皇国の音 4/6

 監査団の訪問は予定通りの日時に行われた。
 五島さんの寄越した通達には、歓迎会への参加を義務付ける旨が記載されていた。歌でも歌って歓迎をしろ、ということらしい。歓迎する意味が分からなかったが、彼らからすれば他国の脅威から守っているのは自分たちだという自負があるのかもしれない。
 すっかりみなのまとめ役になっているキヤルが提案したのは海を称える歌だった。ほんの短い期間で学んだ皇国語を披露するよりも、あらかじめ知っているものを堂々と歌えた方が心象も良い、というのが彼の意見だ。

「っとーにキヤルはしっかりもんだよな、どっかの誰かさんとは違ってよ。なぁ誰かさん」
「五島さん、名前伏せる意味ないんですけど」

 監査団は六、七名で構成されていた。所属は教育部にとどまらず、中央組織の副幹部といったの人間も多い印象を受ける。目的は何であれ、遠路はるばるやって来たことへの感謝を示さねばならないのだろう。軍部の歓迎はたいそうなものだった。これだけの用意をする資金がどこにあったのか、と目を剥く豪奢なもてなしの席に、五島さんはともかく私が呼ばれることはなかった。

「センセイもうまいモン食べたかったんじゃないの」

 教室で講義の準備を手伝うキヤルはからかってきたが、私の心は軽かった。酒の席で失言をする自信はあれど、自分のことがまるで信じられない。大人しくしているに限る。
 式典当日、私達が集められたのは複数ある演習場の中でも最も小さい場所だった。幼い生徒は、いつになく軍服姿ばかりの光景におびえたような顔をする。この子たちが直接的に虐げられたことはないとはいえ、相手を威圧するに十分な見た目だ。
 オルガンを習っていた、という私より少し年上の女性が、付け焼刃ながらも見事なアコーディオンの伴奏を手掛ける。声変わりしていない声と低音が響き合う、海への賛歌が式典の幕開けだった。

「ルウはこの歌、意味とれんのか。俺はさっぱりなんだが」

 簡易舞台の右袖に立っていると、いつの間にか隣に来ていた五島さんが囁いた。

「ええ。抑揚があるせいで聞き取りにくいですけどね。……船を出せ、いざ行かん蒼い海原へ。全ては還り、また巡る。女神よ聞き給えこの喜びの声を。私達に恵みをもたらす、哀しみと喜びを司る貴女への賛歌。……こんな感じです」
「あぁ。なら良かった」
「良かった?」

 五島さんは私の耳元へ口をぐっと近付けた。

「当たり障りのない内容でよ。今回はあっちにもちゃんとした通訳がいるんだと。目を付けられるような言動や行動は慎めと皆に言ってやれ。こんなことでどうかされたら堪らん」
「……ですね。ありがとうございます」

 音が外れた部分もあったが、この地域伝統の音階を用いた歌は物珍しさもあったのだろう。監査団は満足したように拍手を送っていた。
 式典は滞りなく進行していく。まずは今回の監査の目的、現在の状況についての説明が続き、駐屯している兵士たちへのねぎらいが唱えられた。派遣団の出立式よりは退屈でなかったのは幸いだった。居眠りをしようものならすぐに見咎められる。
 最後には監査団長の講話があるという。よく分からない肩書や称号で埋もれた名前を聞き取ることはできなかった。
 壇上へ上がったその男性の顔を見ようと背伸びをすると、思いもかけず、ばっちりと視線が合った。
 氷でつくった刃の目、だ。
 逸らさねば切り裂かれる、と思っても、そうすることができない。漆黒の髪と瞳は皇国の人間ならば珍しくない色だ。だが滲み出る雰囲気や気迫は、初めて触れるものだった。
 男性は演説台のもとに立つ。大きく息を吸ったような動きはないのに、放たれた声はこの上なく明瞭だった。声を生業にする者が行う訓練を受けたことがあるのだろうか。無理なく伸びゆく声は、マイクを通さずとも、列の最後尾へも届いたようだった。

「皆さん、今日は。まず、不勉強を詫びます。わたくしにはこの地の言葉がわからない。少しも分からない。だから全て皇国語で話します。しかし問題はないでしょう。わたくしはこの地へ生きる者達へ話をしに来たのではない。皇国のために尽力している、皇国民への言葉を届けに来ました」

