愛曰く

秋邑 茨


 愛曰く 

     一


初めに、ことばがあった。
ことばは神であった。
  この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
  
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。


 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた……のだろうか。
 煌々と照らす、青白い水銀灯は恒星。地表を覆う、砂まみれの床は月面。
 ここは宇宙空間の一角。僕らは、忙しなく働く、ありんこ。石ころかもしれない。
 高橋嘉人(よしと)は、テニスコート四面分ある広さが自慢の鋳物(いもの)工場で、夜勤のアルバイトをしている。昼夜逆転の生活を始めて二年。ひとり言は多くなるし、親が言うように、いったい何をしてるんだって気にもなる。
 世間に追いやられたみたいに思えて、気持が萎えて、逃げ出したくなる時は 「初めに、ことばがあった――」 記憶にある聖句を唱えれば、何とかなる。だから、やれるだけやってみようと思う。
 こんな気持になれたのは去年の秋、端材置場の片隅にいた瀕死の迷い猫をみんなで病院に連れて行って、命を取り留めたと告げられた瞬間、
「ケ ビエン!」 「ブラーボ!」
 みんなで叫んで歓喜して、ハイタッチを交わし合って、仲間になれた喜びがこみ上げて泣いている僕を、笑う奴がいなかったから。ここに来れば、人間がいるからだ。
「テルミナード!」
「ああ」
 いつもこうだ。小屋的存在の塗装ブースは、終業のベルが聞き取れなくて困る。自費で買った耳栓をしているホセに知らせるのは、僕の役目。だから、
「ホセ!」
 エアーガンを背中に吹きつけてやる。
「ワオ!」
 ついでに自分の全身もくまなく。
「おどすなヨ、シト」
「おどかすな、嘉人だ。行ってるよ」
 フォークリフトと鉄パレットの間をすり抜け外界に出ると、重厚な靴音を立てて外階段を上る  “シャワー組” と、その下の自販機を囲んで(たむろ)する “自販機組” が、賑やかすぎるのはいつもの光景。朝陽が眩しく目の毒だが、黒光りの笑顔を見ると、一日が終わった実感がわく。
「ヨシトオ」
 ブロック塀の前でしゃがみ込んでいた、成形現場のアーロンが立ち上がって、 「おつかれ」 の手の平を叩き合わす。白い目だけが際立つアーロンが、飲みさしの缶コーヒーを振り何やら言っている。
 朝食代わりにしているコーヒーを 「飲まないのか?」 そう訊きたいのだろう。
(今日はいいんだ。) 首を横に振り、 (もう行かないと。) というゼスチャーを親指を横に向けて表現して、
「グラシアス、アーロン」 言って踵を返す。
 赤(さび)色の鉄階段の手摺に手を掛けると、今度は自販機組のリーダー格、夜勤組の長老ルイスが (シャワーを浴びないで帰る気か。) 怪訝な顔を向ける。Wワークに向かうシャワー組に先を譲るのが夜勤組の不文律。だから (オレたちは後だぞ。) と言いたいのだ。
 僕はシャワーを浴びる恰好をして見せて、人差し指の内側同士を合わせて、人と会う意思表示をし、指を一本顔の前に立て 「シャワー組で一番に浴びたいんだ」 言葉に出して階段を上がった。
 やがて帰国する彼らは、挨拶程度の言葉しか覚えようとしない。班長は 「ぺルビアンとしての誇りが許さないんだろ」 と無関心に言うけど、それだけでない事くらい彼らを見ていれば分かる。
 踊り場まで上ると、
「ヨシト、ま(っ)て」
 ワセリンを塗ったテカリ顔のホセが、階下で呼び止める。不自由なく会話を交わせる唯一の男だ。
「ようじあるの? シャワーつかうノー」
 ルイスが話したのだろう。
「人と会うんだ。でも間に合うから大丈夫」
「こ (ん) でるよお」
 五歳若いぎりぎり二十代のホセは、階段を駆け上がると 「ニヤ」、 僕の肩をたたいてあっさり追い抜く。余力さえ残っていない僕にはとても真似できない。
 休憩室の隅っこにある樹脂製ベンチに座って、順番待ちに加わる。この時間にここにいるのは、非正規労働者の僕ら、夜勤組だけだ。
「ヨシト」
 ホセは顔をクイッと曲げて、先頭の丸椅子に座るように促す。先に並んだ全身煤だらけの四人も、様々なゼスチャーとスペイン語で、順番を譲ってくれた。
「グラシアス」
 五人に礼を言い、先頭に移動すると、
「もんだいないお、やくそく、たいせつよお」
 ヴィクトルが言ってくれた。初めてだった。ホセ以外の男から文章になる日本語を聞いたのは。
 日本語の話せない (故意に話さないのかもしれない) 二人の男が乾いた白い歯を剥き出して、指を三本。
「3かい、あらいなさいて」
 砂や塵埃(じんあい)に、有機溶剤とオイルの混じった汚染物質にまみれた生産現場では、一度や二度のシャワーは意味を成さず、三回洗ってようやく私服を着る気になるのだけれど、僕は二回。下着を含めた衣類を黒系に統一して、家族を含めた人との接触を避ければ、何とかなるものだから。何より余力が残っていないから。
 ハー、エストゥペンド ♪
 シャワー室から陽気な歌が聞こえてきた。
 ハー、エストゥペンド~
 手前と奥の男も歌い出す。
 オウ! オーオ、ノソートロス~
 オウ! オーオ、ボソートロス ♪
 三人ともなかなかの美声だ。
「どこにそんな元気が残っているの」 「何て歌ってるんだい?」 「ペルーではポピュラーな歌なのか」 英語さえ話せない僕には、訊くこともできない。でも気持は分かる。
「今を満喫したい」 だ。
 
    

     二


 鎌倉街道の東側。丘の上にあるはずの、小学校が……見えた。
 一面田んぼだった場所には、昭和五十六年春以降に建てられた戸建住宅が軒を連ね、おたまじゃくしやザリガニとりに明け暮れた小川は、コンクリートで固められた用水路に、変わってる。うえに干上がっている。
 なだらかと思い込んでいた坂道は、かなりの勾配で、結構な距離がある。家族そろって初詣に行くのが慣例だった神社から、古きよき時代を想起しながら、 「歩いてみっか」 なんて悠長に構えたのが運のツキ。休むにしても、ガードレールか地べただけ。さてどうする。
(引き返すの? お兄ちゃん……) 
 尻を白くして帰ったら、叱られるだろ。母ちゃんに。
 でも、
「何をサボってんだ丸山あ、グランド二十周!」
 に比べりゃ屁でもねえか。 
 意を決して踏破した高みに広がる風景は、ほぼ記憶のとおり。プールも。体育館も。当時のまま。遊具の類も。
 背中の団地は、三十八年前よりずっときれいなオフホワイトに変わっているのと、ベランダのあちこちにあるBSアンテナに見られている感じ以外は、何ら変わらないのだが、あれ。
 向かいのあいつ。
 校舎の耐震補強材 「X」
 どうにも気になる。
 団地には、コールド勝利が至上命題のような、甲子園球児を輩出した (滝沢くんと尾崎くん。) ほど強い野球チームがあって、強さの陰には猛練習が欠かせなくて、猛練習には悔し涙がつきもので、そこにはあの 「X」 みたいに仁王立ちした、泣く子も黙らす鬼コーチがいた。
 練習中に腹の痛みを訴え出れば、 「オレが治してやる」 となぜかキレられ、 「治りました!」 と言うまで止まないノックの嵐。一打逆転のチャンスに見逃し三振をしたシゲオくんは、バットを見つめて首を傾げたばかりに買ったばかりの圧縮バットを 「バキッ!」、 真っ二つに折られて 「やめちまえ!」
 何かの仕置きで 『ケツバット』 をくらった安藤くんはもっと悲惨、病院送り。だけでは済まず、 「原因を作ったお前が悪い」 と親にまでひっ叩かれたとか。
 我が子も他の子もなく、叱り叱られるのが当たり前で、本気で向き合う大人がお節介なほどいた時代。だったとしてもだ。
 彼は何を思って虐待まがいの 「指導」 をしたのだろう。って思いがいまだに消せない。世が世であれば刑事事件、ワイドショーの格好の餌食、SNSでふくろ叩き。って、
「そういうことを言ってんじゃねえんだよ、俺は」
 加害者は悪人と決めつける現下と違い、 「ぼくらにも非はなかったかな」 って話し合ったり、 「非は有りました」。 素直に認め反省もした。いや、腹イタを起こすほど慚愧の情に駆られたものだ。なのに、 「コーチにだって、或は、〇〇君にだって良い所はあるよね」 って相手を思いやる気持を、どうして育てようとしてくれなかったのだろう。
 あれは、いつもキャッチボールをする佐久間くんと、何かの理由で喧嘩した時だ。
 俺は、ボールを取るのも投げるのもおぼつかない、もちろん打つのもさっぱりの、早い話が極端に運動音痴のメガネの子に声を掛けた。 「キャッチボールをしよう」
 商店街の向こうの別の学校に通うその子とは、たぶん初めて話したんだと思う。あれから幾らもしないで俺は引っ越したから、最初で最後だったかもしれない。
 それはそうと、その子は嬉しそうに、 「まままま、まるやまくんとキャッ、キャッチボールでできるなんて、ゆゆ、夢のようだな」 吃音交じりに言い、俺は俺で 「野球って、楽しいスポーツだったんだなあ」 って感慨に浸りながら、ボールを投げ、キャッチした。 「ボールをよく見て取ろうな」。 「グローブめがて投げるといいよ」。 なんて具合に。
 でも、そこでもコーチは、
「実力差がある奴と組むな! 意味のないキャッチボールなんかするんでないよ! 遊びじゃないんだからよお」 俺を叱りつけた。
 俺に言わせれば、遊び以外の何ものでもなかったのだが。
「ふうう」
 思い出すたび泣けてくる。
 その子は爽やかすぎる笑顔を向けて、 「まる山くんありがとう」 ハッキリ言って駆け出して、そうそう、あの砂場の端っこだ。あそこで素振り、してたんだっけ……。
「下りてみっか」
 斜面の雑草をやさしく踏んづけながら、尻を青汁色に染めないように気をつけて。
 校庭に立つ。
 アクロバットな技を競った鉄棒を撫ぜ、いい思い出のない滑り台を横目に雲梯(うんてい)をくぐり、メガネの子がバッドに振り回されていた砂場付近を通過して、後頭部をしたたか打ちつけ泣いてるところを見知らぬおばさんに、 「いたいのいたいの飛んでけー」 をしてもらった涙のブランコを、やさしく揺らす。
 
 あのおばさんが現れてくれたら。
 あのおばさんが元気な姿を、見せてくれたら。
 あん時みたいに飛んでって、くれたら……。
 
 病院は俺にとって、(じん)臓結石の激痛に襲われた時と、虫歯を抜く時くらいしか(ゆかり)の無い、夏炉冬扇的対象でしかなかった。
 だから躊躇した。だからと言うわけでもないのだが、健診に行くのを。再検査も、その結果を聞くのも。明らかにヘンだったから。
 コーラ色の小便を水で薄めて、鈍痛で曲がった腰を無理やり伸ばしたところで、検査結果は誤魔化せるはずもなく、
「国保の安価な健診なので結果が遅れているようで――」
 内定をもらった会社に嘘を言ってのぞんだ再検の結果は、思いの外早く出た。診療所の健診より遥かに早く。
「見上げたもんだ。ご丁寧に電話まで掛けて寄越して」
 病院の対応に感心しつつ、結果を聞きに行くと、
「ご家族はお見えでない?」
 医者に見えない医者は言った。
 そう言えば、そんな事を言っていたような気もしないでもなく 「妹を呼んでくれ、ここで働いてるんだ」 とも言えず、
「大の大人つかまえてガキ扱いすんな。一人で十分だ」
 孤独を認めたくなくて意地を張ったつもりはないのだが、マッチョな医者は物知り顔で 「そうでしょう。そうでしょう」 みたいに 「うんうん」 するだけだから、文句を言って帰ろうとすると、
「告知を受け入れますか」 ときた。
 そういうことか。病院のサービスが向上したわけでなく、重篤な病気の告知の前段、予告電話だ。いま思うと。
「当たり前だ。そっちがしたくねえんなら考えないわけでも、ないぞ」
 弱気が顔を出したわけではない。腎臓結石の激痛に耐えきれずに受診したとき、悶絶寸前の俺に医者は 「痛み止めは体によくないんです」 と恵比寿顔で言い、エコー検査と励まし以外に何にもしてくれ、しなかったから信用しない、できない、できなくなっただけだ。
「では」
(さあ来い!)
 医者が投げたのはストレートにしか見えない、高速スライダー。あの怪物松坂が県大会で投じた、恐らくバースやラインバックや藤田平 (たいら) でも、右で言えば真弓に、誰だ……錦織ケイ君でも打ち返すのは難儀であろう、鋭いブレーキの利いた、予想だにしない言葉。
(すい)がんです」
 膵臓がん。ステージはⅢ。Ⅳになるのは時間の問題。
 膵臓のどこいらへんにガンがあって、治療法や生存率が何%かなどの講釈を垂れていた記憶はあるが、内容までは覚えていない。県下最低レベルの高校にしか行けなかった学力のせいでも、突然のガン告知に絶望したわけでもない。ドラッグストアの薬で治らないと知った時点で、興味が失せたからだ。
 なので、頭の悪いやつは勉強嫌いと決めつけられては甚だ心外。生来、興味を持った事はとことん突き詰める質だし、勉強が遊びの延長線上にあった確か、小三の時だ。答案用紙の 〈68〉 の数字を見てショックを受けたくらいだから元々頭が悪かったわけじゃ……
 膵臓って、どこよ。
 ステージⅢ (3) とⅣ (4) の違いは?
 どんな経緯を辿って、どんな死に方を、
「悲観的になればなるほど悪い方向に……」
 違うよ。興味を持ったらもう、じっとしていらんねえんだ。これから図書館行ってとことんって、タイミングで。
 本校に何かご用―― 
 スーツ男がサンダル鳴らして近づいてくる。ランドセルを背負ったチビっ子も。いつの間にかに。
 関係者以外の方の来校はお断り――
 自分の学校のような言い方と、負けない先生をアピールする見え見えの態度に腹が立つ。が、それどころじゃねえんだこっちは、
「四年五組カドタ、マサアキの父親だ。子どもを送ってきただけだ」
 ブランコ降りて花壇の脇を、
 ――本校の第四学年は四組まで、ζ×δ×ξ×λ×〆×
 背中に声が飛んでくる。何もご丁寧にクラスまで言うことはなかったか。
 校門に向かって走る。 「マサアキのことよろしく頼むなあ」
 俊足強打のノブくん、まだまだ健在。
 それにしても、この期に及んでというか、よりによってというか。ついてねえっていうかよ、
「なんで、俺だよ」


 小学校の校舎と同世代の図書館にXはない。敷地内に蒸気機関車が置いてあるのも、入口の煉瓦色の玄関タイルも当時のまま。
 道沿いに植えられたドウダンツツジだけは成長が見て取れ、まるで生け垣。ガキの頃は大人の膝上くらいの高さで、絶好のかくれんぼの隠れ場所で、 「こらあ! いたずら坊主めが!」 よく怒られたものだ。
【うえこみには、はいらないでね】
 こんな看板もなかったし。有っても無くてもお構いなかったし。子供ってのは、そういうもんだったから。
 俺は物事を悲観的に考える傾向にあるし、ものづくりの現場で、リスクマネジメントが身についてるから 「ステージⅣ」 と決めつけて、書棚を漁った。
 医学事典や専門書はどれを読んでも似たり寄ったり。根治は見込めず、手術はおろか、放射線治療も臓器の性質や位置関係などから不可。余命半年という結論に至るだけだった。しょんべんを希釈したからⅢで、ほんとはⅣの可能性は? についてはわからなかった。
 望みがあるとすれば、余命半年がもう半年延びた稀な症例と、 「キノコでガンが消えた!」 という都市伝説紛いの、 「キノコの山のほうがウケるぞ」 冴えないツッコミしか浮かばない、検挙されても不思議でないものくらいのものくらい。
 ステージ――病期というらしい――が、X (10) 期はおろか、V (5) までもなく、 “Ⅳ (4) 期がマックス” と知った時は取り分けショックで、 「通信簿だって何だってふつう五段階だろ」 ツッコミを入れる気さえ失せた。それはそれとして、医者が手術を勧める理由はこう。
 病院と医師の症例実績に加算される。
 将来のガン治療に役立つ可能性がある。
 開腹してみないと分からないことが結構あったりする。
 手術する気もなければ、そもそも出来ない。なのにどうして、手術を勧める。 
 まあいい。そんなことより、残り幾許の人生をどう生きて、どう死ぬかだ。
 まずはなんだ。環境整備か。いいシゴトをするための基本の基本。 「飛ぶ鳥あとを濁さず」。 内定先への連絡だ。
 電話ボックスと言えば、小便臭くて入るのにも躊躇したものだが、何の香りか分からない本来の芳香を懐かしみながら、何年もつかわず仕舞いのテレカを挿入。04‐フニャッパ‐フニャクニャ。語呂合わせで記憶したボタンをプッシュ。
「お世話になります」
 内定は当然取り消し。半年で死ぬ中年男を採用されても、こっちが喜べない。
 でもよかったと思う。 「電話を心待ちにしていた」 って言ってくれたし、 「残念です」 って、 「心からのご回復を――」 とも、 「完治したら是非ご連絡を――」 と声を震わせて言ってくれたから。そのおかげで、大人は偉い、大人は善人、ルールを守る。知らないことは何にも無い子供の手本って信じていたガキの頃の、二十歳前までの、ほんとの自分に立ち返らせてくれたからだ。
「ガン患者は、不幸なんかじゃないぞ」
 駅前で叫びたい気分だが、いまは余命の生き方と過ごし方だ。
 半年後に死んだとすれば五十歳。日数は無視することにして、五ヶ月以内なら四十九のまま。それはさて置き、体の自由が効かなくなるであろう期間を、残りの人生に含まないことにして……三、四か月と見込もう。と言うことは、
 6―4は2
 6―3は3
 残りの人生を二~三ヶ月に設定。余りに短い気もするが、賞味期間内で生きる目標を立てかつ達成させる。消費期限は考えない。この秋をどう過ごすか考えているうちに冬。そんな状況だけは、何としても避けねばならない。
 人生の秋をどう過ごすか。
 診察室を出てからずっと考えていた結果の一つ、 「五年間通った学び舎に行く」 は消化不良気味だがクリア。次は? 他には?
 何にも浮かばない。これで終わりはあり得ない。
 食欲の、スポーツ、読書の、結局 「某の秋」 は、実りと収穫の秋に集約されるのだろう。冬に備える熊が如く、人生の秋を豊作にするためには……無職無収入のままうらぶれて果てる、安逸をむさぼって死ぬ、はあってはならない。
 悲観的になればなるほど悪い方向に――。
 悲観も楽観もなくふつうに考えれば、健診さえ無ければ就職できた、健診が無ければ就職できるという理屈が成り立つ。
 当代の若者が焦がれる夢みたいな目標で情けないが、先ずは就職、やっぱり仕事。求職活動の継続だ。
 それからなんだ。
 …………
 考え過ぎだ。



     三

 
 僥倖(ぎょうこう)公園は、思いのほか賑わっていた。
 ダウンを着、フードを被り、ネックウォーマーを目元まで覆った、中高年カメラマンが 「秋」 を狙っている。
 9‥45。待ち合わせの時間まで、まだ十五分ある。
 渡部が施設で働き始めたのは、既読メールによると……。
【初出勤でした!】
〈大学病院を卒業して (中退かな?) 重度身体障害者施設に異動になりました。職場が違うと役割も違って、入所者 (患者) さんとの距離の近さを実感できて 「いいな」 と思うのと同時に、命をお預かりしている責任の重さを――〉
 七月か。僕が前回ここに来た、少しあとだ。教会に通い始めた着信がき始めのは。
【お初!】
〈施設に入所されている方と教会に行ってきました。拍手で歓迎してくださって……礼拝は荘厳……昼食会は和気あいあい……これからも通おうと……〉
 施設に異動してひと月半してからだ。それだけ充実してると言えばそうなんだろうけど、
〈入所者の方も誘っていい? 自然が大好きで是非行きたいって言っているの。とても美人で性格も容姿も私とは正反対……私がいちばん尊敬している……いいよね〉
 渡部は社交的ではあっても、公私のけじめはつけるタイプ。一入所者と私的に外出することなど、むしろ避けるというか嫌うほう、
「嘉人おーっ!」
 テニス部で鍛え上げた喚声が園内を駆ける。清閑な場所に似合わないどころか迷惑でしかないことくらい、
「嘉人こっちいーっ」 
 振り向くと、池の畔の来園者まで二人を見ている。僕のことも。
「何よ、そのカッコお。寒くないのお」
 まただ。入口のプレハブ小屋の傍にいる二人のもとに駆け寄って、
「自転車で汗かいたから丁度いいんだ」
 小声で答えた。
「ならいいけど。例の高橋嘉人くんです。丸山潤子(じゅんこ)さんよ」
 素っ気ないと思いながらも、 「例の」 は話題にのぼっているということか。何だか照れ臭い。
 淡いベージュのニットのアウターを着、座るというより寝ているように車椅子に乗る丸山さんは、右の肩に束ねた黒髪が艶やかで、
「夜勤明けでお疲れなのに、ご無理を言って申し訳ありません」
 折り目が正しくて、メールのとおり美人だと思うけど、佳人という言葉のほうが合っている印象だ。
「ご無理じゃありませんよ。ね、嘉人」
 ブランケットの下。恐らくか細いであろう両腕と真っ直ぐ伸びる足は、どうやら動かない。渡部がいちばん尊敬しているという丸山さんは、障害を負っているとは思えないほどふつうの人だ。
「ね、楽しみにしてたもんね」
「声デカいよ」
「何それえ。ぼくも楽しみ、ってメールに書いてきたじゃない」
「なかなかないから。こういう場所って」
「んもう」
 自然を生かして作られた散策路にそって、幼児でも遊べそうな小川が流れていて、湧き水の寄りあつまったせせらぎが、子どもの寝息のようで心地いい。
 山林の斜面に自生するモクレンやミズキ科の木々が、若さを漲らせていた梅雨の時季とは違って、黄、紅、朱、自分色に染まりかけている。
「別世界にきたみたい」
 渡部は中空に太い枝を張るクスノキを仰ぎ、
「草木が薫って、土まで息をしているようね」
 目、耳、鼻、からだ全体で自然を感じようとする丸山さんが幸せそうだから、同じようにしてみる。自然の恵みを四方に感じて気持ちが和らぎ、感謝したくなる。
「学生時代から親しいと伺いました」
 丸山さんは顔を斜めにして言った。
「親しいというか」
 渡部とは中学時代、いや高一以来の友人。親友かもしれない。 「相棒」 が、いちばん近いと思う。
「同じ高校に進学したのが私たちだけだったこともあるんですけど、覚えてる?」
「何を」
「きっかけよお。話すようになったきっかけ」
 忘れるわけない。
「夕立にあってたまたま、」
「ピンポーン!」
 高一の夏の帰り道だ。突然の夕立に諦め半分で前を行く渡部の背中に、ブラジャーが浮かび上がっていて、目のやり場には困るし、追い抜くわけにもいかなくて、言ったんだ。傘を向けて。 「入らないか」。 思い切って。
「おやさしいんですね」
「ぜーんぜん。バスを降りてすぐに入れてくれればいいのに、家まであと、1/3のところでですよお。十分も放っぽらかし。おかげでこっちは濡れねずみ。いやいやだったんです」
「そんなことないよ」
「そんなことあるわよ。ありがとうって言ったら 『いや』。 の一言どころか二文字だけだったじゃない。寒くない? とか、風邪引くなよとか、いたわるのがふつうよ」
 ほんとうのことは言えないけど、
「嫌だったら入れないよ」
「じゃ、仕方なしだ」
「忘れた」
「誤魔化しちゃってさ。ま、純情だったっていうことにしておくわ」
 雫の形に似た僥倖池に日陰をつくるエノキの下を、カルガモ親子が日向に向かって移動していく。親ガモを追う五羽の子ガモが、ささ舟みたいに小波に揺られ、水中を漂う真鯉や緋鯉は、深海をいく潜水艦? 銀河で遊ぶ宇宙飛行士だ。
「羨ましいわ。二十年もお付き合いできる方がいるなんて」
 工場で見上げた黄色い月が、薄白いかさぶたに変わっていた。
「親はどう思っているんだか。三十半ばで独身ですもの」
「あら。わたしは四十六歳で独身よ」
「あらやだ」
「そんな顔をされたら、立つ瀬がないじゃない」
 笑顔は笑顔をさそうもので、しきりにさえずる鳥たちも、水辺に伸びる熊笹も、斜面に剥き出す木の根までもが、いっしょに喜んでいるように見える。
 話すのもいい。話さなくてもいい。歩くのも、足を止めてみるのもいい。未だ見ぬ命に見られているような、気配がいいのだ。
「教会に一緒に行っている人って」
 分かり切っていることを僕は尋ねた。
「潤子さんよ。看護のイロハを教えてくださった私の指導者で、人生のお師匠さま」
 彼女を敬愛する気持が歯止めをかけたのか、職分を弁えたのかは分からないけど、メールには  「入所者の方」 としか、書いて寄越さないから、気になっていたのだが、
「看護師を」 していた?
「そうよ。病院きっての敏腕看護師。私たちとは別格のスーパーナース、日本一の看護師なんだから」
「買いかぶりです。閉口します」
 高校を卒業して地元の不動産会社に就職した渡部が一念発起、看護学校に入学したのは……僕が大学を出て、一年間遊んですごした翌年だから、二十四歳のときだ。三年後に病院に就職したということは、七年来の付き合いになる。もしかしたら。いや絶対に。
「丸山さんがいるから施設に?」
「そうよ。潤子さんの傍にいたくて 『異動させてくれないんなら辞めてやる!』 って部長と事務長に啖呵切ってやったの。何ならクビにしてもらったってけっこう、」
小絵(さえ)ちゃんっ」
「だってえ。そうなんですもの」
 国内屈指の巨大病院でも 「渡部らしさ」 を発揮できたのは、何かにつけて 「指導」 してくれる彼女がいたからだ。
「潤子さんのすごいところはね。失敗してもなかなか覚えられなくても、イヤな顔一つしないで、何度も何度も習得するまで教えてくれる、」
 ぷっ。
「何よ。真面目に話してるのに。潤子さんまで」
「だってえ」
「失敗を露呈しているようなものじゃないか」
「自分のことなんて言ってないでしょ。順を追って話してるんだから黙って聞くの」
 渡部の話をまとめると、丸山さんは特別で別格。だから誰も追いつけない。 「私なんか足元にも及ばない」 そこでくじけないのが渡部小絵だ。
「だからって 『今日は丸山さんじゃないのかあ』 なんてガッカリされて、 『それはおあいにくさま』。 そんな開き直るナースにはなりたくないの。だからがんばるしかないのは当然だけど、まだまだ教わることが山ほどあるのよ。潤子さんだって 『責任の重さを自覚しなさい』 って言ったからには、責任を果たす義務があるわけですし、必然ね。結局のところ。施設への異動は」
 メールに頻繁に出てくる 「責任の重さを自覚――」 は、丸山さんの信条なのだろう。
 白衣姿で動く彼女を想像してみる。
 うまくいかない。
 でも渡部にとって、幸福の源流であることは確かだ。
「トンボがいるわ」
 丸山さんの声が弾む。灌木の小枝の先に、線の細い赤とんぼがいる。
「蝶ちょもいますよ」
 明るく応じる渡部も、話題を避けたい彼女の気持に気づいたようだ。
 オミナエシの黄色と緑に、白い蝶が調和していて、その奥の匂やかな葉陰に、
「メジロがいるよ」
「どこどこ?」
「梢のところよ」
「くるりとした目、可愛らしいわあ」
 葉色に似た小さな体に白い目が、ひときわ目立つ。――チチン、チチチン。弾けるような声を上げて、
「わあ」
 水切り石みたいに飛んでくのは、
「ハクセキレイの幼鳥だよ。キセキレイの子供も灰色なんだけど、頬のあたりからだんだん黄色に染まるんだ」
「赤じゃなくて?」
「赤だったらキセキレイとは言わないよ」
「冗談よ。尾っぽが扇子みたい。おもしろーい」
「小絵ちゃんこっちも」
 地面の下草をよけて餌を探す小柄の鳥は……ツーチィ、チリリイ、
「かわいい声」
「シジュウカラのカップルよ」
「言葉が通じるのかなあ」
 鳥の歌が木々に弾けて、エコーが効いてよく響く。デイパックの肩ベルトに掛けたジャンパーを着、
「僕が押すよ」 バッグを背負いなおす。
 ここに来るとやさしい気持になるのはいつもの事だけど、何となくとか、使命感みたいなものではなく、ただそうしたかった。
「大丈夫? ただ押せばいいっていうわけじゃないのよ」
「気をつけるさ」
「お願いしようかしら」
 丸山さんが言ってくれる。
「潤子さんが言うんなら……、男の人の方がいいですしね。昼ドラのワンシーンみたいで。 『肩に落ち葉がついてるよ。ほら』 『まあ。ありがとう嘉人さん。持って帰ってお部屋に飾ろうかしら。ここに来た記念に』 なーんて仲睦まじい夫婦みたい――」
 歩くのには気にならない土道だが、けっこうな傾斜があって、力は要るし、凹凸や落ち葉がまた厄介で、避けるのに骨が折れて、景色を楽しむどころではなくなってしまう。
「嘉人もこない? 教会」
 ………
「冷えてきたかな。いいですか」
 平坦な場所を選んで、タイヤをロックし、前をしめる。風光を賞でたくなる陽気だが歓迎しない話題だ。
「やっぱり、心配?」
 僕らだけが分かって、実は渡部も知らない根深い話を、丸山さんは何を思って聞いているのだろう。
「まだお花が残っているのね。オシロイバナ。懐かしいわ」
 話を変える丸山さんに 「どれです?」 「何が懐かしいんです?」 渡部が訊かないから、
「どれですか」
 僕が訊く。
「綿棒みたいな萼の先が濃いピンクの、膝上くらいまで葉が茂っているでしょ。種を割って出てくる白い粉をお顔に塗って、お化粧の真似をして遊ぶの。夕暮れの頃に咲いて、朝には閉じてしまうから、学校帰りに寄り道して。もう終わりの筈なのに、まだ咲いているのね」
 たどたどしくて、ひとり言みたいだ。
 木立の一角が広場になっていて、その片隅で剣状の葉を伸ばすのは、
「思い切って来ない? みんな歓迎してくれるし。楽しいよ」
 …………
「小絵ちゃん、スイセンよ。自然にとけ込もうとしているみたい」
 同じものを見、同じことを考えていたことが嬉しかった。
「葉っぱだけなんですけど」



     四


 雇用保険の加入に賞与まで出すらしいぞ。
 どういう風の吹きまわしよ。
「それって、」
 社員登用。正社員か契約かは知んねえけど――。  
 一日三時間の残業も苦ではなかった。シャワー組がWワークを辞めた事もあって、職場はいっそう明るくなった。景気回復の噂も他人事ではないかもしれない。そんな事まで考えていた僕は、僕らは、給与明細を受け取って愕然とした。契約社員という身分と引き換えに、月二十時間を超える残業代、四十六時間分の超過勤務がカットされ、二日分の休日労働を無にされたのだ。

 強制残業に休日出勤までさせておいて、ありゃひでえな。
 ブラックどころか立派な犯罪だ。
 いよいよヤバいんじゃねえ? この会社。
 どっちつかずの俺たちもさ。

 抗議する気力は失せ、陽気な歌は鳴りをひそめ、仲間同士目を合わせないのがフツウになりつつある。
 一日十三時間の拘束で、副業を辞めざるを得なくなった元シャワー組は、掛ける言葉がないほどの落ち込みようで、自販機組も何もない、みんな抜け殻だ。
〈いま持っているもので満足しなさい。〉
 僕は神の御心さえも疑った。
〈持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう――。〉
 神は何も信仰についてのみを語られたのではなく、僕らが立たされる苦境を予見していた、予めこうなることを決めていたのだ。
 僕らは贅沢をしたいわけでも楽して良い生活を送りたいわけでもない、ふつうに生きたいだけ、やってほしいだけだ。
 それだけのことがなぜできない。どうしてやろうとしない。ふつうを求めることさえ僕らには贅沢か、許さないのか。僕らは奴隷か。
 答える奴も答えられる奴も、応えようとする奴もどこにもいない。ここには。この国には。
〈空の空。すべては空。〉 〈日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。〉 
 やり場のない怒りを抑え込むには、聖句を暗唱したところで焼け石に水どころか、火に油を注ぐようなもの。時々ニヤっとしているホセ、君は思い出に浸って、この理不尽に耐えているんだろ。僕にも出来たよ、貴い思い出が――。
「教会にこない? やっぱり心配?」
 返事をしない僕の顔にも、態度にも出ていたのだろう。
「スイセンよ。自然にとけ込もうとしているみたい」
 丸山さんは話題を変えた。逸らしてくれた。渡部も拘泥することなく、
「葉っぱだけなんですけど」
 広場の一角に体を向けた。
「あと一、二か月もすればお花が見られるわ」
「好きなんです? 水仙」
 水と仙の間に間があったから、知らなかったんだな、渡部は。スイセンがどんな花かを。
「フリージアが好きなの。少し似た感じだから、ちょっと気になって」
「フリージア (?) を」
 そんなぎこちない言い方をした、後だったと思う。
「きっかけなんですよね、結局。信仰を持つのも、持たないままかも」
 渡部は話を戻した。あいつはいつも 「ああ」 だ。 きっと子供の頃からああなんだ。
 祭りに行けば、綿がしを食べながらタコ焼きをねだり、金魚すくいを見つけて夢中になっていると、ふとタコ焼きを買い忘れたことを思い出して、頭の中はタコ焼きでいっぱい。みたいな子ども。
「私のきっかけは、患者さんとのお別れ。回復の期待できない終末期の方もいれば、状態が安定している方の急変もあるでしょ。つらくて、泣いてばっかり。そんなときに支えてくださったのが潤子さん。後で知ったことだけど、色んな聖書のことばで。それから潤子さんったら 『教会に連れてってくれない?』 なんて言うんですもの。私を心配して誘ったのに決まってるのに。そういう人なのよ、潤子さんって」
 あいつらしいと思った。 ――ハイジを読んだ影響も大きかったかも。ヨハンナ・シュピリのほうよ。
 僕も教会に通っていた。洗礼も受けた。きっかけは、大人不信だ。でも二年間の信仰生活で出した答えはこう。教会に行って人間関係で悩むより行かないで信仰を高めた方がいい。
 そんな事を考えていた、源流にほど近いヤマボウシの木立あたりだ。丸山さんが話し出したのは。
「病院に向かうバスの中から、十字架が見えるんです」
 母教会のことを言っているのは、すぐに分かった。
「わたしたちにとってあたり前のようにある十字架も、存在すら知らない方もいれば、見ないで通り過ぎてしまったことを気に掛ける方もいらっしゃいます。十字架を仰ぐのを、日課にされている方も。
 教会には、患者さまやそのご家族もいらっしゃるので、病室に聖書があるのはそう珍しいことではありません。でも、ある患者さんのベッドの脇にある、雨風に晒したような聖書のことだけはどうにも気になって……声を掛けたんです。思い切って」
 丸山さんのきっかけも病院だった。入院した時には手の施しようのない状態だったというその患者は、いつも穏やかで、苦しいはずなのに笑みを絶やさず、病室を訪れる丸山さんに 『キリストや信仰のことを話すのが何よりも嬉しい』 と、知っていることのすべてを伝えようとしたと言う。彼女の言葉を借りれば、幼子にでも聴かせるように。
「お別れの日のことです。その方は酸素マスクを外すような仕草をして、それから聖書に手を伸ばすの。メガネケースひとつ持つ力もないのに。目を閉じたまま。開かなかったのかもしれないけれど……。
 わずかに動く口が何かを訴えようとしているのは、病室にいる皆がわかりました。お嬢さまは唇に触れるほど顔を近づけて、最期の言葉を聞き取ろうと必死です。 『お母さんなあに?』 『もう一度、がんばって』 『もう一度よ』
 安らかに逝かせてあげましょう。そう言おうとしたその時です。お嬢さまは意外な言葉を口にしました。 『聖書を丸山さんに?』 と。
 浜田さんはゆっくりですが、しっかりと頷いて聖書を、信仰をわたしに託して旅立たれたの……」
 その四日後だという。丸山さんが教会に足を運んだのは。
 初めて聞いたという渡部は、子どもみたいな泣き顔で言ったんだ。
「みんな役割を担ってるんですね。屋根の上の十字架も。患者さまも、ご家族も。私たちも」
「私たち」 の中に僕は含まれない。
〈堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分の神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだから――。〉
 役割どころかキリストを辱める僕に、神はこう云う。
〈わたしはあなたを、全然知らない。不法をなす者、わたしから離れて行け。〉
 ………。
「わたしは障害者になったことより、教会に行けなくなったことの方が辛かったの。だから本心なのよ、 『教会に連れて行って』 って頼んだのは。もちろん小絵ちゃんだからお願いできたことだし、心配してというよりね、小絵ちゃんを自慢したかったの。教会のみなさんに」
 渡部は嬉しそうにオリーブに似た木に駆け寄って、 「わあ、キャンドルみたーい」 ロウソクの灯のような葉の形を面白がって、丸山さんも 「手をかざしてみたら?」 嬉しそうだったな。あの話をする、前までは。
 ヤドリキが寄生する喬木の手前に、地面をつつく雀がいて、ユズリハの葉を千切って草笛を吹く仲間の姿を思い浮かべていたら、
「親子かしら」
 覗き込むように丸山さんは言い、渡部は彼女の腕に顔を凭せて 「そうみたい。可愛らしいわあ」 お母さんにでもするように甘えていた。
 親鳥を真似る幼雀が一生懸命で、
「ここならのびのび過ごせるわ」
 そう願うような言い方をした、後だった……。
「ヨシトお」
「ああ。おサルな」
 マスキングをする作業の手を止め、皮手袋をして窯に入る。製品のぶら下がったアングルを駕籠ヤのように、
「どうした」 言おうとしてやめた。ホセが分からないはずがないし 「サルでないよお」 って、笑って言ってくれなかったから。
 二人で担ぎ出す。ホセにしては塗装面の肌が荒く、内角の一部に色が入っていない。悔しいよな。ホセ……。 
「その日は、もう六月になるというのに、朝から蒸し暑い、初夏を思わせる一日でした。夜勤明けで図書館に行き、調べものをしたわたしは、目的を果たせた満足感と、二日間自由を満喫できる解放感、睡眠を取るのがもったいないと思うほどの充実感で満たされながら、自転車で帰宅するところでした。
 信号を左に折れて坂を下れば、着いたようなものです。下り坂が終わろうとする手前にゆらゆらと立ちのぼる陽炎が、仮眠を取らなかったせいでそう見えたのかもしれません、道路の上で何かが動いています。小さな何かが。激しくバタバタと」
 聞き入っていた渡部は両手で口を塞いだ。
「雀でした」
 思ったとおりの行動を、彼女は取った。
「急いで近づくと、思いも寄らない光景が目の前にありました。もがいているのではなく、一羽の雀が傷ついた雀を助け出そうとしているのです。
 自転車を投げ出して車道に下りたわたしは 『もう大丈夫よ』 と声を掛けると、助けようとしている子の目は泣き出しそうで、倒れている子は嘴を開けたまま動きません。
 でも息はしています。路面の熱でヤケドの危険があります。近所の動物病院に駆け込む自分の姿を、脳裏の映像にはっきり見たわたしは 『絶対に死なせない』 という思いを込めて手を延ばしました。トラックが迫っていることに、気づきもしないで……」
 丸山さんはしばらく口をつぐんでいた。どのくらいだっただろう。息苦しさまでは感じない、六、七秒。四、五秒、僅かな時間。
「あの子たちがどうなったかは分かりません。わたしを助けてくださったどなたかに助けられて、仲よく飛び回っていると思うの」
 唇を震わす渡部と、たぶん落ち着いて見えたであろう僕を見る目は、同意を求めていた。
「ありがとうって言ってますよ。どこか、すぐ傍で」
 渡部が応えた時。こんな聖句が浮かんだ。
〈何をするにも……主に対してするように、心からしなさい。〉
〈人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。〉
 そして理解した。キリスト者として歩み始める渡部を思って、打ち明けたのだと。浜田さんとの話も。
「わたしは愛を見たの。だから助けなければいけない、死なせてはいけない、救いたいって……」
 あのことばが、すべてだ。 
“神さまならそうするでしょ――”
「三つの命が生かされて、幸せを分けて貰ったんだもの。後悔はないわ。トラックの運転手には悪いことをしてしまったけれど。特別なことをしたわけではありませんし」
 そして特別になったわけでもない。
 愛を知らなければできない、愛を知っているから愛に従った。僕ならどうだ。
 怖気づいて足が震えて、尻込みするかもしれない。でも同じことをする。絶対する。堕落した僕でも手を差し延べる。――それからです。わたしの新しい生活が始まったのは……。
 たとえ 「新しい生活」 が待っていると分かっていても。自信はないけど、彼女みたいに堂々と生きる。
 僕らは静々と歩き出した。いちばん合う言葉だと思う。しずしず。
 木陰に射し込む秋陽の矢に、いのちを感じた。いのちそのものだと思った。
〈誰にも話せなくて、辛かったのね。聞いてあげればよかった〉
〈後悔はないって話してただろ。渡部が施設にいる喜びのほうが大きいから、話さなかったんだよ〉
〈そうだと嬉しいけど……。神さまが働いてくださったのね。潤子さんに。ギョウコウ公園に行って話しなさいって。嘉人と小絵はちゃんと聞きなさいって〉
 不自由は害ではない。もちろん損でも。希望かもしれないぞ、
「ホセ」
 ホセが肩を震わせている。
 何とかしないと。



     五 ―(一)


 何かのせいにする気など毛頭ない。腰と肩と上腕三頭筋と尻の痛みは、十時間フォークリフトに乗りつづけた褒美。対価は九千円。収入の適否など最低賃金さえ下回らなければどうでもいいから、この調子でバシバシバイトを入れて、求職活動を継続して、就職を……決める?
 いいのか? これで。こんなんで。
 後悔しないように死ぬために生きようと決心したのに、実際はどうだ。後悔しない生き方をするために生きようとしてるじゃないか。
 ま、それはさて置き、問題は死んだ後。死後の世界のことでなく、没後に遺される、潤子のことだ。
 唯一の肉親で、たった一人の妹とは、十三年前の母親の納骨以来、いや、アパートの保証人を頼みに行った時に会っているから、それでも五年は会ってない。
 一般的な家族であれば、正月や法事や 「ちょっと傍まできたからさ」 とか、 「どうしてるかなあと思って」 なんて具合の行き来くらいはあるのだろうが、血脈などたまたま程度の意識しかない俺たちにとって、音信不通は自然の摂理。と、互いに自分を納得させてきたにしてもだ。兄貴である俺が死んだら……。
 身元確認や役所への死亡届の申請? には死亡診断書だか証明書だか、検案書? を医者に書いて貰って提出する必要があるだろうし、亡骸の取り扱いにしても、サンマと手羽先の骨と一緒に半透明のビニール袋に入れて一般ごみへ。何てわけにはいかないわけだし、その前に火葬だ。遺品の処分も。とにかく少なからず迷惑を掛ける、迷惑を被るわけだ、潤子は。
 立つ鳥あとを濁さず。トイレの後は尻をきれいに。
 会おう。どう思われようと。思われていようが。
「簡単な遺言を書いて、潤子に会う」
 死ぬための目標第二ができたぞ。力が湧いてくるのと同時に抜けていくのは、ガンの影響でなく労働のせい。
 寝よう。遺言は明日にして。どうせ三、四行のメモ書きみたいなもんだから。
 でもいちおう……。

