ホームレスの愛人

マツダシバコ

 
 「ホームレスの愛人」

 空は灰色だった。
 凍えるような冬の日に、私とおっちゃんは再会した。
 おっちゃんと会うのは5年ぶりだった。
 20年前、私はおっちゃんの愛人だった。
 おっちゃんは秋葉原にビルを持つ金持ちで、私はまだハタチの美しいバニーガールだった。
 私とおっちゃんは歳がちょうど20才離れていた。
 おっちゃんは私にベタ惚れだった。
 おっちゃんは私に何でも買ってくれたし、カメラマンを雇ってバズーカ砲みたいなレンズで、私のピンナップを死ぬほど撮りまくって山積みにした。
 私はいつもブランド物の高い服を着て、小さなハンドバッグを手首に引っ掛け、ハイヒールでアスファルトを蹴飛ばして歩いていた。
 私に怖いものなんてなかった。
 私は若くて、美しかったし、何しろ私にはおっちゃんがいた。
 おっちゃんは私が気に入らないすべてのものを高級ベンツで轢き殺してくれた。
 だけど、私たちの長い長いバカンスは終わった。

 おっちゃんが築いた家族たちは、おっちゃんが自己破産したのを知らなかった。
 ある日、競売を請け負った不動産業者がやってきて、彼らは億ションを追い出された。
 家族は贅沢しか知らないマルチーズを抱えて、タワーマンションの高層から地べたのカビ臭いボロの借家に引っ越した。
 おっちゃんは2つの裁判を抱えた。
 離婚にあたっての養育費と慰謝料をめぐる裁判。
 金融会社から借金返済を求める民事裁判。そして詐欺罪の立件。
 自己破産者は本来、金融業者に借金返済の義務はない。
 でも、おっちゃんは自己破産直後、その情報が金融業者に行き渡るその前に、街中のヤミ金を駆けずり回り、借りれるだけの金を借りまくったのだ。
 その額およそ1600万円。
 しばらくしてほとぼりが冷めた頃、おっちゃんはそのお金を使って千葉県の中途半端な繁華街でバーを始めた。
 「昔からBarを経営するのが夢でさ。この俺のトークとセンスで常連がすぐにつくと思うんだ」
 だけど、しばらくぶりに電話があって私が行ってみると、バーには客が一人もいなかった。
 中途半端な大きさの水槽にグッピーが1匹泳いでいるだけだった。
 「本当はもっといたんだけどさ。けいこちゃん、なかなか来ないから」
 おっちゃんは言った。
 やたら長いカウンターに埋め込まれた青いネオン管が、おっちゃんの顔をライトアップしていた。
 おっちゃんはカクテルBOOKを見ながら、私にカクテルを作ってくれた。
 カウンターの上には空になった色んな形のグラスがいくつも並んで、私とおっちゃんはカウンターを挟んでむっつりと黙り込んでいた。
 トイレに立つ私を呼び止めて、おっちゃんはシャンパングラスを差し出した。
 「やっぱり、けいこちゃんのおしっこを飲むとパワーが出るなあ。明日からは何もかもうまく行く気がするよ」
 そう言って私のおしっこを飲み干した翌々日、おっちゃんは店を捨て、取り立て屋から逃れるためにアパートの窓から抜け出して、ホームレスに転身した。
 それから5年間、おっちゃんは音信不通になった。

