皇国の音 2/6

 陽が傾く時間は徐々に遅くなっている。資料館を出た際には見えなかった一等星が、南の空に姿を現している。
 ごく平均的な平屋建ての借家に戻ると、玄関先にはかごに盛られた大量の野菜が置かれてあった。懇意にしている隣の奥さんの手書きのメモが挟まっていた。

「……まーた読めん単語が、ぽんぽんと」
 
 喋るならば片言でも何とか伝わるが、書きことばはそうもいかない。普段の生活に必要な名詞と動詞程度は赴任が決まった時点で勉強をしていた甲斐もあり、生活に支障がない程度には読み取ることができる。それでも毎日新たなことばに直面する。
 文脈から推測するに、今回読めないものは料理名だろう。畑でとれた野菜が余ってしまったので食べてください、そうした趣旨のメモである。ありがたく頂戴することにし、玄関を開けた。
 相変わらず乱雑な部屋ではあるが、足の踏み場もないというほどではない。机の上に散らばった様々な雑誌や書籍、紙束のたぐいを押しやってかごを乗せた。
 椅子を引いて腰掛ける、というよりも、粘土のように沈みこむ。思っていた以上に消耗している。シェーレと話すといつもそうだった。彼は雰囲気が濃いとでも言えば良いのか、圧倒的な存在感をもってその場に佇んでいるという印象があった。

「……今に始まったことじゃあないが」

 目を閉じる。最初の講義を思い返す。
 当初は物珍しさもあってか、授業に顔を出す人間は今よりも多く、皇国の所有する演習所のホールを借りた。予想を超える人数が集まり、あてがわれたこじんまりした部屋では足りなかったのだ。妙な緊張感の中で、集まったひとりひとりの顔を見わたす余裕もなかった。

「みなさん、こんにちは」

 こちらのことばで挨拶をしただけでどよめきが上がった。見世物の動物はこんな気持ちなのだろうかと感じたのを覚えている。後で聞けば「兵隊さんたちよりずっと上手でびっくりした」のだそうだ。なるほど、派遣隊が組まれた理由も分かろうというものだ。
 ただ皇国語を話し、読み、書くのであれば、専門家ではない者による指導で事足りる。粗野な皇国語であっても生活をする上では十分な知識となるだろう。
 だが私たちが派遣された目的は、意思疎通ではないのだ。
 皇国民の一員としての自覚を芽生えさせ、皇国の思想を備えさせる。それが皇国語の教育の担う目的、責務だった。

「改めてこんにちは。わたしは、ここのことばはあまりわかりません。これからみなさんのセンセイになるのですが、センセイでも間違うんだな、と、思ってください。
 わたしは、皇国語をおしえます。お金はかかりません。べんきょうをしたい、と思う人は、あとで案内する教室に来てください。これからどんなことをするのか、説明をします。なので、ここでは、わたしの自己紹介を少し、しようと思います」

 これまで皇国を出たことはなく、初めて訪れる海外がこの地であること。きょうだいはおらず、教育部の寮へ入るまでは、農村で母とふたり暮らしをしていたこと。好きな食べ物は豆腐。嫌いな食べ物は特になし。トウフって何だ、との声が上がり、そうか、国が違うとはこういうことか、と苦笑がこぼれた。

「皇国のたべものです。豆からできている、白くて柔らかくて、甘くて、おいしい」

 それからも他愛ない質問が繰り返され、気付けば予定していた時間をとうに越していた。渋い顔で待機していた警護の軍服に目線で会釈をし、先に退出する。気持ちが幾分軽くなっていた。最初にしては上出来だ。互いの緊張をほぐすには十分だったはずだ。
 演習所のつくりは複雑なので、と事前に説明を受けていた経路を進む。皆が集合する前に指定の教室へ着こうと急ぎ足になった。
 階段の上り下りを繰り返し、遠回りに思える経路を伝ってしか件の会場へは辿り着けないようになっていた。よくここまで凝ったものだ、ということばは呑み込み、代わりに息切れ混じりのため息をつく。
最後の階段を上り切り、角を曲がったときだった。立ちふさがるかのようにシェーレが立っていた。

