品と有意に違うかと言えばそうでもないと思います。新井くんはもっと殻を破ることができますよ。そういう伸びしろは感じます」
「なんや、慰めか?」
 新井くんは態度こそ訝しげでしたが、表情は嬉しさを押し殺しているのが見え透いていました。そうは言っても、わたしも演技は下手です。下手な嘘はつかないことにします。
「半分は慰めです。でも、言ったじゃないですか。わたしにとってはこの作品だけが真実です。新井くんが殻を破ろうと努力した証を読んだ。それだけですよ」
「まあ、よくも……希望を持たせるようなことを、臆面もなく並べられるもんやで。ある意味、俺はそれに騙されて……本当なら、一年の冬部誌のときにはもう辞めてたかもわからんのにな」
 嬉しがったかと思えば、今度は涙を流しています。新井くんの情緒には確実に働きかけられているという手応えがあります。
「じゃあ……中津さんは俺が、まだ文芸部に残ってほしいと言うんやな」
「わたしの本音はそうです。でも、新井くんがそれでもどこかへ行くと言うのであれば止めません」
「そうか。しかし俺は一度、妄執から解放されたい。いくら藻掻いても、八方塞がりなのは変わらん」
「妄執……ですか」
 あくまで、方法を曲げる気はないようです。それで目的が達成できる見込みがないことに気付いたとしても、新井くんは方法を曲げないでしょう。わたしから見れば、それ自体が立派な「妄執」です。
 結局、新井くんが求めるものは、ことごとく現実逃避なのだと思います。文芸のことも、人間関係のことも、ただ諦めて捨て去るのと何が違うでしょうか。
「中津さんが、そこまで俺にこだわる理由はあるんか。例えば和泉にも、残ってほしいと言うたんか」
「それは……新井くんのことが、心配だからです。和泉さんは目的も明確でしたし、行く先もわかっていました。でも、新井くんはただ闇雲に文芸部を去ろうとしている。それに……新井くんにも、退部することをわたしには伝えたいという気持ちがあったのではないですか?」
 つまり、わたしが新井くんを気にするように、新井くんもわたしのことを気にしているのではないかということです。すべてを捨てて前だけを見るということなら、わたしにも黙って出ていけば良かったのです。
「……それはまあ、中津さんにはいろいろ迷惑も掛けたし、結局俺の作品を一番読んでくれたから、感謝もしてる。一言くらいあってもええやんか。悪いか。それを中津さんが、根掘り葉掘りするから……」
 だんだん、何を争っているのかわからなくなってきました。このままでは押し問答です。実際、わたしもすぐに話を打ち切ることはできるはずでした。
「それとも何か。中津さんは、俺の人生の編集者にでもなるつもりなんか」
「そ、そんなことは……」
 人生の編集者。その言葉は、私の頭に深い印象を残しました。
「気を付けたほうがええ。俺ももう、身綺麗でいる必要はないんやで。その気になればこの場で……」
 新井くんは立ち上がり、少しずつ距離を詰めてきました。
「ダメです、そんな……」
 そこで、ドアが強くノックされました。わたしが返事をすると、入ってきたのは小野寺さんです。
「……何してるの?」
「これは……後で説明します。何か御用件ですか?」
「敷島さんが、リレー小説について相談したいって。来て」
「わかりました」
 部屋を出るまで、わたしは何が起こったのかを理解できていませんでした。今、わたしは確かに「助かった」のです。

 翌朝まで、新井くんには会いませんでした。小野寺さんには後で、「新井くんの作品を読ませてもらっていた」と説明し、新井くんが退部しようとしていることは言いませんでした。
 新井くんの「人生の編集者」という言葉が、ずっと頭に残っていました。単純化すれば、「伴侶」や「パートナー」と言い換えられるのでしょう。わたしにはその気など全くないのに、思い返すたびに身体が熱くなるのです。
 とはいえ、わたしが新井くんを放っておけないのは、編集者としての矜持に関わることでもありました。先生も、文芸では自立していますが、それ以外のことには無頓着だったので、わたしは文芸のことを超えてあれこれ世話を焼いていたのです。実際、新井くんに対する気持ちも、先生に対するものと似ているような気がしました。だから、「人生の編集者」という言い方は、非常に的を射ていたのです。
 そうだとすると、「その気など全くない」というのも本当なのかどうか、私自身にもわかりません。言ってしまえば、わたしは新井くんのことが好きなのでしょうか?
 嫌いかどうかで言えば、間違いなく嫌いではありません。確かに手の掛かる人ですし、不器用で、傲慢な面もあります。しかし、行動力や粘り強さもありますし、後輩のこともしっかりと気に掛けています。これからの文芸部にもいてほしかった人材です。
 そうは言っても、わたしは誰かと恋愛することなどはこれまで考えたこともなかったのです。そもそも新井くんは、恋愛のことも妄執の一つであり、捨てていくと言っていたはずです。だから、向こうとしてもその気はなく、一夜の関係が関の山なのです。
 もういなくなってしまう新井くんに対して、わたしはどうしたいのか。考えても考えがまとまるはずがありませんでした。そのうち、恒例のハイキングの時間になってしまいます。
 今回の目的地は十勝岳の麓にある、望岳台と呼ばれる場所です。施設からは舗道を歩いて一時間足らずで着くとのことです。今日はよく晴れていて、日差しは暖かく、時折吹き抜ける風は涼しい、ハイキング日和でした。
 道中、わたしは先生と一緒に集団の少し後ろに位置取り、相談させてもらうことにしました。集団の前でないのは、集中するとわたしたちは歩くのが速いので、集団から離れてしまう恐れがあったからです。
「新井の小説を読んで、本当に退部する覚悟があるか問うつもりだったが、返り討ちに遭いかけた、と」
「はい」
 先生は堪えながらも笑っています。
「笑い事ではないですよ」
「自分のお節介で招いたことではないか。新井など、黙っていれば何もせず辞めただろうに」
 ちなみに、新井くんが朝倉さんと別れたことは、小野寺さんには言いませんでしたが、先生には伝えてあります。そうでなければ、わたしが道ならぬ恋愛に手を染めようとしていることになってしまいます。
「わたしは真剣なんです」
「ああ。それだけはわかっているよ。むしろ真剣でないときがないだろう。その中でも、新井のことは特別に気になっていた。それを、今更に自覚したということではないのか?」
「はい……」
「しかし、『人生の編集者』とは。新井も気障なことを言うものだな。しかもそれは案外、本質を捉えた見立てだった」
「はい」
「よりによって新井とはな。まあしかし、誰かを好きになるというのは、理屈を超えた力が働くものだ。尽くす恋愛を好むなら、そのまま行くといい」
「ちょっと、それではまるでわたしがもう……」
 新井くんを好きだというようではありませんか。反論とはいえ、それを口にすると本当になってしまいそうで、わたしは口ごもるしかありませんでした。
「しかし、もしそうだとして、新井を引き留めるのか? それとも、文芸部の外で関係を保つのか?」
「それはまあ、引き留めはしませんよ。本人の意思ですから」
「朝倉にも顔向けできなくなるだろうが……良いのか?」
「それは、ええと……」
 あくまでも仮定の話ですが、先生が指摘する通り、朝倉さんのことは大きな懸念です。別れてもう半年になるとはいえ、朝倉さんは本当に新井くんと友達でいることを望んでいるのだと思いますし、行方知れずになった新井くんの行く先をわたしだけが知っていて、あまつさえわたしと新井くんが交際しているともなれば、たとえ朝倉さんであってもわたしは妬まれない自信がありません。
 そもそも、こんな仮定をするまでもなく、わたしが何もなかったかのように振る舞えば良いのです。わたしはただ、編集者の矜持に従って、仕事をしただけなのですから。
「先生、わかりました。やめましょう。わたしはいつも通り、自分の編集の仕事をした。それを新井くんが曲解した。それだけのことです」
「吹っ切れたか」
 せっかく、気持ちよく晴れた山の中を歩いているのです。その空気でリフレッシュしなければ、来た意味がありません。
 昨年と同じ峠道とは言っても、今年は深い山の中であり、歩道のない道路の脇を歩いています。周囲には多少の変化こそあれ、概ね原始的な森林しか見えません。そんな中で、例によって短歌を詠むことになっています。
 わたしは先生から離れて、少し前を歩いていた小野寺さんに声を掛けました。
「小野寺さん」
 正直、あまり距離が離れていなかったので、今の話は聞こえていたのではないかと思っています。
「中津さん……」
 振り向いた小野寺さんの表情は、昨日のリーダー室に入ってきたときのように冷たく感じました。
「新井くんのこと、好きだったの」
「そ、それは誤解です」
「そうなの」
 小野寺さんに関して言えば、普段の新井くんへの印象はそこまで悪いわけではないと思っていましたが、やはり昨日のことは怪しんでいるようです。そして、その疑いの目はわたしにも向けられています。
「じゃあ、新井くんの作品は好き?」
「ええと……」
 それこそ答えにくい質問です。編集者としては、あまり個人的な好き嫌いを持ち込まないようにしているからです。
「嫌いではないですよ。まあ、個人的にはどれもあまり好きだと言える出来でもありませんが……」
「ちなみに、どのくらい読んでるの」
「それは、全部です。でも、先生や小野寺さんの作品だって、わたしは全部読んでいますよ」
「そっか」
 それでようやく、小野寺さんの表情に穏やかさが戻りました。わたしの編集者としての矜持を信じてもらえたようです。やはり堂々としているに限ります。

 蛇行した長い上り坂を歩き続け、望岳台には予定通りの時間に到着しました。道中での短歌の収穫は皆無です。ここで食事を取りつつ二時間程度過ごす予定になっています。
 わたしは初めて来たので、一人で気の向くままに歩き回ってみました。足元は赤黒い砂礫で覆われ、細かな起伏が多く不安定です。スニーカーを履いてきていますが、しっかり紐を結ばないと靴擦れをしてしまいそうです。
 標高のためなのか、道中にあったような高木はなく、低い針葉樹ばかりが見られます。見通しは良いですが、天気はやや重く曇っており、山の上のほうは隠れてしまっていました。
 それにしても短歌のモチーフになりそうなものがなかなかありません。ただ、大正時代にこの山が噴火したときの災害について伝える碑文があるくらいです。あとはひたすら山の景色です。

