夢釣り
娘が瞼を開くと、ぼんやりと自分を覗きこんでくる顔が見えた。
「気がついたようで」
穏やかな声がおりてくる。その声に答えようとして口を開き、娘は何度か咳き込んだ。微少の水を吐き、彼女は苦しげにぜえぜえと喘いだ。
「お前さん、落ちたのが早かったのか、溺れずにすんだようだ」
手拭いを被った男の表情は、暗がりの中よく見えない。声だけでは若いのか年老いているのか分からないが、落ち着いた深みのある声音だった。
呼吸を整えてから、娘はあらためて周囲を確認した。
小さな舟の上に乗っている。傍らには、ほおかむりをして筒袖を着た男が、気遣わしげに娘を見ている。
舟の舳先には男が座り、灯りを掲げて舟の進む方向を照らしていた。艫には、渡し守が櫂で繰って舟を進めている。
周囲は、墨を落としたように真っ暗である。規則正しく水音を立てる渡し守の櫂と、水面に反射する灯りの光がなければ、ここが舟の上だと分からなかったかもしれない。
「あ、助けていただいたようで。ありがとうございます」
娘が丁寧に頭を下げると、ほおかむりの男は「いやいや、気にしなくていい」と笑った。
「しばらくすれば、あっちの岸辺に着く。一緒に降りるとしようか」
そう言うと男は、竹の釣り竿を器用に繰り、川面に釣り糸を垂らした。そのまま石のようにじっとしている。
まっ黒な水面をいくら覗きこんでも、魚が泳いでいる姿は見えなかった。魚がいるのかどうかさえ怪しいものだ。
娘が不思議そうな眼で見ていても、男は大して気にした様子もなく釣り糸を見つめている。彼は時折思い出したように、腰に提げた酒瓶からちびちびと酒を飲んだ。
よく見ると、彼の傍らには豚のような生き物が丸くなって寝ていた。豚にしては異様に鼻が長く、体も大きいように思える。
ふいに、釣り糸がびくびくと震えたかと思うと、男は慣れた手付きで獲物を引き上げた。それは橙色に淡く光を発し、小さな魚のような形をしていた。
「どれどれ」
値踏みするように獲物を眺めて、男はひとつ頷いた。
娘は驚いて声も出ない。どう見ても魚には思えなかったが、不気味ではなかった。
「どうだ、美しいだろう」
男が得意気に笑うと、娘は瞳を輝かせて頷いた。
「釣ったやつは、こいつに食わしてやるんだ」
獲物を豚の鼻先に近づけると、豚は大きな口を開けてすぐさま飲み込んでしまった。咀嚼もせずに、豚はふうっと満足げな息を吐いただけだ。
「こいつは、貘という生き物だ」
物珍しげに見つめている娘が可笑しいのか、男は笑いながら釣り竿を繰って糸を垂らす。
娘は、濡れた瞳でじっと川面を見つめた。流れていく舟の上で、乗っている人間達はあまりに静かすぎる。生き物らしい息遣いを感じるのは、寝そべっている貘だけに感じた。
娘の視線は、水面から釣り糸へ移り、釣り竿を通して男へとそそがれた。一幅の画のように、彼の姿はこの舟に馴染んで見える。
「あなたは、誰ですか」
「わしは、ただの釣り人さ」
「何を、釣っているのですか」
男はしばらく黙り込み、竿を引いて二匹目を釣り上げた。
「夢を」
ぽつりと呟いて、男は釣り上げたものをかかげて見せた。
小さな光に包まれて、魚に似た何かが弱々しく震えている。螢の光のようだと、娘は思った。
「この川には、たくさんの夢が沈んでいる。釣れるのは、とうの昔に落っこちて原形を留めなくなったものばかりだ。こいつらは、気の遠くなるような永い時間をかけて、こんなふうに小さくまとまっちまう」
釣ったばかりのものを貘に食わせて、男は再び釣り糸を川に向かって投げた。
「お前さんが引っかかったのは、たまたま運が良かっただけだろう」
娘をちらりと見て、男は笑った。
「落ちて助かる者は、ほとんどいない。出られるやつは、わしに釣り上げられた時だろう」
娘は小さく身震いした。
この川はどこまで続くのだろう。
いくら眼を凝らしてみても、陸地は見えてこない。微かな水音と灯りが、落ち着かない心を少しだけ和らげてくれる。
「もうしばらくの辛抱だ。じきに着く」
娘の不安を察したのか、男は優しげな声をかけてくれた。
懐を探り、男は小さな包み紙を取り出した。それを開くと、彩り美しいあめ玉がいくつか出てきた。
一つを娘に渡して、男もあめ玉を口に含んでみせた。
「これも川で取れたものだ。こぼれた夢の欠片が、固まって玉になったのさ。良い夢は、甘く美味い」
娘も口に入れてみて、舌の上で転がして味わった。頭の奥をじんと痺れさすような、とろけるような甘味が広がる。このまま瞼を閉じて、眠ってしまいたい誘惑にかられた。