 コノデンワハ ゲンザイ ツカワレテオリマセン モウイチド――
 昨夜と同じメッセージが 「何回かけても同じよ。」 みたいに聞こえるから、
「困った」
 固定電話をやめて携帯オンリーにしたとか。引っ越したとか。それならそれで連絡くらい取れるように……。
「行くか」
 でも、午後からバイトがあるし。
 でも、対価のためじゃねえし。
 でも、引っ越してたら無駄足になるぞ。
 行かなきゃ行かないで、気になって仕事どころではなくなる可能性も。
「行こう」
 意地を張らずに。
 寄っときゃよかったんだ。再検査の時にでも。でも、あの日はバイトの面接があったし。ガンの告知ん時は、それどころじゃなかったってわけではないが、人生の秋をどう過ごすかで頭がいっぱいだったから。死ぬための目標を立てることで。
 結局、死ぬための目標第一は未消化気味で、第二はたぶん、今日中に達成できるとして、第三は未だに決まんないから、二倍速で人生の冬に向かっている気がする。
 あれこれ考えながらハンドルを握っているうちに、考えすぎることほど無駄なことはなく、あれこれ考えなければ時計どおりに時間は進むという、俺なりの結論が出たところで、先達てより七分早く病院に着けた。
 死ぬための目標第二はあっさりクリア。順調に事が運べば、バイトにも間に合うと安堵したのも束の間。ゲートの向こうの大渋滞は想定外。貴重な対価が絶望と化す。
 駐車場料金で建てたと非難されてもおかしくない建物に入る。と、
「チッ」
 まるで車両故障か人身事故の影響でごった返す駅さながらだ。午前中の病院には来るものではないと学習したことにして、受付で聞くのも野暮。看護婦に聞けば手っ取り早いとひらめくも、ここは巨大病院。それも野暮。
 パイロンのように突っ立っている老若男女を、白バイ隊員さながらにすり抜けて、案内板と避難経路図の記憶を頼りに右。建物の割には天井の低い廊下をしばらく直進。喧騒が夢だったように感じたところで、階段の先を左。さらに左折し右側に、
〈医事課〉
 物音ひとつしない部屋の扉を遠慮なしにノックすると、軽快な足音が近づいてくる。
「こんちは。看護師の丸山潤子の兄――」
 申し訳程度に頭を下げた女は無言。
「急用があって会いにきた、どこにいっか教えてくれ」
 恨めしや~みたいに女は引っ込み、言葉が通じたのか、幻覚か、白昼夢の出来事だったのかという疑問が頭を擡げ始めた頃になって、ようやく、
「ご用件は伺いました」
 スーツ男がやってきた。
「‥‥‥」
 ご用件を伺ったのに無言。何だこいつ。
「丸山潤子の身内、兄だ。至急会いたい。どこ行けばいい」
「ああ」
 ああじゃねえよ、若者。
「丸山看護師は現在休職中です」
 求職中? ヘンなことを言う。
「ああ、そっちの休職か」
 俺は勝手に産休と決めつけ、
「電話しても通じないもんで、こうして来たってわけです。俺は――」
 尻ポケットから素早く財布を取り出し、
「潤子の兄で、丸山信昭(のぶあき)
 免許証を差し出す。
 表だけでなく、裏面の臓器提供の意思確認の “〇印” までしっかりチェック。
「ご親族であるのにご存じない?」 何があったかを。
「何かあったのか、潤子に」
「個人情報ですので申し上げられません」
「そっちから言い出しておいて何だよ。免許見せたろお」
「免許証ではご親族と認められませんので」
 冷静で抑揚のない物言いに腹が立つ。俺の個人情報が軽んじられたことも。なんで運転免許じゃ、
「本籍が書かれていませんので」
 確かに。コイツの言うとおり。
「んじゃ、連絡取ってくれ。兄貴が来ったって」
「………」
 拒絶。親族かどうか分からないあなたに、どうして教えらましょう――。悔しいが理屈だ。
「兄妹って確認できれば教えるんだな。例えば、住民票とか」
「確認でき次第教えます」
 折込求人の企業メッセージが頭に浮かぶ。 『しっかり教えます!』
「お教えします」 か 「指導します」 だ、どいつもこいつも偉そうに。
 誰が考えたのか分からないルールを恨みつつ、一旦退き、散々迷った末に見つけた出口を出、駐車場に向かって疾走する。
 少々息が切れるのは歳のせい。基礎体力と短距離走なら同世代のオヤジなんかに負ける気はしないし、命懸けのケンカならスーツ男もマッチョな医者に見えない医者もひと捻り。急いでいるのにそんな事を考えながらマイカーに辿り着くと、
〈ビーッ! ビビィ~!〉 〈ブブー、ブゥーッ!〉
 無駄なクラクションの嵐。
「っせえなあ、おい。何のための警笛だと」
 出口が大渋滞だ。

 もうすぐ立冬なのにこの暑さ。エアコンをつければいいだけの話だが、そうもいかない。あんこ型の力士を三人乗せたくらいパワーが落ちて、ガソリン代がバカにならないどころか生活が立ち行かなくなるから、アクセルを戻す。 「頑張らなくていいぞ。マイカー」 
 すべてが逆転したような一日。社会、時代だ。
 裏道とは言え 「車がきてないんだからいいのっ」 車道の左側どころか真ん中どころか、保土ヶ谷、湘南、浜名バイパスでもお構いなしの勢いで 「堂々と歩くの!」 ののっ! 
 手前勝手を 「堂々」 にすげ替えて十三階段を登ろうとしているとしか思えないファミリーが。いたと思えば、
「渡りまーす」 
「どうぞー」 急ぐことあねえぞ。
「なに停まっちゃってんの、バカ?」 「気をつかうだけソンじゃん。ばかばかしい。」 とでも言いたげに、横断歩道の直前でアクセルを踏み込む危険運転致死傷罪有罪予備軍ドライバー。とバイク乗り。と原チャリを含む自転車ライダー。ばっかし。
 正しく生きようとする奴は間抜け。世俗に便乗しない奴はヘン人、或いは非国民。 「ルール守ったって生き辛いだけじゃん。」 「人生楽して得してなんぼよ。」
 そんな大人に育てられれば、何かにつけて半畳を入れ、 「モラルなんかSNSでどうにでも変わるよね。」 「変えちゃあない?」 「いいね!」
 で、この始末。このありさま。
 毛並みの違う人間は何某かのカテゴリーに当て嵌めずにはいられない、カテゴリー分別病。或いは疎外症候群。早い話が差別、平成スタイルのいじめだ。いいねには悪いね! が含まれるというから 「質、悪いじゃねえ?」。 とは言わないか。質、悪いよねえ? 悪かったりしねえ? 悪かったりしたりするよね? 悪かったねえ?  
 ふうー。フツウの人間が天然記念物どころか、絶滅種に思えてくる。弱い立場を逆手にとって道交法を犯す唯我独尊歩行者、何人見ただろう。たったの十五分で。1、2、3、5、十、十五……まさかあの世もあんな質の悪ぃイカレぽんちばっかの世界じゃ……。
 ま、日本人の道交法の理解度は中学二年生に進級したての英会話レベル。考えるのはよそう。
 それはそうと、心の叫びは認められず、紙切れ一枚が信用されるこの時代、どこまで生きづらさを希求するつもりなんだろう。便利は不自由の母って言葉を教えてやっても、ムダか。
 怒りよりも哀切、憐憫の情が勝るのは、もうすぐいなくなる、心の余裕からだろう。
 心の余裕……
 ゆとり……
 安らぎ。
 幸せ? 
 第三の目標ができたぞ、死ぬための目標第三が。
「末期ガン患者の大方が不幸だと思われないように生きる」 
 俺はガンのおかげで変われた。変わった。変われそうだ。
 変わると言えば、三歳違いの潤子も四十六。あれから五年。結婚して子供がいてもおかしくないし、履歴書用の写真を見た俺自身が 「誰だお前」は。 その老け様に目を瞠ったほどだから、容姿も随分変わったはず。 「あーっ!」
 丸山看護師は現在、休職中! 
「まままま、丸丸、丸山だ!」 結婚してないぞ、潤子は。
 でも、離婚して丸山姓に戻した可能性も、無いとは言えない。入籍していない可能性も。何某かの理由で旦那が婿養子に。職場だけは旧姓で通している可能性だって排除は出来ない。
 いらっしゃいませ。駐車券をお取りください――。
「あいよ」 
 医事課に近い空きスペースに頭から突っ込んで、建物に向かってラストスパート。ダッシュを繰り返したせいで、空回りしていた足にからだに、力が漲る。
 往復約四十五分で駐車場もだが、建物内も、ここまで人が引くとは意想外。すれ違う患者が朝方よりも、健康的に見える。
 呼吸が落ち着くのを待って、扉をノック。
 顔を出したのは先刻の、奥に向かって叫ぶ、
「丸山潤子の、丸山だあ!」
 女が消えて一分。
「持って来たぞ。ほら」
 俺は威張った。労ってほしいからではない。証明したかったのだ、潤子のことなら俺の方が、ホクロの数まで、臍の形だって知ってるんだぞ、ってことを。
 肩で息する俺の前で、住民票と潤子の個人情報をねちっこく照合するスーツ男に、
「コピー取っていいぞ」
 ことさら横柄に言う。
「特殊印刷なので複写できないんです」
「あ、そう」
 まだやってやがる。
「お前いい加減に、」
「ご足労をお掛けし申し訳ございません。丸山看護師は現在、重度身体障害者施設に入所されています」
 ようやく俺を親族と認めたまではいいが、
「入所? 働いてるんじゃなくって」
「入所されています」
 潤子が障害者施設に、入所? しかも今、重度なんとかとか。
「潤子が障害者に、そういう事か」
「通勤途上で事故に遭いお身体が不自由な状態です。意思の疎通は問題ないと聞いています」 
 よくもまあ、いけしゃあしゃあと無神経にぬけぬけと、
「意思の疎通ってお前え、家族の俺に何で連絡しねえんだよ」
「丸山看護師が提出された緊急連絡先にはもちろん、連絡致しております」
「妹の家族にか」
 男、首をひねる。
「旦那なり子どもなり」
「ふうーう」
 男はいちいち嘆息し、
「丸山さんは既婚者ではありません」
 本来なら教えられないんだぞ。とでも言いたげだ。
「緊急連絡先って誰だ」
「個人情報ですので」
「またかよ」
「直接お尋ねになってください。すぐ傍ですから」
 男の話によれば、病院の建物の裏の駐車場の先の畑の向こうの信号の手前。目と鼻の先。
 あの建物か。


     五 ―(二)


 
 遺書のことなどどうでもよくなった。ガンのことも。緊急連絡先が誰であっても。
 家族が特別でなかったのは昨夜まで。たった今、完全に取り消す。不自由な身体になった (であろう) 妹を放っておけるほど、俺は冷酷無情ではない。
 病院にいるわけではない。ということは、状態は安定しているはず。でも、重度障害者施設に入所しているということは、
「お兄ちゃーん」
 ん? 
 なかには幻聴や幻覚を訴える方もいらっしゃいます――。
 ウソ、だろ。
「こおれ」
 ほーら。やっぱり潤子だ。幻覚でこんなにハッキシ見えっかよ。
「見て見て」
「すっげえなあ。大したもんだ」
 夏休み。父親の郷里に行って、
「カブト虫、つーかまーえた ♪」
 木の上でにっこりする潤子。
 母親と揃いのエプロンをつけて 「しょっぱいかなあ」 料理を手伝う潤子。熱いおたまに口をつけて、 「あちゅっ」 やけどしてな。後ろからひざカックンした俺は母ちゃんにひっ叩かれたんだ。手加減なしに。
 高校生になって、買い物に行った時だ。サービス券を渡されただけなのに 「そんなあ」、 なんて遠慮してしまう潤子。結局は貰ってしまうのだが。
 重度心身障害者施設に入所していて、かつ、俺を安心させるために 「意思の疎通は問題ない」 と、不安を煽ったスーツ男の話を推測すると、潤子は重い障害を負い、生まれもつかない体になった、ことを意味する。とすればだ、半年で死ぬ俺なんかより、あの清廉潔白で慎ましやかな潤子のほうが遙かに辛く、半年で死ねる俺の方がよほど幸せ、
「考えすぎよ」
 考えない方がどうかしてる……、だな。なるようにしかならず、なるようにしかなんない。考えてもどうにもならない事を考える事ほど、体に悪い事はないという事。こんな時こそ、あの楽観的な二人を思い出せば……
あぐらの中に潤子を抱いて、
 〽ケセラ~セラー 
嬉しそうに父ちゃんケラケラ。
 〽なるようにーなりゅ~ ♪
口をデッカク開けて潤子もケタケタ。
俺もいっしょに、
 〽ケセラ~セラー
  なるように~
 「しかならな~い ♪」
 「なーるっ」 プンξ
 よおし、もう大丈夫。落ち着けたぞ。いざ。
 建物を仰ぐ。三階建てのオレンジ色の壁一面を白に塗り替えれば、セレモニーホールに見えなくもない。
 考え過ぎだ。ナイスな趣じゃないか。
 満車になる光景が想像できない駐車場から、その存在に首を捻りつつ横断歩道を渡り、正面玄関の、自動ドアの前に立つ。
 ピクリともしない。右に。左に。動いても同じ。軽く跳ねても。
 建物内の女が気づいて、
「申し訳ありませーん」
 早足で駆け寄ってきて、操作板をいじっているもよう。
「どうぞ」
 ひと仕事やり終えたと言わんばかりの言い方とともにドアが開く。ただし手動で。自動ドアの機能を発揮しないドアを指差し、
「壊れてんの」 悪態をつく。
「入所者の方が一人で外出しないように――」
 つまり脱走防止。逃亡対策。 「何の施設よ」 潤子の立場を思うと冗談も言えない。
 職員はわざわざ事務室に戻って、受付カウンターの下方の小窓を開けて、
「身元を証明出来るものをお持ちですか」
 ひれ伏した恰好で言う。今どき低姿勢は感動もの。でも、
「またかい」
「はい?」
 住民票を渡す。これなら確実。と思いきや、園の規定上問題がある。免許証か健康保険証の方がいいときた。老人ホームや他の施設でもこんな事をさせるのかと思いつつ、免許証を手渡し、カウンターの隅に目を転じると 「県立何某園」 のリーフレットが。なるほど硬いはずだ。
「こちらにご記載を」
 園内の撮影については事前に許可を……大声を出すなどの迷惑行為は……入所者や職員に対する乱暴な言動は……公務の遂行を妨げる行為、面会の強要、秩序を乱す、居座る――は致しません。
 わたしは当園の規定を遵守し職員の指示に従い、
「ああ面倒くせ」
 誓約書に〇、〇〇、〇〇〇〇、 「チッ、」 名前と住所と電話番号を記入して、マル! ようやく解放!
 無口な職員の後にくっついて、長い廊下をしばらく進み、別棟に入って直ぐのエレベーターに乗り込むと、ステンレスのドアに映る女の顔が強張っているから、
「外国人の介護士はいるの?」
 ソフトに聞いてみた。
「ここはまだ」
「予定は?」
「今のところは……」
「日本人に介護は向かない。外国人を雇用してスピリッツを学ぶんだ。最後にモノを言うのはスピリッツ。それと車の運、」
「私もそう思います、でも “Spirit” のほうが使い方としては正しいかと――」
 女はネイティブばりの発音で言い、 「車の運転と子育てもだ」 という要の部分を無視して、
「スーパーやコンビニだとご近所の目が気になるとか、 『社会貢献しているように見えるでしょ』 とか、Statusも時給も “上” だからとかそんな人ばっかり。介護業界の人材不足は低賃金以上に介護従事者に対する失望と、そんな人を雇う経営者側への不信が原因です。いい人はみんなやめってちゃう――」
 矢継ぎ早に語った。 「例外もいるんだろうけど。」 という俺の言葉を封じて。
「ここだけの話ですよ。私、非常勤、非正規雇用なので」
 チーン。
 二階でも面会簿。
「さきほどのは来所手続きですので」
「ふうぅ」
 自分でも読めるか疑わしい字で必要事項を書き終えると、 
「お会いするか聞いてきまーす」
 フロア職員は 「ここに居てくださいね」 を念を押して行ってしまった。たぶん 〈当園は男女別に分かれて生活を営む施設――〉 もっとも一人にすべきでない場所に男一人を残して。
 ま、固くてゆるいのがお役所組織の体質であり慣例であり伝統。クールビズの趣旨をはき違えてジーパンを履いてしまう、不思議人いっぱいの業界人のやることだ。気にするのはよそう。からだに障るし。
 それにしても、
「遅っせえなあ」
 待ち時間のもどかしさに、待ちぼうけを食らった淋しさが入り混じって、不安に苛まれそうになり始めた頃になってようやく、
(変わらないじゃないか)
 背もたれの高い車椅子に (斜め) 横になって、笑みを浮かべる潤子は、五年前と、子供の頃とちっとも変わらない。匂うような白い頬が艶やかで、俺が知ってるどのシーンの潤子より、幸せそうだ。
「お兄ちゃん」
 潤子の声は澄んで優しい。訪問が迷惑でなかった事に安堵した俺は待ち切れずに、
「走ったらダメ」
 慌てて立ち止まる。よく叱られた思い出が、活動写真みたいに蘇る。
 よくかんで食べないとダメ。 (ドアは) 静かに閉めないとダメ、ご近所にごめいわくでしょ。ゴミを散らかしたらダメ。ちゃんと100まで数えてから (湯船から) 出ないとメッ。
「どうしたの?」
 どうして泣いてるの? お母ちゃんに叱れたの? 
「いや」
「ふふ。談話スペースがあるの。押してくれる?」
 広い食堂の次の間にある談話スペースには、一見して、重い障害者と分かる女性が、あちらこちらにいるのだが……。談話するでもなく、テレビを見るでもなく、まどろむのとも違う。時間をやり過ごしているようにも。現状に満足しようとしているだけのようにも……
「何かあったの?」
「何かあったのじゃねえだろ。連絡ひとつ寄越さねえで何を考えてる、」 お兄ちゃんが怒ると泣きたくなっちゃう――。
「ごめん、何があった」
 女しかいないフロアで泣かれでもしたら規約違反。強制退去だ。一度泣いているところを見てみたい気もするが。
「車にひかれたの。体は不自由だけど、このとおり。元気だから大丈夫。お兄ちゃんは? 変わりない?」
「元気って、大丈夫ってお前」
「だって、大丈夫なんだもん」
 大丈夫の基準などないのだが、片足で車椅子を操る女性に、電動車椅子に乗る乗っかっている、歩行器に体をあずける、喉元に空気孔のような器具を装着した居室にいた女性は、飲み食いどころか、意思の疎通が、恐らく取れない。
 ほんの束の間、潤子の方が恵まれていると思ったし、潤子の顔がそう言っている。だから自分のことより俺のような、あまされ者の木っ端野郎を気に掛ける。
「体、動かないのか」
「まったく動かないわけじゃないのよ。ほら、顔や首は動くでしょ。お腹もちょっと。それに喋れるんだから。ドクターは目を丸くしているくらい――」
 恐る恐る訊いたのだが、気にする風もなし。介助がなければ、食事も摂れず、歯も磨けず、本も読めない。風呂にも入れない。他人の手を借りねば、痒いところにも手が届かないというのに。まるで他人事。
 潤子は言わないが、車椅子の横にぶら下がっている布カバーの中身は、小便を溜めて置くためのプラバッグ。チューブを介して腹部あたりに繋がっている。下腹部の膨らみはオムツの表れ。要するに、乳がんで逝く間際の母親と同じ。俺も辿るであろう排泄障害だ。
「頚椎障害による両側上下肢麻痺。四肢が麻痺した状態なの」
 りょうそく、じょうかし? まひ、しし?――
 聞きたくもなければ受け入れたくもないし、何を言っているのかも理解できないから、気になっていたことを訊く。
「ずっとここにいんのか」
「分からないわ……」
「味噌ラーメンが美味い、ラーメン屋があったろ。ガキの頃に、床屋の帰りに寄った」
「いまは調剤薬局のところね」
 ………
「店じまいしたの、知らなくてさ。そのまま帰るのも悔しいから、病院に寄ったんだ。したら、施設にいるって言うだろ。すぐ近くだ、寄らずに帰るのもあれだ。水臭えから」
「ふふふ。変わらないわね。本当のことを言って。何しにきたの?」
 嘘八百の前口上など、潤子には闇夜のつぶて。釈迦に説法。要は不要。
「報告があって、それでな」
「報告?」
 ここははっきり。兄貴らしく。
「ガンらしいんだ」
 兄貴らしくも俺らしくもないから、
「ガンなんだ」
 ………
 親父みたいに待つだけだから、
「親父と同じ。膵臓がんだ」
(うん) 頷くだけ。
 だから喋る。
「ステージⅣ。手術はできない。放射線療法も。抗がん剤治療は慰め程度の希望にしかならない、要は手の施しようがない。症例からして余命は半年、高名な医者たちの見解では、一、二か月の誤差は有っても一年生存率はゼロ、ではないがあり得ない。残る手立ては何とか……ケア……」
「緩和ケアね」
「それ。苦痛を抑えて往生際を安らかに――」
 泣かせたいわけでも泣いてほしいわけでも同情してほしいわけでもない。遺伝の可能性はたったの5%、 「だから親父やお袋のせいじゃないぞ」 そんなこと、言うまでも言われるまでもないのだから、どうだっていい。ただ、
「迷惑掛けるわけには、いかないだろ」
「迷惑?」 
「兄貴が死にました。あと始末は妹のあなたに。なんて急に言われても困るだろ」
「相変わらずね、考えすぎよ。迷惑だなんて思わないし、何とかなるものよ」
「親父みたいなことを」
「だって何とかなるもの」
 ………
「ケ、セラあ、セラー」
「なるようになりゅー」
「なーる」
 最高の励みだ。景色を見て誤魔化そうにも、高木の枝が邪魔して、潤んだ目の遣り場がないから、まっすぐ潤子を見る。
 誰が喋ったのよ! 病院で聞いたの!? 個人情報の漏洩じゃないのよお! なんて言うやつじゃないし、誰に頼んでも構わないのだが、
「緊急連絡先、誰に頼んだ。恋人か」
 ただ話したかった。考えてもどうにもならない事を、考えたくなくて。
「そんな人いないわ。教会の先生。牧師先生にお願いしたのよ」
「牧師? キリスト教か」 
「うん。信者になったの」
「ほお。ま、お前が信用しているやつなら何も言わんが、これからは俺を頼れ。たった一人の肉親、」
 ああう、あうあー。
 ん? 
「ああ、きよ子さん。なあに?」
 膝の上に載せた、ひらがなの書かれたプラスチックの板の文字を、
〈だ、れ〉 
 指差して、恥ずかし気に顔を上げる。
「わたしの、お・に・い・さ・ん」
 あは、あはははは、
 潤子が小声で。 (名前のとおり。心の清らかな方なの)
 俺は笑顔で――。言われなくたって分かるさ。
 一生懸命。突っ張った指で文字盤を、 
〈い、つ、し、よ、に。お、は、な、し、〉
 んもうキヨちゃんったらあ――
「大事なお話のお邪魔でしょーお」
 ああう、いあーっ
「何も引っ張ってくこたあねえだろ」
 職員は応じずに車椅子を押す。
「よお!」
 やあー、やややっ! あやあーっ!
「それで介護のつもりか、お前えみたいのがいっから世の中おかしく、」
「お兄ちゃん」 
 潤子、目を伏せる。ほんとうの不自由を見た思いだ。
「してほしいことは。何かないのか」
 怒ったように聞こえたかもしれないが、不自由も弱いもなく、支え合う。睦び合う。いたわる。思いやる。最期くらい素直に、シンプルに生きたかった。
「そうね」
 同意したのか、考え始めたのか分からないが、
「言ってみろ。何でもいいから」 今すぐ死ねって言っても叶えてやっから。
「じゃあ……教会に、連れて行ってくれる? 今は他の方にお願いしてるの。だから……」
「そんなことか。お安い御用だ」
「礼拝にも出てほしいの」
「礼拝い? 俺がかよ」
「信者になってほしいなんて言わないわ、ただ、隣りに居てくれればいいの。ね」
 潤子の懇願する姿を見るのは、おそらく初めて。
「夢だったの。家族で、礼拝に出るのが」
 家族そろってと言いたかったのだろうが、とにかく俺が死んだら叶わず仕舞い、夢のままで終わってしまう。とは限らないが、
「座ってるだけだぞ」
「嬉しいっ」
 初めて見る潤子の涙が、湧き水のようにきれいだ。それでいい。我慢することあねえんだ。
「何回行けっか、分からんけどな」
「そんなこと……」
「拭いてやる」
 もったいない気もするが。
「このままでいい」
 イヤイヤを見るのも、初めてのはず。
「心配するぞ。きよ子が」
「いいの。半分は嬉し涙なんだから」
 再会という目的を果たした俺は気づいた。生きる目的が、できてしまったことに。



     六


「高橋さん、元気がなかったわね」
 薬剤を載せたワゴンに朝陽が反照し、目にまぶしい。 
「ああ。聖書を買いにきた時の。もう二週間も前の話ですよ」
 気にする風でもないあなたのことも気になる。
「僥倖公園でお会いした時とは随分違ったでしょう」
「心配ありませんよ。何かあればメールに書いて寄越しますから」
 高橋さんのことなら私のほうが知っている――。 「その(おご)りや怠慢が誤りのもと。後悔の種になり兼ねないのよ」。 口酸っぱく言ってきたのに、どうして。
「わたしは気になるわ」
 お会いしたのは礼拝前の僅かな時間。激しく嘔吐する彼を、小絵ちゃんは見ていない。それでも、一見して罹患を疑えないようであれば、何のための看護師か。

 過渡期に立った看護師は、どうにでも変わります。
 マニュアル通りに動けばいいと、割り切る看護師。
 看も護ろうともせず、主我をとおす看護師。 
 患者自身になろうとする看護師。
 患者の希望であろうとする看護師。
 大切なのは、自分と対峙しつづけることです。
 対峙するのはわかります。福住さんは何を支えにして、過渡期を乗り越えたのですか。
(目が点でいらした……)
 倫理観、でしょうね。取るに足りない私の人生観など、何の役にも立ちませんから――。

 患者は十人十色。その歩みは千差万別。症状も。だから倫理観。おっしゃるとおりだと思った。
 だから謙虚に。患者本位に。どちらか一つを怠れば、土台は一気に崩れる。
「病院に行くように伝えてくれない?」  
「じつは嘉人パニック障害で、それで緊張してたんです。本人も言ってましたでしょう? 緊張するって。それに職場のごたごたが落ち着けば、」
「小絵ちゃん!」 指導者時代の口調にもなる。
 僥倖公園で不安障害を疑い、教会で彼の 「PD」 を確信した。だから疑うのだ、別の病気を。疑わねばならないのだ。
「彼の眼、声、呼気、皮膚の状態、歩行、表情の変化。気になることは。何も無い?」
「……」
 看護師ならば変化に気づいて、疑問を抱いて然るべき。説明が尽くせないのだ、パニック障害、不安障害では。
「メールに変化は」
「返信が遅いのはいつものことですけど、文章が短くなったかもしれません。でももともと嘉人って、」
「技術やアセスメント頼りの看護師になってはだめ。診断結果を鵜呑みにしてはいけない。白衣を脱いでも看護師は看護者であるように。覚えてない? 忘れた?」
「覚えています」
 ならどうして。
 前にも後にも、人となりを崩さないのが小絵ちゃん。わたしも感化された一人。だけど最近、疑わしく思えてならない。
 自信を持つことは大事。でも過信してはダメ。その後につづく言葉が肝心で、自分で言い出したことよ。 
「身近な友だちで患者さんではないので、気に留めていませんでした。ごめんなさい」
「謝らなくていいわ」
 忘れている。自分と対峙していれば、忘れるはずもないのに。
「明日、」
「休みです。嘉人も休みのはずだから本院に連れて行きます」
 通院に付き添ってあげて――。杞憂だった。嬉しいけど、
「お願いね」
 気になってならないの。


 患者は、足音やドアをノックする音に一喜一憂するものです。
 患者にとって何よりの薬は何だと思います? 
 それは希望です――。
 ほんとうに。福住さんの言うとおりだわ。
 兄の足音は希望の風。子どものままの 「お兄ちゃん」 に会うと、童心に返れるのに。
「毎日来なくていいのよ。病人じゃないんだから」
 いつもこう。ありがとうの一言が出ない。
「病人に見舞われたら迷惑か。気が滅入って」
 声が掠れて、笑顔が少し苦しそう。呼吸は問題ない。肌の色艶は? それほど悪くない。悪いなりにいい。
 妹として向き合いたいのにガン患者を見る目で見てしまう。でも、嬉しそうだから、
「手ぶらでお見舞いですか」
 お道化てあげる。希望を添えることくらいは、わたしにも出来る。
「手ぶらのわけねえだろ。あふれる愛持参だ」
「それは楽しみ。見せて」 小さい頃はこんなふうだったね。
「残念ながら、お前には見せらんねえんだ」
「誰になら見せられるの?」
「天使に決まってるだろ、天使に」
 天使?
「あー、呆れたあ。お見舞いを口実に小絵ちゃんに会いにきてたんだ」
「大正解!」
 兄が風なら小絵ちゃんは、兄の言うとおり。希望の御使い。癒されるのだ、お兄ちゃんも。わたしと、同じように……。
「元気があれば、免疫力がアップするとか何とか言うだろ。お前の後押しがありゃ、ガンなんかすっかり消えてなくなっかも――」
 痛いの痛いの飛んでけえ! 飛んでいけ! 飛んでいけったら……飛んでけよお……。
 魚釣りに連れて行ってもらって、川原の石でつまづいた時、言ってくれたっけ。赤く腫れた膝をさすりながら。勝手にころんだのに。 
 痛みはない? 苦しくない? 何か気になることは? 聞くことくらいできるのに。
 バイタルはどう? ちゃんと測ってる? ちょっと腕を貸してみて。胸を開いて。そんなことはできないし、そんなことより、
「恋のキューピットになれって? だめよお、小絵ちゃんが断わりにくくなるから」
 いっしょに笑っていたい。
「あいつは女の立場を売りにも武器にも、盾にもしねえだろ。女とかいうんじゃねくてえ、あれだ。人間性に惚れたってとこだ。天使で人間性ってのも理屈に合わねえけどな」
「同じじゃない。小絵ちゃんという女性の人格に惹かれたんだから」
「ん? そうとも、言えっか。ま、そん時がきたら言っといてくれよ。小絵に看取られて死にたいって、バカ兄貴が言ってたって」
 潤子さんに看取られて昇りたいわ――。信仰に導いてくださった、浜田さんと同じだ。
 終焉を認知した方は、終末期の意思表示――リヴィングウィル――を自ら示す傾向にあるが、
「自分で言ったら?」
 大切なのは 「受容」 から、もう一歩踏み込んで 「共感」 すること。それが希望に繋がれば尚いいと思う。
「泣かれでもしたら、死ぬに死にきれねえだろ。っつうか、そもそも無理か。ここの客じゃねえんだから」
「この際だから言っておくけど、わたしだってどうなるか分からないのよ」
「どうなるかって、どっか悪ぃのか。大丈夫だって、」
「そうじゃなくって」
 思ったとおりの反応。昔からこう。他人の事だと我を忘れて、平静でいられなくなる。だからやさしく。熱を冷ますように。
「わたしみたいな重い障害があるとね。いろんな病気に罹りやすくなるの。体が不自由なだけの人、っていうわけじゃないのよ」
「そうは言っても俺よっか長く生きるだろ」
「……たぶん」
「たぶんじゃねえよ。 『そうね』 だろうが」
 笑わせてくれたあとのこの静けさ。この時間も好き。
 でも、こうして笑って話せるのも、健康の貯金のおかげだ。
 遠からず迎える更年期を機に、身体機能は低下の途を辿り、系や臓器は加齢とともに衰弱し、疾病や障害を誘発するだけに留まらず重症化させ、感染防御機能の減弱した肉体はウイルスやバクテリアの格好の餌食となり、やがて朽ち果てる。そんな気がしてならない。
「なんだ」
「ううん」
「小絵と教会にいた男、誰だろうな」
「男の人? ああ、高橋さんよ。小絵ちゃんの同級生で、お互いに姉弟くらいにしか思っていないって」
 小絵ちゃんと彼。どちらを気にしているのだろう。
「会ってんのか。その、高橋くんと」
「わたし? わたしは一度だけ。小絵ちゃんと三人で僥倖公園に行ったの。製造工場で夜勤専従で働いているんですって。工事現場の、ほら。土砂を掘り返す恐竜みたいな」
「バックホウ、油圧ショベルか」
「そうそう、ショベルって言ってた。それを作る仕事をしているそうよ」
 言ってから気づいた。(そぞ)ろに話す自分に。 
「専従ってことは、バイトだな」
「そこまでは分からないわ。小絵ちゃんに聞いてみたら」
 考え込むような横顔に言う。と、
「教会に連れて行く以外にねえのか。してほしいことは」 
 顔の上に柔和な顔が現れた。
「考えたんだけど、二つあるの。贅沢?」
「二つで贅沢はねえだろ。って悩んだ末に行き当たりばったりの目標を立てる男は誰よって話だけどな。それはそれとして、何だ。言ってみろ」
「目標?」
「いいから」
「じゃあ。一つはね、ここでお花を育ててほしいの」
 サーモンピンクの硬い床と灰白(かいはく)色の壁が見えるだけのベッドにいると、居室の一部になった気がして、塞ぎ込みそうになる。
「そんなことか。お茶の子さいさい、朝めし前だ」
 何より花の成長が、希望になればいい。わたしと兄と入所されている皆さんと。小絵ちゃんの。
「そう簡単でもないのよ。温度や湿度に合わせた肥料や水やりが必要だし、土を選ぶのにも保湿や排水を考えて、」
「ちゃんと調べっから。心配すんな。で、何て花だ」 
「フリージアをね」
 思ったとおり。首を傾げる。
「水仙みたいな、明るくてかわいいお花。黄色のを二鉢。一鉢だと可哀相でしょ」
「寂しいしな。和室なら違ったんだろうが」
 そうかもしれない。眠っているような枝葉ばかりの風景も、和室だったら、趣を感じられそう。母譲りの繊細多感な兄ならば、枯らすことはないだろう。
「霜が降りる前に植えないといけないの。十一月中には。出来そう?」 
「田植えじゃねえんだ、二週間もありゃ十分だ。んで、もう一つは」
 窓外に目をやると、
「移るか」
 車椅子を用意してくれる。肘あてを外して、ベッドとの距離と位置を確かめて、抱っこするように、
「上手になったわね」
 移乗させてくれる。
「毎日抱いてりゃ上手くもなるさ。どうだ、抱かれ心地は」
「んもう。温かいわ。お父さんと同じ匂いがする」
「じゃあ 『おヒゲスリスリ』 だ」
「やだあ」
 屋根の上の十字架は見えない。でも、風に揺れる木が見える。農閑期の田んぼも少し。天に昇るように雲が湧いている。ムクドリが飛んでったわ。
「もう一つは」
 雀がきてくれることだってある。ベランダの手摺に。
「もう一つはね。教会やキリスト教系の保育園をまわって、いのちについて、お話したいの。障害を負う前からの夢で、不自由な体になったからこそ 『やらなきゃ』 と思って」
「どこだって連れてってやるさ」
 頭と腋にクッションを入れ、毛布を掛ける肉厚で大きな手、お父さんにそっくり。
「でも、大丈夫?」
「何が」
「体よ」
「お前の夢を叶えることが生き甲斐になるんだ、何だって叶てやるさ」
 話しておかなければならないことは幾つもある。食事のこと。投薬のこと。排泄のこと。生理のことも。でも、懐かしくて新鮮な二人の時間を、終わらせたくない。でもこれだけは言っておかないと。
「やり方次第では非難の矢面に立たされるかもしれないわ。わたしはいいけどお兄ちゃんまで、」
「キリストだって立ったろ。矢面に」
 ハッとする一言、のあと、何かを考えているよう。
 だから待つ。神さまは、待つことを求められるから。
「お前はそんな体だし、俺の寿命は半年もねえ。だからはっきり言うぞ。俺は誰よりもお前のことを知ってるし、誰よりも、あれだ、いいやつだと思ってる。だが一つだけ足りないもんがあるぞ」
「足りないもの?」
 はっきり言わないから気になる。
「ああ。他の奴にない誠意があんのに伝播しない、させようとしないところだ。お前を慕うやつの成長のために、もっと図々しくならないとダメだ」
「‥‥‥」 
「つまりだ。自分に確信を持って、教導しろってこった」
 小絵ちゃんのことを言っているのだ。成長の芽を摘むな。枯らすなと……。
 わたしが勝手に疑心暗鬼に駆られているだけならいいのだけれど、やはり気になる。最近の小絵ちゃんを見ていると。
 いや。誰もが立つ過渡期に足を踏み入れた、壁の前に立っただけのこと。小絵ちゃんなら必ず乗り越える、この試みを。自分を見失わずに。
「分かったわ。これからはそうする」
「お前自身が確信を持てば、他の誰かが気づいて、何かを生んで何かが動く。要するに薫育だよ。覚えてるだろ」
 いつになく執拗だと思うけど、大事なこと。
「覚えてるわ」
 薫育は親のつとめだからな――。父が繰り返し言っていた言葉は、プリセプターに、指導者に指名されたのを機に調べ直した。
【薫育――人格や品性によって、人によい影響を与え、教え育てること。】
 お前は指導者になる器かと、問われた言葉でもある。
「言葉だけ覚えていればいいとか言ってたけど、相当な覚悟で育てたんだ。親父のやつ」
「小絵ちゃんのことは、」
「お前に託すしかねえんだ」
 生き甲斐に出会えたのだ、死を前にして。
 小絵ちゃんのことは、
「任せて」



     七

 
 渡部から送られてくるメールは、受洗のための学びの話題や、信仰告白の内容についてアドバイスを乞うものがほとんどで、
〈経験者の丸山さんに聞いてみたら?〉
 と返信しても、
〈潤子さんにはシークレット〉
 そんな噛み合わないやり取りがつづいた。
 一生に一度の洗礼式に 「無関心」 と思われるのも嫌だし可哀相だから、
〈聖書を買おうと思う。どれを選べばいいのか分からない――〉
 そんなメールを送ると、
〈教会によって使われる聖書が異なります。私が使っているのはおススメ……大きな本屋さんになら……教会でなら確実に買える……今度の日曜日に来ない? 潤子さんにも会えるし、楽しいよ〉
 笑顔をペーストしたようなメールが届いて、教会に行くことになった。
 今思うと、カトリックのホセやルイスも日常的に読んでいるはずだし、丸山さんと同じ聖書を読みたい気持も、あったのかもしれない。
 でも、不安は的中した。パニック発作の急襲にあった。聖書を手に逃げるように牧師室を出、公園に走って嘔吐した。 
 鼻を衝く異臭が苦く、地面に滲み込む得体の知れない新生物のような吐瀉物を潤む目の向こうに見ながら後悔後悔後悔後悔! を繰り返した。呼吸ができるようになると何度も叫んだ。 「来るんじゃなかった、来るんじゃなかったよ!」  
 聖書の汚れを払いながら帰る自分が惨めで、憐れで、情けなかった。一晩中あいつを恨んだ。 
〈今度は礼拝ね――〉
 見ていなかったにしてもだ、
「昨日の今日でそれはないだろ!?」 
〈出口に近い席なら平気よ。出入り自由だから〉
「知っているくせに何様のつもりだ!」 
 バスには乗れない、電車も無理、先客のいるエレベータには絶対乗らない、歯医者は死ぬまで行かない。床屋は年に、二度か一度だ。観覧車に、映画を楽しむ? 海外旅行? 冗談じゃない。
〈考えすぎずに大舟に乗ったつもりで気持ちを大きく――〉
 気の持ちようでどうにかなるなら悩むかっ!
〈赤ちゃんからお年寄りまでいて、みなさんほんとうに優しくて楽しいよ。礼拝後には美味しいお昼も食べられます!〉
 どうだっていい。外食なんか五、六年、もっとだ。いつしたかも覚えちゃいない。
〈でも無理はよくないから、礼拝はその気になってからにしましょう〉  
 初めからそう書いてくれ。あいつはいつもこうだ。
 これから仕事だって言うのに、
「!、」
〈通院は? 前以って言ってくれればいつでも付き合いますので。遠慮しないで言ってね!〉
 もういいって。
〈大学病院に総合診療科があるの。ちゃんと診て貰いま、〉 CLR、CLR、、、、
 CLR! いい加減にしろ!
〈やっぱり心配?〉
〈ほじくり返すな!〉
 予兆も兆候もなく突如襲う動悸と嘔吐、心拍は一気に200どころか300を超え、心臓が爆発する恐怖に窒息感が加担して息が吸えない、身動きできないどうにもならならない  “オレ” は死ぬ!
 運転免許の更新会場で救急車を呼ぶ騒ぎを起こした時、一緒だったのが渡部だ。 
 他人の生き地獄を好奇の目で見る野次馬がい、若い奴らは汚物でも避けるように迷惑顔だ、嘲笑しながらカメラを向ける奴もいた、何人もいた。渡部の慌てようは聴衆を煽っているようにしか見えなかった。
 医者やカウンセラーは口を揃えて言う。 「パニック障害では死ぬことはありません」 「認知行動療法が効果的です」 所詮他人事だ、 「あ、」 と思った次の瞬間に地獄を見るのはこっちだ、同じ恐怖を味わえば物知り顔で冷静に語れるわけがないんだ!
 パニック障害の無い世界でふつうに生きたいよ。何を犠牲にしてでも。
 肩を落としているかもしれないから、
〈がんばれよ。洗礼式〉
 慰めになればいいけど。
 僕のことはもういいから。そんな思いも込めてもう一通、
〈やっぱり丸山さんにアドバイスして貰えよ。ぜったい喜ぶし、渡部にとってもいいと思うんだ〉
 返信がこないのは落胆しているからだろうか。もう一通打つ時間、あるな。
〈聖書は教会で買う。礼拝は遠慮しておく〉
 これでいいか。
 メールを送って家を出た。
 郊外の真冬の20‥00は深夜二時。寒風が行く手を邪魔する壁のようで、手袋は役に立たず、足先は氷で鉄階段を上るのが辛い。
 着替えをして、休憩室の給湯器で手を生き返らせ、ストーブに足を晒しながらメールを開くと、
〈ほじくり返すなて何よ!〉
〈私のけとより時分のことでしやっ!〉 
〈何が聖書よ! いつの話よ/ わけわこんない!〉
 誤字だらけのメールが届いていた。出勤前か、夜勤の途中にでも打ったんだろう。
 取りあえず、
〈洗礼式。がんばれよ〉


