【連載】高千穂峡のすみれ草 Ⅰ

万田 竜人(まんだ りゅうじん)

【序】

安倍総理が政権奪還を果たして七年八か月が経過、突然、辞任することに成った。
かつて、筆者は、日本における二大政党の実現と与野党の政権交代と云う一大事
において新政権を継続的にウォッチング・その実態を・フォーカスしてきた。

結果は・展望を欠く・政策展開が続き、就職の氷河期を迎えてしまうという残念な
結果に陥り、二大政党による政権交代などと云う甘い言葉の誘惑に取り込まれ、
多くの国民は失望感と共に、一つの事例として、日本航空の株式が、株主責任と
云う表現で紙屑にされてしまうという苦渋を経験を味わうことになった。

我々が二度と同じ失敗を繰り返さないためには、当時の状況を繰り返し反芻する
ことで再び甘い言葉に惑わされない様にしなければならない。
(そのような強い意志を込めて当時の稿を振り返ってみることにしたい)



第一章

001 高千穂峡のきらめく光

遠景の峡谷の滝の流れから、きらめく光が目に入ってきた。その光は天に向かって
駆け登り天空につながった。まるで凧を揚げたときの糸のようである。

啓介は 「高千穂峡の真名井の滝」 を初めて目にした。

この地方に伝わる神話では、次のようなことが云われている・・・

「天村雲命(あめのむらくものみこと)の神が天孫降臨といって、天の神様のご命令
によって天から地上に降り立たれた時に、この地には水源がないことに気付かれて、
天村雲命の神のご意思により、この地に水系を移して天真名井として湧水。溢れる
ような滝となって流れ出したのだという」

高千穂峡の川幅が狭まった部分に流れ落ちる滝であるだけに落差は約十七メートル
とはいいながら迫力満点である。また、その姿は、周囲の景観の静けさの中にあって
躍動的な存在感を示している。

まるで、糸のように天空の光が自分の目とつながる体験は、啓介にとって、三度目の
ことである。

一度目は、ニュージーランドのマウントクック村への入り口となる、トンネルの手前で
バスを停めてみんなで休憩時間を楽しんでいる時のことであった。道路脇には小川
が流れていて、手を浸すと冷たくて気持ちが良かった。

「あっ虹よ」 という声に反応して空を見上げると、大きな虹がアーチを描いて、大地
に跨るような光景であった。その虹の頂上に目をやった時に、天空の光が啓介の目
に糸のようにつながった。

今にして思えば、あれは、マウントクック村で遭遇した、まるで、異次元の世界に飛び
込むことになる前触れであったのかもしれない。神崎さんという紳士のご案内で訪問
した異空間は、現在も、存在するのだろうか、それとも夢か幻の世界であったのか?
いまだに確かめる術がない。

二度目は、自宅の書斎における体験であった。冬の朝日とはいいながら午前九時頃
ともなれば、太陽からの陽射しの温もりは、パソコンに向かっている啓介の顔面にも、
ほんのりとだが、微妙な感覚で伝わってくる。

太陽の方向に顔を向けると、啓介の目に、天空からの光が糸のようにつながった。

啓介の書斎は、家族の総意によって、二階に設けられた。西向きに座るように机と
椅子を配置したので午前九時頃の陽光は左の頬に当たってくる。この書斎からは、
夕刻になると金星が見える。

ときおり、この金星のそばに、月が並んで、天界のツーショットを演じてくれる。

「月をこそ眺め慣れしか星の夜の深きあわれを今宵知りぬる」 という和歌がある。

この和歌は、愛する人と死別した女性の闇の深さを表した絶唱として知られている。
NHKの大河ドラマで放映したことのある主人公:平清盛の長男である重盛の息子
(次男)平資盛と、恋愛関係にあった女性が、その悲しみを詠んだものである。

当時、資盛は (推定であるが)まだ二十五歳の若さであった。源氏に追われ都落
ちした後に壇ノ浦において入水して果てた。彼女の悲しみの深さは、まさに、この
和歌に凝縮されていると云える。

昨年 (2011年) 3月11日に発生した東日本大震災では、多くの人々が亡くなり、
多くの人々がいまだに行方不明である。残された人々は家族や友人を看取ることも
出来ず津波という容赦のない自然災害によって、一瞬のうちに愛する人々を失って
しまった。

そのような悲しみの中にあって、政治の無策やスピード感のなさは、日々のテレビや
新聞報道のなかで、次々と明らかにされている。

高千穂峡に天孫降臨した時の天村雲命の神のような、即座に水系をもってくるという
偉大な力までは期待していないが、与野党を問わず日本の国政を預かる国会議員の
働きには、もっと、多くを期待するものがある。
(現在の2021年の新型コロナ禍にあっては、その思いは増すばかりである)

世情では、新党結成の動きなども俄かに浮上してきている。このような時にこそ我々
国民の一人ひとりが、国会議員の選挙で貴重な一票を投じることだけでなく・・・

「ワイワイガヤガヤ」 の精神で 「健全な意見」を交換して、少しでも日本の暮らしを
良くすることを考え、考えたことを声にして発信して行く時代になってきたと、啓介は、
強風荒れ狂う日曜日の午後につくづく痛感した。

