似せ者
1 プロローグ
高校2年の梅雨明け時期、朝井成(あさい なる)は同級生である二夕見橙(ふたみ とう)と対面していた。なぜこの状況になったかは、横にいる日陽華早(にちよう かさ)のせいだった。
「で、なんでこの人とおしゃべりしないといけないのか聞いてもいいかしら」
誰もしゃべらない状況で、成と似たようなぼさぼさの髪に眼鏡を掛けた二夕見が、笑顔の日陽を責めるように聞いた。
「だって、二人とも友達いないでしょ。だから、いっそのこと友達になればいいと思って♪」
セミロングで前髪をヘアバンドで上げている日陽は、成たちを見て笑顔でそう言ってきた。大きなお世話もいいところだった。そもそも一人でいたいのに、なぜ放課後に女子と話さなければないのか理解できなかった。
「大きなお世話よ」
二夕見は、成の思っていたことを溜息交じりで口にした。
「せっかくの学校生活なんだから、社会性を身に付けるべきだと思うんだけど」
「それが三人で話すことなの?」
「手始めってやつだね」
「この先があるってこと?」
「そうだね。友達10人くらいはつくるべきだと思う」
「・・・」
日陽の得意げな顔に二夕見だけではなく、成も呆れてものが言えなかった。
「帰る」
「私も」
成の言葉に、二夕見も同調して席を立った。
「まあ、そうなるか」
それは予想していたようで、日陽が机に肘を乗せ頬を支えた。
「ねえ、二人ってさ。同級生になんって言われてるか知ってる?」
「興味ない」
これに真っ先に反応したのが、二夕見だった。
「っていうか、華早ってこの人と友達だったの?」
「ん?まあ、前の席替えで隣になってね。必然的にってやつかな」
「隣になったからって友達になるなんて、私には信じられないわ」
「まあ、橙は人見知りだもんね」
さっきから成の存在感が薄く、このまま帰ろうか悩んでいた。
「朝井との出会いは、あたしには衝撃的だったのよ」
そんな成に、日陽がこちらに視線を向けてきた。
「何がよ」
それにつられるように、二夕見が成の方を横目で見てきた。
「橙と全く同じ思考回路の持ち主だったの」
それを聞いた瞬間、二夕見が無表情のまま眉を少し上げた。
「これは気が合うと思ってね。紹介してみたの」
「同気相求という言葉を知っているかしら」
「え?何、それ?」
突然の二夕見の発言に、日陽が首を不思議そうに首を傾げた。
「気が合う者は、自然に集うという意味よ」
「そうなんだ」
「つまり、紹介の必要はないってことよ」
二夕見の言い方からすると、必然的に仲良くなると言いたいようだ。
「でも、遅かれ早かれそうなるってことは紹介してもいいじゃない?」
「・・・同族嫌悪という可能性もあるから、紹介するのは早計だと思うわ」
日陽の返しに、二夕見は別の角度から切り込んだ。
「そうかもね。でも、同族嫌悪は正直ないかなって思ってる」
「どうしてよ」
「橙のことはある程度わかってるからね。理屈系の人は嫌いじゃないでしょ」
「・・・」
この返しには、二夕見から返す言葉が出てこなかった。言葉巧みに誘導しようとしているようだが、彼女にはあまり効果がないみたいだ。
「あと、人知れず帰ろうとしないで欲しいな」
少しずつ教室の出入り口に移動していた成に、日陽が呆れながら二夕見越しに言ってきた。
「いや、もういいかなって思って」
このまま走って帰ることも考えたが、それは日陽から出ている何かの圧に押し負けてしまった。
「面倒事からは逃げようとするところ、ホント橙そっくり」
「・・・」
日陽の笑顔に耐えられないのか、二夕見がこちらに視線を向けてきた。無表情だったが、不満はなんとなく伝わってきた。
「で、どうかな。友達にならない?」
「パス」
成は、迷うことなくすぐさま拒否した。正直な話、女子と友達なんて悪目立ちする気は毛頭なかった。それにもし二夕見が成と同じ思考の持ち主だとするなら、友達なんてふわっとした関係を望むとも思えなかった。
「まあ、そう言うよね」
どうやら、それは想定内という感じで、溜息交じりでこちらを見た。
「しょうがない。少しお話ししようか」
日陽はそう言うと、成の椅子を引いて座るよう勧めてきた。
「逃げた方が良いわ」
それを見た二夕見が、こちらを向いて小声で助言してきた。
「・・・逃げたいのは山々なんだけど、席が隣だからその場凌ぎでしかない気がする」
「・・・それもそうね」
成の言葉に、二夕見は困った顔で日陽を見た。
「話がついたなら、席に座って欲しいんだけど」
成はわざとらしく溜息をつきながら、自分の席に座った。
「私は帰るわ」
「あ、帰ったら朝井に橙の話をいろいろするから」
それを聞いた瞬間、二夕見の足が止まった。
「脅す気?」
「別に脅す気はないけど、話してもいいんだったら帰ってもいいよ」
その言い草は完全に脅しだった。
二夕見は日陽を凝視しながら、成の正面の椅子に座った。
「全く、本当に嫌な性格ね」
「そう?」
二夕見の文句を軽くあしらいながら、日陽は髪を触った。
「じゃあ、放課後は三人でおしゃべりするってことでいいかな」
「「良くない」」
「息ぴったりね」
成たちの反応に、日陽がおかしそうに微笑んだ。
「あたしはね、思うの。個人には限界があるってね」
突然どうしたんだろう。
「気にしない方が良いわ」
成の表情を見た二夕見が、呆れ顔で首を振った。どうやら、何を思ったか察したようだ。
「だからこそ、個人でいる人に手を差し伸べることでその人が幸せになるんじゃないかと思っているの」
それはただのお節介焼きだろうと思ったが、口にすると凄く面倒な気がした。
「正解」
何も言っていないのに、二夕見が目を閉じてぼそっと呟いた。
「というわけで、これから一緒に雑談を楽しみましょう」
「言い分はわかったけど、その行為にはこっちの意思が反映されていない」
「ふふっ、ホント橙と同じ」
それを言われて正面の二夕見を見ると、すっと視線を外した。おそらくだが、成と同じ気持ちなのだろう。
「噂になるのが怖いの?それともお話しは嫌いかな」
「両方」
「他に何かある?不満は全部聞いてあげるから」
「聞くだけ?」
「あ、バレちゃった?」
白々しい日陽の言葉に、二夕見は溜息交じりに彼女の方を流し見た。
「喜々として乗り気なのは、日陽だけみたいだけど・・・参加しないデメリットを聞いておこうかな」
日陽に聞いても、曖昧で面倒な答えが返ってきそうなので、ここは二夕見を見つめて尋ねた。
「そうね。学校にいる間、四六時中付き纏われて一方的な話を聞かされるわ」
「それは嫌だな」
「同感」
「どうすればいいと思う?」
「今、この現状の私を見てそれを言われても・・こっちもぜひ知恵を貸して欲しいものだわ」
二夕見はそう言って、横にいる日陽に視線を向けた。
「殺すしかない・・かな」
「怖っ!」
成の短絡的な発言に、日陽が過剰な反応を示した。冗談だと思っているようだが、こっちは平穏を邪魔されそうになっているので、結構マジである。
「最終的に辿り着く答えね」
二夕見もそう思っているようで、真顔で共感した。考え方が似通っていると言っていたが、結構シンクロしているようだ。
「二人して猟奇的だな~。殺人なんて自ら不自由になるだけだよ」
その指摘はもっともで、障害を受け入れるか不自由になるかを迫られると、それは二夕見の今の現状になるのだろう。
「二人はどのくらいの付き合い?」
「半年かな」
そんなに付き合いが長いわけではないようだ。
ここからは押し問答になりそうなので、今日はここで一旦解散を申し出てみた。
「まあ、いいよ。明日からいろいろお話ししましょう」
思いのほか、日陽はあっさり身を引いてくれた。来週からどうするか考える必要が出てきた。
三人で学校を出て、しばらく成が黙って歩いていると、日陽は成の自宅とは反対方向に歩いていった。
「あれ、どうする?」
成は日陽の後姿を見送りながら、二夕見にそう聞いた。
「さあ」
期待はしていなかったが、予想通りの返答だった。何気に二夕見の横顔を見ようとしたが、長いボサボサの髪のせいであまり表情は見て取れなかった。
二夕見は、帰り道を一人で歩き出した。どうやら、一緒には帰る気はないらしい。まあ、こちらもそのつもりはないので特に不満はない。
どれくらい距離を取ろうか考えて歩いていると、二夕見が突然立ち止まりこちらを振り返った。
何か言いたそうだったが、少し間を置いて再び歩き出した。おそらくだが、ついて来られるのが嫌なのだろう。
この気持ちもわからなくもないので、少し遠回りになるが別の道から行くことにした。
自宅への帰り道は、複数のルートを見つけていて、別に二夕見と同じ道でなくても良かった。
道を外れ、これからのことを考えながら早足で歩いた。
すると、自宅である公営団地が見えてきた。団地ではあるが、今の時代に合わせて一人暮らしが中心となっている団地だ。
自分の部屋は三階で、両脇に階段があり、中央にエレベーターがあるのだが、エレベーターは嫌いなので、いつもの左の階段を上がった。
三階に着き部屋に向かおうとすると、成の隣の部屋に入ろうとする人が見えた。
「え」
成はその人物を見て、思わず普段より大きな声が出てしまった。
その声に反応するように、部屋に入ろうとしていたその人がこちらを見た。さっき別れた二夕見だった。
「は?」
二夕見から驚きの声が聞こえたが、表情は無表情だった。
このまま見合っていても仕方ないので、成は平静を保って二夕見の隣の部屋の鍵を開けた。その間、二夕見は動かずこちらを見ているだけだった。
「隣だったのね」
二夕見も隣の住人には関心がなかったようで、溜息交じりにそう言った。
ドアを開けると、驚いたことに二夕見が覗き込んできた。
かなり動揺したが、平静を保ちながら二夕見の方を見た。
「全く一緒ね」
成の1ルームの部屋を見た感想がそれだった。
「ちょっと見て」
そして、二夕見はドアを開けて、自分の部屋を見るよう手招きした。
促されるまま、部屋を見ると色は違えど机や椅子の配置が嫌というほど一緒だった。
「・・・ここまで似るってことは」
「たぶん、同じ人種ってことね」
二夕見の言葉は、かなりの説得力があった。
「・・・」
「・・・」
ここから何を話していいかわからず、しばらく黙ったまま見合ってしまった。
そして、二人は何も発さずお互いの部屋に入った。
ようやく一人になったところで、成はこれからどうすべきか考えた。それは二夕見も同じだろうと思った。
ちょうどいいことに明日から休みなので、日陽中心にこれからの対策を考えることにした。
二夕見と同じ思考なら、おそらくこれを機に成に押し付ける形を取ってくるだろう。そうなるのならこちらもそれなりの対策を取る必要があった。面倒だが、日陽に関わるよりはマシな状態に持っていく、これしかない気がした。
日陽に興味を持たれた理由が二夕見だと考えると、思考が同一であることだろう。
しかし、人の思考なんてそう簡単に変えることなんてできるわけもなく、変えたとしてもストレスが溜まるだけで只々最悪の手だった。
それを踏まえたうえで、休みの1日ずっと考えて過ごした。
次の日の朝、考えに考えて抜いた結論を実行することにした。
まずは髪を切ることにした。ここ数ヶ月放置していたので、髪が肩まで伸びていた。自分で髪を切ることは得意だったが、髪を切るとなぜか目立つので積極的には切りたくなかった。
1時間ほどかけて自分で髪を切ったが、中々悪くない出来に仕上がった。
次に薬局に行き、化粧水をネットで調べた物を選んで買った。
今度はその近くにあった家電ショップに行き、お手頃なドライヤーを購入した。
性格を変えるより、見た目を小綺麗にして、日陽を遠ざけてみることにしたが、思ったよりお金が掛かってしまった。
月曜日になり、買ったばかりをドライヤーを使用して、身なりを整えてから学校に登校した。
教室に入るとクラスメイトが成を見て、一瞬ざわついたが、これは想定内なので普段通り自分の席についた。というか、入学当時もこんな感じだった。
「・・・」
既に登校していた日陽は驚いた顔をして、言葉を失っていた。これは少し意外だったが、無視を決め込むことにした。
HRまで、周りのクラスメイトの視線が煩わしかった。
HRが終わると、一時限目の授業の準備を始めた。
「えっと、何があったか聞いてもいい?」
すると、今までずっとこちらを凝視していた日陽が今日初めて言葉を発した。
「別に」
理由は言ってもよかったが、別に言う必要性もなかった。
「そう・・・」
日陽はそう言って、それ以上言葉が続かなかった。これが日陽に効果的だったのはちょっと意外だったが、見た目を変えたことは正解だと感じた。
昼休みになり、クラスメイトの視線がいつになく鬱陶しかったので、今日はひと気のない場所で弁当を食べることにした。
廊下に出た瞬間、成の足が自然と止まった。
成の目の前に二夕見が歩いてきた。その姿は初めて会った時とは別人かと思うほど違っていた。彼女だとわかった理由は、日陽と一緒だったからだ。
「ね、びっくりでしょ」
横の日陽が、成のことを指して二夕見に対してそう言った。
「ホントは双子かなんかじゃないの?」
二夕見はボサボサだった髪をストレートにして、眼鏡の縁が花形に変わっていた、化粧もしているようで、肌が少し色白かった。まさかここまで考え方が一緒だとは予想外過ぎた。朝に日陽が絶句する理由がわけだ。
「ここはこっちに譲るべきじゃないのか」
二夕見と思考が同じなら、この言葉の意味がわかるだろうと思った。
「・・・」
ぐうの音も出ないのか、真顔でそっぽを向かれた。
「ん?何が?」
主語がない言葉が気になったようで、日陽が成たちを交互に見た。
「ここまで被るとは思わなかったから」
「それは・・まあ確かに」
同じ思考でこの状況ならどうしようもない気がした。
いまさら気づいたが、廊下での立ち話は目立っていて、周囲から好奇の目にさらされていた。
これ以上注目されるのは嫌なので、さっさとひと気のない場所で食事することを優先させた。
「ちょ、ちょっとどこ行くのよ」
突然の成の行動に、日陽の声が聞こえた。
「お昼、食べに行ったんでしょう」
「あ、なるほど」
さすがは同じ思考の持ち主で、日陽に対しての完璧な対応をしてくれた。
屋上は立ち入り禁止でそこに続く階段は、落ちこぼれの溜まり場になっているので、運動場方面に向かった。
校舎を出ると、爽やかな風が頬撫でた。今日はいい天気で外で食べるには絶好の日だった。
砂場になっている運動場の外縁は芝で囲っていて、その楕円上に等間隔でベンチが設置されていた。
そこで昼ご飯を食べる生徒は結構いて、ベンチはいつも満席になっていた。
それとは裏腹に、運動場の左側に体育館があり、その外壁にいくつかベンチが設置されていて、ここはほとんどの生徒が寄り付かない場所だった。
成はその一つのベンチに座り、自分で作ってきた弁当を食べ始めた。
運動場の方からの声が少しうるさかったが、それ以外は特に不満のない環境に、これからはここで昼食を取ろうと思った。今まで教室で食べていたのは移動するのが面倒だったからという一点だったが、こうも心休まるなら移動の面倒臭さも帳消しにできた。
そう思っていると、横のベンチに誰かが座った。その瞬間、やっぱりここで食べるのはやめようと考えをひるがえした。
さっさと弁当を食べて、一人で休めるところをもう一度探そうと思い、少しだけ食べるのを早めた。
「ここでお昼食べるなんて意外な人がいるもんだね」
一度も隣を見ていないのに、その隣の人が突然言葉を発した。この事象に対して、一瞬頭が混乱した。
隣に視線を向けるか、無視するかの選択肢が頭に浮かんだが、瞬時に無視することにした。
「ここって、結構変な噂があるからほとんどの人が避けるんだけどな」
成の決断をよそに、隣の人が一方的に話をしてきた。
「まあ、といっても友達がいるか恋人がいる奴らばかりだがな」
どうしよう、隣の人がやべー奴だ。と今風に思っても言葉にしたら、泥沼にはまる気がするので、ここは沈黙を決め込むことにした。
「なんでもこのベンチに座ると、友情や恋愛関係が壊れるらしいぜ。馬鹿馬鹿しいよな」
そんな馬鹿馬鹿しいことを一人でこのベンチに座っている成に教えるのは、もっと馬鹿馬鹿しいのではないだろうかと思ってしまった。
ここで何気に隣の人の足元に一瞬だけ目をやると、なんと女子生徒のスカートが目に入った。口調からして男子だと思っていたのだが、女子というのがちょっと驚きだった。が、顔を確認しようとは思わなかった。だって、やべーだもん。
「ここからは独り言になるんだが、そんなことで人間関係が破たんするなら、その程度の関係ってことだろ。ここを避ける意味なんてないよな」
独り言という前置きは、もっと前に言うべきだと感じた。なぜなら、こちらは一度も返事も相槌も打っていないからだ。
「おいおい、いい加減こっちを見てくれないか。こっちが一人でしゃべっているみたいだろ」
みたいではなく、その通りだろうと言い返したかったが、そうするとここまで無視した意味がないので、スルーすることにした。
「不愛想な奴だな。あ、ちなみにオレは3年の麹真麻(こうじ まあ)って言うんだ。よろしくな」
無視されている相手にまさか自己紹介してくるとは、マジでやべー奴だ。
「で、おまえは?」
「はぁー。先輩に名乗るなんて、おこがましいので名乗りません」
ここはわざと溜息をついてから、返事をすることにした。
「格好いいのに、口が悪いのかー。そりゃあ、一人になる訳だな」
格好いいの意味がよくわからなかったが、一人なのは個人の都合だった。この時初めて相手の顔を見た。髪は肩まであり、耳に小さなピアスをしていた。目は細目で前歯が少し出ていて、雰囲気的に何とも気さくな感じだった。かなり苦手なタイプだ。
「先輩も一人でしょう」
「アハハ、それはごもっともだ。なかなか上手い返しじゃないか」
もう弁当も食べたので、さっさと立ち去ることにした。
「おいおい、どこ行くんだよ」
「昼食も食べたし、教室に戻るんですよ」
視線は痛いが、この人と話すよりは数倍マシだった。
「もうちょい、話そうぜ。昼休みはまだあるんだし」
「話すことなんてありませんよ」
「男のくせにお高くとまっているな」
「そうなんですか?男のくせにというのはなんとも差別的ですね」
「ハハ、それもそうだな。なかなか面白い返しをするもんだ」
答えることも答えたので、さっさと逃げることにした。
「また話そうぜ」
後ろからそんな声が聞こえたが、自分から会いに行くことはないだろう。
教室に戻ろうとしたが、昼休みがまだ残っているので、明日からの昼食場所を探すことにした。
上級生と下級生の校舎内は入りにくいので、それ以外の場所を回ることにした。下級生の校舎の周りを歩いていると、そこで一人で弁当を食べている女子生徒がいた。
ひと気もないこともあり、その女子生徒が成の足音に気づいて顔を上げた。なんと、二夕見が一人で食事をしていた。
なんとも気まずい状況に、お互い真顔で固まってしまった。
「誰かに声掛けられた?」
無視することも考えたが、二夕見のことが気になって声を掛けてしまった。
「ええ、5人の人に」
「それはご愁傷様」
「そっちは?」
「変な上級生に絡まれた」
「そう、まだマシな方ね」
「そう・・でもないかも」
さっきのことを思い出すと、マシともいえない気がした。
「ねえ、この先の展望が見えないんだけど、どうしたらいいかな」
二夕見は箸を止めて、弁当から目を離さず弱音を吐いた。余程切羽詰まっているようで、声に重みがあった。
「彼氏つくるとか」
「却下」
「じゃあ、日陽の他に友達つくる」
「厳しい」
「最終手段としては髪型とか元に戻すかな」
「はぁー、そうなるよね」
選択肢の少なさに溜息をついてから、食事を再開した。
食事の邪魔になるので、成はこの場から去ることにした。
「じゃあ」
「うん」
一応礼儀として一声掛けると、短い返事が返ってきた。
いろいろ回って、人のいないところをある程度把握してから教室に戻った。
教室に入ると、クラスメイトの視線を感じた。かなり居心地の悪く感じたが、これはもう仕方がないと諦めた。
本鈴が鳴り、午後の授業が始まった。
数学の階差数列の説明を聞きながら、これからのことを考えた。
注目されることは仕方ないにしても、なんとか日陽を遠ざけなければ見た目を変えた意味がなかった。
放課後になったが、誰も成に声を掛けてくる者はいなかった。正直な話、声を掛けられる覚悟をしていたのだが、肩透かしをくらってしまった。やはり他力本願はダメだということにいまさらながらに気づいた。あと、視線に耐え切れず昼食を別の場所で取ってしまったことも仇となったかもしれない。
いろんな要素を考えながら帰り支度していると、日陽が帰らないでねと先にくぎを刺されてしまった。
ある程度生徒が教室からいなくなると、二夕見が入ってきた。この瞬間、二夕見を利用しようと思った。
「ちょっと、今日は朝井と一緒に帰っていいかしら」
すると、二夕見がそんなことを言い出した。
「え、何々どうして?」
予想外のことだったようで、日陽が興味津々に成と二夕見を交互に見た。
「今日から付き合うことにしたの」
どうやら、成と同じ考えのようだ。ここまで思考が被ると、もはや同一人物ではないかと思うほどだ。
「えー、それならそうと早く言ってよ」
「ごめん。なんか言い出しにくくて」
二夕見はそう言って、話を合わせるように成に目配せした。そんなアイコンタクトしなくても乗るに決まっている。
「こっちは二夕見から口止めされてたから仕方なく」
「そうなんだ。やっぱり相性良いんだね」
「そうね。紹介してくれてありがとう」
心にもないこと平然と言った二夕見の台詞は、驚きの大根役者っぷりだった。
「それならもうお話し合いは必要ないのかもね」
「そうね。これからは二人の時間を過ごしたいから放課後は放っておいて欲しいわ」
「まあ、しょうがないか。デートの邪魔はしたくないしね。いやー、まさか橙が誰かと付き合うなんて思わなかったからびっくりしちゃった」
「それは私も思わなかったわ」
二夕見はそう言って、無表情な顔を成に向けてきた。どういう感情かはわからなかったが、おそらく成と同じように安堵しているのだろう。
「じゃあ、そういうことで」
話を切り上げ、視線をこちらに向けて顎で一緒に来るよう促してきた。成は軽く頷いて、二夕見の後についていった。
二夕見の後ろを歩きながら、お礼を言うべきか、これからのことを相談するかを悩んでいる内に校門まで着いてしまった。
すると、二夕見が成の方を振り返った。
「悪かったわね。いろいろ邪魔した上に巻きこんじゃって」
「いや、謝る必要はないかな。実際、誰からも声を掛けられなかったから、こっちが巻き込むつもりだったし」
「あれ、そうなの?てっきり誰かに誘われたと思ったわ」
「それなら教室にいなかった」
「華早が追い返したかと」
「いいや」
「そう。私は二人の男女に声を掛けられたわ」
「そうなのか。で、なんで教室に来たんだ?」
「あの二人の誘いより、あなたの方が数万倍マシだと思ったから」
「変だったのか?」
「ええ、かなり関わりたくない感じの人たちだったわ」
「そうか」
「そういうわけで、今日から恋人になってくれるわよね」
「ああ、日陽から解放されるなら甘んじて受けよう」
「思考が一緒だと、深読みしなくていいから助かるわ。まあ、その分、気味が悪いけど」
「それはこっちも同じだな」
「お互い様ってことね」
「そうなるな」
そんな会話をしながら、公営団地まで歩いた。
