鮮明に、ただ青々と冷え切って

文学猿

鮮明に、ただ青々と冷え切って

わたしは崖の下を覗き込むようにして前のめりになっているヨウト君に近づきました。

足音を殺していました。そっと、彼の背後に近づいたのです。

空が青いです。ヨウト君はその青によく映える白いパーカーを着ていました。
その布地があまりにツルツルしていたせいです。わたしは思わずヨウト君の背中に触れました。

わたしの手がヨウト君の背中に触れると、彼の背中は少し汗で湿っていて、それが一瞬だけわたしの手に吸い付くように接して、それからヨウト君の「え?」という、喉の奥から発せられたような呆けた声がわたしの耳に届きました。彼の塊は水のような重みがあり、それが最初はなかなか動かなかったのですが、わたしがさらに、さらにと力を加えていくとやがて、水のような重みは無抵抗であったために徐々に傾いていきました。
彼は身をよじって、崖から逃れようとしました。でも、それは圧倒的絶壁とわたしの手を前にしてはてんで無駄で、そうして翻った彼とわたしの目が合いました。

彼の、ある状況下でしか見られないあの、特殊な表情を見つめているうちにわたしは、彼の顔、その右目の下にほくろを一つ見つけました。ヨウト君はわたしの顔を眼球に映しながら、ベットに沈み込むように仰向けで落ちていき、大きく両腕を振り回していました。この段になっても空は無関心に快晴のままです。全てがゆっくりと進行しているように思えました。


 
既にお察しかもしれませんが、これは告白文です。 
わたしは今まで、このことを誰にも打ち明ける事が出来ませんでした。
ので、このように文章にしているのです。
けれども、この文章にしても教会の閉ざされた一室で書かれ、わたし自身によって一度だけ音読されたのち、火にくべられるというどこまでも完結したどこにも行かない文章なのです。何にも発展しないものなんです。
 
だから、あなたがこれを読んだとしても得るものは全くありません。
 
いいですか?ゼロです。ゼロなんです。

それに、わたし自身がこの一連の行動について未だに具体的かつ実際的な記憶や実感などを持てていないのです。あるのはその行動はどこかキリリとした明晰夢のような場所にて行われたんだ、という妙な確信と手の平の感覚のみなのです。そういう意味においても、この文章は不毛なのです。

以下はわたしのその行動を表面的な動作と僅かばかりの心象においてなぞった文章です。
動機、合理性そして共感できるかwなんてものは一切考慮に入れておりません。
そういったモノが欲しい人は八百屋かケーキ屋にでも行けばいいじゃないですか?叩き売りですよ。
まったく。

得るものが無いと、反面教師にすらならないと、そうご了承いただいた人だけが読んで頂ければと。
もちろん、仮定としての“あなた”であり“読者”です。こんなものは誰にも読まれません。そんな事くらい、分かっていますよ。



わたしはその頃、食いはぐれた意志のようなものを身の回りにヒシヒシと感じ続けていました。

分かるでしょう?

本当に、食いはぐれた意志というのはいたるところにあるものです。
例えばですが、聞き流される授業、読まれない手紙、モチベーションが揃わない運動部のチーム、、、もうあげたくないくらいです。とにかく、わたしはそういう事に対してあまりにも敏感でした。そしてそれらを一つでもいいから救おうと懸命になっていました。

それがまず、発端です。

ある日、わたしのことをデートに誘ってくれたヨウト君を拒み切れなかった原因もそれであるように思われます。
「今度の日曜日に自然公園に行かないかい?二人で」とヨウト君はわたしに言いました。

そう言われてわたしは、一拍だけ目をつむりました。
正直なところ、わたしはヨウト君に対しても自然に対しても全くと言っていいほど興味がなかったのです。けれども、目を開きヨウト君のその顔を見た瞬間にもうダメでした。

それでわたしはその誘いに対してOKを出し、心温まる週末の自然公園に二人きりで行く事になったのです。

その日曜日は頭から気持ちよく晴れていました。よく冷えたビールのように爽やかな快晴です。
飲んだことがなくても、ビールというのはこんな感じなんだと思わせてくれる、そういう晴れでした。空気は冷え、引き締まっています。

わたしとヨウト君は朝の八時に池袋駅の東改札にて集合しました。それから西武線へと移動し、小〇町にある自然公園へと向かいました。自然公園は遠いのです。電車で二時間もかかります。

