甲虫と白雲
あの頃、午前四時に家を出た。祖父の軽トラの荷台に乗って、畑へと向かった。畑で野菜の収穫を手伝った。飽きて来て、飼い犬と走りまわった。
畑の近くには、小さな林があった。そこで甲虫を探していた。前日に祖父が、木の幹に蜜を塗ってくれていた。そこによく集まっていた。甲虫を見つけて、網で捕まえた。そうして日の出の頃に、僕は心地よい汗を流していた。夜が明けきると、空に一筋の白雲が見えた。
軽トラに揺られた帰り道で、祖父は僕にジュースを買ってくれた。今はない、さびれた自販機で。そのジュースの味は、二度と味わうことができない。僕はその味が、忘れられないのだ。
向日葵、咲けども眠らず
ただ、白昼に、空とぼけ
太陽、追いかけて、夏来たる
子どもらの、袖の汗染み
今や、甲虫の羽ばたきよ
一時の、無常を語れり
白雲、乾いて伸びゆく
ただ、風のよに、吹き泣いて
欠月、揺らめきて、夜の朝
過ぎ去りし、熱の思い出
今や、甲虫の羽ばたきよ
一抹の、闇を払えり
送り火、陰りて沈めば
ただ、魂へ、帰りゆく
幻影、木の下に、人はあり
夕染まる、赤い呼び声
今や、甲虫の羽ばたきよ
一筋の、光を結ぶ
四つ辻、雨なら急げと
ただ、気まぐれの、日々の中
憧憬、鳴り止まず、川流れ
初恋は、柑橘の肌
今や、甲虫の羽ばたきよ
一撫での、黄昏の頬
その涙、思い出の夏
帰らずの、思い出の夏
ふるさとの、思い出の夏
………………
白雲、乾いて伸びゆく
ただ、風のよに、吹き泣いて
甲虫、追いかけし、あの午後に
いかなれど、戻る術なし
幾度、夏の世に、至れども
甲虫、追いかけし、あの夏に
いかなれど、戻る術なし
一回の、甲虫の夏に、
一回の、白雲の夏に、
いかなれど、戻る術なし。
甲虫と白雲
忘れられない記憶はありますか?
戻れない過去はありますか?
ならば、僕らは、今のこの一瞬をいとおしんで生きるしか、ないような気がします。