二人で階段を上がり、自分の部屋の鍵を開けると、なぜかその後ろに二夕見が立っていた。
「何かあるのか?」
なんとなく考えはわかったが、あまり自宅に入られたくなので、一応確認の為に聞いてみた。
「ちょっとこれからのことを話したくてね。私の部屋に入れるのは、ちょっと抵抗があるからそっちの部屋で話そうと思って」
「そっちがそう考えているなら、こっちも抵抗があるんだが」
「そこは男として寛容になって欲しい」
「おいおい、ここで男女差別は卑怯じゃないか」
「そうね。でも、今後の為だから我慢して欲しい」
「いっそ、どこかの喫茶店とかファミレス行くか?」
「そんな所に行きたくないわ」
それは成も同感だった。
「さっさと入ってよ。ここでの立ち話は目立つわ」
この強引さは、日陽の影響が色濃く出ている気がした。
成は観念して、二夕見を家に招き入れた。この時、自分のテリトリーに誰かいるという現状は本当に落ち着かない感じだった。
「同じ間取りでも、かなり居心地が悪いわね」
「そうだろうな。俺も落ち着かないよ」
「でしょうね」
テーブルを挟むかたちで二夕見を座布団に座らせて、その正面の地べたに成が座った。地べたに座ったのは座布団が一つしかないからだ。
「で、これからどうするって、一緒に帰るだけじゃダメなのか」
「日陽以外ならそれでもいいかもしれないけど、色恋沙汰は華早の格好のネタなのよ」
「それは女に共通するんじゃないのか」
「そうかもね。私は違うけど」
「要するに、日陽に自分か二夕見に質問攻めしてくるかもしれないから、いろいろネタを仕込むってことか」
「そういうことになるわね」
「なら、思いつきで答えればいいと思う。考え方が似てるなら、話を合わせるのは簡単だろう」
「まあ、そうね。あと、昼休みと放課後は一緒にいましょう」
「まあ、そうだな」
これは仕方ないことだと思った。
「ありがとう。一緒にいるのは不愉快だと思うけど、我慢して欲しい」
これは同じ気持ちだからこその発言だと思った。
「わかった」
選択肢としてはそれしかないと感じて、最悪の気分で承諾した。
こうして出会って4日目の二夕見と、偽装恋愛をすることになったのだった。
2 恋人
二夕見が帰って、成は頭を抱えた。二夕見と付き合うなんて、偽装とはいえ恋愛経験のない自分にできるのか不安だった。
だが、成がこう思っているということは二夕見もそんな感じなのだろうと思い直すことにした。
この状況に初めて誰かに相談したいと思ったが、人間関係を煩わしく思っている成にとっては相談相手なんているはずがなかった。親も兄妹もいなくて、一人でまさに泥水をすすって生きてきた自分にとっては、他人に心を開くことはできなかった。
そう思うと、二夕見も同じ境遇なのだろうかと疑問が浮かんだ。まあ、本人に聞いてまで知りたいとは思わないが。
この現状から逃げ出したいと思ったが、それができない現実に溜息しか出すことができなかった。
八方塞がりのことに、成は一度思考をまっさらにする為にベッドに横になって目を閉じた。
しばらく考えをまとめようと思ったが、いつのまにか寝てしまった。
目が覚めると、部屋はもう真っ暗だった。枕の上の時計を見ると、午前2時を回っていた。これはかなり珍しいことだったが、別に学校に遅刻するわけでもないのでどうでもよかった。
とりあえずお腹が空いたので、適当に作ることにした。
夜食を食べ終わり、1時間ぐらいしてからシャワーを浴びた。
ひと段落したところで、宿題をすることにした。いつもは帰宅後すぐにやっていたが、今日は寝てしまったので、今からやることにした。
3時半頃に宿題が終わり、今度は勉強することにした。中学の国語の教科書を開き、読み書きを一つずつ覚えていった。一応、小学生程度の読み書きは高校1年の時に終わらせていた。
ある程度進めて、今度は中学の歴史を読み始めた。
四教科ほど読み進めた頃には、もう朝日が昇り始めていた。
とりあえず朝食を食べようと思い、今日二度目の料理を始めた。そのついでに弁当も作った。
いつもの登校時間になる前に、鳴るはずのないインターフォンの音が部屋に響いた。この音には本当に驚いた。
恐る恐る開けると、そこには制服姿の二夕見が立っていた。
「何?」
とりあえず用件を聞く為、簡易的な言葉を口にした。
「怪しまれないように一緒に登校した方がいいと思って」
「う~ん。日陽は結構早く登校するから別々でも問題ないと思うんだが」
これは日陽と一緒のクラスである成であるからこその意見だった。
「華早だけじゃなくて、他の生徒にも声を掛けられたくないから、一緒に登校して欲しいの」
「大丈夫じゃないのか。昨日はたいして声掛けられなかったし」
「こういう時は男は羨ましいわね。女は結構声かけられるのよ。昨日、話が終わって買い物に言った時、二回も知らない人から声を掛けられたわ」
「それは災難だったな。なんの用だったんだ?」
「さあ?回りくどく言っていたから、無視して帰ってきたわ」
「逆恨みされないか?」
「そうなったら、こっちで対処するわ」
それを聞く限り、諍いには自信があるようだ。やはり自分と同じ境遇なのかもしれないと、勝手に思った。
「というわけで、一緒に登校してください」
自分の立場をわきまえたのか、今度は低姿勢でお願いしてきた。二夕見の立場を考慮すると、自分でもそういう結論に行きつく気がした。
「しょうがないな」
正直、善意なんて曖昧なものが自分の中にはないものだと思っていたが、自分と同じ思考の持ち主を目の前にして、そういう気持ちが芽生えたことに驚いた。
少し早く二夕見と一緒に登校することになった。
「これから毎日一緒に登校するのか?」
黙って歩くことも考えたが、一応ここだけは聞いておきたかった。
「華早が興味なくなるまでは付き合って欲しいかも」
「飽きると思う?」
「・・・」
「まあ、お互いの為だと思うことにしよう」
「そうしてもらえると助かるわ。ありがとう」
成の妥協に、二夕見が感謝するように頭を軽く下げた。
「今日から華早との受け答えには注意してね」
話の変え方が雑だと思ったが、自分でもそうなる気がしたのでスルーした。
「ああ、そうだな。曖昧に返事しておこう」
「うん。こっちに関わることなら教えておいて。私もそうするから」
「わかった」
とりあえず簡単な確認事項は終わったが、ここからどうしようか悩んでしまった。
「ねえ、恋人同士って何するの?」
「奇遇だな。こっちもよくわからん」
「だよね。そもそも恋って何?」
「知らない。おそらくだが、その感情は生殖器を持っているかが重要になるじゃないか」
「前に華早から恋愛漫画を強引に渡されて読んだけど、ドキドキとかキュンキュンとかアバウトなこと書いてあったわ。それは生殖器の反応する音なのかしら」
「さあ?どうだろう。経験ないからわからん」
「でも、高校になっても恋愛してないなんて変だと言われたわ」
「それは人種が違うんだから仕方ないだろう」
「馴染むのも難しいわ」
「友達なんてつくりたくないしな」
「かなり嫌ね」
そんな話をしていると、学校が見えてきた。
「さっきから視線を感じない?」
「そうだな。好奇の目ってやつだろう」
ほとんどのすれ違う人が、こちらを見ながら通り過ぎていった。正直、居心地が悪いし今すぐ帰りたい気持ちになっていた。
「イメージチェンジする前と全然違う気がする」
「実際、違うんだろう」
「やっぱり前の髪型と眼鏡に戻した方が良いかもね」
「それがいいかもな。でも、この髪型は3ヶ月ぐらいは直らないんだよな」
「あ、それ、私も」
二夕見はそう言って、おもむろに毛先をいじった。これは老廃物の関係で、3ヶ月ほど掛けないと髪質を変えられなかった。要するに、体質の問題である。
「眼鏡だけでも変えるべきかもね」
「まあ、そこは好きにしたらいいと思う」
もうこの状況になったら、見た目なんて意味がなかった。
学校に着いて、二人で廊下を歩いていると、一人だと感じなかった変な視線が気になった。何か話した方が良いのだろうが、こうも視線を感じると警戒心が強くなって話すことが思いつかなかった。
二夕見と別れて教室に入った。
「いやー、羨ましいね~」
席に座るなり、日陽がイジってきた。
「そう思うなら、日陽も誰かと付き合えばいい」
「はー、前まで友達もいないかった朝井に言われるなんて正直むかつくね」
成の皮肉は日陽に効果覿面のようで、少し苛ついた表情になった。
授業が始まり、昼休みまでつつがなく進行していった。
昼休みになり、教室を出るため席を立つと、日陽がからかうように送り出された。
教室を出ると、成の正面に一人の男子生徒が立ちはだかった。クラスメイトではないようで、誰かに用があるのかと思い横にずれることにした。
「おい、待てよ」
ここで予想外のことに腕を掴めれ引き止められた。この瞬間、嫌悪感と恐怖が同時におそった。1年前なら確実に殴っていただろう。
「何?」
しかし、それは非常識に当たるので、寸前のところで踏みとどまった。
「おまえ、二夕見さんと付き合ってるって本当か?」
どこからそんな情報が洩れたのかは知らないが、そのことを聞くということは二夕見がそう答えたのだろうと思った。
「それが何か?」
ここは二夕見に話を合わせる為、不本意だが肯定しておくことにした。
「ちっ、本当だったか」
男子生徒は舌打ちして、成から手を離してくれた。
「いつから付き合ったんだ?」
「昨日」
「んだよ。おまえもイメチェンの二夕見さんに惹かれたのかよ」
何か勘違いしているようだが、まあ別にこちらにはどうでもいいことなので、二夕見のクラスに向かうことにした。
が、先に二夕見が成の所に来た。
「あ、今からお弁当を一緒に食べましょう」
二夕見は、正面にいる男子生徒を無視するようにそう言ってきた。
「ふ、二夕見さん。あ、あの、俺も一緒してもいいですか」
「え」
突然の男子生徒の申し出に、二夕見はフリーズした。
「えっと、ご、ごめんなさい。朝井と二人で食べたいの」
「そ、そうですか。わかりました」
男子生徒は、がっかりしたような顔をしたあとに寂しそうに二夕見を見つめた。
「じゃ、じゃあ、何かあったら声を掛けてください」
そして、そう言い残して廊下を歩いていった。
「誰?」
「昨日、声を掛けてきた人。確か1年だったかな。名前は忘れたけど」
どうやら、声を掛けてきたのは後輩のようだ。名前すら忘れられていて、少し可哀そうに思えた。っていうか、さっき後輩にタメ口使われていたのか。やっぱり、全然可哀そうじゃない。
「見た目変えただけで、こうも他人が話しかけてくるなんて、この国はどうなってるんだろう」
「国というより、この世界の人種が、みたいだけどな」
「ふう、面倒なことね」
二夕見はそう言って、昼食をどこで食べるかを成に聞いてきた。
昨日、いろいろ見て回ったので、成からいくつかの候補を二夕見に提示した。
「そういえば、体育館の横のベンチは人がいないんじゃないの?」
「あそこはダメだ」
二夕見にはあそこに誰もいないと思っているようだが、それは成が昨日面倒臭い経験をしていた。
「そう」
何かを察したようで、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあ、2年の校舎裏にしましょう」
そこは昨日確認した時は誰もいなく、人が行き来するような場所ではなかった。
そこまでの移動中、なぜか通りがかる男子生徒たちから敵意の視線を向けられて気分が悪くなった。
「はぁー、ようやく落ち着ける」
目的の場所に着くなり、二夕見が大きく溜息をついた。
成たちは、排水溝の段差に座った。
「二人だと目立つな」
成は、率直な思いを口にした。
「私は一人でもあんな感じだけど」
「そうなのか?」
「うん。まあ、今日みたいな敵意は向けられないけど」
そうなると、あれ?こっちが一方的に損してね?と思ったが、さすがに口には出せなかった。
弁当を食べ始めると、お互い無口になった。
「しゃべった方がいいか?」
個人的にはどっちでもよかったので、二夕見の意見を聞いてみることにした。
「どっちでもいいのだけど、朝井も同じ考えなんでしょう」
「そうだな。じゃあ、一応日陽のことを報告しておこう」
「あ、それはお願い」
成は、二夕見に関することを簡易的に伝えた。
「これからのこと考えると、恋人らしいことしておいた方がいいのかしら」
二夕見がこちらを見て、小首を傾げながら聞いてきた。
「う~ん、どうだろう。恋人の在り方なんて人それぞれとか言って、はぐらかしていけばいいんじゃないか」
「それは最終手段にしたいかも」
「でも、恋人って具体的に何すればいいかわからないんだが」
「それは私に任せて。恋愛漫画を読んでいるから、ある程度どうすればいいかわかっているわ」
そんなことを自信満々に言われても、正直不安しかなかった。
「一応聞いておきたいんだけど、積極的な接触とかするのか?」
「することもあるみたいだけど、私たちはやめましょう」
「そうしてもらえると助かる」
これは個人的には本当に助かることだった。
「というわけで、今度の休みにデートというものをしてみましょう」
「え、嫌だ」
休みの日まで誰かと一緒にいるなんて、嫌すぎて反射的に拒否した。
「・・・嫌なのはわかるけど、そこは我慢して付き合って」
「別に、デートを実際する必要ないんじゃないか?デートプランを考えて、お互い口裏を合わせればいいだろう」
「それは私も考えたわ。でも、シミュレートだけじゃあどうしても限界があるのよ」
考え方が似通っているが、ここだけは譲れないようで頑なな意思を示してきた。
「一度だけでいいから、デートを実践した方が良いと思うの」
「正気か?未踏の地に踏み込むことになるんだぞ」
「そうね。でも、1年も同じ生活つづけているのよ。いい加減、別の場所を見ておくのも一つの道よ」
「・・・わかった」
断りたい気持ちでいっぱいだったが、ここから動けないことより、別の場所を見ておくのもやぶさかではない気がした。
お互い弁当を食べ終わり、しばらく無言の時間を過ごした。
「もう戻る?」
「いえ、予鈴まで一緒にいましょう」
予想通りの答えだったが、隣に誰かいると落ち着かなかった。おそらくだが、二夕見も同じ気持ちだろう。
「何か話すべきか?」
これは同じ思考だからこその気遣いだった。
「そうね。じゃあ、デートプランでも決めていきましょうか」
「ああ、それはいいかもな」
全然気乗りはしないが、これはしておく必要があると思った。
「定番としては映画、カラオケ、買い物、遊園地、水族館、公園、美術館、博物館、図書館、海、プール、ゲームセンターとかかしら」
これだけの情報をどこで仕入れていたのかわからないが、定番のくせに多すぎだと思った。そもそも海とプールってなんだよ、水の中で何するんだよ。泳ぐ練習か?それはデートといえるのか?
「人が多いところは嫌かな」
「同感ね。それじゃあ、美術館、博物館、図書館なんてどうかしら」
「今の中なら妥当かな」
「あとは、カラオケかな」
「歌うのか?」
「ほとんど知らないわ」
「同じだな」
「歌を知らない私たちがカラオケ行っても、個室に二人いるだけね」
「だったら、カラオケは排除でいいだろう」
「わかった。じゃあ、美術館に博物館、図書館の場所を調べましょう」
「ああ、頼む」
「え、私に一人で調べるの?」
「二人で調べても効率が悪いだろう。一人で十分だと思うんだが、何か不満でもあるのか」
「なんかモヤモヤする」
具体的に言い表せないのか、抽象的な言葉にしてきた。モヤモヤする意味がわからなかったので、二夕見の立ち位置で考えてみた。
「えっと、二人で調べた方が良いのか?」
が、よくわからなかった。
「一人の方が手っ取り早いとは思うんだけど、なんとなく二人で調べましょう」
非効率なのは理解しているようだが、二人で調べることに重きを置いた。
「どうやって調べる?」
「スマホでいいでしょう」
「持ってない。家にある」
「奇遇ね。私もよ」
スマホを所持していなところをみると、スマホの使い道があまりないようだ。かく言う成も同じような感じだった。
「みんな、あれで何をしてるのかよくわからん」
「華早に聞いたことあるんだけど、他人の日記みたいのを見ているらしいわ。あと、呟きとか」
「そんなの見て何か意味があるのか?」
「知ってることで他人との会話で優位性を得られるとか言ってたわ」
「主導権を握るみたいな感じなのか・・それで何か良いことあるのか」
「さあ?優越感が得られるんじゃない?知らないけど」
「で、知らなかったら劣等感でも感じるってことなのか?面倒臭いな」
「そうね。でも、事実かどうかもわからないからこれ以上は何も言えないわ。私には、彼らと同じ気持ちになれないもの」
「確かに、お互い協和性が欠けているから難しいかもな」
すると、予鈴が校舎内から流れてきた。
「デートプランは、帰ってから決めましょう」
「え、家で決めるのか?」
「ええ、朝井の家で」
この言葉に、成は無言で二夕見を見た。
「嫌なのはわかるけど、この先の安泰の為に我慢してね」
「はぁー、わかった」
二人で調べると決めた時点で、心のどこかでそうなることは予想していたが、相手からそう告げられると溜息しか出なかった。
「じゃあ、行きましょうか」
「一つ聞いていいか」
二夕見が立ち上がったところで、一つ聞きたいことができた。
「ん?」
「なんでこんな所にきたんだ?」
「・・・どう答えるか悩む質問ね。逆に訊くけど朝井は答えられるの?」
「どうだろう。二夕見には答えてもいいけど、他言はして欲しくない感じだな」
「そう・・まあ、一言で言うならめぐり合わせかな」
時間もないことを気にしたのか、本当に簡潔にそう答えた。
「そうか。俺とは少し違うんだな」
「そうなの?」
「ああ、こっちは誘拐されて来たからな」
「・・・そう。それは不遇なことね」
いろいろ察したのか、少し間を置いてから歩き出した。成も二夕見の後に続いた。
「朝井はさ。ここに来たこと後悔してる?」
二夕見は歩きながら、こちらを見ずにそう聞いた。
「後悔?それはないな」
「じゃあ、誘拐されて良かったってこと?」
「それもない。強引に連れてこられたことには恨みすらある」
恨みと言ったが、本当は戦いで負けたことが悔しいが正しかった。
「あ、そうなんだ。その人たちとはもう会ってないの?」
「ああ、ここ1年は会ってない」
「そうなんだ」
この言葉以降、成たちから会話が消えてしまった。おそらくだが、成との会話で気になることができたのだろう。こっちも二夕見の立て続けの質問の意図が少し気になっていた。
二夕見と別れ、自分の教室に入り席についた。
「どうだった?恋人同士のひと時は?」
予想通り、座った途端日陽が嫌らしい笑みで迫ってきた。
うざいとは思ったが、仲が良くなったと適当なことを言っておいた。
放課後になり、二夕見と一緒に下校した。会話内容は日陽への対処だ。
「このまま遠くから見守ってくれると助かるんだけど」
二夕見はそう言いながら、成の方を見た。
「こっちは早く席替えして欲しいな」
「それはご愁傷様ね。頑張って」
他人事のように言ったことに申し訳ないと思ったのか、励ましの言葉を送られた。
「あ、そうそう。家にパソコンはあるの?」
「う~ん。使ってないから起動するかどうかわからない」
「私は持ってすらいないわ」
「パソコンで何するんだ?」
「デートプランを決めるのよ」
「スマホでいいだろう」
「二人じゃあ、見にくいでしょう」
「パソコンでも同じだろう」
「スマホよりマシでしょう」
ここにきて、なぜか二夕見が強引な提案ばかりしてきた。
「あのさ、少し落ち着いて考えてくれ」
この先の言葉は、思考が似ているはずなので省くことにした。
「・・・あ~、確かにこれはやめにしましょう」
パソコンを二人で見る光景を思い浮かべたようで、冷静さを取り戻してくれたようだ。似た思考でも男女では、こうも思考回路が変わるのかと驚いた。おそらくだが、女の方が感情的な思考が強いのだろう。
公営団地が見えてくると、二夕見が不意に後ろを振り返った。つられて成も振り返った。
「はー、つけられてるわね」
後ろには見知らぬ学生服の男子生徒がいて、急に振り返ったことに、挙動不審な動きをした後、諦めたのか顔だけを逸らした。
二夕見は煩わしそうな顔で、学生服の男性に近づいた。
「何か用?」
どうやら、二夕見の知り合いのようだ。
「えっと、別に・・・」
答えに困ったのか、彼は顔を逸らしたままそう言った。
「あなたの家はこの先なのかしら」
「え、いや・・違うかな」
そうだと言えばいいのに、律儀に違うと答えるあたり真面目な性格のようだ。
「じゃあ、この先に用があるってこと?それとも私たちを尾行してた?」
回りくどいことはもう必要ないと思ったのか、単刀直入にそう聞いた。
「えっと、つけてました」
ここまで正直に言うと、真面目を通り越して生真面目だった。
「じゃあ、用件を言って」
「えっと、付き合ってることが納得できなくて・・・」
男子生徒はそう言って、成の方を訝し気に見つめた。
「って言うか、私が誰と付き合おうとあなたには関係ないでしょう」
「そ、そんな。イメチェンする前から気にかけてたのに」
「話しかけてきたわけじゃないでしょう」
「た、確かに、それはそうだけど」
どうやら、イメージチェンジする前から二夕見のことを気にしていたようだ。
「まさか二夕見が面食いだとは思わなかった。がっかりだよ」
面食いの意味がよくわからなかったが、失望したということはわかった。
「なら、このまま帰って欲しいのだけど」
「二夕見さんは騙されてるんだよ。そんなよくわからない相手は危険だよ」
それを言うなら、他人なんて全員よくわからんだろうと思わずつっこみそうになった。おそらく、二夕見もそう思ったに違いない。
「よくわからないから付き合うんじゃないかしら」
おお、それは思いつかなかった。素晴らしい返しだ。
事実、相手は苦い顔で一歩後ずさった。思考が似てても、この切り替えしには舌を巻いた。
「もういいかしら」
何も言い返さない相手を冷たくあしらうように、二夕見は髪をかき上げた。
男子生徒は、悔しそうにきびすを返した。どうやら、自宅は反対方向のようだ。
「ふぅ~、漫画の台詞がここで役に立つなんてね」
男の後姿を見ながら、二夕見がそんなことを口にした。なるほど、あの返しは漫画からだったのかと感心した。
「帰りましょうか」
「あの人と付き合わなかった理由を聞いてもいいか?」
「さっきのやり取り見ればわかるんじゃないかしら」
「あれが嫌なのか」
「そういうこと」
感情的な人は成も苦手なので納得できる理由だと思った。
公営団地の三階まで階段をつかって上がった。
自宅に入ろうとすると、その横で二夕見が待っていた。
「一度帰らないのか?」
「鞄置くだけだから必要ない」
「スマホは?」
「あ、忘れてた」
二夕見はそう言って、自分の家の鍵を開けて中に入った。こんな短期間で忘れるなんて、ちょっと信じられなかったが、個人差があるので深くは考えないことにした。
そんなこと思っていると、すぐに二夕見が出てきた。どうやら、鞄を置いてスマホだけを持ってきたようだ。
鍵を開けて中に入ると、二夕見が後ろから入ってきた。
前と同じ位置に座り、お互いのスマホを取り出した。
「同じ型ね」
奇しくも同じ機種だったが、色が白と黒だった。ちなみに成が黒で二夕見が白だった。
「そうそう。恋人になったからこれからは下の名前で呼ぶことにしましょう」
「え、それ必要?」
