詩と愛、愛と芸術、芸術と詩
詩、愛、芸術についての小考察。
こんなことがあろうか。苦しみの中でも詩が書けない。悲しみの底でも言葉に出会えない。こんなことがあろうか。僕は、詩が書けない。言葉が、僕に届かない。いつだって暗闇の中で僕を照らし、導いてくれた言葉が、僕に、愛想を尽かしたのか。
詩とはなんだろうか。僕は自分が詩人になりたいとは思わない。ただ、詩人でありたいとは思う。ボードレールに言わせれば、詩人とは、何者の中にでも入ることのできる存在である。僕もそれに倣うなら、例えば一輪の花の中に入り、その中で宇宙を見て、そしてまた、その感覚を現世に持ち帰ってくる。それと出会い、それに入り、それから出るという一連の流れは、彼方から到来する一筋の光を目で捉えるために、僕がただそれだけのために生まれて来たことを教えてくれる。僕の命の軽重は、僕が決めるものではない。世界が決めてくれる。僕はときにその命の軽さに浮遊し、ときにその重さに沈黙する。詩人とは、世界と出会う力を持った人間、言いかえれば、世界の呼びかけに気付くことのできる人間である。そして、彼によって作られる詩とは、彼が世界との間で行った対話の記録に過ぎない。
詩が書けないとき、僕はその、世界から至る呼びかけを感じることができないのだ。いや、たとえ感じられたとしても、それを言葉にできない。それを僕は、詩が書けない状態としている。
天上を横ばいに動いていく夏の日を見ていた。バニラ、イランイラン、チャンダン、ジャスミンの香をけぶらせながら、その香りの違いを楽しむ。エコー、キャメルの貧乏葉巻を吸って、一息で。濃淡の季節。木の影が庭に落ちて、そこに穴があく。遠い日の記憶が落ち込んでいく。陽炎がアスファルトを叩く。けだるげな中学校のチャイムの音。流行曲を奏でる吹奏楽の音色。プールの監督笛。一斉にかけていく子どもたち。羽ばたく鳥の青空。壁にかかった祈るような植物の絵。髪の色を乱す煙の束。そんな八月の午後。僕は詩が書けない。僕は詩が書けないでいた。
彼女からの連絡を待っていた。特にすることもなかった。大学四年、さぼりがちな授業。書けない卒論、なんとか勝ち取った内定。彼女と抱き合ったあの夜。その手触り。その香り。その涙。全てが僕の人生だった。それだけの人生だった。それだけで足るほどの人生だった。それが僕の詩の本質だと気付いた。
話は変わるが、僕は高校生の頃から、もう六年ほど、お香を焚くという趣味がある。と言っても、インドからネット通販経由で輸入したヘム香の棒タイプのものだが。安上がりでいい趣味だと自負している。部屋で焚いたら、あまりに香りが強く、父親と弟から大ブーイングを食らった。それ以来、やる時は涼しい日に、外でじっくりと一時間ほど焚くことにしている。
お香はそうだ、煙とは、僕の存在に近い。僕が煙草をよく吸う理由もそこにある。不確定に揺らめく炎の光と鈍色の複筋の線。その煙の揺蕩いは、まるで世界に芸術が存在する理由を示しているかのように思われる。この煙のように絵が描けたら。この煙のように詩が書けたら。そんなことばかり思う。詩が書けないとき、僕は身近な自然現象の一つ一つにも、まぶしさを感じてそれに耐えきれず、自分が暗黒の底に落ちているような気がする。
あなたもまぶしい。人間がまぶしい。僕は誰かから愛を受け取れるほど、大人にはなれていないのだ。だから僕は、誰かの愛を少しでも感じてしまうと、戸惑う。その愛を疑って、その愛を確かめるために、相手を試す。何度でも試し、相手を困らせ、ときにより一層好きにさせ、関係を破滅させる。不均衡な愛ほど危険なものはない。あなたが僕を愛するように僕もあなたを愛さなければ、愛せなければ、やがて終わる。もちろん、関係はいつか終わりが来る。僕は心のどこかでは、一人になりたいと思ってしまうけれど、また心の反対側では、永遠に誰かと共にいたいとも思ってしまう。孤独を愛するがゆえに、誰かを愛してしまう。