 重たい不規則な足音が近づいてくる。
 ノックも同じ。消灯までの何をするでもない時間のせいで、そう聞こえるのならいいのだけれど。
 潤子さん――。
 か細い声のする方向に顔だけひねって、
「ご苦労さま」
 ドア際に立ったままの小絵ちゃんが小さく見える。
「嘉人、通院のことになるとだんまりで……」
 怒った顔を見るのも、怒られるのも嫌。そんな頼りなさげな顔をして、どうするの。
「仕方ないわ。様子を見て、」
「また説得します」
「そうね。お願いね」
 もう責めたりしないわ。思いが顔に出ているのだろう。歪んだ顔が明るくなって、
「どこが悪いんでしょう。思い当たることがあるんでしょう?」 いつもの小絵ちゃんに。
「思い当たるというより、気になるのよ」
「何が気になるんですかっ」
 向きになればなったで嬉しい。
「潤子さんの 「気になる」 は確信の一歩手前の表現で、指摘はいつも的確で、矢田さんの気胸を早期発見した時もそうでした、はっきり言ってください」
 確かに言った。重篤な意識障害のある入所者の矢田さんが、咳き込むのを見て。――気になるの。刺激性の咳のようで。
「それは、小絵ちゃんが施設にきたばかりで、気がまわらなかったからよ」
「‥‥‥」
「皮膚の色艶や眼球反射、瞳孔(どうこう)が縮瞳気味に見えたの」
 それならそれで早く、そんな顔。
「気がつかなくてごめんなさい」
 どうしちゃったの。言葉を押し止めたりして。
 口を尖らせて 「感じ方って人それぞれだと思います」、 頬っぺを膨らませて 「私は丸山さんではないんです」、 「甲状腺機能(こう)進症、バセドウ病じゃないんですか」、 まったく理屈に合わないことでも、言ってくれた方がいい。小絵ちゃんらしくて。
 2ユニット四十人の 「障害者」 を、一人で看ねばならない施設業務は、自分を保つことが重要で、そうしてきたのはよく分かる。ナースにとって大切な 「素直さ」と、 「人が好きであること」 のどちらも失っていない。 「心を通わせるには目を見て話すこと。五感が勝手に働いてくれるから。盲唖の方も重患も同じよ」 言ってきたことは間違いではないと思う。
 でも、逃げているようにしか……。
「兄に会わなかった? 顔を出してから帰るって言っていたけど」
 懐疑は打ち消す。小絵ちゃん 「らしさ」 を引き出すのがわたしの務め、教導だから。
「嘉人の仕事について聞かれました。職場環境とか雰囲気はどうとか。直接話したいからって電話番号まで。さすがに断わりなしでは教えられないから、聞いてみるって答えました」
 愁眉が開いて笑顔がもどる。
「そう。他に聞いてない?」
「とくには。真面目に聞いていたから、嘉人の会社で働きたいのかなあ。外国の方が多い職場で日本人はすぐにやめちゃうって言ってたから、信昭さんならすぐに勤ま、いけない聴診器!」
 んもう。
 療養者が看護師に求めるのは対等な人間関係、人としての触れ合いである。献身的な小絵ちゃんの看護を受けるようになって、身をもって感じるけれど、同じなのだ、お兄ちゃんも。きっと高橋さんも。
 あ、そうだったの。小絵ちゃんの心配を取り除きたいばかりか、劣悪な環境で働く彼のことも気になって仕方なくて、お兄ちゃんは、電話をする気になったのだ。
「あぶないあぶない、商売道具忘れたら仕事にならないわ」
「高橋さんって、兄に似てると思わない?」
 ?!
「ええー」 
「なあに?」
「あ、ごめんなさい」
「何で謝るの? 兄が見劣りするから?」
「もう、いじめないで」
 笑っていると悩みも消える。長い夜を過ごす憂鬱な気持も。将来の不安も。障害者であることも。この時だけは、小絵ちゃんのことも。
「兄も自然が好きなの。だから似てるなあと思って」
「なあんだ、そっちの方。潤子さんが自然が好きなのは信昭さんの影響とか」 
「きっとそう。子どもの頃にね、自転車の後ろに乗って、色んなところに連れて行って貰ったの。小川や沼でザリガニとりをしたり、森の公園で絵を描いたり、木登りをしたりして。自然のリズムに合わせてすごすの。野原で食べたお弁当、美味しかったなあ。楽しかったあ」
「なのに、どうして、ものづくりなんでしょう。まったく逆なのに。嘉人にしても」
「さあ」
 チェストピースが胸をすべる。冷たさは感じないけれど、
「近くで見るより遠くから見る眺めの方が、キレイだったりしますもんね。自分で聞いておいて自分で納得しちゃった」
 彼女のくせで小指の先が乳頭に触れて、反応してしまう。
「潤子さんのお薬はミルマグに……」
 聴診器を外して与薬にうつる。動作にそつは無い。シャンプーの匂いが気になるけれど、夜勤だから。指摘することではない。
「起きますね」
 ベッドの背が起き、目の前に灰白色の壁が広がる。スクリーンのように。
「カーテンいい?」
「もうですか?」
「うん」
 本院勤務の時は、心身の機能低下を気にするばかりに、入眠時間に拘ったものだが、夜の闇に点々と浮かぶ漁火みたいな家灯りや、窓ガラスにぼんやり映る自分を見ると、うら寂しくなるものだ。
「やっぱり似てるようで似てません。二人ともやさしいけど、嘉人は優しすぎます」
 思い出したように言うのも彼女のくせ。
「優しすぎるのって、悪いことかしら」
「ほどほどがいいんです。信昭さんみたいに」
「小絵ちゃんは優しすぎる方だと思うけど?」
 熟考している時には手を止める。親身と共鳴の表れなのに、何度注意したことか。
「優しさにすぎるも何もありませんね。でも、何が気になるんです? 私の方が気になっちゃいます」
 推量は好まない。でも 「課題を持ち越すから問題になるの」 と諫めれば、 「課題が問題課題が問題、課題が問題になる」 と一日中繰り返していたのが小絵ちゃん。課題を持ち越しているのはわたしの方。答えないでいいわけがない。
「何か聞いていない? 高橋さんから。体の変調とか」
「そう言えば、倦怠感を訴えていました。聖書を買いにくる、半月くらい前に。ひどくだるいって」
「倦怠感。呼吸の変調は? 息苦しさとか」
「それは特に」
 ――鋳物ヤってのは、溶かした金属を型に流し込んで成形する仕事で、話しを聞く限り砂型だな。大型建機となりゃ全身砂まみれどころか、毛穴まで塞いじまうって話だ。しかも非正規、何年もやるもんじゃねえよ。
 塵肺(じんぱい)
「呼吸が何か」
 いや。塵肺は、粉じんを吸入することで生じる肺の伸縮障害。特徴は息切れや呼吸困難、皮膚症状より早い出現が考えられる。可能性の一つを消す。
 他に職場環境から考えられるのは……ギランバレー? 違う。下肢の運動麻痺は見て取れない。構音障害もまったく。排尿の変化まではさすがに訊けない。
「お腹の不調は?」
「特に聞いてません」
 胃腸症状もないとなると、炎症性の疾患は除外できる。中毒性による多発性神経炎? 
「めまいがすることがあるって」
「眩暈?」
「不眠は前からですけど、最近同じ内容のメールを送ってきたり、済んだことを言い出したり……。何か疾病と関係しているのでしょうか」
「眩暈も不眠も誰にでも起り得ることよ。メールの変化……」 もだろうか。
 掘って掘って掘り下げる。そして多様な角度から可能性を探る。あたり前にしてきた感覚が、徐々に甦る。
「どんなお仕事か聞いていない? 色々な作業があると思うの」
「塗装の現場で働いてるって」
「塗装?}
 それなら話が変わる。
「僥倖公園でお会いした時は? 今までと違うと感じたこと、なかった?」
「とくに感じませんけど、暑がっていましたよね。冷え込んだのに」
「そうだったわ。よく気づいたわね」 今思えばあの時にはもう……。
 劣悪な環境での労働は、呼吸器、感覚器、脳神経系の疾患、皮膚症状、種々の罹病の可能性を秘めている。同居していると言っても言い過ぎではない。
「どんな病気の可能性があるのでしょう」
 臨床判断をするのではない。それは分かるが、憚る。直接情報が少なすぎるのだ。
 でも、現場を離れてもわたしは看護師。今までどおりに。
「有機溶剤の慢性中毒。特徴が重なるのよ」
「有機溶剤中毒!? 嘉人が。検診が義務付けられてるのにどうして……」
 有機溶剤を常時取り扱う者は 「有機溶剤中毒予防規則」 で検査が義務付けられている。看護学生でも周知していることをさせていないとすれば、使用者責任を問われる大問題だが、
「言っても仕方ないわ。それより高橋さんが納得して受診できるように」
「…………」
「できるわね」
「私が気づかないといけないのに」
 覚えていないのだろうか――。
 患者さんの中には、何でもない様なことでナースコールを押す方がいるわ。でも絶対に、 「どうせ何でもない」 なんて思ってはダメ。小さな変調を見逃さない 「心の目」 はいつも開眼(かいげん)させておくこと。ただし過剰な心配は不要よ。捨ててしまいなさい――。
「気持は分かるわ。でも切り替えないと高橋さんを支えることはできなくてよ」
 あなた自身が前に進めない。どころか、誰のためにもならない。
「でも……」
「心配するだけして何もしないのっ」

 自由に動けるのに何もしないのか、それでも看護師か。って……潤子さんは言いたいのだ。
 私がいけないのはわかる。でも、こんなに愁いを含んだ目で見られるのは初めて。一度もない。
 気が利かない人 邪魔ばかりして 自己チュー 看護師の資質がないのよ
 何を言われても、失敗しても 「今のままでいいのよ」 って温かなフォローを忘れないのが潤子さん。
 潤子さんが教えてくれたことは、ぜんぶ理解しているつもり。言いたいことも、すべきことも分かる。でも切り替えられない時だってあるよ。

「小絵ちゃん」
「…………」
「こっちにきて」
 子どもみたいに、しょんぼりする姿が、いじらしい。
「小絵ちゃんの笑顔はね、わたしの宝ものよ。だから泣かないで」
 わたしはもっと感謝していいのだ。施設で働く決断をしてくれた、小絵ちゃんに。もっと。もっと。
「ごめんね。涙を拭いてあげられなくて。どうかしてたわ」
「そんなこと、言わないでください!」
 抱きしめて、髪を撫ぜて、慰めることもできない。だけど思いは伝えられる。
「わたしよりも立派な看護師なのにね。ずーっと前から」
「そんなこと」
「だって小絵ちゃんが、わたしを変えてくれたのよ」
 赤みを帯びた目が点になる。
「私が、潤子さんを?」
 忘れているのなら、思い出させてやればいい。思い出せないのなら教えてやればいい。素直にならなければいけないのは 「潤子、お前の方だぞ。」 そう言いたかったのだ。お兄ちゃんは。
「患者さんに寄り添う看護師になりたい、って研修日誌に書いたの、覚えてる?」
「はい」
「自信を持つことは大事。でも過信してはダメ。ふだん自分に言い聞かせていた言葉にね。 『患者さんに寄り添う看護師になる。』 って、小絵ちゃんが立てた目標を加えて、わたしは壁を乗り越えられたの。だから小絵ちゃんは、わたしの恩人。 『お師匠さま』 よ」
「そんなあ」
 わたしの看護人生の後悔は、社会経験を積まずに看護師になったこと。異業種で多くの人と関わり揉まれてきた、小絵ちゃんには、 「患者からの信頼」 というもっとも大切なところで遠く及ばない。
「でも……今はぜんぜんだめです。看護師失格です」
 またシュンとして。
「それでいいの。自分を省みられるところが小絵ちゃんの長所なんだから。ね」
「はい」
「今日はわたしたちの記念日。忘れないでね」
 わたしがいなくなってもよ。



     八


 若竹色のペンキの剥がれが目立つベンチに座って五分。枝から落ちる木の葉を追う女の子が、イチョウの木に遊ばれているようで、そばで見守る母親は、渡部よりも年上に見えるけど、たぶん僕らと同世代だろう。
 眠っているようなサクラの木も、このベンチも、古びれた自治会館の建物も、懐かしい風景の中にいるのを喜んでいるようで、パニック発作で苦しんだ場所とは思えないほど、のどかで新鮮だ。
 と、公園の脇に止まった軽バンのドアが開き、
「よーい」
 呼びかける相手は、僕しかいない。
「お待たせえー」 
 張らなくてもいい声を張って、渡部が車を迂回してくる。
「無理言って悪いなあ」
 顔の前で手刀を切る丸山さんの 「お兄さん」 の印象は、電話の声より若い快活なおじさん。痩せてはいるが、頑健だった面影が見て取れて、ガン患者にはとても見えない。
「待ったあ?」
「いや。五、六分」 プラス五分くらいか。
 スカートの皺を気にする渡部は、イチョウの葉色に似たスカートを自慢したいみたいだけど、口に出しては言えないよ。
(案外似合うぞ)
「改めてだが、潤子の兄貴丸山信昭だ。よろしくな」
 今どき握手はないだろうと思いつつ手を伸ばすと、肉厚の節の固い手は、痛いほどの力強さだ。
「さっそくだが、行くとすっか」
「どこ行くんだよ」
 渡部に聞く。 
「いいからいいから」
「三人水入らず。いい一日にしようじゃないか」
 回れ右して 「信昭さん」 が歩き出す。
「いい一日って何さ」
「いいじゃない。お楽しみっていうことで」
 言われるままに、助手席に乗り込む。
 渡部からメールがきたのは二日前。一度は断った。でも、信昭さんと電話で話して、会うことに決めたのだが、
「思ったとおりのいい男だな」
 簡単な自己紹介と、ガンを患っている事と、渡部と三人で会いたいとだけ話した 「寡黙なお兄さん」 とはまったくの別人。気さくであり無遠慮、でも厚かましさは感じない。
「潤子さんが言ったんです?」
「あいつはそんなこと言うやつじゃねえよ。ミラーで自分の顔見て見ろ。ときめいてるじゃんか」
「ヘンなこと言わないで」
「〽 あんた、×××に惚れてるね。ワタナベサエちゃん、ふーむむむララララー」
「何それ」
 しばらくそんなやり取りがつづいて。
「嘉人。ぶしつけだがこう呼ばせて貰うぞ。嘉人は鋳物ヤで 『塗り』 のバイトしてんだろ」
 アニキみたいな口をきく。日が昇ってからは歓迎しない話題だが、
「ええ。二年くらい前から」 
 自然と口が動く。
「俺は鋳造の経験はねえが、加工ヤで関わったことがあっから、ある程度の見当はつく。非正規は駒扱いの、暗え~会社だな」
「まあ」
 決めつける言い方だ。夜勤組には当てはまらないけど、会社は暗い以上に黒っぽい。それに駒ではなく石ころだ。
「健診もねえな」
「バイトにはありません」
「だろうな。良識をほったらかしてぶくぶく太った、典型的な狭量経営だ。人間よりも機械だより。そのくせメンテナンスもしねえでフル稼働させっからスクラップと見まがう外観、で故障もしばしば。役所さながらの縦割り体制で責任のなすり合い、と言うより、どいつもこいつも我関せず。他人のことは無関心。バイトで成り立ってるくせに賤民扱い。そんなとこだ」
 長くものづくりの業界にいるという信昭さんの “見立て” は当たっている。
 顧客のニーズに応えて設備投資し売上げを伸ばす一方で、高い不良返品率を下げる策を講じないから、利益は上がず納期遅れは当たり前。空々しい言い訳を繰り返して場当たり的にピンチを凌ぐ会社など、信頼されるわけがない。石ころにだって分かる。
 それはそうと、
「どこ行くんだよ」
 後部座席の渡部に言う。
「病院よ。診察してもらうの」
 逃げ場のない状況を作るなんて卑怯、
 ?。
 息苦しくない。
「宝くじでも買うくらいのつもりで診て貰えや。何もなかったら儲けもんくらいの気持でよ」
 心臓もぜんぜん。波打たない。
 閉鎖された空間や逃げ場のない状況下で突発的に起きる “パニック発作” に対して、 「生き地獄から逃れる術」 を探求するのが 「予期不安」。 三人で車に乗ると分かっていたら断わった。絶対に来なかった。
 なのにまったく。パニック障害が他人事に思えるほど。真後ろにいる渡部の声も、気にならない。
「潤子さんも心配してるんだから。ね」
「いちばん心配してんのは小絵だけどな」
「一番も二番もないけど、光栄なことなんだよ。潤子さんに心配して貰えるなんて」
 渡部が心酔する 「日本一の看護師」 に心配されれば、気にもなってくる。
「行く気になったあ? 初めから潤子さんの名前を出せばよかった」
「何い? 嘉人は潤子に惚れてんのか」
「そんなんじゃありません」
「そんなんなんですよお、見ていれば分かるもん。バレバレよ」
 無理してはしゃいでいるような渡部に、反論する気も失せる。
「ま、嘉人なら任せてもいいか」
「会って五分も経っていないのに?」
「電話も加えりゃ七分弱、俺には十分やね」
「よかったねえ。お兄さまのお墨つきが貰えて」
 顔の横の化粧とシャンプーの混じった臭気が、気分をムカつかせる。
「何度も言いたくないけどさ。悪いとこなんか無いって言ってるだろ。何度言わせれば分かるんだ、いい加減にしろよ」
「もういいっ」
 シートにからだを凭せる音に 「やっぱりムダ」。 諦めと抗議の意思が込められている。
「看護師として言ってやった方がいいんじゃねえか」
「いいです」
「よかねえだろ。心配だからこうして休みまで取って――」
 
 私なんかが言ってもムダだもん。
 でも……潤子さんなら、どうする?  
 あの時もこうだった。私が障害者になっていたら、潤子さんならどうするかを考えた。 「わたしなら傍にいる」 って言うと思った、だから施設への異動を申し出た。
 今の私を見たらどう思う? 
「それでいいの?」 「どうして看護師になったの?」 「寄り添うためにでしょ」 って言う。潤子さんはぜったいに見放したりしない。
 
「病気にはね。自覚症状が出るものと出ないものがあって、病院にいると、症状が出てから受診して手遅れなんてケースがしょっちゅうなの。
 病院で診るほどじゃない人も中にはいるよ。でも責める気にはならないわ。救えるはずの命を救えないことほど悔しいことはないから。嘉人がそうだとは言わないけど一度しっかり、」
「気持は有難いけど、僕のことより信昭さん、」
「嘉人の話をしてるのっ。何で信昭さんの名前が出てくるのよ」
 ………
「聞いてないのか」
「何が聞いてないかよ。はぐらかしちゃってさ、わけ分かんない」
 ………
「何よ」
「悪ぃ小絵。俺さ、ガンなんだ」
「えっ!?」
 聞かされていなかったから笑っていられたのだ。渡部は。
「ガンの中でも質の悪い膵がん。余命半年、手の施しようのねえ末期ガンってやつだ。悪かったな。黙っていて」
「そんなあ……」
 ルームミラー越しの渡部の眼が微妙に、不規則に震えている。
「何だ何だ、ハシビロコウになっちまったか? 今どき珍しかねえだろ。ガン患者なんかよ」
 渡部は泣き出しそうな顔を、サイドウインドウに押しつける。
 全幅の信頼を寄せる丸山さんから聞かされていなかった渡部の気持を思うと、掛ける言葉も見つからない。
 施設のバルコニー全体を見渡せる信号で、止まるのは珍しい。滅多にない。落ち着かせる時間を与えてくれたような頃合いだ。
「私ってそんなに信用ないかな」
「俺が言ったんだ。妹は障害者で兄貴はガンじゃ、小絵の明るい顔が見られなくなっかもしんねえから、黙っとけよって。あいつはむしろ隠さずに話せって言った、悩んだんだ」
 ハンドルに身を凭せた信昭さんがのぞき込むように、妹を思いやるように、建物を仰ぐ。
 強情を通した僕が言わせたようなものだ……。
 信号が変わって、低い屋根の鶏舎と沈黙がしばらくつづいて、以前はなかった宅地が現れ、エクステリアの小売店を過ぎると景色が一変した。
 閑散と鬱蒼が混在する区画整理のされた空地に、雑草を掻き分けるように工事看板が立っていて、その先の工場の壁面を背にして、パワーショベルが並んでいる。
 鎌首を降ろした恰好が、眠っているように見えないか? ホセ。 
 アイツの肩関節を君が。お尻のカバーを僕が。腰の痛みを庇いながら塗ったな、全身黄色くしてさ。
「嘉人は嘉人でめまいがするとか、物忘れが気になるくらいのことしか言ってくれないし。私の言うことはぜんぜん聞いてくれないし」
 病院のために整備したという、滑走路みたい道路がまっすぐ伸びる。
「職場環境が変わって疲れが抜けないのは確かだけど、調子が悪いことくらい誰にだって、」
「まだ言ってるの!? それを診て貰うの!」
「専門家に診て貰えやハッキリするし、スッキリするぞ」
 潤子さんに心配されるなんて光栄――。
 映像の中の柔和な顔の彼女が、真剣な眼つきになり、不安げに変わって、何かを言いたそうな口がゆっくり動く。
「お願い」
 病院はもう目の前だ。
「わかったよ」 


 始業時間に間に合うように家を出た。鶯色の屋根の上に聳える十字架が 「教会は神の家。お前がくるところではない」 と言っているようで、まともに見られない。
 月明かりに似た色の門灯の脇にある、ガラス張りの掲示板には 「月間行事」 が貼られていて、イヴ礼拝の文字の下に、光の子どもになる渡部を思って筆を振った――洗礼式――の字が。堂々としている。
 20‥25。
 渡部は、信仰告白を読み返しているか、首をひねって書き改めてるか、聖書を読んで過ごしている頃、いや。夜勤って言ってたっけ。
 丸山さんは、渡部の歩みと、一日の感謝と、悔い改めの祈りを捧げている気がする。無い罪を捜して。
 信昭さんはそんな妹を思っている。
 僕はみんなのことを思っている。
 僕のことを気にしているのは、ねぐらに帰る君、野良猫くらいのものだ。
 
 始業時間ぎりぎりで着替えをすませ、階段を駆け下りる。と、自販機前に屯するみんなは……ふだんの半数もいない。緘黙で、どこかヘンだ。
 塗装ブースにいるホセに訊けば、
「みんなどうしたの」
「や (あ)」
 力のない返事を返すだけ。目も合わさずに。
 いよいよ行動に出た? まさかボイコットじゃ。それか、僕の日本語が通じなかったか。ホセはスプレーガンの先端をいじりながら、
「ヴィクトル死んだ」 ぼそっと言った。
 悪い冗談はよせよ、言おうとして口を噤む。聞き違いだ。
「ヴィクトルが何?」
 端正な顔が崩れていく。
「ヴィクトル、死んだよお!」
「ヴィクトルってシャワー組の……」
 分かり切った間の抜けた言葉しか出ない。
 僥倖公園に行った日の朝。 「問題ないお。約束大切よお――」 拙い日本語でシャワーの順番を譲ってくれた、あの親し気な顔のヴィクトルが、
「嘘だろ!」
 まともに受け入れられる方がどうかしてる、
「ウソだ!」
「ウソでないよお!」
 ホセが声を震わす。
「嘘だよ……」
「ヴィクトルのそば、はなれようとしないよ。みな」
 悲愴とか沈痛という言葉では表せない、ホセの塞ぎ様を見ると、何も訊けない。
「なんで」
 思いが漏れる。
「じさつ」
「何だってえ!?」
「きのうかえり、でんしゃ、とびこ (ん) だよお!」
 ホセが蹴り上げるコンプレッサーの凹みが先週より酷くなっていた。
「おさいふのなか、メモあ (っ) た、みじかいメッセージ」
 ホセの話によると。
 日本人は意地悪。日本人は冷たい。ずるい。いじめっ子。悪魔。ニッポンはサタンの棲み家、
「ニホンジンにころされたおもてくださいて……」
 日本人と日本への恨みばかりが綴られていたという。
「Wワークできなくて、おキュウリョさがて、せいかつくるしくて、からだ、あたま、おかしくなた。みなしんぱいしてた。カイシャにころされた。ニポンにニホンジンに……」
 彷徨うようにブースを出ていくホセを一人にしておけない。いや置いてくなよ、ホセ。
 いつか誰かが何らかの形で不満を表す、爆発させる気はしていた。それは自分であってもおかしくはなかった。ヴィクトルは僕らの代わりに、僕らを代表して抗議したのだ。
 場外でうな垂れるみんなの首に、楕円のネックレスがかかっている。
「それは?」
 ルイスはネックレスを撫でながら、
「メダイ」
 身につけていると、豊かな恵みに与れるという。ホセが胸ポケットから、長い数珠のようなものを取り出す。
「ニホンジン、シューキョーきらい、えんりょしてたの」
 ロザリオ。聞いたことがある。休憩時間や始業前に目を閉じていたのは、見えないロザリオを手に、祈っていたのだ。
「ヴィクトル、いつも、もて (っ) た。いちばんねしんな、クリスチャン。ロザリオにぎて……」
 電車に挑むときも握っていた! 
「みんな、すまないっ! この国はどうかしてる! 酷すぎる! ヴィクトル、ほんとうにすまない! 悪かった!」
「ヨシト、わるくない」
「ヨシトニホンジン、だけどニンゲン。なかま。みんなおもてる」
「ありがとう。でも、」
「カミサマ、くるし (ん) だヒト、たくさん、なぐ、さ?」
「なぐさめる」
「たくさん、なぐさめる。あいしてくれる。だからヴィクトル、テンゴク、えらんだ」
「神さまのそばにいたくて、たくさん愛されたくてヴィクトルは……行ったんだね」
 クリスチャンの自死は許されない。十分わかっていながら、愛だけが満ちあふれる、天の御国を目指した。
 自分が壊れていくのが耐えられなくて。地獄で生きるのが耐えられなくて。
 自分でいられるうちにヴィクトル、君は……。
「みんなやめるて」
「当然だ。僕もやめてやる」
「ボク、もすこしいる」
「どうして。君ほどの腕があればどこでだって働けるし、こんなところにいたって苦しむだけ、」
「ボクさいごにやめる。みんなのしごときま (っ) てから」
 ホセが悠然と立ち上がる。
 決意が伝わる。――ボクは泣かない、泣いてなんかいられない。
「僕は君がやめてからだ」
 ホセが右手を上げてハイタッチを求める。
「ありがとヨ、シト」
 音が弾けた。いい音だ。
 みんなが顔を上げた。

 ζ×δ××ξ∂×קζ×!
 ξ×ゑυ××λ×φ××ξ∂×Ψ×ю! 
 全体ミーティング。
 この時の為に長い夜を堪えていたと言わんばかりの怒号が、休憩室に飛び交う。
 正面の長机に鎮座する専務の口が、
(つ・う・や・く)
 ねちっこく動く。
「ザンギョーダイ、はらえ。せいかつできない。ヴィクトルころしたの、あなたた、おまえ。はじをしりなさい。ええと……」
 乱れ飛ぶ 「叫び」 にホセは通訳しきれない。
「君たちは正式に社員となり」
 社員という言葉に怒号の波が引く。
「君たちは社員となり、雇用保険に加入した上に賞与が支給される。雇用保険とは失業した際に国から支給される、云ってみれば、生活を保証する手当のようなものだ。また、希望者には健康保険及び厚生年金への加入手続きも行う。つまりだ。会社は 『君ら』 のために、残業代より遙かに高額の資金を拠出する勇断を下したわけだ。よって君らの主張はまったくもって当たらない」
 被害者はこっちだ、と言わんばかりの長い弁明を短くホセが訳すと、椅子を蹴飛ばす音を合図に、
 β×ε∂×ゑ×〆×Ψ! 
 §λ×υ×ゑ×ξ∂×ю! 
 怒りの勢いが増す。専務がホセに目配せするが、
「できないよお、わからないよ」
 通訳を拒否するのがホセなりの抵抗。黙っているのは僕くらい、いや僕だけだ。
「今日集まって貰ったのはそんな話をするためではなーい」
「そんなて、なによお!」
「ヴィクトルくんの件だ」
 一言で黙らす術を知る者が上に立つ。と言わんばかりの胴間声。水を打った休憩室に充満する男臭さが、今さらながらに鼻を衝く。
 専務の話によれば、会社はヴィクトルの家族に対して “見舞金” を支払う確約をしたという。便宜上の弔意と、離職者を出さないための窮余の一策だ。
「イクラ!」
 カルロスが叫ぶ。
「ヴィクトルいくら!」
 §λ×φ××ゑ×υ×ξ∂×ю!
 アーロンは砂をぶちまける勢いだ。黙ったままの臆病者はここにはいない。いやここにいる。
「会社として精一杯の額を支払う。金額は言えんっ」
「おかねでかいけつ、する、つもりかよお!」
「かいしゃのもの、ぜんぶうて、はらいなさい!」
 ふだん無口なジョナタンまで。みんな故意に日本語を使わなかった、片言でも思いは伝わる。
〈地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。〉
(まずい!) 
 空間が歪み、心臓がドラムロールみたいに、呼吸が!
 でも逃げない、看過できない、絶対逃げない。パニック発作で死ぬことはありません――死んだっていい。とっくに覚悟はできてる。
「これは労働災害だ、手続きは済んだのか!」
 脂ぎったすべての顔が僕に向けられる。 「なんでヨシトが。」 そんな顔だ。
〈時代が悪いからだ。〉 それもある。
〈彼らの心は利得を追っている。〉 それもだ。
〈あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。〉
 僕らは敢えて過酷な環境に身を投じる仲間、プライドを認め合う家族だからだ。
「Jоs・!」 
 ホセが僕の言葉をみんなに伝える。
 一瞬ギョッとした表情した専務は口を開かない。仲間を掻き分け、正面に立つ。
「労災の手続きはしたのか、答えろ!」
「君がそんな男だったとは。驚きだな」
「聞こえないか!」
「検討中」
 藪にらみの回答。
「検討中だ? バカを言うな。申請中の間違い、」
「種々検討中である」 
「ヴィクトルは通勤途上に死んだ、体調不良を訴え続けた。貴様らは法で決められた検診すら受けさせない。すぐに労災の手続きをしろ、それが誠意、精一杯と言うんだ。分からんのか!」
 机が軋む。手帳が跳ねる。腕が痛んだ。仲間と同じことをしていた。
〈天からは、星が下って戦った。〉
 余りに理不尽不条理、恥知らずだ。
「ニホンジンウソつく。うらぎり。ワガマーマ!」
「やさしいウソ! イジワル!」
「モラルないこどもおっ、くるんでなかたよ!」
「アイしらない、おまえたち、ニンゲンかよお」
 ディアブロ! 
 コバルデ!
 命を生かすのも救うのも愛。日本人は愛を知らない。愛のないモラルなどあり得ない。みんなこの国をしっかりと見ている。日本人よりはるかに真摯に。真剣に。大人の目で。
「繰り返すが、会社としては今回の件を重くみて、今後の懸案事項を含め検討している最中である。えー」
 従業員のメンタルヘルス――
 第三者委員会の設置――
 苦し紛れの弥縫(びほう)策だ。しかも対象は “日中組” の日本人のみ。委員会は息のかかった第三者に決まってる。――どいつもこいつも無関心、責任のなすり付け合い。信昭さんの言うとおり、
〈彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。〉
 主の言うとおりだ。
「とにかくだ。会社はヴィクトルくんが亡くなったことに哀悼の意を表し、精一杯の誠意を示す。そのことを伝える為のミーティングだ、以上申し伝えた。夜勤従事者はすみやかに帰宅し、日勤の者は作業を始めること以上」
 出る杭は打たれ、ありんこは踏み潰され、石ころは蹴飛ばされる。嘆息も出ない。応接室に逃げ込んだ専務を追う力は誰も残っていない。
 僕らは同じ方向に足を向ける。
 朝陽が射し込む廊下を、ホコリが泳ぐ。
 前を行くみんなが、帰還兵に見える。
〈不法を行う者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。〉
 口の中で聖句を唱え、更衣室の前で立ち止まる。と、
「ボクたち、ヴィクトルのとこいく。キョーカイでいのる。ヨシトもこないか」 ホセは言った。
「僕が、いいの?」
 ホセが廊下にいる仲間に同意を求める。
「ともだちたくさん、ヴィクトルよろこぶ」
「ボクたちも、うれしい」
 男たちが硬い笑顔で手を延べてくる。
「ヨシトなかま、ファミリアね」
 そして僕らは人間だ。
「ありがとう」
 握手が癖になりそうだ。



     九


 ヴィクトルが、月と中空の間あたりを彷徨っているようで、眠った気がしない。
 薄緑のランプを点滅させて震える携帯電話が、新種の大型昆虫が身悶えているように見えるから、ハイスピードで手を伸ばし、0、5秒で布団の中に引っ込める。
 いつだっただろう。ホタルの観賞会って。
 耐えられないほど蒸し暑い時季ではなく、夜風に震えた年もあったような気がする。
 七時過ぎたわよ――。
「休みなの」
 母親の心配は夕食の用意と片づけ。深夜食と昼食を兼ねた朝食は缶コーヒーだけだから、有難いけど、
「今日はいいや」
「それならそれでもっと早く、」
「ホタルの観賞会っていつだっけ。僥倖公園の」
 文句を聞きたくないからではなく、いま知りたかった。
「六月。今頃何言ってんの。半年以上も先の――」
 そうか。雨つづきの年もあったもんな。来年は四人で、
(末期ガンで余命は半年。手の施しようのない……)
 大丈夫。握手した手は痛いくらいだったし、あんなに元気で明るいんだから。
 携帯を開くと受信メールが三通。二通は予想どおり渡部から。
〈明日は都合がつかなくてつき添えません。ちゃんとお話しを聞いてきてくださいね。信昭さんは行けるそうです〉
〈信昭さんが潤子さんを誘うって言ってました。嬉しいね。潤子さんが一緒なら私も安心〉
 もう一通は、信昭さんからだ。
〈明日の通院。潤子も連れてくから施設に来てくれ〉
 自転車で行くにしても、病院までは結構な距離があり、施設までなら歩いて行ける。信昭さんの心づかいが嬉しい。
 総合診療科を受診し、内科に廻され、いくつもの検査を受けて一週間。メールが来なければ、或いは見なければ、明日のことなど忘れていただろう。でも、それどころじゃないんだ。
 長押(なげし)に掛けた作業着を見るでもなく見ていると、職場に向かうみんなの姿が浮かんで 「起きなきゃ」、 って気持になる。
 通勤に二時間掛かるホセは愛車ドミンゴの中。今日は音楽もかけずに、前方を睨みつけている。
 ルイスとアーロンとカルロスの三人は、駅に向かう途中だろうか。ぴたりと肩を寄せ合って、今日は、口もきかずに歩いてる。
 行かないと。返信は、まあいいか。もう遅いし。


「今日はゆっくりできそうよ」。 深夜勤務を終えた同僚のおばさんは、安に寝かせてくれなかったと言いたいのだ。
 入所者の対応にとどまらず、介護職員の訴えに耳を貸すのも職務なのに、 「ワタシは看護師よ。 『あの人たち』 の上司でもカウンセラーでもないの、県の職員でも。手当も出ないのにどうしてそこまでしなくちゃ――」 って、何それ。
「足、ひっぱるなよ。お願いだから」
 愚痴もこぼしたくなる。っていうか零れる。
 看護師は、患者だけでなく、看護師も見ること――。
 要は、見習っていい人といけないヤツを見極めろって潤子さんは言いたかったのだ。
 そもそも仮眠時間に眠ろうと思うことじたいが間違いなのっ。
 何かと言えば入所者さんや施設のせいにして文句ばっか言っちゃってさ。
 処置は荒いし。上から目線だし。
 あんたみたいな活躍しているつもりの活躍してない勘違い女がいるから女が活躍できないの! 
 あーイヤ。もうヤダ。
 考えれば考えるほど、考えたくなくても考えちゃうからムカつく。
 コンココンッ、 
「高橋さんと連絡取れた?」
 ドアが開くなり、いきなり? 
 白い歯を覗かせるやさしい顔、いちばん好きで 「がんばるぞ」 っていう気持ちになるのに、
「電話にも出ないしメールも無しです」
 つい声が尖る。
「そう。何かあったのかしら」
「行きたくないなら行かなければいいし、行く気があるなら一人で行けばいいんです、結果を聞くだけなんだから。心配するだけ疲れちゃいます」
 まだニコニコ。こっちはイライラしているのにもう、
「ふつう 『あっち』 から連絡しますよ。一人じゃ不安だからつき添ってくれとか、一人で行くからいいよとか心配かけて悪いの一言くらいあっても、」
「小絵ちゃん」
「何でしょう」
「怒ってるの?」
「怒ってます。人が心配してるのに我関せず、対岸の火事、他人事。ぶっ飛ばしてやりたいくらい」
 言ってから気づいた。ムカムカの原因は嘉人だ。
「怒っちゃだめよ。って言うと、ますます腹が立つのよね」
 またキッとなるようなことを、
「潤子さんは私を怒らせたいのですかっ」
 ぜんぶ潤子さんが正しくて、誰も彼もが潤子さんの味方で、ベージュのニットのプルオーバーまで、潤子さんに着てもらう為に編まれたとしか思えないほど。よく似合う。私が着たら猫に小判? 何とかに真珠? 要するに台無し。
「そうじゃないわ。わたしと同じだなあと思って」
「嘘です。潤子さんは穏やかで清楚で美人で優しくて、泰然としていて、私とは正反対。似て非なる――」
 勝るものなど何もない。潤子さんの前では、若さなど何の役にも立たない。何度味わわされたことか。
「買い被りよ。わたしは短気で怒りん坊よ」
「仮にそういう時があったとしても、それはそういう気持にさせる原因をつくった原因が悪いんです」
 結局は潤子さん。潤子さんに落ち着くのだ。 
「先週の礼拝で、梨田先生がお話なさっていたでしょう? 『……聞くのに早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。』 って。あの聖句を意識するようになって、少しづつだけど、変われた気がするの。小絵ちゃんの言うような人になったとは思わないけど」
「そのとおりに出来たらどんなに楽でしょうね!」
 
 まだプンプンしてる……。
 それなら、
「おまじないを覚えたのが大きかったなあ。誰にも話していない、わたしだけのおまじない。きっとそのせいだわ、怒りん坊が顔を出さなくなったのは」
 ふふ。思ったとおり。興味津々。
「おまじない、ですか」 
「おまじないなんて言ったら怒られちゃうかもしれないけど、何も考えずにね、ただ十字架の形を思い浮かべて、それから負んぶするの」
「十字架をおんぶ」
「そう。聖書には 『自分の十字架を負い、』 って書いてあるでしょ。負んぶするのよ。 “よいしょ” って、声に出すと効果てきめん」
 目を閉じて、言われたとおりにする。
「よいしょ」
「どう? 違うでしょう」
「重みを感じます、十字架の。イライラが小っちゃくなって、雲みたいに、どこかへ消えていくよう」
「そうね。不思議よねえ」
 おんぶ紐をして我が子をあやす、お母さんになった小絵ちゃんを見るまでは、生きていたい。
「抱っこでもいいみたい」 
 ほら見てえ! 乳首を含ませながら、生きようとする命に感動する姿が目に見えるよう。
 
 もし私に子どもができたら、潤子さんから貰っちゃおうかなあ。
 何を?
 名前ですよ。男の子なら 「潤」
 ジュン? 女の子だったら?
 潤って書いて 「めぐみ」
 めぐみとも読むのね。
 ええ。でも、男の子と間違えられたら可哀想かも。
 ご主人にお任せしたら?
 そのまんま。 「潤子」 にします。
 呼び捨てにできるから? 潤子、おイタはメでしょっ。
 大丈夫です。私、叱りませんもの。

〈生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。〉
 今までどおりでいてほしい。お母さんになっても。わたしがいなくなっても……。
「潤子、さん?」
「あらほんと。抱っこもいいみたい。いいことを教えてもらったわ」
(でしょう?)
 新人の頃の顔。看護師にとってもっとも大切なことよ。 「忘れないでね。」 の思いを込めて、
「さ。今日も小絵ちゃんらしく。元気にね」
「はい」
 オーバーテーブルの吸い飲みを手にして、 「つき添いの準備、しますう――」
 洗面台に向かう小絵ちゃんと同じように、
「兄にしてもらうからいいわあ」
 明るく返す。
「信昭さんのことですけどお」
「兄がどうかしたのお」
 トーンを上げて聞き返す。
「膵がんって聞きました」
 戻ってきた小絵ちゃんの目が厳しい。
「兄から聞いたの?」
「はい。余命半年って」
「ごめんね、話さないでほしいって頼まれたの。それで、」
「それはいいんです。それより、どうして明るくいられるんでしょう。ガン患者さんを一括りにするつもりはありませんけど、茫然自失になったり、自暴自棄になってもおかしくないのに。あまりに気に留めないから……どう接していいのか」
「目立った自覚症状が出なくて、深刻に考えられないのかもしれないけど……」
 そもそも口止めすること自体、お兄ちゃんらしくないのだ。
「聞いていいのよ、何でも聞いて。話してあげて」
「でも、患者さんとは違うから」
 確かに。看護診断の整った患者と向き合うのとは違う。
 廃用症候群を認知すればADL――日常生活動作――にも支障を来たし、薬剤が変わって薬理作用に翻弄されれば……それ以前に、合併症の連鎖やガン性疼痛がひどくなれば嫌でも………。
 死と終焉に対峙して、生き抜こうとしているのだ。お兄ちゃんは。
「小絵ちゃんと会うことが活力になっているの。だから普段どおりに接してあげて。ね」
「分かりました。ふつうにしてます。でも、支えて貰っているのは私の方だから……」

