皇国の音 5/6

「シェーレが誰かにあんなにスナオになるなんて思わなかった」
 そうキヤルが言っていたのは、もうずいぶん前のことのように思える。明日の準備が間に合わず、やむなく残業を終えて帰宅する途中だった。
 夕方になれば市場通りにはいわくありげな店が立ち並ぶ。虫や爬虫類の入った珍しい酒やいかにもな占い師の店、仕入れた手段を疑いたくなる安価で料理を提供する店もある。通行路にはみ出すように設けられた席で、職場の数人と夕食をとっているキヤルに呼びとめられたのだった。
 食材の詰まった大きな紙袋を抱えてさまよっている姿は大分悪目立ちしていたらしい。とっくに酔いの回っている仲間に私を紹介し、彼は「きょうはおれのオゴリなんだ」とはにかんだ。給料日だったと仲間が口々に言う。私には皇国語しか通じないと思っていたのか、なるほど、良かったですねと頷くと、不必要なほどに驚かれた。

「みんな驚きすぎ! だって先生だよ? そりゃー分かるよ」
「そうか、お前が教えてもらってんだもんな。すげえ兄ちゃんで当たり前か」

 他に誰が授業を受けているのか、という問いに、キヤルは事細かな返事をする。名前を次々に挙げていく途中、「シェーレが?」と、みなが口を揃えた。

「冗談。あいつが? どんな心変わりをしたってんだ」
「知らないよ。でもセンセイの話を一番よく聞いてるのは確か。ね、センセイ」
「あ、あぁ。えっなに、意外なのか? あいつが。心変わりって」
「……センセイには悪いがよ。この土地で、皇国の人間を好きな奴なんざよっぽどだぞ」
「とりわけシェーレは、な」

 一気に周囲の空気が冷え切った。聞いてはいけなかったと後悔をしても遅い。キヤルの同僚はまだ中身の多く入ったアルコールのカップを持ち、そそくさと席を立ってしまった。

「んー、しょーがない。おれみたいなひとばっかじゃないからね」

 キヤルは苦笑し、空いていた自分のカップに冷たい茶を注ぎ足した。

「みんな、皇国のひとからイヤなことをされてる。そんで会ったばっかのセンセイを好きになれっていうのがムリだ、センセイも皇国の人だから。前にも話したよね、シェーレのこと」

 私は頷いた。学校では突出した学力の持ち主であったこと。みなの憧れで、しかし家族からはそう思われていなかったらしいこと。キヤルの説明が中途半端だったせいもあって、理解には穴だらけだったが。

「シェーレはホントにすごかったよ。シットしたって意味ないな、って思うくらい。だけどシェーレの親御さんはそう思ってなかった。シェーレに、無関心だった」

 関係が悪い、というにはまだ足りない、見ている方ももどかしくなる距離感が、シェーレと家族の間には横たわっているようだったという。
 優秀な海軍勤めの兄たちと、頭も良ければ見目にも優れ、愛想も良かった弟と妹。その間に挟まれた彼は居心地の悪さを感じていたに違いない、とキヤルは言う。

「でも勉強しか分からなかったんだと思うよ、どうやったら自分を見てくれるのかって……甘えるってセンタクシはなかったんだ。お兄さんの悪いとこを見て、そんで年下のきょうだいのお手本にならないといけなかった。いちどいい成績をとったら、次もその次もよくないと、って思ってたのかもね。そうじゃないと、自分が消えちゃうから」

 自分を見てほしいがために得たものよりも、捨てざるを得なかったものの方が多いのではないだろうか。子供らしくない仕草と言動ばかりが目立つので、親の気を引こうと躍起になっている姿は想像し難かった。

「それだけじゃなかったよ。おれたちちっさいころから、皇国の人間がたくさんいるのは当たり前だった。……おれたちの見た目、皇国じゃ珍しいんだってね」
「珍しいというか、そういうひとはまずいないかな」

