死への憧憬

蜆川無溟(仮名)

なぜこうも、僕らは死を求めるのか。それを知りたいだけ。それを確かめたいだけ、なんです。

 今までの人生で、結局、僕がしてきたことと言えば、人生に対する不安に向かって、もがき続けて来ただけだった。大学生になったといえ、それは変わらずに、目の前の現実から逃げ、人から逃げ、親から逃げ、友から逃げ、そうやって全てから逃げた先で、見つけたものといえば、空洞(くうどう)としての自分、何も確かでない自己という存在外(そんざいがい)の存在であった。
 僕は生を求める。それは生命としての本能が、僕の身体に()いていることだ。僕は腹も減るし、性欲もあるし(今は(うつ)と、薬剤(やくざい)の副作用で無いが)、自己保存の欲求に従って生きている。だが、僕はあまりに強く生存を望むゆえに、むしろ時に死を望む。生に近づくとき、僕は同時に死に近づいているように感じることがある。
 人間は、生物は、生まれたときから死に向かってゆく。成長とは、ただ生殖をおこなうための身体を作ることであり、生殖が終り、ある程度までその子どもを育ててしまえば、生物としての役目は終わる。だから人間の人生のほとんどは、死への道であり、自己を崩壊させていく道筋である。
 倫理的な人々は、自殺はいけないという。自傷(じしょう)もいけないという。僕も倫理的な人間であるつもりなので、他者に対してはそう言う。自殺は止めるし、自傷も止める。しかし、自己に対して嘘はつけない。倫理が嘘だとは言わない。ただ、倫理は真実でもない。僕の中には確かに、自己をぶち壊したい欲望がある。満たされない思いがある。それがなんとか不安定な形を持って、この世の中に定着したとき、それが僕の文章であり、絵であり、音楽であり、震動をそのまま(かたど)ったような、僕の生命のかたちである。僕は自傷する。自殺する。それでよいと思うときがある。僕が自死(じし)するとき、初めて僕は、本当の僕と出会うような気がする。僕が自死するとき、初めて僕は、僕の芸術を完成させられるような気がする。
 人間は、進歩的思想に支配されている。昔からそうだったわけでは、たぶん、ないけれど。前に向かって進んでいて、後ろに下がることはいけないという考えがある。死は、自分が無くなることのように思うから、前に進むことではないと考える人が多い。しかし、死は、究極的な前進である。前に進んだ先に死があるのだから、人生のゴールは死であるだろう。もちろんそれを早くする必要もないけれど、必ずしもその時を待つ必要もない。健康に生きて、前に向かって常に進歩し続けるのが人間で、そうしなければならないという思想の方が、僕にとっては不健全に見える。人間なのだから、後退してもいいだろう。そもそも歩く道の先に死があるのだから、死は後退ではないし、悪い事ではない。死という必然の運命が悪であるならば、生という必然の運命もまた、悪であると言わねばならない。僕は詭弁(きべん)をこねているかもしれないが、自殺否定者も自傷否定者も詭弁に過ぎない論を述べることしかできないと思う。
 人間が生きる限り、生命が根源的に持つ死への憧憬(どうけい)をとどめることはできない。生命は死を望む。生きるからこそ死を望む。なぜなら、生きることとは、死に向かって歩くことなのだから。死にたい存在以外生きることはできない。死を否定する生はない。生とは死の肯定から始まるしかないのだ。なぜなら、何度でも言うが、生とは死を前提にしか存在しえないものだから。だから僕は、死を否定するあらゆる道徳や倫理は、ただ社会生活をうまく機能させるためだけの欺瞞(ぎまん)でしかないと思う。生を止めることができないのと同時に、死もまた止めることはできない。だからと言って僕は自殺を肯定はしない。現代社会においては、死への希求は社会的条件によって定められることが多く、自己の素直な欲望としての死は少ないと思われるからだ。不健全な死の欲望はよくない。生きることの源に死があり、生と死は何度でもめぐり、僕と君がまた何度でも生まれ変わって出会うような世界の理を知ったとき、ならば死もまた恐れる必要はないのだと知ったとき、そのときに生まれるような死への憧憬こそが、僕が尊ぶ生への態度である。
 僕は自傷が好きだ。自殺が好きだ。それは誤魔化(ごまか)し得ない事実なのではっきり言う。ベンゾジアゼピン系の抗不安薬を飲んで、SSRIのレクサプロ10mgを酒で飲み下して、そしてまた、こみ上げる胃液と、部屋に降る幻覚の雨を浴びながら、僕は今日も死を望む。いつか来るべきその救済の時を望む。僕の短い人生で出会った様々な人々のことを思いながら。この終わりなき雨のような頭痛に締め上げられながら。かわいた涙を流しながら。来るはずのない明日を待っている。

死への憧憬

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
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