 嘉人が受診する気になったのも、明るかったのも、信昭さんがいてくれたから。潤子さんのお兄さんだから――。
「好きみたい嘉人。潤子さんのこと」
 知りたかった。嘉人をどう思っているのか。
「同情してくださっているのね。もちろん哀れんでというのではないのでしょうけど」
「そんなんじゃありません。嘉人の心には潤子さんが住んでいます。見ていいれば分かります」
「仮に、小絵ちゃんの言うとおりだとしても、どうなることでもないわ」
 潤子さんと同じ立場なら、私もそう思うかもしれない。
 でも、未来はどうにでも変わる気がする。嘉人ととなら。社会だって変わるかもしれない。二人なら、どんな困難も乗り越えられる……
「手が止まってるわ」
 乳房の上に、手を置いていた。聴診器を外して、着衣を整える。
 もし潤子さんに子どもいたら、あのきれいな色の乳首をふくませていた。もう感覚も忘れたけど、潤子さんはどんな男の人を愛して、愛されて、悦び合ったのだろう。
「なあに?」
「いえ、潤子さんみたいに美人だったら、私の人生違ったなあって」
「わたしだって、小絵ちゃんみたいに純粋で明るかったら違っていたわ」
「それって慰めになっていません」
「慰めでなんて言ってないわよ。ほんとうにそう思っている、」
 コン、ココン、いいか――ノックと同時に、
「了解を得てから開けてください。レディのお部屋なんですから」
「カーテン閉まってんだから見えやしねえよ。それに小五ん時までいっしょに風呂に入って洗いっこ――」
 ふと思った。潤子さんと嘉人を結びつけるために、信昭さんは、現れたのではないかと。
「朝から美人に会えるなんてラッキービンゴ。早く来た甲斐があるってもんだ」
「美人の妹さん(・・・)にね」
「いやに尖んがるじゃんか」
「私は 『妹さん』 と違って、美人でもお淑やかでもありませんから」
「淑やかじゃねえなんか言ってねえし、安心しろ。そんな女日本列島どこ探してもツチノコほども、は言いすぎか。二ホンカワウソは微妙、トキはぜいたく。人口の0、00……01、三桁もいやしねえんだからよ」
「そんなこと女がいちばん分かってますっ。潤子さんはその貴重な女性の一人なんですうっ」
「どうしたのよお、小絵ちゃんらしくもねえ。小絵ちゃんはワールドワイドのレディーススタンダード、つまりこの国のレッドリストの筆頭、どころかラストサバイバーかも」
「何が 『ちゃん』 ですか。スタンダードの生き残りかもよ。ちっとも嬉しくないわ」
 嬉しかった。信昭さんは癒しの使いなのかもしれない。重たい気持が軽くなっていく。
「素直に喜べよお。それに嘉人から聞いたぞ。学生時代えらくモテたって。俺が聞いたんだけどな」
 確かにそんな時期もあった。テニス雑誌に載ってアイドル扱いされたこともある。大した活躍もしていないのに。
「病院でも大変だったの。言い寄られて」
 それは、若さという特権のせい。もし潤子さんと同世代だったら、私なんか蚊帳の外。同級生なら、見向きもされなかっただろう。
 潤子さんって、何だろう。内面の美を保ったまま歳を重ねて、品として表われているのだ。だから輝いているのだ。
「何だ。ぼーとっとして」
「それよりやりません? ガーデニング。午後からならお手伝いできますから」
 居室の隅には、お洒落なジョーロに、細長の銀色のスコップと、鉢植えと、必要なものは揃っている。
「もう植えないといけない時期なんだけど、仕事中に?」
「堂々とやればいいです。バルコニーででも。入所者さんを誘ってもいいですし」
 病院ではこうはいかない。でも施設では、大切なこと。信昭さんにとっても。
「そうだな……」
「考えるほどのことです?」
 潤子さんが頷いてくれる。
「何だかしたくないみたい。ずっと先延ばしじゃない」
「んなことねえよ。帰ってきてからでもやっか。みんな揃うことだし」
「そうこなくっちゃ。ところで何ていうお花でしたっけ」
「今さら何言ってんだ、お前え」
「フリージアよ。黄色いフリージア」
「そうそうフリージアでした」
 名前くらい知ってるし、覚えてるよ。みんなが喜べばそれでいいの。
「小絵ちゃんみたいなお花なの。だから選んだのよ」
「じゃあ、ずんぐりむっくり以外に何の特徴も魅力もない、」
「ずんぐりむっくり、いいじゃんか」
 信昭さんが顔をつき出して胸を見るから、
「どこ見てるんですか」 からだを捩る。
「短所だと思ってることも含めて、宝ってこった」
 潤子さんの少女のような胸を見て触れたばかり。宝なんて思えるはずがない。
 ナースコールの鳴らない静かな朝。
 寝つけなかった入所者さんは、朝食後の再入眠を。手指の動く方は、ギフト用のメッセージカードを封入する作業に出ている。
「それにしても嘉人のやつ遅えな」
「ここに来られるの?」 
「ああ。もう来てもいい頃なんだが、あいつこの期に及んで」 信昭さんが携帯を取り出す。
「返信は?」
「あいつはわざわざ寄越すやつじゃねえよ」
 あっさり言われて、なるほど。そう割り切りば腹も立たないのだ。
「迎えに行ってもよかったんだが、潤子の準備もあるし、一刻も早く、小絵ちゃんと、会いたかったから……」
「嘘ばっかり。お部屋での携帯はご遠慮くださいませ」
「‥‥‥」
 心持からだを横にして、画面を見る信昭さんが眉根を寄せる。
「何かあったの」
「信昭さん」
「仲間が死んだらしい。電車に飛び込んだそうだ」
「え!?」
 勤務前にはメールは来ていなかったけど、出勤前か、深夜休憩か、朝にでも送ったのかもしれない。
「仲間って、どなた?」 
「同じ職場のペルー人。病院どころじゃねえな」
「ご家族はどんなに、悲しまれていることでしょうね」
 潤子さんの声が曇る。
「まったくだ。遠路はるばる、殺されに来たようなもんだからな。さぞや恨んでることだろうよ、この国をよっ」
 日本に来なければ死ぬことはなかった。と言っているようなものだ。
「神さまも嘆かれているわ」
「怒りに震えてっかもしんねえぞ」
 潤子さんが見ているのは天。聞いているのは、神さまの御声。
 聖書に書かれているとおりかもしれない。 〈主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。〉
「葬式は明日。カトリック教会か。そう遠くねえから、顔出してみるわ」
「わたしも連れてって」
「私も」
「嘉人も嘉人の仲間も、仲間だからな。嘉人に会って詳しく聞いてくっから小絵、潤子のこと頼むぞ」
「そんなに急いで行かなくても」
 休んでからでもいいのに。言おうとした時には、ドアの向こう。
「やっぱりそっくりですね、嘉人に (潤子さんにも)。 昔からああだったんでしょう?」
「他人事ではいられないの。だから用もないのに毎日くるのよ。困っているわけでもないのに」
 困っていなくても、困ることばかりだから、私がいるのに。傍にいるって決めたのに……。
「高橋さん。お辛いわね」
 私だって辛い。それでも明るく。
「延期ですね。鉢植え」
「落ち着いたらにしましょ。春にはかわいいお花が見られるように、来週にでも」
 もしかしたら信昭さん、怖いのかもしれない。花が枯れるのを見るのが……。



     十


「すんげえな」
 運転席を降りた信昭さんが溜息まじりに感嘆する。十四、五キロ海寄りに来ただけなのだが、風に温もりを感じた。
「言葉も出ないわ」
 丸山さんまで。宮殿みたいな聖堂に圧倒されている。と、
「ヨシトお!」
 どこかから見ていたのだろう。開け放たれた聖堂の扉から、仲間がつぎつぎと駆け寄ってくる。
「よくきたヨ、シト」
「ああ」 よく来た嘉人、だけどね。
「ヴィクトルよろ、こぶよお」
 彼らなりに気持の整理がついたのだろう。顔いっぱいに笑顔をたたえて、
「ありがと、きて、くださ (っ)て」
「ヴィクトル、かぞく、うれしいよお」
 自分のボキャブラリーから精いっぱいの日本語を搾り出して、歓迎してくれる。
 僕が三人を紹介し終えると、
「ようこそ、お出でくださいました」 
 場が落ち着くのを待っていたかのように言う、詰襟スーツ姿の男性は、
「タケカワ、しんぷさん」
 竹川神父は、信昭さんと同年代か年下に見えて、司祭でもあるそうで、僕の名前もみんなの同僚であることも、障害者の丸山さんが来ることも、ホセから聞き及んでいた。
「皆さん、教会にお越しになるのは初めてでいらっしゃる」
 ‥‥‥
「わたくしはプロテスタントの信徒で――」
 黙ったままの僕に代って丸山さんが答えてくれる。
「私はクリスマスイヴに――」
 渡部は受洗を控えた求道者であるのを伝えると、
「ひと月後には兄弟ですね」
 神父はいっそう目を細くした。
「俺は信者じゃねえし、なる気もねえけどいいか」
「もちろんです。どなたでも歓迎します」
 いつもの調子の信昭さんへの対応といい、歓迎の挨拶といい、笑顔にしても。神学校で習うのかと思うほど、牧師と変わらない。
「それと嘉人もだ。な」
「まあ」
 緩やかなスロープに沿って植わったバラとオリーブに、歓迎されているようで、何だか照れくさい。
 車椅子を押すカルロスとふだんは無口なジョナタンが、丸山さんと渡部にしきりに話し掛けている。僕には半年間も挨拶どころか、目を合わせようとしなかったくせにだ。少年みたいな笑顔で。
 バラのアーチをくぐった信昭さんは重厚な扉に手を置くと。 「すんげえな」 目を丸くする。 「こいつだけでウン十万だぞ」
 扉に限らず、すべてが豪壮。篤信の明かしと言えばそうなのだろうけど……。
〈ゆりの花のことを考えてみなさい――。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。〉
 家畜小屋で生まれた御子イエスを、思わずにはいられない。
〈心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。〉
 自宅の居間を礼拝堂にして主を讃美する、貧しい信徒たちも……。
 吹き抜けのホールには、イエスを生んだマリア像があり、外界よりも明るく感じる聖堂内は、キリスト・イエスを模った立像や、贖罪を直接的に訴える十字架があり、色とりどりのステンドグラスといい、一つ一つが美術品のようで落ち着けそうで落ち着けない。
「皆さんの教会とは随分ちがうでしょう」
 僕の意中の半分を言い当てた竹川神父に、アウターとスラックスを黒でまとめた丸山さんは、
「はい。しかし、教会は神のお家ですから」
 見目形のとおり。控えめに答えた。
 そう、教会は神の家――
〈いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ。〉
 何も拘ることはないのだ。教会はキリストのからだなんだから。
 
 そこかしこからスペイン語が聞こえる、職場の休憩時間みたいな感じがいいのか、発作どころか緊張もせず、そのぶん漫ろなうちに時間は過ぎて、聖書朗読、説教に入った。
 竹川神父の説教は、
〈わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。〉
 苦境に立つ仲間への激励と、
〈私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。〉
 キリスト者として、奮起を促すものだった。
 祭壇に向かう信徒は、主イエス自身をあらわす 「パン」 と、迫害されて流された血を意味する 「ぶどう酒」 のうち、パンだけを受け戻ってくる。死者が復活にあずかり、永遠のいのちを得るためのカトリックの儀式。たしか聖体拝領。
 何をするでもなく左の端に目を向けると、パンを受けた丸山さんが、渡部に慰められて、泣いていた。
 讃美歌 (聖歌) を斉唱する間も、弔辞が読み上げられる間も、面識もないのにどうして泣けるのか……。そのことばかりを考えていると、ヴィクトルの略歴が読み上げられて、
「お母さまからのメッセージです」
 大家族の次兄だったこと。
 出稼ぎの父親代わりになって、家族を守り、畑を耕し、妹の教科書を借りて、夜遅くまで勉学に励んでいたこと。
 子どもの頃から苦労つづきだったこと。
 希望に胸を膨らませて日本へ向かったこと。
 日本でたくさん友だちができたと、喜んでいたこと。
 やさしい子。思いやりにあふれた子。泣き言を言わない子。
 息子を誇りに思う――
 息子を愛している―― 
「行くか」
 信昭さんの手に白い生花が握られている。
「お前が行かないでどうする」
 もう、別れの時だ。
 白い花いっぱいの棺の中のヴィクトルは、やけに艶のある顔で、笑っていた。作業場や外階段ですれ違う時みたいに。廊下や更衣室やいろんな場所で、アイコンタクトを交わす時みたいに。
「きれいでしょ」
 たしかに綺麗。メスティソ (白人と先住民族の混血) のヴィクトルと白い花が、互いを引き立て合っている。
「ねむ (っ) てる、だけだから」
 電車に挑んだのに顔は無傷。故郷の野原で寝転んでいるようで、悩みがぜんぶ無くなって、幸せそうだ。
 信昭さんは棺に手をかけ、
「変わり果てた姿になってでも、クニに帰りたかったのかっ」
 声を震わす。
「すまなかった」
 自分が死なせたような言い方が涙を誘う。僕も我慢しないよ、ヴィクトル。君はそのままでいいからね。
「いやあ、二か国語の同時進行は初めての経験でして、分かりにくくかったのでは……」
 中座していた竹川神父が目を見開く。
「どうなさいました」
「日本で頑張ってきたヴィクトルさんを思うとつい……」
 丸山さんの涙が教えてくれた。
〈喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。〉
〈互いに一つ心となり――〉
〈隣人をあなた自身のように愛しなさい。〉 
 絆はこの上に成る。これらを欠いた 「絆」 はない。あり得ない。
「神父なんかやってるよっか、通訳の方が稼げるだろ」
『空気換えようぜ』 と言わんばかりの信昭さんを囲むように輪ができる。
「通訳ですか。悪くありませんね。Jリーガーもスペインで活躍する時代ですから」
 信昭さんの思いを与した竹川神父は、実はユーモラスで、二人は気が合いそうだ。
「その気になりゃぼろ儲けだ。俺なら迷わねえけどな」
「ここで 『舌を磨いてから』 考えますよ。話下手の神父で通っているので」
「なんのなんの。宗教なんかちっとも興味のねえ俺にだって響いたんだ、大したもんさ。あとは自信だな。図々しくなりゃ一人前だ」
 ホセがみんなに通訳すると、ハイタッチの大騒ぎだ。
「ヴィクトル、わらてる」 「よろんでるよお」 「あかるいの、だいすきだたからよお」
「ヴィクトルさんは犬馬の労。人に尽くすことが生きがいの温情の人でした」
 目立つのは好まない。人の辛苦は見過ごせない。何より絆を大事にする。ヴィクトルはそんな男だ。
「ヴィクトルに、てるよ。ノブさんに」
「ウマ? あ (っ) たね」
「やつはそんな男だったのか。ま、天国行ったら訪ねてみるわ」
 明るく言う信昭さんに、
「天国ですか」
「ああ。半年したらあの世行き。も少し、前倒しになっかも分かんねえけどな」
 冗談と思って莞爾していた、神父が固まる。
「何か、大病を患っておられる」
「ガン。膵ガンな。今は全身そこいらじゅーガン。流行り病で死ぬのは不本意だが、神様が決めたこった。受け入れるほかねえわな」
 ホセが仲間に伝えると、皆信じられないという顔つきで頭を振る。僕は違う意味で。死を完全に受け入れていることに。
「祈らせてください」
 竹川神父が無理矢理手を取ると、
「よせよ。俺は死なんか問題にしちゃいねえし、ヴィクトルは俺に似てるんだろ? 辛気くせえのはゴメンだと思ってるに決まってる。明るく送ってやろうぜ」
「しかし」
 ………
「わんわん泣いてたのはどなたでしたっけ?」
 渡部がいち早く反応する。
「人のこと言えっか。乳だけは一人前のくせしてガキみてえに、えーんえーん、ひーひー、ヒック、うえーん」
「あなたほどではないと思いますけど」
「何をいけしゃあしゃあと、何も隠すこたあねえだろ」
「触ろうとするからでしょっ。日本人くらいのものよ、おっぱい大好き。助平男は」
 二人のやり取りにもう、葬儀なんて思えない。
 と、
「時間ですね」
 遠慮がちに神父は言う。
 皆ヴィクトルに思いを告げる。或いは祈る。
 遅れて棺に近づく信昭さんは打って変わって、何だろう。別れを惜しむのとも違う。弟の労をねぎらうように、穏やかに見守っている。
 familia……hermanos……Te quiero……
 仲間たちの手で棺が、閉められてしまう。
「ありがとうヴィクトル!」
 僕は叫んだ。シャワー室で言えなかった言いたかった言葉を。 「またな」 信昭さんのことばを掻き消して。
 Gracias……Victor……
 また会おうね、アミーゴ。
 いつか、きっとだ。


「実は相談したいことがあるの」
 丸山さんは右に少しだけ顔を向けた。
「俺にか」
 運転中の信昭さんが短く答える。
「小絵ちゃんに」
 隣りに座る渡部が身を乗り出して、
「潤子さんが相談なんて初めて。何でしょう」
 嬉しそうに訊く。
「健常者の時から考えていたことなんだけど、教会も協力してくれるっていうから思い切って――」
 計画段階だから、かいつまんでしか話せないと言いながらも、 「講話会」 がどんなものかは想像できた。
 教会やキリスト教系の施設を訪ねて、神から受けた恵みや試練を伝えたり、話し合う、一人一人が主人公の集い。
〈悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。〉
 そんな丸山さんなら成功間違いなしだ。
「痛みを分かち合う、お互いを思いやる会。すごいなあ。偉いなあ」
「信仰に関心を持って下さったり、高められれば嬉しいけど、話しやすい雰囲気を作って 『来てよかったなあ』 って思えるような会にしたいの。どうかしら。出来るときだけ」
「断る理由はありません。なるべく早く実現させましょうよ」
「俺がくたばる前にか」
「そんなこと言ってないでしょって、信昭さんも? 入院も治療も拒否している人を手伝わせてどうするんですか」
「そうなんだけど、兄がいないと叶わないから」
 サポートが必要だからという理由だけでなく、治療のいっさいを拒否する信昭さんに 「生」 への希望を持たせるため。或いは、信仰を心に据える大切さを伝えたいのか。障害者とガン患者、二人の挑戦なのかもしれない。
「俺は忙しい方が好きだって言ったろ。言ってなかったか。とにかくだ、駆けずり回ってたらあと一年くらいは生きられっかも、」
「そんなこと言わないで!」
「んだよ、いきなり。事故っちまうじゃんか」
「冗談でもそういうことは……」
 ヴィクトルを送ったばかりだし、仕事で向き合う死とは違う。笑っていられる方が本来おかしいのだ。 
「でも、小絵よお。どうにもなんねえことを心配することほど無駄なことはねえ、とか思ったりするわけよ。終わりの境地に立ってみっと余計にな。それに俺は、まな板の鯉でもモルモットでも実験台のカエルでもねえ。残りの命を大切に使おうと思ってるよ。誰よりもな」
「それならいいけど……」
 火灯しごろ。夕礼拝へ向かう時に見たのに似た茜の空に、紫がかった雲が浮かんでいる。
「嘉人は別だよ」
 祈ったものだ。今すぐ引き上げてください――って。あの雲の中に。
「聞いてるの? もっと自分を大事にしないとだめ」
「わかったよ」
「ほんとうに。いのちに、自分も他人も有りませんから」
 いのちか……。
〈あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。〉
「それよっか、嘉人。ヤツらのことはどうなってんだ」
「それよっかじゃないっ」



     十一 ―(一)


 ガンは確実に俺を蝕んでいる。六十五キロあった体重が四十五キロを切るのも時間の問題。そう先の話ではないだろう。
 黄色みの増した肌や眼玉や、余命幾許もない老人みたいな皮膚から落ちるウロコのような表皮、その下の葉脈のような血管に紫がかったシミ、それと貝殻のように筋の入ったブ厚い巻き爪を見るくらいは 「他人」 と思えばいいだけの話だが、脇腹や背中の鈍痛に耐える 「根性」 には限界があるし、それより何より、凍え死ぬかと思うほどの悪寒に襲われた時がもう堪らない、エアコンを三十度に設定してファンヒーターの前にへばりついて、 「何とかしてくれ! いや、してださい!」 神頼みする他手はない。ガン性疼痛に襲われるのも時間の問題。そう先の話ではないだろう。
 さて、と。布テープとインソールに紛らせて買った、百均ファウンデーションを顔と首筋、耳の裏にも塗りたくって、汗をかく時季でないことに感謝しつつ、予備をカバンに忍ばせて、白に薄いブルーのストライプ柄のワイシャツを著イス。アピールするのは俺信条に反するが、現場寄りをアピールするのに敢えてネクタイはせず、クリーニングから戻ってきた濃緑の作業着を着て、
「準備OK」 出掛けっか。
 そうそう、ファウンデーション、
 ? 入れたか。
 しかし、嘉人もあれだ。やつらのことを考えていたとこまでは想定内だが、あんなやつとは意想外。鋳物ヤの違法労働の件は聞いていたから、 「騒ぎでも起こしたら起こした方が悪人呼ばわりだぞ。相手がブラック野郎でもだ」 「そんな会社見限って出直すこった。やつらには国のファミリーの生活もかかってるんだからよ」
 俺としてはふつうに話したつもりなのだが、
「ヴィクトルの死を軽視するような行動を取れば、僕はどう出るか分からない」 なんて恐ろしいことを言う。
「だからよ。そうなる前に心機一転新境地で、」
「頑張ってますよ! 彼らは」 がんばってんよ、ダチコーはっ! の勢い。
 日本人が敬遠する業種に活路を求めたところで、より安価で良質な外国人を 『仕入れ』 て 『酷使する』 忌まわしい文化が蔓延してるのがこの国の現実で、そんくらいのことは世界的に一般常識で、50年も日本で生きてりゃ百も承知なのだが、バックミラーの中の嘉人の顔は 「あんた、知っててもの言ってんのか」 と言っていた。
 言っても語っても喋ってもいないから、物語っていたが正しい言い方になるのだろうが、損することを死ぬほど嫌い、得することが生き甲斐の国民が一億人もいりゃ慎重にもなる。し、
「応募するたびに門前払いを食らえや、意気阻喪にも、」
「なりますよ! 人間なん (で) すから」
 なるよな。ってふつうに言おうと思ったのに。
 そんな状況下でのヴィクトルの死は、失意に追い打ちをかける一大事。だが、
「葬儀をきっかけに彼らは奮起します」
「ああ」
(ヴィクトルの死を、無駄にはできねえからな)
「もちろん僕 (嘉人) もできる限りのフォローを、」
(ってお前え、)
「フォローをします。何に代えても」
 黙っていようという決意は揺らぎ、
「分かってねえなあ、おいっ」
 キッとした俺に対して嘉人の顔は 「カッ!」。 けっ! も含んでいた感もあるが、何れにしても般若か阿修羅だ。
「僕でさえあんな会社でしか働き口がなかったんだ、甘くないことくらい十分わかってますよ!」 んなこと言われなくても分かってんよ! 
 助手席の潤子を意識したわけではないが、
「お前は普通の生活と、健康を取り戻すことだけを考えろ。俺は加工ヤには顔が利く。人脈がある。外国人も日本人もなく、現役は強みだ。大舟に乗ったつもりで、吉報を待て。いいな」
 年長者らしく言ってみた。八度くらい音程を落して。
 潤子だけが、
「その方がいいと思います。兄に任せてください」
 いつもの調子だ。そりゃあ小絵も怒るわな。
「黙って聞いていたら (聞いてりゃ) 潤子さんまで。今の状況を分かって言ってるんですかっ。入院加療が必要な人に何ていうことを」 云々。
「俺は工程管理の鬼と呼ばれた男、つまり。手を抜かずにどんだけ楽して結果を出すかを追求して、結果を出してきた男だ。舐めてもらっちゃ (ちゃ) 困るな」
 正面に向き直って、歩行者用の信号機が赤に変わって、
「ま、年内には片をつけるさ」
 悠然と言い、アクセルペダルをしなやかに踏みこんで、話は終わり。と思いきや。
「手を抜かないのが信条なら入院してください。そもそも嘉人に 『病院に行け』 なんて言えたギリですかっ!」 かっかっ! かかっ!
 嘉人といい小絵といい、すぐカッカッしやがって。俺にそっくりじゃないか。

 そんなこんなで、就職の斡旋を始めて三週間。戦争でも決闘でもないので、勝ち負けで言うのは憚るが、内定を勝ち取ったのは、三十から四十代半ばの男六人。溶融亜鉛メッキのドブづけ作業の三人と、同社の入出庫作業の男一人は、鋳物ヤでの経験を買われて割とすんなり。電柱よりもはるかにゴッツイ鉄鋼材の切断作業に斡旋したアーロンは、クレーン免許がものをいって。年末の駆け込み需要の恩恵とも言えなくもないから、俺のおかげでも何でもないのだが、それはそうと問題はルイスだ。
 来月上旬までに決まらなければ、一月中の就職は期待薄。あと半月。ここ一週間が勝負なのだが、やつは五十歳という年齢差別に絶望している節があり、嘉人メールによると、
〈ヴィクトルの二の舞を踏みかねません〉
 だそうだ。
〈プレッシャーかけないでくれよお。頼むからよお。〉
 が本音なのだが、俺は鬼。重圧は肩透かしにして騎虎の勢い、車を走らせたのはいいが……連日顔を出すのも、どうかと思う。
 こんな日に限って道はガラガラ。ふだんつかまる信号はスルー。さてどうする。
 湘南の海まで足を伸ばす? この世の見納めに。
 それなら小田原、御幸浜。よく行ったなあ、高校ん時。学校サボって。
 小田原と言えば干物。もちろんかまぼこも。小田チカのクレープも捨てがたいが、お城の外堀をのんびり歩いて、焦げ臭い芳香ただよう競輪場の横に出て、イカ焼き買って、足と腰を励ましながらみかん山にのぼって、相模灘や箱根の眺望に安らぎながら、海潮と緑の匂いをおかずにイカ焼きにかぶりつく、って違うだろ。
「やつらの転職を叶える」
 死ぬための目標第五、四、いや六だったかもしれないが、今の最大にして第一の目標は自分史を回想することでも束の間の安らぎに浸ることでもなく、やつらの解放だ。
(考えすぎよ。)
 フ。こんな時に限って潤子が現れる。もちろん潤子のサポートも同じくらい大事だし、同じくらい真剣に考えているさ。でも、漏らすわけにはいかない。
 コーラ色の小便は見たくはないが、便利というより 「都合」 と訳したほうが相応な、俺にとってはほぼ無用のあのコンビニで、
 ――ビーッ!、ビビ―ッ!
「うっせえ! 刺し違える覚悟でかかってこい!」 この屁っぴりが。 
 見た目はじいじで中身はおっさんよりも年寄りの若人と思しき、明日死ぬ覚悟もねえフ抜けに向かって悪態をつく俺。やっぱ、らしくねえな。俺らしく。
 千々に乱れたこの時代。道の歩き方さえ知らない大人が、車どころか自転車に乗ってしまうのがそもそもの間違い。期待できないやつに期待するのが俺の悪い癖。俺は俺なり、
「でいいよな、マイカー。マイ660。正確に言えば657cc」
 それにしても今日の俺、らしくねえな。小便、引っ込んじまったじゃないか。
(だ・か・ら)
 考えすぎか? 余命半年を宣告されたのが十月。残りの人生をネガティブに二~三ヶ月に設定してから……二か月だ。そりゃあ考えるだろ、いろんなことを。お前の生き甲斐なんかを。いろいろとさ。
 潤子のサポーターと言っても、送迎と、小絵に教わった車と車椅子間の移乗、確かトランスファーとか言ったっけ。それと、ふだんやってる雑用と、送迎と、原稿めくってマイクを口元にあてる程度くらいのものなんだが、原稿を書き改めたのは大正解。
 潤子の話しについ引き込まれて、 「めくってくださいます? 原稿」 何て言われて慌ててめくって、笑いを取った後だというのに。ハンカチを目に当てるママもいれば、すすり泣く声まで聞こえて、人それぞれに悩みを抱えていることが分かったし、潤子はいつになく明るかったし、ダメ兄貴のことも褒めてくれたし……。


「いっそのこと訪問先の特徴に合わせてみっか。今度んとこはママやんばっかみてえだしよ。ほれ」
 教会のホームページには、母子の集いや、イベント情報が掲載されていて、
「ブログなんか 『子育て日記』 っていうより奮闘記。戦記だ。きっとうまくいくぞ」
「でも、わたしが話しても……」
「聞く耳をもたないってか。経験ねえから」
「どう話していいのか分からないもの。それに今から書き直すの、大変でしょ」
 それならそれで 「前回同様自分のこと」 を。そんな言葉を期待していたのかもしんないが、
「見ようとしねえからだ」
 首をひねる潤子を車椅子に、トラス……トライス……ファン? 車椅子に乗せ換えて、窓際に連れてって。
「見て見ろ。何が見える」
 枝のすき間から、殺風景な冬の景色が見えるだけなのに。
「わあ」
 あいつはえらく喜ぶから、
「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」
 クラーク博士ばりに指を差して、 「自然はすべてを受け入れて生きてるぞ」 或いは 「自然は何一つ恐れちゃいないぞ」 って思いを、お気に入りの聖句で表現したら、
「どこで覚えたの?」
 潤子はますます上機嫌。
 実は俺もハマっちまって聖書、二回読破したんだ。なんて言えっこねえだろ。小っ恥ずかしくて。そんなことを夢想していたらだ、
「見ようとしたんでしょ」
 すべてお見通し。そりゃそうだ。お喋り小絵が言わねえわけがないんだ。――聖書をプレゼントしたんですう。
「わたしも好きよ。後につづくことばも含めて」
〈見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。
 倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り捨てられるのです。〉
「ほおう。倒れた者の上にあるのはきびしさ、切り捨てられるってか」
 たぶん、信仰に堅く立ってろってことなんだろう。
「それなら尚更だ、おっ始めっぞ」
「うん! テーマは?」
「育てる」

「誰の目にも触れない草木を、生かしているのは誰ですか。匂やかな香りを与え、美しい花や葉色をまとわせ、成長させているのはどなたでしょう。冬枯れしたススキを休ませて、その陰でうな垂れるナンバンギセルを覚え、育てているのは? 
 人は、悲しみ、苦しみ、悩みの中で成長し、迷いながら生きるものです。
 草木はどうでしょう。悩みも苦しみも、迷いもしません。
 大地に根を張り、成長するだけに見える彼らも、命を生かし、助け、わたくしたちを豊かな気持にさせてくれますね。意識してかせざるかもなく、喜んでそうしているように、わたしには見えるのです。
 なぜなら。
 神さまに生かされていることを、知っているから喜ぶ。
 神さまに愛されていることを、知っているから喜ぶ。
 神さまのみこころが何かを、知っているから喜ぶ。
 あの庭の向こうの、葉を落とした木も、眠っているように見える道辻の草も、美しい花をつける草木もつけない子たちも、一様に喜ぶ。
 人も同じであればいいのに。どうして、そうしないのでしょう。悩むのでしょうね。ただ喜んでいればいいのに、それが出来ない。なぜでしょう。
 わたしは、 『神のものは神に返しなさい。』 という、みことばを忘れてしまっているのかなって。それができないから喜んでいられない、苦しむのかなって――」

 子どもと草木を同じにするのはどうかしら。
 納得出来ない様子の潤子だったが、俺は譲らなかった。 「ママやんばっかしだから意味があるんだ」 「草木を大事にできねえヤツが子どもを愛せるかよ」
「でも……」
「神から見りゃ同じ命だぞ」
 俺に言わせればなのだが。そんなこんなで、 「わたしには子どもがおりませんが、草木どころか自分の思いを上手に伝えられない乳幼児にさえ出来ることができないから人は苦しむのでは――」 のフレーズはカットされていて、代わり入れた 「神のものは神に返せを忘れてる」 前後は潤子のアドリヴ。
 要するに 「目には目、歯には歯、愛には愛をってことか」。 そんな事を考えながら潤子の話を聴いていた俺だったが、アドリヴは別にして、自分で書いたことも忘れて、瞼を熱くしていた。あんなに……何だろう。俺の悪い癖だが、あんなに如何とも表現しがたい潤子を見たのは初めてだったから――。

「わたしは彼らにならうことにしたんです。喜んでいたいから。穏やかに、にっこりしていたいから。
 実は、難しいことではないと思うんです。わたしたちには、草木と同じ、お父さまがいるでしょう? 子育てで悩んでいる方。親御さんの介護で疲れている方。大きな、小さな試みを受けている方。お父さまのご慈愛と思って喜びませんか。どうしても喜べない時は、これまでしたきたように、忍耐を働かせるのです。そうすれば大概の試練は乗り越えられます」
「そう言われても」
「何か?」
「それができないから悩むんです」
「おっしゃることは分かるんです、聖書には 『訓練と思って耐え忍びなさい。』 『約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐、』 と書いてありますから。でも、喜べるまで我慢するのは……」
「できませんか。聖書には、 『神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。』 と書いてあるでしょう? 神さまにすべてを打ち明けて、 『お父さまお願い』 って声を出して言うの、お任せするの。思いの丈をぜーんぶ。一切合切ですよ」
 重たい空気を感じ取った俺は、潤子と講話会を守るために出しゃばった。
「風呂そうじにゴミ出しに休日に叩き起こして買い出し。その他もろもろ。いつもしているように、させてるようにか、とにかく旦那にふるくらいの気持で任せりゃいいってこった」
「ダンナと一緒になんか」
「ねえ~」
「出来るわけないでしょっ」
 ったく。ガキまでつくった仲だってのに何ちゅうことを、
「何かおっしゃいました?」
「おっしゃいましたかじゃねえや。お前えらクリスチャンだろ。出来なくてもお任せするのっ」
「神さまは言われます。 『たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。』 と。神さまは悩む者を放っては置かれません。必ず守ってくださいます。どんな状況に置かれても救ってくださいます。わたくしたちはただ……」
「草木にならう」
 嘴を挟んじまったな。答えを促したのに。
「きれいなお花が咲かなくても」
「そうだ」
「でも、いつも喜ぶなんてやっぱり……」
「ありのままでいいんじゃない?」
「そう! ありのまま、あるがままでいいんです!」
 障害者の潤子に言われりゃ、自分の悩みなど取るに足らない、不満程度に思えたのだろう。俺に言わせれば、そう思うこと自体が差別でしかないのだが、それはそれ。俺は俺。俺のあるがままは……四季のように自然に生きて、死期がくれば去っていく。風とともに。雲のように。そんな終わりを迎えられたら言うことねえが、それはそうと、あのママやんの言葉がすべてだったな。
「なんて恵まれているのでしょうね! 私たちって!」
 潤子の話は人を惹きつける、何かがある。何が何なのかは上手く言えないが、子育ての励みになったとか、親の介護も何とかやっていけそうだとか、母と子の更年期vs思春期の戦いを乗り越えられそうだとか、目を輝かせて言ってたし。 「帰してくれよ」 って言ってんのに、市民ホールを貸り切ってやりましょうよとか平日にも予定を入れたらどうだとか、勝手なことを言われるほどの盛況ぶりに潤子まで、
「やります!」 安請け合いしやがって。
「いいでしょ、お兄ちゃん」 
 子どもみたいに言われりゃ、
「ああいいともさ」
 って言うほかねえだろ。
 死ぬための目標第四、 「潤子のサポートをする」 は死ぬまでつづく目標なわけだし、俺のサポートさえあれば潤子自身の生き甲斐にも、
「あーっ!」
 ヴィクトルくんはいつも私をサポートしてくれました。
 教会では週毎に異なる言語でミサが行われ、
 ペルーの方以外にもメキシコやブラジルやフィリピン、 
 アメリカは言うに及ばず、
 欧州の方も通っていまして、
「ヨーロッパって言えよ」
 ユーロ圏の方も通っていまして……。
 幸いというか不幸にも、企業廻りの予定はない。
 竹ゾーに会おう。


     十一 (二)


 十五年乗り続けているマイカーは、日常的に行ってきたメンテナンスを怠っているせいか、調子がいいとは言い難い。年老いたコイツを自分を慰撫するが如く鼓吹する。 「急ぐことあねえぞ。止まらずに辿り着きさえすりゃいいんだから。んな」
 駅と工業地帯とを結ぶ国道の工事渋滞にはまって、葬儀の時の倍、一時間も掛かったが問題ない。
 マイカーの労をねぎらい、エンジンを切る。と、
「どうなさいました」
 急な来訪に驚いたのか、車の不調を危惧したのかは分からないが、驚倒しそうな勢いで姿を現わしたのは竹ゾー。神父竹川だ。
「どうもこうもねえよ。いい手を思いついてな」
 単刀直入に切り出す。
「外国人の信者の仕事先を教えてほしいんだ」
「勤め先を、(なぜ?) あなたに」
 上下薄藍色のコールテンに、中は羊毛色のとっくりセーター。若かりし俺の趣味と同じ。と思いきや。この色褪せようは当時のもの。ほつれも目立つし。葬式の時とはえらい違いだ。
「雇用実績があるとこのほうが脈があるだろ。外国人を雇うのに否定的な会社をあてにするよっか。初めっから竹ゾー、お前に頼めば良かったんだ」
「竹ぞーって。外国籍の方同士の紹介も容易ではないようですから、そううまく事が運ぶとは」
「紹介じゃねえよ。斡旋。要は、媒酌人が立ち会わない見合いみたいなもん。もちろん教会のことも、就労してるやつのことも一切言わねえ。約束する」
 竹ゾーは思案したのち、
「立場上できることは限られまして」
 言を左右、言葉を濁す。キリスト教という巨大組織が一企業に対して、就職を斡旋、強要しようとしたと受け取られ兼ねない、か。
 ここは日本。至極当然。だが 「そりゃそうだ」 で引き下がるほど、俺は根性ナシじゃないぞ。
「ヴィクトルの死を無駄にする気かよ。やつは俺たちのため、この国のために死んだ、殉教者なんだぞ」
 竹ゾーはまじまじと俺の眼を見、
「何があなたを突き動かしているんです。あなたと彼らに接点はない――」 云々。
 冷静に疑問を呈する。
「接点ってな、弱い者は弱い者同士助け合って生きる。当然だろ。やつらが住みやすい国にならない限り、生きづれえ世の中が未来永劫つづくんだ。分かるだろ、そんくらいのことはよ。あいつらはこの国の、何だ。希望の、あれだ。礎だ。違うか」
「重篤なご病気なのに、どうしてそこまで」
「俺のことはいいって」
「そうはいきません。あなたの体はあなたのものではないんです。大切にして頂かなければ」
「小絵にも同じことを言われたよ。神様のものだって。でもな、俺はどう足掻いても長くは生きらんねえ。同じ気持になってみろ。そうすりゃ分かっから。なろうとしてみろか」
 竹ゾー唇を噛む。普段着のせいか、随分年下に見える。潤子も若いが、若く見えるが、同い年には見えない。
「辛い思いだけを土産にして帰すつもりか? また亡骸を送りつけることにならんとも限らないんだぞ」
「そうならないように、」
「祈るんだろ」
「ええ。信仰による祈りは病む人を回復させます。立たせてくださいます」
「祈ってどうにかなるもんならこうして動き回っちゃいねえし、ヴィクトルはさんざん祈ってどうなった、ならこうだ」
 顔を近づける。
「ひとり言を言え」
「?」
「ええー、誰それの勤め先はどこだったかな。そうそう、××株式会社だ。 住所はええーと、藤沢市〇〇台××番地。ああアソコか。なんて具合に。それなら誰も文句は言わねえ。神様だって許すさ」
「最近、ひとり言が多いと言われます」
「いいねえ。いいノリしてるじゃん。神父にしとくのはもったいねえくらいだ」
「喜んでいいのでしょうか」
「大いに喜べ。肉体労働系の職場だけでいい。日本語が拙くても勤められそうなとこがベスト」
「立ち話もなんですから、コーヒーでも飲みながらお話ししましょう。その方が 『出ます』 ので」
 竹ゾーにつづいて、聖堂の脇を通って、建物の裏側に行くと。
「えらい違いだな」
 案内された別棟は、壁一面蔦だらけの、昔の米軍住宅を思わせるボロ、平屋だった。
 部屋の大半は分厚い書物の並んだ、スチール棚で占められていて、調べものをする為だけに使われているであろう、事務机が二基、隠れるように置いてあるところなど、まるで工場の検査室だ。ただし、高度経済成長期初頭の。
 軽くジャンプすればとどくほどの白茶けた天井といい、色褪せたストライプ (白と青と赤) 柄の壁紙といい、すりガラスと見紛う窓といい、聖堂とはえらい違いだ。
 教えてやりたくなった。 『内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。』 いや。内側も外側もきよめなさい。ホセたちに任せりゃ一ん日で様変わり。
「始めますか」
「いいねえ。やる気満々じゃんか」
 目の前のコーヒーカップは高価に見えるが、中味はインスタント。しかもフリーズドライではない粉タイプ。何かの役に立ったわけではないが、健康のバロメーターである鼻は、いつまで利くことやら……。
「この足で向かうおつもりで」
「いや。今日は妹と約束がある。行くのは明日。先方が落ち着いた時間を狙って、突く」 封を切ったスティックシュガーを一気に投入。
「では、お話する時間は有るということですね」
「あるから来たんだ。でも難しい話は医者に止められててな。ガンによくないって。勧誘は厳禁だそうだ」
 心持ち肩を落とした竹ゾーは、コーヒーをすすると、
「ところでお体の具合はいかがですか」
 期待を裏切った。
「その話はいいって」
「きっかけが必要なんです。ひとり言の」
「ふうう。ここに来て、ようやく症状が出始めたところさ」
 哀れみ顔を向けるから、言い添える。 「でもここんとこいいのよ。あっちこっち動き回ってっから」
「信徒の就職活動に?」
「それもあるが、妹のサポート」
「潤子さんの介護までされている」
「違うよ。講話会のサポート。送迎やら準備やら何かと忙しい。特に重要なのが準備。何でもそうだけどな」
「講話会、ですか」
「市内の教会や幼稚園なんかをまわって話すんだ。会場によってテーマを変えて。正式名称は 『いのちについての講話会』。 身内だから言うんじゃねえが、なかなかだぞ。泣いてるのも結構いるし俺も、う、ううんっ。とにかくだ、心に響くこと間違いなし。障害者になる前に立つべきだった、いや、あいつみたいなのが牧師なり宣教師なり伝道者なりに――」
 内容を知りたくて仕方がないといった様子の竹ゾーに、口を割らない理由はない。
「妹曰く。看護師として、キリスト信者として、人として、あと、何だったっけか」
「障害者として。或いは女性としてとか」
「違うよ。あいつは人を線引きするような奴じゃ、そうそう、役割りを果たすためか。言って見りゃ、お互いを思いやる会だ。潤子が話の大枠を決めて、俺が原稿に起こしてパソコンで打ち出す。指一本で。左手の人差し指を使うことも、」
「是非拝聴したいものです」
「言っとくよ。これからは週二でやっから。いくらでも機会はあるぞ」
「そうなると、身体的な負担も言わずもがな出費も嵩むでしょう」 
「大したことあねぇ。ガソリン代くらいだから。しかも市内。月にすればたったの八回。いや九回。たかが知れてっから。毎回山梨の県境まで行くわけじゃねえから」
 情けないことに、貯金を切り崩して何とかやりくりしてるんだ。潤子の負担は身体だけで十分だろ――。進んで言うことではない。
「ご協力させていただけないでしょうか」
 顔を上気させた竹ゾーが、
「当教会での開催と、寄付という形で」
 名案でしょう? 顔が若干得意気だ。
「潤子も喜ぶだろし、俺も嬉しい。だが断わる。商売でやってるわけじゃねえから」
「奉仕ということは分かります。お二人の負担を分かち合いたいのです。微力ながら」
「そう言ってくれる参加者ばっかで困ってんのよ、実際の話。有難えけど」
 ウンと言うまで待ちます。泰然と構える竹ゾーだが、
「お前の気持はよく分かるし、立場が逆なら俺も同じことをする。けどな。潤子を見てきて分かったんだ。あいつは 『機会に生かされている』 と思ってやってる。神から授かった恵みだと信じて。それだけに金銭はお断りだ」
「神のみこころに従順でありたいというお気持。見習わなければなりません」
 竹ゾーうつむく。何かを祈っているのだ。
「そう言うことだ。さ、本題に」
「金銭がなくても生きてゆければ、それに越した事はありません。しかし、」
「お前しつこいな」
「私たちは金銭がなければ生きられない時代に生きています。こうお伝え願えませんか。主の働きのために用いてほしいと」
「神様のために使えってか」
「いかにも。在天の父なる神への献金です。主も喜ばれます」
「伝家の宝刀抜きやがって」
 所詮、聖職者とやりあったところで勝ち目なし。と言うより、信仰がつむぐ絆を見た思いだ。
「取りあえず言っとくよ」
「それと、潤子さんを支えたいのであれば、しっかり治療を、」
「もういいって。気が滅入って体に障る。本題に入っぞ」
「分かりました。では。ええー」
 竹ゾーのひとり言は意外に長く、就労先はかなりの数だ。ノートに書くのが嫌になるほど。
「殆どが製造業だな」
「自動車産業で成り立っている町ですので」
 他にも、食品や化粧品、段ボール屋、 “プチプチ” などの梱包資材の製造と様々だが、何れにしても日本人が敬遠する、嫌がる、嫌う、職場に回されるのは目に見えている。
 が、やつらはこう言うだろう。――どうでもいいよお、はたらければよお。
「英語以外の言語を用いる教会は貴重な存在でして、その教会を拠点に、日本での生活を組み立てる方も少なくありません。ですので、県内都内は言うに及ばず、山梨や静岡まで通勤する方も――」
 なるへそ。遠距離通勤者も結構いる。行くだけでへとへと。帰ってきたらグロッキーだろうに。
 だが、やつらはこう言うだろう。――ヤマナシ、シズオカ、おとなりでしょ? モンダイないよお。
「いかがでしょう。参考になりましたか」 
「俺は盗み聞きしただけだ。誰かさんのひとり言をな」
 ユーロみやげの洋菓子を食いながら、やつらと嘉人と、目の前の男と、俺の、歓喜する姿を想像してみる。
「おかげで命の火種を燃やし尽くせそうだ。ありがとさんな」
 講話会の件は是非潤子さんに――
 俺たちの夢だ。絶対え叶えてやっからな。



