瑛珀(えいはく)

そうげん

構想を練ったのは2003年のことでした。
当時、第二章の途中まで書いて、筆が走りすぎるのが怖くなって書くのをやめてしまいました。
言葉がつぎつぎに出てきて、止められなくなったからです。あれから17年が経ちました。
基本構想だけはそのままに、今書けるやりかたで書いてみようと思いました。

第一章(一)

瑛珀(えいはく)第一章


   一

 上弦の月が叢雲(むらくも)に隠れて半刻(はんとき)が過ぎた。月は雲の向こう側で、いまも西の地平目ざして刻一刻と落ちかかるにちがいない。
 すでにほとんどが寝静まった夜半。折からの巽(たつみ)の風を受けて、街道沿いに繁茂する雑草の先端は粛々とそよいでいる。夜に鳴く虫の音(ね)にも、おのずと大小の波が生まれる。籾殻(もみがら)をかき混ぜたようにしきりに耳に迫るものもあれば、遠く幼子の泣くのに錯覚するような微かなものもある。しばらく夜道に立っておれば、大小の起伏のために、鼓膜の痺れる感覚を得るものだ。
 虫の音でも蛙の声でもない、乾いた明朗な響きが東の方(かた)より聞こえてくる。次第に大きくなる音に気持ちが張りつめる。すでに何度も繰り返した工程だ。月が隠れていようと、近づいてくる馬蹄の響きで相手の位置を推し量ることができた。
 楓(かえで)の根方に息を潜めていた存在は、ここ、と決め、衣の袖を振り、迫りくる馬上の相手に暗器を放つ。放たれた鉄針(てっしん)は、相手の眉間に迫る。馬蹄の立てる音の調子が乱れる。
 潜む者は腰の短剣を抜き放ち、根方から飛び出して脚を止めた騎手に迫る。が、すぐに気づく、馬にも人にも傷はない。
 夜目が利くのか、「誰だ!」と騎手が叫ぶ。声が若い。得物の鞘走る音が冷たく響く。
 瞬間、暗殺者は認めた、「負けた。あたしの負けね」
 対手(あいて)の緊張がゆるんだ。
 無理もない。その声は、女声――しかもまだ幼さの残る女声で、声の震えから、ひどく怯えながらも気丈に振舞おうとする無理が感じられたからだった。
「なぜ俺を狙う」、男の声には余裕があった。
 前脚を踏みかえるたびに、馬蹄がかつかつと小気味よい音を立てる。あれほど飛ばしていながら、馬は息切れ一つ起こしていない。
 生ぬるい微風が緩やかに抜ける。
 少女は観念した、「誰でもよかったんだ」
「金か、命か」騎手は対手を睨みつけた。
「両方よ」少女は、ぼそっといった。
「名ではないのか」彼女の返答に安心したらしい。しかし抜いた剣は、依然構えたままだ。「いまひとつ訊きたい。誰の差し金だ」
 少女の身体が強張(こわば)る。
「脅しつけても構わぬのだぞ」
 少女は短いため息のあと、「わかったよ」といい、懐に右手を差し入れる。「実は――」
 ふたたび暗器を放った。苦無(クナイ)である。眉間を狙いすます鮮烈な一閃だった。しかし、男は剣をわずかに動かして軌道を遮った。金属と金属との克ち合う音が草地に拡散する。凛とした音だった。二人の間に緊張が走る。
 男は手綱をとり、馬を進めた、「死にたいか」
「死なせてよ。殺せるでしょう。あたしを殺してちょうだい」、少女はいう。
 かれも話のわからない相手ではない、「殺してほしいなんて尋常ではない。話くらいは聞いてやる。いいたいことがあればいってみろ」
 遠くに鳥のはばたく音がした。無音のときが訪れる。本当に止んだかはわからない。つぎには音が戻っていた。
 長く隠れていた月が、雲の切れ間から覗いた。
 瑛珀(えいはく)は見た。青白い月の光がそうさせるのか、まだ幼さの残る顔立ちには確かに気品が伴っている。くっきり見開かれた目には、清い矢を心に打ち込むような力強さが感じられる。潤いのある唇は桜桃(おうとう)のように紅かった。白い肌は土や泥で汚れているものの、健康的な張りがある。絵にかいたような少女だった。彼女が魅力に溢れていることに瑛珀は気づいた。
 少女はつぎの一言を切り出せないでいる。
「言えぬか」これ以上、少女を困らせるのは忍びなかった。こちらから話題を振る。「俺は都に用事がある。ゆえに、あまり時間をとれぬ。命を狙われたのは、俺の身分を知ってのことと思った。だから訊いておるのだ。話せぬか」
 少女は、ためらいがちに口を開く、「あなたがどこのだれかなんてどうでもいい。金も、命も、どうでもいい。必要だからやったの。もういいでしょ。そんなこと訊いたって、一文の得にもならないよ。あたしを捕まえて好きにすればいいよ。どうせ、反抗できないんだし」
「悪い人間に見えるか」
「どうせろくでもないよ」
「嫌われたもんだな」瑛珀はつぶやく。
「嫌いも何もない。おばさんがいつもいってる。『男なんてみんな一緒。どうでもいいのと、ろくでもないのしかいない。』あたしもそう思ってるから」
「仕様もないな」
 かれは、なぜ命を狙われたかの理由を知りたかった。そこには複雑な事情があるはずだ。
「誰かに命じられたか」
 薄雲に月が見え隠れするたびに、少女のかんばせ(顔)の上の陰影も変化する。あるときは目がきらりと光り、あるときは冷めたような青白さで肌がほんのり照らされる。
 肩より長い髪は後ろに結ばれているものの、風になびくおくれ毛を鬱陶しがりもせず、少女はじっと彼を見る。