「ええ、慣れておかないと急に下の名前で呼ぶのに違和感が出るでしょう」
「まあ、言いたいことは理解できるけど・・別に苗字で呼び合う恋人がいてもおかしくないんじゃないか」
「そういう短絡的な考えはダメなのよ。一度漫画読んでみて」
「いや、フィクション読んでも納得できる気がしない」
「む、私が漫画を読む前と同じことを言うのね」
どうやら、成の思考は当の昔に超えてきたようだ。おそらくだが、よほど女に影響のある漫画なのだろう。
「とにかく読む気はない。そんな余裕もないし」
帰っても勉強と宿題優先で、漫画を読む時間なんてつくれそうになかった。
「まあ、無理強いはしないけどさ」
「さっさと調べものして、お互い一人になろう」
「そうね」
成たちは、スマホでデートスポットを手分けして調べた。
博物館と図書館のある市はあったが、思いのほか遠くて断念した。
美術館は隣の市にあり、図書館も歩いていける場所にあったので、この場所にすることにした。
「じゃあ、そういうことで、日曜日の10時に行きましょう」
「わかった」
これでデートプランも決まったので、二夕見には帰ってもらうことにした。
ようやく一人になり、大きなため息が出た。
時間を見ると、5時を回っていた。いつもは買い物を終えている時間帯だったが、二夕見のせいでそれができなかった。
今から買い物に行ったら人が多くいるので、宿題をして時間をずらしていくことにした。
宿題を終えると、6時を回っていた。この時間は人も少なくなる頃なので、買い物に行くことにした。
家から出ると、隣の玄関も開いた。その音を聞いて、思わずそっと玄関を閉めた。
「なんで閉めるのよ」
が、二夕見にそれを見られていたようで、玄関越しに声を掛けられた。
「いや、反射的に」
成はそっと玄関を開け、二夕見に対してそう言い訳をした。
「買い物に行くのね」
すると、こちらの目的をずばり当ててきた。
「まあ」
「私と一緒ね」
このやり取りに意味がない気がしてならなかったが、二夕見の意図がつかめずに生返事で応対した。
「先に買い物を済ませていいわ。私は20分後に行くから」
二夕見はそう言って、自分の部屋に戻っていった。何か気を使わせてしまった気がして、勝手に申し訳ない気持ちになった。が、スーパーでかち合う可能性を考えると、個人的には有難かった。
成は自宅を出て、速足で買い出しに出かけた。
日にちごとに買うものは決まっていたが、今日は5日分の食べ物で十分だった。いつもは1週間分なのだが、この日は2日分の食糧が残してしまった為だ。
スーパーで手早く買い物を済ませたが、買う物が多くて思いのほか時間が掛かってしまった。
両手にレジ袋を持って、帰路についていると、途中で二夕見と遭遇した。
お互いに軽く頭を下げて、そのまますれ違った。
自宅に戻り、夕飯を食べてからいつもの日課の勉強を始めた。これを寝る前まで続けた。
10時を回り、軽くシャワーを浴びて床に就いた。
今日はいろいろあって疲れていた為、1分もしないうちに意識が薄れていった。
3 雪辱
少し朝日がちらついき始める頃、成は目を覚ました。
いつも通りの時間を過ごていたが、登校時間より少し早い時間にインターフォンが鳴った。今日も二夕見橙が来たようだ。といっても、隣に住んでいるので来たというより寄ったが正しいだろう。
渋々ではあったが、橙と一緒に登校することにした。今日の橙は、イメージチェンジ前の眼鏡を掛けていて、髪の手入れは成と奇しくも一緒で少し雑にしてあった。こういう行動は、本当に双子のように酷似していた。
「昨日、帰って考えたんだけど」
公営団地を出ると、橙が話を切り出してきた。
「デートは月一にしようかと思ってる」
「どういうこと?」
「一回のデートの出来事を分割して、話すことにするってことよ」
「二ヶ所しか行かないのに、1ヶ月ももつのか?」
「う~ん。それを言われると自信がなくなるわね」
「とりあえず、デートしてみてから考えるべきだと思うんだが」
「でも週一でデートしたくないでしょう」
「別に、毎週デートする必要はないだろう」
「でも、そうしないと怪しまれると思うんだけど」
「気負い過ぎだ。そこまで気にする必要はない」
似た思考でも、橙には不安感が強いようだった。
「そもそもバレても、害があるのは一人だけだろう」
「その実害こそ、私たちは極力避けたいことじゃない」
「だからといって、本当の恋人を装うのはこっちにも限界がある」
「だから、できるだけ恋人に見えるようにするんじゃない」
「手でもつなぐのか?」
「それは無理」
「だろうな」
予想通りの答えに溜息しかでなかった。
「この一線を越えないで、できる限りのことをしましょう」
「もう好きにしたらいい」
これ以上の問答は無意味だと悟り、橙の思い通りにさせてみることにした。
学校に着き、橙と別れて教室に入った。
「おはよう」
すると、先に来ていた日陽が席に座るなり挨拶してきた。
「ああ、おはよう」
成は、一応礼儀として挨拶を返した。
「今日も一緒に登校なんて見せつけてくれるわね」
朝一から、日陽が嫌な絡み方をしてきた。
「ところで、日陽は兄弟とかいるのか?」
成は話を逸らす為、別の話をしてみることにした。
「え、どうしたの?突然」
急な質問に、日陽が動揺しながら聞き返してきた。
「なんとなく聞きたくなった」
「そう・・橙は聞いたこともなかったから、聞かれると思わなかったわ」
「そうだろうな」
橙がわざわざ聞くとも思えないし、成自身も別に知りたいとも思っていなかった。
「いるよ。妹が一人」
「そうか。大変だな」
「ん?なんで大変ってわかるの?」
「他人だから」
「・・・」
成の返しに、党が訝しげな顔で沈黙した。どうやら、一般的じゃないことを言ったようだ。
すると、タイミング良くHRのチャイムが鳴り、担任が入ってきた。
授業中、橙のことを考えながらノートに書き写していった。半年前までは意味がないと授業を聞くだけだったが、教師に注意されてからは周りを真似るかたちで書写していた。
午前の授業が終わり、橙と一緒に昨日の場所へ向かった。
「華早に何か聞かれた?」
その道中、橙が何気にそう聞いてきた。
「いや、特に」
今日は移動教室が多かった為、会話自体そんなになかった。
「そう」
それを聞いて安心したのか、それ以上は何も言わなかった。
「話題がないわね」
昨日の場所に座ると、橙がそう切り出してきた。
「別に必要ないだろう」
「本で読んだけど、会話がないと恋人には見えないらしいわ」
「意識しすぎだ。ただ傍にいるだけの恋人もいるだろう」
そういった見識はしてこともないが、適当にそう言ってみた。
「私もそう思ってたんだけど、会話のない恋人は倦怠期と呼ばれているらしいわ」
「じゃあ、倦怠期でいいんじゃないか」
倦怠期の意味はわからないが、それを許容すれば問題ない気がした。
「いや、倦怠期っていうのは仲良かった恋人が長年付き合わないとそうならないみたいなの」
「ふ~ん。長年ってどれくらいのことを言ってるんだ?」
「本には十数年ぐらいって書いてあった」
「は?十数年も一人の人と付き合うなんて狂気だな」
「それは同感」
このことは橙も同じ気持ちのようで、力強く頷いた。
「っていうか。さっきからなんの本を参考にしてるんだ?漫画じゃないのか」
「昨日、あれから女性誌を買ってみてね。それを読んでみたのよ」
「凄い行動力だな」
「そしたら、もう気持ち悪い事ばっかり書いてあって、読み進めるたびに身震いしたわ」
表情を見る限り、よほどのことが書かれていたようだ。
「この国は狂ってるわ。いや、この世界かもしれない」
「いったい何を読んだんだよ」
「女性誌というホラー雑誌」
橙はそう言って、両腕をクロスさせて身震いした。
「ま、まあ、人の在り方は各世界違う訳だし、あまり思い詰めるなよ」
「そうね。気にしてたら、この世界には住めないわよね」
「ああ、その通りだ」
「同じ価値観を持つ人がいるとこんなにも心強いものなのね」
「愚痴を言えるだけで、不安は若干和らぐもんだろう」
「そうね。今まで自分に言い聞かせていたけど、成と一緒だと愚痴を共有できるのは良い事かも」
「でも、こうやって人と繋がることは、この世界に毒されていることも自覚するべきだぞ」
「確かにそうね。でも、ここで生活している以上、他人と共有してないとやってられないのかもしれないわね」
「できるだけ、人と関わらないようにしても他人が寄ってくるからな」
「そういうこと」
橙も思い浮かべた人物は成と一緒だろう。
「ただでさえ、狭い教室で息苦しいのに、友達なんてつくってたら身が持たないわ」
「じゃあ、なんでここにいるんだよ」
「わかってるくせに意地悪な質問ね」
「死にたくないからか」
「当たり前でしょう。成はなんでこんなとこにいるのよ。男なら身体能力的にも死ぬことなんてないでしょう」
「あの世界に男も女も関係ないな。本気で言ってるなら、もうこの世界に毒されてるぞ」
「・・・ごめんなさい。今のは撤回するわ」
ノリで言ったみたいで、少し間を置いて謝ってきた。
「ところで、成はどうしてここに留まってるの?」
「誘拐されたとはいえ、あっちの世界よりマシだから」
「まあ、そうよね。私も同じようなものよ」
橙はそう言って、顔を下に向けた。あまり思い出したくない記憶なのだろう。
昼休みが終わり、橙と一緒に教室に戻った。
午後の授業を受け、放課後になった。
「ねぇ、今日ぐらい一緒に話さない?」
橙が教室に入ってくると、日陽が突然そんなことを言い出した。
「理由を聞いてもいいかしら」
これには橙が、面倒臭そうに尋ねた。
「え~、友達と話したいからじゃあ、ダメなの?」
「出来れば、恋人との時間を優先させて欲しい」
「これからも毎日一緒にいるんだから、たまにはいいでしょうって話」
日陽は、少し拗ねたような顔でそう言った。
「どうする?」
何か面倒な空気になってのを察して、成の方に話を流してきた。
「帰る」
ここは考えるまでもなく、その一択だった。
「だそうよ。残念だけど帰るわ」
「って、息ぴったりか!」
あまりに一糸乱れるスムーズな応対に、日陽が声を張ってつっこみを入れてきた。
「一つ聞きたいのだけど、華早は私たちと話して楽しいの?」
今まで聞いたことがなかったのか、橙が無表情のまま聞いた。
「変なこと聞くね」
日陽の返答に、成は危険なんじゃないかと不安になった。
「楽しいかどうかなんてどうでもいいじゃん。話すことに意味があるんだよ」
が、ただの杞憂だった。
「その答えは私には理解できないわ」
「感覚で言ってるからね。理解できないのも仕方ないかも」
「あ、っそ・・・」
橙は声を静めて、呆れている成の方を見た。
「というわけで、二人の時間をたまにはこっちにも回して欲しいと頼んでるわけよ」
「と言われてもね。私たちはしばらくはそれを控えて欲しいと言ってるのだけれども」
「平行線ね。じゃあ、こうしましょう」
日陽は肩をすくめて、少しもったいぶった言い方をして続けた。
「二週間に一回、事後報告することも含めて、放課後は三人でお話をしましょう」
これが妥協策とでも言わんばかりに、一方的にそう言い出してきた。
「・・・」
これに困惑しているのは成だけではなく、橙も同じようでこっちを見ながらどうするかの視線を送ってきた。
成は首を横に振って、断るように促した。
「あ、もし断ったら、朝井に休み時間毎日執拗に質問攻めするから」
成たちの拒否を察した日陽が、ここぞとばかりに最悪なことを言ってきた。
「それでいいわ」
「ちょっと待て」
橙の軽はずみな承諾に、成は慌てて割って入った。
「これは二人の時間を邪魔されないために許容するべきよ」
橙は、淡々とこちらを説得し始めた。
「ふざけるな。おまえ一人が面倒事を回避したいだけだろう」
「ちょっと待って、面倒ってどういうことよ!」
面倒なことに、日陽が会話を遮るように話に入ってきた。
「二人とも落ち着いて」
成たちのとは違い、まるで橙が平静だというように低いトーンで場を制そうとした。もとはと言えば、橙のせいでこうなっているのに、なんとも理不尽な対応だった。
「わかったわ。不本意だけど華早の提案を呑むわ」
不本意の部分はいらない気がしたが、成の負担が減るのならなんでも良かった。
「あ、そ。じゃあ、今日はお話しをしましょう」
少し腑に落ちない表情を見せながらも、日陽が勝手にそう決めてきた。
「はあ、しょうがいなかな。成もそれでいい?」
「ああ、まあ、いいんじゃないか」
全然良くないが、難色を示すと状況が悪化する恐れがあるので受け入れることにした。
「もう名前で呼んでるんだ。橙にしてはやるねぇ~」
日陽が嫌らしい笑みを浮かべながら、感心するようにそう言った。
「そうかしら。恋人なんだし普通じゃない?」
「普通は名前を呼び合うのに、半月ぐらいは掛かるんだけど、まあ橙と朝井だとなんか不自然でもないかも」
それを聞いて、苗字で良かったじゃんと橙に視線で文句を言った。
これに橙が、成から視線を逸らす行動を取った。
成たちは、一つの席を囲うように座った。ちなみに、日陽と橙が向かい合い、その横に成が座った。
「で、で。どんな感じ。似た者同士が付き合うって」
「特に何もないわ」
「え?恋人なんだから、ドキドキとかするでしょう」
「しないわね」
橙は本音を隠すことなく、淡々とそう答えた。この対応には若干不安になった。
「じゃあ、なんで付き合ってるのよ」
「似た者同士だからじゃないの?」
「えっと、朝井もそんな感じなのかな」
少し気まずくなったのか、話をこちらに向けてきた。
「ああ。そんな感じ」
橙と同じなのは間違いないが、少し和らいだ表現にした。この言葉には、言った本人が勝手にびっくりした。
「そ、そうなんだ。っと、その様子じゃあ、ただ一緒に登下校してるだけかな」
「まあ、そうね。一人から二人になっただけね」
橙は、無感情のままありのままを伝えた。これならデートなんてしなくてもいいのではないか、と思えるほどの対応だった。
「一応、今度の日曜日にはデートをしてみるつもりよ」
「え、そうなの!どこ行くの?」
デートという言葉が出た瞬間、日陽のテンションがMAXになった。よほど、デートという単語が好きなようだ。
「美術館と図書館かしら」
「う、うん。まあ、無難なチョイスね」
少し予想とは違っていたのか、テンションが一段階下がった。
「そっか。橙もついにあたしの手の届かないところまで行くのね」
日陽はそう言って、黄昏たような表情を見せた。デート如きで手が届かないとか意味がわからないし、そもそも手が届いたらなんなのかも意味がわからなかった。
「華早は社交的だし、すぐにでも彼氏ぐらいできるでしょう」
「だから、前にも言ったでしょう。彼女いるって」
「一途過ぎよ。いい加減、別の相手を探すべきよ。それとも、棚ぼたを狙ってるのかしら」
「む、嫌な言い方するね」
「そう?棚ぼたが悪いなんて私は思ってないけど、華早はそう思ってるのね」
「揚げ足取らないでよ。彼より良い人がいないだけだから」
「なんで比べるの?人は個々に違うのよ」
「わ、わかってるけど・・・」
「男の優劣付けるなんて、華早はよほどプライドが高いのね」
「え、なんでプライドの話になるのよ」
「だって、華早は彼氏にしたい相手は今のところ彼だけなんでしょう」
「まあ、そうだけど」
「自尊心が強くないと、彼女がいる彼氏なんて諦めるでしょう」
「え?」
「だって、自分以外を選んでる時点で華早はもうフラれてるのよ。それでも好きって言えるのがプライドが高い証拠」
「・・・」
何も言い返せないのか、日陽が苦い顔で橙を見つめた。
「彼以外受け入れられないなら、今の華早には彼氏なんて無理ね」
「そんなわかり切ったこと言う必要ないわよ」
なんだろう、この空気感と思いつつ帰りたいと強く思う成だった。
「朝井はどう思う?」
ここで日陽が話を振ってきた。この話には入りたくないと感じていたので、答えに窮してしまった。
「あれ?聞いてなかった」
成の沈黙に、日陽が少し険しい顔でそう言ってきた。
「いや、聞いてたけど正直どうでもいいと思ってる」
「うわぁ、他人事だよ。ちょっとは新味になってもいいと思うんだけど」
「そうだな。じゃあ、もう好きな人はいないことにしたらいいじゃないかな」
面倒だったが、自分の意見を言ってみることにした。
「え、どういうこと?」
「だって、告白する気もないし、言うだけ無駄だろう」
「辛辣なこと言うね」
「それに好きな人に彼女がいるってことは、今幸せなはずなんだから、日陽の想いは心に仕舞っておくべきだと思う」
「うっ、確かに」
「好きな人が幸せなら、正直華早の出番はないよね」
ここで橙が、とどめともいえる一言を容赦なく放った。
「それ酷くない!」
これに日陽が、悲痛な声で叫んだ。
「結論、華早に好きな人はいない」
そんな日陽を無視するように、橙が勝手に締めに入った。まあ、成としてもそうしてくれるのは有難かった。(興味がなさ過ぎて)
「酷い!私の想いを二人が勝手に封印した!」
気持ちを封殺されたことに、日陽が悲痛な叫びをあげた。正直、そこまで過剰反応されて、成としては困惑するばかりだ。
「この話は、もう広がらないし、他の話をしましょう」
面倒だと感じたのか、橙が率先して話を切り替えた。
「散々傷つけておいて、急に仕切らないでよ」
「傷付ける意図はなかったわ。勝手に傷付いているのなら、私のせいではない」
「いや、橙のせいだよ!」
橙の責任回避の言葉に、日陽が反射的につっこみを入れた。
「まあまあ、これ以上は不毛だからもうやめよう」
こんな馬鹿馬鹿しいやり取りは見たくないので、成が仲裁に入った。
「そうね。橙は思い込んだら梃子でも動かないからね」
「思い込みじゃなくて事実を言ってるだけなんだけど」
「もうやめろ。言い返すな」
この挑発行為で、また言い争いが勃発するのは本当にやめて欲しかった。
「わかったわよ」
成の意思を理解したようで、橙が諦めたように口をつぐんだ。
「じゃあ、話を変えましょう」
「なんか納得できないけど、あたしもそっちが良いと思う」
二人の意見も一致したので、この不毛な話が終わることに胸を撫でおろした。
「で、なんの話をしようか」
ここで最初にそう切り出したのは橙だった。
「そうね。橙たちのこと聞こうと思ったけど、なんか興味深い進展とかなさそうだし、ここは今流行っているアプリの話でもしようか」
「ごめん。その話題には私は乗れそうにないわ」
「橙に同じ」
スマホを自宅に置いてある成たちにとっては、この話題はついていけない気がした。
「もしかしてスマホ持ってないの?」
日陽は呆れた顔で、成と橙を交互に見た。
「家にあるわ」
「橙に同じ」
成たちの答えに、日陽が手で頭を押さえた。
「一つ聞くけど、スマホって主に何に使ってるの?」
「緊急連絡手段かしら」
「緊急って・・他には?」
「それ以外に使ったことはないわね」
「平成かっ!」
橙の淡々とした答えに、日陽が声を貼ってつっこんだ。どうやら、今どきのスマホの使い方ではないようだ。
「えっと、朝井も同じなのかな?」
「そうだな」
「あっそ・・・」
日陽が溜息をつきながら、ポケットからスマホを取り出した。
「二人はゲームとか興味ないのかな」
「あんな物はやらされてるだけでしょう。残念だけど、ゲームをやってる時間はないわね」
「そうだな。ゲームするぐらいなら寝る方が有意義だな」
わざわざ時間を潰す為だけの物なんて、贅沢過ぎると思うと同時に無駄だと感じていた。
「あっ、そう・・なんか二人とも一般的じゃないのはわかっていたけど、流行りすらも興味ないなんてね。ずば抜けてるわ」
この国の人は、誰かに合わせるのことが美徳とでも思っているのだろうか、と不思議に思うぐらい協調性を重んじている気がした。
「流行りなんて一般的の代表でしょう、私たちが興味持つわけないわ」
「まあ、言われてみればそうかもね」
「話題にするなら、今日の授業のこととかどう?」
この提案は、成にとっては素晴らしい提案だと思った。
「授業でやったことをなんで放課後に復習しなきゃいけないのよ。面白くないよ」
しかし、日陽が嫌な顔でそれを拒否してきた。
「じゃあ、なんの話が面白いと思うのよ」
「そりゃあ、恋愛話よ」
「それ、私はつまらないわ」
「じゃあ、ファンデとか服とかは?」
「ごめん。着飾って何かあるの?」
「着飾るって、今どき言わなくない?せめてオシャレって言いなさいよ」
「え、何か違いあるの?」
「あるよ。昭和か!って言われるよ」
別に、言われるぐらいいいだろうと成は勝手にそう思った。
「前から思ってたけど、私たちって共通の話題がなくない?」
「それはいまさらね。いいじゃない、共通の話題がなくても。橙と話すのは新鮮で面白いわ」
「あっそ」
今まで言うのを躊躇っていた台詞だったのか、橙が肩透かしを食らったような雰囲気を出した。
「朝井は、何か話したいことある?」
ここまで空気に近い成に、日陽が話を振ってきた。
「特にない」
「つまんない答えだね。もっと面白くなるような答えをしてよ」
「無茶振りもいいところだな。できるわけないだろう」
「橙と似てて、そんなお茶目な部分ないもんね~」
わかってるくせに、そんな振りをするなんて性格の悪い日陽だった。
「話題も決まらないみたいだし、帰ってもいいか?」
「あはは~、今のズレたコメントは結構面白いわ。ダメに決まってるでしょう」
ダメ元で言ったが、やはり帰してもらえないようだ。
「っていうか。なんで二人はそこまで人付き合いを避けるの?」
「「一人が良い」」
日陽の疑問には、成と橙の意見が一致した答えがハモって出た。
「恋人二人が同じ意見なんて、とても信じられないわ。本当に付き合ってるのかしら」
しまった、ノリで答えてしまったのが裏目に出た。そう思ったのは成だけではないようで、橙もやってしまったという感じでこちらを見てきた。
「まあ、そんな二人だからこそ付き合ってるのか」
そんな成たちをよそに、日陽が一人で納得するように呟いた。どうやら、都合よく解釈してくれているようだ。
「と、とりあえず、話題を決めましょう」
橙は少し焦りながら、話を強引に戻した。
「なら、他人の愚痴でも言うか」
ここは日陽が好きそうな話題を提案してみることにした。
「それ、性格悪いよ」
ここ最近、日陽自身が他人への愚痴を言っているのに、なぜか成を非難してきた。
「いや、日陽が教師の文句を言ってただろう」
「あれは、無理難題を平然と言ったからだよ」
「だから、他人への愚痴を言おうって提案したんだが」
「直接言葉にしたらダメだよ。流れでそっちにもっていかないと」
「え、同じじゃないのか」
「同じじゃないよ。言葉にすると、悪意が前面に出ていて愚痴りにくくなる」
「そういうものなのか」
「そういうものよ」
全く納得はできないが、日陽の堂々とした態度を見ていると、間違いはないのだろう。
そんな全く前に進まない話をしていると、下校のチャイムが鳴った。
見ると、もう6時を回っていた。あれから、1時間半近く話していたことになる。三人で話すことで、時間の流れが早く感じられた。
「いやー、楽しかったね。やっぱり、二人とのお話は斬新な受け答えで面白いね」
これが面白いと思えることが日陽の凄いところだと、成は思った。おそらくだが、橙もそんな風に思っているだろう。
「じゃあ、もう帰るわ」
ようやく解放される喜びからか、橙の声に少し張りがあった。
成たちは、校門まで並んで歩くかたちで下校した。
校門前で日陽と別れると、橙が疲れた雰囲気を出しながらこちらを見た。