    十二


 昨日。嘉人の家に行った。
 しばらく見ていなかった嘉人の家は、まっ白だった外壁がやさしい白に塗り替わっていて、庭木の丈が伸びたみたいで、全体的に小さく見えた。
「まあ、小絵ちゃん。綺麗になってえ」
 社交辞令だとは思わなかったけど、化粧が濃かった? ルージュは仕事用のが無難だったかも。そんなことを考えていたからかもしれないけど。 「ご無沙汰してしまって。おばさまもお変わりないようで」
 言ってから気づいた。 「も」 は不適当。お変わり 「ないようで」 より 「お変わりありませんね」? かしこまるのは苦手。やっぱり私って、大人になり切れない子供だ。
「やだあ、おばさまなんてえ。ご覧のとおりすっかりお婆さん」
 嘉人のお母さんは、看護師の仕事について訊いては、感心したり褒めたりして、正直耳にタコの結婚の話題になると、マンションを買い子供までいる長男さんと、ロスアンゼルスで働いているという三男さんのことを、誇らしげにお話しなさって、 「心配なのはまんなか」 と、安に嘉人を非難して、みんなから頼りにされているという私の話を、 「お世辞を使える様になれば一人前」 と洟にも掛けずに、二階にむかって嘉人を呼んだ。
 僕だけが反論は赦されなかった……不満の捌け口はいつも僕……。利かん気が激しかったから、仕方がないのかもしれないけど、当たりやすかったんだな、結局。欠点だらけだから――。
 見た目の印象からは考えられないのだけど。どうして嘉人を毛嫌いするんだろう……。磨き抜かれた床を見ながら、そのことばかりを考えていると、階段の途中で嘉人が、
「珍しいな」
 腫れぼったい目を擦って言った。
「昨日来るってメール、」 したじゃない。
「あがれよ」
 話の途中で背中を向ける嘉人に 「どうして返信くれないのよ!」 って言おうとしたら、
「あ、スリッパな」
 階段を下りてきて揃えてくれたし、おばさんに聞かれてイヤなのは私も同じ。だから黙って後について、嘉人の部屋に入ったら……。
 嘉人の匂いに包まれているようで、スウェットに半てんを着た恰好が 「若いお父さん」 みたいで、ほんわかした気持だったのに。
「疲れてるのは分かるけどメール読んでる? どうせ開いてもいないんでしょ」
 いつもこう。口を衝くのは文句ばっかり。女として見れなくてとうぜん。相手にされなくて。
「読んでるよ。それどころじゃないことくらい分かってるだろ」
 ペルーの方のことで忙しいの分かるよ。でも、その事だって信昭さんから聞いて知ったこと。私にはメールもしてくれない。
 言いたい気持のひとつを抑えて。
「病状が悪化したら、みんなに心配かけるんだよ。おばさんからも言って頂こうと思ってきたの。病院に行くように」
「悪化って結果を聞きに行くだけだろ。みんなの就職が決まったら行くから待ってろよ」
 ベッドの端に座った嘉人に、
「本当でしょうね。約束できる?」
「あぁ」
「ああじゃないっ」
「約束するよ」
 目的の一つが叶って、少し気持ちが落ち着いて、スッキリしたのもあったけど、
「絶対よ。それともうひとつ。大事な話があるの」
 コートを脱いで嘉人を見たら胸をじっと捉えているから、
「講話会のこと」
 粗雑に言って背中を向けた。ブラをしていないこと、気づかれたと思って。
「信昭さんからメールがきたよ。カトリックにも支援の輪が広がりそうだって。水曜日にもやるんだろ? 張り切ってるな」
 何事もなかったような言い方が、違うと思った。
「何が張り切ってるよ。あの状態で週に二回も無理だよお」
「そんなに悪いのか。潤子さんは。何て言ってる」
(潤子、さん?)
 名前で呼んだ。ショックだった。やっぱり潤子さんのこと、意識してた。
「急にやつれて、黄疸も出てきて、呂律が回らないことやぼんやりの時もあるの。体力も相当落ちているみたい」
「だから何て言ってるんだよ」
 結局は潤子さん。仕方ないけど。
「本人の思うようにさせてあげたいって」
 つけ足すように言って嘉人の隣に座ったら、急に胸が高鳴り出して、落ち着こうと思って……畳にベッド、アンバランスでもったいないなあ。扇風機、買い物袋をかぶせるくらいならしまえばいいのに。机の上の目覚まし、止まってるよ。そんなことを考えていたら、
「治療を受ければ楽になるのか」
 一瞬、自分のことを言っているのかと思った。
「抗がん剤とか放射線とか。いろいろあるだろ」
 放射線治療は無理にしても、適度な運動療法と併用して化学療法を行えば、効果は、期待出来た。免疫細胞療法にしてもそう。告知を受けた時点で始めていれば有効だったかもしれない。行動力のある信昭さんなら。
 チェストに向かって言わないで私に言ってくれたら、答えたと思う。私に言えるのは、
「治療を受けるとか受けないとか言える段階じゃないの。今できるのは苦痛や不快感を薬で抑えこむだけ。車の運転は禁止、講話会も。負担が大きすぎるから。外出も控えてほしいくらい」
 信昭さんの 「今」 を理解して、短い将来をもっと真剣に考えてほしい、その思いを伝えることしかなかった。
「妹と過ごす時間を大事にしたいんだ。後悔したくないんだ」
「何が大事とか言ってる場合じゃないの。これだけ言っても分からないの? 嘉人も潤子さんも間違ってる」
 ハッとした。初めてだった。潤子さんを否定したの。
 初めてじゃ、ないな。結構否定したなあ、新人の頃はとくに。ついこの間も――。

「どうして意地を張るんでしょう。疼痛コントロールをして緩和ケアも考えなければいけない時期なのに」
「説明は尽くしたわけだし、本人の思うようにさせてあげましょ」
 それでも食い下がると、
「リヴィングウィルも、尊厳死にしてもそう――
 QOL (生活の質) の向上と同じくらい重要。
 個々人の有する当然の権利。
 たとえ家族であっても介入できない領域。
 心の安定が何よりだと思うの」
「心と身体を切り離して考えるべきではありません。苦痛の緩和が心理状態 の安定を保って、冷静な判断ができるんです」 
「本人が望んでいないのに、強要はできないでしょう?」
 結局は敵わないのだけれど。

「信昭さんがさ。 『四十歳が人生の折り返しだと思え。今のうちに少年に戻る準備をしておけ』 って真剣に話すんだ。遺言だと思ったよ。直感的に。だから誰にも止める権利はないんだ」 
「嘉人は別だよ」
「みんなの仕事が決まったら行くよ。結果を聞くだけなんだから明日にでも行けみたいに煽らなくても、」
「心配させないで」
 嘉人の肩に顔を埋めた。怒った顔を見たくなくて。泣き顔を見られたくなくて。
「潤子さんに説得して貰うしかないか。私が言ってもなんの役にも立たないし、うるさいだけ、」
「そんなことない」
 抱きしめられた。
「いつも潤子さん。潤子さんばっかり。私の方がずっと嘉人のこと知ってるのに嘉人はいつも潤子さん、私なんかより潤子さんのほうがずっと、」
 唇が言葉を塞いだ。ベッドに倒れた。
 嘉人の重みが伝わって、悲しい気持が消えていって、温もりが心地よくて……でもそのまんま。何もしないから、手を引き寄せて胸にのせたら、嘉人はビックリして……唾をのむ音が聞こえて……。
 口の中はカラカラなのに体の芯は潤うばかりで、夢が叶うと思って、ポケットの中の避妊具に手を伸ばしたら、手が当たって、 「ウソでしょ」 声が出そうなほどで、怖かったけど、キュッとしようとしたら、
「ごめん」
 優しく言って起こしてくれた。起こされた。
 首を振った。どうかしてたんでしょ、分かるもん。
 涙を拭いてくれた。後悔だけが残った。一度だけ。夢を見させてほしくて行ったのに。
「講話会。手伝うよ」
 忘れてほしいって聞こえた。望みが絶たれたのが分かった。
「無理しないでね」
 って。言ったかな……。



   十三


 講話会の帰りである。
「施設でいいですか」
 ルームミラー越しに声を掛けた。
「教会へお願いできますか。準備があるので」
 先にアパートに寄って降りるかを信昭さんに訊ねたのだが、答えたのは潤子さん、もう一度後部座席に、
「いいんですか」
「ああ。準備、八割ってな。教会に、頼むわ」
「来てくださった方のお顔が違うんです。準備に自信がある時と、迷いがあって臨むとのでは」
 信昭さんの行うサポートは、送迎や移乗や、潤子さんにマイクを向けて原稿を繰るだけにとどまらず、参考資料の配布に掲示物の交換、参加者の質問にも対応するし、潤子さんの身の回りのケアだってある。想像以上の大仕事で、 「痛々しくて見ていられないの」 渡部の話が誇張でないことは、頬のこけた墨黄色の顔を見れば一目でわかる。参加者からも心配されるくらいだ、
「帰りましょう」
 尖った言い方にもなる。顔が違うのは信昭さんだ。
「準備が、すんだらな」
 眼に力があるのは救いだが、運転どころか、講話会にくる事じたい無謀なのだ。渡部の言うとおり。
「次は、次の次か。相手は幼稚園児。難敵なんだ」
「敵なんて言わないで。素直に聴いてくれるわよ。目を輝かせて」
 看護師や介護職員の信徒の多い教会で開催された、講話会は、元母教会の主日礼拝並みの三十九名の人数を集めた。高名な病院の主任看護師で、障害者クリスチャンである潤子さんへの関心もあるだろうが、準備を積み重ねて臨んだ成果だと思う。にしてもだ、
「病院に行きましょう、信昭さんの顔、見れば分かるでしょう」
「化粧する時間、なかったからだ。ありがてえけど、気にすんな」
 潤子さんっ! 
 潤子さんの目は、
(思うようにさせてあげてください。) か。
「嘉人は、教会までで、いいぞ。潤子は、俺が送ってくから。帰って、のんびりしろ」
「そうです。休んでください」
 潤子さんは立派なクリスチャン……非の打ち所のない看護師……信昭さんはそんな潤子さんのお兄さん……。
 僕らは立ち入れないんだよ、渡部。兄妹の絆に。結びつきには。
「準備って何を」
 潤子さんの表情が日が射すように明るくなって、
「お申し込みを受けた時点で、開催場所の特徴を聞きます。これは窓口となっている母教会の方にお願いしてあります。教会であれば、教会員の年齢層や男女の比率などを簡単に。それから兄が――」
 鴇色の唇がなめらかで、語調が明らかに変わった。
「それから兄が関連する事柄や、興味を抱きそうな話題をパソコンで調べて、得られた情報をもとに、わたしが関心を示しそうな聖句を二、三挙げます。そして、経験や思うことに時節の話題を折り込んで、話の大枠が決まります。このような流れです」
「聖書のことばが、テーマ、みてえなもんだ」
「毎回話を変えるんですか」
「そりゃ、そうさ。せっかくの機会だし、毎回くる、常連もいるんだ。裏切れねえだろ」
 平然と言うが、相当な労力のはずだ。
「週に二回じゃいっぱいいっぱいでしょう。負担が重すぎますよ」
「楽しみが、増える、とも言えるぞ」
「一日が早いんです。いろいろと考えていられるので」
「よく、眠れるしな」
〈機会を十分に生かして用いなさい。〉
 機会を生かすばかりか、骨身を惜しまずに挑む。すごい兄妹だと思う。
「大枠さえ、決めっちまえば、掲示用の模造紙に、落書きして、準備完了。何をするって、わけでも、ねえさ」
「兄が後日、原稿を用意します」
「見て、わかったろ。ほとんどが、アドリヴ。カンニングペーパー、みてえなもんだ」
「そんなことないわ。原稿がなかったら話せないもの」
「これからは僕がやります」
 やらせてほしい。やりたかった。二人が健康体であったとしてもだ。
「準備も楽しみのうちですから」
「分けてくれてもいいでしょう。僕にも。 『楽しみ』 を」
「でも、」
「助かるよ」
「お兄ちゃん」
「正直、依頼が多くて、追っつかねえ。でも、できるだけ、今のやり方を、とおしてえんだ。質は、落とせねえから。俺たちはいくら、叩かれても、構わねえけど」
 潤子さんが顎を引く。やり方次第では講話会のみならず、キリストを汚しかねない。二人は十字架を負って臨んでいる。
「それよっか、なかなかだったろ。潤子の話」
「毎回足を運びたくなりました」
 素っ気ない言い方になったけど、僕の思いは、 「また来てください」 「次回はどちらで?」 参加者の思いを “ギュッと一つに” 絞り込んだもの。二人には十分なはずだ。
「嬉しいな」
「ほんとうに。まだ手探りで反省しきりなのに。もったいないです」
 ミラーに映る信昭さんは、講話会のすげない感じではなく、やさしく見守る、お父さんみたいだ……。

「いのちを与え、生かしてくださる神さまは、わたくしたちにいつも寄り添い、助け、愛してくださいます。
 それでもわたくしたちは試練に会い、思いどおりにならないと腹を立て、失意に沈み、絶望することがあります。
 一時ですむ試練もあれば、一生つづく試練もあり、何れにしても試練を避けては生きられず、立ち向かわなければなりません。
 どうして立ち向かうんでしょう。逃げて逃げて、逃げ出してしまえばいいのに。なぜだと思います?」
 ………
「試練、だから?」
「すみません、もう一度お願いできますか」
「立ち向かうことも、試練に含まれるからですか」 
「目からウロコ。立ち向かうことも試練のうちに含まれる、神さまは立ち向かうことも求められている、と言うことは……『神は心をためされる。』 と申しますし、 『神は愛』 ですから、試練を与えることで、わたしたちの愛の確かさを、確かめようとしている。とは言えないかしら」
 色んな声が聞こえた。
 臆病になって、そう思えないのかもしれないのかも。
 頭では分かるんだけど。
 丸山さんに言われると、確かにそんな気がするね。

「わたしはいわゆる、健常者に戻ることはありません。看護師として働くことも、趣味の読書も自分の意思では楽しめず、日課だった日記を書くこともできません。健常者であれば、何の気なしに出来たことが出来ない。できることと言えば、見ること。会話をすること。考えることくらいのもので、 『なぜ、私は労苦と苦悩に会うために、胎を出たのか。』 と、絶望に喘いだ時期もあります。あの子たちが羨ましいって思ったことも。幾度も」
 敷地には、大人の背丈ほどのカンツバキが赤い花を咲かせていて、草色のメジロが蜜を求めて飛び跳ねていた。
「言葉が適当かは分かりませんが、失意の底に居ると、自分の存在意義や価値などをしきりに考えるもので、取り分けわたしは、人の役割について考えました。そしてある結論に至りました。何だと思います?」
 ………
「人の役割はただ一つ。わたしは勝手にそう決めつけちゃいました。もちろん自論ですけど。何でしょう、人の役割って」
「試練を乗り越えて、生きること?」
「大事なことです」
「神さまのみこころを行うこと」
 隣人を愛する。
 信仰を曲げない。
 神さまの命令を守る。
 弱さ以外は誇らない。
「いろいろ挙がりましたね。聖書には 『愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、』 と書かれています。
 しかし、あのダビデ王は、 『主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。』 と、戦いを神さまの御手に委ね、十戒のモーセに至っては、 『主があなたがたのために戦われる。』 と言い切っています。
 また、イエスさまは、ご自分を守ろうとする者に向かって、
『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。』 と言われました。
 このように、戦いが人の役割でないとすれば、戦う相手は自分自身ということになりませんか? 自分の裡にいる 『罪』 や 『弱さ』 と言えるのかもしれません。
 何れにしても、戦い裁くのは神です。神さまの役割です。神さまがわたしたちに代わって慈愛の剣を振るい、正しく裁かれます。わたくしたちが試練に会っている時、神さまは戦ってくださっているのですから、試練に立ち向かうのは当然と言えるのかもしれません。
 あ、ごめんなさい。講釈が長くなってしまって。
 皆さん正しいです。主を愛すること、隣人を愛すること、弱さ以外は誇らない、そのとおりだと思います。わたしはそれらの言葉を、ギュッと一つに絞り込もうとしたのです。満たされている時も、打ちひしがれている時も、どんな時も、与えられた役割を果たす者になりたくて。
 答えは簡単に出ました。簡単なことではありませんけど。じつは、聖書のいたるところに書かれていたんです。どうして気づかなかったの? って自分でも思いましたし、みなさんそう思われるでしょうけど、 『これよ!』 って跳び上がりたいほどでした。
 人の役割は。
『神さまに喜ばれるように生きる』
 わたくしたちはその為だけに生を受け、生かされているのではないでしょうか。わたしたちが喜んでいれば、神さまは喜ばれます。わたしがわたしのままでいれば、あなたがあなたでいれば、神さまは喜ばれる――」

 テーマは 「人の役割」
 物柔らかな語り口が場を和ませて、質問をしたり受けたり、性状に応じて話し合うことで、一体感が生まれて、安らげるのだ。酷な内容であっても。
「伝道者の書三章、確か八節と、コロサイ人への手紙 一章十節でしたね。役割についての話は。どちらもあの場に相応しい――」 何の気なしに話していた。  
「やけに詳しい、じゃんか」
 ミラー越しの信昭さんの目が笑っている。
「詳しいどころか、空で言えるものではないわよ」
 講話会では聖書の言葉を 「語るのみ」 に留めていて、どの巻の何章かなどの詳細は敢えて口にしない。講話会は一人一人が主人公の団欒の場であるから。
「前から気に、なってたんだ。お前、クリスチャンだろ」
 視線を感じる。でも、気詰まりするものでなく、労わるような、見守るような感じの。
 何も、隠すことではない。でも進んで話すことでもない。でも、信仰者でありたいと思う気持を捨ててはいない。
 少しだけ窓を開けてみる。ちらっと助手席を見た。潤子さんの目に慰撫が溢れている。十字架のことばが背中を押す。
〈あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。〉 〈たたきなさい。そうすれば開かれます。〉
 独り善がりの拘りなどもう捨ててしまおう。
「二年ほど教会に通っていました。五年前のクリスマスイヴに、洗礼を受けています」
「やっぱ、そうか。そう、思わなかったか?」
「信仰を求めている方なのかなあ、って」
 二人の会話がやさしい。
 アパートに向かう学園通りはとっくに通り過ぎていて、ゴルフ場の林の壁も終わるところだ。
「すっきりしたろ、吐き出して」
 と言うか……
「気持が晴れたような」
 違う。ウソだ。
 精神科医の偏見と動物実験さながらの薬物療法で苦しんだ時、免許の更新会場で死ぬ思いをした時、支えてくれたのは。傍にいたのは。いつも隣にいたのは誰だ。
「小絵ちゃんはそのことを」
 そう、渡部だ。
 もしも渡部が重い障害者だったら、優しくする。思いやる。相談にのる。僥倖公園にも連れていく。潤子さんにしてあげたいと思うのと、同じことをする。当たり前にする。なのに僕は……
「さり気なく、言えばいいさ。あいつなら、わかっから」
 潤子さんがゆっくりと力強く頷く。
 冬晴れの陽をあびた風が車内に吹き込み、潤子さんの黒髪がやさしくそよぐ。
 前後に幼児を乗せた自転車が、横断歩道を渡るのを待って左折すると、教会が見えてきた。
 ごめんな渡部。
 変わるよ、僕は。


 
     十四


 教会を訪ねるのは聖書を買いにきて以来二度目だ。パニック発作の急襲にあったことが夢の中の出来事に思えるほど何でもない、
(何でもないぞ! 渡部)
 逃げ出したのが嘘みたいだ!
「ひねくれた、カギだな、チキショー」
「逆さまじゃない?」
 潤子さんからは陰になって見えないが、鍵を持つ信昭さんの手が震えている。
「僕が、」 
 カチャ――
「ったく。デコボコは、上だぞ、フツウよお」
 ガンの影響でままならなかったのではなく、鍵の向きが逆さまだっただけ。杞憂だった。
「チャロか。大騒ぎ、してんのは」
 突き当りの集会室から、鳥のさえずりが聞こえてくる。
「白文鳥のつがいがいるんです。とっても仲良しで羽繕いし合うんですよ」
 潤子さんが障害者になった起因を思い出していただけに、ホッととするのと同時に――後悔はありません。三つの命が救われたのですから――あの言葉が真実だったことが分かって、嬉しさが累加する。
 記憶の中の幼稚園の教室と、瓜二つの集会室は、北側の壁一面が、書籍棚になっていて、引き寄せられるように、つい足が向く。
 古書特有の香気の漂う棚の下段には、子どもたちが燥ぐように絵本が収まっていて、その上にある児童書は、小学生の丈比べだ。腰を屈めた辺りには辞典や専門書が凛然と。大人の胸の高さからは、読み込まれた単行本や文庫本がびっしりだ。
 他にも、歌集があり、地図があり、料理本も、昆虫図鑑だってある。古本はネットでしか手に入らないからのんびり見ていたいところだけど、
「持って帰って、いいぞ」
 自分のもののような言い方が、信昭さんらしい。
「またにします」
 これからは、いくらだって機会はある。
 テーブルの上の鳥かごに向かって潤子さんが、
「怖がらなくていいのよ。チャロちゃん」
 やさしく声を掛けている。喜んでいるように僕には見えるのだけど。
「しゃんとしろ、男のくせに」  
 止まり木と金網との間を忙しなく行き来する、チャロは男の子。甘えん坊だ。
「ユキちゃんはお腹が空いているのね」 
 ふっくらした体つきのおませなユキは、悠然と餌をついばんでいる。
「お前ら、みてえだな」
 信昭さんは言い、
「ゆっくり、見てろ」 準備に取り掛かる。
 潤子さんは僕を見、 「気力を維持することが大事なの」 小さく言った。僕は頷き、指示を仰いで準備に取り掛かる。
 長机を窓と並行になるようにずらして長方形にする。長手側の正面にホワイトボードを移動させ、新聞紙を机上に広げて、模造紙をのせる間も、 「お外に出たいの?」 潤子さんは “二人に” 夢中だ。
 信昭さんの椅子を用意して、目の前にマジックを並べる。と、
「サンキュー、いいぞ。潤子おー」
 信昭さんは車椅子のリクライニングを、見やすい角度に調節する。
「いいわ」
 僕も少しだけ紙をずらす。
「始めっか」
 吐息を漏らすように言い、パイプ椅子にへたり込んだ信昭さんは、 「根性」 でやり切ろうとしているようにしか見えない。潤子さんは、
(思うようにさせて……)
 気にする風でもない。渡部がいたら泣訴しているところだ。
「今日は嘉人が、いっから、はかどるぞ」
 信昭さんの目がやさしい。
 二人はこの時間を楽しみたいんだよ、渡部。純粋にな。
「小絵ちゃんから聞きました。ギターがお上手だって」
 壁に立て掛けられたギターは、何十年も前に作られた国産もの。ウエスタンタイプと呼ばれたアコースティックギターだ。
 湿気を吸った容姿には威厳があり、弦巻はくすんでいるが、弦は古くない。ネックは弾けないほど反ってはいなさそうだ。
「弾いて、みろよ」
 物が少ないせいで声が響く。
「昔の話です。もう何年も弾いていません」
 潮流に抗ってでも追うのが夢。報酬と立場のために現実を選んだ僕にとっては、終わった話だ。
「わたしカラヤンが好きなんです」
「……いいですね」
「俺は、バタヤンだ。あの、立ち姿。微妙に震える、味のある歌声。昭和歌謡の、至宝だ」
「ええ……」
 それ以上言わないでいると、
「さきほどお話したとおり――」
 潤子さんは話し始めた。
 僕はJペイジが。言っていれば、会話は弾まないにしても発展くらいはしただろうが。過ぎた干渉をしないあたたかさに、気持が和む。
「先ほどお話したとおり、次々回の講話会は幼稚園で行います。子どもたちが対象ですので、下調べはしません。その分、どのような聖書のことばをテーマにするかが重要になります。高橋さん。挙げてくださいます?」
 講話会と同じ語調に気を取られていただけに、
「僕がですか?」
 信昭さんの言葉を借りれば相手は強敵。責任重大だ。 
「嘉人なら、いいのを、選ぶぞ」
 決めつけられても困る。
「幼稚園生になったつもりで。選んでくださればいいです」
〈子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。〉
〈子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。〉
 ふむ……
「その高橋さんっての、むず痒い、んだ。ヨシトで、いいだろ、ヨシトで」
 助け船を出してくれるのはいいけど、
「嘉人、なんだから、ヨシト。不都合か」
 潤子さんは困惑しているようだ。でも 「僕は構いません」
 その方が嬉しいし心の中ではもう呼んでいる。
「男の人を名前で呼ぶなんて」
「今さら恥ずかしがる、歳か。奥床し、過ぎだ」
 信昭さんが願うことなら何でも叶えてあげたい、潤子さんも同じ思いのはずだ。
「何かありますか。嘉人さん」 意外にあっさり言う。
「いいねえ」
「茶化さないで」
 信昭さんが舌を出す。潤子さんが恥ずかしそうだから、
「テサロニケ人への手紙第一の五章、十六節はどうでしょう」
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。ですね」
「言葉は分かり、やすいが、随分、難儀なこと、言うんだな」
 私は、いつも喜んでいます。
 私は、絶えず祈ります。
 私は、すべての事について感謝します。
 誰一人として、実行できる者はいない。だから主を拠り所にして、悔い改めて祈る。
「ことばの意味を分かりやすく伝えるには、どんな聖書のことばと引き比べれば良いでしょう」
「そんな事まで考えている」
「いろいろ工夫、するんだ。相手が理解、しやすいように」
「日曜学校のつもりでやりましょう」
 日曜学校どころか、幼児と関わったことなどまったくない。
「浮かびません」
「では、わたしから。ヤコブの手紙、四章十一節はどうでしょう。冒頭の箇所など」
 聖書を見ずに言う。信仰に迷った時に励まされたのが全五章からなるヤコブの手紙。
〈貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。〉
〈世の友になりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。〉
 自分宛の手紙と思って読んだものだが………思い出せない。机の上の聖書を手に取り、
「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は……
 律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」
 一節すべてを音読していた。
 律法は神の教えであり、道であり、みこころ。律法全体は 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」 という一語で全うされるわけだが……。
 隣人を愛する心を育てるために、
「悪口を言うことと、いつも喜ぶことを対比させて、共通する話題を引き出す。そう言うことですか」
「その通りです」
 聖書をそんな解釈で読んだことはないし、僕にとっての聖書は、生き易い人生を送るためのハウツー本でしかなかった。主に打たれて当然だ。
「要するに、掘り下げて、考える。当たり前のことを、ふつうにする。それだけの、ことさ」
 看護師の仕事って、掘って掘って掘り下げて考えるのが基本――。渡部の常套句は 「丸山家」 から伝授されたものか。 「探求心も大事ですが心を休ませてあげないと持ちませんよ。」 医者や世間の傾向とは大違いだ。
「ガキどもにも、いいんじゃ、ねえか。悪口やイジメは、良くねえって、わかるだろうし。みんなが喜びゃ、嬉しくなって、仲良くなれるって、分かるだろう、から」
「そうね。でも子どもたちって言って」
「わかり、ました。潤子、サン」
「もう」
 それからは、喜ぶとどんな気持ちになって、喜ぶことでどんな変化が生れるかを園児に考えさせて、 「悪口を言うこと」 「言われること」 でどんな思いをして、周囲にどんな影響を与えるかを話し合わせる時間を取ることを決め。
「大枠は、整ったな。今回は、ストレート。ここまででいい、んじゃねえか」
「そうね。対象が幼児だし。みんなで考えることが答えのようなものだから。どうでしょう」
 また僕だ。子どもの頃の経験は生き方の指標にもなり得るから、
「いいと思います」
 記憶に刻まれれば尚良い。
「アドリブ勝負、にしても、紙だけは用意して、おかねえとな」
 信昭さんは緑、青、黒、茶、赤、黄、橙色の順にマジックを並べ替えて、模造紙と向き合う。
 イメージを膨らませていたのだろう。白い紙がみるみる彩られていく。
 昔ばなしの挿絵のような絵には、いじめている子と、いじめられて泣いている子どもが、真ん中よりやや上に描かれていて、祈りを捧げる大人もいれば、背中を向ける大人もいる。まわりで不安げに見守る子どもの声が聞こえてきそうな、童話のようだ。
「ふつう書けませんよ。この早さでこれだけのものは」
 情報処理能力や審美眼のなせる業。下書きをなぞるような筆 (マジック) づかいといい、玄人はだしの聖句の字といい、あっぱれだ。
「情けねえよ。この程度しか、書けなく、なっちまって。でも構図は、なかなかだろ。ただ書いてるって、わけじゃ、ねえんだ。悪ぃ嘉人、色鉛筆。そこの、」
「カラーボックスでしたね」
「こういうこと、苦手だったのにね。お兄ちゃん」
「毎ん日、小難しい図面、見てりゃ、誰だって、この程度なら、書けるように、なるさ。要は慣れと、昨日よっか上手く、書こうとする、気持だな。それとケンカ、しねえで、素直に筆を、運ぶことだ。生まれつき、上手えやつ、なんかいや、しねえんだからよ」
 天賦の才というより、姿勢と言いたいのかもしれないけど、信昭さんは両方だと思う。 
「あとは、チャロユキを、描いて――」
 作業には一時間ほど掛かったが、それでも普段の半分だと言う。
 信昭さん曰く。講話会の残像が鮮明なうちにやることが大事で、先延ばしにすればするほど (曖昧な) 記憶を、 「引っ張り出さなきゃなんねえだろ。嘘八百の 『いのちについての講話会』 にしちまう危険性が生じるんだ」。 だそうだ。
 だから講話会が終わった当日に準備をする。新鮮で真剣な反省ができる。次回以降に生かされる。だから、講話会が評価されるのだ。
 掘り下げて考えた僕なりの結論が出たところで、
「チャロとユキに、サイナラ言って、退散すっか。教会の主に」
 帰りの準備に取り掛かる。
「365日、教会を守っているからなんですって」
「はあ」 
 ひそひそすることはないと思うけど。
「実は兄がいちばん可愛がっていて、いつもは我が子みたいにめろめろ、」
「なんだ」
「ううん。とも子さんがくる前に帰れるなんて初めてね」
 ともこさんは牧師夫人で、ほとんどの教会員が 「とも子先生」 と呼ぶ日曜学校の教師でもある。
「毛布を掛けに来くるんです。チャロちゃんとユキちゃんに。夜は冷えこみますから」
「そりゃ、ねえだろ。明日の礼拝の、あとの、めしの準備だ」
「あらいけない」
 潤子さんの意外な一面を見れたのも今日の収穫だ。
「よし、OK。 『あいつ』 が来っと、帰れんねえから、さっさと、ずらかっぞ」
 信昭さんは誰にでもこうなんだろう。相手が牧師先生でも。たぶんイエスさまであっても。
「持って、帰れ。ギター」
「ギターを弾く方はみなさん持参します。ケースはロッカーの横に。 『その子』 も喜びますから」
「俺が、持ってくから、潤子を頼むわ」
「はあ」
 変化があるのは確かだ。


 同じ方向に顔を向けているところを見ると、潤子さんも母子を見ているのだ。
 公園のベンチには、鉤針を動かす女性がいて、濃紺のニット帽と同色のマフラーを巻いた男の子に、やさしい視線を向けている。
 男の子は形を確かめるように、落ち葉を空にかざしては、地面に並べる。
(お母さんにプレゼントするのを選んでいるのね。) 
 その母親が編んでいるのは、
(セーターよ。)
 冴えた青紫が男の子に似合いそうだ。
(空色の手袋も引き立つわ。)
 こんな空想を描けるのも、一日をともに過ごした、報いだと思う。話さないから伝わって、分かり合えるようなこの幸福感。子どもの頃以来だ。
 潤子さんの頭が斜めに動いて。
「折角のお休みですのに、ごめんなさい。最後までつき合わせてしまって」
「とんでもない。いい一日になりましたよ」
 小学……三、四年生くらいまでは、こんな日ばかりだった。
「遠き山に日が落ちて」 を聞きながら校舎を背に、家路を目指す帰り道。
 家に帰って学校に戻って、日が暮れるまで遊んだあとも。
 滅多に行かない隣町に冒険に行った日も。
 誰もいない休日の学校でブランコを揺らした、止まったような時間も。
 忘れられない一日で、宝だったんだ。
 この幸福感を味わわなければ、二人の一日は終わらない、
(ですよね)
 振り向くと、
『ド、ドドン!』
 いや振り返るより早く!
「なにい!?」
「信昭さん!」
 大の字に倒れた信昭さんの口から泡、
「お兄ちゃんが、どうしたの!」
 車椅子を逆に向けて走る 「信昭さんが」
「救急車! 早くう!」
「呼びます!」
 子ども連れの母親が携帯を掲げる。
「ううぅう、」
 呻き声! ギターケースを蹴とばして体に触れたはいいが、
「顎を上げて! ベルトを緩めて!」
 信昭さんの砂利のついた顔から血の気が引き、 「頭じゃない! 顎、顎を上げて足を高く!」
 十秒前より両足が固く突っ張ったような、
「揺すらない! これを体に!」 体を覆ったブランケットに目を、 「温めるの!」
 家にまで押し掛けてきた渡部の気持が、今さら理解した。何とかしてくれ 「渡部え!」
「脈をみて!」
 どうすれば、胸、耳を押しつける。
「あります、で、でも速い!」
「体温!」
 腋だ、ジャケットのファスナーを開け強引に 「少し低い、高くない、」 ああっ、
「と、止まった! 声が止まった!」
「右側臥! からだを右、横に向けて!」
 抱きかかえるように横にしそのまま支える。死ぬな、
「ガンバレ!」
「のぶ兄ちゃーん!」
 少年時代のあの日のお兄ちゃんが――。
 目を背けたくなるほどのノックの嵐。水色のユニホームを泥まみれにして立ち上がるお兄ちゃんが、誇らしかった。自慢だった。輝く汗と涙が励みになった。だからあの日言えなかった言葉を、
「さあ来いでしょっ!」
 他に何もできない。だから同じ言葉を、
「さあ来いでしょ! 答えて、立ってえ!」
 本院まで五分、いや三、四分。何れにしても救命士の処置次第。ひりひりする時間が長い、
(早くっ)
「まだか救急車は! 信昭さんファイトだ、諦めるなあ!」
 挫けそうな時に限って現れて、護ってくれたお兄ちゃん。こんなに呆気なく昇ってはダメ!
「のぶ兄ちゃんファイト!」
「そうだファイトだ!」
 もう満足? ぜんぶやり尽した? 語り尽くせたの?
「来ました!」 
 母親が駆け出す。ベンチの下の編みかけのセーターを子どもが拾って追いかける。
「大学病院に、急いで!」



     十五


 ノブさんぐあい、どなの。
 みなしんぱいしてる (ん) だよお。 
 同じことばを繰り返すホセを誘って来たのはいいが、年の瀬の病院の思わぬ大混雑にホセは 「こんなにたくさんビョーニンいるの……」 げんなりした様子だ。
「よおい」 
 病床の信昭さんはホセとは逆で、声に張りが戻って、顔色はまあまあ。悪くはない。あくまでも倒れた日に 「比べたら」 だから、ホセが涙目になるのも無理はない。
「お前がしょんぼりすることあねえだろ。顔色が悪ぃのは 『化粧』 してねえからだ。女なんかみんなそうだろ? 化けの皮剥いだらそれこそ病人――」
 女性看護師がいても信昭さんはお構いなしだ。
「知ってっか、おい。笑いは百薬の長って言ってな。NK細胞を活発にするんだ。何てったってナチュラルでキラーなサイボー、体中の悪代官を成敗する必殺仕事人だ。暗~え顔してっと、脳神経科やら心療内科やら病院中たらい回しにされて検査三昧どころか、入院させられっぞ」
 信昭さんが言ってもホセは、
「ボク、ビョーキかもしれないよ」
 いつものホセらしくない。
「それで、どうなんです?」
 気の利いたことも言えないのかと自分でも思ったし、 「まあまあだ」 なんて答えを返すと思ったら、
「胆管とかいうクダが狭くなっちまって胆汁とかいうヤツの流れが悪くなったらしくて、ステントとかいうのを腹ん中に入れて流れをよくしたらこのとおり。ぴんぴんよ。排水管のパイプ詰まりみてえなもんだな。老朽化か。身から出たサビ、不摂生がたたったのかも――」
 信昭さんは饒舌だった。講話会や仲間の就職の斡旋など、やり残したことがたくさんあるから 「生還できて儲けもの」。 そんなふうに見えなくもない。
 それはともかく、信昭さんの銘記力と情報集約能力には感心させられるどころか、凄い! と思う。ボキャブラリーも。
「細菌感染でもしてたら命はなかったなんて脅しやがっから言ってやったんだ。 『これでも少し長く生きられるわけだ』。 したら医者もひねくれたモンで 『言うことを聞けば』 なんて抜かしやがる。俺も負けちゃいねえぞ、 『話は聞くが言うことは利かねえ』。 したら野郎、丸山師長から言って貰うしかねえとか何とか人の弱みにつけ込みやがって」
 困惑顔のホセに笑いかける。
(回復の賜物なんだ)
 病院に籍があることは聞いていたけど、
「潤子さんって、師長なんですか」
「何ですよ~看護師長。事故で障害者になった代わりのあれ、ほれ。なんだ。そうそう、特進ってやつ。何んも言わねえから誰の話よって感じ、」 斜向かいの患者の処置を終えた看護師に、
「だよなあ」 声を掛ける。
 看護師の話によると、通常の昇進だそうで、むしろ現場にこだわった分遅いくらいらしい。
「そうだったのお。ま、それはそれ。俺が治療を拒否すんのは生存率が低いからでも金がもったいねえからでもないぞ。自然なかたちで天命を受け入れたいだけ、フツウに死にてえだけだ。不自然だろ? 生き死にを操作するなんて。どう考えても」
「治療を受けることは不自然ではありませんよ」
 間髪入れずに言っていた。死の淵から生還できたのも、こうして話せているのも、治療の恩恵だ。
「お前に言われたかねえよ」
 ホセが顎を引く。それはそうだけど、
「死にたい、かんたんにいうなよお」
 言おうとした言葉を、ホセが口にする。
「簡単になんか言っちゃいねえよ。昔はせいぜい食いもんに気をつかうか、薬草を煎じて飲むか貼っつけっか、お百度を踏むくらいのもんだ。俺の理想はまさにそれ。とナチュK。百度まいりは別な」
「それはそういう時代だったからでしょう」
「昔が劣っているような言い方はいただけねえなあ、嘉人くん。俺はただややこしいことを取っ払ってシンプルに生きたいだけで、早死にしたくて言ってるわけじゃねえんだ。生姜汁にゆず湯に玉子酒なんかをすすって、長ネギと梅干しを七草粥にぶち込んで笑いながら食えりゃ言うことねえな。秋のじゃねくて春の七草、正月七日に食うほう。とろろ昆布に生わさび――」
 感情が高ぶっている以上に躁状態? 何だろう。 “あっち” の世界を見てきた、安堵感? そんなことを考えてしまうほどの高揚ぶりだ。
「わかるよ。ノブさんのきもち」
 ホセがなぜか同意する。
「くわしくはわからないけれど」 と前置きして話したホセの話を要約すると、世界中にいるいわゆる先住民の人たちは、自然への畏敬と共存を基軸にした生活を営み、病気やケガは、 「自然の力を借りて、祈って治す」。 よって非難されることではないのだそうだ。
「贅沢せずにあるがまま。自然と持ちつ持たれつか。俺とおんなしだ」
 お百度参りは別だったはずだけど。
「ホセは興味があるの? そういうことに」
「ペルージンだもの。しらないと、いけないこと」
 ホセはスペイン人移住者の血を継ぐぺルビアンで、幼い頃から祖先の歩みや国の通史を、聞かされて育ったと言う。両親やおじいさんやお婆さんから。学校でも。悪しき歴史も含めて、当然のこととして。
「日本だって例外じゃねえぞ」
 信昭さんの目つきが変わった。
「アイヌがそうだ」
 話もだ。
「あいぬ、て」
「北海道や東北地方の一部、樺太や千島にも、いや。今や日本列島津々浦々にいる日本の先住民族、お前ら風に言えば、神のみこころを行う信仰民族だ。と俺は思っている」
 ホセが呆けた顔をする。日本にもいたの? そんな顔。
「せんじゅーみん、いちいちかんしゃするよ。みなに」 
「みんなの中にはよ。動植物やそれらを育む土や土地、川に雨水に太陽は言うに及ばず、火や火を起こすための道具。食べること。食べるものがあること。食べるための器も。器の元になる素材も含む。要は、森羅万象すべてが 『役割を担い合って存在している』 『助け合って生存している』 と考える。人間が特別だとは考えねえ。ふつうと言えばふつうだけどな、俺に言わせりゃ」
 そうは言ってもみんなの側、万物から見たらどうだろう。自然を破壊し私腹を肥やす “ヒト” は対象外、敵かもしれない。
 それはさて置き、さて置いてはいけないのだけれど、
「やけにくわしいんですね」
「五十年も日本で生きてりゃ知らねえほうがどうかしてるんだ、この程度のことは。アイヌは神と歴史と神が授けた万物と、万物に宿る魂と血を守るために蜂起した。千二百年前にだ」
 と言うことは……空海が唐に渡った、時代から!? アイヌの人々を苦しめてきたのが和人、日本人!
 しかも、平成時代になっても彼らを 「土人」 呼ばわりして、国連に勧告されて重い腰を上げたのが、
「平成二十年って、東日本大震災の、三年前じゃないですか!」
「先住民族と認めたまではまだいい。けどな、差別は止まないどころかエスカレート、ヒートアップしてやがる。何もアイヌのことだけを言ってんじゃねえぞ。永い年月をかけて根づいちまったんだよ、この国は。差別文化が。偏見志向が。列島の隅々まで満遍なく」
「はんせいするよお。ニ (ッ) ポン、アイしらない。神さましらない。かわいそ……」
「お前がシュンとしてどうする。倫理も道義も足枷くらいにしか考えちゃいねえ国もあるんだなあってよ、鼻で笑ってりゃいいんだ。心を砕くだけバカ見っぞ、この国じゃ。期待するだけよお」
 声に力が漲っているのは話題のせいかもしれない。
「だから真の信仰心が大事になる」
「きょーいくもだヨ、シト」
「教育ってな、ホセ。反省も当事者意識の欠片もねえ、虚構の歴史をでっち上げる奴らにまともな教育なんぞ、出来っこねえだろ。世の中を見て見ろ。教育の失敗例の跋扈(ばっこ)、理不尽まみれ、子狡ぃ高慢ちきどもの欲得合戦だ。何年も日本にいりゃ分かるだろ、そんくらいのことよお」
 ホセには難しすぎて理解できないようだから、教えてやろうと思うけど、どう言おう。
 ホセはゆっくり頭を横に振ると、
「ノブさん、コーワカイで、はなせよお」
 明るく言った。ホセなりに消化したみたいだ。
「俺が? ごめんだな。篤信家相手に何を話せってんだ」
 とくしんかて?
 信仰にねっしんな人のこと。
「なら、ど (う) してはなしたの。まじめなおはなし、きく、おねうち、あるよ」
「値打ちも価値も必死のパッチもねえや。お前らだから話した。帰国した時のあれだ、土産話だ」 
 プイと窓外に向けた顔に赤みがさす。――信昭さんってああ見えて意外にシャイなんだよ。渡部の言うとおりだ。
 ? そうか。おみやげだ。
 仲間の就職活動に奔走するのは、国の家族にいい思い出を持ち帰らせるため。持ち帰らせたいから。ヴィクトルの死が信昭さんを動かしたのだ。
「土産話も何も、のんきに寝てちゃ世話ねえな。ブラック企業で汗水流す徴用工を救い出すのが俺の、」
「してるよ! チョウヨーコ!」
 ホセが意外な言葉を口にする。打ち合わせとは別の言葉を。
「地球の裏側の歴史だ。どうしてお前が知ってる」
 信昭さんが居ずまいを正す。
「ボクらにと (っ) てさべつもんだいじゅうよーよお、ドレイあつかいされたぺルビアンたくさんいた、チョヨーコーひともそう、ボクたちみたいにでかせぎどうろうしゃでないだよお!」
 興奮して話すから消化しきれなかったけど、さすがはホセ。教育を語るだけのことはある。日本と隣国の文化や風習、社会問題を学んできたという。アイヌのことは分からなくて仕方がないにしても。
「募集に応じた人間もいたにはいた。けどな、会社の就職活動に応募して働くのとはわけが違う。土地に食糧仕事に文化、名前に言葉に思想信条、すべてを奪われてよ、ぶち壊されて、そうしてでしか生きられなかったんだ。
 強制連行された人間は言うもおろか、募集に応じざるを得なかった理由の大枠だけでも知ってりゃ、差別なんぞできっこねえ。地獄の苦しみを味わわされて多くの人間が死んでいった事実を知ってりゃ謝るぞお、思いやる気持がノミのココロほどでもあれば。原因を作ったのは間違いなく、日本人なんだからよ」
 朝鮮や中国などの国の人に対して、 「残酷なことをした」 程度の知識しかない僕は、緘口するしかない。
 しかも信昭さんの話では、日本国中至る所に、苦役の末に亡くなった彼らの骨が、ゴミ同然に埋められたという。その上に僕らは生き、暮らしてきたのだ。
「ホセな。日本人の多くが真実を知ろうとしないばかりか、クロの歴史をくすんだシロにすげ替えた与太話を本気にして、被害者を噓つき呼ばわりして見下しやがるんだ。あり得ねえだろ、自分たちが傷つけた被害者をだぞ」
 ホセの目が赤い。虐げられた国の人々を、いたわりたいのか。日本が奴隷国家であったことへの失望か。自国の史実を知らない、僕を含めた日本人の無知を嘆いてか。
 日本人が信用を得るに至らないのも、歴史問題が生じて話がこじれるのも、必然なのかもしれない。
 信昭さんの言うとおりかもしれない。
 ――人権と道徳にかけては世界最低水準、孤独と孤立と損することを死ぬほど嫌う国民性、都合の悪いことは都合よく。大した日本文化さ……。
 それにしても、この遺恨のようなものは何だろう。どこからくるのだろう。
「何でそんな話をって顔だな、嘉人。俺が野球少年だった頃の 『イイ方の話』 覚えてるか」
 鬼コーチからの仕打ちでなく、
「メガネをかけた子とキャッチボールをした」
「そうだ。俺は小五の終わりに転校したから分からずじまいだったが――」
 メガネの子との付き合いは半年程度。コーチが邪険にしたことへの疑問よりも、その子について何も知らなかったことが気になり始めた信昭さんは、考えた。 
 が、メガネの子は別学区。名前も住所も定かでない。野球以外で会ったことは一度もなかったことに気づいて、
「それで、どうしたんです?」
「会ってっかもわかんねえ。商店街の祭りで。メインストリートは別学区も何もなかったら」
 信昭さんは勿体つけたのち、当時のチームメートに聞けば手掛かりがつかめるかもしれない、と考えた。そして仲間の求職活動と講話会の合間をぬって、記憶にある同級生の家を訪ねてまわり、
「四軒目。いや、実際は十軒はまわった。とにかく最後の最後にわかった。安藤くんに会って。いろいろとな」
「いろいろを言ってくれないと」 分からない。
「あの子な。メガネの子。名前までは分からなかったがな。在日コリアン、三世だった」
「それだけの理由で!?」
 毛嫌いするか!? 大の大人が! 
 信昭さんがいつにも増して雄弁で、差別に対して執拗だったのはこの事を話すためだ。きっとそうだ。
「俺が初めて経験した理不尽が、いわゆる差別だったわけだ」
 試合に出さないどころか、キャッチボールさえ許さなかった理由が、在日朝鮮人!
 情けない。嫌になる。野球をしたいだけの少年になんていうことを。
〈神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。〉 というのに。この国は愛を突き離す。
 サウロと同じ怒りが沸き起こる。
〈ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。〉
 それでも、アーメンである主イエスは言う。
〈父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです――〉
「俺もショックでな。奴が生きてりゃ、捜し出して、ぶん殴ってたよ。いじめるヤツなんかいなかったし、いじめられている子がいたなんて、思ってもみなかったからな」
 穏やかで、幸せそうに見えるのは、堂々と生きるメガネの子を、想像しているのかもしれない。
 そう思わないか、ホセ。
 目配せしても気づかないから、
(言えよ)
 ヒジでつつく。このタイミングだと思った。