詩が書けない。だから僕は、詩から逃げる。逃げ続けて、何もできない。今日だって、やることのすべてを放り投げて、一人で街に出ていた。風の中で煙草を吸った。空の青さに吸い込まれそうになった。そうやってよろめきながら、一日生きていた。そんな日々を、もう何度も繰り返した。詩が書けないから、僕は詩を書かない。無理に書いてもいいことがない。詩の方からやってきてくれないと、僕は何もできない。僕は、芸術家というのは全く無力なものだと思う。たったひとつ、揺らめき続ける感受性だけで生きている。
僕はそれでも、文章はなぜか書いてしまう。今もこうやって、逃げているということを記述した文章を書いて満足している。逃げた先で、何かを作らずにはいられない。常に現在を微分し続けるスキゾ。では結局、僕がたどり着く岸辺はどこだろうか。
以前も言ったが、愛されることは、簡単だ。自ら弱みを曝して、人に触れれば、それだけで人は愛してくれる。ただ、それが過剰になるとき、その愛は憎しみに変わる。愛することの方がもっと難しい。僕はしばしば、人から愛を受け取るとき、その重さに耐えきれず、よろめいてしまう。愛されると、死にたくなる。消えたくなる。それは、僕自身が愛されるべき存在であると自覚できないからだと思う。愛は重い。ときに憎しみよりも人を傷つける。だから愛することは、その人を傷つけることでもある。その傷を見て、喜ぶことである。互いに傷つけあうことが、愛し合うことの全てであると、僕は思う。互いにつけた傷を見て、愛おしく想いあい、抱きしめあい、涙を流す。それが愛のすべてだ。
愛とは、詩よりも詩的である。僕は愛し合うことほどに劇的なものはないと思う。どんな素晴らしい芸術作品でも、愛する人からの抱擁や接吻の一撃に匹敵するものはない。それほどまでに強烈だからこそ、人は本を捨てて街に出るしかない。人生に一度だけの出会いを求めて。自分を根底から変えてしまうような、愛の光を求めて。
そう、だから僕は思うのだ。優れた詩人とは、空想によってドラマを創造できる人間ではなくて、自らの置かれた運命を言語化できる人間であると。加えて、優れた詩人とは、より劇的な人生の中に生きている人間であると。人間の想像力は無限大のように見えて、実は激しく制限があるものと僕は考えている。劇的な詩を書ける人は、劇的な人生を、送っている必要がある。もちろんこの場合の劇的とは、外的な要因というよりは、内的な激しさであるから、表面上はなんてことのない青年の中にでも、宇宙よりも深い心情が隠れていてもおかしくはない。内的な激しさこそ、詩のための唯一とも言ってよい原因であると僕は思う。
僕にとって、何より劇的だったことは、こんなダメダメな僕を、しっかりと愛してくれる人がいたということだった。そんなことを言えば、人は指をくわえて僕を見て、惚気だと言うが、僕にとって生存の意味が、彼女に出会えたことなのだから仕方ない。だが僕はときに、その愛を疑ってしまう。それでも彼女は、今のところは僕の疑いさえも包み込んでくれる。そうまでして、人を愛することが良いのかと、僕は彼女に問うたことがある。いつか君は僕から離れて行ってしまうだろうね。いつか君は僕に愛想を尽かすだろうね。僕みたいな男よりももっといい男がいるよ。そんなことを僕は彼女に何度も言った。そのたびに彼女は、このように答えるのだった。「私は信念をもってあなたを愛している。」僕には、その言葉の真意がいまいちよくわかっていない。信念とはなんだろうか。何があっても僕から離れないという覚悟だろうか。そういう僕も僕で、彼女とはなんだか一千年以上前から何度も出会っているような気がするのだ。それはもちろん、愛という曖昧なものが見させる幻覚であるかもしれないが。しかしその幻覚を言葉にしてしまうとき、詩というものは成り立ってしまう。