 山のように眠ろう山のように眠ろう山のように眠ろう

 一応、短歌ができたような気分になりました。この五分で考えたゴリ押しリフレインを出すのはさすがに抵抗もあるので、まだ思索を続けます。
 歩き回っていると、深さ二メートルくらいの小さな裂け目に行き当たりました。傍らでは辻くんがメモ帳とペンを手に短歌を作っているところのようです。
「あっ、中津さん。中津さんって短歌の経験はあるんですよね」
「はい。多少なら」
「アドバイス頂けませんか」
 話を聞くと、辻くんはとりあえず一首作ってみたものの、どうにもつまらなく感じたとのことでした。
「まずは何をつまらないかと感じるかで……それがモチーフや発想の部分であるなら、作り直してしまったほうが良いです。そこをクリアしているなら、あとは語順を入れ替えたり、助詞や助動詞を変えたりして調整ですね」
「じゃあ多分、見たままなので発想がないというところですね。大人しく作り直します。ありがとうございました」
 わたしに短歌の経験があるということは、二年目メンバーでもあまり知られていないのではないかと思います。それより今回わかりやすいのは鳴滝さんです。道中からずっと、一年目メンバーと短歌の話をしているところを見ています。鳴滝さんの短歌は和歌寄りのものですが、基礎は概ね共通します。
 少し歩き疲れたので、下のほうにある広場に来ました。ここには丸太の椅子がいくつか置かれていて、既に何人かが休んでいます。わたしは東京から来た安藤さんの近くに座りました。
「安藤さん」
「お疲れ様です。あの、中津さん。高校、同じなんですよね」
「そうですね。鳴滝さんから聞きました」
 安藤さんは最初、橋上さんにも近い真面目な方だという印象でしたが、それだけではなく相羽さんのような親しみやすさもあるらしいことがわかってきています。
「文芸部を創られたんですよね。『逍遥』、私も読んでました」
「それはそれは。ありがとうございます」
「浦川さんの作品がやっぱり、印象に残っています。昨日、お話もできて嬉しかったです。中津さんは、何か書かれていたんですか」
「わたしは編集が主で、たまに短歌や俳句を作っていましたね。当時のペンネームは、舟波克子です」
「あっ、夏みかんの歌、思い出しました」
「おやおや、そこまで覚えていてくださったとは」
 あまねく香る三千海里。昔はそんな短歌も詠みました。どちらかと言えば編集としての喜びを求めたわたしでも、自分の作品を長く覚えてくれている人に出会うのは嬉しいのです。
「安藤さんは、どのようなものを書かれるのですか」
「はい。私は詩が多いです」
「詩を書く方は多いですか?」
「うちは、散文メインの人と、韻文メインの人が半々くらいですね。でも、韻文はさらに詩、短歌、俳句で分かれるので、勢力としてはやっぱり小説が一番です」
「なるほど。それでも韻文の人が半分近いというのは多いと思いますね。うちは詩も作る方はいますが、やっぱり小説が一番栄えているので、詩から小説に転向する場合などもありますよ」
「そうなんですか」
「ちょうど、橋上さんや小野寺さんがそうですね」
「小説は設定を考えるのが難しくて……今回は周りに頼りきりです。書ける人は本当にすごいと思います」
 当然ながら小説と詩では考え方が全く異なりますし、相反する部分もあります。両方を高いレベルで作るのは難しいことです。
「わたしも、詩はなかなか難しくて、ずっと書いていないですよ」
「やっぱり、お互いに難しいと思うんですね」
「方向性が正反対のところがあるので……あと、自由詩は特に、形から入りにくいというのもあると思います。共有しやすいイメージや基準がないので、観賞や評価も難しいんですよね。そこはうちの部でも、よく出てくる問題です」
「わかります。私も、詩の合評をするときは毎回手探りのような気がしています」
 それでもなお、この手の問題には答えが出ないのです。わたしたちが詩人を知らなすぎるという問題もあるでしょう。教科書に載るような詩も、広大な自由詩という概念のほんの一端でしかなく、それだけに頼るのは心許ないどころの話ではありません。
「そう言えば、中津さんは短歌、もうできましたか」
「まだ考えているところですね。一応、一つだけは作りました」
「私はまだなんです。では、もう少し歩いてきますね」
「頑張ってください」
 お互い、程よく息抜きになったことと思います。わたしも少し立ち上がって、身体を伸ばしました。やや涼しく湿気もありますが、気分は悪くありません。
 その後、少し早いですがお弁当も食べてしまうことにしました。そのときにわたしはもう一首を得たのです。

 一面の砂礫も青く我が心青く眺むる遠かりし峰

 山というのは、遠くから見れば大抵青く見えるものです。それを少し遠巻きに詠んだ郷愁の歌です。
 それにしても、無難すぎる感じはします。郷愁などというテーマはありふれすぎています。さっきの歌のほうが歌会は面白くなりそうです。
 しかし結局、それ以上の歌は思いつかず、わたしは最初に五分で考えた短歌を出すことになったのでした。そして歌会では選を一つも貰えず、後で鳴滝さんに「冒険したなあ、と思いました。私は好きでしたよ」とフォローされることになりました。

 そしてその夜、作品は周囲の協力もあり、飲み会が終わって間もなく完成しました。小野寺さんがわたしのパートだけでも読みたいと言うので、読ませてあげることにしました。小野寺さんには少しだけお酒が入っています。
「……ふふ、この学者の人の口調が、中津さんを彷彿とさせる」
「そうですか……」
「でも、地の文とか魔女の台詞回しは頑張ってると思う。堅苦しくはない。ほのぼのギャグは、三級って感じ」
「それは微妙ということでは……」
「うん。なんか笑えるけど、印象に残るわけでもない。だから三級」
 そのような感じで、ところどころ容赦のない感想も貰いました。
「逆に、こういう作品の編集ってできるの?」
「編集は、苦手というわけではないですよ。滅多にこのような作品には当たらないですが……」
「それも見てみたいかも……誰がいいかな」
「冬部誌は先生と組む約束なので、次に機会があれば」
「抜け駆けだ」
「一年目の頃からの約束です。これだけは譲れないのです」
「そっか」
 その後はいつもより口数の多くなった小野寺さんにしばらく絡まれていましたが、作品を完成させた人がゲームを始めると聞いて移動しました。
 過去の合宿ではなんだかんだで、このような遊びにも興じる機会がなかったのです。いつか先生が苦手だと言っていた人狼は、わたしも得意ではありませんでした。ロールプレイの絡まない、戦略要素の強いゲームのほうが得意ですが、大人数で行うゲームには多くありません。
 気が付けば日付の変わるような時間です。同じ部屋では、安藤さんだけがまだ起きて遊んでいました。わたしはそろそろ寝ようと大部屋を出たところで、新井くんに呼び止められます。
「中津さん……ちょっと、ええか」
 いかにも深刻そうな重い口調です。
「はい……」
 わたしたちはいざとなれば人目につく、洗面所に移動しました。
「中津さん。昨日は、すまんかった」
 移動するなり、新井くんは頭を下げて謝罪します。それにしても、元よりわたしは、新井くんを許しがたい気持ちではなかったのでした。
「仕方のない人ですね」
「身綺麗でなくとも……とは言うても、やっぱり、中津さんには本当に世話になったし、思い出は綺麗なままでいたい」
 この期に及んで臆面もなく、格好つけたことを言う人だと思います。そうしたらわたしなどは、そこに付け込んでわがままを言わせてもらいたくもなるのです。
「それなら……もし、今度また小説なんかを書くときがあれば、絶対にわたしに読ませてください。新井くんの言う妄執がこの部を離れてどうにかなるものならば、それをわたしに見せてください。約束です」
「いや、俺のはそういうのじゃ……」
「そんなこと、ただとにかくこの部から離れて何かをリセットしたいだけだって、もうわかっているんですよ。まあとにかく、約束してくれるならわたしは今回のことも、退部することも許します」
「……まったく、中津さんには敵わんで。わかったよ」
 『Segments』の最後で主人公は小説を書けなくなりましたが、それは新井くん自身も小説を書かなくなることに対する、一つの正当化のようなものではないかと思います。作品で自分の心境を暗示する、自己と作品の結びつきが強い新井くんのやりそうなことです。
 わたしとの約束は、新井くんにとって思い込みを上回る呪縛になるのではないかと期待しています。これだけわたしに様々な苦労を掛けておいて、ただで逃げられるとは思わないことです。
「あとは、最後に……」
 しかしながら、ここからのわたしは、深夜で何かの制御が効かなくなっていたのかもしれません。
「わたしは、新井くんには期待していたんですよ。手の掛かる書き手のほうが、編集者として燃えるじゃないですか。先生や小野寺さんのような優秀な書き手に囲まれていると、猶のこと」
「まだ刺すか」
「『萌芽』の企画のことも、感謝していますし。あれがなければ、二年目が今のように強くまとまるきっかけは得られなかったでしょうね。そういうところは、わたしも認めています。むしろ、わたしのほうが至らなかったと思うくらいです」
「……そうか」
「だから、堂々としていればいいと思うんですよ。わたしはむしろ、考えを持ちながら尻込みしている新井くんなんて見たくありません。朝倉さんには、わたしからは言わないでおくので。あとは好きにしてください。以上です」
 このくらい言わないと、やっぱり満たされないものがあったのだと思います。言い終わってから、わたしは新井くんの顔を見ずに自分の部屋へ戻りました。
 本当に、「人生の編集者」のようだったと思いました。

二十七 安芸

 海が見えた。海が見える。
「これが初版だと、『海が見える。海が見える。』となるんですよね。ちょっと印象が変わります」
「そうだな」
「今の『海が見えた』っていうのは、完了形のニュアンスなのかな」
「わたしはそう思います」
 午前八時過ぎの山陽本線、三原行です。初日のホテルを取った福山を出てこのかた、外には瓦屋根の家並みや黄金に色づいた水田などが見えていましたが、東尾道に差し掛かるあたりでようやく海が見えたのです。
 尾道と言えば先に引用した『放浪記』の林芙美子をはじめ、多くの作家のゆかりの地です。映画や美術の分野でも重要な地域のようです。ここをわたしたちは最初の目的地に選んだのでした。
 尾道駅を出ると、もう道路を挟んですぐに海です。対岸の島には薄緑の背の高いクレーンが何本も立っていました。このあたりは昔から造船所が多いのだそうです。
 天気は良く、既に半袖で過ごせるほどの気温がありました。それでも今日は真夏日には届かない程度だと聞いています。
「さて……海は後からのお楽しみです。まずは千光寺を目指しましょう」
 尾道は東西に走る線路で山側と海側に分けられます。北海道で言えば小樽に近いですが、尾道は山が非常に近くて急峻です。そんな山の上にあるのが千光寺です。
「中津さん、あれは?」
 商店街のアーケードの下を東向きに歩くと、まもなく着物姿の女性がしゃがんでいる像を見つけます。傍らに行李と傘を置いて、小休止というところでしょうか。
「林芙美子像ですね。『放浪記』の一場面をイメージしたものなのだとか」
 像の前には、御影石にその一節が刻まれています。
 海が見えた。海が見える。
 今は建物に隠れてしまっていますが、昔はその眼差しの先に海があったのでしょうか。
「見えないけど、ここからでも海を感じる」
 小野寺さんもしみじみと海のほうを仰いでいました。
 先生はというと、手にメモ帳とシャープペンシルを持っています。これは、先生が旅先で取材をするときの慣例です。
「先生。今日はメモ帳、何冊持ってきているんですか」
「二冊だ。まだ一冊目も二割というところだから、足りるだろう」
「もうそんなに」
 それこそ、札幌にいたときからメモを取っていたのです。今の場面はこんな感じでした。

