技術と芸術、クリエイターとコンテンツ、テクノロジーと反逆美

蜆川無溟(仮名)

この文章も、私がかなり前に書いたものだ。恐らく昨年末ごろのものだと思う。私はこのような随筆に「思想雑記」という名前を付けていた。そういうことなので、冒頭の出だしについては気にしないでほしい。削ろうとも思ったのだが、話の流れがわかりにくくなると思ったので、あえてそのままにした。
そういえば、今朝ゴミを出してきた。それだけ。

 思想雑記(しそうざっき)、ということで今年の五月ごろから徒然(つれづれ)に書いてきたが、もはや通し番号が効かなくなっている。たぶん二十一番目の文章だ。一つ前は十一月の十九日に書いたもので、もう一か月もこれを書いていなかったのかと思うとやや残念になる。十月はたくさん書いていた。最近書いていないのはなぜだろうか。それは単純(たんじゅん)に私が書く気がなかったからというしかない。
 しかしまあ、小説は書いた。二万字程度のものだ。出来は悪くないと思う。現時点での自分を出すことはできた。評価は気にしない。レポートなんかも書いていたから、実際に執筆した文量で言えば、最近の方が多くなっているかもしれない。しかしこういう自分のために文章を書いていなかったのはやはりよくない。その点から、少し考えを述べていきたい。
 ひとえに、やろうと思ってやることは偽物(にせもの)であると思う。なぜか? やろうと思っても人間はできないものだ。私の場合、やろうと思ってやったことはうまく行った例がない。例えばだ、絵を描く人がいるとする。その人は、絵を描こうと思わねば書けぬとする。自分を(ふる)い立たせねば、絵の一つを仕上げることができない。しかし完成すればそれなりのものになるかもしれない。そしてそれを誰かに見せたりする。現代は便利な時代なので、描いたものをネットなどを(かい)して公表できる。評価を(もら)うこともたやすいだろう。それでひとつの小さな自尊心(じそんしん)を満たすことができるとする。しかし、そもそも絵を描くことがその人にとっては自然的な行為ではないために、かなり労力を(ついや)やさねば絵が描けない。だからその人にとっては、絵を描くこと自体が楽しいのか、評価を貰うことが楽しくて絵を描くのは手段に過ぎないのか、わからなくなるかもしれない。これは全く私の偏見であるかもしれないが、現代はなまじ評価がもらいやすいために、そんなようなクリエイター(もど)きが多い気がする。
 一方に、こんな絵描きもいる。その人にとっては、絵を描くというのはどこまでも軽い体験だ。やろうと思わなくても、勝手にやっている。反自律的(はんじりつてき)に絵を描くことができる。例えば、そういう人は、ある平凡な日に、今日の仕事は疲れたと言いつつ帰り、家に着いてしばらくするとおもむろに筆をとり始める。もしかしたら、彼にとって絵を描くという行為は、自己を取り戻す行為としてあるかもしれない。彼にとっては、評価されるとかSNSでいいねをどれだけもらえるかなどは全く興味の(ほか)だ。絵を描く彼にとってあるのは、ただ目の前のカンバスだけだ。描くと言う行為のほかに邪念(じゃねん)がない。だから彼の絵は、技術の巧拙(こうせつ)は問わないとしても、ひたむきに素直だ。この素直さが、時に人を()きつけても不思議ではない。素直さの中に、彼自身が自然と立ち現れてくる。彼が筆を走らせることは、もはや彼が呼吸をすることほどに、軽い。彼が描いている絵は、色彩(しきさい)(あざ)やかであるかもしれないが、本質的には透明(とうめい)だ。透明に、彼を映し出している。描いているときの彼は、真剣だが、どこか楽しそうだ。お気に入りの音楽を聴いているような、あるいは好きな作家の小説を読んでいるような、そんな顔をしている。彼があまりにも自然に、自分そのままに、絵を描いているから、絵の中に彼が、その自然体が現れるのである。彼の絵を見れば、そこにまるで彼が座っているように感じるだろう。それも、スーツを着てデスクに向かい背筋(せすじ)を伸ばしているような彼ではなく、ワイン片手にソファーでゆったりとくつろぐ彼の姿が見えてくるだろう。硬い筆で描かれた絵は硬くなる。柔らかい筆で描かれた絵は柔らかだ。彼の絵を見ているとき、私に対して彼は優しく語り掛けてくる。その表情は、必ずしも優しくないかもしれない。彼が悲しければ、絵の顔は悲しく(くも)り、彼が楽しければ、絵の顔は明るく微笑む。彼が熱狂(ねっきょう)していれば、絵の顔も熱狂に踊る。しかしどんな表情であっても、そこに誤魔化(ごまか)しはない。彼の筆は、間違いなく彼自身と共にある。彼の絵は、彼自身、そのものなのである。