「ぼく行くよ。受けます」

 皇国語でも島ことばでもない音、第三者のことばだ。だから私も、同じ言語で話しかけた。

「本当かい。ありがとう。それにしても先回りされるとはね。ここの建物、変なつくりだろ。移動だけで一苦労だ」
「急いだよ、ぼく。センセイの話も面白かったけど、それより早く習いたいから」

 凛とした表情。愛想笑いを返すことも出来ず、「準備するまで待って」と言うしかなかった。
 はっきりとした炎を見たのは初めてだった。軍人が戦地へ向かう際に見せるものとも違う、気高く激しい炎が、瞳に宿っている。この土地特有の赤い目は、そう表現するにふさわしかった。思い出すだけで身体の内側から火傷しそうだ。

「……熱心なのは、嬉しいが」

 あの目は疲れる。疲れることは極力したくはない。
 そう、避けたいのは疲れるからだ。
 ほかの理由は―ない。
 よっこいせ、と弾みをつけて立ち上がった。貯蔵室には皇国製の煮物の缶詰が常備してある。この土地でとれる野菜や魚、肉はどれも味が濃い。味付けも濃いものが多く、食べ慣れた薄味を恋しく思うこともしばしばだった。
 他に、もらった野菜、粗挽きの穀物で作った麺を用意する。料理は苦ではない。
 豆は鞘から出して茹でても、そのまま焼いても旨い。どの家の軒先にも植えられている植物の実は、皮を剥きスープに入れるのも良さそうだ。へたを取り、切れ込みを入れてコンロの火にかざす。さっと水で流せば全体の皮が容易に剥がれた。湯が沸くには少々時間がかかる。他の野菜も処理をしてしまおう。皮や種を取り除いて干せば保存がきくので、かなり重宝するのだ。
 やるぞ、とずり落ちてきたワイシャツの左袖をまくり直したとき、玄関のドアを叩く音がした。せっかくのやる気が削がれたなどと子供のようなことを思いつつ、手を洗い直して小走りに向かう。

「宅配便? それとも奥さん?」

 喉の奥や歯茎を使って出す音の多い島ことばはいまだに慣れない。自分で聞いても下手だと分かるのだ。間延びしたこちらの声に答えたのは、なぜか聞き慣れた皇国語だった。

「失礼。一晩限りの宿を借りることはできるかな」
「……って、あなた」

 一気にドアノブを引くと、寄り掛かっていたのだろう、人影がこちらへつんのめってきた。道理で聞き覚えのある声の筈だ。五島さんだ。

「どうしたんですか。とうとうクビになりましたか半永久的な休暇ですか」
「違います仕事です」

 いつもの無表情に神妙さを足した顔で言うものだから、おかしくて吹き出してしまう。すると五島さんも「ふほ」と不思議な笑い声を漏らした。

「ルウ。相変わらずの減らず口で安心した」
「何を言いますか。私はこれまでもこれからも真っ直ぐな良い子です」
「自分で言うか? ……とにかくあれだ、久しいな」
「ええ。お久しぶりです」

 立ち話もどうかと思い、ひとまずは中へ招き入れる。「汚ぇ部屋だな」と言うのは聞き流すことにし、鍋の中の湯を適当に急須に移し替えた。零れた水が蒸発して大げさな音をたてる。これまた頂きものの茶葉は香りが高く、皇国のものに似ているので気に入っている。ここでは香辛料の利いた茶がよく飲まれているが、何と言うか、くせが強く、難易度が高い。
 料理の続きをしながら、五島さんがやって来たいきさつを聞く。
 各地で臨時の現地監査が行われるため、その前調査として派遣されたのだという。ちなみに五島さんはこれっぽっちも作業を手伝おうとはしてくれなかった。そのくせ、二皿に盛った料理の多い方を取り上げる。少し腹が立った。

「もっと近かったら監査団が直接来るんだろうけどな」

 皇国とこことを繋ぐ就航便はほぼ無いと言っても良い。この辺りの島をめぐる臨時便もだ。壁に掛けた暦へ目を向ける。通常の周期からすると、次回の寄港は約三週間後、一か月後だ。