  コンパクトな街並み。海は近い。
  向島は大きくそびえ、造船所のクレーンを抱える。
  海風涼しくアーケード街を歩けば、海を望む女の像。

 先生のメモ帳の中で、一つの紀行文が出来上がっていくのです。わたしはそれも楽しみにしながら、また線路に沿って歩き出しました。
 駅から十五分ほど歩いて線路の下をくぐると、ロープウェイ乗り場に着きました。すでに行列ができていて焦る気持ちもありますが、ここでは先に見るべき場所があります。
「まずはこちらです。艮神社」
「うしとら?」
 初見ではまず読めない名前の神社です。地図で見たときから気になっていました。その名は北東の方角を表し、その方角にある鬼門を守る神社だということです。
「ここは、ロープウェイの上からでも見えるのですが、せっかくなので下からも見ておきましょうということで」
 鳥居をくぐって細い道、門をくぐって駐車場、階段上って社殿です。ここで社殿よりも目を引くのは、社殿の傘となるほどの大樹でした。ロープウェイはそのさらに上を登っていきます。
「クスノキ群か……これはもう、百年や二百年という話ではないだろうな」
「圧倒的ですね」
「御神木なのかな」
 わたしたちはこれからの旅の無事を祈って、神社にも参拝していきました。

  国道とは思えない、線路沿いの細い通り。地蔵が点在する。
  ロープウェイの真下の神社には、千年にも迫るであろうクスノキ。
  その幹や枝葉が天を覆うならば、根も大地を巡り、人々を護る籠をなすだろう。

 ロープウェイは十五分の周期で行き来しており、行列の見た目ほどは待たずに乗ることができました。下方を眺めていると、真下には先ほどの艮神社が、やや奥には密度の高い町並みが、さらに奥には陽光に輝く海と大小の折り重なる島々が見えました。
 上方を見ると、千光寺は行く先の山の中腹にありました。そうかと思えば、ロープウェイはぐんぐんと高度を増し、間もなく千光寺も通り越してしまいました。ロープウェイの終点は、この山頂にあります。
 わたしたちはまず、山頂の展望台に入りました。急峻な山ということは、それだけ遮るものも少なく、海を近くにはっきりと見ることができるということです。ここからは、海を行き交う船も、島の間に架かる橋を走る車も見えます。そこに確かにある町。そして人々の営みです。
「多分、夜景は静かなんですよ。ここ」
「そうかもしれないな」
「それなら、星がよく見えるかも」
「そうですね」
 三人で写真を撮ったりもして、わたしなどは既に満足してきたのですが、見どころはまだまだ続きます。この山頂から千光寺へ下る道は「文学のこみち」と呼ばれ、様々な名歌や名句が岩に刻まれているのです。
「あっ、早速ありますよ。子規ですって」
「なるほど」
「向こうで、俳句のコンクールの募集もやってた」
「つまり、ここではハイキングも俳句もできる……ハイク・ロードですね」
「ふふっ」
 小野寺さんは笑ってくれましたが、先生は白けたような表情でメモを取っていました。

  山頂からは、町のすべてが見えるように思われた。
  それでも、島々の向こうまではどうにも見通せない。まさにローカルな景色だ。
  ローカルな景色を毎日眺めるような暮らしにも憧れる。
  中津は戯れに、ここから千光寺へ下りる道を「ハイク・ロード」だと言った。
  わたしもくだらないと思いつつ、ほんの少し笑いそうだった。

 最初こそ余裕もありましたが、多数の大岩によって形作られた道はちょっとした登山道のように険しく、すべての名歌名句を探すのは断念しました。
 そのうち、線香の匂いがしてきます。お堂の裏の細い通路に出ると、そこはもう千光寺の境内でした。十二支に対応付けられた石仏が出迎えてくれます。背景の岩壁は青く苔むして、厳かな心持ちになります。
 少し標高が下がっても、見晴らしは相変わらず良好です。小野寺さんはパノラマの写真を撮ったりもしていました。この境内は崖から少しせり出していて、海側を眺めるには適しています。
 わたしたちは本堂にお参りした後、裏手の崖のほうへ向かいました。ここでのお目当ては、いつかの敷島さんの作品に出てきた修行場です。
「さて……先生、これが噂の鎖修行です」
「聞きしに勝る険しさだな」
 いきなり、身長より高い岩の合間を、一本の鎖だけを頼りに登らなければなりません。その先も、コースはかなり上まで続いています。女人コースだとは書いてありますが、そうであっても厳しそうな感じがします。
「この上からの眺めは遮るものもなく、展望台とはまた違った角度だという話ですが……」
 とりあえず、全員で挑戦しようという話ではあったのですが、登るときは一人ずつなので、誰が最初に行くかが問題なのでした。そもそもわたしたちは、総じて運動が得意ではありません。体力で言えば明らかに先生が一番で、わたしと小野寺さんは同じくらいです。
「中津さん、先に行ってくれる?」
 こういうとき、小野寺さんはちゃっかりしています。先生に言わないところも含めてです。
「わかりました。行きましょう」
 入場料として百円を納めて、わたしは両手で鎖を握ります。そもそも、鎖の登り方もよくわかりません。とりあえず、鎖の繋ぎ目の輪に足を掛けていきます。
 これが思いのほか揺れるのでした。どうにか最初の壁は越えましたが、次は二枚に割れた岩が立ちはだかります。もはや手足が震えていましたが、どうにか鎖に集中して無心を保つことで、どうにかも越えることができました。
 もう一つ岩を乗り越えると中継地点があり、奥に眺めの良い場所がありました。一旦、そこで二人を待つことにします。
 さすがに二人とも苦戦していましたが、意外と小野寺さんのほうが、要領よく岩肌も使って登っている感じがしました。とはいえ、二人ともわたしのように手足が震えたりしていなかったので、明らかにわたしの負けです。
「震えているが、大丈夫か?」
「中津さん、高所恐怖症?」
「いえ、わたしはそのつもりは、なかったのですが……」
 そこからの眺めと、次が最後だという事実が、わたしを元気づけてくれました。しかし最後だけあって距離が長く、なめらかな岩肌は取っ掛かりが掴めず、わたしは途中で一度引き返さざるを得ませんでした。先生や小野寺さんにお手本を見せてもらうことで、ようやく全行程を終えることができたのです。

  千光寺に、線香の匂いが立ち込める……。
  梵字岩や水琴窟など、珍しいものも見られた。
  蝋燭を立て、諸願成就を祈念する。
  そして、噂に聞く鎖修行へ挑むこととなった。
  小野寺は意外と身軽で器用に登っていたが、中津は手足を震わせていた。
  それにしても、ここでの修行は石鎚山に挑むためのものらしい。
  わたしの場合は……沢登りの練習にはなっただろうか。

 修行場から下りて墓地を抜け、次の目的地に向かいます。わたしの手足がようやく落ち着いてきた頃、その看板が見えてきます。
「鼓岩です」
「先客がいるようだな」
 町や海に向かって突き出た一枚の岩の上で、二匹の猫が休んでいました。茶色と黒です。
「かわいい……」
 小野寺さんは早速写真を撮りだしています。実際、偶然にもここまで猫はいませんでしたが、本来の尾道は猫の町としても知られているそうです。
「あそこのハンマーを使うのか」
「はい」
 先生が見つけたのは、岩の先のほうに固定されたゴム製のハンマーです。その傍らには窪んだ部分があり、そこをハンマーで叩くと、変わった音がするのだそうです。
「変わった音、とは……」
 猫とは距離を保ちつつ、先生が窪みへ近づきます。ちなみに、岩の先には柵もなく、落ちたら下の林へ真っ逆さまです。わたしはそれで躊躇してしまったので、やはりというか高所恐怖症なのだと思います。
「やってみるぞ」
 先生はハンマーでその窪みを二回叩きました。確かに、岩の感じとは明らかに異なる、鼓のような響きのある音が鳴ったのです。
「不思議な音だ。中に空洞でもあるのか、あるいはこの窪みの働きか……」
 先生は窪みの外を叩いてもみますが、そちらでは鈍い音しか鳴りませんでした。窪みの部分だけ、特別に何かが起きているようです。
「神秘の音ということにしておきましょう」
 猫は慣れているのか、その音も気にせず佇んでいました。そして、小野寺さんはその様子をずっと眺めて和んでいました。
 ひとしきり楽しんだところで、千光寺公園での予定は終わりです。戻って千光寺の境内を反対に抜け、公園を出ます。この先は、車も入れない山坂の町です。

  鼓岩。神秘の音というのなら、わたしも深く追及しない。
  絶好の眺めを前にして、岩を叩くことに興じるのはいささか奇妙でもあった。
  二匹の猫も、そんなわたしを冷笑するかのように佇んでいた。

 町に入ると、途端に猫をたくさん見るようになりました。ところどころにある広場では、餌を置いているところもあるようです。それから、各所に様々な著名人の足形が展示されていました。これは必ずしも地元に関連する人ではないようです。
 細い道を通って、階段を上り下りして、次の目的地である文学記念室に来ました。
「風情のある庭だな」
 生垣に飛び石、綺麗に剪定された庭木など、伝統的な味わいのある庭園が広がっていました。海もよく見え、とても気持ちの良い庭です。家屋も重厚な瓦屋根の平屋です。本州以南では一般的な造りかもしれませんが、北海道ではこういったものもあまり見られないのです。
「こういったところで細々と暮らすのは憧れますね……」
 現代的な観点では、決して豊かな暮らしではないのかもしれません。しかし、そういった無機質な価値観から逃れて暮らすには、このような場所が適していると思います。
「休みの日には、しまなみ海道を巡って……」
「四国に渡ったら、今治でしたっけ」
「その間にも、たくさんの島がある」
 次に来ることがあれば、島巡りで決まりでしょう。そんな想像も掻き立てられます。
 文学記念室に入ると、屋内からも窓の外に海を望むことができました。受付の男性が志賀直哉の『暗夜行路』の一節を暗誦しながら、展示を紹介してくれます。『放浪記』といいこれといい、それなりの長さの小説ですが、帰ったらちゃんと読まねばなるまいと思いました。