「おばさんよ」と少女はいった。「おばさんの命令。街道を往く人を夜討ちして身ぐるみを剥げって。あなたもそのひとりに過ぎない。あなたじゃなくたってよかった。とはいえ、あなたに出くわすなんて、あたしも不運ね。……まあ、運なんてもともとあったか知らないけど」
 少女の語り口はずいぶん砕けている。ふだんからそういう話し方をしているのだろう。
「おばさん――というのは、どういう」
「べつに。ふつうのおばさんよ。悪くない風に見せて、ほんとうはずるがしこいタヌキみたいな人。ふつう(・・・)でしょ」
「殺しを人に命じるのが、普通。――そうか」
「誰でも自分のために生きてるんだから、したいことをするのはふつうよ。このへんじゃ、みんなそう。そんな生き方、くそくらえだけど」
「辛辣だな」瑛珀はにやりとした。「それで――死にたいのか」
「生きてたくないもの」少女は即答する、「こんな世の中に未練はない」
「そうか」瑛珀は少女の額に剣先をのばす。
「生きるもひとつ、死ぬもひとつ。どちらでもいいとは不幸なことだ」
 瑛珀の剣がもちあがり、頭上で止まる。少女はそっぽを向く。
「逃げるか」
 瑛珀は剣を振り払い、鞘に納めた。
「死を口にするのは、殺しに手を染めた報いかも知らんな。俺はもう行く。おまえは好きにしろ。名も知らぬ娘よ」
 瑛珀は馬から降りようともせず、少女の前を辞そうとした。
「逃げるの。わたしを救ってくれないの。生きてるだけで苦しいこんな世の中から救ってくれないの」
「死が救いてか」
 少女は胸に手を当てた。息を調えてから口にする、「あたしを都に連れて行ってくれない。迷惑はかけない。とにかくここから離れたい。ほかに望みはないよ。死ねないならせめて生きるところを選ばせて。わたしは茱宝(しゅほう)、李家の茱宝。名前を教えたんだから、あなたも教えてよ」
 馬上でためらいはなかった、「瑛珀だ。都で伝令係をしている」
「おねがい。ここに居たくないの」
 茱宝の言葉には信念が籠っている、瑛珀には少女の思いの強さがわかるような気がした。誰かに切実に訴えかけられる機会は、このところ、まったくなかった。頼られることの喜びが胸にこみあげる。常識と情念のどちらを優先すべきか。かれは目の前の少女に視線を据える。
「どれほど出鱈目な願いを口にしておるか、わかっているか」
 言葉を抑えても、おのずとにじみ出る難詰の感じは隠せなかった。
「虫のいい話なのはわかってる。でも、あんたはこれまでに見てきた大人とはちがうように思えるの。そんな人に出会えることなんて、そう何度もないと思う。ダメでもともと。機会があるなら試してみたい。あたしの気持ちをわかってほしいなんてことはいわない。ただいまのままではダメになる。こんなこと続けてたら、ますます深みにはまってしまうと思うから」
「いちいち言うことに筋が通ってる。これも齢に応じた以上の行いを繰り返してきたせいなのか」
「おねがい」
 少女は泣くようだった。もともとの瞳のきらめきなのか、目じりから垂れおちる泪(なみだ)のせいなのか、半月の明りではわかりにくい。
 瑛珀は馬から降りる。少女に、己(おの)が命を奪おうとする意識の消えていることはわかった。彼女の懇願を受け入れるべきかどうか。いまはその切羽(せっぱ)でしかない。
 かれは閃いた。その閃きをいったん頭に整理したうえで、少女に尋ねた。
「暗殺を命じたのは、おばさんだな。血がつながっているかどうかはしらぬが、そんなにひどいのか。都に来れば、身よりはひとりもいない。ここならば見知った顔がいくらでもあるだろう。どこに身を置くのが安泰か、ちゃんと考えていっているのか」
「おばさんだけじゃない。村のデタラメな人たちのデタラメな生き方にいやけがさしてるの。この際だからいうけど、誰かひとりが恵まれた状況にあったら、それを妬(ねた)んで、嫉(そね)んで、寄ってたかって相手をもとの位置に引きずり降ろそうとする。あいつだけずるい。あいつだけうまいことやりやがった。あいつだけ、あいつだけ。横を見て、周りを見て、楽してるやつがいれば蹴落とそうとする。そんな人であふれてる。もううんざりなの。おばさんも、あたしに命じて得たものを、ほかの人にばれないかびくびくしながら、物置にこっそりしまってる。こそこそしてる態度がなさけない。でもあたしもここにいればそういう色に染まると思う。染まることを自分に許せなかったときは、周りから袋叩きにあって、きっとおちぶれる。黙って落魄(おちぶ)れて行けなんていわないよね。そんなひどいこといわないよね」
 ――そうか、と瑛珀は思う。ここまで思い詰めるか。
 瑛珀は斜め後方を振り返り、西の地平に近づきつつある上弦の月の青白い輝きに目を向けた。もうすぐ月が落ちる。
「手助けできるかどうかはわからない。連れていくことはできる。もう一度聞くが、本当に行きたいのだな」
「連れてってくれるなら感謝する。あたしをここから救い出してくれるあんたはあたしの救い主だ。お願いできる」
「このまま出られるか」
「戻ればおばさんに疑いを抱かせる。残していくものに未練はないよ。珀兄さん、ありがとう」
 いきなりの名前呼びにどきっとさせられる。「わかったよ、茱宝。都に行こう」
「あなたのこと、兄さんって呼ばせてもらうから、あたしのことも小姐(しょうねえ≒シャオジエ)って呼んで」
「そうするよ、小姐」
