空のように、海のように
「空のように、海のように」
青い絵の具で塗りつぶしたキャンバスを何に見たてようか、ルタは思った。
彼は絵を描くことが大好きだったが、何を描こうか構想を練ってから描くことが苦手だった。
衝動にかられて気が済むまで筆を動かしてから、何を描こうか考えるのが彼のスタイルなのだ。
「青は空か海か」ルタはつぶやいた。
でも、それだけではつまらない。
彼は何かいいことを思いつくのを待った。
待っていれば必ずいいアイデアはやってくるのだ。
それでルタは象を描くことにした。
真っ青なキャンバスの上に象が描かれた。
象はまるで空に浮かんでいるような具合だった。
ルタはその絵がとても気に入った。
最後にキャンバスの上の部分に黄色いラインを一本引っぱった。
太陽の光だ。
「これでも空と海を間違えるやつはバカさ」ルタは得意だった。
絵を描き終えるとルタはそれを大きな紙に包み小脇に抱えて、叔母の家に向かった。
叔母の家にはルタの絵がたくさん飾ってあるのだ。
「まあ!ルタ!」
叔母はいつも驚きを隠しきれないように目を見開いて、新鮮にルタを迎えてくれるのだ。
「絵を持ってきたんだ」
ルタは小脇に抱えた紙の包みを叔母に手渡した。
「まあ!ルタッ!」
叔母はさらに驚いたように、両手の指を広げてみせる。
この驚きの声には二つの意味が含まれている。
1つは、ルタが絵を持ってきてくれた喜びの声。
もう1つは、乾いていない絵の具が包み紙にべったりと張り付いて、絵がぐちゃぐちゃになってしまっていることへの驚きの声。
おまけに絵の具はルタの洋服や顔にもたっぷりとくっついている。
叔母は本当の画家なので、ルタの絵をきれいに修復してくれる。
然るべき相手に絵を運んでいるのだとルタは確信している。
ルタのいいところは明るい絵しか使わないところだ。
おかげで叔母の家の壁はいつも賑やかで楽しく輝いている。
「ねえ、ルタ。母さんにこの絵は見せたの?」
「まだだよ。母さんはここに僕の絵を見に来るんだから」
何よりルタは絵が仕上がると、叔母の家に持っていくのだ。
「あんたのお母さんに嫉妬されそう」叔母は言う。
「嫉妬なんてしないさ。母さんはここにきて絵を見るついでに、おばさんとおしゃべりをするのが大好きなんだ」
「そうね」叔母は微笑する。
それからルタに紅茶とクッキーを与える。
「僕はミルクの方がいいな」
叔母は紅茶のカップの隣にミルクのグラスを置いてやる。
彼はよく食べる。
天才だから脳みそが栄養を欲するのだ。
ルタが自分の家に帰っていくと、叔母は回転しながら部屋じゅうに飾られたルタの絵を見渡す。
そして幸せな気持ちと、なんとも言えない寂しい気持ちを味わうのだ。
「ねえ、ルタはやっぱりあなたが育てた方がいいんじゃないかしら?」
「それはダメよ、姉さん。そんなことしたらルタが混乱するわ」
「でもね、ルタを見ているとやっぱりあなたの子供なんだって思うのよ。絵を描くことも大好きだしね」
「でも、ルタは姉さんの子供なの。そう決めたんだから」
ルタは本当は叔母の子供なのだった。
叔母の名前はルブ。
ルタの母親を演じているのはケブだった。
ルブとケブは仲の良い姉妹だった。
何しろ二人は同じお腹の中で育った双子なのだ。
けれど性格は大きく違っていた。
姉のケブは規則正しく角が丸かったし、妹のルブは無秩序でとんがっていた。
姉のケブには絵に描いたような真面目で優しい夫が一人いたが、妹のルブにはたくさんのボーイフレンドはいるものの、夫はいなかった。
その男たちの中のどれがルタの父親なのか、ルブにはわからなかった。
ルブには家庭を持って子供を育てる自信なんて全くなかったし、興味もなかった。
それで姉妹は相談して、ルタをルブの子供にしようと決めたのだった。
姉妹の家は近くてよく行き来した。
ルタは少し大きくなると、一人でルブの家を訪れるようになった。
ルタが足蹴に通う数に比例して、ボーイフレンドの数は減っていった。
ルタが邪魔をするでもなく邪魔をするからだ。
そしてとうとうルブの家を訪れるのは、ルタとケブだけになってしまった。
そのことを姉のケブはとても心配しているのだ。
それでルタを返してこようとしたり、「早く家庭を持つべきよ。本当に」と、ルブに説教をしたりするのだ。
ルブだって、ルタと一緒に暮らせたらどんなにか楽しいと思う。
でも子供には教育が必要なのだ。
「私は一緒に遊んであげることはできるけど、ルタを正しい人間に育てるのは無理」ルブはそう思っていた。
