皇国の音 6/6
皇国にて在学時、よく耳にしていた終業の鐘が鳴る。皇国の施設ではどこもこれを採用しているらしいとは知っていたものの、実際に聞くのは初めてだった。窓の向こうには、夕暮れを過ぎた薄紫色の雲が見えた。季節の変化を感じにくいこの土地においても、日没の時間は確実に早まっている。
会議の終了を告げる声とほぼ同時に大ホールを出る。滅多に運動などしなくなってしまったものだから、階段を二階ぶん上がっただけで息が切れてしまった。太ももも脇腹も痛む。だがこれは、この知らせだけは一刻も早く伝えたいと思うと、足の絡まる無様さにも構わず駆けていかなければと思ってしまうのだった。
昔からの夢を叶えることを、自分の身に置き換えてみる。形こそ想像していたものとは異なっている、どころか想像もつかなかったものになっているが、順調に望みを実現させたと考えて良いだろう。それが一般的にどんなに稀有なことか、貴重なことかも理解しているつもりだ。幼いころから付き合いのある友人のうち、将来の夢として掲げた職業に就いている者はどれほどいるだろうか。
しかし、夢破れてしまった者たちへの敬意をもって、彼らに恥ずかしくないようにと生きていくのは筋違いというものだと思っていた。努力が足りなかっただとか自分はたまたま運が良かっただとかを言うつもりもない。過去になってしまったものは全て事実だ。なるべくしてなってしまったことなのだと、受け入れる必要はないが余地は残しておかねばならないのかもしれない。
歪曲させることなく、淡々と、受け入れる。
それでも。夢を抱いている者へ開かれた機会があるのなら、手助けをしたくなるのは道理だ。
「シェーレ!」
走った勢いそのままに扉を開けたが、相手はそっけない目線を向けただけだった。皇国語で出版された書籍の翻訳をやってみたい、と言い出したのはシェーレだったが、流石に連日の作業で疲労も溜まっているに違いない。燃える炎の瞳は、心なしかくすんだ色をしている。
講義終了後に居残りをして学びたいと言ってきたのはシェーレだ。それまでの、あとを追けるような態度よりはずっと良いと思い、一も二もなく承知した。勿論、他の生徒にも話はしてあった。追加で勉強をしたいと思っている者は遠慮せずに申告すること、と言うと、およそ半数が手を挙げたのには驚きを禁じ得なかった。以来、各自の都合に合わせた予定表を配布して講義を行っているのだが、こちらはなぜか不評だった。
「だってセンセイ、わたしたち、シェーレがいないと」
当たり前のように口にするそれは、依存という訳ではなかった。
「みんなね、シェーレがだいすきなの」
言われてみれば、と五島さんと顔を見合わせたことを思い出す。
日中の講義であっても、シェーレの周りには必ず人が集まる。分からなかった点を話しているのかもしれないし、はたまた他愛もない話題で盛り上がっているのかもしれない。年齢、性別に関係なく、シェーレと話したいと思う者は多いようだった。それもあって、結局はみなが残って自由に学習する時間を設けることとなったのだが、シェーレはこの翻訳作業だけは譲らなかった。
「ごめん。僕、センセイと一緒にやりたいんだ。みんなとは別に」
青くなったのはこちらだけで、他の生徒たちはみな、恐ろしく思えるほど素直にそれを了承した。
みなも知っていたのだ。シェーレはずっと、皇国を教えることを夢見ていると。
「これ読んでくれる? 君のためにあるようなもんだと思わない」
二つ折りになっているビラを渡す。握りしめていたせいで中心がよれている。
「…………なに、これ」
「近々、募集が始まるそうだよ」
質の悪い紙には、各地から皇国語の養成員を募集するという文言が印刷されている。いつも郵便物を届けに来る通信員から受け取ったのだが、私がよほど鬼気迫る表情をしていたのだろう、ぎょっとした顔をしていた。
「皇国語の知識、それから健康な身体に自信があれば誰だって応募できる。実力があれば、生まれも年齢も関係なく、皇国語を教えられるようになるんだ」