日本は、三権分立の確立された民主主義国家であり、治安も維持されている。
(2021年の新型コロナ禍ではこの日本の民主主義の在り方が問われている)

そのような中で 「第四の権力」 として、マスコミ社会も成熟してきており国家権力
が暴走して大きな戦争に突入するような危機についての危惧はないが、今、国家が
抱えている 「莫大な借金問題」「財政の課題」「少子高齢化の問題」「未来に向けた
年金制度の課題」 そして対策がもっとも急がれている 「東日本復興の課題」など、
いずれも、問題の真相の見極めと対策の遅れを来たせば、日本という国家が内側
から崩壊しかねない状況にある。
(2021年の新型コロナ禍は、これらの問題点をさらに増幅させている)

戦後の平穏で平和な時代に馴れすぎて 「必ず明日が来る」と信じてきた我々国民
の一人ひとりが、インターネットという道具を手にした、今、お互いの健全な意見を
発進・交流することで 「第五の権力」 を創造して行かないと国政そのものの閉塞
した状況は、脱して行けないと、啓介は考えている。

この記事は、自民党が下野して、新政権に移行した時代に書いたものである。

いよいよ、日本も、アメリカ社会のように健全な二大政党の時代が来たかと思った
のも束の間、2011年3月11日に発生した東日本大震災により平家物語の遷都
による混乱を思わせるような事態に陥ってしまった。

結果、現政権は 「決められない政治」 と云うレッテルを貼られることになる。

一方で、啓介は、政治による明確な決断によって・・・

手持ちの日本航空の株式(電子上の株券)が紙くずになると云う経験をすることに
なる。啓介の場合は、航空ファンとしての立場から、株式を保有していたので株主
責任による紙くず化と云う説明は肌身に伝わってこなかった。

前述したところの・・・

「天村雲命(あめのむらくものみこと)の神が、天孫降臨といって、天の神様のご命令
によって天から地上に降り立たれた時に、この地には水源がないことに気付かれて、
天村雲命の神のご意思により、この地に水系を移して天真名井として湧水。溢れる
ような滝となって流れ出した」

この記事に書かれたことは 「何を意味するのか?」 を考えた時に、その意味する
ところは計り知れなく大きい。

心理学の権威である 「ユング博士」 はフロイトと並び称される双璧的な存在であり、
ユングはフロイトと共に心理学の研究を進める間柄であったが、やがて学問的・心理
療法観的・人間観的相違から、フロイトとは訣別することとなった。

ここに、ユング心理学の際立った特徴として、神話的世界からの学びがある。

「日常的な観点から見れば、とても、耳を傾けることが出来ないことでも、神話的な
視点から見れば、人類的にも起こり得ることとして、耳を傾けることが出来るかも
しれない」 と云うイメージから理解を重ねて行くと云う考え方である。

前述の神話から学ぶところは・・・・

「施政を成す者の在り方として、民意を的確に推し量り・感じ取り、俊敏に、それを
実行に移したとき、施政者の存在も民意も共に救われる」 と云うことだろうか?

この神話の場合は神によって施政を成すものが選ばれており、そこに、間違いが
起こる可能性は少ない。しかし、我々の現実社会では、為政者は、民意によって
選ばれる。したがって、間違いが、起きてしまう可能性がある。

「間違いが起きたら、どう対応すれば良いのか?」
「間違いを、少なくするのは、どうしたら良いのか?」

本稿が、そのようなことを考える一助に成ればと考えて、長編ものを編んでみたの
であるが恐れ多くはあるがこの編が少しでもその役に立てれば幸甚であると啓介
は考えた。

本稿は、2012年に執筆したものであるが、約5年間の醸造期間を経て・・・

啓介に 「どのような心の変化や成長があった」のかも合わせて考えて行くことで、
長編をはじめから校閲する算段にて、順次、書き起こすことにする。
(今回、2021年の校閲は、三度目の書き起こしとなる)



002 大いなる示唆

冬枯れの中にあっても、常緑樹の生き生きとした存在感からは、植物の生命力が
確実に伝わってきてなにかしら元気付けられ、あの夏の暑い季節には緑陰として
の涼しさを届けてくれたことが思い出される。

啓介は期末試験が終わったばかりの開放感のなかでまだ真新しい校舎の窓から
校庭を眺めていて、昨年十二月末の面接授業のことを思い出していた。

授業科目は 「徒然草を読み通す(1)」と題したもので、放送大学の島内裕子教授
によるものであった。募集定員70名に対して、申し込み者が、大幅に超過したと聞
いている。

啓介は、この授業の中で、徒然草の第四十一段に・・・

「考えたことを、声に出すことの大切さ」 について、大いなる示唆を感じ取った。

徒然草の兼好は読書などから思索したことを、つれづれなるままに書き連ねること
を無上の喜びとしているが、この第四十一段では・・・

自分の考えたことを 「周囲の人々に声を出して伝える」 ことが自分で思っている
こと以上に反響の大きいことに気付いていて、そのことを書き出している。

授業で使った 「徒然草」島内裕子校訂・訳には、通称 「烏丸本」を用いて原文を
掲載しているが、ここでは、分かりやすさを優先させて、第四十一段の訳文を書き
出してみることにしよう。