  千光寺公園を出てから、猫をよく見かける。
  山坂の町、猫の町。文学の町でもあるし、映画の町でもあるらしい。
  入り組んだ細道を、猫のように気ままに迷ってみるのも面白いかもしれない。
  そうしたところから、様々な作品が育まれる。
  地域性のあるような作品をわたしは書いたことがない。
  いつかは、書いてみたいものだと思う。

 別の場所にある志賀直哉の旧居も見学して、わたしたちは坂を下りました。再び線路の下をくぐると、最初の道に戻ります。道路を渡って少し歩けば、もうそこは波止場です。
 ちょうど、向島行の小型のフェリーが船着き場を出るところでした。「日本一短い船旅」という看板があったので少し足を止めて眺めていると、対岸まで二分ほどで着いてしまいました。
「この後の予定は?」
「まずはお昼ですね。尾道ラーメンを食べましょう。それから、呉線で竹原まで行って、そこからバスで夜には広島です」
「竹原には何かあるのか?」
「安芸の小京都と呼ばれ、町並み保存地区があります」
「なるほど」
 今日の尾道との抱き合わせは竹原、鞆の浦、呉の三択でしたが、地理的な間を取って、竹原が選ばれたのでした。
「夜は、竹原でお好み焼き」
 小野寺さんはグルメへのこだわりが強く、ほとんどの計画を立ててもらっています。
「広島のお好み焼きだな」
 ともあれ、まずはガイドマップを片手に海沿いを歩きつつ、ラーメン屋を目指します。空はいよいよ快晴となり、秋口の優しい日差しが祝福のように降り注いでいました。意外とこんな何気ない瞬間のほうが、記憶には長く残るのだと思っています。

  志賀直哉の旧居。当時は三世帯が一つ屋根の下だったと聞く。
  やはり海が見える。この海の眺めは、人の心を癒すのかもしれない。
  志賀直哉は父との不和により家出し、まずこの場所に流れ着いた。
  発端は、父に作家になることを否定されたことなのだという。
  その逆境に抗い、最後には作家として大成した。
  わたしに逆境はあるか。 


   ***

 鯛の出汁が効いた尾道ラーメンを食べ、一時くらいまで海辺を散策したり、駅のテラスで休んだりしました。竹原のある呉線はかなり電車の本数が少ないので、急いでもあまり意味はありません。
 先生は道中の電車でも、少しずつメモを取っていました。意識して見れば、駅ごとに何かしらは見つかるのです。小説になったら一行以下にまとめられてしまいそうな時間ですが、先生は余すところなく何かを得ようとしていたのです。

  三原で乗り換えて呉線に入ると、電車は海沿いを走るようになった。
  とても眺めは良いが、たまにふとした拍子で転落するのではないかと思うほど海に近づく。
  反対側の山も近い。道なき道に、やっと鉄道を通したという感じがする。

 小野寺さんは、旅行ガイドと外の景色を交互に見ていました。
「浦川さんは、大久野島って知ってる?」
「聞いたことがないな」
「この近くの島で、野生化したウサギがたくさんいることで有名」
「ああ……そのような島があるのは、聞いたことがある。この近くだったのか」
 わたしは計画を立てる段階で聞きましたが、前後の予定と噛み合わなかったので、行程には入りませんでした。
「でも、『ウサギ島』というのは表向きの姿なんですよね」
「うん。戦時中は毒ガスなんかの貯蔵庫だったりもして、地図から消えていた時代もあった」
「ほう」
 先生もウサギにはあまり興味がなさそうでしたが、歴史の話には興味を示しました。
 ちなみにわたしはこの景色を見て「多くの島があり、その中に大久野島がある」というダジャレを考えましたが、心の中にしまっておくことにしました。

 乗り換えてから三十分ほどで竹原に到着です。駅舎は先ほどの尾道駅から見て一段階質素になりましたが、人の乗り降りは多めでした。
 駅を出たところで、小野寺さんが足元を指します。
「これ、『おかえりなさい』だって」
 歩道に石板が埋め込まれていて、文字が彫られていました。心憎い歓迎です。
「危うく見落とすところでした」
「心のホームタウン、というようなことか」
 駅前に観光案内所があったので、ガイドマップを貰っていきます。
「最近は、連続ドラマやアニメの舞台になったりもしたそうですね」
「尾道といい、そういう話がよく出るね」
 わたしたちと一緒に電車を降りた人の中には、アニメの舞台を巡る「聖地巡礼」が目的の人もいたでしょう。こういうのは、新井くんが好きそうな話です。
「町並み保存地区はこの商店街を抜けて、少し歩いたところだそうです」
「案内は任せる」
 閑静な商店街を通り抜けると、川沿いの道路に出ます。川は幅の広さに対して水が少なく、河川敷も乾いていました。
 そこからもう少し行くと大きめの橋があります。その橋のたもとにちょっとした広場があり、頼山陽の銅像があるのです。
「頼山陽先生之像……先生はご存知ですか?」
 文学部では近世の話になるとよく出てくる偉人です。しかし、先生や小野寺さんにはあまり馴染みがなかったようでした。
「朱子学だったか。名前しか知らないな」
「私も、日本史の知識は中学で止まってるから……」
「まあ、わたしもそこまで詳しくはないのですが……竹原は、頼山陽の父の出身地であり、本人もたびたび訪れたということだそうです」
「縁の形も様々だな」
 広場に据えられた立札の脇に、一本の太い柳の木が立っています。たまに吹き抜ける風は心地よく、ほんのりと海の匂いがしました。
「これ、筍だ」
 ふと、小野寺さんが広場の入口に生えた石のオブジェに目を付けます。
「竹原というからには、竹があるのだろうか」
「伝統工芸の竹細工はあるらしいですが……」
 今のところ、竹林は見ていません。ちょうどその広場の向かいに道の駅があったので、次はそこを覗いてみることにしました。

  竹原は海に面して、三方を山に囲まれている。
  商店街から川沿いにかけては、時代の進みすぎていない、温かみのある町並みだった。
  川辺の柳と、海の匂い。趣がある。
  ここには酒蔵もある。土産は塩、醤油、ポン酢など、調味料が多い。
  持ち歩くのは大変なので、最終日の広島駅や空港まで買わないでおく。

 道の駅で三時くらいまで休憩して、いよいよ町並み保存地区です。周囲より一段古そうな木造瓦屋根の建物が、石畳の通りに沿ってずっと奥まで立ち並んでいました。わたしたちはちょうどその端から入ったので、まずは反対側の端まで歩いてみることにしました。
「ここに住む人もいるようだな」
「はい。半分くらいは普通の民家ですね」
 もちろん、保存されているような建物もありますし、酒蔵、工房、茶屋など観光客が立ち寄るようなところもあります。それでもなお、ここに暮らす人々の気配というか、日常の空気を感じるのです。
「来月、ここで何かイベントがあるんだね」
 小野寺さんが、工房の表に掲示されたポスターを見つけました。『町並み竹灯り』という、竹細工のキャンドルライトでこの通りが彩られるというイベントのようです。
「小樽の『雪あかりの路』を思い出すな」
「はい。歴史的な町並みには、蝋燭の灯が映えます」
 思い起こせば、当時はまだ一年目です。先生と小野寺さんもぎくしゃくしていた頃でした。
「二人で行ったの?」
「いえ、染谷さんと一緒ですね。一年目の頃ですよ」
「そっか、高校の文芸部のつながりで……」
 この話は、小野寺さんに少し距離を感じさせてしまったかもしれません。わたしはフォローの言葉を探します。
「昔の話は、このくらいにしましょうか」
「中津さん、気を遣ってる?」
「はい……」
 この間も必死に頭を回転させているのですが、気の利いた言葉は見つかりませんでした。
「気にしないで。もう、中津さんのことも『ずるい』とは思わないから。行こう」
「小野寺さん……」
 わたしは心の中でお礼を言いました。今の小野寺さんは、確かに心の底から楽しそうです。その言葉にも、嘘はないのだと感じました。

  町並み保存地区。石畳の通りを歩く。
  保存地区とはいえ、人の営みもある。時代は進みすぎていないにせよ、進んでいる。
  わたしは、小野寺が前だけを向いて歩める人間であって、救われたのかもしれない。
  昔、彼女の詩を否定したことも……今となっては乱暴だったと、思い返して胸が痛む。

 歩いてみると意外に長い通りでした。反対側の端には、道の真ん中に風格のあるお社が鎮座しています。
「胡子神社……ですって」
「えびす?」
 七福神の一柱に数えられる、福の神であるところのえびす様です。その漢字表記は非常に多様ですが、広島では広島市内の地名にも「胡」があるなど、この字が使われている例が多い印象です。
「豪商の邸宅がいくつかあっただろう。このような場所で、福の神に期待されることは一つ」
「商売繁盛、ですね」
「商売繁盛……」
 わたしたちには「商売繁盛」と言われてもあまり結びつかない感じもしますが、せっかくなのでお参りしていきます。
 次はそこから折り返して、脇道に入ったところを見ていきます。最初は尾道でもあまりなかった急な坂を上ったところにある、「かかえ地蔵」のお堂です。ちょうど両腕で抱えられそうな大きさの、かわいらしい衣で着飾った石のお地蔵様が安置されています。
「書いてある通り、真言を唱えつつ、お地蔵様を抱えると願いを聞き入れてくれるという……」
「重さを想像しなくても良いのか? 想像より軽かったら願いが叶うというパターンがある」
「そういうのは、ここではないらしいですよ」
 とりあえず、なんとなくの空気でわたしが最初に挑戦します。それにしても密度のありそうな石です。そもそも腕で抱えるような大きさの石が、重くないはずもありません。腰を痛めたりしないように、どうにか楽な体勢を見つけます。
「では……うっ」
 力を入れましたが、少し動いただけで全く持ち上がりません。無理をすると危ないので、一旦断念します。
「先生、これは思ったより手強いですよ。お願いします」
「それほどか」
「私もやってみる」
 先生より先に、小野寺さんが前に出ます。お地蔵様は少し高い台にあって、わたしより背の低い小野寺さんはそこでも苦労があるようでした。
「……これは、無理そう」
「小野寺さん。先生にわたしたちの願いを託しましょう。先生、わたしたちが後ろから支えるので、思いっきりお願いします」
「仕方がないな」
 まるで歯が立たなかったわたしたちを見て、先生もあまり自信があるようではありませんでした。わたしが文字通り背中を押さなければ、試さずに諦めてしまったかもしれないと思います。
「行くぞ」
「はい」
「お願い」
 先生は静かに力を込めて、お地蔵様を持ち上げようとします。すると、わたしたちではちょっと傾けるのがやっとだったお地蔵様が持ち上がりました。やはりかなりの重さがあるようで、先生も全身の力でバランスを保とうとしているのがわかります。
「よし、持ち上がった。真言を」
「はい!」
 わたしと小野寺さんは先生の背中に手を添えて、三人で真言を唱えます。わたしたちはこんなことでご利益にあずかることはできないかもしれませんが、それよりも確かに貴重な時間を過ごすことができたとは思いました。これまで、今ほど三人の心が重なった瞬間はなかったのですから。
 願いを聞き入れてくれるという触れ込みでしたが、夢中だったわたしは何か願いを意識する暇もなかったのでした。だから、無意識下の願いが届いたことを期待しておきます。