 ざわ、と兵士たちがにわかにざわめいた。「あの団長さん、冷徹で有名だからな」と五島さんが耳打ちする。

「労いなんざ、天地のひっくり返る思いなんだろうよ」
「そうでしょうか。……そうなんでしょうね」

 あからさまな無視と蔑視が含まれた声。島の人間には無関心を貫く、と宣言することばに、鳥肌が立つ思いだった。

「皆はこれまでの歴史が刻み続けてきたような、極めて暴力的な侵略行為を行う蛮族ではありません。誉れ高き皇国の民だ。誇りを忘れてはなりません。おのれは啓蒙に徹するのだと自分に言い聞かせるように。……貴方がたの働きは聞いています。皇国の信念に従い、準皇国民を確実に増やしているとのこと」

 ぴく、と自分の手が動くのがわかった。
 準皇国民? 
 島の彼らがいつそうなった。皇国語を話せることと皇国民であることは同義ではない。
 ことばで―心を、縛るのか。

「中でも功労をあげているのは、教育に携わっている者ではないでしょうか。この地へ派遣された皇国語の教師はたった一人。にも関わらず、この地の者が話す皇国語は素晴らしい。皇国民の話すそれと大差ないように感じられる」

 場の視線が、一気に私に集まった。
 たじろぐ。熱波をじかに受けたような、めまいがした。

「生徒の力を最大限引き出せる教師が優れた教師であるのは言うまでもないこと。教育者たる者は大胆不敵でありながら繊細な思考を持ち、高潔たる人格を有さねばならないのです。
 我が皇国が近隣諸国との結束を強め、理想郷を設立せんとする計画において何が重要視されるのか。軍事、政治、経済。こうしたものは言うまでもなく必須。しかし見逃されてしまうものがあります。それが教育です。文化です。言葉です」

 注がれ続ける氷の目線から逃げようと目を逸らす。しかし漆黒から逃げると、今度は赤色に囚われてしまうのだった。
 見学者用にあてがわれた場所で、シェーレとキヤルが一番前に立っている。彼らならば今の発言の内容も理解できるだろう。その証拠にキヤルは顔を思い切り顰めている。その隣でシェーレは微笑んでいるが、かえって感情が読みやすかった。

「理想郷の理念を理解せしめ、また協力せしめることにはまず、我が国において使用されている言葉の習得が必須となるでしょう。言葉を浸透させたのちに、我が国の歴史や精神の真なる理解が得られる。であるから言語教育が施される必要があるわけです。こう言っては誤解をされるかもしれないが、貴方がた軍人の粗野な言葉ではどうにも不十分ですから」

 笑いが起きる。何が面白いのか分からなかった。

「そうした意味で、真に正しい、美しい皇国語を知っているこの教師こそが、最も理念を理解し、その教化に貢献しているとは思われないだろうか。文人と武人は和を築くことができない、というのは古代的な見方だ。我々皇国民は、互いに足りぬものを互いに補い合いながら前進していくべきだ。彼にもっと称賛を。栄誉を!」
「そんなもの欲しくない!」

 叫びを何とか、喉の奥に押し止めた。
 茶番だ。私はそんなものが欲しいがために皇国語を教えているのではない、
 やめてくれ。ことばを貶めるな、利用するな。私を見ないでくれ、嫌だ、違うのに。間違っているのに、どうして。耳が塞げないというのなら、いっそこの両の耳を、早く、早く!

