ふくらむ  / ちぢむ  /回る  /

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今となっては液体なのだが、僕らがまだ一つのこたいだった頃、



「これはね、質でもなく量でもなく、ただ密度の問題なのよ」と確固たる口調で彼女は言った。

それはユ〇クロの試着室の中で、彼女は実に物理的な圧迫を受けながらそう言った。

そして“僕”はあまりにも太っていて大きかったために、彼女を物理的に圧迫していた。

彼女がプラシチック製の薄い壁に寄りかかると、それはミシミシと軋んだ。

彼女は驚き、壁から身を離した。

 

“僕”は通りの人目を引くくらいに太った巨体で、彼女はその横を跳ねるように歩いていた。歩いていたその表通りに、二階建てのユニク〇があった。新品の衣服独特の、陰干した清潔な日光みたいな匂いが表にも漂っていた。



彼女はそれに気が付くと、磁石に惹き付けられる金属片のようにして、〇ニクロに吸い込まれていった。毎度のことだったので、僕らはその後ろをカルガモの子みたいにして黙ってついて歩いた。

 

店内は並んだマネキンと商品棚で混み入って先が見通せなかったが、彼女は入口に重ねてあったカゴを手に取ると、かの地に詳しい先住民のような足取りでユニク□中を闊歩し、次々と商品をカゴに入れていった。細いジーンズ、青ストライプのTシャツ……。

 

こうして彼女は試着室へと向かった。

その入り口には若い女性の店員が一人立っていて、ズボンの裾上げや試着の受付をしていた。彼女は店員と一言二言交わした。僕らはそれを一歩引いた位置で見守った。



その店員は彼女のカートに入った洋服と彼女を見比べるとにこやかで、僕らにはそれが気の毒だった。まぁ客観的に見ても、彼女のカートに入った洋服の組み合わせはハイセンスで彼女にピッタリと似合うように見えた。

 

でも実際は僕らが着る。

 

店の入り口ではいかにも急いでいる様子の某国観光客たちの慌ただしい気配が大勢、大気を揺らしていた。



彼女は僕らと一緒に試着室に入ると身体をなるだけ薄くして、僕らに上を脱ぐようにと言った。

 

ピクニックで四人家族が座れるくらい大きなフリーサイズのシャツを僕らが一枚脱ぐと彼女はあの青ストライプのTシャツを僕らに手渡した。

 

僕らは躊躇いもせず、右腕を挙げて袖に腕を通そうとする。僕らが腕を挙げたその瞬間だけ、彼女はそれを躱すように首を軽く曲げた。

 

僕らと彼女の間には指三本くらいの隙間しか存在していなかった。僕たちは試着室のかさを意識し、その空間を何とかやりくりしていた。



右腕に関して、それは造作のない事だった。細い袖口に嗜虐的なまでに無理やり腕を押し込んだ。

ただ左腕で引っかかった。肩幅の問題があった。これはTシャツの柔軟性ではどうにもならない。



それを見た彼女はまた、

「いい?質でも量でもなくて、ただただ密度の問題なのよ?」

と口癖のように言っては背伸びをし、僕らのあちこちの肉を引っ張って、押し込んで何とかTシャツを着せた。



僕らがそのTシャツを着ると、彼女は心なしか自由に動けるようになった。Tシャツが僕らの身体を押し込めて、例えば細胞とかを密集させているからだ。でも肋骨やら内臓やらが強い圧迫を感じていた。



青ストライプのTシャツの生地は伸びて薄くなり、そのストライプも歪んでいた。石油を含む褶曲構造地盤のような歪み方だった。その柔軟性に付け込んだみたいで僕らは何だか申し訳なかった。僕らが脱いだあともずっとこのままで。



次はジーンズを履くことになっていた。

彼女は再びしゃがみ込み、足元に置かれたジーンズを僕らに手渡すと、さっき出来たばかりの隙間を利用して僕らにクルリと背を向けた。

このジーンズもこれまた彼女の脚くらい細いので僕らはそれを見てどうしようもなくなった。入るわけないよ。

で、そう言うと彼女の肩が上がり、言いかけたので、

「質でも量でもなく、ただ密度の問題だろ」と僕らが先手を取って言ってみた。自分の声がやたら低く聞こえた。

「そうよ」と言った彼女は非を認めるように悔しそうだったがすぐに、

「でもね、ただただただよ」と言った。



彼女は往々にして僕らの容積を減らそうと試みていた。

しかし、それは運動とか食事制限とかの正攻法としてのダイエットという形では決して行われない。ご覧の通り、彼女は僕らに自分自身のサイズの服を着せ、僕らの体積を減らそうとしていた。

そして、それが終わると今度は、僕らのせいで伸び切った服を自分で着た。

なので彼女が今着ている服も全て、歪んで伸び切っている。

それは先週、僕らが伸ばしたものだ。

 

彼女の黒パーカーのフードの根本は波打ちながら大きく歪み、その隙間から彼女の背中に生えた柔らかなうぶ毛までも見えた。着ているパーカーのせいで彼女の胴は異様に太かった。でも首筋は折れてしまいそうなくらいに華奢で、脊椎さえもうっすら浮き出ていた。

 

着ていたズボンを脱いだ僕らは、片足立ちで脚を浮かせて、ジーンズの入り口に足先を付けた。



そして、履いた。

足が痺れ始めていた。血行が悪くなったせいだ。

彼女は声を掛けられるとサッと振り向き、不格好なハムのようになった僕の足を一通り観察した。そして、ほら言ったでしょ?とでもいうようなニンマリした顔つきで僕の顔を見た。