  胡堂から折り返し、急坂の上にある「かかえ地蔵」へ。
  思ったよりも軽ければ、などという甘い考えを許さない、容赦のない重さだった。
  三人で力を合わせて願いを届けた、ということにしておこう。
  二人に頼られるのも、悪い気はしなかった。
  わたしの願いは……次の作品が、これまでで最高のものになること、だろうか。

 次に目指したのは、町並み保存地区の中間あたりにある普明閣です。また別の高台にあるお寺の境内にあり、今度は長い石段を上っていきます。その先に、鈍い朱色の櫓のような建物が現れたのでした。
「この櫓の奥がお堂になっているようですね」
「上がれるの?」
「はて……」
 楼閣の下の段階で、先ほどの町並みのほとんどの建物の屋根より高い位置です。塀瓦の向こうにずっと市街を一望でき、遠くは海まで見えます。とはいえ、せっかくならこの上からの眺めを見たいものです。
「こちらの階段は、墓地に続いているだけのようだな。奥だ」
 先生が手前側の階段の先を見てきてくれました。言われた通り少し奥に入ってみると、渡り廊下の途中にわかりやすい入口がありました。靴を脱いで、屋根の下を上がっていきます。
「おお、これは……」
 何も遮るもののない、思わず声が出てしまうほどの絶景です。
「ここで笛を吹いたりしたら、遠くまで聞こえるんですかね?」
「夜だったら聞こえるかもしれないな」
 四時を回り、辺りは少しずつ暗くなってきました。とはいえ、まだ夜景という時間ではありません。
「ここの夜景は、家の明かりもあんまり見えなさそう」
 小野寺さんに言われて、わたしは町並みに目を凝らします。確かに家に対して屋根が広かったり、窓が小さかったり、そもそも家屋が密集していたりして、あまり多くの明かりが見えそうな感じがありません。
「確かに、そうかもしれません」
「この町には、静かな夜景のほうが似つかわしいだろう。星もよく見えるはずだ」
「そうですね」
「私も、そっちのほうが好き」
 静かな夜景と星空。都会に住むわたしたちが忘れて久しい情景だと思いました。ここで見ることができたらと想像したのも束の間、わたしは楼閣の下からこちらに強そうな電灯がいくつか向けられているのを見つけてしまいました。夜になればここはライトアップされて、朱色が夜の闇に映えるのでしょう。
 わたしは星を見る人でありたいと思うので、二人には何も言わないでおきました。

  普明閣。高台にあり、町から海まで一望できる。
  そろそろ慣れてきたが、やはり家屋はかなり密集している。人口密度が高そうだ。
  まあ、これは北海道のほうが広すぎるという話になる。
  気候の面でも、このあたりは雪もほぼないだろうし、道が狭くてもあまり問題はない。
  静かな夜景の話になった。大抵、見ごたえのある夜景は相応の人口によって成り立つ。
  しかし、そんな夜景を語るとき、夜景によって失われたものは語られない。
  ここは星がよく見える。きっと、そうだと思う。

 その後も町並み保存地区の周りで資料館を覗いたりもして、五時を過ぎたところでお好み焼き屋に入ることにしました。土蔵を転用したような外観が印象的なお店です。入ってみると天井の高い空間でしたが、香ばしいソースの匂いを濃く感じました。
「雰囲気のあるお店ですね。やっぱり蔵レストランなのでしょうか」
「そうかもしれないな。内装はリフォームしているとしても、建物自体は蔵だと思う」
「美味しそうな匂い……」
 ちょうど看板メニューのスペシャルお好み焼きなるものがあったので、三人でそれぞれ注文しました。出てきたのは、直径十五センチほどのお好み焼きで、表面にコーンが散らされ、中央に一山のチキンライスが載ったものでした。イメージしていたものとは若干異なりますが、看板メニューになるだけの個性を感じます。
「では、頂きましょうか」
 ヘラで切り開いてみると、中にはミートボールも埋まっています。土台の焼きそばも含めてなるべく一遍に食べるようにすると、それぞれの味がソースと絡んでうまく調和します。
 単純に言えば、先生はバラバラに食べがち、小野寺さんはまとめて食べがちですが、今回の場合は小野寺さんのほうが美味しく食べられたのではないかと思います。
 実際、ボリュームも相応にありましたが、よく歩いてきた今日のわたしたちにはちょうど良い量だったと思います。
「小野寺さん。竹原を選んで良かったですね。このお店も最高です」
「ありがとう」
「先生は、いかがでしたか?」
「まあ、よく見つけてきたと思う。竹原は知らなかったが、思ったより見どころもあったな」
 先生が知らなかったというのも無理からぬ話です。広島旅行のガイドブックではやはり一番に宮島や広島市内、次に尾道やしまなみ海道、次点で呉や山口県の岩国という感じで、竹原は小さくしか扱われていないのでした。たまたま経路上の良い場所でなければ、見落としてしまっていたでしょう。
「明日の宮島も楽しみですね。多分、今日のようにまた歩き回ることになるので、しっかりスタミナをつけておきましょう」
「神社や、水族館くらいではないのか?」
「山に登ります」
「何かと、高いところが好きだな」
「先生も、嫌いではないでしょう?」
 この盛りだくさんの旅行も、この夜で折り返しです。そう思うと、急いて先の話をするのはもったいない気もしました。今の空気をもっと、いつでも思い返せるくらいに、全身で味わっておいても良いのではないかと。
 それでも、広島行のバスの時間が迫っています。わたしたちは最後に食後のソーダフロートなどを飲んでから、店を出て町並み保存地区を後にしました。

  「広島のお好み焼き」と表現するのが地元目線では適切なのだそうだ。
  とはいえ、現代では交雑も起こっているし、厳密な定義はよくわからない。
  焼きそばを土台にするのが基本として、それ以上はあるのだろうか。
  ここのお好み焼きは、ミートボールが埋まっていたりして、なかなか満足感がある。
  機会があれば他の店でも食べてみたいものだが、全く別のグルメも捨てがたい。

 今日の夜は曇り空で、星がよく見えるかは結局わかりませんでした。とはいえ、駅までの道中は国道沿いであっても街灯が少なく、場所を選べばしっかり天体観測ができそうです。
 駅前から出るバスは空いていて、わたしたちは最後列で三人並んで座りました。先生が真ん中です。
「私、ちょっと寝るね」
 窓際に座った小野寺さんは、バスが発車して間もなく寝てしまいました。実際、わたしも疲れてはいて、広島まで二時間弱のこの時間をずっと起きていられるとは思っていません。それでも、先生との時間を起きて過ごしたいという気持ちがありました。
「そのメモ、かなり進んだように見えますね」
「半分は埋まったな。明日で使い切って、明後日はもう一冊だ」
「ちょっと、見せてもらえませんか」
「ああ」
 先生は、最初に見せてもらった尾道のページから、ゆっくりとページをめくって見せました。多分、それより前にはわたしにも見せられないことが書かれているのだと思います。
 先生の言葉。先生の気持ち。同じことを考えていたのがわかって、微笑ましくなったり。わたしにはなかった視点に気付かされて、感心したり。意外な心境が垣間見えて、もっと深く知りたくなったり。このメモは、とびきり豊かな世界をわたしに見せてくれるのです。
「……ありがとうございます」
 その感覚は、とても懐かしいものでもありました。わたしが先生の編集になったあの宿泊研修の夜にも、こんな風に先生の書いたメモを読ませてもらったのです。
 そのうえ、今回のメモには以前にはない感動的な要素がありました。それは、先生以外の人物――わたしや小野寺さんが出てくるところです。
 自分自身しかいなかった先生の世界の中に、今ではわたしや小野寺さんもいる。場合によっては、それ以上の広がりを見せることもあるかもしれません。そのことが、たまらなく嬉しかったのです。
「ふふ、何を泣いている」
「嬉しくて……」
 そんなわたしを見て、先生はうっすらと笑いながら、またメモに新たな文章を書き入れました。そこにはまず間違いなく、今のみっともないわたしが出てくるのでしょう。
「な、何を書いたんですか」
「秘密だ」


