闖入者ーあるいは皮膚が膨張するとき

文学猿

闖入者ーあるいは皮膚が膨張するとき

彼女の隣人は、中産階級的中年夫婦で子供はいない。
その夫婦は夜の十時には就寝し、明け方の四時に一度、トイレに行くために目を覚ますのみである。あとは朝の七時までぐっすりと眠っている。

彼は音を立てずに雨どいをつたい、その中産階級的夫婦が住む家の屋根に立った。屋根はツルツルとしていて、土の匂いがした。雨で濡れて、ヒンヤリと冷えた土の匂いだ。
彼の履いたスニーカーは、その屋根の上でひどく滑ったので、彼は誤っても屋根から滑り落ちたりなんてしないように、中腰になり、しっかりと屋根にへばりつくようにして、屋根に手をついて猫のように四つん這いになっていた。

屋根の尾根のような場所に立つと、彼の体勢はだいぶ安定した。背筋を伸ばす。空気を肺の奥にまでキチンと吸い込む。
ここらは住宅地であるから、基本的にはシン、と静まり返っていた。
ただ時々、足先の脈拍が耳元にまで届くように、遠くからトラックや列車が走る音が聞こえる。
それを聞いて彼は、街の核は未だ眠っていないという事を知る。
この向こうでは誰かが働いているんだ、と彼は思った。
僕らのおいしい朝ごはんのための労働はこの時間から始まってるんだ。

彼がそうやって遠くを見つめると、その遠い都市の明かりまでは延々と隙間なく、際限なく住宅の屋根が連なっているように見えた。
屋根の上を辿ってどこまでも行けそうだった。

彼は振り返り、彼女の家の、彼女が眠っている部屋の窓を見つめた。

中産階級的夫婦の家は二階建てで、彼女の住む家は三階建てだった。
彼の目線と同じ高さに窓がある。彼が侵入を試みる窓だ。
今や、その窓の明かりは完全に消え、暗い水で満たされた水槽のように真っ暗だった。そこには彼の姿が映されるのみで、中は見えない。

彼はその窓をひとしきり睨むと、ポケットの中に手を入れ、マッチ箱が入っていることを確かめた。
カラカラと小さい音がした。再び四つん這いになって、そろそろと屋根の傾きを降りていった。

屋根の縁に立つと、窓は彼の頭上五十センチ程にあった。手を伸ばせばギリギリ届く。
そこで彼はつま先立ちになり、手を伸ばして窓に触れた。彼の身体は屋根の縁と彼女の部屋の窓を結ぶような形で張りつめていた。
腕が震え、足も攣りそうになった。
彼女の家と中産階級的夫婦の家との間にはポッカリとした溝が黒々と口を開けている。底は見えない。
それでもなんとか、彼はその窓を開けた。少しづつ手の平を使ってスライドしていった。窓は無施錠であるという事を彼は事前に知っていた。

彼は背骨の反動を使い、屋根の縁に戻る。

そして深呼吸。太ももに乳酸が溜まるのを感じ、彼は身体全体を伸ばしてほぐす。

一拍だけ目をつむり、そして開いた。彼女の部屋の中がここからでも少し見える。
白い壁紙、本棚、映画のポスター……etc.

彼は助走として、膝を軽く曲げると彼女の部屋のその窓枠めがけて、飛んだ。
彼の腕は窓枠を掴むとそこから這い上がり、とうとう彼女の部屋の窓枠の上に身体を収めた。
もちろん、窓枠は彼の身長よりは遥かに小さいので、彼は窓枠の中で膝を曲げ、腰を折りたたみ、ヤンキー座りのような形で身体を収めた。
それで彼は彼女の部屋を覗き込んだ。と言うよりは、彼女の部屋に身を乗り出した。

部屋の中が限りなく真っ暗であると思っていたが、どこからかは光が入るらしく、完全な暗闇を水で溶いたほどの暗さで、彼は窓枠の上から、部屋にあるほとんど全てのモノを見ることが出来た。
床には彼の影が映った。薄く、ボンヤリとしていたが確かに彼自身のモノだった。まるまった影だ。

それを見て彼は身体の奥から湧き上がる充実感のような、全身の皮膚が膨張するような、言いようもないある種の力を感じた。強いて言うならそれは、これから俺は闖入者になるんだ、という自覚であった。


闖入者:突然入り込んだ者、許可なく入り込んだ者。
あるいは、安部公房の短編小説。昭和26年(1951)、雑誌「新潮」に掲載。 昭和42年(1967)の戯曲「友達」の下敷きとなった作品。深夜、足音と共に堂々と男の部屋に闖入した9人家族が男の生活を理不尽なまでの理詰めで取り上げる話。