電車に乗っている間、ヨウト君は色々なことを進んで喋ってくれました。どれもわたし的にはよく分からなかったし、興味もなかったのですが、彼のする模試やら偏差値やらの話を「うんうん」といった感じで聞いていました。

そうやって頷きながらわたしはずっと、早起きしてお弁当箱一杯に詰めた、だし巻き卵のことを考えていました。
彼らは今も、わたしの足元に置かれたリュックの中のお弁当箱で電車に揺られているんだと考える事で、わたしはヨウト君の話を聞いていて湧いてくるであろういくつもの感情を無いモノとしてみなす事が出来ました。

自然公園も当然のようによく晴れていました。穏やかな晴れです。

それでわたしたちはお昼までの間、芝生の広場でヨウト君が用意してくれたバトミントンやらサッカーボールやらを使って遊びました。
そのうちに太陽が徐々に地面を熱し始め、わたしの背中からは汗が吹き出し、気持ち悪かったです。服が背中に張り付きました。

そうしてお昼ごはんです。ヨウト君はわたしが持ってきた、だし巻き卵で埋め尽くされたお弁当箱を見ても全く文句は言わず、黙々とモグモグ食べてくれました。だし巻き卵たちは青空の下で誇らしげにしていましたし、その一口目を食べたヨウト君の顔は(口には出さないにしても)とても満足そうにしていました。それを見ただけでわたしは、ほんの一瞬だけですが、つまらない模試の話もバトミントンで疲弊した足も汗でベタついた皮膚も許せそうな気がしたものです。

ここで少しだけヨウト君について書きます。

わたしはヨウト君の性質についてこの文章で触れていいのか、かなり迷いました。なぜなら、これを書くことによって最初に宣言した文章の趣旨が損なわれ、文章全体の印象が大きく変わってしまうのではないか?と考えたからです。

あなたはこれが「行動」の動機になったのでは?と思うかもしれません。いや、多分そう思うでしょう。けどね、違うんですよ。真面目な話。それだけはここに明記させていただきます。
 
単に参考として、ヨウト君の性格、性質について書かせてもらいます。

ヨウト君はあらゆる面において真面目で優秀な生徒でした。彼は熱心に授業ノートを取り、キチンと試験勉強をして定期テストでは常に良い成績を残していました。

誤解されては困るのですが、わたしは別に勉学に前向きに励むような種類の人間を軽蔑したりするつもりは毛頭ありません。何かの確固たる目標のために努力しているのであればわたしは平等に敬意を抱きますし、そうありたいとも思っています。

例えばです。

ある時、生物教師が言いました。

「一年草というのは一年間のうちに芽を出し、花を咲せ、実を付け、そして枯れていくという種類の植物なんですね。つまりそれは、植物にとって厳しい季節である冬を種子の状態で過ごすための工夫という事にもなります。一年草について、どうも私は彼らが全く同一の個体として、不死鳥みたいに生き続けているように思えるのです。特に一年草が群生している草原なんかを見るとです。」

それを聞いて、後半さりげなく挟まれた生物教師の個人的見解にわたしは「へぇー」と思いました。

ヨウト君がどう思ったかなんてことは分かりません。
でも、とにかく彼は先輩から貰った試験のケイコウと先生の話を照らし合わせて、彼なりの基準に合ったものだけノートにメモをしているのです。実に彼はそういう人間であったのです。彼の努力は完全にテストの学年順位や点数のためだけに行われていたのです。彼の関心は順位と点数のその純粋な数字性にしかないように思えます。

先ほども書いた通り、わたしは対象は何であれ、努力している人間には一様に敬意を払おうと思っています。けどね、いや……さすがにそれは無いでしょと言った感じでした。ヨウト君は。でもこれは一切、わたしの行動には関係しません。本当です。

だし巻き卵を食べ終えると、わたしたちは探索に向かいました。お弁当の腹ごなしです。

自然公園は西東京に位置する途方もなく巨大な公園で、あの芝生広場を除き、崖やら山やらの地形を手を加えることなく残しており、植物たちに関しても彼らの生えるまま、その遷移や植生に一切を任せるというまさに“自然”な公園であったのです。
なのでわたしたちはその隙間にささやかに設けられた木製の橋を渡るようにして公園内を歩き回りました。草原があり、太陽の光も届かないような深い森がありました。
鳥が鋭く高い声で鳴きます。

一時間ほどでしょうか?