 瑛珀は茱宝を前に乗せて馬に跨った。少女特有の甘い匂いが鼻先をかすめた。馬上ではひとりのことが多いため、誰かを乗せる機会はほとんどなかった。まして女を乗せるなどこれまでに一度もなかった。心持ち、肩に力が入る。
「揺れるが、がまんしてくれ」、辛うじてそれだけいって、手綱で合図を送る。
 馬は脚をすすめ、駆けはじめる。
 馬蹄の小気味よい音が響きだす。緊張もほぐれてきた瑛珀は、前を見ている茱宝に声をかける。
「その暗器の腕――どこで得た」
 黙ってばかりでは気持ちも重くなるだろうという気づかいもあった。なにより、年端もいかない少女が、おそらく大の大人でも誰でもその手にかけていたことを思えば、夜の中での犯行であるからこそ余計に、その腕は確かなものでなくてはならなかった。彼女の腕をその段階にまで引き上げた人物がいなければ道理が合わないと踏んだからこその質問でもあった。
「あたしの村の名前、わかる」少女は質問を質問で返す。
「あの位置はたしか――うん。赤桑村(せきそうそん)だったか」
「そう。赤桑村。村にはね、子供たちを集めて武芸の稽古をつけてくれる人があったの。赤蝉老師(せきぜんろうし)。みんなは老師、老師っていってた。子供も、村の大人たちも」
「赤蝉……きいたことがないな。腕は確かなのか」
「若いときに、武芸の大会で活躍して名をはせたという噂を、村の大人が話しているのを聴いたことがあったな。それからさまざまな地域を放浪して、あるときには奥さんを持ったり、子供もつくったりして、いまはその人たちがどうなったか知らないけど、あるいはもう亡くなってるっていう話もちらほら耳にしたこともあった。いまでは誰もそのことの真偽を確かめようとはしないからさ。ただ、赤桑村の子供は誰となく、老師のお世話になったものよ。あたしは護身術として暗器の腕を磨いたの。もう老師の世話にはなってないけど、いまも毎日訓練はしてるから。でも敵わないね、珀兄さんには」
「俺も油断していればどうなっていたかわからない。鍛錬に余念はないつもりだが、どこまで行っても、気が抜けるときはあるものだからな。俺からみても、そなたの腕は確かなものだ。しかし都に行けば、それも必要なくなるだろう」
「そうだといいな」茱宝は息をついた。
 夜道はほぼまっすぐに、やや南寄りの西方に向かって続いている。でこぼこ道でもなければ、石がときおり落ちているような悪路でもない。二人の重量を支えて走る馬の脚も順調だった。もうしばらくすれば月も地平に沈むだろう。瑛珀は闇の中、夜道を往くのは危険と考えていた。茱宝をつれて、宿を取って休むということにもためらいがあった。
「落ち着けるところを探して休むことにするが、構わぬか。心地よい寝床などはない。そこらの道の隅ということになるが」
「あの家、あの村でなければ、どこだっていいよ。がまんする」
 よほど嫌だったと見える。しばらく道沿いに行くと、それに並走する形で、河水(かすい)の流れる地域にさしかかる。踏み固められた街道を外れすぎることもなく、草の厚みの多いところを探して馬を止めることにした。幸い、馬を止めるに最適な木も見つかる。はじめに瑛珀が馬を降り、次に茱宝の降りるのに手を貸してやる。乗せるときにも思ったが、彼女の体はうそのように軽かった。ちゃんとものを食べているのか不安になるほどだ。彼女がいまいくつなのかが気にかかった。
 瑛珀は馬を引いて、目をつけていたさるすべりの幹に手綱をくくりつけた。
 かれは引き返し、足元を確かめている茱宝の近くに寄った。
 頭上にはところどころ斑(ふ)の走るように小さな雲が無数にかかっていて、その隙間に、針の目のように細かい星々の光の粒がひしめいていた。これならばたとえ月が沈んでも、星明りのかすかな光が、あたりが完全な闇におちるのを救ってくれるだろう。こころなし、瑛珀はほっとする。
「小姐。夜が明けるまで、すこし眠るといい」いってから、瑛珀は気まずさを覚える、「いきなり休めといわれても困るか。眠るのが難しいなら、目をつむってゆっくりするといい。寝てしまっても、明るくなったら起こしてやるから」
「兄さんは、寝ないの」茱宝の疑問も、もっともだった。
「考えたいことがあってな。それが終われば俺も休むよ。あの辺りが草も多いし、いいだろう。ほら、行こう」
 瑛珀が先導する形で茱宝をうながす。近くまで行って腰を下ろし、ごつごつした枝が落ちていたり、大きな石が転がっていないことをたしかめて安心する。しばらく二人で横になって、視線の先に見える夜空に目を向けていた。刻々変化する雲の動きと、それにつれて見え隠れするさまざまな星の種類に目を楽しませる。茱宝もしばらく黙っていたから、そのまま眠るかと瑛珀は思ったが、予想に反して彼女は口を開いて質問をはじめた。
 家族はいるのか。どんな仕事をしているのか。今夜はなぜあの道を通ったのか。自分を拾ったことは、迷惑ではなかったか、等々。
 質問には誠実に答える。ある質問には丁寧に答え、ある質問には簡単にだけ答える。瑛珀にも答えられることと答えられないこととがあった。とくにどんな任務を帯びて東方の街へ赴いていたかなどは、機密に関する事柄であるから軽々に答えるわけにはいかなかった。茱宝もこれ以上聴いても回答を得られないとわかった事柄を再び尋ねることはしなかった。
