抽象と写実について

絵を描いていた。世界は普通だった。普通を見ていた。そして考えた。この、普通を普通に見る時、僕は何を失っているのか。

 抽象画(ちゅうしょうが)というものと、写実画(しゃじつが)というものがある。それらを区別する境界(きょうかい)というのは、曖昧(あいまい)なものであると思う。ここで僕が何を言いたいかと言えば、我々にとって何が写実であって、何が抽象であるかっていうのは、案外わからないものだってことだ。
 読者諸君が絵を描かれるか描かれないかはいいとして、また、その巧拙(こうせつ)不問(ふもん)として、今、例えば君の手を紙に描いてみてほしい。簡単なスケッチでいい。一分ほどで描いてみてくれたまえ。どうだろうか、描けただろうか。ここで僕がひとつ、簡単な予想というか、予言をしてみたい。君は自分の手を描くときに、まずその輪郭線(りんかくせん)を描かなかっただろうか? そうではない人もいるかもしれない。いきなり絵筆を出してきて油彩でがつがつと描きはじめた猛者も千人に一人くらいはいるかもしれないが、まあほとんどの人は、まず(おのれ)の手の輪郭線を描きはじめ、その輪郭線を以て、己の手の絵であると認識(にんしき)しただろう。
 さて、ここで一度、読者諸君よ、自分の実際の手を見てほしい。君の手に輪郭線は引かれているか? 黒々と、はっきりと、他の空間と君の手を画する線は、引かれているだろうか?
 僕は最近、そんな問いを持ってしまうのだ。あるいは光の下に遍在(へんざい)する陰翳(いんえい)をして、輪郭線の(もと)であると言えなくもないが、世界を見渡してみても、どこにだって輪郭線というものは存在しないように思う。物というのは、皆それのみで存在しているわけではなく、いつだって何かしらの他者と連続性を持つ。それが世界に存在するということの必要十分条件であるから仕方ない。ゆえにさらに踏み込んで言ってしまえば、この世界に輪郭線などというものは存在しないとも言える。例えば、僕の手が林檎(りんご)の実を(つか)んでいるとき、林檎の実と僕の手は別物と考えないで、林檎の上半分と僕の手の上半分が一つのもので、仮にそれを「njhdo」と呼び、また林檎の下半分と僕の手の下半分を一つのものとして、「ksoadkso」と呼んでも、全く差支(さしつか)えないというか、全く無理のない話である。
 なぜかというに、これは当然過ぎるほど当然なのだが、この世界に輪郭線を画定(かくてい)したのは人間だからである。それが認識の根の深いところまで浸透(しんとう)しすぎているために、それ以外の認識の方法を見失っている。その輪郭線は、例えば先ほどの内容であれば、林檎を林檎と認識して、手を手と認識するその「仕方」そのものであるともいえる。認識が、(まぼろし)の輪郭線を生み出しているのである。その上で、再度、よくよく世界を見てほしい。机の上のグラス、乱れた毛布、冷蔵庫とマグネット、半分空いたバスルームの扉、それら全てに、輪郭線などない。見ようによっては、全てが一平面上に配置された、ただの線と色彩の集合なのだと捉えられる。この、世界を平面に見る方法、あるいは、立体であると人間が認識するところの世界を、平面という二次元空間に落とし込む方法というのが、絵画芸術なのである。(といっても、厳密にいえば絵画も三次元である。なぜなら、絵画が描かれるところの物は立体で、かつ、その上に載せられた線や点、色彩もまた、極薄(ごくうす)くはあるが立体的だからである。)
 もう一つ、バカみたいに偉大な人間の発明があって、それは遠近法(えんきんほう)とか呼ばれている。これはさらに人間の認識を(せば)めた。遠近法というのは、誰でも簡単にできてしまう手法であり、まるでそれが物を「現実」にある存在そのままのように描けるというので、写実に最適な方法として定着してしまったように思う。細かい美術史はよーわからんので間違ってたら教えてほしいんだが、僕はそのように思う。遠近法は、僕みたいに人間のふりをした猿型宇宙人でも使えるくらいに、簡単だ。消失点(しょうしつてん)を決めて、そこにびーびーと線を引いてやればいい。あら不思議、「最後の晩餐(ばんさん)」のできあがり。という具合である。