 「まあ、でも何とか生きてるよ」
 目の前に座ったおっちゃんは言った。
 私たちは犬小屋のようなしけた定食屋で昼間から呑んでいた。
 「家は本当にないの?」
 「ないさ。だってホームレスだもの」
 おっちゃんは面白そうに言った。
 だけど、おっちゃんは私が想像した姿とは全然違っていた。
 「もっとダメになっているかと思ったのに」
 私はがっかりして言った。
 「けいこちゃんの想像したホームレスはあれだろ?こう髪が伸びきってもつれて、髭面で、服もボロボロでプンプン臭ってきそうなやつだろ?バカだなあ。そこまでいったら、本当に人生おしまいだよ。ホームレスと言えども、いつも清潔にしてないとね」
 そう言うおっちゃんは、ユニクロの黒いダウンジャケットにジーンズ、それに黒いニット帽という格好だった。
 私だってユニクロのコートなのに。
 私はバルタン星人みたいな変な切り込みの入った茶色いダウンコートが死ぬほど嫌いなのだ。
 「でも、たまに残飯を漁ったりするんでしょ?」
 私は期待を持って聞いた。
 「そうだな、最初の頃はそんなこともあったかな。でも、最近はないな」
 おっちゃんはある私立の小学校の警備員の仕事にありついていた。
 おっちゃんはマックか漫画喫茶で夜を明かし、コインロッカーに詰め込んだ制服に着替えて髪に櫛を入れ、お金持ちの頃からお気に入りだった香りのボディコロンを振りかけて、毎日出勤しているのだと言った。
 おっちゃんはぐびぐびと熱燗を飲んだ。
「けいこちゃんは全然変わらないね。相変らずきれいだ」
 おっちゃんはちらりと私を上目づかいで見て言った。
 私のおごりだと思って、卵焼きと目玉焼きと野菜炒めとハムカツとモツ煮とマグロぶつと焼き鳥とイカ焼きとおでんとポテトサラダと親子丼を頼んだくせに、おっちゃんはもう私のおしっこを飲みたいとは言わなかった。
 
 次の日、私はおっちゃんが働いているという小学校に行ってみた。
 正門の近くの守衛小屋の前に立って、制服姿のおっちゃんは登校してくる子供たちににこやかに挨拶をしていた。
 中にはおっちゃんにハイタッチを求めてくる子供もいた。なついているのだ。
 おっちゃんに気づかれないように、私はその場を立ち去った。
 その次の日、おっちゃんはその学校をクビになった。
 私がおっちゃんはホームレスであることを密告したからだ。
 次に会った時、おっちゃんはずいぶん消耗して疲れているみたいだった。
 「まいったよ」おっちゃんは言った。
 「また自分で会社を作ればいいのに」私は言った。
 「今の俺にそんな力はないよ」
 私はおっちゃんから預かった隠し金を使ってしまった。だって、5年後に現れると思っていなかったから。
 そのことについて、おっちゃんは怒らなかった。
 「仕方ないな」とただ言っただけだった。
 定食屋の支払いを済ませると、私は財布から3000円を出しておっちゃんにあげた。
 外はすっかり夜で、氷のような冷たい風が吹いていた。
 私はユニクロのダウンコートのファスナーをあごまで引き上げた。
 「ねえ、こんな夜はどこで眠るの?」
 「そうだな。この金で漫画喫茶って手もあるけど、まだ次の仕事のめどもついていないし、やっぱり100円マックかな」
 「でも朝になったらどうするの?やっぱりお金はないままじゃない」
 「けいこちゃん、日本って国は日が昇りさえすればどうにでもなる国なんだ。図書館で寝たっていいし、ホテルのロビー、デパート、その他にも公共で温かい場所なんていくらでもある。身ぎれいな格好さえしていればね」
 「わかったわ」
 私はおっちゃんに「さよなら」と言って電車に乗り込んだ。
 車窓からいくつも川を眺めて、私は2時間かけて自分の住む町に帰ってきた。
 私は駅からの道を白い息を吐き出きながら急いだ。
 かじかむ手で鍵を鍵穴に差し込むと、ドアの向こうで暴力夫が待っていた。
 「ごめんなさい。遅くなっちゃって。遠かったから」
 「よお。おかえり。おっちゃんはどうだった?」
 「別に。まだ元気だった」慎重に言葉を選んで私は言う。
 夫はおっちゃんの話が気に入っている。
 昔はお金持ちで、私が愛人だったっていうところが気に入っている。
 もちろん今、ホームレスで落ちぶれているというところも。
 「おっちゃんにご馳走してやったのか」
 「うん」
 「今日は幾ら使ったんだ?」
 私は財布に入っているお金をテーブルの上に並べていく。
 「この間と同じ定食屋か?」
 「うん」
 夫は自分がどこでキレるべきか思案しながら会話を楽しんでいる。
 「何だ計算が合わないじゃないか」
 夫は定食屋のレシートと残ったお金を見比べながら言う。
 私はおっちゃんのところに行くのに電車賃がかかることを説明する。
 「それだけか?」
 夫は念を押す。
 私はチビリそうになりながら、おっちゃんにお金を貸したことを告白する。
 「貸したんか?あげたんじゃないんだな?」
 私は何度も頷きながら、覚悟を決めて目をつぶる。
 だけど、何も起こらなかった。
 「ふん」
 夫は立ち上がると、部屋の電気を消して寝室へ行ってしまった。
 暗闇の中で不気味な沈黙が私を包んだ。
 私は暖房の切れた部屋で寒さに凍えながらソファにうずくまって眠った。
 ホームレスのように。