 茱宝の質問はつぎからつぎへと連なった。そう短くない時間が質問に費やされた。ひととおり訊きたいことを訊きつくしたらしく、二人の間に無言のときが訪れた。息をひそめる気配のなかで、茱宝はこれまでとは調子のちがった言い方で切り出した、「兄さんは、あたしに訊きたいことはないの」
 ないといえばうそになる。瑛珀は、訊いていいものか迷っていたのだった。茱宝から問うてきたからこそ、今度はかれが尋ねる番ということなのだろう。「そなたが村にいたくない理由――おばさんにずいぶんな目に遭っていたのか」
 茱宝の息をつめる気配がした。下は柔らかい草地とはいえ、体をこわばらせたことから、衣と、下草とのこすれる音がやけに耳にさわった。
 不安になるくらいの長さの沈黙があった。相手がなにを考えているのかわからない。「――茱宝……」とつぶやくと同時に、彼女が口を開いた。
「あたしだって、はじめはいやだって、ちゃんといったのよ。でもこの家の飯を食べてるんだったら、それ相応の働きをしてこいっていわれて。袖の下から武器を放って、弱ってるところにとどめを刺してきた。この手には人を殺めるときの感覚が、くっきり残ってる。今夜、珀兄さんに出会うまでね、あたしはこれからもずっと、おばさんのいうとおり、見も知らぬ人の命を奪っていかなければならないんだって思ってた。あきらめてた。あたしが生きてられるのは、おばさんの世話になってるからだし、もともと身寄りのないあたしだしね」
「親御さんは――」瑛珀は尋ねた。
「あたしが小さいころに亡くなった。父さんも母さんも、同じ時期に亡くなったみたいでね。食あたりだったって聞いてる。もともと毒のある食材を、毒素を十分に抜かなかったから、食べた翌日に冷たくなって発見されたって。あたしはまだ小さかったから食べずに済んだみたい。もうすこし大きかったらあたしも口にしてしまって、一家全員食中毒で死亡っていうことになってたと思う」
「そうか」
「二歳でいまの家に引き取られて、それからずっと李家のお世話になってた。でも、あたしがどこの出身で、苗字がなんだったか、いくら訊いても村の人は教えてくれなかった。だからあたしはずっと宙ぶらりんな存在としてあの村にいたの。どうせ身寄りもないあたしだから、命じて、旅人の身ぐるみを剥いできたら儲けもの。ただめし食わす気はないからね、っていう言い方をよくされた。だから、おばさんに褒められるように、あたしはいつもあそこで潜んで、ひとりひとり確実に仕留めてきたの」
「そう聞くと、壮絶だな」これまでに奪われた魂の数を思うと、瑛珀の溜息は自然と重いものになった。
「もういいの。都に行ったら、これまでと違う生き方をするから」
「宛てもないだろう」
「なんとかなるよ」茱宝の声はつとめて明るい。
 空元気といってもいい、と瑛珀は裏読みする。「もう遅い、すこし休もう」
「そうね」茱宝が体をちぢこめるのがわかった。
 しばらくは互いに身じろぎする音が聞こえていたが、やがて、茱宝の寝息がしずかに聞こえるようになった。
 その寝息に誘われるように瑛珀は自分の考えに気持ちを集中させていく。
 きょう、あすのことではない。五年後、十年後の先のことを思えば、隣国との関係を良好に保っておくことが必須だ。北戎(ほくじゅう)の中に団結する動きがあった。民族同士のごたごたが解消されれば、おそらく中原に食指を動かすにちがいない。われらおなじ民族同士で対立しておれば、一丸となった相手にこの中原を蹂躙(じゅうりん)されかねない。瑛珀が担っていたのは、隣国、昌との間の裏交渉であった。まだ口約束の段階であるが、昌国の重鎮とのあいだに伝手をもっておくことが、のちの交渉に有利に働くと見ての布石であった。任務はまずますの出来だった。報告を持ち帰れば、上役も機嫌をよくするにちがいない。また、昌国の都を見回っているときに耳にしたいくつかのうわさ話もあった。これはわが国ではまだ行われていない話であるから、その情報もしかるべき筋の耳に入れねばならぬだろう。都についてしばらくは仕事にかかりきりになる。いま横で寝ているこの娘のことを考える時間はなさそうだ。誰か信頼できるものに預けるか。それか。いや。それはどうするべきか、厄介なことは厄介にちがいない。頼まれたとはいえ、いかにも安請け合いしてしまったものだ。
 瑛珀は頭を振った。夜明けまでにはまだ二刻(≒四時間)はあるだろう。向こうの方で馬が草を食んでいる音が聞こえる。ときおり足を踏みかえる音も立っている。ふしぎなくらいに誰もいない空間だった。草の間からはひっきりなしに虫の音や蛙の声がしている。いまが初夏でよかったと瑛珀は思う。これが冬や初春であれば、二人してこんな野原に野宿のようなことをしてもいられなかっただろう。そう考えれば、この茱宝という娘も、それなりに功徳をつんでいたのかもしれないな。
 人を殺める――俺もまだしたことのないことを、十をすこし越したくらいの娘がしてのけていた。世の中は広いということか。茱宝は寝てしまったのだろうか。寝息のたぐいは聞こえない。
「寝たか」と掛ける声は小さくしぼったが、隣から返事がある。
「起きてる」
「眠れそうにないか」と瑛珀。
「おばさん、心配するかな。明日になって居なくなったことを知ったら、どう思うだろう。あたしはもう帰る気はない。帰れっていわれても困るからね」
「夜が明けたらふたたび馬に乗って、そうすれば夕方には都につくだろう。あとのことはまだ決めていない。思案中だ」