 ところでなぜ、僕がこのえんきんほーとかいうクソ手法が嫌いなのであるかといえば、端的(たんてき)に言ってそれが人間の認識を狭めているからだ。遠近法を知ったのちは、人々は世界を「遠近法的に」見る。そんなことはない、人間の認識はまず遠近法的で、ゆえに事実をリアリスティックに描く遠近法が生まれたのだ、と抜かす(やから)もいるかもしれない。ここから先は、もしかすれば鳥が先なのか卵が先なのかという論争になってしまい、結局信念(しんねん)真理(しんり)なのだという主観主義になるかもしれないが、まあそれでもよい。ただ私は、遠近法が定着し、それが小学校でも教えられてしまうゆえに、人間の多くの大人は、世界を遠近法的に見ることしかできず、そのように見る世界が正しいと思い込むのだと考えている。
 それは言葉と人間の関係を平行に移動させたものであると思う。要するに、認識なのだ。認識が人間にとっての世界なのだから、その認識の方法を変えるということがすなわち、人間にとっての世界を変えるということである。例えば、資本主義が発生した時、それは夢のような制度に見えた。富を生産に投資することで、無限に人間の可能性を広げるのが、資本主義の理想だった。しかし、多重の搾取(さくしゅ)構造と経済格差で、人間の生存は破綻(はたん)したため、それに代わる社会主義などが必要になった。近代化ということも、突き詰めれば世界への認識を変えることにほかならなかった。認識の変化を恐れなかった国は先進した。それを恐れた国は属国(ぞっこく)となった。
 その認識の問題を、個々人の思想的問題として捉えるならば、人間にとって最も深く(はなは)だしく認識を規定(きてい)するのは、言語である、という話なのだ。例えば、林檎であるが、それを林檎という言葉で表した瞬間、それは単体として存在する林檎となる。言語とは、名づけの体系であり、何かに名前を付けるということは、それを世界の混沌(こんとん)から隔絶(かくぜつ)するということである。より卑近(ひきん)な例をだせば、僕ら一人一人に固有の名前が必要な理由は、僕らが間違いなく個人として存在していて、世界とは別に独立(どくりつ)して存在していなければならないからだ。僕らは個人であるということを、名前を付けることで定義し、確認しているのだ。仮に名前がないとすれば、僕らは果たしてどうやってお互いを区別するだろうか。いや、それ以前に、僕らは互いを認識できるだろうか。
 ここまでをまとめると、人間にとって、世界とは認識であるから、認識の方法というものが大変重要であり、絵画的な手法、特に遠近法というものが、現代の多くの人間の感覚に深刻(しんこく)に作用しているということである。さて、ここで話を少し進めて、その絵画について、ひいてはもっと広く芸術と認識の関係について論じてみたい。
 ここで再び、あの写実と抽象の話が戻ってくる。一般に、写実というものは、人間に見えている認識そのままを写し取ったもので、それゆえに、対象の美しさが保存され、いや、再構成され色彩を持つことで、より一層その美しさが際立つ、という技法だと考えられていないか。ここでいう写実というのは、広い意味で抽象ではない様々な派閥(はばつ)の芸術を想定している。例えば空想の産物(さんぶつ)であっても、それが世界内に存在するような方法で描かれていれば写実である。アニメーションなどのキャラクターの絵もそれに含まれる。
 一方抽象画というのは、やたら難しいというイメージが強いように思う。何を描いているのかわからないし、なんだか変な図形を組み合わせて、そこに適当に色を付けただけのように見えて、何がなんだかわからない。評論家などはあれこれと合っているのかいないのかわからない論をつけて()めたりしているが、いまいちピンとこない。しかし、なんだろうか、言うに言われぬ迫力を感じる。それはなぜだろうか。