「これからあんな不毛なことすると思うと、登校拒否したくなるわね」
橙は、成に対して遠慮のない言葉を吐露してきた。
「毎日だとそうなるな」
成も同じ気持ちなので、大きく頷いて同意した。
「ねえ、これから華早を引き離す方法を模索しましょう」
「それは半年間で出来なかったことじゃないのか」
「だからこそ、成と一緒に考えるのよ」
「同じ思考の持ち主と模索しても結果は見えてる気がするんだが」
「そんなこと言わないでよ。気が重くなるでしょう」
橙はそう言うと、大きく息を吐いた。
「まあ、何か思いついたら相談しよう」
「そうしてくれると嬉しいわ」
自分の家の方に並んで歩いていると、正面から通行人が歩いてきた。夕日のせいで影のようなシルエットで顔が見えなかった。
「珍しい組み合わせね」
そして、その通行人と思われる人が、成たちの正面で立ち止まってそう言った。
成は驚いて、正面の相手から2mほど跳躍して距離を取った。それは橙も同じようで、成の横に着地した。
「もうこの世界に染まっちゃったね。ここまで無防備だなんて」
夕日のせいで顔が見えなかったが、少し横に移動すると、誰だかすぐにわかった。成を誘拐した一人の前宮かなえ(まえみやかなえ)だった。
「1年間放っておいて、いまさら何しに来たんだ」
成は警戒しながら、正面のスーツ姿の前宮に話を切り出した。
「様子に見にきたに決まってるでしょう」
「様子?あなたが?」
前宮の発言に、橙が表情を変えずにそう聞いた。
「まさかあなた達二人が一緒に居るなんて、かなり意外かな。どうやって知り合ったのか是非聞きたいわ」
「言う必要はないわ」
「あらら、かなり嫌われてるわね」
「あなたが好かれる行為を率先してやってるとは思えないけど」
「あははっ、確かに人の好意なんて興味はないわね」
前宮はそう言って、笑いながら成の方を見た。敵意を向けていた成は、殺意を込めて一歩前に踏み出した。
「やめて。こんなところで騒ぎを起こしたら、警察が動くわ」
「関係ないな」
橙の忠告は、成にとっては無意味な制止だった。
その直後、成は前宮に襲い掛かった。
一回の跳躍で相手に近づき、撫でるように首筋を切り裂こうとした。
が、その攻撃は軽く後ろに下がる形でかわされ、右手が空を切ったかと思うと同時に腹部に前宮の右足がめり込んだ。
「動きが鈍くなってるわね。体重操作忘れちゃったの?」
成がお腹を押さえて後ろに下がると、前宮の呆れたような声が聞こえた。前宮の体重が軽かったおかげで、あまりダメージを負わなかった。
「ふふっ、平和ボケって素晴らしいね。あんなに野性的だったあなたが、こんなにも能力が落ちているなんて」
「うるさい。おまえにそんなこと言われたくない」
成は、1年前の攻撃的な言葉が自然と出た。
「人として生きるのはどうかしら。是非感想を聞いてみたいわ」
「答える必要はない」
「まあ、1年も犯罪行為もせず、ここに居るということが答えなってるんだけどね」
別に前宮と話をする気はなかったので、体重操作をしてすぐさま行動に移った。
「やめてって。もう十分でしょう」
が、正面に橙が立ち塞がった。
「邪魔するな」
「ここで注目されるのは愚策でしかないわ」
「関係ない」
「困ったわね」
橙はそう言って、後ろの前宮をチラリと見た。
「いいんじゃない?少し暴れさせましょう」
「冗談を言わないで。この場所は私たちの通学路。ここで目立つことは私には不利益でしかないわ」
「じゃあ、場所を変えましょう。それなら問題ないでしょう」
前宮は、成を挑発するようにそんなことを言った。相変わらず、癇に障る女だ。
「成。お願い、やめて」
成の正面にいた橙が、困った様子で再び制してきた。
「殺したら、もう取り返しはつかないわ。この1年を無駄にしないで」
「わかったよ」
別に成にとってはどうでもよかったが、建前というのを初めてつかうことにした。
「ここまで人らしくなったのは凄いわね。最初はどうなることかと思ったけど、強引に連れてきて正解だったわ」
「あ?」
その言葉が癇に障り、再び敵意から殺意が込み上げてきた。
「前宮、やめて。あなたの言葉は一つ一つが引き金になる」
「いいじゃない、どうせこれから戦うんだから」
「今、ここでそれをされたら困るって言ってるでしょう」
「はいはい、まるで保護者だね」
「うるさい。私まで敵に回したいの?」
橙も前宮の言動に怒りが湧いたようで、言葉を強めてそう言った。
「さすがに二人相手だと、一方的に殺されちゃうね」
冗談なのか本気なのかはわからなかったが、一方的というのは完全に嘘だとわかった。
「ところで、ひと気のない所ってどこかにあるの?」
前宮はそう言って、橙の方を横目で見た。
「近くに公園があるからそこで済ませてください」
「ひと気があるんじゃない?」
「見えなければいいでしょう」
「は?」
「だから、人が捉えきれない速度で戦えばいいでしょう」
「それ、無茶振りじゃない?」
「大丈夫。公園には樹木もあるし、その上で戦えば」
「音で気づかれるでしょう」
「文句ばっかりね」
「いや、それは無茶振りばっかりだから、つっこみを入れてるだけよ」
「なら、もうここでいいじゃないかな」
橙が足を止めた場所は、車がほとんどない駐車場だった。
「さっさと済ませてください」
「いい加減だね、相変わらず」
そう言いながらも、ここで戦うことを決めたようで、駐車場に入っていった。
その後ろから成は襲い掛かった。すぐ終わらせるのなら、この絶好の機を逃す手はなかった。
が、前宮はそれを察したようで、すぐに振り向き戦闘態勢を取った。
そうなってしまうと、不意打ちは空振りになるので、すぐさま攻撃を中止した。
「お、警戒心が前より強くなってるね。いい感じだ」
成の行動に、前宮が嫌味ったらしく褒めた。
「でも、あの時に戦って勝てなかったのに、今勝てる自信があるの?」
「はっ、あの時は三対一だ」
「そうだったかな。わたし一人だった気がするけど」
確かにあの時は前宮一人に負けたが、後ろに二人がいた状態では、成にとっては三対一も同然だった。
「まあ、いいや。勝つ可能性があるのなら相手になるよ」
そう言うと、前宮が動き出した。これはこの一年間何度もシミュレーションしていたことで、どう攻撃するかも予測できた。
前宮との攻防を十手ほどすると、彼女の動きが少し変わってきた。
そこからは予測は意味をなさなくなったが、それでもなんとか対応できた。
「なるほど」
前宮がそう呟くと、一旦距離を取った。必死の対応だったので、距離を取ってくれたことは有難かった。
「組み手は良くなってるね」
「ふぅー、世事なんてどうでもいい」
前宮の疲れを見せない態度に、成は勝手に苛ついた。
「戦い方を変えようか」
そんな成をよそに、前宮は楽しそうに腰を落とした。とても戦いに適した構えには見えなかった。
前宮が正面から向かってきたので、牽制するかたちで左の拳を放った。
が、前宮がさらに身を屈めてかわして、成の両足を抱え込んできた。この予想外過ぎる行動には驚き動揺した。
しかし、両足を掴まれては成にはどうしようなく、そのまま地面に倒れた。
なんとかこの状態から逃れようとしたが、その前に前宮が滑らかな動きで成の横に移動してきて、手を肩に回して固めてきた。
「キショ!」
あまりの気色の悪さ略語で叫んでしまった。
「失礼な人ね」
これに前宮が、呆れ顔でそう言った。
「負けを認めますから、放してください」
何度か脱出を試みようとしたが、ピクリともしないし、前宮の体重で押しつぶされそうだった。
もう形勢がどうとか、体裁がどうとかいう前にこの状況が気持ち悪すぎて敬語で自然と頼んでいた。
「何言ってるの?これからじゃない♪」
しかし、成の意思とは反して、前宮が楽しそうに無邪気な笑顔で口元を釣り上げた。
そこからはもう地獄と言ってもいい仕打ちだった。
足と腕の関節を取られ、同時に固められると激痛が走った。
「~~~~~~っ!」
成は、声にならない悲鳴を上げた。声がでなかったのは、呼吸がうまくできなかったからだ。
「どうよ。オリジナルのかなえスペシャルの味は」
なんかよくわからないことをどや顔で言われても、痛みでそれどころではなかった。
「降参したんだから、もういいでしょう」
すると、それを見かねた橙が仲裁に入ってくれた。
「え、ここからは固め技の実体験の時間でしょう」
「そんなこと誰も望まないでしょう」
「そうなんだよね~。だからこうして戦いを挑んできた相手には、体験してもらってるのよ。前に戦った時は、お姉・・じゃなくて、師匠に強く止められたからやめといたけど」
「なら、わかるでしょう。私たちが接触を嫌ってることぐらい」
「まあ、わかるけど。あれは迷信だってわかってるはずでしょう」
「これは遺伝子レベルでの埋め込まれた拒絶反応なので、一朝一夕には拭いきれないわ」
「だったら、ここで慣れていきなさい」
「強引な手法でなければ、そうしていきたいのだけど・・・あなたのやり方は個人的に嫌ね」
橙はそう言いながら、可哀想なものを見る目でこちらを見た。そんな悠長なしゃべりを聞きながら、関節を決められている痛みが薄れてきて、意識が遠くなってきた。
「もう限界みたい」
それに橙も気づいたようで、前宮にそう言ってくれた。
「ああ、この固め技は呼吸がしにくいから、そろそろ失神するわね」
そんな恐ろしいことを口にして、前宮はゆっくりと固め技を解いてくれた。
「げほげほっ、げほげほっ」
ようやくまともな呼吸ができたことで、咳が何度も出た。
「もう気が済んだでしょう」
そんな成に、橙がしゃがみ込んで諭すようにそう言った。
「あいつ、気色悪い」
「知ってるわ。だから、最初に止めたでしょう」
そのことを知っていたようで、横にいる前宮を見上げてから立ち上がった。成も立ち上がり、橙の後ろに隠れるように移動した。
「本人前にして失礼ね」
「事実だから仕方ないでしょう。言われたくないなら、その気味の悪い組技は止めることね」
「あははっ、それは無理。だってわたしの趣味だから」
「なら、私たちの暴言も許容して」
橙は、理路整然と前宮に言い返した。
「まあ、いいわ。言われ慣れてるし」
言われ慣れてるって、いったいどれほどの犠牲者を出したのだろうか。
「それにしても、二人ともなんで前の格好に戻してるの?聞いてた話だとダサい格好をしてるって聞いてたのに」
いまさらながら、前宮が首を傾げて聞いてきた。
「いろいろあったので」
特に言う必要もないと判断したようで、橙が素っ気なくそう答えた。
「ふうん。まさかと思うけど、二人して何か企んでる?」
「企む?」
「例えば、自分の世界の人間と徒党を組んでこの世界を支配するとか」
「徒党?それって笑うところ?」
確かに、徒党を組むなんて馬鹿げた話だと思った。
「そう思うなら、ひと笑いでもして和ませないさいよ・・・はぁ~」
馬鹿にされたことを察したのか、当てつけのように皮肉のような悪態と溜息をついた。
「まあ、いいわ。こっちは少し様子見しにきただけだし。何かあったら遠慮なく言ってね。転校でも転職でも好きなの選ばせてあげるから」
「ええ、何かあればこちらから連絡するので。わざわざ来なくていいわよ」
「相変っわらず冷たい返しね、全く」
橙の返しに、前宮は嫌な顔で語彙を強めた。
「用件はそれだけよ。あと、何か犯罪に手を染めたら・・わかってるわね」
「わかってる」
橙は、少しトーンを落としてそう言った。
それは成も痛いほどわかっていた。躾けと称した虐待のトラウマが蘇ってきて、全身に悪寒が走った。
「じゃあ、また様子見に来るから。私じゃないかもしれないけど」
前宮はそう言って、軽く手を振ってこの場を歩いて去っていった。
その後ろ姿を成は目で追った。悔しさは残っていたが、もう戦意は喪失していた。
「はぁー、なんとか戦いを見られずに済んだけど、これからも会う度に戦いを挑むの?」
橙は、面倒臭そうな声で頭を掻いた。
「あいつがあんな戦い方するのなら、もう戦いたくない」
「そっ、思い直してくれて嬉しいわ」
そう言うと、橙は通学路の方に歩き出した。それに成もついていった。
こうして成は雪辱を果たすことなく、トラウマになるような気色の悪い体験をしただけに終わったのだった。
4 思案
家に帰ると、なぜか橙も普通に入ってきた。
「なんか用?」
成はそう言って、橙の方を振り向いた。正直、前宮に負けたこともあり一人になりたかった。
「前宮かなえと戦わないでくれるのは良いけど、あとの二人にも戦いを仕掛けないで欲しいの」
どうやら、前宮の妹とあいつのことを言っているようだ。
「ああ、わかってる」
もともと負けた前宮をターゲットにしていただけで、あとの二人とは戦おうなんて思っていなかった。
「良かった。できるだけ、あの人とは敵対したくないからね」
橙は、わざわざあの人と表現したのは名を口にするのも嫌だったからに違いないだろう。実際、成自身も名を口にしたくはない。
「これに懲りたら、むやみに戦いを仕掛けるのはやめてね」
「ああ。肝に銘じておく」
「じゃあ、もうこの話は終わりましょう」
成の言葉で満足したようで、安心したようにそう言った。
「今日は帰るわ」
「え、それだけ?」
「え、そうだけど」
「だったら、玄関前で良くないか?」
「・・・それもそうね」
わざわざ部屋に上がる必要もないことにいまさらながらに気づいたようで、間を置いてからそう言った。
「これからは注意するわ」
「ああ、そうしてくれ」
成は、橙を玄関まで見送ることにした。
橙が玄関の扉を開ける前に、何を思ったかこちらに振り返った。
「私と一緒じゃなくても、誰かと戦うことはやめてね」
「わかったって」
その念の押し方は、成のことを好戦的だと認識されてしまったようだ。まあ、間違っていない。
一人になり、今後の振る舞いを考え直す必要があった。別に自分の世界に積極的に帰りたいわけじゃないが、ここに残るのというのもあまり現実的ではないことは自分自身がよく知っていた。そう考えると、少なくとも一人で戦える力は必要だと思った。
強くなるためにはどうすればいいのかを勉強しながら考えたが、特に何も思いつかずに就寝時間になってしまった。
布団の中で修行の方法を巡らせていたが、徐々に思考が鈍り意識が遠くなっていった。
気がつくと、いつもの時間に目が覚めた。
登校時間になると、橙が当たり前のように迎えに来た。
橙と一緒に歩きながら、強くなる為にはどうしたら良いかとダメ元で聞いてみた。
「強くなってどうするの?前宮かなえにでも勝つつもりなの」
「いや、もうあれはもうどうでもいい。あの三人には関わらない前提で強くなりたい」
「なら、私と組み手でもしてみる?」
「いいのか」
「ええ。私も少しは強くなりたいから」
控えめではあったが、今のままではダメだと感じているようだ。
「じゃあ、デートの代わりに鍛錬しよう」
「それは却下」
個人的にはかなりの良案だと思ったが、橙はにべもなく首を横に振った。
「理由を聞いてもいいか?」
同じ思考だと感じているのだが、これには首を傾げるしかなかった。
「理由は二つ。一つは華早への言い訳。もう一つは私がデートというものを経験してみたいから」
「・・・えっ?」
一つ目はわかったが、二つ目の理由は成には理解できなかった。
「だから、デートは実行するから。そこは諦めて」
「わ、わかった」
初めて見せた橙の目力に、成は怯んで疑問の言葉を呑んだ。
「組み手は、次の休みにでもしましょう」
「あ、ああ」
橙の矢継ぎ早な発言に、成は戸惑いながら返事をした。
学校に着き、橙と別れて教室に入った。
「おはよう」
席につくなり、日陽が挨拶してきた。今日は皮肉な表情はしていなくて、少しダルそうにしていた。
「ああ、おはよう」
が、特に興味もないので、軽く流すように挨拶を返した。
「昨日、帰って考えたんだけど」
「何を?」
いつもは無視するように聞くのだが、嫌な予感がして、思わず聞き返してしまった。
「お、興味ある感じ?」
成の食いつきに、日陽が少し嬉しそうに身を乗り出してきた。
「いや、別に」
しまったと思い、平静を保ちつつ無感情で返した。
「話題作りの為に、ゲームとかしてみない?」
「面倒だから嫌」
「まあ、そう返すよね」
それは予想できたようで、特に食い下がることもせず正面を見て頭を掻いた。
「じゃあさ、もう一人友達つくろうか」
「はぁ?」
何を考えているのか理解できず、一瞬頭が真っ白になった。
「やっぱり思うんだ。いろんな人と話すことで人は成長するってね」
日陽は、なぜかしたり顔で講釈を垂れてきた。おそらくだが、成たちをコミュ障か何かだと勘違いしているようだ。(他人から見れば間違ってはいない)
「だから、あたしが友達を紹介してあげる」
成の意見など聞く気がないようで、一方的に日陽がそう言った。
「ちょっと待ってほしい」
このままでは最悪な事態となるので、少し語彙を強めて制止した。
「大丈夫、安心して。まともな人を紹介するから。あ、でも、初対面で拒絶とか非難はダメだよ。そんなことされると、誰も友達になってくれないから。橙にもそれは言っといて」
「いや、だからちょっと待ってくれ」
こちらの言葉を無視してくる日陽に、成は焦りながらストップをかけた。
「友達はいらない。だから、紹介しなくていい」
橙の意見もどうせ同じなので、この場で拒否しておいた。
「不寛容だね~。社会に出るなら寛容性は必要だよ~」
「じゃあ、出なければいい」
「社会に出る前にニート宣言?ある意味凄いね」
日陽が呆れたところで、始業のチャイムが鳴った。なんとか助かったと思ったのだが、この話を橙にはしたくなかった。
午前の授業が始まり、少し気怠さを感じながら授業を受けた。
友達。この世界では大したことがないかもしれないが、成にはその関係性は何より恐怖と嫌悪の対象でしかなかった。
1年前までは、こんな近くに人がいることだけで気が狂いそうだったが、今では慣れてきていた。これは自分でも不思議で、慣れという人間の特性は凄いと今では実感している。
午前の授業が終わったが、あれ以降日陽は友達づくりの話を切り出してこなかった。
昼休みは橙と一緒に2年の校舎裏に移動しようと校舎を出ると、一人の女子生徒と鉢合わせた。
「やー、やー。久しぶりだな」
成を見るなり、気さくに声を掛けてきた。一瞬誰だかわからなかったが、前に体育館のベンチで座っていた時に話しかけてきた麹真麻だ。
「どうも」
「ありゃ?後ろの人は君の連れかい?」
成が軽く挨拶すると、麹先輩が橙の方を覗き込むようにそう言った。
「じゃあ」
特に答える必要もないので、冷たくあしらうように麹先輩の横をすり抜けた。
「おいおい。先輩相手にその対応は失礼じゃないか」
「対応してるだけマシだと思って、許してください」
「アハハッ、言葉がなんか歪だぞ」
先輩は笑いながら、成にそう指摘してきた。
「まあ、かしこまられるよりは幾分マシか。それよりもうあのベンチにはもう来ないのか」
「行く理由がありません」
「それは彼女がいるからか?」
麹先輩は後ろの橙を見て、意地悪そうな顔を前面に出して言った。
「それは関係ありませんね」
噂話には興味はなかったが、それで友達や恋人と縁が切れるのなら、日陽との縁を切る為にあのベンチに行くことも考えただろう。
しかし、目の前の先輩を見て、この人と関わるのなら差し引きゼロだとも思った。現状、日陽は離れないし、麹先輩と関わっているので、あのベンチは不条理に人と繋がってしまう呪いがかかっているように思えた。
「行きましょう」
麹先輩の視線に耐え兼ねたのか、橙がそう言って彼女の横をすり抜けた。
「そうだな」
この流れに乗るために橙の後を追った。
「あ、ちょっと、もう、つれないな~」
後ろからそんな言葉が聞こえたが、無視して橙の後ろについた。
「面倒な先輩と知り合ったものね」
「一回絡まれただけだけどな」
不可抗力なことに対して、責められるいわれはなかった。
校舎の裏に着いて、二人でシンクロするように座った。
ここから食事が終わるまで、成たちは話すこともなく黙々と作業のようにお箸を動かした。
「って言うか、華早の情報は?」
沈黙に耐え切れなくなったのか、橙が痺れを切らすように切り出してきた。
「あんまり言いたくないし、記憶からも消し去りたい」
「・・・何言われたのよ」
聞こうかどうか悩んだようだが、嫌々な感じで聞いてきた。
「友達をもう一人つくろう」
「・・・」
成の言葉に、橙が心底嫌な雰囲気を漂わせてきた。
そして、正面を向いたまま遠い目をした。おそらくだが、日陽のことをこれ以上聞くかどうか悩んでいるのだろう。
そこから沈黙が続き、ただただ静かな時間が過ぎ去っていった。
「あまり気乗りしないのだけど、友達を紹介されないための対処を考えましょう」
しばらくして、橙が沈黙を破るようにそう言ってきた。
「ああ、そうだな」
これには成も賛成だった。
「できるだけ、友達を紹介されないように華早の興味を引く話題を考えるべきかしら」
「それだとゲームになるんだが・・・」
昨日と今日の日陽の発言を考えると、その答えにしか行きつかなかった。
「それは・・面倒だわ」
やりたくないという言葉を呑んで、溜息と共に肩を落とした。成もそれには同感で、自然と橙と同じような仕草をした。
すると、ここで予鈴が学校中に響いた。
成たちは校舎に入り、各自のクラスに戻った。
席に座るなり、日陽が積極的に言葉を発してきた。
「さっき、あなた達と友達になってくれそうな人に声を掛けたんだけど断られちゃってね。寛容な人だと思っただけに残念だわ」
この話をさせない為にいろいろ画策しようと思っていた矢先に、そんな話をされると只々頭が痛くなった。
「前も橙が言ってただろう。友達紹介は必要ないって」
「朝井も橙もつれなさすぎるのよ。全くこっちが心配になるわよ」
「余計なお世話だろう」
「まあね。でも、見てると世話を焼きたくなってしまうのよね~。本当に不思議な人たちね。まあ、まだ一人だけだし、いろんな人に声掛けてみるわ」
「いや、やめて欲しい」
「まあ、そう言わずやらないよりやってみた方がいいって」
そんな積極的な行動をする日陽に畏怖を覚えた。それと同時に、橙が拒絶を諦めた意味もわかった気がした。
午後の授業が始まり、成は転校することを考えていた。が、それは同時に前宮という怨敵に頭を下げる行為に他ならなかった。
八方塞がりな気がして、午後の授業はほとんど聞き流してしまった。こうなっては寝る前に復習する必要性が出てきた。
放課後になり、日陽に絡まれることなく、橙と二人で下校となった。
安堵したが、橙と二人というのも別に居心地がいいわけではなかった。
「どうだった?」
そうこれだ。さっきの話を橙にするのが本当に嫌だった。
しかし、そういう訳にもいかず、言われたことをそのまま橙に伝えた。
すると、橙は頭を押さえて大きな溜息ついた。
「相変わらず、先手を打ってくるのね。本当に頭が痛いわ」
「どうする?」
「転校でもしてみる」
同じ思考だけに、橙がその結論を口にした。
「それは考えたけど、あの三人に頼むのことは極力したくない」
「要するに、私に頭を下げろという訳ね」
足りない言葉を深読みしてくれたようで、橙が率先してそう言ってくれた。
「ああ」
「わかった。今度会った時に頼んでみるわ」
これは素直に有り難かった。
「それはそうと、成はこれから卒業するまでこの世界に居るの?」
「さあ、どうだろう。逃げてもこの世界じゃあ、暮らしていきたくないしな」
「そうね。平和だけど、私の望む世界じゃないことは確かだわ」