【徒然草:第四十一段(訳)】 島内裕子教授による訳

五月五日、上賀茂神社の競べ馬を見学に行ったところ牛車の前には身分の低い
者たちが、ぎっしりと立ち並んでいて馬を走らせる馬場がよく見えないので私たち
は牛車から降りて、柵の近くまで近寄ったが、そのあたりは、とりわけ人々が混雑
していて、どうにも分け入る隙間がない。

ちょうどその時、向かい側の棟の木に、法師が登って、木の股に座って、見物して
いるではないか。彼は木にしっかりとしがみつきながらも、ひどく居眠りしていて、
木から落ちそうになると目を覚ます、ということを、さきほどから繰り返しているの
である。

これをみた人々が、嘲笑って軽蔑 「なんて愚か者なのだろう、あんなに危ない木
の枝の上で、よくまあ安心して眠れるものだ」 というので、自分の心にふと思った
ままに 「われわれの死の到来だって、今、この瞬間かもしれない。それを忘れて
見物などして、貴重な今日という日を過ごすのは、愚かさの点で、あの法師以上
ではないか」と言うと、自分の目の前にいた人々が 「まことに、ごもっともなことで
ございます。われわれこそ、もっとも愚かでございます」 と言って皆が後ろを振り
返って、私を見て 「ここに、お入り下さい」と、場所を空けて、呼び入れてくれたの
だった。

これくらいの道理は、誰だって思いつかないことではあるまいが、折からのこととて、
思いがけない気がして強く胸を打ったのであろうか。人間というものは、木石のよう
に非人情なものではないから、場合によっては、こんな程度の発言にも、感動する
ことがあるのだ。

この徒然草第四十一段の感動は、単独で読んでも心には、響きにくいものと啓介は
考えている。やはり、島内裕子教授が面接授業で提唱されていたように、徒然草を
通読する過程でこそ 「第四十一段における兼好の感動」が伝わってくるのであると
考える。

最近は 「関東にも、四年以内に、確立七十%の割合で大きな地震が来る」 という
予報が盛んに報じられていて、不安に思うこともあるが、政府は認知していないこと
なので、真偽のほどは定かではない。

しかしながら、真偽は定かでないにしても、兼好が筆で示したところの・・・

「貴重な今日という日をもっとたいせつに過ごそう」 という呼びかけは、もっともな
ことである。兼好は、第四十一段で 「これくらいの道理は、誰だって思いつかない
ことではあるまいが・・・」 と云ってはいるが、われわれにはなかなか気付かない
ことである。

この第四十一段で最も大切なことは、話の繰り返しになるが・・・

「自分で思ったことや、考えたこと」 を声に出してみるということである。

現代の日本において生かされている、われわれ国民一人ひとりが声を出すことの
重要性について、兼好は、大いなる示唆を与えてくれているのではないだろうか。



003 徒然草を読み通す

彩の森入間公園でのウォーキングは冬の間はいつも午前十一時頃に、先ずは家内
と啓介が外周を歩く。次いで、飼い犬との合同散歩になる段取りで、これを日々繰り
返している。

しかし、今日は、家内が鎌倉の娘ファミリーのところに、二泊三日の予定で出掛けた
ために、いつもとは少し勝手が違う。家内と一緒のときには飼い犬もよく歩くのだが、
啓介と一緒だと匂い嗅ぎ専門に変身してしまう。そんな訳でほとんど歩かないため、
啓介だけで、単独ウォーキングすることに決めた。

彩の森入間公園内は広大な面積である。太陽の陽射しが強いところと葉陰のところ
があり、陽射しの強いところでは、まだ一月末だというのに白梅が咲き始めている。

白梅の隣に立っている紅梅も蕾が膨らんできており開花が近い。一方で日陰の場所
には、先日の雪が残っており、今冬の寒さの厳しさを示している。

啓介は歩きながら考えるのが癖になっていて、園内をウォーキングしながら、年末に
行われた面接授業のことを思い出していた。放送大学の面接授業は申し込んでから、
実際に授業が行われるまでに、半年くらいの余裕期間がある。したがってテキストは
事前に本屋さんに予約注文しておくことになる。

このテキストを早目に入手した啓介は、早速、巻頭の 「はじめに」 の記事から読み
始めることにした。すると文中に・・・

「兼好は、決して最初から人生の達人ではなかった。徒然草を執筆することによって
成熟していった人間である。ここに徒然草の独自性があり、全く新しい清新な文学作
品となっているのである」 という記述が目に留まった。

そこで啓介は考えを巡らせてみた。

「・・・であるとすれば、その執筆の過程のどこかに、その変容を感じ取れる書き出し
部分があるのではないか?」

「もしその変容を感じ取れる部分があるとすればそれは後段の部分であろうか?」

島内裕子教授は、徒然草の通し読みを勧めておられるので、しからば・・・

「序段から第二四三段まであるので、最終段から序段に向かって通し読みしてみよう」
と啓介は考えて通読を重ねて行き第四十一段まで来たところで、兼好の筆から大いな
る感動の場面を察することが出来たのである。