 返答はなかった。相手の溜息が聴こえた。
 そのまま会話もなくなり、茱宝の存在も気にならなくなって、瑛珀は雲の切れ間にのぞく星々に視線を据えた。星見の司(つかさ)がいっていた言葉を思い出す。
 人はこの世界に生れ出た使命を知りたくなればこそ、星を見上げるものです。自分には及びもつかない大きな力に打たれてみたい、そういった気持ちになるとき、人の視線の先にあるのが夜空の星々の輝きなのです。あなたの運命は星の中にあるのですか。あなたの運命は星々が教えてくれるものと、そうお考えですか。わたしは星を見るのが仕事ですが、夢と現(うつつ)とのあいだに隔てを設けるべきか悩んでおります。夢に傾きすぎれば人は幻惑される。現(うつつ)一辺倒では頭が固くなっていけない。平衡感覚を持つというのも難しいものです。あなたはあなたの道を行かれるといい。夜空の星々などに余計な夢を託される必要はありませんよ。
 司(つかさ)はなんのために、俺にそんなことをいったのか。
 まだ幼かった俺は、かれがいうことの幾分かでも、理解することができただろうか。狐にでも化かされたような気持ちになったことを覚えている。
 いくら小さいとはいえ、ここではない遠くにいけば、これまでとちがう運命が自分を待ち受けているなどとは思わなかった。しかしこのまま、いまのまま、変わらない日々を過ごすものとも思われなかった。過信もしないかわりに、自身を試そうという自負心もなかったのだ。そんな暗色一辺倒のおれの心をわかって、あの司は教訓めいたことを俺に垂れたのだろう。
 茱宝の村にも赤蝉老師という導き手があったということだが、かつて、俺にも、俺自身を導いてくれる先達があった。もともと孤児だった俺をひきとってくれた恩人は、はじめて会ったときから三めぐり目の年を迎える前に亡くなった。唯一の兄弟子だった紅克(こうかつ)と二人、身寄りもない二人ぼっちで、このせせこましい巷間をずぶとく生きるしかなかった。ときには食べ物や金銭など、生きるために必要な盗みもした。役人に見つかって殺されかけたこともあった。さいわい捕まらないでこれたのは、完全に運任せのことでしかなかった。街の裏でもそれなりに名前を覚えられたころ、うまい話があると誘われたときに、いまの仕事に通じる道が開けた。
 もしあのころ、いまの仕事に道が開かれなかったならば、自分はいまごろ何をしていただろうか。その日を食いつなぐためにあくせくすることからは足を洗っていたかもしれない。そのかわりに、悪い奴らと徒党を組んで、悪さ三昧の日々を送っていたかもしれない。あるいは指の一本や二本、歯の三本や四本を失うような結果になったかもしれない。それでもまだましなほうで、あるいは今頃はもう命がなかった可能性だってあるのだ。兄弟子の紅克はいまや行方知れず。どこでなにをしているのか、生きているのか、死んでいるのかもわからない。心につながりを感じている存在は、俺には皆無だ。
 茱宝には、まがりなりにもほかの人とのつながりがある。たとえ忌み嫌っているおばさんであっても、つながりはつながりだ。それを断ち切ってしまっていいものか。自分の知らぬ間に知らぬ先に導かれていまがあるように、茱宝もまた、どこかのなにかにつながる運命を持っているのかもしれない。彼女をどうするかなど、そんなに気に病む必要はないのかもしれない。
 紅克が居なくなった日のことを、たまに思い出す。誰かに殺されたとか、書置きを残して立ち去ったとか、これという意志が示されて、いまある状態に落ち着いたのだと、自分に納得のいくものが欲しかった。なぜ俺の前から姿を消したのか。いまの仕事についてもう五年になるが、いまでも、どこでどうしているだろうと、彼の息災を祈る自分がいる。生きているのか、死んでいるのかもわからないのだ。わからないからこそ、想像が空想を呼び、空想が妄想にまで膨れあがる。かれには立ち去らねばならぬ理由があったのか。俺のことが嫌になってしまい、それを言い出すこともできないまま、姿を晦ますことを選択したのではないか。疑心暗鬼に駆られることもしばしばだった。もう落ち着いたが、実の兄弟よりも親密な関係だったからこそ、まるで自分の半身を喪ったかのように、しばらく気持ちが鬱々と沈み込んでしまったことは、いまでも克明に覚えている。
 茱宝は、自分が居なくなったことをおばさんがどう思うかといっていた。おばさんがどんな人なのかは、わからない。理不尽なことを年端も行かない子供に要求するような人だったといわれても、実際に面会したわけではないからわからない。夜が明けて、茱宝が戻らないとわかったとき、おばさんは彼女のことを心配するだろうか。夜のうちに、のっぴきならないことが起こって、茱宝が奪われてしまったと思って、すこしは嘆きもするだろうか。わからない。どんな命令にも唯々諾々と従い、一切、不平をいわなかったとしたなら、そこにはやはりおばさんなりの信頼が茱宝のうえに落ちていたとしても不思議ではないのだ。