芥川龍之介に「蜃気楼」という小説があって、僕はそれがなんとなく好きなのだが、あの作品に出てくる白い犬が忘れられないのだ。その白い犬こそ、何か人生の象徴のように思う。その犬こそ蜃気楼なのではないか。そして僕たちの人生もまた、蜃気楼のようなものなのではないか。そんなことを考える。考えてはそれを消す。アイデアを重ねていくのではなく、僕は常に思考をしては、それを取り消す。その打消しこそが、僕の詩を成り立たせる何かである。世界から言葉を授かったとき、それは奇妙に歪められることがある。歪めているのは僕だ。だから僕はその歪めてしまった言葉を労わって、その言葉のためにそれを消し去る。その言葉を生み出してしまったことを反省し、その言葉のためにその言葉を殺す。それくらい反倫理的なことを、僕は日々行っている。しかし、殺すこともまた、僕なりのやさしさだし、僕なりのけじめなのだ。そうしてまた白紙に戻ったときに、僕は消えていった言葉を思い出して涙を流す。その言葉のためだけに泣く。それが僕の、詩人としての誇りである。
詩を書くことが痛みであるのと同じく、愛することも痛みではないかい。喜びの中にあるはずなのに、痛み続けるこの心はなんだろう。どこか満たされないこの空虚はなんだろう。僕はまだ、その答えを知らない。
音楽が無音をその基礎とするように。絵画が白紙のカンバスなしでは成り立たないように。詩もまた、言葉のない場所からしか生じないと僕は思う。言葉のない場所こそ、詩の生まれ来る故郷であり、常にそこに立ち返らねばならない原点である。もとより世界に言葉などない。言葉とは、あくまで人間が勝手に区切りをつけた何かでしかない。だから世界にあふれる詩というものは、必ず一つの矛盾を抱えている。それは、僕たち人間が言葉を持ってしまったときから逃れられない矛盾である。言葉ではない世界を、言葉で表そうとする、という矛盾である。しかしこの矛盾は、何も文学だけの話ではない。世界に数字という概念はないため、数字で表そうとすることも矛盾であるし、世界に絵はないため、絵で表そうとすることも矛盾である。世界に音楽はないから、音楽で表そうとすることも矛盾である。音や色彩、モノの数はある。ただそれを何らかの言葉的なもので表現しようとするとき、世界は失われる。プラトンはかつて、理想の国家からは詩人を追放すべきだと論じたが、その根拠は、存外に正しいように思われる。なんらかの芸術家は、世界をありのままに表現することはできない。むしろありのままから離れることが、芸術なのだから。プラトンは、イデアという特別な概念を出して、そのイデアから世界は一段遠ざかり、その世界から芸術はさらに一段遠ざかるとして、芸術家の仕事は無駄であると述べた。イデア論の正不正は措いて、芸術が世界から遠ざかるという指摘は、今の僕にとっては、正しいもののように思われる。
それでは、人間はなぜ、芸術を好むのか。あるいは、嫌うのか。芸術は、何を目指すべきなのか。より一層僕に引き寄せて言うならば、詩とは、何なのか。僕とは、何なのか。僕が「詩を作る」ということは、「何をする」ことなのか。
人間だけが持つ、特別な能力のひとつは、虚構を作り出し、それを信じる力であるとは、長く言われてきたことであるが、芸術もまた一つの完成された「ウソ」であるならば、それを好むことは、人間が言語を作り出し、宗教を作り出し、国家を作り出したことと同じように、必然のように思われる。だが、芸術というものは、いつの時代でも行き詰っているように思われるのは僕だけだろうか。行き詰まるたびに、前世代の手法や理論を否定した場所に足場を作っていく。写実が流行ったあとには、抽象が流行り出すように。理性が力を持った時代の後に、神秘がそれを上塗りしていくように。ただ、それもまた、手法や理論ばかりが先にいくようになって、芸術を作るという人間の必然が力を持たなくなる。つまり、ある種の自然な体験だった芸術が、不自然な創作になっていく。奇妙な操作の体系になっていく。そのとき、再びその理論は行き詰る。それを繰り返すばかりのように、僕には思われる。