 私は、そんな絵描きを、本物の芸術家と呼びたい。
 ところで、私が文章を書く理由は、特になくて、ただ書きたいから書いている。というか、書きたくなくても書いている。いや、違うな。書かざるを得ないから書いている。自然と書いてしまっている。ああなんか今日は書く日だな、となんとなく感じたとき、もうすでに私は全ての用事を投げ出して書いている。明日提出のレポートがある? 就活のイベントがある? 知ったことではない。そういうのはどうにでもなる。でも、今書こうとしていることが、明日にまで残っている確証(かくしょう)はない。今このときだけに生起(せいき)する現象(げんしょう)心象(しんしょう)もある。だから書くのだ。書かないと息が詰まる。正確に言えば、私は大体常に息が詰まっている。書いているときは、呼吸の通りがいい。自分が透明になったみたいに感じるからだ。私だけかもしれないが、社会生活っていうものは必ずしも心地よいものではない。息も胸も詰まる。私は、書くことで空気を抜いているのだ。私が破裂(はれつ)してしまわないように。私の創作に、大層(たいそう)な動機なんかない。動機と言えば、自分の内部からこみあげてくる何かだ。その不安定な何かを、言葉という形で代弁(だいべん)する。と、少しはマシになる。そのエネルギーの余剰(よじょう)の塊が私の文章だと思ってくれればよい。私はホモ・サピエンスというよりは、ホモ・デメンスだ。不可欠(ふかけつ)倒錯(とうさく)が私の(うち)に常に(すで)にある。とにかく、自分でも意味不明なのだ。その意味不明さを表しているのだから、他者に理解されないことは、何ら不思議ではない。むしろ最近はこう思うのだ、他者に簡単に理解されてしまう才能など、大したことはないのではないか? ヘゲモニーとか権力論とか、そういうのは私は詳しくないが、美が一つのイデオロギーの中で受容されうるとき、それは受容されうるものでしかないのだろう。仮に逸脱(いつだつ)極地(きょくち)に天才がいるのであれば、天才は根源的(こんげんてき)に理解されえない。なぜなら、天才はそのイデオロギーから逃れ出ている者だから。ある作品が、世の中で認められるということは、既に世の中に在った何らかの秩序(ちつじょ)や価値というものに、部分的かもしれないが合致しているということではないのか? 仮に、全く既存(きぞん)の価値や倫理から逸脱した作品があったとして、それはすんなりと社会に認められるであろうか? 私はこれについて、(はなは)だ疑問である。もっと極論(きょくろん)を言ってしまえば、つまらない作品を書くのも才能であると私は思う。誰の琴線(きんせん)にも触れない作品を書くことができれば、それは全く新しい芸術になる。私は世界中の誰にも響かない作品を見て見たいし、書いてみたくも思う。この点を少しだけ補足(ほそく)しようと思うなら、現代美術だとか現代音楽だとかを見て見るといい、こんなのは素人の落書きではないかと思われるような絵もあるだろう。単純に感動を引き起こすものだけが芸術ではないのである。芸術を突き詰めていった場所にいる天才は、容易に私たち凡人(ぼんじん)には理解しえない。私はピカソやクレーの絵を理解できないし、ジョン・ケージの音楽もさっぱりわからない。
 こんなことは、一般にわかりきっていることだと私は思うのだが、どうも近年の芸術の方向というのが、特にアマチュアでやっている人間には顕著(けんちょ)だと思うのだが、私の考えと全く違うものになっていると感じている。簡潔(かんけつ)に言ってしまえば、近年の芸術は、誰かに理解されることをよしとして、とにかく多くの人の支持を得ること、評価を得ることが良いのだと考えられていないだろうか? それ自体は、個人の趣向(しゅこう)であるから別に問題はない。しかし、それが圧倒的多数によって同時並行(へいこう)して行われる時、現代の芸術は、二つの大きな問題を抱えてしまうだろうと私は思う。