「ルウ。もうちいっと我慢だ。な」
「―ごしま、さん」
「考えすぎんな。雑音だと思え」
「わ……わかり、ました」

 彼の左手が私の右手をがっしりと掴んでいた。気付かぬうちに浅くなっていた呼吸を深める。からだの震えは、右手から徐々に収まっていった。
 そののち、漆黒の彼は再び皇国全体の状況について、軍部を鼓舞する言説を吐き始めた。本国ではなく田舎に赴任したことを不満に思っている者も少なからずいる。そうした者たちが現在の状況に納得できるよう、説き伏せるかのような姿勢が見て取れた。
 自分に直接関係しないと思えばこそ、先程とは異なり冷静に聞くことができた。漆黒の彼の無表情とさえ思える声音は、子守歌か催眠術かのように響くのだ。尖ったところのない滑らかな子音と、美しい皇国語に求められる上品な鼻濁音。他者に聞かせる声として、この上なく優れた声をしていた。兵士に目を向ければ、恍惚とした表情をさえ浮かべている者もいた。
 腑に落ちる。こうした声が魔法の声だともてはやされるのだ。魔法など失われた、科学に満ちているはずの皇国においても。
 予定されていた時間を過ぎることなく式典は進行し、監査団が退席したところでおひらきとなった。みな緊張があったのだろう、あちこちからため息とも歓声ともとれる声が上がり始める。

「センセイ!」

 演習場の後方からやって来たのはキヤルだった。普段は揺らぐことなどない瞳が、不安げな色を見せている。

「教えて。あのひとが言ってたのはホントじゃないね?」
「……っ、と」
「アハハ。ホントじゃないって分かってるけど。センセイからちゃんと言ってほしくって。
 センセイはほんっと素直だね。……じゃあ、またあとで」
「また……また、後で」
 
 キヤルが疑念を抱いているのは明白だった。しかし引き留める間もなく、彼は駆けていってしまう。私は茫然と立ち尽くす。これから行われる授業の準備をしなくてはならないのに、身体が動いてくれなかった。
 自分のせいだ。ここのひとたちの皇国語が間違った方向へ進んでしまうのだとしたら、それは私のせいだ。
 皇国語の教師という肩書を背負っているということは、己の口から出たことばであるということだけで、虚飾だらけの言説をも正しいものへ変貌させてしまう責任を抱いていることでもあるのだ。恐ろしいことだと思った。私のことばは、そこまでの力を持つものではなかった筈だ。この地に来てから変わってしまった。

「―先程はどうも。ご挨拶が遅れました」

 やわらかでありながら相手を威圧する響き。振り返ると、徽章をつけた軍服姿の男性が数歩離れた場所に立っている。
 監査団長。漆黒の彼だ。

「これまで多くの土地で皇国語の浸透状況を見てきましたが、いやはや、ここは群を抜いて定着していると言っても良いですね。何か特別な工夫を?」
「別に……これといったことは」

 そうですか、と彼は微笑む。当然のように、目は凍ったままだ。

「というか、私の来る前に兵隊さんたちがかなり教えてくれていたようなので。そのかたたちの協力……布教がなければ」
「必要以上の謙遜は美徳になりませんよ。そもそも、国外派遣の一員に選出されたというだけであなたの実力は分かろうというもの」
「そのように言ってくださるのは光栄なことですが、その」
「ですので。これからのご活躍を期待しておりますよ。皇国の明日のために」

 強引にこちらのことばを遮り、彼は磨き上げられた革靴を鳴らして踵を返す。皇国のために、とわざわざ付け足したあたり、自分の思っていたことはあちらにも透けているのだと思えた。皇国ではなくここへ住まうひとびとを第一に考えていること。それが、皇国の方針にそぐわないことを。
 直接話をしに来たのも、最終通告めいた忠告ということだったかもしれない。つまり今後もそうした考えによって教化、教育を行うようであれば制裁を下すということだ。この地の担当を外される程度の生温いものではないはずだ。どんな形であれ、皇国の決めた道に背く行為として見做される。皇国の義道を妨げたものがどんな末路をたどったか、噂話を思い出すのは難くなかった。

「くそ!」

 みなには教えられないような荒いことばが口をついた。
 あの声は何だ。ことばは何だ。
 漆黒の彼が武人ではないことは立ち居振る舞いから判断できた。武人が未だに幅を利かせているこの組織において、いかにしてあそこまでの地位を得たのか。彼の武器は、あの声なのだ。自分の発言の正当性を認めることを強要するような、真綿のようなことばだ。
 おそろしさと通り越し、おぞましいとさえ思った。あのことばがあれば、兵士たちを意のままに動かすことも容易だろう。おのれの手を汚すことなく、たった数語の響きによって。規模は違えど、私と同じだ。ことばによって周囲を変化させてしまうことに意識的で、あまつさえそれを利用しようとしている。