   ***

 晴れた瀬戸内海の上、前方の宮島は朝靄に日差しが反射して真っ白でした。これから満潮に近づく時間帯で、厳島神社の床下に海面が迫っているのが見えます。
「先生、鳥居が見えますよ。本当に海の中に立っているんですね」
「潮が引いたら、土台が露わになるらしいな」
「近くまで歩いて行けるんだって。今日は九時くらいがピークで、そこから引いていくから、午後には歩けるようになるはず」
 行きのフェリーは、少し遠回りして鳥居のよく見えるコースを取ってくれるものでした。それでも乗船時間は十分くらいで、尾道と向島ほどではないものの非常に近いです。北海道の離島はどこも気軽には渡れないので、新鮮な感覚です。
 島に上陸すると、「シカ注意」の掲示が目につきました。
「ここにもシカがいるんですね、しかし一体どうやって……」
「まさか泳いでは来られないだろうし、人が入れたか、そうでなければ島の起源にまで遡るかだな」
「ガイドブックには、数千年前に島ができたときからいるって書いてある」
「本当の野生動物なんですね」
 フェリーターミナルを出て、厳島神社に向けて海岸沿いを歩くと、通りや浜辺にシカがいます。この道は参道から外れているので、通行人よりもシカがたくさんいるくらいです。中には幼い、いわゆる「鹿の子斑」の個体もいて、小野寺さんはかわいがって写真を撮っていました。
 わたしは高校の修学旅行で行った奈良公園を思い出していましたが、こちらのシカはまだ全般的に大人しい気がします。餌となるものを見せなければ、ということかもしれませんが。
 十分ほど歩いて、厳島神社のある入り江に差し掛かりました。社殿が水に浮いて見えるほど、海面はスレスレまで上がっています。少し波があったら浸水してしまいそうな危うさです。
「あそこの床、よく水に浸からないですよね」
「計算されているのだろう」
「私は昔、あの全体が本当に水に浮いてるんだと思ってた。でも、さすがに潮位が高すぎると浸水して、拝観できなくなるみたい」
「そうなんですね」 
 今日は土曜日ということもあり、観光客もこの時間から来ています。ちらほらと制服姿の集団もありました。わたしたちも早速、拝観料を払って中に入ります。
 入ってすぐ通路の外に見えるらしい「鏡の池」が完全に水没しているなど、ややイレギュラーな状況ではあるようですが、水上の神社はとても涼しげで、神社であることを考慮しなくても清らかな感じがします。
「ここの本殿の神様は、古くは平清盛も信仰したと言いますよね。どのような神様でしたっけ」
「基本的には、国の守り神っていう意味合いなのかな。あとは海の神」
 わたしは文学部に属するものとしてもう少し歴史なども勉強するべきなのですが、こと神様の話に関しては、神社巡りを趣味とする小野寺さんのほうが詳しいです。
「それで、周りには別の神社もいくつか入ってて、中には菅原道真公もいる」
「なるほど」
 本殿の正面には、床が海上の鳥居に向かって桟橋のように伸びている場所があります。ここからはどの方角を向いても良い眺めです。
「本殿の後ろの山々も雄大ですよね。ここが島だということを忘れそうです」
 厳島神社の御神体であり、霊山として名高い弥山です。今日はこの後、その頂上まで登る予定になっています。
「十一月くらいになったら、紅葉がすごいと思う」
「そうですね……それはさぞ、神々しい景色でしょう」
 九月の今は、山も青々としています。その連なる山体は、観音様の臥した姿にも見立てられたのだとか。その上からの眺めはどのようなものなのか、まだ想像もできません。
 順路を進むと、小野寺さんの話にあったいくつかの神社のほかに、海に浮かぶ能舞台などもありました。そして、最後に現れるのが反橋です。
「先生、この橋はすごいですね……」
 あっという間にわたしの身長を超えてしまうような急勾配の橋で、入口は柵で塞がれています。
「反橋か。確か、神域との境界を表すものだったか」
「そう。ここのものは、安土桃山時代に再建されていて、現存する日本最古の木橋だって」
 急勾配である上に、足場となる板も平気で傾いているので、まともに渡れる気がしません。
「今は渡れないようになっていますが……これ、人が渡るものだったんですかね?」
「飾りというわけではないだろう」
「こんな勾配、滑り落ちてしまいますよ。怖くて渡れたものではありません」
「まあ、生半可な気持ちで渡るものではないだろうし、これで良いのではないか?」
「確かに……」
 わたしは今回の旅で、「滑り落ちそうなもの」全般が怖くなってしまったようです。高いところというよりは、落ちるのが怖いのです。

  宮島に上陸。ここのシカは、特に神聖視されているわけではないらしい。
  海岸沿いを歩くと、神社に着くまでに二十頭ほども見かけた。そこかしこにいる。
  島の生態系は気になるところだが、それはさておき。
  満潮に近い時間帯で、厳島神社はまさに水上の神社となっていた。
  通路の外はことごとく水没し、それがある種、この世ならざる趣を演出している。
  これが、午後には水が完全に引いて、鳥居の下まで海面が下がるから恐ろしい。
  中津は反橋から滑り落ちる想像をして、怖気づいていた。想像力が豊かなものだ。

 神社を抜けて反対側に出たわたしたちは、そのまま山に向けて歩きます。山の麓の公園を抜けた先に、ロープウェイ乗り場があるのです。道中もシカは見かけましたが人は少なく、風の音や川の音は清々しく、数時間は居座っていられそうな雰囲気がありました。
 二本のロープウェイを乗り継いで、獅子岩展望台に降り立ちます。足場は土で固められ、柵もある安全な展望台ですが、ところどころに巨岩が露出しており、この山の荒々しさが垣間見えます。
「こういう巨岩が山の上にあったりするのって、どういう成り立ちなんですかね? 火山ではなさそうですけど」
「例えば、元は平地で、周囲が水などで削られたパターンがある。そこに海水面の上下が合わさって、複雑な階段状の地形になったりもする。あるいは、確かに今は火山がないところだが、大昔には火山があったというパターンもある。あとは地殻変動だ」
「なるほど。そう単純な話ではないんですね」
「火山があると地形が火山に支配されるからわかりやすいけど、火山がないと途端に難しくなるよね」
「近畿や中国四国は特に火山が少ないから、地形の成因としては地殻変動が一番支配的で、そこからが複雑だな」 
 理系の二人による地学トークが始まり、わたしはあまり理解できませんでした。高校では地学の授業はありませんでしたが、大学では教養で学ぶことができるのだそうです。
 この展望台からは、島の裏側を見ることができました。小さい集落もいくつかあるようです。海の眺めもまた、これまでで最も標高の高い場所だけあり、基本的には島々を見下ろす構図になり新鮮です。改めて、この瀬戸内海の島の多さを実感します。
「さて……先生、小野寺さん。そろそろ行きましょうか」
「あの上だな」
「そうだね」
 わたしたちの目指す山頂は、この展望台からもう一段高いところです。既にいくつかの屋根も見えています。しかし、コースは一度少し下ってからの上りなので、見た目よりも険しいのです。わたしはその下り坂へ、覚悟を決めて踏み出しました。

  紅葉谷公園を抜けて、ロープウェイで弥山に入る。
  ロープウェイ乗り場の手前はなかなか急な坂だったが、ここはまだ序の口だ。
  もう少し秋が深ければ、その名の通り紅葉の名所としての姿を見ることができただろう。
  ロープウェイを乗り換えたあたりから、島の裏側がよく見えた。
  あの集落では、人はどのように生計を立てているのだろうか。
  やはり漁業か。農業をしているようには見えなかった。
  そもそも、この島は神の島として、農業が禁じられていたと聞いている。果たして。

 三十分ほどで、本堂前の広場に到着しました。わたしたちはすぐさまベンチに座って休憩します。辺りには何やら強烈な線香の匂いが立ち込めています。厳島神社とはまた違った神聖さを感じます。
「この山自体は、どちらかと言えば仏教的な雰囲気がありますね」
「あの本堂も、あっちの霊火堂も、弘法大師がこの山を修行場として拓いたときのもの」
「真言宗、あるいは密教か」
 先生も昨年、『春は霞』という仏教的な世界観を背景にした小説を書いています。その中で描写される寺院の空気は、まさに今この場の空気と似通っていました。
 本堂に参拝してから、霊火堂という小さな建物に入ってみます。中央で茶釜が火にかけられており、奥には多数の蝋燭が据えられた祭壇のある空間です。わたしはむせ返るほどの煙と匂いに一瞬たじろいでしまいました。
「ここは強烈ですね……」
「この火は、聖なる消えない火と言われていて、種火が別に保存されてるんだって。その起源は、弘法大師がここで求聞持法の修行をしたときから」
「求聞持法、聞いたことがあります。見聞きしたことを忘れない能力でしたよね」
「そうだな。言うなれば無限の知識。もちろん、あらゆる経典を暗誦するにも役立つが、その本質は、真理を極め、仏となるための手段だ」
「求聞持法は、ある一つの真言を百万回唱えるの。休憩は取れるけど、基本的にはこういう場所に籠って、百日間とかでやり通す。挫折した人も多かったんだって」 
「それは、気の遠くなるような修行ですが……成し遂げれば人間離れした能力を得ることもできそうな、絶妙に説得力のある設定ですね」
「まあ、伝説というか、権威付けの側面もあるだろう。とはいえ、誰でも修行を成し遂げれば仏と同等の存在になれるという世界観は、宗教としてはこの上なくシンプルだが強力だな」
「古くから続いているだけはありますね」
 霊火堂を後にしてから、わたしが求聞持法を行うとしたら何を目指すかを考えてみました。例えば、図書館のあらゆる本を頭に入れることができたらどうなるでしょう。それだけでは恐らく、真理に至るまでは行かないのです。知識はあくまで知識であり、それをもとに自分自身が考えて初めて、悟りは開かれるのだと思います。だから、膨大な知識の圧力に耐えられるだけの精神を鍛えることも重要です。わたしは多分、その点がネックになって知識を扱いきれないと思いました。

  弥山本堂に到着。展望台からは三十分ほど。
  ここは弘法大師の修行場だという。道中にもお堂のような建物があった。
  霊火堂はその一つであり、消してはならない火を守り続けている。
  求聞持法は、見聞きしたことを忘れない、無限の記憶力を得るための修行。
  人は忘れないことに憧れる。しかし、全く忘れないのも大変だ。
  無限の記憶力は、望むことすべてを為すための力となり得るか。
  結局は、自分で学び続ける必要がある。それ自体は全知全能を意味しない。
  修行は永遠に続く。宗教の見せる希望というものは、案外そういうものだ。
  そしてやはり、文芸のことも自分で切り開かなければならない。

 弥山の山頂は、霊火堂からさらに少し歩いたところです。道中は見晴らしの良い場所も増え、山頂が近づくにつれて、自分の体の何十倍もあるような奇岩が折り重なっているような場所も増えてきました。これらの岩が自然に地形の一部を成していることには、畏敬の念を覚えてしまいます。
 山頂の広場も、周囲を岩に囲まれた場所でした。いくらか人はいますが静かです。屋根のある展望台が建っており、その中からは島の外がよく見えます。
「標高で言うと、五百メートルくらいですって」
「最初が海だったことを思うと、高いところまで来たものだな」
 今日は少し雲のある晴れで、若干湿度は高くなっていましたが、風が吹くと爽やかでした。
「この瀬戸内海の空を飛んでみたいですね……」
「わかる。絶対気持ちいい」
 小野寺さんは珍しくはしゃぎ気味に、あちらこちらを写真に収めています。先生はやはりそのような感情を見せませんが、メモには心の動きがしっかりと記録されているのだと思います。
 少し休んだ後、私たちは本堂へ戻る別のルートに入りました。こちらのルートには、「干満岩」と呼ばれる岩があります。大岩の上面に、円盤状の穴ができていて、その中に水が溜まっているのです。
「この水位は、海の潮位と連動して上下すると言われているのですが……」
 今はちょうど、中間くらいの時間帯です。潮がどこまで引いているかはわかりませんが、干満岩には満水から少し減ったくらいの水が溜まっていました。
「一度見ただけでは偶然を否定できないし、そもそも基準がわからない。信じたければ信じればよい、というものだろう」
「この島ならこういうこともあるかもしれない、と思っているくらいが楽しいですね」
「真面目に考えると、この水溜りの底から海面の高さまで管が通ってて、毛細管現象みたいな感じで水が上がってくるとか?」
「しかし、それではこれだけ溜まるまではならないはず。こちら側も開口しているし、大気圧が掛かる……」
「せ、先生。理系トークはわたしがついて行けないので、ほどほどにしていただけると……」
 尾道の鼓岩といい、不思議なものを科学的に解き明かそうとするのが楽しいのはわかります。しかしながら、わたしはもう少しお腹が空いてきていたのでした。