彼は彼らよりも礼儀正しく、どこまでも静かであろうとした。

透明なただの視点として終始し、静まった水面を汚さぬように、なんの影響も与えてはならない。

彼は窓枠の上で靴を脱ぎ、それを綺麗に揃えて置いた。

爪先からおそるおそるといった様子で、彼は彼女の部屋に降り立った。
足裏の感触から床にはカーペットが敷いてあるようだったが、足元は暗がりに沈んでいて、彼には全く泥沼みたいに見えて、どうもハッキリしなかった。彼は部屋を一通り眺めてから、居心地悪そうに、二、三回首を回した。乾いた音がした。

彼女の部屋はミントの匂いで満たされている。
彼がこの部屋に降り立って、大気を吸ったその時から、ミントの匂いは彼の鼻腔や気管に染み入った。
彼の吐く息にさえ、ミントの匂いが染みついていた。肺は冷え切り、呼吸の度にそれらはヒリヒリとした。

彼は、自分は紛れもないアウトサイダーで、ここには間違って迷い込んでしまったのだ、という感覚を強く持った。
床に映った影を見て感じた全身を巡るあの無敵感はしぼみ切り、どこかへ消えた。

彼は急いでポケットの中のマッチを取り出した。
擦る。
硫黄の匂い。

マッチの火が付くと、部屋は、いくつかの家具は一層暗い影を作り出したが、全体で見れば明るく、柔らかく照らされた。自分の足元もハッキリとした。けばたった緑色をしたカーペットが足元には敷かれていた。

彼はその上を痺れた足を運ぶようにゆっくりと数歩。ベッドの中で布団に包まれながら眠り込んでいる彼女の傍らに立った。
彼女は嫋やかな長い髪を扇形に枕元に広げていた。
その髪はいかにもしなやかそうに、力強くウェーブし、マッチの光を反射しては微かに飴色に光っていた。

彼女はすぐそばに俺がいるなんてことは全くもって知らないらしい。表情からもそれは分かった。固まったようになっていて、ピクリとも動かない。

マッチの火が彼の指先にまで到達し、焦がした。
最初、彼は指先に感じたその刺激がマッチの火によるものだと気が付けなかった。
そのくらいボンヤリと、彼女の顔を見ていた。

彼は燃え尽きかけたマッチ棒を弾かれたような反応をして床に投げ捨て、すぐさま新しいモノを擦った。
マッチの火は生まれ変わったみたいにさっきと全く同じで、彼はその火の下で、もう一度彼女の顔を見た。

薄い唇、鋭い切込みとしての目、滑らかな頬。
語弊を恐れずに言えば、彼女は死んでいるように見えた。安らかに死んでいった者の表情をしていた。
だから、彼女はしっかりと生きていて、朝になれば目覚ましに従って起き上がりこの部屋で一日の準備をする。
そして、その顔の表情を花火みたいにコロコロと楽しげに変え学校に向かう。
そういう類のことが彼にはどうも信じられなかった。
 
とにかく、今この空間に限って言えば、彼女は彫刻や人形か何かみたいに動かず、目をつむっていた。呼吸の気配すら感じられない。
彼は彼女の睡眠を乱すことなく部屋に侵入することが出来た。

そうなると、彼がやるべきことはあと一つしか残っていなかった。
彼はそのために彼女のその嫋やかな黒髪を撫でたいという欲求を抑え、マッチ棒の火を吹き消した。
その焦げた軸木を握り込み、ポケットに入れる。
 
火を消すと部屋は侵入したその時よりも暗くなったような気がした。それでも光はどこからか差し込み、彼の視界を助けていた。
彼は目をつむった。
目をつむると自分の呼吸音ですら、いたく強調されて聞こえた。
彼はこの闖入において一貫して、音を立てるという事を恐れ続けていた。
彼はできることなら、透明な概念のようなものになって、無臭に彼女の部屋の中に闖入したかった。
それは全くもって素晴らしいことのように彼には思えた。
 
目を開くと、もう闇に慣れていた。鼻もミントの匂いを感じなくなっていた。あるいはそれは麻痺であったのかもしれないが。
彼は表情を殺したようにして彼女のことを見つめた。彼女はピクリとも動かず、裏返された時計みたいに眠っていて、今から彼がしようとしている事に全くもって無関心であるように見えた。
 