足元で縫い目が立てる不穏な音がした。店の入り口では某国観光客たちがまだ話し込んでいた。その声さえ聞こえた。それでもそれはゆっくりと遠ざかっていった。

いなくなると、水が引いたあとのダムみたいに辺りは静かになった。

頭上で白熱灯がチリチリと音を立てた。

熱が篭り、暑かった。きっと、あらゆる密集のせいだ。

 

僕らはその服を脱ぎ、もとの服を着た。

彼女が試着室から出ていって、と言ったのでその通りにした。

 

カーテンを閉めると、彼女は恐らく先週の服を脱ぎ、さっきまで僕らが着ていたあの伸びた服たちを着ている。僕らは何かによって著しく汗をかき始めた。バックに入れたタオルでそれを拭く。

 

拭いているとあのにこやかな店員が歩いてきた。僕らにさえもなんだかにこやかだった。某国観光客たちがどこかへ行ってしまった後、もう客は一人もいないようでショートカットの彼女はとても暇そうにしていた。



 僕らの隣に来て、店員は「カノジョさんですか?」と訊いた。

「一応ね」と壁に寄り掛かりながら僕らはそう答えた。再び出た汗を拭きとる。

「素敵な人ですね」とさらに彼女は言った。

「そう思います?」と僕らは訊いた。

「えぇ、だってとっても細身でかわいらしい……」

と店員が明るい声で、両手を胸元で組み合わせ目もキラキラさせそうな口調で言ったところで、

 「今から、彼女が膨らんでここから出てくるって言ったら信じます?」と僕らは遮って言ってみた。

 

その店員にTシャツに対するのと同じ感情を僕らは抱いていた。

それに身体が細く縮まったままだった。

 

「え?」と店員は聞き返した。その声は揺れていた。

「彼女はここから膨らんで出てくるんです。密度をとびっきり小さくして」と僕らは各部分を言い含めるように強調して言った。

そして目の前の試着室を指さした。分かります?

「彼女もよく言ってますよ。質でもなく量でもなく、ただ密度の問題だって」

「知らないだけで、誰でも簡単に膨らんだり縮んだり出来るんです」



口は独立し、考えてもないことを続々言った。



「それに、僕は身体を水に変えるんです」

 

店員は今やにこやかに引き攣っていた。僕らの容積は小さいままだった。

肝臓が発する熱を手に取るように感じた。それが僕らを苛立たせていた。

仕事がありますので、と何かに言い訳をするように小さく呟いて彼女は去っていった。

 

するとカーテンが勢いよく開き、軽やかな足取りで颯爽と、彼女が試着室から出てきた。

彼女はやはり例の服を着ていて、服で隠された彼女の部位は残らず膨らんだように見えた。



彼女がスケート選手のように空中で跳んで、回った。

色が振り回され、欠片になって散らばり、彼女が弾けたみたいに見えた。

僕らの目の中に飛び込んできたのはその一部だった。それは青色をしていて、僕らに感情を呼び起こした。

それは心臓を揺らし、皮膚を拡張させた。

 

回り終えた彼女は、青ストライプのTシャツの裾を上品な淑女がスカートでするみたいにして軽く持ち上げ、僕らに向かって一度お辞儀をし、靴を履いた。

僕らは彼女に穏やかな拍手をした。彼女はやはり、膨らんだままだった。

 

彼女は当然その服を買い取り、僕らは店を出た。レジであの店員は怪訝な顔をして僕らを見、それでも何も言わずに会計をした。

外に出ると、穏やかな春の日だった。

 

その後、いくつか日をまたぐと、僕らの身体は液体になっていた。

つまりはいつか店員に言った通りに。

 

液体になった僕らは身体でどんな震えも感じ、聴き取った。

しかし、意志により人型を保っていた僕らは、歩く度に地面に身体の一部を足跡として残し、僅かながら蒸発もした。



僕らは今、際限なく分断されている。

彼女はこの状況を喜ぶかもしれない。だって僕としての容積はある意味では減っていたのだから。



けれども、彼女はどこかへ行ったきりだった。元々、彼女と僕らは何か名前のついた関係で結ばれている訳でもなかった。

それでも、僕は彼女のことが好きだった気がする。彼女が回ったあの時、少なくとも僕はそう感じた。



僕らは分裂を続ける。僕らはプールの水であり、雲の一部である。川を流れ、海に流れ込む。

そんな僕らが今出来る事と言えば、この状況を作ったのは彼女ではないか?と考えることくらいだ。

僕らは液体化した脳によるトロリとした思考でそういう事を考える。

それでもいつか、僕らがより分断され、思考と身体が成り立たなくなれば全て忘れてしまうんだろう。きっと。



僕らは今、晴れの日の雨であり、黒潮再循環流であり、ガンジス川の川底の髑髏を洗うその濁水でさえもある。

そうして分断は続き、いつか僕らはコーヒーカップに収まって彼女に飲まれさえもするのだろうか?

 

そうなった頃にはきっと、僕はもう何も考えていない。

Fin.

ふくらむ  / ちぢむ  /回る  /

カクヨム甲子園ショートストーリー部門に投稿しました。

ふくらむ  / ちぢむ  /回る  /

試着室での話。ある太った男が身体を液体に変わる様子を書きました。サイズの合わない服、つまりは自分の身体に対してやたらと小さい服を着たことはありますか? 僕はあります。

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更新日
登録日
2020-09-15

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