放送大学における面接授業は、毎週、同じ曜日に繰り返されるスタイルと週末など
に集中させて行われるスタイルの授業がある。今回の 「徒然草を読み通す(1)」の
授業は、週末に、集中させて学ぶスタイルであり、一日目、二日目ともに、午前十時
から午後五時頃までの通し授業である。途中で休憩時間と昼食休みはあるが担当
教授との対面による授業三昧の終日となる。

そして、一日目の中間帯の時間に、受講生に感想を言わせる試みがあった。

啓介は五番目に「佐久間啓介さんは徒然草を読んでどんなことを感じましたか?」
と問われたので・・・

「ボクは予習で最終段から序段まで逆順序で読み通してみたのですが第四十一段
に兼好の心の変容をみた思いがしました」 というと、島内裕子教授は・・・

「私も、兼好にとって、心の変容があったのは第四十一段であると考えます」

「それは兼好が、脱皮できた瞬間ともいえる段ですね」

「徒然草を逆順序で読み通すという試みも面白いので、私も今度、最終段から通し
読みしてみます」 という意外なコメントをいただいた。

このような意見交流が出来るのも、島内教授のような徒然草に精通された先生に
お会いできたことによるものである。



004 生き方の方程式

厳しい寒さのなかで、幾分なりとも寒さが和らいでくると、彩の森入間公園の上池の
周りを占拠している鴨たちにもそれなりに変化が起きてくる。今日は池に氷が張って
いないこともあって、数羽の鴨が池をめがけて急降下して着水しては、水飛沫をあげ
ている。そんな情景を眺めながら先日の痛切な思いがフラッシュバックのように脳内
に蘇った。

「政治の無策やスピード感のなさは、日々の報道のなかで明らかにされ、新党結成の
動きも出てきている」
(2021年も野党によって同じことが繰り返されいる)

このようなときに、われわれ・国民の一人ひとりが 「ワイワイガヤガヤ」 の精神で、
「健全な意見」 を交換することが、なによりも大切と考えた。

ところで、ワイガヤの精神で意見交流を行うのに徒然草の序段から第二四三段まで
を 「思考の通路」として活用できるのではないか、身近な例としては、放送大学の
面接授業のときに、島内裕子教授は、当日の受講生の全員から上手に意見や感想
を聞きだしていた。

授業そのものが分かりやすく、親しみやすい雰囲気であったため受講生全員が的確
な意見や感想を述べていた。これは、一方で徒然草そのものがもつ魅力も、意見や
感想を出しやすくしているのかもしれない。

徒然草を読み通す面接授業と並行させて選択したインターネット授業 「日本文学の
読み方」 島内裕子著のテキストの頁をめくると、徒然草の筆を進めるにあたって、
兼好は、自分のこれまでの人生や自分の日常生活については、ほとんどふれていな
いとしている。

しかも、徒然草は、作品のテーマを限定しないという、独特の執筆姿勢で書き続けて
いるために、内容も多彩で 「日常生活でありがちな滑稽な勘違い」や 「名人の話」
「四季の変化の話題」 「優美な貴族たちの社会」 「深く人生を見つめる話」 そして
「政治の話題」などを、兼好自身による読書体験を基盤として、その思索により、導き
出すというスタイルを貫き通している。

ここで啓介は考えた。思索によって、物事が普遍化されているということは、物事に
対する答えというよりも、人生の生き方について、一般的な方程式が示されている。
したがって、その答を割り出す楽しみは、読者に残されている。

兼好が徒然草を執筆した年齢の詳細は不明だが、兼好が残した和歌などから推測
して三十歳代から五十歳代に書かれたものと推測されている。このきわだった特徴
は、方丈記を執筆した鴨長明と比較することで良くわかる。

鴨長明も、特異な文学者であり、二十歳代のときには、百四首から構成される家集
「鴨長明集」をまとめている。さらに長じては 「新古今和歌集」編纂時に編集作業に
あたる寄人となっており、その他にも、いくつもの散文作品を残している。

そのような多彩な文学活動のなかにあって、方丈記は晩年の作品である。鴨長明は、
方丈記のなかで、自分がこれから何をどう書くかという「明確な設計図」をもっていた
といわれている。具体的には 「自分自身と世の中との対比」 「住処のあり方を通し
ての人間の生き方の検証」 である。

しかし、方丈記には、最終場面で、どんでん返しの思考が仕込まれている。

このような両者の文学作品を比較してみた場合に、われわれ・国民の一人ひとりが、
自分たちの人生をかけた未来図を描くときに 「思考の通路」として取り組みやすく、
バラエティに富んでいて、楽しく、分かりやすいのは 「徒然草」のほうであると判断
して良さそうであると啓介は考えた。



005 テニスコートは花盛り

ブレントウッド・テニスクラブの室内テニスコートの温度計を見ると 「摂氏5度」 を
指している。夏季には、35度を超えるので、その温度差は30度以上もあるという
ことになる。しかしながら、温度差は大きいものの、春夏秋冬を通じて、室内では
快適なスポーツ空間が確保されている。