 夫と知り合った時、彼は羽振りのいい証券マンだった。
 私は怖いほどに彼に惚れられた。
 若かった私はおっちゃんを引き合いに出した。
 私にはお金持ちで、大人で、何でも願いを叶えてくれる愛人がいるのだと。
 夫はそれに負けじと私に貢いできた。
 おっちゃんという船が転覆しかけた頃、私は彼と結婚をした。
 私はいい気になっていた。
 これでこの先の生活も保障されたのだと。
 腕利きの証券マン。
 私に言いなりの夫。
 何不自由ない生活。
 だけど、それは幻想だった。
 夫はギャンブル狂いで多額の借金があった。
 そして結婚をすると私に暴力を振るうようになった。
 なのに私は夫との生活にしがみついてしまった。
 美しく自信に溢れていた私は、年を取ってみると何の価値もないただの肉袋に過ぎないのだ。
 そう夫が教えてくれたのだ。
 
 私は週に4日、ビルの清掃のパートをしている。
 薄ぼけた緑色の制服を着て、長い髪をゴムで一つにまとめて働いている。
 ズボンの丈は私に合っていない。私は長身で足が長いからだ。
 もう少しましな仕事もあったのに、夫はこの仕事しか許してくれなかった。
 8万円の給料のうち、1万円だけ自由に使うことが許されている。
 私はそれで昼のパンを買ったり、生理用品を買ったり、宝くじを買ったりする。
 おっちゃんに会う時のお金は、夫から支給される。
 その代わり、行動をすべて報告する。
 夫は落ちぶれた私たちを管理することに喜びを感じているのだ。
 でも、私にも秘密はある。
 夫が出張や接待などで遅くなることがわかっている時、私は売春をする。
 私の体はもう高くは売れない。
 1万円ももらえれば十分だ。
 私は体を売って得たお金を、古びた電話BOXの脇に穴を掘って隠している。
 銀行に預けるなんて、そんな足のつくようなことはしない。
 ある日行ってみたら、電話BOXが取り壊されて更地になっているんじゃないかって、私はいつも恐れている。
 だけど、私はこの場所が気に入っている。
 
 おっちゃんは私のことを一度も抱いたことがない。
 彼は究極のオナニストなのだ。
 40才のおっちゃんは、20才だった私を気に入った。
 私は会員制のラウンジで長い足をひけらかしてバニーガールとして働いていた。
 網タイツに包まれた私の足は美しかった。
 胸の谷間で光るライター。
 ふわふわとウェーブのかかった長い髪。
 そしてハート型のお尻。
 何もかも完璧だった。
 おっちゃんはその対価として私にたくさんのお金をくれた。
 私はヒールを履いたままベッドの上で頬杖を付いて、おっちゃんのオナニーを眺めた。
 そのうち、おっちゃんは私を赤いロープでぐるぐる巻きにする。
 それから三脚を立てて8ミリビデオをセットした。
 ビデオには赤いロープでがんじがらめにされて、芋虫みたいに転がった私とその隣でオナニーをするおっちゃんが映っていた。
 シャンパンを飲みながら私たちはビデオ鑑賞をした。
 高層のホテルの窓からは、果てしなく続く街の夜景がきらきら輝いていた。
 