 赤い瞳に太陽の光で色の抜けた髪の毛は、一般的な皇国の民とは正反対のものだ。

「そっか。
 センセイ。物珍しさで嫌がらせをする人間に好かれるほどの悲劇はないよ」

 私に届かずとも構わない、むしろ届かぬことを願って発したことばだったろうか。島ことばでキヤルは呟いた。カップに落とした目線はいつになく影を帯びている。

「何をされていたか、口に出すのも嫌だ。……察して」
「……出来れば、それもしたくないくらいだ」

 かと言って聞き流すこともできない。皇国軍による民間人への違法行為は他国でも取沙汰にされ、問題視されていた。これまではどこか他人事のように聞いていたが、突然身近なものに感じられ、二の句が継げなかった。
 何をされた? 珍しい容貌をしている、力のない子供だからという理由で。異国の動植物を観察するかのように? 物言わぬ物質のように? いずれにせよ、不信感以上のものを抱かせるには十二分に過ぎる行為だろう。底抜けに明るいキヤルが悲劇と呼ぶまでに。

「シェーレのとこは、シェーレがひとり立ちする前にばらばらになっちゃってた。お兄さんは帰って来ない、親御さんは皇国へ行ったきり。下のきょうだいも……もう、帰って来ない」

 過去形。二度と戻らない日々を、そういうものとして語っているからこそのことばだった。

「ぜーんぶ皇国のせい。傷付いたのも、家族をなくしたのも」
「……あぁ」
「いったんひとりに慣れちゃうとさ、誰かに助けてって言うの、勇気がいるよ。裏切られるかも、見返りをよこせって言われるかも、っておびえるより、ひとりでタイヘンな思いをしてたほうがいい。そういうふうに考える。賢いおとなにならなくちゃいけなかったんだ、シェーレは」

 その選択が大人だとするのなら、何といびつな姿をした大人だろう。子供がなぞらえるだけの、ままごとの姿だ。
 今でもそう思っているのなら間違っているよ、シェーレ。
 ことばと同じだ。ひとりきりじゃあ意味がないんだ。
 誰か、ひとりでもいいから、自分でないものがそばにいないと。周囲の一切を断ち切ることで存在できるものがあるとすれば、それは危うい孤独や断絶そのものだ。

「私は教えられるかな」

 おこがましい、と冷笑を浴びても構わない。

「皇国語以外のことでも、シェーレに教える資格があると思う?」

 そう尋ねると、キヤルは困ったように眉根を寄せた。困惑の意味を問いただそうとしても、彼はそのままにこにことするばかりで教えてはくれなかった。

 それは―たった、数日前の出来事、で。

「……では、これらには何も虚偽はない、と」

 鉄のような声で現実に引き戻される。雑多な明かりと匂いのたちこめる市場は遠のき、空調設備の整った小部屋に私はぼんやりと立っていた。現実逃避もはなはだしい。
 目の前の皮張りのソファに座っているのは、例の監査団長だった。私が呼び付けられたのは彼の指示によるものだと聞いている。演説の後に声を掛けられて以来、何も関わりはなかった。理由が見えないのは不安だ。講義は私を呼びに来た五島さんに任せたが、異例の呼び出しに彼も顔を青くしていた。その時点で、呼び出された理由に思い当たらなかったのは気が抜けていたからだろうか。見当をつけることはできたはずなのだ。彼の姿を見てやっと思い当たったのはいくら何でも遅すぎるだろう、と自分が恨めしくなる。
 紙束をめくる音が響く。脇に積まれた書類の山が崩れても、彼は手を動かし続けた。

「五島からはルウと呼ばれていたが」

 黒真珠のような瞳がこちらを射抜く。説明を求められていると気付くまで時間がかかった。

「本名の頭文字をとった。それだけです」
「……あの男も変わっているからな」

 再び沈黙が訪れる。いくつかの書類を参照し、紙束から何枚かを引き抜くと、さて、と彼は言った。たったそれだけで身体が震える。圧倒される。

「授業もあるというのに、急に呼び出してしまって申し訳ない。あなたに何点か確認したい事項があってね。というのも、近頃皇国ではスパイを潜り込ませるのがたいへん流行っていて……何、今のは笑うところだ。それで、こうして選抜的な、抜き打ちの調査をしているところなのだ。通常であればわたしが出向くことはない。つまり、あなたは特殊事例に該当している。何を言いたいのか、見当はつくか」