いや事実、彼女は何も知らない。
 
彼はそこから目線をずらし、マッチ箱を持つ自分の手元を見た。彼女の部屋の暗がりの中で、彼の手の像は何だか屈折しているようにも見える。
彼はこの場の全てのものに逆らうようにして、マッチ棒に火をつけた。
今度は何にも目をやらず、ただマッチを持つ手を真っ直ぐに突き出した。
そして、それを彼女の胸元あたり、布団をかぶっているその位置の上に持っていく。
彼女のかぶっているストライプ柄の布団のその生地質さえもがマッチの火の下では鮮明に見えた。

彼は今、右手の親指と人差し指でマッチ棒を挟んでおり、彼が見つめていると、マッチの火は恐るべき勢いで彼の指に迫ってきているように見えた。
彼は急かされるような形で指たちを擦り合わせ、火を彼女に落とした。
 
それからは全てがゆっくりと進行した。
火はクルクルと回転しながら彼女の下へ落ち、しっかりと彼の狙い通り彼女の胸元あたりに落ちたが、所詮はしがないマッチ棒の一本でしかないので布団に僅かな焦げをつくっただけで、立ち消えるように消滅した。煙も立たず、後には忘れ去られ干からびた、もやしのようなマッチの軸木だけが残った。
彼はそれを最後まで眺め、彼女の上にマッチ棒を残したままで踵を返した。
それだけで彼の目的は達せられた。
 
 再び窓際に立つ。彼は最初と同じ姿勢のまま、部屋を見下ろした。
ここからでも彼女の姿は見える。が、彼女は確かにその心臓を動かし、寝ながらも呼吸をしていた。
空気を吸い込み、二酸化炭素やらにそれを変換していた。
 
もうそこは彼の居場所ではなかった。もちろん元より、そうではなかったのだが。
彼は彼女の部屋に背を向け、靴を履いた。足を靴の中に収め、靴紐を結んだ。
顔を上げると隣の家の屋根がいやに遠く見えた。高低差の関係か何かだろうか?

とにかく彼は少し足が震えはしたが、それを無視しようと努めて、再び飛んだ。
のだが、彼の足はやはり震えていた。どうやっても

それだけはどうにもならなくて、彼は隣人の家の屋根に着地をしたその瞬間、大きく膝をついてしまった。
身体に力が入らず、何かにエネルギーを吸い取られてしまったような倦怠感が身体を覆いきっていた。彼女の部屋から出た途端にそれは襲ってきた。

体勢だけは何とか持ちこたえて屋根の上に座った。そして、彼女の部屋を外から見た。

部屋は月の箱庭みたいに見えた。そこは彼がいる外側とはまるで違う雰囲気を湛えているように見えた。
部屋は繭みたいで、その繭の内側で彼女は毎晩眠っている。俺はかつて、その空間への闖入者だったのだ。確かに。

彼女の家の外壁が明かりを反射した。
どこからの?

屋根の下が騒がしくなった。いくつかの足音と物音。
活気と気配、屋根越しに話し声が聞こえる。

「なんか大きな音がしなかったか?」と中産階級的中年夫であろう男の声が言った。
「ええ、そうね。天井から聞こえた気がするのだけど」と中産階級的中年妻であろう女の声が言った。

ああ、俺の膝の音だ。彼はすぐにハッと気が付いた。彼の崩れ落ちた音は屋根の下の空間で大きく響いていた。

その会話を聞いて彼は実に臆病になり、膝はガタガタと震え、心臓も激しく鳴った。

彼は、この行為が彼が想像もできないほど広くにまで露見してしまうことを恐れていた。そのために音を出さずにここまで来たのに。

彼は笑う膝を抱えながら、無茶苦茶に屋根の上を走った。
もう音のことは気にしなかった。とにかく速く、崩れ落ちそうになる度、地面に手をつき、止まることなく走った。

そして家にたどり着き、布団に潜った。それで蓋をして、死んだように眠ろうとした。

けれども、しばらくの間、心臓は飛び跳ね続け、目もガンガンに冴えていた。
いくつかの悪い考えが彼の頭をよぎり、道に取り付けられていたいくつかの監視カメラのことやあの時、連なった屋根の向こうにいたあの人々のことを考えた。

それでもあまりに疲れすぎていたので、彼は全身が解体されるような途方もない疲労を感じながら、殴られたように今は眠った。


Fin.

闖入者ーあるいは皮膚が膨張するとき

闖入者ーあるいは皮膚が膨張するとき

安部公房の「闖入者」を下敷きにして書かせていただきました。 「闖入者」との違いは誰の傷つかず、誰も死なないところです。ただ女の子の部屋に闖入するだけの話です。

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更新日
登録日 2020-07-04

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