「あらかじめ評価の見当をつけるということですか」
「ん。こっちに来てからまごついているようじゃあ余計な時間を食っちまう。案内人にできる皇国の人間が要るって考えたんだろうな。かと言って、調査の対象でもあるお前さんを使う訳にはいかん。そこで俺みたいな優秀な人間を派遣した、っちゅうことだ」
「いてもいなくても変わらないからだったりしませんかね」

 具体的には何をするのか。そう尋ねると、五島さんは「特に何も」とだけ言った。

「俺自身に権限はない。お前さんがさぼらずに仕事してるか、余計なことをしてないかを確認できれば。観光のついでにでも」
「観光がついででしょう。……そう、監査員が?」

 あまりにも軽い。

「俺の判断だ」
「あーほら! やっぱり」
「いやいや、お前さんへの信頼はなかなか厚いようだぜ。それにここは皇国軍の占領も長い。だから監査団もそこまで心配しちゃあいねえよ。言語を広めるのに一番大事なのはまず、相手との信頼関係を築くことだろ。聞いて回ったがお前さん、仲良くやってるみたいじゃねえか」
「最初は、違いましたよ」

 麺をすするのを中断し、茶を二口飲んだ。スープが少し濃いと思ったのだが、五島さんはごくごくと飲んでいる。どんな舌をしているのか知るのは怖い。

「それでも、良くやってるには変わりがねえだろ。慣れない場所でよ。お前さん、疲れるのは嫌だのどうだのって言う割にすぐ頑張りすぎんだから、無理はすんなよ」
「なんでこういうときだけ年上みたく振る舞うんですか?」
「たまにだから良いんだよ。……んだよ、嬉しいからって泣くな」
「泣いてないです、汗です」

 普段は互いに、というよりも私からふざけてしまいがちだが、ふとしたときに覗く五島さんの労りがどうも苦手だった。一回り以上も年上ということもあってつい考えてしまうのだ。父がいたらこんな話ができていたのだろうかと。
 私の父は、私が十にも満たない時分に行方不明となっていた。

「最初は……本当、きつかったんですからね」

 当初集まった人数から一変、初の講義に顔を見せた人数は二十そこそこだった。女性よりも男性がやや多い。自分と同じくらいか、それよりも下の少年少女が大半だった。年齢や性別に関係なく労働や家事に従事せねばならないのがこの地域の現状だ。金銭はかからない講義とは言え、貴重な時間を無駄にしてはならないと思うのは当然だろう。人数を気にしても仕方ない、最初なのだからこんなものだ、と気を取り直した。用意していた大量の資料を脇へ押しやり、簡単な自己紹介や易しい文章の朗読を行うにとどめた。

「―では、今日はここまでにします。お付き合いくださりありがとうございました。
 みなさんは、私にとって初めての生徒さんです。来てくださって、ほんとうにありがとうございます。もしよろしければ、あしたもぜひ来てください」
 笑みを浮かべて挨拶をしたが、心の中では滝のような冷や汗をかいていた。
 一気に実感が湧いてきたのだ、自分が彼らにとっての皇国語のすべてになってしまうかもしれないことの。ことばに限らず、皇国を象徴する人間として。
 誤解を招くことを教えなかっただろうか、歪んだ情報を与えなかっただろうか、と、振り返る不安が、時計の秒針を早送りするかのように押し寄せる。しかし私に向けられたのは罵声ではなく、小さくもしっかりとした拍手だった。