 返事はしない。露見したのなら、そこまでだ。

「青い閃光の家の出だと、なぜ申告しなかった」
「……血のつながりはありませんから。私の父は養子でしたので」

 青い閃光。誉れ高く、また厭わしい名前だ。
 彼は最も激しい戦闘が繰り広げられていたとされる時代の英傑だ。皇国に敵対する小国の飛行士で、青い機体を操るさまとその俊敏さからその名がついたのだという。
 彼は私の祖父にあたるらしいのだが、会ったことはない。たまに、酔いの回った父の話の中に出てくることがあった程度だ。

「それに青い閃光は、元の小国が占領されたのと同時に皇国側についたでしょう。だとしたらなぜ、私が疑いをかけられねばならないのですか」

 漆黒の彼は、小馬鹿にしきったような薄い笑みを浮かべた。

「教えてやれ」

 隣に佇んでいた秘書のような者が、机の端に置かれていた深緑色の箱を開ける。入っていた書類を広げ、淡々と説明を始めた。

「彼の祖国が堕ちたのち、青い閃光は確かにこちら側につきました。それからは物資輸送便の操縦士として活動していたようですが……その年の冬に、ふっつりと消息を絶っている。同時期に引退を決めた飛行士も複数人いたようですね。青い閃光がそれだけの影響力を有していたと考えるべきか、単に彼らが航空部隊の縮小を先読みしていたと考えるべきかはこの際問題ではありません。重要なのは、圧倒的な実力を持つ飛行士の消息、それだけです。当時の上層部も並々ならぬ執着を見せていました。何としても彼を探し出したかった」

 酔った父の話を思い出す。
 とうさんのとうさんは、すご腕のパイロットだったんだ。みんながすごいと言っていたんだぞ。

「その病的なまでの執着により、上層部は見つけました。名と顔を変え、どの国にも属さぬ飛行機乗りになっていた、青い閃光その人を。彼は傷付いた地へ赴き、人々へ救援活動を行っていたと言います。しかし、皇国へ戻れという命令に従うことなく彼は飛び立ってしまった。閃光の名にふさわしくね。誰も追い付けなかった。
 ですが時が経ち、再び捜索計画が立案されました。そして全く見当違いの地域で見つかったのです。もう一人の青い閃光が」

 彼の指がその当時の新聞を指す。

「時代を考えても、青い閃光が写っていると考えるのは不自然だ。とすれば、全くの別人が名乗っているとも考えられる。そう、例えば―息子、とか」

 悪趣味な見出しと共に載っているのは、他の資料写真よりもすらりとした形の小さな飛行機だった。戦闘機、かもしれない。私の父も結局、空を飛ぶ機械に魅せられていた。それを見つめる私にことばを振りかけるかのように、頭上で漆黒の彼は話を進めた。

「わたしたちは分かりやすい象徴が欲しいのだ。この青い閃光が所謂二代目であり、英傑と讃えられたパイロットとは別人であることは勿論心得ている。それでもだ。かの英雄の姿があるだけで皆の士気は上がる。偽物ならば偽物で良い。言葉で飾ってやれば、どんなに酷いものであれ見られる程度にはなる」
「鄙びたものを豪奢に見せることができる、それがことばだ、と」
「そうだ。教師であるあなたに言うのは野暮だろうが、言葉は道具だろう。使えないはずのものを、工夫によって再び使えるようにするのもまた、道具の使い道の一つではないか」
「貴方にとってはそうなのでしょうね」

 自然と強くなった語気に自分で驚いた。まずい、と思うも、発したことばが戻ってくるわけではない。こちらを見下すようだった漆黒の彼が、不快そうに片眉をひそめた。

「―君にとって、は違うのか」

 話してみろ、と挑発する口調だった。秘書の男も漆黒の彼をうかがうような素振りを見せる。良いのですか、と訊く声は硬かった。

「構わない。皇国語を広めるにあたって、最前線で働いている者の意見は貴重だ。判断しよう。どう活かすか、殺すか」

 活かすか―生かすか、殺すか。
 皇国に不都合であれば私の命を奪うのか。文人だろうが教師だろうが関係なく、国のいしずえとなるならば、と命を屠るのか。理不尽な刃を向けるのか。
 貴方がそうしたいのならばそうすれば良い。貴方と同じように、私は私のことばを武器にする。戦おうではないか。貴方の力ある声を、もう少し聞いてやっても良い。