  弥山山頂。札幌で言えば、藻岩山より若干低いくらい。眺めを楽しむには十分だ。
  角ばった大岩が多いのは、島の成因を知る手掛かりとなるか。岩の成分も重要そうだ。
  岩は多いが、何かの拍子に崩れてきそうな危うさは感じない。重く安定している。
  わたしはパワースポットは信じないが、リラクゼーション効果は信じる。
  静謐な霊山の空気を思いきり吸っておいた。最後まで、冷静であれるように。

 ロープウェイで麓に戻った後、わたしたちは弥山信仰の旅の締めくくりに大聖院を見るつもりでしたが、門前の軽く百段はある階段に直面して、主にわたしの心が折れてしまいました。後で余裕があれば来ることにして、先に水族館へ向かいます。
 途中、厳島神社の入り江を見ましたが、潮はもうかなり引いていました。神社を支える柱は完全に水から出ています。まだ入り江を歩いて渡れるほどではありませんが、そのうち歩けるようになるでしょう。
 水族館では様々な展示がありましたが、とりあえずの大きな目当てはスナメリです。見た目はイルカに近いですが、背びれがなく、口元が尖っていないのです。この近海にだけ生息する珍しい種類ということで、特に小野寺さんが興味を示していました。
「これは……要するに、イルカと同じ哺乳類なんですね?」
「そう。イルカとクジラの間の細かい種類の一つ。まあ広義のクジラって扱いが多いかな」
「どちらかと言えばクジラなんですね」
 そんなスナメリですが、ガイドブックでは「かわいい生き物」のように紹介されていて、確かに愛嬌のある表情の写真が載っています。しかし、この場で泳いでいる姿は特段、かわいらしさを感じさせるものではありませんでした。これは個人的な好みですが、わたしはイルカもあまりかわいいとは思わないのです。
「先生はスナメリ、かわいいと思いますか?」
「まあ……世間一般にはそうなのではないか? わたしは、ジュゴンやマナティよりはかわいいと思うぞ」
「では、イルカは?」
「同じくらいだな。だが、スナメリは珍しいから、その分印象が強くなるかもしれない」
 そんな話をしていたら、泳ぎ回るスナメリをどうにか写真に収めようと奮闘していた小野寺さんに睨まれてしまいました。
「なに、夢のない話してるの……」
「いえ、本物のスナメリは、そこまで……と思いまして」 
「よく見て。あの丸っこい頭とか、クジラを思わせる大きめの口とか、かわいいでしょ」
「うむ……そうですね」
 なんとなく共感を示しておきます。
「そうしたら、写真撮るの難しいから手伝って」
「わかりました」
 実際、水族館で写真を撮るのは簡単ではありません。当然フラッシュは禁止ですが、暗いのでシャッタースピードが遅くなるのが厄介です。普通に撮ると被写体が動いて見切れてしまいますし、先回りして撮れたとしても、ぼやけたりぶれたりしてしまいます。わたしの知識と腕前ではまともに撮れたものではありません。
 スナメリの泳ぎはかなり速く、遠巻きにどう動いても写るような撮り方をするのがやっとでした。小野寺さんはもう少し寄った写真を撮ろうと動いたり、カメラの設定を変えたりしていましたが、満足のいくような写真は数枚しか撮れなかったようです。
 ちなみに先生はわたしたちがスナメリに熱中している間、手持ち無沙汰に金魚の展示などを眺めていたのでした。

  水族館に入る。見どころはカキいかだ、タチウオ、そしてスナメリだという。
  他の魚も地域性を感じる。タマカイなどは北海道ではあまり見ないはずだ。
  小野寺はよく果敢に写真を撮ろうとするものだ。わたしは目に焼き付けることにした。
  漂うタチウオの姿を。うじゃうじゃと密集して泳ぐ金魚の姿を。

 館内のレストランで昼食を済ませ、アシカのショーなどを見てから、水族館を後にしました。神社の入り江は完全に潮が引いて、砂浜が現れています。海上の鳥居の近くまで歩いて行けるほどでした。
「おおよそ六時間で、ここまで様変わりするとは……」
「三メートルくらいは変わっているかもしれないな」
 砂浜ではたくさんのヤドカリを見かけました。砂を掘れば、もっと貝が見つかるのかもしれません。
「ミステリのトリックに使えそうな感じがしますね。写真の時間を偽ったが、潮位から本来の時間を看破されてしまう、とか」
「探せばありそうなものだがな」
 結局、大聖院には行きませんでした。砂浜を横断して、わたしたちが次に向かったのは豊国神社の千畳閣です。五重塔の裏手にある平たい建物ですが、その中はとにかく広いのです。いくつか奉納されたものが置かれている区画を除けば、柱の連なる何もない板の間が広がっています。内部は照明もないので薄暗いですが、壁も仕切りもないので風が吹き抜けます。休憩するにはちょうど良い場所です。
 わたしたちは中央に近いところの床に腰を下ろしました。
「本当に千畳くらいはありそうな空間ですね……」
「豊臣秀吉の時代に建てられたけど、未完成なんだって。一応、神社ではあるけど」
 神社としては豊国神社という名だそうです。天井にも奉納された多数のしゃもじや絵や書などが飾ってあります。
「あっ、『天壌無窮』の書がありますよ」
「……」
 本来は永久の繁栄を願う、この場に相応しい言葉です。ただ、その書がたまたま天井に飾られていただけなのです。わたしは悪くありません。
「ここのしゃもじは、戦勝祈願の意味合いなどがあるんでしたっけ」
「そうらしいな」
「元々は、この島で農業が禁止されていたから、代わりの産業としてしゃもじを作るようになったんだって。それが、戦勝祈願で奉納されるようになったりして……」
 奉納されているしゃもじは大きさも様々ですし、黒や朱色の筆文字や絵なども、一つとして同じものはありません。
「お土産にするには、少し仰々しいかもしれないですね」
「うん……」
 それでも、今日のわたしたちはまだ身軽でした。昨日と今日のホテルが同じなので、いくらか荷物を置いてくることができたのです。尾道を想定して大きめのリュックサックだけで来ていますが、荷物がいっぱいだったら、弥山ももっと大変だったでしょう。
 小野寺さんのリュックからは、先ほどの水族館で買ったというスナメリのぬいぐるみが顔を覗かせています。真っ白にデフォルメされるとさすがにかわいらしく見えます。一方、わたしや先生はこの旅でまだお土産を買っていません。
「先生は、何かお土産とか考えてますか?」
「日本酒を家族に頼まれているが、後はまだ考えていない」
「では、誰かに買う気はあると」
「そうだな。小池には何か買うつもりだ」
 先生については、その点は見逃さずに評価しなければなりません。とはいえ、今の先生にしては物足りないのも事実です。
「わたしは小池さんだけでなく、朝倉さんにも買うつもりですよ」
「そうか。ではわたしは相羽、入船、敷島、橋上に何か配るとしよう」
「二人とも、何その競りみたいなの……」
 小野寺さんの冷静な指摘で、わたしは熱くならずに済みました。全員に大盤振る舞いにまで行ってしまうところでした。
「まあでも、休み明け最初の部会でクッキー一枚でも配るくらいはあっても良いかもしれません。それ以外は各々で」
「そうだな」
「では、明日の広島駅や空港で一緒に選びましょうか」
「わかった」
「そういうことなら、私も手伝うよ」
「そうですね、ありがとうございます」

  豊国神社千畳閣。天井は低いが、とにかく広い。ここも静かで修行に向きそうな場所だ。
  このような寺社仏閣を見ると、すぐに修行という発想になってしまう。
  例えば、雨宿りにもちょうど良い場所だろう。それから、夏でも涼しそうだ。
  冬は寒くて、居れたものではないかもしれない。
  あるいは、不気味なシチュエーションはどうか。恐らく夜には真っ暗だ。
  柱の裏や床下に何が潜んでいてもわからないだろう。
  例えば忍者。そういえば、水族館のアシカライブも忍者のような演出だった。
  このような場所は、アイデアを出すのにも適している。
  今、ふとした瞬間にも、わたしはアイデアを探している。