「同感だ」
「これじゃあ、生殺しだね」
「だな」
これは常日頃思っていることで、これを共感できる人は今までいなかった。
橙と親近感を感じるのだが、それはあくまで共感できる思考ということだけであって、常に一緒に居たいということではなかった。
家に着き、橙はじゃあとだけ言って、隣の部屋へ入っていった。どうやら、今日は話し合いはしないらしい。それなら最初に言って欲しかったのだが、突然の開放感は悪くないと感じた。
今日は、先に宿題を済ませることにした。
いつもよりハイペースで終わらせて時計を見ると、まだ夕日も沈まない時間だった。
気をよくした成は、今日集中できなかった授業を復習することにした。
布団につく頃には、清々しい気持ちで寝ることができた。今までの平穏を思い出し、不思議と安らぎという言葉が頭に浮かんだ。
5 ズル休み
次の日の朝、成はゆっくりと目を開けた。
今日の寝起きはとても清々しく感じた。
珍しく良い気分のまま朝食を取っていると、インターフォンが鳴った。これには驚いて、ビクッと身体が跳ね上がった。橙が来るにしては少し早かった。
おずおずとドアスコープを覗くと、そこには橙が落ち着きない様子で立っていた。
成は、鍵を開けてからゆっくりとドアを開けた。
「どうかしたか?」
「大変よ。あの人が来るわ」
「・・・どういうこと?」
「前宮かなえが告げ口した可能性が高い」
「なぜ来るってわかるんだ?」
「前宮望がそう言ってた」
「望って前宮妹か?」
「うん。あの人が来る時は連絡してって言ってあったから」
「そうか」
その根回しは、成には思い付かなかったので感心した。
「どうする?」
「学校に行くなら、そこで会う可能性があるな」
「そうね」
「なら、休むか」
あの科学者に会うのは極力避けたい成にとって、欠席なんて可愛いものだった。
「でも、家に居たら押しかけられるかもしれない」
「じゃあ、デートしようか」
橙が名案と言わんばかりに、声を張ってそう言い出してきた。
「まあ、それもいいかも」
出掛けるにしても学校以外は、成にとっては未知な場所なので、それならデートコースをネットで下見している場所の方がマシだと思った。
という訳で、成たちは学校に体調不良で休む旨をメールで伝えた。
デートするのに制服は目立つので、私服に着替えて足早に団地から離れた。
「なんとか来る前に出れたわね」
「そうだな」
いつに来るかわからない分、素早く家を出たのは正解だったかもしれない。
「とりあえずデートプランに沿って、移動しましょうか」
橙はスマホを取り出して、画面を見ながらそう言った。
「あ、ああ」
この積極的な行動力に、少し戸惑いつつなんとか橙に返事を返した。
移動中、橙から指南書のような説明を受けた。この時なぜか橙の目が生き生きしているように感じた。(たぶん気のせいだろう)
電車の前で、成たちは一度立ち止まった。
「本当に行くのか?」
密室の乗り物に、成は尻込みしてしまった。
「ええ。そう決めたはずよ」
そう言った橙本人は、躊躇しているのか足が前に進まなかった。当然だろう、成たちにとっては見慣れぬ場所に行くのは、決死を覚悟するほどの行為なのだから。
発車のメロディーが流れ、成たちはなんとか電車に乗った。通勤時間帯だったが、五割ほどの混雑率だった。逆に反対の車両が狂気の沙汰のように密集していた。あんなのに乗るなんて死んでも嫌だと感じた。(というか、精神的に死ぬ)
目的の駅で降りると、見慣れない風景に不安感が一気に増した。それは橙も同じなのか、少しピリッとした空気を彼女から感じた。
「警戒する必要はあるかないかと言えばあるんだろうけど、それだとデートではないわよね」
「ここはデートにこだわる必要はないんじゃないか。あくまでデートコースを回るだけだし」
正直、デート気分で気軽に歩ける気がしなかった。
「それだと冒険みたいになるんだけど」
それはなんとも的確な表現だと思った。
「ここに来た経験がないんだから仕方ないだろう」
「それはぐうの音も出ないわね」
「気になったんだが、なんでデートに拘るんだ?」
同じ思考のはずなのだが、これは率直に思った疑問だった。
「うまく説明しにくけど、おそらく感情的なものだと思う」
「えらく抽象的な答えだな」
「自分でも歯痒いぐらいモヤモヤしてるわ」
自分でも説明できないのなら、これ以上の追求は意味をなさない気がした。
一向に駅から出ていない成たちは、阿吽の呼吸で駅から一歩出た。
見知らぬ街、見知らぬ建物、あらゆるものが恐怖を助長させた。
「怖っ」
思わず出た台詞に、橙が頷きながら同意した。
「なんでみんな平然と歩いてるのか不思議なくらいね」
傍から見れば、この場に留まっている二人の方がおかしいのだが、成たちから見れば異様な光景でしかなかった。
「ここは勇気をもって帰るという選択肢もあるんだが」
「ここまで来て帰るのはないんじゃないかな」
さすがにこれには橙が強く反発した。が、足がすくんでいるようで一歩も動く気配はなかった。
計画したのはいいが、実際に行動してみると、自分たちがどこまで安易なことをしようとしていたかを気づかされてしまった。
「どうかしました?」
すると、突然横から一人の女性がこちらに声を掛けてきた。
成は驚いて距離を取ると、橙も同じような行動をとった。それに対して、女性が首を傾げてこちらを見ていた。
「い、いえ、初めて来たので、景色を楽しんでいただけです」
これは橙の機転によるもので、なんとも頼りがいのある応対だった。ちなみに、成はいつでも戦えるような態勢を取っていた。
「そ、そうですか」
成を見た女性が、少し怯えた様子で去っていった。
「1年経っても、成はあまり変わらないみたいね」
「そっちは変わり過ぎじゃないか。肝が据わり過ぎてる」
「確かに、平和ボケは私かもしれないわね」
橙は、少し落ち込んだようなトーンでそう言った。
「でも、実際にここに来てみれば、成と同じで怖気づいているわ。ネットで見るのと来てみるのは大違いね」
「今からでも帰らないか」
「あの人に会いたいなら、それでもいいと思うけどね」
「・・・ここに留まっておくというのはどうだろう」
「それじゃあ、完全な不審者じゃない」
「なら、もう最終手段で喫茶店に入るか」
「狭い空間に誰とも知れない人が出入りする場所に自ら飛び込むの?しかも、お金まで払って」
そう言われて冷静になってみると、デートの方が幾分かマシな気がしてきた。
「しょうがない。ゆっくり行くか」
「それには賛成」
橙は静かに頷いて、決意するようにゆっくりと歩き出した。
成たちは、最初に役所近くにある図書館を目指した。
角を曲がるたび危険がないかを確認し、慎重に警戒しながら歩いた。傍から見たら不審者に見えただろう。実際、通り過ぎる人に変な目で見られた。
もう少しで図書館という所で、パトカーが成たちの目の前で止まった。
「やばいわね」
私服とはいえ、未成年の二人が平日のこの時間に歩いているのは補導の対象になるみたいだ。これは前宮妹からきつく言われていたことだった。
「ちょっといいですか?」
一人の警官が助手席から下りてきて、成たちに声を掛けきた。
「なんでしょうか」
動揺している成に対して、橙が毅然とした態度で応対した。とはいえ、下半身は及び腰でいつでも逃げ出せるような態勢だった。
「君たちは学生かな?」
ピンポイントの質問に、成は心臓が飛び出そうだった。が、表情には出さなかった。
「だとしたらなんですか」
ここで嘘は逆効果だと判断したようで、橙は堂々とそう言い切った。
「今日は平日だけど、学校はどうしたのかな」
「休んでデートしてます」
嘘は諦めたとはいえ、デートのことは濁すべきだろうと思ったが、橙は包み隠さず言うことにしたようだ。
「あ~、ズル休みしたと」
「そうなりますね」
「親は知ってるのかな」
「親はいません」
「そ、そうか。君は?」
ここで警官は、成の方に話を振った。
「いません」
同じ回答では不審に思われると思ったが、実際いないのでどうしようもなかった。
「では、保護者は知っているのか」
「保護者?」
この言葉に、成と橙はお互いを見つめた。
「あー、先輩。ちょっとここは僕に任せてくれませんか」
すると、後ろで黙っていたもう一人の警官が一歩前に出てきた。
「何かあるのか?」
「あー、勘違いかもしれませんけど。先輩は少し離れててくれませんか」
「いや、それはできない」
後輩である警官の申し出に、首を振って拒否した。
「そこをなんとか」
しかし、ここで引き下がることなく深々と頭を下げて懇願した。
「・・・わかった。5分だけだぞ」
これに先輩警官が、渋々といった感じでパトカーの方に歩いていった。
「さてと、デート?の邪魔してすまないが、二人はあっちの世界から強引に連れてこられた口かな?」
あっちの世界という言葉をつかうということは、それに精通していることを意味していた。
「そうですが、二人がそうだと判断したのはなぜですか?」
これは当然の疑問ともいえた。
「保護者と聞かれて、二人困ったように見合ったからだね」
「なるほど」
それを聞いて、橙が成の方をチラッと見てから警官に視線を戻した。
「まさか二人で行動なんて、ちょっと驚きだな。デートなんて嘯いて、何か企んでいるのか?」
「いえ、デートは本当です。ただ平日になったのは保護者が来るということで、今日に変更しただけです」
警官を信用しているのか、包み隠さず事実だけを話した。
「あんまりしゃべりすぎると危険だ」
さすがに怖くなって、橙に軽く釘を刺した。
「わかってるわ。けど、このままだとこの人たちに通報されるわ。そうなったらどうなるか成にでもわかるでしょう」
「隠し事をしなきゃ、見逃してくれる保証もないだろう」
「可能性の話なら、マシになるってだけかもしれないわね」
橙はそう言って、まっすぐに警官の方を凝視した。
「もういいか?」
すると、先輩警官が歩いてこちらに来た。
「先輩。彼らはデート中なのは本当みたいですね。保護者には内緒でしてるみたいです」
「それは困るな」
「ここは僕が責任を取りますので、所持品検査だけで彼らを見逃してもらえませんか」
「・・・まあ、いいだろう」
先輩警官は、寛容なことにその提案を受け入れた。いろいろ思うことはあるのだが、保護者に連絡しないことは有難いと思った。
簡単な所持品検査をされ、この場はこれで収まった。
「良い人だったな」
「そうね。あんなふうな人ばかりなら、この世界はきっと静穏で過ごしやすいのでしょうね」
「かもな」
成たちはそんな会話をしながら、図書館へ向かった。
その道中は、ずっと警戒しながら歩いた。おかげで、目的の場所に着くのにかなりの時間を要してしまった。
「やっと着いたわね」
図書館を前にして、少し警戒を解いた橙が溜息をつきながらそう言った。
「さっさと入ろう」
成は後ろを気にしながら、橙を急かした。
「わかってるわよ」
橙を先頭に、図書館の玄関まで階段を上った。
図書館の受付の前を通ると、その先は本で埋め尽くされた棚が所狭しと並んでいた。その圧倒的な光景に、成は息を呑んで立ち尽くした。
「凄いわね」
橙も同じ気持ちらしく、口からそんな言葉が漏れた。スマホの画像で見たものと実際に見た光景は、必ずしも一致しないことをこの時初めて思い知った。
「とりあえず、図書館では静かにとか書いてあったから会話は必要ないわよね」
「確かに、入り口辺りにそんなこと書いてあったな」
初めての場所ということもあり、まずは図書館の内部を調べてから、読み物を確認することになった。
広い図書館の内部の確認は、40分近くの時間を要してしまった。
それが終わると、座る場所を決め、自由に本を読むことになった。
そこからは二人は会話もなく、自分の興味のある本を読み漁った。一応、読むときは同じ机で読むことにして、それ以外は自由行動にした。
「悪くない時間だったわ」
図書館を出るなり、橙が満足げな顔でそう言った。それは成も同感だった。
「また来てもいいな」
「そうね」
成たちはそう言って、図書館の方を一度だけ振り返った。これは場所を覚える行為でもあった。
「もう2時を回ってしまったわ」
「まあ、美術館はまた今度でもいいかもな」
「ここからだと30分ってあったけど、私たちなら1時間半は掛かりそうね」
ここに来る移動速度を考えると、確かにそれだけの時間は掛かりそうだった。
「美術館は、日曜日にでもしましょうか」
「え、日曜日も来るのか」
「ええ、何事も経験ってことで」
「なんだそりゃあ」
「もし時間が余ったら、図書館に寄るのもいいかもね」
図書館が気に入ったのか、そんなことを言いながらこちらを見た。
「・・・」
実際に成も図書館は気に入っていて、少し遠いがまた来てもいいと感じていた。
「まあ、カモフラージュは確実にやっておかないと意味ないからな」
ここはそれなりの言い訳をして、日曜日もデートすることに決めた。
「そうね。私もそう思う」
成の言い分に気を良くしたのか、無表情だったが嬉しそうな雰囲気は伝わってきた。
駅まで戻る時間は行くときの半分ぐらいで済んだ。それは道を把握した事と、どこに危険の可能性があるのかを知ったからだった。
「ふぅー、デートって疲れるな」
電車に乗って、周りに人が数人だけなことに安堵して、ようやくリラックスできた。
最寄りの駅に着き、成たちは家に向かって歩き出した。慣れた通りを歩くのは、心に余裕が持てた。
公営団地に近づくと、不穏な空気が全身を包み込んだ。
「やばい。あいつが来てる」
それを察した橙が、かなり動揺しながら成の方を見た。
「そう、みたいだな」
やはり素直に帰ってくれそうにないようだ。予測できたとは言え、成の方もビビっていた。
「どうする、どこかで時間を潰す?」
「こうやって待ってるってことは、先延ばしするだけになるかもしれないわ」
「そうかもな」
こうなると、諦めて二人で会うしか選択肢がなさそうだった。
「行くか」
「そうね」
橙も同じように思ったようで、力強く頷いた。
重くなった足を引きずりながら、公営団地の階段を上がっていき、部屋がある廊下に出る前に、お互い一度だけ見合ってから覚悟を決めた。
廊下の方に歩き出すと、成と橙の家のドアの間、スーツの上から白衣を着た珍妙な格好の女性が、腕を組み壁に寄りかかっていた。
「ようやく帰ってきた。しかも二人揃って」
そして、こちらが来るのを視認した女性が、髪をかき上げながら成たちの方を向いた。
その瞬間、やばいと悟った。話をする以前に、臨戦態勢を取られてしまった。
声を出すと、襲い掛かられそうで口を開くことができなかった。
「あら、掛かってこないの?」
一向に動かない二人に、女性が意外そうな顔で首を傾げた。
「てっきり反旗を翻したと思ったんだけど・・やっぱり何かあるのかな?」
女性は肩の力を抜いたような動作をすると、ピり付いた空気が少し緩んだ。それだけで呼吸を許された気分になった。
「会いたくなかったので、ズル休みしました」
ここで嘘をつくことはせず、橙が素直に説明した。
「・・・あはは、正直だね。でも、その言い訳はこっちに使うべきじゃないかもね」
「それにしても、この世界に染まりましたね。最初の会話が音波だなんて」
「あら、わたしは元々この世界の人よ」
「え、そうなんですか」
この事実には成も驚いた。しかし、それよりもこの女性に対して、橙が物怖じせず受け答えしていることの方が驚きだった。
『まあ、電波の方がいいんだったら、こっちでの会話にしよっか』
女性は表情を緩めて電波を発してきた。その周波数は久しぶりで、頭に響く電波は新鮮に感じた。
『それで用件はなんですか』
ここで橙が、電波での会話に切り替えた。
『かなえが何か二人が企んでるかもしれないって、言ってたから様子を見に来ただけよ』
『それだけのことで来たんですか?』
『まあね。でも、安心したわ。避けてる理由がわたしに会いたくなかっただけみたいで』
どうやら、未だにビビっている成を見てそう確信したようだ。橙は堂々としたように見えるが、逃げ出したいという雰囲気は伝わっていた。
「じゃあ、もう帰るわ」
確認は済んだようで、今度は音波でそう言ってこちらに歩いてきた。
彼女とすれ違う行為は、成とっては凄まじい恐怖だった。それは橙も同じようで、端ギリギリまで身体を寄せて、彼女の通り道をつくった。
彼女が成の横を通り過ぎると、自然と安堵の息が漏れた。
『あなたは何も云わないの?』
気が抜けたところに、彼女の電波が成の思考を掻き消した。
『・・・なるほど。わたしに対してまだ恐怖心が抜けないのね』
成の思考を読んだのか、一人で納得するようにそう云った。
『まあ、無理もないか。悪かったわね、わたしの偽者が恐怖心を植え付けてしまって』
それだけ云うと、女性は階段の方に歩いていった。
恐怖の対象がこの場にいなくなったが、二人はしばらく動けなかった。
『大丈夫?』
成を見た橙が、心配そうに電波で話しかけてきた。
『大丈夫とは言い難いかもしれない。生きた心地がしなかった』
『見る限り、よっぽど痛い目を見たのね』
『死にかけた』
『一緒ね』
成が本音をポロっと云うと、橙から極小の電波が漏れてきた。
「今日は、もう帰って心を落ち着けましょう」
橙は、最後の台詞だけ音波でそう言った。
「そう・・だな」
それは成にとっては有難いことだと思った。(この時、なぜ有難いと感じたのかは後になって不思議に思った)
6 二度目のデート
土曜日の朝、昨日のことのせいであまり眠れなかった。
今日は学校が休みなので、布団の中でゆっくりできて気持ちに余裕が持てた。
昼ぐらいに朝食という昼食を食べ、昨日の夕方にスマホに届いた宿題をのんびりと進めた。
宿題を終わらせると、インターフォンが鳴った。その瞬間はいつもドキッとするので、インターフォンの音は嫌いだった。
ドアスコープを覗くと、当たり前のように橙が左右を見ながらこちらの応答を待っていた。
成は溜息をつきながら、少しだけドアを開けて用件を聞いた。
「ちょっと、華早から連絡あったんだけど、そっちにも連絡してないかと思って」
「連絡先教えてないから、何も来てない」
「えっ、まだ教えてなかったの?羨ましいわ」
「用件はそれだけ?」
「いいえ、明日のデートの件で詳細を決めておこうと思って」
「・・・わかった」
勝手に決めてくれと言うと、何か角が立つ気がしたので、渋々橙を招き入れた。
「・・・」
すると、橙が意外そうな顔でこちらを見た。
「どうした?」
「いや、断れると思ったからちょっと驚いた」
「こっちとしては断られること前提で来ていた方が驚きだが」
「そうね。お互いちょっと変に変わってきてるのかもしれないわね」
言われてみれば、少しずつ相手のことを考慮している気はしていた。
「恋人ってこんな感じなのかもしれないな」
橙が正面に座ったところで、成は今思ったことを口にした。
すると、橙が真顔で成を凝視してきた。雰囲気から、驚いていることは伝わった。
「人との繋がりは好きではないけど、それを理解している同胞とは共有してもいいかもしれないわね」
「それはこの世界に染まることを許容することを意味するんだが」
成はそう言って、昨日来ていた恐怖の対象のことを思い出した。
「あの人のことを馬鹿にできなくなるわね」
橙もそう思っていたようで、自虐するようにそう言った。
「で、デートの詳細って、具体的に警戒しながら時間を掛けて美術館に行くってことなのか」
「そうね。ごめんなさい。デートの詳細っていうのは建前で、家に華早が来たら面倒だから非難させてもらってるわ」
「え?日陽に自宅を知られてるのか」
「ええ、不本意ながらね。しつこさに負けた」
「それはそれはご愁傷様だな」
「本当そうよね。ところでご愁傷って変な言葉だよね」
「あ、ああ。そうだな」
突然の会話の変化に、成の思考が一瞬停止した。だが、その疑問は成も習った直後はそう思ったことがあった。
ここからは言葉への文句と文字のわかりにくさの話に突入した。
手始めにひらがな、カタカナ、漢字への疑問。次に読みへの理不尽さ。さらには発音。しまいには外国との言葉と文字の違いについて話し合った。
こうなると怒涛の如く文句が次々に飛び出した。
「でも、そうなると電波で話していた私たちは、どうやって学んだんだろう」
「そういえば、気づいたら話せてたな」
「そうね。学んでないわ。そのことから考えると、遺伝子がそうさせてるのかも」
「人同士が接触できないから、強引に電波で会話ができるようになったってことか?」
「可能性の話だから、これ以上の推察は無意味ね」
「そうだな。生物を時間を掛けて理解しようとするなんて人って暇だよな」
「それは同感」
いろいろ話した結論が、その一言で終結した。
何気に時間を見ると、もう6時になっていた。どうやら4時間近く話していたようだ。
「そういえば、日陽からの連絡はないのか」
「あ、忘れてたね。電源切ってたし、さすがに来ないでしょう」
そう言いながら、橙が電源を入れた。
「・・・」
すると、画面を見た橙が若干顔を歪ませた。表情を見る限り、信じられないものを目の当たりにしたようだ。
「メールが物凄い数きてる」
橙はそう言って、こちらに画面を見せてきた。別に見たくなかったが、目に入った数字にドン引きした。
橙がスマホの画面を見て、いろいろ操作し始めた。
「メールを見ても家には来てないみたい」
「いきなり来る非常識はなかったようだな」
「そうね。危機も去ったしそろそろ帰るわ」
「ああ、そうしてくれ」
こちらもそろそろ買い物に行きたいと思っていた。
「ありがとう。今日ほど成がいてくれて助かったと思ったことはないわ」
「それは良かった。彼氏として役に立ったことは誇らしい?のか?」
自分の言葉が正しいのか、話していて違和感が出てきて最後は疑問で終わってしまった。
「不思議な言い回しだね。でも、気持ちはわかるわ」
成の言葉に気を良くしたのか、自然と表情を緩めた・・気がした。
橙が帰り、成は外出の準備をして買い物に出た。今日は橙と話して、人がどうして積極的に会話をするのか少しだけわかった気がした。
買い物を済ませて戻ると、ちょうど橙が部屋から出てきた。
「あ、買い物終わったの?」
「あ、ああ」
「じゃあ、今度は私の番ね」
そう言うと、橙が横をすり抜け歩いていった。
家に入り、少しだけ間食をしてから勉強を始めた。暇になったら勉強するのは、単にこの世界での学習年数が少ないからだった。
この世界に来て1年半で高校に通いだし、この世界の勉強は高校生活を含めて2年半程度しかしていなかった。
最初は発声と言葉の意味、そして教養。これを短い期間で叩きこまれた。今考えてもあの時ほど、他人を嫌いになった経験はない。その前までは嫌いではなく、恐怖の対象だった。
それからは苦行といえる人との交流。というより、常に誰かがいる状況で生活した。
それに慣れてくると日常会話に読み書きを並行して覚えていった。最初は舌が回らず、なかなか発音ができないし、鉛筆の持ち方を何度も指摘された。それが終わったと思ったら、次は大衆の中での行動などなど。
思い返せば、よくできたものだと感心するものばかりだった。おそらくだが、これは橙も同じだったのだろう。
そういう感じで1年半教育されたが、高校に入っても学ぶことはたくさんあった。
「面倒臭~」
成は溜息をつきながら、独り言でそう呟いた。横の本棚には数えるのも面倒なほどの参考書が収めてあった。これはここに来た時からそこにある物だった。ちなみに、橙の部屋にも同じような棚があることを確認していた。