 多数の支持や評価を得ることが芸術の価値となったとき、芸術が(おちい)ってしまう第一の穴というのは、創作の技術化であるだろう。元はと言えば、アルスはテクネーに対応していたが、それは語源に関することであって、後世に形作られるアートは、必ずしもテクニックの問題ではなかった。ここで東洋的な何かを例示(れいじ)することは、私が一人の東洋人としての習慣に過ぎないので見逃してほしいのだが、例えばあの禅画(ぜんが)のようなものは、技術とは対極(たいきょく)にあるだろう。自らの内在(ないざい)する直観性(ちょっかんせい)内奥(ないおう)なる無我(むが)の宇宙を、筆一本で表そうとする。絵画的技術というものを全く捨て去っているにも関わらず、それらの絵が人々を惹きつけたのはなぜか? 私たちは再度問わねばならないだろう。
 私の考えとしては、芸術は、技術ではない。ならば好き勝手にすればいいのかと言えば、そうでもない。読者の諸君は、以下のような場合を知らないだろうか? 例えば、若い頃には自らの執筆技術を徹底的に用いて、超絶技巧(ちょうぜつぎこう)的な語彙(ごい)の用い方を行っていた天才作家が、歳を重ねていくにつれて平易(へいい)な表現を好むようになっていくということを。あるいは、非常に写実的で、まるで物体が目の前に存在しているように描く技巧を持った画家が、(じゅく)練になるほど、その表現が技巧から離れ、彼独特のタッチになっていくということを。私たちは、歳を重ねたほうが技術は身に付き、表現もより荘厳(そうごん)に、精巧(せいこう)に、なっていくような気がしてしまうが、世に天才と名高い芸術家は、むしろ技術というものを、一見すると失っていくかのように思われる。私はこの倒錯にこそ、芸術の本質を見ている。
 技術を身に着けることは、簡単なことではない。鍛錬(たんれん)に次ぐ鍛錬が、それを可能にする。例えば作家になるには、誰よりも読み、誰よりも書かねばならない。血と汗と涙をどれほど流したかが、人間を強くする要件(ようけん)だ。しかし、それはひたすら忍耐(にんたい)し続けることではない。好きだから、自分がやりたいから、それは何度でもできる。動機が内側にあるので、情熱は失われることはない。仮に動機が外にあれば、それは忙しさや心身の不安定や他者評価によって簡単に失われてしまうだろう。内なる指針(ししん)によって、繰り返し行い続けることによって、技術というものは、自然と習得されていくのである。ただ、そこに安住してしまう時、芸術は色を失って()れ果てるだろう。
 ある人が、以下のようなことを言っていた。知を持った人間が、自ら無知だと悟る時、そこに学問が始まる。私は芸術について、以下のように言いたい。技術を持った人間が、その技術を捨てるとき、そこに芸術が始まる。なぜ、作家が自らの豊穣(ほうじょう)な語彙を捨て去るのか、なぜ、画家が精巧な描写を捨て去るのか、一目で素晴らしいと判別できる価値を、なぜ自らの作品から脱色するのか? それは、技術が芸術ではないからに他ならないのではないか? 自らが長年をかけて積み上げてきた技術を、思い切り捨て去ること、そこにこそ芸術がある。作家は処女作へ向かって成熟(せいじゅく)するとは、正鵠(せいこく)を得る言である。未だ技術を持たざる初心へと、芸術家は遡行(そこう)してゆく。自らの技術に安住することからは、新しい芸術は生み出せない。芸術というのは、根本的に反抗的だからだ。
 私たちはそういったことをわかっていながら、それと真逆(まぎゃく)の事をしばしばしてはいないだろうか。現代において、プロアマ関わらず、特に芸術に携わる人間こそ、芸術の首を締めていはしないか。安易に評価される方向へ、自らの才能を浪費(ろうひ)してはいないか? 技術は見えやすく、わかりやすい。写真のような絵画を見れば、平凡な人間なら皆感動するだろう。しかし、それは本当に芸術と言えるだろうか? 