いつまでも舐めていたいと思ったが、あめ玉は小さくなり、溶けて消えてしまった。夢から覚めたような寂しさを感じて、娘の瞳が潤んだ。
「もう一つ、いただけませんか」
「いや、やめておいた方がいい」
娘は悲しげに眼をふせた。
川面に眼を向けても、魚の影も形も浮かんでこない。水面は黒く澱み、舳先の男が持つ灯りによってぬめぬめと光る波がある。
手招いて誘うような波の揺れに、娘は悪寒を感じて震えた。
ふいに波がざわめき、水面が静かになった。そこに、今までとは違うものが浮かび上がるのを眼にして、娘は息を呑んだ。
「お前さん。あんまり水を見てちゃ、また溺れちまうよ」
釣り竿を気にしながら、男が声をかけた。しかし、彼の忠告を娘は聞いていないようだった。無言で、彼女は川面をじっと見つめている。
しばらくして、娘がぽつりと言葉をこぼした。
「釣り人さん。私はいくつに見えますか」
未だに水から眼を離さない娘を横目に見ながら、釣り人は柔らかな声で答える。
「十八、九かな」
「若くて美しい?」
「そうだね」
「花のような娘盛りに見えますか」
「そうだね」
娘は顔を上げ、花がほころぶように微笑んだ。
「嘘がお上手ですね」
娘の若々しかった肌が、見る見るうちに張りがなくなり枯れていく。笑った顔には無数のしわが刻まれ、白くなめらかな指は茶色く萎びていた。
花びらがこぼれるような笑みを刻んで、娘だった老婆はうずくまっていた。黒々と艶やかだった髪は銀色に変わっている。
「美しかったのは過去のこと……」
彼女は思い出した。自分がもはや若くも美しくもないことを。老いた今は夢の中で、若い時分に戻る夢に執着していることを。
骨張った手でかさついた肌を撫で、老婆は顔を覆ってむせび泣いた。震える肩に、そっと温かな手がのせられる。
顔を上げると、釣り人が酒瓶を差し出した。
「飲まないか。嫌な気持ちを忘れられるよ」
「ほんの一時の慰みでしょう?」
「それでも、お前さんが向こう岸に着くまでは忘れていられる」
「忘れて、また思い出せと言うのですか」
ひどい御方だ、と呟いて老婆は袖を濡らす。
「でも、私の方がもっとひどいでしょうね。己におごり、他をかえりみず……老いた姿になってもまだ昔の夢にしがみついている」
老婆は酒瓶を受け取り、ひび割れた唇で仰ぐように酒を飲んだ。
空は星一つ見えない。天にも黒い川が流れているのかと思うと、恐ろしさと寂しさで涙がこぼれた。
酒で忘れたところで、どうなるというのだろう。酒瓶を叩き割ってやりたいという衝動にかられたが、老婆は怖ず怖ずと釣り人に瓶を返した。
「忘れたい……私はいったい何を忘れたいのだろう」
深い皺の刻まれた手を見つめ、老婆は何かを思い出そうとした。しかし、想いはどこか遠く、訳のない悲しみだけが残る。
「私が美しかったこと、私の心根が醜いこと、私の今が醜いこと。私の本当の姿が汚いことを、見たくない」
「いいや。お前さんは美しいよ」
「それは、ここが夢だからでしょう。夢から覚めれば、私はただの老いぼれです」
「わしはずっと昔から知っている。いつも、お前さんは変わらずに美しいままだよ」
ふふ、と忍び笑いをもらして顔を上げた時、その姿は若くみずみずしい娘に戻っていた。光沢のある真っ黒な瞳が悲しげに揺れて、釣り人の姿を映してた。
釣り竿に三匹目がかかり、貘の腹におさまった。貘はまだ足りないとでも言うように、ふううっと大きく息を吐く。
娘は再び川面を見つめ、儚い溜息をもらした。
水鏡には彼女のありのままの姿が浮かんでいる。彼女自身、そこに映る姿を美しいとは到底思えなかった。
「夢は、甘ければ甘いほど悲しいものなのですね。目覚めた時にこんな思いをするくらいなら、知らなければ良かったと思うほど」
娘の眼から、ほろほろと涙が流れていく。彼女の瞳は、未だ水面を覗きこんだままだ。
「人でいるのが寂しいから、魚になるのでしょう」
静かに泣いていた娘の姿が、淡く光を発して滲んでいく。小さく小さく縮んでいって、そこには娘ではなく一匹の魚がいた。
男は、すぐに魚を魚籠に入れてやった。
青白く儚い光を発しながら、魚は大人しくしている。その瞳は物憂げで、泣いているように見えた。
「お前さんも寂しかろうが、わしもそうだよ」
魚籠の中を覗きこみながら、男は溜息を吐いた。
「娘さん一人、助けることができないのだから」
辺りは濃い闇に覆われ、聞こえるのは水の音だけである。
釣り人は、魚籠の中にある悲しく美しい姿を、飽かずに眺めていた。
夢釣り