 おばさんは、俺とちがって、茱宝のことを三日とおかず、忘れてしまうかもしれない。あるいは忘れることなく、いつも思い出すかもしれない。俺は紅克という義兄(あに)を喪った。おばさんは茱宝という養い子を喪った。失踪の理由のわからないままに。紅克だって、彼なりに、俺の知らない事情を抱えていて、俺には一切何も告げないことがこの場合の正解だと感得して、自分の道に飛び込んでいったのかもしれない。むしろそのほうが嬉しい。だったなら、紅克はいまでもこの大地の上で、自分なりの生活を成り立たせているということになるのだから。誰に看取られることもなく、どこかの草葉の陰に骸をさらして、それすらも野犬や禽獣に食い散らかされて、骨すら残っていない可能性だってあるのだから。俺たちはいつなんどき、二人ともそんな運命に陥るか知れなかった。俺はこうして就くべき仕事を得て、いい衣を着て、馬にまで乗り、乙に澄ましていられる。俺の過去を知る者は少ない。
 かつての顔見知りはあるいは無残な最期をとげ、あるいは離散し、過去といまとの間に連絡を失ったものが多い。俺のように生計(たつき)を得られた者はすくない。
 決まった場所に決まった仕事を持つことが、生きていく上での安定の道と知った。しかし精神的に浮遊していた時期が長かっただけに、一所にとどまっているいまですら、自分のこころは揺れ動いて、あちこちへと気ままに馳せ、翔けることとなり、一所に安住していられない気持ちになってしまう。国と国とのあいだのことを取り持つにしても、これがなにかの間違いでうまく行かなかったならば、自分の居場所である自国ですら、亡失する可能性だってありえるのだ。
 国を失い、居場所を失い、そのあとになってさえ、自分は自分の人生を生きているといえるのか。たぶんいえてしまうのだろう。何もかもなくなってしまったとしても、依然、こうして物を考える自分だけはなくならない。この体が生命の脈動を止めるとき、物を考える自分も最期の肺の一呼吸と同じように、ぷつんとその生命のつらなりから断ち切られるものだろうか。都の辻でさかしらに語る道士のたぐいは、死後の生をさかんに宣(のたま)っている。死後には死後の理(ことわり)があって、生きているいまこのときよりも冷厳なる魂のありようを求められる、云々。
 なにを莫迦(ばか)なことをともいってもいられない事情が俺にはあった。俺を拾ってくれた恩師の言葉で、いまだに頭に残っている数少ないひとつが、死についての事柄だった。生きている自分がいま生きているんだということをちゃんと認められもしなかった時期に、死とは何かということを示した恩師の言葉は、それを耳にした瞬間から恐怖の暗示として俺の周囲を取り巻いた。
 ――死とは一方通行のものでしかなく、虚空に呑みこまれてその後、光も影もない永劫の無の中で、ひたすら逞しく思念の道を突き進むだけの存在になる。そこには同輩(ともがら)もなければ、親も、子もない。誰もいない空虚のなかで、ひたすら自分自身と向き合うだけの時間。時間すらないに等しい。出口というものがないのだから。どこまで行っても変化がないのだ。袋小路にはまり込んで抜け出せない不安を思え。いまのわたしはそれをずっと思念している。おそらくわたしは長くはない。こんな考えに憑りつかれる人間は、おおよそ長命ではいられないものだから。わたしから得るものがあると思うな。生かしては、やる。しかし生き抜くことは自分で覚えよ。早ければ早いほどいい。残された時間はわずかだろう。必死で生きるのだ。生き抜くのだぞ。
 そんな言葉を口にした恩師は、数日とおかず、寝床の中で冷たくなっていた。形ばかりの弔いを紅克と二人で行ったあと、二人だけの生活に入った。雨の降る夜などは、天井から雨漏りがした。それを茶碗に受けて、その音をささやかに楽しんだこともあった。冬の寒さに凍えそうになって、背中合わせに二人で同じ床に眠ったこともあった。俺たちは兄弟以上に兄弟らしかった。その紅克が――いまはどこでなにをしているのか。生きているのか、すでに死んでしまったのか。
 横を見れば、茱宝が寝息を立てている。疲れていたのかもしれない。よく知りもしない男の横で、なんと無邪気に眠っていられるものだ。寝顔を見るのは趣味の悪いことだと思い、すぐに目を背ける。目を閉じる。闇の中に自分だけがいるように感じられて、かつての恐怖の根源――虚空の中の死を思ううちに、眠りの中に引き込まれた。

 覚醒すると、まだ薄暗いにも拘(かか)わらず、四囲(しい)に小鳥の声が満ちていた。姿は見えども、声はさかんだった。新たな朝に出くわした喜びを唄うもののようだ。夜露が生じることもなく、そこまで冷え込むこともなく、野宿をするにもそう悪くない環境であった。起きてからしばらくは同行者のことをすっかり失念していた。それほど、少女の寝息は安らかだった。
 東の方がほの白く染まりつつある。山の端がもっとも明るく、天上はるかな高みに昇るほどに、徐々に明度をさげていく。かろうじて、いくつかの星が、その輝きを弱めつつも、地上にまで届かせていた。茱宝を起すかどうか迷った。もうすこし眠らせてやりたい気もする。俺は立ち上がり、眠っている間に強張ってしまった体のあちこちの筋を伸ばしながら、背伸びをする。肩のあたりに滞っていた血液が、ゆっくりと本来の流れのなかに戻って行く感覚があった。昨夜、手綱を木に結び付けた愛馬のほうに歩みを進める。
 馬には、駿英(しゅんえい)という名があった。俺は名を呼びながら、首元をさすってやる。気持ちよさそうに、こちらに体をすりよせてくる。俺が眠っている間に、そこらの草を食んでいたようだ。