「試験に受かれば、の話でしょ」
「えっと、そうだけど。君が落ちるなんて考えられない」
僅かに上がったシェーレの口角、赤い頬を見逃さない。
「……試験に受かったら、夢がかなう」
「そう」
ビラを見つめていた顔をばっと上げる。いつになく燃えさかる色を潜ませた瞳が、何よりも高揚を物語っていた。しかし表情に似合わず、発せられた声はふわふわと頼りない。
「センセイ。あの。もしも、これに僕が受かったらさ、……その」
「うん?」
視線を彷徨わせ、逡巡するような態度を見せる。何か問題があるのか、とこちらから伺おうとしたとき、見計らったようにドアを叩く音が響いた。
「何だろう。―はい?」
向こうに立っていたのは、何度か見かけたことのある軍服姿の男性だった。私にはとんと馴染みのない敬礼をし、声を低めて要件を告げた。至急、島ことばに関わる資料が必要になったのだが、それを読み解ける者がいない、という協力の要請だった。
「何しろ量が量ですので。少しでも多くの手助けが欲しいんです」
「分かりました。さっそく行きますか、私もその資料とやらが気になります。ごめんシェーレ、ちょっと行ってくる。遅くになっても戻ってこなかったら、君は君で帰ってくれていいから。……話の続きは、あした、ちゃんとしよう」
シェーレは一瞬眉尻を下げたが、すぐに頷く。声には出さずに「きっとだよ」と、唇のみで言うのが見えた。
軍服の後ろについて階段を下り、一階の西側に辿り着いた。いくつかある応接室の一つだ。装飾のほとんどついていない扉を開けると、既に二、三人が集まっていた。中央の机には文書箱の山が一つと、装丁のしっかりとした資料の山が一つ。
「これまた随分と膨大な」
「ええ。多いに越したことはありません」
また新たな政策を始めるのだろうか、そのための情報収集ということ、で、
「…………っ!」
左後頭部に衝撃を受ける。突然のことに受け身も取れず、枯れ木のようにその場に倒れ込んだ。
衝撃。殴られた、と気付き、それ以上のことに気付くまでに、時間はいらなかった。
はめられた。
疑う余地もなく、これは制裁だ。
「先生さまよ。あんたは賢いだろうから勘付いてるよな」
のろのろと立ち上がる。私がそうするのを待っていたように、今度は脇腹に硬い爪先が突き刺さった。再び膝をつくと、強引に頭髪を掴まれて上向かされた。
「何が皇国語の伝道師だ。俺達の邪魔をしてるだけじゃないか」
「じゃ、ま」
「あぁ。あのなセンセイ。ここの連中が皇国語を完璧に覚える必要はないんだよ。ある程度の意思疎通ができればそれで良かった。口応えできるほどの能力は要らねんだ」
痛みに浮いてきた涙が視界を歪ませる。無言で床に転がされたり掴みあげられたりを繰り返し、一度大きく咳き込んだ。がきの頃の喧嘩でもなかったぞこんなこと、と軽口を頭の中に響かせられるだけ、まだ余裕があった。
彼らの言う意味は明らかだった。根付いていた因習を、私の皇国語が覆したのだ。私にとってはそれ以上に喜ばしいことはないのだが、裏目に出たということか。
この地で生活する皇国の民の多くは軍人である。組織の上層部に属する者やそれなりの地位についている者はともかく、食い扶持を当てに入隊した者は任務だけでは生活を賄うことができず、日用品や食料品を扱う商売をも行っている者も少なくはないと聞いていた。
彼らが島ことばの知識を持っているはずはなく、会話は当然皇国語を用いたものになる。知らぬ言語での応対に、この地に住む人々は間違いなく委縮するだろう。先祖の代から皇国に支配されている、その事実が耳を、目を曇らせる。碌に聞き取れぬ言語に相対することさえも苦痛かもしれない。
何にせよ、皇国民が『ぼったくり』を安易に行える、傍若無人な態度も皇国語によって許容されてしまう状況があったことは確かだ。