わたしたちは腰の高さもある草原の中を歩いていました。

すると、ヨウト君がふと橋の脇に錆び切った看板を見つけて、それに顔を近づけながら「この辺りにカルストの断崖があるらしいよ」と空回りするほど明るい声でわたしに言いました。
わたしはカルストの断崖というものがヨウト君にとってどのような存在なのか今一つ掴み切れていないところがあったので、控えめな笑顔を作り、関心を持ったようにして「へぇ」と言いました。
それでヨウト君は辺りを見回しました。でもここらは一本道です。どこにも崖へ向かうような道はありません。
ヨウト君はまだ懸命に辺りを見回しています。それでわたしは何も言いませんでした。

その内にヨウト君が看板の地図とこの辺りの地形を見比べて「こっちじゃないかな?」と草むらの奥を指さしました。

彼はかのカルストの断崖に吸い寄せられるようにして橋を降り、草むらへと足を踏み入れました。こちらは振り向きもしません。
わたしは草むらに分け入っていくヨウト君の肘や足に触れる草の一本一本が見えました。そして、多くの一年草達が彼に踏みつけられました。彼らは木製の橋によってその成長を守られていたのに、こうなってしまってはもうダメです。

わたしはしょうがなく彼の後をついて行きました。彼の通ったあとの草は倒れたまんまだったので、わたしは歩きやすかったです。

それでずんずんいきました。そうすると、唐突に草むらが開けて、崖がその姿を現しました。類まれなる天然の崖です。フェンスも柵もありません。ここらには人が立ち入らないのですから当然でしょう。

ヨウト君は随分と頬を紅潮させていて興奮しているようでした。

わたしは遠くを見ました。崖の向こうは開けていて、随分遠くまでが見えました。森の緑が続き、その遥か奥に住宅が見えます。それで、わたしは惹き付けられるように霞んだ住宅群に目を凝らしました。

ヨウト君はまさにその時、実に前のめりになり、崖から身を乗り出していたのです。崖の下には何かしら、彼の興味を誘うモノがあったのかもしれません。彼は覗き込んでいました。

わたしは遠くを見るのに疲れてしまって、ボンヤリと空があおいなーとか考えていました。

それで、再度ヨウト君の方に意識を向けたのならば、ヨウト君は真っ白なパーカーを着ていました。本当の真っ白でした。
目の前に広がる無垢な青空によく映えていました。わたしはこの時点で初めて、ヨウト君のパーカーが白色であるという事を発見したのです。

わたしは彼のパーカーに染みが無いことを確認しました。ヨウト君には染み一つ無かったのです。本当に。

わたしは手を握りしめ、開きました。

そうして、。

わたしは、ヨウト君を、崖の下を覗きもせず真っ直ぐに帰路につきました。

しばらくして、わたしはキチンと一種の正気に戻りました。
わたしの意識を真に苦しめたのは全てここからの出来事です。
 
わたしは温かい布団に包まれた中で「自分は、確かに、ヨウト君を、突き落としたんだ」と自覚し、途端に恐ろしくなりました。
彼はまだ、あの崖の下で痛みに震えてうずくまっているのです。あるいはペシャンコになって冷たくなっているのです。
霜が降り、土は冷え切るのでしょうか。虫が鳴き、動物たちの目が鋭く光るのでしょうか。
今もまさに。
窓の外が暗いです。街に音はありません。

わたしはまだ掌に張り付いている彼の湿った背中の感触を思い出し、それを剥がさんとするようにして、手をあらゆるものに擦り合わせました。
何回も何回もそうしました。
 
もう何時間かで、みんながヨウト君の不在に気が付いてわたしが疑われる、そう思い、そこに伴う途方もない量の悪意を考えると、到底ねむれませんでした。
 
わたしの中では既に、ヨウト君は目の下のほくろとあのパーカーの白とのみに集約されていたのですが、わたしはとにかく恐ろしかったのです。
 
何が?

何がでしょう?