芸術は、エクスタシー、つまり、一つの恍惚であって、我を忘れさせる体験でもある。その意味で、宗教体験に近い。宇宙の神秘と一体になることができる。僕はしばしば、それを直観的に体験する。例えば、僕が詩を書くとき、その一つ一つの言葉は僕の内面からではなく、宇宙から来る。宇宙は、僕の内面と繋がっているからだ。その感覚を得て、僕は詩を書いている。絵を描くときもそうだ。僕のペンは、自動的に動いていく。宇宙の意志を経て動いていく。僕は最近、彼女の影響もあってピアノに触れることが有るが、その時、限られた数の鍵盤の中から、僕に語り掛けるように、その時だけに光るものがある。僕がそれを押すと、そこに音楽が生まれるような気がする。その感覚を研ぎ澄ませて行く末に、僕は自身の芸術の未来を見ている。
つまり僕にとっては、芸術っていうのは、詩っていうのは、僕の無意識からこみ上げてくる何かで、それは宇宙へと開かれた直観で、言いかえれば自然そのもので、ありのままへと戻る試みなのである。先ほど、芸術はありのままから遠ざかると言ったが、ここで矛盾が生じる。僕にとって、言葉とは世界から遠ざかる手段である。しかし同時に、世界のそのままへと戻るための手段でもある。世界を虚構で満たすための手段が、世界の真実を捉えるための手段でもある。その矛盾を、矛盾と考えてはいけない。その矛盾があるからこそ、僕にとって芸術は面白く、僕は詩を書き続けるのである。
恐らく、人類は滅びつくすまで、芸術や、それに類似する文化を、継承し続けるような気がする。しかしながら、その本質を知る者は、いつの時代もほんの一握りにすぎず、そのような存在になるためには、唯一、自分が芸術に選ばれた者であると自覚するのみで良い。人類史において、神や神の使いとされる人間は、皆自分がそのような存在であることを自負し、それを表現した。真なる芸術家がいるとするならば、それは自らを真なる芸術家と認める者だけだ。他者にその判断を握らせた時点で、その人間の創作は醜媚に堕する。自分が絶対なのだ。決して他者に依存するべきではない。
内的な直観が、宇宙にまで届くことを感じ、その宇宙からの全てを抱いて、作ってみろ。それこそが、自分にしか作れない詩なのだと僕は思う。僕はしばしば、自らを奮い立たせるために、例えば自分の血脈に稲妻が流れているように感じたり、自らの手の平の熱が炎であるように思ったりすることがある。自然は確実に、僕と繋がっている。僕は生命であることには間違いなく、生命の持つ有限の時間の中にある無限を僕は持っている。無限へと自己を開くことこそ、僕の創作の原点だ。自らに知らない世界が、無限にある。しかし同時に、自らのなかにも、自らの知らない可能性が無限に秘められていることを疑うことはない。才能という言葉はいらないのだ。才能という言葉を使いたがる時点で、芸術家には向いていない。芸術家に才能はいらないし、才能という言葉もいらない。ただ、自分に課せられた「何か」を感じ、その「何か」を、何らかの形で表現すればよいだけだ。
僕は詩が書けないが、僕の綴る文章が自然に詩的になっていくことは避けられない。僕の描く線が自然と絵画的になることを避けられない。僕の奏でる旋律が自然と音楽的になることを避けられない。僕の魅力が、僕の表現するあらゆる媒体の上に連なることを、僕は止めることができない。僕は熱を持った命である。その熱を、あらゆる場面で放っていくことを僕は止めることができない。
とどまらぬ放熱。それこそが生命の唯一の行いであるし、愛のすべてであるし、芸術の本質であると思う。僕は、僕が生きることとは、僕に与えられたたった一つの命を燃やし尽すことだと思っている。僕はだから、詩を書くときも、学問をするときも、働いているときも、彼女と愛し合うときも、自分の命を燃やしているという意識を持っている。持たざるを得ない。この炎が消え去るまでの、束の間の命なのだ。一度きりしかない命なのだ。全てを超越して、僕は僕になるしかない。僕であることを、証明し続けるしかない。それが僕の生き様になり、それが僕の詩になっていく。だから僕は、今日も生きて、いつか死ぬまで生きる。それだけの命。それだけのために生きている。
詩と愛、愛と芸術、芸術と詩
死ぬまで書き続けろ。