「そもそも貴方は、道具というものをどうお考えなのですか。その時点で意見の相違があると思われます。見栄えのしないものを飾り立てるのが道具ですか? 虚飾を施すために最適な手段ですか? 事実を捻じ曲げかねない伝達手段が道具ですか。私はそうは思いません。ことばは血肉になるものです。
 貴方の掲げることばは剣や銃や、宝石のちりばめられたドレスのようだ。私がこの地で望むのは、ことばの自立です。自分の身同然のものとして皇国語を染み込ませ、はては皇国に頼らずに生きていけるようになれば良いと思っています」
「従属国ではなく、独立国として認められるべきだと?」

 皇国語、ひいては皇国は踏み台になるべきという発言に捉えられる、自覚はあった。そうした意味合いを含んでいるのも決して間違いではない。いっそ、なおのこと良い。虚飾がお好きならば、相手のことばもそう聞こえることだろう。誤解に誤解を重ね、目を曇らせてしまっていることにすら気付かないのだろう。

「貴方はそう判断されるのですね。ですが、彼らを言語によって縛り付けてしまうのは間違いではないのですか。ことばは枷でなく、翼となるべきです」
「血肉で翼、か。随分詩的な言い回しだ」
「つまらないことばをほんの少し飾っただけですよ」
「……仮にも上官を挑発するか」

 硬いもののぶつかる低音が響く。慇懃丁寧な態度を取り繕う気がなくなったのか、漆黒の彼は組んだ脚の踵を大机の上に乗せた。

「気に障られたようでしたらすみません。ですが喋らせてもらいますよ。私の喉が裂けるか舌の千切れるまで」

 息を吸い直した。空気が乾燥している。両唇がくっ付いていた。

「貴方がたは青い閃光が欲しいのだという。ですがそれを、今、仰る意味が分からないのです。理解ができない。タイミングがおかしいのですよ。誤魔化す気がないのならもっと堂々としていれば良いのに。
 あぁ何ですか、気付かないとでも思いましたか? 青い閃光の血縁者だからというのは口実だ。私が教える皇国語は貴方がたにとって都合が悪いのでしょう。だから私の行動と言動を制限しようとしている。自惚れるつもりはありませんが、私という教育者を失うのは、教化政策においてかなりの痛手になるはずです。皇国にはもう、皇国を教える能力のある者がそうそう居る訳でもない。貴方がたが文人を駆り立てたから。私が徴兵政策から逃れられたのは偶然です。武人となって皇国のために働く仕組みを作ってしまったから、出来ることなら私をいかしたいのでしょう。そのために脅しをかけている。暴力をちらつかせて私を操作しようとしている。違いますか」
「…………」
「私は続けます。ここで皇国語を教え続けます。
 青い閃光について私が知っていることは何もありません。それに第三の青い閃光も名乗れない。まかり間違っても私は象徴になれやしない。この視力と身長ではね」
「自意識過剰だな。自分に大した価値があると勘違いしているのだろう。君ほどの者など」
「なら青い閃光の情報をとっとと聞き出して襲わせれば良かったんだ」

 黒の目が見張られる。光を反射させない、深い深い黒だ。

「……言うじゃないか」
「戦況を見れば分かります。戦勝国としての名を轟かせている今、敢えて青い閃光を持ち出す必要はないのですから。苦し紛れの言い訳だ。私を認めて下さっているのは大いに感謝します。ですがいくら脅そうと私は変わりませんよ。私は皇国のために教育を施そうとは思いません。あくまでも、皇国語のために皇国語を教えるのです」

 皇国を忌み教科政策に疑問を呈しながら、なおも皇国語を教え続けようとするのは矛盾だろうか。だがこれも手段のひとつだ。同じ土俵に上がらなければ相撲は取れない。
 皇国語は皇国だけのもの、という思い込みに足元を掬われるときは、恐らくもう間もない未来だろう。私はそれを望んでいる。皇国の手が届かぬ皇国語が育つことを望んでいる。
 たとえば、自分が生まれたときから慣れ親しんでいることばは弱くて貧しいのだと思い込んでしまえば、実際にそうなってしまうのだ。ことばは、使う人間がいてこそことばになる。皇国民が卑しい言語だと侮蔑を向けるだけでなく、生粋の母語話者が、こんなものに用は無いと切り捨ててしまうことさえ起こり得るのだ。
 遠国には、ことばによって世界を切り分けようとする話もある。だがことばは切り分けるだけでは飽き足らず、切り捨てることも出来る。不要という判断を下し見ない振りに徹する。拒絶だ。
 さししめされることのなかったものたちは、そこに存在するものとして立ち現れることすらも許されない。物質に限らない、思想であっても同じことだ。ことばが一つ失われるということは、そういうことだ。そこにあったことばによって形づくられていた世界がひとつ、丸ごと、失われるのだ。