しかし私がこちらへ来て、皇国語を学ぶ者が増えた。これまでは理解できなかったことばが分かるようになってしまった。それは自分たちが多大な不利益を被っていたという事実が露見した、ということだ。同じことばを用いることができる、それはすなわち、同じ権利を主張できるということでもあるのだから。
低く見ていた相手からの権利の要求は、拒もうと思えば拒めたはずだ。だがいったん袖を通した軍服と徽章は、着る者自身を縛る。彼らへの評価がそのまま皇国の評価につながるのだ。準皇国民を増やそうとしている中、過度の不信感は枷になるだけだ。彼らにもそう判断できる良識はあった、ということだろう。
ではこの不満をどこへぶつければ良いか。こういった事態に陥る原因を作ったのは誰か。感情の矛先が私へ向かったのは順当だと思えた。かと言って、理不尽な暴力を受ける理由にはならないのだが。
抵抗するのを止めても、全身に突き刺さる暴力は収まらなかった。首より上の目立つ部分に拳が当たることはない。姑息だ。心の中で呟いたのみで、音にする気力は残っていなかった。意識がもうろうとする。周りの声をかき消す、波が砂をなでるような音だけが両耳の中にこだましていた。
意識が落ちていないのは私が丈夫だからというよりか、彼らが手加減しているからだと思えた。いっそのこと意識を手放せてしまえたら楽だろう。忍耐力の限界をくすぐる暴力の連続に、気がおかしくなりそうだった。
「そろそろか」
腹部を強く殴りつけられたのを最後に、衝撃が止む。床に転がった身体を起こすこともままならず、そのままの姿勢で視界を曇らせていた涙をまばたきで払う。ほんの少し腕を上げただけで激痛が走った。真正面でこちらを見下ろす軍服が、別の者から手の平に収まる大きさのものを受け取っている。次第に焦点が合うようになりその正体が分かった瞬間、自分でも全身の筋肉が緊張するのが分かった。
「それ、―って、」
問いには答えない。代わりに、男は手にした注射器を掲げてみせた。医療用に皇国へ輸入されたそれが、違法使用を目的に出回っているとは聞いていた。その取り締まりをするのが皇国軍ではなかったのか。ひとときの高揚感と引き換えに失うものの大きさを知らないわけでも、
「…………あぁ」
失うもの。たとえば知識。
徹底的に、つかいものにならないようにしてしまえ、ということか。
片腕を掴まれ、袖がまくり上げられた。嗅いだことのある消毒液の匂いがした。 抵抗する? いいや。ここで彼らの思う通りにしてしまえば、これ以上の苦痛は受けずに済む。
一つ心残りがあるとすれば。
まだ伝えきっていないことが、たくさん、たくさんあること、だ。
消毒液の清涼感が引き、上腕部に何かが巻き付けられた。血の流れが鈍くなる圧迫感は、細長い針の近付いていることを知らせてくる。きつく目を閉じた。情けないことに、注射の瞬間は幼い頃から大の苦手だった。
しかし、瞬間的な痛みが到達することはなかった。
粒の大きな雨がガラス窓にぶつかる音。では、ない。
大きさのある石が突如、ガラスを破った。
私の転がされている場所から大机を挟んで向こう側、より窓に近いところに立っていた軍服が慌てて飛び退く。幸い、私を取り囲んでいる者が壁の役割を果たしてくれたようだ。こちらへ破片が飛んでくることはなかった、のだが。
「ンだこの×××!」
直截的な差別ことばを用いた怒声が響くやいなや、部屋は眩い光と分厚い煙に覆われた。ゲリラ戦で多く用いられる、閃光弾と発煙筒のたぐいが投げ込まれたのだ、と素人の私にも分かった。私を掴んでいた手が離れる。視界を奪われているのはみな同じだ。
取りあえず部屋を出よう、と、四つん這いの格好で後ろ向きに下がる。両手をさまよわせていると、随分と華奢な手が私の右手首を掴んだ。その手はぐいぐいと私を引っ張ろうとする。とうとう無理矢理立ち上げさせられて、まるで追いすがるような格好でその手の先導に従った。
頬に触れる空気の冷たさが増す。サイレンが鳴っている。暗い。それだけは分かる。部屋は出られたのか。どこに向かっている? もつれる足がもどかしい。まぶたに浮かぶ、気持ちの悪い粒子が晴れていく。