 抽象画というのは、僕はひとつの写実画であると思う。なぜならば、それもまた一つの、何か世界内に存在する、あるいは存在すべきと画家が考えた対象なのであるからだ。存在というのは、必ずしも明確な形を持っていない。むしろ、人間にとって重要な存在に限って、形はないようにも思う。例えば、「愛」というものを絵にしようと思ったとき、ただピンク色でハートを描けばいいだろうか。そうではないだろう。その人の愛の経験に基づいて、描き手により無限の可能性が開かれている。幾何学(きかがく)的な模様(もよう)でこれが愛だとする人もいれば、全部を真っ黒に塗りつぶしてこれが愛だという人もいるかもしれない。水彩で(あわ)一輪(いちりん)の花を描き、これが愛だという人もいるかも。白紙で出して、それが愛なんだと言っちゃえる人もいるかもしれない。だから、抽象画っていうのは、明確な形を持たないものを、写実するために、自分の内奥(ないおう)まで下りていき、そこから引きずり出してきたイメージの構成なのではないか。ゆえに抽象画とは、まぎれもない「写実」=「真実を写す行為」なのではないか。
 抽象と写実は対立しない。それは、前述したように、形を持たない概念をテーマとする場合だけに限らない。例えば林檎を描くときに、なぜ遠近法やデッサンの典型的な手法を使わねばならないのか。そんなものに縛られて、なんとなく見栄えが良い万人受けする作品を作ることが、美術ではない。お前が見た林檎、俺が見た林檎、その自分にしか見えない林檎の姿を捉えて、そのまま描いてみればいいのだ。他人を気にする必要はない。気にした時点で芸術家失格だ。だから写実しろ。本当の意味で、誤魔化(ごまか)しなしで写実しろ、そうすれば、きっと誰にも理解が及ばないような、いわゆる一般的な意味での抽象画に属するような作品が出来てしまうことだろう。
 人間は、皆同じ世界を見ているわけではない。それはある程度共有してもらえる感覚であると思う。さらに幅を広げれば、生物というのは皆、それぞれ違った世界を見て、感じているだろう。そこまで想像力を働かせたとき、遠近法的に、「正しく」世界を認知(にんち)しましょうという考え方自体の(ゆが)みが見えてこないか。何が正しくて、何がダメなんだ。誰がそんなことを決めたんだ。林檎は丸っこくて、四角くはないなんて、誰が決めたんだ。林檎が四角く見えてしまう人もいるかもしれないのに。しかし、林檎は丸っこく描くのが写実で、四角く描くのは抽象になってしまう。そんな区別などもう形骸(けいがい)でしかないのに。
 人間の抱える諸問題というのは、突き詰めると認識の問題であると僕は思う。そして芸術とは、その人間の認識にメスを入れられる。これが正しいんだ、みたいなクソ主張にアンチテーゼをぶっつけられる。そこに魅力(みりょく)を感じないだろうか。芸術に必要なのは、テクニックでも売れる術でもなくて、確固たる反逆(はんぎゃく)精神と、自らの感性をどこまでも追及していくストイックさだけである。突き詰めれば、美しさなどは必要ない。美しさ自体も、誰かが決めたイデオロギーだからだ。そこから自由になりたければ、どこまでも自分の底を踏み抜いて、世界の真実へ、繋がっていくしかない。混沌へのアクセス。それが芸術家に必要な素養だ。感性だけで生きろ。それでいい。それでいいのだ。
 さあ、もう話には飽きただろう。今こそ、芸術を始めよう。お前のみる世界を描くんだ。お前の見ない世界など描かなくていい。お前の信念を(つらぬ)き通せよ。

抽象と写実について

絵を描いて。君だけの絵を。

抽象と写実について

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-08

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