そして、ここからが特筆すべき点なのですが、何時間経とうが、何日経とうが、数か月が経った今ですら、誰もヨウト君の不在を指摘しないのです。
もしかしたら気が付いていたのかもしれません。だって人の不在が誰にも気が付かれないなんて、あんまりじゃないですか。
けれども、誰もわたしに対してその事を尋たりしませんでした。

それでも最初の数日間、わたしは先ほども書いたような悪意たちに怯えて、震えのあまり、学校にも行かれませんでした。
一日中布団にこもり、母親が自室の扉の前に運んでくる食事も喉を通らないくらいです。
ひたすら、電話の着信音と玄関のチャイムに怯えていました。
わたしのLINEもたくさんの通知音を鳴らし、その度にわたしは毛布を深く被り、ついにはスマホの電源をオフにしました。
そんな様子で、三日が経ちました。それでも我が家に警察からの電話があったり訪問があったりするような様子はありません。

その頃から、わたしは誰からも疑われていないのでは?という希望的観測を抱き始めました。あるいは、ヨウト君は実は助かっていて、生きていて、命からがら生還していて、わたしの行為に対して口をつぐんでくれているのではないかとも考え始めました。

えへへ、階段から落ちちゃったんだwwみたいに。
 
それで、わたしは恐る恐るスマホの電源を入れました。LINEのトークを見ました。わたしの指は震えていて、頭は恐れの余りクラクラとしていました。
まるで本当の熱病みたいでした。
 
けれども、トーク画面は(わたしに宛てられたメッセージについてはという事ですが)三日間も音信不通で欠席しているわたしについて心配した連絡が大半を占めていました。
 
誰も、ヨウト君について触れていないのです。
 
わたしはそれを知り、もう既読が付いていたので「ごめんねー、スマホが壊れちゃってたの!風邪をこじらせただけだから、明日から学校行くね」と友達に連絡しました。

そして学校に行きました。
わたしはマスクをつけることにしました。
風邪をひいていたという設定もありましたし、みんなにどんな顔をして話せばいいのかが皆目見当がつかなかったからです。
マスクをつけるというのが一番、最もらしい行動であるように思われました。

マスクの下からでも分かるように大きく笑います。
目尻を大きく引き上げ、肩を震わせます。
そうするとわたしの正面にいた二人の友人も応えるように笑いました。
わたしの耳元で髪が揺れて、視界の端にいた数人の友人が見え隠れしました。

ヨウト君の机には誰も座りません。教師も出欠を取っていないようですし、彼の名前も呼びません。ある日、ふと気付くと机も撤去されていました。

わたしは、この手のひらの感触を誰とも共有することが出来ないのです。
これを書いている今も、その感触はわたしの表面にしっかりと残っています。

でも本当に、誰にも伝える事が出来ないのです。

誰かにありのままを話し、それが切り口になって、そこから全ての行為が露見する。それがわたしの一番恐れている事態でした。

結局、そういうことを信用し話せる友人がわたしにはいなかったのです。

これを書き上げ、音読して、それでもこの感触が消えないかもしれないという事を考えると今も恐ろしいです。
出来ればいつまでも書き上げたくなんてありません。このまま、希望的観測を残しておきたいのです。

でも、もう書く事がないんです。
だってヨウト君が化けてわたしの枕元に立つなんてこともありません。
どのような小説的出来事も起きません。暗示的なことも、象徴的なことも何も。

みんなそのままなのです。
わたしも、わたしの友人たちも。ヨウト君だけは透明になったみたいにいなくなったままですが。
 
そうして、暮らしながらわたしの手の平にはいつもヨウト君の背中の感触が張り付き、瞼の裏には彼の右目下のほくろとあのパーカーの白が浮かびます。
それらはいつまで経っても鮮明に、ただ青々と冷え切っています。


Fin.


※この文章は実在する人物とは一切関係ありませんし、書く上で参考にした人物等もおりません。

鮮明に、ただ青々と冷え切って

読んでくれた人へ、
あからさまな宣伝です。
料理で大失敗して火事になりかけた事はありますか?
彼は“何か”に気を取られたために炒飯を焦がしてしまったようです。
ごま油 https://slib.net/98429

鮮明に、ただ青々と冷え切って

これは告白文です。 わたしは思わずヨウト君の背中に触れました。 彼の背中は少し汗で湿っていて、それが一瞬だけわたしの手に吸い付くように接して、それからヨウト君の「え?」という、喉の奥から発せられたような呆けた声がわたしの耳に届きました。彼の塊は水のような重みがあり、それが最初はなかなか動かなかったのですが、わたしがさらに、さらにと力を加えていくとやがて、水のような重みは無抵抗であったために徐々に傾いていきました。 彼の、ある状況下でしか見られないあの、特殊な表情を見つめているうちにわたしは、彼の顔、その右目の下にほくろを一つ見つけました。

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更新日
登録日 2020-07-01

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