深夜徘徊
深夜徘徊
三次会まで終えたところで、ぼくは駅へ向かって走った。今いる都心から自宅まで帰れる電車が、もう最後だったのだ。
十五年ぶりに顔を合わせた同窓生たちに礼と詫びを伝えて駆けだしたが、ホームに上がったところで終電を逃してしまった。
車内から不憫そうにぼくを見る視線を浴びながら、同窓生のうちの一人に電話をかけてみるも、繋がらない。他のメンツへ発信したところで、呼び出し音が鳴り続けるだけだった。
どうやったら彼らと合流できるか考えてみる。まだそんなに遠くへは行っていないはず。ほんの数分前にみんなと別れたところへ行けばいいんだ。もし、そこで彼らと合流できなくても、明日は休み。目に留まったビジネスホテルに泊まって、朝一で帰ればいい。
ひとまず駅からの脱出を試みようと考えたところで、一人の女の人と目が合った。
「あれ」
「あら、湯浅くん?」
赤石さんはぼくを見て、微笑んだ。
通過電車の風が彼女の風を巻き上げた。今まで気づかなかった綺麗なまつ毛が目に留まる。
小学校も中学校も同じだったのに、どうして気付かなかったのだろう。ぼくが知らなかっただけかもしれないのに、彼女の綺麗なまつ毛を自分だけが知っているような錯覚があった。
十五両編成の回送列車が行き去り、まつ毛が前髪に隠れた。
「湯浅くん、今どこに住んでるの?」
「今の電車の終点」
「そうなんだ。わたしは、こっちの電車の終点」
彼女は、反対ホームを指さして、首をすくめて見せた。
少し前髪が流れる。もう少しで、あのまつ毛が見えそうになったけれど、そのもう少しが足りなかった。
「誰かに連絡して、また合流する?」
「田中たちに連絡してみたれど、繋がらないんだ」
「そうなんだ、ちょっと行ってみようよ」
彼女はぼくの手首を掴み、改札へ向けて階段を降りる。二人の足音が反響する。まるで、ぼくら二人を誰かが追っているように音が迫る。
改札を抜ける瞬間、ぼくの手首から彼女の手が離れた。彼女の手があったところは、かすかに汗ばんでいた。
このほんの数分だけでも、ぼくの脈が強く打っているのがわかった。ちょっと飲み過ぎているだけかもしれないけれど。
改札を抜けるのにもたついてしまったぼくを、彼女が手招きで急かす。また手を引いてもらえるかもしれないという淡い期待をしてしまった自分があまりに無粋に思えた。無粋だと思うくせに、手を引いてもらえなかったことを残念がった。
彼女を追って繁華街を駆ける。さっきまでみんながグダグダと屯していた居酒屋の前には、柄の悪いおじさんたちがいるだけだった。見回しても、彼らの姿は見当たらない。
「いなくなっちゃったね」
と、赤石さんは困ったように腕を組んだ。
「散歩がてら、田中たちを探してみようか」
「真夜中の探検みたいで、楽しそう」
なんて賛成する赤石さんの前髪が揺れた。困った顔から、瞬時に明るくなった顔に、ぼくはキュンとした。
「それならさ、みんなに合流しないで、二人で何か食べにいかない? わたし、お腹空いちゃった」
「どこ行こうか」
「築地でお寿司食べようよ。二十四時間やってるチェーン店あるでしょ、名物社長のマネキンがあるところ」
彼女は少しはしゃいだ口調で先に歩き始めた。あとを追うように、ぼくも歩き始める。
ようやく明けた梅雨のなごりを含んだ風が彼女の髪を撫でる。シャツが背中に張り付く。彼女の髪も首筋にへばりつく。時折吹く風がそれらをはがしても、涼しさはなかった。
都心のことはよくわからない。彼女がご機嫌な足取りで歩みを進め、ぼくは道もわからずについていくだけだ。