「きょうはみっちり走ってもらうことになる。いつもよりも上は重いが、耐えられそうか。しばらくの我慢だ。がんばってくれ」
 わかるかわからないかは不明だが、馬の首をぽんぽんと叩いて励ます。
 駿英は蹄(ひづめ)をかつかつと地面に押し当て、軽快な音を立てる。
 背後に茱宝の身じろぐ気配があった。
「ああ――そうか、あたし……」ややあって、いった、「おはよう」
「起きたか。きょうは長く馬上にあることになるが、耐えてくれ。そうすれば、念願の都だ」
「だいじょうぶ」
 瑛珀は荷物のなかから携帯食を取り出し、手で割って片方を茱宝に与える。味付けした米の粉を固めて焼いたものだった。
「味はお粗末だが、腹持ちはする。ないよりはましだろう」
 食事を摂りおえると、あたりはすっかり朝の気配に包まれている。ある種類の鳥は、巣から飛び立って南方へと翔けていった。徐々に気温の高まっていくのが感得される。
 ちかくを流れる河水の音がさわやかに響く。昨夜は気にならなかったが、流量もそれなりにあるようだ。顔を洗いたかったが、近寄らない方がいいだろう。瑛珀はさるすべりの木から手綱を外して、茱宝を先にして自分も駿英に乗った。
「いくぞ」、瑛珀は手綱をあやつる。
 昨夜みたいに、夜の暗がりのなかで飛ばすような、不安と隣り合わせの感情にさいなまれることもなく、瑛珀は自信をもって先へ進んでいく。目覚めたばかりの陽光を背に受けながら、瑛珀は都までの距離を縮めていく。昨夜考えたことが脳裏をよぎる。紅克――恩師――俺はここにいる。ここに生きている。俺はまた貴方たちに会いたい。しかしそれはかなわないだろう。目頭が熱くなる。乾いた大気の中で、目の熱さは、そこに浮かぶ水気を即座に蒸発させてしまう。泣いているひまはない。
 なにを考えるのか、茱宝はなにもいわずに前を見ている。
 まだ彼女の落ち着き先を考えていなかった。自分を信頼してくれる茱宝をぞんざいに扱うわけにはいかない。明日にはすべてが落ち着いていることだろう。
 途中いくつかの村をかすめ、町を抜け、風景もさまざまに形を変えた。緑の木々の群生している森もあれば、ところどころ沼になっている湖沼地帯もあった。街道をいく分には進路は安定しているけれども、道を外れたり、もし仮に、往来によって踏み固められた、確固たる街道がなかったならば、先へ進むに困難をおぼえる地域もあったはずだ。時が過ぎるにしたがって、太陽はみるみる高度を上げていった。朝の早い時間は背に受けていた陽の光も、時間が経って左側面に回り込んでくる。空気が乾燥していることもあるし、瑛珀は茱宝を思って、声をかけた。
「つぎに見える街は、大酉(だいゆう)という。それなりに大きい街だが、すこし休もう。駿英も休ませたい」
 瑛珀は駿英の足が不安だった。ふだんこれほどの荷重をかれにかけることはなかった。唯一の足であるかれをいたわってやらなければ、なにか起こってからでは遅いのだ。人の馬ではあるが、任務に就くときにはいつも駿英と一緒だった。人の間に親密な相手はいなくとも、馬との間に――駿英との間に、瑛珀は自分なりの絆を感じることができた。
「たしかに喉が乾いたな」
「座っているだけでも疲れるだろう」
 茱宝は首をふった、「そうでもないよ。風景がどんどん変わってくから、見てるだけで楽しいし。馬に乗るのってはじめてだから、ちょっと怖かったけど、それも慣れてきた。この都行き、気に入ったよ」
 彼女が心から楽しんでいると知って、瑛珀はほっとする。
 さらに道を進めると、瑛珀のいうように、前方に街があらわれた。二万――いや、三万くらいは住んでいそうな規模の街だ。
「あんなに建物がひしめいてる。おもちゃみたい」
 茱宝は少女のように喜んだ。実際、彼女はまだ少女だったが。
 茱宝の反応を見て、瑛珀は首を振った。実際に前にしていても、ともすれば少女であるということを忘れそうになる。出会ったきっかけが命を狙われたことも影響しているのだろう。人と人として向かい合った経験があるからこそ、彼女がまだ子供であるということをつい忘れてしまうのだ。
 ここが街の入り口だという明確なはじまりはあるようでなかった。すこし先を行くと、街の内と外を仕切る外壁があったが、それよりも手前から、すでに住居が密集していた。外壁から外れた土地での生活に不安はないのだろうか。これも長年、他国に脅かされることのない我が国の、慢性化した平和の謳歌の仕方といえるのだろうか、と瑛珀は考える。いついかなるときにも危険に対する備えを、というのは都政・国政にあたる一部周辺だけの党是でしかないのだろうか。
 門を守る衛兵に印章を見せ、外壁をくぐる。
 向こうに見えるのは、店の並ぶ通りだった。街衢(がいく)を進む。通りに並ぶ中の適当な一軒を見出し、馬を降りる、茱宝を降ろし、手綱を小間使いに預けて店に入った。
 酒家に客は、そう多くない。二十ほどある卓のうち、埋っているのは六つ、七つといった程度である。
 瑛珀が席を決め、茱宝にも席をすすめる。客はすくないが、話し声はさかんだった。ひとつひとつの声が大きい。酔っているものが多いせいだろう。
「昼間から飲んでるのはどこも一緒ね」茱宝は口をすぼめた。
「おばさんいわく、ろくでもない、か」
「よくわかったね」少女はくすくす笑う。