風。サイレン。小枝や枯葉を踏みしめる乾いた音。感触。画質の悪い通信機のような視界に、まだ幼く思える背中が映った。毎日のように顔を合わせていたのに、背中は見たことがなかった、と思った。
「センセイ、もう少し離れるよ」
シェーレは明かりを持っていなかった。にも関わらず、まるで道が見えているかのように進んでいく、私は頷いて歩調を合わせるだけだった。喉は無意味に震えるばかりで、感謝を述べることもままならない。
シェーレは私の手首を握る手に力を込めた。先程の軍服たちから受けた行為を思い出してしまい、肩が無意識に跳ねた。僅かな衝撃が伝わったのか、炎の目がこちらを振り向いた。
「大丈夫。ぼくがいるから」
子供の言い分だ、と思うには、あまりにも力強い。
シェーレは私の皇国語を翼だと言った。その例えになぞらえるのなら、シェーレの皇国語は光だ。時に強引なまでに辺りを照らす、瞳の色に違わぬことばだ。
目が慣れてくると、今自分たちがいるのは演習場の広場の一つであるのが分かった。以前、キヤルと共に昼食をとった西の広場だ。
シェーレは来た方向をちらと見、私をベンチに座らせる。いつの間にか雲は晴れ、黄味を帯びた月がシェーレの背後に浮かんでいた。暗がりの中で、さらに逆光となったせいで顔はうかがえない。かすかに上下する上半身の動きで、荒い息を整えているのが感じ取れた。
私はベンチの背もたれに体重を預け、ばくばくと鳴る心臓を落ち着かせようとする。熱を持って疼く全身の痛みが、耳の奥にこびりついた彼らの声が、嫌悪感と恐怖心とを思い起こさせる。しかし、未だ掴まれたままの手首から伝わる熱はなぜだか、それらを鎮めてくれるような気がした。私の手の平は汗でじっとりと湿っていたが、シェーレは意に介することもなく、むしろ力を強めたようだった。
「センセイ、すぐ信じるから。嘘かどうかは、目で分かるんだよ」
「ごめん。ありがとう、その……全部シェーレだったんだ」
「そうだよ」
「助けてもらっておいてこんなことを言うのもどうかと思うんだけど、…………自分が何をしたのか、分かる。分かるよな」
「もちろん」
「どうして」
「やりたかったから?」
「―君がやったって皇国の連中が突き止めでもしたら、君の夢は」
「それが目的だもの」
「は?」
「センセイ。あのね」
聞こえるのは、シェーレの声とささやかな葉擦れの音だけ。
二対の炎が燃えている。
「自分の夢よりも大切なもの、あるんだ」
シェーレの片手のみならず両手が私の腕にゆっくりまとわりつくが、不快だとは思わなかった。片膝をベンチにつき、シェーレはそのまま私の右肩に額を擦りつける。まるで猫のようだ。放した右手は行くあてがないように彷徨い、私のシャツの胸元を、皺ができるほどの強さで握りしめた。
「センセイのことばがなくなるのが、いちばん怖い。
夢は諦められる。でもあなたのことばは諦められない。ぜったい手放したくない」
ことばは翼。抑圧という檻から飛び出すための翼だ。
誰のものでも構わないのではなく、私のことばが欲しいのだと、シェーレは言う。
「ほんと、僕何やってるのかな、って思うよ。センセイがせっかく教えてくれたのに。けどあいつが嘘ついてるって、センセイが危ないって思って、苦しくって、苦しくって、だめだった」
「……一生に一度、あるかないかの機会を逃すかもしれないぞ」
可能性ではなく、ほぼ確定した事実だ。皇国の建物を破損させ、『勤勉に業務を行っていた』軍人へ被害を与えたのがシェーレだと露見すれば、どんな制裁が下るかも分からない。確実に、皇国のもとで言語教師になることは叶わなくなるだろう。ずっと温めていた夢が、この一瞬の出来事によって経たれてしまうだろう。
左手を形の良い後頭部に乗せた。二、三回、ゆっくりと撫でる。
「やめてよ、子供みたい」
「あ、ごめん」
「……ちがう」
「え?」
「やめないで」
「どっちだ」
「やめてほしくない」