繁華街を抜けていく。色とりどりのネオンが煌めく。赤、青、黄色、ときどきピンク。それらが彼女の目を煌めかせる。まつ毛を盗み見ようとしていたぼくは、そのキラキラとした目にこころを奪われた。
なんて綺麗なんだろう。
口にできずにいると、彼女がふとこちらを向いた。彼女は「ん?」と首をかしげる。ぼくはすかさず目を逸らしてしまった。
彼女は飲み屋の勧誘も華麗にかわし、夜の世界を弾むように歩いた。
交通量が減った大通りを、二人で突っ切ってみた。普段なら絶対にできない。悪いことをしているようで、スリリングだった。駆け足で渡り切って、息が上がりながら笑う彼女が色っぽく見えた。
路肩の排水溝から排水溝へ走り去るネズミを見つけた。赤石さんは排水溝を覗き込んで、ちゅうちゅうと何かを話しかけている。ぼくも並んでネズミと交信してみようと思ったけれど、恥じらいの方が強かった。
「ネズミたちは何て言ってるの?」
「人間が怖いでちゅうって言ってるみたい、わからないけれど!」
彼女はいたずらっぽく笑う。彼女のペースの渦中にいながら、心地が良かった。
飲み屋が連なる繁華街から、オフィス街に出る。真っ黒にそびえた高層ビルのシルエットを宙でなぞる。「テトリスみたい」と彼女は笑う。
裏路地へ入る。暗闇にぼんやりと自動販売機の明かりが浮かぶ。
「喉、乾いちゃった。なんか買っていい?」
「いいよ」
「わたしは、そうだな、甘い紅茶にしようかな」
彼女は、びしっと伸ばした細い指で、強くボタンを押した。静かな路地裏に響く、ゴトン。
「ぼくは、これ」
ぼくは一番隅にあるボタンを押す。二回目の、ゴトン。
ぷしゅ、の音が心地よい。緊張して乾いた口の中に、甘い炭酸を流し込んだ。
「湯浅くんのそれ、ドクターペッパー? しばらく飲んでないなあ」
赤石さんは、「ちょっともらい」と言ってぼくの手から缶をひったくり、美味しそうな音を立てながら豪快に飲んだ。
ぼくは小さく「あ」と吐き、彼女とぼくの口が缶を介して触れ合う様を見ていた。
「やっぱり変な味がするねえ」
そう言いながらぼくに缶を返す彼女は、愉快そうに笑う。
赤石さんは、ずっと笑っている。見るものも、することも、全てを楽しんでいるようだった。こどもみたいに無邪気さを振り撒いていた。
そうして、ぼくらは、ひと際目立つ看板を携えたチェーンのすし店でお腹を満たした。財布のことなど考えずにすし三昧して、ぼくらの探検は再開された。
彼女はあてもなく「こっちに行ってみよう」「次で曲がってみよう」と道を切り開いていく。
彼女がこんなに行動力のある人だなんて知らなかった。
小学校、中学校の頃の彼女を思い出そうとしてみたけれど、欠片さえも思い出せない。あの九年間で、一言喋ったかどうか、だったと思う。
そんな人と僕が、こうして真夜中を並んで歩いている。不思議でたまらなかった。ドラマのような急展開だった。
そして、彼女に惹かれていく自分がいた。こどもの頃は全くといっていいほど交流がなかった。今日の同窓会だって、彼女の存在を意識していなかった。
それが、今では、彼女を一人の女性として意識している。あわよくば、なんて考える。考えたって、行動には移せないくせに。
浜離宮を越えたところで、フェリーターミナルに着いた。遥か向こうにはレインボーブリッジが見える。
「あそこまで行ってみようよ」
「けっこう遠そうじゃない?」
「大丈夫。夜は長いよ、湯浅くん」
このまま、この夜が終わらなければいいと思った。
あれほど高いところで輝いていた満月は、もうかなり低い。ビルの隙間で、眠たそうに光る。