 次に会った時、おっちゃんは息を吹き返していた。
 「いやー。けいこちゃんがくれたお金で馬券を買ったら当たっちゃってね。千円が27万円になったんだ。やっぱり、けいこちゃんは俺の女神だな」
 「あげたんじゃなくて貸したのよ」
 私が言うと、おっちゃんは五千円札をくれた。
 「けいこちゃん、今日は美味しいものを食べに行こう。お寿司だっていいよ。何がいい?」
 「そんな無駄遣いしていいの?仕事もまだ決まっていないんでしょう?」
 「けいこちゃんは真面目だなあ。こういう時に楽しまなくていつ楽しむの?」
 「じゃあ、昔みたいにホテルのスイートを取ろうよ」
 おっちゃんは驚いた顔をして、それから言った。
 「まあ、ほどほどに楽しむのがいいんだよ」
 おっちゃんは庶民的な寿司屋に私を連れて行った。
 そして昔みたいに白身の魚から上品に注文していった。
 おっちゃんは昔、人を騙すのが大好きだった。
 「それを戦略というんだよ」おっちゃんは言った。
 私は昔、堂々と嘘をつくおっちゃんが大嫌いだった。
 でも、今は理解している。
 あの頃の私は、潔癖なふりをして、おっちゃんに騙される人たちを見て喜んでいたのだ。
 おっちゃんはモデル事務所を経営していた。
 ちょっと綺麗な女の子に声をかけて、登録料として高いお金を取った。
 女の子たちはおっちゃんの手下が撮る宣材写真の撮影にすっかりその気になっていた。
 でも、おっちゃんは出版社や広告代理店に営業なんてしていなかった。
 おっちゃんが紹介するオーディションの数々は全部、雑誌やテレビで公募しているものばかりだった。
 おっちゃんは唾を付けて切手を貼り、その応募先に彼女たちの写真を送っていただけのことだ。
 「けいこちゃん、どこにいようが成功する奴は成功する。しない奴はしない。そういうもんなんだ。チャンスは自分で掴まないと」
 おっちゃんは仕事のない女の子に高級クラブや時には風俗、エロビデオの仕事まで紹介して、そのうち女の子を働かせるためのクラブを自分で作ってしまった。
 「こんな人を落とし込めるようなことばかりして、良心が痛まないの?」
 私は酔っ払うとよく、おっちゃんをそうやって責め立てた。
 「けいこちゃんは心がきれいだからなあ。でも、お互い自分の得意分野で儲かれば、こんなにいいことはないと思わないか」おっちゃんは言った。
 確かに。女の子たちは大金を儲けたし、おっちゃんを恨んでいた子もいなかったと思う。
 「俺はけいこちゃんのガラスのような繊細さとナイフのような鋭さが好きなんだ。それに白い肌だ。けいこちゃんの肌は白く光り輝いている」
 おっちゃんは8ミリビデオのファインダーを覗き込んでよくそう言った。
 でも、なんていうことはない。
 おっちゃんはカメラの露出度を最大にして、浅黒い私の肌の色を真っ白に吹き飛ばしただけのことだ。
 だけど私は信じている。
 おっちゃんは表面の肌の色なんかじゃなくて、もっともっと奥底に眠った私の純白な部分を見てくれているんだって。
 もしも、私たちに肉体関係があったなら、20年間なんて長く付き合いは続かなかったかもしれない。
 おっちゃんはほとんど私の体に触れなかった。
 それでもおっちゃんは私を特別に扱ってくれた。
 おっちゃんから言わせると、我々は最高に気が合う同士なのだそうだ。

 「今日はいくら使ったんだ?」
 私の財布を取り上げて、夫はいつものようにお金を数え始める。
 私は黙ってテーブルの上に並べられていくお金を見つめていた。
 「何だ、今日はぜんぜん使っていないじゃないか」
 「うん。あのね、、」
 私は子供のように、おっちゃんに寿司を奢ってもらったことを夫に報告する。
 突然、私は目の上をげんこつで殴られた。
 頭蓋骨が陥没したんじゃないかと思うほどの衝撃だった。
 「寿司なんて喰いやがって」
 「ホームレスにごちそうになったのか?」
 「お前はコジキ以下か!」
 夫が何度も拳を振り下ろす。
 鼻の奥がつんとして私は鼻血を流す。
 再び眉間にげんこつが飛んでくる。
 夫は私の血を見るのが好きなのだ。
 おかげで私の前歯はほとんどが差し歯だ。
 夫がハアハアと息を切らしている。
 運動不足の白ブタなのだ。
 私はぼやけた視界の中でじっと夫を見つめ、彼の言葉を待つ。
 「ホームレスのくせに金なんて持ちやがって。おっちゃんを探してる金融屋に居場所を教えてやんなきゃいけないな」
 「そうね」
 私は血の味がする口の中でつぶやいた。
 