啓介は、生涯スポーツとして 「テニス&ウォーキング」を生活の軸に据えているが、
継続的鍛錬が出来るという意味において室内コートは最適である。春季の花粉症
などから守ってくれるドーム型の大屋根であり、梅雨時でも、継続的に・スポーツが
出来る場所である。台風の最中であっても、自動車で乗りつければ、いつも通りの
テニススクールに参加して汗を流せる。冬季の今日のような気温5度の寒さのなか
においても軽くウォーミングアップして動き出せば、汗が滲んでくる感覚であり快適
なテニスを楽しめる。

ブレントウッド・テニスクラブは、今年、25周年を迎える。フロントのAさんの言葉を
借りれば・・・

「1987年4月15日に、ブレントウッド・テニスクラブがオープンして早いもので、今、
25周年を迎えようとしている。コート造りの際は排水性の優れたコートにするため、
地盤を大きく掘り下げた。目には見えないところに多くの日数を費やすことになった
ことは意外と知られていない」

「コートのサーフェース(表面)はオムニコートで、見た目には人工芝のような仕上
がりである。打球感はクレーコート(土のコート)に近く画期的な仕上がりとなった
が、まだ日本では耐用年数などの実績がなく、今までにない新しいコート形態で
あることもあり、人気が定着するまでには手探り状態が続いた」

「オープンセレモニーには、1975年のウインブルドンで、黒人選手として初めて
優勝したアーサー・アッシュが来日して盛大なオープンセレモニーが行われた」

「その年の6月には併設したレストランがオープンして、都内でフレンチの料理人
をしていたシェフが登場。テニスプレーヤーの舌を満足させた」

「当時、入会した会員には 『BRENTWOOD』 の ロゴマークの入ったネーム
プレートが入会記念として贈呈されて、ロゴのデザインをしたハワード・ヨーク氏
のセンスの良さも手伝い大人気となった」

「そして、今から、6年前に、狭山市の道路拡張整備計画に、テニスコートの一部が
重なってしまい、二つのコートが使用できなくなったため、従来の会員制クラブから、
室内テニスコートを用いたテニススクール主体の運営に変わった。しかしながら、元
テニスクラブ会員の強い要望もあって、その後、屋外テニスコートの二面を主体にし
た会員制クラブも小規模ながら復活した」

啓介は、開設当時からお世話になった会員の一人であり 「BRENTWOOD」 の
ロゴマークの入ったタグは、テニス専用バッグに括りつけている。

啓介にとって、ブレントウッド・テニスクラブは自分のふるさとの様な感覚があって、
今でも、レストランで、フロントのAさんが入れてくれたコーヒーを飲むと、気持ちが
落ち着く。

啓介自身も、その間に家庭の事情でいろいろな変遷があり、ブレントウッド・テニス
クラブへの通い方にも濃淡はあるものの、四十歳代からのお付き合いという歴史
観のある場所となった。

自宅から、狭山市祇園のテニスコートまでは、車で約20分間の近さであり、脳内を
テニスモードに切り替えるのには丁度良い距離と云える。

確かに、開設当時は屋外のテニスコートが6面あって、太陽がいっぱいの練習風景
であった。二十歳代の後半にテニスを始めた啓介は、いつも屋外で飛び回っていた
ので、顔面はいつも日焼けしているのが当たり前の状況であった。

そのような延長上では、当初、室内でのテニス練習には抵抗感があった。

しかし実際に・・・

「屋外でもテニスが出来るクラブ会員」 であり
「室内でもプレーができるテニススクール生」 という体験を続けていて、ある日、
花粉症の時期の夜中に喉の痛みを感じた。

最近は、肺の中まで花粉が入り込むことがあると聞き、急遽、室内でのテニスのみ
に切り替えた。ただしこれも花粉症の時期だけのことであり花粉が舞っている時期
を過ぎれば、快適な青空の下でのテニスも、魅力的なのでクラブ会員に戻りたいと
いう気もしている。

室内テニスコートにおける練習時間の90分間はあっという間に過ぎる。

レッスン後には、海老名ヘッドコーチから、今日のレッスンの締め括りの話がある。
海老名ヘッドコーチによるテニス技術向上に関する話は分かりやすく長年にわたり
師と仰いでいるメンバーも多い。時には、人生を語るところもあって、その魅力には
老若男女を問わずファンが多い。

啓介は、いまだにテニス技術の上達を感じることがあるのと、同時にヘッドコーチの
話しには、人生の生き方などにおいても、琴線に触れるような思いをすることがあり、
大いに参考にしている。

今日はテニススクールの練習が終わった後で昼食のレストランをのぞくと満席状態
なので、隠れ家的な雰囲気が気にいっているアマルフィーに向かうことにする。

最近は、近郊の東雲テニスクラブが閉鎖となり、ブレントウッド・テニスクラブの開設
当時の会員がまた戻ってきた。狭山市の道路拡張工事が始まり、室内テニスコート
に向けた大改造が始まったときに待ちきれず東雲テニスクラブに大移動した会員が
大挙して戻ってきたため、たちまちにして、余裕のあった募集会員枠は、満杯となり
ゲストハウスの満員御礼の掲示に合わせて屋外テニスコートもレストランも大盛況
となったのであった。

【後日談】 この記事は当時(5年前)に執筆したものであるが、このブレンチウッドも、
一昨年末(2015年末)には、閉鎖となり 「昔の善きテニス時代」を思い出すための
歴史的な記事になってしまった。