フェリーターミナルから見える空は、かすかに白んで見える。これは、朝のお告げなのか、都会の明るさなのか、ぼくにはわからない。
彼女と並んで歩き、ゆりかもめに沿ってレインボーブリッジを目指した。
「東京の人って、ゆりかもめのことなんて呼んでるのかな?」
「普通にゆりかもめだと思うよ」
「長いじゃん? ゆりか、とか呼ぶのかな」
「人の名前ぽいね」
彼女は「ゆりかちゃん、ゆりかちゃん」と繰り返しながら、くすくすと顔に皺を作ってエクボを見せた。
潮の香りと湿った風が、さらにぼくらの素肌をべたつかせていく。
お互いの腕が触れ合い、ぼくは反射的に少し離れてしまった。
先ほどまで遠くに見えていたレインボーブリッジがみるみる近づいて来た。思っていたより近い。彼女とお喋りをしながら歩いたから、近く感じたのもあると思う。
もう目の前に虹の橋がそびえる。高架をくぐり、ふ頭の角へ着いた。
赤石さんは、フェンスから乗り出して海を眺めた。ぼくも、彼女の隣でフェンスにもたれた。
もう、朝がそこまで来ている。
もうすぐ、夜が明ける。この時間が終わる。
この感情が、言葉にできなかった。朝を迎えたくないということだけは、はっきりとわかる。
やがて昇り始めた朝日を見て、彼女は声をあげた。
「わあ、見て湯浅くん! 朝と夜の間の空って、なんだか紅茶みたいな色」
目の前で赤く染まる海。僕らの後ろで夜が粘る空。その間の色が、着々と変わっていく。朝に飲まれていく。
それから無言で日の出を眺めた。言葉なんてかわさなくても、彼女が朝の美しさに見惚れていることくらいわかる。その時間を彼女と共有できる、それだけで幸せなのだ。言葉なんて、いらない。
この夜が終わらないでほしいと願っても、叶わなかった。叶うわけがなかった。
「そろそろ、電車が動き出す時間だね」
「そうだね。駅まで送っていくよ」
「よろしくお願いします」
彼女はぺこりとお辞儀をした。揺れた髪から、あの綺麗なまつ毛が覗いていた。
ぼくらは一番近い駅へ。
改札を抜けて、一度立ち止まった。
「湯浅くん、ありがとう。今夜は楽しかったよ」
「うん、ぼくも」
「じゃ、もう行かなくちゃ」
彼女はホームへの階段を降り始めた。
連絡先。と、こころの中で思った。でも、彼女を呼び止めてそれを聞く勇気がなかった。
ぼくは、諦めて自分が乗る路線のホームへ階段を降りる。
もう、彼女とは会えないかもしれない、と思った。それでいいんだと呟いて、自分を納得させる。自分の中の納得しきれていない部分が、彼女を呼び止めろと訴える。
結局、ホームまで降りてきてしまった。
向かいのホームに目をやると、彼女がこちらを見ていた。ぼくに小さく手を振り、微笑む。
そして、すぐにやってきた電車へ乗り込んだ。列車が発進しても、彼女はぼくに微笑み続けていた。
夜、ネオンを浴びて輝いていた目は、朝日に照らされて輝く。
彼女の乗った列車を、見えなくなるまで見送った。
これで良かったのだ。ぼくらはもともと、親しい間柄ではない。十五年ぶりに再会したって、同窓会の場では一言も交わしていない。十五年前だって、覚えていないくらい。そんな関係だったのだ。
たった一晩、夜道を並んで歩いただけ。手をつないだわけでも、口づけをしたわけでも、身体を重ねたわけでもない。ぼくらの関係は、変わっていない。
でも、ぼくに少しの勇気があれば、ぼくらの関係は変わっていたかもしれないのに。
ぼくは後悔の念を断ち切って現実に戻るため、始発に乗って帰路に就いた。
ほんの一晩の二人きりの探検と彼女の綺麗なまつ毛を、ぼくはしばらく忘れられそうにない。
深夜徘徊