「ありがとう。楽しかった、センセイ」

 ゆっくりとした現地語は聞き取りやすい。私と変わらぬ年齢だと自己紹介で言っていた青年のキヤルは、立ち上がって握手を求めてきた。

「センセイはおれたちに、コーコクゴを教える。だけど、おれたちはセンセイに、この土地のこと、教えられる。オタガイサマだよ」

 にっかりと笑う彼の話す皇国語は恐らく、駐屯軍の者から聞いて覚えたものなのだろう。語尾の発音が、皇国で聞き慣れたものとひどく似ていた。

「……私は、お互い様にはしたくないけどね」

 教師としてここに立っている以上、こちらから与えるものが多くなくては。できるだけ早く彼らに、皇国の人間と同等に会話ができる力を身に付けさせたいと思った。
 意思疎通が上手く出来ないからというだけではない。どうせ意味も分からないだろうと足元を見られてしまうからだ。日常の買い物で損をする程度であればまだ可愛い。だが、関与どころか存在も知らない犯罪の共謀者に仕立て上げられ、命を失う羽目になってしまったらどうする。
 などということを考えている、と告げれば、皇国の民は言うだろう。「それは大変だ、せっかくのわたしたちの仲間が減ってしまうのはとても困る」と。どの口が言えるというのか。資源として見ているに過ぎない発言だ。
 皇国民の命は貴く尊く、いくさで軽々しく失わせる訳にはいかない。そのために皇国はかつて、人間が手ずから行ってきた危険な行為を機械に任せる仕組みを作ったというではないか。後に引けぬところまで来てしまった侵略行為を更に進めるがごとく。そして、機械では賄うことのできない戦闘を、皇国の血を引かぬ者に担わせているのだ。この島もまた例外ではない。
 生まれた地が、見目が、話すことばが異なっているというだけでなぜ人間扱いされぬのか。皇国に居た間はそれとなく身を潜めていた疑問と怒りが頭をもたげることが多くなっていた。
 私の憤りは独り相撲なのかもしれない。キヤルのように初めから好意的な者はごく僅かだった。夜中に窓ガラスの割れる音で起きたこともある。面と向かって「皇国の連中は信用できない」と言われ、泥水をかけられたこともだ。
 息子を戦闘で失ったという老人からは刃物を向けられた。人殺し、という叫びに反論できなかった。自分も同じなのだ。皇国の人間、という看板を、欲しくもないのに背負わされる。恨まれ、憎まれる。
 弁明はしなかった。淡々と、自分のやるべきことをするしかないと思った。
 それでもあからさまな暴力には、流石に心が折れかけたが。軍の連中に相談をしようか、と考えかけて、すぐにやめた。これしきのことで何を言う、と撥ねつけられるのが目に見えていた。
 耐えろ、耐えろと自分に言い聞かせた。ものぐさな自分にしてはよくやっているじゃないか、と見えぬ自嘲を吐いた。
 数週間も経つ頃にはキヤルたちの働きかけもあり、向けられる視線の刺々しさは和らいできているように感じた。自然と避けるようになっていた市場へ久方ぶりに向かうと、あの刃物の老人から真っ直ぐな謝罪を受けた。

「すまねえ、大人気なかった。センセイがあいつを奪ったんじゃないって分かっててもよ、皇国の奴だってだけで頭に血がのぼって」
「……ううん、いいんです」

 せめて、と握手を交わした手の骨ばった感触を、細かな震えを、今でもはっきりと思い出せる。
 これが皇国のしてきたことだ。表面で友好的な関係をのたまっても、蓋を開けてみれば不信と憎悪と、素朴であるがゆえに強い恨みが渦巻いている。
 気付けば、麺を食べ進めることも忘れて話していた。皿を空にした五島さんは閉じていた目を開け、深く頷いた。

「恨まれて当然なんだと思いますよ。歓迎されたいからと媚びを売るのも間違ってる」
「考え方が両極端なのはいかんぞ、ルウ。中庸よ、中庸」
「そう上手くいくもんですか」

 すっかり伸びきった麺をすする。勢いをつけすぎて気管に入るところだった。

「いくかどうかは知らんが、心掛けはいくらでも出来る」
「ただの理想論だ。五島さんは私じゃないから言えるんですよ」
「自分以外の人間の意見を求めたかったんじゃないんかいな。それとも同調されたいのか? こんなに大変なワタクシを慰めて欲しいのか」
「そんなんじゃない、私はただ」
「言いたいことがあんなら今のうちに吐き出しとけ」

 箸を止める。スープが一筋、顎を伝っていくのを感じた。

「俺になら好きなように皇国語を話せるだろ。俺にとっちゃただの音だ。気にもならん」
「いいえ」
「お前なんざに話すことなんてねえってか?」
「そうではなくて、ですね……」

 結局は、私のプライドの問題なのかもしれない。
 ひとに甘えることと頼ることと、昔から線引きは苦手だ。

 先に食べ終わっていた五島さんを風呂場へ向かわせる。中途半端になっている野菜の処理も終わらせてしまわねばならない。全て切って並べようとしたところで、五島さんも顔を出した。