006 ワイワイガヤガヤの場作り

ブレントウッド・テニスクラブのフロントで、Aさんと挨拶を交わして、駐車場に出る。

フロントのAさんの家系図をたどるとご先祖には歌聖と称される「柿本人麻呂翁」
が記されているということが話のきっかけとなって、時々 「文学論」に花が咲く。

ブレントウッドのフロント入口の生け花やインターネット上のホームページ、そして
テニスクラブ会報のセンスの良さには、Aさんの影響も大きいのではないかと勝手
に想像している。

ご主人も、このテニスクラブの仲間であり、人生の大先輩である。啓介が三年前に
家内と一緒にイタリアに出掛けることになったときに・・・

「海の都の物語(ヴェネツィア共和国の一千年)」塩野七生著を読んでから旅に出る
と面白いよというアドバイスをいただいて、早速、本屋さんで買い求め大急ぎで読ん
でから出掛けたが、ヴェネツィアを実際に自分の目で見ながら、本との結びつきも
確認できて旅の楽しみは倍増した。

さて、テニスクラブから、入間市のアマルフィーまでは、車で約十分間の距離である。
インターネットのホームページには、焙煎コーヒーの美味しい店として、店内の風景
と共に紹介記事が掲載されている。

啓介はコーヒーよりも紅茶が好きで、アールグレーをマグカップでいただくことにして
いる。ただし、秋の入口の人肌恋しい感じがする気候の頃の焙煎コーヒーは季節的
に年に一度の絶妙な味覚の機会なので必ず焙煎コーヒーを味わうことにしている。

喫茶店アマルフィーは、場所的には入間市役所の南側に位置しており、大通りからの
風景は軽井沢の古き時代の別荘のような雰囲気であり、入り口の左側には設計士の
星野氏のアトリエがある。木製の階段を登った奥に喫茶店アマルフィーがあるのだが、
最初は、この階段の入り口を探すのが難しい。

この店も、星野さんの設計で天井が高く、音響効果が良いことから、時折、小規模な
演奏会が開催されている。アマルフィーは、昼食時こそ賑わうが、午後一時過ぎとも
なれば、ゆったりと食事できるので・・・

時々、室内テニスの練習が終わった後で、マグカップの紅茶やサラダとチキンカレー
のセット、そして・締めはアールグレーの香りを楽しむという順序でお腹を満たすこと
にしている。

啓介は、ゆったりと昼食を摂りながら考えた。

「アマルフィーの丸テーブルをお借りすれば六人は掛けられるのでこの場をつれづれ
なる 『ワイワイガヤガヤ』 の場として使わせていただく案はどうか」

「英語教師を招いて、時々、英会話のサークルも行われていることでもあるし、この
場所をインターネット上では、スペース貸しとしても案内している」

「徒然草を 『思考の通路』 として、喫茶店アマルフィーで焙煎コーヒーや紅茶など
をすすりながら意見交流が出来る場、ときには、政治談議ができる場を設けること
が可能ならば、われわれ庶民のレベルからも、インターネット上で 『声なき声』 と
して日本の政治に向けて発信して行ける」

「そのベースキャンプ的な 『場作り』 がこの場に構築できるのではないか。まだ、
具体的なイメージを描く段階までは行っていないが可能性としては十分に考えら
れる」

そのように考えた啓介は、アマルフィーのオーナーである Tさんに起案書を兼ね
た募集案内で、具体的なイメージを明確にしてから、相談しようと考えた。



007 学習暦を重ねる楽しみ

彩の森入間公園には久々に大勢の人々が集まってきている。今日は「立春」である。
いつもの年だと暦の上では立春といっても寒いときが多いが、今このときは、両手を
広げると、太陽の暖かさが手の平で感じられる陽気である。

太陽の光も明るくなってきて輝きが感じられる。赤ちゃん連れのお母さんが、枯れた
芝生の上にシートを広げてくつろいでいる。池の周りの鴨や鳩も、いつもより活発に
動き回っているように感じる。

家内の万歩計が本日のウォーキング目標の五千歩を少し超えたので飼い犬を後部
座席のボックスに乗せて帰ることにする。家内は、ウォーキングの時だけ、万歩計を
身に付けるが、啓介は朝から夜寝るまでの間、万歩計を腰のあたりに付けている。

ウォーキングした日は、だいたい一万歩を超えることが多い。

家に着くと郵便物が届いていた。放送大学からの郵便物で 「特別講演会」の案内で
あった。五味文彦教授による講演で 「日本史の新しい見方・捉え方」と題したもので
あった。講演後は、懇親会も計画されている。文面には卒業生を対象に定員250名
の募集とあるので、大規模な講演会である。

啓介は 「心理と教育」 専攻で、昨年度末に・卒業対象となった。

昨年3月末にNHKホールで全国規模の卒業式が行われる予定であったが、東日本
大震災の影響で全国規模の卒業式は中止となり卒業式で受け取ることになっていた
「学士」 認定書は、宅配便で送られてきた。

放送大学には、1995年に入学。学習を重ねること16年にして 「学士」 認定書が
我が家に届いた。入学のきっかけは、大手町勤務のときにたいへんお世話になった
大先輩から贈呈された一冊の本であった。