 次の日、私はパートを休んでおっちゃんに会いにいった。
 おっちゃんは私の腫れ上がった顔を見て驚いたみたいだったけれど、何も聞かなかった。
 「まずは酒でも入れるか」おっちゃんは言った。
 「ねえ、競馬に連れて行って」私は言った。
 「けいこちゃん、それは安易すぎる」おっちゃんは言った。「何があったか知らないけど、競馬で儲けてどうにかしようなんて、ダメな人間の考え方の典型だよ」
 それでもおっちゃんは私を競馬場に連れて行ってくれた。
 私は電話ボックスの脇から掘り返した1万円札の束を、ポケットから出し握りしめた。
 でも、結果は惨敗だった。
 「チキショウ」
 私は悔しくてその場にしゃがみこんで泣いた。
 おっちゃんは競馬場近くのどうしようもない居酒屋で私にお酒を注いでくれた。
 「帰りたくない。パートを休んでお酒を飲んでいたなんて知られたら、また暴力をふるわれるもの」
 「それでも帰る家があるうちは帰った方がいいよ。家のない生活はけいこちゃんが思っているよりっずっと辛いものなんだから」
 おっちゃんの仕事はまだ見つかっていない。
 おっちゃんはこの間当てた万馬券で食いつないでいる。
 「ねえ、あと幾ら残っているの?」
 「さあ、幾らかな。あと数万っていうところだね。なくなったら現場仕事をするしかないな」
 「この間の警備の仕事は?」
 「紹介所の信用を失ったから無理だろうな。また、そのうちだね」
 「ふうん」
 「何もしてあげられなくて悪いけど、帰った方がいいよ」
 「わかったわ。じゃあ、代わりにヤミ金の名前を教えて。自己破産した後に借りたところ」
 「どうしてそんなことが知りたいの?」
 「いいから教えて」
 私があんまりしつこく聞いたので、おっちゃんは幾つかの業者を教えてくれた。
 だけど、その金融屋はもちろん、おっちゃんの行方を追っている業者であるわけはなくて、私はまた夫に死ぬほど殴られた。
 それから、おっちゃんと連絡が取れなくなった。

 私は再び、パートをするだけの日々に戻った。
 おっちゃんからの連絡を待っていたけれど、おっちゃんは私の電話を鳴らさなかった。
 パートの帰りに、私はお小遣いで缶チュウハイを買って、公園のベンチに座って飲んだ。
 部屋はゴミ箱をひっくり返したみたいに汚くて、家で飲むと気が滅入るのだ。
 私はまったく片付けができなかった。でも、そのことで夫に責められたことはない。
 それに食事もスーパーの惣菜のコロッケでもネコ缶でも文句を言わなかった。
 それに私がお願いすると、夫は私を抱いてくれる。
 夫にも優しいところはあるのだ。
 夕焼けを眺めながら、夫の乱暴なSEXのことを思い出していたら濡れてしまった。
 私はチュウハイを飲み干して急いで家に帰ると、夫のベッドの中でオナニーをした。

 私が夫からの脱出を諦めてすっかり飼いならされた頃のある日、ぜんぜん知らない番号から電話がかかってきて、私はそれがおっちゃんだと直感した。
 「けいこちゃん、この番号はねプリペを使ってるから控えても無駄だよ」
 開口一番、おっちゃんは言った。
 「そんなことしないわよ」私は言った。
 「久しぶりに会わないか?」
 「いいわ」私は電話を切った。
 私は洋服ダンスから、いちばんお洒落に見える服を取り出して着替えた。
 それから夫のベッドの引き出しの奥の隠し引き出しにあるカードケースからクレジットカードを1枚抜いて財布にしまった。
 おっちゃんは去年と同じユニクロの黒いダウンジャケットを着て、改札に立っていた。
 私も去年と同じユニクロの茶色いダウンコートを着ていた。
 おっちゃんが音信不通になってからぴったり1年が経っていた。
 私たちは例の犬小屋のような定食屋に入って近況を語り合った。
 私はおっちゃんが急に音信不通になったことについて責めたりしなかった。
 おっちゃんが私の前から姿を消したのは初めてのことじゃない。
 1回目は私が奥さんに浮気をバラした時。
 2回目は脱税疑惑でおっちゃんの会社にマルサが押し入った時。
 3回目はおっちゃんの経営する六本木の高級クラブが風営法違反で摘発された時。
 4回目は自社ビルを手放した時。
 5回目はアパートの窓から逃げ出して、ホームレスになった時。
 私は密告したり、通報したりことごとくおっちゃんの事業の邪魔をした。
 そして、今回だ。
 「少し痩せたみたい」私は言った。
 「いや、参ったよ。実はあの後、体を壊して入院してたんだ」
 「えっ?ホームレスなのに入院できるの?」
 「けいこちゃん、驚くべきはそこじゃないだろ。心配してくれよ」
 「どうしたの?」
 「街中で心臓発作を起こして倒れてね、誰かが救急車を呼んでくれたんだ」
 「それで?」
 「心臓の冠動脈のバイパス手術を受けたんだよ」
 「うそ。それって大変な手術じゃない」
 「そうだよ。生死を彷徨う大手術さ。見せられないけど、ここに大きな傷跡がある」
 おっちゃんはそう言って、脇の下から胸の中心までを鉤型に指でえぐってみせた。
 「痛かった?」
 「痛かったというか、まあ、いろいろ大変だったよ」
 「それで今は?お金はどうしたの?入院費とか手術もしたんでしょう?」
 「それが不幸中の幸いというか、病院が警察に連絡をしてね、兄弟から親戚から別れた女房にまで連絡がいったんだ。それで、何だかんだあって、アパートを借りて生活保護を受けられることになった」
「えっ?』
 「だからもうホームレスじゃない」
 「そんなのズルいわ」私は思わず立ち上がった。