 注文を取りに来た主人に向かって、いくつかの料理の名を口にする。あるものは用意できるし、あるものは作れないといわれて、別の名前を口にする。
 瑛珀が懐に余裕のある人物とみたためか、主人はしきりにこの辺りの銘酒をすすめてくる。瑛珀は取り合わない。
「気兼ねしてるなら、別に構わないよ」と茱宝が申し訳なさそうにいった。
「任務があるからな。酔眼で上役に報告するわけにもいくまい」
 本当は飲みたいのだという気持ちをあらわにしながら、茱宝に笑いかける。
 宛ての外れた顔をしながら主人はひっこむ。飯が来るまでのあいだ、茱宝の口は留まることがなかった。
 話を聞きながら、おそらくこの少女は生まれてこの方、ほとんど遠出をしたこともないのだろうと予想した。はじめて見る大きな街の感想を、感動交じりに口にしながら、こんなにたくさんの人が歩いている通りがあることを、これまで想像したことがなかったといって、ころころと笑った。昨夜の暗殺者の顔がうそのようだった。本当はこちらのほうが有り得(う)べき姿だったのだと、道を逸れていった彼女の不運を思った。こんな気分に陥るのも、自分自身が、過去に横道に逸れること甚だしかった、経験者であるせいだった。肴をつつきながら酒を飲んでいる周りの酔客たちが羨ましくなった。
「あたしたち、どういう二人だって思われてるかな。珀兄さんからは見えないけど、あたしの向かいの卓の人、さっきからちらちら、こっちを見てるよ。まさか命を狙われた一人と、命を狙った一人が、次の日にこの卓に一緒に掛けてるなんて思わないでしょうね」
「そりゃ、予想の斜め上だからな」ふん、と鼻を鳴らしながらも、瑛珀は悪い気がしなかった。
「あたし――家のこともある程度してたから、兄さんの身の回りの世話だって結構できると思う。兄さんさえ、もしよかったら――」
 茱宝が話す途中に、折よく――折あしく、注文した料理が運ばれてきた。
 豚肉と戻した干しシイタケと豆を炒めた皿と、川魚を香草と一緒に蒸した皿、そして米粉の麺料理の器の三品である。それぞれに甘味や辛味や塩味や酸味といった配合を変えた味付けがなされており、瑛珀は直感のたしかさを思って気分をよくした。おなかが空いていたのか、瑛珀に負けない速さで茱宝も食べ物をかきこんだ。
「ちょっと味が濃いけど、美味しい。こういうの初めてだから」
「店屋のものとしてはいい線だと思う。なかなかこういう店に当たるものでないからな」
「そうなの」
 いいながらも、茱宝は手の動きを停めない。食べる端から、つぎの物に伸びている。
「急いで食べなくても、無くならないから」と瑛珀がたしなめると、
 茱宝は「家では無くなってた」という、「そうね、もうあの家のことは忘れないと」
 溜息をひとつ落とすと、彼女の左目から涙が一粒だけこぼれた。
「泣けてくる。なんでかな」
 瑛珀も干しシイタケと脂身の多い豚肉を一緒に箸ではさんで口に運んだ。甜麺醤と唐辛子粉の味付けが際立っている。麺料理の汁をレンゲで一口、そしてもう一口、口に運ぶ。
 ときどき食べ物を口に運び、ときどき茱宝との話に時間を費やす。依然、彼女のことはわからないことは多いものの、話すほどに彼女の隠れている一部分がくっきりと見えてくる。
 茱宝もお腹いっぱいになったところで、卓に金子を多めにおいて、席を立つ。
 店を出るときに、奥から店主の威勢のいい声が聞えてくる。「またのお越しをお待ちしております」
 外で小間使いに預けていた馬の手綱を引っ張ってこさせる。飼い葉と飲み水を与えておきました、というので、これにも、はした金を渡す。小間使いは礼を口にする。
 元のように二人は馬上の人となる。こころなし、駿英にも、英気が戻ったようだった。それなりに休息をとることが出来たのは、人も馬も同じらしい。
 すでに太陽は南の空をすぎて、徐々に西へと向かう頃合いだった。正面から受ける日差しに、皮膚のやける感覚を味わう。
 さっきの店の料理、悪くなかったよ、と茱宝が口にするのへ、俺もいろいろな話が聞けてよかったと瑛珀がいう。しかし茱宝がいうのはそういうことではないのだと頭ではわかっている。もっと打てば響くような答えをしてやりたい気持ちにもなった。自分の不器用さがうらめしい、とかれは考える。
 思うほどには捗(はか)がいかなかった。二人の荷重を支えるのは、いかに駿英とはいえ、重荷であるのだろう。道に休憩時間を挟んで、ふたたび馬上の人となって、だましだまし先を進めていく。陽は暮れはじめ、乾いたカラスの鳴き声が街道沿いの野っぱらに寂しげに響く。夜の虫の声もしだいに聞こえるようになったころ、ようやく都が見えてくる。
「あそこね」と茱宝は希望に満ちた声を発する。
 その頃には瑛珀も、彼女をどうするかの判断が定まっていた。
 ところどころに灯される街の明かりが、どことなく幻想的な光景をかもしている。茱宝は自分のところで引き受けよう。そう決心して、都城の門に馬をすすめる瑛珀であった。

瑛珀(えいはく)

つづきはいつになるかわかりません。
余力のあるときにつづけていきます。
いまはほかに書きたいものがあるので、そちらに傾注したいのです。

読んでくださった方々、ありがとうございました。

瑛珀(えいはく)

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