 現代は、技術の時代である。テクノロジーの発達により、人(るい)は大きく変わった。私たち自身の生活もまた、絶えず変化し続けている。技術は確かに、人間を豊かにはしたかもしれない。利便性は向上したかもしれない。しかし、私はその技術を芸術、あるいは人間の本性(ほんせい)の方面にまで適応してしまうのは、芸術の持つ本質を無視することになりえると思っている。現在、インターネット上には多くのクリエイターを名乗る人々がいる。創作のジャンルは様々だ。彼らの多くは、創作の技術を(みが)くことを重視しているように思う。絵をうまく書く技術、感動させるストーリーの作り方、心に響くコード進行、見る人を楽しませる動画編集の仕方、等々、全て創作の技術を身に着けようとしている。ネット上を探してみれば、どんなジャンルの創作でも、技術指南(しなん)のためのブログやホームページが山ほどある。そうして彼らクリエイターは、コンテンツというものを作り上げる。コンテンツは、受容者に消費されていく。有償(ゆうしょう)無償(むしょう)関わらず、誰かに消費されることで、コンテンツは成り立つ。そしてその消費者が多ければ多いほど、クリエイターの腕は高いことになる。
 高度な技術を持つクリエイターは、称賛(しょうさん)され、高い収入を得るだろう。しかしそれは、芸術家の創作というよりも、職人の工作に近い。しかも、コンテンツというのは、伝統工芸の職人のような洗練された深みも、長く使える耐久性もなく、毎時毎秒で消費されていくだけのものである。クリエイターはだから、消費者に飽きられないために、作り続ける。毎日のようにSNSで発信し、何かと全て報告し、似たような作品を毎週のように量産する。同じような絵、構図、物語、リズム、編集、そういったものが世にあふれ出ている。ここで、私も一人の消費者の視点に立って、考えてみたい。同じものが繰り返されるとき、それは冗長(じょうちょう)にもなりうるが、一方で安心感もある。この人の技術は間違いない。この人なら私を満足させる何かが作れるだろうと、信頼して見ることができる。これが、心地よい。だから世の中には変わらないことの安心感というものもある。しかし、芸術というのは、変わらねばならないものである。
 話があちこちに飛び火しすぎているのでまとめよう。まず、私は芸術は技術ではないと思う。それは、天才と呼ばれる芸術家たちの仕事から推察(すいさつ)できることであるだろう。しかし、現代においてクリエイターを名乗る人々が作り出しているものの多くは、芸術というよりも消費物である。商品に近い。自らの技術力を駆使(くし)して、安定して作り上げていく。彼らの技術は確かだ、それは素晴らしいものである。しかし、芸術はそれでいいのだろうか? ということだ。芸術は、その技術を捨て去って初めて、可能になるのではないだろうか?