 おっちゃんは昔からずうずうしくてズル賢かった。
 私はおっちゃんのそういうところに腹が立って仕方なかった。
 自社ビルを売却する前、おっちゃんはビルを担保に相当のお金を借りていた。
 三流のコメディ映画みたいな話だけど、おっちゃんは銀行や金融会社の融資担当を片っぱしから色仕掛けで落としていった。
 「けいこちゃん、世の中は複雑に見えて、意外と単純なものなんだよ」おっちゃんは言った。
 胸元の開いたブラウス、深くスリットの入ったミニのタイトスカート、9センチヒール、赤い唇。
 私はおっちゃんの秘書として、担当の前に現れた。
 応接室のソファに座り、おっちゃんの隣で長い足を組み替えた。
 「バカみたい」私は心の中でつぶやいた。
 だけど、おっちゃんの作戦は面白いほど成功した。
 手に入れたお金でおっちゃんは、サラブレッドを買った。
 〈ケイコチャンサンダー〉競馬新聞の出馬表に私の名前が入った馬の名前が載った。
 「これが昔からの夢だったんだよね」おっちゃんは言った。
 私たちは馬主席に座って、シャンパンで乾杯した。
 もちろん、私だって悪い気はしなかった。
 「けいこちゃん、借金は返さなきゃいけないものだと思ってるだろ?」
 「当たり前じゃない!」私はほとんど反射的に即答した。
 「けいこちゃんは真面目だからな。答えは返さなくていいんだよ」
 「どうして?!」
 「じゃあ、金融会社は借金を返して欲しいと思うかい?」
 「さっきから何を当たり前のことばかり言ってるのよ。怒るわよ」
 私はすでに怒り心頭だった。どこまでふざけたオヤジだと思ったから。
 「ほら、やっぱり真面目だ。でも、答えはノーなんだ。いいかい、金融会社は利子で儲けてるんだ。全額返済されたら儲けは無くなってしまう。だから、毎月の利子分だけ払っていればいいんだよ。金融屋は儲かる、俺は好きなことができる。最高だろ?」
 でも、おっちゃんはコケた。
 馬は勝たないし、事業には次々に失敗するし、バブルは弾けた。
 おっちゃんは身から出た錆でホームレスになった。それなのに、、。