テレビはあるが、一度だけ見ただけでそれ以降は点けたことなかったが、今日は何気にテレビの主電源を点けてみた。橙との会話の影響だということは、この時はわからなかった。
十数分間、ぼうっと見ていたがやはり面白さを感じなかった。
もううるさく感じたので、テレビを消して勉強を再開することにした。
静かな部屋で勉強していると、ふと前宮かなえとの戦いを思い出した。なんとか振り払おうとしたが、気にし出すと落ち着かなくなった。
前宮との戦いを思い返して、いろいろシミュレーションで戦いを始めた。
身体を動かすには狭いので、公営団地の屋上に行くことにした。
もう夜になっていて、通路には照明が点いていた。
階段を上り、屋上に扉を開けた。この団地は、屋上は廻は2m近くのフェンスに囲まれていて、共有スペースになっていた。
あの時の戦いのイメージを思い浮かべながら、どう回避して反撃するかを身体を動かしながらイメージトレーニングした。こういう風に時たま、身体を動かしたくなる衝動に駆られることがあった。
しばらく身体を動かして満足したので、戻ってシャワーを浴びることにした。
成は烏の行水のような水浴びをして、髪を軽く拭き、服を着てからいつもの場所に座った。
一息つくと、明日もまたデートだと思うと少し億劫だったが、仕方ないかと考え直すことにした。
日曜日の朝、自然に目が覚めて時計を見ると、9時を回っていた。
少し寝過ぎたようだが、頭がすっきりしていたので良しとしておいた。
簡単な朝ご飯を作り、いつものようにゆっくりと食べた。
食べ終わったのは、9時40分でデートまでに間に合う時間だった。
手早く身支度を済ませたが、一つ重要なことを忘れていた。
それは待ち合わせ場所だった。こちらから迎えにいくのか、それとも橙がこちらに来るのかはっきりさせていなかった。
少し悩んだが、身支度も済ませているので、こちらから出向くことにした。
時間も10時になる5分前だったので、隣にいるはずの橙の部屋を訪ねた。
すると、中から大きな物音がして、髪の乱れた橙が出てきた。今日は眼鏡をしていなかった。
「ごめん。今起きた」
どうやら、起きたばかりで眼鏡を掛けて出てくる余裕がなかっただけらしい。
「そう。まあ、ゆっくりでいい」
寝ていたことは予想外だったが、こちらから出向いたのは正解だったようだ。
「ちょっと、自分の部屋で待ってて」
「わかった」
成はそう応えて、橙の準備を部屋で待つことにした。
十数分後、橙が部屋を訪ねてきた。
「ホントにごめん」
そして、再度謝罪をした。髪はストレートに戻していたが、未だに眼鏡を忘れていることに気づいていなかった
「朝食は食べてからの方が良くないか?」
この短時間では食べてないだろうと思い、先に食事を済ませることを提案した。
「え・・・」
すると、橙が驚いた様子でこちらを見た。
「どうかしたか?」
なぜ驚いたかが一瞬わからなかったが、自分の言葉を思い出して、他人に気を使っていることに気づき、自分でも驚いてしまった。
「無意識にこの世界の人みたいなこと言うようになったのね」
「自分でも驚きだな」
「たぶんだけど、誰かとの交流があるとそうなるのかもしれないわね」
「かもな。で、どうする?」
「そうね。その気遣い、受け入れてみることにするわ」
橙は少し雰囲気を和らげて、成の部屋から出ていった。
橙の食事待ちまで暇になったので、勉強をすることにした。
30分後、橙が食事を終え、部屋を再び訪ねてきた。
「じゃあ、行きましょうか」
「ああ、そうだな。眼鏡はどうした?」
ゆっくりと身支度していたはずなのに、眼鏡をしていなかったことが気になった。
「まあ、元々伊達だったし、もういらないかなって」
「そうか」
なぜいらないのかは聞いても理解できない気がして、深く聞くことはやめた。
一昨日のように駅まで歩き、電車に乗って目的の駅まで着いた。電車は休日ということもあって、少し乗客が多かった。
「ふぅ~、ちょっと人との距離が近かったわね」
橙はそう言って、疲れたように溜息をついた。
「そうだな。あの車両に乗車率は40%を限度にして欲しいくらいだな」
「まあ、そうね。45%越えは個人的には乗りたくないわ」
橙は歩きながら、成に愚痴を言った。
前に歩いた道ということもあり、図書館まではそんなに時間は掛からなかった。
図書館の建物を見て、橙が行きたそうにしていたが、成は首を振って早く行こうと促した。
ここからは慎重に、未開の地を進むことにした。
そんな成たちを行きかう人たちは、物珍しそうな顔をしていた。休日ということもあり、人は一昨日より多かった。
2kmの距離を1時間近く掛けて、美術館まで辿り着いた。
美術館を目の前にして、成たちはあまりの白さにその場でフリーズした。スマホで見るのとでは、光沢が全然違った。
成は橙と目を合わせて、確認するように首肯してから美術館へ向かった。
美術館の入り口には、まばらに人が歩いていた。休みでもここは、あまり人気がないスポットのようだ。なのに、なぜデートスポットになっているのかが不思議だった。
美術館の入り口には真横に受付の窓口があり、そこに橙が高校生二枚と言って、入場料を支払った。
「半分は出す」
「いらないわ。どうせ支給されたお金だし。結局、どっちが払っても元は同じでしょう」
それを言われると、なぜかお金を出しにくくなった。
結局、お金を渡せないまま美術館に入場した。
初めての美術館の最初の印象は、独特な空気でかなり新鮮さを感じた。人が複数人いる時点であまりいい場所ではないのだが、不思議と悪い場所とも感じなかった。
「不思議な場所ね」
それは橙も同じなようで、成に聴こえるような小声でそう言った。
「そうだな」
こちらも小さな声で返しながら、入口正面の油絵と呼ばれる手法で描いた絵に目をやった。
「これ、良さわかる?」
1分ほど観察した橙が、困ったような声で聞いてきた。
「わからん。油絵なんて描いたことないし」
「現実の写生だけど、この作者はこんな色合いに見えてるのかしら」
「かもしれないな。こんな見え方してたら、さぞかし世界は濁って見えてるんだろうな」
しかし、あくまでも表現の可能性もあったが、それは当事者でなければわからないことだった。
「あ、でも、こっちの人の絵は、全然色合いが違うわ」
橙はそう言うと、すぐ横の絵に目を移した。
「そうだな。この色使いは自分たちが見ているのと類似してるな」
「そうね。これを描いたことは凄いけど、写真でいい気がする」
「確かに」
初めて写真を見せられた時は、かなり驚いたのだが、絵で見るとなぜか現実味がでない感じがして残念に思った。
そんな感じで美術館を回っていくと、後半には彫像や置物になっていった。
「平面から立体になったね」
成が思ったことを、橙が先に口に出した。
立体になると、360度で見れるので成としては見やすくて良かった。
「これは何?」
「さあ?」
いろいろ見て回ったが、よくわからない形と色で何を表現しているのが、全然見当つかなかった。
タイトルを見ると、慟哭という難しい漢字で書いてあって、意味もわからなかった。
「う~ん。この芸術は私には理解できないわ」
数分間、いろんな角度で見ていた橙が降参と言わんばかりに呟いた。
「そうだな。わからんな」
成もそう思ったので、もうこの作品はスルーすることにした。
一通り見終わったが、橙がもう一周しようと言い出した。
理由を聞いてみると、少し気になっている物があるらしい。
仕方なく戻ってみると、一つの絵画の前に立ち止まった。
「これ、作品名とは裏腹な気がするの」
そう言われてタイトルを見ると、悲壮とあった。絵には二人の人とその視線の先にはもう一人の人の後姿が描いてあった。
「これ、何が悲壮なの?」
「そんなこと聞かれても知らない」
どうやら、この絵の悲壮という状況が理解できないようだ。それは成にとっても同じだった。
「悲壮って、悲しい中にも勇ましく雄々しいところがあるって意味よね」
「そうだな。あと悲痛な思いを胸に秘めた勇ましさとかあったな」
これはネット辞書に載っていた単語だった気がする。
「これのどこが悲壮なんだろう?」
「さあ?」
成たちには理解できなさ過ぎて首を傾げるしかなかった。
「あと色合いもなんか暗いよね」
「そうだな」
というか、風景画の色合いは写真みたいに寄せようとしているのはわかるが、人物が入る絵にはどうも歪な色合いが多いように見受けられた。
「たぶん表現とか印象なのかもしれないな」
成は、今思いついたことを適当な感じで言ってみた。
「なるほど。それを作品に落とし込んだってところね」
「個人的な思考なんてわからないからしょうがないな」
「そうね」
結局、どんな考察しても成たちにはその答えしか出てこなかった。
橙は満足したのか、もう出ようかと言ってきた。成もそろそろ飽きてきたので、その提案には同意した。
美術館を出て、時刻を見ると午後2時を回っていた。時間的に2時間は居たことになる。
成たちは無言のまま、このまま駅に向かう道に歩き出した。
その途中、図書館が見えてきたが、時間的にも微妙な感じだったのでそのまま帰ることにした。
駅に着くまでは、美術館での話をしながら歩いた。といっても、同じ思考なので疑問に思ったことを解消することはなかった。が、楽しくないということもなかった。(たぶん・・自信はない)
改札を抜けホームに出たが、電車は3分ほどで来るとアナウンスがあった。
思いのほか人が多くいたので、できるだけ少ない車両の所で待つことにした。
電車が来て車両を見ると、乗車率六割程度ありかなり混んでいた。
降りることを願ったが、2、3人しか降りずに前に人たちが乗り込んでいった。
どうするか目配せしていると、橙が首を振って乗ることを拒絶した。
その結果、この車両は見送り次の電車を待つことにした。
待つ間、ホームのベンチに座ることにした。ここに来るまでに話すこともなくなっていたので、成たちは黙って電車を待った。
成がぼうっとしていると、頭に電波が届いてきた。
驚いて橙を見ると、彼女も驚いてこちらを見ていた。
この世界での電波会話は基本的に禁止されていた。なんでも電波障害が出るそうだ。
それなのに、ここで電波を受信するということは同胞がいるということだ。
成たちが周りを見回すと、正面から電波を感じ取った。
反対側のホームにそれらしい二人の男女が言い争いをしていた。
遠目からだと口論みたいだが、完全に口が動いていなかった。
「ここにも同類がいるんだな」
「そうね。注意した方が良いのかしら」
「関わりたくないから、放っておこう」
「まあ、ここから音波で注意は無理ね」
「電波での注意は本末転倒だしな」
話し合った結果、何も見なかったことにした。
電波で喧嘩していた二人は電車が来ると、それに乗って行ってしまった。
それを見送ると、次の電車が来た。車両はさっきより空いてたので乗ることにした。
中央付近ではなく、連結部部に二人で立ち、座席は空いていたが座ることは控えた。少し息苦しい空間の中、成たちはできるだけ人には近づかないように距離を取った。
が、次の駅で信じられない数の人が乗り込んできた。
これを見た瞬間、成は焦った。隣の橙も慌てた。
やばいと思い、連結部分に逃げようとすると、橙も同じことを考えてドアに手を掛けていた。連結部分は一人分しかのスペースはなく、二人は入れることはなかった。隣の車両も人で溢れかえっていた。
橙は状況を察して、成の方に目を向けた。
成は連結部分への避難は諦め、橙に譲ることにした。
行くように目配せすると、橙は軽く頷いて連結部に入っていった。
乗車率80%にのぼり、連結部分の端に引っ付くようにするしかなかった。
早く二駅目に着くことを祈りながら、橙がいる連結部分を向いて身を縮めた。視線の先の橙はパッと見て無表情だったが、成には申し訳なさそうに見えた。
次の駅に着くと、客が少し降りていった。そのおかげもあり、密集度が若干減った。
次の駅で降りるのだが、成の前には複数の人がひしめき合っていて、ここを抜けるのかと思うとうつになった。
駅に着き、誰か降りる流れで成も行こうと思ったが、こちら側の人は最悪のことに誰も動かなかった。
橙も降りようと、連結部分から出できたので、覚悟を決めて人混みを分けていくことにした。その後ろから橙がついてきた。
周りの人たちは、大きく身体を動かすことなく、少しだけのスペースを開けるだけだった。
そのおかげで、何人かの人に接触する形で電車を降りた。
あまりの気持ち悪さに全身鳥肌が立ち、触れた所を手で何度か擦って静電気を起こした。ふと橙を見ると、彼女も同じ仕草をしていた。
電車が行った後もしばらく、その場で鳥肌が治まるまで擦っていた。傍から見たら、変な二人に見えただろう。
駅から出て、さっきのことを愚痴りながら帰宅した。今までは一人で頭を巡らしながら発散していたが、相手がいるとこうも違うのかと少し驚いた。
公営住宅に着くと、橙が朝はごめんと再度謝ってきた。
それを軽く流しながら、成は階段を上った。
「なんか変じゃない?」
すると、橙が何かに気づいたようにそう投げかけてきた。
言われて階段の上を観察すると、確かに空気の流れが乱れている感じがした。これはあくまでも個人的な違和感で原子の流れとか分子がどうのとかいう話ではない。というか、そこまでの知識がないので詳細には成自身も説明できない。
「どうする?」
「う~ん。人が歩いているだけ・・だといいけど」
「含みのある言い方だが、警戒は必要かもな」
そう言って後ろの橙の方に振り返ると、その後ろに静かに誰かが立っていた。
これに驚き、瞬時に後ろに下がった。
「え?」
その成を見た橙が、振り向き成と同じように驚いた。
『うん。上の空気の流れに気づいたのは良かったけど、後ろががら空きね』
後ろに立っていたビジネススーツのような格好をした美しい女性が、少し呆れたような雰囲気で電波を発してきた。だが、無表情と言われれば無表情だった。
長い黒髪にすらっとした体形で、美術館で展示されていた銅像のモデルのような人だった。電波ということは、あっちの世界の人間のようだ。
『ふ~~ん。本当に二人でいるんだね。聞いた時は半信半疑だったけど、やっぱり人は人なのかな』
女性はそう言いながら、自然に自分の髪を触った。
『なんでこんなところに』
橙が困惑して、怯えるように震え出した。どうやら、彼女と面識があるようだ。
『見に来ただけよ。それ以外に理由はないわ』
女性はそう言って、橙から成の方に視線を移した。その瞬間、成も橙と同じように身体が震え出した。
困惑して身体の状態を確認したが、特に異常はなかった。ということは、彼女に対しての恐怖心だと理解した。
『そう怯えなくていいわ。まあ、本能的みたいだから無理だろうけど。でも、逃げるのだけはやめてね。不愉快だから』
そう云われても、成にとっては一刻も早く逃げ出したい衝動に駆られていた。橙に至っては少しずつ後退していた。
『え、えっと、そ、率直な、ぎ、疑問を聞いても、い、いいですか』
ここは冷静な振りをして、相手の意図を聞くことにした。しかし、動揺と怯えから電波が乱れに乱れてしまった。
『さっきも云ったけど、見にきただけよ。かなえが珍しくはしゃいでいてね』
どうやら、前宮かなえの知り合いらしい。
『でも、貴方たちを見てたら一つ気になることができたわ』
女性は、橙の方に目を移してから少しだけ目を細めた。その視線に、橙が怯えたようにビクッと反応した。
『生みの親の居場所は知っているかしら』
この質問はおそらく彼女自身が、個人的に知りたいだけだと感じた。
『し、し、りません』
橙は答えれる状態じゃないと踏んで、成が代わりに応答した。
『まあ、知らないわよね』
ちょっと抜けてたみたいな感じで、女性が肩を竦めた。
『最初の記憶はどこかしら』
なぜそんなことを聞くのか不思議に思ったが、あまり答えたくはない質問だった。
『森』
そう思っていると、橙が簡略的にそう答えた。どうやら、成と同じ境遇で自我が芽生えていたようだ。
『そう。あんなに云われてるのに、あいつの行動は相変わらず一貫してるのね』
女性はそう云って、少し興味を失ったように誰もいない真横に顔を向けた。
『じゃあ、最後にもう一つだけ』
そして、仕切り直すようにもう一度こちらの方を向いた。
『二人でいる理由は何?』
この質問には橙が答える方が良いと思ったが、状況的に答えられるとは思えなかった。
『し、しつこい相手を遠ざける為です』
が、橙は震え声でそう返した。
『・・・そう。それはなんとも云えないわね』
何か思うところがあるのか、少し表情を緩めた気がした。(気のせいかもしれない)
橙の返事に納得したのか、急に踵を返して成たちの目の前から去っていった。
女性が見えなくなり、震えがおさまったところで橙を見ると、彼女は肩で息をしていて目の前を未だに凝視していた。
「大丈夫か?」
これには少し心配になり、橙に声を掛けた。
すると、橙は我に返ったように、肩の力が抜けて強張った顔が無表情に戻った。(傍から見れば変わらなかった)
「あれが何か知らないみたいね」
「ああ、知らない。っていうか、知ってるのか?」
「ええ。まあ、ね」
歯切れが悪かったが、あの女性とは一度会っていたらしい。
「でも、本能的に逃げたいって思ったのは、あっちの世界で以来だ」
「それはそうでしょう。治安というものがこの世界にはあるんだから」
「そうかもしれないな」
確か、この社会は不確定要素を排除して出来上がったと聞いていた。
「とにかく、もう色々疲れたし帰ろう」
「それは同感ね」
橙は、一度大きく息を吸ってからその分の息を大きく吐いた。
階段を見上げると、さっき感じた不穏な空気はなくなっていた。
そこから二人は何も言わず階段を上がり、お互いの部屋に入った。今日はこれ以上は誰かと一緒に居たくないと感じていた。それほどさっきの出来事が衝撃的だったからだ。
この出来事は、今日のデートの記憶を吹っ飛ばすほどの痛烈な思い出となってしまった。というか、毎回デートの終わりに衝撃的なことが起こっている気がするのだが、何かの因果なのだろうかと一瞬だけ頭をよぎった。
7 通話
朝日が昇り始め、自然と目が開いた。昨日のこともあり、目覚めはあまりよくなかった。
ゆっくりと布団から這い出し、顔を洗うために洗面台に向かった。その途中、やりかけの教科書が目にとまったが、まあいいかという気持ちで洗面台まで向かった。
顔を洗うと、正面にある鏡に自分の姿が映った。最初に鏡を見た時は、衝撃的なことで今でもあの時の驚きははっきり思い出せるほどだ。
しかし、昨日の出来事は別の意味での衝撃だった。一度会ったことがあるとはいえ、あそこまで威圧的ではなかった。空気が違うと言えばいいのだろうか。
明らかな殺気と、攻撃性の高い空気の循環でこちらの空気と濃度が格段に違っていた。あそこまで凝縮した空気は今まで見たことがなかった。
そのことを思い出すだけで鳥肌が立った。
ここは気持ちを切り替えて、決まり切った行動パターンにシフトしようと気持ちを整えた。
今日は軽くブラッシングして、顔を洗ってからケースに入っている眼鏡を掛けようとして、もう必要ないことに気づきケースを元の場所に戻した。
軽めの食事をして、弁当は昨日の残りを詰め込み、鞄に必要な教科書を入れて家を出た。
隣のドア横のインターフォンを押し、家主が出てくるのを静かに待った。
しばらくすると、中から物音がして一人の男性が顔を覗かせた。
彼はダルそうな感じ(パッと見では無表情だが、あくまで自分がそう感じた)で10分ほど待って欲しいと伝えてきた。これは一緒に登校するにあたっては初めてのことだった。
仕方がないので、一度家に戻ることにした。
家に入り、机にあるスマホの時間をじっと見た。別のことをしてもよかったが、それだと正確に時間を測れないので、10分間はスマホとにらめっこすることにした。
時間をこうして凝視するのは久しぶりのことで、一定のリズムを刻む時間を見るのは心が落ち着く感じがした。
8分ほどぼうっとしていると、ドアのノックの音が聞こえた。どうやら、2分近く短縮してくれたようだ。ちなみに、登校時間は4分ぐらい遅れていた。
彼の二度目の謝りを軽く流しながら、二人で並んで歩いた。こうしているのは、本当に不思議な感覚で今まで感じたことのない安堵のような気持ちだった。
前までは人の多さに怯え、行きかう人に警戒し、1年近く精神を摩耗しながら生きていた。精神的にもいつか狂うんじゃないかと思うこともしばしばあった。
しかし、同じ種族が近くにいるだけでなぜか安心感が二割ほど緩和している気がしていた。あの世界では同種族でも近寄られることはなかったが、この世界では安易な接触してこない同種族の方が安心感が数段違っていた。
学校に着くまで、日陽華早の対策を彼と一緒に話し合った。といっても、できるだけ話さないことが良いのだけど、それは徒労に終わることを私は知っていた。
華早との関係は、この世界に転校してきていじめという概念を知らなかった頃に出会った。
今思い出すと、あの時は敵が多かった。男は気持ち悪いほど寄ってくるし、女には執拗な嫌がらせが度々あった。まあ、無視してくる人もいたが、そっちの方が私には有難かった。
2ヶ月ほどその状態が続き、精神的に学校を休むかここから逃げ出すかを考え始めた頃、日陽華早が何を思ったかは知らないが、積極的に関わってきた。正直に言うと、いじめよりも恐ろしかった。
何度か無視したが効果がなかった為、突き放すような物言いで拒絶した。
だが、華早はその程度では離れてくれなかった。積極的な彼女の行動のせいで、何度か恥ずかしいという味わったことのない気持ち悪い感情を体験してしまった。
しかし、華早との接触はこの世界の人がどういう思考かを学ばせてもらった。それから感じたことは、厚かましいと余計なお世話だった。
学校に着き、彼と別れて、自分の教室に入った。
一瞬だけこちらに視線が集まったのを感じたが、これは誰に対してもそうだと華早に教えてもらったので、今では気にならなくなっていた。
席に座り、鞄から教科書を取り出して、いつものように1時限目の準備をした。
華早と別のクラスになってからは、誰とも関わらないという素晴らしい学校生活を送っていた。(昼休みと放課後以外は)
授業が始まると、ふとあることが頭に浮かんだ。
それは前宮かなえの妹のことだ。彼女は、あの三人の中でまともな方で私には優しかった。この世界に居るのも彼女の説得によるものだった。
ここ数ヶ月は忙しいらしく、全然会えていなかった。姉である前宮かなえがここに来たのは、おそらく妹の代わりだったのだろう。
今度会った時は姉の文句を言いいたいなどと考えていると、いつの間にか授業が終わっていた。
次の授業は移動教室の為、持っていく物を準備した。
すると、私の机の横に人が立った。
通り過ぎる気配がないので、見上げると男子生徒が何か言いたそうにこちらを見ていた。どうしたのかと聞いて欲しいようだが、個人的には聞きたくもなかった。
ここは無視することを決め、立ち上がって移動教室に向かうことにした。
が、男子生徒が一緒に行こうとかよくわからないことを言い出した。
いつもならここで理由を聞くのだが、どうせ私には理解できないだろうと思い聞くのはやめて断った。
一人で教室を出ようとすると、一人の女子生徒が立ち塞がってきた。
そして、彼女はなんで断るのかと聞いてきた。こんなことは初めてで、ちょっと思考が乱されてしまった。