「貴方のことばは武人を勇気づけるにはうってつけの、力に溢れたことばです。ですが私には届かない。絶対に届きません。その喉から出ている音だからといって、貴方の声が全てあなたのものになるのではありません。そうでしょう。貴方のことばはまるで風船だ。中身の詰まっていないがらんどうだ」

 彼の顔が僅かばかり歪み、すぐに全てを覆い隠す無表情に戻る。脚を組んだ姿勢のまま、椅子に深く沈み込んだ。

「……団長」

 声に応えることもない。思案するように目を閉じ、まるで彼の周りにだけ別の時間が流れているかのようだった。

「今回の件は不問にする」
 
 しばらくの間を挟んで発せられたのは、先程までとは打って変わって凪いだ音だった。

「君に処罰を下すことはない。約束しよう。しかし君が間違いなく青い閃光の孫だということは上へも報告させてもらう。そのことで君が被るだろう不利益については、私の関与するところではない。構わないか」
「ええ。私はここで教えることさえできていれば、他には何も望まない」
「全ては戦局次第だろうがな。皇国がどこまで強国でいられるか」
「監査団長がそんなことを言っても?」
「支障はない。何せ、がらんどうなのだから。
 あぁ、それから。君は自分が象徴になることなどもっての外だとでも言いたい様子だったが、安心してくれて構わない。君の皇国語教育以外の能力には、何一つ期待はしていない。がらんどうでも、それくらいの分別は持ち合わせている」

 自嘲するような笑みと共に退出を促される。押し出されるように扉をくぐった。
廊下の角を二度曲がって階段を一階分降りたところで突然、膝から崩れるようにその場に倒れてしまった。
 脇の観葉植物にもたれかかる。めまいがする。天井も地面もぐるぐると回っている。身体の中心は熱いのに、手足の先が冷えていた。自分で思っていたよりも消耗していたのだろう。何てことだ、講義が控えているのに。
 こんな状態でもそう考えているようでは末期だな、と思った。どれだけ好きなんだ。五島さんが代わりを務めてくれるとは言っていたものの、不安は不安だ。自分のことのように心配してくれていた。落ち着かないに決まっている。
 立ち上がらないと。行かないと。
 身体がいうことをきかない。焦ればいっそうひどくなるようだった。

「ゆっくり。ゆっくり呼吸するんだよ。おちついて」

 真正面から影が下りてきた。色褪せたカーペットから目を上げられず、人影の正体を確認できない。しかし声で分かる。この鮮烈な声の持ち主は、彼しかいない。

「……そうそう。そのままでね。今、水持ってくる」

 ほどなくして戻って来た人影はコップを差しだす。手が痺れて伸ばせないと気付くと、ぐいと口元にそれを寄せた。雑な手つきだ。少しずつ、半分ほどを口にした。じっとしていると次第にめまいはおさまってくる。
「だいじょうぶ?」と顔を覗き込まれた。未だ揺らぐ視界の中、赤い目は真っ直ぐにこちらを見つめていた。

「ありがとうシェーレ。でもどうして」
「ゴシマのやつ、あんまりそわそわしてるもんだから。キヤルが授業はやめにしませんか、って言ってくれて、そんでおひらき。ゴシマに会わなかった?」

 首を振る。振動で頭がくらくらした。

「そう。すれ違ったかな。……センセイ、ね、何言われたの。おしえてくれる」
「言われた?」
「センセイは何を聞いたの。教えてくれる?」
「…………」
「センセイ?」
「分かった。教える」
「……うん」
「そうだな、ひとの少ない場所へ行こう……って何だよその顔」
「センセイが素直なの、変」
「全部教えろと言ったのは君だ。今更嫌って言うなよ」