大先輩からは 「佐久間さんは感動屋さんだから」 是非とも、この本を読んでみて
くださいといって 「月は東に、蕪村の夢、漱石の幻」森本哲郎著が贈られてきた。

大先輩の思惑通りといったところか? これがきっかけとなって俳句に興味が湧き、
早稲田大学の社会人向け講座で俳句を学び講座を担当された早稲田大学英文科
高橋悦男教授編 「俳句月別歳時記」 を購入して作句を開始。高橋悦男教授が
主宰されている同人誌 「海」にも、投稿するようになり、東京都内の句会などにも
積極的に出席しているうちに・・・

「松尾芭蕉の崇高な俳句はどのような心の働きの中から創り出されて来るのか?」
の興味から、その答は心理学にあるのかもしれないと考えて放送大学に入学した。
勿論、専攻は 「心理学」 とした。

当時の心境としては 「放送大学を卒業する」という目標ではなく専攻した 「心理学」
から何か?を学び取りたいという学習意欲に牽引されてのものであり、学習暦を積み
重ねることへの満足感が優先した。

しかし、後に、これが 「兀型の専門性」 を身に付ける必要性に迫られた時に、自分
にとって従来から経験を積んできた 「管理工学(IE)」に加えて、もう一つの深堀りの
専門分野として、重要な存在になって来るのであるが、この時には、まだ、それほど
重要な専門分野になって来ることには気付かなかった。

心理学から心の働きを学び取るという興味はやがて脳の働きへの興味に発展、さらに
脳の科学から、情報機器による情報処理の仕組みへと発展して行き、心理学の分野
においては「ユング博士」の考え方やアプローチの在り方に共鳴して放送大学大学院
の授業科目である「臨床心理面接特論」大場登・小野けい子著にも学ぶことになった。

同じ大学院の 「生涯学習論(現代社会と生涯学習)」岩永雅也著および「生涯学習と
自己実現」堀薫夫・三輪建治著も面白かった。

生涯学習の面接授業では、思わず・目が覚めるような演習機会にも恵まれ、学習暦を
重視した啓介の学びが佳境に達した感のあるときに大学の単位認定が卒業レベルに
達したため卒業となった。

しかし、元々、生涯学習的に継続して学ぶことが啓介の考え方であるので迷うことなく
放送大学に再入学。今度は 「人間と文化」コースを専攻した・・・

そこで出会ったのが島内裕子教授であった。

啓介が、島内裕子教授の担当するインターネット授業 「日本文学の読み方」 および
面接授業で対面が出来る 「徒然草を読み通す(1)」 の受講機会に恵まれたことは、
必然の慶事といっても過言ではない。



008 日々学ぶことの習慣化

啓介の 「本好き?」は、啓介がまだ五歳の頃にルーツがある様である?

母親は、既に、九十歳で他界しているが、啓介がよく聞かされた話として・・・

「啓介が、まだ五歳の頃に小脇に本を抱えて部屋の少し高いところに登っては、
胸をはってポーズをとり得意げな顔をしていたよ」 というのである。

けっして神童という類の話ではなく、今風に云えば 「形から入っていた」ようである。

啓介は身近な経験において「その子は神童ではないか?」と感じたのは早稲田大学
の記念館の講堂へ外国人の講演を聞きに行ったときに・・・

「会場の皆さんの中からご質問はありますか?」という司会者の問いに、手を挙げた
受講者から・・・

「最近、循環小数の勉強を始めたばかりの息子から 『お父さん!』学校で先生から、
1を3で割り算すると、答は、0.3333333・・・と永遠に続く。これを循環小数という
のだよと教わったのだけれど、この答に、また、3を掛け算したら答はどうなるの」と
聞かれて絶句したという前置きをしてから、質問者は、本論の質問に入っていった。
そのとき、啓介は 「その子は神童」 と呼んで良いのではないかと思った。

そして啓介は、その循環小数の話題から、大いなる示唆を受け取った。

自分に向けた自分の声として・・・

「なんでも、割り切るのが好きな、佐久間啓介さんよ!」

「生きて行く上でどうしても、1を3で割り切らなきゃいけないときにも3分の1という
分数にしてそのままにしておく方法もあるのではないか!」 と、この時の着想は、
その後の啓介の生き方に少なからず影響を与えた。

ところで徒然草の兼好も「神童らしさ」を最終段の第二四三段で書き記している。

【徒然草:第二四三段(訳)】 島内裕子教授の訳から抜粋

私が八歳になった年に、父親に問いかけて言った。「仏は、どういうものですか」。
すると父が答えた。「仏には人間がなるのだよ」と。再び、私は尋ねた。「人間は、
どのようにして、仏になるのですか」と。父は、また答えた。「仏の教えによって
なるのだよ」と。三度、私は聞いた。「教えなさった仏を、誰が教えになられたの
ですか」と。また、父が答えた。「それもまた、その先の仏の教えによって、仏に
なられたのだ」と。四度、私は問うた。「その教え始めなさった第一番目の仏は、
どのような仏だったのですか」と聞いた時に、父は「さあて、空から降ってきたの
だろうか、土から湧いて出てきたのだろうか」 と言って笑った。

