二つ目の"彼女"
「即興小説」というサイトにて制限時間三十分で書いたものです。
お題は「二つ目の彼女」と「哲学的な思想」でした。
いつの事だったか、
「爪をね、一枚だけ剥がすの。そうね、小指がいいわ」と彼女が言ったのを鮮明に覚えている。
彼女はその十枚の爪を一つ一つ検分するようにしてから、右手の小指に生えている爪を左手の人差し指の腹で磨くように撫でた。
僕は撫でられている彼女の小指の爪を見た。彼女の爪は桜貝のように小さくて、ツルツルとしていて綺麗だった。
僕は彼女の爪の小さく整ったイメージと「爪を剥がす」という彼女の言葉のはざまで迷子になったように、それの意味するところを掴めなかった。何しろ、彼女はとても穏やかな声で「剥がす」と言った。
それでしばらくの間、僕は黙って彼女の発言を反芻しているような素振りをしていた。前髪を整えたり、顎を触ったり……。
何分か、静かな時間が続いていた気がする。
「剥がした爪をね、水を張ったシャーレに入れておくのよ」
彼女は淡々と、チーズケーキのレシピを説明するみたいな様子で切り出した。それで、短くまとまっていた髪を後ろ手でまとめるようにして、また離した。彼女が手を離すと、その霧雨みたいに短くて細い髪はパラパラと解けて、元の位置にまで戻っていった。
そして、続けて、
「シャーレって分かる?」と僕に訊いた。
「わ、分かるよ。化学の実験とかで使うあの丸いガラスの皿だろ?」僕は彼女の言っていることが半ば信じられず、ただ言われたことに答えた。
「そう」と彼女は言って、胸あたりの高さにシャーレの丸い形を両手を使って示した。
「そこにね水を張って置いとくのよ。大体一か月くらいね。もちろん毎日、水は変えるの」
「そうするとね、その爪からまた、私が生まれるの」と彼女は神妙な様子であった。
「それは哲学的な意味でかい?」僕は誰かに救いを懇願するみたいにして訊いた。
「いいえ」
彼女は空中にポップな文字を浮かべるみたいに強調して、
「私が、本当に、双子みたいにして、分裂するの」と言った。
彼女とは去年の秋に別れた。
理由はまぁ、彼女の言うことの本当の意味に気づけない僕にあったのだと思う。
そして、その年のクリスマスに街で彼女を見た。
彼女は紺色のコートを着て、スクランブル交差点の向こう側から一人で歩いてきて、僕に気付きもせず、すれ違っていった。
両手をポケットに突っ込んでいたせいで、彼女の手も、その爪も僕は見ることが出来なかった。
彼女はテキパキと力強く歩いていた。歩くたびに、彼女の履いていた靴の底は小気味いい音を鳴らし、長く伸ばした髪は小刻みに揺れた。
僕は彼女と腕を組むようにして彼女の横に双子のような“彼女”が存在していないという事になぜか異様な程強い違和感を覚えた。あの時の彼女の口調にはそういうモノがあった。そういうある種の真剣さ、あるいは本気のような……。
それで、僕は今でも街に出た時にはチラチラと周囲を見回しながら二つめの、彼女の小指の爪から生まれたであろう“彼女”を探してしまう。
でも、僕は“彼女“を見たとしてもそうと気が付かないかもしれない。
彼女達の見分け方さえ、彼女は僕に教えなかった。
Fin.
二つ目の"彼女"
これを下敷きに一つ短編を書く予定です。
題名は「彼女の白い、服の上の、黒いシミ」の予定です。
もしも見かけましたら、その時はよろしくです。