「……気付いたところで、手遅れか」

 この地を踏む以前、皇国にいた頃を思い返す。
 戦局の悪化に伴い、いくさが始まるまでは聞いたことのない、厳しい響きを持つことばが周りに溢れるようになっていた。そこに浮き出る意味は最早なかった。口当たりの良い語感と、どうとでも解釈できる安い熟語とで構成されたことばは、私たちが教えようと志していた皇国語とは似ても似つかぬものになってしまっていた。風船のように権力や野心などを吸収して、おぞましいことばに成り果ててしまった。うつくしい皇国語と言いながら、己の為になるならば如何様にも変化を施せるのだと刃を振りかざす。それが、彼らのことばの使い方だ。
 ことばのうつくしさが何だ。ことばのただしさが何だ。押し付けられた価値は必要でないのだ。私たち皇国語を教える者は道具の使い方を説明するに過ぎない。便利な使い道もあるが、ひとつ間違えればとても危険なのだと、その両面を伝えることが使命なのだ。
 その精神を、理念を歪めたのは誰だ。皇国のため、皇国のためと、それ以外の表現を知らないかのように、ことばを殺したのは誰だ。
 決まっている。皇国自身だ。
 息を長く吐きだした。とにかく授業だ、と教室へ戻ろうとしたとき、右肩を強く叩かれた。思わず睨み付けた相手は五島さんだ。息を切らしている。監査団のもとから慌てて来たようだった。

「ルウ! 団長と何話した」
「何、って、ねぎらわれただけですよ。よくやってるって」

 そう告げると、五島さんは眉根を寄せて目まで瞑った。絞り出すように「すまん」と言い、私に頭を下げる。年上の者からそうされることに慣れているはずがなく、私は慌てて彼を起こさせた。

「俺の報告がまずかった。……本当のことを語り過ぎたせいだ」
「え……っと?」
「お前はよくやってるってよ、ありのままを伝えたつもりだった。『真面目に』皇国語を教えるってのがあちらさんにとってどんな意味を持つのか、考えが及ばんかった」
「……五島さんが謝ってどうにかなるものじゃあないです」

 ああ。このひとは、どこまでも誠実だ。

「あなたは悪くないじゃないですか。……事実をゆがめたのは、向こうだ」

 五島さんは私が皇国に背く者ではないと証明しようと力を尽くしてくれた。それがこうも裏目に出ると、誰が考えられただろう。
 準皇国民の精神を形成しよう、皇国に従順な者を育てようなど考えていなかったというのに、結果がそう見えるように仕向けられてしまった。彼らの能力がもとより優れているからでも、必死に学び取ろうとする姿勢があったからでもなく。私が皇国への忠誠心を持っているからだと、歪められてしまった。

「……ねえ。この私が、胸糞が悪いなんてことば使うとは思いませんでしたよ」

 五島さんの顔を見つめる。一体何を言い出すのか、と言いたそうな顔だ。笑いかけたがしかし、実際笑えていただろうか。ねめつけていると揶揄されても仕方のない表情になってしまったような気がする。

「やっとはっきりした気がします。私が教えないといけない皇国語がどんなものなのか、ここでことばを教えるというのが、どんな意味を持つのか」

 私の拙い話に耳を傾けてくれるみなが、身に付けた皇国語をどのように活かしたいと思っているのか。どんな授業を求めているのか、そうした声を拾い反映させるのはもちろん重要だ。
 しかしみなの声に阿ることだけが教育だろうか。それはまるで、皇国のやり方にそっくりだ。価値あるように見えるものの長所ばかりを見せつけ、都合の悪い部分は巧みに隠す。皇国側へ来れば素晴らしい生活が待っているのだと甘言を垂れ流し、準皇国民とやらをつくりだす、卑屈なやり方に。
 だから私は、皇国を否定する。
 私が教えなくてはならないのは素裸の皇国語だ。役に立つものもそうではないと思えるものも、綺麗な部分だけでなく汚い部分まで見えてしまうようなことばだ。
 ありのままを教えよう。みなの目には残酷に映るかもしれない。一攫千金を狙える切符は得られず、また別の泥に骨を沈めることになると教えることになるかもしれない。
 しかしそれがことばだ。何かの役に立つ道具として使うのならば構わない。だが、皇国という強国に従うしかないこの土地において、皇国語を学ぶことの意味はそこにとどまらない。これから、そう短くもない時間を皇国語と共に過ごしていかねばならないのだ。皇国語で息をしなければならないのだ。
身体の外側に存在する道具よりむしろ、手足のように、血肉のように。己の一部として、皇国語を用いなくてはならないのだ。
 だから望む。幼い子供がものの名前を習得していくように、まっさらな、とは言わぬ、しかし決して濁ってはいない色のことばを使って欲しいと。
 なぜこんなにも必死になっているのだろう、と自分の内側で嘲笑を浮かべる自分もいた。
 しかし、答えはとっくに用意されている。私は、教えること、ことばに触れることそのものが好きなのだ。意味の薄い音韻やたった一文字が連なり、規則的に並ぶことで表出されることばというものを、とても好いているのだ。愛しているのだ。
 愛しているものをないがしろにしてまで優先したいものなどない。あるとしても、それは皇国ではない。