「早いですね。ちゃんと洗いましたか」
「お蔭さまでな」

 からかうんじゃない、と小突かれる。

「で、肝心の講義の調子は? どんなもんだ」
「それはそれで大変……ですけど、やりがいがありますよ」

 基本的には文章の音読が中心になる。精読というやつだ。意味は分からずとも、声に出せば構文が記憶に刻み込まれることとなる。一つの文章から得られるものは多い。用いられている単語の品詞は名詞なのか動詞なのか。構文は? 時制は? 文章は建築物に似ている。どんな材料がどんな法則性に基づいて並び固められているのかを理解すれば、新たに作り直すことも解体することも容易になる。
 講義は毎日同じ顔触れで行うのではない。最近では、何日かおきに順繰りに出席をする者が増えていた。仕事をしつつ通っている者も多数いるため、商売で使う商品や道具を使って、日常生活で起こり得るだろう会話を再現する。ずっと机に向かったままの講義よりも、身体を使った解説が好評だった。講義の開始と共に、教室の机を脇へ寄せるのが常となっていた。

「……そう、そうかい。ははは、ちゃんと楽しんでるんだな」
「ちゃんと、って。嫌々やったりなんかしたら失礼でしょうが」
「だってなぁ。楽しむのって面倒臭ぇことだと思うぜ」

 ものぐさ野郎のお前さんだからなあ、と、タオルを被ったままの五島さんは言う。

「それとも、嫌がるのも面倒か」
「知りません」
 私は楽しんでいるのだろうか。ことばを教え、少しずつ共有出来ていると感じられるこの過程に、夢の実現に、少なからずの幸福を感じているのか。
 幸福。好ましいこと。
 皇国語「は」好きだと言っていた、シェーレの声が思い出される。
 好きでいるのは疲れる。人間でもそうでなくとも。
 格別の好意を寄せるのは正直、辟易だ。
 しかしことばに関してだけは違っている、自覚している。心の底から好きだと思えるのだ。おかしいと思われかねないが、事実ことばに触れることが、私は好きで好きで堪らないのだ。

「……シェーレって子がいるんです。一番って言っても良いくらい熱心な子が」

 五島さんは表情を変えず、雪かと呟く。雪の降らぬこの土地で、珍しい名だ。

「そいつ、皇国のことは大嫌いなんです。でも皇国語は好きだ」

 好き嫌いは強要できない。それに、自分のような立場で、皇国へ忠誠を誓うべきだとは口が裂けても言えない。

「ここでよそのことばを教える教師になりたいと言うんです。憧れの職業に就きたいのなら何も言うことはありませんよ。でも、ただただ合理的な理由で教師を求めるのだとしたら。そう思うとやるせない気持ちになる。だって、ことばを使い捨てるみたいじゃないですか。そりゃ、今まさに役に立つ言語を身に付ければ有能な人材になれるでしょう。重宝されるでしょう。
でも私は、所詮はそうかと思ってしまう。幻滅してしまいます」
「ルウはその子に、教師になるのをやめさせてやりたいんかい」
「分からないです。だけどせっかくなら、どんな言語であっても好きになって欲しい。役に立つから、なんて理由だけで好きになって欲しくはないんです」

 優れたことばなど存在しない。言語をはかる尺度を備えること自体が無意味なのだ。誰もが、生まれてから親しんでいることばを最も使いやすいと思うだろうから。
 文字の多いことばや複雑な構造をしたことばが優れているだろうか。習得が困難であることは優れていることと矛盾してはいないか。
他国を圧倒する力を備えているか否かで国の優劣を決めるのがお門違いであるように、ことばも、本来は優劣を越えたところにあるべきではないのか。
 シェーレが多くの言語を習得したいと願うのは大いに構わない。だがその中で、ことばの中に優劣を見出すことだけはして欲しくなかった。

「大丈夫だろ。だってお前さんの弟子なんだから」

 軽口ではない、真剣みを帯びた調子で、五島さんはそう告げた。

皇国の音 2/6

皇国の音 2/6

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-20

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