無視も考えたが、出入り口にいるので理由を答えざる負えなくなった。
面倒臭かったが、簡易的でわかりやすい答えを口にした。
すると、女子生徒はそんな言い方はないだろうと激怒した。
答えを求めたから言ったのだから、怒るのはお門違いだと思ったが、言い返してもさらに怒りを買いそうだったので、それらしく返しておいた。
それに対して、彼女は言葉を詰まらせたように顔を歪めてこちらを睨んできた。
言い返すことができないのなら、そこをどいて欲しいのだが、それを言ってもどきそうにないので、後ろの出入り口から行くことにした。
横を向くと後ろに立っていた男子生徒が、気まずそうな顔をしていた。まあ、居たのはわかっていたので特に驚きはなかった。
昼休みになり、恋人である彼のもとへ向かった。
前に決めた場所に行く途中に、華早の動向を確認するのが最近組み込まれたパターンになっていた。
彼からの報告は、いつものように絡まれからかわれるだけとのことだった。簡易的に二行ほどで説明しているが、実際絡まれた経験のある私にしたら、酷い心労だったのだろうと察することができた。
彼と一定の距離を取り、自分の作ったお弁当を食べた。
今日は特に話題はなかったが、彼の華早への愚痴が最近は多くなっている気がする。(気持ちはわかる)
そんな風に昼休みを過ごしていると、一人の女子生徒がこちらに歩いてきた。彼女は前に彼に気さくに話しかけてきた人だった。
第一印象から私の苦手なタイプで、彼も苦手そうにしていた。
女子生徒はわざわざ彼に会いに来たのか、嬉しそうな顔で声を掛けてきた。
彼は、彼女に対して素っ気ない対応した。嫌な相手にはこれが一番と思っているようだが、この世界では変な人(日陽華早)がいるので、効果的かは不明だった。
女子生徒はそんな対応の彼を見て、おかしそうに茶化してきた。どうやら、華早と同じような人種のようだ。
このままでは私も巻き込まれてしまうと感じて、話を始める前にこの場を去ることにした。
が、女子生徒は彼女なんだから浮気しないように見張っとかないとと、よくわからないことを言い出した。私自身、漫画とかで浮気がなんなのかは知っていたが、彼が浮気なんてするわけなかった。
そんな女子生徒の的外れの言葉を聞き流しながら、何気なく彼の方に目をやった。
彼は迷惑といった感じで、彼女に対してこれでもかと拒絶していた。
それに対して、彼女は楽しそうな顔で皮肉を交えながら話していた。
昼休みが終わるまで、感覚的に15分近くある気がした。
仕方がないので用事がある振りをして、彼と一緒にこの場を離れることにした。
すると、当然のようにどこに行くのかと聞かれた。そんなの聞いても仕方ないだろうと思うのだが、彼女にはそんな思考回路をしていないようだ。
理由なんてないので、適当に二人っきりにして欲しいというと、何かを勝手に察したようでニヤニヤして立ち去っていった。
彼は私に感謝したが、自分の為でもあるので軽く流しておいた。
一応、この場に留まることもできたが、また彼女が戻ってくるとも限らないので、適当に歩き回ることを提案した。
それに彼も同意して、二人で学校内を歩いた。
話すことも特にないし、彼も話題がないようで黙って歩いていた。ここ最近、彼と一緒になったことで警戒心が一段と緩んできている気がした。
3年の校舎裏に行くと、一人の男子生徒が座って昼食を取っていた。時間的にかなり遅いと思ったが、他人なのでその考えは一瞬で消した。
『つまらん』
男子生徒の横を通ると、突然電波が私の頭に届いた。
てっきり彼が発したのかと思ったのだが、彼もそう思ったようで私の方を見ていた。
お互いに見合ったことで、互いが電波を発してないことが確定した。
そうなると、この発信は見知らぬ男子生徒のようだ。
驚いて男子生徒を見たが、こちらの反応には気づかず無表情で昼食を取っていた。どうやら、この男子生徒もこの世界の人種ではないようだ。それにしても、二人の生徒が目の前にいるのに無防備極まりなかった。おそらくだが、私たちよりこの世界に来た時間が長いのだろう。
これにはお互いどうするか一瞬だけ彼と見合ったが、この世界の人ではないなら関わりたくないだろうと思い至った。
私が歩き出すと、彼もその横をついてきた。予想はしていたが、この学校には私と彼みたいな人が思いのほかいるようだ。
『あいつは、この世界からすると可哀想な人なのか?』
ある程度男子生徒から離れると、彼は少し首を後ろに傾けながら、そんな電波を発した。
『可哀想というより、退屈そうが正しいんじゃない?』
私がそう答えると、彼はそういうものかと頭を掻いて一回だけ瞬きをした。この時、なぜ私たちは電波で話したのかはよくわからなかった。
授業の5分前の予鈴が鳴り、お互いの教室に戻ることにした。
教室に入ると、入り口前の席の女子生徒が睨んできた。どうやら、移動教室の時のことを根に持っているようだ。
それを無視して席に座ると、何か違和感を感じた。
首を傾げながら、授業の準備をしようと机に手を入れると、いつもと違う感触があった。
驚いて手を引っ込めて、誰かが何かを入れたという事実に全身に寒気が走った。これは久々なことで、もうしてこないと思っていただけに最悪な気分になった。
一度心を落ち着かせるために深呼吸して、とりあえず授業の準備だけはすることにした。
誰かが入れた物には出来るだけ触らないようにして、慎重に教科書を引っ張り出した。
授業が始まったが、机の中のものが気になって授業の内容があまり入ってこなかった。
授業も終わり帰り支度はしてから、机の中のものを恐る恐る確認すると、手紙のようなものが入っていた。生物じゃないだけ安心したが、それでも見知らぬ人の物を触るのは今でも勇気がいった。
一応、彼のクラスに早めに行きたいので、手早く手紙を回収して鞄に入れた。
捨てることも考えたが、一度それをして悪化した経験があったので、家に持ち帰ることにした。ちなみに、このことは彼には言わないつもりだ。
彼のクラスに行くと、華早がニヤニヤしながら茶化してきた。何が楽しいのかは不明だが、色恋沙汰は女には大好物だと言っていた。おそらく比喩表現だろうが、恐ろしい表現だと思う。
彼と下校しながら、華早の言動を聞いた。
彼の話だと、午後は少しおとなしくてあまり関わってこなかったという。
公営団地に着くと、階段前で誰かが立っていた。よく見ると、警官の服を着ていた。
そして、私たちを見るなり驚いた顔で近づいてきた。
これに隣の彼が警戒して、一歩後ろに下がった。
警官服の男性は、少し申し訳なさそうな顔で一度頭を下げてから話しかけてきた。
『成と橙で合ってるか?』
驚くことに電波だった。これには後ろに下がった彼も驚いたようで声が漏れてきた。
『誰ですか?』
急な電波での会話の為、単調な電波になってしまった。
『これは失礼。春斗という。一応、警官だな』
『あっちの世界の人?』
『いや、この世界の出身だ』
『・・・信じられません』
その答えには違和感を覚えた。確かこの世界の人は電波を操るだけで、私の世界の電波は受信できないと聞いていた。
『ですが。実際話せてますし、本当のことなのでしょう』
別に話せても、こちらとしてはどうでもいいことだと思い直し考えることをやめた。
『で、用件はなんですか』
『ああ、そうだったな。用件は一つだ』
警官はそう云うと、ポケットに手を入れた。その瞬間、後ろの彼がピクっと反応した。
『ああ、警戒しなくていい。渡したい物があるだけだ』
彼の警戒に警官が気づき、手を前に突き出して制した。
警官はポケットから何かを取り出した。
そして、手を突き出して手のひらを上に広げた。そこには二つの小さな機器のような物があった。
『これはなんですか?』
見たこともない物に、私は素で聞いた。
『長距離での会話が可能になる物だ』
『それはスマホと同じですか?もう持ってますよ』
『ああ、知ってる。でも、電話は使えないんだろう』
それは確かにその通りだった。ネットやメールは使えるが、電話はなぜか使えなかった。相手の声は通るがこちらの声は雑音にしか聞こえないらしく電話はできなかった。おそらくだが、後ろで警戒している彼もそうだろう。
『これをスマホのマイク部分に取り付けるだけで話せるようになる。前の携帯のマイクより、今のスマホのマイクは高性能になったせいで、おまえたちの微弱な電波まで拾ってしまうらしい』
『それなら、旧型を支給してくださいよ』
『残念だが、もう生産してない』
『そうですか』
『マイクだけを旧型に変えようとしたが、メーカーが頑固でな。最終的に付属品でマイクを旧型にすることになったんだよ』
『はぁー』
よくわからない話を聞かされて、生返事でしか返せなかった。
『ってことで、受け取ってくれ』
『正直、私はあなたを信用してません』
初めて会ったこともあり、それを受け取るのは個人的に嫌だった。
『まあ、それはそうだろうな。本当なら前宮かなえに届けさせる予定だったし』
『彼女も普通に信用してませんが』
『それはなんというか、可哀想だな』
警官は苦笑いしながら、よくわからない同情の仕方をした。
『とにかく、社会に出るとこれは必要になるんだ。今のうちに慣れておいて欲しいんだよ』
『社会・・ですか。私には正直できそうにないのですが』
『同じく』
すると、ここで彼が私たちの話に入ってきた。どうやら、話すだけの心の余裕ができたようだ。
『えっと、一ついいですか』
『ん?』
私は、さっきから気になっていることを聞いてみることにした。
『警官が一人で、私たちと立ち電波での会話って周りからすると異様だと思うんですが』
今は周りに人が奇跡的に人が通らないからいいのだが、もし誰かに見られたらかなり注目されるだろう。
『初対面で本人かどうかわからんし、確認の為の電波を発信してみた』
『納得です』
これは確かに頷ける理由だと思った。
『とりあえず、使わなくてもいいからこれだけでも貰っておいてくれ』
警官はそう云うと、二つの機器を投げて寄越した。
人からの譲渡はあまり受け取りたくないのだが、この警官からは拒否するのは危険だとなぜか直感的に悟った。
『もう用も済んだから戻る』
警官は帽子を被り直して、ゆっくりと歩いて去っていった。
それを見送りながら、私は彼と一緒に並んで立っていた。
とりあえず、貰った物の一つを彼に投げて渡した。
家に帰り、確認で電話をしてみようという話になった。こうなったのは、華早の突飛な行動を防ぐという考えに至ったからだった。
『どう聞こえる?』
電話を掛けて、彼が取ったところでさっそく話してみた。
『ああ、聞こえる。雑音もない』
どうやら、マイクに付けた機器がちゃんと機能しているようだ。どういう原理なのかは興味もないので、そこは気にならなかった。
『まあ、話せるということでもういいわね』
『ああ』
彼の声が返ってきたことで電話を切ると、自然と溜息が出た。おそらく、隣の彼もそんな感じだろう。
一息ついたところで、鞄に入っている手紙を汚物を触るように取り出した。
指で摘まんだ封筒には何も書かれておらず、封筒なのに封もされていなかった。
一度テーブルに置き、ゆっくりと封を開けて中身を摘まんで取り出した。この作業だけで5分も掛かってしまった。得体のしれない物ほど、時間を掛けて慎重になるのは当然だった。
封の中には二つ折りの紙が、一枚だけ入っていた。
恐る恐る広げてみると、デジタル文字で罵倒の数々が羅列していた。昔は一文字一文字スマホで確認しながら、意味を知っていったが、今では見慣れた文字で意味も瞬時に理解できた。
書いてあることは理解できるし、何を当たり前のことを書いているんだろうと不思議に思うぐらいだ。
目障りとか、消えろとか、それは私が常日頃思っていることだし、馬鹿とかアホというのも自分がよく知ってる。だって、この世界に来たのは2年半前だし、他の人と比べたら馬鹿というのは仕方ないことだと思う。
あと調子に乗るなとかいうのは、ちょっと理解できない。お調子者というのは、辞書で調べる限り私には絶対に当てはまらなかった。
これらの罵倒をなぜ私にぶつけるのか、未だにわかっていなかった。
手紙を前に腕を組んだ私は、誰とも知れない相手に暇人だなという感想しかでてこなかった。でも、呼び出しや脅迫の類ではないことには素直に安堵した。
別に手紙は保存の必要がないと判断し、指で摘まんでごみ箱に捨てた。
あとは勉強して寝るだけなので、その前に買い物だけでもしておこうと思った。
彼との鉢合わせは嫌なので、さっき試した電話で連絡だけしておいた。
一言二言で電話を切ると、買い物に出かけた。
いつもの通りを道順を歩き、スーパーで決まった食材を買い、手早く会計を済ませ帰路に就いた。
あと少しで公営団地に着くというところで、後ろから声を掛けられた。自分ではないと思いたかったが、名前を呼ばれたからには振り向かずにはおれなかった。
後ろには、華早が笑顔で立っていた。今まで、この道で彼女と会ったことがなかったので本当に驚いた。
買い物帰りなのは、手荷物を見ればわかったようで大変そうだねと言ってきた。それに対しては適当に返事をして、帰ろうと踵を返した。
すると、華早が隣に並んできた。
用件を聞くと、私の家にまた招待して欲しいみたいなことを遠まわしに言ってきた。
冗談じゃない。そんなこと許可できないと強く思ったが、そう言うのは華早には逆効果なので、やんわりと彼に夕食を作ってあげたいからと有り得ないことを言い訳に使ってみた。
それを聞いた華早がニヤニヤと嫌な笑いをして、それじゃあ邪魔できないと言って帰っていった。
素直に帰っていく華早を見て、私はこの場にいない彼に感謝した。彼との出会いはイレギュラーだったが、今思うとありがたい存在になっていた。
家に帰り、電話で華早のことを彼に伝えた。電話は直接会う手間を省くので、この世界で流行るのもわかる気がした。
とりあえず夕食を食べた後は、寝るまで勉強することにした。
就寝時間になり、私の今日一日が終わった。
布団に入ると、自然と瞼が重くなった。この世界に来て、ずっと不安とストレスが付き纏っていたが、彼との出会いで少しは緩和された気がしていた。
そんなことをまどろみの中で思ったが、やがておぼろげになり考えが霧散していった。
8 騒動
朝になると、自然に瞼が開いた。
成は身体を起こして、周りを見回した。時間を見ると、いつもの時間だった。昨日何をしていたか思いだしながら、顔を洗うため洗面台に向かった。
そういえば、昨日は日陽と軽く話し、変な警官と会って電話ができるようになったことを思い出した。
今まで使えなかった電話を昨日使ってみて、これは便利だと本気で思ったものだ。
朝食を食べ、登校準備をしているとスマホの電話が鳴った。橙は電話が気に入ったのか、昨日を含め四度も使っていた。こちらも面と向かって言われるより、こっちの方が気が楽だった。
電話の内容は、今から行くけど大丈夫かというものだった。
簡単に返事をすると、すぐにインターフォンが鳴った。どうやら、目の前で電話をしたようだ。
玄関から顔を出すと、橙は片手にスマホを持って立っていた。
「それ、学校に持っていくのか?」
「まあ、便利だし」
橙はそう言って、手に持ったスマホを見た。
「それって、こっちも持たないといけないのか」
「・・・そう、なるわね」
少し間を置いて、橙が困ったように成を見た。
「じゃあ、ちょっと待っててくれ」
仕方がないので、スマホを取りに戻った。
「なんかごめん」
玄関を出ると、橙がよくわからない謝り方をしてきた。
「何が?」
何に謝っているのかわからなかったので、理由を聞くことにした。
「えっと、スマホを取りに行かせたことと、スマホを持たすことを強要したみたいで」
橙は言いにくそうに、視線を逸らしながら理由を口にした。確かに、その理由だと謝られたことも納得できた。
その後はいつもの距離を保ちつつ、二人で登校した。今日は特に何も伝えることがないのか、橙からはなんの言葉も掛けられなかった。
橙と別れ、教室に入った。いつものクラスの風景だったが、成の視線には日陽が色濃く映っていた。(悪い意味で)
授業が始まり、そして終わる。これが続くなんて今まで思わなかったが、この世界に来て続くことが当たり前になっていた。
そんなことを考えていると、突然校内放送が流れた。
避難訓練かと思ったが、避難勧告だった。学校で不審者が暴れているらしい。
今までこんなことなかっただけに、クラス中が騒然となった。
担当教師が、慌てずに学校から出るように言った。
「何かあったのかな」
隣にいた日陽が、不安そうに話しかけてきた。
「さあ」
知らないことは知らないので適当にあしらった。
教師の指示で、並ぶように教室を出ることになった。
成は、一番後ろになるように調整しながら教室を出た。
他のクラスとタイミングが被り、廊下はごった返していた。それを見た瞬間、一歩引いて教室に戻った。
しばらく見ていると、橙が目の前を通ろうとして、こちらに気づき教室に入ってきた。
「ああ、気持ち悪かった」
そして、そんな一言を呟いた。
「状況聞いてる?」
「いや」
「だよね」
成の答えに、橙がごった返している廊下を見て溜息をついた。
ある程度人がいなくなると、教師が成たちを見つけて急ぐように促してきた。
廊下の人数が減ったので、二人で教室を出た。
すると、頭の中に電波が届いた。
『つまんねー!』
この電波はどこかで聞いたことのあるものだった。
「昨日の人ね」
これに橙が、頭を押さえてそう呟いた。
「ああ、あいつか」
それで成も昨日の校舎裏に居た男子生徒を思い出した。
「もしかして、暴れてるのって・・・」
「かもね。もしそうだとしたら、私たちにもとばっちりが来るかもね」
それは面倒だと思ったが、成にはどうしようもなかった。
「わざわざ電波で不満を学校中に響かせたってことは、彼女たちを呼んでいるみたいね」
橙の言う彼女たちとは、おそらく前宮かなえ達なのだろう。しかし、いつ来るかも不明な為、結局避難するほかないようだ。
そう思いながら、校門前に向かおうとすると、横の3年の校舎の上から人が降ってきた。
『つまんねーよ』
その人は普通に両足で着地し、成と橙の目の前で不満を電波に乗せた。
なんでこっちに降ってくるんだと思ったが、今はこの危機を避けるべきだと本能が告げていた。
見た目は自分たちとあまり変わらず、髪が少し長いだけの男子生徒だった。
彼の周りの空気が異様な配分で、戦闘態勢なのはすぐにわかった。
「どうする?」
それを察した橙が、小声でどう対応するか聞いてきた。
成からしたら聞くまでもなく、戦闘回避だった。
成が動くと、橙も動き出した。
お互い的にならないように男子生徒の左右を抜けようと走った。
それ見た男子生徒が、橙に向かって走り出した。どうやら、標的を彼女に決めたらしい。
周りにはまばらに他の生徒と教師もいたが、男子生徒を止ようという動きは見られなかった。この時は薄情者ばかりだと思ったが、この世界の人には彼の動きについて来れないということを後で知った。
男子生徒が殺意を込めて向かってきたのを見た橙は、覚悟を決めたようにすぐさま後ろに下がって迎撃の構えを取った。その動きは洗練されているわけでなく、反射的なものに見えた。
橙は相手の貫手を反射神経だけでかわし、反撃することなく距離を取った。
『おまえ、こっち側の人種か』
その動きに、男子生徒が驚いて橙を睨みつけた。
『だったらどうだって云うの?』
これに橙が、電波で返した。
『なんだよ。同類がこんなに近くに居たのかよ』
『居てもおかしくなかったでしょう。まあ、居ても関わらないと思うけど』
『こんなつまんねー折の中は、俺はもうごめんだ』
『それが騒ぎを起こした理由?幼稚な行動ね』
『耐えられねーんだよ。こんな何もない毎日なんて。俺はここに飼われにきたんじゃねー』
『馬鹿ね。この世界は人権を重視した結果なのよ。来る前に教えられたでしょう』
『ここまでつまんねーとは思わなかったんだよ』
『じゃあ。帰るって云えばいいでしょう』
『そんなこと云ったら、あいつに消されるだけじゃねーか』
『なら、大人しくしてればいい』
『飼い殺しにされるのは御免だ』
『そう。なら、死ぬしかないわね』
橙はそう云って、男子生徒越しに成に視線を送った。あまり察したくなかったが、攻撃しろということらしい。
距離的には不意打ちで仕留めれるのだが、二人の戦いに参戦していいのか正直悩んでいたが、橙のアイコンタクトで戦うことに決めた。
成は、隙だらけの男子生徒に後ろから貫手を放った。
が、後ろの空気の流れを読んだようで、無様にバランスを崩しながらもなんとか回避してきた。感覚は鈍っているようだが、これをかわしたのは昔の勘がまだ健在なのだろう。
男子生徒がバランスを整えようとしたが、後ろの橙がそれを許さず足払いで彼を倒した。
このチャンスに、成はうつ伏せになった彼の背中に乗った。こうすれば相手は立てなくなり、驚異ではなくなることを身を持って体験していた。それは橙も同じなようで、成と同じように両足の方に足を乗せた。
『てめぇら、どきやがれ!』
動けなくなった男子生徒は、必死で立とうとしたが二人の体重を払いのける力はなかった。まあ、当然と言えば当然だった。
「で、どうすんだ?」
下にいる男子生徒を捕らえたのはいいが、成にはどう扱っていいかわからなかった。
「さあ?どうしようか」
それは橙も考えていなかったようで、小首を傾げなら踏んでいる相手に目をやった。
そんな中、周りにいた人たちは呆気に取られている様子で誰も動く気配がなかった。
すると、正面から警官服を着た人が走ってきた。よく見ると、昨日会ったハルトだった。
「えっと、どういう状況だ?」
成たちの現状を見たハルトが、不思議そうな顔で戸惑っていた。
「ま、待ってくださいよ~」
そんな空気を打ち消すかのように、だらけた感じの声が耳に届いてきた。
声の主は女性警官で、ポニーテールのおっとりしたような雰囲気だった。彼女はここまで全力疾走したようで、かなり息切れしていたが、ハルトの方は全然疲れている様子は見られなかった。
「簡単に言うと、暴れてた不審者が下にいる人です」
「取り押さえたのか?」
「ええ、成り行きで」
橙は、少し困った顔で説明した。
「助かるよ」
これにハルトが、笑顔を見せて首を少し傾けた。
「まずは人払いだな」
ハルトは周りの人を見回してから、成と橙と加害者以外の人をこの場から退避させた。
それがひと段落すると、二人の警官が戻ってきた。その間、踏まれている男子生徒は観念してたように動かなかった。
「で、この人、どうするんですか?」
成は、気になっていることをハルトに聞いた。
「まあ、最初は説得かな」
「法で裁かないんですか?」
「ああ、裁けないからな」
「え、そうなんですか?」
これには素で驚いてしまった。
「ちょ、ちょっと!先輩、何言ってるんですか!」
「あ、これ内緒だった」
ハルトがうっかりといった感じで、いまさらながらに口を押えた。
「今のは聞かなかったことにしてくれ」
「少なくとも三人にはバレましたよ」
女性警官は、呆れ気味にそう指摘した。
「まあ、幸いこの世界の人じゃないからオッケイにしよう」
「はぁ~、こんな口の軽い人で大丈夫なんですかね」
「大丈夫だ。次から気をつける」
「はぁー。じゃあ、次喋ったら何か奢ってください」
「おまえは利己的だな」
「失礼ですね。これでも気を使ってるですよ」
「あ、そう」
ハルトはそう言って、女性警官から視線を逸らした。