 その後は、参道を歩いてもみじ饅頭を食べたり、海岸に出て波打ち際まで行ってみたりしてから、十六時過ぎに島を出ました。夕食はホテルの近くで汁なし担々麺を食べました。
 その夜、わたしの部屋に集まって、明日の予定の確認などをしました。やはり朝は早めです。平和記念公園の資料館には開館と同時に入って、その後は広島城を経由し、縮景園を見る予定です。
 そんな中、今日の分の先生のメモを一部覗かせてもらいましたが、どことなく先生の創作の悩みが垣間見えた気がしました。今のタイミングでは冬部誌のことかとも考えましたが、先生がわたしに編集を依頼してくれたときの自信ありげな態度を思い出すと、考えは棄却されました。
 その会話が終わった後のことです。一度は小野寺さんと一緒に自分の部屋へ戻ったはずの先生が、わたしの部屋に戻ってきました。手には不透明なクリアファイルを持っています。
「おや、先生。忘れ物ですか」
「それは大丈夫だ。少し話がしたい」
「……珍しいですね。どうぞ」
 わたしは椅子を出してからベッドに座ります。先生は椅子に座ると、クリアファイルの中身を出しました。コピー用紙が五枚です。先生はそれを、わたしの前に広げて見せました。
「冬部誌に、どの作品を出すかという相談だ。これらのプロットに見覚えはあるな?」
 わたしは一枚一枚に目を通しました。『虎狩兎』、『呪われた村』、『神霊の島』、『車窓』、そして『イモータル・エフェメラル』。すべて高校時代に先生が書いた作品のプロットです。
「これはつまり……高校の頃の作品を書きなおして出すということですか」
「そうだ。わたしたちは、真にこれらの作品を書いた頃を超えられているか。つまり、当時の作品と同じ構想から始めて、今はどこまで行けるかという試みだ」
「そうですか……」
 わたしはあまり納得していませんでした。確かに良いところはそれぞれの作品にありますが、単に書きなおすというのでは、結局これらの作品から地続きのところまでしか行けないのではないかと思うのです。
「思うところがあるのなら、言ってほしい」
 先生もそれを察して……というよりは、初めから自信がなかったかのような口ぶりでした。
「はい。集大成と言うからには、プロットからすべて作るべきだと思います。書きなおすというコンセプトでは、どこまで行っても当時のプロットに囚われる部分があるのではないでしょうか」
「うむ。そのような意見も当然あるだろうと思っていた」
「では、単にわたしを試したのでもなさそうですね」
 先生は頷きます。つまりは、過去のプロットに頼らざるを得ない状況だということです。しかしながら、それはなんだか話が違います。
「最高の作品を書く準備ができた……ということではなかったのですか」
「それに関しては、わたしの見通しが甘かった。申し訳ない」
「そんな……」
 先生は自分がこのような状況でも、わたしの都合を優先して再結成を申し出てくれました。それでも、肝心の先生が満足のいく作品を書けないようでは意味がありません。
「つまり先生は、新作のプロットがどうしてもまとまらず、過去作に縋ろうとしていた。それは、スランプということではありませんか」
「まあ、スランプという意識はないが、そうかもしれないな」
「でも、いつからですか? 確かに先生は、春の創作まつりの『梟の眼』以来、新作を出していません。もし、ずっと悩んでいたのだったら……」
「それで言えば、冬部誌の話をした頃からだ。そこまでは留学の話もあったし、それこそ忙しくて、本当に作品のことを考える余裕がなかった。だから、あの話をしたときには確かに、わたしも新作を出せるだろうと思っていた。その見通しが悪かったんだ。申し訳ない」
 先生は自分にすべての責任があるかのように、深く頭を下げて謝ります。しかし、わたしにも同じくらいの責任があると思いました。今のわたしには先生を責める気は全くなく、むしろ自分の不甲斐なさのほうが痛々しく感じられます。それこそ合宿でも気づく機会はありました。わたしがこの旅行や、新井くんのことに気を取られていても、本当に大切な作品のことを気に掛けていれば。
「先生。謝らなければならないのはわたしもです。わたしは編集を請けたのに、先生の進捗に気を配らなかった。仮に合宿のときからであれば、もっと打開策を考える時間もあったでしょう。それを怠ったわたしの責任です。本当に申し訳ありません」
 わたしも先生と同じくらい深く頭を下げました。
 それにしても、高校生までのパラダイムから脱却してより高みに至るという目標を掲げたのに、再結成したときにはこの体たらくであろうとは。
 わたしはどこで道を誤ったのでしょう。高校時代のほうが、純粋に文芸だけに集中していたのは間違いないと思います。しかし、大学ではするべきこともできることも多様化して、文芸がその中の一つになるのは自然なことです。だからこそ、文芸との向き合い方を考える意味でも、パラダイムシフトが必要だったのです。
 もし仮に、このような結末に至ったこと自体が、わたしたちの「答え」だとしたら?
 自然で、しかし最悪の考えが浮かびました。それはもう、少なくともわたしは、かつてのような情熱を失い、惰性で文芸を続けているということです。その一方で、自分が編集者であることは、頑なに固持し続けている。これは矛盾ではないのでしょうか。
 お互い頭を下げ続けて、一分ほど。先に頭を上げたのは先生でした。
「ともかくだ。初稿締切まではおよそ二週間。もし、過去のプロットを使わないとすれば、新たな構想が生まれる保証はない。場合によっては、断念せざるを得なくなる」
「さらに言えば、仮に新作が間に合ったとしても、それが最高の作品と呼べる保証もない、と」
「そうだ」
 しかし、作品を出せない結末を免れても、満足のいく作品が書けなければ意味がありません。踏ん張りどころはここです。弱気になってしまった先生をわたしが鼓舞するのです。
「ですが……作品におけるプロットや、その土台となる発想は、作品の本質部分に関わります。苦しい状況ではありますが、そこを諦めてしまってよいのでしょうか」
「うむ……」
「一緒に考えましょう。今、先生が真に書きたいと思えるような、わたしたちの最高のプロットを」
 わたしは先生の目を見つめました。先生はやはり逡巡しましたが、やがて頷きました。
「わかった。力を貸してほしい」
「はい!」
 それが簡単でないということは、わたしも理解しています。そもそもわたしは、編集として企画の段階に口を出したことはほとんどありません。道筋を探るとこから始める必要がありました。
「例えば、先生は大学でも、人間の自然との関わり方や、自然の中での生き方、そしてそこから生じる死生観などをテーマとしてよく扱っていましたよね」
「そうだな。『氷河に還る』や『オーロラ』、『春は霞』や『肺活量スキル』もそうか」
「はい。今回、このあたりは検討されましたか?」
 この質問には、先生の不調の現状を知る意味もあります。同じテーマを突き詰める中で不調になったということであれば、別のテーマを選ぶ必要があると思います。
「最初に一つ考えていたものはあったが、構想がまとまり切らなかった」
「差し支えなければ、どのようなものか聞かせてください」
「ああ。一応、メモを持ってきている」
 それは殴り書きのようなメモでしたが、「倫理を捨て、優生思想に走った社会がどうなるか」というテーマが読み取れました。ある小国の島が舞台で、主人公は生物学者です。その島には独自の形態を持つ家畜が野生化していて、その調査に来たという始まりです。実は、過去に島を占領したカルト教団が、ヒトや家畜などの遺伝子の直接的な改良やクローンの技術を追求して、その途中で滅びたという背景があったのです。主人公は教団が滅びた経緯を調査する中で、技術や生命の倫理について考えるという物語のようです。
「なるほど……構想がまとまらなかったのはどの部分ですか?」
「結局、斬新な観点も結論も出せなかった。これに尽きる。構想を進めるうちに、この教団の思想を突き詰めることになり、気が付いたらありふれたテーマに帰着されてしまった。何も新しいところはない。これで振り出しだ」
 いつも、最終的には個性の光る世界観を見せてくれる先生ですが、その裏にはこのような苦悩もあったということに気づかされました。
「なんというか、先生でもそういう悩みはあるんですね……」
「そうだな。特に今回はSFに寄っていたから、思想的な掘り下げは欲しかった。だが、テーマが倫理的に黒すぎて、教団が滅びたという前提もあって、話が膨らまなかったよ」
 確かに、テーマ性はかなりデリケートなものであり、一般的には結論も決まり切っています。そこに新たな視点でアプローチするのは、それこそ一朝一夕にできることではありません。
 そうは言っても、この構想はスクラップとして活用できそうな気はします。
「例えば、テーマの部分をもう少し一般化すると、既存の倫理とか常識といったものを疑って掛かりたい、という方向性が見えてきます。心当たりはありませんか?」
「なるほど。表立って意識していなかったが、それはあるかもしれない」
 なんとなく、鉱脈がありそうな反応です。先生からの言葉が続きました。
「まあ、さっきの構想は極端すぎて、主人公が世間一般の常識を代表する立場にならざるを得なかったから、ありふれた勧善懲悪で終わってしまったのかもしれない。だが、もっとミクロな規模で……例えば二人の間で、自分と相手の常識がある。それとは別に、世間一般の常識もある。その間で生じる葛藤の構図を、わたしはほとんど書いたことがない。避けてきたと言ってもいい」
 大きな当たりの予感がしました。
「避けてきた、というのは?」
「わたし自身が、世間一般の常識と距離を置いていたからだ。無視するというのは違うが、常識に溶け込まず、自分のために最適化した世界観で生きてきた」
「確かに、先生はそうですね……」
「だが、常識が常識であることには、それなりの理由もある。今、わたしはそこに目を向けようとしている」
「はい」
 だんだんと、先生の表情に自信が宿ってくるのが見えました。
「うむ……書けるかもしれない。構想が生まれそうだ」
「本当ですか!」
 わたしが思わず前のめりになると、先生は少しのけぞりましたが、すぐに姿勢を正しました。
「少し時間が欲しい。一日だ。帰ってから一日でまとめよう。必ずだ」
 もし、それでまとまらなかったら?
 わたしはそれを口にするべきかどうか迷いました。しかし、それは話しても仕方のないことでもありました。今はもう最後のチャンスです。ここで失敗すれば、後は解散しかないでしょう。
「わかりました。完成したら教えてください」
「ああ。今日は本当に助かった」
 とりあえず話がまとまって、改めてしおらしくなった先生を見ると、なんだか懐かしい感覚を覚えました。
「いえ。わたしも忘れていました。先生は元から遅筆で、わたしが定期的に様子を見なければならなかったと……というわけで、札幌に帰ったら、木の葉が落ち切ってしまう前に作品を完成させてくださいね。さもなくば先生は死にます」
「そこまで悠長にしていたら、締切のほうが先に過ぎ去ってしまうだろう……まあ、全力を尽くそう」
 いつかしたようなやり取りをしていると、わたしは少しずつ、あの頃の気持ちやあの頃の志を思い出してきました。
「そろそろ部屋に戻る」
「はい」
 先生が立ち上がったので、わたしも部屋の入口まで見送りに行きます。
 すると、先生の動きがドアノブに手を掛けたところで止まりました。
「先生?」
「中津。こんなわたしだが、最後まで付き合ってくれ。よろしく頼む」
 まったくもってずるい人です。そして、思わずぼんやりしてしまったわたしが言葉を返す前に、部屋を出て行ってしまうのです。
 時計を見ると、日付が変わっていました。わたしは少し水を飲んでからベッドに入りましたが、目が冴えてしまいます。
 もっとわたしが、文芸そのものについて真摯であれたなら。それは単に、他の問題を軽んじてまで文芸に打ち込むということではありません。
 わたしの編集者としての文芸は恐らく、大学を出たときに終わるか、近しい形まで縮小します。そして、今回の先生の編集もまた、間違いなく一つの区切りになります。
 そのとき、わたしの大学時代を言い表す言葉を、一つでも見つけようと思ったのです。

二十八

近日公開!

文芸人のフロンティア

文芸人のフロンティア

多くの出会いと別れ、綺麗事ばかりでない経験もしながら、 さらに深く文芸のある人生と向き合う青春グラフィティ。 *2020年10月から連載中の作品です。現在第二十七章まで。次回は2025年3月頃公開予定です。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-10-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. イントロダクション
  2. 一 水芭蕉
  3. 二 綿毛
  4. 三 梅雨
  5. 四 流風(上)
  6. 五 流風(下)
  7. 六 空隙
  8. 七 水鏡
  9. 八 氷雨
  10. 九 薄明
  11. 十 絆
  12. 十一 秘花
  13. 十二 独
  14. 十三 鴛鴦
  15. 十四 岐路(左)
  16. 十五 岐路(右)
  17. 十六 田園
  18. 十七 稲穂
  19. 十八 萌芽(前)
  20. 十九 萌芽(後)
  21. 二十 辰星
  22. 二十一 夢
  23. 二十二 縄
  24. 二十三 古傷
  25. 二十四 杜若
  26. 二十五 楽市
  27. 二十六 斜陽
  28. 二十七 安芸
  29. 二十八