「グッドニュースあるよ、ノブさん!」
「なんだ、いきなり」
「ルイスきまたよ、おシゴトきまった (ん) だよ!」
 ルイスは自販機組のリーダー格でショットブラスト (成型した鋳物の表面仕上げを行う) の熟練工。腕は確かで評価は高いが、五十歳という年齢が壁となり、面接にすら有りつけずにいた。
 そのルイスの転職先は、パンの製造工場。信昭さんが斡旋を試みた会社の納入業者に、 「たまたま声を掛けて」 面接に至ったという話だが、しつこく頼み込んだのだろう。拝み倒したのかもしれない。
「そっか。あいつならどこでだってやっていけるよ」
 清潔な白衣に白いマスクに、白い帽子を被ったルイスの姿は想像できないけど、硬骨漢を絵に描いたような男だ。無くてはならない存在になること間違いなしだ。
「ノブさんのおかげ。みんな、よろ、こでる」 
 ルイスの苦しみはみんなが理解していたから、みんな泣いて喜んだ。もちろん僕もだ。
「ホセもつづかねえとな。みんな決まったんだから」
「しんぱい、いらないで。アテなか (っ) たら、おみまいきてないよお」
「手ぶらで見舞いはねえだろ」
「ルイスのおはなし、なによりの、おみやげよ」
「こいつめ」
 ホセは雑工として勤めていた金属塗装の会社で、再雇用を決めてきた。塗装技術を身につけたことへの評価もそうだが、日本語の上達ぶりをずいぶん褒められたらしい。やる気満々だ。
「真摯に取り組む姿勢が評価されたってわけだ」
「学ぶ姿勢もですよ。みんなそうだけど、ホセは特にしつこくて。クドくらいですから」
「ね (っ) しんいえヨ、シトお」
 これで日本に残る選択をした全員が、再就職を叶えたことになる。
「ああ熱心だよ、ホセは。先生だもんな」
「先生? なんだそりゃ」
「ボク、二ホンゴのせんせいはじめたの」
「日本語が話せないと戦えないって痛感したからだそうです」
「ほう」
「おなじドヒョー? あがらないとおはなしならない、わかたから。みなはりきてる」
「俺が教えてやるよ。新天地での再スタートだ。初めが肝心だからな」
「シンプさまと、きょうかいのひと、たすけてくれる。ノブさんの二ホンゴきたない、ダメダメ」
 ホセが手を振って打ち消すと、病室は笑いでつつまれた。
 ホセの言うことは理にかなっている。 「オラ (こんにちは)」 と挨拶したら、 「おらとは何だ」 なんて言い返す人に頼めるはずもない。
「何とでも言え。俺は潤子のサポートに邁進すっから。マイシン、知ってっか? 知んねえだろ」
「もうしんならし (っ) てるけど。ちょとつ、もうしん」
「こりゃまいった」
 小さく開いた窓から入る微風が、レースのカーテンをやさしく揺らす。向かいのマットレスが敷かれただけのベッドが気になるけど、ここでは尋ねないのが不文律。二人ともいい笑顔だ。
「信昭さんが邁進するのは治療ですよ。サポートは僕に任せればいいんです」
 日中は十分時間がある。講話会を生活の中心に据えたいくらいだ。
「大事な妹を男一人に任せられっか」
「ボクたちも、いるよ。みんなもてつだう、い (っ) てる」
「お前らは仕事があんだろ。って、嘉人。お前はどうなってんだ」
「実は話があります」
 声が堅かったのかもしれない。信昭さんの目つきが変わった。



     十六


 明日は小絵が生まれ変わる日。クリスチャンになる日だ。
 わざわざ訪ねて来て 「是非来てください」。 なんてかしこまりやがって。 「普段どおり明るくかましてやれ」 って言って帰らせた。俺なんかが行くとこじゃねえよ。どう考えても。
 でも、俺が行けば喜ぶ。
 でも、時間ねえし。
 やっぱ、やめとくわ。潤子と嘉人がついてるし。ホセも、 「おーえんメールと、おめでとメッセージを、くるよお」 って言ってから。
 俺のことなんか気にすんな。俺も、気にしねえから……。
 あの日。買い物ついでに花屋に寄ったんだ。 「フリージアってどれさ」
 深緑の茎のてっぺんに、オレンジがかった黄色い暖色の花を咲かせるフリージア。潤子が選んだ理由はすぐに分かった。小絵を思わせるからだ。
 嘉人と小絵ときよ子と、四人で植えたフリージア。花が咲くのは、早くて三月あたま。木の芽どき。俺は見れない。
 見られないの方が正しい言い方なのかもわからないが、たとえ治療を受けたとしても、受けていたとしても。末路は同じ。経過が違っただけのこと。だからどうしたところで俺は見らんない。いや、発芽くらいは見られっかも。潤子の喜ぶ姿も……。
 クリスチャンは皆、口を揃えて言う。 「人は罪を犯さずにはいられない存在」 「我が贖罪の為にイエスは十字架につけられた」 とか。
 でも潤子は違う。あいつの罪を俺は知らない。見たことない。世代も時代も越えた聖なる女、神が産んだ子、チビの頃からそんなやつ。話しかければ何時どこででも現れる、俺のキリストだ。

  体調はかなり良いぞ。
一過性よ。無理しないで。

 きっとあの世でも……
 
  こっちは四季どころか一季。毎日春で花盛りさ。
  羨ましいわ。蝶ちょも飛んでる? 
もちろんさ。今朝も話したよ。蜜を吸いに行くところだって。 

 みたいに。
 風前の灯ってことくらい解ってるさ。閉店セールの賑わいみてえなもんってことくらい。
 だから言ったんだ、 「一日も早く退院させろ」 って。あのマッチョな医者に見えない医者に。
 したら野郎、
「膵臓から浸潤したがん細胞が肝臓や胃や()臓に転移したことは――覚えてるのかなあこの人――お伝えしましたよね。検査結果を見てからの確定診断となりますが、恐らく脳へも。肺への転移は確実でしょう。この状態で退院など医師としては、とてもとても (許可できません)」
 医者の説明になっていない説明を責めるつもりも、 「恐らく、確実、でしょう」 は日本語としてどうよ。何て重箱の隅を突っつくつもりも何とか抑えて。
 妊婦と見紛う腹が凹んで45キロに相応しい体型に戻って不快極まりない背中の痛み (とくに右) が軽減すれば、
「退院できるんだろ? 腹水抜けば。ステント入れたんだから」
 お願いする立場として下出にでたらあのマッチョ、
「かえって溜まりやすくなるんです。ショック状態は抑止できるとしても、繰り返し抜くことで、体力の低下を助長させ兼ねないばかりか、効果が無くなってゆき、短メ、ううんっ。利尿剤で少しづつ減らしますか」
 腹水を抜くと逆効果。どころか 「短メ、」 は短命。要は幾許もない余命を更に縮ませ兼ねないとまで脅しやがる。
 更にだ、
「夢の中を彷徨うような感覚? とか。呂律が廻らないのは何よ」
「脳への転移でしょう」 って、
「転移してるじゃん!」
 ツッコミを入れる気も 「検査結果見てからって言ったろ!」 「確定診断じゃねえって言った、確定的に言った!」
 文句を言う気も失せたので、自分で調べた。斜向かいの小久保君にスマホを借りて。操作方法の指南料込み10分1000円で。
 転移している可能性と、転移していない可能性のどっちも捨てて、 「このまま更に病状が進行、ああー、また間違った」
「Backspaceっす」
「ラジャー」
 。。。、、。。、、、、、
「やってえ」
「、、、、、、はいどうぞ」
「どうも。病状が悪化したら、したとすれば……」
「そこをタップ、 “チッ” っす」
「ブラジャー」
「!? うひゃひゃひゃひぁ――」
【検索】
〈手指に障害が生じてお箸を落してしまったり……字が曲がったり……食事の介助が必要に……人によっては意識障害…… 「せん妄」 といって……時間や場所が分からなくなる……「認知症」のような症状……〉
 そしてあの耐え難い激痛に襲われ、或いは、激痛が蚊に喰われたくらいにしか感じられない状態がつづいて、
『ジ・エンドです』
 とは書いていなかったが、自分が誰だか分からなくなってまで生きる理由は、少なくとも俺にはない。
 医者は執拗にホスピスへの転院を勧める。同病相憐れみながら麻薬づけにして楽に死なせてあげましょう。 「笑って逝きましょうよ。どうせ死ぬんですから」 って腹づもりだとすれば、そうはいくかっ。俺には潤子と嘉人のことがあるんだから。
 二人を結びつけるまで、俺は死ねない。俺は俺のままでいなければならない。願わくは式を挙げるまで。
 願わくは……
  
  いい家じゃないか。
  お兄さんのおかげですよ。な、潤子。
  毎日こうなの。嘉人さんったら。
  今日は泊まっていってください。
  たまにはゆっくりしていって。
  ちょっと寄っただけだ、帰るよ。
折角きたのにい。
たまには一献、
そのうちにな。
今度はいつきてくれるの?
ガキの顔を見にくるさ。

「それはいくらなんでも」
 不可能だろ。
 あいつらだって俺じゃねえ俺を 「兄さん」 なんて思えっこねえに決まってるし、顔を合わす度に泣かれてよ、涙にくれる二人を見て、俺じゃねえ俺は 「だあーだあ、だああ」 赤ん坊みてえに喜んで、俺の顔した何者かが不思議そうに首をひねって二人に言うんだ、 「どなたじゃったか」
 耐えられっかよ。別人になってまで生き長らえたところで二人どころか誰の為にも、
「精神神経科をご紹介、」
 うっせえよ! 調べたもん。認知症もせん妄も。意識障害も。思い当たることはたぶんぜんぶ。思考障害やらパーソナリティやら……いろいろ……。
 認知症は、いいか。時間もったいねえから。
 せん妄とは、
〈軽度の意識混濁のうえ、幻覚・錯覚・精神行動性の興奮がみられ、意味のない言動や意味不明の――〉
 多重人格とは、
〈異なる人格が知らず知らずのうちに出現することをいい、診断名は解離性同一性障害――〉
 妄想は妄想。一次妄想と二次妄想があり、§×ζ×λ×∂ゑ×ξ……。
「一度精神神経科を受診、」
 行・か・な・い。いちいちうっせえなあ、おい。
 ヒステリーとは、
〈解離性障害と転換性障害とに分かれ、後者は四肢の痙攣などの症状が――医学的にいうヒステリーとは、単に怒りがエスカレートして当たり散らすものではなく――心理的な悩みや欲求が満たされない時の反応として起こる――〉
 B群パーソナリティ障害 (反社会性タイプ)。
〈社会的な規律や責務に対する無責任に、怒りの感情 (暴言・暴力など) が表出――〉
 やっぱらしくねえ。俺らしく。考え過ぎの度を越してる。どれも誰もが多少なりとも当て嵌まる、という俺なりの結論が出たところで。
 小久保君に丁重に 「ありがとう」 を言ってスマホを、
「ごめん、もうちょい。すぐ終わっから」
「ぶ、ラジャー」 どしゃしゃしゃ――

 火葬されるのに  なぜ生まれ変わるのか  キリスト教
〈人間が無から生まれたように、キリストにあって死んだ者は生まれ変わるのです。イエスさまが 「火葬されていたとしても」、 三日後にはご復活なさいました。わたくしたちも同じように生まれ変わる―― 〉

 そういうこと。俺なりに納得できたので、 「ありがとう」 スマホを返却。28分の使用で延滞料金なし。もう一度、
「ありがとう」
「お互いさまっすから」
「PHS、いつでも貸すから言ってくれな」
 って何の役にも立たねえか。そんなことない? パカパカ懐かしいか。アンテナも。アパートの箪笥ん中にポケベルもあるぞ。どしぇ~って、渋いだろ。物持ちがいいんだ。一度見てみたいってか。小久保君にたのまれちゃっちゃ断われねえ、
「あんな信昭さんを見るの、もう耐えられません」
 小絵だ、小絵が現れた。
「僕らはどうすれば」
 嘉人も。ということは、
「わたしたちはただ……」
 潤子だ。祈ればいいさ。
「ふつうに接すればいいと思うの。どんな兄でも、兄は兄だから」
 認知症の方には情緒の安定を心がけましょう――。
 ふつうに接するのも情緒の安定を図るのも、認知症やガン患者や、誰それに限ったことであってはならないわけで、誰だってボーっとしたりひとりごちることもあれば、イラつくこともあって、ガンコというか石頭というか星一徹的なところがあいつは俺に、似てるんだよなあ……
「潤子さんと一緒に生きたいんです! 僕の希望は潤子さんと共に、歩むことなんです!」 ことなんだ!
 よくぞ言ってくれたよ、しと。まさかお前の口から聞けるとは思ってもみなかったよ。
 でもな。何もムキになることあねえんだ。反対なんか、しっこねえんだから。ホセも。
「あのヒト、まちがいないよお! あ (ん) なにやさしいジョセー、はじめてあ (っ) たよお、みたよ! ニポンいさむだよお!」
 世界遺産って言ってほしかったけどな。

  一.クリスマス講話会への出席
二.遺書を書き換えて投函 (草案を練り直して)
三.フリージアの花束を買う (ブーケにするかも)
四.潤子のことを何とかする

 順不同の希望の四つ目、 “潤子を何とかする” は 「是が非でも叶えてやる!」 と意気込んでいた俺は、嘉人を見据えて、
「潤子と結婚したいと理解して、いいんだな」
 心と裏腹のことを口にした。 (潤子を貰ってくれ! 頼む!)
 キッとして 「うん」 或いは 「はい」。 肯く嘉人に、
「有り難えし嬉しい。だがな。潤子に同情してのことなら、俺は賛成できねえぞ」
 賛成に決まってるのに。俺と同じくらい大事に思ってくれていることくらい、分かってるのに。
 心にもないことを口にするのは、パーソナリティ障害のBだかC群の何某かのタイプか、せん妄か、脳への転移の影響か、ただ単に性格がひん曲がっているだけのことか。
 自分でも思ったさ。 「何を言ってんだコイツ」 「兄貴ヅラして恰好つけてんじゃねえよ」 って。兄貴らしいことなんか、何ひとつしてこなかったくせにって。
「愛は神から出ているんです。病気や障害で区別されるものではありません。同情や哀れみで言えるようなことでは――」
 障害の有無しや境遇は、愛とは無縁。なかなか言えねえぞ、潤子。
「死んで逝く俺への同情だとしたら、」
「関係ありませんよ」
 予想だにしていなかったから、些か拍子抜けしたが、あの実直さが嘉人のいいところだ。もう何も言うことはねえ。 「潤子を頼む!」 言ってやろう。
「生活はどうする。今のまま夜勤のバイトをしながら講話会につき添って、潤子の身の回りの世話も全部みようってか。出来っこねえだろ」
 大切な妹をやるんだ。そう易々とやれっか。
「ボクらも、するよお! できるかぎりよお」
 ありがとな、ホセ。俺だって祝福してたさ。こんな体でなけりゃ何から何まで、何だってやったよ。
「アルバイトをしながら、神学を学ぼうと思っています」
「神学ってお前」
「牧師になります」
「ヨシトにぴたりだ」
 先に言うなよ。
 ま、ピタリかどうかはなってみてからの話だが、お前みたいなやつになってほしい職業? だと俺も思う。が、
「何で牧師だ。俺が思うにお前も案外人間嫌い、いや。日本人嫌いに見えるが」
「見た目判断、ですか」
 痛かった。冷めた目が言っていた。 「あなたも同じだ」 或いは “そんな人だとは思ってもみなかった” “潤子サンとは大違い” と、思うこと自体が見た目判断になるわけだが、ま、それはさて置き、みたいな感じで嘉人はつづけた。
「潤子さんに言われて目が覚めたんです。 『わたくしたちは、キリストに似た者になることを約束されていますが、その備えをしておかなければいけないと思うんです――』 と。神と人、万物を思って、みことばを実行する日々を送りたいんです。潤子さんといっしょに」
 前段の潤子の話は皆目理解できず、後半の嘉人の思いは、 「先住民の話に似てるなあ」 程度しか消化しきれず、聖書を齧ってることを鼻にかけて、茶を濁そうと思ったわけではないが、
「つまり、 “ただ聞くだけの者でありたくない” “自分を欺いて生きたくない” ってわけか」 俺は語った。
「そうです」
 嘉人は素っ気なく即答した。聖書には、 「はい」 は 「はい」、 「いいえ」 は 「いいえ」 とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いこと――って書いてあるから、思いやりだな。素っ気ないじゃねくて。いや、理解した、してくれたのだ。 〈みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。〉 を、アレンジしたのを。
「ジュゴンさも、」
「潤子っ」
「ジュンコさ (ん) も、りかいしてるだね。ヨシトのきもち」
 いよいよだ、潤子を頼む!
「それはまだ」
 ったく。あいつってやつは。
「俺とホセがいいって言ったところで、 『わたしのタイプじゃないわ』 なんて言われたら洒落にもなんねえだろ」
 潤子の真似して言ったら笑いの渦で、
「騒がないでください! 病院ですよっ!」
 看護師に叱られる始末だ。
「小久保君だって笑ってるんだからいいじゃん、ってお前だってニタニタしてるじゃんか」
「だってえー」
 先の短い患者と談笑するのも業務の一環なのか、笑い上戸なのかと思いきや。あまりに似ているのだそうだ。 “丸山先輩” に。
 それはそうと、悪かったな嘉人。俺が言わせちまったようなもんだな。
 でもな。言質を取りつけなけりゃ、死ぬに死に切れねえわけよ。兄貴としては。
「早いとこ潤子に伝えてやってくれ。俺は (大) 賛成だって言ってたって言ってたって」
 俺は幸せモンだ。もう思い残すことは何もねえ。
 ありったけの力をふりしぼって、潤子のいる施設の方向に寝返りをっ、やっぱ痛むわ。みずおちの左っかわと、背中から腰のあたりが。えらく。
 あそこまでなら、田淵のホームランならとどく……無理か。ジャンボのドライバーなら確実にとどく距離。屋根の上の米粒大の十字架までは、二打か。でも、
「アルバトロスだ」
 薄昏の雲足の早い空の下。タマゴ直売所の幟が激しくはためき、力強く羽ばたく鳥は、たぶんハト。風に抗い自転車をこぐ少年よ、そんなに急いでどこへ行く。 
 遠いのか。天国って。
 近いのか。
 フリージアは咲いてるか?
 死ねば分かるな。

 そんな事より、三日後の講話会に行くには、明日の退院が必須条件。なのに、何度言っても許可は下りない。
 無様を晒して入院したおかげで、胆管のパイプ詰まりは解消されて、凍結地獄の不安はなくなり、激痛から鈍痛に変わった背腹の痛みと、腹水の不快感を除けば、悪いなりに悪くねえのに。
「そっか」
 手術で儲け損ねた分入院費で取り返そうって腹づもりか。ますますこんなとこに長居など、
「いかがですう? のぶあきさーん」 く~ん。
 点滴交換か。運の悪いやつ。
「明日床上げだ。お愛想頼む」
「? とこ上げ? おあいそってえ?」
「た・い・い・ん。病院のベッドで寝ていようが家賃三万のアパートの煎餅布団で寝てようが同じだろ。因みに賃料で選んだわけじゃねえぞ。その前にカーテン閉めれや」
 別に何をしようってわけではないが、相乗効果ってやつだ。
「ご自宅で点滴できますう?」
「できまちゅ~じゃねえや。んなもんしねえよ」
「そんな言い方は……先生に聞いてからにしましょうね」
「さっきからお前え、ガキに喋るような口利きやがって。なめてんだろ」
 ふだんの温順でない俺に看護師は、
「そういうつもりわあ……」
 怯えた顔で後退り。悪いが計画通りだ。
「つもりがなくたってガキ扱いしてるのっ。売店のおばちゃんとこ行って育ての母になってもらって、一から人生やり直せ」
 ちと、言い過ぎたか。
「別にお前だから言ってるわけじゃねくて、一般論だ。とにかくお愛想だ。もし許可しねえんなら明日以降の入院費はびた一文払わねえ。いいな」
「……ご希望は伝えておきますう」 しゅう~。
「とか何とか言って、妹に言いつける気だろ。お前らが個人情報を漏洩したお陰で、こっぴどく怒られたんだぞ。今度喋ったらマスコミにばらす。もちろん実名で。斎藤さんな。下の名前は、まあいい。小絵に聞きゃあすぐ分かっから。あいつは俗世間の女と違って素直で人間ができてる――」
 看護師がおずおずと退室してから五分。年増女がやってきた。ナースキャップにピン止めみたいな紺のラインが一本。斎藤ちゃんの上司だ。
「説得しようってなら無駄だぞ」
 二番目の希望 【遺書を書き換えて投稿】 の、草案を練り直すんだから。
「担当看護師が大変失礼をしたようで。お詫びを申し上げに」
 女の齢は皆目見当つかないのだが、俺より年下。潤子よりは上。に見えるが、潤子は師長だから、年下の可能性も否定はできない。それはともかく、
「もういいって。とにかく明日退院だ。手続きしとけな」
「許可できません。もう少し経過を見て、」
「経過もへったくれも、そっちからサジ投げておいてなんだよ。ホスピスに収監する話まで持ち出しておいてよお」
「医師としては当然の判断をしたまでです」
「俺がいいって言ってんだからいいのっ。そんなに言うんなら、俺にだって考えがあるぞ」
「入院費の支払いの拒否と、個人情報の件をマスコミに公表する件、ですね」
 やれるものならやってごらんなさいか。
「そんな生やさしいもんですむと思うなよ。看護婦の尻、触りまくってやる。 (で) どうだ」
 ただでさえ人員不足の看護業界、連鎖退職でもされたら、天下の大 (学) 病院でも大打撃だ。所詮舐めた汁の苦さと、吐いた嘘のケタとスケールが違う。
「そんな事をしたら警察を、呼ぶことになりますよっ」
「もうすぐ死ぬんだ。関係ねえもん。まずはあんたから」
 どうぞ。何て言われたら立つ瀬もないが、
「ドクターと話してきます」 
 ふう~。
「退院は三時、おやつ食ってからな」
「それでしたら、夕食を早めに手配しましょう」
「食えたもんじゃねえから三時なの」
 食欲を減退させる作為しか感じられない病院食だが、食べ残すのが嫌いな俺は、試練と思って完食するから、 「あら~のぶあきさーん、きれいに食べてえ (えらいでちゅねえ)」 誤解を招いてきたのだ。
「展望レストランでもよかったんですよ。丸山さんの場合」
 年増女は減らず口をたたいて出て行った。
「早く言ってよ」 そういうことは。
 一週間早ければ、誘えたのに。急逝した大河内君を。
 


     十七


〈いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。〉
 クリスマスイヴ。洗礼式にのぞむ朝。いちばん好きな聖句を唱えてみても……だめみたい。落ち着いてくれない。気持が。何度唱えても。十字架を負んぶしてみても。
 ――嘉人のやつ、本気みてえだぞ。
 何が劣ってるの。 
〈愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。〉
 私は寛容でも親切でもないから。すぐに人を妬むから。自分の幸せばかりを願って、人を裁くから。嘉人が潤子さんを選ぶのは当然。神さまが潤子さんの味方をするのも。
 でも諦めきれない。諦めようとしても。諦められそうな気持に傾きかけても、諦められない。中一の時からずっと想ってきたんだよ、諦められないよ。
 結婚しないできたのは、嘉人以上に愛せる人と、出会わなかったから。
 思い切って家を訪ねたのは、一度だけ、一度だけでいいから夢を見させてほしかったから。
〈愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。〉
 分かっています。こんな私があなたの子として、認められないくらいのことは。
 障害者になっても変わらない潤子さんは、正しい人。
 善に親しむ人。
 みことばを実行する人。
 神さまに愛される人。いつも前を歩いている人……。
 
 五感だけを働かせるように言ってみて。呼吸法も教えて差し上げて。それと 「あれ」 も。安心すると思うの。
 僕は、俺とは言わないけどさ。 「俺はいま何をしているんだ」 って五感に問い掛けろっていうあれ。あのアドバイスは効いたな。礼拝でも何ともないんだ。
 違うの。
 それと 「十字架を負んぶ」。 電車にも乗れそうなほど自信がついたよ。ありがとうな。
「違うの」
 言えなかった。
 お礼なら潤子さんに言って。みんな潤子さんのおかげだよ。礼拝で平気でいられるのも。自信がついたのも。明るさがもどったのも。私何もしてない……
「ルカの福音書、二十章」
「三十五節よ」
〈次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。〉
 このみことばが何か? って訊いたら 「そのとおりにしようと思う」 って言った。
 嘉人の部屋でのことを話した時も 「応援する」 って言った。私のこと。私たちのこと。だから嘉人のプロポーズ、受けるわけない。
 でも、嘉人が愛しているのは潤子さん。きっと潤子さんも……。
 こんな気持で受洗するつもり? 神さまの御前に立つ気? サタンの手をたずさえて、クリスチャンになるつもり?
 やっぱりだめ、絶対だめ。二人を祝福できない私は神さまの敵。サタンのしもべ。私はただ、あの人が信じるものを信じたいだけだったのかもしれない。
 足音を忍ばせて階段を下りる。と、
「あら。もう行くの」
「遅刻したら、大変でしょ」
 見れない。お母さんの顔。
「いつもどおりにね」
「だから普段着なの」
 ごめんね。お母さん。
 靴ひも、うまく結べないよお。
 んもう、忘れ物よお――
「今日はいらないのおー」
 嘘ばっかり。
〈私の心も私を見捨てました。〉
 でも、神さま。これだけは信じてください。
 潤子さんを支えたい思いに一片の嘘もないことだけは。
 とにかく行かなきゃ。
 ドアが重い。
 気持も。体も。
 聖書のないカバン、軽いなあ。要らなかったな。
 後悔ばかり。


(い・つ・も・ど・お・り・に)
 心の声のとおりに口が動く。
 十字架に一礼して、パールピンクのセーターに亜麻色のスラックスを穿いた小絵ちゃんが、もう一度わたしを見て、顔を歪ませるから。
(まだ早いわよ)
 頷き返した小絵ちゃんが、目を閉じて、息を深く吸って、目を開けて、自分を奮い立たせるように、
「私、受洗しません。ごめんなさい」
 時間が止まった。涙も。
 これまで幾人もの求道者に会い、洗礼式に立ち会い、受洗に向けた 「学び」 の最中に取りやめる方もいた。でも、洗礼式の当日に講壇上で宣言した人を、わたしは知らない。
「信仰告白。すすんでる?」 と聞いたら、 「何度も書き直してようやく完成しました」 って嬉しそうに話していたのに。昨日の朝も 「暗記できるほどです」 って自信満々に答えていたのに。
 肩を落とす兄弟姉妹。静まり返った教会堂。推量すること以外何もできないわたし。
 どうして話してくれなかったの。
 自分の信望の無さを責める半面、
「迷いは患者様に不安を与えます――」
 小絵ちゃんらしいと思う気持がわたしを励ます。
 看護指導をしてきた中で、誰よりも従順だったのが小絵ちゃん。渡部小絵さん。
 納得するまで妥協を許さず、納得すれば笑顔がこぼれ、家族といるような気持にさせてくれるあなたが、
〈天の父が完全なように、完全でありなさい。〉
 もしそう考えているのなら……。
 思いを打ち消す。苦しんだ末の決意を見たのだから。
 体ぜんぶで抱きしめて言ってやりたい。 〈いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。〉
 でも追いかけることさえしてやれない。
 ごめんね、小絵ちゃん。
〈揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目覚めたいと思うときまで――〉
 アーメン。



     十八


 二人きりになるのは初めて。本人のいない場で話すのは憚れる。
 でも伝えないと、
「小絵ちゃんのことですけど」
「僕はよかったと思うんです」
 聞こえなかったのだろうか。小絵ちゃんのことを考えていたとすれば、声が明るい。冷淡とは思わないけれど、
「よかった、ですか」
「ええ。受洗って、タイミングがあると思うんです。今しかない、この時以外に考えられない、と思った時がその時です。 『主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。』 ですから。渡部はそのことに気づいたのかもしれない」
 洗礼式に代わって急遽執り行われた、小絵ちゃんのための祈祷会で、わたしはこう祈った。
「主は迷い出た者を救い出し、より強く愛してくださいます。小絵ちゃんが聖霊さまに動かされ、信仰に堅く立って歩むことを信じて……いっさいを主の御手にゆだねて……」
 まとまりもなく。言葉少なに。
 嘉人さんは、マタイの福音書 第十八章十三節 〈迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。〉 を読み上げたうえで、
「渡部が受けたのは試練ではありません。祝福です。喜びましょう」 と。より短く。晴れやかに。
「渡部は僕のように堕落したりしません。より成長して、立派な信者になりますよ」
 力強い言葉が気持を少し軽くする。
 筋状の薄雲が二、三浮かぶだけの青空を、こげ茶の羽根を広げたトビが飛んで行く。
 先週降った雪は道の辺に盛られていて、反照する陽が眩しくて、長くは見ていられない。教会では、クリスマス会の準備を始めた頃だろうから、
「みなさんとご一緒なさればよろしかったのに」
 やんわりと、言ってから気づいた。一人では、兄を見舞うことさえできないのだ。
「いいんです。お話したいことがあるので」
「わたしも、」
「あそこで話します」
 彼の心はもう東屋に向いていて、老齢の女性と介助者がちょうど出てくるところだ。
 横浜までつづくという水道みちは、のどかというより閑散としていて、小絵ちゃんと幾度も来た、愛着のあるの場所。どこか寂し気な自然も、息を弾ませるジョガーとすれ違うのも、お気に入りの光景なんだけど……いるはずの小絵ちゃんがいないと、別の場所のよう。
 お二人と会釈を交わして、短いスロープを上り切る。
 と、
「潤子さん」
 声が近い。ブレーキをロックし、足元の方を回って、フェンスのような支柱と一体のベンチに座った彼が、
「暑くありませんか」
 顔の右から微笑を向ける。ここを狙って射すような日差しが少し乱暴で、柱の脇の 「親子の雪だるま」 が解け出しているから、
「ちょうどいいです」
 真冬にしては暖かなはず。ほんとうは分からないのだけど。
「暑いくらいでしょう?」
 車椅子を扱い慣れていない方にとっては、結構な距離を感じて、必要以上に力も入る。大仕事と言える。
「嘉人、さん?」
 何から話していいのか分からない、そんな様子。
 だから待つ。神さまは、待つことを求められるから。
 左側の視界に入る細い電線に、ハトが二羽止まっていて、道路側の男の子が 「ポッポ、ポッポポー」 喉を膨らませて歌っている。話し掛けているのかもしれない。電柱側の細身の女の子に。
(チャロとユキちゃんみたい。)
(あら。わたしも同じことを考えていたのよ。)
 一人でいる時のように、想像を膨らませてみても、いるはずの小絵ちゃんがいないとやはり寂しい。
「僕はあなたと、これからの人生を、あなたと歩みたいんです」
 何をいいたいのか。分からない。
「これからも力になってくださいね」
「そうではありません。僕はあなたと」
 挑むような目が請うようなそれに変わる。
「あなたと結婚したいんです」
「え」
 小絵ちゃんがいるのに何ていうことを、
「ダメです。こんな体だからわたしを哀れんで、」
「それは違う。そんなことは、僕は一度たりとも考えたことはありません」
「あなたも弱者を哀れむ強さを身に纏った方だったんですね」 何を言っているの? 自分でも首をひねりたくなる。
「哀れむだなんて」
 障害者になったきっかけを話した時と同じ表情、僥倖公園で初めてお会いした時と。
 あの時にはもう……彼を意識していた。聖書を買いに教会に来た時の苦しみ喘ぐ彼を放っておけない気持になったのは、看護師としての責務以上に、あなたのことを……愛していたから。でも、
「小絵ちゃんはどうなるの」
「渡部には感謝しかありません。これからは友人として支えます。精いっぱい」
 わたしは蕾を落とした花。天のお父さまに覚えられれば、それで十分。
「小絵ちゃんが可哀そうです。どんなにあなたを」 愛していることか……。

 もしかして、嘉人のこと好きとか。
 やめて。
 一言で理解してくれた小絵ちゃん。
 女ってイヤですね。こういうことに敏感で。でもこれだけは言わせてください。潤子さんこそ素直になってください!