「……お前、ほんっとーに素直じゃねえよなあ」

 教室を目の前にし、五島さんは足を止め、頭をかきなでてきた。

「っな、なんですか子ども扱いですか」
「あぁん? そうだよ」
「またまたぁ」
「俺ぁ勝手にお前さんを自分の子みてぇに思ってるからよ。実は常日頃から世話焼きたくってしょうがねえんだわ」
「何ですかそれ。五島さんから見たら世界の人口の半分くらいは子供です」
「お前さんは特別、な。そういう……自分と特別、繋がってるような人間っているもんだ」

 思いもかけないことばに立ち尽くす。
 五島さんは私の行く手を遮るかのように、真正面に回り込んだ。

「お前さんもじゃないのかい。繋がってる人間、話聞いてくれんのがあいつらだから、お前さんは教えようって気になったんだろ。面倒なことでも、面倒だなんて思わないんだろ」
「それが特別に繋がってる根拠になるとは思いませんけど」
「でもよお。みんなにとっちゃ、お前さんの皇国語は神さまみてえに映る。聞こえる。信じて進めば正解の道が見えてくるなんて、無条件に信じちまうくらいには」
「私じゃない! 私の力ではなくて、みなが」

 敏感な、勘のようなものを駆使して、ことばをその身に染み込ませようとしているのだ。

「私など居ない方が良かった。
 だって―だって、こんな筈じゃなかった」

 ことばが分かるようになれば、軍の取り仕切るマーケットやその他の施設以外にも、様々なところで仕事を貰える。祖国よりも皇国はずっと豊かなのだと信じてやまない人々には、私たちの使っていることばも魔法のように響くのかもしれない。
 皇国の臣民でさえ贅沢をできるのはほんの僅かなのだと、軍は決して漏らさない。その代わり、皇国語を学べばよい暮らしができるのだと、確かなことのまるでない言説をひけらかす。

「お前さんがお前さんを貶めるような言い方はしちゃいけないな」

 と、五島さんは言い含めるようにした。

「お前さんがことばをないがしろにするこたぁねえと分かってっけど。どんなに嫌がっても、お前さんのことばは力あることばになっちまうんだよ」

 受け入れろ。自分の発することばの意味は伝えたいようには届かない、そんな当たり前のことを、うわべだけでない、本質から理解しろ。そう、五島さんに言われているようだった。
 荷物を置き、五島さんは小走りに駆けていく。私はその背中に会釈をし、いつも通り教室へ入った。

「……あれ?」
「やっぱり。センセイ聞いてなかった? 今日はお休みって」

 半円状に並んだ椅子の一つに、後ろ向きに座っていたのはキヤルだった。その前方には、斜に構えましたと言わんばかりの格好でシェーレが立っている。その他の姿はなかった。
 話を聞くと、今日は監査団の「ご厚意」によって休暇が与えられたのだそうだ。あのあと、演習場でその連絡がなされたときには私の姿はなかった、とキヤルは口を尖らせる。

「だから教えたげようって。シェーレが言い出したんだ」
「余計なこと言うな」

 シェーレの蹴りは器用に躱される。
 彼らが私を待っていたのは、講義の中止を知らせるためだけでないことは薄々気付いていた。「それで?」と言うだけで伝わったらしい。シェーレは片眉を上げ、くせのない皇国語で語りだした。