 「どうしてそうやって調子がいいのかしら?」私の声は震えていた。
 「どうした?何が気に食わない?」
 「だって、ホームレスをやめて、屋根のあるところで悠々自適に暮らすんでしょ?」
 「もう暮らしてるよ」
 「もうっ!」
 私は頭にきて思い切りテーブルを叩いてみたけど、誰も振り返らなかった。
 この店には我を忘れて酔っ払っているダメな人間しかいないからだ。
 「普通、恋人がホームレスから脱却したら喜ぶものだと思うけど」
 「恋人とか言わないで!恋人なんかじゃないんだから」
 「じゃあ何だよ」
 「愛人よ。ずっと愛人。私が独身の時にはあなたには家族がいたし、あなたが離婚した時には私は結婚していたんだから」
 「まあ、いいけどね」
 おっちゃんはため息をついた。
 私はウイスキーをボトルで頼んだ。
 「あんまり無駄遣いするなって。俺は生活保護をもらっている身なんだから」
 「無駄遣いなんて言葉、あなたの口から初めて聞いたわ。別にいいわよ。ボトル代ぐらい自分で払うんだから」
 そう言って私は、夫からくすねたクレジットカードをおっちゃんに見せた。
 「こんな店でクレジットカードなんて使えるわけないだろ?」
 「うるさいわね。二千円くらい現金で持ってるわよ」
 「俺は飲まないからね」
 「どうしてよ。飲みなさいよ」
 「ダメだよ。まだ体調が万全じゃないんだから」
 「ねえ、どうしちゃったの?さっきからつまらないことばかり言って。昔はあんなに無鉄砲でやりたい放題やっていたのに、そんなに健康が大事なわけ?そんなに屋根のある生活が大事なの?」
 「別に昔から無鉄砲だったわけじゃない。すべては自分なりのセオリーに従って綿密に計画を立てて実行した結果だよ」
 「もう!そんなこと聞いてない。おかげで私の計画はめちゃくちゃだわ。せっかく私が一緒にホームレスになってあげようと思って、家を出てきたのに!」
 「えっ?」
 おっちゃんは一瞬、動きを止めて、それから大笑いした。
 「まさか!けいこちゃんにホームレスなんて出来るわけないよ。出来たとしたら、プンプン臭う本物のホームレスだよ」
 「何よ、それ。バカにしてるの?私、本気なんだから。だから夫のお財布からクレジットカードを盗んできたのよ。こんなことバレたら本当に殺されちゃうんだから」
 「そうは言っても、俺はもうホームレスじゃないし」
 「じゃあ、あなたのアパートに一緒に住むわ」
 「ダメだよ。生活保護の分際で女と一緒に住んでるなんて民生委員にバレたら、受給を打ち切られちゃうよ」
 「女、なんて言わないで。要はバレなきゃいいんでしょ?」
 「けいこちゃん、俺はもう60を超えた年寄りなんだ。今回ばかりは君に邪魔をされたくない」
 「邪魔なんてしないわ。料理だって、掃除だってやるし」
 「けいこちゃんにそのつもりがなくても、一回でも何かあればもうお終いなんだよ」
 「私のことが大事じゃないの?」
 「そんなこと言ってない。もっとリアルな話なんだ。今はけいこちゃんの気まぐれに付き合っている余裕はないんだ」
 「もう、いいわ。私一人でホームレスになるから」
 私は立ち上がって店を出た。
 店の外でしばらく待っていたけれど、おっちゃんは私を追いかけてこなかった。
 私は店の中に戻っていって、おっちゃんに言った。
 「わかったわ。じゃあ、最後のお願い。手術の傷あとを見せて」
 
 私たちはホテルのダブルベッドの上に並んで寝転がっていた。
 ワゴンの上にはよく冷えたシャンパンとフルートグラス。
 それに高級な食材が並んだオードブルプレート。
 私たちは犬小屋を出て、昔よく行った高層ホテルに向かった。
 フロントでクレジットカードを提示した時、ドキドキしたけれどカードは使えるようだった。
 おっちゃんは夫の筆跡を真似てサラサラとサインをした。
 その様子はあの頃を彷彿とさせて格好が良かった。
 私たちはカプセル型のエレベーターに乗り込んで高層に向かった。
 「どうしてスイートにしなかったの?どうせならスイートが良かったのに」
 私はフロアの廊下を歩きながら小声で言った。
 「こんなユニクロのジャンパー着てスイートはないだろ?一度疑われたら、もうどの部屋も借りれなくなってしまうんだ。何事も自分が求めるよりもワンランク下を狙ってちょうどいいんだ」
 「じゃあ、私はあなたが望む女よりもワンランク下の女だったわけね?」
 「けいこちゃんは唯一俺の挑戦だよ。今だに手に入った気がしない」
 私たちは微笑み合って部屋の扉を開いた。
 窓の向こうにはスイートよりもワンランク下の夜景が広がっていた。
 