 正直を曲げない看護師は成長します。同時に苦しみも増します。それでも素直さを忘れないでいてください。
 指導者のわたし以上に 「正直」 にこだわった、小絵ちゃん。今日も素直で、毅然としていた。
 だから、わたしも。
「お気持は嬉しいです。でも、わたしには応えられません」 正直の片方の気持しか伝えられない。
「障害があることで悩んでいるのなら、それは良くないことです。あなたと出会わなければ、僕は何の生き甲斐もなく死んだように生きていたでしょう。信仰に堅く立つあなたに、僕は救われたんです。二人で信仰をあたため合って、」
「同じ体なら同じように悩みます」
 主を裏切る言葉が口を吐く。
「そうかもしれません。でも、」
「いいえそうです」
 心にサタンが棲みついているから言葉にするのだ。
「あなたには主に喜ばれる純真な心と、やさしさと、真心があります。あるがまま励まし合って――」
 わたしがそれほどの人間であれば、小絵ちゃんは受洗していた。
「聖書には 『ふたりはひとりよりまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるから、』 と書かれています。十字架のことばを信じて、信仰を高め合って――」
 嘉人とキスしたんです。でもそれ以上は……。
 わたしだから打ち明けたというのはほんとうだと思う。でも、彼を渡さないという思いも含んでいた。
 小絵ちゃんとなら、愛し合える。求め合える。そして祝福される。小絵ちゃんとなら……。
 何をするにも空回りで、苛立っていた小絵ちゃん。
「主任さんは患者さんのことは信じるのに私のことは疑って掛かってます。同じ人間なのにどうして信じてくれないんですか!」
 頭を殴られた気がした。患者さまから感謝されるようになり、同僚やドクターから信頼を得るようになったのは、小絵ちゃんの指導者になってから。事あるごとに 「丸山主任は自分の評価をすべきです」 わたしを刺激してくれたから。
 障害者になったことを告げられて、涙も涸れて、掛布団をゆっくりおろして目だけを出すと、滲んだ世界の中に、
「私が一生支えます! だから、何も心配しないでくださいっ!」 
 怒ったような小絵ちゃんの泣き顔があった。心が生き返った。
 だから絶対に裏切れない。
 それでも、小絵ちゃんは、口を尖らせて言うはず。
「潤子さんこそ、素直になってください!」
 こんな体でなければ愛に走った。
 でも小絵ちゃんの方が相応しい。小絵ちゃんを裏切れない。
 でも、心は彼を求めている。
 小絵ちゃんみたいに素直になって考えたところで、素直になるということは、彼を奪い取ること。そんなことは絶対に、
「何より、渡部の幸せを考えてやってください」
 変なことを言う。
「小絵ちゃんの、幸せを?」
「ええ。昨日電話で」
 ――悔しい気持ちがないわけじゃないの。でも本気で応援するから、絶対に幸せにしてあげて。誰よりも幸せにしないと赦さないから。
 洗礼式を控えた大事な日だというのに。わたしの知らないところで思いもよらないことが動いていて、一人苦しんでいたのね。
「受洗のことは」
「堂々と告白するとだけ。正直に言います。こうも話していました」
 ――もう少しで嘉人をゲットできると思ってたのに。 〈いま笑うあなたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。〉 みことばのとおりね。だけど私、絶対やみに打ち勝つから。
 だから嘉人さんは、試練を受けたのではなく 「祝福された」 と言えたのだ。
「明るく言うんです。あなたと同等の信仰を持ちたいんですよ、渡部は」
 小絵ちゃん。
 あなたは無垢な心で受洗したかったのね。同じ気持でいてほしいのね。わたしにも。
「嫌なことを、しなければなりません。いやな思いをたくさんさせてしまいます」
 ごめんなさい。小絵ちゃん。
「あなたと生きる喜びが勝ります。主が道を整えてくださいます。迷うことはありません」
「永く生きられないと思うんです」
「そんなこと、主の御手にゆだねるだけでしょう? 僕らは」
 梨田先生の説教を思う。
「聖書に書かれてある 『わたし』 を 『愛』 に置き換えるのです。愛は誰ですか。そうです。神です」
『愛』 は、
〈アルファでありオメガである。最初であり、最後である。初めであり終わりである。〉
『愛』 は、
〈渇く者にはいのちの水の泉から、価なしに飲ませる。〉
「そして愛は、 『あなた』 でもあるのです――」
『愛』 には、
〈恐れがありません。〉
 そう、わたしは恐れない。
「本心だと思って、いいのですね」
 唇が震えて、顔は歪んでいると思う。
「主とあなたと、すべての人の前に約束します。僕の想いは永遠――」
 車椅子のタイヤはきれいなのに、嘉人さんのスニーカーは泥跳ねで汚れている。
 高い空の雲は流され、青一色。
 やさしい月と、星がきれいな、夜に会いたい……。


 退屈しのぎに買ったという野草図鑑を閉じて。
「よっ。オミナエシとオトコエシの登場って、いっしょじゃねえのか」
 まっ先に小絵ちゃんを心配するところが、お兄ちゃんらしい。
 嘉人さんはわたしに頷き、答えるように促すから、
「もう少し、考えてからにするって」
 言ってから気づいた。考えさせてくださいませんか、もう少し――。 彼に言ったのと同じ言葉だと。
「何だ、やらなかったのか」
 兄は横向きになり、肘をつき、ベッド柵を握ると、
「ま、小絵のことだ。よくよく考えての、ことだろ」 長座位になろうとする。
 肌色も声色も、講話会の前後よりはいい。でも、車椅子が必要になるのも、そう先の話ではないだろう。体力が低下しているというより失くなっているのだ。
「無理しないでください」
 嘉人さんが手を貸そうとしてくれる。
「別に、無理なんかしねえよ。退院の支度でもな。おっ始めようかと、思ってたところだ」
「退院って無茶ですよ」
「無茶も麦茶もねえよ。権利の行使、拘束されないだか、なんちゃらの自由だ」
「潤子さん」
「とうぶん入院加療をつづけるって聞いたわ。ほんとうに許可したの?」
 ようやく起き上がって肩で息する始末。あり得ない話だ。
「裁判官でもねえのに許可もへったくれもねえだろ。思想信条の自由、ヤク(・・)漬け対症療法は却下。よってここにいる意味ナシ。だから許可させた」
「させたって、どういうこと?」
 兄は答えない。
「わたし、聞いてくる」
「よせよ。こっちから無理聞いて貰ったんだから」
「そうだとしても重患を退院させるなんて、嘉人さんいいですか」
 彼がハンドブレーキに手を掛ける。と、 
「どうしても許可しねえっていうからよ。看護婦の尻、触りまくってやるって言ってやったんだ。もちろん本気じゃねえぞ。仕方なしにだ」
「んもう。子供みたいなまねしないで。恥ずかしくて顔も出せないじゃない」
「客の声に耳を貸さねえほうが悪ぃんだ。子供で結構、大人なんて言われるよっかよっぽど嬉しいやね」
 兄らしいけど……。嘉人さんも苦笑してる。
「それに見てのとおり。悪ぃなりに完全復活だ。よってこれ以上お前らに迷惑をかけることもナシ。安心しろ」
 ガンを打ち明けられたときの思いに立ち返る。そう、思いどおりにさせてあげよう。
「それでいつなの。退院」
「潤子さん」
 当惑顔の嘉人さんに、
(いいんです。)
 頬笑みかける。立場が同じであれば、思いどおりにさせてほしいから。
「三時のおやつ食ってからだ。今日はレアチーズケーキだからな。それより嘉人、お前の方は。どうなった」
「実はさっきの話、信昭さんも知っているんです」
「お兄ちゃんがけしかけたのね」
 明るく言って口を尖らす。言い出したのはわたしだから。――気を遣ったりしないでふつうに接してください。明るいことが好きな人なので。
「そんな立場にねえことも分からないほど呆けちゃいねえよ。多少煽った程度だ。な」
「やっぱりけしかけたんじゃない」
「先のことが後になっただけだ。んなことあいいから、したんだろ? プロポーズ」
 みことばを引き合いに出したりして。嬉しいけれど……。
「何だ、二人とも黙りこくって。しなかったのか」
 ――僕の想いは永遠です。どうか忘れないでください。
 永遠という言葉に、勇気が出なかった。
「潤子」
「簡単に答えられることじゃないわ」
「何だかんだで、兄妹だな」
 兄は考え過ぎる人。わたしは逆で能天気。父からそう言われたものだけど、再会して話しているうちに、兄妹なんだなあ、お兄ちゃんの妹なんだなって。思うようになった。やっぱり似てるなって。
「弱さを認め合って堂々と生きるんです。人は弱い存在なのですから」
 伝え切れなかった思いを言い足したのが語調から伝わる。
 弱いところを認め合う、大事なこと。
「そう小難しく考えんな。要は一緒にいたいか。思いやって生きたいかだ」
 思いやって生きる。何よりも大事なこと。
「改めて言います。僕と結婚してください」
 彼を想う気持は確か。でも応えられない。いちばん彼を愛しているのが、
小絵ちゃんだから。いくら応援すると言われても。
「障害も齢も立場も取っ払って、余計なことを考えずに答えろ。嘉人のことを好きか。ずっと一緒にいたいか。目をつぶって即答、言ってみろ」
 余計なことで割り切れる筈もない。でも、そうしてお兄ちゃんは、ガンと共存してきた。
 そして、向かいのベッドのある場所にいた、浜田さんも。
 あの電気スタンド大のクリスマスツリーのある場所に聖書があって、読み込まれた聖書の背表紙には、
〈何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。〉
 の聖句が書かれていた。そして嘉人さんと、同じことをおっしゃった。
 ――丸山さん。神さまは、認め合うことを求められていると思うの。
「そりゃあ、急に言われても困るわな。ある程度アピールしてからつき合って、それこそ愛を確かめ合ってからプロポーズすんのが正道だ。いきなり言う嘉人が悪ぃ。けしかけた俺も。お前もしかして、小絵のこと気にしてんのか」
「小絵ちゃんのこと?」
「あいつが嘉人に惚れてたのは今や昔。何んも気にすることあねえぞ。 『お似合いだと思ってたんですう。嘉人になら安心してお嫁に出せるわ。うふふ』 なんて笑ってるくらいなんだからよ。心配すっとかえって――」
 心が引き裂かれるほど、辛かったのに。お兄ちゃんにまで気丈に振る舞ってたりして。
 悔しくないわけではない。
 本気で応援する。
 絶対に幸せにしてあげて、幸せにしないと赦さない。
 やみに打ち勝つ。
 彼になら安心して……。
 好きだって言ったのに。唇を重ねたって、嬉しそうに話していたのに。
「うだうだ考えてねえで、 『お先にい。いい男見つけるのよお』 くらい言ってやりゃいいんだ。それにだ、いつまでも病院の世話になってるわけにもいかねえんだぞ」
 そうなのだ。理解に窮する言葉だけど、 「働かざる者食うべからず」。 このままでいいわけがない。小絵ちゃんをいつもまでも、束縛しているわけにも……。
「渡部は生まれ変わろうとしているんです。僕らも見習わないと」
 小絵ちゃんは 〈主に喜ばれることが何であるかを見分け、〉 〈それを明るみに出して、〉 まさに生まれ変わろうとしている。
 この場に小絵ちゃんがいたら、 「潤子さんこそ素直になるべきです!」 って言うはず。
「嘉人は本気だぞ。証拠見せてやれよ。聞かせてやれか。例のあの、プランの話」
「プラン? ですか」  
「働きながら神学を学びます。僕は牧師になります。ずるい言い方ですけど、潤子さんがいないと叶わないかもしれない。僕の信仰生活にあなたは欠かせませんから」
「それを言うなら 『僕の人生に欠かせない』 だろうが。ま、それはそれで、嘉人はな、お前との幸せだけを考えてるわけじゃねえぞ。信者やこれから信者になろうとする人間の人生、ぜんぶひっくるめて出した答えだ。これが愛ってもんじゃねえのか」
〈少しも疑わずに、信じて願いなさい。〉
 嘉人さんは何も疑っていない。小絵ちゃんも。お兄ちゃんも。
 わたしも生まれ変わる。
「こんな体ですけど」
「からだのことなんか関係ねえ、何言ってんだ」
「嘉人さんを一生、精いっぱい支えます」
「よく言った!」
「僕が一生潤子さんを守ります、お兄さん!」
 潤子が泣いてる。嘉人もあやしい。俺の黄色い目も赤い気がする。握手の手が痛えけど、
「弟か。いいもんだなあ」
 どうしちまったんだよ、小絵は。



     十九


 午後イチに施設で待ち合わせ、車は海老名、綾瀬を経由して藤沢市に入った。順調だ。ペースも。車も。記憶も。たぶん。
 手伝うと言い張る嘉人とホセの申し出を固辞して退院したのは、確かおとつい。着替えと洗面用具くれえで助太刀もねえだろ、そんなことを言った覚えがあるから間違いない。
「ねえ嘉人お」
「声デカいよ」
 ハンドルを握る小絵と抗議する嘉人。こんなシーン、いつか見たような……。
 いつだ? 何の用事の時だったっけか。潤子はいなかったはず。いや、いなかった。そもそも四人が顔を揃えること自体……

 最近もの忘れが気になってよ。ほれ、
「中には認知症のような症状が現れる方も――」 なんて言うだろ。
 自覚しているうちは問題ありませんよ。
 そんなもんか。
 忘れたことも忘れてしまうものですから。深刻になるとかえって、
 俺が深刻になると思うか。
 ですよね。

 あのマッチョな医者との会話も脂ぎった顔もやけに小っこいフレームレスメガネの蔓が赤だったことも、講話会に行くことも。最期の 「いのちについての講話会」 になることも。正式名称だって言えるんだし、それより何より、みんなのことを覚えてるんだ、何んも問題もない。考え過ぎることを除けば。
「ギター弾くんでしょおー。思い出すなあ。ねえ何を、」
「だからさあ。普通に喋っても聞こえるから」
 疲れた様子の嘉人に代わって、小絵にハンドルを握らせたさせたのが運の尽き。ってこともないが、ガキみてえに燥ぎやがって。
(無理すんな、小絵)
 目くじらを立てないのは、大人の “ガキ” は嫌いじゃないのもあるが、色々あった小絵のことが、やっぱ気になるし。その小絵が初めてづくしだからだ。
 講話会への参加に、四人揃っての外出、カトリック教会に行くのもそう。だったか?  ヴィクトルの葬式ん時は俺の運転で、潤子と嘉人と……三人だった。やっぱ初めてだ。 ?? 嘉人の運転を褒めたような気も……
 どうです? ギブアップですか?
 七日前までの献立を言える奴なんかいやしねえよ。お前え言えんのかよ。
 私言えますけど。
 ウソつけ。三日前でいいとこ二割だ。
 ですから精神神経科を……
「嘉人ってね、すっごい有名人だったんですよお」
「だからさ」
「小絵よお。ミニカーみてえな車だ、普段どおり喋れよ。淑やかによお」  
「やだあ。これ以上お淑やかに、なれる、かしら……」
「普段どおりで十分淑やか、」
 小絵の口元が歪んでる、
(すまん小絵、悪かった)

 つい二時間前。信昭さんが来てくれなかったら……。
「未来は前だけにあるんじゃねえぞ。今と目先の未来に失望した時は振り返れ! 振り返って振り返って希望を見つけて、それから前を向きゃいいんだ!」 って必死になってくれて、稽古いう言葉には習うという意味の他に 「古きを学ぶ」 という意味があって、 「実はいちばん大事なんだぞ。振り返るのは」 とか。 「どんだけ泣いたかが人生」 とか。 「お願いだから小絵らしくいてくれ、頼む!」 って言ってくれた後に、 「喜んでやるのも愛じゃねえのか」 って。笑って言ってくれなかったから私、二人を祝福できないまま、ヴィクトルさんと同じことをしていたかもしれない。信昭さんのおかげで立ち直れそう。だから、
「嘉人おー。運転するうー? 傍にいたいでしょー」
 私らしくいるの。
(潤子、お前が黙ってっとますます小絵が)
「よっ、ご両人」
「茶化さないで」
(さすがは俺の妹。それでいい)
「別にちゃかしちゃねえよ。なあ」
 信昭さんが気づかってくれるから、
「嬉しいんですよ、妹さん。ふふふ」 お道化てみせる。
「最近、生意気になったかなあ。渡部さん」
 潤子さんが “返す” なんて珍しい。塞いでいるの……気づいたの?
「もともと渡部は生意気ですよ」
 嘉人まで。
「生まれつき生意気なヤツなんかいないわよ」
 誰も洗礼式のことを言い出さない。二人の婚約のことも。
 泣かせないで。泣かないって決めて来たんだから。
「ところで、何を、歌うんです?」 
(涙声。もういい、がんばるな)
「ゴッドスペルっていうくらいだからゴスペルなんかどう? あれって響くのよねえ。楽しいし。GLORIAもいいなあ。 〽ウォ~、オウオウ、オー、オウオウ、オ~♪ グローリアァ」
(小絵っ)
「主イエスの十字架の血でだよ」
 嘉人がさらっと言ってくれる。 「指が動かないどころか音は鳴らないし、リズムは取れない、めちゃくちゃで挫折しかけたけどさ。みんなが歌えるくらいにはしてきたよ」
 嘉人が挫折するわけない。本気で打ち込んできたのだから。ただ……
 
  マジじゃねえなら誘うなよ。
大学は行く。でも音楽のため。あれって何?
懸けたのによ。ヨシトの夢に。
  騙しやがって。
それは言い過ぎ。ハメられただけだから。
俺らって結局、馬鹿を見たわけだ。
仕方ねえじゃん。もともとバカなんだから。
会社辞めてまでヨシトに振り回された大バカ。
小絵も気をつけろよ。あんなのと付き合ってると腐るぞ。
俺らってヨシトの何よ。
被害者に決まってるじゃん。
ヨシトのギ・セ・イ・シャ。
せめて楽しくやりたかったよなあ。音楽。
やらせて貰いたかっただろ。

 散々言われた。だから明るく言うの。
「どんな感じ? じゃんじゃん系? ホロホロぽ? ポップな感じも合うよねえ」 未来にこだわってほしいから。潤子さんとの 「これから」 に。
「お楽しみっていうわけじゃないけどさ。聞けば分かるよ」
「それもそうね。それにしてもいい歌よねえ。潤子さんは? 好きですう?」
(小絵もういい)
「わたしも好きよ。グロリアも同じくらい」
「だと思ったんだあ。違いますもん、歌っているときの顔が。晴れやかで、パッと輝いているっていうか。それでいて神妙」
「お前のリクエストか。 『嘉人さん。わたしのために歌って』、 『ああ。君のために歌うよ。心を込めて。もちろん愛も』 とか何とか言ってよお」 
「すごい妄想」
 二の腕を擦ってみせる。
「青だぞ、渡部」
「あらいけない」
 嘉人が笑う。潤子さんも。信昭さんは見えないけど、場が和めば、来た甲斐があるのかも……。
(小絵……)
「練習していきません? 信昭さんもすぐに覚えられる歌だし」
「俺は勘弁だ」
「もしかして音痴とか」
「聴くのは好きなんだけど。ね、お兄ちゃん」
(潤子、もういい)
「音痴だっていいじゃない」 
 〽主イエスの十字架の血で 私はゆるされ~
 家族で過ごすようなこのこの時間。
 楽しいな……。

 
 最後の講話会だ、頼むぞ潤子。
「二つの聖句から感じることや思うこと思い当たることを、個別にお話しして頂き」
 口を動かす。もっと、 (ゆっくり) だ。
「みなさんで、感想を述べ合って、家族でテーブルを囲うような、あたたかなひと時に――」
 潤子が挨拶する間も、長方形に並べた長机の左側にいるペルーとメキシコ人のグループを、ホセがスペイン語で。竹ゾーは英語とポルトガル語を駆使して、フィリピンと欧米とブラジル人の信者に。それぞれ通訳する。
 聖句の書かれたホワイトボードを、嘉人が左の隅に移動して、斜めに向け、
(どうです? ファミリアに近づけたでしょう?) 
 ああ 「上等」 だ、OKサインを返す。
 浮ついた視線がボードに集まり、らしくなった。講話会らしく。

〈ローマ人への手紙 第十四章八節〉
 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
 ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 
〈ピリピ人への手紙 第一章二十一節〉
 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。

 潤子が聖句を読み上げ、ホセ、竹ゾーの順で繰り返される。
 囁き始めたペルーのみんなは、求職活動で焦っていた、或いは滅入っていた時とまるで別人だ。
 潤子を見るのと同じ顔で見ている嘉人は、職場で働くやつらと重ね合わせているのだろう。
 潤子は相変わらず。いやあ、さっきから嘉人をチラチラ。傍から見ても恋する乙女だ。
 隣りの小絵は……。右を左を、見きょろきょろ。興味津々。そんな感じ。行かないと駄々をこねて、車ん中で無理やり燥いでいたのが記憶違いに思えるほど、いつもの小絵だ。
 竹ゾーの通訳が終わると、
「何か?」
 心持ちあごを上げて潤子が問いかける、相手は?
「ローサ。カルロスのにょーぼ。どうして、えらびましたか」
 そうそうローサだ。夫婦そろって日本語を習い始めた成果だろう、発音はむしろホセ先生より上を行ってる。
「それは、聖句を通して、生きる理由を真剣に、」
「俺のためだよ」
 ? 俺か。いま喋ったのは。
「ここにいるやつらの殆どが知ってんだ、遠慮しねえで話したらどうだ」
 思ったことを思いどおりに話すのは本モンの俺。俺でないどんなヤツか分からないオレが、このまま登場しないでほしいものだが……。
「ホワイトボードにあるように、使徒パウロは、 『生きることはキリスト、死ぬことも益、』 と手紙に綴っています。しかし、 『どちらを選んだらよいのか分からない。』 とつづけます。生きることも死ぬことも、どちらも実を結ぶと考えたからでしょう。豊かな時代に生きているからこそ、いのちの尊さや、生きる意味を、みなさんといっしょに考えたい。そう思って選びました」
「死んでキリストといることだろ、やつの本心は」 ちっ。また余計なことを。
「それは……」
 ピリピ人への手紙には、
〈私の願いは、世を去ってキリストとともにいること。そのほうがはるかにまさっている。〉
 と書かれてあり、パウロとテモテはピリピの人々の信仰の進歩と喜びのために、 「肉体にとどまる」 決意を示すのだが……。死と生に隔たりがなくなった時、世を去る望みを抱けるのかもしれない――。
「それにイースターの方が相応しいだろ。どっちかっつったらよ」
「すごーい。もしかして信昭さんクリスチャンだとか」
 小絵が感嘆する。
「んなわけねえだろ。毎ん日潤子に聖書を読まされたうえに礼拝と講話会だ、嫌でも覚えるに決まってんだろ」  
「褒めてるのに威張ることないでしょっ」
 小絵が頬をふくらます。
(もう大丈夫だな)
「いばるな。ノブ」
「うっせえ。威張ってるわけじゃねえや」
「いばてるよお」 
「サエ、かわいそだよあやまれよお」
「お兄ちゃんのこともあるわ。でも、ヴィクトルさんを悼む気持や、皆さんの日本での労苦やがんばりを、分かち合いたい気持やいろいろ」
 潤子に困惑顔を向けられた嘉人が顎を引く。
「二つの聖句を読んで、どう感じましたか」
 あいつめ。
「兄は末期ガンなの」
「余計なことを」
「余計なことじゃないわ。みんなで痛みを分かち合うのが講話会よ」
 ホセと竹ゾーは通訳を怠らない。しかも、オーバーすぎるリアクション付きだ。
 はやく、いえよお……
 し (っ) てたら、おしごと、たのまなかた……
 むりするなは、ノブさ (ん) だよお……
 お前らがそんなんだから言わなかったんだ。自分の痛みにしちまうから。
「信昭さん」
「感じるも何もお前らふうに言えば、 『すべてを神の御手に委ねる』 余計なことは考えねえこった」 もう止まんねえ。確か、反動形成――。
 確か、反動形成ですよ。専門ではないので詳しくは分かりませんが、要するに、本心とは逆の言動をする事で自我を保とうとする、 「弱者のつっぱり」 とでも申しましょうか……。
 俺が言えたギリではないのは承知の助だが、あの文系に弱いマッチョの 「分からないけど確か」 と “詳しくは分からない” じゃねくて 「よく分かんねえだろ」、 突っこみを入れたくなる説明のおかげで、なんのこっちゃ系のエピソード? 記憶はバッチリ。
「ノブさん。にげてはダメ。じぶんのおもい、うちあけなさい」
「俺は逃げるつもりはねえよ、ルイス。受け入れるだけだって言ってんだ」
「きぼうをさがそうとしなーい、にげてるだよお」
 壁際にいた普段着姿の竹ゾーが歩み寄り、
「信昭さん」
 俺を見下ろす。
「私は神父という任に与りながら、愛する信徒らの力にもなれず、あなたを支えることさえ出来ない、まことに弱く、小さく、また、心の貧しい者です。ですから聴かせてほしいのです。主に喜ばれる僕となるために。主の祝福の内にあるあなたの思いを。存分に。心置きなく」
「普段どおり喋れ。悪ぃ癖だぞ」
「みんな、い (っ) てるよ。ノブさんいなかたら、どうなてたか、わからないて、かんしゃ、してるて」
「ニ (ッ) ポンで、がんばろうとおもえたの、ノブさのおかげ。ノブさいなかたら、ボクたちバラバラ。なかまで、いられなかた……」
「ノブさん、すくてくれた。ボクたちのこと。クニの、ファミリア」
「もういいって。タケ、お前えのせいでコイツらまでクドイ性格に、」
「お兄ちゃんが初めて施設を訪ねてくれた時。いっしょに講話会をやってくれるって言った時。何でもしてくれるって言った時。どんなに慰められたことか……」
 すっかり見慣れた潤子の涙を嘉人が拭う。
「信昭さんがいてくれなかったから私……」
 小絵が言葉を詰まらせる。
〈主は仰せられる。悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。〉
 俺も立つ。肩を貸そうとする小絵を制して。
「聖書ってのはよ。小難しくて、ちんぷんかんぷんで、首をひねることばっかしで、でも支えになったのは確かで、 『老人が道理をわきまえるわけじゃねえ。』 とか当たり前のことまで書いてあって、俺のために書いたと思うこともしばしばで、運命だった気がするよ。いま思うと。
『いつも喜べ。すべてのことに感謝しろ。』 ってとこを読んだ時は、 『いつも喜んでなんかいられっこねえだろ』 なんてツッコミを入れたくなるほどショックでな」
 通訳し終えるのを、待ってつづける。
「あの言葉が、俺を変えた。聖書にすがりついた。神は人に何を求める、神は誰だ、何で神を慕う、どうしてこんなに安らげる。そんなことばっか考えて、貪り読んだ。柄にもなく。ガンの影響、かもしんねえ、けど、」
 咳き込んでからだを折った視野の隅に、外国人特有の同情のリアクションが。無理やりでない小絵の誘導で座らされ、
(どうすれば、喜んでいられるんだろう)
 小絵がつぶやく。
(難しく考えんな。今のままふつうに生きてりゃいい。お前の場合な)
 勇みを振るって、
(信昭さん)
(大丈夫だ)
 立ち上がる。ただし小絵の肩を借りて。
「俺には神もイエスもキリストも、老子も荘子も親鸞も区別がつかねえ。だから俺なりの解釈しかできねえが、 『いつも』 の中には生きてる時も死ぬ時も、死んだ後も含まれるはずだ。だから死ぬことも益、だから、」
(無理しないで)
(もう終わる)
「だから俺が死んでも悲しむな。ヴィクトルもそう思ってるに決まってる。パウロも神もだ!」
 潤子に向かって笑ってやる。……お前に感化されちまったな。
 嘉人が手を打ち鳴らすと、ローサとカルロスが負けないくらいの力を込める。覚えはないが拍手の渦だ。
 サンキュー! 
 グラシアス! 
 オブリガード、ノブさん! 
「主はわたくしたちの置かれた状況に応じて、試練を与えられます。同時に脱する道を備えてくださっています。試練は苦難ではなく、主の慈愛であり、愛の証です。信仰は最善の道を行くための糧であり、希望であり、喜びです。わたくしたちに必要なのは、自分で振るう勇気と、誰かに委ねる勇気を持つこと、それだけなのかもしれません。そして、
『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。』
 祈りましょう」 

 天にまします我らの父よ。願わくば、御名をあがめさせ給え。御国を来らせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせ給え。我らの日用の糧を、今日もなさせ給え。我らに罪を犯す者を、我らが許すごとく、我らの罪をも赦し給え。我らをこころみにあわせず、悪より救い給え。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。
 アーメン。

 四か国語の入り混じった 「主の祈り」 は最高の送辞だ。
(ありがとうは、こっちだよ)
「ん? なあに?」
「いや。最後だ、かましてやれ」
「では、主イエスの十字架の血でを歌いましょう。ギター伴奏は高橋嘉人くんで~す」
 小絵の音頭で、竹ゾーに依頼した、四か国語の歌詞が配られる。
 もう大丈夫だな……。

 〽主イエスの十字架の血で 
  私はゆるされ
み神と和解をして
  平安を得ました

 嘉人の息吹きが伝わるギターに合わせて、歌って踊ってはじけて、
「来てよかったな」
 って。誰も歌詞、見てない。もしかして信昭さんと私だけ? 知らされていなかったの。
(信昭さ、)
 口、動かしてる。暗記してる。私だけだ。知らなかったの。
「小絵よ。引いて引いて押すのが音楽だ。あいつはよく分かってる。大したもんだ」

 〽だから今すべての 
  悩みをゆだねよう
主は心に平和を 
満たしてくださる

「命は神さまからお預りしたものなの。それだけは忘れないで」
 潤子さんの声が聞こえてきたから、
「分かってますよね。信昭さんなら」
「そんなこと考えてんのか。俺みてえな凡人とはやっぱ違う――」
 意外な答えを返した。明るく言えたのに……。
 でも泣かないよ。辛いけど。死にたいくらいだけど。
 嘉人が見てるから。
 潤子さんまで……。



     二十


 食欲は相変わらず。まったく湧かない。手摺りを頼りに階段を上がって、襖を開けて、ベッドに突っ伏す。
 そして大の字。
 時間はある。たっぷりある。年内最後の出社まで丸一日と、三時間くらい。シャワーは明朝でいいとして、取りあえず、
『食べないから眠れないのよ。』 何度も聞いた渡部の声。
 食べたって食べた気がしないし、そもそも食欲が無いんだから……。
 潤子さんに言われたらどうだ? 箸くらいはつけるかも。少なくとも、言い返したりはしない。
 ごめんな、渡部。勝手ばかりで。
 優しい気持になったのは、過剰なほど今日のあいつが、燥いでいたからだと思う。
「次は施設に乗りこんじゃう?」
 施設での入所者同士の交流は、作業療法の目的を兼ねた付箋などの封入作業と、週に二回行われるという、運動療法が表向きのレクリエーションくらいのもので、潤子さんを含めた上下肢に重い障害のある入所者は、見学はできても参加はできないらしい。
「だから、いい機会だと思うの」
 当の本人は答えなかったけど、
「どうせヒマつぶしでくるやつも混じってんだ、意味ねえよ」
 信昭さんは明らかに乗り気ではなかった。妹を 「イベント」 の 「晒し者」 にするような真似はしたくないのだ。
「じゃあ、マリアンナはどう? 聖路加だったらぜったい歓迎するわよ」
「大病院で家庭的な雰囲気が味わえっか?」
 いのちについての講話会は参会者同士の語らいの場で、それが評判なのだ。
「そうね。講演会になっちゃう」
 田畑が残る田舎道から、見覚えのある風景に代わって、見慣れた景色に変わると、あっという間に、えんじと白地の二つの掲揚旗が揺らめくのが見えてきて。
「はあ~、ユウウツ」
 大袈裟に肩を落とす渡部に、
「わたしの前で言う?」
 (おど)けていたっけ。 「憂鬱な場所に戻る身にもなってほしいなあ。うふふ」
 渡部といる時はいつもあんな感じなのかも。それに信昭さんの妹だ、案外ユーモラスとか。これからは 「あんな顔」 の潤子さんを毎日、
『睡眠の敵よ。』
 まただ。お前が現れるから冴えちゃうんじゃないか。
 小絵ちゃんだけに? ふふふ――。
 これからはこんな会話を楽しみながら過ごすんだ。
『いびきをかく真似をするの。すぐに眠れるから。』 
 確かに効果はあったよ。でも一時的。今度会ったら教えてやらないと。  
 頭の上方にある電気スタンドのスイッチを感覚で点けると、天然杢のような天井板に浮かび上がった 「太った三角おむすび」 に似た染みが、僥倖池にそっくりだ。初めて気づいた。
 無理して寝ようするとストレスになるからさ。
 渡部に言いわけして、今日は聖書の終わりに近い、テサロニケ人への手紙第二を。
 パウロ、シルワノ、テモテから、私たちの父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
『聖書は寝た子を起こす、バ・イ・ブ・ル。お布団に入ってからは勧められないわ。』 
 思い直して。これならいいだろ? 「ハイジ」
 一頁目が終わる前に文字が膨らみ、頁を繰ると、文字が揺れだして、瞼が落ちる感覚のまま三頁目。ここから引き込まれるのに……いくらもしないで……眠りに……落ちたみたいだ……。

 渡部ってさ、ハイジみたいだな。アニメの方の。
 よく言われるんだあって、う・そ。初めて言われたあ。
 潤子さんは、クララ。ゼーゼマン家の。
 私はお嬢様っぽくないって言いたいんでしょ。体型もハイジに近いって。何が優しい気持よ、失礼しちゃうわ。
 何ひねくれてるんだよ。活発でのびのびしたところが、

 うるさいなあ、話の途中に。
 布団から手だけを出して瞬時に引っ込める。
 3‥05。アラームではなく電話、 「誰だよ」  
 痙攣する信昭さんを思い出すからソフトなバイブに設定したのに効果なし。
 フリップを開く。やっぱりあいつ。ハイジはこんな時間に電話したりしないぞ。
 半身を起こして、
「何時だと、」
「嘉人すぐ来て!」
 怒声が睡魔を掻き消す。
「こんな時間に何だよお」
「信昭さんが、施設に電話があったのお!」
 判然としないが、施設に入っていく渡部の後ろ姿と、 「悪ぃな」 寸暇(すんか)を惜しむように車に乗り込む信昭さんが、頭の左右にぼんやり浮かぶ。ハンドルを握らせた僕への抗議か、
「まさか車で」
「そうじゃない!」
「怒鳴らなくても聞こえる、」
「死んじゃったみたいなの!」
 ? いま、何て。
「信昭さんが亡くなったみたい、」
「何だってえ!」  
 記憶を遡る。半日前の信昭さんは、こんなに元気で堂々と話して、時々涙ぐんで、笑ってるぞ! 
「潤子さんを連れて行きたいの! すぐに来てっ!」
 信じられないし信じたくない。ほら。こんなに真剣に。――ヴィクトルは死の先にある希望を目指した……聖書にすがりついた……いつもの中には死んだ後も……俺が死んでも悲しむな……。
 まさか、
「聞いてるの! 施設に来て! 一人にしておけないの!」
 電話が切れた。
 渡部は陸上部にも勧誘されたスピードスター。白衣のスプリンター渡部小絵は、快足を飛ばして廊下を駆け抜け一段飛ばしで階段を踏破し、一人ぼっちで待っている潤子さんに、
「嘉人が来るから!」
 待ってろ渡部、今すぐ行くから。
 作業着を着、転がるように階段を駆け下り車のキーを……父親に借りを作るようで一瞬ためらう。かまうもんか。
 玄関を出、車庫へ走る。冷気で鼻が痛いが寒くない。フロントガラスは凍っていない、アコーディオンの門を引く音が喧しい。
「急いでるのに何だよ!」 
 キーが入ってくれない、腕が震えているのだ。目が潤んでいるせいも少しある。
 叩き起こされ、怒ったように唸りを上げるワンボックスのアクセルペダルを床いっぱいに踏み込む。
 死んじゃったみたい……
 亡くなったみたい……
 みたいみたいみたい、みたいだ! 決まったわけじゃ、 「クソっ!」 凍結した路面に後輪が横滑りする。裏道を走ることなんか、
「なかったんだよお!」  
 林の合間をぬう道を抜けた坂の頂上、僥倖公園と国道とを結ぶ合流地点、こいつを入れて信号は三つ。車一台通らないのに赤のままだ。
「無意味なことするな!」
 歩行者用ボタンを押しに降りて、急いで戻る。意外にもすぐ薄いグリーンの人型が点滅しだす。
 すぐに来るから! 
 嘉人が来るから!
「ああ、もうすぐだ」
 2速でスタート、そのまま引っ張る。ミラーに映る白煙がまるで大涌谷だ。
 
 大型トラックの駐車スペースと化した通りの反対車線を飛ばす。ぶっ飛ばす。自動車部品工場の建物が邪魔して、施設は見えない。突き当りの信号は赤の点滅。車も人気もないのに点滅させてどうする。もう、
「着いたぞ、渡部」
 ライオンの双眸みたいなライトが、敷地内を照らし出す。
 常夜灯に浮かび上がる建物に人気はない。 【3‥23】 当然だ。
 施設って眠れない人が多いの――
 玄関に近い駐車場に車を突っ込み、エンジンを切る。少しは眠れたのだろうか。潤子さんは。
 羊が十二匹で眠れないと看護師は務まらない――
「嘉人おっ!」
 渡部だ。通用口を出たところだ。潤子さんは! 車椅子がぼんやり見えるだけだ。
 渡部がこっちに向かって 「ドア開けて!」 小走りで叫ぶ。 幼く見える潤子さんから目を逸らし言うとおりにする。
「何があった!」
 駆け出したい衝動を殺して叫ぶ、 「信昭さんはっ!」
 かぶりを振った。ように見えた。車椅子の横で腰をしずめて、 「嘉人早く!」
「どこに行けば、潤子さん!」 大丈夫かっ。
「車椅子、早くしてえ!」
 車内に向かって叫ぶ渡部が抱える体の半分は車体の中だ。車体後部へ廻る、バッグドアを跳ね上げる。
「乗ってえ!」
 車椅子を放り込む。スライドドアが閉まった。現実を受け止める間もないまま運転席に走ってドアを、
「北総合病院、早くっ!」
 病院に!? 電話では 「死んじゃったみたい」 って言った。でも総合病院に行くように指示した、生きているからだ。こんなに焦っているのが証拠だ。でも頭を振った。でも 「早く」 って言った、何度も言ったぞ。
 聞いたところで事実は変わらない。二人がぜんぶ知っているとは限らない。わざわざ訊くことはない。着けば嫌でも……。
 こんな時に限って通行車両は無いに等しく、黄色か赤の点滅信号を通過するばかりで止まってくれない。
【3‥44】
 朝まだきまで遠い闇が深まった気がする。そのぶん星がきれいだ。渡部は潤子さんを抱き抱えたまま。何も言わずに闇を見ている。二人がいるから叫ぶこともできない、何がどうなってるんだ!
 ハンドルを数センチ右に切ってまっすぐ進めば津軽海峡。北海道は見えるだろうか。このまま進めば嫌でも北総合病院だ。
「そこから入って」
 病院に入る為だけにあるレーンを右折。 「明かりが点いてるでしょ」 顔の横の指が 「救急センター入口」 を差している。もう逃げられない。
 停まらずに駐車券を引き抜き、ラウンドアバウトみたいなロータリーを高速蛇行、頂上へ向かう。クレイジーホースみたいに車体が跳ねても、渡部は文句すら言わない。
 エントランスキャノピーをくぐった先だ、 「ここ、ここで停まって」
 ここで? 守衛室だ。
「嘉人お願い、聞いてきて」
 今さら気づいた。シートベルトが未装着だ。後ろの二人も。
「わかった、あとは頼む」 建物へ走る。
 重たいドアを頭から入って、
「丸山信昭の身内です、搬送された」
 用務員風の男は無言。
「ここに搬送された丸山信昭の」
 同じ言葉を繰り返しても緩慢な動作、いや面倒臭そうにファイルに目を落すだけだ。駐車場に停めなかったのが気に入らないのか、ノックをしなかったことを非礼だと思っているのか、寒くて迷惑だからか 「早、」
「早くして!」
 白衣姿を見た男の手が機敏に動き出す。
「確認を取ります」
 踵を返す渡部の背中に言い、受話器を上げて背を向けるから、外を窺う。
 渡部の丸いおしりがこちらを向いて、腋の下からまっすぐ伸びる足が、外に出ようとしているところだ。
「係の者が案内――」
 声に振り向くと、けんもほろろ。守衛は監視モニターを見上げたまま。視線を合わす気がないようだ。なぜか。
 
 シャッターの下りた受付カウンターを横に見、右へ曲がって、来た方向に戻るかたちで職員の後にしたがう。仄暗い廊下の先にあるのは、エレベーターホール。
 潤子さんを気づかって歩いてくれるのは嬉しいが、焦れったい。逸る気持を落ち着かせようとしてそうしているなら速くしてくれ。
 エレベータに最後に乗りこむ職員が押すのは――操作盤の横に 〈ICU MRI 検査室……〉 医療用語が表記されている。そうだよ、僕らは励ましに来たんだ、二階に決まっている。
 上昇すると信じていたエレベーターは降下し、数秒で停まって、扉が開く。
 天井の低い廊下は無音で暗い。幅が狭まった気がする。マンホールの下はこんな世界じゃ、
(まずいよ、渡部、)
 余計なことを考えたせいで発作の兆候、心臓が! どうする、五感を働かせ! 
 オレはいま何をしている、オレはいま何をしているオレはいま、オレはいま、昭和時代の駅の脇道を入った深夜の路地裏にいて肩に手が届くところには潤子さんがいて、スーパーナースの愛弟子の渡部の背中が目の前にあって、足音はトタン屋根から落ちる雨だれで昭和そのものこの臭いはなかなかの風情で、街灯に照らされたうす汚れた緑色の猫が白い道を横切ってツツジの木の下の茂みに向かおうとして、人の気配に気づいて固まっている姿は、ほほ笑ましいじゃないか。オレはいま、俺はいま何を俺は……。
 歩行を助けられている様にしか見えない渡部が振り向き、 「うん」 顎を引く。意外にも鋭い眼が言っていた。 「現実を受け入れるのよ。」
(ああ。そのために来たんだ。)
 渡部は心配ない。潤子さんは分からない。僕はもう大丈夫。弱ってなんかいられない。
 車椅子が廊下の継ぎ目を越えて、別棟に入ったのがわかった。方角は分からない。信昭さんとの関係を確認してから口をきかない職員の歩調が明らかに変わった。速くなった。職員が兵士のように左に曲がる。
 と。遠近法みたいなリノリウムの廊下がまだつづくから、 「どこまで行くんです」 訊こうとした時、
「少しお待ちくださいますか」
 職員は言い、右手の鉄扉をノックし、入室していく。
 膜厚のある青鈍色の塗装に、ステンレスの丸いドアノブ。天井を這うアルミホイルのようなものを巻いた筒状の管は、恐らく空調ダクト。旧館らしいつくりで、どう見ても病室ではなく、病院らしくもない。
 扉が開き、渡部だけが入るように促される。今度は僕の番だ、渡部に向かってハッキリ頷く。
(潤子さんは僕に任せろ)
 渡部は後ろ髪を引かれるように、恐る恐るでも、きびきびでもなく、開いたままの部屋へ入ると、突き当りの壁際で立ち止まった。
 横顔が歪んだ。でも一瞬だった。口許を固く結んだ渡部の両腕が伸び……純白の顔伏せを……胸に抱いて……
「間違いありません。丸山信昭です」
 気丈に言った。言ってくれた。
「いやーっ!」
 絶叫が廊下を走る。僕を押しのけ、渡部が彼女を抱きしめる。
「お兄ちゃーん!」
 叫び声を掻き消すように彼女を抱く渡部の肩に手を置き、 「行こう」 二人に言った。
「信昭さんが待っているから」
 平たいベッドの横に、添い寝をするように車椅子を寄せ、潤子さんの白い手を、胸の前で手を組んだ信昭さんの肘のあたりに、ゆっくりと置く。
 初めて触れた潤子さんの手の感覚は、とけだしそうな印象と違って、こわばった体の一部でしかなかった。でも、目は凛としている。――わたしはキリスト者です。丸山信昭の妹です。
 橋から転落……搬送途中に……きれいなお顔……ご冥福をお祈りいたします。
「天のお父さま」
 潤子さんの呼びかけに合わせて、 
「天の父なる神さま」
 僕も呼びかけ、心で祈る。
「ありがとう。楽しかったね」
 心のこもった声が聞こえた。
 


     二十一


 物言わぬ信昭さんは、高い橋から飛んだとは思えないほど、信昭さんのままだった。少し笑ったような寝顔を見て思った。ガンも一緒に死んだのだと。いやあ、信昭さんのことだ 「一緒に逝こうな」 そんなことを口にしてから、逝ったような気がする。
 信昭さんとの別れの時。葬儀と告別式をどうするか。
 決まっているのは会場くらいのもので、誰を招いて、遺影はどれで、予算はいくらで、宗教宗派はほんとうに……。
 傷心の潤子さんを思うと、これほど聞きにくいことはない。掛ける言葉さえ見つからないのに、どうして聞けようか。
 推測して見る。推量嫌いな、信昭さんの思いを。
 やる気さえ有りゃあ、何とかなるだろ――。だろうな。
 派手なことを好まない信昭さんの性格上、厳かでない質素な感じがいいんだろうけど、そもそもキリスト教式の葬儀を、
「高橋さーん、どこ行くのお」
 はあ。教会を通り過ぎて呼び止められる始末。
 失礼は承知で、
「ほんとうにキリスト教式でいいんでしょうか」
「ずっと考えていたのね。中にいるわ」
 とも子先生の傍らにある自転車が鈍色ながらも磨き上げられている。信昭さんの言いつけ? ――自転車と買い物かごを大切に扱えねえ人間がチビどもに何を教えられるよ―― を守っているのが分かって、胸が熱くなる。もしかしたら 「これだけは譲れない」 と言い張ったポイントカードも処分したとか。――おトク基準を神が喜ぶか? 
「キリスト教式でいいのか、悩んでいらしてるの」
 会衆席を拭き清めていた梨田牧師は拘泥せずに、
「先ずは祈りましょう」
 信昭さんの死と葬儀のために、ともに祈りを捧げた。
「潤子ちゃんは何て?」
「渡部からはキリスト教式を希望しているとだけ、でも気になることを言っていたので」
 ――真宗がいいな。オヤジの葬式ん時の住職が面白えやつでよ。仏教もキリスト教も詰まる所は同じ対象を崇めていて、解釈とか信仰上の理想とか、スタイルとか? そんなのが違うだけだって言うんだ。天国と極楽浄土は倫理観の違いでそうなってるって話だしよ。実際に相互改宗もあるらしいぞ。もしかしたらあいつ、クリスチャンだったとか。それはそうと法事? 法要とか。ああいうのは却下。ほぼ無駄だろ……。
「仏式の家族葬のようなものを希望していらしたのかしら」
「でも経典に出てくる 『摂取不捨』 という言葉は、キリストの真理そのものだとも言っていたので。それだけ両者を尊んでいたというか、形式にとらわれずに信仰だけに傾倒していたのか……」
 遺言とも取れる信昭さんの言葉だ、理解して欲しかった。
「摂取不捨。へブル人への手紙ね。 『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』 こだわらなかったのね。宗教に」
「……ええ」
 拘ったから一宗教に傾倒しなかったとも、言える気がする。
「迷いますねえ」
「講話会では 『聖書にすがりついた』 って話していたので……」
「尚更ね」
 年末講話会の参加者は皆こう言うはず。信昭さんがキリストを求めていたのは確か。
「潤子さんの希望に沿うことが、最善ではないでしょうか」
「そうね。迷っていられないもの。明日なんだから」
 そう、迷ってはいられない。先生方や連絡を今かと待っている葬儀社の都合もある。 「やっちまえ」 が信昭さんの信条みたいなものなんだから、
「やっちゃいます」
 違っていたら謝ればいいや。
 