ある日、ルブは姉のケブに心配をかけないように、街に新しい恋人を買いに行くことにした。
ルブは目がチカチカするようなピンク色のスカートとグリーンのシャツを着て街に出た。
真っ黄色のハイヒールはアスファルトに小気味良いリズムを打った。
その鮮やかさに誰もがルブを振り返った。
彼女はその視線を気持ちよく受け流し、つんと鼻を上に向けた。
「ねえ、このお洋服にぴったりな男の子をちょうだい」ルブは店員に言った。
ショーケースにはきれいに折りたたまれた新品の男の子たちがたくさん並んでいた。
店員はルブの服装と商品を慎重に見比べた。
「別にあなたでもいいのよ」
ルブは男の店員をからかうように蛇のような視線を向けた。
慌てて駆けつけた女の店員がルブに言った。
「お客様、これなどいかがでしょう?」
ルブは店員が薦めた男の子の隣の男の子を買うことにした。
久しぶりに街に出て疲れたルブは、男の子の入った紙袋をその辺りに放り出して、そのまま床に転がって眠ってしまった。
目が覚めると、男の子は絵の具で塗りつぶされていた。
「ルタ!あんたったらどうやって家の中に入ったの?あんたったら泥棒の才能まであるの?」
ルブは絵の具だらけのルタを思わず抱きしめた。
「違うよ。母さんと来たんだ。母さんが鍵を開けたんだ」
ルタは台所を指差した。
台所からはいい匂いが漂っていた。
「それにしてもひどいじゃない、ルタ!私の大事な男の子をこんなにしちゃって。私はこんな色キチを恋人にしなくちゃいけないわけ?」
ルブは怒りながらルタに頬ずりをした。
ルタの頬はふわふわで最高に気持ちいいのだ。
「私が言ったのよ」台所からルブがやってきて言った。「こんな偽物の男の子なんて、絵の具でぐちゃぐちゃに塗っちゃいなさいって。ねえ、ルブ。恋人を作るならもっとまともな男の子にして」
ケブは厳しい目をルブに向けた。
それで男の子は返品することになった。
それから三人はケブの作ったシチューを一緒に食べた。
食べ終わるとルタはケブと手を繋いで帰っていった。
ルブはまた一人になった。
次の日、ルブはルタと待ち合わせをして男の子を店に返しに行った。
ルタはアイスクリームを買ってもらうという条件でルブに付き合った。
「お客様、あいにくこのような状態の商品は、返品をお受けすることは出来かねます」
女の店員は赤い唇からきびしい言葉を吐き出した。
「そんなこと言わないでお願いよ。この子をゴミ箱に放り込むなんて私にはできないのよ。いくらまだ膨らませていないと言ったってね」
男の子は息を吹き込むと命を持ってしまうのだ。
「それでは私どもで処分いたしましょうか。別途料金がかかりますが」
「うーん」
自分の罪の意識を他人に押し付けているようで、ルブはそれも気が進まないのだ。
特にこういう気にくわないタイプの店員にお願いするのは、ルブのプライドが許さないのだ。
「これで膨らませばいいんだよ」
ルタが店内にあったマシーンを指差した。
「そうですわ。これがいいですわ。賢い息子さんですね」
女の店員が感心したように頷いた。
「息子じゃないわ。ルタは親友なの。それより、これは?」
「電動式の空気入れです」
ルブの問いに店員が答えた。
「つまり、これで膨らませば、誰に情を持つこともない?」
「さようです。誰も恋人になる必要も、親になる必要もない」
「つまり、絵の具だらけのこの男につきまとわれない?」
「YES。空気を入れて街に放せば、それはただの道ゆく男の子。ただの街の風景。あなた様とは無関係です」
マシーンから男の子の体にさっそく空気は送り込まれた。
折りたたまれていた膝が伸びて、腕が伸びて、胴体が伸びた。
ルタが塗りたくった絵の具はカラフルにひび割れた。
「ねえ、ちょっと。いくらなんでも大きすぎない?」
「お客様がお買い上げいただいた商品はスーパーサイズの男の子でございますから」
男の子は天井につかえて腰を折り曲げてぷかぷかと浮いていた。
「ねえ、早く外に出してやろうよ。ここは窮屈なんだよ」
街に出ても男の子はただの街の風景にはならず、ルブの後をついてくるのだ。
それはルタが男の子と手を繋いでいるせいだった。
といっても、ルタは男の子の手にぶら下がっていて体はほとんど宙を浮いている。
それがルタにとっては面白くてたまらないのだ。
もう片方の手にルブが買ってやったアイスクリームを持ってルタは時々、地面を蹴るとヨーヨーのように跳ね上がった。