「あの、とにかく、これを回収してください」
見兼ねた橙が、呆れ気味にそう促した。
「ああ、そうだったな」
言われて思い出したようで、無抵抗になっている男子生徒を見た。
『もう殺せばいい。どうせ生きててもつまんねぇし』
男子生徒はハルトを見上げて、電波で諦めの台詞を吐いた。
『そうか。おまえはこの世界には合わなかったんだな。もっと早く言ってくれれば良かったのに』
『はっ、言ったら殺すんだろう』
『は?そんなことはしない。ただあの世界だと長生きでいないから、この世界に連れてきただけだ』
『嘘をつけ。この世界に来る時、騒ぎを起こせば殺すって言われたぞ』
『ああ、それはただの脅し文句だ。帰りたかったら云えば、普通に帰してる』
成にとっては、ハルトから驚きの電波が発せられた。
「え、それ本当ですか」
これには橙も驚いた様子で、ハルトに言葉で尋ねた。
「え、あれ?知らなかったのか?」
「半ば強引に連れてこられましたから」
「ああ、そうか。ここに連れてこられるのは、おまえ達に教養がないからな。2,3年である程度身に付いたら、どうするか聞くんだけど。まあ、それまでは学校の秩序を守ってもらうんだよ」
「そう、だったんですか」
「まあ、こうやって暴れる奴もいるからな。こうして俺みたいな関係者が出張ってくるんだよ」
ハルトは、突然周りを見回し始めた。
「そろそろ来る頃かな」
そう言うと、上から一人のスーツ姿の長髪の女性が降ってきた。これには驚いて、思わず男子生徒の上からどいてしまった。それは橙も同じだった。
「あ、動いたらダメだ。死にたくなかったら動くな」
男子生徒が起き上がって、成たちから距離を取ったところで、ハルトが慌てた様子で制止を求めた。
そんなこと言うまでもなく、成たちは恐怖でその場を動けなかった。
『死にたい奴は誰かしら?』
その電波は頭に響くほど強烈で、頭の血液がサッと引くほど青くなった気がした。
『落ち着け』
そんな状況の中、平静なハルトが待ったを掛けた。これに成たちは驚いて、ハルトを見た。女性警官だけは、ポカンとしていたことは言う必要はないだろう。
『もう問題は解決しかけている』
『え、そうなの?』
ハルトの電波に、女性の怒気が一気に引いた。よく見ると、前に一度会った美しい女性だった。
『あっそう。ワタシ、来た意味ない?』
『いや、そんなことはないが今回は必要ないな』
『そっ』
女性はそう言うと、ハルトから目を逸らしてこちらを視野に入れた。
『なるほど。騒ぎはこの二人なのね』
『ち、違います』
橙は、か細い電波でなんとかそう伝えた。
『あ、そう。じゃあ、後ろの彼なのね』
女性の視線に、男子生徒が身震いして一歩引いた。
『誰か殺した?』
『わからない、が・・攻撃したのは数十人は居たと思う』
男子生徒は、怯えた様子でたどたどしくそう答えた。
『そっ』
女性はそう云うと、その場から消えた。
すると、後ろからドカッと音が聞こえた。
振り向くと、女性が男子生徒の顔面を殴っていた。それよりも視認できない動きに、成は恐怖で全身が震えた。
『まあ、今はこれを制裁としておくわ。どれだけの被害があったかで追加の処罰をするから覚悟しなさい』
凄まじい殴打だったが、彼は意識があるようでゆっくりと頷いた。
それからは学校は休みになり、各自帰宅となった。
家に帰ったが、なぜだか橙が当たり前のように目の前に座っていた。
「で、用件は?」
しばらく黙っていたが、橙から何も話さなかったので、こちらから話を切り出した。
「成はさ、帰りたい?」
まあ、わかっていたことだが、その言葉にはすぐに返答はできなかった。
「私は・・どうだろう。正直、帰りたくはないけど戻りたいとは思っていたけど、今は少し考えが変わってきているのかもしれない」
「そうか。まあ、こっちもそんな感じだ」
橙と似た思考なら、すぐに結論は出せないだろう。
この世界と自分の居た世界は極端に違うし、生き方も正反対だ。個別と集団。その違いは大きく、今でも成にとっては生きにくいことこの上なかった。だが、橙と知り合って考えに迷いが生じていた。
「まあ、卒業までって言ってたし、それまでに決めればいい」
「そうだね」
成の言葉に、覇気のない声で視線を逸らした。
「今日は帰るね」
「ああ」
一人で考えたいようで、ゆっくり立ち上がって成をじっと見つめてきた。
「どうした?」
何か言いたそうだったので、再度こちらから切り出した。
「戻るにしても、残るにしても・・その、結論が出たなら最初に私に教えて欲しい」
これは意外だった。まさか橙からそんなことを言われるなんて思ってもいなかった。その台詞は、この世界に染まったことを意味していた。
「検討しておくよ」
すぐに答えを出せそうになかったので、先延ばしにすることにした。
「そう・・・」
成の答えに、橙は少し寂しそうな声を出した。
橙はそのまま帰っていき、成一人がこの部屋に残った。
とりあえず今日のことは忘れることにして、いつもの生活に戻ることにした。転校するにしても、卒場までは保留にしておこうと思った。
9 エピローグ
彼と別れて、私は部屋の定位置に座った。
そして、ゆっくりと今日の出来事を頭に巡らせたが、ここ最近は彼のことばかり考えるようになっていた。
この世界では生きていく自信がなかったので、彼との出会いは選択の幅を広げてくれた気がしていた。
そんなことを思いながら、シャワーを浴びてもう一度同じ場所に座った。
今日は食事をする気もなく、勉強もする気にはなれなかった。こんな脱力感は久しぶりだった。
だらけたまま首を横に向けると、ほとんど点けていないテレビがあった。真っ暗な画面に自分の顔が映し出されていて、なんとも緊張感のない顔だと思った。
自分はいつからこんな無防備な姿勢を取れるようになったんだろうと思った。
こんな奇妙な感覚は初めてで、今日はもう寝ることにした。
真っ暗な森の中、私は必死に逃げ回っていた。木の根っこにつまづきながらも足を止めることはなかった。
必死に警戒し、周囲の空気の流れ見逃さないように目を凝らした。
その間、手には護身用のお粗末な武器を創り出した。
それを正面に構えて、背を大木にあずけた。これでは後ろを確認できないが、相手からも見えないので若干安心できた。
『まだまだね』
そんな私の頭の上から、小馬鹿にした電波が降ってきた。
驚きと恐怖で誰かも確認しないで、私は無我夢中で走り回った。
その途中、別の生き物の気配を感じてすぐさま方向を変えた。
何度か後ろを見たが、誰も追ってくる気配はなかった。
もう走ることに限界を感じ、崩れ落ちるように木にもたれ掛かった。
呼吸を整え、周りを見てから上の方も確認した。ここで襲われたらもう逃げる気力は私にはなかった。
『もうおしまいなのね』
それが頭に届くと同時に、身体に痛みが走った。いつの間にか正面にいた人に金属でできた刃物で身体を切り裂かれた。
死んだと思った瞬間、目の前に天井が見えた。夢だった。かなり昔の。
あの痛みもあの恐怖も未だにあったが、薄れてきていることは間違いなかった。
悪夢を見たことで気分は最悪だった。時間を見ると、もう早朝の5時過ぎだった。どうやら、10時間近く眠っていたようだ。
気怠い身体をのそりと動かし、ゆっくりと立ち上がった。
しばらく立ったままぼうっとしたが、気分は良くならなかった。
仕方ないので、勉強で気分を変えようと机に向かった。
1時間程、昨日できなかったことをしていると、不思議と気分も紛れてきた。
いつもより多めの朝食を取り、いつもの時間に家を出ると、既に彼が外に出ていた。これは初めてのことで少し驚いてしまった。
彼に挨拶して、一緒に登校することになった。
いつもの通りいつもの道を歩いていたが、学校に近づくにつれ空気の流れに違和感が出てきた。
これには彼も気づいたようで、恐怖を押し隠すように私を見て逃げようと後ずさった。私もこれには同じ気持ちだったので、彼と一緒に走り出した。
が、こちらの動き察したのか、不快でねぼりっけのある独特の空気が近づいてきていた。
この懐かしくも恐ろしい空気に彼も私も走る速度が増していった。周りの人が驚いたような顔をしていたが、こちらは命の危機を感じていてそれどころではなかった。
できるだけ直線距離を走り抜けようとしたが、人や建物が邪魔して距離が縮まってきている気がした。この時は気づかなかったが、追手はおそらく建物の屋根をつたってきていたのだろう。
このままでは追い付かれるという現実を悟り、彼に迎え撃とうと提案した。
彼は驚いてこちらを振り返ったが、反論はせずに立ち止まって頷いた。
昔から彼女から逃げ切ったことはなく、今の訛った身体では追い付かれるのは間違いなかった。
どうせ戦うなら、人通りのないところが良いだろうということで、すぐ横にあった路地裏に入ることにした。
そこはビルの間で出口には後ろと前だけで、迎撃がしやすい場所だった。
数分で来ると思っていたが、思いのほか来る気配がなかった。しかし、近づいてきているのは間違いない。
恐怖の対象を待ち受けるなんて、寿命が縮まる思いだったが、彼のおかげか前のような無我夢中で逃げるだけの恐怖はなかった。
待っている間、どう対応するかを聞こうとしたが、同じ思考なら聞く必要もないと思い言葉を飲み込んだ。
すると、意外なことに彼が私に逃げてもいいと言ってきた。
驚いて彼を見ると、彼は覚悟したような目で私を見つめてきた。どうやら、彼を犠牲に生き延びろということらしい。
確かに、一人を犠牲にするか、二人で立ち向かうかのどちらかだと思ったが、まさか彼からそんな言葉をもらうなんて思っていなかった。
この瞬間、私から恐怖が消え去り、不思議と戦う意欲が出てきた。
私は、彼の提案をゆっくりと首を振って断った。
これに彼は、馬鹿だと言いながらほんの僅かに口角を吊り上げた。彼のそんな表情を見るのは、初めてで驚きと共に少し嬉しい気持ちになった。
そうして戦う決意したところで、あることを思い出した。
それは前宮かなえへの連絡だった。今まで恐怖が先行して思い付かなかったが、冷静になると即座にそのことが頭に浮かんだ。
スマホを持っていることが、ここにきて功を奏した気がした。
私はスマホを取り出し、拙い操作で彼女の電話番号を探し電話した。
隣にいた彼はそれを見て、訝しげな感じで見てきた。おそらく、勝てないだろうと思ったのだろう。それは私だって同じだ。それでも、小さな希望でも今はすがりたいと思っていた。
3コールほど鳴らしたが、なかなか出てくれなかった。
もうダメかと思った矢先、応答があった。
事情を話すと、すぐに行くと言って場所を教えて通話を切った。
少し希望が出てきたところで、ようやく鬼畜で容赦のない相手が現れた。
『やっぱりここに居たのね』
女性はそう云って、私たちに向かって笑みを向けた。それはトラウマになる表情で、一気に恐怖が甦ってきた。
女性はこの世界でよく見る白のチュニックに七分丈のボトムにパンプスで、あっちの世界の時とは服装が違っていたが、白衣だけはなぜか羽織っていた。そのせいで違和感が強かった。
私は反射的に創った武器を両手に構え、一歩足を後ろに下げた。
『へぇ~、やる気満々ね』
『何しに来たの!』
電波を発したが、震えしまい拙いものになってしまった。
『あら、自分の子供に会うのに理由なんているのかしら』
『どうやって来たの!ここに来るにはあそこしかないって訊いてる』
『ああ、いろいろ学んでね。こっそり時空の穴を別の所に創ったのよ。わたしじゃないけど』
最後は含みのある云い方だった。どうやら、別の仲間がそれをしたらしい。
『さて、質問はもう終わりかしら?それともまだ時間を稼いでみる?』
どうやら、時間稼ぎだったことはバレているようだ。
『まあ、いいわ。さあ、帰りましょう。もうここは窮屈でしょう』
彼女はそう云って、手を差し出して表情を緩めた。
『ふ、ふざけないで。あんなところに帰るなんてありえない』
彼女の元に戻るくらいなら、ここに居る方が幾分もマシだった。
『はぁ~、ここに来るとだいたいそういう答えになるのよね~。親の愛情子知らずって言葉がこの世界ではあるらしいけど、本当にそう思うわ』
その子供を笑顔で切り裂く親なんて、誰が好きになるというのだろう。
『まあ、ナルとクラには、もう少しやってもらいたいことがあるから強引に連れて帰るわ』
捨てたはずの名を呼ばれて、私は一瞬で不愉快になった。というか、彼が自分の名を変えていなかったことは驚きだった。
『そんな名で呼ばないで。私はそんな名、とうに捨てたわ』
『・・・』
私がそう云うと、彼女は不愉快な顔をした。この表情には、恐ろしい記憶が甦り震え上がった。
『せっかくわたしが唯一与えた名を捨てるなんて親不孝なことをするのね』
この人は何を云っているんだろう。恐怖の対象に対して孝行するなんてありえるはずがなかった。
『まあ、いいわ』
何がいいかはわからなかったが、もう時間稼ぎはできそうになかった。
受け身だと確実に負けるのはわかっているので、先手を取ることにした。
それは彼もそう思っていたようで、二人で攻撃を仕掛けた。
『あら、息ぴったり』
そんな軽口を云う余裕があるのか、ゆったりした電波が頭に入ってきた。
私は下、彼は上を狙い攻撃を仕掛けた。
『でも、そのちんけなナイフじゃあ、誰一人殺せないわ』
そう云うと、彼女の手から背丈と同じ長さの鉄の棒を瞬時に出現した。この生成は、今も変わらず健在のようだ。
鉄の棒に私たちの攻撃が防がれたことで、次の攻撃に移った。
私は左から、彼は右から彼女の後ろに回り逆の手に持っていたナイフで切りつけた。
が、鉄の棒を支点にして時計回りに回転して回避してきた。
それから何度も攻撃を仕掛けたが、全部軽くいなされ防がれた。
やはり、この世界でいう科学者は最強だった。肉体の調整、空気からの生成速度に精確さ、知識を得始めた二人では、到底太刀打ちできそうになかった。
『これじゃあ、前と同じ結果になりそうね。がっかりだわ』
一向に反撃をしてこない彼女が、飽きたようにそんな電波を発してきた。
こっちは疲労感を感じているのに、力の差を見せつけられているようでイラッとした。
一度距離を取ると、彼も同じように私の横に付いた。
『やっぱり連れて帰るのはやめるわ』
彼女はそう云って、ゆっくりと歩いてきて、私の胴体に手を突っ込んだ。
私はそれをただ見ているだけだった。私の身体は金縛りのように動かず、隣の彼も同じようで彼女の反対の手が胴を貫通していた。
『さようなら。こんなことなら、もう少し早く連れ帰ればよかった。まあ、いいか。次の実験に移りましょう。面倒な人も来そうだし』
彼女は独り言のように云いながら、ビルを駆け上がりながら去っていった。
それを見送ったところで、私の脚の機能が停止してその場に崩れ落ちた。
ここで終わることを悟り横を見ると、彼も同じように倒れていた。
死ぬ時は独りだと思っていたが、隣の彼も一緒だと思うとなぜだかほんの少しの安堵と嬉しさが入り交じった。
私より先に彼が死を受け入れたようで、こちらを見ながら塵になっていった。彼は無表情だったが、きっと私と同じ気持ちだったのだろうと思った。
私はそれを見ながら、消える前に今まで拒絶していたことを試してみることにした。
生まれてこのかた、人との接触は本能的に嫌悪感と恐怖を感じていた。しかし、どうせ死ぬなら人との触れ合いというものを最期に体験してみようと思った。
私は、彼の手をゆっくりと握ってみた。
しかし、いつものような嫌悪感も恐怖を全く感じなかった。それどころか高揚感と安堵感は心を満たした。
ああ、これがこの世界の人の感じている感性なのだと、この時初めて知った。
最期とはいえ、このことに気づいたのは個人的には良かった。
そう思いながら、私の口角が自然と上がるのを感じた。こんなことは初めてのことだった。
私の人生は満足いくものではないと感じていたが、死に直面するとそんなこともないのかと思い直すことができた。それはきっと隣の彼もそうだったのだろうと、消えていく彼の表情を見て思った。
こうして、似せ者の二人の人生が幕を下ろした。
1― XXX
ワタシは、全速力で現場に向かった。まさかこの世界に別次元をつかって二回も来るなんて予想していなかった。どうやって、パラレルを突破してきたのかいろいろ思うところがあるのだが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
急いで目的の場所へ向かうと、その先に嫌な空気をかもし出していた。
『やばいわね』
見る限り空気中に毒物性のものが漂っていった。こんな街中でそんなものを生成するのは三瀬麗華のクローンのレイしか考えられなかった。
屋根伝いに移動していると、ビルの間から一人の白衣姿の女が出てきた。
『見つけた』
レイは、用事を済ませて逃げようとしていた。
『待ちなさい!』
このまま逃がすわけにはいかないので、強い電波で呼び止めた。
彼女がこちらに気づき、少し笑ってから逆方向に逃げ出した。やはり、逃げる気満々のようだ。
レイが出てきたビルの間を見ると、二人の学生が神経毒の空気の中で倒れていた。手当をするか一瞬悩んだが、レイを逃がすわけにはいかないので、空気中の神経毒だけを取り払っておいた。あとは、前宮かなえ達に任せることにした。
少し身体に無理させるが、逃がすわけにもいかないので、身体を軽くして速度を限界まで上げることにした。
すると、風景が歪み風圧で顔に違和感が出てきた。
『あっと、やっぱり無理だった』
レイに体当たりするように突進したのだが、軽くかわされてしまった。まあ、これは想定内だから問題はない。
『貴女は逃がさないわ』
『もうやめない?こっちのわたしを殺しても、あっちの世界に変わりは幾らでもいるんだから』
『ここに来た時点で、死ぬことを覚悟してるんでしょう』
『まさか、そんなこと思ってもないわよ。そもそもここに来た理由は、わたしの子供を連れ帰る為だったんだから』
『実験体の間違いでしょう』
『それは否定しない』
こっちの云い回しを、レイは飄々と肯定した。相変わらず、嫌な女だ。
『でも、わたしの子供を連れ帰るのは、この国では正当化されているはずなのだけど』
『子供に対して、非人道的なことをしておいて、よくそんなこと云えるわね』
『あっははは~。非人道なんてあなたから聞くとは思わなかったわ』
レイは笑って、こちらを揶揄してきた。確かに、彼女の云う通りあっちの世界では非人道なんて意味不明な単語だった。
『あの二人はわたしの偽者(クローン)とはいえ、この世界の人の血を濃くした分、二人仲良く行動していたというのは少し意外の結果が得られたわ』
幾度も生体実験を繰り返し、それでも足りないという感じのレイを見て、やはりあっちで彼女らを殲滅するべきだと考え直した。
そうと決まれば、まずは目の前の贋者を殺すことにしよう。
『危ないわね』
一瞬で決めたかったが、最速で放った手刀を寸でのところでかわされてしまった。
『不意打ちとは卑怯よ』
0.3秒も間があったのだから、別に卑怯ではないとは思ったが、反論しても意味がないので攻撃を続けることにした。
『ちょ、ちょっと』
慌てている様子だが、攻撃が当たらないことには少し苛立ちを覚えた。相変わらず、科学者のレイは身体の動かし方を熟知していた。
だが、それは初手をかわされた時点で覚悟したことだった。
そこからはビルの屋上を伝いながら、殺意を込めた攻撃をし続けた。
しかし、攻撃は当たるのだが、致命的なダメージがなかなか入らない。これは自分の攻撃パターンが読まれている証拠でもあった。
やはり、この状態では消耗するだけで確実に仕留めれる気がしなかった。
『いつまでそんな時間稼ぎみたいなことしているの?』
そう思っていた矢先、レイが煽るように嘲笑ってきた。
『もしかして、あの状態の揺り返しが怖いのかしら?』
『うるさい』
正直、図星だった。だからこそ、苛立ちを覚えた。
しかし、これで一度仕留めそこなった経験があるので、冷静になり攻撃に工夫を持たせることにした。
打撃中心の攻撃を仕掛けながら、隙を見てタックルで相手の足を抱えて倒した。これは前宮かなえの得意技で、気分が下がる攻撃方法だったが、思いのほかレイにはすんなりと決まった。
ワタシは倒れたレイに覆いかぶさり、手刀で心臓を貫いた。
『残念。その状態でやられるなんて・・・かなり意外・・だった・・わ』
その電波を最期に、レイは動かなくなり顔から塵になっていった。
ワタシは、ここでようやく息を大きく吸って深呼吸した。密着攻撃は極力したくなかったが、レイに通用するならこれからは積極的に検討してみようと思った。それに後遺症も少なく、思いのほかメリットがあることがわかった。
あっちの世界に向かう前に、ハルトに報告することにした。
あまり使いたくないスマホを取り出し、最近可能になった電話というものを使った。音波は創意工夫して、今では流暢な日本語をしゃべることができるようになっていた。これは日ごろの努力のたまものだった。
2コールしてからハルトが電話に出て、レイのことを話した。
彼はかなり驚いていたが、すぐに冷静になって、今からワタシが居る場所に来るという。
しかし、その前にあの二人のことが気になったので、ハルトにはその場所で合流しようと提案した。
ハルトは、二つ返事で電話を切った。レイの上半身が消えたのを見てから、隣のビルの屋根に飛び移った。
数分も掛からず目的の場所に着き、ビルの屋上から飛び下りると、二人の姿はなく、二着の制服と何かうごめくものが目に付いた。
そこには小さな赤ん坊がいた。この世界の赤ん坊の半分くらいの大きさだった。
ああ、あの二人は死ぬ前に契りを結んだのか。それは尊く素晴らしく純粋なものだったのだろう。
それを思うと、目から水分が溢れた。
ワタシは、二着の制服の間にいる小さな赤ん坊を優しく抱きあげた。
すると、前宮かなえが血相をかいて、ビルの間に飛び込んできた。必死で走ってきたようで、全身の体温が異常に高かった。
『お、お姉様。成と橙は?』
この問いには、答えることはしたくなかったので、目を伏せて首を振った。
『そ、そうですか』
『でも、あの二人はこの子を残して逝ったわ』
ワタシはそう云って、赤ん坊を彼女に見せた。
『そう・・ですか』
かなえは悲しそうに、赤ん坊の顔を優しく撫でた。
『レイが来たと云ってましたが』
『あまり意味はないけど、なんとか殺しておいたわ』
『ありがとうございます、仇を討ってくれて』
『お礼は必要ないわ。救えなかったことには変わりないからね』
『それでも・・彼らの死を弔わないと』
かなえはそう云って、静かに目から水分を流した。
ハルトの話によると、別々の所で彼らを見つけた時はかなり衰弱していたらしい。
前宮姉妹と三瀬が、レイの目を盗んで一人ずつバレないように強引に連れ出したと云っていた。
その二人をあっちの世界で犯罪を犯さないように教育して、こっちの世界で語学と教養を教えて高校に進学できるまで面倒を見てきたのだ。泣くのも無理はないだろう。(ワタシでもおそらく泣く)
ワタシの水分は尊さからで、かなえの水分は悲しみという違いはあったにせよ、あの二人の生を思いやれるのなら、彼らの生きてきたことに意味はあったと心の中でそう思った。
すると、赤ん坊が泣き出し、ワタシの腕の中で暴れた。まあ、泣き声は電波でワタシたちにしか聞こえないが、それでも生きたいという力強さは感じた。
それを見たワタシとかなえは、少し表情を緩めて彼らが残した赤ん坊をあやすのだった。
似せ者