 花壇に見立てた祭壇にトロフィーみたいな花瓶、棺を照らすムーディライトまで白。木箱や衣装ケースに保管していた上に、年に二度は使うと言うだけあって、軽い拭き掃除だけですみ、夕方までに届く花を生ければ準備は完了。先生の言うとおり、写真に撮って潤子さんに見せに行こうか。心の準備にも刺激にもなるだろうから。
 小型バイクのエンジン音が止まっては動くのを繰り返し、次第にはっきりした音が門前で止まって、サイドスタンドを降ろす音が。
 ギィー。ポストの開閉する音にとも子先生も気づいたようで、サンダルに履き替えて出ていく “パタパタ音” が 「女の子みたいだな」 と思って聞いてたら、赤いスカートを穿いた子ども版の渡部が現れた。

あたしのあーるかな ♪
どいてよ、ぼくがとるんだから。
よしとのは、きてないよおーだ。
どうせとどかないだろ。どいてったら。
………
さえちゃんのがあるのかを、見るんだから。

「あの音が好きでして」
 昔からあるもっともポピュラーな赤い郵便受けは、何度もペンキを塗り重ねた時代物だ。潤滑油でも注してやろうと思っていただけに、なるほど。そんな楽しみ方もあるのだ。
「高橋さーんっ」
 オクターブ高い声に。
(何でしょう)
 先生と顔を見合わす。教会に宛てに僕の郵便物など、
「これ。信昭さんから」
 差し出された封筒は大きめの定型郵便。結構な厚みがある。教会名の横に、潤子さんと渡部と僕の名前が書かれていて、文字が左に曲がって震えている。それでも、精魂や渾身を感じさせる力強さは変わらない、紛れもなく信昭さんの字だ。
 裏返すと、筆画の整った筆跡で、
『丸山 信昭』
「潤子さんに見せないと」
「葬儀のことが書かれているかもしれないわ」
 先生も肯く。確かに。
 ペーパーナイフを差し出すとも子先生に、
「お願いします」
 使い方が分からない。手も汚いし。
 慣れた手つきで封を切る間に、呼吸を整える。
 渡された封書から引き抜いた便箋は、常備箋とは別ものの高級便箋。厚みを感じたのはそのせいもあるけど、三、四、五……十枚にわたって小さな字がぎっしりだ。


  高橋 潤子様 
  渡部 小絵様
  高橋 嘉人様 
竹川神父とペルーの仲間たち
梨田牧師ととも子様
 
 違書か違言か。どっちにするか。どっちも違うような気がして、筆が進みません。
 大した財産も特別伝えることもない気がするので、 「書き置き」 にすることにしました。おかしいだろうか。考えすぎでしょうか。どうでもいいですね――
 信昭さんらしくなく、らしくもある書き出し。 「高橋潤子」 と書くところはらしいけど……。
 昼間の講和会で話したので、特だん書きのこすことはありませんが、潤子と再会したこと。障害者になったこと。私がガンになったことも。すべてが運命だった気がします。
 ガンにならなければ、みなさんとは会わずじまいだったわけで、ガンになったのでみなさんと会うことができて、きっと潤子も、そう考えているはずです。星占いの★が五つ揃ったラッキーな出来ごとというわけではなく天命。神の命礼。神のしわざだと。
 読んでいてヘンだろ? 書いてる俺がむずがいい。書き直すのも面どうだし、ほんとうに 「本人からか?」 なんて戸まどわせるのもなんだし、肩がこり始めたから、いつもの調子で書くぞ。
 誰が始めに読むかわからないが、まずはみんなに伝えてくれ。
「俺の人生に関わってくれてありがとう。しあわせだった」 って 「書いてあったよ」 なんて感じで。よろしく頼むな。

「高橋潤子様」
 俺が死んでもこう然の気。今までどおりにな。ひとつだけ注文がある。甘えることも覚えないとだめだ。
 チビのころからませていたお前には、難しいかもしれないが、そう難しい事じゃない。用はガキの頃にもどればいいだけのことだ。
 やっぱ、むずかしいか。
 ばあちゃんがあそびに来て、帰るときだ。 「行かないで!」 「かえっちゃヤダあ!」 って、泣きさけぶ俺のとなりで 「また来てね」。 「夏やすみに行くから」。 すまし顔だったもんな。
 まずは、わがままを言うことからだ。お前の場合、そうとう図々しくなって人なみで、ちょう度いいくらいなんだぞ。
 とにかくよし人は、本気でお前を愛してる。そうさせたのは神だ。神がお前をカミさんに指めいしたわけだから、ぜんぶ神のせいにするくらいのつもりで、遠りょせずに甘えろ。
 よし人にだけじゃない。小絵にもだ。
 ああ見えて小絵は、自分でかかえこんじまうタイプ、って分かってるよな。わざわざ書かなくても。だから俺が言うことじゃないかもしれないが、あえて言わせてもらう。
 卒業させてやれ。お前もきよこ子にならって小絵をたよれ。お前だって頼られればうれしいだろ? みんな同じなんだよ。
 言われるまでもないだろうが、
「となり人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべき」
 以上だ。
 いや、大事なことを書きわすれた。
 兄きらしいことを何一つしてやれなくて、悪かったな。俺が兄きだったこと自体が不こうだったと思う。今さらだがあやまる。ほんとうにすまなかった。
 それと、こう話会のときの 「神に喜ばれることが役わり」 って話。神を悲しませるなって言いたかったんだろうが、こっちで悲しませたぶん、あっちの世界で神さまこうこうすっから、くれぐれも悲しんだり、ふさぎこんだり、くれぐれもするなよ。たかが身まかるだけなんだから。以上だ。

「渡辺小絵様」
 ありがとうな。潤子をささえてくれて。俺みたいな野ろうのとこまで、大じにしてくれて。
 お前に書きのこすことは大してないが、お前は女をウリにすることもなければ、言いわけにもしない。立てにもしない。都合で生きない。のべつまくなしの思いやりがある。見かえりもむくいも期体しない。つねに真しで、人となりを大切にする。だから人間として信らいをうる。
 もしも小絵が病院にいたら、オレは退いんなんか考えもしなかっただろうかもしれないし、入いん生活もちがったはずだ。大河内君なんか 「まごころさん」 って言ってたくらいで、 「今日は来ないんですか。まごころさん」 って日に二回は聞いたし、 「今日は来なかったですね。まごころさん」 って残年そうに言ってたくらいだから間ちがない。
 し設でも同じだぞ。お前がいる日といない日とでは大ちがいだし、そうじのおばちゃんなんか口ぐせみてえに、 「渡辺さんがいる日はみんな明るいのよー」 って言ってるくらいで、きよ子はもちろん、潤子までしゅんとしてるくらいだ。それくらいお前は愛されていて、なくてはならないそんざいなんだぞ。
 だからお前は、カン天のじ雨。お前がくれた聖書のことばをかりれば、 「いのちの泉はあなたにあり」――
 確か 「詩篇」 のことばだ。敬遠されがちな旧約聖書を耽読していたことにも舌を巻くが、信昭さんこそ甘えればよかったんだ。渡部に。最後の最後まで……。
 だから、あるがまま。今のお前のままでいろ。人となりを曲げずに心によりそえ。欲心にまどわされずに天にたからをつむことだけを考えろ。世けんに調子を合わせるな。世界を見ろ。この国の前とは 「お前の生き方にかかっている」 ことを忘るな。世のだく流にあらがってでもお前らしく。用するに、世を愛さずに、神にテキ対しないことだ。以上。
 いや。もう一言。
〈人に知られないようでも、いつも喜んでおり、まずしいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。〉
 小絵のために書かれた、聖くだと思ったよ。だからあるがまま。今のままでな。以上だ。

「高橋嘉人様」
 お前はほんとうにいいやつだな。ガンでなければ時たま一こん、やってみたかったよ。
 ひざをつきあわせて、何でも話すんだ。それこそ、潤子のね顔がかわいくてねむれないとか。ケンカしたら、わきの下をくすぐって笑わせればすぐに中なおりするだとか。 「やっぱりありましたよ。むな元に。ダイヤモンド。ホクロが」 なんて、オレたちにしかできない話 (悪いな潤子) とか。りょ行の話もいい。脳みごとでも。たまにはキリスト様の話も。
 そんな空そうをえがくのが、じつは楽しみで、もうできなくなるわけだが、生きてるうちに 「潤子をくれ」 って言ってくれて、お前みたいな弟ができて、ほんとうにうれしかった。ありがとうな。
 それと、礼のあれだ。プランのこと。一言だけ。
 お前は、牧しになるために生まれてきた男だと思う。でも無理して 「牧しらしく」 なんて考えるなよ。その上で思いをとおせ。かたくなをつらぬけ。悪はけ散らせ。子むずかしいことはやさしく。
 そんな感じでいれば、かならず信らいをうる。以上だ――
 信昭さんの声が聞こえてきそうなメッセージ。兄さんとか、ほどよく酔って 「アニキ」 なんて呼びながら、それこそ膝をつき合わせて話してみたかった。時たまどころか何時でも。毎晩でも……。

 お前らのえいきょおだろうな。十字かを思うだけで、気もちがえらく安らぐ。今もいたっておだやか。何もない家チン三マンのへやが、大草げんのちいさな家みたいにあったか。それくらいおだやか。からだ中のガンたちもすやすや。ねむってるんだろうな。
 聖書。こいつはふしぎだな。読めば読むほど引きこまれる。気づかされる。また手にとりたくなる。
 世界中の家に当たり前にあるなんて、すげえことだぞ。いのちについて家ぞくで話して、信こうをみとめ会って、みんなでアーメン。ランドセルを背おったチビですら、愛の位味を知っていて、家ぞくどころかほぼ国ぐるみでアーメンだもんな。かん動と同時に俺はいかりりでふるえたよ――
 世界に信仰が根づいていることが分かって感動したのに、怒りに震えた? どういうことだ……。
 俺はいかりりでふるえたよ。
 何年もかげきハにコオソクされてキ国したジャーナルリストがいたろ。 「よくぞ不事にかえってきてくれた」 ってふつうは思うし、オレは泣いた。いつ殺されても、気がふれてもおかしくねえ条たいが、何年もつづけば、血のかよった人間なら当ぜんいたわる。ところがこの国のギ人どもは、よってたかってふくろダタキだ。
 中東情せいがきんパクして戦争のキキがほうじられば、まっ先に心ぱいするのはなんだ。とうぜん人命だ。ところがどっこい、この国はガソリン価かくだ。そろそろウチもハイブリッド車、よくもまあ笑って言えたもんだよ。
 自分のために長じゅを求め、自分のためにトミを求めるオニガキどもが、愛だ、きずなだ、支えあい、笑かすなって話だ。用するに愛の位味がわかっちゃいねえ、知らねえんだよ。この国の大人どもは。外国のチビにでもわかることが――
 これも旧約聖書。列王記 第一。ただし正反対で、自分のために長寿を富を求めるではなく 「求めず」。 求めない。
 信昭さんの怒りの根幹は、
〈さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。〉 モーセと同じ。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」 福沢諭吉とも。
 日本人に求めるペルーのみんなや、僕や潤子さんや渡部とも同じ。なのにどうして……。
 オレはガンになったことよりも、退ハイしきったこの国で生きることのほうが、はるかにつらかった。自分が規じゅんのどまん中にいて、日本が世界ヒョーじゅんとかんちがいして、風ちょうをモラルの半だん指ひょうにしちまう、リ性もふん別もゴミくらいにしか考えねえ、ガキんちょ国家で生きることのほうが100倍どころか、100マン倍つらかった。
 そんな失意のなかで、まずしくても成実に生きる、
「ペルーのみんなへ」
 生きがいをくれて、ありがとうな。
 しゅうしょくが決まった吉っぽうを聞くのもうれしかったが、みんなのよろこぶ顔を見るのがたまらなくてな。なあタケ、だき合ってよろんだもんな。うれしくて楽しくて仕かたなかったな。
 不きようでいさぎよしのスピリッツがあるお前らなら、ゆう福になっても、生活にこと掛いても、時代がかわっても、ゆう福になっても、ほんとうに守らなければならないものを大せつにして生きるだろう。だから何も心ぱいしちゃいない。お前らは、愛を伝えにきたでんどう者。そう思ってオレはつき合ってきたつもりだ。こそばゆいが、そんけいしてるってことだ。
 言うまでもないが、これからも助けあって、内がわをみがいて生きろよ。もし今ご、アクまに出あうことがあったら、 「ゼンをつるぎにアクにうち勝て」 なんて、竹ゾーみてえなことを言っても仕かたねえか。
 社会のせいにしろ。この国をマシな国にするために、大いにしまくれ。だれかのせいにしないで。
 ただ一つ。こんな国でもニンゲンがいることだけは忘れるなよ。ヴィクトルのおかげで出合えたことも。以上だ。

 オレはほんとにしあわせ者だ。
 潤子とのさい会。じっ直な弟よしととの出会い。まっ正じきな小絵とすごした一日一日。愛とユウ気をしるペルーのみんなとすごした時間も。竹ゾーの話とキャラも。じつは正じき者のマッチョ大木との出合いにしても。コウ話会にくる老にゃく男女も。ぜつ望してもみんながいた。光があった。だからここまで生きられた。心から感しゃだ。俺はこの手紙をトーカンしたその足で――
 目を背けないでくれ! 心の叫びが視線を引き戻す……。
 俺はこの手紙をトーカンしたその足で、その前に車をうって、それから死ぬことにした。
 自さつはダメだ。ひきょうだ。にげ出しやがって。百もしょちだ。言いたいやつは言えばいい。
 神がほんとにかなしむとすれば申しわけもないが、さい近気おくがと切れたり、誰が誰だかわからなくなったり、自ぶんが自ぶんなのかもあやしいときもあったりで、潤子が誰だかわからなくなるのも時間の問だい――
 思い過ごしではないだろうか。誤字は仕方がないにしても、聖句や四字熟語は使い分けてるし、言いたいことは理解できる……懸命に、記憶を蘇らせて、最期の力を振り絞って、信昭さんは……。
 それにさい近、なさけねえが、さい近、時たまもらすんだ。 「死して罪かのお名をのこすことなかれ。」 じゃねえが、たれ流しに気づかないようになってまで生きる利由ゆうは、少なくともオレにはない。だからオレがオレでいられるうちに、死出の山をこえることにした。
 そんなもんじゃねえか。手前えのケツを手前えでふくだけのこった。
 日本人というおめいを変上して、人生ご破さん、ノーサイド。エンディングはフェイドアウトでなく、カットアウト。いいタイミングだと思うよ。ほんとうに。何から何まで。ほんとうに。
 ということで、なるべくみじかくしようと思ったが、何だかかんだで長くなった。
 さい後に、オレをささえた聖書のことばを、かきくわえることにする。クリスチャンでもないのにおこがましいが、そこはかんべん。
〈ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。〉
 読めるか? カイドクしろ。 「ど力してせまい門から入れ」 ってお前らの主はおおされるるんだから。
 わが人生、くいばっかし。でも、みんなと合ってからは、 「明日ありと思う心のあだザクラ」 のせい神で、命をこそげおとして、せい一ぱい生きられた。さい後のさい後にいい思いをさせてもらった。イチョウのハっぱみてえに、黄いろくそまったまま死んでいけそうだ。いや死んでける。みんなと神と聖書があたり前にある時代に生まれたことにかんしゃだ。
 ムチャス、グラシアス! 
 ほんとうにありがとう!
「なし田牧士ととも子様」
 潤子とよし人のこと。小絵のこと。よろしくたのみお願いします。チャロとユキのことも。 

『ついしん』
 同ふうした小切手は、なさけないが、全材さんだ。ヨシトの神学のタシにしてくれ。
 風とうのあて名も 「高橋潤子」 にしようと思ってが、教会あてだからやめにした。

                           丸×ξゑξ

 え者定リってことばがあるくらいだ。笑顔でおくってくれな。笑ってしんでやるから。
 そお式はしなくていいぞ。

                           丸山 信昭


 僕は年明けの締め日に合わせて、会社を辞めることにした。会社はしつこく慰留したけど、僕には、潤子さんと信仰生活をともに生きることしか頭にない。信昭さんとの約束を果たすことしか。
 さてどうしよう。
 しなくていいって、言われてもなあ。



     二十二


 冬晴れの暖かな日だが、車の中は暑いくらいだ。一級河川の川沿いを上流に向かうにつれて、風が乱れて勢いを増す。
 これしかないと思った。葬儀らしくないかたちで、傷心の潤子さんを慰めつつ勇気づけるには……兄妹二人で築いた至宝、 「講話会だ!」 他に考えられなかった。
「ねえ嘉人お、運転しよっかあ」
 後部座席の渡部が言ってくれる。ふだんより随分声が小さい。
「これからは介添えもするようになるんだからあ」
「帰りに頼むよお。十分もしないで着くからさ」
「丸山信昭を偲ぶ会」 には、ペルーの仲間やその家族、竹川神父も駆けつけて、信昭さんの思い出を挙手して語る 『講話会式』 にしたせいだろう。教会員も誰彼もない、 「家族といるような」 偲ぶ会ができたと思う。
 書き置きを読み終えて号泣していた渡部も、あいつらしく送ってくれた。 「天国に行ってもあの助平さは変わんないわよ」
 あの一言が、ぎこちない空気を換えたんだ。でも、少し不満気に見えたのは、キリスト教式の葬儀を期待していたからだと思う。
 大型の花瓶やフットライトを片づけた礼拝堂は、祭壇と棺が無ければ (見なければ) 葬儀なんて思えなかったし、正装を禁止にしたのにあいつだけは余所行きだったから。ちゃんと送りたかったのだろう。感謝しかない信昭さんを。
 そんな渡部を慰めたのは、言うまでもなく潤子さんで、 「兄も喜んでいるわ。小絵ちゃんと出会えて」 心のこもった一言で、押し止めていたあいつの涙を流してやったんだ。 
 カトリックを代表して挨拶した竹川神父は、
〈ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。〉
 信昭さんが書き遺した、コリント人への手紙 第二の一節を二度繰り返し、仲間の就職に奔走した信昭さんを、 「与えることに心血を注いだ、真理の人」 と称えたまでは良かったのだが、就職先の斡旋を迫られた日の 「ひとり言作戦」 の逸話を披瀝し出すと、 「私をタケゾーと呼び、お互いに幼な友だちのようだと語り合ったのに。どうして……」 いよいよ言葉を詰まらせて、参列者の涙を誘った。誘ってしまった。それでも、 「長いよ。なんて叱られそうですから」 と、しっかり笑いをとって締めくくった。
 梨田先生は、
〈……あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。〉
 サムエル記第二の十五章六節を、心を込めて読み上げて。 「私はこのくらいにしておきましょうか」 笑って言って挨拶に代えた。みんなを慰めるには十分だった。
 ペルーのみんなは真冬だと言うのに、胸に “汁” の字がプリントされた揃いのTシャツ姿で。 「たのしい、おそーしきだ (っ) たね」 「いいおみやげ、できたよお」
 何でも 「十字架が輝いて見える」 から 「汁」 なんだそうだ。
 信昭さんと言えば明るく。みんな分かっていた。とも子先生まで、 「わたしの時もこのスタイルでお願いね」 牧師夫人としてはどうかと思うことを言い出してな……。
 きっと信昭さんも 「何の会だよ」 って笑って言っただろうな。生きていてくれたら。
「もう着きそうおー」
 潤子さんが泣かずにいたのは、妹らしく、キリスト者らしく、送りたかったからに違いない。泣き明かしたせいも、あるかもしれないけど。
「もう着くんでしょー」
「ああ。もうすぐだ」


「寒くありませんか」
 古民家と呼べそうな庭つづきの家屋の家蔭で、枯れ葉が舞い上がる。
「……いいえ」 
「私はだめ。しもやけできそう」
 悲しむ(いとま)さえなかった渡部は――小絵は干天の慈雨――裏切りたくないのだ。信昭さんを。
「でも体はへっちゃらよ。お腹と腰にカイロ貼ってきたから」
「耳あてとマフラーもしてるしな」
「それだけだと思う? 下にもう一枚履いてきたの」
 渡部が嬉しそうに足を上げてみせても……
「そう……」 
 潤子さんの心はここにあらず。信昭さんが最期に選んだ場所に立つのだから――
 よくきたなあ。寒かったろ。
 ううん。お兄ちゃんと違って若いもの。
 病室で会う時みたいに笑顔が似合う 「妹」 であってほしい。
 斜めに陽の差す梢のアーチを抜けると。
「絵になりますよねえ。冬の山って」
 生活道路の終わり近くに、綿羽のような花穂を残したススキが生い茂っていて、西の空を守るような丹沢山塊とのコントラストが、なるほど、見事だ。日常的に見ている形だけの山とは違って、木々の集合体であるのがよくわかる。
「夜中よ。寒かっただろうなあ」
「……カイロを、たくさん、貼っていたって」
「ほんとですか」
「同じじゃないか。似てるんだよなあ、二人ってさ」 僕だって裏切りたくない。
「私が!? 信昭さんと!? 傷つくようなこと言わないで」
「失礼だろ。潤子さんの前で。信昭さんにも」
「あらやだ。でも 『にも』 もついでみたいじゃない?」
 信昭さんのことが頭から離れないのは分かる。でも四日間つきっきりの渡部がこうして無理して普段どおりに、
「寒いの……嫌いだったから」
 潤子さん!
「もう少しだっ」
 隧道から山間部に向かって伸びる車道の先にある 「橋」 は小山の裏側。ここからはまだ見えない。
「あ、ウズラよ! かわいい」
「ん? ツグミだよ。越冬しにきたんだ。シベリアから」
「へえー。一生懸命飛んできたの、クワックワッ言って。ぴゅーんって」
 地面を見たままか。潤子さんは。
「四月の下旬くらいまでは見られるけど、暖冬だって言うから早まるかもな。逃げないなんて珍しいよ」
「君はネズミさんみたいに歩くのね、あっ、飛んでっちゃった、お友だちいっぱい作るのよおー」
 車を停めたスーパーから橋へ行くには、この先にある、林の間の坂を下って、さらに隧道の上下を結ぶ、階段かスロープを下りるか。倍以上の時間を掛けて、住宅街を迂回するしか道はない。
「僕がやるよ」
 フリージアとかすみ草のブーケを潤子さんにあずけて――赤ん坊みたいだ――渡部が車椅子を逆に向ける。
「じゃあ、近未来のダンナさまにお任せするとして。くわっくわっ」
「よっぽど気に入ったんだな、ツグミ」
「だって可愛らしいじゃない。いじらしいし。ね、潤子さん」
 …………
 あなたを思って話題にしているのに。
 後ろ向きで、小石まじりのコンクリートの坂道を一歩一歩、信昭さんの足跡を辿るように、
「ここを、歩いたのね……」
 そうか。同じことを考えていたのか。
 道の左右、真ん中、どこを歩いたのか。何を見たのか。すれ違った人はいなかったか。どんな物音を聞いたのか。葉擦れの音か。木々の泣き声か。休まずにたどり着いたのか。心臓は波打たなかったか……、今は集中しないと、
「嘉人眠れたあ?」
「シャワー浴びてバタンキューだよ」 早口で返す。
「この寒いのにシャワー? ちゃんとお風呂に入らないとだめよお」
 道辻の霜柱に、黄色い頭花を擡げる、ノボロギクが咲くだけの寂しい道は、凍結していてもおかしくない。もがり笛が聞こえれば、いっそう力も入る。
「今のうちにちゃんと眠っておいた方がいいよお。これからは奥さまのイビキに悩まされるんだからあ」
 え?
「わたし、いびきなんて」
「嘉人あたま、ブレーキを小刻みにかけるの。安定するから」
 垂れ下がった細い枝が歩行を邪魔する。
「冗談ですよ。これからは快眠間違いなし。潤子さんは羊が五匹ですやすやスース―。こっちまで眠りたくなるくらいだから。時々ふにゃふにゃ言うけど、それがまた可愛くてかえって寝れない――」
 傾斜が落ち着いたところで向きを戻す。ようやく橋が姿を見せた。
「これ以上言うと私のイビキと寝相の悪さと歯ぎしりを暴露されちゃう、あらっ」
「どうした」
 慌てて止まる。
「お花が供えてある」 
 200mはありそうな橋の中間あたりに張り出した、展望スペースより、終わりに近い方?
「見えないわ」
「僕も見えないよ」
 開通して間もない高速道路の高架くらいだ。それと四囲の山と空と。凪いだ海を行く、小舟雲と。
「さっぶ~い」
 数百メートル級の峠を越えて生き残った山颪が出口を探して、川下へ駆け抜ける。
「寒くないの? そんな恰好で」
 着古した作業用ジャンパーに咎める目を向けるから、
「足先は冷たいけど、気持いいじゃないか。自然の匂いを運んでくれて」
 明瞭に言う。終焉を迎えた、迎えようとした場所へ行く緊張より、感慨が勝る景勝だ。そっちを見てほしかった。
「確かにそうね。同じ市内とは思えないもん。それにしてもいい眺めよねえ」
 見方をかえれば、死後数日経って発見されてもおかしくない場所でもある。事前に警察へ電話を入れたのは、そのせいかもしれないし、周到な信昭さんのことだ、迷惑を最小限に抑えたかったのか。SNSにでもアップされたら堪らないと考えたのかも。
 何れしても、
「思い入れのある場所だったんじゃないかな」
「そうかも、しれません」
 きっとそうだ。畳もベッドも煎餅布団の上も勘弁――。 信昭さんは自然の一つに数えられたかった。だからここを選んだ。
「絵を描きに来てたとか」
 そんな気もする。キャンバスに描く色彩豊かな画ではなく、片手に持ったスケッチブックに鉛筆で描く、墨画のような絵。粉砂糖をまぶしたような雨降山と、遠方の山脈を思わせる白一色の秀嶺な山なみと、手前のこんもりした濃緑の山とのコントラストも、絶好の構成だ。ふいに、
「何だ、お前らかよ」
 信昭さんが姿を見せて、
「今日は森のなかに入って描くんだ。お前らもどうだ」
 声を掛けてくれるのを、期待してしまう。
「やっぱりそうだよお」
 ここまで来ればハッキリわかる。淡青色の円筒状の容器の花はフリージア。信昭さん自身が供えたのだ。
「確信してたんだ。僕らが来るのを」
「信昭さんらしいね」
「咲くまで生きられないって、分かっていたから……」
 だから買ったとも自死したとも取れる言葉に、胸が詰まる。
「楽しかったね。みんなで植えてさ」
 渡部が声を潤ませる。泥だらけの手で顔をぬぐって笑わせた信昭さんを思い出したら、もう堪らない。

 俺が植えたのが一番きれいな花をつけるぞ。
 どれも同じよお。
 小絵のは黒だ、真黒いのが咲くよ。
 私のが黒なら信昭さんはイバラよ。花までトゲトゲ。
 そのトゲがささって小絵が血だらけになるんだ。
 渡部が世話すると思います?
 するわよお。
 せいぜい三日な――。

「そうそう覚えてる? 終ったあとの信昭さん。潤子さんがいなかったら丸ごと球根を 『埋めてた』 ところなのに、ほくそ笑むっていうの? 自分一人でやったみたいな顔しちゃってさ」
「自分だってしたり顔だったじゃないか。おまけに白衣とナースシューズ汚して大騒ぎ」
 信昭さん、枯れるのが怖くて先延ばしにしてるのよ――。そんな事も忘れてな。
「嘉人だって得意顔だったじゃない」
「みんな同じ。いい顔してた」
 潤子さんの声の変化に気づいて、渡部が目を輝かす。
「いちばん嬉しそうだったのは潤子さんよね。夢が叶ったっていうの? 幸せをギュッとしてた」
 あのとき言ったんだ、信昭さんが。頬に土をつけた渡部に。目尻の下の小さなホクロを指さして。――ビューティーマークがひとつ増えたな。
 信昭さんは想像していたのかもしれない。こうして会話を楽しむ僕らのことを。よくよく考えた気もする。悲しませずにここに立たせるには、どうすればいいのかを。
 恐る恐るといった感じの渡部に並んで、橋の下を差し覗く。川と川原の石辺を避けた、土の部分を選んだのはすぐに分かった。
 そうは言っても、鉄紺と苔色に分かれた川面に吸い寄せられそうで、左に少し視線をずらせば、崖から伸びる枝葉が水面を撫でていて、右手の奥の水辺のオギは誘うように揺れているし、どちらも手招きしているようで、足が竦むどころか目を背けたくなる。
 墨を塗ったのような闇の中を、必死に欄干を乗り越える信昭さんを想像すると、ショックだけど、
〈神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができます。〉
 信昭さんは瞬く星に慰められた。そして飛んだ。そして僕らは信昭さんの生死をとおして、慰められている。
 まさに、
〈私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。〉
 主に愛された、信昭さんに。
 だから落ち込んでなどいられない。僕がみんなを支える。守る。勇気づける。潤子さんを。渡部を。傷つき迷い出た友を。兄弟姉妹を。信昭さんがそうしたように。
「見ているのね。わたしたちを」
 青天を仰ぐ潤子さんが晴れやかだから、
「いつも見ていますよ」
(風に、なりたかったのね……) 
(叶えたんです。信昭さんは)
「なんです?」
「ううん」
「いいセンスしてるね。信昭さんにしては」
 よくよく見ると、茎の長さや花の向きが微妙にアレンジされていて、どの角度で見ても景観を引き立てている。でも、
「『しては』 はないよ。信昭さんの洞察力や審美眼は天才的、」
「だ・と・し・て・も。女性的じゃない? きっとあれこれ注文つけたのよ。 『それじゃねえ、そっちの花だ。もうちょい短く。あー違うよ、その向きじゃそっちの花が生きねえだろ』 とか何とかごちゃごちゃと」
 そうである気もするし、首を捻って納得するまで、自分で整えた気もする。
 花に見入る潤子さんに、
「祈ってください」
 渡部と声が揃った。風は治まっていた。



     二十三


「ご慈愛深き、天の父なる神さま――」
 潤子の呼び掛けに合わせて、嘉人と小絵は首を垂れる。
「この美しい地に、わたくしたちをお招きいただき、数多(あまた)のいのちと寄り添う恵みに与りましたことを、心から感謝し、尊い御名を讃美いたします」
「アーメン」
 橋の上で声が揃う――。
「天のお父さま。兄信昭が、この地での役割を終えて、眠りにつきました。大きな喜びのはずですのに、辛いです。悲しいです。涙が尽きるまで泣きたい思いです。
 しかし、このことも、あなたのお立てになったご計画と、み恵みとによることを、わたくしたちは知っています。
 どうか、お父さま。
 試みにある友のために骨身を削り、わたくしたちを勇気づけるために心を砕き、わたくしを生かすことに一身を捧げた兄信昭を、あなたの子として、受け入れてくださいますように。休ませてくださいますように。死にわたさずに生かしてくださいますように。より強く愛し、永遠のいのちをお与えくださいますように、心を尽くして、お願いをいたします。
『アーメン』
 そして、お父さま。わたくしたちが患難さえ喜び、御霊の声に聞き従って歩む者となれるように、どうか導き、教えてください。
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 みこころがこの地で、行われますように。
 いっさいをあなたの御手にお委ねして。
 わたくしたちの主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします」
「アーメン」
 祈りが、天に引き上げられていく。
「天のお父さま」
 小絵が小さく呼びかける。
「私の信仰を高め、あなたの必要のために用いてください。私はあなたのしもべですから。
 イエスさまの御名によって。 アー、」
「アーメン」
「小絵ちゃん……」 
「今度こそ受洗します。無我の気持で。来年のイースターに」
 ああ見えて小絵は自分でかかえこむタイプ――。卒業させてやれ。小絵を頼れ。
 潤子の顔がくしゃくしゃになる。
「信昭さんのおかげだな」
「うん」
 欄干にとまったヒヨドリが、 「あっちに行こうよ」 もう一羽を誘っているのを見て、
「さ」
 潤子の腕に収まるブーケに嘉人は手を伸ばす。と、
「あ、」
 突然の疾風(はやて)に、
「お花が」
 ヒヨドリに遅れて、ブーケが舞い上がる。
「川に落ちなくてよかったあ。取ってきますね」
「僕が行くよ」
 行きかける小絵を制して嘉人が駆け出す。 「頼むな――」


 呼び合うような野鳥の声と、瀬音が聞こえるだけの橋上は、通行車両は無いに等しい。
 不安げに見つめる潤子に、
「頼もしいご主人だこと。うふふ」
 小絵がどうける。
「疲れてるみたい。ほんとうに眠れているのかしら」
「心配ありませんよ。お正月はのんびり過ごすって言っていましたし。年明け一番で受診するんですから」
「そうだけど……」
「来年の内科の一番福は嘉人だったりして」
 年始めの一般外来は、各診療科一番での受診希望者で、早朝から行列をつくる。とある神社の祭事のように――。

 車道に下りた嘉人は、薄茶色の包装紙の砂を払うと、
「ほら」 無事だよ。
 ブーケを掲げる。ぼんやり見える笑顔の潤子が、手をふり返した気がして、抱きしめたくなる。
 父親になったつもりでブーケを抱いた嘉人は、ガードレールを越えようと、
「え、」 縁石にのせた右足が。
「どうしたのおー」
「嘉人さーん」
「何でも」 ない。
 言ったつもりの声が出ない。頭の芯が不規則に揺れ、動こうにも、どうにもならない。眼球が鼓膜の奥に引っぱられ、海中にいるような圧とノイズが、
(マズいよ渡部、)
 景色が渦巻き、わずかに見えた雨降山の輪郭が、砂嵐にかき消される。二人のいる方向に手を延べるのに反して体が後ろに、
(もう立っていられそうも、)
「嘉人戻ってえ!」
「早くうっ!」
 小絵が走り出す。坂の上に身長の倍はあろうトラックが、
「嘉人さん、逃げてえ!」
 加速度のついた車両と嘉人の距離が、見る間に縮まる。
「止まってえ!」
 腕を搔きまわして小絵が叫ぶ。坂の傾斜がわずかになった橋の手前で、車体が大きくバウンドする。
「ブレーキ、ブレーキっ! 嘉人お!」
「お願い、止まってえ!」
「止まれーっ!」
 白煙をあげるタイヤが異臭を放ち、橋を震わす。泣き出しそうな鬼の形相のドライバーは肩を怒らせ、床いっぱいにブレーキを踏む。その眼前に巨大化した嘉人が、
「いやあーっ!」
 無表情の鉄恐竜が嘉人を捉える。
(潤子お!)
 車体に吸収された嘉人が消え、
 …………
 弓なりで宙に現れ、
「嘉人さーんっ!」
 路面に打ちつけられた。
 ブーケに伸べる腕を見、小絵は 「大丈夫」 声に出してガードレールを乗り越える。
 と、電気ショックの高電圧に反応するように体が跳ね上がる。
「嘉人お!」
 手早く気道を確保し、馬乗りになった小絵が胸骨圧迫を開始する。重油のような血が膝に温かい。止血するにも、それより今は、
「小絵ちゃんお願い彼を助けてーっ!」
 潤子の喚声が背中に刺さる。除細動器があれば助けられる、潤子なら救えると小絵は思う。自力で蘇生するかのようにふたたび体が、
「逝っちゃダメえーっ」
「嘉人さーんっ!」
 心臓を刺激する手、全身に力を込める。体は温かいのに嘉人の顔はなぜか涼しい。伸びきった腕が緊張を解く、頭部がげんなり横を向く。DNRの意思表示か!?
「これ以上潤子さんを、苦しめるなっ!」
 虚脱した身は反応しない。されるがままの嘉人が憐れに思えた。それでも止めない、指先がかすかに動く、死の兆候!
「嘉人戻ってえ! 帰ってこいっ!」
「嘉人さーんっ!」
 二人の叫喚が山嶺にこだまする。戦闘に巻き込まれた遠い国の村にいるように小絵には思えた。小絵の涙で嘉人は泣いている。
「神さまお願い嘉人を返して!」
「嘉、と」
 背中の声が途切れた。 
「潤子さーん!」
 小絵が駆け出す。
 山向こうでサイレンが聞こえた。
 


     終章


 ベランダの手すりに雀が二羽。
「きてくれましたよ」
 うしろに振り向いて、小絵は言った。
「そうですよね、嬉しいですよね」
 一点を見つめたままの潤子の顔が、やさしくなっていく。
 ピピピ、ピーチュウ――
 チ、チチッ、ピッ、ピピッ――
 雀たちがやさしい声で、元気な歌を歌い出す。
 もう春ですよお、たくさんお花が咲きましたよお、甘い香りがいっぱいですよおって。
「歌っていますよ」
 傷ついたあなたを、いたわるように。励ますように。
 潤子さん。あなたは今も、同じですか。
 白衣を着て、しなやかに、働いていた時と。
 僥倖公園で、自然と戯れた日と。
 講話会で嬉しそうに、でも真剣にお話していた時と。
 同じように喜んでいるのですか。こんなに重い試練を負っても、感謝しているのですか。
 いなくてもいいかもしれないけど。いても、変わらないかもしれないれけど。いっしょに生きていきましょうね。私じゃ、頼りないかもしれないけど……。

 潤子の目尻に涙が滲む。小絵はその目にガーゼを当てて、そして、黄色い花を咲かせた、フリージアに目を向ける。
 ――小絵ちゃんそのものなの。だから選んだのよ。
 花言葉は無邪気。私は素直でも、あどけなくもありませんよ。可愛くも。きっと信昭さんも、
「小絵に似てるう? どっちかって言ったら潤子だろ」
 って言うに決まっています。こんなにスマートじゃないし。うふふふ。
 中庭のスイセンも、もう咲きそうですよ。元気になって見に行きましょうね。
 入所者さんと職員の方と、みんなで植えたスイセンの花言葉は、
「私のもとに帰って」
 あれから三か月。みんな待っているんです。あなたの笑顔に会うのを。つみこむような声を聞くのを。祈りを捧げる姿を見るのを。潤子さんが隣りにいる日を、待ち望んでいるんです。
 新しい日の光がやさしくて、ウグイスは上手に啼くようになって、いろんな色の羽のちょうちょが飛び始めたのだから……
「もう、目をさまさないと」
 イースターも。もうすぐなんですし。 あ、
「また来てねえー」
 うららかな空高く、二人が飛んでいく。
 ココン、コン、コン――
「きよ子さんですよ」
「ああう、やあ」
 ほら。
「おはよう。いま帰ったところなの。スズちゃん」
 ベランダを見て、フリージアを上から下まで熱心に見て、ニッコリして。
「元気? きよ子さんのお花」
「……ぁぃ」 
 小さく答えて。厳しい顔で潤子さんを覗き込んで。
 それから?
「ああ」
 膝の上の文字盤を叩いて、仮名を指さす。いつもの朝のように。
〈の、ぶ、に、い、こ、な、い〉
 …………
 さらに強く。
〈の。ぶ。に。い。こ、〉
「信昭さんはね、もう………こられないの。だから私がいるの、潤子さんのそばにいるの、ずっとずっといるの、いっしょにいるの」
 ようやく言えた一言に……
 寂しそうに口をとがらせて、潤子さんを見て、 「こっくり」 と頷いて。
〈き、よ、こ、お、ね、え、さ、ん、じ、ゆ、ん、こ〉
 きよ子。お姉さん? 
 ああ、
「そうね。お姉さんのことが心配ね」
「ややや、あや、うややあー」
「なになに、なあに?」
〈じ、ゆ、ん、こ、 “の” お、ね、え、さ、ん、の、ぶ、に、い、い、つ、た〉
 潤子さんのお姉さんって……
「信昭さんに、言われたのね。きよ子さんはお姉さんだから心配なのね、潤子さんのことが」
「あい」
『力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。』
 信昭さん………。 
 きよ子さんを慕う気持が分かった気がした。心を開け放てるのだ、きよ子さんといると。潤子さんも……。
「支えて、支えてあげて。潤子さんのこと。お姉さんなんだから。ね」
「ああい。や、やや?」
「どうしたの?」
 ………
「あやっ、やややあ!」
「なに!?」
「きぇっ、きぇきぇ、きぇえ!」
〈て! てててててっ!〉
「あっ」
 潤子さんの手、指先が!
「きぇきぇ、きぇきぇっ!」 
 動いた! 指が動いた、動いてる!
「潤子さーん!」
 白くて細い指がじれったいほど、ゆっくりと伸びる。
「しゃや、しゃやややあ」
 きよ子さんの言うとおりに、やさしく手をつつむ。希望を守るように。潤子さんが患者さんにしていたように。
〈さ、え、お、ね、え、さ、ん〉
「私が? 潤子さんの?」
「ああい」
「そんなあ」
 つん、つん、つん、つん。突っ張った指を、ゆっくりと文字盤に置く。 〈は、じ、め、に〉
「はじめ。初め?」
〈こ、と、ば〉
 ことば。
 初めことば。なんだろう。
「初めことばって、」
〈は、じ、め、に!〉
「に」 の字を何度もたたく。
「はじめに、ね」
〈こ、と、ば、あ、つ、た〉
 嘉人が愛した聖句だ。

  初めに、ことばがあった。
  ことばは神とともにあった。
  ことばは神であった。
 
 教わったのだ。潤子さんに。 
 
  この方にいのちがあった。
  このいのちは人の光であった。
  光はやみの中に輝いている。
  やみはこれに打ち勝たなかった。
  
〈この方は恵みとまことに満ちておられた――〉
 潤子さんみたいに。
 潤子さん。覚えていますか。橋の上で嘉人が言った言葉を。 「頼むな」 って言ったでしょう?
 あなたは、数えきれないほど言われてきたんですね。嬉しいですね、頼られるのって。
 だから、幸せなんです。あなたのそばにいられて。あなたといっしょに生きられて。きっと、きよ子さんも同じなんです。
 だから、

  愛する者たち。
  私たちは、互いに愛し合いましょう。
  愛は神からで出ているのです。
  愛のある者はみな神から生まれ、
  神を知っています。
  愛のない者に、神はわかりません。
  なぜなら神は愛だからです。

 こんど教えてあげます。いのちのことばを。ゆっくりと。時間をかけて。でも、
「もう、行かなくちゃ」
 嘉人が待ってるから。
「お願いね、きよ子お姉さん」
 振り向くと、
「あい」
 潤子さんの白い指を、やさしく撫ぜていた。硬く曲がった腕を伸ばして。
 やさしく。
 大丈夫よ、を伝えるように。
 心のことばを伝えるように。
 やさしく。
       
 
                          了

愛曰く

――原文では、二十一章で 「取り消し線」 と 「波線」 を用いますが、「誤字」で対応しました。
〈参考文献・資料など〉
〇新改訳聖書三版/日本聖書刊行会(いのちのことば社)
〇守教/帚木蓬生(新潮社)
〇よくわかる浄土真宗/瓜生中(角川ソフィア文庫)
〇アイヌ民族抵抗史/新谷行(河出書房新社)
〇今こそ知りたいアイヌ 北の大地に生きる人々の歴史と文化(サンエイ新書)
〇アイヌの世界観 「ことば」から読む自然と宇宙/山田孝子(講談社学術文庫)
〇アイヌ童話集/(角川ソフィア文庫)
〇もういちど読む 山川 倫理/小寺聡編(山川出版社)
〇荘子 内篇/福永光司・興膳 宏訳(ちくま学芸文庫)
〇道教の世界/菊池章太(講談社選書メチエ)
〇NHK こころをよむ 縁を生きる――執着から自由になるために/川村妙慶(NHK出版)
●他、御住職との懇談など。

愛曰く

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-06-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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