「ねえ、ルブの家は吹き抜けでよかったね。あそこならこの男の子もつかえなくて済むね」
「まさか。この子を家に連れて帰るつもり?」
「そうしないの?僕ならそうするけど」
「冗談じゃないわ。何のために電動の空気入れを使ったと思ってるの?」
「でもさ、彼がいれば、ずっとずっと高いところまで絵が飾れるんだ。手の届くところはもう僕の絵でいっぱいだろ?僕はもっともっと描きたいものがたくさんあるんだ」
天井近くの高い壁に、いとも簡単にルタの絵を貼り付ける様子を感心したように眺めながらルブは言った。
「あんたたち二人が揃うと、どうしていつもおかしなことになっちゃうのかしら?」
「さあね。結婚からどんどん遠ざかっている感じがするんだけど。これから私、どうすればいい?」
「そうね。とりあえずは同居人の男の子に名前をつけてあげれば?」
名付けの親は、もちろんルタだった。
「トオルがいいよ」ルタは言った。
ルタとトオルは急速に親密になっていった。
まるでチビとノッポの兄弟みたいだ。
ルタはほとんど毎日、ルブの家に通ってくるようになった。
「ねえ。僕もトオルみたいに、母さんに息を吹き込んでもらったの?」
「違うわよ。あんたはパパとママがベッドの中で仲良くして生まれたのよ」
ルブは言った。
「じゃあ、僕とトオルは何が違うの?」
「売り物の男の子と売り物じゃない男の子」
「売り物の男の子と売り物じゃない男の子は何が違うの?」
「そうね。ルタには親がいるけど、トオルには親がいないところかしら?」
「親って父さんと母さんのことだよね?」
「そうよ。当然」
「ふうん。でもトオルには僕がいるからいいよね」
「ルタはトオルの名付けの親だものね」
ルタはトオルに絵の描き方を教えた。
おかげで部屋の壁は絵の具だらけだった。
でも、カラフルなことは悪くない。
それよりも、ルタが成長して友達がたくさん出来たらトオルにも飽きて、もうこの家にあまり遊びに来なくなるかもしれない。
そんなことを考えるとルブは胸が押しつぶされるような気分になるのだ。
「あんたとトオルが入れ替わればいいのにって、たまに思うの」
ルブは心の中に隠していた気持ちをそっと打ち明けた。
「それってトオルみたいに大きくなってほしいっていうこと?」
「ばかね、そうじゃないわよ。だってトオルだったらいつも私の家にいてくれるし、それに年も取らないでしょ?」
そのことについてルタはじっと考えた。
「でも、やっぱり年は取るべきだと思うよ。人生にとってきっとそれは必要なことなんだ」
「何よ。ずいぶんと生意気なことを言うじゃない」
「だって、もしも子供の姿のままで死んだら、母さんは悲しむだろ?」
ルタが母さんのことを思いやっているので、ルブは悲しくなった。
「ねえ、じゃあ、もし、もしよ?あんたのお母さんと私が入れ替わったとしたらどう?」
勢い余ってルブは、さらに踏み込んだ質問をした。
「別に何とも思わないよ」今度は即答だった。
「どうしてよ?」
あまりの簡単な言葉にルブは半ば腹立たしげに言った。
「そうだなあ。例えば僕は、キャンパスを絵の具で塗りつぶしてから、どんな絵を描こうか考えるだろう?」
「知らないわ」ルブはすでに不貞腐れているのだ。
「じゃあ、トオルが塗っているあの青。おばさんならどんな絵を想像する?」
「さあね。でも窓を塗っているんだから空なんでしょうね」
トオルはこの家の中でいちばん星に近い天窓を塗りつぶしているのだった。
「でも、海っていう手もある」
「そんなのどっちだっていいわ」
「そう。どっちだっていいんだ。母さんとおばさんは同じ顔をしているけど、ぜんぜん違う。でも、僕にとってはどっちだって構わないんだ」
「どっちだっていいなんてひどいわ」
「ねえ、僕とトオルはすごい技を生み出したんだ」
そう言ってルタが合図を送ると、トオルはルタを長い手で持ち上げて天窓に掲げた。
ルタは天窓の青いキャンバスに魚の絵を描いた。
「こうしていると空で海を描いているような気分なんだ」
ルタは天井から大きな声でルブに言った。
途端にルタは逆さ吊りになって、髪の毛を逆立てたルタは床を青く塗り潰した。
「こうすれば、海の底で空の絵を描いているような気分になる。それって最高だろ?」
ルタはちょっと鼻の詰まったくぐもった声で言った。
ルタはトオルに空中ブランコのように振り回されて、いつの間にか部屋は、空のような、海のような、青だらけになった。
空のように、海のように