「今までは聞く機会も能力もなかったからね。だからことばって怖いよ。皇国の……教育? が何なのかも知らずにあなたの話を鵜呑みにして、僕らはずっと、学んでいる振りをしてたんだ」
「……騙したかった訳じゃない」
「そのくらい分かるよ。だから確認しに来た。あの髪が黒いやつの言ったことが『皇国の』やり方?」
 
 切りつけ、抉り込むような声音だった。私はゆっくりと頷く。

「それで、これからセンセイはどうするの」

 シェーレの燃える瞳がこちらをぎらりと向く。漆黒の彼とは違ったおそろしさがあった。

「わ、私は皇国語を教えるよ。きれいなところもきたないところも見せるよ。ここのことばと何も変わらないと知って欲しいから」
「綺麗なところだけを教えるように強要されても?」
「勿論」
「……えーと、つまり、皇国の偉い人には従わないってこと?」

 立ち聞きされていてはまずいと思ったのか、キヤルは島ことばに切り替える。

「おれたちは今までみたく出来るんならすっごく嬉しいけど。センセイは平気? 大丈夫?」
「大丈夫じゃないことも大丈夫にするんだよ、キヤル」
「ううーん、センセイがたのもしーと怖いよねえ、反対に」
「分かる。普段ちゃらんぽらんだからさ」

 キヤルにならい、シェーレも皇国語からここのことばに切り替えた。皇国語を話すときよりも高い声は、やはり淡々としていた。

「講義を受けているひと全員に言うの。自分は危険なことをしている、講義を聞き続けるだけで、あなたがたも皇国に反する者だと思われる、かもしれない。そう、伝える?」
「私は言わない。伝えるのなら、君の好きにしてくれていい」

 そう答えると、シェーレはにやりと口の端を上げた。

「ぼくたちが軍のお偉いさんたちと繋がってるかもしれないとか、自分が嫌われてるとか、そういうふうには思わないわけ」
「えっ、と」
「……ふふふっ」
「笑いごとじゃあ、」
「皇国が嫌いなぼくが、んなことすると思う?」
「シェーレ!」
「そういうふうだから、ぼくたちはあなたから習いたいと思ったんだけどさ」

 疑うことを覚えたほうがいいよ。年上のような口調で告げる。

「あなたは軍の教育に携わる人間とはちがっていた。皇国よりもぼくたちを優先していた。それがどんなにおかしくって、だけど嬉しかったか、分かる?」

 シェーレは姿勢を真っ直ぐにし、私の真正面にすっくと立つ。

「ここは、今でこそ綺麗な海の広がる平和な場所だよ。けれど数十年前にはたくさんのひとが倒れていった。白い砂浜が紅に染まったんだ。ぼくたちも、あなたたちも倒れた。それからずっとぼくたちは皇国から搾取される側だ。いくら最低限の権利は保障されているとは言ってもね。いつでも手ごろに使える道具扱いされているって、ぼくたちだって気付いている。
 皇国がいつまで強い国でいられるか、もしも倒れたときにどうなるのか、想像もつかない。それにぼくたちは皇国の下では何にも抗えない。暴力的な武器は持ち得ないんだ。でも一つだけ、武器を持っているよ」
 
 そう。私もきみも持っている、武器がある。

「ことばが武器になるんだ。自分のことば以上のものを身に付ければ、ぼくたちが行ける世界もきっと広がる。皇国がぼくたちを教化しようとするのはあくまでもぼくたちを使いやすくしたいからだよ。虫を飼い慣らすみたいに。
 けれどあなたは、皇国語が翼になると教えてくれた。あなたのことばは何よりも軽くて自由だったんだ。ぼくはあなたの皇国語が知りたい。だから教えて。ぜんぶ、知ってあげる」

 あぁ、この目だ、と思った。
 ぞくりとする燃えたつ赤に、私は最初から魅せられていたのだ。
 良いだろう、私は教える立場の人間だ。
 知識の享受を乞われて、断る道理などない。

「……一つ聞くよ。それが、君の知りたい皇国語なんだね」

 私の問いに、シェーレは当然だと笑った。

皇国の音 4/6

皇国の音 4/6

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-20

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