「……馬鹿だな。賢いくせに、ばかだなぁ」
「ばかでいい。センセイがせんせいでいてくれるなら、僕は」
ぎゅっと額を押し付けて、シェーレは私から身体を離した。
「だからこんな方法しか思いつかなかったけど」
センセイを皇国に戻してあげる。
見たことがない満面の笑みで、シェーレは言う。
「センセイをせんせいのままにしてあげる。センセイが、自分のことばで飛べるように。あなたを思ってじゃないよ。ぼくのためなんだ。ぼくは、センセイのことばをもっともっと知りたいから、生きてたら、さ。生きてたら、また教えて。教えてくれる?」
「私なんかの―ことばで、良ければ」
「だから! センセイのじゃないとだめなんだってば」
ささやく視線がとどまった。
私の好きな、燃え上がる瞳と私のものとがかち合う。
「忘れないで。ぼくの先生はセンセイだけだ」
シェーレが私の胸元を掴む。引き寄せられた顔、頬に、あまり覚えのない感触が残った。ひりつく、それでいて心地よい熱さ。
あぁ、ことばは要らないな、と思ってしまった。怠慢だ。許される怠慢だと思いたい。
私だって君を知りたいんだよ、シェーレ。君の声、君のことばを。
君を、もっと深くまで知り尽くしたかった。
次の日の朝は、皇国が運営する病院の個室で目を覚ました。あの後、五島さんが私を探しに町中を走り回ってくれたと聞いた。別の場所にある演習所での用事を済ませて戻ってみると、原因不明の爆発によって応接室の一つが爆破されている。何事か、と野次馬から話を聞きだし、私を探すに至ったと言うが。
「まさか爆発に巻き込まれて、そっから何故か庭に居るとは思わんよな」
「爆発そのものは、そうですね、二次的なものでしたから」
午後になって、ようやく身体の動かし方が分かってきた。丸めた掛け布団を背もたれのようにし、ベッドの上に起き上がって五島さんと向かい合う。
「二次的? 確かに、その打撲の仕方はおかしいとはお医者様も言ってたが」
「おかしいどころの話じゃないんですけどね」
サイドテーブルにあったペンで、食事についてきたナプキンに文字を書きつける。ここも皇国の施設である以上、どこで立ち聞きをされているかも分からない。
「軍の連中にやられた
私の教え方が気に食わない連中だと思う
シェーレが助けてくれた」
目線だけで五島さんを見上げる。鼻腔を広げ、彼はこらえるように息を大きく吐いた。
「お前のじいさんのことは関係してるのか」
「さあ。全くないとも言えないでしょうね」
「………………った」
「何ですか?」
「命があってよかった」
「……ええ」
絞り出される音声に、やはりそれだけのことをされていたのか、と妙な実感が湧いた。身体の表面にあらわれている異常は見つけることができる。だが注射―薬物の強制摂取をされそうになったことは言い出せずにいた。五島さんの体調がおかしくなってしまっても困る。困る、というよりも、申し訳なさでこちらもどうかなってしまいそうだ。
「それで、か。新聞、もう読んだか」
五島さんは抱えて来た紙袋から今日の朝刊を取り出す。地方紙の一面を島ことばで知らせているのは、爆破騒ぎの報道だった。
「自首したってよ」
「そう、……です、か」
センセイを皇国に戻してあげる。
あのことばの意味がようやく分かる。
「秀才と謳われた未成年による危険極まりない行為。淡々と供述の要請に応じている様子。皇国の統治政策に日頃から不満があったと述べており、以前からこうした行為を画策していたとのこと……。こんなの、どんな風にも書きたてるこたぁできるわな」
「不満、ですか」
「事情聴取とは言え形式ばかりだろ。皇国に牙を剥いたと書きたてれば事は済む」
「……また、私のせいだ」
あの子の夢を断ち切ってしまったのは。
そんなことばを言わせてしまったのは。
私のせいで、また、ここのひとたちが。
「んなこたあ、あいつだって承知してるだろよ。今更悔しがったって意味ねえだろ。お前さんを助けたい、そう決めたのはあいつだ。お前さんが必要以上にどうこう言っていいもんじゃねぇ」