「息子に問い詰められて、とうとう答えることができなくなりました」と、父はいろ
いろな人にこのことを語っては、面白がった。

兼好は、この少年時代の父親との問答をもって、徒然草の筆を置いた。

この問答からは、ソクラテスのグループ討議による「ナゼナゼ論議」が連想される。
多くの難問をソクラテスは、このナゼナゼによって解き明かしたといわれている。

啓介は、企業人になってから、真の 「本好き」 「勉強好き」になった、きっかけは、
家内と、ニュージーランドに出掛けた際の帰りの航空便での会話が、原点であると
考えている。

当時、企業人として忙しく働き廻っていた頃に啓介も永年勤続表彰制度の対象者
となり、その表彰とともに副賞として長期休暇と旅行代金が支給された。

そして、旅行先としては、家内と相談して、地球の反対側となるニュージーランドを
選んだ。季節的には日本が春ならニュージーランドは秋となり季節は反対となるが、
時差の少ないことに魅力を感じて、秋のニュージーランドを旅先として選んだ。

実際、ニュージーランドの眺望は素晴らしく、その感動は脳内に刻み込まれたまま
長期保存されて、六十歳の定年後、その体験をモチーフにして 「小説」を書いた。

家内とのニュージーランドへの旅は、啓介が後日「小説にする」ほど感動的なもの
であったので、当然、帰り便の機内での会話は大いに盛り上がった。

盛んな会話の中で「今回の旅では、お金もかかったけれど素晴らしい旅だったね」
という二人の会話の延長上で、家内から思いがけない発言が飛び出す。

「やはり、これからは、自分にもお金をかけて行く、自分への投資も大切よ」 という
話になって、家内から・・・

「あなたに、家計から百万円を提供するから、自分で好きなことに使ってみたら」と
いうのである。

啓介は、日本に帰ってから、ずいぶん考えた。そして 「二つのアイデア」 を考え
出して家内に相談した。

「一つ目は、これからの情報化時代にあって、我が家にもインターネット回線を引き
込みパソコン購入。やがて、全社的な規模で情報化してくることは、間違いのない
見通しなので、それを先取りしたい」

「二つ目は、入社時は設計に配属となり、純国産ジェットエンジンの量産設計に係わ
るという幸運に恵まれ、現在は、インダストリアル・エンジニア (管理工学技術者)と
して活動。欧米における管理工学関連の実務者の動向や実態を海外出張先で把握。
自分の目で把握した事実や体験・経験などを事業所や工場の生産性向上運動などに
生かせると確信。現在は、そのおかげで活躍の場を見出しているが、一方で、最近の
市場における不況の荒波の影響を受けて、我が社でも多くの先輩たちが、早期退職
制度で、退職の道を選んでいるが(極端な想定として) 将来、企業倒産ということが
あっても、自立して、自分を生かして行けるように、日々、研鑽出来る場を自分自身で
用意しておきたい」

啓介は、そのように考え、パソコンを購入して手習いを開始。インターネット回線を
我が家に引き込んだ。そして、将来はビジネスコンサルタントも出来る素地を用意
しておこうと考え、プレジデント社の企業経営に関するノウハウ集をダンボール箱
で二箱分購入して勉強を始めた。

総費用は百万円かかったが、これにより、日々学ぶ習慣はすっかり身に付いた。

その後、この努力は意外な方向で実を結び航空ビジネス部門が国内需要中心から
海外需要向けにも市場進出することになり全社的な業務革新運動が必要となった。

その旗振り役が大手町オフィスに集められ、啓介は中堅メンバーとして迎えられる
ことになる。当時、啓介は全社的な課題として権限委譲という難問を背負わされて、
これも、必然か昼休みの散策で大手町にボストンコンサルティンググループの存在
を知り、世界を知り尽くした彼らは 「権限委譲」という難問をどのように扱っている
のだろうか? これについて教えていただけそうな気がして予算計上もないままに、
無鉄砲にもボストンコンサルティングのオフイスビルを訪ねた。

フロントのご案内によって、気軽に相談に乗ってくれた、ヴァイス・プレジデントの
言葉は明快そのもので・・・

「この課題は、日本企業に共通したもので、どこの企業も苦労されているようです」
と実情を紹介していただいたことを、昨日の出来事のように覚えている。

お礼をいって帰る際に 「タイムベース競争」堀紘一監修が手渡されて、これが後に
啓介にとっては、社内におけるビジネスコンサルタントとしてのバイブルとなったこと
はいうまでもない。

啓介は、このお礼に、この本の内容をさらに詳しくビデオに監修したものを購入して、
全社的な業務革新運動に大いに役立てていった。

(第二章に続く)

【連載】高千穂峡のすみれ草 Ⅰ

【連載】高千穂峡のすみれ草 Ⅰ

【序】安倍総理が政権奪還を果たして七年八か月が経過、突然、辞任することに成った。かつて、筆者は、日本における二大政党の実現と与野党の政権交代と云う一大事 において新政権を継続的にウォッチング・その実態を・フォーカスしてきた。結果は・展望を欠く・政策展開が続き、就職の氷河期を迎えてしまうという残念な結果に陥り、二大政党による政権交代などと云う甘い言葉の誘惑に取り込まれ、多くの国民は失望感と共に・・・

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-31

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