 立ち上がるのに手を借り、その手を引いて資料館へ向かう。皇国の者も多く出入りしているが、小さく区切られた個室を使えば会話を聞かれることもないだろう。
 平日のまだ早い時間であるからか、予想よりも人影はまばらだった。一番奥の部屋へシェーレを座らせ、私は開架書庫にある数冊を手に取り、小走りに個室へ戻った。居なくなっていても不思議はないと思ったのだが、シェーレはおとなしく座って待っていた。所在なげに佇んでいる様子は普段と異なり、年相応のものに見えた。私が入室してきたことに気付くと表情を引き締める。授業でも見せたことのない真剣さが見て取れた。

「言えることは二つある。一つは指導が適切かどうか。皇国の指針に沿っているか否か」

 やっぱりね、とシェーレは呟く。彼の指摘が的中したのだから、妥当な反応だ。

「わかるひとにはわかるんだよなぁ」
「でも、これに関しては干渉しないって約束してもらえた。あの監査団長は、ね」
「まぁた頭から信じてるし……。次は?」
「青い閃光」

 シェーレの目つきが変わった。子供向けの物語か何かで聞いたことがあるのだろうか。

「五島さんも心配してくれていたことだ。直接血が繋がってはいないものの、私は青い閃光の孫にあたる。そのことで少し……問題があった。私を脅す口実だったんだろうけど」
「その話なら聞いたよ」
「その、ってどの」
「青い閃光がじいさんだって」
「へ―え?」

 覚えてないの、とシェーレは大袈裟なため息をついた。

「センセイが市場でひとりぼっちでお酒のんでたときあってね。ぼく、たまたま通りかかってお話ししたんだよ。そしたらセンセイよっぱらいがすごくって。聞いてもないのに話してた。嬉しそうに言ってたよ。センセイは青い閃光の孫なんだって」
「全く覚えてない…………」

 しょうがないなあ、と笑う姿はやはり大人びていた。これではどちらが年上か分かったものではない。

「待って。そのこと、他のみなには話した?」
「ううん。だってセンセイ、センセイだけの秘密だって」
「言ったのか? そんなこと」
「そんなことじゃないよ! 嬉しかったんだから」
「へぇ」
「二人だけの秘密。そういうのって、特別っていうか、その……あぁもう、何でもない」

 シェーレはふいと顔を背ける。大人びた仕草と子供らしい仕草との間を自由に行き来するさまには、戸惑いよりも好ましさを感じさせた。

「シェーレ」
「はい」
「まだ、私の皇国語を知りたい?」

 皇国から見放された皇国語でも。英傑の名の影がちらつく、重いことばでも。それでもまだ私の音を、聞きたいのか。

「当たり前だよ」

 答えは一も二もなかった。燃え盛る瞳は射抜くかのようだ。
「ぼくはあなたの話すことばがすきだ。これから先、嫌いになんてならない」
「……そこまで熱烈だと、ちょっと心の準備が」
「ふざけるな」

 真顔で、かつ国際語で怒られた。

「いい? センセイ。あなたの話す、あなたの音の皇国語じゃなきゃダメなんだ。ほかでもないあなたのことばじゃなきゃ、ぼくは飛べない」
「うん。……うん。ありがとうな」
「べっつに」

 シェーレは資料に手を伸ばす。話すよりも読むほうが得意だと言っていたのを思い出した。
 夕方に差し掛かった西の光がシェーレの左顔を照らしている。ふと、キヤルから聞いた話が頭をよぎったが、それを今口に出す気にはなれなかった。今、あの話を確認することに意味はない。過去がどうであれ、今のシェーレはここで、私の目の前にいるのだ。

「楽しい?」

 頷かれる。年少者にするように頭を撫でてやろうかとも思ったが、思っただけだった。
 分かりやすく安い同情ならばいくらでも受けてきたことだろう。今のシェーレにそれらが必要だとは思えなかった。
 それにしても、と考える。自分にとって、好意を何の衒いもなく口にすることが遠くなってしまったのはいつからだろうか。シェーレが羨ましかったと同時に、自分のことばがその対象となっていることが、誇らしくもあった。

「センセイも楽しい?」
「うん。楽しいと、思う」

 少なくとも、ひとりきりではないことばに囲まれている、今は。

皇国の音 5/6

皇国の音 5/6

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-20

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