統治政策の中でも、皇国語の指導に最も不満があったと述べている。「皇国の色に染まっていくことに嫌悪感があった」。皇国語などなくなってしまえば良いと何度思ったか。
「こんな、心にも思ってねえこと言うのに、どんだけの思いをしたか想像できんだろ」
「……はい」
「だから、泣くな」
「泣いてません。汗です」
皇国の教育を嫌悪している者による犯罪。そうした報道は逆説的に、私の立場を強めることになるのだろう。現地から嫌悪されるということはすなわち、精緻かつ徹底された皇国語教育が行われていたということ。加えて、暴力的な事件に巻き込まれた教師というレッテルは、多くの者の同情を買うことができるだろう。それだけでなく、みなから注目されるようになれば、私を陥れようと謀る皇国側の人間も動きにくくなるだろう。上手くすれば私はこのまま、皇国の「優秀な」教師として在籍することができる。
シェーレはここまで考えていたのだろうか。恐らくそうだ。あの頭の回転の速さだ、私が姿を消してからすぐ考えていたとしてもおかしくない。
自分の夢を犠牲にしてまで、私の皇国語を守りたいと。そう言う瞳の炎は本物だった。
私はその炎に、いつ焼き焦がされても構わなかったのだ。
左頬に指を伸ばす。血の気が失せているのか、ひどく冷たい。
「長いこと、会えないとしても」
私は、あの子のセンセイだ。
私にしか教えられないことが、まだ、あるはずだ。
「生きていれば会えるって、言ってたんです。そうしたら、……そうしたら、いつかは」
音が濁る。指に伝った雫を、五島さんが差し出してくれたタオルで拭った。
あぁ、元気そうでなにより。
会って早々に面白い話が聞きたい、だって?
よし。じゃあ、こんなのはどうかな。
君の名前は、君のところの言語で雪を意味するだろう。同じ雪を示すのでも、ほかの言語では別の音で呼ぶのはどうしてだと思う。
靴、とか、コップ、もそうだ。ものが同じなら、呼び名も一つで良い気はしないかい。でも実際はそうはなっていない。
どうしてだと思う?
さて。少し難しいかもしれないけれど、聞いてくれるかい。
ことばをより厳格に、言語と呼ぶことにしよう。言語は記号の一種だ。自分以外の誰かに情報を、思いを伝える手段。意味と音を組み合わせた道具だ、という人もいる。あらわされるものとあらわすものとの組み合わせだね。
この結びつきは絶対じゃない。だからたくさんの名詞がある。一つのものにたくさんの名前がある。私たちはどうしてか、無意識のその法則のようなものをみとめていて、あまり戸惑わずに受け入れることができてしまうんだ。
たくさん、と言えば。
同じ言語でも、今の姿と昔の姿を比べてみればずいぶんと違うんだ。昔に書かれた易しい物語だって、私たちは辞書がなければ読めやしない。地方ごとに少しずつ違う発音は、矯正されるべきだと叫ばれた時代もあった。そうした目論見はもはや通じなくて、むしろ多様なありかたが尊ばれる。ことばは一つきりに決められるものではないと、多くの人が気付いたのかもしれないね。
こんなふうに、ことばはわかりにくくて不完全だ。なのに完璧な秩序のもとで機能しているように見えてしまうのだから、すごいと思わないかい。まるでいきものだよ。足りない部分を補完しあって成り立つ、ひとつの機関のようなものだ。
そう、ことばは、生きているんだ。
時間の移ろいと共に、話す人間、使用者は変わる。誰ひとりとして同じことばを使うことはない。だから私たちはことばを使う。ことばを使い続け、錆び付かないようにとぎすます。淀みのない水は絶えず流れているように。消えない焚火のように。
ことばは、ひとと共に生きてゆくんだ。
ところで、謝罪のことばを口にすれば君はまた、私が謝ることではないと怒るだろう。
だから代わりに一つ、質問をさせてくれないかな。
シェーレ。
君のことばもやはり、まだ、燃えているのかい。
皇国の音 6/6