 多くの消費者を得ること、多くの支持を得ること、それが芸術の価値になってしまったときに起こることの第一の問題は、以上のようなことである。つまり、芸術の技術化、これである。ここで、第二の問題について触れたい。それは、以上の内容と密接に関わることである。現代の芸術が持つ問題、危機と言ってもいいが、それはすなわち、芸術の反反逆化(はんはんんぎゃくか)、これである。
 異論(いろん)は多くあるとして、私は芸術は反逆であると思う。いや、恐れずにもっと強く言ってしまおう。芸術とは反逆でなければならないと私は思う。私はしかし、芸術とは何かという根本的な問いをここで考えられるほど、人間として熟していない。だから私が言いたいことというのは、芸術は反逆性を持つべきものであるだろうという意見である。
 芸術と技術が違うことは、ここまでで十分に述べてきた。技術は人間の成熟に必要である。だが、芸術は技術に安住しない場所にあると私は思う。(いな)、正確に言えば、技術の反復の極地で、既存の全てを突破した先に見える風景が、芸術であると思う。これは一つの霊的現象(れいてきげんしょう)に近い。例えば、それは仏教の涅槃(ねはん)やキリスト教等の啓示(けいじ)のような、宗教における神秘(しんぴ)超越(ちょうえつ)体験に類するものであると思われる。ひたむきな祈りや修行の先に、突如として現れる新世界。不断の忍耐と苦悶(くもん)の先に(ひらめ)く、一筋の光明(こうみょう)。かつて鈴木大拙(すずきだいせつ)は、禅が日本文化に与えた影響を述べた書籍の中で、禅的体験の極地は芸術の深奥(しんおう)に通ずると述べていた。今ではよく、クリエイターがインスピレーションなどという横文字で語るが、それのことである。
 全く新しいものというのは、それ自体一つの反逆であるということは、一般に意識されていることだろうか? 新しいという概念自体が、既存への挑戦であると、読者諸君は考えたことがあるだろうか? 日本や中国が近代化をする際に、西洋文明という新しさを取り入れるためにどれだけ苦労をしたか、歴史で学ばなかっただろうか? 今の常識を非常識なものへと変革(へんかく)するために、どれだけの時間と労力が割かれる必要があるか、考えてみたい。芸術の役目、などというものを正面切って論じたくはないが、少なくとも、今ある全ての中に芸術という存在が埋もれてしまうのであれば、それは芸術としての真価を発揮したことにはならないだろう。アートというものはいつだって、時代の先端を切り拓く天命(てんめい)を自ら背負ってきた。
 絶えず変化する世界の中で、それぞれの時代の変わり目には、人々は常に不安定である。その存在をどう受け取るか。新しきものをいかに恐れないか。あるいはそれは真逆に、古きものをいかに忘れないかということでもあるが、時代の要請の中で、一個の人間がどう生きているか、何を行うか、何を見るか、何を生きるか、そういったあらゆる問が交差する場所に、一本の旗を立ててみる。新しい旗を立ててみる。誰も見たことがない旗、しかし、私たちは常に、少し先の未来でも見ることができない。それどころか、自らが今どこにいるのかさえ、見ることが困難だ。この時代は、どのようなかたちをしている? この国は、どのようなかたちをしている? じゃあ君は? 君はどんなかたちをしているんだろう? そして、私は、私自身は、どのようなかたちをしているんだろうか? 暗中模索(あんちゅうもさく)の試みで、描き出していく、それが芸術ではないだろうか。まだ定まらない、あるいは見た事のないものを描こうとするから、それは既にある方法では不可能だ。なにか物足りない。今の僕らの時代は、どこかの時代に似ているかもしれない。でも、今までのどの時代とも違う。なぜなら僕自身が、どこの誰でもない僕自身なのだから。そう信じていたいのだから。