 おっちゃんは私に手術の傷跡を見せてくれた。
 鉤型のそれは脇の下から胸の中心に向かって刻まれていて、まるでおっちゃんを戒めているみたいだった。
 私は赤茶色に膨れた傷跡をそっと指でなぞってみた。
 「これがあるおかげで、あなたはシャンパンにもほとんど口をつけないのね?」
 「そうだよ」
 「これがあるおかげであなたは屋根のあるところで生活できるのね?」
 「そうだね」
 「そして、おじいさんみたいなつまらないことばかり言うのね」
 「もう、そんな年だからね」
 「ねえ、私の体はどうかしら?あなたみたいに年をとった?」
 「けいこちゃんはぜんぜん変わらないよ。いつだって最高だよ」
 私は裸の自分の体を見下ろしてみた。
 私は若い頃から体型があまり変わらずにお腹も出ていなかったけれど、もうずいぶんくたびれて薄汚れてしまったような気がする。
 「ねえ、私の肌はまだ白く見える?」
 「けいこちゃんの肌はいつだって光り輝いて眩しいくらいだよ」
 おっちゃんは私が望む通りの返事を返してくれた。
 「でも、私の体を見て、もうオナニーをしてくれないのね」
 「心臓に負担がかかるからね」
 「私のおしっこも飲んでくれないのね」
 そのことについて、おっちゃんは少し考えるような顔をした。
 「そうだね。飲んでもいいけど、きっとあの頃と同じような気持ちにはならないような気がするな」
 「そうね。わかる気がするわ」
 私はシャンパンのグラスを手に取って、裸のままヒールを履いて窓辺に向かった。
 大理石の床にコツコツとヒールの音が響いて、眼下にキラキラとした夜景が広がっていて、少しだけ高級な女になれた気がした。
 「せっかくいい部屋をとったけど結構、退屈ね」
 「その退屈があと何十年も続くんだ」
 「ねえ、人って何のために生きているのかしら?」
 「さあ、わからないけれど、死ぬ気にはならないだろ?」
 「そうね。面倒な気がする」
 「また暇を潰す方法がそのうちに見つかるさ」
 「私ね、あなたがうんと不幸になればいいと思っていたの。だって、あなたはズルいことをして、好き勝手して生きてきたんだから、戒めを受けるべきだって。そういう考えって間違えているかしら?」
 「さあ、どうかな。わからないけれど、一つだけ言えるのは、俺が不幸になったからって、騙された相手が幸せになるとは限らないと、言うことかな」
 「それでも、あなたには、せめて私より不幸でいて欲しかったの」
 「今の俺はけいこちゃんより幸せかな?」
 「わからないわ。あなたって、どこにいてものうのうとしてるんだもの」
 「どんな状況だったとしても、どう感じるかは自分次第だよ」
 私は頭ごと白いシーツに包まって、悲しい気分になった。
 私はおっちゃんがひどい目に合うことをずっと夢見てきたのに、おっちゃんは少しも不幸じゃなかったのだ。
 「ねえ、私が夫からひどい目に合わされるのは、あなたに色々ひどいことをした罪滅ぼしなのかしら?」
 「もし、そうだとしたら俺は少しも嬉しくないね。けいこちゃんにはいつだって幸せでいてほしいもの」
 私はシーツの中でわんわんと泣いてしまった。
 「私はこれからどうすればいいの?」
 「帰りなさい」おっちゃんは言った。「自暴自棄になってホームレスなんかになっちゃダメだ。人生はけいこちゃんが思ってるよりずっと、ずっと長いんだよ」
 「わかったわ」
 私はおっちゃんの体の上に自分の体を重ねた。
 「愛してるよ」おっちゃんは言った。
 私はおっちゃんを愛しているのだろうかと、自分に問いかけてみた。
 でも、きっとそんなことは考えるべきではないのだ。
 「ねえ。家に帰ったら、きっと今までより、夫とうまくやっていけそうな気がするの」私は言った。

 
 

ホームレスの愛人

ホームレスの愛人

20年前、おっちゃんはビル持ちの金持ちだった。私はまだハタチの美しいバニーガールだった。今、おっちゃんはホームレスで、私は暴力夫の妻で、清掃のパートをやっている。人生はどこで狂ったんだろう。私とおっちゃんは再開した。昔のきらびやかな思い出を引きずりながらも、私たちは今を生きていかなければならない。

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