 芸術は常に、時代の中で生まれるものである。歴史から切り離されて芸術は存在しない。しかし、芸術は時に、時代を超えてゆく。新しき時代を、人々に示す。モーセが海を割り人々を導いたように。芸術が時代の指針となる。この先は海、もう後はない僕ら人間の生存の中で、既にある価値観、手法、展開では、僕ら自身の生き方は描けない。だから芸術は海を割る。不可能を破壊する。先入観を破壊する。そして、僕らだけの生きる道を描こうと試みる。そういう意味で、芸術はいつも、反抗的だ。
 芸術が技術となり、反逆性が失われ日常に(ゆる)氾濫(はんらん)するとき、もはやアートは何の力をも有さない一個の商品となる。人間がただ自らの心地よさの裡に眠り、社会に、時代に、そして自分自身に何の興味も抱かなくなったとき……芸術が失墜(しっつい)するときは、人間が失墜するときである。破壊なき場所に、創造はない。反逆なき場所に、人間はない。生命はない。色彩はない。音響はない。無でさえもない。それは枯れ腐った、有の世界。物に溢れ、コンテンツが澎湃(ほうはい)し、消費を反復するだけの有の世界。つまらない有の世界。人間は目隠(めかく)しをして一生を終えるのか? 内奥から湧き出づる大力(だいりき)眼前(がんぜん)些細(ささい)な消費で発散させて、自分自身の生のあり方に疑問を持たずに終わるのか? 政治や社会のあり方に目を(つむ)ったままで終わるのか? 大切な事全てを直視できないまま、囚人(しゅうじん)のように生を終えるのか?
 今こそ、芸術を問い直す時代にあると、私は思う。なぜなら、現代とは、テクノロジーの進歩によって、様々な仕事をAIやロボットが代行(だいこう)できるようになった時代であるから、今まで以上に、人間とは何かが問われるだろうからだ。人間とは何かを問う一つの指針として、人間が幾星霜(いくせいそう)を費やして練り上げてきた諸芸術の存在は無視できない。文学でもいい、音楽でもいい、美術でもいい、何でもいい。テクノロジーの光る現代だからこそ、純朴(じゅんぼく)たるアートに向き合い、人間とは何か、つまり「自分とは何か」という永遠の問いに挑むことが必要だと思う。僕らは不安定で不確定で未知な存在だ。そして僕らの生きるこの時代それ自体も、まだ解明できてはいないのだ。(いわん)や未来をや、だ。ミネルヴァの(ふくろう)は黄昏と共に飛び立つとは学問の知見である。芸術は、体系化より早く、内的直観によって自分を、社会を、そして一つの時代を(つか)み取れる。僕はそう信じている。それが芸術の崇高なる力だ。
 というように偉そうに論じてみたが、やはり芸術は難しい。昔からの諺に、アルス・ロンガ・ヴィータ・ブレヴィスというものがあるが、もしかしたら僕ら自身の一生など、ボードレールの一行にも及ばないのかもしれない。それでも僕らは生きることをやめない。問うことをやめない。なぜなら僕ら、弱くとも考える人間なのだから。僕は考えるのをやめたくない。僕は芸術をあきらめたくない。僕はぬる甘い砂糖水が嫌いだ。僕は反逆を終わらせたくない。逆らうことに、生きることを見出したい。
 最後に、書いていて思ったのだが、自分の文章ほど思い通りにならないものはない。小林秀雄(こばやしひでお)も同じことを言っていたが、自分の文章ほど意味のわからないものはない。私が言いたいことを的確に言い表すことができずに、文が立ち止まったり、流れてしまったりする。私がいかに言葉に支配されているか、よく知れる。それでも、私は書くことをやめない。書くことこそが、私が私であるための方法なのだから。

技術と芸術、クリエイターとコンテンツ、テクノロジーと反逆美

読まないでくださればよかったのに。

技術と芸術、クリエイターとコンテンツ、テクノロジーと反逆美

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